【モバマス】白菊ほたる「アンブロークン・アロー」
窓から見える空には、黒い雲がさかさまにつもっている。
もう4月になる。けれども、晴れ間に咲いていた桜は雨に流されてしまって、春を感じ取ることができない。
「ほたるさん、大丈夫?」
白菊ほたるは、自身のプロデューサーの声で我にかえった。
よくないことがつづきすぎて、時々意識を手放したくなることがある。
「あっ……ごめんなさい。大丈夫です……」
いくつもの事務所に流れては吐き出されて、ようやく新しい事務所で再スタート切ったのに、ほたるのデビューライブは悪天候で中止になった。
夢にまで見た輝く舞台は、まだ夢のなかのまま。
精神的には、あまり“大丈夫”ではない。けれどもほたるは、それを相手に伝えて気を遣わせるのがいやで、“大丈夫”ということにしてしまう。
がまん、しなくちゃ。せっかくつかんだチャンスなんだから……。
プロデューサーは笑ってみせた。ほたるは、彼の表情に濃い疲労の色があることに気づいた。
「ありがとうございます……」
“ありがとうございます”、“ごめんなさい”、“わかりました”……私はそればっかり。
ほたるは“自分の言葉”というものの貧弱さに、少なからずかなしみをおぼえた。
そのときそのときにやってくることに、その場しのぎで言っているように、自分でも思う。
プロデューサーに対して、感謝や申し訳ない気持ちはある。
彼が困っているなら、力になりたいと思う。
だけど。誰のせい?
ほたるは自分で答えをだしてしまって、だから何も言えなくなる。何もできなくなる。
その後はお互いに交わす言葉もなく、ほたるはプロデューサーと別れて、寮にかえった。
プロダクションの……正確には、プロダクションが出資している私立中学校の寮。今日は休日で、他の寮生の子どもたちは出かけている。
静まりかえっていた。自分の靴音がやけに大きく聞こえて、胸が小さく痛んだ。
ほたるは、自分が不幸だと知っている。それはある年齢特有の被害妄想などではなくて、実際に身に降りかかっていることをピースでつなげて理解したことだ。
道を歩けば植木鉢が落ちてくる。バスに乗ればバスが故障する。
知り合いが事故にあい、入院する。
そして、所属した事務所はことごとく倒産する。ほたるが、アイドルとして本格的にデビューする前に。
結果皮肉なことに、ほたるは不幸によってアイドル業界で名が売れている。
売りの文句は、疫病神。
誰もいらない……自分はいらない。
ほたるは、ある時からそんな思いに囚われるようになった。
胸中では4割の不安と、残りは期待が綯い交ぜになっていた。
同じ事務所の人気アイドルがバラエティ番組を突然キャンセルした。理由はほたるにはわからない。わかろうとする余裕がなかった。ほたるが彼女の代役をつとめることになったからだ。
初めてのテレビ出演。
幼い頃、画面の向こう側でほたるに手を振ってくれたあのひとと、同じ場所に立つ。
人生にひどく落ち込んでいるひとへ、勇気を分け与えられるひとに、自分もなれる。
代役とはいえ、ほたるにとっては願ってやまないチャンスだった。
通路ですれちがうひと皆に挨拶をして、それからドアの前で一度ふかく息を吸い込んで、ほたるはスタジオに足を踏み入れた。
目が慣れてきた頃、ほたるはスタジオ内を忙しなく行き交っている人々に声をかけてみた。
「本日の出演者の白菊ほたるです!
みなさん、よろしくおねがいします!」
何人かはこちらを見たが返事をすることもなく、ほたるを視界から消してしまう。
その後もスタジオの中をまわって挨拶をしてみたものの、皆の反応は同じだった。
このひとたちは、私に興味がない。
ほたるは、そのことに気づかないようにした。精一杯の笑顔を浮かべながら、収録が始まるのを待った。
これから。これからなんだから。
しかし、ほたるの思いは裏切られた。
「おい? どういうことだよ!」
声の方向を見ると、番組のディレクターらしき男が苛立ちを隠そうともせず、スタッフを問い詰めていた。
「それが、今回主役の子がドタキャンしたみたいで……」
「はぁ? じゃあ、あの辛気くさいバーターだけで番組やれってか?」
ほたるは、裏切られることには慣れていた。
「無理だよ無理! 今日はもうバラして! 」
“裏切り”は、ほたるにとって“現実”と同じ意味を持っていたから。
それでも。
「おーい、そこの……アンタ! 今日はもう帰っていいよ!」
それでもこの時だけは、自分が、“白菊ほたるでないこと”を祈った。
「……えっ。わ、私ですか?」
私じゃない。
私は、“辛気くさいバーター”なんかじゃない。
ほたるは小さな手を握りしめて、ディレクターを見つめた。
私は……。
ほたるが言葉を発する前に、彼女の勇気は壊された。
「そう!お疲れさん!
おいAD! 番組のPとクソ事務所のP呼んで!会議するぞ!」
あぁ、やっぱり私だったんだ。
ほたるは奇妙に納得した。
空から降り注ぐ光が、その熱さを感じる肌が、自分が何者なのかを明らかにしたように思えた。
私は、いらないんだ。
何1つ悪いことなどしていないのにほたるは謝った。
その声にすら、誰も耳を傾けていなかった。
自分が世界でひとりきりだと感じる時、その日の痛みを思い出す。
ほたるは寮の、自分の部屋の扉を開けた。
「ただいま」
その声にも返事はなかった。
白菊ほたるが寮に戻ったころ、プロデューサーは彼女のトレーナーの元を訪れていた。
青木麗。346プロダクションのトレーナーの中で、トップクラスの経験と技能を持ち、周囲からは尊敬を込めて“マスタートレーナー”と呼ばれている。
彼女はトレーニングルームで、ひとりで身体を動かしていた。
それは他のアイドルのレッスンに付き合った後であるので、プロデューサーは彼女の驚異的なスタミナに驚いた。
「マストレさん、失礼します」
「おや」
麗は動きを止めて、プロデューサーの方を向いた。
化粧をしていないが、表情には内面が溢れ出たような瑞々しさが表れていた。
「調子はどうだい」
「良好ですよ」
「嘘をつくんじゃあない。
目の下にうっすらクマができているし、それに少し痩せただろう?」
麗はプロデューサーに近づき、脇腹を人差し指で軽くつついた。
彼女の言っていることは事実だった。
ほたるのライブを仕切り直すために、新しい会場の選定や日程の調整、関係者への根回しに追われている。
体重に関して彼自身はわかっていないが、はたから見れば?が少しこけたようだった。
「このドリンクを飲むといい」
麗はボトルを差し出した。中には、何色とも形容しがたい液体が入っている。
食欲を著しく減退させる見た目であったが、相手の厚意を無碍にもできず、プロデューサーはボトルに口をつけた。
人間社会の不条理や諸行無常を表現したような味がした。
感想を正直に言ってみたまえ」
「俺何かやっちゃいました?」
プロデューサーは、“不味い”という言葉を避けつつも不満を露わにした。
だが麗は飄々と言い返した。
「“良薬は口に苦し”。
良いドリンクが不味いこともあるし、良いアドバイスが耳に痛いこともある」
味に自覚があったのか……。
プロデューサーは口の中に広がる得体の知れない痺れに顔をしかめながら、本題に切り出した。
「ほたるさんの様子はどうですか」
プロデューサーの仕事は、アイドルと近いようで遠い。プロデュースをするといっても、そばにいない時間の方が多い。
特に義務教育過程にあるアイドルでは、お互いに全く顔を合わせずに物事が進むのが通常と言ってもよい。
それがまったく気にならない者もいるが、彼はそうではなかった。
ほたるは、彼がスカウトマンに頼らず、久しぶりに自分で見つけた少女だった。
それも、他の事務所でアイドルを諦める覚悟までしていたところを強引に引き抜いた。何の計算もなく、衝動的に。
ほたるはまだ中学生。物事を自分で判断するのがまだ難しく、多感な時期だ。
失敗させたくない。絶対に。
プロデューサーはそう思っている。だから、どんな些細なことでも見逃すまいと、気を張っていた。
「気がかりなことがある」
プロデューサーはすかさず返した。
「トレーニングがうまくいってないんですか」
「失礼だな……トレーニングは順調だ。
スキルという点で見れば、もう白菊は一人前のアイドルと言ってもいい」
「じゃあ何が問題なんですか」
「白菊ほたるには味方がいない」
その言葉にプロデューサーは衝撃を受けた。
味方がいない?
