モバP「いいお酒が手に入ったので」【前半】

1:1 ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/21(金) 12:28:08.19 ID:NydPH/AC0

P「今度……って……」

 あの人と目が合う。
 やられた。またか。

P「楓さん。……いつも以上にシッポ振り切れてますね」

 そう言ってあの人は苦笑した。

 別に「酒」という言葉に過剰反応してる訳じゃない。
 あの人の言い方に釣られるのだ。
 きっと前世は、性悪ないじめっ子だったに違いない。

楓「Pさん……楽しそうですね」

 釣られた腹いせをぶつけると、あの人の苦笑は堪え笑いに変わった。

P「いや、だってノーディレイで反応してましたもん。……実に見事だな、と」

 そう言ってまたくつくつと笑う。悔しい。
 なにが悔しいって、釣られたことよりあの人の笑う姿が素敵に見えることだ。

 ああ、やっぱり好きなんだな。と。

楓「で? いつにします?」

 あの人は手帳をめくりながら言う。

P「そうだな……この日なら雑誌のインタビューだけだし、夜でどうです?」

 手帳の先、指で示された日付を確認した。意外ときれいな字を書くのね。

楓「わかりました。それじゃ」

 私は、とびきりの笑顔を貼り付ける。

楓「楽しみにしていますね?」

 皮肉たっぷりの笑顔に、あの人は

P「はい。楽しみにしてください」

 と、とびきりのドヤ顔で答えた。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



3:1 ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/21(金) 12:33:54.43 ID:NydPH/AC0

 出会いは、さほど劇的なものでもなかった気がする。
 ……いや、居酒屋からアイドル誕生なんて、ちょっとは劇的かも?
 そう。
 あの人とは居酒屋で知り合った。わりとどこにでもありそうな話だ。
 ただ、あの人がプロデューサーだったというだけ。
 焼ホッケが美味しそうだった。ホッケに釣られたのだ。
 なんともリーズナブルな出会いではないか。

楓「ホッケ、美味しそうだな……」

 誰に宛てたわけじゃなし、ひとりつぶやいてると。

P「脂のっててうまいですよ! 大将のお勧めだし!」

 そんな返事がかえってきた。

楓「……え?」

P「だよね! 大将!」

 カウンター越しに、居酒屋の大将と会話している男の人がひとり。
 正直『なんだ? こいつ』と思った。
『誰この人』じゃない。『なんだこいつ』だ。

大将「いいのが入ったからね! あとひとつしかないけど!」

 我ながら釣られやすい体質だな、なんて思いつつ。

楓「じゃあ、最後のひとつ。いいですか?」

 あの人と同じものを注文した。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



4:1 ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/21(金) 12:35:04.66 ID:NydPH/AC0

楓「あ……おいし……」

 大振りのホッケは身がふっくらして脂がよくのっていた。日本酒がすすむ。
 私は二合徳利をもうひとつ注文した。
 あの人はニコニコしながら、皿の料理を平らげる。

楓「あんまりお酒飲まれないんですね?」

 私は隣のホッケ男に声をかけた。
 なんで声をかけたんだろう? 普段は私から会話を切り出すなんてことしないのに。
 きっとホッケが美味しいせいだ。そうに違いない。
 ホッケ男は「いやあ」なんて頭をかきながら言った。

P「実はお酒弱いんですよね」

 その時、私はきっと微妙な顔をしていただろう。

 居酒屋なのに?
 お酒飲まないなんて?
 ひょっとしてひとり飯?
 さびしさ満喫中?

 失礼極まりないことを考えているところ、ホッケ男は言葉をつないだ。

P「弱いんですけど、飲めなくはないですよ? それに」

楓「それに?」

P「こういう雰囲気、大好きなんですよね」

楓「ああ、なんか分かりますね」

P「賑やかで活気があって。まあ、静かなとこもいいんですけどね」



5:1 ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/21(金) 12:35:45.09 ID:NydPH/AC0

 はじまりの会話は、とてもありきたりだった。

 あの人の話が止まらない。
 大将と同郷だということ。
 一人暮らしだということ。
 つい何度も食事に来てること。
 裏メニューがあること。

 ……裏メニュー?

楓「よくある、まかない飯、みたいな?」

P「いえいえ、そうじゃなくて」

 どうやら大将と同郷なのをいいことに、だいぶわがままを言っているみたいだ。

P「大将がね? 今度なに食べたいよ? って。そう言ってくれるんで」

大将「いやー、やっぱ後輩は大事にしないとさ」

P「そんな訳で、好意に甘えてるんですよ」

大将「いや、俺も自分の食いたいやつ仕入れてるし。お互い様だ」

P「ありがとうございます、大将」

 ああ、なんかうらやましいな。
 そんなことを思った。

 私もこっちに出てきて、だいぶ経った。一人暮らしも慣れた。
 同郷の友達とは疎遠になってるし、モデル仲間とはつかず離れずの関係。
 仕事にやりがいがあるから続けてるけど、ちょっとさびしいと思うこともある。
 だから、時々こうして飲んでいる。
 なんとなく賑やかな居酒屋にいると、ぼっちじゃないって、思う。
 我ながらさびしんぼぶりを発揮しているな。



6:1 ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/21(金) 12:36:16.83 ID:NydPH/AC0

大将「こいつ仕事が忙しいから、食うのも不規則だしな」

P「仕方ないですよ。そういう仕事ですし」

大将「ま、俺がかわいい後輩のために、手料理を振舞っているわけだ」

P「メニューにあるものは手料理とか言いません」

楓「失礼ですけど、お仕事はなにを?」

P「ああ! そうでしたね!」

 あの人は、胸ポケットから名刺ケースを取り出した。

P「こういうものです」

 そこにはアイドル事務所の名前と、プロデューサーの肩書き。

P「よかったら、アイドル、やってみませんか?」

 なに言ってんだこいつ?
 私は思考停止した。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



7:1 ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/21(金) 12:37:06.35 ID:NydPH/AC0

楓「いえいえ。実はですね」

 私も名刺を取り出す。
 自分の所属事務所と名前、そして連絡先。
 私みたいな、いわゆる『マネキン』はセルフプロデュースが基本だ。
 コネの世界なのだ。
 自分という素材を、売り込む。
 些細なつながりでも、仕事を生むなら全力だ。

P「あ! ああ! はいはい。あそこですかー。なるほどなるほど」

 どうやら理解してくれたらしい。
 私は素材。アイドルのお手伝いならできますよ、と。

 ところが。

P「そっかー。なら話は早いな」

 彼はかばんから手帳を出すと、あわててめくりだす。

P「じゃあ、こちらから高垣さんの事務所へ電話します。ちょっと時間ください」

 心の中でガッツポーズ。仕事ゲット!
 そんな打算の斜め上を、あの人は走る。

P「高垣さんのプロデュースできるの、楽しみにしていますね」

 私は再び思考停止した。



8:1 ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/21(金) 12:37:46.19 ID:NydPH/AC0

 そこから先はあまりよく覚えていない。
 ただ、大将がその場で作ってくれた裏メニューのカレーが美味しかった。
 カレールーを包丁でごりごり切っているのは、少しシュールに見えた。
 中華なべでカレー。しかも15分くらいで。

大将「やっぱりカレーはバー○ントだよな!」

 そう笑いながら出してくれたカレーの味は忘れられない。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



12:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/21(金) 12:57:05.48 ID:eHevCZF7o

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高垣楓(25)



16: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/21(金) 17:45:36.75 ID:NOw4QxS90

 数日後。
 社長に呼び出されたと思ったら、突然移籍を言い渡された。

楓「は? ど、どういうことです?」

 なにかやらかしただろうか?
 頭の中を『無職』の文字が駆け巡る。
 冷静に考えれば、移籍なのだから無職はありえないのだけど。
 その時は、自分の生活について考えるのが精一杯だった。

社長「実はな。先方からぜひに、と言われてなあ」

 なぜか社長はニコニコと笑みを浮かべていた。

 話をよく聞いてみると、この前のホッケ男の事務所へ移籍、ということだった。
 急にホッケの脂とカレーの味が蘇ってきた。
 ホッケ男、なかなかやるな。
 実は豪腕の持ち主なのかと、感心した。

社長「あちらの社長は、ここを立ち上げる前に働いていた事務所の先輩でね」

 豪腕でもなんでもなかった。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



17: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/21(金) 17:48:25.38 ID:NOw4QxS90

 とはいえ、CGプロの社長とは面識がない。
 なにか釈然としないまま雑務を整理し、一ヶ月ほど引継ぎを行って。
 私は事務所を円満退社した。移籍だけど。
 驚くほど穏やかな移籍だった。もっと揉めるかとワクワクしたのは秘密だ。

 そしてCGプロへ足を踏み入れることとなった。もちろん社長も一緒。
 あちらの社長は、なぜかうちの社長に雰囲気が似ていた。
 同じ釜の飯の間柄なら当然かも。
 形式的な挨拶を交わし、ひたすら長い世間話に耐えながら、本題を待つ。

CG社長「ということで、よろしくお願いしますね」

 しまった。
 肝心の本題がスルーしていった。

楓「は、はい! よろしくお願いします!」

 あわてて取り繕いの挨拶をする。

モデル事務所社長「しっかりやってくれよ、な? ……テレビの前で楽しみに待ってる」

 はい社長。今までありがとうございました。
 でもテレビの前で待機するのはやめてください。
 私は、違う事務所所属という立場を実感しきれないまま、お世話になった社長を見送った。



18: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/21(金) 17:49:23.93 ID:NOw4QxS90

CG社長「それで高垣さん。さっそく貴女の担当を紹介したいのですが」

楓「え? はい! お願いします……」

 内線電話をかけてすぐ、私の担当となる人がやってくる。
 やはり。

 ホッケ男そのものだった。

P「Pと申します。高垣さん、『はじめまして』」

 うわ、しらじらしい。
 それが腹芸というやつだ。悔しいけど乗るしかない。

楓「あ、『はじめまして』。Pさん」

 私の新しい門出は、焼ホッケの思い出から始まった。
 あの人の笑顔は、居酒屋のときから変わっていない。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



30: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/24(月) 12:24:43.28 ID:fr1hr5V90

 お互いの自己紹介のあと、Pさんが事務所を案内してくれた。
 多くのアイドルを抱えてる事務所にしては、だいぶちんまりした……、もとい。
 大きくはないが機能的なところに見える。

 そこで一人の女性を紹介された。

P「高垣さん。こちらが事務所の庶務経理を担当してる、千川ちひろさん」

ちひろ「はじめまして。千川と言います」

楓「はじめまして。こちらでお世話になります、高垣と言います。よろしくお願いします」

 千川さんはなかなかにかわいらしい感じで、アイドルと言ってもいい雰囲気があった。

P「ちひろさんはですね。うちのメインブレーンですから」

ちひろ「Pさん? あんまり新人さんにウソ教えないでくださいね?」

P「いやだって、ちひろさんいないとうちの事務所回りませんから。これは事実です」

ちひろ「私はアイドルのみんなやPさんたちのサポートをしているだけです。大げさですよ」

P「そうかなあ? 冷蔵庫にいつも謎ドリンク常備して、みんなを鼓舞してるじゃないですか」

ちひろ「謎ドリンク言わないでください! みんなが喜んでくれるから用意してるだけです」

P「まあ助けられてるのは確かですから、ね?」

ちひろ「そ、それなら……用意した甲斐がありますけど……」

 なるほど。確かにかわいらしい人だ。
 こういう女性がいると、事務所の雰囲気も華やかになるだろうな。



31: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/24(月) 12:25:19.94 ID:fr1hr5V90

ちひろ「えっと、高垣さん、でしたっけ?」

楓「はい」

ちひろ「Pさんからセクハラ受けたら、真っ先に相談してくださいね!」

楓「は……はあ……」

P「ちひろさん? それはどういう意味かなあ?」

ちひろ「え? 会社のセクハラ相談員ですがなにか?」

P「なんか作為的なものを感じるんですが」

ちひろ「いいえ~。ごく常識的なお話をしてるだけですよ? 作為なんて、ねえ」

 なかなかパワフルな人だ。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



32: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/24(月) 12:25:52.39 ID:fr1hr5V90

 ひととおり案内を受けたあと、私とPさんは会議室へ。
 前の事務所から引き継いだプロフィールの確認、だそうだ。

P「えーと? 趣味が『温泉めぐり』ですか」

楓「はい。好きですね」

P「それから、『お酒』ですか」

楓「ええ、まあ」

P「なるほどなあ……」

 あの人はなにか含んだように言葉をつむぐ。

楓「あの、なにか?」

P「高垣さんって」

楓「はい?」

P「……『おっさん』ですよね」

 そう言ってあの人は苦笑した。

 失礼な。
 お酒と温泉が好きで、別にいいじゃないか。
『風呂あがりによく冷えたビールがジャスティス!』とか言うわけじゃなし。
 好きだけど。
 確かにおっさんという自覚はなくもない。
 それも私だ。文句があるか。

楓「なにか? 問題でも?」

 たぶん私は、ぴきぴきと青筋立てていただろう。
 でもあの人は。

P「いえ。それがいいんです」

 急に真顔になって、こともなげに言う。
 その表情にどきっとした。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



33: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/24(月) 12:26:52.17 ID:fr1hr5V90

 あの人は語る。

 アイドルは個性のかたまり。
 その人となりを見て、個性を最大限に引き出し、魅力的に見せないといけない。
 それが自分の役割。
 だから、この確認はとても重要なこと。
 現在の自分を確認して、意識を共有して、どこへ進むのか。
 アイドルとプロデューサーは、一心同体なのだ。

 そんなことを熱く、でも訥々と話す。
 なるほど、Pさんは仕事に対して真摯なんだ。
 自分の将来を任せてみてもいい、そんな気にさせられる。
 そして。
 仕事が好きなんだろうな。と。
 そんな印象を持つ。

P「あ。そういうこととは別にですね」

楓「はい?」

P「僕も、温泉大好きなんですよ」

楓「あら」

P「高垣さんとは、いろいろ話が合いそうで、楽しみなんですよ?」

楓「……でも、お酒は弱いんですよね?」

P「いや、そこはそれで」

楓「ふふっ」

P「あはは」

 この人とは、戦友になれそうだ。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



34: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/24(月) 12:28:28.78 ID:fr1hr5V90

P「ところで高垣さん」

楓「あ。名前でいいです。……なんか苗字で呼ばれるの、慣れてないんで」

P「……じゃあ……楓さん」

楓「はい……」

P「どのあたりによく行かれてました?」

楓「……はい?」

P「いや。温泉ですけど」

楓「あ。ああ。地元にいたときは『龍神温泉』ですかね」

P「また渋いところですね」

楓「よくご存知ですね?」

P「まあ、温泉好きですから」

 感心するやら呆れるやら。本当に温泉好きなんだ。
 龍神温泉は、私の地元では有名なところだ。行きづらいということで。
 でも、元湯の露天で日高川からの風に当たりながら、柔らかなお湯に浸かるのは至高。
 時間の無駄遣いという贅沢なのだ。

P「『忘帰洞』とかは?」

楓「ああ。あんまり」

P「おや」

楓「だって、時間が悪いとすごく狭いんですもん」

P「ああ、なるほど」

楓「風景見えねー! 金返せー! って」

P「ありがちですよね」

楓「ふふっ」

P「あはは」

 お互いに好き勝手。温泉談義に花が咲く。
 仕事以外で話をすることが苦手な私が、こうして会話に溶け込んでいる。
 それが不思議でならない。
 お互いのツボが一緒ということなのだろうか。
 そういうことなら、これほど嬉しいこともない。

 もはや戦友かもしれない。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



35: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/24(月) 12:29:03.12 ID:fr1hr5V90

 ミーティングという雑談に一息ついたところで、あの人が切り出す。

P「そういえば、大将の店にはもう来ないんですか?」

楓「ああ。あの時はたまたまで」

P「一見さんだったんですか」

楓「いろいろなお店を開拓するのが好きなので」

P「大将さびしがってましたよ? 『この前の美人さん、はよつれて来い』って」

楓「いやいやいや。美人とか恐れ多いです……」

P「僕も楽しかったですし。仕事抜きにお会いしたかったんですよ」

楓「あ」

 急に気恥ずかしくなる。

楓「なんか……恥ずかしいです……」

P「あ。……なんか僕こそすいません。これじゃ口説いてるみたいだ……」

 気まずい空気が流れる。

P「で、ですね。よかったら場所を変えて」

楓「は、はあ……」

P「大将のとこ、行きませんか? ちょっとした歓迎会です」

楓「そ、それなら。はい。よろしければ……」

P「ああ、よかった」

 あの人はひどく安心したようなため息を吐き、そして微笑む。
 あ。
 あの時の笑顔だ。

 その笑顔を見て、私はほのかに暖かくなる何かを感じた。
 もっとその笑顔を見たい。
 今ならそう言えるだろう。
 でも、その時はこれで十分だった。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



42: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/24(月) 18:22:30.26 ID:C9QoFCIl0

大将「はーい! おふたりさん、カウンターどうぞ! ……来たな?」

P「大将、ちゃんとつれてきたよ。少しくらい慰労してくれてもいいと思うんだ」

 大将は、この前と一緒で明るく迎えてくれた。

楓「お……お久しぶりです……」

大将「おう美人さん。待ってたよ」

楓「び、美人とか……違いますから……」

 真正面から美人などと言われ、恥ずかしさとくすぐったさで落ち着かない。
 それでも大将は、ニコニコと笑いながら。

大将「いやあ、正直に美人って言うのも、あんまりよくないのか?」

P「そりゃあそうでしょうよ。それほど面識のない人に言われても、怖いだけです」

大将「俺は思ったことを思ったとおりに言っただけだぞ?」

P「客商売なんだから、少しは気遣いを覚えてください」

 相変わらず、仲のよいやり取り。
 やっぱりうらやましい。



43: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/24(月) 18:24:17.16 ID:C9QoFCIl0

P「今日は楓さんの歓迎会だから。大将なんか見繕って。お願い」

大将「ほー。そっちの美人さん、楓さんって言うのか」

 なぜか名前を呼ばれただけで落ち着かなさが増す。
 うーん。はやいとこ一杯いただきたい。

楓「よ……よろしくお願いします……」

大将「はいよ。こいつが初めてお仲間連れてきたんだ。任せてもらうよ」

 そう言って大将は厨房へ下がっていった。

楓「あの……事務所の方とは?」

P「ああ。ここはなんとなく『隠れ家』なもんで」

楓「はあ」

P「完全プライベートの場所なんです。ゆっくりするための」

楓「そんなとっておきに、私がご一緒していいんですか?」

P「なに言ってるんですか」

 あの人は笑顔を浮かべて言う。

P「ここは、楓さんと出会った場所ですから。二人のとっておき、ですよ」

 ああ、まいった。
 この人は、いとも簡単に入ってくるんだな。

 私とPさんとの間に、秘密がひとつできた。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



44: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/24(月) 18:25:42.74 ID:C9QoFCIl0

大将「日本酒でよかったか?」

楓「は、はい。日本酒、好きですから」

P「『特に』日本酒が好みだそうだから」

楓「Pさん?」

大将「はは、そりゃ結構だ」

 大将は二合徳利を二本、用意してくれた。
 それからお新香とスルメイカの一夜干し。

大将「一夜干しは焼きたてのうちに食べないと、身が硬くなるから」

 大将はそう言って、なぜか自分もお猪口を持っている。
 3人がお猪口を手に取り。

P「楓さんの前途を祝して」

大将「それから久しぶりの再会を祝して」

三人「乾杯」

 一口目をいただく。

楓「甘口で呑みやすいですね」

大将「おお、そりゃよかった! なら、こいつにお礼言ってくれよ」

 と、大将はあの人を指さす。

P「いや、僕は自分の選んだ酒を持ってきただけですし」

大将「いやあ? かなり下心があると思うけどな、俺は」

楓「え? え? どういうことですか?」

P「いやいやいや。下心もなにもないですって!」

大将「だってな? このお酒」

 大将は、そっと耳打ちしてくる。

大将「岩手の『南部美人』って、銘柄だ」

 お猪口一杯で、私は顔が真っ赤になった。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



45: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/24(月) 18:26:52.76 ID:C9QoFCIl0

 あの人が大将に、ネタばらしはやめろと訴えかけてる間。
 私は、出されたイカに手を伸ばす。
 日本酒にはイカだ。マイジャスティス。
 切り身を一口かじると、身の厚いイカの甘さと潮の香りが広がる。

大将「どうだい楓さん? うまいだろ?」

楓「はい。とても柔らかいですね」

大将「そりゃそうさ。これは冷凍ものじゃない。昨日獲れたばかりのイカだからな」

 大将は自慢する。
 確かに簡単に噛み切れるくらい柔らかい。でも一夜干し独特の甘さとうまみがある。
 これはやみつきになりそうだ。

大将「鯵ヶ沢の友達が今日持ってきてくれたやつだ。だからメニューにはない」

P「青森に友達がいるんですか?」

大将「おう。出張がてら寄ってくれたんだよ」

P「なんか新幹線の中、イカくさそうですね」

大将「それを言ってやるな……」

 顔も知らない大将のお友達、ごちそうさまです。
 あなたの犠牲は忘れません。



46: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/24(月) 18:28:53.34 ID:C9QoFCIl0

楓「皆さんに愛されてるんですね、大将は」

大将「うんにゃ。みんなうちの奥さん目当てだからな」

P「そうそう。大将の奥さん、えらく美人なんですよ」

 そう言ってPさんは、携帯の写真を見せてくれる。
 そこには、デレっとした大将とモデルみたいな奥様。
 なるほど。私でもファンになる。

楓「奥様に愛されてるなら、男冥利につきそうですね」

大将「はは……まあな」

 大将はテレを隠そうともしない。奥様を愛しているのだろう。
 そういう関係、いいなと、思う。

楓「奥様は? お店にいらっしゃらないんですか?」

大将「ああ。店には出ない。子供が小さいからな」

P「二歳になったんでしたっけ?」

 子育て中なのか。
 二歳なら目を離すわけにはいかないな。
 かわいい盛りだとは思うけど。ひとり身の私には感覚がわからない。

P「かわいいお嬢さんですよね! 将来はうちの事務所に」

大将「馬鹿言うな。お前に任せるほど危ないものはねぇ」

P「うわ、きっついですわ……」

 そう言って二人は、ゲラゲラと笑いあった。
 私は手酌で二口目をいただく。

P「あ! 気付かなくてごめんなさい」

楓「いえいえ。手酌のほうが自分のペースで呑めるので」

P「でも今日は、楓さんの歓迎会ですから。主賓に手酌はいかんでしょう」

 そう言って、あの人はお銚子を摘みあげた。

P「ま、一口だけでも。どうぞ」

楓「ありがとうございます……」

 三人だけの歓迎会は続く。



47: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/24(月) 18:30:06.66 ID:C9QoFCIl0

 お造り。もも串。うにご飯。
 大将の出す料理はおいしい。自然とお酒がすすむ。
 気がつけば、三本の徳利を空けていた。私だけで。
 あの人の目がとろんとしている。

楓「Pさん。眠くなりました?」

P「あはは。……はい。お酒が入ると眠くなるもんで」

楓「そろそろお開きにしませんか?」

P「そうですね。……明日も仕事ですし」

 大将にお礼を言って、お店から出た。
 お会計はPさんが出した。割り勘にしようと言ったのに。
 次は私が出そう。

 外は相変わらずの残暑だ。ビールのほうがよかったかな?
 でもビールはすぐ汗になるし、やっぱり冷酒のほうが好きだ。
 そんなことを考えながら、駅までふたり歩いていく。

楓「大丈夫ですか? 乗り過ごさないようにしてくださいね?」

P「はい、大丈夫です。たった三駅ですし」

楓「ほんとかしら?」

P「まあ乗り過ごしてもこの暑さですから。どこでも寝れます」

 そう言ってあの人は笑った。

楓「ほんとに、気をつけてくださいね? 何かあったら洒落になりませんし」

P「はい。ありがとうございます。お気遣い感謝いたします!」

 そう叫んで敬礼をひとつ。

楓「ぷっ……ふふっ……」

 つい噴き出してしまう。

P「ということで。また明日。よろしくお願いしますね」

楓「はい。今日はありがとうございました」

P「いえいえ。これからどうぞ、長いお付き合いで」

楓「はい。こちらこそ」

 熱気にあてられながら、それぞれの家路へ。
 明日からがんばろう。

 そう、決めた。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



52: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/25(火) 12:15:11.90 ID:kReHRw+40

 翌日。

 私はレッスンルームに来ている。
 まずは基礎の確認ということらしい。

トレーナー「まずは体力チェックをしますね?」

楓「はい。よろしくお願いします」

トレ「高垣さんはモデルをやってらっしゃったということなので……」

 正直、なめていた。
 モデルは体力勝負の仕事だし、日頃から運動はやっていた。
 普通に動いたり、たとえばダンスであってもそれなりについていけると思ってた。
 しかし、このへばりようはなんだろう。

楓「ふう……はあ……はあ……」

 息をするのもしんどい。
 モデルのときと、使う筋肉が違うのだ。
 これはきつい。地道にレッスンに励まないと追いつかない。

トレ「高垣さん、すごいですね! さすがモデルさんです」

 トレーナーはえらく喜んで、私にスポーツドリンクを手渡してくれた。

楓「そう……ですか? ……はあ……全然……ふう……ついていけない……」

 すっかりライフがゼロの私に、トレーナーさんは言う。

トレ「すごいですよ! だって、初心者メニューじゃなくて上級メニューでしたし」

楓「……え?」

トレ「基礎体力はあるだろうと思って、普段の子達のレッスンと同じレベルにしました」

 トレーナーさんの笑みが怖い。

トレ「これなら、今でも十分にステージこなせるくらいですよ。自信持って!」

 初日から全力とは。
 私の明日はどっちだ。



53: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/25(火) 12:16:54.20 ID:kReHRw+40

 午後。
 今度はボイストレーニング。
 歌はカラオケ程度しかやったことがないから、これはかなり興味がある。

ベテトレ「まずは、ピアノに合わせて『お』で歌ってください」

 こんなレッスンは、高校の音楽の授業以来かな。
 校内合唱コンクールでがんばったのも、いい思い出。

 音階がどんどん上がっていく。
 なんとかついていく。結構きついな。

ベテ「はい。おつかれさまです」

 終わったときは、のどに熱を持つような感触が残った。

ベテ「高垣さんの声質は、とても素直できれいですよ」

楓「ありがとうございます」

ベテ「音域も広いので、いい歌い手さんになると思います」

楓「そうなんですか?」

ベテ「3オクターヴ近く出せる人はそれだけで貴重ですよ?」

楓「はあ」

 そう言われても、どうすごいのか全くわからない。

ベテ「やや声量が細いのと、換声点付近がふらつくので、トレーニングは必要ですね」

楓「換声点って、なんですか?」

ベテ「地声から裏声に切り替わるところです。のどの筋肉の使い方が変わるんですよ」

楓「ほー」

ベテ「輪状甲状筋っていう筋肉です。声帯を引っ張る筋肉ですね」

楓「ふむふむ」

 私はただ相槌を打つだけ。専門外だからさっぱりわかってない。

ベテ「歌うには、ダンスと一緒で、専門の筋肉をフル活用しないとならないんですよ?」

楓「それを鍛えていくってことですか?」

ベテ「そうです。ただ使いすぎは筋肉に無理をさせてしまうので、少しずつ」

楓「はい」

ベテ「休養もすごく大事ですよ? 商売道具ですからね?」

楓「ああ。はい。そうですね」

 言われて気づく。
 そうか、アイドルって歌う仕事もあるんだ。
 自分がその立場になるとは、全く思ってなかったけど。
 そもそも、この歳でアイドルって。

 ……いや。
 私よりも先輩の方がいるじゃないか。年齢的に。
 歳は関係ないな。うん。
 彼女たちは、確かに魅力的だ。
 自分がそこを目指せるかはわからないけど。でも。
 こういう仕事に就いたのだ。
 やるからには、全力。
 昔からそうじゃないか。

ベテ「じっくりやっていきましょう。ね?」

楓「はい、お願いします」

 少しはアイドルらしいプロ意識を持てただろうか?


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



54: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/25(火) 12:17:34.33 ID:kReHRw+40

 レッスンが終わるころに、あの人が現れた。
 朝ここに送ってくれてから、別の現場に行っていたらしい。
 その分刻みのスケジュール管理は、どこから来ているのか。

P「楓さん、お疲れさまでした」

楓「Pさん、ありがとうございます」

P「いえいえ、これが仕事ですから」

 これが仕事。この人は完璧主義なんだろうか。

P「初めてのレッスン、どうでした?」

楓「いや、なんかダメダメですね。正直きついです」

P「そうですか? ベテトレさんなんか『逸材!』って興奮してましたよ?」

楓「うーん。全くそんな感じはなかったんですけど」

P「そりゃレッスン生の前でキラキラ目を輝かせることはないでしょ」

 まあ、そりゃそうか。
 レッスン中はクールに。基本なんだろうな。

P「トレーナーさんも、基礎力は出来上がってるって言ってましたし」

楓「はあ」

P「要するに『即戦力』のお墨付きをいただいたわけです」

 即戦力。
 まだやってきたばかりのルーキーに即戦力とは、いかがなものか。
 でも、期待されていることはわかった。
 応えられるかどうかは、わからないけど。
 努力はしよう。

P「あ、そうそう」

楓「はい?」

 帰りの車で、あの人が言う。

P「今晩は、晩酌禁止ですよ?」

 ちっ。ばれたか。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



55: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/25(火) 12:18:54.84 ID:kReHRw+40

 しばらく経って。

 私のポートレートを撮ることになった。
 いわゆる『宣伝スチル』というやつ。
 前の職場でもやっていた。飽きるほど。
 もっとも、それがメインの仕事だから、スチル撮影になんの感慨もない。
 ただ。

楓「これ、着るんですか……」

 フリフリの衣装とか。
 ヒラヒラのドレスとか。

 うわあ。
 アイドルという仕事に就く以上、これは避けられないと思っていたけど。

楓「なかなか、きついなあ」

 そうぼやく。

P「楓さんのイメージを作っていくためのものです。いろいろ試しましょう」

 あの人はこともなげに言う。

 マネキンだったときは衣装がメインだったし、なりきることもできた。
 でも。
 今度は自分がメイン、ときたもんだ。
 どうしていいかわからない。
 衣装さんとメイクさんのおもちゃにされながら、撮影をこなしていく。

 ただ、着せ替え人形をしていくうちに、だんだんハイになっていく。
 よっしゃ。どんどんもってこーい。



56: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/25(火) 12:20:40.66 ID:kReHRw+40

カメラマン「楓さーん。こっちに視線くださーい」

 パシャパシャと響くシャッター音。
 うん、久々だ。この感じ。
 自分が衣装と同化していく。

カメ「今度は笑顔でお願いしますー」

 私はモデル笑いを貼り付ける。
 パシャ。
 パシャ。

 撮影は進む。

アシ「はーい。休憩取りまーす」

 控室に戻ると、あの人が硬い表情をしている。

楓「Pさん、どうしました?」

P「あの、ですね……」

 ちょっと逡巡したあと、あの人が言う。

P「あの笑顔、やめましょ?」

楓「はい?」

P「あなたはマネキンじゃない。アイドルですから」

楓「はあ」

P「笑顔に魂、込めましょうよ。愛想笑いはいらない」

 きっぱり切り捨てた。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



57: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/25(火) 12:22:00.96 ID:kReHRw+40

P「楓さん」

楓「はい……」

P「ここにいるみんなは、たぶん楓さんのイメージを『神秘的』って見てます」

楓「はい……」

 自分のイメージなんて、わからない。
 イメージを隠すことばかりしてきたのだ。
 いまさら言われても、どうしたらいいのか。

P「でも、僕は違うと思ってます」

P「僕は、楓さんがおっさんで、そしてとても明るいことを知ってます」

P「それでいいじゃないですか。ギャップですよ」

P「そのギャップが、楓さんの魅力です。間違いない」

P「大将の店で笑いあった、あの楓さんが必要なんです」

 一呼吸おいて、言葉をつなげる。

P「さあ。行きましょう。……一発かましましょう」

 なにをどうするのかわからないまま、スタジオへ向かう。



58: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/25(火) 12:22:40.85 ID:kReHRw+40

 撮影を続ける。
 パシャ。
 パシャ。

 その時。

P「楓さんの! 一発ネタを! 見てみたいー!」

 突然あの人が叫ぶ。驚くスタッフ。
 そして私。

P「さあ! 楓さんが! 渾身のギャグを! 見せ付ける!」

P「さあさあ! お楽しみ! お楽しみ!」

楓「え? え?」

 あわてる私に、あの人は。

『お』『や』『ぢ』

 と、声に出さず言った。

 ストンと心に落ちた。
 よっしゃ、かましてやろうじゃないか。

楓「えーと……」

 息をのむスタッフ。

楓「このドレス……」

楓「どーれす?……」

 ぷっ。
 くくっ。
 あはは。
 あははははははは!!

 噴き出すスタッフさん。
 つられて、私も。

楓「ふふっ……ふふふっ……」

楓「あははは!!」

 泪目になって笑う。

カメ「おお! ひひっ! それ! ぶふっ! 最高!」

 あわててシャッターを切る。
 パシャ。
 パシャ。

 笑顔あふれる撮影になった。

 私はやりきった。
 なんか、あの人に踊らされた気がするけど。
 オヤジギャグの達人と言われようと、後悔はしていない。

 ふふっ。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



65: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/25(火) 17:54:04.50 ID:Ct0DU1760

 その夜。
 私とあの人は、大将の店に来ている。
 もちろんPさんにおしおき、もとい。
 非難をぶつけるためだ。

楓「Pさん」

P「はい……」

楓「わかってますよね?」

 あの人は押し黙る。

楓「私は怒っています」

P「はい……」

楓「なぜ怒っているか、わかります?」

P「……無茶振りして、恥ずかしいことさせてしまいました……」

 あの人はしゅんとしたまま。
 ほんと。ため息のひとつでも吐きたくなる。

楓「まったく……そんなことで怒ってるんじゃありません」

P「はい?」

楓「なんで……ご自分からヨゴレをするんですか?」

P「……いやあ」

楓「どうしてです? あれは私のことを考えてのことでしょう?」

P「まあ、そうですけど」

楓「なら」

 私は、ため息をひとつ、吐く。

楓「いいじゃないですか。もう」

P「いや、恥ずかしい思いをさせたことは事実ですし」

楓「そんなことはもう忘れました」

 私は、少しだけあの人に近づいた。

楓「私が怒っているのは」

 うつむいてるあの人と、目線を無理やり合わせる。

楓「Pさんが、ひとりで全部抱えちゃう、その癖です」



66: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/25(火) 17:55:35.66 ID:Ct0DU1760

 確信はない。仕事の付き合いだって、まだ短い。
 でも、間違いないだろうと思っている。

楓「Pさんは、アイドルとは一心同体、そう言ってましたよね?」

P「はい」

楓「それなのに、なんで一緒に背負わせてもらえないんですか?」

P「……」

楓「……そうですね。怒ってるというか、むしろ」

 一呼吸。

楓「淋しいです」

 そう言って私は、あの人の頬を突いた。割り箸で。

P「あの、楓さん?」

楓「なんです?」

P「先っちょだと、すごく痛いです」

楓「そのくらい痛いってこと。わかります?」

P「……はい」

 あんまりPさんを困らせるのは本意じゃない。

楓「じゃあ、こうしましょう」

楓「日帰り入浴1日分。これで手を打ちましょう」

 自然と、私は笑えていた。

楓「どうですか?」

 あの人も、笑みを返してくれる。

P「そのくらいなら、喜んで」

楓「では。この話は終わりにしましょう」

 そう言って私は、冷酒のグラスを手にした。

楓「お酒が温くなっちゃいますし?」

大将「おーおー。Pよぉ。お前愛されてるねえ」

 大将がニヤニヤしながら、追加のおつまみを持ってきた。
 あの人はなにか言うでもなく、ただ苦笑している。

 もちろんお会計は割り勘にした。
 働く仲間だ正しく割り勘。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



74: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/26(水) 12:17:27.05 ID:eZ2t14G+0

 日帰り温泉の約束が履行されないまま、時が過ぎる。
 スチル撮影からしばらくして。

楓「お仕事、ですか?」

 あの人がレッスンルームにひょっこり現れた。

P「はい。PVに出演して欲しいと」

 とまれ。
 アイドルとして初仕事、ということになった。

 翌日、事務所に出社すると。

ちひろ「あ、楓さん。すぐ会議室に行ってくださいね」

楓「はい?」

ちひろ「お仕事の話、だそうですよ?」

 ああ、PVの話か。
 ちひろさんに案内されて会議室に顔を出すと、Pさんと、見慣れない人が数名。
 スタッフさんかな? 企画会社の人かも。

P「あ、来ましたね。……えーと、こちらが今回参加させていただく『高垣楓』です」

 あの人がスタッフさんらしき人に私を紹介する。

楓「はじめまして。高垣楓と申します。よろしくお願いいたします」

スタッフ「これはご丁寧に。……今回お仕事をお願いします、○○企画の……」

 スタッフさん達から、次々名刺をいただく。
 あ。
 私の名刺、まだ作ってなかった。
 あれ? 今の仕事に名刺必要なのか?
 ま、いいか。

 企画担当さんと、映像ディレクター、その他。
 いや、あんまりよく覚えてないんです。特に話に混ざっていたわけじゃなし。
 PV企画書をめくりながら、あの人とスタッフさんの話を聞いている。

スタ「で、ですね。高垣さんにお願いしたいのは」

 企画書のある部分で目が留まる。

『囚われのお姫様』



75: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/26(水) 12:18:27.51 ID:eZ2t14G+0

 おひめさま? はい? 私が?
 いやいやいや。ちょっと待て。
 かなり無理があるんでね?

スタ「スチルを拝見しまして。高垣さんのミステリアスな雰囲気が大変いい、と」

 いや、でもこれはどうなのよ。
 そんな私の慌てようと対照的に、あの人はニコニコと満足そうだ。
 Pさんは豪腕なのかもしれないけど、営業としてこの仕事はどうなんだ。

P「その点を注目していただき、大変ありがたいと思っております」

 どうやらあの人は、まず私の見た目から売り込む気らしい。
 中身おっさんですよ? それでもいいのか?
 いいのか。ギャップが魅力って言ってたし。
 あの人にプロデュースをお願いしているのだから、そこは全幅の信頼を置こう。

 なんとなくむずむずした感覚を持ったまま、企画書をめくる。
 ラフコンテ。
 うん、なるほど。ほんとに『ミステリアス』を押し出すんだ。
 でも、めくってるうちに気がついた。

 これ、私しか出演してない?

