【モバマス】高森藍子「時間の果てで待っていて」
○プロローグ/雨を想う
みなさんこんにちは、高森藍子です。
皆さんは普段、折り畳み傘を持っていらっしゃいますか?
普段は持っているけど今日は忘れちゃったって人も、いらっしゃるのではないでしょうか。
そして、傘を忘れた日に限って雨に降られたりなんかして……ふふ。
晴れの日が続くと、人はやがて雨の日の心配を忘れてしまいます。
過ぎた昨日がさして今日と変わらず、暖かい日に恵まれ続けたとしても、やがて天気はめぐり、雨は降るもの。
行く道が、思った場所に繋がっているとは限らないもの。
それは誰もが知るあたりまえの事なのだけど、多くの人は雨に凍え、道に迷ってから初めてそれを思い知るのかもしれませんね。
――あの日私は、対面に座るお医者さまを見つめながら、そんなことを考えていました。
「高森藍子さん。一刻を争うことなので、単刀直入に申し上げます」
お医者さまは淡々とした口調で、ずらりと数字が並んだ資料や画像を見せてくださいました。
数字や画像の意味は半分も解りませんでしたが、それに続いたお医者さまの言葉、その意味するところは充分に理解できます。
「検査結果は陽性。貴女は、レディ・グレイ症候群と判定されました」
高森藍子は、死病を患ったのです。
――それは12月も半ばをすぎた、ある日。
冬とは思えない、陽射しの暖かな昼下がりのことでした。
レディ・グレイ症候群はつい先年発見されたばかりの病気でした。
患者さんの数は少ないのだそうですが、報道で何度も取り上げられたので、その名は広く知られていました……原因も治療法も不明の、不治の病として。
進行すると高熱と激しい痛みに苦しみ、朽ちるように痩せさらばえて死んでいく、とても苦しい病気。
ただ、人から人へとうつる病ではないらしい――恥ずかしながら、私が病気について知っていたのは、そのぐらい。
告知の後にお医者さまがもう少し詳しい説明をしてくださったと思うのですが、後になってそのあたりの事を思い返そうとしても、はっきりとは思い出せませんでした。
一緒に診断結果を聞きに来た両親やプロデューサーさんは告知にかなり慌てていたようなのですが、その記憶もなんだか漠然としていて。
――そのかわり、病院を後にして一人で歩いた帰り道の景色がとても綺麗だった事。
そしてその道で感じたことは、今でもとてもよく覚えています。
ひどく心配する家族やPさんに一人になりたいからと無理を言って、別れて歩いた帰り道。
川沿いのその道はプロダクションにも近くて、事務所の子たちがランニングにも使っている、私自身何度も通って見慣れている場所。
だけどその日、景色は違って見えました。
川のきらめき、遠くかすむ建物、軒先の花鉢。
そんなものがどれも素敵に輝いて、私の目にきらきらと飛び込んできたのです。
こんなに素敵な光景を今日に限ってどうしてこんなにたくさん見つけることが出来るんだろう、こんな素敵なものに今までどうして気がつかなかったんだろう。
なんだか不思議で、すてきで、見逃せなくて、目を見張って。
私は陽が傾くのも気にせずに、夢中で写真を撮りました。
そして影がうんと長くのびる頃。
私はすてきな野菊の群生を『発見』しました。
夕陽の茜にあざやかに染まる白い野菊たちの姿がとても素敵で、しばらく見惚れた後夢中で写真に収めて。
そして私はそれがとっても良く撮れたからとメニューを呼び出して、画像を確認して――
凍り付いたんです。
だって、たった今撮ったのとほとんど同じアングルで撮られた、同じ群生の写真が、もうデジカメの中にあったんですもの。
その群生は、今まで何度も写真に撮ったことのある、見慣れたはずの場所でした。
いえ、その群生だけじゃなくて、今日に限って見つけたと思ったいくつもの素敵な光景は、どれも私がよく見知り、何度も写真に収めた場所ばかり。
そう、今日に限って素敵な光景を見つけることができたのでは、なかったんです。
私の目には、いつもの景色が今日に限って輝いて見えていた。
そして、そんなことにも気付けなかった。
そのぐらいには死病の宣告に動揺してしまっていたのだと、私はようやく気がついたんです。
私は、どんな顔をして告知を聞いていたのでしょう。
私はここで初めて、宣告を受けた後のお医者様たちのお話をぜんぜん覚えていないことを自覚しました。
先生やPさんの話がぜんぜん頭に入らないほど、呆然としていたのでしょうか。
ようやくじわりと、それまで感じたこともないような気持ちがおなかの底からわき上がってきました。
痛みや苦しみといった差し迫った自覚症状があったわけではありませんから、それははっきりした恐れや苦しみとは違います。
あえて言葉にするなら、夏休みの終わり、ふと足下に迫る秋の気配に気付いて、忘れていた時の流れを思い出した時のような、寂しさ、心細さ――
そんな、はっきりした形を持たない不安だったと思います。
雨はいつか必ず降るのに。
赤く染まる野菊たちを見詰めながら、私はあのときの呟きを繰り返していました。
これまで私の歩いてきた道は、とても幸せな道でした。
友達に恵まれ、機会に恵まれ。
私をアイドルの世界に連れ出してくれた人に、本当に頑張りたいと、歩き通したいと思える道に出会えました。
でも、私のこれから歩く道は、目指していたのとは違う場所に続いていて。
それを知った上でどう歩いていくか、私はそれを考えなくてはならなくて。
そして、そのために残された時間は、多くないかもしれない。
ぶるっと体が震えました。
いつの間にか、手足がひどく冷え切っています。
いくら陽射しが暖かくても、季節はまだ冬。
私は、そんなあたり前のことにも気付かなくなっていたのでしょうか。
――こんなとき、あの子ならどうするんだろう。
野菊を覆うように伸びていく自分の影を見詰めたまま、私は儚い表情で笑うあの子の事を思い浮かべます。
沢山の不幸を経験した子。
怯えながら、苦しみながら、それでも沢山の出来事を乗り越えてアイドルを目指した子。
その心のありように、真っ直ぐな行動に、私は幾度も感銘を受けました。
もしあの子が同じ立場なら、どうするんだろう。
これからを、この道をどう歩いていくんだろう。
「ほたるちゃん……」
夕闇に消えていく野菊を見詰めて、私はそう呟いていました。
○12月17日・午後10時/言えなくて
家に戻って一段落ついて、ちょっとだけ迷ってからほたるちゃんに電話をします。
ベッドに腰掛けて、クッションを抱いて、コール。
呼び出し音が3回、4回――繋がりました。
「ふあい、白菊れす」
「あっ」
聞こえてきたほたるちゃんの声がふにゃふにゃに眠たげで、私は思わず声を上げてお部屋の時計を確認しました。
こまりました、迂闊でした、もう午後10時です。
未央ちゃんたちなら起きている時間だけど、ほたるちゃんはまだ13歳、去年まで小学生だったんです。
もう休んでいてもおかしくない時間じゃないですか。
「あっ? ――藍子さんですか!?」
ばかばか私のばかと反省する私を尻目に、短い私の声でほたるちゃんは相手が私だと気付いたみたいです。
ふにゃふにゃだった声がぱっと張って、調子が明るくなりました。
あまり運動神経が良い方ではないこと。
ひらめきよりは、何度も繰り返すことで1つの事を物にしていくこと。
だからでしょうか、ダンスレッスンでほたるちゃんか躓くところは、私がかつて躓いたところと、良く似ていました。
そんなところをアドバイスしたり、お互いがつまづいた部分について相談したりしているうちに、ほたるちゃんと私が一緒にレッスンする機会は自然と増えて――そのうち、私をとても慕ってくれるようになったのです。
今も多分、電話の相手が私だと知って素直に喜んでくれているのでしょう。
私も、そんなほたるちゃんが可愛くて――いえ、そんなことより。
「ご、ごめんなさい、寝てたんですよね?」
寝てるところを起しちゃったんです。反省です。
「いえ、大丈夫です。藍子さんからの電話だもん」
見えないと解ってて電話口で深く頭を下げる私だけど、ほたるちゃんの声は本当に嬉しげで、無邪気に明るくて――胸が、ちくんと痛みました。
「――何かあったんですか?」
「えっ」
何も言い出せなくなって、呼吸をひとつ、ふたつ。
黙っている私にほたるちゃんがかけてくれた言葉は、私を案じるものでした。
息を呑みます。
ほたるちゃんは、辛い思いをしてきました。
たくさん、苦しい人を見て来ました。
人の心の機微を、とても敏感に感じる子です。
だから、感じたのかも知れません。
私がいつもと違う――って。
そうです、私はいつもと違います。
思っても見なかった出来事に戸惑って、途方に暮れて。
こんなとき、ほたるちゃんならどうするだろう。
そんな事を考えて、今が何時か確認することも忘れて電話をかけてしまうぐらい、動揺しているのです。
話したいことはありました。
たくさんたくさん、ありました。
でも。
『ふあい、白菊れす』
ほたるちゃんの声を思い出します。
ふにゃふにゃで無防備で、幼くて。
ほたるちゃんはこの時間にはもう眠くなってしまうような――年下の女の子なのです。
その子に、こんなことを話してしまっていいんでしょうか?
解決しようのない重荷を電話ごしに投げつけてしまっていいのでしょうか。
まだ自分で重荷に向き合ってもいないうちから?
――そんなはずはない、と思いました。
だから。
「ふふ、違いますよ」
私は、笑いました。
「私、クリクマス前にお休みがもらえることになって……都合が合えば、ほたるちゃんと遊びに行きたいなあと思って」
「わあ、素敵です! 藍子さん、このごろ凄く忙しそうでしたものね」
ほたるちゃんの言葉が、ぱっと明るくなりました。
よかった、どうやら今度は私の声、ちゃんとしているみたいです。
私とほたるちゃんは他愛の無い、楽しい未来の話をしました。
明るくてきらきらした、憂いのない未来の話です。
そう、少なくとも私のこの戸惑いは、今話すべきことではありません。
もし相談するとしても、それはずっと後の事なんです。
その時がもし来たら。
私の戸惑いを、口に出してしまったら――。
ほたるちゃんは、なんと答えるでしょう。
二人で出かける約束をしながら、私はちいさくそんなことを考えていました。
その機会が、二度と訪れないとも知らずに。
「こーるどすりーぷ……ですか」
SFみたいなその言葉を池袋晶葉ちゃんの口から聞いたのは、ほたるちゃんと約束を交わした二日後、事務所の面接室でのことでした。
「ああ、そうだ。助手から相談を受けてな」
助手と言うのは、Pさんの事なのです。
「相談って」
話しちゃったんですか、とPさんに抗議の視線を向けます。
私は、自分の病気については事務所にもファンにもしばらく伏せてほしい、とPさんにお願いしていました。
もちろん静養を進められましたが、治療法も原因もわからない病気だというなら、静養にどれほどの意味があるのかわかりません。
それなら少なくとも自覚症状がでるまでは、誰かに気取られる心配のないうちは、みんなと一緒にいつも通りを続けたい。
そうお願いしたのに、たった数日後に晶葉ちゃんに話してしまっているというのでは、さすがに約束が違うのではないでしょうか。
「いや、責めないでやってくれ。助手は君との約束を反故にしたわけじゃないんだ」
「なら、どうして」
「そもそも、君に検査を受けさせるように助手に強く勧めたのは私と志希なんだ」
「助手に頼まれて、録画機材の改良に取り組んでいた。ライブ映像の画質を向上させる目的で。いい出来だったんだ」
いつも自信満々に発明品を紹介するはずの晶葉ちゃんが、ちっともうれしそうではありません。
「完成して、事務所のテレビにつないで、個人的にライブ映像を鑑賞してた。君も出てる奴だ……偶然志希が居合わせて、一緒に見ているうちにちょっと待ってと言い出した。君が出てるシーンをもう一度見せろと。そして、何度もみるうちに……」
私に、病気の影を見つけた。
そういうことなのでしょうか。
「二人で画像を何件も見比べて、公表されているデータとつきあわせて、もしかしたらという話になって。一度検査を受けさせるべきだと、強く頼み込んだ。琴歌に頼んでいい医者を紹介してもらって……だから、助手は悪くないんだ」
「……はい」
小さく頷きながら、落ち込む気持ちと同じように自然と肩が落ちました。
Pさんを疑ってしまったことが心苦しかったこともありますが、もう一つ。
私の病は見る人が見れば悟られてしまうものなのだ、ということがはっきりしたのはショックでした。
志希さんは、とても観察眼の鋭い方です。
その志希さんが確認したからこそ、誰も気がつかなかった兆候に気づいた。
だけど、病の影はそこにあるのです。
アイドルは沢山の人に見られるお仕事です。
今は気づくのが志希さんと晶葉ちゃんだけでも、明日はどこかの誰かが気がつくかも知れません。
そしたら、大きな騒ぎになるかもしれません。
事務所の仲間に、Pさんに、両親に、迷惑をかけてしまうかもしれません。
だからもう少し、黙ってこのままを続けることができるかも……そんなのは、無責任な、甘い思いこみ。
だって私は、晶葉ちゃんやPさんが私のためにそんな準備をしてくれていたことにすら、気付くことができずにいたのですから。
「コールドスリープの話を、続けていいかな」
気遣いがにじむ、晶葉ちゃんの言葉。
よく見ると、その目の下には濃い隈が出来ていて、いつもの半分も自信満々には見えませでした。
もしかして、あまり寝ていないのではないでしょうか?
はい、と頷いてからそっと表情を伺いますが、晶葉ちゃんはそれには気づかず、『こーるどすりーぷ』の説明を再開します。
「文字通り冷凍保存してしまおうという話ではない。原理的には時間そのものの――ああいや、そういう理論の説明はたぶん誰にも求められていないな」
天才だから解るぞワハハと見せる笑顔も、どこか無理をしているように思えるのは気のせいでしょうか。
「原理はともかく、眠り姫のように君の時間を止めて長期間を眠って過ごすための装置だと考えればいい。以前から研究を進めていたんだが、琴歌や桃華の協力で出資が受けられて、ようやく第一号完成のめどが立ったんだ。だから――」
どこか、たよりなげな視線でした。
「だから。この装置に、君に入ってほしいんだ」
「私に、ですか」
「志希が言っていたことなんだが」
天才と言われる女の子の名をあげて、晶葉ちゃんは苦い顔をします。
「ある病気を治療できる方法が発見されたとして、そのやりかたをすぐにその病で苦しむ人たちに適用できるわけじゃない」
それは、確かにそうなのでしょう。
「理論が検証され、動物実験が行われ、希望者に臨床試験が行われる。たくさんの検証を積み重ね、その結果を元にして治療法が標準化され、ようやくたくさんの人が治療法の恩恵を受けられるようになる――すごく、時間がかかるものなんだ」
強い薬は毒にもなる、と聞きます。
なにかひとつ間違えば人を癒すはずの薬が命を奪うこともあるのでしょうから、どれほど慎重になっても、慎重になりすぎるということはないのでしょう。
「その一方で、レディ・グレイ症候群だと診断された者の余命がどれぐらいあるか、ということは統計的に明らかだ」
「晶葉ちゃん……?」
晶葉ちゃんの言葉の最後が震えていました。
目尻には、涙の粒がありました。
「はっきりしている事がある。今この瞬間もたくさんの研究者がレディ・グレイ症候群の治療法を求めて研究を続けている。だけど」
晶葉ちゃんが早口になりました。
声の震えを押し殺すみたいでした。
「だけど、仮にどこかの天才研究者がたった今この病気をやっつけるヒントに気づいたとしても、間に合わない。治療法が使えるようになる前に、君の命が尽きてしまう。苦しんで苦しんで待ったとしても、絶対に間に合わないんだ」
私のために、事務所の仲間が泣く。
いつも自信満々な晶葉ちゃんが、とても頭のいい晶葉ちゃんが、間に合わないと泣く。
その姿に私は、はっきりと自分の死を意識したのです。
「それで、『こーるどすりーぷ』なんですか?」
息苦しさから逃げるように、問いかけます。
「ああ、そうだ」
晶葉ちゃんは、笑顔を作りました。
少しでも明るい、希望のある話を聞かせようとしてくれている。そんな笑顔でした。
「治療法が間に合わないなら、見つかるまで病気の進行を止めればいい。つまり、眠るんだ」
眠って、治療法が見つかるのを待つ。
そんなお話を、どこかで聞いたことがあるような気がします。
あれはなにかの雑誌だったでしょうか。
それとも、SFの話だったでしょうか?