彼には麗の言っていることが理解できなかった。
「より正確に言えば彼女には頼る相手がいない」
「俺は、ほたるさんの味方のつもりですよ」
プロデューサーの言葉を、麗は、ははは、と笑った。
その声は乾いていた。
“プロデューサーの迷惑にならないように頑張ります”、“プロダクションの迷惑にならないように一生懸命やります”……こんな悲しい言葉を、あの子はどこかで覚えてきたんだよ」
その“どこか”に、プロデューサーは心当たりがあった。
倒産したという前の事務所だ。
詳しく調べたことがあるが、その原因は経営者の実力の問題であって、ほたるに責任はない。そもそも、責任が生じるようなステージを事務所は彼女に用意すらしなかったのだから。
「プロデューサー殿。
あの子にとって君は……私達はね、“決して迷惑をかけちゃいけない”。
そんな存在なのだよ」
「俺は別に……」
迷惑をかけるとか、かけないとかいう気持ちでアイドルをやってほしいわけじゃない。
プロデューサーはそう思っている。
だが、麗は手を緩めない。
麗の言うことは事実だった。
346プロダクションは、即座に結果を出せないアイドルには冷たい。
業界最大手でありながら、結果を出せるように育成する努力を惜しむ。
他社と比較にならない資金、設備、コネクションを持ちながら、それを育成と言う方向に投じない。
そのようなことをしなくても、すぐに業績につながる才能豊かな少女たちが列を為しているから。
プロダクションは、ただ攻める。
どのような事情や経緯があろうと、即座に結果を出せないアイドルは切り捨て、代わりのアイドルを戦場へ送り込む。
「でも……でも、ほたるさんはまだ13歳ですよ」
「同じ言葉を上層部に言えるかな。
“この子はまだ13歳だから大目に見てください”、と」
346プロダクションの上層部___特に常務は、経営や人選に優れているが、一方で見切りが非常に早い。何歳だろうが、どのような経緯があろうが切ってしまう。
「白菊にとって私達は、敵でないだけかもしれない」
麗の言葉は残酷だった。だが事実であることは、痛いくらいにプロデューサーも理解していた。
ツアーから東京に戻ってきた木村夏樹は、そのまま346プロダクションへ向かった。プロデューサーへの報告と、それからいくつか彼に頼みたいことがあった。
ツアー先で購入した、もう何本、何十本目かも分からないギターを抱えながら、夏樹はプロデューサーのオフィスに入った。
しかし、誰もいなかった。
「おっかしーな……」
この時間はまだいるはずなんだけどな。
そう思いながら、夏樹はデスクを指先でこすった。
キュッ、と思いのほか大きな音がして、指先に痛むような熱さを覚えて、夏樹は手を引っ込めた。
指の皮がまた薄くなってんな。
夏樹は指先を舐めながら、オフィスを出た。
ツアーの報告は、今日中でなくともよかった。だが、頼み事の方はすぐにでも伝えたかった。
自分が歌う曲はCDだろうとライブだろうと、自分でギターを弾きたい。
できることなら自分で作った曲を披露したい。
346プロダクションは、夏樹のギターの腕前に疑問を持っていた。
さらに指先が硬くなると握手会のウケが悪くなるという判断から、夏樹に練習を“控える”ように伝えた。
アイドルになる前、夏樹は起きている時間の大半はギターに費やしていた。しかし、今ではレッスンや活動の忙しさもあり、週に5時間もさわっていない。
自分のギターの腕が急速に衰えつつあることを、夏樹は実感していた。
それはある意味夏樹にとって、死ぬよりも恐ろしいことだった。
錆びついて、それでも生きていけるからと、他者にお膳立てされた舞台で踊るのは嫌だった。
そんなのは、ロックじゃねえ。
夏樹はプロデューサーを探し続け、トレーニングルームに辿り着いた。
扉についている窓をのぞくと、中でプロデューサーと青木麗が話しているのが見えた。
夏樹は急に気後れを感じた。
プロデューサーだけならまだ、意見を言いやすい。しかし、そこに自分をいつもレッスンで厳しくしごいている相手がいる。
ギターがあれば、世界すら敵に回しても怖くないとすら思えたこともあったのに、今の夏樹はたった2人の人間に尻込みしている。そんな自分が情けなかった。
アタシはいつから……。
夏樹はそう浅くはない過去をまさぐって、薄暗い廊下のなかで自分の正体を確かめようとした。
はじめはただ、音がするのがおもしろかった。上手か下手など考えもせず、時々弾きすぎて指先が割れて泣いても、ギターを手放さなかった。
テレビで流れてくる好きな音を真似していると、ただの音は音色になった。それは海をへだてや、とても遠いところからやってくる色だった。
ものやひとの名前がくっきり分かってくるようになると、夏樹は自分のやっていることに“ロック”という名前がついていることを知った。
そのとき同時に、夏樹は自分の人生を決めた。
高校に上がった頃、夏樹は同じように音楽をやっているクラスメイトとバンドを組んだ。バンドのレベルはお世辞にも高いとは言えなかったが、ギタリストに関しては別だった。
最低限の勉強をしたあとは練習漬けの毎日。早朝眠い目をこすりながら弦と指をなじませて、夜はギターの横に倒れこむ。同世代では夏樹に敵う相手はいなかった。
進路相談のとき、夏樹はなんの臆面もなく言った。
「ロックやります」
教師達は笑わなかった。彼女になら絶対にできると思っていた。
彼女の意思を曲げさせることもできないと分かっていた。高校を卒業するまで、夏樹は善良な大人達の理解のもとで音楽活動を満喫した。
レコード会社や芸能事務所にデモテープを送り、時にはオーディションに出向いてギターを掻き鳴らした。
ライブハウスを熱狂させた夏樹の演奏は、通用しなかった。
夏樹の技術はプロと比べてもなんら遜色なかった。だが、彼女のパーソナリティ……曲が相手の琴線に触れなかった。
彼らが求めていたのは無害で耳心地が甘く、電子音を豊富に取り込んだ、踊れるポップサウンドだった。それが流行だった。
一方夏樹の曲は、時代錯誤ともいえるほどアグレッシブかつフィジカルな音を出していた。つまり、売れ行きが低迷して久しいロックサウンドだった。
デモテープを何度も突き返され、オーディションに何度も落とされていくうちに、夏樹は気づいた。
自分にはギターがあるのではなくて、ギター以外何もないのだと。
転機が訪れたのは、346プロダクションの総合オーディションだった。
その日は、芸能に関わるさまざな部門で一斉にオーディションが行われており、夏樹は歌手としてプロダクションを訪れた。
だが、案内されたのはアイドル部門の会場だった。応募書類に間違いはなかった。何度も確認した。
夏樹は審査員の男に尋ねた。
「ここ…アイドル部門のオーディション会場か……?