スタ「V系バンドなんですけど。彼らは今回出演しません」

 マジか。
 またえらい仕事取ってきましたね、Pさん。
 つか。
 V系なら自分たちだけで出てよ。とか思ったのは余談。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



76: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/26(水) 12:19:07.96 ID:eZ2t14G+0

 スマホのスケジュールに、『仕事』の文字が浮かぶ。
 仕事かあ。
 なんか実感が沸かない。

 あの人にスタジオまで送られる。今日はPVの撮影日。
 予備日も含めて3日間。
 よくそんな日程で撮れるものだな、と思ったりしたが、案外こんなものとあの人が言う。
 タレントの拘束時間の絡みと、ギャラの問題。
 PVにそうお金をかけられないということらしい。
 全編スタジオ撮影なら、押さえられれば短期間でガッツリ、というのは当たり前だと。

 うん、そうだよなー。
 屋外撮影なんてお天気頼みだし。
 モデル時代もそうだった。日がかげればストップ。雨が降れば中止。
 無為な時間が過ぎていくので、文庫本が捗ったなあ。

P「楓さん」

楓「はい?」

P「初陣の心境、いかがですか?」

楓「まあ、緊張はしますね」

P「でしょうね」

楓「今まで、ずっと静止画ばかりだったじゃないですか」

P「はいはい」

楓「だから、演技する自分、っていうのが。あんまりよくわかってないんですよね」

P「今回はコンテもありますし。今までとそんなに変わらないですよ」

楓「そんなもんですか」

P「セリフもないですしね」

 そう。
 セリフとかないのだ。だから台本もない。
 あるのはコンテ画。

楓「ランウェイを歩くイメージで、やってみればいいですか?」

P「そうそう。その心持でいいと思います」

 そんな話をしながら、スタジオへ車を滑らせる。
 目的地まであと少し。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



89: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/26(水) 17:39:12.78 ID:QU25SsEa0

 スタジオの中は、夢とファンタジーが詰まっていた。
 美術さんの仕事すごいなと、素直に感心する。

ディレクター「お久しぶりです! 今日はよろしくお願いします」

 ディレクターさんから握手を求められる。

楓「はい、よろしくお願いします」

 握手を交わす。手の力強さが、ディレクターさんのやる気を感じさせる。
 うん、いい仕事にしよう。

デ「いい画にしましょう!」

楓「ええ」

 Pさんとディレクターさんが打合せをする間、私は衣装合わせをする。
 それはなんというか。
 お姫様というよりは、西洋の女神みたいな衣装。
 ディレクターさんの中の私は、そういうイメージなのかな。

メイク「じゃあ、早速セットしましょう」

 鏡台に向かう私。

メ「高垣さんって」

楓「はい?」

メ「なんか、すごくオーラがありますね」

楓「え? オーラ、ですか?」



90: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/26(水) 17:41:02.36 ID:QU25SsEa0

 はて。
 こんなぽっと出のルーキーに、オーラもなにもあるものか。

メ「ええ。なにか不思議というか。引き込まれる感じがします」

楓「そうなんですか。自分ではよくわからなくて」

メ「とってもいいと思いますよ。うらやましいです」

楓「ありがとうございます」

メ「そういえば。高垣さんって『お人形さんみたい』って、言われたりしません?」

楓「確かにありますけど。どうしてです?」

メ「眼の色が」

楓「ああ」

 確かに。
 他の人と瞳の色がやや違うのは知ってる。しかも左右とも微妙に。
 オッドアイなどと言うと聞こえはいいけど、私にとってはコンプレックス。
 普通がよかったのに、と思う。

 ただ。そうは言ってもこの瞳があったから、モデルの仕事も得られたのは確かだし。
 これは武器なのだ、と。
 いつも自分に言い聞かせている。

メ「肌が白いので、ナチュラルメイクで十分魅力的ですよ」

 普段から化粧っ気のない私。
 ナチュラルメイクしか知らないんです、すいません。
 仕事のときは、メイクさんにお任せばかりでした、すいません。

 メイク自体は、ほとんど時間もかからなかった。
 衣装合わせも勝手知ったるなんとやら。時間はかからない。

衣装「モデルさんやってらっしゃっただけあって、楽できます~」

 あら、本音ですね。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



91: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/26(水) 17:43:34.56 ID:QU25SsEa0

デ「はい、そこで空をつかむように!」

 ディレクターさんの声が響く。

 コンテを参考に立ち回りをするが、実に難しい。
 演技というのは、こんなに神経を使うものなんだ、と。いまさら気づく。

デ「高垣さん。もう少しゆっくりつかんでみましょうか」

 何度目かのテイク。
 複数のカメラで同時に撮るマルチビューでの撮影だから、リテイクのたびにカメラさんが大移動。
 非常に申し訳ない気持ちになる。

 ディレクターさんもひっきりなしに映像の確認をし。
 進行さんと打合せをし。
 カメの歩みでカットが積みあがっていく。

楓「次のシーン。指先はこう、かな?」

P「お。演技に余念がないですね」

 あの人は冷たい麦茶を持ってきた。

楓「お酒じゃないんですね」

P「仕事中ですから」

 お互いに笑う。
 麦茶の香りが気持ちを和ませる。
 だいぶ意識が持っていかれていたようだ。集中していたんだな、と。

P「いいでしょ? こうして演技というのも」

楓「いいかどうかはまだわかりませんけど」

 麦茶を一口。

楓「初めての経験で、やりがいありますね」

P「ほう。そりゃなによりです」

 あの人の笑顔。うれしい。

楓「自分に適性があるのか、それはわかりませんけど」

 笑顔を見つめながら言う。

楓「こうして濃密な経験ができること。Pさんに感謝しています」

 あの人の笑みは、いっそう輝いて見えた。

P「アイドルというのも、いいものでしょ?」

楓「ええ」

 自信を持って。

楓「本当に、そう……」


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



92: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/26(水) 17:44:40.70 ID:QU25SsEa0

アシ「おつかれさまでしたー!」

 特に進行が押すことなく、二日間の撮影を終了した。
 打ち上げはささやかに。

アシ「では、監督から一言。お願いします!」

デ「えー。二日間お疲れさまでした」

 私を含め、みな手に紙コップを持っている。中味はソフトドリンク。残念ながら。

デ「まだ編集作業がありますが、まず撮影が無事終えられたことと」

デ「高垣さんという、素敵な女優さんと知り合えたことに、感謝します」

デ「では。乾杯!」

全員「乾杯!」

 そして拍手。

 この二日間はとても充実していた。
 スタッフの皆さんに恵まれたこと。物事に取り組む姿勢。
 みんなで作り上げる楽しさ。
 全部得難いものだった。

アシ「では、高垣さんからもひとつ」

 え。ご指名?

楓「えーと。本当にお疲れさまでした」

楓「こうして皆さんと一緒にお仕事できたこと、感謝しています」

楓「とても楽しい二日間でした」

楓「また、皆さんとお仕事ができる日を」

楓「わーくわーく、しながら? 待ってます……」

 あれ。
 ……ひょっとして、滑った?

 ぷっ。
 くくっ。
 はははは。
 あはははは!

 どうやら受けたらしい。
 あの人は、私に向かってサムズアップを決めていた。

 私も負けずに。
 サムズアップ。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



94:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/26(水) 18:08:49.88 ID:rNUn4ypPo

[神秘の女神] 高垣楓+

94_1



101: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/27(木) 12:21:37.89 ID:Qwp/60N80

 撮影が終わってしばらく腑抜けになった私。
 それでも、時間が日常を連れてくる。
 相変わらずレッスンの日々。
 撮影のときに感じた熱。それを思い出しながら、私は何かをつかみたいと思っている。

 私に、できること。

 この先にある、見果てぬなにか。アイドルというもの。
 私はそこを目指せるのか。

P「楓さん、おつかれ」

 あの人は今日も、レッスンルームに顔を出す。

楓「Pさんも、お疲れさまです。毎日会いに来てくれるんですね?」

P「あはは。そりゃあもう」

 あの人は笑う。

P「楓さんの、一番の、ファンですから」

 うれしい。

P「あ、そうそう。この前のPV、出来上がりましたよ」

 そう言ってあの人は、DVDケースをひらひらと見せた。

楓「あ。できたんですか!」

P「ええ。これから事務所で鑑賞会といきませんか?」

楓「ぜひ。お願いします!」

P「じゃあ、事務所まで送ります。……楽しみですね」

楓「ふふっ。ほんとに」

 ざっと汗を流して着替える。
 あの人を待たせるのは申し訳ない。
 できるだけ急いだのに、あの人は「そう急がなくても」と苦笑した。

 あの。
 乙女心をわかってくださいよ。
 少し、傷つきますよ?

P「そうだ。鑑賞会にちょっとアイドルの子を加えたいんですよ」

楓「なんか恥ずかしいですけど」

P「いや、率直な意見がきけそうなんで」

楓「そうですか。Pさんがよろしいのなら」

P「ええ、なつきちならフラットな意見を言ってくれるでしょう」

 Pさんは夏樹ちゃんに連絡を取った。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



102: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/27(木) 12:22:44.42 ID:Qwp/60N80

夏樹「Pさん。PVだって?」

P「ああ」

 事務所の会議室。
 夏樹ちゃんとは事務所で何度か会っている。相変わらずかっこいいな。

夏樹「電話じゃ『お楽しみ』ってしか言わないから。で? 誰の?」

P「『フェイス・ザ・フェイス』の新曲だ」

夏樹「お。やるじゃん。なら呼んだかいがあるな」

P「ん?」

夏樹「だりーも呼んだ。参考になるだろうと思ってさ」

夏樹「おーい! だりー!」

 ほどなく、小動物みたいな子がやってくる。

李衣菜「なつきちー。どうしたのこんなときに呼んでー。レッスンあるじゃん」

夏樹「ん? お前『フェイス・ザ・フェイス』嫌いなのか?」

李衣菜「え? え? 『フェイス・ザ・フェイス』?」

李衣菜「マジ? え? ……ウッヒョー! 会えるの? ねえ! 会えるの?」

李衣菜「NAOTOどこ? え? どこ?」

夏樹「おまえさあ」

 夏樹ちゃんはどうにも頭が痛いようだ。

夏樹「PV見るぞって、あたし言ったよな?」

李衣菜「え? そうだっけ?」

夏樹「人の話聞けよ、もうちょっと……」

李衣菜「あ。あははー。……ごめん」

P「りーな、ぬか喜びだったな」

 あの人は腹を抱えて笑っている。私も。
 かわいい子だな。

P「ただ。まだ発表されてない新曲だからな?」

李衣菜「え? マジ?」

P「マジ」

李衣菜「……イエス!!」

 李衣菜ちゃんは大きくガッツポーズする。うん、かわいい。

夏樹「あのな、だりー? Pさんが感想くれって言ってるんだから。きちんと見ろよ?」

 李衣菜ちゃんは、コクコクと首を振る。うん、かわいい。

P「まあメインは、楓さんの映像だからな? 素直な感想くれよ?」

夏樹「了解」

李衣菜「イエッサー!」

ちひろ「あの、私も拝見していいですか?」

 ちひろさんがこっそり入ってくる。

P「ええ、どうぞどうぞ。ちひろさんの意見もぜひ」

 こうして、五人だけの鑑賞会が始まった。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



105:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/06/27(木) 13:11:39.22 ID:hri1047ao

105_1105_2
木村夏樹(18)

105_3105_4
多田李衣菜(17)



111: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/27(木) 17:57:23.92 ID:Qwp/60N8o

 映像が始まる。
 そこには、私の知らない私。
 私は、あんな顔をしていただろうか。
 熱くて、そして、冷たい。

 ディレクターさんの才能に圧倒される。
 こんなすごい人と、仕事をしたんだ。

 恐ろしい。
 自分がどこまでも変われそうな気がして。そんな錯覚に陥る。

   Fly away どこまでも飛べるだろう
   お前の求めるもの すべて
   Fly away どこへ飛べばいいだろう
   ふたり まだ見ぬ場所求め

 夏樹ちゃんは、まばたきひとつせず、画面を見つめる。
 李衣菜ちゃんは、キラキラと眼を輝かせている。
 ちひろさんは、眼を潤ませている。

   この世界のすべてから 飛び立つための EXIT――

 やがて、映像が終わる。

 なんと言えばいいんだろう。
 あれは私であって、私でない。
 でも、偽りの自分ということでもない。
 あれも私だ。

 ……ふわあぁ……
 李衣菜ちゃんが、脱力したような声をあげる。
 その声を聞いて、みんな我に帰った。

李衣菜「NAOTO……いい……サイコー……」

 李衣菜ちゃんは、まだ恍惚としている。

夏樹「ふう」

 夏樹ちゃんが息を吐いた。

P「ん。おつかれ。……みんなどうだった?」

李衣菜「Pさん」

P「なんだ? りーな」

李衣菜「NAOTOと共演したい!」

夏樹「……おいおい」

 夏樹ちゃんはやっぱり頭が痛そうだ。



112: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/27(木) 17:58:33.85 ID:Qwp/60N8o

夏樹「そうじゃないだろ? このPVがどうかって、訊いてんじゃん」

李衣菜「あ。ごめん」

夏樹「ま、いいや。だりーらしいよ」

 みんなクスクスと笑う。

夏樹「じゃ、私から。いいかな」

P「おう。なつきち、頼む」

夏樹「そうだな……これは、楓さんしかできない、と思う」

P「ほう?」

夏樹「NAOTOの声って、いつもけだるそうな感じじゃん。それと」

夏樹「KG(ケイジ)のギター、いつもよりエッジが効いてる」

夏樹「詞の世界観も考えると、なんていうかな。中性的っていうか、ふわりとしたっていうか」

夏樹「つかめないはかなさが、女優さんにないと難しい気がする」

P「おお。なるほどな」

夏樹「この監督さんは、ものすごくうまく表現してると思うし、あと」

夏樹「楓さんのために、これを作った感じがした」

夏樹「楓さんが、全部を引き出したんじゃないかな」

 なにか気恥ずかしい。
 自分ががんばれたのかわからないのに、こうしてほめられるなんて。

P「なるほど。りーなはどうだ?」



113: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/27(木) 17:59:19.02 ID:Qwp/60N8o

李衣菜「うーん……あんまり難しいことはわからないけど」

李衣菜「このシングル。ファンじゃない人も買いたくなる、気がする」

P「ほう。そりゃいいこと聞いたな」

李衣菜「え? あたしいいこと言った?」

P「実はな。この曲、ある番組のエンディングに使われる予定なんだ」

 Pさんは爆弾を落としてくれた。
 そんなえらい仕事だったんですか。何も教えてくれなかったじゃないですか。
 うわあ。
 うわあ。
 一気に緊張する。どうしようどうしよう。

P「だからな? 間違いなく売れる。当然このPVも見られるわけだ」

P「楓さんのお披露目には、ぴったりだったろ?」

夏樹「ああ。ドンピシャだった」

 李衣菜ちゃんはやっぱり、コクコクとうなずいている。

P「ちひろさんは、どうでした?」

ちひろ「……」

 ちひろさんは、泣いていた。

楓「あの……ちひろさん?」

 そう言うと、ちひろさんは突然私の手を握り。

ちひろ「よかったですぅ……すっごく、よかったですぅ」

 そう言って、さらに涙を流してくれた。
 その姿を見て、Pさんは満足げにしていた。

 こんなに、人を感動させる仕事。
 私は、そんな世界に足を踏み入れた。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



114: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/27(木) 18:00:53.01 ID:Qwp/60N8o

楓「Pさんは、ひどい人ですね」

 夜。いつもの大将の店。
 PV完成の打ち上げと称して、またあの人と来ている。

楓「私を担ぎましたね?」

P「いや、だって」

 言い訳ですか。よろしい、伺いましょう。

P「あまりぶっちゃけたら、楓さん、緊張でガチガチになったでしょう?」

楓「う」

 図星。
 ひょっとしたら、逃げ出したかもしれない。

P「そのあたりのさじ加減も、プロデューサーの仕事なんですよ」

楓「ううっ」

P「まあ、わかってください、とは言いませんけど」

 悔しい。
 なにが悔しい、って。

楓「やっぱり、Pさんはひどい人です」

P「すいません……」

楓「そんなこと言われたら、『わかりました』って言うしか、ないじゃないですか」

大将「まったく。Pはひどいやつだよな」

 大将が口を挟む。



119: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/28(金) 12:32:34.12 ID:I1o4kxgS0

P「断定ですか」

大将「昔っから、Pってひどいやつだよなぁ」

P「大将と知り合ったの、4年くらい前ですけど」

 大将は遠い目をし、あの人は憮然とする。

大将「……小粋なジョークってやつだよ。マジになんなよ」

P「あんまり感心しないジョークですねえ」

大将「でも、だ」

 そう言うと、大将はあの人へ耳打ちする。
 あの人は「ええ。同感です。気をつけます」と返事をしていた。

楓「あ、あの。大将?」

大将「ん? なんだい楓さん」

楓「Pさんに、なにおっしゃったんです?」

 気難しい顔をしているPさんを横目に、大将が私に耳打ちする。

大将「なに。美人の泣かすやつはダメだよな、って」

大将「そう言ったんだ」

楓「え」

 もう。大将はずるいなあ。



120: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/28(金) 12:33:53.00 ID:I1o4kxgS0

楓「Pさん?」

P「なんです?」

楓「あまり難しい顔しないでください」

P「ああ、すいません」

楓「あと。すぐに謝らないで、ください」

P「……」

楓「一緒に背負いたいんですよ。前にも言いましたよね?」

P「……」

楓「今度からは、ちょっとだけ種明かしをしてくれたら、うれしいです」

P「……はい」

楓「確かに、プレッシャーに負けそうになるかもしれないですけど」

楓「Pさんとなら、がんばれますよ?」

P「……」

楓「Pさんを、信頼してますから」

P「……ありがとうございます」

 まったく、お互いにぎこちないなあ。

楓「それと」

P「はい?」

楓「今度からは『すいません』じゃなくて、『ありがとう』で」

P「あ」

楓「そのほうが、もっとうれしいですから」

 私は、あの人に今できる笑顔を見せる。

楓「一緒に、やっていきましょう?」

 私たちは、戦友じゃないか。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



121: ◆eBIiXi2191ZO:2013/06/28(金) 12:34:58.36 ID:I1o4kxgS0

 新曲発表があり、同時にPVも公開された。
 PVは動画サイトにもアップされ、そこから火がついた。
 そして。

 私はここのところ、雑誌のインタビューを受けてばかりだ。
 もう何社目だろう。
『あのPVの女性は誰だ』という反響が、結構あったらしい。
 あの人のもくろみは成功した、のだろう。

楓「ええ。このお仕事が初めてで」

 もう何度答えただろうか。
 私と、私の周りは急に忙しくなった。

 グラビア。ドラマ出演。
 いろいろ。
 あの人とちひろさんは、届くオファーをさばいている。
 私になにかお手伝いできることは、と声をかけたけど。

ちひろ「楓さんにはお仕事をしていただくのが、なによりのお手伝いですよ?」

 そう、こともなげに返される。

P「はい、はい。では、まずお話を伺いますので。では、後日」

 あの人の手帳に、アポイントのスケジュールが書き込まれる。
 私も同席しますかと訊いたら、「まだその時期じゃないです」と。

P「まずは選別です。そういうことができるまで、知名度があがった証拠です」

P「ですから、ここからが勝負。楓さんを正しく、売り込みます」

 たとえば、グラビア。
 アイドルなら、水着なども避けられないだろう。
 でも、今はその時期じゃない。
 絶妙のタイミングというものがある。そこを狙って。
 しかも、こちらから売るのではなく、先方からのオファーで。
 こちらも人気が上がる。クライアントも反響が大きい。
 まさにウィンウィン。

 あの人と戦友になったので。
 ふたりで、その情報と考えを共有する。
 共有するからには、私の羞恥に関わることもタブーにしない。
 一心同体。

 今、とても充実している。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



132: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/01(月) 12:33:28.66 ID:T4utbnvJ0

楓「大将。お願いされてたもの、持って来ましたよ?」

大将「おお、楓さん。ありがと!」

 大将に頼まれたもの。
 友紀ちゃんがキャッツのユニフォームを着て、ジョッキを掲げているビール会社のポスター。

大将「目立つところに貼っておかないとな」

楓「もうこんなに寒いのに、ビールはどうなんです?」

 季節は冬。
 事務所を移籍して、半年近くが経った。

大将「居酒屋だから、年中ビールは当たり前さ。これは必需品だわな」

楓「ポスターなら、Pさんにお願いすればよかったんじゃないですか?」

大将「あいつさあ。『販促品を融通することはできません』ってさ。頭固いよな」

楓「ふふっ。なんかPさんらしいですね」

 あの人は忙しい。
 私も忙しくなったが、それを上回る忙しさだ。
 あの人は「忙しいのはプロデューサーにとって幸せなことですよ」なんて言うけど。
 たまに疲れたような表情を見せるのは、心が痛む。

楓「Pさん、早く来ないかな」

 あの人を待ちわびる。

大将「こんないい女待たせるなんて、あいつは甲斐性なしだなあ」

楓「ふふっ。そんなことないですよ?」

大将「おーおー。楓さんも乙女だねえ」

楓「残念ながら。お互いに戦友なので」



133: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/01(月) 12:34:08.64 ID:T4utbnvJ0

 戦友。
 仲がいいことは確かだとは思うけど、決して『恋人』なんかじゃない。
 仕事仲間というには、もっとどっぷりとした付き合いだとは思うけど。
 恋? それおいしいの?

 私とあの人の関係はあいまいだ。

大将「そういや、楓さんも忙しいみたいだしな」

楓「Pさんがいっぱい仕事取ってきますからね」

大将「そりゃあひでえ」

 大将が笑う。

 言うほど仕事がいっぱいという訳ではない。
 あの人は、相当に仕事を選別してる。
 水着でないグラビア、単発ドラマのゲスト、ナレーション。
 それほどメディアに露出していない。
 今のところの戦略なのだ、そうだ。

 どの仕事もやりやすく、あの人が配慮してくれているのがよくわかる。
 どれほど感謝しても足りないくらいに。

P「ふたりで、僕のうわさでもしてましたか?」

 あの人がお店にやってくる。
 仕事を離れたところで会えるのは、なんとなくうれしい。
 なんとなく。

楓「さっそくいただいてました」

 私は相変わらず、お銚子を摘み上げる。

P「じゃあ、僕もいただこうかなあ」

大将「たまには、俺もつきあうか」

P「大将は仕事してください」

 隠れ家の夜は更ける。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



134: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/01(月) 12:34:47.10 ID:T4utbnvJ0

楓「それはそうと、Pさん」

P「ん? なんです?」

 ほろ酔い状態のあの人に、切り出す。

楓「まだ、Pさんにお願いした約束。果たしてもらってないんですが」

 Pさんはよくわかっていないみたいだ。

楓「温泉」

P「あ? ああ!」

 ようやく気がついたか。遅い。

P「日帰り入浴ですね。はいはい」

 あの人は、頭をかく。

P「それはですね……。もう少し待って欲しいんですが」

楓「あら? どうしてです?」

P「実はですね」

 お酒を一口。

P「楓さんにひとつ大きな仕事を、やっていただくことになるので」

 なんですと。
 なにか聞き捨てならないことを聞いてしまった気がする。

楓「あら、それはどういう」

P「まだ秘密です」

 おや、Pさんはいけずですね。

楓「それなら、お話を楽しみに待ってますけど」

楓「でも私、風呂に行けないと、ふろ~っと、どっか行っちゃいますよ?」

楓「ふふふっ」

P「……鋭意努力します」

 そう言って、あの人は笑った。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



135: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/01(月) 12:35:25.60 ID:T4utbnvJ0

 翌日。
 あの人に呼ばれて応接室へ。

P「昨日の話ですけど、実はですね」

楓「はい」

P「楓さんに歌を、やっていただきます」

楓「……はい?」

 歌、ですか。
 アイドルなら、歌もやるでしょうね。レッスンもしてるし。

楓「このタイミングで、ですか」

P「はい。このタイミングです」

 こういうことらしい。
 今まで露出を抑えていたのは、歌手への布石。
 歌をやる前に、イメージを固定させたくなかった。
 できれば、歌手として売っていきたい、と。

P「ベテトレさんから、楓さんの実力は伺っています」

P「楓さんは実感がないかもしれませんが、歌い手としての能力は相当に高い」

P「ここを、楓さんの一番の売りにしたいんです」

 PVも、このためだったと。
 見た目から入って、想像を膨らませる。
 メディア露出を避け、さらに想像を加速させる。

P「ここで、楓さんの歌が開花する。インパクト抜群です」

 なるほど。
 あの人は、半年前から構想を練っていたのか。

P「楓さんを正しく売り込むのは、ここだったんです」

楓「なんか……Pさんは私を買いかぶりすぎていませんか?」

 恥ずかしさに、自分を卑下してしまう。

P「いえ、それはないです」

P「むしろ、この選択に自信を持っています」

P「やりましょう。ここからが本番です」

 あの人は自信にみなぎっている。
 そうだ。
 私とあの人は一心同体なのだ。
 信じよう。

楓「はい。一緒にやりましょう」

P「ええ。一緒に」

 Pさんと進んでいこう。
 あの人が、私を引っ張ってくれる。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



141: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/01(月) 18:20:27.14 ID:qgaBVxe20

 仮題、『こいかぜ』
 私に手渡された曲は、こんなタイトルがついていた。
 譜面がいまいち読めない私は、ベテトレさんのピアノに合わせて練習する。

 やられた。
 これは、私への挑戦状だ。

ベテ「はい。まずは休憩しましょうか」

 一度通しで歌ったあと、休憩を入れる。

ベテ「これはまた……期待されてますね」

 ベテトレさんが微笑む。
 そうなんだろうか。あの人と、作曲者さんのいじわるとしか思えない。

楓「そうなんでしょうか?」

ベテ「ええ。このくらい、楓さんならやるでしょうって。期待のあらわれ、ですよ」

 釈然としない私に、ベテトレさんは説明を加える。

ベテ「まず、歌詞は楓さんを意識して書かれていますね」

ベテ「新人の歌う曲としては歌詞が壮大です。異例でしょう」

 そこは自分も感じている。私のイメージをそういう方向へ結び付けようとしているかのようだ。
 そこに異論はない。
 あの人がゴーサインを出したのだろうから。
 ついていくだけ。

ベテ「それと、曲がですね」

楓「はい」

ベテ「見事に換声点付近に集まってますよね」

 そう言ってベテトレさんは苦笑した。

 そこだ。
 換声点に音を集めるということは、つまり。

ベテ「声がひっくり返りやすいところに集中させるなんて、えぐいですね」

楓「……まったくです」

 私が挑戦状と捉えた理由。それがこのメロディーだった。



142: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/01(月) 18:21:21.33 ID:qgaBVxe20

 換声点では、のどの使い方が変わる。
 つまりは、意識してのどを使わないと簡単に声がひっくり返る。
 そして、サビはこの換声点付近のラインで作られている。

 これを挑戦状といわずして、なんと言えばいいのか。

ベテ「訓練されていない人が換声点のあたりを酷使すると、のどの負担が大きいです」

ベテ「あんまりひどくなると、声がれや、最悪ポリープができてしまいます」

ベテ「そこをわかっていて、こういう曲を用意してるんですから。まあ……」

楓「ええ、そうですね」

 私もつられて苦笑する。

楓「みっちり練習しやがれ。そういうことですね?」

ベテ「……そういうことです」

 わかりました。ええ、わかったとも。
 その挑戦、受けて立とうではないか。
 どのみち、私に退路なんかない。迷わず進むだけ。

 あの人が示した道だ。歩けるはずだ。
 いや。
 歩くのだ。あの人と。

 こうして、レコーディングに向け必死のトレーニングに明け暮れる日々が始まった。

   ココロ風に 閉ざされてく
   数えきれない涙と 言えない言葉抱きしめ
   揺れる想い 惑わされて
   君を探している ただ君に会いたい only you

 上行。下行。
 音が跳ね回る。

 くそ。負けるか。

   満ちて欠ける 想いは今
   苦しくて溢れ出すの 立ち尽くす風の中で
   会いたい今 会える日まで
   ずっと想い続けるの 誰にも負けないほど
   君のそばにいたい ずっと

 あの人との日々を思い返す。
 いつだって、私の先を見て私の道を示してくれた。
 うれしいけど、悔しい。
 絶対、隣に立ってやるんだ。

 勝ち戦しかしないのだ。負けるなんて。
 ありえない。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



145:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2013/07/01(月) 19:30:52.17 ID:eS1Pr4Loo

145_1145_2
ベテラントレーナー(26)



148: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/02(火) 12:16:47.43 ID:1/nuYEQN0

 運命の日。
 私はレコーディング・スタジオにいる。

 この一ヶ月、曲と向き合ってきた。
 歌いこみもしたし、自分なりの解釈もした。
 歌うほどに、自分のものになっていく。そんな気がした。

ディレクター「じゃあ高垣さん、ルームで準備お願いします」

 ディレクターさんの声がかかる。
 さあ、いくぞ。

楓「はい」

 レコーディングルームに入る。
 ガラス越しに見えるのは、ディレクターさんはじめスタッフの皆さん。
 作曲者の先生、そして。
 あの人。

 Pさん、勝負です。

 私は目を伏せる。ヘッドホンから流れる伴奏。
 CD-Rで送られてきたそれをはじめて聴いたとき、あまりの壮大さに震えた。
 でも、怖くない。

   渇いた風が 心通り抜ける
   溢れる想い 連れ去ってほしい

 歌いだす。
 私は、あのPVの風景を思い描いていた。



149: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/02(火) 12:18:54.24 ID:1/nuYEQN0

 なにかをつかみたい。届かない。
 じれる心。

   あなたしか見えなくなって 想い育ってくばかり
   苦しくて 見せかけの笑顔も作れないなんて

 あのとき、私は囚われのお姫様だった。
 手をとって、連れ去って欲しいのに。
 早く。

   めぐる恋風 花びらまき散らし
   人ごみの中 すり抜けてく
   震えてるの 心も体も
   すべて壊れてしまう前に 愛がほしいの

 私の出したひとつの解。
 それがあのPVだった。
 囚われて、どこにも行けなくて。愛しい人の手が欲しい。
 ふたりで、どこまでも飛んで、逃げたい。

   涙は今 朝の星に
   寂しさは冷たい海に
   ひとひらの風 吹くその中で
   変わってく 溶けてゆく
   近くで感じていたい

 あなたは今、どこにいるの?
 早く連れ去って。私を。

   満ちては欠ける 想いが今
   愛しくて溢れ出すの 舞い踊る風の中で
   巡り会えた この奇跡が
   遥かな大地を越えて あなたと未来へ歩きたいの

 ようやく手が触れる。会いたかった。
 どこまでも連れて行って。決して離さずに。

 ふたり、どこまでも飛んでいく。

   ココロ風に 溶かしながら
   信じている未来に つながってゆく
   満ちて欠ける 想いはただ
   悲しみを消し去って しあわせへ誘(いざな)う
   優しい風 包まれてく
   あの雲を抜け出して鳥のように like a fly

 音が消える。
 しばしの沈黙。



150: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/02(火) 12:20:57.11 ID:1/nuYEQN0

楓「ふう」

 息が漏れる。緊張していたのだろう。
 心地よい開放感に包まれる。

デ「はーい。おつかれさまでーす。まだそこにいてください」

 作曲者さんがマイクを取る。

作「あー、高垣さん。お疲れさまです」

作「……合格です」

 作曲者さんとあの人が、サムズアップ。

 よかった。安堵と開放感で、力が抜けそうになる。
 どうやら、勝ったようだ。
 努力が報われた。支えてくれた皆に感謝する。

デ「じゃあ、休憩を挟んで数テイク録りますねー。ルームから出てくださーい」

 出るとき、ドアレバーを握った手がかすかに震えていた。
 出し切ったのだと、実感する。
 編集ルームで打合せをはさみ、さらに録音。
 ほぼ、まる一日のレコーディング。

P「楓さん、お疲れさまでした」

 あの人が、帰りの車の中で慰労してくれる。

楓「ありがとうございます、Pさん」

P「いえ、お礼を言うのはこちらです」

P「私の無茶に応えてくれて、ありがとうございます」

楓「やっぱり、挑戦状だったんですね?」

P「いや、そこまで大それたものじゃないですけど」

 あの人の笑顔は、私を安心させる。

P「……僕も、わがまま言ってみたくなったんですよ」



151: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/02(火) 12:22:20.27 ID:1/nuYEQN0

楓「わがまま、ですか?」

P「ええ、まあ」

 あの人が語る。

P「作詞の先生に、お願いしたんです。楓さんの出たPVを見せて」

楓「はい」

P「『届かない恋心』を、書いてください、と」

P「普通は、こちらから注文することはあんまりしないんですけどね」

P「でも、楓さんの歌ですから。大事にしたいと」

P「ふたり、一心同体って言ったじゃないですか、以前」

楓「ええ。そうですね」

P「だったら、自分のわがままを入れても、いいかなと」

楓「まあ」

 Pさんは、悪い人ですね。

P「こうして楓さんと一緒に仕事をして、自分なりの楓さんを表現したくなりまして」

楓「で、作詞の先生に」

P「ええ」

 私がPVをイメージしたのは、あながち間違いではなかったのか。
 いや。
 私とPさんの考えが、同じ方を向いていたからか。

 うれしい。

楓「Pさん?」

P「はい」

楓「うれしいです」

P「そうですか。よかった」

楓「Pさんと一緒に仕事ができてよかったことと」

楓「それ以前に」

楓「Pさんと、知り合えたことです」

 運命と言うには、大仰かもしれないけど。
 この人で、よかった。そう思う。

P「僕も、そう思います」

P「ありがとうございます」

楓「ええ。ありがとうございます」

 もしかしたら。
 このとき、戦友という領域を越えたのかもしれない。
 そんな、気がした。

 私は、隣に立てているか。
 この人の隣に立っていたい。
 これからも。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



159: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/03(水) 12:19:21.68 ID:xiCjoFMC0

 花見酒としゃれ込む暇もなく、桜は散っていく。
 4月。
 シングルが発売される。

 発売までの活動は、だいぶ制限されたものだった。
 PVは作らない。3月までメディア露出は雑誌だけ。
 4月に入るまで、発売日以外の曲に関する一切をリークしない。

 正直不安だった。
 これで売れるというのか。

P「楓さん、心配でしょう?」

楓「ええ。こんなに秘密裏に進めるなんて、なんというか……」

 私は戸惑いを隠せない。

P「そうですね。僕もこういうことは初めてです」

 あの人の戦略かと思っていたが。

P「事務所を挙げてプロジェクトを進めるとは、ね」

 プロデューサーがどれほどの実力があろうと、できることには限界がある。
 たとえばメディア対応。
 事務所がプレスに関する一切の情報を統率して管理する。
 それは、一個人の力ではどうしようもないこと。

P「普通ならある程度のネタをリークして、購買意欲を掻き立てるんですけど」

P「楓さんの場合は、その逆ですね」

 今までの仕事から、ある程度のイメージは作られている。
 神秘的、というキーワード。
 そこに情報統制。歌を出すということまではわかるけど、そこから先は。

P「それが、逆説で購買意欲を掻き立てるんです」

楓「私も、いち社会人ですから、ある程度の濁りは知ってるつもりですけど」

P「はい」

楓「なんか、怖いところですね」

 私は笑う。
 なにをいまさら。そんなこと最初からわかっているじゃないか。

P「まあ、ねえ。未成年の彼女たちは、こんな裏は知らなくてもいい」

 あの人は誰かを思っている。私も。
 あの子たちは、きらびやかな舞台を駆け回って欲しい。

P「ただ」

P「僕も楓さんも、意識してその裏を知って、いいんじゃないでしょうか」

P「弁えられる年齢ですしね」

 ちくり。
 なんだろう。

楓「そう、ですね」

P「淋しいですか?」

楓「……そうですね。そんなとこです」

 私のばか。なぜ言わない。
『弁えられる』って、なにをですか?
 一言でいいじゃないか。



160: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/03(水) 12:20:31.57 ID:xiCjoFMC0

 レコーディングがすんで、それ以来。
 私は気づいてしまった。
 恋心。いや、そんな大仰なものじゃない。
 恋愛とは違うなにか。よくわからないけど。
 ただ、あの人に善い感情を持ったのは事実だ。
 戦友と呼ぶには、一歩踏み込んだこの気持ち。いかんともし難いなあ。

 あの人との距離を測りかねてる。
 これが、今の私。

P「ただ、4月から攻勢かけます。忙しくなりますよ」

楓「ええ、そうですね」

P「そうそう。これでセールスが成功したら、社長から」

楓「はい?」

P「少し、お休みがもらえるようです」

P「そしたら、約束を果たしましょう」

楓「約束?」

 あざとい。わかってるくせに。

P「温泉」

楓「……ようやくですね」

P「それも、日帰りじゃなく」

 え?

P「お泊り、です」

 ええ?

P「場所は、任せてもらいますよ」

 あの人はうれしそうに言う。
 まったく、困った人だ。

 私を、こんなに喜ばせてどうするつもりなのか。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



161: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/03(水) 12:22:02.81 ID:xiCjoFMC0

 4月に入った。

 まずFMを中心に、ラジオ番組にデモを持ち込む。
 少しおいてから、ネットにサンプルを公開。
 3月にあらかじめ、テレビの音楽番組出演をとりつけておいた。
 準備は怠りない。粛々と実行していく。

 私もゲスト出演として、走り回る。
 カウントダウン番組のビデオ出演、ユーストリームのネット番組、FMスタジオでDJとトーク。
 休む暇なんかない。

楓「今日はあと何件です?」

P「今日はあと2件ですね。行きましょう」

 Pさんと行脚。色っぽい話ひとつありゃしない。
 こうして忙しいほうが、私もありがたい。余計なことを考えずにすむ。

 音楽番組へ生出演。
 グラサンの人にお酒と温泉の話をつっこまれ、「おやじだねぇ」って。
 ほめ言葉ですよね?

司会「三度の飯よりお酒が好きって聞いたけど」

 失礼な。お酒は『めし』です。

楓「どこから聞いたんですか」

司会「あそこ、目の前にいる事情通」

 Pさん。あとで説教ですね。屋上がいいですか?

