終電を寝過ごしたら不思議な場所についた
- 2015年06月18日 03:10
- SS、神話・民話・不思議な話
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ぼんやりとした頭で外を見ると静かに電車が止まっていた。
振り返って駅名を見ると『風の分岐点』。
こんな地名あったか、と思ってドアの上にくっついている路線図を見ると、なるほど確かにある。
『猫尾っぽ』『狐尾っぽ』『クリーム木星町』……『風の分岐点』。
渋谷がねぇ。
で、さらにここは終点だった。
「マジかよッ」
携帯を開くと案の定圏外だ。
どっ、と絶望と疲れとがのしかかってきて、椅子に身体を預ける。
ふと上を向けば釣り下がっている広告が扇風機の風に揺れていた。
『ダズニャックのまたたび酒、今年は十年に一年の当たり年!』
『取り換え式小指(箪笥の角用)』
『前の彼とは、違う笑顔。(新にこやか薬)』
並行世界、というのだろうか、こういうのは。
ため息をひとつついて立ち上がる。
とりあえず降りてみない事には何も分からない。
よく見ると電車内に残っている客は俺一人だけではなかった。
向かい合っている座席の、反対側の端に座っていた男が今荷物をまとめて、外に出ようとしている所だ。
ぴょこぴょことせわしなく動く、三毛の耳が生えている。
「あ、あのっ!」
「んー?」
中々精悍な顔つきの割に、その返事はのったりとしたものだった。
降りる彼に思わず声をかけた。
無人駅に二人きりでいる。
「どしたで?ニィはどっかで会った事あるかいニャ?」
少しイントネーションや語尾は違うが、とりあえず言葉が通じることに安心した。
「てか、ニィ、……黒髪……」
「ん?髪?」
震える手で指さす先には俺の黒髪があった。
その手にも三毛がびっしりと生えていることに少々驚く。
黒髪がそんなに珍しいのだろうか。
周りに人が居ないので判断がつかない。
「はーっ、初めて見たげな、黒て。 ニィはどっか遠いとこから来たんち?」
「あ、ああ、東京の銀座から……」
「??」
やはり通じないみたいだ。
「まあ、遠いとこならよく来やったでな、こんなさびぃ駅に」
彼は名をツガと言った。
この駅の近くで酒屋を経営しているらしい。
無精ひげ(頬に三本ずつある猫ひげではない)のせいで老けて見えるが、まだ14歳らしい。
俺の年を言ったら逃げ出しそうな勢いで驚いた。
「はあ?!29?! あ、アンタすぐに申請したら世界記録やんでそんなん……29て……よぼよぼやんけ……見た目12かそこらなのに」
寿命の基準も違うとは。
駅から出て(無人駅なので料金は払わなかった。一応元の世界の切符も買っていたので無賃乗車にはならないと思う)、しばらく行くとツガの経営する酒屋に着く。
道すがら事情を話すと、しばらくその店の方に厄介になれることになった。
懐の大きさに深く頭を下げる。
住み込みで働いて、寝床と飯はどうにかなりそうだ。
「実は俺の他に、店にはもう二匹猫がいるんだよ」(こっちの世界の方言に馴れたので、ここからはおよそ標準語表記)
「猫?」
「あーそうだねぇ、前の世界では人間の形したのとしか話せなかったらしいけど、こっちじゃそんな事はない。猫と人は話せるし、俺みたいに尻尾と耳の付いた混ざりもんも居る」
「ほう」
「ま、気のいい奴らなんだけど悪戯好きでね。まぁ友達になってみてくれ」
そして目的地に着いた。
御酒『ねんねこ』。
てっきり「大将、やってる?」を想像していたが、これはどちらかと言えば「マスター、いつもの」の方だな。
もうかなり遅い時間だったが、まだ明かりがついている。
ここに来るまでにかなり変わった家をいろいろ見てきたが、ここもすごい。
でっかい木を生きたままくりぬいて家にしてある。
「森に街が出来てるんだな」
「森がないと俺たちは生きていけない。他にも砂漠や水や火山とかもあるけど、その辺は伝説や神話が住んでいてなかなか近づけないんだ」
「神話?!」
「ああ、一般的な次元では大凡語れない化物たちだよ。何か特殊な事情でもない限り、行かない方が良い」
特殊な事情。
そう言うツガの目には、かすかに「事情」の影が見えた。
都会のビルの森で鍛えた、人工の勘である。
「たでぇま」
「おじゃまします……」
ドアを開けると中から勢いよく一匹、飛び出してきた。
「おかえんなさーい!」
「ぐあっ!」
そいつはツガに抱き付くと2、3m転がってようやく止まった。
「こらツガ!また俺にないしょでおいしいもんを食いに行ったんだろう!そうだろう!」
「ちょ、待って……重い……」
「あ、そこにいるのはニンゲンか!黒髪なんて珍しいな!神話の混ざりもんか?!」
「んなのいる訳ないだろ……てて、今日から一緒に暮らすんだよ」
「そうか!」
なんて順応の早い。
飛び上がったそいつは俺の前でくるんと一回転すると、後ろ足でしっかりと立ってお辞儀をした。
ベストを着た、腹の真っ白い黒猫。
「オイラはゴボウって名前だ。よろしくな黒髪!」
「あ、ああ……どうも……」
あまりに流暢に話すもんだから面喰ってしまう。
「ニンゲン、お前名前はあるのか?」
「ニ、ニノミヤだよ」
「あいなる。二ニノミヤ、歓迎するぜ」
惜しいけど違う。
あいなるは地方の幼児語で「なるほど」というのだと、ツガにあとで教えてもらった。
店の中は落ち着いた雰囲気で、でも不思議なものが沢山あった。
床は本物の草の絨毯。
テーブルはでっかいキノコだった。
「すごいな」
「どこもこんなもんさ」
真ん中の柱を中心に、見た事もない軌道で小さな星々が回っている。
手で触れることはできない。
「それはこの木の周回だ」
「周回?」
「そ。この木がどこで生まれ、どのように育ち、どのように死んでいくのかを木の中で記録している。くり抜いちゃったし、綺麗だからそのままおいてるの」
「年輪みたいなもんかな……」
「一年ごとの周回が刻まれて年輪になるんだよ」
『ねんねこ』はカウンターに席が六つと、四人掛けのテーブルが二つ。
店の中の灯りはランプや蝋燭で賄っている。
「ゴボウ、お客さんは?」
「きたけど、二人くらい。ツガがいないなら帰るってさー」
「悪いことしたな」
「ニニ、お前は何か飲むか?」
「ん?」
ニニ?
「二ニノミヤだからニニだお前は。俺はゴボウで、こいつはツガ。後は……」
「たらいまーっ」
「あ、帰ってきた」
玄関に、細目ででっぷりとした大きな白い猫。
「月光タンポポ取ってきたわよん」
「おかえんなさーい」
「あんらあ、見ない顔がいるわあ」
「ニニ。ついさっきここに住み始めたの」
「おや、よろしくニニ」
猫はゴボウと同じく頭を下げたが、おなかがつっかえて少ししかお辞儀できなかった。
「ヒヤムギ」
「?」
「って名前」
「ああ、よろしくヒヤムギ」
「うふふ」
ヒヤムギの手には、キラキラと光を放つタンポポが握られていた。
まだ綿毛にはなっていなくて、銀色の可愛い花が咲いている。
「予備も取っといてよかったねえ。ニニの分もあるよん」
「ああ、ありがとう。綺麗だね」
「にゅふふ、綺麗じゃ腹は膨らまないぜ」
「ヒヤムギ、これ明日綿毛になるやつだよな?」
「愚問よ愚問! 月光タンポポの日付間違えるほど馬鹿じゃないぞ」
日付?
首を捻っているとツガがちょいちょいとタンポポの茎を指さした。
中を見ると、ぽっちりと銀の光が点いている。
「光が全部花に溜まれば綿毛になるのさ。一日一個光が茎から飛んで、今光ってるのは最後の一つ」
「なるほど……なあツガ、月光タンポポって何に使うんだ?」
「向こうの世界じゃないんだなあ、楽しいのに」
「遊ぶのか?」
「ま、明日になるまで楽しみにしてて」
そう言ってカラカラと笑う。
弱ったなあ、こういうの気になって眠れないのに。
「じゃ、今日は部屋に荷物おいておやすみ。ゴボウとヒヤムギは案内したげて」
「合点!」
「いいわよう」
「ベッド、ハンモックなのな」
「寝苦しかったら下にポタン綿あるから使ってね」
「ポタン綿?」
「うん、上から掛けるの」
ポタン綿は薄いかけ布団だった。
まさか、この形で自然界から獲れるとか言わないよな。
「ほいではさらばじゃっ」
「ねんねこー」
「ありがとう、おやすみ」
二匹が去ってから、ハンモックに身体を預ける。
奇妙な世界に迷い込んだもんだ。
だが妙に落ち着いていて、居心地がいい。
都会の喧騒も、精密機械の歯車も、上司の小言も書類の束もない。
あるのはゆっくりとした、不思議な時間の流れだけ。
「ねんねこ」
幼児語でおやすみ。
明日を楽しみにしながら、すぐ眠りに落ちた。
『月光タンポポ』
翌日。
起きてリビングに行くと二人と一匹が暴れていた。
この『ねんねこ』は一階がバー兼リビング、二階が寝室等の生活空間になっていて、下に降りるときは大黒柱から突き出した階段を使う。
「んにゃはははっ、ツガぁアその綿毛くれーーーっ!」
「楽しいのよう、面白いのよう」
「お前ら、毎年の事だがこれ猫じゃらしじゃないぞ!」
綿毛になった月光タンポポが四本、ツガの手に握られている。
猫たちが眼を輝かせて追っているのはそれだ。
「にゃーーーーん」
「にゃああああん!」
「やめろって綿毛が散る!!」
もしかして楽しい事ってこれか?