場所間違えちまったかな……」
その男、プロデューサーは、間違っていないと伝えた。
夏樹は後から知ったのだが、彼は書類を差し替えて夏樹をアイドルにしようとしてしいた。
夏樹はその場から立ち去ることもできた。だが、彼女はそこに留まった。
まぁいいか。
アイドルでも……。夏樹は、生まれて初めて自分のやっていることに妥協した。
何の葛藤もなかった。仕事がもらえるなら。
夏樹はアイドルになった。本格的なボイストレーニング、ダンス、バラエティでの立ち振る舞い……ギター以外のことに多くの時間を割いて、そして売れた。
プロダクションに貢献してきた。
だからそろそろ、こちらの意見も通したい。
そのつもりだったのに、今の自分はレッスンルームの前で立ちすくんでいる。
ビビってんのか?
情けねぇ……。
しかしその場から立ち去るほど臆病さはなく、夏樹はしばらく2人が話しているのをただ眺めていた。
そのうちに、麗が扉の方を向いて夏樹に気づいた。麗は手招きをして、唇を動かした。入れ、という形に見えた。
観念して、夏樹は扉を開けた。
「ツアーが終わってさ、挨拶しに来ようと思ってたんだ」
ツアーは大成功だったよ。
ところで次の曲のレコーディングなんだけど、ギターパートもアタシがやっちゃダメか?
あと、曲を作ってみたんだけど聴いてくれないかな。いまスマホに入ってるんだけど。
これライブでやってもいい?
夏樹は自分の言うべきことを、もう奥歯の上に乗せていた。
「おつかれ。
夏樹は白菊ほたるさんのこと、知ってるよな」
「は?」
思いがけず出てきた名前に、夏樹は驚いた。
アタシの少し後に、プロデューサーが余所から引っこ抜いてきたやつだっけ。
「その、“ホタルサン”がどうかしたのかよ?」
声には出さなかったが、夏樹は出鼻をくじかれて少しむっとしていた。
プロデューサーは夏樹の内心に欠片ほどの洞察力も示さずに、話を切り出した。
「デビュー前で心細い思いをしてるだろうから、味方になってやってくれないか」
アンタがまずアタシの味方になってくれ。夏樹はそう言いたかったが、すんでのところで堪えた。
「“なってやれ”とか、“なってやる”とかそういうもんじゃないと思うけどな。
そもそもアタシ、ソイツのことよく知らないんだけど」
今の夏樹の活動は、白菊ほたるの行動と全くかみ合っていない。
知っているのは名前くらいのもので、顔は思い浮かばない。
自信のなさが写真越しにすらわかる瞳と目が合う。
泣いてんだか笑ってんだかよく分かんねー顔。
夏樹はそう思った。
「とりあえず相談だけでも乗ってやってくれないか。
私からも頼む」
麗が夏樹の肩に手を置いた。
「相談、たって……」
乗ってやってもいいけど、どこに連れてきゃいいんだよ。
つーかまずアタシの相談に乗ってくれ。
しびれを切らした夏樹は、無理矢理話を切り替えようとした。
「わかった考えとくよ。
それで今度のレコードのことなんだけど、ギタリストはもう決まってるか?」
「前のアルバムと同じひとがついてくれるから心配しなくていい」
違う、そうじゃない。
夏樹はプロデューサーの的外れな親切心が鬱陶しかった。
ギターはアタシの重荷じゃねぇ。
自分の聞き分けのよさに夏樹は怒りを通り越して、哀しみすら覚えた。
その聞き分けの良さが、いままで自分の首をつないできたことを知っていたから。
白菊ほたるは延期されたライブに向けてレッスンを受けていた。
ほそく甘いようで、芯のある歌声はレッスンルームの隅々までしみわたり、それに合わせる仕草は、端正かつ真摯だった。
「どうでしょうか」
デビュー曲を一通り歌い終えたところで、ほたるは青木麗に尋ねた。
尋ねずにはいられない。
ほたるの人生は、どんな些細なものですら“ゴール”や“完成”というものにたどり着いたことがないものであったから。
「声量、表現力ともに申し分ない」
麗はそう答えた。それは嘘ではなかった。
デビュー曲は現代のアイドルものとしてはやや異質な、物悲しいバラード。
魂を歌に込めることが歌手の素質だというのなら、ほたるは正にそれを満たしていた。
自分自身の心さえ引き裂いてしまうほどの歌を紡げるのだから。
「ありがとうございます……」
ほたるは自分が身と心を削り出して歌い上げたことに、なんの感慨も抱いていなかった。
ただ相手が認めてくれることだけがうれしかった。その危うさに、ほたるは気づいていない。
「ダンスのほうは問題ありませんでしたか……?」
「極めて正確で、抑制のきいたダンスだった。
私の見ていないところでも相当に練習を積んでいるようだな」
ほたるのデビュー曲は緩やかな曲調であり、体力を消耗したり歌唱を妨げたりするような激しい動きはない。
しかしその一方で、一挙一動に誤魔化しがきかない。小さなステップから、指先の曲げ方まで、観客にはつまびらかに分かってしまう。くわえてソロであるので、視線はさらに厳しいものとなる。
ほたるはこの難易度の高いダンスを、プロダクションの中で最も辛辣な審美眼を持つ相手の前でこなしてみせた。13歳の時間のほぼ全てを捧げて、積み上げた。
「だが休息を取る事も大切だぞ。
本番のためのエネルギーを使い切ってしまったら元も子もないからな」
麗はそう言って足元のバッグからボトルを取り出した。
ボトルの中には、暗紫色で、ひどく重たげな動作をする液体が入っていた。
「これを飲むといい。疲れが吹き飛ぶぞ」
「えっ……ありがとうございます」
まさか人が飲めるものだったとは思っていなかったほたるは、おそるおそるボトルに手を伸ばした。
見た目の通り、手応えが重い。
「遠慮することはない。さぁ」
出されたものを断ることわることもできず、ほたるはキャップを開けて、またおそるおそる中の液体に口をつけた。
それからたっぷり30秒ほどの時間をかけて感想を考えて、麗に伝えた。
「私、何かよくないことをしてしまったんでしょうか……?」
「…………渡すドリンクを間違えてしまったようだ」
麗はバッグから市販のスポーツドリンクを取り出し、ボトルを交換した。
「早いが、レッスンはもう終わりだ。
帰ってゆっくりするといい」
「帰ってゆっくり、ですか……」