「なに、そんな長い話じゃない。どんな死病だって、治療法は見つかってきたんだ。眠りは快適なはずだし、きっと短くてすむはずさ。具体的な手順としては――」
「――でも」
思わず口から出てしまったつぶやきに、晶葉ちゃんの笑顔が音をたてて凍ったように見えました。
「――でも、なんだ?」
「私の事を考えてくれているのは、解ります。だけど――」
「眠りたくないのか?」
「――はい」
少し震えるような晶葉ちゃんの声に、胸が詰まりました。
だけど偽れなくて、私はゆっくりと頷いていました。
何年か、もしかしたらもっと長く、眠る。
理屈はよく解りませんが、晶葉ちゃんが言うのです。
それは可能なことで、私が助かるためのただひとつの手段なのでしょう。
だけど。
「――皆と、一緒に居たいんです」
「目覚めたら、みんなが待ってるよ」
晶葉ちゃんの言葉に、私はちがいます、と首をふりました。
私はこれまで、幸せな人の輪の中にいました。
私が伸ばした手を取ってくれる人がいて、私に手を伸ばしてくれた人がいる。
そして私たちは一緒の時間を過ごしてきた――。
人の輪って、どういうものでしょう。
それは同じ人がただそこにいる、ということでしょうか。
同じ時を過ごし、お互いを見ているからこそ、そこにつながりがあるのではないでしょうか。
私がいくらかの時間を眠り、目覚める。
その先ではきっと、晶葉ちゃんが、未央ちゃんが、茜ちゃんが――たくさんの仲間が、待っていてくれるでしょう。
だけどその間に、みんなは私のいない時間を過ごして、成長してゆくでしょう。かわっていくでしょう。
そして、私だけが、なにも変わらない。
数年ぶりに再会した小学校の友達がまるで別人のようで。
いつかそこにあったはずのつながりは、もう残ってなくて、自分は友達にとって、すっかり『過去』になっていて。
そのことに驚くよりも、悲しいよりも、ただ寂しくて。
そんな気持ちを経験したことがありませんか?
私はたぶん、気が弱くなっていたんです。
繋ぎあったはずの手は離れてしまっているかもしれない。
もう、一緒に同じ目標を見つめることはできないかもしれない。
再会を果たしたとき、共有していたはずの思いは過ぎ去った過去になってしまっているかもしれない……
そんな未来を想像すると、たまらない気持ちになってしまうんです。
そんなことを、私は晶葉ちゃんに説明しました。
ああ、私は、本当に気が弱くなってしまっているみたいです。
年下の女の子に、私を助けようと手を尽くしてくれている子に、あんな不安そうな顔をしている子に、眠りたくないって言ってしまうのですから。
晶葉ちゃんは、俯いて私の話を聞いています。
今、晶葉ちゃんはどんな表情で、どんな気持ちで私の言葉を聞いているのでしょう。
ああ、だけど、どうしても言葉が止められなくて。
「晶葉ちゃんが、私のためにすごく頑張ってくれたのはうれしいです……だけど、こーるどすりーぷの権利は、私でなく、同じ病気で苦しんでいる別の人に」
「……ほかの、誰かなんて、知るか!!」
そして、そんな私に向けて晶葉ちゃんから帰ってきたのは、爆発するような激情です。
それを言わせてしまったのは自分なのだと思うと、胸がぎゅっと苦しくなりました。
「君が眠りたくないならそれを優先すべきかもしれない。今、君と同じ病気に苦しんでる人がいることも知ってる。ああ、知ってるさ!!」
言葉と一緒に、こぼれ落ちる涙。
「けど私は、私たちは。誰かじゃなくて君に助かってほしいんだ。君だから助かってほしいんだ。あの事務所に、君がいないなんて、嫌だ!! 」
私は、晶葉ちゃんがこれほど大声をあげるのを見たことがありませんでした。
これほど苦しそうな顔をしているのを、見たことがありませんでした。
皆と居たい。
それは確かに私の望みでしたが、その望みが周りをどれほど苦しめるか……
それをまざまざと突きつけられたようでした。
「それでなきゃ嫌だ。我が儘だなんて承知の上だ。だけど、だけど」
嗚咽が混じって、晶葉ちゃんの言葉が続かなくなります。
思わず、私は晶葉ちゃんを胸に抱いていました。
嗚咽は、号泣になりました。
「……晶葉ちゃん、ごめんね」
晶葉ちゃんに、謝罪します。
皆と一緒にいたいということは、もう私にはできませんでした。
皆がそれを望まないから……それも、もちろんありました。
だけど、それだけではありません。
それは、たしかに私の望みでした。
でも私は、皆の笑顔が好きだったんです。
事務所のみんなに、そして私の歌を聞いた誰かに、笑顔になってほしい。
そう思って、これまで歩いてきたのです。
皆の笑顔をが曇ると解っていてなお自分の思いを通そうすることは、今までの自分を嘘にすることだと、そう思えたんです。
あの夕陽の河原で、私は自分がショックを受けていることにすら気づかずに浮き足だっていました。
ほたるちゃんに夜中に電話もして。
そして、みんなが気がつかないなら……なんて甘い考えで、もうすこし皆に内緒にしていたい、って我が儘を言いました。
腕の中で泣く晶葉ちゃんから、涙の熱さが伝わってきます。
体にしみ入るようなその温度を感じながら、私は自分を戒めていました。
私はこれまでとは違う道を歩いていかなくてはならない。
それは、自分が思っていたのとは違う道。
それが不安で、心に余裕がなくて、私は自分のことしか見えなくなっていたのかもしれません。
だから、ちゃんと考えないといけないって。
周りをちゃんと見て、高森藍子として、この先の道をどう歩きたいのか、考えなくてはいけないって。
「……プロデューサーさんも、私に眠ってほしいと思っているのですね?」
すがりつくようにして泣く晶葉ちゃんの背をなでながら、ずっと沈黙を続けていたプロデューサーさんに問います。
「残酷なことかも知れないと、解ってはいるんだがな」
プロデューサーさんは、短く頷きました。
頼りがいのありそうな体が、今日は少し小さく見えます。
答えはそれで十分でした。
私は頷いて、目を閉じます。
後になって思えば、私はこのときプロデューサーさんが口にした『残酷』という表現について、もっと思いを巡らせるべきでした。
だけどそれは、すべてが終わった後だから解ること。
その時の私は、自分の中の覚悟を固めることに集中していたのです。
「晶葉ちゃん」
その苦しい仕事をやり終えて、目を開いて、晶葉ちゃんの耳元でささやきます。
たぶん、声は震えていなかったと思います。
やさしく、言えたと思います。
「私、眠ります。コールドスリープ、してください」
「……うん」
晶葉ちゃんの顔はまだ涙に濡れていたけれど、それでもさっきよりずっと明るくなっていました。
私の心も、少し慰められた気がします。
次に晶葉ちゃんの口から出てきた言葉には、ちょっぴり驚かされてしまいましたけど。
「そうと決まれば、早いほうがいい。私も全速力で作業を進めよう……コールドスリープ実施は三日後。それまでに必要な検査と処置を終わらせて、絶食は……」
「ずいぶん、早いんですね」
「本当は、今すぐにでもコールドスリープに入ってもらいたいんだ」
歯がゆくてたまらない、というように晶葉ちゃんが唇をとがらせました。
「原因も治療法も不明ということは、どこまでが手遅れじゃないのかも解らないってことだ。助かる為に眠って、それで手遅れでしたじゃ泣くに泣けない……だけど、どうしてももう少し作業に時間が必要で」
もしかして、晶葉ちゃんの目の下の隈はそのせいでしょうか。
少しでも早く私を眠らせるために、寝る間を惜しんで頑張ってくれているのでしょうか。
「あ、藍子?」
私が抱く手に力を込めたので、晶葉ちゃんは戸惑った様子でした。
「無理だけはしないでくださいね。私のために晶葉ちゃんが体を壊すなんて、いやですよ」
「……なんの、天才が今働かなくてどうするんだ。準備ができたらぐっすり眠るさ」
晶葉ちゃんはからりと笑って、実際に眠る前に私がしておかなくてはならない検査や処置について色々と説明してくれました。
告知を受けた時と違って、今度はちゃんと話を聞くことができたと思います。
三日後までにしなくてはならないことは、結構多いみたいでした。
明日には西園寺さんが手配してくれるという病院に入院して、検査を始めることになるでしょう。
私は、昨夜のほたるちゃんを思い出します。
あの夜電話でかわしたほたるちゃんとの約束の日は、四日後。
三日後に眠るなら、その約束を果たすことはできません。
眠っているところに電話をかけて、心配させて、嘘をついて、約束をすっぽかして。
ほたるちゃんに、いくつも迷惑をかけてしまったような気がします。
ほたるちゃんに、謝りたい。
それは、眠る前に片づけたいたくさんの心残りの中の、無視できない一つでした。
私の病気のこと、そして私が眠るということを事務所の皆に説明したのは、翌日の朝のことでした。
自宅暮らしの私ですが、事務所の寮にお邪魔させてもらって、告白する時間をとらせてもらったんです。
冬休みがすぐそこでお仕事が多い時期だということもあって、寮の食堂には寮暮らしの子の他に、この時期だけ寮で寝泊まりしている子もいて……たくさんの仲間に、お話を聞いてもらえました。
茜ちゃんは、何か言おうとして、何度も何か言おうとして、どうしても言葉が出ないようでした。
未央ちゃんは私を元気づけようとちょっとおどけて振る舞って……でも、半分泣きそうな顔をしていました。
たくさんの仲間に、悲しい顔をさせてしまいました。
年少の子は、ひどく不安そうでした。
川島さんや菜々ちゃんたちはそんな子たちに寄り添って、そっと言葉をかけてくれていましたけど、その顔にはやっぱり、暗い影が差しました。
自分のせいでそんな顔をさせてしまうのは、それをなんとかする力が自分にないのは、本当に心苦しいことで。
それでも、これだけはちゃんと伝えておかなくてはいけない事だったから。
なにも言わずに眠ってしまうことは、できなかったから。
だから私はせめて、笑顔でいようと決めていました。
告白して、きっとすぐ戻りますから、と笑いました。
ああ、笑顔でいるのって、こんなに力がいることだったでしょうか。
……眠る、ということを、皆が受け入れてくれたのは幸いでした。
それがもう明後日だということに動揺する子は多かったけど、助かるために眠るのなら、そうすべきだって。
しばらく一緒に居られないとしても眠ってほしい、と言ってくれたのです。
きっと待っているからと、目覚めたらまた一緒だからと手をとってくれる皆の顔。
もし、自覚症状がでるまで隠していたら、一緒に居たいからと眠らずにいたら、皆は最後にどんな顔をしたでしょう。
どんな思いをしたでしょう。
それを思えば今更ながら、私のわがままを止めてくれた晶葉ちゃんとプロデューサーさんには、感謝しかありません。
もちろん、今日中に指定された病院に向かう必要がありますから、長く事務所にとどまることはできません。
それはひどく寂しいことでした。
その上で言葉をかわし、いつか再会できるのだと言い合えたことは、ここ数日でもっとも心が安らぐ出来事でした。
ただ……ただ。
今日、事務所に所属するすべての仲間に面と向かって説明できたわけではありません。
実家住まいだったり、遠隔地からの通いだったり、ちょうど泊まりがけのロケに出ていたり。
色々な事情でこの日寮にはいなくて、会うことができなかった子も、たくさんいたのです。
ほたるちゃんも、その中の一人でした。
『……というわけなんだ』
「そん、な……」
プロデューサーからの電話を通じて白菊ほたるが藍子の事情を知ったのは、泊まりがけで出掛けていたロケ先での事だった。
宿の電話ごしに説明を聞いて、受話器を取り落としそうになる。
『藍子はもう、検査のために移動している。しばらくはもうメールをする時間もないからすまない、と』
メール、と言われて彼女は凍り付いた。
白菊ほたるのスマホは、いつもの『不幸』でロケに来て以来故障していたのだ。
もし彼女がメールを確認できていたならば、昨夜からほんの何通か、高森藍子からの着信があったのに気付けたはずだった。
できれば電話ででも話したいと。
約束を反故にしてすまなかったと。
あの日、なんでも無いと言ったのにこんなことになってすまないと控えめに謝罪するメールに。
故障の事情を知らない藍子は、ロケの邪魔をしては悪いから……と、宿やスタッフを通じて無理に電話をつなごうとはしなかったのだ。
何故、よりによってこんな時に。
あまりのタイミングの悪さに、ほたるは久方ぶりに己の不幸を呪った。
病、コールドスリープ……事情を聞けば、ああと思い当たる。
あの日の電話は、それだったのだ。
あの時もう少し深く疑問を持っていれば、藍子と話す機会もあったのではないか。
何の役にも立てないとしても、少しは藍子の心を軽くする手伝いをしたかった。
あとからあとから、悔いが沸いて出る。
『しばらくは難しいな』
プロデューサーの返答はすげないものだった。
『検査や眠るための処置の都合で、藍子はコールドスリープ当日まで個人的なメールや電話をする余裕が無い……藍子自身も、謝罪や説明だけじゃなく、ほたるに聞いてみたいことがあった、と言ってはいたのだがな』
「私に、聞きたいこと」
プロデューサーの言葉が意外で、ほたるは思わず問い返していた。
運も要領も悪くて、足踏みばかりしていた自分を支えてくれたのは、藍子ではないか。
たどりつきたい場所に向けて、あの穏やかな笑顔のままで進み続ける強さを見せてくれたのは、藍子ではないか。
『ああ。聞いても困らせるだけかも知れない、と言っていたがな』
「それは、どんなことなんですか」
『ほたるなら、こんなとき、どう歩いて行こうとするんだろう、と』
どう、歩くのか。
ほたるはその言葉に、背筋を伸ばされた気がした。
自分の中に、何かを突きつけられたように感じたのだ。
それはきっと本当に大事なもので……。
『それで本題なんだが。藍子は明後日、22日には眠りにつく。その直前に少しだけ時間があるらしい。なんとか調整をつけるから、ほたるも』
会って、別れを言うことができる。
ほたるは反射的に行きます、お願いしますと答えようとして……口を閉じた。
本当に大事な時に壊れてしまった、自分のスマホを思い出す。
自分が周囲にもたらした、様々な出来事を思い出す。
本当に大事な時に、自分が訪れていいのか。
そんな遠慮がある。
だけど、それよりももっと大きく、突きつけられたものが胸の中にあった。
それは藍子の意図とは違ったかも知れないが、ほたるは自分が何をしなくてはいけないか、解った気がしたのだ。
「……私は、行けません。ごめんなさいと、藍子さんに伝えてください」
会いたい。
会って、話したい。
別れたくないと、病気なんていやだと、またすぐ会えますよねと言いたい。
そして、あの笑顔をもう一度見たい。
そんな思いを押し殺して、答える。
『……そうか』
プロデューサーは何か言おうとしたが、白菊ほたるに何かの決意があるのを感じたようだった。
「ごめんなさい」
見えないと解っていて、ほたるは受話器を持ったまま頭を下げた。
その目には、光がともっていた。
プロデューサーや仲間たちが何度も見てきた目。
何かをやると、決めた目だった。
「それで、プロデューサーさんに、お願いがあるんです……」
やると決めたことの為に、ほたるはもう一度、頭を下げた。