「全く、今年のハルワタリで使えなくなるとこだったぞ」
「どーも」
結局騒動は、二匹の頭にたんこぶを二つくっつけて終わった。
角度の違うお辞儀で謝罪する。
「おはようニニ、朝ごはん出来てるぞ」
「おはようツガ。タンポポちゃんと綿毛になってるな」
「オレが取ってきたのだから当然よ、オホホホ」
朝食を食べながら、「ハルワタリ」という謎の単語について聞いた。
「ハルワタリってのはこの辺であるオマツリの事だよ。店とかもたくさん出るんだけど、その綿毛使って飛ぶのがメインだな」
「飛ぶ?」
「まあまあ、楽しみにしておきなさい、オッホホ」
「今年こそオイラが飛ぶのだぜ、ニャハハハ!」
またはぐらかされた。
「夜になったらツンガリ森に行こう」
夜。
「ドングリまんじゅう安いよっ」
「はぁー夜のおともにトマトソーダ割はいかが」
賑やかだなぁ。
一体どこにこんなに住んでいたのか、と思うくらいに人や猫や動物で溢れかえっている。
でっかい葉っぱとつっかえの棒で簡単なテントを作って、誰もかれも、忙しそうにモノを売って声を張り上げている。
通りすがりに見た「火山おむすび」にちょっと惹かれた。
「多分狐尾っぽのへんからも店が来てるんじゃないかな。ホラ、あれとか」
ツガの指さす先には、『割って割れないコンコン卵酒』。
頭に鉢巻をした頑固そうな狐と、息子さんだろう、小さい子狐が店の外で精一杯声を張っていた。
様子が愛らしくて、思わず声をかける。
「やあキミ、一杯くれんかね」
「あ、オイラも飲む!」
「ヒヤムギも」
「何だ、皆飲むのか。 四杯くださいな」
「あんがとなっし、一杯銅貨三枚だよ! オヤジ、卵酒四丁!」
「あいよう! あんがとなっし!」
親父さんは店の冷蔵庫を開けると、中から卵を4つ取り出し、ピックのようなもので天辺に孔を開けてから渡してくれた。
その後で、ストローのような植物の茎。
「突っ込んで飲むんだよ」
「生卵を?」
「ははは、卵酒なんだから大丈夫」
横を見ればゴボウとヒヤムギはもうちゅうちゅうとやっていた。
真似をして啜ってみる。
「おおっ、ほんのり甘くてうまいぞこれ!」
「あの店のお酒、結構有名なんだよ」
不思議な甘さだ。
何にも混じりけがないような、透き通った味。
「ところで『割って割れない』って何なんだ?」
「ジャバラ卵は恐ろしく固くて、天辺のほんの少しのとこ以外は内側からしか開けられないんだよ」
「あらん、もうなくなったわあ」
「ヒヤムギの食欲には参るな」
「俺の、まだあるけど飲む?」
「きゃん、あんがとあんがとニニさまさま」
俺が差し出した残りもぺろりだ。
ヒヤムギは舌なめずりをしながら、また食い物屋屋台の物色を始めた。
「さあ、そろそろじゃないかな?」
「何が?」
「ハルワタリ」
屋台も慌てて閉める準備を始め、辺りは月光タンポポを持った人であふれた。
さっきの子狐も居る。
「ホラ、月光タンポポを見てごらん」
「うっ!」
それは燦然と輝いていた。
朝や昼とは比べ物にならないほど眩しい。
「月光タンポポは三日月の光を浴びて輝くんだ。地面に突き刺して」
地面に刺すとタンポポの茎はどくどく脈打ち、綿毛を膨らませてゆく。
「地面が吸収していた光を吸うんだよ。それで大きくなるんだ」
「へえ」
こんな植物は元の世界にはない。
こんな魅力的な性質は。
「さあ、始まるぞ」
「にゃん、オイラのタンポポが一番飛ぶのだ!」
「おっほほ、今年こそいただきよう」
「デブには無理さ」
「ほほほ、重さは関係ないでよ」
《皆さまお待たせしました、只今よりハルワタリを始めます! 茎に掴まって!》
一陣の風が吹いた。
「おっ」
「にゃっ」
「ほほ!」
「来たぜ」
ふわりと浮いた。
根元でふつりと切れた茎は、確かに俺の重さを感じていないようで、規則的な速度を持ったまま宙へ、いや月へ向かって真っすぐに昇っていく。
「渡るのよう、お月さんに向かっていくのよう」
「あれ、ヒヤムギの速度落ちてない?」
「冗談じゃないわっ、コラタンポポ、もーっと昇れェ!」
そうか、ハルワタリ。
今俺たちは贅沢なほど月光を浴びて、冬から春に渡っていく。
皆の乗った綿毛はさらさらと種をまきながら高く高く、中空に銀河を作った。
「おおっ、ニニのが随分上っているわよう!」
「ほう、こりゃ今年の一番はニニが取るかもなあ」
俺の乗った綿毛は一段と高く上った。
風の向くままにタンポポは浮き、またひとつ月に近づいた。
「こりゃ絶景だな」
見上げればはるか天高く、大きな大きな星のタンポポが煌めいていた。
――『月光タンポポ』【完】
『海を見るには』
「あぢぃのじゃああ」
「ヒヤムギ止めて、余計暑くなる」
「ホラ皆、休憩で飴サワーでも」
「オイラ三杯くらい欲しい……」
「そんなに飲んだら汗が止まらなくなるぞ」
夏、夜。
ハルワタリから一月経ったくらいでもう、外では蝉が鳴き出していた。
『ねんねこ』の支柱である木も外観が変わって、店の中にまで青々とした葉が侵入していた。
葉っぱを少しちぎって絞るとライム果汁の様な液が出るので、お酒に入れて利用している。
「んめっ!」
飴サワーに舌鼓を打つ。
基本的にこの世界には機械が存在しないため、どうやって涼しく過ごすかは毎年の課題らしい。
「夜は少し涼しくなるからいいけどさ、昼はもうオイラ茹で猫になっちまうよ」
「ツガはこの暑さで良く働くわねえ」
店にはお客が一人残っているだけで、他には誰も居なかった。
時間はまだ早かったが、今日の店じまいは早そうだ。
「しかし見事なつくりだ…… 型は誰が?」
「それがよく分かんねえのじゃ。お前さんなら何か分かると思ったが」
話が盛り上がっていたのは、そのお客さんが持ってきた一つの楽器のせいだ。
「壊れたハープ……か。技巧を凝らして作っている割には弦が足りない」
「その張ってない弦のところに、意味不明な紋様が刻まれているのじゃな。そのまま弾いても音は出るけんど、安っぽいというか。とてもそんな作品を作れる職人の技とは思えんのじゃよ」
「んー難しいですね…… しばらくウチでお預かりしても?」
「ああ、そりゃ楽器も喜ぶでな、宜しく頼む。 じゃ、ワシはそろそろ帰るとするじゃよ」
「また来てくださいね」
「あいあい」
お客さんが帰った後、皆でそのハープをまじまじと見た。
元々ハープなど見た事はなかったがなるほど、不思議な色をしている。
「外側もすごいが弦もすごい……セレスト樹をくりぬいて、そこに水霧蜘蛛の糸が張ってある……」
「ねえねえ、それ貴重なのん?」
「機長どころの話じゃないよ……どれも神話の一歩手前みたいな素材だ」
「あらん」
「高く売れてしまうんじゃないの?」
「お客さんからの預かりものだぞっ 売れるわけないだろ」
でも何で弦が張ってない箇所があるんだろう?
ツガはしきりに首を捻る。
「タップリんとこなら分かるんじゃないのか?」
「ここ来る前に寄ったけどダメだったってよ」
「んんーっ 不思議文学者でも読めないのかぁ」
見せてもらうと確かに何かの文字のようだが、とても読めないな。
むしろ、この楽器に関する読める文献を探したほうがよさそうだ。
「波っぽいね」
「え?」
「ホラ、ここの文字」
ゴボウが指差している所には、なるほど、波の様な模様が続けて三つ描かれている。
見かたによっては波にも見えるかもしれない。
「随分古い型だからなあ、たまった汚れや、掠れて見えない文字もあるかもね」
「ま、明日また調べてみようか」
「フルイカタ……」
ヒヤムギは呟いてにっこりと笑った。
「汚れているなら洗えばいいじゃないの」
「あっ」
「こら、返せヒヤムギ」
「こーいう不届きモノは水でじゃばじゃばやっちまえばいいのさっ」
「ああっ馬鹿っ大切なお客さんのっ」
「きれーにきれーにちまちょうねえ」
止める間もなく洗い場にハープを置いて、デブ猫は栓を思い切り捻った。
勢いよく出た水が容赦なくハープに叩きつける。
「こらこらこらこら!」
「どーも」
ツガが拳骨を喰らわせてから水を止めるまで、ヒヤムギはずっとニコニコしていた。
ゴボウはそばでカズダンスみたいなのを踊っていた。
「きれーになったわよん」
「あ、何てことを……」
取り出したハープはびしょ濡れだ。
水が滴るそれには、何故か全ての箇所に弦が張ってあった。
「あ、弦が!」
「どういう事?」
水で出来た弦が、細いガラスの髪の毛のようにそこに横たわっている。
キラキラと店の灯りに反射して、突然ぱっと弾けてなくなってしまった。
「ああ……消えちゃった……」
「水につければ弦を張るのか?」
「いや、多分やり方が違うんだ。正しいやり方でやれば、弦は消えない」
「ねえ、ほめてほめて」
「何が褒めてだ。一歩間違えたら壊れてたかもしれないのに」
「うふふ」
翌日。
「あったぞっ そのハープの事が書いてある古文書!」
「わおうっ でかしたツガ!」
古本屋を回っていたツガが息せき切って帰ってきた。
手には古びた羊皮紙をひもでまとめた、メモ帳の様なもの。
「どうやらヒガノボル期の作品らしい…… 作品名は『海の見え方(キウリ作 since Hgn32~47)』」
「キュウリは野菜だぞ」
「キウリ。 すごい素材で不思議な楽器を作ってた偉人らしい」
朝ごはんを食べ終えたヒヤムギもやってきて覗きこむ。
「ねえねえ、使い方は?」
「それが、海に浸けるとしか……」
「海に浸ける……?」
「どうもね、楽器なんだけど音を出すために使うものじゃないらしいんだ」
「意味がお休みです」
「ツガ、とりあえず海行こうぜ!」
「店どうすんだ」
「閉めればいいのよう、どうせ閑古鳥なのよ」
「お前らの生活にも関わってんのに、気楽なもんだな」
そう言いながらもツガは表の看板をひっくり返す。
こういう優しい一面がある辺り、この店はまだまだゴボウとヒヤムギの天下だ。
「すれでは早速いくのじゃ!」
「うさぎ海だな。駅まで歩いていこう」
『風の分岐点』。
ここに迷い込んだのが随分前の事のように思える。
毎日が驚きの連続で、この世界の「当り前」を覚えるのに随分とかかった。
不思議と居心地は良かった。
「間もなく発車でーすだ」
「ニニ、急ごう!」
黒猫に手を引かれながら、あの日乗った電車に再び乗った。
「みんな切符なくすなよ」
「おほほっ、天才はポッケに入れる」
車内は閑散としていて、ぽつぽつと猫や狐や、幽霊のような半透明の人物が乗っていた。
彼らとは顔を合わせてはいけない。
こちらが干渉しなければ、向こうから近づいてくることは決してない。
「さて、うさぎ海だから宿り木の次だな」
「みゃあ、ちょっと寝たらすぐだわさ」
「ふう、着いた」
うさぎ海。
子供の時に見たどこかの海岸よりずっとずっと綺麗だった。
ザラメみたいな砂浜が煌めきながらどこまでも続いている。
「ああ気持ちいい」
「ありゃ、早速飛び込んでる」
ヒヤムギは早くも堪能している様子。