「そうだ。適切な休息はオーバーワークに勝る。
今日はゆっくり羽根を伸ばすといい」
ほたるはまだレッスンを続けたかった。
家に帰ってもやることがない。一緒に出かける友達もいない。何かしていないと、よくないことばかり考えてしまう。
しかしほたるは我儘で相手を困らせるのもいやで、麗の言う通りにすることにした。
「ありがとうございました……」
深くお辞儀をして、ほたるはレッスンルームから出た。
ほたるはまっすぐ家には帰らずに、とある公園をめざした。そこは、ほたるの記憶のなかで数少ない、暖かい場所だった。
公園では、ちいさな子ども達が駆け回り、その少し離れた場所でおそらく母親と思われる女性達が談笑していた。
ほたるはベンチに座って背もたれに深く沈んだ。空を見上げると、まるで世界に自分が存在していないかのように透きとおった気持ちなる。
この場所で、ほたるは今のプロデューサーにスカウトされた。所属していた事務所が倒産して、自分の過去にも未来にも絶望していたほたるに、手が差し伸べられた。
ここへやってくると、とてもあたたかい気持ちなる。この気持ちをなくさないために、どんなことでも我慢できるような気がする。
陽が少しまぶしくなって顔を伏せると、小さな女の子がひとりほたるの方を見ていた。
私がアイドルになろうって決めたのも、あれくらいの時だったかな。
ほたるはにっこりと微笑んで、女の子に手を振った。
女の子はわぁ、と声を上げ、ほたるに背を向けて走り出した。他の子ども達も駆け出し、母親とともに公園から消えていく。
ほたるは、ベンチに座ったまましばらく雨に打たれた。冷たい水が服にしみこんで、肌を濡らした。
前髪がおでこに垂れてくるようになると、ほたるはようやく寮に戻ろうと決めて、バッグの中の、折り畳み傘を取り出そうとした。
そこまで大きなバッグではないから、収納できるスペースは少ない。もし落し物をした場合はすぐに気づく。
幸いなことに折り畳み傘はあった。けれども、ほたるは気づいた。
同じ場所にしまっておいたはずの、寮の鍵がない。
木村夏樹は小さなため息を吐いて、プロダクションの出口へ向かっていた。
次のCDの発売日は夏。今日は、ジャケットをどういうものにするかの打ち合わせだった。
といっても夏樹に発言権や決定権があったわけではなく、おもしろくもない打ち合わせの方向をただ見守るだけだった。
まずプロモーション担当が、「CD単体では弱いので、写真集を利用するのはどうか」と言い出した。
弱いというのは、正確なところ「売れない」ということだった。
CDだけでは売れない。これは夏樹や作曲・作詞の責任ではなく、音楽業界、ひいては消費者の傾向だった。
逆に言えば、夏樹のようなトップアイドルでもいわゆる“盤外戦術”を使わなければ、世間からは全く見向きもされないということになる。
夏樹はその事実を、アイドルになってかなり早い時期に受け止めた。だが、写真集と抱き合わせで音楽を売るのは気が進まなかった。
そんな夏樹の気持ちに反して、打ち合わせは進んでいった。
「シングルと写真集をセットにするってことですか?」
「いや、CDのジャケットに写真集の一部を使って売り出すんだ。そうすれば写真集で釣れた新規層がCDを買ってくれるかもしれない」
「逆にCDのジャケットで釣れた消費者が写真集を買うことも期待できる、と……」
「握手会やイベント参加を特典につけるのは?」
「どのみち既存のファンは何出されたって買うんだから、もっと新規層を取り込む戦術で行きましょう」
耳を塞ぎたくなるような応酬に、夏樹は辟易した。どうせ自分に決定権などないのに、なぜ打ち合わせに参加させるのか不思議だった。
身体を使ったわけでもないのにひどく肩が凝ったような感覚で、夏樹はプロダクションの廊下を歩いた。
一階のホールへ着くと、受付のほうから声が聞こえた。
「落し物で、あの……鍵とか、届いてませんか……」
夏樹がその方向を見ると、白いシャツと水色のエプロンワンピースを水浸しにした少女が、受付の社員と話していた。
「そうですか……ごめんなさい……すいませんでした……はい……失礼しました」
どんだけ謝るんだよ、と夏樹は苦笑した。同時にその少女が、白菊ほたるであることに気づいた。
夏樹に、プロデューサーへ貸しを作る思惑は多少あった。けれども、その思惑以上に生来の面倒見の良さが表れた。
「どうかしたのか?」
気心知れた友人にするように、夏樹はほたるに声をかけた。
ほたるのほうはひどく恐縮し、文字通りちぢこまってしまった。
こういう反応に夏樹は慣れていたので、先ほどの会話とほたるの様子から予想できたことを、自分の方から示した。
「家の鍵がなくて、雨の中さがしつづけたけど見つからない。
そんなトコだろ?」
「あっ、どうして……」
「ほらアタシ、エスパーだから」
驚くほたるに、夏樹は軽口をたたいてみせた。夏樹がアイドルというキャラクターに、それまでの人生から持ち越したものがあったとすれば、この気さくさだった。
「その鍵ってさ、今日中に見つからないと困るモンなんのか」
「あっ……はい……。寮の鍵なので、それがないと部屋に入れなくて……」
「管理のひととかにさ、開けてもらうってこともできないの?
事情を話せば何とかしてくれると思うんだけど」
「えっと……その管理人さんがインフルエンザにかかってしまったそうで……、友達の部屋に泊めてもらうように言われたんですけど……」
「それじゃあ、アタシの部屋に来ればいいじゃん」
夏樹はなんの臆面もなくそう言った。
「えっ……それは」
ほたるは、夏樹の言葉の意味がうまく飲み込めないようだった。
無理もないか。夏樹は自分が、かなりおせっかいなことをしていることを自覚していたが、続けた。
「うちのプロダクションにはさ、後輩が家の鍵をなくしたら先輩の家に泊めてもらうっていう規則があるんだぜ」
真っ赤な嘘。だが、助けが必要であるのにそれを素直に受け取れない相手につくには必要な嘘だった。
「鍵を落としたんじゃなくて盗まれた場合さ、その犯人が後から部屋に入ってくる可能性もあるわけだから、戻らないほうが安全だろ?