 18日が迫る。やるだけのことはやった。
 あとは当日が来るのを待つだけ。
 楽しみだ。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



170: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/04(木) 11:09:32.51 ID:mNO3q3c70

 発売日当日。ストアライブを三件抱えている。
 事前にCD予約数とダウンロード予約数の情報は知らされていた。
 想定よりかなり上回る数とのこと。
 あの人は言う。

P「ギャンブルスタートに成功しましたね」

 でも、あの人は緊張を解かない。
 事前の情報統制で、かなりの金額を投資したと聞いている。
 コストパフォーマンスが悪いのだ。

P「ここからは王道です。話題性だけでは長く持ちません」

楓「そうですか。……まあ、そうでしょうね」

 一過性のヒットでは、費用対効果が出ない。
 私たちは商品なのだ。
 大きく、長く、売り続ける。
 意識を持って売り込む。それがプロとしての矜持。
 そう理解している。

P「楓さんの売りはなんだと、自分で思いますか?」

楓「え? そうですね……」

 しばし、考える。

楓「ギャップ、ですか?」

P「もちろん、それもひとつですけどね」

P「アイドルとして言うなら、正統派」

楓「正統派?」

P「はい。歌唱力重視の正統派アイドルです」



171: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/04(木) 11:10:10.75 ID:mNO3q3c70

P「まず見た目。神秘性を持った直球美人、これは素直に売りです」

P「次にバラエティー。これはちょっと難しいかな。個人的には楓さんのギャグ、好きですけどね」

 いや、いつもいつもそんなネタ考えてるわけじゃないですから。
 私をなんだと思ってるんですか。おっさんですかそうですか。

P「それから演技力。今の神秘性だけでは、正直頭打ちになりますね」

P「これは時間をかけて方向を模索しましょう」

P「で、最後。歌唱力」

楓「はい」

P「これは抜きんでています。一押しです」

P「楓さんの年齢を考えると、踊りやバラエティーで魅せるというのはもう遅い。これは仕方ないことです」

P「それを大きく上回る歌唱力。ここに今はリソースを集中しましょう」

 なるほど。PさんはPさんなりに長く売る方法を考えている、と。
 でも、やっぱり。
 歳のこと言われるのはきついなあ。

楓「なかなか、容赦なく言ってくれますね?」

P「オブラートに包んでも、仕方ないでしょう?」

楓「ふふっ。そうですよね」

 こういう人だから惹かれるのだ。
 最初は引っ張ってくれていた。今は。
 隣に並んで、一緒に歩いてる。
 昔から知っているかのように。

 私も、欲張りだなあ。
 隣にいれば、手を触れたいとか思ったり。

 手、かあ。あの人の手、大きいよね。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



172: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/04(木) 11:11:32.60 ID:mNO3q3c70

司会「さっそくお呼びしましょう。高垣楓さんです!」

 ストアライブのスタート。
 私はステージに立つ。目の前には大勢のお客さん。
 狭い店内が熱気に包まれている。

楓「皆さん、はじめまして。高垣楓です。よろしくお願いします」

 今まで何度も言ったはずの『はじめまして』。私はその意味を知っている。
 一期一会。
 目の前の人たちと私は、文字どおり初対面。でも。
 この人たちは何度も、媒体を通して私を知っている。はじめてであってはじめてじゃない。
 だから、『はじめまして』に、魂を込める。

 飛び交う声援と携帯のシャッター音。
 司会の女性とトークを交わす。
 台本に書かれたルーチンワーク。でもそのひとつひとつに、自分の心を織り込んでいく。

『私を、よく知ってください』

 やがて、歌の時間。カラオケの伴奏が鳴る。
 緑のステージ衣装に、そっと手を触れる。よし。
 私は歌いだす。そして。

 鳴り止まない拍手、そして歓声。
 ああ。
 これは、いいなあ。
 私のこれまでは、恵まれたスタッフさんたちと、中での仕事。
 直にお客さんの反応を受けたわけじゃない。
 今こうして、自分のやっていることがストレートに受け入れられていく。

 アイドルというのも、いいものでしょ?
 あの人がかつて言ったセリフを思い出す。
 そうですね、ものすごく。
 いいものですね。

 でも、あの人には責任を取ってもらわないといけませんね。
 ふふっ。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



173: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/04(木) 11:12:15.96 ID:mNO3q3c70

 三件目。
 これまでで一番大きい会場だ。
 お客さんの数もかなり多い。でも不思議と緊張しない。
 むしろ、多くのお客さんと接することがうれしい。

P「じゃあここは。打ち合わせどおりに」

楓「わかりました」

 私は今日最後のステージへ上がる。

 歌い終わる。拍手と歓声。
 今日こうしてお客さんの反応に直接触れられたのは、私にとって新鮮なことだ。
 感謝。

司会「本日はどうもありがとうございました」

楓「あ、少し」

司会「はい?」

楓「今日来てくださった皆さんへ。本当にありがとうございます」

楓「こうしてデビューしたての新人へ、声援をいただけて、とてもうれしいです」

楓「ここで、いらした皆さんへ感謝の気持ちを込めて、プレゼントを送ります」

 そう言って、私はマイクを下ろした。
 しんと静まり返る会場。

   Amazing Grace, how sweet the sound
   That saved a wretch like me
   I once was lost but now am found
   Was blind but now I see

 私はアカペラで歌いだす。



174: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/04(木) 11:13:18.80 ID:mNO3q3c70

P「楓さんには、もう一曲。練習してほしいんです」

楓「もう一曲?」

P「はい。誰かのカヴァーでいいです」

 あの人が出したオーダー。
 プロモート用に一曲用意しておけ。
 そう言われたのは、4月のあたま。発売日にサプライズを仕掛けましょう、と。

楓「なんでもいいんですか?」

P「よほどひどい選曲じゃなければ。信頼してますから」

楓「ど演歌とかでも?」

P「あ、それはやめてください」

 あの人とふたり、笑いあう。

 歌で勝負すると決めた。だから、持ち歌以外の勝負曲が欲しいと。
 そして。
 カラオケなし。完全アカペラで、と注文までついて。

 そのオーダーに応えたのが、この曲だった。
 私が好きな曲。
 そして、私が今実感している曲。

 私は、あの人に救われた。だから、私は歌う。
 人をたたえる歌を。

   Than when we've first begun――

 歌い終える。しばしの静寂。
 拍手。
 拍手、鳴り止まず。

 私のデビュー初日は、こうして終了した。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



180: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/04(木) 16:46:57.71 ID:mNO3q3c70

『俺たちの楓さんマジスゲェと思ってたがそれを遥かに超えていた。何を言ってるか……』

 ツイッターにライブの画像が上がっていた。動画も。
 スマホで撮られていたようだ。

P「これ、スタッフ説教ものですけどね」

 あの人と苦笑い。
 たとえストアライブであっても、無断録画や録音はあらかじめチェックしなければいけない。
 それを怠ったと言われても仕方のないことだ。

 リプライの数が増えていく。リツイートも。
 私の『アメージング・グレース』が拡大していく。

P「まあ、怪我の功名ですかね」

楓「うそばっかり」

 そう。
 こうなることをあらかじめ予測してのサプライズだった。
 やらせと言われそうな微妙なラインだが、拡散すればこっちのものだ。
 もちろんやらせではないけど、たとえそう言われようがこっちはデビューしたての新人だ。
 それすらも売りの力にする。名前を覚えてもらうことが先。

 そういうことでは、この拡がりは計画どおり。
『I did it!』ということだ。

楓「なかなかあざといですね?」

P「いいえ? 古典的なやり方ですよ。そう何度もできませんけど」

 ネットのチェックを行い、私たちは次の営業先へ向かった。

 ただひたすらに営業の毎日。
 笑顔と足で稼ぐ、簡単なお仕事。
 うそ。
 労力を惜しまず全力で行う、ハイパワーなお仕事。
 そして。

 チャートランキング。
 オリコン、ウィークリートップ10入り。
 ビルボードジャパン、ウィークリートップ10入り。
 私たちの努力は、スタートで結実した。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



181: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/04(木) 16:48:04.88 ID:mNO3q3c70

 6月。私たちは『はやぶさ』のグリーン車にいる。

 およそ二ヶ月の全力疾走の結果、私の立ち位置は確保された。
『神秘の歌姫』
 なんとまあ直球ど真ん中なお名前。
 とても光栄なことである。

 忙しさが落ち着いてきたころ、社長が休みをくれた。
 いや。
 あの人が休みを勝ち取ってきた、のだろう。

 ようやくのオフ。私とあの人は北へ向かった。
 約束が果たされる。

楓「なんで、青森なんです?」

P「いや、自分が知ってるところのほうがね、案内できますし」

楓「まあ、そうですね」

P「それに楓さん。営業以外でこうして東北とか、今まで縁がなさそうですから」

楓「ああ、それはありますね」

 営業で来ることはあっても、ほとんどとんぼ返りだし。
 ゆっくりご当地めぐりなんて、望めそうもない。

P「ですから、企画しました」

楓「そうですか。ふふっ」

 あの人なりの配慮。

楓「では、よろしくお願いしますね? ツアコンさん?」

 私たちは、朝ごはんに用意した『深川めし』のふたを開いた。
 お酒? そんな当たり前のことは訊かないでいただきたい。
 ビールで我慢しました、はい。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



192: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/05(金) 11:15:51.55 ID:v7QJlZQu0

 新青森駅でレンタカーを借りる。
 まずは青森市内へ。

P「実はですね」

楓「はい」

P「青森市内は、あまりよく知らないんですよ」

楓「あらまあ」

P「学生時代に、弘前に友人がいたので、そっちは何度も行ってるんですけど」

P「車だと微妙に遠いんですよね」

P「それにもうすぐお昼ですから、アスパムあたりで食事にしましょう」

 言われてもぴんとこない。はじめてのところだし。

楓「ツアコンさんにお任せですから」

P「なんか、頼りなくてすいません」

楓「ほら」

P「え?」

楓「すいません、って」

P「ああ、はは……」

 ほどなく市街地へ。
 港に集まっている青森の街はコンパクトに見える。
 アスパムの展望台から見る陸奥湾の広がりは、とても印象的。

P「そうそう。今日の宿泊はあっちです」

 あの人の示す方向。本当なら八甲田の山なみが一望できるはずなのだが。
 あいにくの曇り空で、その眺望の堪能できない。

楓「浅虫じゃないんですか」

P「個人的に湯治してた宿に行きます」

楓「まあ、湯治ですか」

P「ええ、好きですからね」

 Pさんの温泉好きは筋金入りらしい。



193: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/05(金) 11:16:41.59 ID:v7QJlZQu0

P「たぶん、楓さんの好みに合うと思いますよ?」

楓「そうですか、ふふっ」

 それを楽しみに来ているのだ。私のハードルは高いですよ?
 お昼は中の飲食店で。じゃっぱ汁がおいしい。

楓「なんか、ほっとする味ですね」

P「こういう素朴なのって、いいですよね」

楓「お酒も頼んでいいですか?」

 いや、頼みましょう。わくわく。

P「あははは。夜まで待ってください」

 ええ? がっくり。

P「その分、いいの用意しておきますから」

 わかりました。私のハードルはもっと上がりましたよ?
 あの人は、物産店でなにか物色してたようだ。私もお土産買おうかな。
 ちひろさんにはなにがいいかな。まあ無難にお菓子かな。
 事務所のみんなで分け合えるし。

楓「あ、Pさん。琥珀ですよ」

P「おお。ほんとだ」

 久慈の琥珀。有名だけど、やっぱり。

楓「お高いんでしょう?」

P「お高いですね……」

 うん、私には手が出ない。この桁はなんだ。

楓「でも、琥珀を見ると」

P「はい?」

楓「中に虫がいないか、探しちゃったりしません?」

P「あはは。やりますねえ」

 そう。虫入りは高い。
 やたら俗っぽいとは思うけど、小市民だから許してほしい。

楓「このくらいぽんとキャッシュで買えるように、なりますかねえ……」

P「もちろん。それは保障します」

 そっか。
 Pさんが保障してくれるなら安心だ。

 まだ時間に余裕があるので、あちこち散策する。
 八甲田丸や、ワ・ラッセ。青森ベイブリッジの下で、休憩したり。
 なんとなく、デートみたいな気分。
 我ながら単純な女だなあとは思うけど、うれしいのだから仕方ない。

楓「Pさん?」

P「はい?」

楓「これ、デートですよね?」

P「ああ」

 あの人が空を見上げる。

P「うん。デートですね」

 空は鈍色。でも私の気持ちは。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



194: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/05(金) 11:18:05.12 ID:v7QJlZQu0

 八甲田へ近づくにつれ、あたり一面もやが濃くなってきた。

P「ちょっと途中で休憩しましょう」

 雪中行軍像。ほう。
 歴史のお話程度のことしか知らない。
 あの人は大きな銅像に向かって「後藤伍長!」とか叫んでたけど。
 いや、あなたいくつですか。

 やや肌寒い空気のなか、暖かいお茶をすするふたり。

P「もうすぐ目的地です。なかなかひなびてていいと思いますよ」

楓「楽しみですね」

P「あ、露天はないですよ?」

楓「あら、それは残念」

 うそ。ちっとも残念なんかじゃない。
 お風呂がよければ露天の有無は関係ない。
 満足いくお湯と、おいしいもの、そして時間。
 これがあればいい。
 茶屋で多少つまみを仕入れて、いざ目的地へ。

 走ることしばらく。

P「ほら、やってきましたよ」

 見えてきたのは、山小屋のようなひなびた木造の宿。
 谷地温泉。目的地はここだった。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



200: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/05(金) 16:30:43.10 ID:v7QJlZQu0

 車を降りると、すぐにわかるほどの硫黄の香り。落ち着く。
 ひなびた一軒宿というのもポイントが高い。

楓「Pさん」

P「はい」

楓「いいところですね」

P「でしょう?」

 さすが温泉通。好みを的確についてくる。
 受付で宿泊手続きを済ませ、部屋に案内される。
 廊下の天井が低い。頭をぶつけそうなくらい。
 実際そんなことはないけど。
 急な階段をのぼって、2階へと通された。

楓「……」

P「……」

 うなぎの寝床のような長い間取り。
 実に、なんと言うか。
 見事になにもない。

 扉を開ければ、すぐに畳部屋。たたきすらない。
 靴は部屋の中にあるトレーへ。
 ドアの鍵すら、簡単なもの。
 これは本当に山小屋だ。

楓「Pさん」

P「……はい」

 私は、サムズアップを決める。

楓「グッジョブです」

 テレビすら古くて、映るかどうか怪しい。
 実に潔いじゃないか。
 風呂に浸かってのんびりしやがれコノヤロウという姿勢。
 大好物だ。

 私の反応に安心したのか、あの人も。

P「この何もなさが、いいんですよ」

P「湯治にもってこいなんです」

 いい笑顔で答えた。



201: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/05(金) 16:32:18.14 ID:v7QJlZQu0

P「夕食まで多少時間があるので、お風呂に行きましょうか」

 あの人の部屋はとなり。壁の薄さは気になるけど。
 ま。いい歳したふたりだし。分別はあるさ。

楓「いいですね。じゃあ準備をするので、できたら声かけますね」

P「了解です」

 あの人は部屋へ戻る。

 クローゼットらしきものを開けると、温泉浴衣が用意されていた。
 硫黄の香りがうつるからなあ。
 私はためらうことなく、浴衣へ着替える。
 タオルとクレンジング、ヘアバンドを用意して。
 あ、バスタオルも忘れずに。

 ひととおり用意できたところで、あの人と合流。
 Pさんも浴衣に着替えていた。

 お風呂は別棟になっている。男女の入り口は別。
 おや、残念でしたねPさん。

P「中のお風呂はぬるいので、ゆっくり浸かってくださいね」

楓「そうですか。わかりました」

 廊下でPさんと分かれ、脱衣所へ。
 ガタガタきしむ扉がまたいい。
 浴衣を脱ぎ浴室へ。
 木で囲われた浴槽がふたつ。白く濁ったお風呂と、透明なお風呂。
 へえ、透明なほうが源泉なのか。手をつけてみると確かにぬるい、というよりちょっと冷たい。
 壁に書かれている入浴方法を見ると。

『ぬる湯に30分、上がり湯にあつい湯5分』

 なるほど。白いほうが上がり湯なのか。確かに触れるとちょっとぴりっとする。
 ざああ。ざああ。
 かけ湯をして、いざぬる湯へ。



202: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/05(金) 16:33:09.19 ID:v7QJlZQu0

楓「……くぅ……ふぁ……ふぁぁ」

 最初は冷たいかと思ったけど、慣れると気持ちいい。
 ああ、これはやみつきになりそうだ。いくらでも入っていられそう。
 足元からぽこぽこと泡が出てくる。自噴ということなのか。
 窓に一応時計がかかっているけど、そんなの見てられるか。
 もうこのまま、溶けてしまいたい。
 私は、長湯を決め込んだ。

 クレンジングで化粧を落とし、洗顔もする。
 石鹸はあったものの、全然泡が立たない。硫黄泉だもの、仕方ない。
 それでも、備え付けのボディーソープをなんとか泡立てて体を洗う。
 そしてまた、入浴。もちろんぬる湯。
 もうすぐ一時間かな。時計を見る。

 これは湯治したくなる気持ちもわかる。時間の進みがゆっくりなのだ。
 このお風呂に浸かっていれば、ほんとに時間なんか気にしなくなる。
 今まで時間に追われていた生活だもの。忙しいことはありがたいのだけど。
 たまに逃避したくなる。
 あの人は、どう思ってるのかな。

 日帰り入浴だけのお客さんもいるようで、声をかけられた。
 私のことを知ってくれていたらしい。うれしい。
 年配の方にまで知られているのは、とてもありがたいことだ。
 いろんなことを根掘り葉掘り訊かれるかと思ったけど、そうでもなかった。
 ちょっと世間話をして、まただんまり。
 みんな湯に浸かりにきたのだ。余計な話はいらない。
 お客さんも少ないみたいで、私は自分だけの空間を堪能する。

 気がつけば、一時間半も入っていた。あの人を待たせてしまったかな。
 上がり湯で体を温めて、身支度。
 あの人は廊下で待っていた。

楓「ごめんなさい。お待たせしました」

P「いえ、気にしないでください。私も今まで入ってました」

 そう言って私の手を握る。うわ、恥ずかしい。
 確かに手のぬくもりを感じられて、安心する。
 いやいや、そうじゃなくて。

 なんで私は混乱しているのだ。落ち着け、私。

P「もうすぐ夕食です。部屋に一度戻りましょうか」

楓「え、ええ。そうですね……」

 私の顔は、赤くなったまま。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



203: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/05(金) 16:33:56.60 ID:v7QJlZQu0

 夕食は食堂でとる。テーブルに部屋番号が書かれていた。

P「あ、お酒はいらないので。その代わり、コップをふたつ」

 え。お酒を頼まないですと?

P「いや、楓さんのために用意しておきましたから」

 あの人は包みから四号瓶を取り出した。『田酒』と書かれたラベル。

P「地元青森のお酒です。物産店にあったので」

P「それに、もうすぐ楓さんの誕生日ですから」

 特別に用意してくれたお酒。それだけでうれしくなる。
 誕生日かあ。モデル仲間にお祝いされたりしてたけど。
 こうしてゆっくりお祝いも、いいな。

楓「うわあ。ありがとうございます」

P「まあ、コップ酒で申し訳ないですけどね」

 あの人はビールグラスをチンチンと鳴らす。
 いいんです。いいお酒が呑めるなら。
 おやじスタイル結構じゃないですか。ガード下でもいけますぜ、旦那。
 とくとくとく。
 お酒を注ぐ。果実のようなさわやかな香りがする。

P「それじゃあ、少し早いですけど。お誕生日おめでとうございます」

楓「はい。ありがとうございます」

 かちん。
 口に含んだお酒はほんのり甘く、のどの奥にすっと消えていく。



204: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/05(金) 16:34:49.87 ID:v7QJlZQu0

楓「すっきりしていいですね、これ」

P「弘前の友人が遊びに来るとき、必ず持って来まして」

P「とは言っても、ほとんどそいつが呑んじゃうんですけどね」

楓「いいなあ。うらやましいなあ」

P「ま、今はどうしてるやら。連絡とってないので」

楓「あらもったいない」

P「勤務医で忙しそうですからね。転勤もあるそうですし」

楓「そうでしたか」

P「縁が切れてるわけじゃないので、またそのうちつるむでしょう。ははは」

 そんな話をしている間に、料理が運ばれてきた。

 イワナの刺身、塩焼き、きりたんぽ鍋。
 お酒をゆっくり味わいながら、舌鼓。イワナの刺身が淡白でありながら、身がしまっておいしい。
 鍋もいい味付けだ。

楓「なんか、ゆっくりしていていいですね」

P「ええ。ここで料理を食べるのもしばらくぶりで」

楓「そうなんですか?」

P「湯治のときは、自炊でしたから」

 ああ、そうなんですか。
 湯治と自炊は切っても切り離せないような関係かも。
 長湯治は自炊でもしないと、お財布にやさしくないですしね。

楓「一度、Pさんの手料理もいただきたいものですねえ」

P「いやいや、男の料理なんてアバウトですから」

楓「いいえ? 男性のほうが凝り性だって聞きますよ?」

P「そうですかねえ」

 そうですとも。男性料理人の多さをごらんなさい。
 女性は毎日のメニューを考えるのに四苦八苦ですから。
 まあ、料理に対して立ち位置が違いますからね。

 窓を開ければ沢のせせらぎ。
 私は至福の時間を堪能している。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



212: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/08(月) 18:02:41.57 ID:YQCvQOyk0

 夜も更けて。あの人の部屋で呑みなおす。
 Pさんはソフトドリンクに切り替わっている。
 このお酒おいしいな。『田酒』だっけ。帰りに買っていこうか。

P「楓さん、改めて26歳の誕生日おめでとうございます」

楓「ありがとうございます。……なんか早いですね」

P「お互いにですね。20代後半になると、ほんと早い」

 他愛もない世間話。なにげない会話が楽しい。
 歳が近いせいか、あの人と話をするのは気疲れしないし、むしろ心地よい。
 お酒もすすんで、つい口も軽くなってしまいそうだ。

楓「そう言えばPさん。なんで私をスカウトしたんですか?」

P「ああ。んっと……顔ですね」

楓「顔、ですか……」

P「冗談です」

楓「冗談でもなんか、傷つきますよね」

P「あ、ああ。ごめんなさい。……つい楓さんとは長い付き合いと思うことがあって」

楓「長い、付き合いです、か?」

P「長いって言うよりは、密度が濃いって感じですかね」

 密度かあ。うん。
 確かに。
 この一年、実に密度は濃かった。あの人と一緒に走り回っているし。
 付き合いは一年なくても、確かに濃いな。

楓「ほんとですね。そう思います」

楓「他の子たちとはどうなんです?」

P「他のアイドルたち、ですか?」

楓「ええ。私の前にもプロデュースされてたでしょう? その子たちとも濃かったでしょうに」

P「ええ、まあ。そうですけど……」

 あの人は逡巡する。

P「こんな感じじゃなかったですねえ」

 ほう。それはどんな感じだったんでしょうね。

P「楓さんは、『トライアドプリムス』、ご存知ですか?」

楓「そりゃあもう。事務所の看板ですよね」

P「彼女たちのプロデュース、やってました」

 知らなかった。
 うちの事務所の稼ぎ頭。女の子三人組のユニット。
 そっか。Pさんのプロデュースだったんだ。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



213: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/08(月) 18:03:45.78 ID:YQCvQOyk0

 あの人は語る。

 すでにピンで活躍していた凛ちゃんを中心に、ユニット活動をさせようという企画が持ち上がり。
 デビュー待ちだった加蓮ちゃん、奈緒ちゃんを加えた三人組をプロデュースすることに。
 そこに抜擢されたのが、まだ駆け出しのPさん。
 アシスタント歴はそこそこあったけど、すでに売れっ子のプロデュースということで。
 緊張の連続だったらしい。

P「凛はあまり話しませんけど、プロ意識の強い子で。無言実行タイプでしたね」

P「加蓮はもとから華がある子で。体力のなさを気力でカバーする子でした」

P「奈緒はね、あのとおり奥手で。でもやるときは切り替えられる聡明な子でした」

楓「なんで担当から外れたんですか?」

P「それは最初から決まっていたことです」

P「路線を決めてその目標に進んで、仕事のルーチンが回ったらマネージャーに渡す。そう決まってました」

P「ただ、ね。やっぱり難しい年頃は大変です」

 あの人は、三人といろいろ話をしながら路線を決めていったらしい。
 それだけ接する時間も長くなる。これがいけなかった。
 思春期の子と頼れる異性。恋愛感情も沸いてくるだろう。

P「なんていうか、依存が強くなってきてるのがはっきりわかるようになってしまったんですね」

P「特に凛」

P「明らかに仕事のパフォーマンスが落ちてしまいました」

 Pさんは恋愛感情を持つことはなかったそうだけど、彼女たちがそうだとは限らない。
 お互いに高い職業倫理は持っていても、心の揺らめきは隠せない。

 マネージャーへの引継ぎを前倒しすることとなった。
 多少の不満はあろうが、決定事項だから曲げられない。それに。
 大勢のファンがいる事実。
 高い仕事意識を持ってる彼女たちは、決定に従った。

P「今でも人気があることで、目指した方向は間違ってなかった」

P「でも、自分のやり方は、失敗でしたね」

 あの人と彼女たち三人は、今でもあまり顔を合わせることはない。
 大きな代償を支払ったのだろう。

P「今でも、どう関わればよかったのか。わからないんですよ」

楓「……難しいですね」

P「うん。思えば、憧れと恋愛を錯覚していたのかも、しれませんね」

楓「……」

 では、私の気持ちはどうなんだ。
 錯覚?

 酔っているから、言ってしまっても仕方ない。

楓「じゃあ、Pさん」

P「はい?」

楓「今日なんで、私には『デート』って、おっしゃったんですか?」


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



214: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/08(月) 18:04:55.84 ID:YQCvQOyk0

P「……」

 あの人は黙り込む。

楓「私も、彼女たちの気持ちがわかる気がするんです」

 私は、いま自分にある心の澱を吐き出す。

 Pさんと仕事をしてまだ一年も経っていない。でもそれ以上の付き合いを感じる。
 それは自分も同じだ。
 歳が近いこともあって、Pさんとは戦友以上のなにかを感じる。
 いいパートナーだと思う。
 でも。

 でも。
 Pさんに『弁えられる歳』と言われ、胸が痛んだ。
 私だって気持ちがある。アイドルとプロデューサーという関係が、どういうものかも知ってる。
 この気持ちのもやもやを、理性で強引にふたをしてる、そんな状況。

 なぜ。
 あのタイミングで。
 あんなことを、言ったのか。

楓「Pさんは、ずるいです」

楓「『デート』なんて言われたら、揺らぐに決まってるじゃないですか」

楓「Pさんは、私の心にすっと入ってきたんです」

楓「この気持ちは錯覚かもしれません。けど」

楓「この気持ちを貶めるようなことは、言わないでください」

楓「お願いですから……」

 言ってしまった。もう戻れない。
 私は自覚した。これは恋心に、最も近い感情だ。

 あの人は軽いやり取りのつもりで、言葉を返してくれたのかもしれない。
 流れ的にはそうだ。
 でも。私には大ダメージだったのだ。
 気づいてしまったのだから。

P「楓さん」

楓「はい」

P「聞いて、くれますか?」


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



215: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/08(月) 18:05:54.31 ID:YQCvQOyk0

P「正直、困ったもんですよ」

 あの人が苦笑いしながら、語る。

P「そうですねえ」

 大将の店で楓さんと会って、なんと言うか琴線に触れたんですよ。
 この人と仕事をしてみたい。純粋に興味ですね。
 でも、楓さんは自分の想像をはるかに超えてました。
 仕事スイッチが入ったときの楓さんは、自分の課題をこなすだけじゃなくて、そこに付加価値をつける。
 もっとこの人と関わりあいたい。そう思わせる力があります。

 自分も、そのひとりでした。ええ。
 でした、です。

 楓さんが、すっと入ってくるんですよ。これには参りました。
 他の人は、オン状態の楓さんしか知らない。
 自分は、オフ状態の楓さんも知ってる。
 これが、うれしくなってしまったんです。

 自分の気持ちに戸惑ってるのは、今もです。
 なんだろうなあ。
 楓さんがたぶん思っていることと、近いかもしれないですね。
 
 デートって言ったこと。あれは本心、でしょうね。
 疑問形なのは勘弁してください。自分でもすんなり言っちゃったんで。

 自分もたぶん同じ気持ちです。楓さん。
 ただ。

P「僕はプロデューサーで、貴女はアイドルです」

楓「わかってるつもりです」

P「お互いに、ただ勘違いして燃え上がってるだけかもしれません」

楓「そう、かもしれませんね」

 いやだ。
 そうじゃないと言って欲しい。

P「……もっと上に登っていきましょう。そうしたら」

楓「そうしたら?」

P「お互いの気持ちが、確かめられる」

P「そんな、気がします」

楓「……」

P「時間をください」

楓「……それは、どういうことですか?」

 気持ちにけりをつけるということか。
 それならそうと、はっきり言って欲しい。
 このまま宙ぶらりんなのが一番、つらい。

P「自分も大きくなります」

P「がんばりましょう。これからも」

 まだこの人と一緒にいられる。それだけで救われた気がする。
 でもそれは。
 死亡宣告よりつらいものかもしれない。

 一緒にいたい、だけでは済まないもの。
 あの人も、自分も。
 いっぱい抱えている。

 あの人と私は、まだ恋人未満。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



216: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/08(月) 18:07:28.31 ID:YQCvQOyk0

P「風呂入ってきます」

 クールダウンすると言って、あの人は風呂へ向かった。
 私は今、自分の部屋の中。
 残ったお酒をあおる。まったくおいしくない。

 ふう。
 ため息だけが、出てしまう。

楓「私も風呂、行こう」

 足取りもおぼつかないまま、お風呂セットを持って部屋を出た。

 ちゃぽーん。
 誰もいない浴槽に浸かる。

楓「あーあ。なんでこうなっちゃったんだろう……」

 打ち明けてしまった自分の失敗。
 何も言わなければ、ギクシャクすることなく済ませられたかもしれないのに。

 でもあの人も、同じ気持ちなのか。
 それがうれしいのと同時に、自分のしでかした事の大きさに頭を抱えたくなる。
 これから、普通の顔をして仕事できるのかな。
 後悔は、いつも先に立ってくれない。

 ふと見ると。入口の反対側に引き戸がある。

楓「なんだろう?」

 私は好奇心だけで、その戸を開ける。

楓「……打たせ湯だ」

 タオルひとつで、打たせ湯へ。
 この煩悩だらけの頭には、いい滝行かもしれない。
 そんな馬鹿なことを考えながら、流れ落ちる湯に肩を当てた。

楓「くうぅ……」

 痛い。
 ちょっとこれは痛すぎる。
 こらえ性がないというか。まったくどうかしているぞ、私。

 湯の圧力に負けて、私は戸を開ける。

楓「……あ」

P「……あ」



217: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/08(月) 18:08:47.11 ID:YQCvQOyk0

 あれ?
 どうしてあの人がここにいる。
 いや、違う。
 女湯と、造りが反対。

楓「!」

 慌てて戸を閉める。

楓「Pさん! ごめんなさいごめんなさい!」

 あっちゃー。やってしまった。
 ラッキースケベ。いやいや。
 そんな色っぽいことなんかあるものか。

P「いや! いいんです! 大丈夫ですから」

 扉一枚を隔てて、あの人が叫ぶ。

P「他に人、入ってなかったので」

 その言葉を聞いて。

 私はきっと、熱に浮かされていたのだろう。
 扉を開け、あの人の隣へ。

 ちゃぽん。

P「楓、さん?」

 恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
 でも。
 一緒にいさせてくれたって、いいと思うんだ。

楓「今は、こうして」

P「……」

楓「いさせてください」

 透明な湯の中、ふたり。
 ふしだらだと、あの人は思うだろうか。

楓「あの……」

 なんと言えばいいのだろう。言葉がうまく出ない。

楓「私、その……」

 ああ。私のばか。

楓「今だけは、恋人でいさせてください……」

 理性はどこかへ置き去りにしてしまった。

楓「うれしかったんです、私……」

 そして。
 私は、あの人の唇を奪った。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



218: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/08(月) 18:09:46.86 ID:YQCvQOyk0

 なにも身に着けていない男女が、同じ浴槽に共に浸かる。
 浴場で欲情。
 なにをばかな。

 あの人は、私に手を出しはしなかった。
 安心感と、敗北感。

P「申し訳ない。手を出したら負けだと、思うので」

 手を出してくれたほうがいいのに。
 そのほうが、よほどすっきりする。どっちに転ぼうと。

楓「なんで、ですか?」

P「ええと……」

楓「なんでですか!」

 こんなに自分に正直になったというのに。あの人は。
 私に恥をかかせる気か。

P「楓さんはとても魅力的です。襲ってしまいたい」

楓「なら!」

P「それではだめなんです」

楓「どうしてだめなんですか!」

 理不尽な言葉ばかりがあふれてくる。
 なんということだ。誰か私を止めてくれ。

P「このままじゃ楓さんのヒモになっちゃうからですよ! わかってくださいよ!」

楓「ヒモだっていいじゃないですか!」

P「自分のプライドの問題です! 僕だって!」

楓「なんだって言うんですか! ええ! 聞こうじゃないか!」

P「楓さんを養えるくらいでっかくなりたいんだよ! わかれよ!」

P「誰も、ぐうの音も出ないくらい! 文句言わさないくらいしっかりしたいんだ!」

P「……じゃなきゃ、とても釣り合わない」

 あの人が悔しそうに、私を見る。
 ああ。失敗だ。
 こんな顔をさせるつもりはなかったのに。

 私は、あの人を抱きしめた。



219: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/08(月) 18:10:38.83 ID:YQCvQOyk0

P「楓さん……」

楓「……ごめんなさい。ほんとに」

 私にできることは。

楓「私は。あなたが、いいんです」

 こうして、一緒に。

楓「そのままの貴方が、いいんです」

 抱き合う。

楓「いつまでも、待ちます……いや」

 いや、そうじゃない。

楓「一緒に、大きくなっていきましょう」

楓「誰からも、うしろ指をさされないくらい」

 これは私の決意。腹をくくった。

 私は、この人と一緒に歩いてく。そのために。
 私は私のできることをせいいっぱい。

楓「帰ったら、また仕事仲間です」

楓「でも。オフのときくらいは、一緒にいさせてください」

楓「大丈夫。弁えてますから」

 私はせいいっぱい微笑む。

P「……ありがとう」

 やっと。ふたりの距離は定まった。
 やっと。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



227: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/09(火) 17:49:07.65 ID:/KV9b2/Y0

P「いつからです?」

 あの人が問う。
 あの人の部屋。同衾するふたり。
 腕枕が気持ちいい。でも、一緒に寝てるだけ。
 このままなし崩しに事に及べば、壊れる。
 それは、あの人も私もわかっている。
 弁えてると言ったのだ。言葉には責任を持たなければいけない。

楓「うーん。たぶん」

 私は、思考の鈍った頭で考える。

楓「レコーディングの頃、ですかね」

P「そうですか」

楓「Pさんは覚えていないかもしれないですけど」

 私は言葉をつなぐ。

楓「Pさんが、作詞の先生にお願いしてくれたのが」

P「ああ」

 そう、うれしかったのだ。

楓「Pさんなりに、私を表現したいと言ってくれて」

P「そうでしたか」

楓「Pさんが、私に能動的に関わってくれるのが、うれしかったんです」

楓「私をきちんと見てくれるようで」

P「そうですね、うん。そうだ」

 あの人がつぶやく。

P「ほんとなら、プロデューサーが私情をはさんだらいけないんですけど」

楓「……でしょうね」

 私は笑う。

P「確かに、自分で染めたくなったんですよ」

 その言葉が素直にうれしい。

P「まあ、最初から惹かれていたといえば、そのとおりなんですけどね」

楓「ふふふっ」

P「業界的にも社会人的にも、だめなプロデューサーだと思いますよ。ええ」

楓「そんなことないです」

P「いや。こうして私情に任せて心通い合わせたら、だめですよ」



228: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/09(火) 17:49:45.19 ID:/KV9b2/Y0

 それは正論だ。でも。
 正論なんかくそくらえと思う私がいる。

楓「それなら、私もだめなアイドルってことになります」

P「……ですね」

楓「いっそこのまま、逃げちゃいましょうか?」

 それもいいかもなんて。思う自分。

P「いや、それはだめです」

楓「なぜです?」

P「楓さんが成し遂げたところ、見たいですから」

楓「成し遂げた、ですか」

P「ええ。そのためにスカウトしたんですし」

楓「それもそうですね。ふふっ」

P「なにより、自分でそうしたい。今はそう、強く思ってます」

楓「それなら、逃げ出せませんね」

P「はい。逃げません」

楓「だったら」

 私はあの人へ顔を向ける。

楓「なおさら、隠し事はなし、ですよ?」

P「わかりました」

楓「私も逃げません。だから」

楓「成し遂げたら……」

 成し遂げる。
 それがどういうものなのかはわからないけど。きっと。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



229: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/09(火) 17:52:06.82 ID:/KV9b2/Y0

 朝。朝食を済ませ、ひとときのまどろみ。
 あの人が横にいる。
 夜はお互いよく眠れなかった。さすがにこれでは運転に支障が出る。
 朝風呂もいいけど、いい加減入りすぎてだるくなってきた。
 出発まで、ごろごろ。

 寝顔、かわいいな。
 見ていたいけど我慢。自分も休息しないと。

楓「少しは休めました?」

P「ええ、大丈夫です。深く寝たので」

 Pさんに申し訳ない。睡眠不足の原因は私だ。
 出発時間を遅らせても、あの人の休息にあてた。

P「まあ、あまり回れなくなっちゃいましたけど」

楓「いいんです。私こそごめんなさい」

P「楓さん? ほら」

楓「え?」

P「『ごめん』じゃなくて、『ありがとう』ですよ?」

楓「あ」

 一本とられた。自分で言ったことなのにね。

P「楓さんには、感謝してます。ありがとう」

楓「いえ、私こそ」

 今度こそ。

楓「ありがとう」

 少しすっきりしたところで、出発しよう。



230: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/09(火) 17:52:38.08 ID:/KV9b2/Y0

 行きとは別の道。酸ヶ湯へ抜ける。

P「時間があれば、酸ヶ湯の千人風呂にも行きたかったですけどね」

楓「あら。あそこは混浴でしょう?」

P「よく知ってますね」

楓「だって有名じゃないですか」

 私だって温泉好きなのだ。有名どころは知ってる。行ったことないけど。
 あの人は意地悪そうな笑みを浮かべる。

P「おや。谷地のお風呂も混浴なんですよ? 知ってました?」

楓「え?」

P「昨日、楓さんとふたりで入ったところですよ」

 知らなかった。だとしたら、Pさんはあざとい。
 下心満載じゃないか。

P「まあ女性風呂もあるんで、混浴になることなんてないですけどね」

 むむ。そんなことでこの楓さんがごまかされるとは思わないでいただきたい。

楓「でも、期待して選んだんですね?」

 そう言うと、あの人は「まさか!」と噴き出した。

P「あんなひなびたところに、若い女性なんかいるわけないじゃないですか!」

 あの人はひいひい笑っている。私は面白くない。

楓「その若い女性と混浴したのは、どこの誰ですかねえ」

P「……いや、まあ。はい。役得でした」

 あの人を黙らせることに成功する。
 そうそう。私の上に立とうなんてまだ早い。
 ふふっ。



231: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/09(火) 17:53:28.36 ID:/KV9b2/Y0

 惜しいけど酸ヶ湯は通過する。いつか来ますからね。
 城ヶ倉大橋を抜けて黒石へ。

P「お昼がまだですし、ここで『つゆやきそば』でも食べますか」

楓「『つゆやきそば』ですか?」

 焼そば、だよね?