○12月22日午後/おやすみなさい
高森藍子は、アイドルです。
アイドルにとって、クリスマスが近いこの時期は一年でもっとも忙しい時期の一つです。
去年のいまごろ、私はどうしていたでしょう。
ああ、そうだ。
ポジティプパッションのみんなと一緒に、街角でミニライブのチラシを配ってたんです。
あのころ私たちはまだデビューしたてで、あまりお仕事もなくて。
あまりチラシも貰ってもらえなくて、寒かったけど。
プロデューサーさんが買ってきてくれた缶コーヒーを三人で飲んだっけ。
あのコーヒー、とっても美味しかったなあ。
……今日も、町はクリスマス一色なのでしょうか。
私が「コールドスリープ」するための機械は、地下の深い縦穴の底にありました。
シンプルで清潔な白い部屋の真ん中に、ガラスの棺のような装置があります。
これが私を眠らせる機械。
晶葉ちゃんは『オーロラ』と呼んでいました。
眠れる美女なんて藍子にぴったりじゃないか、なんて笑って……ふふ。
地震や地上の変化に影響されないために地下に作ったのだというこの部屋は、私が眠る以外になにも用途が無いのですから、当然いつ見てもとても殺風景でした。
だけど、今日は違いました。
『オーロラ』の周りは、花で埋め尽くされていました。
事前の処置をすべて終えて、眠るためにこの部屋を訪れた私を、たくさんの拍手と笑顔が迎えました。
まるで、クリスマスが地下まで降りてきたみたいで、私は目を丸くしました。
だって、だって。
「みんな、お仕事のはずでしょう。いいんですか」
「あーちゃんの大事な日だもん。来ないわけないじゃん!」
未央ちゃんが、笑っていました。
「その通りです! 行ってらっしゃいって言いたいからお願いしますと、プロデューサーさんに頼み込んだのです!」
茜ちゃんが太陽みたいに笑って手をふりました。
プロデューサーさんがいます。
歌鈴ちゃんが、泣きそうな顔で拍手しています。
夕美さんが、美穂ちゃんが、加奈ちゃんが、亜季さんが。
みんなが、みんながそこにいました。
私を見送りに、来てくれたのです。
薄暗いはずの部屋が、ぱっと明るくなった気がしました。
私は……ああ、私は。
この気持ちを、どう言葉にしたらいいんでしょう。
この光景のまぶしさを、どう言い表したらいいのでしょう。
みんなの姿を見られるのがこんなにうれしいのは、何故でしょう。
つい数日前まで毎日見ていたみんなの顔が、あの日、病院の帰りに見た景色のように、輝いています。
涙があふれてくるのは、きっとこの景色があんまりにまぶしいからです。
未央ちゃんがぎゅうって私を抱きしめました。
きっとすぐあえるからって、笑います。
「戻ったら三人で、大きな会場でライブしましょうね!」
絶対です、と茜ちゃんが拳を突き上げました。
私は、はいと頷きました。
ああ、泣くのは無しだと言われたけど、こんなの、無理です。
「それにしても、すごいお花ですね」
せめてちょっと泣き顔を背けようと、私は『オーロラ』の周りを埋め尽くすたくさんの花に目を向けました。
「クリスマス近いし、本当はもっと色々用意したかったんだけどね」
未央ちゃんは、ちょっと照れくさそう。
きっと、今日の発起人は彼女なんです。
「でも藍子ちゃんは機械に入る前は絶食だからケーキは用意できないですし、いろいろプレゼント難しくて」
難しい顔をする茜ちゃん。
きっと本当に、たくさんたくさんプレゼントを考えてくれたのです。
「それで、お花にしたらどうかなって。皆でお花を送ろうよって提案したんだよ」
夕美さんは、お花に囲まれて眠るってロマンチックじゃない? って笑いました。
「それじゃあ、このお花は、みんなから……?」
「うん。みんなで花束ひとつづつ選んだの」
私のつぶやきに答えてくれる未央ちゃんの言葉を背に、私は『オーロラ』の周りを埋め尽くす花束に近づきました。
元気な色のマリーゴールドは茜ちゃん。
ピンクのガーベラは未央ちゃんです。
そして……
ほんの片隅にそっと置かれているスズランには、ほたるちゃんの名前がありました。
「……やっぱり、ほたるちゃんは来られなかったんですね」
いつの間にか背後に寄り添ってくれていたプロデューサーさんに、小さく問いかけます。
「どうしても外せないレッスンがあると、聞かなくてな」
プロデューサーさんは困ったように眉を下げています。
……結局、私はほたるちゃんと会うことはできませんでした。
約束を破ってしまったこと、あの夜の電話のことを、謝ることはできませんでした。
ちくり、と胸に刺さったとげが痛みます。
どうして、ほたるちゃんは来られなかったのでしょう。
あえて、レッスンを入れたのでしょうか。
何か、思うところがあったのでしょうか。
もしかして、今回のことで、知らないうちに傷つけてしまっていたのかもしれません。
それともまさか、自分の不幸を気にしているのではないでしょうか。
いろいろな事が頭に浮かんで、私の心は乱れます。
だけどもう、実際にほたるちゃんの心境を確かめる時間はありません。
晶葉ちゃんが、別れの時を告げました。
私が『オーロラ』の中で眠りにつくときが、来たのです。
それまでわいわいとにぎやかにしていたみんなが、しんと静まりました。
私は皆を見渡して、何か言おうとして……言えなくて。
ただ、ぺこりと頭を下げて、蓋が開いた『オーロラ』に横たわりました。
横たわったまますこし左右を見れば、みんなの花束が私を取り囲んでいます。
みんなを、とても近くに感じます。
蓋が閉じて、周りの音が聞こえなくなりました。
みんなは『オーロラ』の周りに集まって、私を見つめていました。
ふふ、未央ちゃんたら。
泣くのはナシって言ったのに、みんなの中で一番の泣き顔は未央ちゃんですよ。
でも、人のことは言えないです。
私だって、涙が止まらないんですから。
ああ、なんだか、すごく眠くなってきました。
『コールドスリープ』という言葉から感じるイメージとは違って、ちっとも寒くはありません。
全身がふわっと暖かくなって、なんだか力が入らなくて、どこかぼんやりとして。まるでたくさんレッスンをして、お風呂に入った後みたい。
私は苦しくないですよ。
悲しくないですよ。
みんながこうしてそばにいてくれるんです。
そんなわけないじゃないですか。
だから、ああ、だから、そんな悲しそうな顔をしないでください。
きっとすぐにまた、会えますから。
自分にも言い聞かせるように、またねと呟いて、そこで私の意識は途切れました。
高森藍子は、眠りについたのです。
眠りの中で私は、最後まで見ることの叶わなかった、ほたるちゃんの儚げな横顔を夢に見ていました――
(後編へ続く)
後編は明後日のこの時間に。
○プロローグ/都内某所ライブハウス・舞台袖
出番を待つ短い時間の間、白菊ほたるはもう一度自分の足元を確認した。
本番まで、あとわずか。
これから挑むことは、決して失敗できないことだった。
何度確認しても、足りないと思った。
だけど――これは本当に、自分に成し遂げられることなのだろうか?
ふと浮かぶ疑問を、弱気を、払いのける。
もう決めたことだ。
それはきっと、自分にできるたった一つのこと。
だから――。
「ほたる、出番だぞ」
プロデューサーの声に、立ち上がる。
足元を照らす靴に、祈りを篭める。
白菊ほたるは決意を秘めて、ステージへと駆け出していった――。
○??月??日/オーロラの目覚め・テイク1
ぱちり。
まるでそんな音がするように、私、高森藍子はお布団の中で目を覚ましました。
なんだか短い、悲しい夢を見ていたような気がします。
ここは私のおうち、私のお部屋。
昨日は未央ちゃんと茜ちゃんがお泊まりに来てくれていましたから、隣をみると二人がまだ小さく寝息をたてています。
時計を見ると午前8時半。
今日が日曜だからって、昨夜は楽しくて夜更かししちゃったからって、ちょっとお寝坊だったかもしれません。
カーテンをあけて2人を起こして、3人で1階に降りると、お母さんが遅い朝食を用意してくれました。
『今日はこれから、どうするつもりなんだい』
お父さんに聞かれて、私は3人で出掛けるつもりなんだと説明しました。
女子寮でほたるちゃんと合流して、この間のロケで訪れた海が見える丘まで遠出する予定なのです。
いやいや県またいじゃうから、今日はほたるんも居るんだから、と笑ってたしなめる未央ちゃん。
今日のお出かけは、なんだかとても楽しみです。
ほたるちゃんには不義理をしてしまっていたから、今日は楽しんでくれるといいのですが。
さあ、出掛けましょうか。
朝ご飯をゆっくり食べて、両親に挨拶して、私たちは身支度を整えて出掛ける準備をしてしまいます。
今日はきっと、いい日になるはずです。
笑顔で玄関のドア開いて外へと歩き出すと、まぶしい日差しが視界を真っ白に染めていきました――。
○??月??日/オーロラの目覚め・テイク2
ぱちり。
まるでそんな音がするように、私はお布団の中で目を覚ましました。
なんだか、ほんの短い、楽しい……そして悲しい夢を見ていたような気がします。
だけど、まぶしい光に夢はほどけて消えていき、あっという間に思い出せなくなっていきました。
ぼんやり開いた瞼と意識の向こうはまぶしくて、目をあけていることがとても億劫です。
ちょっと気を抜いたら、もう一度目を閉じて気持ちのよい眠りに沈んでしまいたいという誘惑に負けてしまいそう。
ああ、でも、いけません。
だって、まぶしかったけど、確かに枕元に人影が見えたんです。
お母さんが、私を起こしに来てくれたのでしょうか?
待たせてはいけません。
起きなくちゃいけません。
高校性になったのにお寝坊さんね、なんて困った顔をされるのは、やっぱりちょっとばつが悪いじゃないですか。
このまま閉じてしまいたいと駄々をこねる瞼をなだめて、私はまぶしさに耐えながらようやっと目を開きました。
明るい照明が灯った天井や、お布団に横たわった私を見下ろす何人かの人影が、輪郭をはっきりとさせていきます。
……そしてその人影はもちろんお母さんでも、あの日私を見送ってくれた友達でもありませんでした。
胸の中で戸惑いがじわじわ大きくなって行くのを、止めることができません。
だって私を見つめる見知らぬ人たちは、皆揃ってこれまで見たことが無いようなちょっと不思議な制服を着て――そしてなんだか困ったような顔をして、私を見ていたのです。
――ただ、そのうちの一人、髭を蓄えた年嵩の男性は、すぐにお医者様だと解りました。
ということは、残りの人たちも、医療に携わる人たちで、ここは病院かなにかなのでしょうか。
え?
どうしてその方がお医者様だと解ったのか、ですか?
……それは、その人が私に死病を宣告したあのお医者さんと、全く同じ表情をしていたからです。
レディ・グレイ、オーロラ、花束、白い菊。
これまでの記憶が、ひらめくようによみがえってきます。
「おはようございます、高森藍子さん」
穏やかな、だけどどこか苦しそうな、先生の声。
心地よい眠気は冷たく溶けて、私はこれから自分が重大なことを聞かなくてはならないということを――そしてそれが決して素敵な話ではないのだということを、悟らずにはいられませんでした。
◇
熊のように大きな体の『深町先生』が、深々と頭を下げました。
たぶん、この不思議な衣装を着たお医者さんは、よい人なんだと思います。
おはよう、と呼びかけてくれた声に、私の体調を確認するために検査機器をあてがう仕草に。
私が目覚めた部屋からここまで案内してくれるまでの様子に。
そして今、初めましてと自己紹介して、自分が私の担当医であり、私の体調になんの問題もないと説明してくれる言葉の端々にも、私への配慮が見えるのです。
そういえば体つきは大きいけど、目がつぶらで丸顔で、なんだかちょっと可愛らしいお顔だちで……美穂ちゃんの『プロデューサーくん』に、ちょっとだけ似ているような気がする、と思ってしまうのは失礼でしょうか。
「事後承諾になってしまったことを、お詫びしなくてはなりませんが」
次々に書かれたものがスクロールしていく不思議な紙を示しながら、深町先生が切り出します。
「コールドスリープ処置を終了し、あなたを覚醒させる前に、私たちはレディ・グレイ症候群の治療を行いました」
そういえば、私が目覚めたあの場所は『オーロラ』のある地下室ではありませんでした。
つまり、地下から運び出して、きちんと治療をすませてから目覚めさせてくれた、ということなのでしょう。
部屋に案内してもらうまでの窓は全てカーテンが閉じていて、外の様子は見えませんでしたが、窓があるということは、たぶんここは私が眠りについた地下じゃなくて、地上のどこかなんですね。
清潔で決して不快ではないんですけど、この壁は何でできているのでしょう。
薄緑色をした艶のある壁は、なんだか見たこともないような不思議な質感でした。
それに、この部屋には継ぎ目というものがないのです。
壁も天井も床も、同じ材質で作られた一続きの塊で、窓と私たちが入ってきたドア以外には、なんの継ぎ目もなくて、まるでバスタブのよう。
そういえば、ここの窓もカーテンが閉められています。
今は夜か、すごく天気の悪い日なんでしょうか――。
――解っています。
お医者様が私自身について大事な話をしてくださっているのに、よそ見をして別のことを考えているなんて、よくありません。
だけど、私の奥の方で何かが言うんです。
この先を、聞きたくないって。
きっとこの先にはよくない知らせが待っているって。
「不安に思わせてもいけませんから単刀直入に……高森藍子さん。貴女の病気は完治しました」
貴女をコールドスリープさせてくれた人たちのおかげです。
お医者様は私の不安を和らげるように、そう笑いました。
だけど。
私は目覚めた。
病気は治してもらえた。
私を送り出してくれた晶葉ちゃんや皆の気持ちは、無駄にならなかった。
お知らせはどれもいいことばかりのはずなのに、私の悪い予感はどんどん大きくなって行きます。
だって朗報を告げてくださるお医者様のお顔には、隠しきれない苦さがあって――。
「――高森さん、ウイルスというものを知っていますか」
わずかな沈黙のあと、お医者様は不意にそんな事を言いました。
「学校の授業で、習いました」
教科書に載っていた、まるで人工物のように整った形のウイルスの模式図を思い出します。
お医者様はよろしいと頷いて、またもう少しだけ沈黙してから話を続けてくださいます。
「かつて光学顕微鏡しかなかったころ、ウイルスは見ることすら出来ないものでした……それを『見る』には、電子顕微鏡の発明を待つ必要があったのです」
なにかの伝記本で、その話は見たことがあるような気がします。
光学顕微鏡では、ウイルスは見えなかった。
だから、ウイルスの存在を認知することもできなかった。
猛威をふるう病を駆逐するために、たくさんの偉い博士が、天才と呼ばれる人が顕微鏡を必死にのぞき込んで。
それでもやっぱり、見えないものは見えなくて、だから対策も解らなくて……。
……耳鳴りがします。
きーん、と金物のような音が耳について、離れません。
それはたとえば江戸時代の人が太陽光発電を思いつかないようなものなのです、とお医者様はおっしゃいました。
こんなときに、何を言っているのでしょう。
私の病気の話ではなかったのでしょうか?