それにアイドル同士のほうが後々問題がなくて、プロデューサーも助かるだろうし」
「そう、ですね……」
ナンパでもしてる気分だぜ。夏樹は自分の熱心さに自分自身で呆れた。
けれども、ほたるの端正な顔立ちを見ていると口説かれる価値もあるように思った。
「ほたるはさ、今いくつなんだ?」
「あっ……13歳です……」
「13!?………歳が1人で泊まれる場所なんてないし。警察に補導なんてされたら、プロデューサーにも迷惑がかかるだろ?」
プロデューサーにも迷惑がかかる。それが駄目押しになったのか、ほたるは深く頷いた。
夏樹はやや罪悪感を抱きながら、ほたるを自分の家まで案内した。
夏樹は6階建てのマンションを指差した。荘厳で洗練された……しかし近寄りがたい印象を見るものに与える建築物。
ほたるは緊張したように目を瞬かせていた。
「そんな緊張すんなって。高いだけだぜ?」
夏樹はくだけた口調で言い、ほたるの手を引いた。
夏樹ははじめてほたるの手にふれた。
ちっちぇな。
こんくらいのとき、何考えて生きてたかな。
そんな甘くて苦い、やわらかな思いが頭をよぎった。
セキュリティドアをくぐった先のエレベーターで5階まで上がり、廊下に出る。カーペットのやわらかな感触が靴の裏から伝わってくるが、あたたかみはない。外界から遮断された空気は澄み切っていて、やけに冷たい。
この廊下を歩くたびに、夏樹は自分がやけに遠い場所に来たような気持ちなり、早足になってしまう。
黒い、四角い棺桶のようなドアの群れの中をふたりで歩き、そのうちの1つの前で立ち止まる。
夏樹はほたるの手を離した。そして、ノブの上にかかったカバーを上げ、中のパネルに親指を押し付けた。
金属の閂が重くスライドする音が廊下に大きく響く。
「ただいま」
中で誰かが待っているわけでもないが、ドアを開けた夏樹はそう言った。
ほたるは震え声で、足を踏み入れた。
玄関には、1人どころか2人でも大きすぎる靴箱がある。それでも中はスニーカーやブーツで詰まっていた。勿論全て夏樹の私物である。
「ちょっと待っててくれ。タオルと着替え持ってくる」
「そんな……そこまでしていただかなくても……」
「ずぶ濡れのままウチに上がろうってのかい?」
夏樹がそう言うと、ほたるはまたちぢこまってしまった。
「とりあえずウェストだけ教えてくれよ」
「あっ……53です」
「アタシとほとんど変わんないね。オーケー」
夏樹はタオルと、クローゼットから適当に下着と服を見繕ってきた。身長と体型が大きくは変わらないことがさいわいして、選ぶのには困らなかった。
「ほたるの趣味には合わないかもしれないけどさ、今日のところは我慢してくれよ」
「いえ、そんな……貸してもらえるだけでもありがたいです……」
「じゃ、アタシはちょっとリビングにいってるから」
夏樹はへんに気恥ずかしくなり先にリビングへ入った。
無数のギター、その表面から光が反射してまばゆい。ギターはスタンドに立てているわけでもなく、ソファやテーブルの上に平置きに散乱していた。
中には埃がうっすらと積もっているものあり、購入した夏樹ですらさびしい気持ちになった。
「すごい数のギターですね……」
後から部屋に入ってきたほたるがそう言った。彼女の言葉には言葉以上の意味はなかっただろうが、夏樹の胸はちくりと痛んだ。
「ペアで置いとくと勝手に増えるんだよ」
夏樹は出鱈目な言い訳をした後、ほたるの服装をしげしげと眺めた。
「似合ってるよ」
「あっ……ありがとうございます」
特に工夫はない、バンドTシャツとロールアップしたジーンズという組み合わせであったが、ほたるの年齢相応の屈託のなさが正直になったように見えた。
「なんか飲む?
オレンジジュースか麦茶しか入ってないけど」
「あっ、お構いなく……」
ほたるは恐々としていて、立ち尽くしていた。
まだ緊張しているのか、もしくは単にどこに座ればいいのか困っているようにも見えた。
夏樹は冷蔵庫の扉を閉めてながら、キッチン越しにほたるに微笑みかけた。
プロダクションを代表する先輩の家にあがるばかりか、泊めてもらう。昨日まででは想像もつかないことばかりで、ほたるは身体を固くしていた。
部屋には、レコードやCDがはちきれんばかりに詰まった棚があり、隅には一本のアコースティックギターが立てかけられていた。
壁には無数のアーテイストのポスターが、そのままピンで打ちつけられていた。
ほたるは木村夏樹がおそろしいわけではなく、むしろ感謝しているけれども、申し訳なさと緊張が渾然としてほぐれなかった。
このひとも不幸にしてしまうかもしれない。
規則という言葉、プロデューサーを困らせたくないという気持ちで夏樹についてきたものの、一方ではすぐにでもここから立ち去らなければならないという思いもあった。
「あの……」
ほたるは、マンションの外観と比べるととても貧相な、自分の座っているシングルサイズのベッドのシーツを、きゅっと握りしめた。
「私と関わると、不幸になっちゃいますよ」
悲しい決意と勇気をふりしぼって、ほたるは言った。
言っちゃった。
頭がおかしい子だと思われるかも。それでもいいかな。
ほたるはシーツのひんやりした感触に、名残惜しさを感じた。
「…………ほたるはさ、なんでアイドルになったんだ?」
思いがけずにされた質問に、今度はほたるの手が止まった。
なんで?
画面の奥にむかって一生懸命に手を振っている自分の姿がよぎった。
ほたるはその時のことを話せばよかった。けれども、口をつぐんだ。
自分がさきほど発した言葉と、あまりにも矛盾していたから。
「アイドルはひとに関わるしご……存在なんだぜ?」
夏樹の言う事実に、ほたるは元から気づいていた。
関わるひとを不幸にしてしまうのが嫌。でも、ひとと関わりたい。
ひとと関わっていい存在になりたい。
あのひとみたいな、あたたかいひとになりたい。
「私……あの、……」
何から伝えればいいのか分からないまま時が流れて、そのうちにお腹が、ぐぅ、と鳴り出した。空腹はほたるの都合などおかまいなしだった。
なんとも間が抜けていて、ほたるは顔を赤くした。
答えが返ってこないことを特に気にした素振りもなく、夏樹はスマートフォンを取り出した。
「食事が届くんだけどさ、和・洋・中どれにする?」
「えっ……そんな、お気遣いは……」
「アンタをほっといてひとりでメシ食えってのかい?
今日はセンパイにカッコつけさせてくれよ……まぁ、プロダクションの経費で落ちるんだけどね」
「……経費?」
「待ってればわかるよ。
じゃあとりあえず、アタシと同じやつでいいか?」
親切を無駄にするほど強情でもなく、ほたるはうなずいた。けれども、どうして夏樹が自分にこんなにも親切なのか不思議だった。
346プロダクションに来るまで___今までの事務所では、まるで存在しないかのように扱われて、何かが怒った時にだけほたるが槍玉にあげられた。
ほたるは、他人からの親切に免疫ができていなかった。むしろ拒絶反応のほうが強く出てしまうきらいがあった。
夏樹がにやりと笑いながら、ほたるの顔を指差した。
ほたるはまたびっくりして、ほんとうに文字が書いてあるんじゃないかと、自分の顔をぺたぺたと手でさわった。
「おー次の文字が……“えっ、ほんとうに書いてあるの!?”」
夏樹がそう言うと、ほたるはもう茫然としてしまった。夏樹はけらけらと笑って、ほたるに手鏡を渡した。
ほたるは慌ててそれをのぞき込んだが、もちろん何も書かれていない。
「カワイイやつめ」
押入れから人生ゲームを引っ張り出しながら、夏樹はまた笑った。
からかわれたほたるは、年齢相応のちいさな反感がわいてきて、手鏡をシーツに放ってそっぽを向いた。
「そんな怒んなって」
「……おこってません」
「じゃあ、もうしばらくセンパイに付き合ってくれ」
夏樹はそう言って人生ゲームの、偽物のお札やコマをほたるの足元に並べた。
あぁこのひとは、こういうふうに優しくするんだ。
ほたるは理由を求めるのをやめて、ベッドから腰を上げた。
ほたるは夏樹と一緒に玄関へ行って、届いた食事は346プロダクション___つまり美城のグループ会社のものだと知った。