巻貝を耳に当てながらぷっかりと腹を浮かべて、どっから持ってきたのかスイカまで食べている。
「おおい、本来の目的を忘れてるだろう」
「にゃははは、オイラたちは今日、海に入りに来たのだ! にゃーーーーんっ!」
ざばりと二匹目も飛び込んだ。
ツガはため息一つ。
「ニニ、ハープは俺たちでやろう」
海にそっとハープを浸す。
「おおっ」
「やった! 弦だ!」
店でヒヤムギのかけた水が張った弦とは違い、今度は壊れない。
どころか、ハープはパチパチと蒼い火花を飛ばすようになった。
「成功だ。水を弦にして、塩で固定しているんだ」
「なあ、弾いたら何が起こるんだ?」
「分からない。でも、この古文書に載っている楽譜を弾いてみよう」
「ツガはハープが弾けるのか」
「何故かね、一度も見た事ない楽器でも弾き方が分かるんだよ」
「へえ、すごいな」
「昔からさ」
ツガは傍の岩に腰掛けると、慣れた手つきでハープを置いた。
「では始めるよ」
「うっ」
弾いているそばから変化は起こった。
波が集まって大きな手の形となり、弾いているツガも、傍にいた俺も引っつかんで海の中に入れた。
余りの事に逃げられなかった。
もみくちゃにされながら海に引きずり込まれた。
「ツガ! ハープは?!」
「分からない!浜辺に置き去りに……って、あれ?」
「声……」
「……目も見えるし、息も、出来る。服も濡れてない」
「水の抵抗も感じない。地上にいる時のままみたいだ」
「おい、ニニ」
「え?」
「見ろよ」
とふりと底の砂に降り立つ。
周りにはサンゴ礁、大きな光の玉を頭にぶらさげたアンコウみたいな魚や、ワカメの林、スカートの様なヒレを翻しながら踊る、妖精のような生き物。
「すごい……」
「招待されたのかな、海に」
「深海に、こんな綺麗な景色が広がっているなんて……」
「見た事ない生き物ばかりだ。頬を撫でる冷たい水の風も、天上から射す光も」
キウリという人物は、あのハープを作って、ずっとこの景色を見ていたのだろうか。
妖精と戯れて、細やかに舞う砂は粉雪、海藻に寝て、朝になれば燦々と輝く太陽光に貫かれて。
身体中から海の匂いがした。
どこかで知らない生き物がすっと呼吸をするように鳴いた。
「格別だな」
「ああ、これがキウリの『海の見え方』か」
海が見える。
波打つ表面から深く潜って、音もないゆらぎの世界。
何生涯かかっても出会う事のない生き物たちが、静かにここで息をしていた。
次第に何をする気も起きなくなって、俺はゆっくりと目を閉じた。
ずっと上ではしゃぐ猫二匹を、少し思った。
――『海を見るには』【完】
『アイシテミル』
その日は雨で、他の地方では海がひとつ増えたらしいほどの雨で、お客さんなど来るはずもなかった。
ツガも早々に「今日は調べ物があるから」と言って書斎へ引っ込んでいったし、ヒヤムギもこの雨の中どこかへ出かけていった。
「ニニーなんかして遊ぼうぜー」
という訳で残っているのは俺とゴボウだけ。
遊ぶのなら嫌と言うほど付き合ったはずだが。
「にんじんゲームもっかいやろうぜ」
「はいはい」
暇なので相手をしてやる。
にんじんゲームは非常にシンプルな遊びで、にんじんの書かれたカードをお互いが5枚ずつ持ち、後手がうさぎの書かれたカードも加えて6枚持つ。
うさぎの書かれたカードを引くたびにんじんを一枚捨てられて、先ににんじんのなくなった方が勝ちだ。
まぁババ抜きの亜種だと思ってもらえればいい。
「はいうさぎー」
「お前なんか細工してんの?」
「ニニが分かりやすいんじゃない?」
バタン!
といきなり大きく扉が開き、雨のしずくと共にヒヤムギが帰ってきた。
「おかえんなさーい」
「おかえりヒヤムギ」
大きな腹は雨に濡れて少ししぼんで、何故だかぐったりとしているように見えた。
ただいまもない。
「ヒヤムギ?」
ゆっくりと、ヒヤムギはこちらを向いた。
顔に生気がなく、頬には雨でない滴が滝のように流れていた。
「アイシテミル……」
辛そうに漏らしたのは、ただの一言だけ。
「ヒヤムギ?」
「アイシテミル……」
泣きながらそう言う。
涙をぬぐう事もしない。
ゴボウも俺もカードを放り出して駆け寄った。
肩を強く揺さぶる。
「おい!ヒヤムギ!しっかりしろ、オイラが誰だか分かるか?!」
「アイシテミル……」
「ダメだ……これツガに見せないと」
ゴボウはへたりとその場に座り込んでしまった。
親友のそんな姿は初めて見たのだろう、ショックで口をぱくぱくと動かしていた。
書斎から出てきたツガはヒヤムギを見た。
「どこに行ってたんだヒヤムギは」
「ごめん、分からん。帰ってきた時にはこうなってた」
「……ううっ、アイシテミル……」
「強力だな……『聞いて』はいないが『見た』か『食った』な。『触っても』『障っても』いない」
「な、なあツガ、これ何なんだ?」
「非常にかいつまんでいうと伝説か神話のどちらかを見たか食ったかしている。規模が小さいものでまだ良かった」
何故分かるんだ。
前に海を見た時の事を思い出す。
『一度も見た事がない楽器でも弾き方が分かるんだ』――
そう言ったお前は、楽器以外の事も分かるんじゃないのか?
あの客がお前にハープを寄越したのも、お前の力に関係があるんじゃないのか?
「とりあえず唄医者に診せに行こう。ゴボウコート取って」
「合点!」
どしゃ降りの中をヒヤムギを引きずりながら、何とか唄医者までたどり着いた。
この辺じゃ大変な評判らしく、前に診せに来ていた犬の爺さんが、頭がおかしくなった時によく行くと言っていた。
思い出してわずかに不安になる。
「やあノブナガ、ちょっと診てくれよ」
「おおツガじゃねえか、店閉めてんのに裏から入ってきやがって。悪戯猫二匹も……と、そこのニンゲンは初めてだあな」
「アイシテミル……」
「……ヒヤムギ、テメェ何やらかしたんだ?」
「アイシテミル……ゥう」
「ちっさい伝説か神話の類だな……また厄介なの持ってきやがって。ちょっと待ってろ、ああ後ヒヤムギにそれ以上触んなよ、移っても知らんぞ」
裏口から入ったそこは、美容院みたいにリクライニングチェアとオットマンが三組ほど並べてあるだけで、後は姿見とか、分からない構造をした実験器具などが置いてあるだけだった。
奥に引っ込んだノブナガはしばらくして戻ってきた。
「さて、始めるか」
ノブナガと呼ばれた医師は白衣を着ていた。
元々いた世界のようなものでなく、どちらかというとローブに近い。
他には手に、一冊の本があるだけ。
胸のあたりまで伸びた長い白鬚をなめしながら、パラパラとページを繰った。
ヒヤムギを椅子の一つに寝かせるよう指示してから、静かに傍らに腰かけた。
「『雨の唄』第八節から」
一呼吸分、静かな時間があった。
「『風は雨に歌い 夜に笑い つらつらと一人歩く。 感情の波に立ち 風に溺れ 雨に吹かれ ただひたすら夜を歩く』」
「……ううーっ……ううううーーーっ!」
「『朝焼けを眼とし 夕闇に進み紛れ 炎天下に死に まだ木の洞を見ている』」
「あああっあっあっアイシテミル……ぎィいいーっあっおああアイシ、テミ、ル……ひ、ひぃいアイシテミル……」
「ヒヤムギっ ヒヤムギぃイイっ!!」
ゴボウがヒヤムギの手を取り懸命に叫んでいる。
その間にも詠唱は続く。
「『男はその名を ニルギリと言った』」
「っああ?!……っは……っは……ここ、どこなのよう……」
「あ! ヒヤムギが元に戻ったぞ!!」
「ん、何でゴボウがいるの?確かどしゃ降りの中で……っがあっ」
「ヒヤムギ?!」
いつもの表情に戻ったのはほんの数秒間だけだった。
生気が抜け落ちるようになくなっていって、またあの悲しげな顔になった。
「……アイシテミル」
「一瞬気が付いたが駄目だな。思い出すたびにこれでは埒が明かない」
「ノブナガ、原因分かったか?」
「ああ、多分なあ。『アイシテミル』とくればあれしかあるまい」
彼は難しげに腕を組んで告げた。
「『手紙』」
「『手紙』?」
「『文字』『言葉の人』『不幸歩き』……呼び方は何でもいいが、今回はそうだろうなあ。この世に溜まってるよくない伝説の一つだ」
「治すやり方はあるのか?」
「ある。『手紙』に限って言えば前例がある。しかし構造が単純な割に難しいのじゃ」
ノブナガの話では、ヒヤムギが『見た』場所に行かなくてはならないらしい。
行って、もう一度『手紙』に会って、原因を『解決』をしなければいけない。
「『手紙』には多種類あってな、要するによくない言葉の渦に人を閉じ込めて苦しめる。自分たちの願いが叶わなかったからのう」
「願い?誰の?」
「たくさんの。お前さんのかもしれんの」
「とにかく行ってみるしかなさそうだな。ノブナガ、世話になった」
「今度酒おごれよ。後ヒヤムギの体力にも感謝しちょけ」
「体力?」
「雨の八節くらいで覚醒出来るんはそいつくらいじゃ。普通は嵐とか天元とか使うんだぞ」
「……そっか。治ったら美味しい物でも食べさせてやらないとな」
「かっか、それがええ」
唄医者から出ても以前として雨は降り続いて、行く先は全く見えない中を、手探りで進んだ。
「ツガぁ、これどこに向かって進んでんだよぉ?」
「……ミツバチ池の方だな……」
「何でそっち行くのさ?」
「何となく、そんな気がするのさ」
黙って進んでいくツガにただならぬものを感じる。
彼が言うのならきっと、この方向で合っているのだ。
例え雨で前が見えなかろうが、見当もつかない方向に進んでいようが、正しいのだ。
そんな気になってしまう。
危うい信頼。
「皆、止まって」
ふと、ツガが全員を手で制した。
「『手紙』だ」
真っ黒い言葉の塊が、人の形をして立っていた。
型を保ちきれなかった言葉が、身体のあちこちから時々物凄い速さで打ち出されて、呪いを吐いて消えていった。
≪ぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ≫
そいつは、或いはただそこに佇んでいただけなのかもしれない。
俺たちが気づかない間に居て、気づかない間に去って、それでおしまいに出来る程度の存在だったのかもしれない。
膨れ上がって果てしなくなる前までは。
『彼ら』に悪意はない。
ただ俺たちに干渉する手段が、悪しかないのだ。
「……言葉の渦だと? 恨むぜノブナガ」
「こ、これじゃまるでっ」
――――濁流だ。真っ黒い泥。
「ゴボウ、耳塞げ」
「! ああ!」
「ニニ、悪いちょっと耐えてくれるか?」
「ツガ!」
「俺は『手紙』を読んでくる」
「戻れ!」
「俺が倒れたら引きずり出してくれ」
重低音のコーラスが何十にも重なって、おかしくなりそうだった。
ツガが側に来た途端、そいつは動いた。
重たい言葉の塊をずるずる引きずりながら、ツガに近づいてきた。
≪あんな女のどこがいいのよ!!ふざけんじゃないわよ!!!≫
そして思いっきり浴びせた。
立ち尽くすツガの肩を掴んでガクガクと揺さぶる。