ううん、嘘です。
私はもう、解っています。
認めたくないだけなんです。
「社会全体が発展し、基礎となる技術が生なければ概念すら生まれない技術……レディ・グレイ症候群の治療法とは、そういうものでした」
お医者様はひとつ呼吸をして、人の良さそうな目で私を見つめました。
「……それができるまで、どのぐらいの時間がかかったんですか?」
聞きたくないのに、聞かずにはいられませんでした。
「200年です」
音が全て、消えました。
お医者様が、部屋のカーテンを開きました。
窓の外には、見たこともない町。
――目覚めたまま、意識が遠のいていくようでした。
○2219年2月~6月/ドロシーはひとり
たぶん公正に見て、未来での私の暮らしは平穏に始まったと言ってよいのだと思います。
私にはこの世界での戸籍と、偽装された経歴が与えられました。
私という人間が200年前から蘇ったのだという事実は厳重に隠されて、誰の注意を引くこともありません。
蘇生した私が好奇の視線にさらされることがないように、できる限り平穏に新しい生活が始められるように――と、私を蘇生してくれたお医者様を含めた様々な人の間で事前に協議が行われ、取り決めが交わされていたのです。
もしもこの配慮がなかったら、きっと私はたくさんの好奇の視線や言葉にさらされて、ひどく苦しい思いをしたことでしょう。
『貴女の病は完治しました。再発の心配は、ありません』
検査のために入院している間も、退院してからも、お医者様……深町先生は私を何かと気にかけてくれました。
『これも、貴女をこの時代まで眠らせた機械が素晴らしかったからです。ほかの同様の試みは、全て失敗している……あれを作った人たちが、貴女と、あの機械にかけた思いが見えるようです』
『私も、貴女のこれからに力を貸したいと思っています。とりあえず、落ち着くまでの住まいは……』
私を気遣い、私を送り出してくれた人々を労ってくれて。
色々な言葉をかけてくれて、様々な提案をしてもくれました。
言葉だけじゃありません。
身よりのない私の後見人を引き受けてもくれました。
私のために今まで運用され、残されていたという多額の資産……口座にはプロダクションの名がつけられていました……の受取人が確かに私であることを証明するために、辛抱強く手続きに取り組んでもくれました。
街から離れた閑静な場所に私の新しい住まいを見つけてくださったのも、先生です。
私が200年後の世界で、ともかくも暮らしを再開できたのは深町先生の助けがあってのことなのです。
看護師さん、カウンセラーさん、新しい住まいの管理人さん。
様々な人が、私を気にかけてくれたから。
この世界に受け入れようと、助けの手を差し出してくれたからです。
だけど私は、どうしても、その手を取れないままでいました。
200年。
200年!
その年月の重さ、長さ、そして意味を、私はまだ受け止められないでいたのです。
◇
街に出て、様々な場所を歩くこと。
そして長く歩き回った末に、新しい住まいの近くにある小高い丘に座り込んで、夜まで街を眺めることです。
どこか、行きたい場所があったわけではありません。
だけど、どうしても探したいものがあったのです。
――小高い場所から街を眺めれば、目に入ってくるのはまず一面の緑。
でもそれは、木々や草、山の緑ではありません。
見渡すかぎりに広がるのは、同じような曲線を備えた大小の建物や道路といった人工のものばかり。
そして、それらは全て深町先生から告知を受けたお部屋と同じ、あの薄緑色の建材で形作られているのです。
淡いけど、どこか硬くて冷たい……そんな緑色に染まったその街は、かつて東京と呼ばれていたそうです。
私の生まれ育った街。
私が夢を追った街。
ここが東京だなんて、きっと私は誰かに教えてもらわない限り、気付けなかっただろうと思います。
冷たい緑の街から目をはなして遠くを見やれば、広がるのは黒やグレーのきらきらとした発電パネルの群。
遠くかすんで見える山はどれも大きく削られ、作り物のように形を整えられています。
平らに切り開かれたその山頂には、宇宙からの電気を受け取るための施設があるのだと聞きました。
全てが人工的で、よけいなものがなくて、まるで……そう、まるで、晶葉ちゃんが読んでいた科学雑誌に載っていた未来都市のイラストか、映画のセットにでも迷い込んだみたい。
もし、江戸時代の人が現代の町に迷い込んだら、こんな気持ちになるのでしょうか。
ここはほんとに、200年後の世界なんでしょうか?
ほんとはこれは意地悪なドッキリで、私が毎日歩いてるこの街は、ほんとに映画のセットや書き割りなんじゃないですか?
……そんな都合のいい期待を、何度持ったか知れません。
建物の影からプロデューサーさんたちがひょっこり顔を出して、ドッキリ大成功! って笑ってくれるのを、何度夢見たかしれません。
そしたら私は、『みんな、ひどいです』ってむくれて……それから笑って許せるのに、って。
だけど、この街はセットではありません。
そこにはちゃんと、この時代の人々の暮らしがあるんです。
私は着慣れない服を着て、足がくたくたになるまで街を歩きました。
まるで街の人たちから隠れるように肩を縮めて、おそるおそると街や暮らしを見て回るのです。
自分から街に足を踏み入れたのに、早足で歩いて落ち着きなくあたりを見回して。
私はまるで、何かに追い立てられているようにでも見えたかもしれません。
そんな風に街を歩くのは、私らしくありませんか?
そうですね。
実は私も、そう思います。
だけどあのころ、『私らしい』ことは私にとって、とっても難しいことだったんです。
私らしさがどんなものだったか、どうやってこれまで私らしく振る舞っていたのか、それすらも解らなくなってくるような、そんな気持ち。
そしてあの街を歩いていると、そんな不確かさはどんどん強くなって、私を苛みました。
だって、街を歩くたび、思い知らずには居られなかったんです。
……私が探したかったものは、決してここでは見つからないんだ、って。
街を歩くのは、何のためだっただしょう。
探したくて仕方ないものは、なんだったでしょう。
どれほど目をこらしても、どれほど町を歩いても、決して見つからないもの。
――それは、面影。
私たちが生きていた時代の、面影でした。
200年前。私が眠ったのが2019年ですから、200年前なら1819年。
皆さんは、1819年のことをどのぐらい知っていますか?
私はかろうじて、とある画家の生年としてだけその年を記憶していました。
たいていの人は、私と似たようなものではないでしょうか。
――ほとんどの人にとって200年前は、自分が生きる今と繋がった昔ではありません。
それはただの、記録。
歴史上重要なほんのいくつかの出来事、そして時代を動かした何人かの人の名前……そんな、もしかしたら二度と読み返すこともない数行の文章でしかないのです。
1819年のその日、どんな歌が流行っていたか。
子供たちが、どんな遊びをしていたか。
どんなお菓子があったのか。
学生は何に悩んでいたのか。
女の子が、何に情熱をぶつけていたのか……
そんな些細な……でも確かにあったはずの大事なことは、その文章の上にすら、残っていないものなのです。
ううん、へだたりは、もっと大きかったかもしれません。
だって、ここには、なんにも残っていないんです。
――みんな。
ねえ、みんな。
ここには、私たちが走った草のにおいのする土手はありません。
川はすべて街の下に埋められて、水の流れを見ることはもうかないません。
街角を彩る花はありません。
煉瓦の小路も、猫がいる路地裏も。
いつからそこにあるのか解らないお地蔵さんも。
なにも、なにも、無いんです。
街を歩いても、歩いても、どれだけ必死に探しても、私たちが生きていた頃の面影は、残っていません。
そしてそれは、この世界の人たちには当たり前の事なんです。
そんなものがあったことを想像することさえ無く、ただ普通に流行を楽しみ、働いて……あたりまえに、暮らしていて。
そんな人たちにとって、私たちが生きていたころは、ただの記録としてすら残っていない……ううん、存在しないものなんです。
私たちのいたころが、みんなが頑張っていた、みんなが愛していたたくさんの物が、もうどこにもない。
その実感が深まるたびに、私はたまらなくなっていきます。
そしてなにより、ここには、みんなが居ません。
……街ゆく女の子たちは今日も歌を聞き、流行の話をしています。
だけど、その話の中に、みんなは居ないんです。
そのことが、なによりはっきり私に突きつけます。
……きっとちょっと眠るだけだよ、と言った晶葉ちゃん。
私を抱きしめてくれた、未央ちゃん。
3人でライブをしようと言ってくれた茜ちゃん。
お父さん、お母さん、プロデューサーさん、事務所の仲間たち。
……最後まで会えなかった、ほたるちゃん。
私に死んでほしくないって言ってくれた人たち、私が一緒に居たいと願った人たち。
果たしたかった約束、一緒に追いかけたいと思ってた夢、そのほかのたくさんの、私を取り巻いてくれていた大事なものも、全て。
その全てが、この街をゆくたくさんの人にとっては何の意味もない、存在しなかったものでしかないんだって。
それら全てをはるか昔に置き去りにして、私が……ただ私だけが取り残されて、ここに居るんだって。
みんなと再会することは、もう決してできないんだって。
それを思い知るたび、私は決まって、街から逃げるように駆け出してしました。
もし、街の中に、人々の中に、どこかに……どこかにあのころの面影が少しでも残っていたら、あのころと今が繋がっているのだと思わせてくれる物があったなら。
それが大事にされていたならば。
あのころの皆が頑張っていた証が、残っていてくれたならば――。
もしかしたら私は少しずつでもこの世界を受け入れ、自分を取り戻せていけたかもしれません。
自分を慰めることができたかもしれません。
だけどどれだけ探しても、それは結局見つからなくて――。
切れた命綱を見るような冷たい怖気が背筋を這い回ります。
とても穏やかでは居られませんでした。
私は日々、怒りっぽくなっていきました。
疑い深くなっていきました。
私が16年間そうしてきた私らしさが、ぷつりと切れて飛んでいってしまったみたいです。
残された私は糸の切れた凧のように、どこにも手をのばせずに惑わされて、ふらふらして、傷ついてゆくばかり。
……高森藍子はきっと、一人で高森藍子だったのではありません。
逃げ出しながら、何度もそんなことを思います。
――私はあの日まで、幸せな人の輪の中にいました。
私が伸ばした手を取ってくれる人がいて、私に手を伸ばしてくれた人がて。
そして私たちは、一緒の時間を過ごしてきたんです。
そんな素敵な輪のなかにあったからこそ、私が、高森藍子が居たのではないでしょうか。
私は、私になれたのではないでしょうか。
生きることは大事なことです。
だから、皆は私を生かそうとしてくれた。
だけど……。
だけど、ねえ、みんな。
私は今、本当に生きているんでしょうか?
……群で空を渡る鳥を一羽だけとらえて鳥籠に納めたら、その鳥は、もとのままの鳥だと言えるでしょうか。
自分を自分にしてくれていた全てから切り離された命は、果たして生きているって言えるのでしょうか。
高森藍子を高森藍子にしてくれた何もかもから切り離された私は、本当に生きているのでしょうか。
私は本当に、高森藍子だって言えるのでしょうか。
――実感、そう、実感がないんです。
毎日毎日、寝てもさめても、これが現実なのか、解らなくなってしまうんです。
自分の中の何かが、どんどん麻痺していくみたいでした。
苦しいはずなのに、どうしてか、泣くこともできません。
ただ息苦しくて、たまらなくて。
それは私が今まで感じたこともないような、孤独でした。
それに耐えられなくて、どうしようもなくて。
私は何度も何度も、あの街から逃げ出したんです。
◇
逃げ出すたびに、ここに皆が居ないんだと思い知るたび、街を覆う緑色は、冷たく硬くなっていくようです。
そんな街を見ていると、きまって私は小学校のころ読んだファンタジー小説を思い出します。
こんな、緑色の街が出てくる話です。
その世界にはエメラルドで作られた大きな都があって、そこに入る人は皆、サングラスをかけさせられます。
だって、サングラスをかけていないと、エメラルドで出来た街の輝きで目がくらんでしまうかもしれないから。
そう言って、魔法使いが住民にサングラスをかけさせたのです。
だけど本当は、街はエメラルドなんかじゃありません。
だまされて緑色の色眼鏡をかけさせられ、街が緑色に見えているだけなんです。
私は子供のころ、どうして都に住む人たちがこれまであの色眼鏡にだまされていたのか、不思議でした。
だって、眼鏡をちょっと外して街を眺めてみれば、解ることなんですもの。
魔法使いの嘘は、簡単にばれてしまうはずじゃないですか?