「なんでも作るんだよ、ミシロは」
食卓テーブルを雑に片付けながら、夏樹が言った。ほたるには身内贔屓というよりは、吐き捨てるように聞こえた。
春野菜のサラダ。ミネストローネ。スパニッシュオムレツ、鶏のハーブ焼き。それから、いつの間にか炊飯器で炊かれていた白いごはん。
どれも美味しそうで、ほたるは少しわくわくした。
「いただきます」
ほたるはまず、サラダに箸を伸ばした。
今まで食べてきた野菜と同じものなのか、少しうたがわしいくらいに、みずみずしく、奥行きのある味がした。
ハーブ焼きを食べてみると皮がパリパリと香ばしく、身はやわらかく舌の上でほぐれた。
「美味しいだろ、アタシの手料理」
夏樹の言葉に、ほたるは吹き出しそうになったが食事中なのでこらえた。
食事と入浴、髪を乾かして寝仕度を済ませたあと、ほたるは夏樹に頭を深々と下げた。
「すみません……タオルとか、パジャマとか……新しい歯ブラシまで出していただいて……」
「気にすんなって。アタシとほたるの仲だろ?」
今日会ったばかりなのに、夏樹はそう言って笑った。
「じゃあ、おやすみ」
「あっ……おやすみなさい……」
夏樹が扉を閉めると、ほたるはひとりになった。壁が防音なのか、立ち去る足音もうまく聞こえない。先ほどまでが賑やかだっただけに、静けさがかえって耳に響く。
それでも、あの痛みを思い出すことはなかった。
今日の私は、幸せ。
ほたるは、やわらかなベッドの上でまどろんだ。まどろむ、ということがとても久しぶりのことだった。
もう5月が近づいているのに、風は肌を刺すように冷たい。外は白々しいほどの快晴だが、そんな風のせいで人通りは少ない。
プロデューサーはほたるを自分のデスクに呼び、A4用紙3枚ほどの資料を渡した。
「新しいライブ会場が決まったんだ」
都内の百貨店の一角。前の会場が野外に特設されたステージであったので、それに比べれと規模は劣る。
プロデューサーがほたるに見合うと考えていた場所は、既に他のアイドルのイベントでおさえられており、規模の小さいライブハウスも予約で埋まっていた。
時間をいくらでもかけてよいのなら、プロデューサーはよりほたるに相応しい会場を用意するつもりではいた。だが、このライブが発売予定のCDのプロモーションのを兼ねているという関係上、本来の予定日からあまり間を空けることができなかった。
中小の芸能事務所ならともかく、346プロダクションほどの規模になるとすべてのスケジュールが___ほたるに一見関係がないものでさえ___厳密に調整されている。遅れは評価に直結し、処分は容赦がない。
とはいえ今回の会場は、流されるプロデューサーが掴んだ藁という訳でもなかった。
まず本来の予定日が潰れる原因となった天候の心配がない。よほどのことが起こらない限りは、ライブを決行することができる。
また、百貨店の一角を利用しているので、ライブを見に来た訳ではない一般客に対してもPRを行うことができる。
不特定多数の視線が集まる分プレッシャーがかかるが、その点をプロデューサーは許容した。
ほたるは資料に目を通した後、「ありがとうございます……」とぽつりとこぼした。
その言葉の響きが、あまりにも“ごめんなさい”と似ていたので、プロデューサーはいたたまれない気持ちになった。
どうしてほたるは、自分の責任だと思ってしまうんだ?
プロデューサーはそう思った。
責任をとるのは怖い。消極的、積極的どちらにせよ誰もが避ける。
知らない。自分には関係ない。悪いのは自分じゃない……大人でも、逃げる方に進みがちになる。
だがほたるは、彼女の世界で起こることすべての責任を受けとめようとして、折れそうになっている。
プロデューサーは言った。
「俺は、ほたるさんの味方だから」
言葉で癒せる傷などないと知っているけれども、そう言った。
ほたるは、すこし驚いた顔で、何度かまばたきをした。まるで、知らない言葉で話しかけられたようだった。
どうしてそんな表情をするのか、プロデューサーは考えないようにした。
「あっ……ありがとうございます」
その声音が、さきほどよりやわらかかったことに、プロデューサーは少し救われた。
俺が救われてどうする。プロデューサーは自身を一喝した。
「不安なことですか……」
不安なことなど山ほどあるに決まっている、という風に、ほたるは表情を曇らせた。
墓穴を掘ってしまったと気づいたプロデューサーは慌てて言葉をつづけた。
「心配なことがあれば経験者に聞いてみるのが一番だ。
このプロダクションなら、木村夏樹あたりが相談に乗ってくれるんじゃないか」
「夏樹さん……」
ほたるの顔がまた少しゆるんだ。
「もう会ったのか?」
「えっと……実は、以前お部屋にお邪魔して」
ほたるは、プロデューサーが見たこともないような安心した表情で笑い、彼が聞いたことのない声で話した。
大先輩に声をかけられて、とても緊張したこと。
ギターだらけの家。
人生ゲームで何度もゴール不可能になってしまったこと。
食事のこと。ベッドがふかふかだったこと。
連絡先を交換したこと。
ほたるはほんとうに、楽しそうに話した。
そのことにプロデューサーは安心する一方で、やはり自分では立ち入れない場所があることに落胆した。
自分は大人で、そうである以上、大人にしかできないことをやるしかない。プロデューサーはそう考えるようにした。
ほたるの話が途切れかけたころ、デスクをノックする音がした。
「プロデューサーさーん、いるかぁ~?」
それは、木村夏樹の声だった。プロデューサーはほたると顔を見合わせた後、ドアの向こうに声をかけた。
「入れ」
「ほたる、か……」
ひどく都合の悪い事態に出くわしたかのような、苦い顔だった。
「取り込み中だったかな。後でまた出直すから……じゃあ」
夏樹はきびすを返して、ドアの向こうに消えた。
プロデューサーはほたると顔を見合わせた。夏樹が、普段の彼女ではありえないような素振りで部屋を出て行った。
プロデューサーには、思い当たる節はない。
ほたるは、得体の知れない罪悪感を抱えたらしく、おどおどとしはじめた。
「ほたる、か……」
ひどく都合の悪い事態に出くわしたかのような、苦い顔だった。
「取り込み中だったかな。後でまた出直すから……じゃあ」
夏樹はもごもごときびすを返して、ドアの向こうに消えた。
プロデューサーはほたると顔を見合わせた。
夏樹が、普段の彼女ではありえないような素振りで部屋を出て行った。
プロデューサーには、思い当たる節はない。
ほたるは、得体の知れない罪悪感を抱えたらしく、おどおどとしはじめた。
なにやってんだか。
廊下を行くあてもなく足早に歩きながら、夏樹は苛立った。
自分がなぜあそこから離れたのか、自身で見当がついている。
“頼りになる先輩”の情けないところを見せたくなかった。プロデューサーに対して、唯々諾々としているところを見られたくなかった。
自分でも情けないと思っている姿を、ほたるに知ってほしくなかった。
夏樹は自分が、ほたるとそこまで親密であるとは考えていない。
だからこそ、これから自分が見せたい自分だけを見せられると、心のどこかで期待していた。それをはっきり自覚してしまって、夏樹は苛立った。
デスクから十分に遠ざかったことがわかると、今度は途端にみじめな気持ちになった。アイドルになる前、デモテープを作っては捨てていた時よりも、はるかにみじめな気持ちだった。
全部プロデューサーやプロダクションにまかせていればいい。黙って言うことを聞いて、“キャラクター”をやってれば安泰だ。
仕事は苦しいが、ちょっと辛抱すればいくらでも好きなものが買える……。
そんなふうに考えられたら、もっと楽に生きられるだろう。だが、夏樹はできない。
そんなふうに考えるような小賢しさ、怠慢な計算高さを持っていたなら、そもそもこの場にいない。
夏樹は中庭をぐるぐる歩き回り、それに疲れると、芝生に設置されたベンチに腰掛けた。ぼうっと空を見上げると、陽の光がキリキリと瞳に落ちてきて、夏樹はまぶたを閉じた。
アタシは何がしたいんだ?