P「まあ、僕も食べたことないんですけどね」

楓「じゃあ、自らが実験台になる、と」

P「楓さんも道連れですよ」

楓「あら、怖いなあ。ふふっ」

P「ははは」

 駐車場に入れて、お店へ。お昼の時間も過ぎたというのに大賑わいだ。
 相席でと案内される。

 頼んでしばらく。つゆやきそばが運ばれる。

楓「あらら」

P「うわあ」

 でかい。765プロのお姫さまなら大丈夫だと思うけど。
 でも頼んだからには、お残しは許しまへんで。
 あの人とふたり、果敢に挑戦する。

P「お。意外といける」

楓「あら、ほんと」

 ラーメンスープに浮いた焼そばという、想像しにくい物体だったのに。
 スープがあっさりしているからか、ソース味となじんでいる。
 なにより麺がもちっとしておいしい。
 こってりしてるけどあっさり。癖になるかというと、うーんという感じだけど。

P「たぶん、自分の家で作ったらこうはならないですねえ」

楓「……ですね」

 やっぱり、地元のお店で食べるのがいいと思う。
 あの人に心配されたけど、私も完食。

楓「味が濃いから、お酒に合いそうですね」

P「あ、焼きそば酒ってのもあるらしいですよ?」

 がたん。
 なんですかそのZ級グルメ。

P「いや、焼きそばに合う日本酒ってことで、売られているらしいですけど」

 ああ、そういうことか。残念。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



232: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/09(火) 17:54:35.68 ID:/KV9b2/Y0

 黒石から高速を使って青森市へ。戻ってきた。
 レンタカーを返して、みやげ物を物色する。
 事務所のみんなにはりんごスティックかな。まるごとりんごパイだと、切り分けられないし。
 あと、『田酒』は買っていこう。
 おいしいけど、すぐに呑むのはもったいないかな。あの人との思い出の品だし。

 昨夜の出来事を思い出して、恥ずかしくなる。
 私は、あんなに浮かされるような女だったのか。昨日の自分を問い詰めたい。
 あわあわしていたら、「なにやってるんです?」とあの人が。

楓「い、いえ。大丈夫。ええ。大丈夫ですとも」

P「なんか大丈夫って感じに見えないです。動揺しまくりじゃないですか」

 くすくすと、あの人。
 むう。

楓「Pさんのせいですからね」

P「ああ。僕のせいですね」

 お互いに恥ずかしいことでも、こうして軽口で交わせる。

P「どうでしたか?」

楓「ええ、いい旅行でした。ありがとうございます、ツアコンさん?」

P「それがなにより。では」

P「日常へ帰りましょうか」

 日常。また忙しい日々がはじまる。でも、私とあの人には目標がある。
 成し遂げる。
 そんな漠然とした目標であっても、私たちにはとても大事なことだ。

 もう腹はくくっている。あとは、自分の気持ち。
 今にも暴れそうな思いにふたをして、立ち回ろう。
 大丈夫。あの人がいる。

 車内。あの人とふたり。

楓「手をつないで、もらえますか?」

 あの人はなにも言わず、ブランケットの下で手をつなぐ。
 私はそのぬくもりを感じながら、意識を沈めていった。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



239: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/11(木) 12:21:46.34 ID:sUCUwTee0

 旅行からしばらく経った。7月。
 私は大将の店にいる。

大将「楓さん、浮かない顔してるねえ」

 大将が心配して声をかける。

 確かに腹をくくったなどと宣言したものの。ハードルはひどく高い。
 社長になんと言えばいいのか。
 名前が売れればマスコミだってかぎ回るだろうし。
 事務所の他の子たちにも示しがつかないし。
 なにより、ファンの気持ちをないがしろにすることになる。

楓「いえ、ちょっと考え事してただけで」

大将「ん。そっか」

 大将が深入りせずに放っておいてくれるのがありがたい。
 あの人はまだ仕事中だ。忙しそうで心配になるけど、私ができることはないに等しい。

楓「私も、ただの女なんだなあ……」

 自分がこんなに乙女だったとは。まったく世の中わからない。

 高校生のとき、先輩や同級生に告白されたこともある。付き合ったことも。
 でも、長続きはしなかった。
 どこか覚めた目で見ていたのかもしれない。恋愛なんてこんなもんか、と。
 身体の関係になることもなく、別れてしまう。それになんの感慨すら持たない自分。
 いや。
 正直に言おう。奥手なのだ。
 コンプレックスだらけの自分が求められることに、抵抗があった。
 自信もない。
 無意識でその手のことを遮断してしまう。

 だから、あの夜の自分が今でも信じられない。
 いまさらうぶなんですとは言わないけど。



240: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/11(木) 12:22:14.17 ID:sUCUwTee0

楓「まったく。どうかしてる……」

 私は思考の海に沈む。まるで迷路だ。
 どこに出口があるのだろう。いや、まったくないのかもしれない。
 考えるほど暗澹たる気持ちになる。

CG社長「おや、だいぶ呑んでますね」

 突然声をかけた人物は、私を驚かせるに十分だった。

 なんでここに社長がいるのだろう?
 その答えはすぐわかった。後ろにあの人がいる。

社長「Pくんに誘われましてね。いや、なかなかいいお店です」

 社長はにこにことしている。
 あの人は大将に話をしている。大将はうなずいて奥の座敷へ通した。

P「楓さんも、一緒にどうですか」

 私がそれを断ることは不可能なこと、わかるくせに。
 でもそれは言わない。

 こころもち緊張しているあの人と一緒に、座敷へ移動する。
 隠れ家に社長が来るということは。
 うれしい話ということでもないのだろう。

 座敷はきちんと隔離されていて、カウンターや小上がりの賑やかさが響いてこない。
 まあ。こういうことも考えての造り、なんだろう。
 つまり、聞かれては困る話、ということだ。

 この先の展開を想像して苦しくなる。最悪のことにならなければいいが。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



241: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/11(木) 12:23:40.07 ID:sUCUwTee0

社長「まずは乾杯しましょうか」

 座敷に三人。手にお猪口を持っている。

楓「お疲れさまです」

P「お疲れさまです」

社長「乾杯」

 軽く一口。大将は次々と料理を運んでくる。
 社長は大将になにか告げた。表情を堅くする大将。

社長「いや、Pくんがこういう店を知ってるとは。びっくりしましたよ」

P「たまたまです」

社長「まさか、宝生はづきのお相手のお店とは、ね」

 宝生はづき。はて。
 あ。
 思い出した。

 一般男性と結婚して、表舞台へ出なくなった女優さんだ。
 結婚のニュースはそれなりにセンセーショナルだったけど、その後は特に何もなく。
 女優として伸びた時期での結婚だったから、表に出てこなくなったのを惜しむ声もある。

 まさか。
 いや、そのまさかだった。
 大将の奥様。
 Pさんに写真を見せられたときは美人さんだな、としか思わなかったけど。
 あの表情は宝生はづきだった、かも知れない。



242: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/11(木) 12:24:10.01 ID:sUCUwTee0

P「僕も最初は驚きました。ええ」

P「でも大将の人柄に触れて、なるほどと思いまして」

社長「そうでしたか。いや、まったく世間は狭いですね」

 社長は懐かしそうな目をしている。

社長「彼女が幸せなら、それでいいと思いますよ」

P「実に幸せそうでしたよ。みんな妬けるくらいに」

 そうか。社長に指摘されて、大将は堅くなったのか。

楓「あの」

P「はい」

楓「Pさんは知っていた、ってことですよね?」

P「まあ。大将と仲良くなったのが先ですけどね」

 なにか触れてはいけないものに触れてしまった気がする。これでよかったのか。

P「たとえ奥さんが元女優だろうが、大将は大将ですし」

P「その大将の奥さんってことだけで。それ以上でも以下でもないです」

楓「でも、社長もよくお分かりになりましたね」

社長「Pくんから多少聞いてましたから、ここに来る前に」

 そっか。顔見知りというわけではないのか。

社長「で、本題です」

社長「高垣さん」

 私は一気に緊張の度合いを高める。

社長「Pくんとのこと、本気ですか?」


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



247: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/11(木) 17:37:24.66 ID:NdeKpdMJ0

 私は、あの人の顔をうかがう。でも、いまひとつつかめない。

社長「あの、誤解しないように言っておきますね」

社長「別にとがめようとか、そういうわけじゃないです」

楓「あの。どういうことでしょうか?」

社長「いや、事実はどうなのかということを、知りたいだけですよ」

 怪しい。
 そんなことでここに来るなんてありえない。

P「社長」

 厳しい顔であの人が止める。

P「楓さんにカマかけるのは、やめてもらえませんか」

 そういうと社長は、からからと大声で笑い出した。

社長「いやいや。Pくんは本気なんですかねえ」

 笑う社長と、困った顔のPさん。

社長「いやあ、Pくんが担当をはずして欲しいなんて言い出すから、てっきりもう手をつけたのかと思いましたよ」

 は? それはどういうこと?
 いや待て。今『担当をはずす』と言ってたような。

楓「Pさん」

P「……」

楓「社長にそんなことをおっしゃったんですか……」

 怒りがこみ上げてくる。
 あれほど、隠し事はなしと言ったはずなのに。Pさんは。

楓「社長」

 私は社長に向きなおす。

楓「私は本気です」

 社長の笑い声が止まる。

社長「ほう?」

楓「私は、本気でPさんとお付き合いしたいと、思っています」


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



248: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/11(木) 17:38:05.64 ID:NdeKpdMJ0

 早いか、遅いか。
 本気なら、いずればれる話なのだ。

社長「そうですか」

楓「はい。所属タレントとして、大変申し訳ないことをしました」

楓「謹慎でもなんでも、処分は覚悟しています」

楓「解雇も」

 社長はなにかを考えている。

P「いえ。自分からお付き合いしたいと、申し出たのです」

P「楓さんに、責任はありません」

P「処分はお任せします」

 Pさん!
 なにを言い出すんですか。
 あなたがいなかったら私は。

楓「Pさんはプロデューサーとして大変有能な方です」

楓「Pさんが去られるとしたら、事務所にとって大変マイナスだと思います」

P「楓さん!」

社長「まあまあ」

 あわてるあの人を、社長が留める。

社長「Pくんの有能さは、よく知ってますよ」

社長「それと、己に対しての厳しさも」

社長「その厳しさが、凛くんにつらい思いをさせたこともね」

P「……」

楓「……」

社長「まあここは会社じゃありませんし、戯言です」



249: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/11(木) 17:38:53.67 ID:NdeKpdMJ0

 社長がゆっくりと話し出す。

 アイドルと関係者の恋愛なんて、別に珍しいことでもないですよ。
 それに、私も人のこと言えませんからね。
 私の妻もアイドルでした。私のプロデュースで。
 ですからね、私はふたりを引き離そうとか、そういうことを考えてるわけじゃないんですよ。
 前向きに仕事をこなして事務所の利益になれば、いいんです。

 ただ。スキャンダルはまずい。
 ばれるのがまずいのではなくて、事務所があずかり知らないということが、です。
 あらかじめ知っていれば、やりようはいくらでもある。
 リスクマネジメントです、要は。
 ただ。

 凛くんには、大変申し訳ないことをしました。
 彼女もPくんも、あまりに真っ直ぐすぎた。彼は自分を律し、彼女は憧れを抱いた。
 そのことで仕事に影響を出してしまったら、それはさすがに見過ごせない。
 だから、離したんです。

 そんなPくんが、自分から降りたいなんて言い出すんです。なにかあるに決まっている。
 仕事に真っ直ぐで、自分を律することができる彼です。
 凛くんの事がありましたから、そういうことではと思いまして。

社長「ですから。おふたりの本心を知りたいと、思ったんです」

 耳が痛い。
 あれこれひとりで思い悩んでる暇があったら、とっとと社長に話をすればよかった。
 それだけのことだった。

 それだけのことが、簡単にできない。
 しがらみだらけの業界だから、難しい。

社長「ただ、高垣さんは今、うちの事務所でも大々的にプッシュしているアイドルです」

社長「惚れた腫れたでいられたら、非常に困るんです」

楓「……はい」

社長「ぶっちゃけ言いましょう。売れてください」

社長「それが、私の処分と思ってください」

楓「……ありがとう、ございます」

社長「まあPくん辞めさせて、それで高垣さんが仕事に穴あけてしまうほうが、よほど怖いですから」

社長「それだけ、投資してますからね」

 実に直球な話だ。要は、認めてもらえるくらい売れてみせろ、と。
 事務所に損害出すな、と。
 お前に投資した分は回収させろ、と。

P「わかってます」

 あの人は真っ直ぐ社長を見据える。

P「それは自分の義務ですから。そして」

P「間違いなく、売ってみせます」

楓「私も、Pさんと一心同体ですから」

楓「やり遂げてみせます」

 もはやふたりの逃げ道はない。
 成し遂げることという目標はあれど。そこに絡むのはお金。
 その現実に寒気が走った。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



257: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/12(金) 12:17:46.20 ID:fIrRLlpx0

 社長はタクシーで帰るといい、ふたりで帰宅を見送った。
 そして、座敷へ戻り。大将と三人。

P「大将……ごめん」

 あの人は大将に頭を下げた。

大将「いや、別にいいさ。知ってる奴は知ってることだ」

P「それでも」

大将「だーから。別にいいっての」

P「……」

大将「まあ、な。今でもうるせえ奴はいる。嫁を復帰させないごくつぶし、とか」

大将「お前らの業界は人材不足なのか?」

P「ほんと、申し訳ない」

 重苦しい雰囲気の漂う中。大将が語る。

 俺と嫁が付き合って結婚したってのは、知ってる奴は知ってる事実だ。
 別に隠し通そうとしたわけじゃないしな。
 嫁のいた事務所だって知ってるし、今でも動向は知らせてる。
 まあ、近所に住んでたちんちくりんがアイドルになってたってのは、びっくりしたけどな。

 この店に嫁を出さないのは、俺のわがままだ。
 嫁は一緒に店を切り盛りしたいと言ってくれるが、なんかな。
 嫁のネームバリューで店が繁盛するの、いやじゃねえか?
 あいつが家庭を守りたいと言って引退したんだ。嫁には家を守ってもらう。
 それに、家族も増えたしな。

 嫁がお前らの業界に戻らないのは、別にいやだからとかってわけじゃないし。
 もちろん、俺が引き止めてるわけじゃない。あいつがやりたいって言うなら、応援する。
 うるさく言ってる奴は、しょせん外野だからな。
 あいつの気持ちも、事務所の理解も、なーんもわかろうとしない。

 なあPよお。
 お前が俺たちのことを知ってて、ちょっかい出さないでいてくれるのは、知ってる。
 お前は信用できるってのは、今までの付き合いでわかってるつもりだ。
 それで裏切られるなら、それは俺の目が節穴ってだけだ。
 そのお前があの社長にばらしたんなら、あの社長だって悪いようにはしないだろうさ。



258: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/12(金) 12:18:20.54 ID:fIrRLlpx0

大将「ま、そんなわけで、だ」

P「……」

楓「……」

大将「俺は気にしちゃ、いない。そこはわかれ」

大将「な?」

 私たちはなにも言えない。
 大将は大将なりに苦労があっただろうに。そこは決して口に出さない。

大将「なんだな。Pと楓さんがくっついたってのは、俺にとっては朗報だ」

楓「朗報、ですか?」

大将「ああ。応援してたからな」

大将「業界とかしがらみとか関係なしにさ」

大将「いい男といい女がくっつくってのは、いいもんだろ?」

 あの人は頭をかく。

大将「こいつ固ぇからさ。早いとこ身を固めちまえって思ってたからな」

楓「ふふふっ。そうですか」

大将「楓さんや」

楓「はい」

大将「こいつを、頼む」

楓「……はい」

大将「それとPよお」

P「……なんです?」

大将「楓さんを泣かすな。俺がぶっとばす」

P「怖いですね」

大将「当たりめえだ。先輩なめんな」

 大将……。

 いろんな逆風があろうと、この人はずっと応援してくれる。
 それだけで、私たちは救われる気がした。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



259: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/12(金) 12:19:02.94 ID:fIrRLlpx0

 帰る前に事務所へ戻る。今後のことを話し合うためだ。
 事務所ではまだ、ちひろさんが仕事をしていた。

P「ちひろさん、あんまり無理しちゃだめですよ」

ちひろ「いえ、もうあがりますからご心配なく」

P「女性の残業は感心しませんよ?」

ちひろ「ふふふ。女性扱いしてくれるんですね。ありがとうございます」

 確かに夏向けイベントで忙しい時期だ。
 学生組の子たちは、夏休みが大いに稼ぎ時でもある。
 そんなわけで裏方も大忙し、ということになる。

ちひろ「打合せですか?」

楓「ええ、そうです」

ちひろ「社長とご一緒だったんでしょう?」

P「社長は先に帰りましたよ」

ちひろ「そうですか……」

 そう言ってちひろさんは、冷蔵庫からなにかを取り出してきた。

P「仕事場でビール、ですか」

ちひろ「ちょっとした息抜きです」

P「いやいや」

ちひろ「だってPさんも楓さんも、すっかりできあがってるじゃないですか」

楓「ふふっ。まあ、そうですね」

ちひろ「それに」

ちひろ「ひとり酒って、淋しいじゃないですか」

 ああ。
 そうだなあ。



260: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/12(金) 12:19:48.39 ID:fIrRLlpx0

 以前の私なら、ひとりで呑むことになんのためらいもなかったはずだ。
 でも今は。
 あの人のとなりで呑むことが、当たり前のようになってる。

 うん。ひとり酒は淋しい。

P「仕方ないなあ。今回だけですよ?」

楓「ええ。お付き合いします」

ちひろ「ありがとう。やっぱりこうして仲間と呑むって、いいじゃないですか」

P「ああ。うん」

楓「そうですね」

 ぷしゅっ。
 プルタブをひく音が響く。

ちひろ「じゃあ」

楓「ええ」

P「お疲れさまです」

 ほてった身体にビールの冷たさが心地よい。

 そうだよなあ。
 自分たちのことだけじゃなくて、こうしてがんばってくれる仲間がいる。
 この人たちのために、がんばれる。

ちひろ「職場でビールもいいですね」

P「背徳感満載ですしね」

楓「ふふふっ」

 先ほどまでの重苦しさから解放される。
 うん。
 単純に。がんばろう。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



265: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/12(金) 17:46:26.81 ID:jdlizT270

ちひろ「あまり遅くならないようにしてくださいね」

 ちひろさんは「ふふふ」と意味深な笑みを残して帰宅した。

楓「ふたりきり、ですね」

P「ですね」

 あの人は自分の椅子に腰をかける。

楓「これからのことですけど」

P「そうですね……」

 沈黙。

P「なんか、ちひろさんと呑んでたら、どうでもよくなっちゃいました」

 苦笑する。

楓「Pさんもですか」

P「ええ。数多く仕事こなして売るとか、考えたんですけど」

P「そんなの、どうでもいいや、と」

 その言い草におもわずおかしくなる。

楓「ふふっ。ふふふっ」

P「おかしいですか?」

楓「いえ。Pさんらしいなあって」



266: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/12(金) 17:47:19.06 ID:jdlizT270

P「僕らしい、ですか」

楓「ええ」

 今なら、あの人の考えてることがわかる。

楓「今までどおり、なにも変わりなく、ですよね?」

P「……まあ、そのとおりです」

 お互いに笑う。

P「今までやってきた方向は間違ってない、というか、正しいと思うんで」

楓「そうですよ」

P「ま、粛々と。やりますか」

楓「ええ。それでこそ」

楓「私が惚れたPさんです」

 恋の力は、ときに素晴らしいと思える。
 なんの根拠もなく、できると思えるその力。

P「……帰りましょうか」

楓「ですね」

P「なんか、ただビール呑みに戻ってきた感じですね」

楓「いいじゃないですか、それで」

 あの人と手をつなぐ。
 ぱちん。
 フロアが暗くなる。あるのは窓越しの街灯り。

楓「Pさん」

 自分の唇をあの人の唇へ、軽く重ねる。

楓「よろしくお願いします、ね?」

 あの人の表情はよく見えない。
 でも。

P「ええ。これからも」

P「末永く」

 その言葉で、明日からも。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



277: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/16(火) 17:41:11.75 ID:lIPd8jDo0

楓「ふう」

 ファンの熱気にあてられる。
 8月。
 セカンドシングル発売と同時に、ファンミーティングのライブを行っている。
 全国で六ヶ所程度のものだけど、会場を借りて有料のライブの行うのは初めてだ。

P「お疲れさまです」

 あの人がぬるいスポーツドリンクをすすめる。
 体調、特にのどの調子を崩さないよう、冷たいものにせずわざわざ常温にしている。

楓「Pさんもお疲れさまです。大変でしょう?」

P「いやいや、ステージの楓さんのほうが大変でしょう」

 お互いに譲り合ってる。どうぞどうぞって。
 なんだかなあ。

楓「うーん、なんて言うか。こんなに集まってくれて申し訳ないというか」

P「申し訳ない?」

楓「……いえ、謙遜はかえってファンの方に失礼ですね」

楓「ふふっ」

 あの人はなにも言わず、ただ笑顔で見つめてくれる。
 チケットは、全ての会場でソールドアウトだそうだ。
 反響と期待の大きさに逃げたい気持ちも沸いたりするけど、でも。
 私に会いに来てくれる、このことが素直にうれしい。

P「うれしそうですね」

楓「ええ。もちろん」

 あの人も満足そうだ。
 私も、ファンの反応が直接感じられるライブはとても楽しい。

P「楓さん?」

楓「はい?」

P「アイドルらしさが板についてきましたね」

楓「ええ、そりゃあもう」

 自信を持って言い切る。

楓「Pさんの教えのたまもの、ですから」

 忙しいけど、充実している。
 プロモーターや後援者へのあいさつ回りとか、いろいろしがらみや打算もあるけど。
 それでも、その忙しさが楽しいのだ。

 相変わらずとんぼ返りの日々だけど、Pさんとふたり旅。
 これもデートだ、と思えば。やる気も倍増。

 私たちの努力は、ちゃんと結果となって表れている。

楓「でも」

P「ん?」

楓「しばらくは、お預けですかねえ」

P「……なにがです?」

 なにがって。
 貴方とのプライベートデートですよ。
 そう言いそうになるけど、こらえる。

 まだ、成し遂げてなんかいない。これからこれから。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



278: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/16(火) 17:42:07.41 ID:lIPd8jDo0

 ライブが成功してすぐ。あの人が言う。

P「フルアルバムの制作に入ります」

 早い。まだセカンドが出たばかりだというのに。

楓「だいぶ早いんじゃないですか?」

P「いや、時期的にギリギリですね」

 12月にサードシングルを発売し、そのすぐあとにフルアルバムを出す、というスケジュールらしい。
 逆算すると、今からレッスンとレコーディングを行わないとまずいそうだ。

楓「Pさんにしては、だいぶ荒っぽいような気がするんですが」

P「いや、そういうわけでもないんですよ」

 企画としては、すでに動いていた途中だった。
 ライブの反響で、制作会社が前倒しを希望した、と。

楓「うーん……」

 あの人がゴーサインを出したのなら、できるのだろうけど。
 シングルではなく、フルアルバムかあ。

P「楓さんが心配になる気持ちはわかります」

P「ただ制作会社が前倒しを希望するなんて、普通はありません。スタジオを押さえる関係もありますし」

P「関係者のスケジュール調整もありますからね」

楓「なら」

P「それだけ、楓さんが売れる、と見込んでのことです」

P「大丈夫。僕がなんとかします」

 あ。
 そうじゃないのに。

楓「Pさん?」

P「はい?」

楓「だから、なんでひとりで抱えるんですか?」

P「あ」

楓「私とPさんの、ふたりの作業ですよ?」

 あの人は頭をかいている。

P「そうでした、はい。ふたりの作業ですね」

楓「ええ。一心同体でしょう?」

P「あはは。……はい」

P「これはチャンスです」

P・楓「「一緒にモノにしましょう」」

楓「ですよ、ね?」

 あの人は一瞬あっけにとられ。
 そして笑った。

P「いや、こりゃまいった!」

楓「ふふふっ」

 ビッグチャンス。確実にモノにしよう。
 大丈夫。あの人がいるから。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



279: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/16(火) 17:43:44.68 ID:lIPd8jDo0

楓「それはそうとですね」

 場所は大将の店。
 私はあの人に説教をしている。

楓「Pさんが忘れていたとは、まったく信じられませんねえ」

 事務所を移籍して一年。
 そう。
 大きな話でうやむやになっていたが、移籍して一年のお祝いすらしていなかった。

P「いやほんと。面目ない」

 ぺこぺこ謝るあの人を横目にして、大将はにやにやしている。

大将「俺はフォローできねえよなあ。お前が悪いんだし?」

P「いや、だからほんとに面目ないって」

 ふと、あの人の言葉が止まる。

P「あの。大将関係ないですよね?」

 大将は高笑いをしながら厨房へ引き上げた。

P「……ったく、都合悪くなるとすぐ引っ込むんだから」

楓「Pさんが言えた義理じゃないですよね?」

 私はとどめを刺す。

P「……」

 いや、私としても公開説教をするつもりはなかったのだ。
 ただ、仕事に明け暮れるあの人を見てるのがつらかったし。

楓「淋しかったんですよ?」

P「いや、まあ」

楓「確かに、仕事中は弁えて、ということはしっかりやってます。お互いに」

楓「でも、少しはプライベートに気を遣ってくれても、いいと」

楓「思うんですよねー」

 自分でもおとな気ないとはわかっている。
 でも、やっぱり記念日くらいは覚えていて欲しいものだ。

楓「私のわがまま、なんですかね?」

P「……」

楓「……なーんて。いいんです」

 少し気を抜く。

楓「私はどんなときでも、Pさんの彼女のつもりなんです」

楓「ただここのところ忙しくて、お互いのプライベートもおろそかだったじゃないですか」

楓「仕事ばかりで」

P「まあ、そうですね」

楓「ちょっとわがまま言ってみたくなっただけです」



280: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/16(火) 17:44:32.64 ID:lIPd8jDo0

 うそ。そんな簡単な理由じゃない。

楓「いえ、ほんとは」

楓「Pさんが忙しすぎてちょっとつらそうにしてたから」

楓「それが心配だったんです」

 そう。彼氏が仕事で悲鳴を上げているのを、自分はそばで見ているのだ。
 彼女として心配になるのももっともだと、思う。

楓「ここのところのPさんは、走りすぎです」

楓「ちょっとは息を抜いてください」

P「……走りすぎ、ですか」

楓「ええ。アルバムの話も含めて」

楓「なんか、功を焦っているみたいで、不安です」

P「……ふう」

 あの人がお猪口をあおる。

P「そうですね。焦っていたかもしれません」

P「楓さんのプロデューサーの前に、彼氏であるべきなのにね」

 あの人はなにかを考えている。

P「楓さん」

楓「はい?」

P「僕といて、つらくないですか?」

楓「え?」

 なにを言い出すのやら。

楓「Pさんは勘違いをされてません?」

P「なにをですか?」

楓「私は、Pさんと離れるつもりは、いっさい、これっぽっちも、ぜーんぜん」

楓「ありませんから、ね?」

楓「私は、Pさんとふたりだから、なんでも楽しいんです」

楓「私はつらいなんてこと、まったくありませんから」

楓「ご・か・い・し・な・い。こと!」

 あの人の額にデコピン。べちん。
 あ。
 モロに痛そうだ。

P「ふ。ははは。はははは」

楓「ふふっ。ふふふ」

 ひとしきり笑う。そして。

P「楓さん」

楓「はい」

P「大好きですよ」

 Pさんたら。知ってますよ。

楓「私も、大好きですよ」

 こんなにすんなり言えるのは。
 きっとお酒のせいばかりじゃ、ない。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



289: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/18(木) 17:52:02.72 ID:q8CGZ/HP0

 アルバムに向けて、レッスンが始まる。
 サードシングル曲もお願いしている、作曲家の先生とマンツーマンで。
 とはいえ、あの人も同席している。

作曲家「はい、オッケーです。……あいかわらず飲み込みが早いですね」

楓「ありがとうございます」

 セカンドシングルもお願いした方だ。お互いに気心が知れている。

作「これだったら、即レコでも大丈夫そうですね」

 そう言われると照れくさい。
 ベテトレさんとのボイトレは継続してるので、音の拾い方がよくなってるのかも知れない。

P「あとは、スタジオ待ちですかね」

作「そうだねえ。……って言うか、Pくんアレンジャーやらない?」

P「なんですか唐突に」

 あら。『Pくん』とは。

楓「Pさんと先生はだいぶお親しいんですね」

作「いやいや、親しいもなにも、こいつ俺の後輩ですから」

P「……あんまりばらさないでくださいよ」

 あの人は苦笑している。

作「てっきり普通のリーマンになるかと思ってたのに、なんの因果かなあ」

P「こうして一緒に仕事することになるとは」

作「ねえ」

楓「Pさんって、曲関係の仕事もなさるんですか?」

作「んっと、私よりできると思いますよ」

作「もっとも、本人にその気はないみたいだけど?」

 あの人は、両指でバツ印を出している。

作「こいつとは高校のときからかな? 知ってて」

作「オケ部の後輩でね」

 へえ。
 なにやら面白そうなネタだ。



290: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/18(木) 17:53:10.65 ID:q8CGZ/HP0

楓「じゃあ、Pさんは演奏ができるんですね」

作「なんだ? 言ってないのか?」

P「……言うわけないじゃないですか。仕事に直接関係ないし」

作「なんだもったいない。練習はしてるんだろ?」

P「ええ、まあ……」

 Pさんは言いづらそうにしている。

作「ヴァイオリンやってるんだよね、こいつ。小さいときから」

 あらあら、まあ。
 Pさんに似合わず。げふんげふん。

作「スズキメソードの教室通ってたんだよな?」

P「ええ」

作「学生オケ程度のもんでもソリストやったんだし、もったいないよなあ」

作「ピアノも少しはできるだろ?」

 あの人は頭をかくだけだ。

楓「なんで言わなかったんです?」

 ちょっと、Pさんを問い詰めたくなった。
 才能がありそうなのに。

P「んー。なんていうか」

P「趣味の範囲で楽しみたいというか、ね」

 まあその気持ちはわからなくもない。
 好きなことを仕事にするというのは、楽しみを奪いかねない。

P「先輩のいるところだから言えますけど」

P「社長には作曲アレンジも含めた『総合プロデュース』もやってみないか、と」

P「そう、言われてはいるんですけどね」

 ふむ。Pさんの曲を歌う、とか。
 それは、素敵だなあ。
 あ。
 でも、他の人が歌ったりするのはちょっと妬けるかも。

楓「将来は、そういうのも?」

P「いやいや。それは将来というよりまだまだ『そんなのも面白そうだな』という程度で」

P「業界のイロハを覚えるまでは、このままで」



291: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/18(木) 17:54:08.41 ID:q8CGZ/HP0

 しきりと謙遜するあの人に、先生が言う。

作「でも、お前はそういうの向いてそうな気がするんだよ」

作「仲間紹介するぞ?」

P「いやいや。先輩は音大進んでそれこそ専門の道じゃないですか」

作「あのな。音楽業界なんか横道ばっかり歩いてきたやつのが多いっての」

作「俺だってスタジオミュージシャンになったばっかりに、こうして足踏み外してるし」

 あの人と先生が爆笑する。

P「いや、リーマンが一番ですよね!」

作「まったくだ! 堅実が一番!」

 ちょっと心当たりはあるかも。
 私も、モデル稼業なんか始めなかったら、たぶん堅実に地元で事務員やってたかもしれない。
 で、かたぎの彼氏と結婚して。普通に主婦して。
 想像でしか言えないけど。

 でも今は、かたぎじゃないPさんとお付き合いしてる。
 失礼だとは思うけど。

楓「ふふっ。ふふふっ」

P「楓さん、僕なんかおかしいことでも言いましたか?」

楓「いえいえ、堅実もいいですね」

 私は笑いが止まらない。
 あの人と付き合ってる時点で、そんな堅実な、なんて言えるはずがない。

 堅実も、悪くないかもなあ。
 Pさんとの将来を想像して、なおさらおかしくなる。

作「ま、俺たちとしては」

P「一山あててしっかり稼いで」

作「ばら色の老後、ってか!」

作「自由業はつらいよな!」

P「ですね」

作「……お前は月給制だろ」

P「ああ、社保完備ですしね。十分堅実、ですか?」

作「ばーか」

作「ははは」

P「ははは」

楓「ふふふ」

 あの人との未来。そんなことを夢想する。
 どうなるんだろうな? どうしたいかな?

 レッスンの隙間に思う、そんなこと。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



292: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/18(木) 17:56:46.16 ID:q8CGZ/HP0

 レッスンも佳境に入って。だいぶものになってきた気がする。
 通し練習の休憩中。

楓「そういえば」

P「はい?」

楓「Pさんがヴァイオリンやっていたって、社長はご存知なんですよね?」

P「ええ。まあ」

P「履歴書に書きましたし」

楓「不思議に思ったんですけど」

 この前、あの人と先生の話で引っかかったことだ。

楓「どうしてPさんは、この業界に入ったんですか?」

楓「あまり乗り気でなさそうだったのに」

 Pさんは『趣味の範囲』にこだわっていた。
 なら、この業界ではなくてもよかったはず。
 かえって、Pさんの経歴はいろんな人に目を付けられそうだ。

P「そうですねえ」

 あの人は考える。

P「まあ成り行き、って言うのが正解でしょうね」

楓「成り行き、ですか?」

P「ええ」

P「実は僕、理系なんですよ」

楓「あら」

 へえ、そうなんだ。
 言われてみると、そういうふうに見えてくる。不思議だ。

P「ほとんどオケと研究室の往復で、就活してませんでしたし」

P「かといって院に進むにも、同期のやつらよりスタートが遅かったですから」

 ああ。そっか。
 あの人は好きなことにのめり込んで、他の重大ごとを忘れてたのか。

P「教授の推薦でメーカーに就職ってのもあったんですけど、なんとなく乗り気でなかったし」

P「で、オケのOBが紹介してくれたのが」

楓「今の事務所だった、と?」

P「ええ、まあ」

 そういうものかな。
 そうだな。私もあんまり『将来はこういう人に!』とか思い描いてたわけじゃないし。
 モデル事務所に入ったのも、まあなんとなくスカウトされてって感じだったし。



293: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/18(木) 17:58:55.43 ID:q8CGZ/HP0

楓「そのOBさんって、業界の方ですか?」

P「765プロのプロデューサーやってますよ」

楓「じゃあ、ライバルですね」

P「いやいや。そんな大それたことじゃなくて」

P「まあ、ふらふらしてた自分を誘ってくれた恩人ですよ」

P「親からは呆れられましたけどね」

 あの人は笑う。

楓「私もそうですよ」

楓「なんとなくモデル事務所にスカウトされて、面白そうだなって」

楓「それで決めたら、親から怒られましたもん」

P「そうでしょうねえ」

P「とても胸張ってドヤ顔できる仕事って、言えないですからねえ」



294: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/18(木) 17:59:40.67 ID:q8CGZ/HP0

 実際はわりときちんとしてて、それなりに厳しいところだけど。
 でも世間のイメージなんて、そんなものだ。

楓「それでも、最後はこうして送り出してくれましたし」

楓「今は多少名前も売れましたから、少しは親孝行できたかな、と」

P「そう思ってくれると、いいですね」

楓「ええ」

 あ。でも。

楓「Pさんを紹介するときは、もめそうですね」

P「ええ? そうですか?」

楓「そんなやつとの交際は認めん! とか言ったりして」

P「そりゃ困ったな」

 あの人はそう言いつつ笑顔だ。

P「なら、楓さんの親御さんが認めてくれるように」

P「少しは僕の名前が売れたほうがいいのかな」

 いいえ。

楓「大丈夫ですよ」

楓「私をしっかり、売ってくれるんですよね?」

P「……ええ」

楓「なら、それでいいじゃないですか」

 手ごたえはある。
 よく見えない将来だけど、あの人となら歩ける。
 いや。
 歩く。

 その想いはいっそう深くなる。

楓「Pさん?」

P「はい?」

楓「今度、演奏聴かせてくださいね?」

P「……機会があれば」

楓「楽しみにしてますね?」

楓「ふふっ」


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



295: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/18(木) 18:00:44.12 ID:q8CGZ/HP0

 メディア出演の合間を縫ってのレコーディング。
 季節はもう。

楓「Pさん」

楓「秋ももう、終わりですね」

 移動中の車窓。
 街路樹もだいぶ落葉している。

 アルバムのレコーディングも終わり、打ち上げ会場から移動している。

P「なんか、一年があっという間に過ぎていく気がしますね」

楓「ええ、ほんと」

 まだ年の瀬には早いけど。ほんとにあっという間の一年だった気がする。
 デビューシングル発売からは、まだ一年経ってないけど。
 そこに関わった時期からすれば、とても忙しい日々だった。

楓「どのあたりまで登ってきたんでしょうね、私たち」

P「ん?」

楓「成し遂げる目標へ、どこまで届いているんだろうって」

 やはり気になる。
 あの人と成し遂げるという目標。
 セカンドシングルもチャートインしてから、コンスタントに推移している。
 そろそろ、自分の立ち位置も気になってくる。

P「んー、そうですねえ」

P「目標は高いほうがいいので、まだまだと言いたいところですけど」

P「データで見れば、健闘してるでしょうね」

 年間シングルチャートでも上位に行くだろう。
 各フェスティバルでも新人賞候補としてノミネートされている。
 音楽番組出演回数も増えた。

P「社長は特になにも言いませんけど」

P「たぶん『トライアド』の次くらいに、うちの看板と考えてるんじゃないでしょうか」

楓「そうですか……」

 トライアドプリムス。
 あの人が初めてプロデュースした女の子たち。
 先日のドームツアーも大成功だったようだし、まさにうちの金看板。

 ちくり。
 痛みが走る。



296: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/18(木) 18:02:39.17 ID:q8CGZ/HP0

楓「Pさん」

P「はい」

 社長は厳命した。売れろ、と。

楓「彼女たちを超えられたら、成し遂げたことになるんでしょうか」

P「うーん。それはどうかなあ……」

楓「私は、醜いなあって。思うんです」

楓「なんで、Pさんにプロデュースされたのが、一番先じゃなかったのかなって」

楓「そう、思っちゃうんです」

P「楓さん……」

 これは贅沢な想いだ。それはわかっている。

楓「『トライアド』の三人に。ううん」

楓「凛ちゃんに、嫉妬するんです」

楓「Pさんと先に出会ったことに」

 そんなの、どうにもならないことだとわかっている。
 今こうして、Pさんと一緒にいられる。それだけで十分に幸せなことだ。
 でも。

楓「こんなに独占欲が強かったんだな、って」

楓「自分に嫌気が差すんです」

P「……」

楓「こうしてPさんとお付き合いして、とても魅力的な人だと、日々気づくんです」

楓「そして凛ちゃんが叶わなかった想いを、私は叶えられた」

楓「幸せだから、どんどん欲が深くなっていくんです」

 自分がこういう女だとは、思わなかった。
 いや。
 どこにでもいる、ただの女だ。

楓「なんででしょうね。こうして目標にまい進してるというのに」

楓「高みに昇っていくたびに、Pさんと離れていきそうで」

楓「怖いんです……」

 気がつけば、私は涙声になっていた。
 ぽろぽろ。
 ぽろぽろ。
 あふれてくる。

楓「Pさん……」

 路肩に車を止めた。そっと抱きしめてくれるあの人。

P「大好きです」

 ああ。
 その一言が欲しかったんだ。

楓「Pさん……大好き……好き……」

 Pさんとキスを交わす。
 ついばむような、触れるような、はかないキス。

 私は、ただ、泣いた。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



302: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/19(金) 12:22:05.00 ID:1yRbcLJD0