≪死≪お前が居≪君なんかいない方が良かった≫なけりゃ≫ね≫
死ねば愛さないいいのに≪お姉ちゃん何でぶ≪飾り≫つの≫殺意が沸く」
≪愛してる「って言ってたじ無理ゃな『は、嘘かよ』い!!アレは何だったの?!≫
「僕はキミが好殺す『クソが』きなんだ例え≪何でこんなに愛しているのに≫君が他の男と結『本当に好き』
婚していようが愛し合っていようが』≪愛ししてるのにてる≫馬鹿が他の男に「女に誰」
『邪魔』一片死んどけよ≪何で好きになってく≪過去は全部水に流してやるから俺の『そのくらい好き』ところに戻ってこい≫
れな「殺すぞ」いんだ≫ガキさえ産んでなけりゃ≪君が欲し『何で』好き」なのにい≫
「あ……ああっ、あ」
何て酷い暴力なのだろう、これは。
もう俺まで立っていられなくなって、どしゃ降りの地面に膝をつく。
まだ耳を塞いでは駄目なのか。
あの距離で聞いているツガの事すら考える余裕がなくなっていく。
隣りで、耳を塞いでいたはずのゴボウが倒れた。
≪こんなに愛してるのに!!≫
≪愛せ!≫
≪愛せ!!≫
『手紙』は、誰にも届かなかった思いを、叶わなかった願いを、一方通行の夢を、幾多の憎悪を、全て、
≪愛せェ!!!≫
叩き付けた。
「愛してみる……」
だから許してくれ。
自然と口から出てきた言葉は、彼らの言葉に耐え切れなくなった自分自身の弱さだった。
愛していない。
でもアイシテミル。
そう言う事でしか、逃げることが出来なかった。
「アイシテミル……」
これで助かる。
呟いてまず感じたのはそんな自分勝手だ。
一方通行の、愛の暴力。
苦しいのなら受け止めるしかない。
相手の望むように。
アイシテミル。
愛してみる。
きっと、『手紙』に書いてあるこの言葉を発していた彼らは、愛した誰かにそうして欲しかったのだろう。
でも叶わなかった。
だから想いは澱みになって、『手紙』になった。
『手紙』はやり場を失った愛の、はけ口を探した。
≪愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!≫
相手が自分を愛さない事を、決して許さない。
ゆるぎない狂気が、『手紙』の隅々にまで行き渡っていた。
≪愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!愛せ!!≫
「……」
その時、ずっと棒立ちだったツガが何かを呟いた。
≪愛せぇエ!!≫
「……」
もう一度言った。
ピタリと『手紙』の動きが止まった。
「私には、あなたを愛することは出来ない」
「さようなら」
≪ぼォオッ……ゴボボ、ガォォオオ……≫
「『手紙』が……崩れていく……」
あれ程までに咆哮していた『手紙』は、悲しげな声を響かせながら崩れていった。
どろどろと地面に落ちて、そのまま雨に溶けてなくなっていく。
雨の落ちる音が、ようやく耳に入ってくるようになった。
「あらん?」
「ん……」
ゴボウとヒヤムギも気が付いたようだ。
起き上がって不思議そうにあたりを見まわしている。
少し向こうで、ツガが倒れているのが見えた。
「ツガ!」
急いで駆け寄って彼を抱え上げる。
かなり消耗しており、脱力した身体を全て俺に投げ出してきた。
「ああニニ、久々に死ぬかと思ったよ」
「ツガ、無事でよかった」
「無事に見える?」
そう言うと彼は、疲れた顔で微笑んだ。
「『手紙』はさ、誰かに読んで欲しくてずっとあそこで待ってたんだよ。そこにたまたま迷い込んだヒヤムギが来たんだ」
帰り道。
俺の背中でツガは呟いた。
「『叶わなかった愛の結晶』……タイトルはそんなとこかな、『手紙』には色々種類があるけど、今回のは小さくて良かった」
「アレで小さな方なのか?」
「読むのに丸三日かかるのとかもあるらしいよ。大抵心がやられちゃって読み切れないんだけど」
考えただけでも恐ろしい。
「なあニニ」
「ん?」
「あんなに誰かを愛せる事ってあるのかな」
「……」
「叶わなくて苦しくて辛いのに、『手紙』になるくらい歪んだ思いなのに、それでも愛することを、彼らは止められなかったんだ」
「幸せな事、なのかもしれない」
「羨ましい、とも」
「なあニニ」
「間違ってるのは何なんだろうなあ」
「間違ってたのは誰なんだろうなあ」
ツガは答えを求めなかった。
そこから先は、すうすうと静かな寝息が聞こえていた。
「アイシテミル……」
誰にでもなく呟く。
雨は明日も降るらしかった。
灰色を湛えた空から降り注ぐ雨が、何かを洗い流してくれるような気がした。
――『アイシテミル』【完】
§4『星空の逆転と、つらら』
胸のポケットに何か入っているように思えて、手を入れたらそれが出てきた。
細やかな装飾を施された、金属製の小箱。
球のような形だった。
小箱、というよりは球形の容れ物と言うべきだろうか。
鍵はついていないようで、中からはかすかに虫の鳴くようなジーッという音がした。
振ってみても叩いてみても開かない。
装飾を正面から見ると、『∞』の文字の両端から二つの矢印が飛び出しているエンブレムが描かれている。
「一体……」
どこで作られ、どうして俺の胸ポケットに迷い込んだのだろう。
見ただけで相当な作品である事が分かる。
手には収まりがよく、握れば指の腹が装飾の溝をなぞった。
冷たい感触が心地よい。
いつぞやに見たハープを思い出す。
「ニニ―」
「どうしたゴボウ?」
「ツガが仕込み手伝ってってー」
「分かった、今行く」
とりあえず考えてもしょうがないか。
小箱を胸ポケットに戻すと、ゴボウと一緒に厨房へ向かった。
「ニニ、今日予約のお客さん多いからお願いね」
「16人かぁ……何かの打ち上げ?」
「ミャコ銀河楽団の演奏会が昨日ツンガリ森の方であってさ、その楽団員が皆来るの。こないだハープ持ってきたお爺さんも楽団員だよ」
「ふえー、あのオヤジ案外すごかったんだなー」
ゴボウが感嘆の声を漏らす。
確かに不思議な雰囲気のある人だったが、有名楽団の楽団員とは。
「あ、そっちのエビとって」
「? エビなんてないぞ?」
「……ヒヤムギの仕業だ!ゴボウ捕まえてきて!」
「合点!」
「にゅふふふ、ツガがなにやら準備してると思ったら、今日は大入りなのね。おかげでいい材料が……」
『ねんねこ』の近くのこんもりとした丘。
てっぺんに座る盗人の手には、エビのたっぷり入ったボウルがあった。
一つつまみ、殻ごと口の中に滑り込ませる。
「んめっ!ぷりエビのうまさは世界一よう!」
「あーっ! やっぱし食べてる!」
「んん? ゴボウじゃないの、さてはぷりエビの匂いに釣られてきたなっ」
「ツガが中で怒ってるぜー」
「なぬっ、何故俺の仕業だとばれたっ」
「他に誰がいるんだよ、お前食い物に対して見境なさすぎにゃろ」
「……ゴボウ」
「何?」
「ぷりエビ二匹あげるから見逃して?」
「はあ?」
ゴボウは呆れ顔。
「四匹はよこせ!!」
「ぜーったい嫌だ!後七匹しかいないのよう!!」
「よっこせーーー!!」
「嫌ぁあ!!」
盗人が二匹に増えた。
「ぜ、全部食った……?」
「どーも」
「ぷりーっ」
「ニニ、なくなってた時点で半ば諦めてたよ俺は」
お客さんが来る直前で二匹は帰ってきた。
頭を差し出しているのは来たるげんこつへの準備に他ならない。
「なくなったものはしょうがない。ゴボウとヒヤムギにあげる予定だったカキを出そう」
「カキ!」
「食べたいのよう!」
「ニニー、窯でカキ焼くから手伝って」
「はいはい」
「くおーっ何故オイラはぷりエビに負けたのだぁあーーーっ」
「食べたいのよう食べたいのよう!!」
その時玄関のベルがからころと鳴った。
お客さんだ。
「予約してたミャコ銀河楽団のものですだ」
「おかえんなさーい、席へどーぞ」
「腹減っただずっぺ」
「うぃー酒が飲みたいぞうー」
「ひょえ、綺麗な店」
ぞろぞろと入ってきたのは楽団員の面々。
団長らしきたぬきがツガに挨拶をして席に着いた。
「えーそれでは皆さん、昨日はツンガリ森での演奏お疲れでござんした。わだすも指揮棒を振るう手に思わず力が入ったでござんすが、最後まで良い演奏が出来たでご。今日は自由に飲んで、疲れを癒しておくんなっし。乾杯!」
「「「かんぱーいっ」」」
流石に有名楽団とだけあって、皆いいワインを次々に空けていく。
料理をつまみながら会話する姿も優雅だ。
「しかし久々の大盛況だ」
「皆食べっぷりも飲みっぷりも素晴らしいな。演奏家も体力勝負みたいなところがあるからな」
「前来た医者の先生たちもこんなだったな」
「うむ」
「でも普通は席が足りなくなるような団体て予約受けないよな。何で今回に限って」
「ふふ、ちょっとした俺のわがままでね、ゴボウとヒヤムギにはけっこう動いてもらったんだ。ぷりエビくらい見逃してやるさ」
「?」
ツガは意味深な笑みを浮かべて、それ以上は何も答えてくれなかった。
お客さんは相変わらず(あくまで優雅に)どんちゃん騒ぎを繰り広げている。
「うううっ いい気分だどーっ」
「こっこんないいワイン飲んだ日にゃ、思いっきり演奏せにゃ気が済まんだす!!」
「ほーだほーだ!」
「楽器ば欲しいどーっ」
「ほだほだーっ」
お客の様子が何だか変だ。
ツガを見ると楽しそうに顎をさすっている。
「ふふ、来た来た」
「何が?」
「まあ見てなよ」
ツガは席を立って大きなおなかをゆすっている団長のところに行き、こっそり耳打ちした。
「ポンズさん、表に準備出来てますよ」
「あーっわざわざあんがとなっし、支払いには色つけるでな。おおい皆!表に楽器があるぞう!!」
「なにぃ団長、それを早く言わんか―――っ!」
「わおう俺のトランペットが来とるゾウ!!」
「私のピアノも!」
「俺のもだ!!」
「さあ早く演奏しよう!」
「満点の星空に!」
「素敵な隠れ家『ねんねこ』に!」
「ミャオ銀河楽団に!」
「「「かんぱーいっ!!」」」
「ツガ、これは……」
「この楽団の人たちは皆、酔っぱらったら演奏せずにはいられないんだってさ」
団長は小高く盛った土に上ると、俺とツガに向かって一礼した。
ゴボウとヒヤムギは機材搬入で疲れてしまって、店の中でお駄賃の大トロを食べている。
辺りは水を打ったように静かになった。
酔っていようが演奏家たちは、流石、と思わせるような張りつめた空気を持っていた。
「では、『ウミネコ協奏曲』……それっ」
【♪】
「おおっ」
「なんという迫力だ!」
なるほど、有名楽団であるのももっともだ。
各楽団員の実力もさることながら、ポンズと言ったか、指揮のたぬきが素晴らしい。
荒々しく指揮棒を振って全員をまとめ上げ、その背中からは曲に乗った感情さえ伝わってくるようだ。
音量と感動で唇がびりびりと震えた。
何事かと出てきた住民たちも、あっという間に口を半開きにして演奏に聞き入った。
「贅沢だなあ」
「ああ。なかなかお目にかかれないぞ、ここまでの楽団は」
皆赤い顔してすごい演奏するなあ。