学校にいた頃、周囲が当然に悩んでいたことを悩まなかった分が回ってきている。まぶたでもさえぎれない熱が目の奥を焦がして、身体は冷たいまま頭を煮詰めていく。
“それをやらない”人生は死んだようなものだと、子どもながらに感じていた。どんなに辛くてもやり遂げてみせるつもりだった。
けれども実際は、上京して数ヶ月で心が折れかけた。積もっていくデモテープの山、破り捨てた作詞用のノート。家族からの電話、昔のバンド仲間が送ってくる充実したキャンパス生活の写真が、神経を毒して思考を撹拌した。
居場所をくれ。お前が必要だと言ってくれ。
いなかったことになんて、しないでくれ……。
そして夏樹は、進む道を少しずらした。ギターだけが大きく横たわっていた人生に、ダンスと演技と、煌びやかな衣装が陣取るようになった。
夏樹は過去の自分を憎んだことはない。変えられないもの、なくならないものを憎んでもしょうがない。
ただ、今の自分がままならないのが悔しい。
プロダクションの方針やプロデューサーの顔色に怯え、自分を殺している。死人にされるのが嫌だったのに。
いっそアイドルをやめちまおうか。
そんな考えがよぎった。“そうすれば”、ギターを好きなだけ弾くこともできるし、自分で作った曲をやるのは自由だ。
だが結局のところ、346プロダクションと夏樹が共同で作り上げた“木村夏樹”のまま生きることになるだろう。それが成功の、なによりの近道だと夏樹はもう知ってしまった。
考えるのも、ぼうっとするのにも飽きた後、夏樹はまだデスクに赴いた。プロデューサーは、変わらずそこにいた。ほたるはもういなかった。
「さっきはどうしたんだよ」
プロデューサーは心配したように言った。
「どうもしてねーよ。ただ、邪魔するもの悪いなって思っただけさ」
「いや、ちょうど夏樹の話をしてたんだ」
「超クールで頼りになる先輩の話か?」
「パッションがあって金持ちの先輩の家の話だよ」
嫌味な物言いだったが、自分がほたるに見せたものがプロデューサーの言う通りであったので、夏樹は苦笑した。
「じゃあ次は常務をアゴで使えるようにしてやるよ」
プロデューサーは分厚い企画書を夏樹に手渡した。それは、次のCDの販売戦略に関するものだった。
「全部頭に叩き込めとは言わんが、ざっと目を通してくれ」
夏樹はページを開くと、顔をしかめた。そこには以前の会議で決まった写真集についてのことが書かれていた。
水着。プール貸し切って撮影。ハリボテでいいのでギターを持つこと。挑発的な表情をすること。初週で一万部以上を売り上げること。
夏樹にとっては、ざっと目を通すだけで頭痛を覚えるような内容だった。
「今回のCDと水着って関係なくないかぁ?」
夏樹はやんわりと指摘した。
曲の発売は夏だが、別に季節感のある内容ではない。“今はつらいけど、将来のために頑張ろう”で済むものを、たっぷり3分ほどに希釈した、無害で、いつどこで歌おうが構わないような曲。勿論夏樹の嗜好ではない。曲に関して、現状夏樹はなんら発言権を持っていない。
「関係ないけど、男は水着が好きだからな」
「好きなのかい?」
「塩を振って軽く炙るだけでご馳走になるくらい好きだぞ。学会でもそういう発表が出ている。
撮影日は2週間後の土曜日、10時からのスタート。
終了時間はカメラマンが満足したら、だ」
プロデューサーは冗談と業務方向を切れ目なくつなぐ。
夏樹は黙ってうなずいた。仕事のことになると、夏樹はいつも言葉少なになる。
プロデューサーは夏樹の内心のことなど知らないような顔をして言った。
「この日は、実はほたるさんのデビューライブの日でもあるんだ」
「へぇ……、それで?」
「ライブは午後なんだけな。
撮影が早く切りあがったら、応援にきてほしいんだが」
「できることなんか何もないぜ」
突き放すように夏樹は苦笑いを浮かべた。
一度舞台に上がったら誰も助けてはくれない。それが、夏樹の認識だった。
仮にユニットであればメンバーからのサポートを受けられるだろうが、ほたるはソロでデビューする。見守ることはできるが守ることはできない。
「あれか。舞台に上がってトークでもしろってのか」
「そういうわけじゃないが……どうしたんだよ」
いつになく刺々しい夏樹の物言いに、プロデューサーは困惑しているようだった。
「反抗期だよ」
夏樹はそう吐き捨てた。
プロデューサーが夏樹の苛立ちを理解できないように、夏樹はプロデューサーのことが理解できなかった。
まだ13歳で、右も左もわからずに、ステージにたったひとりで上がってパフォーマンスをするのだから。
そして自罰的な傾向が強い。失敗やひとからの悪意であっけなく折れてしまいそうな、そんな儚さを感じさせる。
しかしそれゆえ夏樹は、“そんなに失敗をさせるのが嫌なら、アイドルなんかやらせるな”、という馬鹿馬鹿しい、白けた感情をプロデューサーに対して持ってしまう。
「ほたるさんは夏樹に懐いてるみたいだから、ライブに来てくれたら心強いと思うんだけどな」
「へぇ、そうなんだ」
一度家に泊めて食事をして、あとはスマートフォンで何分か話しただけだ。夏樹はプロデューサーが言うほど、ほたるとうまく関係が構築できている気はしなかった。むしろ、あの緊張した様子を鑑みると、自分がライブ会場に出向くことが逆効果であるようにさえ思われた。
「じゃあ撮影が早めに切り上がって、覚えてたら行くよ」
プロデューサーと揉めるのも煩わしく、夏樹は投げやりに言った。
デビューライブは明日。
青木麗はほたると、最後のリハーサルを行っていた。専用のライブ会場であれば、そこで今日から調整を行うことができたが、それは無いものねだりだった。
歌。ステップ、歌詞の合間にある仕草。それから表情……。麗はほたるをつぶさに観察した。
「歌に力が入りすぎている。もっとリラックスだ」
「はい」
「表情がやや固い。歌詞に合わせて変化をつけるんだ」
「……はい!」
いくつか注意が飛んだが、ライブ前日ともなれば、少しパフォーマンスがくずれるのは自然なことだった。それを踏まえると、麗から見たほたるは及第点をしっかりと通過していた。
“よほどのことがない限りは”、明日のライブは成功するだろう。だが、ステージの上に絶対はない。麗はそれでも確率を上げるために、細やかな調整を欠かさない。
「疲れてきたか? ドリンクを用意してあるぞ」
「……! いえ、まだ大丈夫です」
この子は、まだまだ伸びるな。
マスタートレーナーは、346プロダクションに所属する様々なアイドルにレッスンを施してきた。数多の才能のきらめきを直接目の当たりにしてきた。
だが、それらが全て結実したわけではない。アイドルは歌手であり、ダンサーであり、役者であり、時にはコメディアンにもなる。どこかで、確実に壁にぶつかる。
常人離れした忍耐強さが要求される存在だ。自分の身体から外に出ていくものすべて表情、感情、言葉、仕草を意志の力で時には抑え、時には過剰に表現しなくてはならない。
ほたるになら、できる。
麗は神を信じない。だから祈らない。だから、目の前にいる少女をただ信じる。それ以外にできることがない。