P「落ち着きましたか?」

 ひとしきり泣いて。
 その間あの人は、ただあてもなく車を走らせていた。

楓「部屋へ」

P「え?」

楓「Pさんの、部屋へ。連れて行ってください」

P「……いったいどうしたんで」

楓「お願いです」

 あの人の言葉をさえぎって、私は言った。
 最上級のわがままを。

P「……まったく」

 あの人が呆れたように言う。

P「お泊りとか言うのは、なしですよ?」

 あの人はどう思っただろう。それはわからない。
 でも。

楓「安心したいんです」

楓「Pさんが近くにいることが、感じられるように」

 弁えているからこそ、プライベート空間には侵入しない。
 暗黙の了解だ。
 でも、もう限界。
 ねんごろになろうが、それを自分で望んでいる。
 あの人は黙ったまま、車をすべらせた。

 事務所にほど近いマンション。あの人の部屋。
 中は整然としていて、驚くほど生活臭を感じさせない。

P「ほとんど寝に帰ってくるようなもんですからね」

 苦笑いしながらあの人が言う。

楓「いえ、男の人の部屋って感じがしなかったので」

P「僕がそんな甲斐性もちに見えますか?」

 お互いに見つめあい、噴き出す。

楓「ふふふっ」

P「ははっ。楓さんは失礼な人だなあ」



303: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/19(金) 12:22:40.34 ID:1yRbcLJD0

 改めてリビングを見ると。
 アップライトのピアノにエレクトーン、それから。

楓「あれ、ヴァイオリンケースですか」

P「ええ」

 あの人が手に取る。

P「きちんとメンテしてないと、すぐすねちゃいますから」

 その言い草がおかしい。

楓「手のかかるパートナーですね?」

P「楓さんには負けます」

楓「あら」

 そんなに手がかかりますか? 私。
 まあ。
 部屋へ連れ込めと言ってる女じゃ、手がかかるよなあ。

P「でも、そこも好きですよ」

 Pさんはたらしだ。
 ええ、そうですとも。

楓「そうやって女性を口説くんですね?」

P「口説くのは楓さんだけで十分です」

楓「ふふっ」

P「ははは」

 好きな人の部屋でふたりきり。襲ってください的なシチュエーション満載だけど。
 でも、あの人のことだ。
 きっと襲わない。

楓「聴かせてください」

P「曲、ですか?」

楓「ええ、一曲」

楓「そしたら、安心して帰れそうです」

P「なにか、リクエストあります?」

楓「いえ、お任せします」



304: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/19(金) 12:23:19.65 ID:1yRbcLJD0

 私のためのコンサート。もちろんお客は私だけ。
 あの人はチューニングを整え、構えた。

 あ。聞き覚えのある曲。
 なんだろう。
 すごく心に入り込んでくる。

 あっという間の時間。私はただ音に身をゆだねた。

楓「夜分に演奏させてしまって、ごめんなさい」

P「いえ、一応防音のしっかりしたところですから」

P「じゃないと、練習なんてできません」

楓「なんて曲ですか?」

P「エルガーの『愛のあいさつ』」

P「聞き覚えのある曲でしょう?」

 うん、よく知ってる曲だ。

楓「すてきな曲ですね」

P「……実はですね」

P「これ、エルガーが婚約者に贈った曲なんです」

 あの人はそう言って照れた。

楓「まあ」

P「お気に召しました?」

 ええ。もちろん。

楓「大満足です」

 あの人の気持ちに。
 私は感謝した。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



309: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/19(金) 17:23:07.99 ID:1yRbcLJD0

 12月。サードシングルとファーストアルバムの発売。
 デイリーとウィークリーチャートで一位を獲得した。
 その余勢のままに、ツアーがスタートする。

 12月から2月までの3ヶ月。全国八ヶ所をめぐるツアー。
 会場も2000人規模のホールだ。

楓「さすがに、大きいですね」

 初日。私は緊張を隠せない。

P「なに言ってるんですか。僕のほうが緊張しまくりですよ」

P「楓さんのせいですからね」

楓「私のライヴですもん。このくらいいいですよね?」

 となりのあの人の手には、愛器のヴァイオリン。
 そう。
 私はあの人を巻き込んだのだ。

 ツアーの企画会議で、私がもらした一言。

楓「Pさんが一緒にいたら、歌いやすいかなあ……」

 なにげなくつぶやいただけなのに、作曲家の先生が食いついた。

作「ですね! 今回は俺を含めて気心の知れたメンバーだし」

作「先輩の頼みなら、断る道理はないよなあ? Pくん」

 その一言で、あの人は固まった。

P「な、なに言ってんですか! 僕は裏方ですし」

作「いやあ。ステージにストリングスがあると違うんだよねえ」

P「……ああ、先輩にステージ監修お願いするんじゃなかった」

 Pさんは頭を抱えている。



310: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/19(金) 17:23:41.78 ID:1yRbcLJD0

P「さすがに事務所の仕事放り出して、先輩たちにお付き合いはできませんよ?」

作「そこは事務所の社長さんに話を通しておくさ」

作「それより、ちひろさんに話をしたほうがいいか?」

P「……いや、それだけは勘弁してくださいマジ頼みます」

 あの人はちひろさんに弱みでも握られてるのかな。
 今度ちひろさんに訊いてみよう。

 結局言いくるめられ、あの人はツアーバンドへ参加することになった。
 ツアー概要が事務所のボードに貼られ、それを見たアイドルたちが大騒ぎしたのは余談。

楓「私もここまで反響が大きくなるなんて、びっくりしました」

楓「でも」

P「でも?」

楓「私、Pさんのはじめてに、なれました」

楓「Pさんの初ライヴ。初お披露目」

 初プロデュースは叶わなかったけど、初演奏に立ち会える。

楓「うれしいんです。すごく」

P「僕はあんまりうれしくないですけどね」

楓「あら?」

P「でも楓さんの表情を見たら、これもいいかも、なんて」

P「思いました」

楓「ふふっ」

P「お付き合いしましょう? 僕もプロだ」

P「みんなをあっと言わせましょう」

楓「ええ」

 開演5分前のベル。
 さあ、行こう。ファンの待つ場所へ。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



311: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/19(金) 17:24:33.93 ID:1yRbcLJD0

 12月に二ヶ所、1月に三ヶ所、2月に三ヶ所。
 ようやく前半二ヶ所を終える。

 ツアーの忙しさにかまけたばかりに、恋人たちのクリスマスは忘却のかなたに去ってしまった。
 致し方ない。特番でテレビ出演もあったし。
 フェスティバルの表彰も待っている。最優秀新人賞を取ったのだ。
 年末までは、お仕事に励む。

社長「まずはおめでとう。がんばった甲斐があったね」

 社長がねぎらってくれる。
 表彰式のあと、ささやかながらとお祝いの会を開いてくれた。

 社長は、事務所近くのイタリアンレストランを貸切にしていた。
 都合のつく人たちと、ビュッフェ形式のパーティー。
 年末年始は事務所にとっても稼ぎ時だし、そうそうスケジュールをあわせられるはずがない。
 でも、うまく時間の取れたアイドルの子たちは来てくれた。

 その中に、彼女がいた。
 渋谷凛。

凛「高垣さん、おめでとうございます」

楓「ありがとう、凛ちゃん」

楓「それと。楓でいいですよ」

 凛ちゃんはうなずく。

凛「楓さん。びっくりしましたよ」

凛「どうやってPさんを引きずり出したんです?」

 その言い方には鋭い棘がある。
 私は覚悟しながら、慎重に話を進める。

楓「たまたま、作曲の先生とPさんが同じ学校だったそうですよ?」

楓「先生たっての希望でしたから」

 うそは言ってない。事実そのとおりなのだ。

凛「そうなんですか」

凛「私たちのプロデュースをしてくれた間、自分がプレイヤーだったってこと」

凛「一言も言ってくれませんでしたから」

 凛ちゃんは眼をふせる。



312: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/19(金) 17:25:04.48 ID:1yRbcLJD0

楓「そう、でしたか」

凛「ええ、だから」

 彼女は一呼吸待って、口にする。

凛「貴女がうらやましくて、仕方がありません」

 ずきん。
 彼女の瞳と言葉はストレートだ。
 嫉妬の想いを隠そうともしない。

 負けるわけにはいかない。

楓「ありがとう」

楓「たまたまご縁があったから、Pさんに協力してもらったので」

楓「大事にしないといけませんね」

 迂遠なやり取りを、彼女はストレートに理解することはないだろう。

凛「私たちも、Pさんにプロデュースしていただいて」

凛「ここまで成長できました」

凛「かけがえのない縁だと思ってます」

 そして。彼女は。

凛「楓さん」

凛「Pさんを、返してください」


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



313: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/19(金) 17:26:16.25 ID:1yRbcLJD0

 彼女は、常にまっすぐだ。
 その強い想いを感じると同時に、私は怒りをおぼえた。

 あの人は、ものじゃない。
 返せなんて簡単に言うな。
 Pさんは、貴女のペットでもなんでもないのだ。

楓「凛ちゃん」

 彼女はなにも言わず、ただじっと見つめている。

楓「その言葉、Pさんの前で言える?」

 私の放った言葉に、彼女は目をそらす。

楓「私は、貴女がうらやましいの」

楓「Pさんと一緒に作り上げてきた今の貴女たちが、とてもまぶしい」

楓「とてもいい関係だったんだなって、わかります」

 自分の言葉にも棘がある。でも自重はしない。

楓「だから、Pさんをぞんざいにするようなことは、言わないで欲しい」

楓「Pさんはいつだって全力なの、凛ちゃんはよくわかってるでしょ?」

 彼女はなにも言わない。

加蓮「あー! 凛! なにやってんの!」

 加蓮ちゃんが私たちの間に割って入る。

加蓮「スタッフの人たちに料理運ばないとならないんだから、ちょっとは手伝ってよー」

凛「あ」



314: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/19(金) 17:26:49.43 ID:1yRbcLJD0

 凛ちゃんが、我に返る。

凛「う、うん。そうだったね」

凛「……失礼なことを言って、ごめんなさい」

凛「また、あとで」

 加蓮ちゃんに手を引かれ、この場を後にする。

楓「ええ、また」

 私は足の力が抜けそうになる。
 こりゃ大変だ。

 気持ちがわかるぶん、たちが悪い。
 あの人はスタッフと談笑している。
 気持ちを切り替えようと、ドリンクコーナーへ歩いていった。

奈緒「楓さん」

楓「奈緒、ちゃん?」

 気がつけば、奈緒ちゃんがそばに来ていた。

奈緒「あの……」

奈緒「なんか、凛が失礼なこと言ったんじゃないか、って」

 なるほど。心配してフォローに来たのか。

楓「いいえ。大丈夫」

奈緒「そ、それなら、いいんです、けど……」

楓「どうかしたんですか?」

奈緒「あの」

奈緒「Pさんが楓さんのステージのサポートメンバーに入っていて」

奈緒「それを凛が見て、ショック受けてたんで」

 そっか。
 奈緒ちゃんは優しいね。

奈緒「あの、今度」

楓「?」

奈緒「ふたりでお話したいんですけど……いいですか?」

奈緒「凛のことで」

 避けて通れないだろうな。うん。
 でも、こうして心配してくれる友人がいる。
 彼女は幸せものだなあ。

楓「ええ」

楓「お互い時間が取れるときに、ぜひ」

奈緒「……ありがとうございます!」

 奈緒ちゃんはお礼を言って、凛ちゃんたちのところへ戻っていった。
 たぶん加蓮ちゃんも、私たちの様子を気にして、割って入ってくれたんだな。

 私の恋は、まだ波乱含み。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



331: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/22(月) 12:19:26.79 ID:dAn92ud40

 翌日。今日は大晦日。
 今日と年明け三が日はお休みをいただいた。
 実家に帰ることもなく、部屋にひとり。

『Pさんを、返してください』

 昨日の凛ちゃんの言葉が、繰り返し頭の中に響く。
 凛ちゃんはあれから話しかけてくることもなく、パーティーは和やかに終わった。
 でも。
 私の気持ちは乱れていた。

P「楓さん、どうかしました?」

楓「いえ、なんでも」

P「?」

 言えるはずがない。
 まさかPさんをめぐって、諍いが起こってるなんて。
 今あの人に言えば、責任を感じてなんらかのアクションを起こすだろう。

 それだけは、今は避けないとならない。

 なにも根拠のないままそう結論付けて、私は平静を装って引き上げた。
 そして。
 こうしてひとり、部屋で悶々としている。

 まったく。
 私はなにをしてるんだろう?



332: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/22(月) 12:20:06.13 ID:dAn92ud40

 手近にあったクッションを抱きしめたまま、無為に時間だけが過ぎる。
 ああ。どうしたら。

楓「ふう」

 ため息だけが通り過ぎる。

 ライバル出現。といえば、聞こえもいいだろう。
 でも、そうじゃない。
 あの人が気を遣いすぎて、私から離れてしまうこと。それだけが気がかりなのだ。

 あの人の優しさが、怖い。
 想像できてしまうのだ。
 凛ちゃんと私との関係を気にして、お互いが傷つけあわないよう、距離をとる。
 それはすなわち。あの人と別れてしまう、ということ。
 あの人は、自分を押し殺してまで全体の調和を考える。そういう人だ。
 それは、私が決して望まない結末。

 あの人のいない生活なんて、考えたくない。

楓「会いたい……会いたいよお……」

 誰も気づくことのない言葉。
 あの人に届かない言葉。

楓「どうしたらいい?」

 ひとりの部屋が広すぎる。
 私はすっかり涙もろくなってしまった。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



333: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/22(月) 12:20:41.25 ID:dAn92ud40

 そのとき。
 携帯に着信がある。
 相手は。

楓「はい。高垣です」

奈緒「楓さん? お休み中ごめんなさい。奈緒です」

楓「……奈緒ちゃん」

 どうやら、奈緒ちゃんもお休みだったらしい。
 あの人でなかったことに少し残念な気持ちになるけど、なぜかほっとする気持ちもあった。

奈緒「今、どちらかにお出かけでしたか?」

楓「いいえ。家にいますよ」

奈緒「……昨日の今日で申し訳ないんですけど」

奈緒「よかったら、少しお話できますか?」

 こんなに乱れっぱなしで、満足に話もできないかもしれない。けど。
 今、話をしたい。

楓「ええ、いいですよ。どこかで待ち合わせしましょうか?」

奈緒「そうですね……じゃあ事務所で」

奈緒「そこで待ち合わせしたら、あと喫茶店かどこかで」

 天の配剤。そんな言葉が思いついた。
 きっと今、話をすべき相手が奈緒ちゃんなのだ。

楓「ええ。じゃあ事務所で」

 私は泣きはらした目をどうにかごまかしつつ、準備を始めた。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



340: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/23(火) 12:13:37.89 ID:dkn07Xpr0

奈緒「年の瀬のお忙しいところ、ありがとうございます!」

 奈緒ちゃんがおじぎをする。

楓「奈緒ちゃんだって忙しいでしょ? お互い時間があったんだし、いいでしょう?」

奈緒「そう言ってもらえると助かります」

 奈緒ちゃんはしっかりしてるなあ。
 トライアドで一番上だから、どうしてもまとめ役にならざるを得ないだろうし。

奈緒「ほんとはもっとゆっくりしたときにお話できればって、思ったんですけど」

奈緒「昨日から、凛の様子が……ちょっと……」

楓「……どうしたの?」

 喫茶店のボックス席。
 ファンの人に見られることも考えて、個室ボックスのあるお店にいる。

楓「私は、今日は暇だし」

楓「ゆっくりお話しましょうか」

 奈緒ちゃんが切り出しやすいよう、話を振る。

奈緒「……昨日は、凛が失礼なことを言ったみたいで」

奈緒「ほんとに! ごめんなさい!」

 いきなり奈緒ちゃんが謝りだした。

楓「どうしたの?」

楓「別になにも言われてないし。気にしないで」

 私はなだめることしかできない。

奈緒「凛が、ずっと言ってるんです」

奈緒「『あんなことを言うつもりなかったのに』って」

奈緒「なんか、すごく後悔してるみたいだったし……」

 ああ。
 凛ちゃんは不器用なんだ。
 感情のままに言葉を吐いて、そんな自分を嫌悪してるんだ。

楓「奈緒ちゃん?」

奈緒「はい」

楓「凛ちゃんはPさんのことが、好きなのかしら?」

 奈緒ちゃんは、こくり、と。うなずいた。

 優しさは罪深い。
 なにもはっきりしないまま離されてしまったのでは、気持ちのやり場がなくなってしまうだろう。

 決着させないとならない。たとえ時間がかかろうと。

楓「凛ちゃんとPさんとのこと、聞かせてもらえます?」

 私はとても重苦しいものを抱えたまま、奈緒ちゃんの話を聞く。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



341: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/23(火) 12:15:00.12 ID:dkn07Xpr0

 奈緒ちゃんは、ゆっくりと語りだす。

 Pさんと私たちが一緒に仕事をはじめたのは、3年くらい前です。
 凛はすでにアイドルの仕事をしてましたけど、私と加蓮はデビュー前で。
 凛は、歌で勝負したいと思ってたようですけど、私や加蓮がついていけなくて。
 そこの間を取り持っていたのがPさんでした。

 凛は最初、ものすごく抵抗したんですけど。
 Pさんは私たちを、ダンサブル・パフォーマンスのユニットとして売り出したんです。
 私はそこそこ体力はあったし、加蓮は負けるのがとにかく嫌いだったから。
 凛も踊りは弱かったみたいで、なんか、スタートラインが一緒になれてうれしかったんです。

 Pさんはとにかく「自分たちでよく考えろ」って、そればっかりで。
 でも、結局いろいろアドバイスしてくれるんです。
 凛は特に、歌への希望は捨ててなかったので、だいぶPさんに食って掛かってました。

 考えてみると、凛が一番Pさんといることが多かったかな。
 自分が納得するまで食いついてたし。

奈緒「だから、Pさんと一緒に作っていくことが楽しくて、それで」

楓「好きになった、のかな?」

奈緒「……たぶん」

 凛のヴォーカルをメインに据えるようになったのは、ユニット結成で半年くらいです。
 今のスタイルですね。
 ダンサブルからパワー・ミュージックへ変わることに、ファンの抵抗があるかもってことで。
 だいぶ準備して動いていたようです。

 Pさんはとにかく、凛のヴォーカルを指導してました。
 凛もうれしそうで。

奈緒「ああもう、付き合ったらいいじゃん、って」

奈緒「加蓮とよく言ってました」

 そう言って、奈緒ちゃんは笑う。

奈緒「でもそうやってはやし立てて、私たちは、やってはいけないことをしたな、って」



342: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/23(火) 12:15:38.90 ID:dkn07Xpr0

 ユニットデビューして一年経たないくらいで。
 レッスン中ですけど。
 凛が突然、泣き出したんです。

 失恋の歌で。初めてのバラードだったから、凛もがんばってたんですけど。
 泣き出した理由を訊いても、ただ首を振るばかりで。
 私も加蓮も、なんとなく気づいてました。

 Pさんと凛のこと、投影してるんだな、って。

 ステージで気づかない程度のミスも出てきたんです。
 一緒に踊ってる私たちが、ちょっと違和感を感じる程度ですけど。
 でも、Pさんはわかってたみたいで。

奈緒「それから二ヶ月くらいで。Pさんが配置換えになっちゃって」

奈緒「凛は、その場では気丈にしてたけど。三人だけになったら、取り乱して」

奈緒「『どうして!』って。そればかりで」

楓「……そう」

 どうしてこうも、恋する乙女は泣き虫になるんだろう。
 私は、凛ちゃんの気持ちを思いながら、自分の泣き虫っぷりを振り返る。

奈緒「楓さんの『こいかぜ』を聴いて、凛が」

奈緒「『私みたい』って、つぶやくのが聞こえて」

奈緒「そして、あのツアーのメンバー見て、はじけちゃったんじゃないかな、って」

 奈緒ちゃんは、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
 彼女も、後悔の念に囚われているんだろう。

 あの人は、罪作りだな。
 そういう自分も、かなり罪なやつとも、思う。

奈緒「楓さん」

楓「ええ」

奈緒「楓さんとPさんは、お付き合いされてるんですか?」


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



350: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/23(火) 17:47:36.57 ID:n8HI+vGo0

 奈緒ちゃんの問いかけに、逡巡する。
 社長が知ってることとはいえ、さすがに関係を公言するのは。
 でも。
 凛ちゃんの、そして奈緒ちゃんや加蓮ちゃんの気持ちを考えると。

 伝えたほうがいいのだろうか。

奈緒「あ、あの」

奈緒「なんか、失礼なこと訊いちゃいましたね! ごめんなさい!」

 奈緒ちゃんはしきりに恐縮する。

 ええい。ままよ。

楓「えっと、奈緒ちゃん」

奈緒「……はい」

楓「凛ちゃんにはまだ、言わないでね?」

楓「……確かに、お付き合いしてます」

奈緒「……」

 ああ。言っちゃった。言ってしまった。
 私のばか。

奈緒「そ、そう……ですか……」

奈緒「やっぱり、そうなん……ですか。あ! ほんと、ごめんなさい」

奈緒「やだ! なんだろ。あは。あははは」

 奈緒ちゃんは動揺しまくりだ。
 衝撃の大きさが表情に表れている。

楓「奈緒ちゃん……ごめんなさい」

 私は、彼女をなだめるので手一杯だ。

奈緒「いえ! 大丈夫! ちょっとびっくりしちゃっただけで……」

奈緒「……いえ……やっぱり、ショックです」

 仕方がないだろう。大事な友人の想い人を取ってしまった女が、目の前にいる。

奈緒「あの、凛ばかりじゃなくて。えっと……あたしも……」

奈緒「好きでした」

 素のままの奈緒ちゃんが、そこに見えた。



351: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/23(火) 17:49:04.12 ID:n8HI+vGo0

奈緒「あたし……ああ……私も、ひどい女だと、思ってます」

奈緒「凛があんなに好きでいて、まっすぐに想っているのに」

奈緒「私も、Pさんのこと好きだった、なんて」

 そっか。そうだよね。

奈緒「言えるわけないです。だって」

奈緒「凛は大切な、私の友だちですから」

 奈緒ちゃんは大切な人を壊したくないから、自分を諦めた。
 たぶん。加蓮ちゃんも。

楓「奈緒ちゃん?」

奈緒「はい」

楓「つらかったよね?」

 奈緒ちゃんはひどく淋しそうな顔をする。

奈緒「いいんです。私には手の届かない人だと」

奈緒「そう、思ってます」

 彼女は手を握り締め、なにかをこらえていた。
 そして、顔を上げる。

奈緒「楓さん」

楓「はい?」

奈緒「絶対! 幸せに」

奈緒「……なってください、ね」

 奈緒ちゃんの必死の想いに、応えたい。
 いや。
 そうあらねばならない。

楓「ええ。必ず」

楓「そして、凛ちゃんにも。私から」

楓「答えます」



352: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/23(火) 17:49:43.68 ID:n8HI+vGo0

 彼女が必死にこらえていた目から、涙があふれる。
 私も、ふと。

 向かい合わせで、大人ふたりが泣きあっている。

楓「うん……うん……」

奈緒「絶対ですから、ね……」

楓「約束……しますね……」

奈緒「あと」

奈緒「今度、一緒に呑みに行きましょう。ね?」

楓「……あら」

奈緒「もう呑める歳ですから」

奈緒「私の失恋パーティーにご招待です……」

楓「いいのかしら? 私が参加して」

奈緒「張本人をつるし上げます」

奈緒「強制参加ですから、ね」

楓「わかりました」

楓「必ず、行きましょうね」

 泣き笑いしながらふたり、約束を交わす。
 責任は大きいな。
 ああ。
 あの人にも、言わないとダメだろう。

 もはや、秘め事なんて浮ついたことは、言えない。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



353: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/23(火) 17:50:47.22 ID:n8HI+vGo0

楓「さて、と」

 奈緒ちゃんと分かれてすぐ。
 私はあの人に連絡をとる。

P「はい。CGプロのPでございます」

楓「あ、Pさん。楓です」

P「ああ、楓さん。どうしました?」

楓「えっと、今どちらです?」

P「ああ。あいさつ周りが終わったとこです。年末ですしね」

P「もっとも、年末年始とか関係ない業界ですけど」

 あの人は笑う。

楓「あの、今日よかったら」

P「はい」

楓「お時間取れませんか?」

楓「大事なお話が、あるので」

P「え、ええ。大丈夫ですよ?」

 あの人がよく理解しないまま、約束をとりつける。
 奈緒ちゃんや凛ちゃんの顔が浮かぶ。
 そうだ。きちんとしないと。

 今年ももうあと数時間。開いているお店はあまりに少ないので。
 私は再び、あの人の部屋に来ていた。

楓「無理言ってごめんなさい」

P「いえ、いいですよ。楓さんには知られている場所ですし」

P「で。大事な話って、なんです?」

楓「あの……私たちのお付き合いのこと」

楓「奈緒ちゃんに、打ち明けちゃいました……」

 微妙な顔をしたあの人に、昨日からのいきさつを話す。
 ゆっくり、理解してもらえるように。

 こういう恋愛ごとは、たぶん、男と女で考え方が違うものかも知れない。
 だから、その隙間を埋めるように、ゆっくり。
 隠し事はしないと、ふたりで決めたのだから。

 話を進めていくたびに、あの人の顔がくもる。
 そうだろう。自分で意識しないうちに、自分のアイドルに恋慕を浮かばせてしまったのだから。
 しかも、凛ちゃんだけでなく、奈緒ちゃんまでも。

P「そうですか」

 そう一言こぼして、あの人は黙ってしまう。

楓「あの。Pさんのせいじゃないです、よ?」

楓「私だって」

楓「Pさんが振り向いてくれなかったら、たぶん、諦めてました」

楓「Pさんは、私を見出してくれた恩人ですし」

楓「一時の想いで、困らせることはしたくないですから」



354: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/23(火) 17:52:19.49 ID:n8HI+vGo0

 あの人がなにを発するのか。その言葉が怖い。
 私は関係を壊してしまったのかも。
 後悔してもしきれない。

P「楓さん」

P「あんまり、自分を責めないでください」

楓「え?」

P「こうしてお付き合いしてるのは、僕が望んでしたことですから」

P「それとも、楓さんは後悔してますか?」

楓「……いえ」

P「なら、いいでしょう」

P「いつかは、広く知らせないとならないことです」

P「まあまだ、そのときじゃないと思いますけど」

楓「……」

P「ただ、凛にははっきり、けじめつけないと」

P「いけないですね」

 お互い、ため息が出る。
 覚悟してたこととはいえ、誰かを傷つけるのは、気持ちのいいものではない。
 ただ、それを恐れていては、なにも得られない。

P「今度、凛と三人で、話をしましょうか」

楓「……」

 考える。このままストレートに話をして、いいものなのか。
 凛ちゃんの想いの深さを考えると、傷の深さから立ち直れない気がする。

楓「Pさん」

P「なんでしょう?」

楓「まず、奈緒ちゃんとお話しませんか?」

P「うーん」

 あの人は考え込む。

P「外堀から、ですか?」

楓「そういうのもありますけど」

楓「私と凛ちゃん、お互いよく知らないですし」

楓「これは、私の勝手ですけど」

楓「トライアドの三人と、共演させてもらえませんか?」

 これは私のわがまま。でも。
 凛ちゃんもプロだ。
 私とあの人の仕事を見て、わかってもらうしかない。
 仕事から見えることもあるだろうと、そう思ってる。

楓「凛ちゃんに認めてもらえなければ」

 私は、力をこめる。

楓「たぶん、誰をも説得できないと、思います」


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



357: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/23(火) 18:00:41.30 ID:n8HI+vGo0

 テレビの中。アイドルたちが歌っている。
 大晦日の歌合戦。
 トライアドの三人は辞退している。

P「あいつら、ニューイヤーライヴがありますからね」

 奈緒ちゃんは、唯一の休みを私に費やしてくれた。
 本来なら、このテレビの奥で歌っていただろう。
 でも、今年は違う。

 彼女たちは、自分たちだけでお客さんが呼べるほど大きくなっている。
 メディアに依らない、彼女たちの試み。
 自分たちで、企画したのだそうだ。

P「まあ、チャレンジとしてはおもしろいと思いますけどね」

P「でも、事務所的には困ったもんですよ」

 企画を通すため、テレビ局や広告会社、プロモーターへ根回ししておかなくてはならない。
 歌合戦を辞退するなんて、事務所としては大きな打撃なのだ。

 それを通せるだけの知名度。人気。
 集客できると判断させる力。
 うらやましい。

楓「Pさんも一枚かんでるんですか?」

 意地悪な質問をしてみる。

P「いや、僕なんて」

P「せいぜい『ライヴをよろしく』とあいさつすることしか、できませんよ」

 あの人は謙遜するけど。
 そういう地道な営業が大事だ。モデル時代を思い出す。

楓「そういうPさんが、すごいと思いますよ?」

P「そうかなあ」

楓「ふふっ」

↑ ↑ ↑

なんで抜けちゃったんだろうorz
よろしくです ノシ



355: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/23(火) 17:53:46.84 ID:n8HI+vGo0

 あの人の部屋でふたり。お酒も入っている。
 年始列車もあるし、いつもより遅くまで電車はあるけど。
 ただわがままを言っただけだ。年越しは一緒にいたい、と。

 あの人も覚悟してたのか、断ることもなかった。

楓「こうしてると」

P「はい?」

楓「恋人みたいですね」

P「……なにをいまさら」

 この前と同じ整然とした部屋。ふたりで寄り添ってる。

楓「ほんとに、今年もお世話になりました」

P「いえ、こちらこそ」

P「お世話しました」

楓「ひどいですね?」

楓「ふふふ」

 あの人の温もりがうれしい。
 お互いに確認しあったのだから、我慢することもないだろう。

P「なんだか、緊張しますね」

楓「いまさらですか?」

 寄り添って、テレビ。
 今年は『赤組』の勝利かあ。

P「来年は、こんなことできないと思いますよ?」

楓「そうなんですか?」

P「たぶん」

 あの人は画面を見つめる。

P「テレビの、向こう側です」

 そっか。
 あの人が言うなら、そうなんだろう。

 除夜の鐘が、テレビから聴こえる。
 そして、年明け。

楓「あけまして、おめでとうございます」

P「はい。おめでとうございます」

 お互いに見つめあい、笑う。

楓「今年も……うーん」

楓「その先も」

楓「幾久しく、よろしくお願いします」

 あの人に向かい、三つ指。

P「あはは。そうですね」

P「幾久しく」

 そして。
 私とあの人は結ばれた。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



365: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/24(水) 12:17:24.65 ID:owCth95v0

楓「ん……」

 朝。となりには、あの人。
 朝チュンはいいものだ、なんて。誰が言ったんだろう。

 なにかが大きく変わるものかと、ほのかに期待はしていたけど。
 特になにも変わらなかった。
 いや、痛かったことは認めるけど。

 身体が悲鳴をあげているみたい。

楓「のど、渇いたな……」

 重い身体を引きずって、こっそり。
 寝室を抜けてキッチンへ向かい、昨日のグラスで水を一口。
 ああ、染み渡る。

P「起きたんですね……」

 音を立てないように気をつけたのだけど、あの人は起きてきた。
 寝ぐせ。かわいい。

P「僕にも水、ください」

楓「あ、はい」

 自分のグラスをそのまま、あの人に渡す。

P「ん……ふう」

P「生き返ります」

 一気に飲み干して、あの人がつぶやく。
 時計を見ると、もうお昼近くになっていた。
 カーテンを開けようとして、あの人が。

P「いや、開けるなら」

P「お互い、服着てからにしませんか」

 あ。
 私はなにか浮かれていたらしい。



366: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/24(水) 12:18:03.25 ID:owCth95v0

 お昼にもなるということで、あの人は買いだしに出かけた。
 もちろん、おせち料理なんかない。
 作る暇もない。

 テーブルに並ぶ、牛丼弁当と、とん汁。

P「貧相な正月で申し訳ないです」

楓「いえ、好きですよ?」

P「それ、フォローになってないというか、とどめ刺してますから」

 お互いに苦笑い。

楓「ほんとなら」

楓「Pさんのために手料理とか、振る舞うところなんでしょうけど」

P「まあ、なんにもないですし」

P「それに」

楓「それに?」

P「お酒のつまみばかりに、なりそうじゃないですか?」

 失礼な。多少は作れます。
 つまみ兼用かもしれないけど。

楓「普通の料理だってやります。ひとり暮らしなめるな」

P「それは知ってます」

楓「大事なのは、手抜きとコスパ、ですから」

P「楓さんにサイフ、握られそうですね」

楓「当然でしょう?」

 まだまだ確定しない先の話で、笑いあう。
 いいなあ。
 あの人だから、いいのだ。

楓「そうそう。牛丼に紅しょうが大盛りにして食べるの、好きですねえ」

P「行ったことあるんですか?」

楓「よくお世話になりましたよ? モデル時代に」

楓「夜中に行くと、ワンカップ持ったレゲエさんが、牛皿つついてたり」

P「またディープな時間帯に行きますねえ」

P「僕は、紅しょうがおかわりして食べたりしてました」

楓「さすがにそれは、できませんねえ」

楓「ふふふっ」

 正月のめでたい日に、牛丼談義。
 午前11時の牛丼が一番うまいとのうわさとか。
 お店の七味は、ふりかけにしか見えないとか。
 おしんこはめっちゃ高いけど、うまいから困るとか。

 確かに結ばれたふたりだけど、なにも変わっていない。
 平常運転の安心感。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



367: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/24(水) 12:20:07.09 ID:owCth95v0

 2日。初売りの喧騒を残したまま。
 私は事務所に来ている。

 本当なら3日まで休みだけど、あの人が出勤しているのだ。
 正月体制で、交替で電話番をする。

ちひろ「楓さんまでお手伝いすることないんですよ?」

楓「いえ、家にいても暇なので」

楓「それに、皆さんの仕事を拝見できるので、私もうれしいです」

ちひろ「Pさんもいるからですか?」

楓「ふふっ、そうですね」

ちひろ「あらあら。妬けちゃいますね」

 あの人を肴に盛り上がる。
 実際付き合ってるなんて言えないけど、こうして冗談にくるんでしまうのも、たしなみだろう。

 ちひろさんは、いろいろ書類を作っている。
 いわゆる勤怠管理だ。
 この業界、時間は不定期だし、直行直帰は当たり前。
 一応グループウェアで管理しているとはいえ、自己申告の世界なので、なんともアバウトなのだ。

ちひろ「私がチェックしておかないと、労基からうるさく言われますしね」

 苦笑せざるを得ない。
 タレントは別にしても、スタッフはサビ残が当然。
 ブラックと言われても仕方ないところもある。

楓「ちひろさんも大変ですね」

ちひろ「社長には、事務所立ち上げから使っていただいてますから」

ちひろ「もう腐れ縁みたいな感じですかねえ」

楓「バイトさんとか、雇わないんですか?」

ちひろ「ああ」

ちひろ「バイトやパートは、入れないようにしてるんですよ」

楓「あら」

ちひろ「うちの業界は、ちょっとした情報漏れが命取りですから」

ちひろ「責任のない人を入れるわけにいかないんですよ」

楓「なるほど」

ちひろ「私も誓約書、書かされましたからね」



368: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/24(水) 12:20:48.84 ID:owCth95v0

楓「厳しいんですね」

 今のご時勢、このくらいは当たり前なのだろう。
 ツイッターやフェイスブックで、簡単に情報が広がってしまうのだ。
 アイドル情報なんてそれこそ、宝の山だろう。

ちひろ「まあ、アイドルの皆さんといっぱい接することができるんで」

ちひろ「目の保養ですよね」

 忙しいだろうに、ちひろさんは今を楽しんでるようだ。
 うらやましいな。

楓「私もやってみたいかな」

ちひろ「お勧めしませんよ? お給料安いし」

楓「あら、それは困るかも」

ちひろ「ふふふ」

楓「ふふっ」

 私たちふたりの話を、あの人はただ聞いているだけ。
 三が日だし、そうそう電話があるわけじゃない。

P「なんか、楽しそうですね」

ちひろ「ええ、楽しいですよ?」

ちひろ「書類さえなけりゃ」

 それはそうだ。
 三人で笑いあった。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



369: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/24(水) 12:21:42.70 ID:owCth95v0

P「少しだけですけど、行ってみます?」

楓「いいんですか?」

 3日。あの人に、トライアドのライヴへと誘われる。
 本当は関係者でないから、はばかられるのだけど。
 それに。

 凛ちゃんのことが、まだなにも決まってないし。

楓「うーん……」

 私が悩んでいると、あの人が。

P「奈緒の様子、気になりませんか?」

楓「……ええ、気にはなります、けど」

 奈緒ちゃんはステージで、しっかりやれてるだろうか。
 まあ、原因たる人間がこんなこと言うのは、間違ってる気がするけど。
 それに、凛ちゃんと顔を合わせるのは、正直怖い。

P「ま、楓さんが行かないようなら、僕もやめておきますけど」

楓「え? でも」

P「彼女が嫌がること、すすんでやるなんてできないでしょう?」

楓「あ」

 あの人の言葉がずしりと重い。
 そうだ。
 私とあの人は、彼氏彼女の関係と認め合ったんだ。
 なにより、私の事情を最優先にする、と。あの人の宣言なのだろう。

P「楓さんが考えてることくらい、わかりますよ」

P「顔を合わせづらいなら、客席からステージ見て、そのまま帰りましょう」

楓「Pさん……」

 やっぱりかなわないな。

楓「それなら、ぜひ」

楓「行きたいです」

 彼女たちと共演したいと思うなら、しっかり偵察するべきだろう。
 もっと、心強くありたい。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



374: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/24(水) 17:36:48.28 ID:F5djKHjD0