酔ってない時の演奏と比べても遜色ないとの話だが、果たしてそれは素晴らしい事なのだろうか。
などと考えているうちに、嵐のような演奏は終わった。
「あーきんもぢよがったっぺー!」
「くああーっ久々に来たべさあ」
「まだ演奏したりないわ!」
「ははは、来週の演奏会にお預けだな!」
称賛の声や拍手に混ざって一際大きく聞こえるのは、満足げな演奏家たちの声だ。
ハープの人は大あくびをしているところだ。
「やあやあマスターさん、ほんにあんがとじゃす。おかげでいい打ち上げになりました」
「こちらこそ、あのような素敵な演奏を聞かせていただいて……」
話の通り、支払いには多少色を付けてくれたようだ。
ツガはむしろ割引したいくらいなのに、と苦笑する。
「ほいじゃあ、おやすみなせえ!」
「『ねんねこ』ありがとう!また来るよ」
「お疲れ様―」
「ねんねこー」
「あいー」
酒も入り、演奏ですっかり酔いの回ったお客たちは、眠そうな目をこすって帰路に着く。
俺の心は、不思議な満足感で満たされていた。
余韻に浸っていると、この世界に来てはじめて、この世界の事について想った。
朝遅く起きて、朝ごはんを食べて、草木に寝て、風と遊び、自然を着て、夜を歌い、そうしてまた、笑って明日を迎えられる。
この世界には、求めていたものが全部あった気がした。
自由な時間、気安い服に、とても大きな自然と、太刀打ちできない不思議と、美味い酒と、食べ物と、気のいい奴らが居た。
不自由がなかった。
不自由を生むものもなかった。
ここには燦然と輝く自由があって、ただお腹いっぱいそれを満喫すれば、毎日を過ごせた。
俺はここにいていいのだろうか。
向こうの世界ではどうなっているのだろう。
納期が遅れたりとか、捜索願が出されたりとか。
いつか向こうに戻らなければならなくなって、浦島太郎のように、別世界のようになってしまった、あの時間の流れが速すぎる世界に帰るのだろうか。
俺は、戻りたいのだろうか。
果たして、この楽な世界に俺だけが居て、何となく心に抱えたもやを、罪悪感を、どうしたらいいのだろう。
胸の中で、カチッと音がした。
気が付けば空に立っていた。
足元で星が綺麗だった。
宙に浮いてはいなかった。
確かに透明な空気の上に立っていた。
足元にはどこまでも落ちていきそうな深い夜空が広がっていて、星々はその深さを示すように点々と違う位置で輝いていた。
上には覆うように地面が……いや、まともな地面は見えなかった。
ただ無機質な高層ビルがつららのように織り連なっていて、人工の灯りが、足元の星の代わりに光っていた。
「……これは……」
胸ポケットに手を入れる。
ついに開かなかったあの箱は簡単に開いていた。
中は時計の中身みたいに複雑で、平凡な目では何一つわからない。
ただ箱は開いていて、天地はひっくり返っていて、箱の中で機械がせわしなく歯車を回していた。
「何で、ビルが……」
ぶらさがった黒く鈍いつららたちは、この世界のものではなかったはずだ。
何故、今。
「へえ、ニニは新宿に住んでたんだ」
「?!」
どっと汗が噴き出た。
「ホラ、あれ東京都庁でしょ」
横を見ると、空に立ったツガが微笑んでいた。
――――『星空の逆転と、つらら』【完】
§5『ツガの秘密、ぼるいち』
ツガは微笑んでいた。
顔に半分かかる影が、彼の闇の部分をさらけ出したようで、酷く不気味に思えた。
「……何で、お前が新宿を知ってるんだ」
「互いに干渉しない世界同士の事情を知るには、方法はひとつしかないだろう?」
世界間の移動。
俺が偶然にも、終電を寝過ごすことで成立した方法だ。
「ツガ、お前は……俺が居た世界の住人なのか?」
「ああ、俺は実年齢も方言も、容姿でさえも偽りながらこの世界で息をしている。気づかなかったか?猫と人が混ざっている奴なんて、俺以外に見ていないだろう?」
「あ……」
「ゴボウとヒヤムギは、幸いにも信じてくれた。彼らは素直で、愚直だ。言われた事や起こった出来事に対して疑問を抱かない」
『神話の混ざりもんか?!』
ここに来た時、ゴボウに言われた台詞を思い出す。
思えばあれから、ただの一度も「混ざりもの」という言葉を聞いていない。
「もっと思慮深いやつが居なくて助かった。『ねんねこ』は良い隠れ蓑になる」
普段のツガなら、このように冷酷に他人を分析することはなかっただろう。
あえて醜い部分をさらけ出しているその行為が、今までの神がかり的な信頼性を壊す、更に言えばツガのある種「人間らしさ」を物語るモノであり、告白の現実性をいよいよ浮き彫りにさせた。
「『ノスタルジア』」
「?」
「その箱の名前。届かない故郷を想った時、相変わらず届かない故郷は、空と地面を反転させた、逆位相の幻として投影される」
「……それで、新宿が」
「ニニに見せてもらおうと思ったんだ。そしたら何か思い出すかもしれないと思ってさ」
「思い出す?」
「ああ、でも駄目だった」
ツガは寂しそうに笑った。
「思い出せないんだ。俺が本当は何て名前で、本当は何歳で、何をして、誰と過ごしていたのか」
「俺の名前、ツガはさ、先代の『ねんねこ』マスターがつけたんだ」
ツガはひどく衰弱した状態で見つかったらしい。
ノブナガと先代の甲斐甲斐しい看病のおかげで何とか一命を取りとめたのだそうだ。
「俺の倒れてた場所ってのが、ツンガリ森。そこからとって、ツガ。ペットみたいな安直な名づけ方だよな」
乾いた笑いが虚しくて、喉が苦しかった。
「ペット」という概念もこちらの世界には存在しない。
その常識の記憶のみが、ツガが元の世界の住人だという証なのだ。
「倒れる前の記憶はない。おぼろげに彷徨っていたことだけ何とか頭の隅に残っているだけ。耳と尻尾、それにひげはもうこの時には生えていた」
つまり彼の「混ざりもの」たる特徴全ては、彼の意志ではない後付けという事だ。
あの物知りのノブナガでも、原因は分からなかったのだろう。
あるいは、分かっていたのに話していないのか。
「これが俺の全部だよ。なあニニ、何もないんだ俺。正直言うとちょっと怖くてさ、ハハ、いつか俺なんていなかったように、何もなかったように消えちゃうんじゃないかって、ちょっと怖いんだよ。振り向いたら後ろに歩いてきたはずの道がなくて、自分が立っている場所の危うさに気づかされる」
「何より怖いのが、自分の命が少しも惜しくない所なんだ」
「ツガ」
「ニニ、お前に対しても俺は時々、残酷な仲間意識を芽生えさせてしまいそうで、怖い。いっそお前も、俺と同じようになっちゃうんじゃないか、きっとどっかで、なってしまえばいいとさえ思ってるんだ、俺も」
何も言えない。
それは彼の立場から見た、真摯な心だからだ。
同じ立場でない人間が口を出すべきではない。
ましてや、彼よりずっと記憶に恵まれている俺からは。
どんな気持ちだろうか。
自分を守るモノも、自分が守るモノもないというのは。
「ニニ、」
そう、何か言いかけた時、ツガは少し違う目をしていた。
心の闇は一瞬だけ影をひそめた。
俺の良く知っているツガの優しい目。
「……戻ろうか、ゴボウたちが心配するからな。箱に向かって『もう少しここに居たい』って言えば終わるよ」
「ノスタルジアはニニが持っていていいよ。俺じゃあうまく扱えないから」
故郷がないから郷愁の念が湧かないのだろう。
ツガは目を伏せた。
「この箱はどこで手に入れたんだ?」
「先代がくれたんだ。何か思い出すことがあるかもしれない、って」
「そうか……」
さあ戻ろう、とツガは促した。
ヒヤムギとゴボウに余計な心配をかけるのはよくない。
俺は静かに目を閉じた。
『ねんねこ』はいい隠れ蓑になる。
先ほどのツガの言葉だ。
本当にそうだろうか。
ゴボウやヒヤムギだってもう、ツガにとっては大切な一部のはずだ。
あんなに軽々しく切り捨てるのは、余程神経がつっぱっているか、あるいは。
無理してるように見える。
「『もう少しここに居たい』」
「そう」
パリン、と音がして景色が割れる。
仮想現実のような空間だったらしく、夜空の破片が散ると同時に、自分が地面に立っていることに気づかされる。
「どこ行ってたのよう!もう楽器の片づけ終わっちゃったわよん」
当然のように見慣れた『ねんねこ』が目に入ってくる。
中に戻るとヒヤムギとゴボウは随分疲れた様子で、勝手に飴サワーを作って飲んでいた。
「ごめんごめん、全部任せちゃって。お詫びに倉庫のびわゼリー食べていいからさ」
「びわゼリー!」
「びわわっ! ゴボウ、早速取ってくるのじゃ!!」
二匹よりもツガの方が疲れているように見るのは、単に気のせいだろうか。
椅子にぐったりと身体を預ける様子は初めて見る。
とうきびサワーが欲しくなったのでツガにも要るか聞いて、二杯分用意した。
「ありがとうニニ」
「どーも」
「ふう、うまい」
「ツガが作った奴ほどじゃないけどな」
「あんま変わんないって」
「んにゅははっ、びわゼリーじゃっ ゼリー祭りじゃっ」
「んめっ!」
倉庫からでっかいボウルを抱えて戻ってきた二匹の手は既にゼリーだらけでべたべたしていた。
既に半分くらいなくなっている。
倉庫って店の裏だから戻ってくるのに一分かからないはずなんだが。
食欲とはかくも恐ろしい。
「くらえっ!」
「うっ 種飛ばしとは卑怯なり!」
じゃれている二匹を見るのは楽しい。
時たま飛んでくる流れ弾がなければなお良いんだが。
「!」
ふとツガを見ると寂しそうな微笑みを浮かべて二匹を眺めていた。
彼は何を考えているのだろう。
俺は何を考えるべきなんだろう。
心に浮かんだ安っぽい同情を、炭酸に溶かして飲み下す。
これから俺は、同情とか憐みとか同郷の志だとか、そんなのを一切抜きにして、彼の為に何が出来るだろうか。
ポケットに入ったノスタルジアを、今更ながらに大切に感じた。
――――『ツガの秘密、ぼるいち』【完】
§6『ヒヤムギに芸術』
「にゅふふふ」
「あーっヒヤムギ 何だそれ?」
「にゅふふ、不思議な宝石よん」
『ねんねこ』の裏にある小高い丘の上。
悪戯猫二匹のアジトとも言えるこの場所で、ヒヤムギが何か見つけたようだ。
「キラキラ光って綺麗だな」
「それだけじゃないのさ」
スーパーボールくらいの球をそっとつまんで地面に落とす。
球は地面に当たる瞬間、ピアノの美しい旋律を奏でた。
「へえーっ」
「いいでしょ?」
「うん、いいな」
「これは」
「間違いなく」
「高く」
「売れるにゃん」
「「にゅあ――――っはっはっはっは!!!」」
彼らには基本的に金目のものが食材に見える。
『ねんねこ』で舌の肥えた彼らは、神がかり的な意地汚い眼を持っていた。
「なあツガ、表に紙挟まってたんだけど」
「え、郵便?」
「違う違う、なんか落し物を探してほしい、みたいなことが書いてある」
「見せて」
『音の雫を探しているのら。
探してほしいのら。
音が出るのら。落ちたら。落としても?