でも今になって、私は少し解ったような気がしました。
あの都にはきっと、騙されて気がつかない人だけじゃなく、騙されたままでいたい人もたくさん居たのではないでしょうか。
自分が住んでいるのはエメラルドでできた素敵な都だと信じたままでいたい人がきっとたくさん居て……その人たちにとっては、真実よりも緑色の色ガラスのほうが、きっと大事だったんです。
私には、その人たちの気持ちが解ったような気がしました。
だって今、このエメラルドの街を隠して、200年前の光景やなつかしい誰かの姿で私を騙してくれる眼鏡があったら、私はきっとそれを掛けていたいと願ったでしょうから。
嘘だと解っていても、そんなことは起こらないんだと知っていても、騙されてしまいたい。
――自分がそんなことを考えるなんて、少し前の私なら想像もしなかったでしょうね。
そして勿論、そんな眼鏡はどこにもありません。
私はだんだん、外を出歩くことを辛いと感じるようになりました。
◇
そこに、『オーロラ』が運び込まれていたのです。
私の眠りを200年守ってくれた『オーロラ』はすっかり古錆びて、全てが真新しく見えるこの世界で唯一、歳月の重みを感じさせるもので……だからこそ今の私と同じように、この世界に馴染めず、浮き上がってしまっているように見えました。
あの日たしかにぴかぴかに輝いていたはずの『オーロラ』の姿は、その思い出がはるか遠くに過ぎ去ったものだということを無言で教えているようです。
そうして朽ちた『オーロラ』のそばで時間を過ごすうちに、私の頭にはある夢想が産まれていました。
――もし『オーロラ』が動くなら、いっそ再びこの中に入って、眠ってしまうことができないだろうか、という夢想です。
元の時代に戻ることができないなら、この世界で過ごす毎日がこれほど苦しいなら――。
いっそ眠ってしまえば、二度と目覚めなければ、何も感じずにいられるのに。
それは本当に、本当に甘美な誘惑で……私は何度もなんども、真剣に実現する方法を考えました。
外側は古びていても、『オーロラ』はどこも壊れてはいません。
二度と起こさないでと書き置きをして、『オーロラ』に入って蓋をしめてしまうのは、とっても簡単なことのような気がしました。
――だけど、どうしてもそうはできませんでした。
私に怒鳴ってくれた晶葉ちゃんの顔を、思い出します。
私を送り出してくれた皆の顔を思い出します。
みんなが私を送り出してくれたのは、何のためでしょう。
目覚めて絶望して、何もかも投げ出して眠ってしまう。
そんな私を見るためでしょうか。
それは私の命をつなぐために頑張ってくれた人たちに対する、裏切りのように思えてならなかったんです。
皆は、私に眠り続けてほしかったんじゃ無いはずです。
私は、この世界で生きていかなくちゃいけないんです。
それは解って、いるんです。
私に、前向きに生きてほしいはずだって。
――ああ、でも、みんな。
プロデューサーさん、未央ちゃん、茜ちゃん、晶葉ちゃん、ほたるちゃん、みんな、みんな……みんな!
私は、ここでどうしたらいいんですか?
この気持ちを、どうしたらいいんですか?
どんな風にこれからを生きたらいいんですか?
私の歩いて行くこの道は、一体どこにつながっているんですか?
もう二度とみんなとあえないのに。
ここにはもう、何も残っていないのに。
私は、たった一人でここに立っているのに。
教えてください。
ねえ、だれか、だれか、教えてください。
私、怖いよ。
心細いよ――。
――答えは、どこからも帰ってきません。
この気持ちを、この孤独をどう克服していいか解らないまま、私は日々を送っていくしかなかったのです。
塞ぎ込んだ私のために、深町先生は色々な提案をしてくれました。
学校に行ってはどうか、というのもその一つです。
私がこの世界のことを、少しずつでも学んで、馴染んでいけるように。
ひとりぼっちの私が、新しい人の輪に加われるように――。
それはきっと、本当に私を思ってくれての言葉です。
だけど、私はその提案を断り続けていました。
それは外を出歩くのを、辛いと感じるようになってきていたから。
そして――この世界に馴染んでしまったら、余計にみんなといた頃が遠ざかるような気がして、たまらなかったからです。
でも、そうして提案を断った私が他に何か出来ているわけではありません。
『生きてほしい』と送り出されたのだとわかっているのに、それでも前向きになれずに、この世界に向き合うことができずに。
このままじゃいけないと思っても、どうやってこの気持ちと向き合ったらいいのか解らなくて。
怖さも寂しさも、全然消えてくれなくて、ただ時間だけが過ぎて。
時折『オーロラ』を訪れたり、定期検診のために深町先生を訪ねたりする以外は出歩きもせず、ただ不安を抱えて鬱々と考え込んでいるのです。
何か始めなくちゃと、毎日思います。
だけど、自分の胸の何かが、ぽっかりと欠けてしまったみたいで。
私を動かしてくれていた筈の何かが、どうしても動き出してくれなくて……。
私はただ、立ち止まって日々を過ごしていたのです。
――そして、不意の来客があったのはそんな頃。
私が一番、落ち込んでいた頃の事でした。
◇
ある雨の日の昼下がり、玄関のチャイムが突然鳴って。
どこか懐かしい服を着て大きな荷物を抱えたその人は、玄関を開けた私を見るなりそう確認しました。
知らないはずの、人でした。
初対面なのにどうして名前を知ってるんだろうとか、怪しい人だったらどうしようとか、確認もせずに扉を開けてしまったのは良くなかっただろうかとか――。
そういう懸念はその人の顔をみた途端に吹き飛んで、私の頭は真っ白になりました。
目は顔に引きつけられて、釘付けです。
足はそこから、一歩も動かなくなりました。
力が抜けて、呼吸がどんどん早くなって、頭の中で何かがぐるぐると回っているみたい。
だって、だって、その人には面影があったんです。
かつて自分にアイドルの道を示してくれたあの人。
――プロデューサーさんの、面影が。
「あ、の」
何か答えようとして、口を開きました。
聞きたいことが、ありました。
話したいことが、たくさんある気がしました。
だけど言葉は渋滞して、何も喉から出てきてくれなくて。
かあっと頬と頭が熱くなって、訳が分からなくなって。
私はおろおろと戸惑ったあげく、ようやく『はい』とだけ答えて、うつむいてしまうことしかできませんでした。
そういえばこの世界に目覚めてから、私は本当に限られた人としか話をしていません。
『話す』ということは、使わなければ錆びる技術です。
鬱々と引きこもっているうちにすっかり話すことが下手になってしまっていたのだと今更気づいて、恥じいります。
「突然おじゃまして、申し訳ありません。実は貴女に届け物を……」
私の様子を察してか、プロデューサーさんに似たその人は宥めるように声をかけてくれました。
うつむいたままで、大丈夫ですと首を振ります。
ああ、声も。
声もどこか、あの人に似ています。
頭の中がめちゃくちゃになって、訳が分かりません。
わからないまま、形にならないまま、言葉にならない細い音が私の喉からこぼれ落ちました。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
涙が止まりません。
私は何に謝っているんでしょう。
解らないまま、泣き続けます。
初対面の女の子に突然泣き出されて、きっとこの人は困ってしまうでしょう。
だけど、だけど、とてもこらえられなくて。
溢れるものを止められなくて。
私は立ち尽くして、声をあげて泣き出しました。
涙があふれて、頬がとても熱くて。
その熱さが、なんだかとても嬉しくて。
私はただ、泣いたのです。
――それは私が、この時代で初めて流した涙でした。
◇
「はい、おかげさまで……」
ようやく私が泣きやんで、その人とお話できるようになったのは、初対面から一時間も過ぎてからの事でした。
初対面のこの方に、さんざんなだめていただいた末のことです。
不覚です。恥ずかしい限りです。
何か用事があって私を訪ねて来られたはずなのに、いきなり初対面の女の女の子を宥めさせられる羽目になって、さぞや困ったのではないでしょうか。
そういうわけで、居間にお通ししてお茶をお出しして――それでもまだ私の顔は赤いままなのです。
「改めて、私、こういうものです」
名刺が差し出されました。
図書館にお勤めの方で、名前は……。
目が、丸くなりました。
「千川さん、と仰るのですか」
「ああ、ええ、はい」
名刺を受け取ってその名をみた私の反応がよほど奇妙だったのでしょう、千川さんはちょっと不思議そう。
それはそうですよね。
確かにプロデューサーさんの面影を受け継いだこの人が『千川さん』であることの感慨、驚き――それが解るのはこの時代に、私だけなんです。
それをもし言葉で説明しても、たぶん『千川さん』にはぴんと来ないことでしょう。
いえ、それ以前に私が200年前の人間だって説明しても、信じてはもらえないかもしれませんね。
プロデューサーさんとちひろさんがどんな人生を送ったのか、他のみんなのことを知りはしないか。
『千川さん』に聞いてみたいことはたくさんありましたが、私はそれをぐっとこらえて話を向けました。
私が泣いたり混乱したりで後回しになってしまいましたが、千川さんは、ここに届け物に来たのですから、いつまでも本題を後回しにするのは流石に失礼というものです。
「はい、これです」
千川さんは頷いて、傍らに置いた大きな箱をぽんとたたきました。
とても古い、金属の箱。
初めて目にするその箱にどこか馴染みを覚える理由は、すぐに解りました。
この箱は、『オーロラ』と同じ金属で作られているのです。
「先祖から遺言とともに伝えられてきた物なのです。ずいぶん昔の、音楽関係の仕事をしていたとかいう人物で――」
ああ、知っています。
千川さん、その人はとっても素敵な人だったんですよ。
「遺言、ですか」
声が、ふるえました。
「ええ。もし『レディ・グレイ症候群』の治療法が発見されたら、高森藍子という女の子を探し出して……なんとしても探し出して、これを渡してほしいと」
「それで、私を……」
「なかなか骨折りでしたけどね」
だけどなんとか遺言を果たせたようです。
なんでもないことのように笑う千川さんを見ると、背筋が延びるような気持ちになります。
深町先生たちのご配慮のおかげで、私の素性や顛末が報道されたことはありません。
なんの手がかりもなく、ただ名前だけを頼りに私を見つけだすのは、『骨折り』なんて笑ってすませられる苦労ではなかったはずです。
病気の治療法が見つかって、私が目覚めて半年近く。
それが、私を探すのに必要だった時間なんだとしたら――。
その間の苦労は、察するに余りあります。
プロデューサーさんが、この箱を遺したこともそうです。
なんとしても私にこの箱をと、プロデューサーさんは言ったのです。
そこに至るまで、どんな経緯があったのでしょう。
プロデューサーさんは、どんな気持ちで最後の言葉を残したのでしょう。
私のこと、気に病ませてしまったのではないでしょうか。
苦しくは、なかったでしょうか。
ぎゅっと、胸が苦しくなりました。
「……ありがとうございます」
千川さんに、深く頭を下げて、続けてさらにお礼を言おうとして――言葉に詰まります。
言葉を並べるほど軽薄になってしまいそうで、今の私が何を言ってもたくさんの苦労を汚すような気がして。
――怖かったんです。
箱から、目が離せなくなりました。
外側には、なにも書いてありません。
いえ、外側は錆が浮いてあちこちが朽ちていましたから、何か書いてあったとしても、読みとれなかったことでしょう。
厳重に施された封は『オーロラ』の錠と同じような造りで、これがたぶん晶葉ちゃんの手による作品なのだろうと察することができました。
「中身は、なんなのでしょう」
「いえ、そのあたりは、全然」
私のつぶやきに千川さんが応じます。
鼓動がどんどん、早くなっていきます。
「……今ここで開けて、かまいませんか」
「かまわないんですか」
千川さんは目を丸くします。
「大事なものでしょう。私はおじゃまをせずに」
私は、いいんです、と頷きました。
「一人だと、なんだか――怖くて」
だって、あのころからの便りです。
中身を見たい。
だけど、怖い。
一人だけで箱と向き合ったら、私はこの箱を開けられなくなってしまうような気がしたんです。
「そういうことでしたら」
光栄です、と応じてくださる千川さんに勇気づけられて、私は箱に手をかけました。
箱の中から、もう戻らないあのころの香りがしたような気がして、頭がくらくらしました。
そして、中身は――
たくさんのブルーレイディスク。
そして、大きさのある紙箱が、ひとつ。
ディスクの方は事務所で記録に使っていたのと同じメーカーのものですが、ケースにもディスクにもそっけなく番号がふってあるだけで、何が記録されているのかはさっぱり解りません。
ただ、右肩上がりの癖字のおかげで、その番号を書いたのがプロデューサーさんだと解るだけです。
そして、紙箱の中身――。
それは、薄紙に包まれた靴でした。
深い紫に染められた革の靴には、見覚えがあります。
「――ほたるちゃん……?」
そう、それはほたるちゃんの靴だったのです。
◇
千川さんがお帰りになられたあと、私はベッドに座り込んで、長い時間をかけて靴を確認しました。
とても大事に手入れされた靴。
だけど踵のところに、覚えのある傷が残っています。
いつか大道具が倒壊したときについた傷です。
――間違いありません。
これは似た何かやレプリカではなく、確かにほたるちゃんが履いていた、あの靴なのです。
それはあの年の秋、ほたるちゃんのはかなげな雰囲気と一面の彼岸花のインパクトでたくさんの人に『アイドル・白菊ほたる』を印象づけた、ほたるちゃんにとっても転機といえるお仕事のために、可愛らしい衣装と揃いで誂えられた靴。
プロデューサーさんが、彼女の暗い行き道を照らすように思いを込めて、小さな灯りがともる細工を施した……そんな特別な、ほたるちゃんにとっても思い入れのある靴なんです。
どういう理屈か、その靴はあの日からすこしも古びてはいないようでした。
足元を照らすほのかな明かりは、いまでもひっそりと瞬いています。
――解りません。
靴を胸に抱えたまま、ベッドに倒れ込みます。
あの箱に入っていたものはたくさんのディスクと、この靴。
ただそれだけでした。
手紙の類は一切無くて、ディスクにも一切手がかりになるようなことは書かれていなくて。
励ましでしょうか。
慰めでしょうか。
プロデューサーさんがこの靴やディスクを私に遺した詳細が、解らないのです。
もしかしたらそこには、皆からの手紙や、言葉や、写真や――そんな、あのころを感じさせてくれるものが入っているんじゃないかって。
もしそうなら、私はそれを頼りにこの苦しさを、孤独を慰めて生きていくことができるかもしれないって。
だけど、そんなものは一切ありません。
――あのころ、寮住まいの子に親元から仕送りの荷物が届くと、着替えや好物の食べ物、お小遣いなんかのほかに、必ず手紙が入っていたものです。
品物だけで十分でも、やはり一言添えて、きちんと思いを伝えたい。
そういうのは、娘を遠く厳しい世界に送り出した親御さんに共通のものなのかもしれません。
だけど、箱から出てきた品物には、そういう『意図』や『思い』を告げるものがなにもついてはいませんでした。
もちろん、ディスクを再生すれば解ることだということなのかもしれませんが――私は、通し番号『1』のディスクを顔の上にかざしてため息をつきました。
このディスクの中には、みんなの言葉が入っているのかもしれません。
私に靴を送った意味を、プロデューサーさんやほたるちゃんが解説してくれているのかもしれません。
だけど今、私はこのディスクの中をみることができません。
いえ、今だけじゃなくて、もしかしたら――ずっとです。
なにせ、200年前の記憶媒体なんです。
ブルーレイ規格ははるか昔に廃れてしまって、今私の周りにあるもの、私の責任で手に入るのものの中に、ブルーレイ規格のディスクを再生できるものはありません。
千川さんに聞いてみたり、ネットで検索をかけてみたりもしましたが、結果は同じ。
いまはもう星になってしまった人からの便りを確認する手段は、少なくとも私に解る範囲にはどこにもないようでした。
せめてたった一通、手紙を添えてくれるわけにはいかなかったんですか?