 トライアドプリムス・ニューイヤーライヴ・2デイズ。
 2日からアリーナライヴをこなす彼女たち。

楓「……うわあ」

 客席からステージをうかがう。圧倒される熱気。

P「すっかり、僕の手の届かないところに行った、気がしますね」

 あの人の声が、観客の声援に消される。
 すでに公演中のところ、スタッフにお願いして入場させてもらった。

 暗転からステージライトが点灯し。
 タイトな姿の三人が浮かぶ。

楓「あれは……」

 手に持っているのは、フラッグ。
 彼女たちはカラーガードなのだ。

 激しいビートにのせて、フラッグパフォーマンスを魅せる三人。
 手に持ったフラッグを回しながら、飛び散る汗もそのままに。
 そして。三人が輪になり向かい合うと。

 トン。

 つま先で蹴り上げたフラッグが宙を舞い、互いに交換。

楓「すごい……」

 完璧な振り付け。ダンスユニットから変わったといっても、まったく衰えなど見せない。
 私は会場の一体感に、ただ圧倒されるだけ。

P「よし!」

 聞こえるかどうかの叫びを、あの人があげた。

楓「Pさん」

P「ええ。すごい」

 私たちは、そのステージパフォーマンスに酔いしれる。



375: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/24(水) 17:38:00.67 ID:F5djKHjD0

凛「みんなー! どうもありがとー!」

加蓮「はあ……はあ……楽しんでもらえたかな?」

客席「イェーー!!」

奈緒「加蓮、息あがってんじゃん」

加蓮「みんな応援してくれるから、ちょっとがんばってみた」

凛「倒れないでね? ダメだよ?」

加蓮「前のめりに倒れるから大丈夫」

奈緒「最初からダメなのかよ」

客席「はははは」

 トークも慣れたもの。さすがだな。

凛「それじゃあ、みんな。入場のときにもらったもの、用意してね!」

 観客は手にそれを持つ。紙製のミニフラッグ。
 トライアドプリムスのロゴが入っている。

凛「じゃあまずは、練習してみましょう!」

奈緒「みんな、ついてきてねー」

加蓮「はーい。じゃあ、前、前、右、右」

奈緒「左、左、上あげて」

凛「右回りー、左回りー」

奈緒「前に三回ー」

加蓮「上!」

凛「うん、完璧だね」

加蓮「そりゃあ私たちのお友達だもんね! 完璧だよね!」

奈緒「さすがだね! みんなに拍手!」

客席「パチパチパチ……」

凛「じゃあ本番だね! みんなの応援ソング!」

奈緒「レディー!」

加蓮「セット!」

凛・奈緒・加蓮「ゴー!!」



376: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/24(水) 17:39:02.93 ID:F5djKHjD0

 明るいビートにのって、三人の歌声。
 元気が出る。

P「楓さん?」

楓「はい」

P「共演、したくなりました?」

楓「……正直、まだ一緒にできるほど、実力はありません」

楓「でも、彼女たちと共演できたら」

楓「なんて幸せなことかな、って」

 あの人と私は手をつなぎ、ステージを眺める。
 恋愛とか恋敵とか。
 そういう自分が矮小に思えた。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



382: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/25(木) 12:18:40.49 ID:NLRXh8Ue0

 ライヴの余韻覚めやらぬままに。あの人と帰路につく。

楓「彼女たちは」

P「?」

楓「プロですね……」

 やはり顔は合わせづらい。スタッフに断りを入れて抜け出してきた。

P「プロっていうか、結局」

楓「結局?」

P「アイドルが、好きなんですよ。あいつら」

楓「そっか……」

 好きこそものの上手なれ、とは言うけど。
 アイドルの自分が好きならば、それを高めたいと思うのかもしれない。

楓「私には、無理かも、ですね」

P「おや? 白旗ですか?」

楓「だって」

楓「私はPさんが、好きですから」

P「……言ってくれますね」

楓「言っちゃいます」

楓「ふふっ」

 うん、あの人が好きだ。
 Pさんと一緒にがんばる自分が好きだ。

 それでいいじゃないか。

楓「やっぱり、Pさんと一緒だから」

P「ん?」

楓「私はがんばれるんですよ?」

P「……責任重大ですね」

 矮小だろうが、正直に、愚直に。
 きっと、わかってくれる。
 いつか。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



383: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/25(木) 12:19:37.11 ID:NLRXh8Ue0

 夜。奈緒ちゃんにメール。

『今日のライブ、こっそり見に行きました。
 三人が魅せるパフォーマンスはすごかったですよ!
 奈緒ちゃんががんばってる姿を見て、自分もがんばらないとって思いました』

 ほどなく、返信。

『スタッフさんから聞きました!
 来てくれてうれしいです(`・ω・´)
 でも、せっかくなら楽屋に来て欲しかったかなって思います(´・ω・`)
 あ、凛にはまだ大晦日のこと言ってないので、安心してください(・ω・)b』

 奈緒ちゃんは、私なんかよりずっと大人だなあ。
 自分もつらいだろうに、それを押し込めて振舞っている。

 なんか、私のほうがお子ちゃまだな。なんて。
 そんなことを考えていたら、携帯が鳴った。

楓「はい」

奈緒「あ、楓さん! ライヴ来てくれてありがとうございます!」

楓「Pさんから聞きました。みんなで作ったんですって?」

奈緒「はい。ファンのみんなにお返しできないかなって」

奈緒「ずっと三人で考えていたんで」

楓「じゃあ、昨日と今日は特別、ってことかな?」

奈緒「うーん、いつもライヴは特別なんですけど」

奈緒「今回は自分たちの企画だから、気合が入ってたかもしれないです」

楓「奈緒ちゃんは今は?」

奈緒「あ、もう自宅です。みんな疲れちゃって」

奈緒「楓さんは?」



384: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/25(木) 12:20:10.07 ID:NLRXh8Ue0

楓「私も自分の部屋」

奈緒「そうでしたか」

楓「Pさんがいると思った?」

奈緒「……いえ!……ああ、ちょっとは」

奈緒「お邪魔したら悪いかなーって」

楓「Pさんは仕事してるみたいですよ? 明日の仕事始めの準備だって」

奈緒「仕事始めかあ……仕事始めなのに、その前に仕事って」

楓「ねえ……変よね?」

奈緒「ですよねー」

 奈緒ちゃんと夜電話。
 この前ふたりで大泣きしたら、自然と距離が近づいた気がする。

奈緒「Pさんってほんと、仕事命!の人なんですねー」

楓「奈緒ちゃんたちの担当のときもそうだった?」

奈緒「はい。あたしたち、すっかり子ども扱いで」

奈緒「時々、こいつぶん殴る、って思ってましたよ?」

楓「ふふっ」

奈緒「でも、Pさんには」

奈緒「『ファンあっての自分』って、ずっと言われてましたから」

楓「ああ」

奈緒「だから、ステージでは絶対弱みは見せません」

奈緒「Pさんに怒られるとかっていうんじゃなくて」

奈緒「悲しくさせちゃうんで」

楓「そっか」

楓「好きな人を悲しくさせるの、いやだもんね」

奈緒「……はい」


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



391: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/25(木) 17:38:31.77 ID:NLRXh8Ue0

奈緒「あ! で、でも! 気にしないでくださいね!」

奈緒「あたしが勝手に想って、勝手に諦めて……勝手に自爆しただけなんで……」

楓「奈緒ちゃん……」

 しんみりしてしまう。
 ううん。
 ここで私までしんみりしたら、奈緒ちゃんに申し訳ない。

楓「そうそう。私ね」

奈緒「はい」

楓「ホッケに釣られて、事務所に入ったの」

奈緒「……はい?」

奈緒「ほ、ホッケ? ですか?」

楓「そう。ホッケ」

奈緒「え? え? どういうことです?」

楓「Pさんにね。『ホッケうまいよ!』って」

楓「そう居酒屋で言われたのが、はじまり」

奈緒「え? な、なんかよくわからないんですけど」

楓「んっと。出会いなんてどこに転がってるか」

楓「わからないなあ、って。そう思ったの」

奈緒「……ああ。うん。ですね」

 奈緒ちゃんは反応がいいな。凛ちゃんと加蓮ちゃんにいじられてるんだろうな。

奈緒「あたしなんて、映画館ですよ」



392: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/25(木) 17:39:03.04 ID:NLRXh8Ue0

楓「Pさんに声かけられたの?」

奈緒「はい。スカウトの人じゃなくて、Pさんでした」

 今度Pさんをとっちめてあげよう。うん、そうしよう。

奈緒「しかもロビーとかじゃなくて、館内ですよ?」

奈緒「上映終わったあと、ぼろぼろ泣きながら『いい映画だよねえ』ですから」

奈緒「ただの変質者ですよね? これ」

 もっと常識的な人と思ってたけど、これは。

楓「奈緒ちゃん」

楓「今度ふたりで、Pさん問い詰めない?」

奈緒「あ、いいですね!」

奈緒「よし! なんかPさんの困った顔想像したら、元気が出てきました」

楓「ふふふ」

奈緒「楓さん」

楓「はい?」

奈緒「時々……電話してもいいですか?」

楓「……ええ」

奈緒「よかったー。あたし、トライアドで一番上だし、なんかこう」

奈緒「相談できるお姉さんがいたらいいな、って」

楓「だいぶ子供っぽいお姉さんだけどね?」

奈緒「そんなことないですよー!」

楓「そうかしら?」

奈緒「頼りにしてます。ね?」

楓「はい。頼りにされます」

奈緒「えへへへ」

楓「ふふっ」

 夜も更けて、長電話。
 私にかわいい妹ができた。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



398: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/26(金) 17:58:31.24 ID:4N6djIEa0

社長「えー。長々あいさつするのもしんどいので」

 仕事始め。
 実際にはもう、仕事は動いているけれど。これは形式というか、お約束だ。

社長「あけましておめでとう。今年もがんばりましょう」

一同「ぱちぱちぱち……」

ちひろ「えー、皆さんの手元にお弁当と飲み物は行き渡ってますでしょうか?」

ちひろ「それじゃあ、Pさんにもごあいさついただきます」

P「じゃあ。僕も長々あいさつするのは面倒なので」

P「では今年もがんばりましょう。いただきます」

一同「いただきます」

 事務所にいるスタッフと一部アイドルたちで昼食。
 松花堂弁当と吸い物、それからソフトドリンク。
 普通の会社ならよくある光景。

 Pさんは昨日、人数の取りまとめとケータリングの確認をしていた。
 どこまでもまめな人だな。

楓「なんかこういうのは新鮮ですね」

P「前の事務所では、こういうのなかったんですか?」



399: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/26(金) 18:00:30.40 ID:4N6djIEa0

楓「ええ。セルフマネジメントが基本でしたから」

楓「事務所ではスケジュール確認程度で、ほとんどフリーランスと変わらなかったですね」

楓「だから、なんか社員になったみたいでうれしいです」

 アイドルという仕事は十分に非日常だから、こういう平凡な行事がなんとなくうれしい。

P「ああ、新鮮かもしれないですね」

P「僕は毎年のことなんで、今年はどこに弁当頼むかなとか」

P「そういうことばっかりで」

P「まあ、食い気が一番ですかね」

楓「でも、食欲が原動力って、ありますよね」

 とても元旦を、牛丼で迎えたとは思えない。
 このギャップが好き。

楓「ふふっ」

P「なにかおかしいですか?」

楓「いえ」

楓「Pさんは、かわいいなあ、って」

 2月まで、ツアーで苦楽を共にする人。
 いや、その先も。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



400: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/26(金) 18:01:30.67 ID:4N6djIEa0

 ツアー最終日。
 八ヶ所とはいえ、よく走りきったものだ。

『最終日のステージ、見に行きますね!』

 奈緒ちゃんからメールが届いていた。
 彼女のスケジュールを確認すると、その日はオフだとのこと。
 ひょっとすると。

 事務所で確認してみたら、トライアドの三人は全員、オフ。

楓「ふむ」

P「ん? どうかしました?」

楓「えっと。奈緒ちゃんから、最終日を見に来るってメールが」

P「ほう?」

楓「……Pさんも、そう思います?」

 たぶん、三人そろって見に来るんだろう。
 それなら、相応のおもてなしをするべきだろうな。

P「なら、正攻法で」

P「アイディアがあります」

楓「Pさんのアイディアですか」

P「楓さんならやれると思うので」

P「あんまり時間がないですけど、やりましょう」

楓「わかりました」

 最終日まで四日。作曲の先生を中心に、ほぼ缶詰めでリハをこなす。
 彼女たちのお気に召せばいいけど。

 ステージも最終盤。さあ、召し上がれ。



401: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/26(金) 18:03:08.35 ID:4N6djIEa0

楓「ありがとうございます。実はですね」

楓「えー、私に、かわいい妹たちがいまして」

楓「まあ、ほんとの妹じゃないんですけどね。事務所の子たちです」

楓「その子たちがですね。『ステージがんばって!』って言うので、今日はちょっとがんばろうかと」

楓「妹たちのために、二曲ほど、用意しました」

楓「楽しんでくれるといいかな? って、思います」

楓「では、お楽しみください」

 ピアノが和音を出して、音合わせ。よし。

   LaLaLiLaLiLaLiLa~♪

 スキャットで歌いだす。
 その曲。
 ユーリズミックスの『There Must Be An Angel』

   No-one on earth could feel like this.
   I'm thrown and overblown with bliss.
   There must be an angel
   Playing with my heart.

『こいかぜ』で鍛えた換声点。その特徴に一番適う曲を、あの人は選んだ。
 今、自分がやれる最大のパフォーマンスを。

 楽しんでね。凛ちゃん、奈緒ちゃん、加蓮ちゃん。

   I walk into an empty room
   And suddenly my heart goes "boom"!
   It's an orchestra of angels
   And they're playing with my heart.

 アニー・レノックスの天使のような声。
 私がどれだけ迫れてるか、わからないけど。

 ただ、歌い上げる。

   (Must be talking to an angel)

 歌い上げた、あと。
 沈黙を破るかのような喚声と拍手。

 その地鳴りを確かめて、私はヘッドセットをつける。
 そして、エスニックの太鼓の音。

 シャカタクの『Fire Dance』

 先生のエレピが踊る。
 私は夢中でティンバレスを叩く。そしてヴォーカル。
 あの人は、私の横。ヴァイオリンソロで絡む。

 激しいダンスナンバー。
 これは、彼女たちに贈るためのもの。

楓「はあ……はあ……」

楓「ありがとうございます!」

 割れんばかりの拍手。
 彼女たちは、どこかで見てるだろうか。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



407: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/29(月) 12:21:39.44 ID:QwBHlYRQ0

加蓮「楓さーん!」

 ステージが終了して。
 楽屋へ飛び込んできたのは、加蓮ちゃんだった。

加蓮「もうすごいすごい! よかったー!」

 興奮気味に、加蓮ちゃんが抱きついてくる。

楓「あ、あの……」

加蓮「あ! ご、ごめんなさい!」

 困惑してる私を見て、加蓮ちゃんがあわてて離れる。

楓「ふふっ。ありがと」

加蓮「いえ、ほんと。すっごく! すっごくよかったです!」

加蓮「楓さんみたいに、あんなに歌えたらいいのになあ」

奈緒「……はあ……はあ。加蓮はこういうとき、なんでそんなに走れるんだ?」

 奈緒ちゃんは息を切らしている。

加蓮「えー。私そんなに走ってないよ?」

奈緒「そうだけどさあ。よく人ごみかき分けられるよな」

楓「まあ、奈緒ちゃんも落ち着いて。ね?」

 ふたりに飲み物を渡す。

奈緒「あ、ありがとうございます。それと」

奈緒「ステージ、最高でした」

 奈緒ちゃんが笑顔を見せる。加蓮ちゃんはこくこくうなずいている。

加蓮「あ、そうだ。後半のあの二曲」

加蓮「私たちに贈ってくれたんですよね?」



408: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/29(月) 12:22:11.53 ID:QwBHlYRQ0

奈緒「妹たちって、楓さんが言ってくれたから。ちょっと恥ずかしくて」

楓「あら。そう?」

 ふたりとも、まんざらでもなさそうな顔をしている。

楓「奈緒ちゃんが来てくれるって、メールもらったから、ね」

加蓮「あー! 奈緒ったらちゃっかり楓さんとアド交換してるし!」

奈緒「い、いや、加蓮。悪かった、悪かったって!」

 奈緒ちゃんはばつが悪そうだ。

加蓮「私も楓さんとお話したいー! 仲良くなりたいー!」

楓「加蓮ちゃん、私と仲良くしてくれるの?」

加蓮「もちろんです! きれいなお姉さんは好物ですから」

楓「ふふふっ。ありがと」

加蓮「あ、そうだ。奈緒、ちゃんと連れてきたよね?」

奈緒「ん? ああ、引っ張って来たけど」

 本命登場、か。

奈緒「おーい、凛」

 がちゃり。
 なんとも複雑な顔をして、凛ちゃんが入ってきた。

凛「……楓さん、おつかれさまです」

楓「……ええ、ありがと」


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



416: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/30(火) 12:12:40.61 ID:amIhASnM0

 空気が重い。
 お互いに、次の言葉が出てこない。

奈緒「お、おい。なにお見合いしてんだよ。ほ、ほら」

 事情を知ってる奈緒ちゃんが、どうにかしようと会話を促す。

楓「え、ええ」

凛「あ、ごめん」

 それでも、ちょっとやそっとで、こんな空気を打破できるわけがない。

加蓮「ねえ、凛」

 そんな雰囲気を破ったのが。

加蓮「言いたいことがあったら、言えばいいじゃん」

加蓮「私は、空気読んだりしないよ」

 豪胆な乙女がそこにいた。

凛「う、うん……」

 加蓮ちゃんに促されるように、凛ちゃんが切り出す。

凛「あの、楓さん」

楓「……はい」

凛「この前はごめんなさい!」

 驚いた。
 凛ちゃんがいきなり謝罪してきた。
 あまりに急なことで、私は思考が追いつかない。

楓「え? ど、どうしたの?」

凛「あの……ずっと謝らないとって思ってたんです!」

凛「年末のパーティーのこと」

 ああ。そっか。
 奈緒ちゃんが言ってたっけ。後悔してるって。

楓「凛ちゃんも、ほら」

凛「え?」

楓「座って。ね?」

楓「ゆっくりお話もできないでしょ?」



417: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/30(火) 12:13:30.72 ID:amIhASnM0

 まっすぐっていいな。
 自分に至らないところがあれば、こうしてすぐに謝罪できる。
 その素直さがうらやましい。

凛「は、はい」

楓「うん。よろしい」

 なにを言われるかと思ったけど。いい意味で肩透かしだ。
 私は凛ちゃんにも、飲み物を渡す。

凛「あ、ありがとうございます」

楓「いいの。気にしないで」

凛「……はい」

 どうしよう。
 そうは言ったものの、ここでなにか話をできる雰囲気でもない。

楓「んっと」

 思い悩みながら、口に出す。

楓「凛ちゃんがよかったら、女子会しようか」

楓「加蓮ちゃんと、奈緒ちゃんも一緒に」

凛「え?」

楓「場所は……そうね」

楓「私の家。どう?」

加蓮「行きたい! 行きたいです!」

 真っ先に反応したのは加蓮ちゃん。

加蓮「私たち三人とも寮だから、お互いの部屋行ったりはするけど」

加蓮「楓さんのおうちに行けるなら喜んで!」

 すでに決定事項のようだ。目の輝きが違う。

奈緒「……あたしは……えっと」

奈緒「……凛は、いいのか?」



418: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/30(火) 12:14:01.92 ID:amIhASnM0

 奈緒ちゃんは凛ちゃんを気遣っている。当然だろう。
 この中で事情を知っているのは、私と奈緒ちゃん。
 そして、三人の絆は深い。

 凛ちゃんはしばらく目を泳がせて。

凛「楓さんがよかったら」

凛「行ってみたい、です」

 よかった。
 ハードルをひとつ飛び越えた感覚だ。

奈緒「凛、いいんだな?」

凛「うん」

奈緒「じゃあ」

 奈緒ちゃんは安堵の笑みを浮かべる。

奈緒「三人でお邪魔します。よろしくお願いします」

楓「ええ。楽しみにしてます」

楓「あ、そうそう。加蓮ちゃんと凛ちゃんとも、アド交換しないとね?」

加蓮「やったー! しますします!」

凛「……え?」

 凛ちゃんは不思議そうな顔をしている。

凛「私も、ですか?」

楓「うん、だって」

楓「凛ちゃんと、仲良くしたいし」

楓「凛ちゃんのこと、よく知りたいから」

楓「ね?」

 凛ちゃんは泣き笑いのような、複雑な表情だけど。
 そんな凛ちゃんを見て、奈緒ちゃんは安堵する。
 加蓮ちゃんも、とても喜んでいる。

 問題を先送りしてることは否めないけど。
 でも、慌てることはないじゃないか。
 三人はライバルで、そして。

 大事な妹だ。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



419: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/30(火) 12:16:17.12 ID:amIhASnM0

加蓮「ところで楓さん」

楓「はい?」

加蓮「なんであの曲選んだんですか?」

楓「ああ」

 もう種明かししてもいいだろう。

楓「Pさんがね。いくつかセレクトして」

楓「私が決めたの」

凛「Pさんが……」

 凛ちゃんは遠い目をしている。
 きっとうらやましいと思ってるのだろうな。

楓「でも、練習したのは4日前からよ?」

奈緒「えー?」

加蓮「……なんか、反則ですよね?」

加蓮「それで、あんな歌聴かされたら、ねえ」

 三人は顔を見合わせる。
 その目は、間違いなくプロだ。

凛「どうして」

 凛ちゃんが切り出した。

凛「どうして、あの曲なんです?」

楓「そうねえ」

 私は考えをまとめる。

楓「Pさんはどう考えてたか、わからないけど」

楓「私は、三人にできるだけのもてなしをしたかったから」

楓「だから、私のできる全力を、見せたかった」

楓「それだけじゃ、だめ?」



420: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/30(火) 12:17:04.05 ID:amIhASnM0

 凛ちゃんは軽く首を横に振る。

凛「えっと。正直に言って」

凛「寒気がしました」

凛「楓さんがあまりに圧倒的で、同じ事務所でよかったって、思ったくらいで」

 あら。それなら。

楓「気に入ってくれたのかしら?」

凛「……悔しいですけど」

 凛ちゃんは笑みを浮かべた。
 私はその笑みに。

楓「よかった。やった甲斐がありますね」

楓「だって、ね? トライアドの三人は、私の憧れなんですもの」

 奈緒ちゃんと加蓮ちゃんは、私の発言に驚いてるようだ。
 凛ちゃんは、なぜかうれしそうな顔をして、言う。

凛「私、思ってたんです」

凛「失礼ですけど、楓さんがここまで来れたのはPさんのおかげだろうな、って」

凛「でも、そうじゃない。楓さんは楓さんです」

凛「うん……すごい」

 そんな凛ちゃんの姿を見て、奈緒ちゃんが。

奈緒「だろ? Pさんもすごいんだろうけど」

奈緒「楓さんが、マジですごいんだよ」

加蓮「うん。私もそう思う」

加蓮「改めて、楓さんのファンになっちゃいました」

楓「そっか」



421: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/30(火) 12:17:40.07 ID:amIhASnM0

 素直にうれしい。

楓「やっと同じラインに、立てたのかな?」

 凛ちゃんは、ちょっと恥ずかしそうに言ってくれた。

凛「同じラインかどうかはわからないけど」

凛「楓さんと一緒になにかできたら、って」

楓「ふふっ」

 それは光栄だ。

楓「私も、そう思ってるの」

 今日は、本当によかった。
 全ての物事に感謝する。

楓「凛ちゃん、奈緒ちゃん、加蓮ちゃん」

凛「はい」

奈緒「はい」

加蓮「はい」

楓「これからも、よろしくね」

 凛ちゃんははにかみ。奈緒ちゃんはうれしそうに。
 加蓮ちゃんは、また抱きついてきた。

 少し、距離が近づいた。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



427: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/30(火) 17:43:32.31 ID:amIhASnM0

 凛ちゃんたちは、あの人に会わずに帰っていった。
 顔を合わせるのが、ちょっと恥ずかしいらしい。

 私とあの人は、ツアーの打ち上げで絶賛呑んだくれ中。
 とはいえお酒の弱いあの人なので。

作「おう! 呑んでっか!」

P「呑んでねっす」

作「なんだよー。付き合い悪いなーおい」

P「だから呑まねっす」

楓「先生? そろそろその辺で」

 私が介抱役とか。どうしてこうなった。
 作曲の先生は、だいぶごきげんな絡み酒だった。
 あの人も、先輩だから邪険にできないとお付き合いしたけど。

 完全に沈没。
 目が完全に据わってる。

楓「もうだいぶ呑まれたようですし、そろそろお開きにしましょう?」

作「えー、楓さん冷たいなー」

楓「いえ、また機会はありますから」

作「もうちょっと呑みましょうよ、よければ、ねー!」

 先生もできあがってる。いやはや。

作「だってPがね! 初めて俺と組んでくれたんですよ!」

作「こんな機会、もうないかもしれない!」

P「僕も、勘弁して欲しいですね」

作「あんだとー! お前はもっとガツガツ! ガツガツ!」

作「もっと全面に出ろよー。俺さみしいじゃんかよー」

P「先輩、暑いっす」

楓「あのお、Pさん」

P「ふぁい?」

楓「先生って、昔からこんな感じですか?」

作「そう、でーす!」

P「高校生だったから、わかんねっす!」

 困ったおやじが二匹。
 仕方がないので、お店の人に会計をお願いする。
 なんとかふたりをなだめて、スタッフさんたちとお店の外へ。
 先生のことは、スタッフさんにお任せすることにした。

スタッフ「こんなに機嫌のいい先生も珍しいですからね」

 苦笑いしながら任されてくれた。



428: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/30(火) 17:44:12.92 ID:amIhASnM0

楓「Pさん。大丈夫ですか」

P「……眠いっす!」

 こりゃだめだ。
 あの人をマンションに届けるため、タクシーを拾う。

 走ることしばらく。マンション前に着く。

楓「ほら、Pさん。着きましたよ?」

P「……ふぁい」

 あの人を引きずりおろす。

楓「カギ、どこですか?」

P「あー、ズボンのポケットの……」

楓「はいはい、わかりましたから」

 失礼してポケットをまさぐる。あった。
 エントランスの呼び出し卓に、カギを差し込む。
 自動ドアが開く。

 勝手知ったるなんとやら、ではないけど。
 あの人とエレベーターに乗り、部屋階まで。
 なんとか部屋まで届けた。

楓「Pさん。お水、どうぞ」

 とりあえず寝室に押し込んで、水の入ったコップを手渡す。

P「あー……ありがとう……ござます……」

 あの人は浮ついたまま、水を。
 つるん。

楓「あ!」

 ばしゃあ……

 あの人のズボンが水浸し。

楓「い、いま! なにか拭くもの出しますから」

P「あー……おかまいなく……」

 よろよろとあの人が立ち上がり。
 ズボンを脱ぎ始め。

楓「!」

 あの。
 こういうとき、どうすればいいんでしょう。



429: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/30(火) 17:45:24.46 ID:amIhASnM0

楓「き、着替え! 出しますね!」

P「すいませーん」

 恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。
 あの人と身体を合わせた仲だというのに。
 まだまだ、こういうサプライズには弱いみたいだ。

 私はあわてて、あの人にパジャマを渡す。
 ズボンとカーペットを手近なタオルで拭き。ズボンはハンガーへ。
 タオルは、えーと。脱衣所に放り込んでおくか。

楓「じゃ、じゃあ、私。そろそろおいとまします、ね?」

 あの人が着替えたのを確認して、引き上げようと。

P「楓さーん」

楓「はい」

P「帰っちゃうんですかあ?」

 ああ。
 こんなに隙だらけのあの人を、放っておけるはずがない。

P「僕はですね? 淋しいんですよお」

P「楓さんがいないのが、淋しいなあ……」

 前後不覚になるまで呑んで。
 もう。

楓「大丈夫です」

楓「ここにいますから」

P「ほんとですかあ?」

楓「ええ。だから」

楓「離さないでください、ね?」

 あの人は『にへら』と笑い、ベッドの横をぽんぽんと叩く。
 はいはい。

 とりあえず、服を脱ぐ。しわになるのはまずいし。
 下着姿のまま、私は指定席に促されて、もぐりこむ。
 それじゃあ。
 おやすみなさい。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



436: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/31(水) 12:19:54.89 ID:tyy0NvXR0

P「あの」

 お昼近く。
 リビングで、あの人は反省しきり。

P「なんか、ごめんなさい」

楓「……」

 私は、特になにを言おうともしない。

 朝、あの人の「うえぇ!?」という声で起こされた。
 それはそうだろう。
 気がつけば、下着姿の私がとなりに。
 なにごとかと思うのは当たり前。

 前後不覚になっていたとはいえ、あの人はおぼろげに昨夜のことを覚えていたようだ。
 で。
 今、こういう状況。

P「いろいろ、手を煩わせてしまって、ほんと」

楓「ふふっ、ふふふっ」

 つい我慢できず、噴き出してしまう。
 別に怒っているわけじゃないのだ。

楓「Pさんは、ほんと。まじめですね」

 酔っぱらいの扱いは、慣れてるわけじゃないけど。
 こんなもんかと思えば、別に腹を立てるもんじゃないし。
 それに。
 あの人の世話ができるのはうれしい。

楓「Pさんと添い寝なんて、願ったりですし?」

 しきりに照れまくる。かわいい。

楓「ただ困ったなあって思うのは」

楓「私の着替えがない、ってことですね」

P「……ああ」

 あの人は、ぽりぽりと頭をかく。



437: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/31(水) 12:20:43.41 ID:tyy0NvXR0

楓「で、Pさんにお話がありますけど」

楓「ここに、私の着替えとか置いても、いいですよね?」

P「……まあ、そうですね」

楓「別に同棲しましょ、っていうことじゃないですよ?」

楓「お付き合いしてるわけですし、今後もこういうことがあったりするかも、じゃないですか」

P「ん、確かに」

 あの人は固いから、なし崩しになっちゃうことを心配してるんだろうな。

楓「それとも、誰かいい人を連れ込んだり」

P「それは絶対にないです!」

 Pさん、顔が近いです。
 いや、真剣なのはわかりますけど。

P「あ。すいません」

 まったくもう、かわいいなあ。

楓「同棲なんかしたら、マスコミの格好の的になるってこと、わかりますし」

楓「なにより。Pさんがきちんとしたいってこと、理解してますから」

楓「ただ現実こうして、困ったなあって思うことがあるわけで」

楓「そのくらいは認めてくれても、いいですよね?」

 あの人はこくりとうなずいた。

楓「それじゃあ、そのあたりの準備はしておきます」

楓「急ぐものじゃないですし、ね?」

P「はい」

楓「それよりせっかくのオフなのに」

楓「なんかこうして、ふたりで恐縮してるのもなんだかなあって」

楓「思いません?」



438: ◆eBIiXi2191ZO:2013/07/31(水) 12:21:25.35 ID:tyy0NvXR0

 そう。私だけじゃなく、あの人もオフなのだ。
 ツアーが終わった翌日だから、そこは無理をしていない。

P「ああ、ですね」

P「どこか、出かけてみます?」

楓「いえ?」

P「?」

 やっぱり。あの人は素でわかっていない。

楓「せっかくふたりきりのオフなのに、いちゃいちゃくらい、したいじゃないですか」

楓「家でまったり。イエーイ」

楓「なんつって」

 あれ?
 あの人の顔が引きつってるような。

P「楓さん」

楓「はい」

P「それはないわー」

楓「……泣きますよ?」

P「でも、楓さんの提案、いただきます」

楓「はい、召し上がれ」

P「そうじゃないけど……ま、いいか」

楓「ふふっ」

P「あ、それと」

P「……女性から言わせてしまって、すいません」

楓「……いえ」

P「今日はふたりでゆっくりしようか」

P「なあ、楓?」

 うわあ。うわうわ。うわあ。
 呼び捨てですよ。憧れですよ。

楓「そうね。ゆっくりしましょ」

楓「あなた?」

P「……やっぱり、照れますね」

楓「……ですね」

 まだまだ、恋人ごっこな私たち。
 これから少しずつ、らしくなれたら、それでいい。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



446: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/02(金) 12:19:21.55 ID:pNWa4Vv/0

 4月。四枚目のシングルを発売した。
『こいかぜ』発売から一年。早いものだ。
 発売記念のトークライヴの合間、メールが入る。

『新曲発売おめでとうございます。楓さんも忙しそうですね。
 私たちもようやく一緒のオフが取れそうなので、よかったら今月女子会どうですか?
 楓さんのスケジュールがいい日で(*´∀`*)』

 凛ちゃんからだ。
 奈緒ちゃんはよく電話をくれるし、加蓮ちゃんはメール魔だ。
 ふたりとはよくやり取りをしてるけど、凛ちゃんからとは。

楓「珍しいな」

P「ん? メールですか?」

楓「ええ」

P「なんかうれしそうですけど」

楓「いとしの彼女から、ですから。ふふっ」

P「彼女?」

 あの人の頭の上に浮かぶハテナマークが見える。

P「楓さんって」

楓「はい」

P「バイだったんですね」

楓「失礼な。私はいつだって、Pさん一筋ですよ?」

P「いや、ここでそういうこと言われても」

 あの人を照れさせることに成功。
 マンションに行けば、私が恥ずかしい思いをさせられてるのだし、このくらいの反撃はいいよね。

楓「大丈夫です。Pさんもよく知ってる子ですし」

P「ほう?」

 私はスマホをひらひらさせながら、あの人に画面を向けた。



447: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/02(金) 12:19:49.59 ID:pNWa4Vv/0

P「へえ。凛ですか」

楓「意外ですか?」

P「ああ、うん。でも」

P「楓さん、奈緒や加蓮とだいぶ仲良くしてるみたいですし」

P「まあ凛も凛で、素直なとこありますからね」

楓「うーん。凛ちゃんはいつでも素直ですよ?」

P「そうかなあ。僕にはけっこうツンケンしてましたけどね」

楓「それはだって」

楓「好きな人に素直に、なれるもんでもないでしょ?」

P「そういうことです、か」

P「で、女子会ですか?」

楓「ええ。女子会です」

楓「Pさんは参加禁止ですよ?」

P「そんな野暮なことしませんよ」

 そうは言っても、たぶんあの人のことだ。私が困ればきっと救いの手を差し伸べるに違いない。
 いつだってそういう人だ。

楓「で、彼女たちのオフ前日にやりたいかな、とか思うんで」

楓「Pさん。スケジュールチェック、よろしくお願いしますね?」

P「はいはい、任されます」

 なんだかんだ言っても、私が頼りにするのはあの人。
 愛情は信頼の上に成り立っているのだ。

スタッフ「高垣さん。そろそろ二回目の準備お願いします」

 もうそんな時間か。
 それじゃあ、始まる前にメールを返さないと。

『凛ちゃんありがとう。
 私のほうでも調整できそうだから、三人のオフにあわせられると思います。
 それじゃあ……』


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



448: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/02(金) 12:20:30.47 ID:pNWa4Vv/0

奈緒「じゃあ。CGプロ女子会初開催に!」

凛・奈緒・加蓮・楓「かんぱーい!」

 かちん。
 手に飲み物を持って乾杯。

 私と奈緒ちゃんはビール。加蓮ちゃんと凛ちゃんはソフトドリンク。
 の、はずなのに。

加蓮「え? 私も呑めるよ?」

奈緒「おい。加蓮は未成年だろ」

加蓮「そうだけどさあ。今どき『呑めませーん』なんて子、いないよ?」

 というか。凛ちゃんすでに呑んでるし。
 なんとなくこういうのは、無礼講も多少は許されるんじゃないかな。
 とか、勝手に言い訳をしてみたり。

楓「まあ、宅呑みだし。今日は大目にみましょ?」

凛「そうそう。普段は節制してるんだし」

 乙女のぶっちゃけはこういうものか。
 ファンが見たら泣くぞ。

楓「でも、凛ちゃんも加蓮ちゃんもお酒飲む機会なんてあるの?」

凛「ん? ありますよ?」

加蓮「マネージャーには怒られるけどね」

奈緒「あー、どうしてもしつこいプロモーターさんもいるんで」

凛「お付き合い程度に」

凛・加蓮「ねー」

 未成年に酒を勧めるプロモーターというのもどうなんだろう。
 そんなきれいごとの言える業界でもないし、まだ少々のお酒ならゆるいのかもしれない。

凛「あ、でもさすがにカクテル一杯くらいでやめてますよ?」

加蓮「マスコミにすっぱ抜かれたら、迷惑かけちゃうし」

奈緒「うちの事務所は、そのあたりのことは厳しいから」

奈緒「なんとかその程度のお付き合いで済んでるけどね」

 本当にそう思う。
 未成年の飲酒はスキャンダルだけど、それをとがめる事務所は、まあない。
 プロモーターの意向が優先されてしまう。
 さすがにプライベートの飲酒はまずいのだけど。

 CGプロはそのあたりのコンプライアンスをきちんと教育していて。
 マネージャーやプロデューサーが管理する。

 今日はみんなここにお泊りするから、多少は大目にみたのだ。
 外出しなくてもいいように、飲み物とつまみは多めに用意してる。
 小腹がすいたときのカップめんもしっかりと。



449: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/02(金) 12:21:15.76 ID:pNWa4Vv/0

楓「奈緒ちゃんはお酒、大丈夫なの?」

奈緒「うーん。普通じゃないですか?」

奈緒「ビールは苦いから、あんまり好きじゃないですけどね」

加蓮「おこちゃまの舌だからねー」

奈緒「うるせー。ふたりだって一緒じゃん」

楓「でも、そうよね。苦いのは苦手って子、多いもんね」

 私はいつから苦手じゃなくなったかなあ。
 もう覚えていない。

凛「え? 私は平気だよ?」

奈緒「え?」

加蓮「え?」

凛「だって、お母さんから『社会人になったらお付き合いもけっこうあるから』って」

凛「晩酌に付き合ってたし」

奈緒「うわー」

加蓮「凛のお母さん、豪快だねえ」

凛「え? そう?」

凛「うち花屋だから、花き組合とかのお付き合い多いしね」

凛「普通の家庭より、呑む機会はあると思うよ」

 ちょっと驚いた。
 お酒のことじゃなくて。凛ちゃんが意外と饒舌なこと。

楓「じゃあ凛ちゃんは、鍛えられたんだ」

凛「いや、鍛えられたってほどじゃないですけど」

凛「ね。まあ……あはは」

 そう言って苦笑いする凛ちゃんがかわいい。

楓「でも、よかったな」

凛「なにが、です?」

楓「凛ちゃんとこうして、ぶっちゃけ話ができること」

楓「年末のときは、刺されるかと思ったし」

凛「……あー、あの時は」

凛「ほんと、ごめんなさい」

 私と凛ちゃんは、なにも手をこまねいていたわけじゃない。
 忙しいながらのメールとか。
 互いに打ち解けることの模索を、行っていた。

 今はこうして、年末騒動のことも笑い話にできる。
 そこまでは打ち解けられた感じ。

楓「まずは、呑も?」

楓「スキャンダルにならない程度に、ね?」

凛「……はい!」

 まだまだ、夜はこれから。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



456: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/02(金) 17:58:01.06 ID:huBve+W/0

奈緒「あー! それは、加蓮が行かせようとするから!」

加蓮「えー? そのわりにいそいそ傘持って行ったじゃない」

奈緒「あー! し……しらん! も、もう忘れた!」

 女子会というのは、こんな話が好きなんだなあ。
 ほどよくお酒もまわった頃、Pさんとのエピソード話になる。

奈緒「つか、加蓮だって! Pさんがお見舞いに来るって聞いて、うれしそうに」

加蓮「え? そうだっけ?」

凛「そうだよ。バレバレじゃない」

加蓮「凛だって。バレンタインのチョコ、気合入れて作ってたって」

凛「ちょ、ちょっと待った!」

加蓮「なーに」

凛「誰に訊いたの、それ」

加蓮「えー。ひみつぅ」

凛「未央だね。絶対そうだ……」

 若いっていいな。なんて言うと年寄りくさくなっちゃうけど。
 こんなふうに、いろいろ打ち明けられる友人がいるっていうのは、うらやましい。
 モデル事務所にいたとき、一緒に呑むなんてこともそうなかったし。
 ひとりで気楽なのがいちばん、なんて思ってた。

 そんな私が『うらやましい』なんて。
 私もだいぶ変わったものだ。あの人のせいだ。

奈緒「楓さんは」

楓「うん」

奈緒「ホッケ、ですよね?」

凛「は?」

加蓮「へ?」



457: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/02(金) 17:59:40.01 ID:huBve+W/0

 ふたりともきょとんとしている。
 事情を知ってる奈緒ちゃんは、噴き出す。

奈緒「ぷぷっ、あははは! おまえら変な顔ー」

凛・加蓮「なーお~?」

奈緒「……はい……自重します」

楓「ふふふっ。そうね」

楓「私はホッケで釣られた女なの」

 凛ちゃんと加蓮ちゃんに、あの人にスカウトされたエピソードを話す。
 ころころ変わる表情が、いちいちかわいい。

加蓮「えー、居酒屋いいなー。私も行きたいなー」

凛「Pさん、そんなとこでご飯食べてたなんて。言ってくれれば一緒に」

楓「未成年と一緒には、なかなか行けるとこじゃないでしょ?」

楓「お酒が絡むしね」

凛「そりゃ……そうですけど……」

 凛ちゃんは不服そうだ。

楓「それに。男の人は、自分だけになれる場所が欲しいなんて、よく言うし」

楓「凛ちゃんがこうして、奈緒ちゃんや加蓮ちゃんとお話して、いろいろ気分転換できるように」

楓「たぶん気分を変えたい場所なんじゃないかしら」

楓「私にはわからないけどね」

凛「楓さん」

楓「はい?」

凛「楓さんは今でも、Pさんとそこに行くんですよね?」



458: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/02(金) 18:00:25.11 ID:huBve+W/0

 私とあの人の仲を探ってるのか。それとも、単にうらやんでいるのか。

楓「そうね。今でも行くわね」

楓「でも、Pさんがひとりでも行くかどうかは、わからない」

凛「そう、ですか」

 凛ちゃんは缶カクテルを飲み干し。

凛「楓さん」

楓「なに?」

凛「今日は自分の気持ちにけりをつけようと、思って」

 私より付き合いの長い彼女の、決心。
 向き合いましょう。きちんと。

凛「楓さんは、Pさんと付き合ってますよね?」

 奈緒ちゃんが固まる。なにか言い出そうとした彼女を、私が手で制する。

楓「ええ。お付き合いしてます」

凛「Pさんが、好き、なんですよね?」

楓「ええ」

 あのときと同じ、射るようなまっすぐな瞳。
 私は、その想いに向き合う。

楓「好きよ」


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



469: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/05(月) 12:17:02.69 ID:FpeG5XOu0

凛「……あの」

 数十秒の沈黙ののち。
 凛ちゃんがなにかを思いながら、口にする。

凛「私も……Pさんのこと……」

凛「好き……でした……」

 でした?