キラキラ光って綺麗なのら。
綺麗な上に落ちたら音が出るからすごいなあって思ったのら。
うちにいっぱいあるのら。一個なくしたのら。
見つけた人は金貨5枚出すのら。
見つけれなかったら噛むのら。
がぶがぶ。
ツンガリ森の西の方 一本松から右に二歩 【ナヅナ】』
「……これ他の家にも配ってあんのか…… 音の雫なんて聞いたことないが」
「このナヅナって差出人は知ってるのか?」
ナズナじゃないんだ。
「ああ、ツンガリの西に住んでるオオカミの女の子。お父さんの先祖がキウリの直系弟子」
「え?! あのハープの?」
「そう、こないだキウリについてもついでだから調べててさ。確かに変わった人だなーとは思ってたんだけど、びっくりだったよ」
「変わった人……ね」
がぶがぶ。
娘の文章からも独特の感性がにじみ出ている。
「んで、どうする?探す?」
「そういうのはゴボウとヒヤムギの方が得意だな。店は今日俺とニニだけでやって、あいつらには音の雫を探してもらおう。 多分裏の丘に居るから、ニニ伝えてきて」
「オッケー」
「……って訳なんだけど、どっかで見たりしてない?」
「「してない」」
「そうか」
二匹は驚くほど息の合った回答をしてくれた。
何を考えてるのか全然わからんが、このコンビならあっという間に見つけ出してしまいそうだ。
賞金の金貨5枚についても伝えてるし、エサは十分与えただろう。
とりあえず店の事もあるので、後は二匹に任せて戻ることにした。
「じゃ、頑張ってくれな」
「「はーい」」
「金貨5枚ですかあヒヤムギさん」
「少々安いのではありませんかゴボウさん」
「ぷりエビ30匹程度のお駄賃で、音の雫を拾った功績に釣り合うとは思えませんぞ」
「まっことその通り。 それにゴボウさん、既に鑑定屋に持っていって、この変な宝石に金貨8枚の価値がある事は分かっておりまする」
「全く持って同感です。だとすれば我々が取るべき手段はただ一つ」
「そうですとも」
「「賞金の値上がりを待つ」」
「「にゅううああああーーーーーーっっはっはっはっはあ!!!」」
「どーも」
「ぷりーっ」
「見つけてくれてどうもありがとうなのら。がぶがぶ」
まあこいつらの考える事なんか所詮はそんなところなので、隠れて待機していたツガと二人で一網打尽にしてやった。
金貨5枚を握りしめてヒヤムギは悲しそうだった。
「音の雫…… 本当に綺麗な音を出すよなあ」
「一年に一回、その辺に溜まった音がまとめて結晶化するのら。がぶがぶ」
そしてこの子はいつまで俺の尻にかぶりついてんだろう。
目が合うとにっこり微笑んでくれるので無理やり剥がすのは良心が痛む。
「ナヅナおめ、いくら気に入ったからってお客さんに甘噛みするもんでねえど」
「ニニはいい匂いがするのら」
「すんませんなあ、まだほんのてんつぶ(方言で小さい子)でごって。甘噛みは親愛の証でもって、気にしないでおくんなせえ」
「んがぶっ!」
「これナヅナ!」
灰色の毛並みを持つお父さんは頭をポリポリと掻いた。
キウリ系列の楽器術家で、名をアヅキという。
アズキじゃない。
「わざわざ届けてもらってあんがとなっし、『ねんねこ』だったら娘に取りに行かせましたのに」
「いえいえ、構いませんよ。それに、キウリの意匠を汲む楽器術なんてそうそう見れるものではありませんからね。職場にお邪魔させていただいて、お礼を言いたいのはこっちの方です」
「やはあ、そう言われると恥ずかしいでな。こんなむさい作業場で良かったらいくらでも見ていっておくんなっせ」
ツガはアズキ先生の案内のもと、所狭しと置いてある楽器を見て回ることになった。
俺もついていきたいが、腰が、もとい尻が重い。
「それにしても見事なつくりをしている…… 猫目玉石にプランタとベッコウ鉱を接続して、薄氷ガラスで覆ってるのか」
「はあーっツガさんはどっかで楽器術を嗜んでおられたのけ? 素人目には分からん素材ばっかのはずじゃが」
「はい、昔少しだけ……」
俺も見たいなあ、なんて考えていると尻に軽く痛みが走る。
「ニニ……お父のとこ行くん?」
行きづらい……
「ナヅナの楽器見て」
「え?」
にっこり笑うその手には、音の雫。
「これ、ナヅナ作ったのら。初めて楽器作ったのら」
「えええ!」
流石に少し驚く。
自然石でないとはいえ、金貨八枚の値がつく代物。
中身は半透明にうっすらと見えるが、中々に複雑な構造をしていることは確かだ。
それを、この子が。
嘘を言っているようにも見えない。
「ナヅナも楽器作れるのら。お父の楽器もすごいけどナヅナのもすごいのら」
「……そうなんだ、すごいなあナヅナちゃんは」
「ふへへへ、くすぐったいのら。がぶがぶ」
頭を撫でるとうれしそうに目を細める。
尻をかぶるのは照れ隠しだろう。
まだまだ子供なんだと思うと、余計に愛おしく感じてくる。
「あの子は天才なのですじゃ」
アヅキはツガにそう漏らした。
「音の雫はあんな年端もいかぬような子供が、いや熟練の楽器術師でさえ考えもつかぬ構造をしているんでご。ツガさんなら分かるとは思うじゃすが」
「……普通は、『落とすと綺麗な音の鳴る宝石』で終わるでしょうね」
「その通りですじゃ」
アヅキは一つの楽器を手に取った。
出した音が空中に文字を描く、ピアノの一種。
音色で文字の色を、音量で線の太さを調節できる。
「あの子の楽器はキウリの作によく似ている。彼の楽器は『単純に音を出す道具ではない』とする楽器術の根底と、『ひたすらに清廉な音を』という楽器そのものの根底とを結びつけているのじゃす」
「その作品は……」
「アヅキの『鳴るキャンバス』。ただの駄作じゃよ」
ピアノを乱暴に弾くと、空中に茶色の様な、赤系が混ざった色がべったりと張り付いた。
「こんなものは楽器でなくとも良いのじゃ。空に絵をかくペンだってなんだって」
「ツガさんは以前『海の見え方』に触れていますのじゃな?」
「ええ」
「あの作品は楽器、それもハープの様な弦楽器でないと成り立たねえつくりをしてるでご。水で弦を張り、塩でそれを固定。一度弾けば海の中から世界を見ることが出来る」
「『海』や『ハープ』でないと成り立たない、強烈な世界観」
「そこじゃす。『他では代わりがきかない』絶対的な世界を、音楽と自然で構築するという事を、キウリはやってのけたのじゃす」
「そしてそれは今、あの子がしていることでご」
ここにある数多の楽器の中で、一体どれだけが、かけがえのない楽器術作品として存在できているだろうか。
アヅキは技術的には楽器術師の中でも相当なものを持っている。
しかし、それはあくまでキウリの築いてきたものの模倣であり、そこに独創はない。
「ワスの家の家系図じゃす」
彼は壁に掛けてある布を指さした。
「一番上がキウリ、その下のムジナ氏がキウリの直弟子に当たる我がご先祖様じゃす」
「キウリと、その他にも…… 名前にバツ印がつけられている人がいますね」
アヅキは悲しそうに目を伏せた。
「彼らは、天才故の孤独に耐えきれなくなった者達じゃすよ」
「自殺者、という事ですか」
「ナザレ・キウリ。享年15歳。彼は特に若くして亡くなっていますのじゃ」
『海の見え方』を調べていた時の事を思い出す。
確かに違和感はあった。
「天才とはそういうものだと、最近思うようになったでご。誰よりも突き抜けた才能がある分、誰もが持っているものに欠けやすい」
そうか、この人は彼らに娘さんを重ねているのか。
あの歳で『音の雫』は天才どころか異才だ。
技術的な部分でアヅキ氏が手伝ってこそだが、あと何年もすれば完全に超えてしまうだろう。
「ツガさん、これも何かの縁じゃ。どうぞあの子と仲良うしたって下さいな」
「はい。お願いされなくとも、俺からも友達になって欲しい」
あの子を見ていると心が躍る。
親から見ると余計に心配になるのだろうな。
誰よりも優れていてほしいと思う反面、皆と同じであって欲しいと思うのもまた親心。
そのジレンマは決して、汚れたものではないのだ。
「ありがとう、ありがとうツガさん」
「いえ、その、……」
だがこうも恐縮されては。
思わず苦笑してしまう。
当のナヅナちゃんは何も考えていないだろうな。
あの子は俺なんていなくても、きっといい友達にたくさん恵まれるはずだ。
何故だかそんな気がした。
少なくとも初対面の人のお尻にかぶりつけるようであれば、将来の心配は要らないな。
思わず吹き出すと、表の方で呼ぶ声がした。
「おおい、音の雫使ってみるから、皆で見ようぜー!」
ニニだ。
声に反応して、ずっと俺の手を握っていたアヅキ氏と目があった。
ふと冷静になってお互いに苦笑する。
「分かった、今行く!」
「さあ、お父さんも一緒に」
「そうじゃすな。あの子の楽器のお披露目と行きましょうがいな」
表に戻ると皆外に出ていて、ナヅナちゃんの手に握られた音の雫を見ていた。
手の中で宝石は、さっきより小さい。
「あ、おかえりなのら。今から鳴らすからよく聞いてるのら」
宝石は氷が解けるように少しずつ小さくなっていって、最後には蒸発して空へ消えた。
「くるぞ」
ぽつり。
【♪】
肌に小さな『音』が当たるのを感じた。
天から降り注いできたのは文字通り音の雫。
今度はピアノの音だけじゃなくて、別の楽器や、楽器じゃないモノの音や、喧噪や、雑踏や、無音。
全てが降り注いで、音楽の滝を作っていた。
混ざり合うそれらは決して不快ではなくて、まさに音楽と呼ぶべきものへと昇華していた。
「これは本当にすごい」
「一年に一回しか鳴らせないのが難点なのら」
手を翳せば音が落ちてきて弾け、次々に溜まっていく。
そうか、これは『雨』か。
キウリが海と融合したように、音の雫は雨との融合を形作っている。
音は雨になって、乱雑に、繊細なメロディーを奏でた。
全身が鼓膜になったようにびりびりと震えた。
何とも心地よい。
「ねえツガ」
「何?」
「ナヅナの楽器もすごいのら!」
そう言ってほほ笑む彼女は、天使のように無邪気だった。
この子ならきっと大丈夫。
「そうだな、すごいな」
「にひひひ、くすぐったいのら!」
だから今は、この音のように燦然と降り注ぐ愛情を、お腹いっぱい食べて欲しい。
自然も親も友達も、きっと彼女を愛してくれる。