ほんのわずかの手がかりでも、よかったのに。
このままだと、プロデューサーさんがわざわざ『なんとしても』と言い残した理由、私には伝わらないままになってしまいますよ。
千川さんに聞いてみたら、プロデューサーさんは本当にそれ以外何も言い残さなかったらしいって言うじゃないですか。
私、そういうのどうかと思います。
ばか。
プロデューサーさんの、ばか――。
もしかしたらと浮かんだ期待の後にくる落胆は、よけいに大きく感じられて。
ディスクを放り出して目を閉じると、改めて200年という月日の重さが私の胸にのしかかるようでした。
私と大好きな人たちの手はどうしようもなく離れてしまっていて、二度と繋がることはないんだって、改めて突きつけられたみたい。
だって、あのころからの便りも歳月の壁に阻まれて、私の元に届くことはなかったのですから――。
……いえ、違います、ちがいます。
なんだか目が冴えて、さっき放り投げたディスクを拾い上げました。
そうです、とにかく現物はここにあるのです。
今は読み取る手段がないのだとしても、プロデューサーさんたちが遺そうとしたデータは、私に見せたいと思ったデータは、確かにここにあるのです。
だから、届かなかったんじゃありません。
読もうとしていないのは、私。
手紙にたとえるなら、ハサミが手元にないからと私が封を切ることを拒んでいるようなものではないでしょうか。
『レディ・グレイ症候群の治療法が発見されたら、高森藍子という女の子をなんとしても探し出して、これを渡してほしい』
千川さんが伝えてくれた、プロデューサーさんの遺言を思い返します。
それは私が眠ってから何十年後のことだったのでしょう。
いつのことになるか解らないけど、どれほどの時間がかかっても届けてほしい。
それがはるか未来のことになるかも知れないという予想が、プロデューサーさんにはあったのかも知れません。
その時には、このディスクを再生する手だてが無いかも知れないことだって、解っていたのかもしれません。
だけど、それでもプロデューサーさんはディスクと靴を私に残しました。
その意味を、考えます。
何故?
それはきっと、ほかのものでは代用出来なかったからです。
残したいものは、伝えたいことは、手紙や写真では充分に伝わらないものだった。
それがなにかは、まだ解りません。
だけどそれはきっと、どうしても記録ディスクとほたるちゃんの靴でなければ伝えられないものだったのです。
だから、再生の方法がなくなっているかも知れないと解っていても、それを私に遺した。
いつかきっと、私の元に届くと信じて。
私がきっと、この便りを開いてくれるって。
そう信じて遺してくれたのです。
そして、千川さんは遺言に応えて私を探し出してくださいました。
――だったら次は、私の番なのではないでしょうか。
この便りを開くために、私が出来る限りのことをする番なのではないでしょうか。
なにか、方法はないでしょうか。
考えます。
必死になって、考えます。
たとえば、そう、歴史上の人物の手紙なんかは、とても大事に保存されていたはずです。
丹羽さんなんて、武将の直筆の手紙を見たいからと旅行に出たりもしたほどです。
そんにふうに昔の記録を残している場所がありはしないでしょうか。
アメリカには、後世に残すべき映画のフィルムを選んで保存する団体まであったと聞きました。
フィルムを保存するということは、映写機だって保存したはずです。
それと同じように、昔の映像史を研究している人や団体が、研究のためにブルーレイの再生機を持っているということはないでしょうか。
200年前でも骨董品として古い蓄音機を見かけたことがあるように、この時代でも、古い機械が骨董品として商われているかも知れません。
昔プレイヤーを作っていた会社が、なんらかの形でプレイヤーを保管しているということも、もしかして。
――私は、この時代のことを何も知りません。
あのころが残っていないからと、知ろうとしなかったから。
そんな街を見るのが辛くて、怖くて、目を背けていたから。
でも、私がディスクを再生する手だてを見つけられないのは、もしかしたらこの時代のことを知らないからではないでしょうか。
ネットで検索をかけるのだって、調べたいことについて知らなければ答えに行き着くのは難しいものなのです。
もう手段が無いなんていうのは、早すぎると思いました。
私はまだ――少なくとも、このディスクを再生するということに対しては、すべてやり切ったとは言えないはずなのです。
ディスクを見つめます。
この中には何が遺されているのでしょう。
何故私にそれを遺したいと思ったのでしょう。
ほかにも様々な選択がありえたのに、ほたるちゃんの靴を私に渡そうとしたのは、何故でしょう。
――知りたい。
そうです。
私に遺されたものを、どうしても知りたいと思ったんです。
私はそれを、あきらめたくなかったんです。
それは私がこの時代で目覚めてから、初めてわき上がった衝動でした。
やってみようと、決めました。
今も、街は怖いけど。
皆のいない世界は、辛いけど。
それでも、できる限りはやってみようと、決めたのです。
――決意を固めると、私はお風呂に入って時間をかけて体を洗いました。
丁寧に髪や爪を整えて、下着から衣服を選んで、うすくメイクをして。
まるで大事なオーディションの前のように行程を踏みながら気合いを入れて、鏡で自分の顔を確認します。
それは私が良く知った、私の顔でした。
ずいぶん長く、みていなかった顔でした。
明日からやってみよう。
私を信じてくれた人を、私を大事に思ってくれた人を裏切らないためにも。
それに――もしかしたら。
私が心から『挑んでみたい』と思えることは、この時代にこれしか残っていないかもしれないんです。
やってみよう。
自分のラストステージのつもりで、やってみよう。
鏡の中の自分にひとつ頷いて、今までとこれから区切りをつけるためにカレンダーの今日の日付に赤い丸を入れようとして――私は目を丸くしました。
7月25日。
今日は私の、17歳の誕生日だったのです。
なんとしても!
……と、気勢を上げはしたものの。
私はこの時代のことを何も知らない、力のない女の子でしかありません。
ですから、あのディスクを再生したいと決めてまず始めにやったことは、すべての事情を打ち明けた上で深町先生と千川さんにご助力をお願いし、これからの方針を固めるということでした。
目覚めてからずっと引きこもるように暮らしていた私には、この時代についてアドバイスをを受けられる、信頼できる大人の知り合いがほかにいなかったのです。
千川さんはここで初めて私の事情を知り、たいそう驚かれたようでしたが、可能な範囲での協力を約束してくれました。
深町先生はすべてのことが片づいたら私が学校に通うこと、そして必要な調査や判断を私自身が行うことを条件に、私のすることにすべて協力してくださると約束してくれました。
もちろん、それには何の問題もありません。
お2人とも本業のある身なのですから、私のわがままためにあまりお手を煩わせることはしたくありませんし、だいいちディスクを再生したいというのは、あくまで私個人のことです。
どうしても難しいところ、理解が及ばないところ、成人でなくてはできない手続きについては大人の助けを借りなくていけないとしても、基本は私がやっていかなくてはならないことなのです。
お2人と何日も相談して、まず、次の日から私は図書館――そこで扱われているのは、もう紙の本ではありませんでしたが――に通い詰めになりました。
ブルーレイについて調べる前に、その前提となるこの時代とこれまでの歴史について知らなければ成果は上がらないだろう、というのがお2人のアドバイスだったのです。
あのころから何がどうなって今に繋がったのか。
いったいどんな出来事が世の中を変えて、何が変わり、何が消え、何が残ったのか。
200年を学ぶということは時間のかかる、地道なことでした。
そんなことよりブルーレイを再生できる手段がどこあるのかが知りたい。
昔の映像を研究している人はいるのか、いるとしてどのように探せばいいのかが知りたい――。
正直、心は逸ります。
200年という時間の間に起きたことは、膨大です。
年表なら、それは1ページに収まってしまうでしょう。
だけど、その1ページを書くためにどれほどのデータが、研究があることか。
沢山の文章が、あったことか。
それはまさしくデータの海でした。
そして文章というのは、常に読み手に知識を要求するものなのです。
高校生並の国語力がないと読めない本、19世紀フランスのことを知っていないと理解できない物語、ある宗教のことを知らないと読み解けない比喩表現。
――2019年からこれまでの歴史を知らないと解らないテキスト。
そう。
この時代までの歴史に関する基礎知識が抜け落ちている私には、読むことはできても理解できないテキストが多すぎたのです。
自分なりにあたりをつけてテキストを読み、その記述の前提になっている事件や常識を知らないことに気が付いてそれをまた調べ、その中にまた――なんて、繰り返し。
さながら私は、データの海をさまよう小舟。
アドバイスを無視して知りたいことだけ知ろうとしても、せいぜい難破船になるのが関の山です。
もっと早い段階で深町先生の言うとおりに学校に通ってこの時代のことを学んでいれば、このへんの問題はクリアできたのかも知れませんが、今になってからそんなことを考えても正しく後の祭りです。
助言に感謝して、まずはとにかく勉強。
約束した学校には後で通うとして、まずはともかく小学生向けの社会の教科書から始まって、この時代の一般的な歴史の知識を次々たたき込んでいくことに専念します。
それはディスクを再生するための基礎作りであると同時に、私があえて触れまいとしてきたこの時代について、知ることでした。
街はなぜ緑なのか。
この時代は、なぜこんなふうなのか。
皆はどのように暮らしているのか。
私たちが生きていた時代とこの時代は、どんなふうに繋がっているのか。
今を生きる人々はどんな生活を送っているのか。
そんなことが段々とわかってくると、ただ異質と見えた街が少しずつ違って見えてくるような気がするから不思議です。
まず小さなところでは、図書館でデータを閲覧するための身分証明が困難なこと。
古い貴重なアーカイブを閲覧するには身分証明や年齢、所属認証が必要でしたから、私はまずそこで躓いたわけです。
この時代の学生なら学校に認証コードを発行してもらって5分で解決するようなことなのですが、図書館にお勤めの千川さんがそのあたりを手助けしてくださらなかったら、私の調査は始まる前に頓挫してしまったことでしょう。
それに、図書館に篭るだけでは解からないことを確認するためにどなたかにお話を聞こうとしても、学校に行っているわけでも働いているわけでもない、しかも身寄りの無い女の子――というのはまず不審に思われて、信用していただくのにも一苦労。
そもそも自己紹介がとても難しいのです。
まさか200年前から目覚めたんです、なんて打ち明けるわけにも行きませんし、そういうことがあるたびに深町先生にご助力いただくのはあまりに申し訳なくて、私は先生に何度も頭を下げたものです。
そのほかにも色々、色々。
――私の経歴は偽装され、この時代の戸籍が与えられてはいましたが、それはあくまで私がこれまでこの世界に『居た』という事にしてくれただけのこと。
今の私自身は学校に行っているわけでも勤め先があるわけでもありません。
この時代に関わらず、さまようように、引きこもるように過ごすなら、それはなんの問題もないことでしょう。
だけど、今の人たちに関わって自分がなにかして行こうと考えたとき、ぱっと証明できる『所属』がないというのは思った以上に不便なことで――同時に、自分と今の繋がりの希薄さを感じずにはいられませんでした。
そうして解ったことは、やはり今この時代にブルーレイディスクを再生する手段がそのまま残っているということはなさそうだ、ということでした。
技術的なことはよくわかりませんが、ディスクを回転させて光で情報を読みとる――という方法そのものが150年ほど前に時代遅れになって、すっかり廃れてしまっていたのです。
千川さんも初めてあの箱から出てきたブルーレイディスクを見たときはそれが記録媒体だとはわからなかったと言いますから、おそらくこの時代には似たような形式の記憶媒体そのものがもう存在していないのでしょう。
そして、ブルーレイの再生が可能な機械がどこかに保管されている、ということも無いようでした。
あんなにどこでも見かけたブルーレイデッキですが、リサイクルの機運が高まったおかげで2000年代のそうした機械類というのは、殆どがそのままの形では残っていないようなのです。
でもそれではブルーレイでたくさん残された記録を確認できないじゃないですか――と思いはしましたが、そもそもブルーレイディスクの寿命は長くても30年ほどしかないのだそうです。
保存のしかたでは100年保存できるディスクもあったのだそうですが、ディスクを使った保存が廃れていくうちに、そうしたデータは当然のように新たに台頭した媒体に移し替えられて。
――結局のところ、ブルーレイ再生機を動く状態で保管する必要はなくなって、博物館に展示されているものも多くは外側だけ、という状態になってしまっているようなのです。
つまり、どこかにお願いして再生機を使わせてもらってディスクを読み解く……ということはかなり望み薄なわけです。
だけど、もちろんそれで調査を終わらせるわけじゃありません。
きちんとした形で保管されている機械が無いとわかれば、今度は個人的に、趣味として収集されたものや骨董として商われているものがないかを探します。
それも無いとわかれば、過去に家電を作っていた会社が設計図を保管していないかを確認します。
会社がそれを持っていないとわかれば、機械を研究している学者さんを当たってみる。
そしてようやく設計図を捜し当てたら、今度はそれを作ってくれそうな工場や会社を探して――。
私たちはそんなふうにして、ディスクを再生する道を追い求めて行ったのです。