凛「いえ、ほんとは。たぶん」

凛「やっぱり、今でも好きなんだと、思います」

凛「……あきらめ……悪いですよね。私……」

 そう言って凛ちゃんはうつむいた。

奈緒「なに言ってんだよ、凛。あたしや加蓮だっているじゃ」

凛「わかってる! わかってるの……」

 奈緒ちゃんの言葉を、凛ちゃんがさえぎった。

凛「この前のライヴのときから、わかってたの」

凛「あきらめなきゃ、忘れなきゃ、って」

凛「奈緒や加蓮がついててくれて、いっぱい励まされて、うん、がんばれるって」

凛「でも! 楓さんの顔を見たら、やっぱつらくて……」



470: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/05(月) 12:17:57.35 ID:FpeG5XOu0

 ぽたり。
 凛ちゃんの瞳から、涙が零れ落ちる。
 そして涙もそのままに、凛ちゃんは顔を上げる。

凛「楓さん、ごめんなさい!」

凛「泣かせて……ください……」

 こらえても止まらない、涙のしずく。
 私は、どうしていいかわからず。
 気がつけば、凛ちゃんを抱きしめていた。

凛「うっ……ううっ……」

凛「うう、うああぁ」

凛「楓、さん」

凛「うああぁぁ……ああぁぁ……」

 ただひたすらに泣き続ける凛ちゃん。
 その心の叫びを、私はただ受け止めるしかできなかった。

奈緒「凛」

加蓮「凛、大丈夫だよ」

奈緒「あたしたちも、いるよ」

 奈緒ちゃんと加蓮ちゃんが、凛ちゃんを囲んで優しく包む。
 もはや恋敵とかライバルとか。関係ない。
 渋谷凛というひとりの女性を、私は全身で受け止める。
 誰も、なにも。
 言葉にできなかった。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



471: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/05(月) 12:18:33.17 ID:FpeG5XOu0

楓「凛ちゃん」

 泣く声が収まってきた頃。凛ちゃんに声をかける。
 私はまだ、彼女を抱きしめたまま。

楓「ちょっとは、落ち着いた?」

 凛ちゃんはなにも言わず、こくりとうなずいた。

加蓮「凛、大丈夫。大丈夫だよ」

 加蓮ちゃんは、凛ちゃんの頭をなでている。
 奈緒ちゃんは凛ちゃんの背中を優しくトントンとしていたけど、今は部屋を片付けている。

凛「みんな……ごめん……」

加蓮「ううん……いいんだよ……いいの」

 加蓮ちゃんはまだ、髪をなでている。

凛「楓さんも、ありがとう……ございます」

楓「ううん。いいの」

 凛ちゃんは私にもたれかかったまま、訊く。

凛「楓さんは」

楓「うん?」

凛「楓さんは、どうしてそうなんですか?」

楓「そう、って?」

凛「どうして、私に優しくするんですか? 私は、楓さんを」

楓「凛ちゃん?」

 私は凛ちゃんの言おうとすることを、さえぎった。

楓「嫉妬することは、悪いことなのかな」

凛「え?」

楓「私ね、思うの」

楓「嫉妬は、深い愛情のたまものなんじゃないかな、って」

 そう。
 かつて私は、凛ちゃんに嫉妬した。
 その私が今、凛ちゃんに嫉妬されている。
 いや、ちょっと違う。

楓「恥ずかしい話なんだけどね。私も、凛ちゃんに嫉妬してるんだ」

楓「凛ちゃんたちがPさんと先に出会ったこと」

楓「時間なんか巻き戻せないのにね。おかしいでしょ?」



472: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/05(月) 12:19:18.28 ID:FpeG5XOu0

 凛ちゃんはちょっと考えて、首を横に振る。

凛「なんとなく、わかります」

凛「私もPさんが楓さんの担当になったってわかったとき、すごくもやもやしました」

凛「ライヴでPさんが、楓さんのサポをやるなんて思わなかったし」

凛「私の知らないPさんを知ってる楓さんがうらやましくて」

 私も凛ちゃんも、互いに知らないあの人を求めてしまった。
 嫉妬は当然の帰結。

楓「おんなじだね」

凛「……うん」

 私の言葉に、凛ちゃんは小さく同意してくれた。

奈緒「あたしも、ほんとは」

 手の空いた奈緒ちゃんが話に入ってくる。

奈緒「凛のこと、うらやましいって思ってたよ」

凛「え? 奈緒」

 加蓮ちゃんも、なでていた手を止める。

加蓮「私もさ」

加蓮「凛がPさん好き好き光線出してたから、仕方ないなあって思ってたけど」

加蓮「Pさん好きだったんだよ?」

凛「加蓮……」

 凛ちゃんは、少し険しい顔になって。

凛「なんで……」

奈緒「凛……」

凛「なんで……言ってくれなかったの?」

凛「なんで私に……好きな気持ち……言わなかったの? ふたりとも」



473: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/05(月) 12:20:11.50 ID:FpeG5XOu0

奈緒「なあ、凛」

奈緒「あたしも加蓮も、さ。凛が大好きなんだ。大親友だって思ってる」

加蓮「そりゃPさんのことは好きだよ? でも」

加蓮「私は『あこがれ』なんだなあって、気づいちゃったし」

加蓮「親友の恋愛を応援するの、あたりまえじゃん?」

凛「奈緒。加蓮……なんで?」

 凛ちゃんはまた、涙声になる。

凛「わかんない……わかんないよ……」

凛「こんな私を応援するなんて……気持ちあきらめて……」

凛「なんで、ふたりとも……わかんないよ……」

奈緒「ばーか。わかんなくていいよ」

奈緒「あたしは凛が好き。凛を大切にしたい」

加蓮「私も凛が大事。ずっと親友でいたい」

加蓮「それだけのことだよ。凛がいるから、私たちがいる」

凛「……ふたりとも……ばかじゃん」

凛「こんな私をかばって……つらい思いして」

奈緒「ああ! もう!」

 奈緒ちゃんは、私から凛ちゃんを奪い取るように抱きしめる。

奈緒「うじうじ言ってんじゃねえ。あたしは凛が一番大切」

加蓮「凛。私も奈緒も、凛がいてくれたからここまでがんばれたんだよ?」

加蓮「ずっと三人で、やっていきたいんだ」

奈緒「わかれよ、そんくらい」

凛「奈緒……加蓮……」

 凛ちゃんは、奈緒ちゃんにされるがまま。

凛「……ありがと……」

 そう言うのがせいいっぱいだった。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



478: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/05(月) 17:40:02.94 ID:Re4cOPTz0

 続いて呑む雰囲気ではなくなったので。
 部屋に布団を敷き詰める。そして四人で雑魚寝。
 でも。

凛「楓さん」

楓「え?」

凛「起きてます?」

楓「ええ」

 眠れるはずがない。

楓「凛ちゃんは、眠れない?」

凛「……はい」

楓「ん……そっか」

凛「楓さん」

楓「なに?」

凛「2月のライヴで、ほんとあきらめようって」

凛「そう、思ったんです」

楓「どうして?」

凛「うーん」

 凛ちゃんの悩む声が、狭い部屋にただよう。



479: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/05(月) 17:40:51.90 ID:Re4cOPTz0

凛「かなわないなって」

楓「かなわない?」

凛「なんか。楓さんにはかなわないって」

凛「そう、直感で思いました」

楓「直感、か」

凛「うん。ですね」

凛「理由とかいろいろ考えたりもしたけど、よくわかんなくて」

凛「でも、理由がわからないから、すっごく不安で」

凛「これでいいの? ほんとにいいの? って」

凛「ずっと考えてました」

 凛ちゃんの言葉をかみしめる。
 理由なんかない。その通りだ。
 好きになるのに、理由なんかないし。
 凛ちゃんの直感というのも、なんとなくわかるような気がする。

凛「楓さんがなにか言ってくれたら、あきらめられるかも、とか」

凛「逆に、奪い取ってやるとか」

凛「そう思えたかも、知れない」

凛「でも楓さん。なんにも言わないで。ただ、抱きしめてくれて」

凛「なんだろう……やっぱりよくわからないけど」

楓「けど?」

凛「けど……ちょっとだけ、腑に落ちた気がします」

凛「楓さんとPさん、お似合いです」

凛「……悔しいなあ……」

 暗闇の中。凛ちゃんは泣いているようにも思えた。

凛「楓さん、ごめんなさい」

凛「自分がPさんのとなりにいられなかったって、それを認めるのがこわいです」

凛「素直に、楓さんとPさんをお祝いしたいのに」

楓「凛ちゃん」

凛「はい」

楓「私が言っても、いやみにしかならないかもだけど」

楓「聞いてね?」

凛「……はい」



480: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/05(月) 17:42:19.65 ID:Re4cOPTz0

楓「私はね。今Pさんとお付き合いしてるよね」

楓「私は、Pさんのことが好き。ずっと一緒にいたい」

楓「……でも、先のことは、わからない」

凛「……」

楓「不安だけど、それも現実」

楓「私が振られてしまうかもしれないし、事故かなにかで、私が死んじゃうかもしれない」

凛「楓さん、そんなこと」

楓「ううん、私も不安なんだ。自分の未来がね」

楓「ただ、決めてることがあるの」

楓「今をせいいっぱい、生きよう、って」

楓「こうして、凛ちゃんや奈緒ちゃん、加蓮ちゃんの想いも背負ってるんだし」

楓「自分自身、後悔のある生き方をしたくない」

楓「だから、凛ちゃんに宣言します」

楓「Pさんと、全力で生きていく」

楓「ぜったい幸せになる」

楓「もし、凛ちゃんが『今の高垣楓に任せるなんてできない』って思ったときは」

楓「全力で、奪って」

楓「もちろん、負けるつもりは、ないけどね」

楓「凛ちゃんには怒られちゃうかな。刹那的だって」

凛「……いえ。そんなことないです」

凛「やっぱり、楓さんは楓さんです」

凛「……えっと」

楓「なに?」

凛「Pさんを、よろしくお願いします」



481: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/05(月) 17:43:38.00 ID:Re4cOPTz0

 そう凛ちゃんが言ってくれたとき。
 ぐすっ。鼻をすする音。

凛「奈緒? 加蓮? 起きてるでしょ」

奈緒「……なんだよ。悪いか」

加蓮「私だって眠れないの。わかんない?」

凛「もう、しょうがないなあ、ふたりとも」

奈緒「誰のせいだと思ってんだよ、凛」

凛「さあ。楓さん?」

奈緒「おい」

凛「うふふっ」

楓「ふふっ」

加蓮「奈緒ったら。単純なんだから」

奈緒「なんだよ……文句あんのか?」

楓「ねえ、三人とも」

楓「朝起きたら、出かけてみようか」

楓「おいしいもの食べて、いっぱい遊んで、ゆっくり寝たら、忘れられるなんて言うけど」

楓「そんな簡単なものじゃないと思うの」

楓「でも、そんなに言うなら、実体験しようと思うんだけど」

楓「どうかな?」

凛「くすっ」

凛「賛成ですね」

加蓮「いいですね」

奈緒「うん」

楓「じゃあ、そうしよっか」

楓「近くに、パンケーキのお店あるし、甘いもの食べて元気だそっか」

凛「はい」

奈緒「うん」

加蓮「ええ」

 いまだ暗い部屋で。女四人の企みごと。

楓「じゃあ、決まり」

 そうと決まれば。少しは眠りにつこう。
 睡眠不足はお肌の天敵だ。
 みんなそう自分に言い聞かせて、眠りにつく。

 カーテンの先では、月明かりが四人を見つめていた。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



489: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/07(水) 12:17:17.92 ID:beDd4TrD0

大将「ほう、つまり」

 女子会から二週間あまり。今日はカウンターではなく、奥の座敷にいる。
 というのも。

凛「Pさんのなじみのお店に、来てみたかったんです」

加蓮「私たちには、ぜーんぜん教えてくれなかったのにねー」

奈緒「……」

 奈緒ちゃんは、あいかわらず気苦労を抱えているみたい。

 そう。トライアドの三人、私、そして。
 あの人。

大将「モテ期到来、ってやつか?」

P「……大将、勘弁してください」

 大将を除けば、Pさんのハーレム状態。と言えなくもない。
 でも、あの人は居心地が悪そうだ。



490: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/07(水) 12:17:50.63 ID:beDd4TrD0

 きっかけはもちろん、女子会。
 四人でパンケーキの朝食を食べているとき。

凛「あの、楓さん」

楓「なに?」

凛「もしよかったら」

凛「楓さんとPさんの行きつけの居酒屋。行ってみたいかな、って」

加蓮「あ、私も興味ある!」

奈緒「おい、あんまり無茶言うなよ」

奈緒「……あたしも、興味あるけど……」

 かわいいツンデレは正義だね。

楓「んー。私はいいけど」

楓「Pさんがオッケーなら、いいんじゃない?」

楓「もともと、Pさんの息抜きの場所だし」

 正直言えば。
 私とあの人の隠れ家のつもりなので、あまり連れて行きたくない気持ちも、ちょっとだけ。
 でもこの三人だったら、いいかな。
 かわいい妹たちだし。

 私が返答すると、早速動いたのは。

凛「あ、ちひろさん。凛です」

凛「えっと、Pさんと連絡取りたいんですけど……ええ……はい……」

凛「じゃあ、私の携帯に電話欲しいと。はい。では」

楓「……」

 なんとまあ。
 凛ちゃんって、こんなにアクティブだったのか。

楓「凛ちゃん」

凛「吹っ切れたんで、我慢するのやめました」

凛「Pさんと楓さんと、大いに絡んじゃいます」

凛「よろしくお願いしますね」

 そう言って、凛ちゃんは私に指を向け。

凛「ばーん!」

 ピストルを撃つまねをした。

楓「ふふっ。ふふふっ」

楓「こっちこそ、よろしくね」

 手のかかる妹だなあ。
 よろしくされましょう。ええ。

 加蓮ちゃんはその様子をニコニコと見つめ、奈緒ちゃんは額に手を当てて天を仰いだ。



491: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/07(水) 12:18:27.87 ID:beDd4TrD0

 Pさんは電話口でだいぶ困っていたようだけど、結局は凛ちゃんに押し切られ。
 そして。

大将「俺は来てくれてうれしいけどな」

大将「売れっ子の三人娘と、神秘の歌姫さまが、こんなしがない店にいるなんてな」

楓「大将?」

楓「しがない店なんて言わないでくださいね?」

楓「私はここ、大好きなんですから」

大将「がはは! 楓さんに怒られちまったな!」

大将「ああ、ここは俺の城だから。ま、ゆっくりしてくれや」

 そう言うと大将は厨房へ戻っていった。

凛「おもしろい大将さんですね」

P「ま、いっつもあんな調子だけどな」

奈緒「Pさんの顔つぶさないようにって気ぃ遣ったのに、あたし馬鹿みたいじゃん」

加蓮「奈緒は損な性格だよねー」

 加蓮ちゃんはからから笑う。

P「んで? なんでまたこんな普通の店に来たいなんて」

凛「んー」

 凛ちゃんは首をかしげて。

凛「……やじうま根性?」

P「……おい」

凛「うそじゃないよ。Pさんと楓さんのデート場所、見てみたかったのはほんと」

凛「あ、そうそう」

凛「Pさん。楓さんとうまくやってくださいね」

P「凛……」

 凛ちゃんのその言葉に、加蓮ちゃんも奈緒ちゃんも安堵の表情。
 あの人も、その言葉の意味を理解したのか。

P「承知した。まかせとけ」

P「あ、でもお前と加蓮はお酒呑むのだめな。奈緒はいいけど」

加蓮「えー、Pさんかたーい」

P「堅くて結構。なんとでも言え」

凛「ふふ。Pさんあいかわらずだね」

凛「やっぱり、私の好きなPさんだな」

楓「……あげませんよ?」

凛「……ください」

楓「ふふっ」

凛「ふふっ」

P「僕は粗品ですか……」



492: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/07(水) 12:18:54.63 ID:beDd4TrD0

P「ま、ふたりが仲良しなのは僕もうれしいことです」

P「お前らとりあえず、好きなの頼め。店は普通だが料理は間違いなくうまい」

凛・奈緒・加蓮「はーい」

楓「じゃあ私は、冷酒を」

P「はいはい、どうぞどうぞ」

P「とりあえず今日はおごり。でも、サイフの負担は考えてくれ」

加蓮「じゃあいっぱい頼んじゃおうっと」

P「加蓮は、お残し禁止な」

加蓮「えー、私食細いの知ってるでしょ?」

P「なら考えて頼め」

 女三人寄ればかしましい、と言うけど。
 四人ならどうなんだろうか。

 Pさん、お疲れさまです。そして、ごちそうさま。
 ふふっ。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



497: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/08(木) 12:19:15.49 ID:obCwGaab0

凛「Pさんはさ」

P「ん?」

凛「どうしてここに来るようになったの?」

奈緒「あ、それあたしも訊きたい」

 加蓮ちゃんもなにか言おうとしてるけど、ネギマを食べていてしゃべれない。

P「そうだなー。ここを知ったのは酒屋のあんちゃんの紹介」

楓「そうなんですか?」

P「僕の地元の酒を扱ってるって、教えてくれたんです」

加蓮「んぐっ……へえ、Pさんが酒屋さんなんて」

奈緒「うん、意外」

P「まあ、アルコールは弱いけどな。でも酒はきらいじゃない」

P「それにそういう情報持ってると、営業するときに役に立つしな」

 あの人にとっては、なにをするのも仕事につながってるんだな。

楓「あんまり仕事ばっかりしてると」

楓「『仕事と私と、どっちが大事なの!』って、叫んじゃいますよ?」

P「そのときは迷わず『仕事』って、言いますよ」

 あら。
 あとでもう一度うかがいましょうか? ベッドの中でとか。

楓「まあ、ひどい」

P「ま、冗談にお付き合いするのはこのくらいで」

 加蓮ちゃんがにやにやとやり取りを見ている。
 凛ちゃんは呆れるように。

凛「まったく、ごちそうさまです……」

 と、一言。

奈緒「……もう結婚しちゃえばいいじゃん」

 奈緒ちゃんはビールを呑みながら言う。
 結婚。
 その響きに、私はどきりとする。



498: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/08(木) 12:19:50.98 ID:obCwGaab0

楓「……」

P「ま、そういうタイミングがあれば、そういうのもあるかもな」

 あの人は余裕の態度だ。なんか悔しい。

P「でも、先のことなんか全然わからんし」

P「だいいち、一般人でさえ結婚なんて一大事だ」

P「今はとても考えられないよ」

 どきりとした気持ちが、一気にしおれてしまう。
 わかってる。ええ、わかってますとも。

 まだお互いに、付き合いを始めて長くもないし。
 アイドルが結婚とか、夢を売る商売である以上タブー視されているのだし。
 でも。

 私だって、少しくらい夢を見たいじゃないか。

 あの人に、文句のひとつでも言いたくなるけど、言葉が見つからない。
 確かに、今まで結婚ということを真剣に考えたことはなかったけど。
 そのハードルのあまりに高いこと。
 かえってそのことが、私に結婚を意識させる。

『惚れた腫れたでいられたら、非常に困るんです』

 かつてここで、社長が言った一言が胸に刺さる。
 アイドルは、ファンに夢を見せる商売。
 自分は夢見てはいけないのか?

凛「楓さん?」

楓「……え?」

凛「ぼうっとして。大丈夫ですか?」

楓「え、ええ。うん。大丈夫」

 因果な商売だな。
 口をつけるお酒の味が、ほろ苦い。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



502: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/08(木) 18:00:56.00 ID:A4C9BIa+0

 からん。
 手に持つグラスの氷が揺れる。
 気分を変えて、今はスミノフのロック。

 ひとり酒。
 大将の店から帰ってきても、どことなく居心地が悪い。

 五人で呑んでいても、会話しても、さっぱり頭に入ってこない。
 気がつけば、いつのまにかお開きになっていた。
 私はふらふらと帰宅。
 そして今。

楓「『結婚』、か」

 もうすぐ27歳になんなんとする自分には、わりと現実めいた言葉だ。
 ただ。

楓「アイドル、と、結婚」

 職業、アイドル。
 あの人との縁で仕事をはじめて、二年がせまる。
 歌を聴かせ、踊りを舞い、ファンを楽しませる。
 普通なら経験することのない、ハレの仕事。
 やりがいもあるし、やってきたという自負もある。

 かたや、結婚。
 もちろん、相手はあの人以外に考えられない。
 あの人と生活し、家庭を作り、こじんまりとした普通の生き方。

 両立するという選択肢もあるだろう。けど。
 アイドルの賞味期限は思う以上に、短い。

楓「引退、とか?」

 まだ二年も仕事をしてないのに、引退なんて。
 だいいち、あの人と成し遂げるって、約束したじゃないか。

楓「……ふぅ」

 ウォッカの焼けるような刺激が、のどを通り抜ける。
 なんというか。
 考えるほど、泥沼。

 ふと目に付く、スマホ。

楓「メール?」

 タップして開いたメールは、凛ちゃんから。

『楓さん、無事着きました?
 なんかお店出ても、心ここにあらずって感じだったから、心配です(´・ω・`)
 なにかありました?』

楓「凛ちゃん……」

 私は動きの悪い頭を回転させながら返信文を書いた。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



508: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/09(金) 12:17:45.15 ID:T9hpjsxW0

『凛ちゃんありがとう。ちゃんと着きました。
 特になにもないですよ。大丈夫。
 凛ちゃんこそ、無事着いたのかな?』

『私はメール送る前に着きました。ありがとうございます。
 私たちが無理にPさんと楓さんのなじみのお店に突入したから、気を遣わせてしまったかなって。
 無理させたんならごめんなさい(´・ω・`)』

『私も楽しかったですよ。Pさんも楽しんでたと思います。
 またゆっくり呑めたらいいね』

『それならよかったです(*´∀`*)
 でも、楓さんの様子がすぐれない感じだったんで。
 ひょっとして、奈緒の言ったこと気にしてます?』

『気にしてないと言ったらうそになっちゃうかな。そういう年齢だしね。
 でも今は仕事が忙しいし、事務所でも中堅にも満たないからね』

『えっと、楓さんは、Pさんと結婚したくないんですか?』

『そりゃしたいと思ってるし、そういうお付き合いのつもりですよ。
 ただ、まだまだそれを許してくれる環境じゃないし。』

『それはただ逃げてるだけじゃないですか?
 自分の幸せが一番優先されるべきです。』

『そうね。逃げてるかもしれない。
 でも、自分のわがままで、Pさんの立場を悪くするのはいやだしね。
 私はPさんが批判にさらされるのを見たくはないかな。』

『言い過ぎました、ごめんなさい(´・ω・`)
 結婚するってことは、ファンへの裏切りになるかもっていうの、わかります。
 でも、自分が幸せになりたい行動を、誰も祝福してくれないなんてことないと思います。
 そんな冷たいファンじゃないって信じてます(`・ω・´)』

『ありがとう。そうだね。
 ファンのみんなは応援してくれるよね。
 私がむしろ心配なのは、業界の反応かな。
 アイドルに手をつけて、結婚までしたプロデューサーって評判は、マイナスにしかならない気がする。』

『でも、ぶっちゃけこの業界なんて売れてナンボじゃないですか。
 楓さんがPさんの手腕で売れていたら、決して悪評にならない気がします。』

『でも、お手つきってのは別だと思いますよ。
 もしそういう評判がついてまわってたら、そういうプロデューサーに大事なアイドルを任せるなんてできる?』

 凛ちゃんから、反応がなかなかかえってこない。
 そして。

『今度、ゆっくり話をしませんか?』

 うん、そうだね。
 お互いに頭沸騰してるし、ちょっと時間を置いたほうがいいかもしれないね。

『そうしましょう。今日はもう遅いし。』

『ですね。じゃあおやすみなさい。』

『はい、おやすみなさい。』


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



509: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/09(金) 12:18:25.78 ID:T9hpjsxW0

 三日経って。
 レッスンルームの休憩室で、凛ちゃんと偶然会った。

楓「あら、奈緒ちゃんと加蓮ちゃんは?」

凛「今日は別々にロケ行ってます。私はレッスンにあててもらいました」

楓「オフだったの?」

凛「うーん。なんか」

凛「体動かしてるほうが、気がまぎれるんで」

楓「そっか」

 凛ちゃんは自分自身で、気持ちを昇華しようとしてる。すごいなあ。

凛「えっと」

凛「この前は、メールでえらそうなこと書いて、ごめんなさい」

楓「ううん。私こそごめんね」

凛「いえ。私こそ、甘っちょろいなって」

凛「こういう仕事してると、ままならないこと多いですよね……」

楓「そうね。そう思う」

凛「社長は」

楓「ん?」

凛「Pさんと楓さんのこと、知ってるんですか?」

楓「ええ。知ってる」

凛「そう、なんだ」

楓「だって、一番最初に見抜いたの」

楓「社長だもん」

凛「……」



510: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/09(金) 12:19:32.92 ID:T9hpjsxW0

凛「……」

楓「ねえ、凛ちゃん」

凛「はい」

楓「今こうしてPさんとお付き合いしてて、一応ゴシップとか気をつけてはいるけど」

楓「今のところそういう記事にはなっていない」

楓「……どうしてだと思う?」

凛「社長……ですか?」

楓「たぶん、ね」

 こういう業界で生きていくには、清濁併せ呑む気構えがないと、やっていけないだろう。
 そしてうちの事務所は、アイドルたちがいきいきと仕事をしている。とするなら。
 濁りを引き受けるのは、上層部。

楓「だから、自分が結婚とか言い出すなら」

楓「まず、社長を納得させられないと無理だと、思うの」

楓「ひどい話だとは思うけど、まだ私には主張する権利は与えられていない」

楓「結果を出してからきやがれ、ってとこ」

凛「そう……ですか」

楓「凛ちゃんは、この業界で先輩だからわかっていると思うけど」

楓「でも、私もモデル業界にいたし。もっとも、そっちはここよりだいぶゆるいけどね」

楓「ダーティーな部分があるってことくらいは、たぶん理解してる」

楓「凛ちゃんや私がこうして、普通にお仕事をしていられるのは」

楓「誰か裏方さんが、ダーティーな部分を引き受けてくれてるから」

楓「それに恩返ししないとね。まずは」

凛「楓さんって」

 凛ちゃんは、言葉を確かめるようにつぶやいた。



511: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/09(金) 12:20:03.45 ID:T9hpjsxW0

凛「……おとな、ですね」

楓「そう、かな?」

楓「みんなにおんぶにだっこ、だけどね」

凛「私は、ファンが一番大事で」

凛「ファンのみんなに喜んでもらえるようにって、やってるだけで」

凛「裏方さんとは、同志って感じで」

楓「でも、アイドルってそれが」

楓「一番大事じゃない?」

凛「ええ。そう、思うんです」

 とどのつまりは、そういうことだ。

楓「ファンに祝福されるような引き際、って言うのかな」

楓「そういうのって、たぶんあるんじゃないかな」

凛「そうですね。うん、そうだ」

凛「今は引き際とか、ぜんぜんわからないですけど」

楓「それは私も同じ」

楓「やれることを、やるしかない」

楓「かな?」

凛「くすっ……そうですね」

凛「なーんだろ。前よりずっと」

凛「楓さんと一緒に仕事。したくなっちゃいました」

 凛ちゃんが笑う。

楓「奇遇ね。私も」

楓「そう思ってます」

凛「うふふっ」

楓「ふふふっ」

 引き際を考える余裕なんか、まだない。
 今はこうして、大好きな人たちと一緒に仕事ができる、幸せ。

 私は恵まれてるなあ。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



515: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/12(月) 12:15:54.13 ID:+ZwvBcOQ0

 事務所に来て二度目の6月。
 27歳の誕生日に、やっぱり来ているのは大将の店。

P「呑みなおしたいって楓さんが言うと思ったら、ここですか」

楓「ええ、ここです」

 今年は旅行とか行けませんから、と。あの人はディナーの予約をしてくれていた。
 もちろん、それはそれで楽しい。雰囲気も違って。
 でもやはり、あの人となら。

P「なんかいつもと変わりませんけどね」

楓「でも」

楓「Pさんとの場所ですからね。ふふっ」

大将「お前なにげに失礼なこと言うよな」

 こうして気心の知れた人たちに囲まれて、バースデーを祝ってくれることが、なによりうれしい。

大将「ま、なにより。楓さんのめでたい日だし」

大将「改めて」

P「乾杯」

 かちん。
 グラスの音がここちよい。

楓「これ、すごく甘いお酒ですね」

大将「『一の蔵』の『ひめぜん』って酒だな」

大将「まあ、Pに頼まれてな」

P「だから大将、ネタばらしはやめましょうって何度も」

大将「べーつにいいじゃねえか。お前と楓さんの仲だし」

大将「それとも、言えないようなやましいことでもあんのか?」

P「ありません、って。それ何番煎じのいじりですか」

楓「ふふふっ」

 あの人と大将はあいかわらずの仲だ。
 でも。

大将「まあ最近、ふたりとも忙しいみたいだからさ。俺としては淋しいけど」

大将「でも、忙しいのはいいことだ」

P「おかげさまで」

 実は、結構ごぶさただった。
 というのも。



516: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/12(月) 12:17:15.44 ID:+ZwvBcOQ0

 5月。ゴールデンウィーク明けに、私とあの人は企画会議に出ていた。

スタッフ「トライアドの恒例アリーナライヴですが、チケット予約完売です!」

 ぱちぱちぱち。
 さすがにうちの看板。人気の高さはすさまじいものがある。

ス「それで、高垣さんに今日、会議に参加してもらったのは」

ス「追加公演のゲスト出演をお願いするためです」

楓「ゲスト、ですか?」

ス「はい。アリーナの予備日を追加公演にあてることにしましたので」

ス「サプライズゲストという形でお願いしようかと思ってます」

P「えーとそれは、トライアドとのジョイント、ということですか?」

ス「はい。実は」

ス「社長から直々の要請です」

P「ちょっと待ってください! えーと……」

P「うちの高垣もライヴツアー中ですが」

ス「ブッキングは確認してます。それと」

ス「確定ではありませんけど、これは高垣さんとのクロスジョイントとする予定です」

P「クロス、ですか?」

ス「はい。高垣さんのツアー最終日にトライアドとの共演を入れようということです」

 えらいことになった。
 どうやら事務所としては、私とトライアドを二枚看板にして、今度のツアーで共演させるつもりらしい。
 すでに私のツアーはある程度企画が固まっている。そこに、いわゆるブッコミだ。

P「うちのほうはすでに企画が動いてるので……なんでまた社長が」

ス「一応、上層部の意見はそれでということだそうですが……」

 同じ事務所であっても、担当アイドルごとにスタッフが動いているわけで。
 そこを横断してイベントを行うのは、初期の頃から根回ししておかないとなかなか厳しい。
 ただ。そこはご意向に逆らうというわけにはいかない。

P「うーん。確認ですけど」

P「最終日だけで、いいんですね?」

ス「そういうことになります」

P「まあ、トライアドの追加分に参加は大丈夫だと思いますけど」

P「こっちのツアーはどうかなあ……」

 悩ましい。
 そりゃあ、凛ちゃんたちと共演したい気持ちは強い。
 でも、私の一存では決められない。
 それでも、ここは。

楓「Pさん?」

P「はい」

楓「もし、やれるようなら」

楓「私はこのお話、お受けしたいんですが」



517: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/12(月) 12:17:57.16 ID:+ZwvBcOQ0

P「……」

 あの人は悩んでいる。

P「わかりました。できるだけ努力はしましょう」

P「ただ、トライアドの参加決定は、早めに。できれば一両日中にも」

P「お願いします」

ス「……了解しました」

 あの人も駆け引きをする。
 そっちがぶっこんできたのだから、こっちの無理も聞け。
 そういうことだ。

P「まあ、同じ事務所ですし」

P「お互いにがんばりましょう」

 急な話ではあるが、凛ちゃんたちとの共演が決まる。
 思ったよりずっと早くに実現することに、私はとまどう。

楓「あんなこと言っちゃいましたけど」

楓「私、大丈夫ですか、ね?」

 あの人はにっこり笑って。

P「大丈夫です」

P「楓さんはもううちの看板ですから。自信持って」

P「僕もいますから」

 ああ、そうだ。
 あの人がいる安心感。

楓「なんか頼ってばかりですけど」

P「いいんじゃないですか?」

P「役得ですし」

楓「……はい」

 忙しくなるのは確定。でも。
 あの人と一緒にまた、がんばれる。
 今はそれで。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



523: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/13(火) 17:47:40.58 ID:O8xMtBT80

 それにしても、なぜ社長が。
 このタイミングで。

 なんとも釈然としないところに、メールが届く。

『なんかスタッフがご迷惑をおかけしたみたいで、ごめんなさい!』

 凛ちゃんだ。

『共演したかったのだから、こっちこそお礼を言うことですよ。
 でも急な話だったから、正直とまどったのは確か。とくにPさんがね』

『私がついライブのキックオフミーティングで、楓さんとやれたらって言っちゃったから(´・ω・`)
 キックオフだったしたまたま社長がいて、覚えてたみたいです(;´・ω・`)』

 ああ、そういうことか。
 なら凛ちゃんに罪はないし、社長が主導なのだから仕方ない。

『気にしないで。とにかく私は楽しみにしてるからね』

『はい、わかりました。
 あ。奈緒も加蓮も、楽しみにしてますよ!』

 そうだろうなあ。
 凛ちゃんのメールの前に、加蓮ちゃんからも来てたし。
 奈緒ちゃんにいたっては、電話口でぺこぺこ謝ってたし。

『近いうちに打合せもあるでしょうから、またそのときにね』

 三人とも、一緒に話を聞いてるだろうに。
 それぞれ私にメールとか電話とか。みんなかわいいなあ。



524: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/13(火) 17:48:27.29 ID:O8xMtBT80

 翌日にトライアドのツアー参加が決定する。
 そしてほどなく、合同の打合せ。

チーフプロデューサー「おお! Pくん久しぶり!」

P「お久しぶりです」

チーフ「まだPくんがアシやってたときからだから、4年ぶりくらいか?」

P「ですね。まさかチーフがトライアドのプロデュースやってくれてるなんて」

楓「あの。こちらの方は?」

P「ああ、僕がアシスタントのときお世話になった方で」

チーフ「高垣さんはじめまして。画面では何度も拝見しております」

 チーフさんから名刺をいただく。
 ああ。外部委託の方か。
 でも、このプロデュース会社、確かフリーの大手だったような気が。

 あれ? 代表取締役……

P「チーフさんは、うちの社長と一緒にプロデューサーやってた方ですよ」

チーフ「CGプロの看板と一緒に仕事させていただくので」

チーフ「私が出なきゃいかんな、と思いまして。あはは」

楓「まあ」

チーフ「今は独立してますけど。こうして仕事もいただいてますし」

チーフ「ありがたいことです」

楓「そうでしたか」

チーフ「いや、高垣さんのご活躍、うかがっておりますよ」

楓「いえ、Pさんのおかげですから」

チーフ「Pくんは実直だから、スタッフメンバーからも評判がいいんですよ」

楓「そうですか。それなら私は運がよかったですね」

 チーフさんは、あの人と私を温かい目で見ている。

チーフ「まあ、まさかPくんがプレイングプロデューサーやってるとは思わなかったけどな」

P「いや、それは勘弁してくださいよ」

チーフ「でもそれはそれで、いろいろ楽しそうだからねえ」

P「だから勘弁してください。たのんます」

 旧知の仲なのか、あの人とチーフさんのやりとりを見てると、おもしろいと感じる。

チーフ「そうそう、高垣さん」

楓「はい?」

チーフ「ぜひ機会があれば、プロデュースさせていただきたいですな」

楓「いえ、こちらこそ」

チーフ「ま。Pくんがいる間は無理そうですけど?」



525: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/13(火) 17:49:41.81 ID:O8xMtBT80