「にゃはは、大漁じゃっ 大漁なのじゃっ」
「ぷりエビ買ってきたわよう」
不思議な満足感に浸っていると、俗世に塗れた奴らが帰ってきた。
というか今までどこかに行っていたのにも気づかなかった。
「あらん、何だかうるさいわねえ」
「耳をお休みにします」
「それはいい」
ボウルたっぷりのぷりエビを抱えて二匹はご満悦だ。
耳をぺったりと頭にはりつけて、むちゃむちゃとぷりエビを喰いだした。
ニニはすっかり呆れ顔。
アヅキ氏も口をあんぐりと開けていた。
「猫になんとやら、か」
向こうの世界の諺を思い出した。
一年後、また音の雫が結晶化した時に、ここにまた来よう。
そして今度は、猫どもは置いてこようと思った。
上を見れば音の雨に混じって、綺麗な光が差し込んできた。
ぷりエビよりこっちの方が良くなるまで、あと何年かかるだろう。
「ナヅナにもぷりエビ寄越すのら!」
「あーっ こぼれるこぼれる!」
「ゴボウ! 取り押さえるのじゃ!」
この素敵な楽器を作った張本人にさえ、それは分からない。
――――§6『ヒヤムギに芸術』【完】
§7『ツガの秘密、ぼるに』
その日大雪が降って、外の景色は全て白に隠されてしまった。
砂糖菓子みたいな樹氷が立ち並ぶ中を、二匹を連れて外に出た。
ツガは調べ物があるとかで書斎にこもっていた。
しばらくは冷たい雪原に飛び込んだり、肉球の足跡をつけたりと楽しんでいた二匹だったが、顔を見合わせると突然せこせこと雪玉を作り始めた。
マズい流れだ。
一人だけ標的にされまいと、大きな木の陰に身をひそめる。
「あれ?ニニどこいった?」
「せっかく雪玉拵えたのにィ 当てる奴がいないと意味ないのよう」
そら見た事か。
あの悪戯猫たちの考えてることなんてすぐに分かる。
でもそれってつまり、俺があの二匹と同じレベルになっちまったって事なのだろうか。
そう思うと複雑な気分だ。
「仕方ない、ニニはどっかに消えた事だし」
「オイラたちだけでやりますか」
「掛け金は?」
「銀貨3枚」
「勝敗は?」
「決まってるにゃろ」
「「雪に倒れた方の負け!」」
そして凄まじい雪合戦が始まった。
「にゃっ このっ」
「じゅしっ でゅしっ」
飛んでくる雪玉の半分を喰っているヒヤムギの方が優勢だ。
アイツの腹は某猫型ロボットのポッケにでも繋がっているのかもしれない。
隠れて笑っていると、ついつい顔を出しすぎてしまったのか流れ弾が当たった。
「ぶっ」
「あっ ニニがいるぞ!」
「集中砲火じゃ!!」
おまけにバレた。
肉球で頑張って握っているので顔に当たるとそれなりに痛い。
後ろも振り返らずに逃げ出した。
「こらっ 大人しく雪玉を当てられなさい」
「にゃーんっ」
もう手が付けられない。
踝までもありそうな雪の層をかき分けながら、必死に逃げる。
「はあ、はあ」
口から白い息が漏れて、その度に喉がひゅうひゅうとなった。
日にあたる真っ白な雪は目に痛くて、激しく距離感を失わせていた。
「はあ……はあ……あれ?」
流石にもうここまで逃げればいいだろう、そう思って振り返ると彼らは居なかった。
もう随分と俺の足跡しか続いていない。
どうやらまくどころか迷子になってしまったらしい。
見えるモノと言えばかろうじて存在している枯れ木と、空と、雪。
「おお―――いっ ヒヤムギ―――ッ ゴボー―――ッ!!」
返事はない。
さっきまでの楽しい気持ちは風船みたいにしぼんでしまって、それにとって代わって不安が押し寄せてきた。
人は自然の中に置き去りにされると絶望する。
自分では太刀打ちできないと、そう思ってしまうからだ。
何か人が作ったものが見たい。
人の気配が欲しい。
「……!!」
そう思って懸命に叫んでも、声は虚しく消えていくだけだった。
「はあ……はあ……」
それから彷徨って随分になるが、一向に何かが見えてくる気配はない。
不安が高まるにつれて、疲労とか空腹とか寒さを、より強烈に感じるようになってきた。
息を吐く唇が震える。
「……携帯、とかが、あればな、……はは」
言ってもしょうがない独り言。
掠れた笑い声を上げた拍子にどさりと尻餅をついた。
ああ
寒い
眠い
起きなきゃ
起きてどうするんだ
歩くのか、あの真っ白な無限を
嫌だな
眠い
どうせ
どれだけ歩いても
何もないんだ
眠ろう
「……ん……」
「眠った、はずじゃ……」
「ここは……?」
『「風の分岐点」』
「え?」
『ここは「風の分岐点」。君の通り道』
「……それって、駅の名前、じゃ……」
『駅の名前は土地の名前、土地の名前はここの名前、ここの名前は私の名前』
「何を……」
『ようこそ「風の分岐点」へ。二宮渡』
「……俺の名前……どうして……」
『全ての者に名前があり、君もまた例外ではない。ここは「風の分岐点」。差し掛かる君の分岐は、君が生を受けた世界からの通り道。仮宿の名前を使う事は、ここでは許されない』
「仮宿の名前……?」
『ニニ。それがマガリ ゴボウの付けた、君の新しい名前』
「ニニ……」
『その名前はこの世界の通行証。何者にも犯されず、何者にも左右されない、君だけのモノ。しかしこの世界で名前を得ることは、風の分岐を作るという事』
「なあ、アンタ!」
姿も見えない何かに言う。
『?』
「……もしかして、ツガに会ったことがあるか?」
『ツガ。それはスバラキ ネコメとガゼン ノブナガが名付けた、浅野 雄一郎の新しい名前』
「ノブナガ……そうか、あの医者もツガを助けてたんだっけ」
『先ほどの問いに答えよう。会ったことがある』
「!」
『彼もまた「風の分岐点」を通っていった』
「やっぱり……」
『君が生を受けた世界と同じところから来た。そして、分岐を進んでいった』
「さっきからその、分岐っていうのは何なんだ?」
『分岐とは分かれ道。自らの手で進んでいく方向を選択するための、選択肢の束』
「……つまり、俺は何かを選択しなきゃいけないって事か?」
『左様。分岐に差し掛かったのは君で六人目だ』
『元の世界に帰るか、こちらの世界に残るか、選べ』
「!!」
『君たちのような存在を「風の分岐点」では旅人と呼ぶ』
『君の居た世界と今いる世界は無関係だ。旅人と言えど二つの世界に居場所を持つことはできない。しかし二つの世界はいくつかの抜け道で繋がっている』
「抜け道……」
『一つは、放課後の教室で独り泣く事。二つは、路地裏で猫を撫でる事。目をつぶって商店街に入る事。終電を寝過ごす事。森で道に迷う事。そして』
『高い所から落ちる事』
「ツガは、どの方法で来たんだ?」
『彼は高層ビルの最上階から落下した』
「……」
『彼が「風の分岐点」に差し掛かった時、私はやはり同じ問いを投げかけた。彼はすぐに、残る道を選んだ』
『彼の耳や目、尻尾は枷だ。あの姿では元の世界に戻れない』
『また、残る事を選択した旅人は、元の世界での自分について知る権利を消失する』
「記憶喪失になるって事か?」
『単なる記憶操作ではない。元の世界での存在と逆の出来事が起こる』
『元の世界では、自分の事が何でも分かる代わりに他人の事は何もわからなかった。この世界に残る旅人は、自身について一切知れなくなる代わり、他の物事が手に取るようにわかるようになる』
『選択をするというのは手放し、手に入れる事だ。一方で幸せだったかもしれない未来を捨て、不幸かもしれない未来を進んでいく。その逆もしかり』
「俺は……どうすれば……」
『案ずるなかれ。これは君の日常でしばしば起こる、残酷で単純な選択の一つに過ぎない』
『大きな分岐も小さな分岐も、生きる上で幾度となく課せられる選択だ。今日玄関を左足から踏み出せばどうなるだろうか。昨日まで友人だった者を、今日無視したら? ……生命を全うするという事は、自身の前にある数々の分岐の中から一つを選んで、進んでいくことに等しい』
『さあ君は、どちらの未来が見たい?』
答えられる訳がない。
考えないように考えないように、頭の隅に追いやってきた問題だからだ。
偶然手に入った不思議で面白いこの日々を、生きていくだけで俺はいいのだろうか。
灰色のビルの立ち並ぶ変化のない日々を、生きていくだけで俺はいいのだろうか。
明確な答えは出ない。
少し考えさせてくれ、とは言えない。
時間は与えられてきた。
『手に入れるという事は、失う怖さと向き合う事だ。例え後悔しようとも、怖れて悩んで君が進む分岐は、どちらも決して間違いではない』
『隣の花は赤く見えるモノだ。ツガが今必死になって、自分自身について調べているように』
「俺は……」
きっと俺はこっちに残った時、ツガのようになる。
『今の幸せ』を口開けて待っているだけじゃ飽き足りなくて、もしかしたら自分が持っていたかもしれない『幸せの可能性』を必死に調べることになるだろう。
思えば彼はどの不思議に対しても、どこか一線引いた位置で、静かに見守っていたように思う。
ゴボウやヒヤムギみたいに、全力で何も考えずに楽しめたら。
けれど決してそんな風にはなれない事を、俺は正直に認めていた。
向こうに戻った時、俺はきっとこの世界を羨むようになる。
都会の喧騒も、精密機械の歯車も、上司の小言も書類の束もない。
このゆっくりとした時間の流れを思い出し、後悔しながら、社会のちっぽけな一部に組み込まれていくのだ。
今までと同じように。
「俺は……」
どうしたい。
『さあ、答えを聞こうか』
『おめでとう、そして「風の分岐点」は進まれた』
理由はどうか聞かないで欲しい。
元々一面真っ白なのに、それすら涙でよく分からなかった。
――――§7『ツガの秘密、ぼるに』【完】
§最終『そしてまた、ハルワタリの季節』
酷く衰弱した状態で雪の中に倒れていた俺を、奇跡的にヒヤムギが見つけてくれたらしい。
彼らの甲斐甲斐しい看病で、翌日には体を起こせるようになって、三日も経てば普通に動き回れるようになった。
お礼を言おうとしたら二匹揃って手を差し出してきたので、ねんねこで稼いだ金を半分ずつ押し付けてやった。
奴らよほど嬉しかったのか、狂喜乱舞しながら店の一番大きなボウルをしっかり抱えて外に出ていった。
しばらくして満足そうに帰ってきたが、ボウルはやはり空だった。
毬みたいなおなかをさすりながらどっかりと椅子に座り、そのまま彼らは寝た。