そして、ようやく再生機の作成に取り組んでくれるという会社を見つけて了解を取り付けたとき、夏は終わり。
季節はもう、秋にさしかかろうとしていました。
◇
そんな物好きな依頼を引き受けてくれる会社はもちろんとても少なくて、業者探しは難航したものです。
それでもどうにかそれを引き受けてくれる小さな会社を見つけることができたのは、本当に幸運なことだったと思います。
ただ――当然といえば当然ですが、機械を実際に作成してもらうためには条件がありました。
条件は2つ。
まずは勿論、資金を提供することです。
人を雇い物を作るのですから、そこに支払いが発生するのは当然のことですが、そのために必要なお金というのは決して少額ではありません。
晶葉ちゃんが『量産効果』という言葉を口にしたことがあります。
たくさん作ってたくさん売るようになれば、部品を一度にたくさん買ったりまとめて作ったりすることができるし、製品を作るのに必要だった機械の代金や人件費を分散して回収できるから、同じ製品を1個だけ作るのよりはるかにコストが小さくてすむんだ、というような話です。
だから晶葉ちゃんが発明品を作るには時間がかかるし、手間もかかるんだということですね。
これから作る再生機もそれと同じこと。
あのころ数万円で売られていた機械もたったひとつだけを作るとなれば、そのための機械や設備はいちから用意しなくてはならず、当然価格は跳ね上がります。
提示された金額はかなり莫大なものでしたが、深町先生や千川さんに確認してもらったところ、お2人ともその金額は妥当なものであろうと頷かれます。
となれば後はそれを私が払うかどうか。
幸いなことに、請求額は私のためにと遺された資産の9割ほどに収まる数字でした。
私のためにと残されたお金。
それは本当は、目覚めた私が決して生活の困ったりすることがないようにと残されたもののはずですが――それでも。
それを使うべき時があるとしたら、それはきっと、今でしょう。
――だって、口座にはプロダクションの名前がつけられていました。
これは、皆から貰ったものなのです。
お金を惜しんで再生機を諦めるより、プロデューサーさんが送ってくれたものを見るために使うほうがきっとみんなの心に沿うって、そう思ったんです。
私は深町先生にお願いして、口座を解約して現金を用意してもらうことに決めました。
だけどそのもう一つ提示された条件のほうは、私にとって少しだけ難題でした。
それは、いくつかの電子部品が見つけなくてはいけない、ということ。
200年前には作られていたけど、今は資源や技術……様々な問題のために作れなくなってしまった部品は少なくありません。
もちろん可能な限りこの時代のほかの部品で代替するのだそうですが、そうして工夫した上でなお代替品が見つからない部品というのはあるもので。
技術者は錬金術師でも魔法使いでもないのだから、そうしたいくつかの部品を入手できなければ、そもそも再生機を作ることは不可能だ、というのが技師さんたちの説明だったのです。
むろん制作してくださる会社でもそうした部品を探してはくれますが、いつ見つかるかははっきりとは約束できません。
部品が明日見つかれば明日から造り始めることが出来る。
だけど当然、見つからなければ何年待っても再生機は完成しない。
ここまで調べた限りでは、運良くそういう部品が見つかる確率というのは、ひどく低いものだと解ります。
――そして私は、深町先生は、この難題を解決できるかもしれない方法を知っていました。
200年前の電子部品をたくさん入手する、間違いない方法。
それは、『オーロラ』を解体することなのです。
◇
私はある夜、病院の地下で錆びた『オーロラ』を眺めていました。
『オーロラ』は私をこの時代まで守ってくれたもの。
200年を経て外装はぼろぼろですが、中の機械は今でもなにひとつ問題なく動いているのだと、いつか深町先生は教えてくれました。
同様の試みはすべて失敗しているのだからこれはふつうじゃないことだ――と感心する先生のお顔に、私はちょっと誇らしい気持ちになったものです。
そうなんです、晶葉ちゃんはすごい女の子だったんですよ。
私のお友達は、仲間たちは、みんなすごくて、すてきな子ばっかりだったんですよ。
『オーロラ』は、外に出ることを恐れるようになった私の、数少ないより所でした。
……そして『オーロラ』は、唯一この時代から私を連れ出してくれるかも知れないものでもありました。
もういちど『オーロラ』で眠って、なにもかもあのころと断絶してしまったこの時代から逃げてしまう。
自分で否定した道ではあるけれど、その誘惑は今でも消えずに私の心にありました。
晶葉ちゃんはとてもすごい機械を作る人でしたが、材料はそれほど特別なものを使っているわけではありません。
テレビや家電、身の回りにある様々な機械、街で買える電子部品――材料はいつもそんなものでした。
だから、晶葉ちゃんの技術と知識に基づいて作られた『オーロラ』を解体すれば、再生機に必要な部品が見つかる確率は高いはずです。
そうすれば再生機を完成させて、ディスクに記録されたものを知ることが出来るかもしれません。
それは解ります。
だけど、そうしてしまったら……。
後ろ向きなものが、また私の中で頭をもたげます。
ここで生きるのが皆の望んだことなんだと、解っているはずなのに。
それでも、ここから逃げる道を失うことが、怖い。
そんな思いは今でも私の中に消えずに残っていたのです。
こんな後ろ向きなものが自分の中に深く根を張っていることは私にとって驚きで……だけど、腑に落ちることでした。
この時代に目覚めてから感じた不安、孤独、怖さ。
それはいっときの決心で消えるものではないのでしょう。
今が200年後だと深町先生に告げられたあのときに高森藍子に刻まれた傷はきっと簡単には消えなくて――これから何度も、もしかして一生、私を暗いほうへと手招きするのでしょう。
私はきっとこれから何度も、おびえて立ち止まってしまおうとする自分の中の後ろ向きな気持ちと、向き合っていかなくてはならないのです。
ああ、だけど、だけど。
やってみようという決心のと、後ろ向きに立ち止まろうとする心。
そんなふたつに挟まれて、悩んで。
深町先生と千川さん、お2人の会話を盗み聞きすることになったのは、そんな夜の事でした。
◇
『オーロラ』の近くで長い時間を過ごして、エレベーターホールまであがってきて。
困惑したような千川さんの言葉が聞こえてきたのは、そんなタイミングのことでした。
思わず隠れて、様子を伺います。
時間は夜。
千川さんと深町先生は人気のない自販機コーナーで、なにかお話をされているようでした。
「これで、とは」
首を傾げる先生。
「資産の事です」
眉を寄せて補足する千川さん。
どうやら話は、私が解約をお願いしたお金に関することのようでした。
「200年前とかそういう話は置いて――彼女は身寄りのない17歳の女の子でしょう。資産は本当に、彼女の頼みの綱のはずじゃないですか」
「その通りです」
深町先生が頷きます。
「協力すると約束はしましたが――資産を残してやる方が、彼女のためだったのではないでしょうか」
「再生機は諦めたほうがいいと言うべきだったと」
「将来的な事を考えるなら」
深町先生と、千川さん。
お2人は私の前では、こんな話をしたことはありません。
というより私はあの日からずっと自分のことに掛かりきりで、お2人が自分のいないところで何を話しているか、何を考えているのかを想像することもなかったのです。
だけど、もしかしたらこれまでも、私に見えないところではこうして私のする事について大人としての話をしていたのかもしれません……ちょうど、プロデューサーさんとちひろさんのように。
自分の苦しみの事ばかりを考えて、伸ばされる手を拒んでいました。
ディスクが届いてからはそれに夢中で、周りを気にする余裕もなくて。
だけどたぶん、そんな私の知らないところでは、こんなふうに私のことを話している人がいたのでしょう。
私のためにどうすればいいかを、考えてくれる人がいたのでしょう。
深町先生と千川さんだって、こうして私のことについて相談するのは、きっと初めてではないはずです。
自分と目標だけを見て走るのではなく周りを見渡しながらゆっくりと歩いていれば、きっともっと早く、そんなことには気がつけたはずです。
それは以前、自分自身がそう心がけていたことのはずだったのに――。
お2人の姿を見つけたのは、ついさっきのこと。
だけどその姿に、私は深く釘を刺されたように感じました。
――お話は、続いています。
「確かに彼女の生活の安定を思うなら、そうするべきなのでしょう」
深町先生は千川さんの言葉に頷きます。
「彼女はこの世界になじめずに苦しんでいます。もしかしたらこれからもそうかも知れない。生活に不安があれば、苦しみは増すはずです」
「だったら、どうして」
「これが、高森さんが目覚めてから初めて自分から『やりたい』と言ったことだからですよ」
先生の応えは、明快でした。
「やりたいこと、自分が進みたい場所を見つける。それは彼女のこれからにどうしても必要なことだ――そして、そうであれば私には、そうさせてあげる責任が、その後を支える責任があると思うんです」
「責任?」
千川さんと一緒に、私までがきょとんとします。
責任とは、どういうことでしょう。
だってこれは、私のわがままなんです。
深町先生は私にとても親身にしてくださいますが、そこまで責任を感じる必要なんて――。
だけどその疑問への応えもまた、明快でした。
先生ははっきりと言い切ります。
「高森さんが目覚めれば、今の世界に苦しむはずだろうことは予想ができました。それでなくても200年のコールドスリープです。目覚めた彼女に何らかの障害が発生している可能性は否定できなかった」
いつも穏やかで人のよさそうな先生の顔に、はっきりと影が落ちました。
「実際、彼女を目覚めさせるべきではない、という意見もあったのです――そして、それでも目覚めさせるべきだと主張し、その意見を通したのは私だ。それは残酷なことかも知れないけど、それでも目覚めて、生きるべきなんだと」
――残酷な事かもしれないと、解ってはいるんだがな。
先生の言葉とプロデューサーさんの言葉が、重なって響きました。
だから私には責任があるのですと続ける深町先生を見て、千川さんはしばらくなにかを考えていたようでした。
そして――。
「そういうことなら、僕にも責任があるんでしょうね」
そう仰ったのです。
「僕があの箱を彼女に届けなければ、彼女は財産をすべて投げ捨てようなんて言い出さなかった。僕が彼女の道を曲げたなら、僕もまた、彼女のその後に責任を持つべきなんでしょう」
「ええ、私たちは共犯というわけです」
――ここにもいる。
あのころのプロデューサーさんのように、みんなのように。
私に、ここで、生きてほしいと思う人が。
私の中で、すこしずつ覚悟が固まっていきました。
――『オーロラ』の前に戻って、そのさびた体をそっと撫でます。
私を守ってくれたもの。
私に生きてほしいというみんなの思いに応えてくれたもの。
なにもかもが怖くなった私を、慰めてくれたもの――。
「ありがとう、ございます」
そのとき私の声は、みっともなく震えていたと思います。
『オーロラ』の解体に私が応じたのは、その次の日のことでした――。
◇
技師さんを地下に呼んで、『オーロラ』を引き渡して。
技師さんは『オーロラ』の構造を確認してひとしきり目を丸くしたり、驚いたりした上で、『オーロラ』には確かに必要な部品が使われている、と請け負ってくださいました。
間違いなく再生機を作ることができる――それどころか、構造図や分解して残った資材や部品を売ることができれば、かなり制作に必要な資金の足しになるだろうとも言ってくださいました。
『オーロラ』がお金になる、というのは正直予想もしていませんでしたが、これで深町先生や千川さんにかける心配やご負担が少しでも減るだろうことは嬉しいことです。
『オーロラ』は数週間をかけて慎重に解体され、必要な部品は充分な予備とともに回収され、残った資材も大半が売却されました。
だからもう、病院の地下に残っているのは硝子のような天蓋と、台座の一部。
あとは重たい『オーロラ』がそこに鎮座していたことを示す床のへこみだけなのです。
ずっとそこにあったもの、頼りに思っていたものがもうそこにもない――というのは、思った以上に寂しいものです。
だけど、ともかくこれですべての準備がととのって、あとは組立が終わるのを待つばかりとなったのです。
こればかりは専門家のみなさんにお任せしなくてはなりませんから、私に出来ることはもう、何もありません。
再生機が完成して私の元に届くのは一ヶ月後。
それが過ぎれば、私はあのころからの便りを目にすることができるでしょう。
そして、それはきっと私が目にすることの出来る、最後の記録なのです。
それが嬉しいような、ちょっと寂しいような。
だけどきっと、一番に感じたのはほっと胸をなで下ろすような気持ちだったと思います。
ちゃんと受け取ることが出来るのです。
そのために深町先生や千川さんにもたくさんご迷惑をかけて、走って走って――ようやく今日にたどり着いたのですから。
だから、ほっとして。
そして、ほんのすこしだけ、不安でもありました。
機械が完成して、過去からの記録を見て――見て。
それからあと、私はどうすればいいんでしょう。
私は次に、何をすればいいんでしょう。
走って走って、ゴールにたどり着いて、喜んで――そうしてふと、辺りを見回して。
私は、自分の中にまだ『その先』のことが何も浮かばないのを感じていました。
みんなは、私に生きてほしいと願いました。
深町先生は、やりたいこと、自分が進みたい場所を見つけてほしいと願いました。
皆――私に関わってくれた人はみんな、私に前に進んでほしいと願っていたのです。
だから私は、『オーロラ』にすがることをやめました。
ここで前に進みたい、と思ったのです。
だけど――進みたい道は、たどり着きたい場所は、本当に見つかるでしょうか?