楓「そうですね。ふふっ」

チーフ「いやあ、Pくんもいい仕事してるようだし、将来が楽しみですよ」

P「でも事務所の意向で配置換えになるかもですしね」

チーフ「そのときはうちに来なさい」

チーフ「なあに、Pくんほどの力量なら、かなりの案件を任せられるからね」

P「さすがに、社長に恨まれそうなんで、やめときます」

チーフ「ああ、あいつなら大丈夫。いやでもオーケーと言わす」

P「ははっ、そのときはぜひ」

チーフ「はははっ」

チーフ「ま、時間もおしてるから、さっそく打合せに入ろうか」

P「ええ、よろしくお願いします」

 私は私で、妹たち三人とグループを組んでいる。

奈緒「なんか楓さんとPさんに無理させちゃったみたいで、ほんとごめんなさい!」

楓「奈緒ちゃん、電話でも謝ってくれてたじゃない。わざわざいいのに」

加蓮「奈緒って、ちょっと気にしすぎじゃない?」

奈緒「いや、こういうのは形からきっちりしておかないとさ」

凛「でも楓さんもいいって言ってるんだし、もういいんじゃない?」

奈緒「……ううっ、なんか釈然としない……」

 奈緒ちゃんはリーダー気質なんだろうな。やはり手順が大事だと思ってるみたい。
 凛ちゃんや加蓮ちゃんの面倒を見れるのも、こういうパーソナリティがあるからだろうな。

楓「でも、こうして一緒にできる機会が与えられたんだし」

楓「がんばりましょ?」

凛「……はい」

 凛ちゃんはいっそう気を引き締めているようだ。

加蓮「みんなー、打合せ始まるってさー」

奈緒「はーい」

凛「はーい」

 さあ、私も行こう。

楓「はい。今行きます」



526: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/13(火) 17:50:14.60 ID:O8xMtBT80

 初回の打合せなので、まずは自己紹介。
 そして、互いのライヴコンセプトの説明と、セットリストの交換。
 期間も限られているため、今回持ち寄った案をもとに、トライアドの演出はチーフさんが。
 私のジョイントに関してはあの人が担当することとなる。

チーフ「あとの詳細は、私とPくんで詰めていくとして」

チーフ「全体レッスンはどうするかね」

P「そこはお互いプロ同士ですし、経験もあるわけですから」

P「それぞれ仮想レッスンを行って、本番近くに通しでやればいいんじゃないでしょうか」

チーフ「そのあたりのマネジメントは、事務所統括としてPくんにお願いしたいんだけど」

P「わかりました。そのほうがたぶん通りがいいと思います」

チーフ「うん。よろしくお願いするよ」

 ざっくりとしたスケジュールを決め、解散。
 トライアドの三人は、これからグループレッスンということで、ルームに向かった。

楓「なんか、Pさんの負担が大きくなっちゃいましたけど」

楓「大丈夫ですか?」

P「まあ二組分ですから、正直いっぱいいっぱいだなと思いますけど」

P「でも、やりがいありますよ」

 そんなことがあって、ひと月。
 私はレッスンと営業に。あの人はチーフさんと打合せに。
 お互いにすれ違いが続き。

大将「で、今日顔合わせできたってことか」

 あの人は頭をかいている。



527: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/13(火) 17:50:44.98 ID:O8xMtBT80

大将「ま、なんだ。彼女を置き去りにしてる感じは否めないわな」

P「そこはほんと、申し訳ない」

楓「いえ。メールとかでやりとりはしてたので」

大将「ま、それでも誕生日をちゃーんと祝ってやったってのは」

大将「合格だな」

P「そこは、大事な日ですから」

楓「それだけで、私はうれしいですよ?」

大将「ほう? Pは愛されてるねえ」

大将「がははは!」

 大将がいてくれると、それだけで明るくなる。
 正直私もあの人も、ちょっと煮詰まっていたきらいはあるのだ。
 ディナーはうれしかったし、久々にふたりきりというのもうれしかった。
 でも、間が持たない。

 誤算だった。
 ひと月会えないだけで、こうもギクシャクするとは。

楓「でもここに来ると、なんか自分の居場所に帰ってきた感じで」

楓「和むんです」

大将「そいつあうれしいねえ」

P「僕も正直、レストランで食事とかって」

P「なんか変な汗出てて、落ち着かなかったんですよ」

楓「そうなんですか?」

P「楓さんには感謝してますよ?」

楓「あら?」

P「こうして気の許せるところで二次会とか」

P「まあ、息の抜けない日々でしたからね」

大将「そうかい。ま、気が楽になったってんなら」

大将「俺もうれしいよ」

P「大将、感謝します!」

楓「ふふっ」

大将「おう、もっと日頃から感謝しとけ。な」

 私は手に冷酒のグラスを持つ。

楓「なら、大将の心遣いに」

楓「乾杯」

P「僕も、乾杯」

 張り詰めた気持ちをほぐしてくれる、この時間。
 大事にしたい。

大将「おう。俺も、お前らの幸せに」

大将「乾杯、だ」


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



532: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/14(水) 17:29:07.30 ID:ZbL4CVt30

楓「んふふー」

 私はすこぶる機嫌がいい。
 大将の店からの帰り道。久々にあの人と打ち解けることができたのだ。
 多少呑みすぎても、ばちは当たらないと、思う。

P「楓さん、ほら、危ない」

 あの人が、車道側へふらついた私の腕をつかむ。

楓「あ、Pさん。セクハラですよー」

P「なんか今日は、だいぶ酔ってるんじゃないですか?」

楓「んふー。たまにはいいじゃないですかあ。だって」

楓「Pさんと久々の、で・え・と。ですしー」

P「……ま、いいですか」

 あの人はやれやれといったそぶりをする。

P「それはそうと、僕から誕生日のプレゼントがあるんですけど」

楓「プレゼントですかあ? あら、なにかしらー」

P「ちょっとあぶなっかしくて、見てらんないです。ほら」

 あの人と私は、小さな公園へ立ち寄った。

楓「ぶらんこー。えへへー」

P「ほら、漕がない漕がない。酔いがまわりますよ?」

楓「はあい」

 ブランコに座る私に向き合って、あの人が私の手の上から優しくつかむ。

P「ほら、これで漕げない」

楓「いいですー。乗ってるだけで楽しいですー」

 下から見上げる私と、上から見つめるあの人。
 見つめあうまま、あの人が口を開く。

P「で、プレゼントです」

楓「……はい」

P「あんまりお金はかかってないですけど」

 そう言ってあの人は、スーツのポケットからなにかを出した。

楓「……これ」

P「……キザですか」



533: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/14(水) 17:30:08.04 ID:ZbL4CVt30

 渡されたのは、カギ。
『P』のイニシャルが入った、キーホルダー付きの。

楓「あい、カギ」

楓「ですよ、ね?」

P「……です」

 あの人はズボンのポケットからカギを出す。そこには『K』のイニシャルのキーホルダー。

 どくん。
 鼓動が速くなるのが、わかる。

楓「いいん、です、か?」

P「……社長がですね、言うんです」

P「お前たちのことは、なんとかしてやる、って」

楓「……」

P「まあ、まだまだ成し遂げてない気はしますけど」

P「社長にそこまで言われたら、ねえ」

楓「……」

P「というわけで、楓さん」

P「これからも、ずっと一緒に、いてください」

 言葉にならない。
 ぽろぽろ。
 ぽろぽろ。
 なぜだろう。涙が出てくる。

 ああ。うれし涙、か。
 うれしくても、泣けるものなんだ。

 私は、ブランコから立ち上がる。
 目の前にはあの人。
 そのまま、私はあの人の口をふさぐ。
 大人のキス。ただ気持ちのおもむくままに。
 何度も。何度でも。

楓「はい……はい……」

楓「一緒にいさせて、ください」

 そしてまた、大人のキス。
 むさぼるように、何度も。

 小さな公園で、人目もはばからず。
 そのとき、その空間が、私の世界の全てだった。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



538: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/15(木) 18:27:31.79 ID:k/W6vBHb0

 翌日。
 あの人とともに出社した私は、報告をするために社長室へ向かう。

社長「そうですか。とりあえず、おめでとうと言っておきましょう」

楓「ありがとうございます」

P「ありがとうございます」

社長「いえ。私もおせっかいだとは思いますけどね」

社長「高垣さんも、もううちの看板になっていると思ってますし」

楓「光栄です」

社長「あ、それと」

社長「これだけ有名になると、やはり」

社長「パパラッチもうるさくなってるのでね」

 そうか。そうだろうな。
 移動や外出にも、かなり気を遣っている。
 あの人のマンションに行くときでも、ここのところはタクシーなどで移動する。
 偽の行動スケジュールを流しておくこともある。
 どこから情報が漏れるか、わからないからだ。

社長「ああ、あの居酒屋ですけど」

社長「もうマークされてますよ」

 そうなのか。だとしたら、大将に迷惑をかけてしまってる。

楓「じゃあ、あのお店には」

社長「いえ? そのままどうぞ。行ってもらって結構です」

楓「え?」

社長「大将には、すでにお願いしてありますので」

 どういうこと?
 社長の言ってることが、よくわからない。

P「僕と社長で、大将とお話させてもらいました」

P「楓さんを守りたいから、協力してくれないか、と」

社長「そういうことです。気がつきませんでしたか?」

社長「高垣さんがいるときは常に、大将が近くにいませんか?」

 あ。そういえば。
 なにかにつけ、大将は私に声をかける。

P「あと、いつものカウンター。あそこも『予約席』にしてます」

P「お店で一番死角になるとこですから」

 なんてことだ。
 私は、私のわがままで、これほどの人たちを巻き込んでいる。

 そんなこともいっさい見せることなく、大将は普段どおり私に接してくれた。
 ああ。

楓「私……あの……なんと言えば」

社長「いえ、高垣さんは気にする必要はないんです」

社長「私は言ったでしょう? 本気ですか、と」



539: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/15(木) 18:28:14.85 ID:k/W6vBHb0

社長「アイドルを守るのは、私やPくんの仕事であり、義務です」

社長「そして大将は、宝生はづきの夫であって、その苦労も知っている」

社長「大将は言ってましたよ? 『楓さんが幸せになるなら、協力を惜しまない』と」

楓「……」

社長「そうそう。トライアドの三人も、協力したいって言ってます」

楓「え?」

社長「彼女たちと良好な関係以上のものが、できている。喜ばしいことです」

社長「だから、彼女たちとのジョイント、組んだのですよ?」

社長「外野がとやかく言えないくらい、高垣さんの実力を見せる、絶好の機会じゃないですか」

 三人の顔が浮かぶ。
 彼女たちも、彼女たちなりに応援してくれてるんだ。

 いろんな人の、いろんな想い。
 私は泣きそうになる。

楓「こんなにも、みんなを巻き込んで……私」

社長「いえ? ちょっと違いますね」

社長「みんな高垣さんが好きで、みんな勝手に応援してるだけです」

社長「私も含めて」

楓「……ああ」

 それ以上、なにも言えなくなる。
 私は、幸せ者だ。

楓「ほんとに、ありがとう、ございます」

社長「我ながら甘いなあと、思うんですよ」

社長「でも、私も人のことは、言えませんからねえ」

社長「妻に怒られてしまいます」

 私は深くおじぎをする。
 社長は「期待してます」と言い、私とあの人を部屋から送り出した。



540: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/15(木) 18:28:50.73 ID:k/W6vBHb0

 緊張から開放されたふたり。
 そこにちひろさんがやってくる。

ちひろ「お疲れさまです。まあ、お茶とかいかがです?」

P「ちひろさん、ありがとう」

楓「ええ、いただきます」

 事務所のソファーで三人。ちひろさんの入れてくれたお茶がおいしい。

ちひろ「楓さん?」

楓「はい?」

ちひろ「幸せになってくださいね?」

 自分の湯飲みを持ち、やさしく微笑むちひろさん。

ちひろ「事務所みんなの、総意ですから」

 周りを見ると、みんな私たちをやさしく見つめてる。
 そうか。そうだよな。
 誰かを守るってことは、みんなの協力がないと。

楓「責任重大ですね」

ちひろ「いえ? 責任重大なのはPさんですよ」

P「重々承知してます」

ちひろ「楓さんは、自分の思ったとおりに、ね」

ちひろ「あとちょっとだけでも、私に幸せのおすそ分け、くださいね?」

 くすっ。

楓「はい」

 私の、大きな大きな変化。
 みんなに見守られて、生きていく。あの人と。

 この事務所でよかった。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



541: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/15(木) 18:29:36.25 ID:k/W6vBHb0

 あわただしく日々が過ぎていく。8月。
『トライアドプリムス・サマーヴァケイション・アクト2』
 彼女たちのライヴに、ゲスト参加をする。

 6月のあの日から、私は打合せとレッスンと営業と。ほとんど休みのない日々。
 あの人は二つのライヴの統括と、私のツアーのレッスンと。
 これまた休みのない日々。
 今まで以上に、ふたりでいることも難しくなってしまった。

 でも、私はそれでいいと思っている。

楓「いつも、一緒だもんね」

 キーホルダーに語りかける。

 みんなが私を守ってくれるとわかってる以上、私もよりプロらしくあらねばならない。
 忙しさを理由にして、あの人とプライベートで会うことを減らす。
 もちろん事務所やレッスン先で会っているし、全然会話がないということはない。
 大将の店も、ふたりで行くことがなくなった。

大将「なんかPに、言っておくこと、あるか?」

 大将は気を遣ってくれるけど。

楓「いえ。Pさんとは仕事で会ってますから。大丈夫」

 私は笑顔を貼り付ける。

 今、私とあの人をつないでいるのは、仕事と電話。それと。
 キーホルダー。

 淋しい。
 淋しい。
 でも、泣かない。
 私は、私自身をだますことに成功した。

凛「楓さん?」

楓「ん?」

凛「Pさんと、うまくいってます?」

楓「……もちろん。心配しないで?」

楓「それより。レッスンの続きでしょ? がんばらなくちゃね?」

凛「え、ええ……」

 このクロスジョイントを成功させる。
 その思いひとつで、私は私を動かしている。
 私は、プロだから。



542: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/15(木) 18:30:36.40 ID:k/W6vBHb0

 そして当日。
 トライアドの三人と、同じ楽屋。

奈緒「それじゃあ、行こうか」

 ゴシックスタイルの三人は、円陣を組んで左手を重ねる。

凛「りん」

奈緒「なお」

加蓮「かれん」

奈緒「トライアドプリムス。レッツゴー!」

凛・奈緒・加蓮「おー!」

 掛け声とともに気合を入れる。

凛「じゃあ、楓さん」

凛「ステージで、待ってます」

 凛ちゃんが振り向きざまに、声をかけてくれる。

楓「ええ」

楓「また、あとで」

     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



543: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/15(木) 18:31:58.23 ID:k/W6vBHb0

加蓮「みんなー! もりあがってるー!」

客席「うおおおーーー!!」

 舞台袖。出番が近づく。
 あいかわらず、すごい熱気だ。

チーフ「高垣さん」

楓「チーフさん、今日はよろしくお願いします」

チーフ「いえ。彼女たちも高垣さんがいることで、今まで以上に燃えてますから」

楓「そうですか。私もがんばらないと」

 ぽん。
 肩を叩かれて振り向くと。

P「しっ」

 あの人が指を立てて口を押さえている。
 今日は渉外で来れないはずなのに。

 もう。
 あの人の手をとり、袖裏のスペースへ誘導する。

楓「Pさん、今日は来れなかったんじゃ」

P「案外スムーズにいったので。それに」

P「彼女の舞台に彼氏がいないなんて、カッコつかないじゃないですか」

 いつも、あの人はずるい。
 思ってても言えなかった私の気持ちを汲んで、こうして。

『私を、見てください』

 いつも、そう思ってるのに。

楓「Pさん……」

 私はすばやく、あの人の唇に触れる。

P「ちょっ、楓さん」

楓「ずっと緊張してたんですよ?」

楓「これで、勇気をもらいました。ふふっ」

 あの人は、あいかわらず頭をかく。

P「行けますね?」

楓「ええ」

 私は、舞台袖へと戻る。
 いよいよ。



544: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/15(木) 18:33:11.44 ID:k/W6vBHb0

 舞台が暗転する。ひとときの静寂。

楓「♪~」

 ハミング。私自身の声で歌いだす、前奏。
 客席がざわめく。
 ようこそ。いらっしゃいませ。

   あなたの後姿を 見つめるだけの私

 歌いだしたとたん、歓声に変わる。

客席「うおおーーー!!」

   追いかけて 追いかけて
   あなたの行方 見えなくならないように

 歌にあわせ、トライアドの三人が舞う。

   ただ 歩き続ける Straight Road

 私はただひたすらに歌う。みなさん、聴こえますか?
 三人の乙女の舞が、舞台を彩る。
 歌は駆け抜け、ラストへ。

 そして、再び暗転。

楓「みなさん、こんばんは。高垣楓です」

客席「わああーーー!!」

奈緒「本日のスペシャルゲスト! 高垣楓さんです!」

客席「わああーーー!!」

 袖で聞いていた以上の、揺れるような歓声。
 思わずうれしくなる。

凛「最後の公演にふさわしく、サプライズを仕掛けましたー!」

加蓮「みんなー! よろこんでくれたかなー!」

客席「いぇーーーす!!」

楓「ふふっ。ありがとうございます」

奈緒「でも、楓さんが出てきたほうが、なんか盛り上がってない?」

加蓮「うんするするー。私たちの立場ないよねー」

楓「そんなことないですよ、ね? みなさん、トライアドの大ファンですもんね?」

客席「いぇーーーい!!」

楓「ほら。奈緒ちゃんも加蓮ちゃんも、安心してね?」

凛「みんな驚かせてごめんねー。でも、今日来てくれたみんなは、ラッキーだよ?」

凛「チケット一枚で、CGプロのアイドル二組の歌聴けるなんて。ねえ」

加蓮「お得すぎてクレームこない?」

奈緒「いや、それはまずいだろ。営業的に?」

客席「わははは」

凛「でも、私たちもうれしいよ。こうして一緒にステージ立てるの」

楓「そうねえ。テレビでも共演ってなかったね」

加蓮「うん、事務所の圧力だね、これは」

奈緒「同じ事務所だし。圧力とかないし」

客席「わははは」



545: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/15(木) 18:33:46.61 ID:k/W6vBHb0

 ステージトークを繰り広げ、もう二曲。
 会場のボルテージは、いやでも盛り上がる。

凛「スペシャルゲスト、高垣楓さんでしたー! みなさん拍手!」

客席「ぱちぱちぱち」

楓「ありがとうございます」

 深々とおじぎ。

奈緒「さあ! こっからラストまで、突っ走っていくぜー!」

客席「うおおーーー!!」

 喧騒に後押しされながら、退場。
 袖口ではあの人が待っていた。

P「楓さん、おつかれ」

チーフ「よかったですよ!」

楓「Pさん。チーフさん」

楓「ありがとうございます!」

 ふたりに向かって、おじぎ。
 でも、まだ終わりじゃない。

 サプライズはこれから。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



550: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/19(月) 12:25:29.82 ID:2mfAYLj10

 ライヴのアンコール。
 すでに一曲終え、もう一曲。
 私は、椅子に座っている。

楓「よし」

 声にならない声で、つぶやいた。そして。
 私は、鍵盤に手を添える。

 こうなったのも。

凛「楓さん」

楓「なに?」

凛「実は、ライヴでやりたいことがあるんですけど」

楓「あら」

 凛ちゃんの提案。それは、私との共演。
 もちろんトライアドのライヴに参加するのだから、それは共演に違いないのだが。

凛「楓さんとふたりだけで、やってみたいんです」

楓「どうして?」

凛「どうしてって言われると、困っちゃうんですけどね」

凛「うーん。大切な人と一緒にやってみたい」

凛「これじゃ、ダメですか?」

 大切な人。凛ちゃんから、そう言われたことが。

楓「ありがとう。うれしい」

楓「なら、凛ちゃんに歌って欲しい曲があるんだ」

凛「私に、ですか?」

楓「うん。私もキーボード練習するから」

凛「え?」

 普通の人生を歩んできた私。ピアノとかエレクトーンを習った経験はない。
 だから、これはチャレンジなのだ。

 そして、凛ちゃんに曲の譜面とCD-Rを渡し、私はキーボードを練習するため。

楓「お願いします?」

P「なんで僕なんです?」

作「いや、俺も手伝うんだし」

 キーボード経験のあるあの人と、プロである作曲家の先生に手ほどきをお願いすることにした。

作「二ヶ月なら、まあ多少は形になるかなあ」

P「大変だと思いますよ?」

楓「でも、凛ちゃんとやりたいかな、なんて思ってるんで」

楓「このくらい、どうってことないです」

 自分のツアーレッスンの合間と、レッスン後に時間を作り、ふたりに特訓を受ける。
 何度か、凛ちゃんがこっちのレッスンスタジオに足を運んで、音合わせをした。

楓「やっぱり、凛ちゃんすごい!」

凛「最初にCD聴いたとき、私には無理って思いましたよ?」

凛「でも、今は大好きです。うん」

作「いや、よくこんな古い曲知ってましたね、楓さん」

楓「さて、どうしてでしょう? ふふっ」



551: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/19(月) 12:25:56.70 ID:2mfAYLj10

 せっかくのサプライズなのだから、自分でなにかを成し遂げてみたかった。
 これは、その足がかり。

 舞台のスポットライトが私を映す。
 ざわめく客席。
 私は、前奏を弾きはじめる。アリーナに響くハモンドオルガン風の調べ。

   If it's getting harder to face every day
   Don't let it show, don't let it show
   Though it's getting harder to take what they say
   Just let it go, just let it go

 凛ちゃんにスポットライトがあたり、彼女は静かに歌いだした。『Don't let it show』

   And if it hurts when they mention my name
   Say you don't know me
   And if it helps when they say I'm to blame
   Say you don't own me

 母親が洋楽好きで、この曲をなんとなしに聴いた覚えがある。
 その女性ヴォーカルのせつない声。
 初めて凛ちゃんの歌声を聴いたとき、この曲が思い浮かんだ。

   Even if it's taking the easy way out
   Keep it inside of you
   Don't give in
   Don't tell them anything
   Don't let it
   Don't let it show

 二ヶ月でやれることは限られている。
 だからバンドのサポートと、打ち込みに大半を任せ、メロディーラインを弾く。
 凛ちゃんの切なくて力強い声が、アリーナの隅々まで響き渡る。

   Even if you feel you've got nothing to hide
   Keep it inside of you
   Don't give in
   Don't tell them anything
   Don't let it
   Don't let it show――

 凛ちゃんのロングトーンはどこまでも伸びていく。
 すごい。さすが凛ちゃんだ。
 一緒にやれて、本当によかった。

凛「どうもありがとう……オン・キーボード。高垣楓!」

 凛ちゃんに促されて、私は立ち上がり客席にお辞儀をする。
 暖かい拍手。ファンのみんなの気持ちが、心地よい。
 拍手が鳴り止まぬ中ステージへ下がると、あの人とチーフさん、そして、スタッフのみんなが暖かく迎えてくれた。
 私は、再び深々とお辞儀をした。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



552: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/19(月) 12:26:42.58 ID:2mfAYLj10

 あの喧騒から一週間経ち。今度は私のツアー。
 サプライズ第二弾。さて。

楓「えーと。次の曲の前に」

楓「先日、実はですね。とあるところにお邪魔しまして」

楓「ネットとかで記事を見た方もいるかもですね」

客席「見たーー!」

楓「ありがとうございます。そうです、トライアドプリムスのライヴにお邪魔しまして」

楓「なかなか刺激的で、楽しいひとときでした」

楓「皆さんの中に、そのライヴ行った! って方、おられますか?」

 客席をみると、結構な人数が行ったらしい。

楓「ありがとうございます。行かれた方はラッキーでしたね?」

客席「いいなーー!!」

楓「ですよねー。行けなかった方のほうが多いですよね」

楓「じゃあ、そんな方のために。雰囲気だけでも味わっていただこうかと」

楓「私から魔法をかけたいと思います」

客席「おおーー」

楓「では」

楓「……アイヤ~~ホンニャ~~マ~~カシ~~……」

楓「あ、ひかないでくださいね?」

客席「わははは」

楓「さあ、これで準備は整いました!」

楓「では、ライヴの雰囲気を堪能してくださいね?」

 突然の暗転。客席がざわめく。
 そこに。



553: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/19(月) 12:27:15.29 ID:2mfAYLj10

   ずっと強く そう強く あの場所へ 走り出そう

 突然の歌声。そして耳になじんだ曲。
『Never say never』

客席「うおおおーーー!!」

   過ぎてゆく 時間とり戻すように
   駆けてゆく 輝く靴
   今はまだ 届かない 背伸びしても
   諦めない いつか辿り着ける日まで

 ステージを縦横無尽に駆ける凛ちゃん。
 客席は突然のサプライズに興奮が高まる。

   目を閉じれば 抑えきれない
   無限大の未来が そこにあるから

 凛ちゃんの合図につられ、客席から合いの手があがる。
 色とりどりのスティックライトが揺れる。

   振り返らず前を向いて そして沢山の笑顔をあげる
   いつも いつも 真っすぐに 見つめて
   弱気になったりもするよ そんな時には強く抱きしめて
   強く そう強く あの場所へ 走り出そう

 ギターソロの代わりに、あの人のヴァイオリンソロ。
 凛ちゃんはあの人に寄り添い、歌い上げる。

   どこまでも走ってゆくよ いつか辿り着けるその日まで

 曲とともに駆け抜けていく凛ちゃん。いつ見ても彼女はすごい。
 躍動感あふれるステージ。
 そして、曲が終わる。

凛「みんなこんばんはーー!! 渋谷凛でーす!!」

客席「うおおおーーー!!」

凛「今日は楓さんのライヴに乱入しちゃいましたー! どうぞよろしくー!」

客席「うおおーー!!」

凛「そしてー!」

???「そしてー!」

客席「おおー!!」

加蓮「私ももちろん、歌っちゃうよーー!!」

 加蓮ちゃんがひょっこり登場する。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



560: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/19(月) 18:01:29.25 ID:orJXVdIM0

 前奏が始まり、凛ちゃんと入れ替えに加蓮ちゃんがステージ中央へ。

加蓮「私のソロ。楽しんじゃってね!」

   人に任せて 気まぐれ わたし
   誰もうらやむ UP TOWN GIRL
   しゃれたデートの誘いも どうせ
   より取りみどり あきあき

 ステージをかわいらしいしぐさで往復する加蓮ちゃん。
 小悪魔の雰囲気に、客席も和らいだ雰囲気になる。

   誰か 教えてよ
   トキメキって なにそれ
   ひとりで探す気も おきない世の中

 ステージから見えるスティックライトが、まるで波のうねりのよう。

   Tell me what can I do
   かわいい人と言われたいけど 今はまだ
   風に吹かれて探したいの 素直になれるそのときを

 ちょこんとフロアスピーカーに座り、そのまま歌いだす。
 そのしぐさがとても愛らしい。

   こんな私でも 優しくなることが
   あるのよ
   見落としているんじゃないこと?

 歌い終わり、一礼。

加蓮「どうもありがとー!」

客席「うおおーー!!」

???「ちょっと待ったー!」



561: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/19(月) 18:02:12.16 ID:orJXVdIM0

奈緒「今度はあたしの出番だよ?」

客席「いえーーい!!」

 さっそうと奈緒ちゃんが登場する。

奈緒「さあみんな盛り上がっていくぜー!」

客席「おおーー!!」

   What's this crazy feeling
   That's come over me
   I keep falling deeper in his spell
   What can it be
   He's got my senses reeling
   Spinning dizzily
   In the magic that he weaves so well

 右に左に揺れながら、奈緒ちゃんが歌う。
『It's magic』
 その光景はほんとうに、魔法のようだ。

   And whenever he is near, it's magic
   Feel the room start swaying
   Gypsy violins are playing
   Melodies haunting me
   Endlessly taunting me

 ベースとドラムの刻む8ビートに、奈緒ちゃんが乗る。
 先生もノリノリだ。

   Fantasy in the air
   Sparks flying everywhere
   Suddenly he is there
   Calling me
   Promises in his eyes
   Paradise in his smile
   Fire is in his kiss
   Ecstasy

 サックスの代わりに、あの人がヴァイオリンのアドリブを奏でる。
 その演奏をあおるように、トライアドの三人が取り囲む。

   Fantasy in the air
   Sparks flying everywhere
   Suddenly he is there
   Calling me
   Promises in his eyes
   Paradise in his smile
   Fire is in his kiss
   Ecstasy

奈緒「はーい、どうもー! トライアドプリムスでーす!」

客席「いえーーーい!!」



562: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/19(月) 18:03:06.19 ID:orJXVdIM0

凛「今日は楓さんのツアー最終日ということで!」

加蓮「私たちがお手伝いしちゃいます!」

客席「うおおーーー!!」

 地鳴りのような歓声。まさかの展開に、みんな総立ちだ。

奈緒「で、なにを手伝うって?」

客席「わははは」

楓「いやいや、もうこうして来てくれただけで、みなさんうれしいですよね?」

客席「いえーーす!」

楓「ね? ありがとうございました。トライアドプ」

奈緒「楓さん、それもう『お帰りください』言っちゃってるから」

客席「わはは」

凛「せっかくこうして乱入したんだから、なんか楓さんとやりたいよね?」

加蓮「え? そのつもりで乱入したんだけど」

客席「ぱちぱちぱちぱち」

加蓮「ほら。みんな期待してるよ?」

楓「えー、でもなんにも用意してないし」

 すると、後ろであの人がなにかをひらつかせる。

凛「あー、こんなところに譜面がー」

奈緒「凛さあ。なんだよその棒読み」

客席「わはは」



563: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/19(月) 18:04:26.90 ID:orJXVdIM0

加蓮「台本どおり?」

楓「えー、そうね。台本どおりね」

奈緒「いや、ネタばらさなくていいから」

客席「わはは」

楓「じゃあ、みんなとやったことがないこと。しましょうか」

凛「おっけー。じゃあ」

 凛ちゃんの合図で、先生がキーボードで和音を出した。
 そして、私たち四人はアカペラで歌いだす。

   ああ あなたにときめく心のまま
   人知れず よりそいたい
   夕やみのブルーにまぎれて今
   さまよう トワイライト・アヴェニュー

 トライアドの三人が参加することが決まって、打合せをする中。

凛「楓さんはソロだから、なんかコーラスみたいなのやってみるって、どうかな」

 そんな凛ちゃんの提案から話が転がった。

P「ほう? なら『アカペラ』なんかどうだ?」

奈緒「え?」

加蓮「え?」

 ステージでもメインヴォーカルをとらないふたりには、ちょっと荷が重そうだ。
 でも。

奈緒「やる」

加蓮「やるよ」

 いつになくやる気十分のふたり。

奈緒「楓さんとの共演だから、あたしたちも高みを目指したい」

加蓮「それに、なんかやれそうな気がするんだよね」



564: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/19(月) 18:06:02.71 ID:orJXVdIM0

 そんな感じですんなりと企画が通った。
 選曲はあの人にお任せ。そしたら、この曲がまわってきた。

凛「これ」

P「ん? いいだろう?」

凛「ん。Pさんらしいなって」

 私は歌詞を見て、胸がきゅんとなった。
 私自身を書いたみたいに。

   会わないで いられるよな恋なら
   半分も気楽に暮せるね
   友達と呼びあう仲がいつか
   知らぬまに それ以上のぞんでた

   So you will be, be my love
   恋は逃げちゃだめね
   たとえ 痛手がふえる日がこようと

 客席はしんとして、歌に聞き入っている。
 私は、震える心もそのままに、歌う。

   ああ 恋する想いは なぜかいつも
   少しだけ まわり道ね
   ああ このまま この手を離さないで
   さまよう トワイライト・アヴェニュー

 歌い終わる。客席はしんとしたまま。

楓「ありがとうございます」

客席「うおおーーー!!」

客席「ぱちぱちぱち」

 そして。
 割れんばかりの拍手が、会場を埋めた。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



568: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/20(火) 17:46:32.98 ID:INScl0Fh0

P「おかげさまで無事成功いたしました。ご協力感謝します」

 そう言ってあの人は、担当者に販促グッズと金券を渡す。
 ツアー終了から二日後。
 私たちは、関係先にあいさつ回りをしている。

 ツアー翌日は完全休息日としているが、その先は当然、次の営業へと向かう。

楓「午前中はここまでですか?」

P「ええ、そうですね。ふぅ」

 まだ残暑厳しい中、地味な仕事だ。体力的にも堪える。

楓「Pさん、まだずいぶんお疲れのようですけど」

P「ああ、まあそうですかねえ。うーん」

 ひとつ、伸びをする。

P「僕も歳ですからねえ」

 私の5歳上だから、そんな歳とかいう年齢でもないと思うんだけど。
 でも、たかが一日の休みでは。

楓「疲れ、抜けませんか」

P「ちひろさんのドリンクのお世話になろうかなあ。あはは」

 そう言ってあの人は笑う。

楓「ちひろさんのドリンクって、冷蔵庫のあれですか?」

P「ええ、ちひろさんの趣味らしいですからね」

楓「へえ」

P「グリーンスムージーとか、やってるそうですから」

楓「意外と健康オタクなんですかね?」

P「まあその分、スタッフの健康管理に気を遣ってくれてるんで、ありがたいですよ」

 私も気になっているけど、正直面倒がっていまだ手をつけていない。

楓「ちひろさんに、悪酔いしないドリンクでも作ってもらおうかしら」

P「あはは。楓さんらしいですね」

P「おっと」

楓「きゃっ」



569: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/20(火) 17:47:48.14 ID:INScl0Fh0

 がくん。
 あの人は急ブレーキをかけた。

楓「Pさん、どうしました?」

P「いや、車が迫ってきたので。ほんとごめんなさい」

楓「いえ、私なら大丈夫ですけど。Pさんこそ大丈夫ですか?」

P「ええ、より安全運転で行きますよ」

 あの人はうっすら汗をかいている。
 私は自分のハンカチをあの人に当てて、汗を拭いた。

P「ああ、楓さん。ありがとう」

楓「いえ、どういたしまして?」

P「疑問形ですか」

楓「ふふっ」

 営業まわりでふたりきり。
 ここのところすれ違いばかりだったから、こういう機会はうれしい。

P「そろそろお昼ですから、どこかで昼ごはんにしますか」

P「なにか、食べたいものあります?」

楓「お酒」

P「それは却下で」

楓「ふふっ、冗談です。お任せします」

P「じゃあ、今日は冷たいそばとか、どうですか」

楓「じゃあ私は、それに枡酒ですね」

P「どこの江戸っ子ですか」

楓「ここは東京ですよ?」

 きゅっと一杯あおりながら、そばを手繰る。粋じゃないですか。

P「ま、軽くそば行っときましょう。あんまり食欲ないので」

楓「あら、夏ばてですか?」

P「そうなんですかねえ」

 そう言いながら、あの人はスマホでお店を探す。



570: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/20(火) 17:48:57.01 ID:INScl0Fh0

P「ああ、ここがよさそうだなあ。十割そばなのか」

楓「いいですね。じゃあそこで」

 ナビをセットして、しばらく。
 お店近くのコインパーキングに車を止める。
 日差しはまだ痛いくらいだ。

P「ふぅ。いつまで暑さが続くのかなあ」

 直射日光を避けるようにして、お店へと急ぐ。
 中はとても涼しい。座敷に案内され、もりそばを二枚注文する。

楓「あら、Pさん。どうかされたんですか?」

 普段ならいろいろと話しだすあの人が、うつむいたままだんまり。

P「うーん。なんかちょっとね、うん」

 歯切れが悪い。

楓「具合悪いんじゃないですか?」

P「いや、そういうことでもないと思いますよ」

P「ちょっとだるいかな、って感じですし。やっぱり夏ばてかな?」

 そう言って笑う顔に、力強さがない。

楓「だいぶ無理してるんじゃないですか? 心配です」

P「いやいや、このくらいどうってことないですよ。ははっ」

 出されたそばは更科の白くきれいな細切り。つゆとの相性もいい。
 でもあの人は、ちっとも食が進まない。

P「……」

楓「P、さん?」

P「ああ、大丈夫。ゆっくり食べてますから」

楓「あいさつ回りが一段落したら、病院行ったほうがいいんじゃないですか?」

P「まあ、ゆっくり寝れば大丈夫ですよ。うん」

 そう言って、そばをかっ込んだ。

 これは。
 あの人の悪い癖。

楓「Pさん」

P「はい」

楓「具合が悪いなら悪いと、正直に言ってください」

楓「お互い、隠し事はなし、でしょう?」

P「……いや、隠し事とかそういうんじゃ」

楓「どうなんです?」



571: ◆eBIiXi2191ZO:2013/08/20(火) 17:49:58.96 ID:INScl0Fh0

 沈黙。
 この時間が、たまらなくつらい。

P「大丈夫ですよ?」

 ほんとかしら?
 あの人が仕事の虫なのは、お付き合いをする前からわかっているけど。
 でも……

 いや、あまり深く追求するのはやめよう。
 お互い気を悪くしたって、なんにもならない。
 まして、久々のふたりきりだもん。

楓「なら、ゆっくり休んでから次行きましょうか」

P「そうですね」

 なんとなくぎくしゃくしたまま、そば湯を飲む私たち。
 そばの味など、すっかり忘れてしまった。
 私に言われたからか、すぐにお店を出ることもなく。多少休憩はしているものの。
 会話がない。

P「そろそろ頃合いもいいとこですから、行きましょうか」

楓「え、ええ」

 あの人に促され、座敷を立つ。
 外はあいかわらずの日差し。

P「いやあ、この日差しはいつ……」

 あの人が上を向いたとたん。

P「あ……れ……?」

 ……ばたっ。

楓「P、さん?」

 あの人が倒れこむ。

楓「Pさん!」

 あ……あ……
 どう、したら……

楓「Pさん!!」

 何も考えられない。何も思いつかない。

楓「だれか!……だれかー!!」

 私は狂ったように叫びだす。
 世界が白くなり、そして、暗転した。


     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


モバP「いいお酒が手に入ったので」【後半】



転載元
モバP「いいお酒が手に入ったので」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1371785287/
モバP「いいお酒が手に入ったので」その2
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1389947445/
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