本当に本能に忠実な奴らだ。
俺が動けるようになってすぐ、季節は春へと移り変わりを始めた。
この世界は本当に四季の巡りが早い。
あの大雪の日から数えて既に、二週間が経っていた。
今日、俺は珍しく早起きをした。
鳥の鳴く清々しい朝だった。
ねんねこは居酒屋だから朝はゆっくり惰眠を貪っていい。
今も一人と二匹は舌で眠っている。
「さて」
息を一つ吐いて立ち上がる。
ハンモックのベッドに、貸してもらっていたポタン綿を丁寧に畳んで、その隣に服も畳んでおいた。
服の上に、ノスタルジアと、世話になった旨を書いた手紙を置いた。
忘れ物はない。
一年ぶりに着るスーツは肩が狭くて、借り物のように着心地が悪い。
携帯もパソコンもとうに電池は切れて、鞄と一緒に埃をかぶったまま部屋の隅に眠っていた。
ああ俺はすっかり、この世界の住人になってしまっていたのだ。
そう思うと喉が苦しくなった。
息をつく暇もなかった毎日が思い出されて、苦しさを振りほどくように足早に一階へ降りた。
カウンターに席が六つと、四人掛けのテーブルが二つ。
ゆっくりとねんねこを見渡した。
『あいなる。ニニノミヤ、歓迎するぜ』
ゴボウ。
俺の名前はお前が決めてくれたんだったな。
『それはこの木の周回だ』
ツガ。
本当に、何から何まで世話になった。
俺がここで過ごした一年は、きちんと周回に刻まれているだろうか。
そして、
「ニニ」
「!」
その時入口の鈴が鳴って、聞きなれた声がした。
「月光タンポポ取ってきたわよん」
白い手には、四本の月光タンポポ。
「一番の寝坊助が今日は早起きだな、ヒヤムギ」
「ニニこそこんな朝早くにどうしたの? うふふ、おかしな恰好」
誰にも言わずに行くつもりだったんだけどな。
この二週間、いつも通り過ごすのに苦労したというのに。
別れを告げると、優しい皆はきっと引きとめてくれるだろう。
そうすればきっと、断腸の思いで選んだ決断が揺らいでしまう。
簡単に。
「ヒヤムギ」
「あらなあに?」
「俺、ちょっと遠くへ行かなきゃならないんだ」
「あらん、そうなの」
「それでざッ……!」
駄目だ泣くな。
後でどれだけでも泣く時間があるんだろう。
今は駄目だ。
二週間せき止め続けた郷愁が俺を襲った。
俺はやっぱり、この世界の住人になってしまっていたのだ。
「お、俺もう、行くな、ヒヤムギ。ツガとゴボウにも、よろしく言っといてなっ。……それじゃっ」
どうしようもなく俺の涙腺はゆるくて、急いで横を通り過ぎようとした。
「ニニ」
そっと差し出されたのは、銀色の花。
茎には光が一つだけ、ぽっちりと溜まっていた。
「ニニの分もあるよん」
「!」
ヒヤムギ。
月光タンポポを取ってきてくれたのはお前だったな。
「ありがとう、……綺麗だな」
「にゅふふ、綺麗じゃ腹は膨らまないぜ」
ヒヤムギは変わらない笑顔で言った。
玄関から差し込んでくる光とその笑顔があまりに眩しくて、俺は直視できなかった。
「じゃ、もう、行くな」
「うふふ、行ってらっしゃい」
気を付けてね。
そんな声を振りほどくように、小走りに『ねんねこ』を出た。
足を速く動かさないと、すぐにぴたりと立ち止まってしまいそうだった。
「間もなく発車でーすだ」
車掌の声と共に電車に乗り込む。
俺の他には、ぽつりぽつりと半透明の人が乗っているだけだ。
ふと上を見れば、広告が釣り下がっている。
『狐尾っぽのコンコン酒(卵あり)』
『聴けばあなたもハリネズミ!【ミャコ銀河楽団】』
換えられたのか、初めからそこにあったのか。
たまらなく懐かしい言葉たちが、胸の中へ染みわたっていくようだった。
「……」
もう戻れない所まで来ると、案外心地よい気分になれた。
どっ、と疲れと眠気が押し寄せてくる。
早起きして支度したもんな。しょうがない。
さっきまで感傷に浸っていた人間は、ふあ、と気の抜けた大あくびをした。
足を組んで、椅子に身体を預ける。
ああ、こんな時何て言うんだったっけ。
「……ねんねこ」
そしてゆっくり目を閉じた。
新宿に着いたら小さな花瓶を買って、そこに銀色のタンポポを活けよう。
あの嘘みたいに綺麗な日々を、少しでも長く見ていたい。
目に焼き付いた光景を思い出しては、未練がましくもそう思うのだ。
発車のアナウンスを聞きながら、俺は深い眠りに落ちていった。
――――§8『そしてまた、ハルワタリの季節』【完】
転載元
終電を寝過ごしたら不思議な場所についた
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1431598145/
終電を寝過ごしたら不思議な場所についた
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コメント一覧 (25)
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- 2015年06月18日 03:14
- 最初猿夢だと思った
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- 2015年06月18日 03:32
- 如月駅かと思った
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- 2015年06月18日 04:23
- 猫神族か
不思議の大河の向こう側のよきゆめだな
正義最後の砦はどこだろう(無名世界感
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- 2015年06月18日 06:33
- アタゴオルかな?
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- 2015年06月18日 06:39
- 何かジブリっぽい感じ?
いや、蟲師とか夏目とかそんな感じかねぇ……雰囲気は好きだし話も終わり方も良いけど、ちょっと読み辛かった気がした。
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- 2015年06月18日 08:02
- 宮沢賢治っぽい
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- 2015年06月18日 10:50
- アニメ化してほしい
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- 2015年06月18日 11:09
- これは名作
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- 2015年06月18日 11:46
- ますむらひろしワールドか
なつかしいな
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- 2015年06月18日 11:46
- こういうのを待ってた。
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- 2015年06月18日 17:35
- 大好きだ
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- 2015年06月18日 19:34
- 普通に面白い
-
- 2015年06月18日 22:09
- 芥川の河童っぽい
-
- 2015年06月18日 23:36
- アタゴオルぽくっていいね
-
- 2015年06月19日 01:01
- 2chのssってレベルじゃねーな……いや、良いものを見させてもらった
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- 2015年06月19日 06:00
- こんな風に、別の世界の言の葉を紡げる人を尊敬する
よう思い付くわ
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- 2015年06月19日 08:50
- これは素敵なイーハトーヴ。
宮沢賢治の思い描いた理想郷のようだ。
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- 2015年06月19日 13:40
- キサラギ駅かと思ったらアタゴオルだった
-
- 2015年06月19日 19:36
- ますむら・ひろしが描いた賢治シリーズの雰囲気
素晴らしい作品でした
-
- 2015年06月21日 13:34
- 物凄く面白い作品…なんだけど、物凄く入りづらい世界だと思う、この設定は。
挿絵も無く、喋ってる様子の絵も無く、声も付いてない、にも関わらず聞いたことない言葉や話し方で、話してるのも猫だったりするから。そういう意味でSSに向いていないというか、勿体無いというか…小説なり漫画なりアニメなりにしてほしいな、これ。
…一個人の意見だけどね。
-
- 2015年06月25日 21:22
- 不思議な世界観に魅了されたよ こういうのが面白いんだ
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- 2015年06月28日 01:04
- とっても面白かった
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- 2015年07月20日 22:56
- 銀河鉄道の夜とか蟲師とかが大好きな俺にはツボすぎた
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- 2017年05月08日 16:38
- 思い出しては時々読みたくなる良作
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- 2018年10月03日 11:38
- 「アニメにしろ」「漫画にしろ」って見ると悲しくなる
読解力とか想像力とか感性とか
色々と心配になって来る