千川さんがあの箱を届けてくださるまで、何もやりたいことを見つけることができずに居た私なのに。
今だって、この先の事を何も思いつけないのに――。
アイドル。
一人一人のファンのみなさんに、ゆっくりと向き合うことができる。
ファンのみなさんが優しい気持ちになれるような、そんなアイドルになる。
それが高森藍子の夢でした。
でも……。
――ああ、なんだか堂々巡りですね。
がんばりたい。
前を向いて進みたい。
だけど、私を私にしてくれたものはここにはなくて。
私と一緒に進もうとしてくれた人は、もうここにはいなくて。
それでも私は、前を向いて、あのころのように進めるでしょうか。
たったひとりでも、寂しくても、追っていた星はもう遠くても――今を進んでいけるでしょうか。
――くよくよと巡り続ける迷いを小さく首を振って追い出してから、私は『オーロラ』があった場所に背を向けて、地上へと歩きだしました。
まずはとにかく、再生機が届くのを待ちましょう。
それに、深町先生や千川さんたちに、なにかお礼をすることを考えなくてはなりません。
お2人がいなかったら、私はきっとて今も歩き出せずに居たのですから。
そうして日が過ぎて再生機が届いたら、プロデューサーさんが残したものを見て。
そして……それを見て終わったら、私は進まなくてはならないのでしょう。
深町先生、千川さん。
私を案じてくれる人のいるこの今に、新しい道を見つけなくてはならないのでしょう。
もう戻らない日々を見つめ続けるのはやめて。
夢も仲間もいないとしても、明日へ。
それがたとえどれほど寂しい道程だとしても、私は歩き出したのですから。
そうだ、学校に通いましょう。
それが深町先生との約束だったのですから。
――ふと。
誰かに呼ばれたような気がして、私は『オーロラ』のあった場所を振り返りました。
だけどそこにはただ頼りなく、私の細い影が伸びているだけでした――。
そして指折り数える日は過ぎて、再生の準備は整いました。
私の住まいに運び込まれた再生機は、手に入れるのにあれほど大騒ぎをしたとは思えないほどちっぽけで、ありふれた形をしています。
無線接続ですから配線は不要。
住まいの鍵を締めて、インターホンの電源を切って、カーテンを締め切って。
そうして壊れ物に触れるように電源を入れると、再生機は問題なく起動しました。
鼓動が一段早くなります。
再生機がテレビモニターやスピーカーを認識して準備を整えている間に、私はそっとあのディスクを取り出しました。
右肩上がりの癖字で書かれた数字が、いつもとちがって見えるような気がします。
一体、このディスクには何が記録されているのでしょう。
私に残したいものとは、なんだったのでしょうか。
プロデューサーさんの声が聞けるでしょうか。
みんなの声が聞けるでしょうか。
みんなの顔が、見られるでしょうか。
ケースからディスクを取り出す手がふるえます。
初めてのステージに上がった時より、緊張してる気がします。
再生機の準備が整って、ディスクを入れて……私はステージに飛び出すような気持ちで再生のボタンを押しました。
そして、一瞬の白い画面の後――。
画面には、ほたるちゃんが映っていました。
あの日、会えなかったお友達。
かわいい後輩。
二度と見られないと思っていたちょっと幼げな姿がスポットライトに照らされて、まるで網膜に焼き付くみたい。
かすかな動きも、あどけない顔に浮かんだ決意の表情も、まるで変わっていなくって。
まだほんの最初をみただけなのに、私の中で色々なものがあふれてしまいそう。
ひょっとしてこれは、ほたるちゃんからの伝言なのでしょうか。
あの日、どうしてもはずせないレッスンがあると言ったほたるちゃん。
最後の最後に会えないまま、不義理を謝れないまま別れてしまったほたるちゃんから私に向けて、なにか言葉があるのでしょうか。
マイクを持ったほたるちゃんが、私を――カメラを見ます。
かすかに、口が開きました。
息が止まりました。
耳にすべての神経が集まったような気がしました。
ほたるちゃんは何を言うのでしょう。
プロデューサーさんがどうしても私に、と言い残した意味はなんだったのでしょう。
今それが、わかるのでしょうか。
そして、呼吸の音も聞き逃さないほど澄ました私の耳に飛び込んできたのは――。
それは言葉ではなく、音楽でした。
ほたるちゃんが初めてもらったソロ曲のイントロです。
わっと、歓声があがります。
視点が切り替わって映るのは客席。
知っている会場です。
ほたるちゃんが、歌い始めました。
私を見ていると思った瞳は、カメラに、観客に注がれていたのです。
私はああ、と得心しました。
これは、ほたるちゃんのライブ映像なのです。
画面の下に、日付が表示されていました。
それは2020年、2月。
私が眠りについてからさして間もないころに行われたライブです。
記憶の中から飛び出してきたようなほたるちゃんが、歌い、踊る――もう二度と見られないと思っていた姿に、目頭が熱くなります。
懐かしさで、恋しさで、頭の中がめちゃくちゃになりました。
ディスク『1』の録画時間は約6時間。
ほたるちゃんによる3本のライブが収録されていました。
その時間を長いと感じさせないほど熱の入ったほたるちゃんのステージを見終わって、私はふるえる息をつきました。
顔は涙でとっくにぐしゃぐしゃで、誰にもお見せできないありさまです。
元気な姿。
がんばってる姿を見られてよかった。
私がいなくなった後も、ほたるちゃんは――そしてきっと皆は、かわらず元気にやっていたんです。
その姿を実際にみることができなくても、それが察せただけでなにか重いつかえが取りのぞかれたような、そんな心地になるのです。
だけど――。
二度と見られない姿に目頭が熱くする一方で、私は何故? とも思いました。
一枚目のディスクに記録されていたのはただ、ほたるちゃんのライブ映像だけでした。
ほたるちゃんは歌い、踊り――全力でステージに挑んでいましたが、一言の言葉もなく、なにかの文字メッセージがあったわけでもありません。
ほたるちゃんが、皆が、ただ『元気でがんばったよ』と伝えたいなら、皆で集まって伝言を録画してくれればよいことです。
だけどそうはせずに、記録には言葉ではなく、ライブ映像だけを残したのは、なぜでしょう。
頑なに、言葉を残してくれないのは、なぜでしょう。
私にはまだ、その意図がわかりません。
このディスクを、200年も残した意図はなんなのでしょう。
私はそれが解らないまま、引き込まれるように次々とディスクを再生し続けます。
ディスクの記録時間は巻を追うごとに長くなり、内容も複雑になって行くようです。
――そして、5巻目のディスクの後半。
ほたるちゃんが15歳になってからの記録を見るころになって、私はようやくこの沢山のディスクが何であるかを、悟りはじめていました。
――これは、ただライブを録画したものではありません。
私に届けられたもの。
それは『アイドル・白菊ほたる』の記録だったのです。
◇
様々、様々。
そこには幾多の苦労や転機を経験しつつ、まだ初々しかった13歳の少女が成長しアイドルになっていく姿が、一切の感情を交えず、ただ克明に残されていました。
――嫌な予感がしました。
私は、ほたるちゃんを知っています。
彼女がどれほど素敵な子だったかを。
彼女がどれほど頑張り屋だったかを。
――彼女がどれほど『不幸』だったかを。
初対面の時、まず自分がいくつもの事務所の倒産に立ち会ってしまったこと、不幸を呼ぶ体質であることを淡々と説明されて、面食らったことを覚えています。
そして『不幸を呼ぶ』という彼女の言葉がある意味で真実であり、面食らうような自己紹介は彼女なりに周囲の人を思ってのこと――他人を巻き込むまいという思いやりなのだと解るのに、さして時間はかかりませんでした。
ほたるちゃんのアイドルへの道は、その不幸と戦う道でした。
おびえながら、苦しみながら、それでも沢山の出来事を乗り越えて進む、険しい道だったのです。
そんなほたるちゃんに、私は何度も感銘をうけたのです。
あの日、ほたるちゃんならこの道をどう歩くのかと、聞きたいと思ったのです。
だから――。
記録の中でも、ほたるちゃんを襲う不幸は、健在でした。
事故、悪意、すれ違い、不運、妬み、裏切り、病、怪我――。
目を覆いたくなるほどの不幸な出来事に次々見舞われ、打ちのめされる彼女を、記録は冷酷なほど克明に映し出します。
私がどうして彼女のそばに居てやれないのか。
画面の外で彼女を支えたであろう皆と一緒に、ほたるちゃんを支えてあげられなかったのかと、何度歯噛みしたかしれません。
200年という目に見えない分厚い壁の向こうで打ち据えられ、苦痛をこらえるほたるちゃんを見せつけられるたび、目を覆いたくなります。
耳を塞いで、この残酷な記録をどこかに押しやってしまいたくなります。
だけど――だけど、私はどうしてもほたるちゃんの悲痛な記録から目をそらすことができませんでした。
真っ暗な部屋の中で、疲労が限界に達するまで記録を見続けて。
そして倒れるように眠って、また起きて、口に何かを入れて。
そんな最低限の寝食の他は記録を見て過ごします。
ほたるちゃんの記録は、彼女を襲い続ける不幸の記録です。
克服できたものがあります。
仲間と一緒に乗り越えた苦難があります。
そして逃げることも癒すこともできず、痛みをこらえるしか無かったことも。
相変わらず、記録はただ克明に記録であるのみでした。
けっして、意図が説明されることはありません。
だけど、何を説明されなくても、私はほたるちゃんから目を背けられません。
だって、それでもほたるちゃんは決して唄うのをやめなかったから。
雨の日も風の日も、病の日も。
信じた人に裏切られた日も、大事な人と永遠に別れた日も。
今日に、明日にどんな苦しみがあろうと、白菊ほたるは立ち上がり、唄い続け――。
そして、育ってゆくのです。
13の、うつむきがちな少女。
幼げな、どこか頼りなさげな可愛い年下の友人は、やがて瑞々しい16歳になり、美しい19歳になり、瞳に力を湛えた25歳になって行きます。
伸び伸びと美しく育ってゆく肢体。
神秘を増してゆく瞳。
長く伸びる艶やかな髪。
記録に映し出されるのはため息をつくほど美しいレディです。
もちろん、容姿だけではありません。
苦痛を克服して、レッスンを積み重ね、実績を積み重ね。
白菊ほたるはもう、あのころの少女ではありません。
誰もがその名を知るアイドルとして、確かな力を手に入れたのです。
あのアヒルの子のようにつまはじきにされたこともある女の子は、自分が白鳥だと証明して見せたのです。
――かつて、白菊ほたるは高森藍子の後輩でした。
実績の面でも、経験年数でも、人気でも。
ほたるちゃんはまだまだ、私の後ろにいる存在でした。
だけど、それはもうすっかり過去のこと。
寂しいような、誇らしいような。
複雑な気持ちで、私は画面の中のほたるちゃんに囁きます。
画面の中で長い髪を靡かせてきらきらと歌うほたるちゃん。
指の先までぴしりと意志の通った確かなパフォーマンスは、見るものの目を釘付けにせずにはおきません。
あのころの私は、あんな風に歌えたでしょうか。
あんな風に踊れたでしょうか。
あんになふうに、ファンと一体になれたでしょうか。
いいえ、比べる事もできません。
ほたるちゃんは、あの時の私よりずっと先にいったんです。
私の手が届かない、ずっとずっと先へ。
その姿が綺麗で、本当に綺麗で――私はステージのほたるちゃんから目が離せなくなりました。
――その時だったんです。
ほたるちゃんが、画面に向けて白い手を差し伸べました。
それは振り付けの一部でした。
だけど、その手はまるで、私に向けて伸ばされたようでした。
紫がかった感情を良く目が、私に語りかけているようでした。
そして――ああ、錯覚じゃありません。
小さく、口が動きました。
――待っています、って。
稲妻に打たれたような気がしました。
私の中で、何かがぴたりと噛み合ったようでした。
画面を食い入るように見つめます。
そうです。
言っています。
画面の方を見ているとき、ほたるちゃんの目は確かに言っていたのです。
私はここまで来ました、と。
ここで待っています、と――。
ふるえが走ります。
ようやく私は、この記録が私に残された理由が解った気がしました。
記録の全ては、白菊ほたるがいかに生き、進んでいったかの記録です。
それはもう、この世に居ない人間の記録でしかありません。
――だけど。
だけど、本当にそうでしょうか。
人は忘れられます。
だけど――その人がどう生きたかは、消えないのではないでしょうか。
たとえ遠い昔になったとしても。
たとえ誰から忘れられたとしても。
そのことだけは、消えずにそこに残るのではないでしょうか。
記録の後半には、未央ちゃん、茜ちゃん。
私と一緒に夢を追った大事な人たちの姿がありました。
もちろん、私が知る彼女たちではありません。
みんなずっと大きくなって。
みんなずっとすてきになって。
みんな、あのころの私よりずっと先に進んで、歌っていたのです。
そうです。
ほたるちゃん、未央ちゃん、茜ちゃん、たくさんのアイドルたちは消えたけど。
もう二度と、会うことはできないけど。
皆が精一杯生きて、あのころの自分よりずっと先に行ったことは――きっと、消えないんです。
だから、画面の向こうから、ほたるちゃんは言うのです。
――あなたが行く道の先で、待っています、って。
だから――。
「――追いついて来い、って言うんだね、ほたるちゃん」
あの靴を抱きしめて、私は笑いました。
心が晴れ晴れとしていました。
今ならあの日、ほたるちゃんが送別会の来なかった理由が、わかった気がします。
今生の別れになるかもしれない私にかけられる言葉が、ほたるちゃんには無かったのです。
世の中がうまくいかないって。
悲しいことは起こるんだって誰よりも知っているほたるちゃんには、私の幸運を祈る言葉なんて、口に出来なかったんです。
きっとなんとかなる、すぐ目覚められる――なんて甘いことは、決して言えなかった。
だから、ほたるちゃんに出来ることは、一つしかなかった。
いつか目覚める私に向けて、自分がどう生きたか、自分がどこまで進んだかを、見せること。
そして――私の行く道の先で待っているんだと、伝えること。
靴に込められた願いも、今ならはっきり解ります。
目覚めてから、今日まで。
私が、私の中の暗い気持ち、後ろ向きな物にどれだけ翻弄されてきたかを思い出します。
――そう、私がこれから歩く道も、きっと暗い道です。
深町先生、千川さん。
信じられる人を見つけられた喜びは、何者にも代え難いものでした。
きっと私のこれからには、沢山の出会いが待っているんです。
だけど。
たとえこれからどれだけの出会いがあったとしても、私を私にしてくれたすべてから切り離された孤独は、きっと消えずに私の道に影を落とし続けてゆくのでしょう。
私はその孤独の暗さを、ことあるごとに噛みしめていかなくてはならないでしょう。
だから。
だからその道を、この小さな光が照らすように。
靴に祈りを込めるほたるちゃん。
そんな光景が、ふと脳裏に浮かびました。
ほたるちゃんは、みんなは、私が未来の世界で、絶対に歩き出すと信じてくれていたのです。
どんなに苦しい未来でも、きっともう一度歩き出すって。
だから靴を、って。
言葉なんかなくたって、見れば解ってくれるって。
それは、買いかぶりです。
だって、凄くくじけたんですよ、私。
もう立ち上がれないかもって思ったんですよ。
進む道なんて、見つけられないかもしれないって思ったんですよ。
だけど――今は、違います。
胸のなかで、何かが動き出しました。
熱くて、体が火照るみたい。
閉めきった窓を開いてみると、夜明け前。
冷たい秋の空気を胸いっぱいに吸い込んで、笑います。
だって、私が進む道の先には、ほたるちゃんが――みんなが待っているんです。
時代も死も関係なく、ずっとずっと――私が追いついてくると信じて、待ってくれているんです。
私の夢、私たちが追いかけた夢。
全てをかけた、アイドルへの道。
同じその道を進んでいくかぎり、私たちはずっと一緒なんです。
きっともう一度私がその道を歩くと、皆信じてくれているんです。
ああ、それは、どれほど幸せなことなんでしょう。
私は素足になって、深紫の靴にそっと脚を通しました。
靴はまるで誂えられたように、私の脚にぴったりです。
――すとん、と地に足がついたような気がしました。
「私、少しずつでも進んでいくのは、得意なんだよ」
ゆっくりでも、進んでいくから。
いつか、追いついて見せるから。
だから――。
――時間の果てで、待っていて。
◇
高森藍子、18才。
彼女の足元には、いつもちいさな灯りが灯っていた――。
(おしまい)
長いものですから、よろしければ前後編にわけて読んでいただければ。
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コメント一覧 (12)
-
- 2019年10月12日 17:31
- 泣いた
-
- 2019年10月12日 18:53
- 良い話だったけど、1年でデビュー出来ちゃうんだ
頑張れ藍子
そして台風が怖い
-
- 2019年10月12日 22:35
- 気軽に避難所で読むもんじゃねぇな!
もうね、涙がね…
今めっちゃアクビのふりして誤魔化してるし…
「ここで待っています」の涙腺破壊力すごい
-
- 2019年10月12日 23:11
- 読んでて単純に辛くなるほどにいい作品だった
-
- 2019年10月13日 01:59
- レディ・グレイ病ってレディ・ジェーン・グレイが元ネタかな。
享年16歳、政治革命に利用され処刑されるも自らの信仰だけは貫いた少女。
-
- 2019年10月13日 08:29
- >5
ありそう。
16歳で死ぬ女の子の病気の名前としてこれ以上ない位ぴったりだな
-
- 2019年10月13日 08:46
- めっちゃSFやん
もうこんなレベルのSS書ける作者は絶滅したと思っていたが、まだいたんだな
-
- 2019年10月13日 17:49
- 魂が震えた。
-
- 2019年10月14日 04:06
- 閉めきった窓を開いてみると、夜明け前。
冷たい秋の空気を胸いっぱいに吸い込んで、泣きました。
ゆっくり読んで、こんな時間になっちゃったけど、後悔はないです。
自分の悩みなんてちっぽけだ、ちゃんと歩いていかなきゃなと思いました。
素晴らしい作品をありがとうございます。
-
- 2019年10月15日 23:51
- 滅茶苦茶苦しくて悲しい話なのに一気に読んでしまった
藍子を取り巻く世界は残酷で優しい……
-
- 2019年10月18日 04:28
- ハッピーエンドとは言えないけど綺麗なストーリー
これは間違いなく名作
-
- 2019年10月22日 11:35
- 素晴らしい話を、ありがとう…ありがとう…