「今日はこれで終わりだ」
麗は手を2度叩いて告げた。ほたるは、ほっ、と息をはいて座りこんだ。パフォーマンスはさほど激しいものではないが、汗が額をつたって、床にこぼれた。
「はい……」
ほたるは麗を見上げた。表情は不安げで、弱々しかった。
麗は30秒ほど沈黙し、考えてから、口を開いた。
「明日、“何があっても”自分からライブを投げるな」
麗は、ほたるの緊張や不安が、彼女自身のパフォーマンスだけではどうしようもない場所からやってきているのを察していた。
ほたるが346プロダクションに所属するまでに起こったことは、大まかにではあるが、プロデューサーから聞いている。
家族を除けば、ほたるの周囲にいた大人は彼女を守らなかった。むしろ疎外し、責任をなすりつけ、本当に折れる寸前まで追い詰めた。
だから、麗は言った。
「白菊がやろうと思えば、続けようと思えばステージの幕は上がる。
誰にも、どんなものにも負けてはいけない。邪魔されてはならない……自分自身でさえも、だ」
自分が残酷なことを告げているのは、麗にも分かっている。
ほたるが誰かに頼りたがっていることも、救われたいと願っていることも分かっている。
できもしないこと、自分の手に余ることを口にして、後から言い訳や謝罪を上塗りにするのでは、トレーナーとして、1人の人間として唾棄すべきことだと。
味方になれないなら、戦い方と覚悟を教えるほかない。
「私がやろうと思えば、続けようと思えば……私が……」
ほたるは麗から言われた言葉を反復した。その口調に震えはなかった。それから、床に落ちた汗をトレーニングシャツの袖でぬぐうと、ゆっくり立ち上がった。
少し変わったほたるの表情を見て、麗は微笑んだ。
麗は部屋の隅からクーラーバッグを持ってくると、ほたるに手渡した。
「これは……」
「ドリンクだ」
「…………」
「市販のものですまないが、今晩と明日の朝飲むといい」
「ありがとうございます……!」
ほたるは深々と頭を下げて、それからまた何度もお礼を言った後、レッスンルームから出た。
麗はほたるを見送った後、肩をすくめて、部屋の掃除を始めた。
ほたるは晩御飯とお風呂を済ませた後、ベッドに腰掛けて、髪を梳いていた。
ふわふわする。地に足が、ついていないような感じがする。
ほたるはいつもより、長く湯船につかっていた。なんだか、足がやけに冷たく感じていた。外は五月前とは思えないほどに冷え込んでいた。北海道では雪が降ったらしい。
ほたるは麗から言われたことを、忘れないように、口に出した。
「私がやろうと思えば、続けようと思えば……」
深い暗闇のなかで、ようやく見つけた光をたぐり寄せるように、繰り返した。
明日は、下を向いちゃいけない。
そんな決意を固める一方で、閉じたはずの窓から冷気がさしこんでくる。
明日からは?
明日だけ?
それとも……明日がほんとうに来るのかな。
ほたるはスマートフォンを取り出して、時間を見た。20時を少し過ぎ、眠るにはまだ早い。ほたるはレッスンの前にプロデューサーに言われたことを思い出した。
夏樹にライブに来てほしいなら、連絡してみるといい。
連絡をしてみようか、やめようか、ほたるは迷った。
何か声をかけてもらえるとうれしい。自分を知っているひとが、ひとりでも多くそばにいてくれたら心強い。けれども午前中には撮影があるというから、どうなるかわからない。
通知のあったアプリを起動すると、「ライブにきてほしいか」、と短く書かれていた。
「きてほしいです……」
ほたるは目の前に夏樹がいるように、言った。反射的に口が動いて、ほたるは自分でもびっくりしてしまった。
メッセージにはもう既読がついている。すぐに返事をしなければいけないと思い、ほたるは、はい、とだけ答えた。そのあと慌てて、もしお時間が合えば、と付け足した。
ほたるからのメッセージに既読がついたあと、夏樹のほうからも間を空けずに言葉が飛んできた。
そっか。
じゃあ、おやすみ。
ずいぶんと素っ気ない文字に、ほたるは少し、自分がばからしくなった。おやすみなさい、と返して、ほたるはスマートフォンの電源を落とした。
そしてベッドにしなだれかかるように横になって、そのまま眠ろうとした。けれども、いつもは22時手前ほどにまどろんでくるようになっているから、眠れなかった。
何かよくないことが起こってライブができなくなったらどうしよう。
プロデューサーさんや夏樹さんを巻き込んじゃったらどうしよう。
自分の抱えている不安はおそらく一生消えないだろうと、ほたるは以前から思っていた。
大抵のことは的中し、いろいろなことがひっくり返ってしまった。
ほたるはまた、麗の言葉を繰り返した。
「私がやろうと思えば、続けようと思えば、ステージの幕が上がる……」
口に出した分だけ、強くなれたような気がした。
夏樹がレッスンルームの前で立ち止まったのは、そこから聞こえる歌声に足を縛られたからだった。
白菊ほたるだと、夏樹は気づいた。知らない声だった。
美しい絹糸がつっとほどけて、切れていくような、甘く寂しい音色。儚いようで、防音の壁を貫通し廊下にいる夏樹の胸にまで刺さる。
一聴しただけでは誰もアイドルソングだとは思うまい。だが確かにほたるの歌だった。
あぁ、コイツは。
夏樹は空を仰いだ。空はなかった。
ほたるは、百貨店にある従業員用の更衣室で、衣装に袖を通した。
前もって衣装合わせをしているから、初めて着るわけではない。それでも深い感慨がくつくつと胸の奥からやってきた。
用意された姿見のほうを向くと、そこにはほたるの知らない自分がいた。鈴蘭のように淡い純白のドレス。スカートや襟袖には花模様をあしらったレースが編み込まれている。胸元には深紅のブローチが留められて、きらきらと小さくかがやいていた。
その姿に、ほたるはしばらく見惚れた。思わず?がほころんでしまって、気持ちは落ち着かない。そうしているうちに髪飾りを忘れていたことに気づいて、ほたるは慌ててティアラを身につけた。
つぼみが花開いていく姿を一枚ずつつらねた、ひかえめながらも精緻な装飾が美しい。衣装の邪魔をせず、それでいて見るものを魅了する。
ライブがはじまってもいないのに、ほたるは胸がいっぱいになりそうだった。
外は雲ひとつなく、陽がさんさんと街を照らしている。よい日和だった。
ほたるは一度深呼吸をして、更衣室から出た。衣装に袖を通すまえと世界はかわっていないはずなのに、空気が澄み渡って、いろいろなものが眩しく見えた。
ライブができるって、すごいことなんだ。
自然と足がはずんで、軽くスキップしてしまう。
通路の突き当たりには、従業員向けのさまざまな通知が無造作に貼り付けられた、重い金属製の扉があった。
お世辞にも、見るひとに感動を与えるような意匠ではない。だが、それが自分の初舞台へと続く扉だと思うと、ほたるは胸がきゅっと締めつけられた。
どうか、なにも起こりませんように。
「ほたるさん」
ドアのそばにはプロデューサーが立っていた。彼はほたるをまじまじと眺めて、一回息をふっと出した後、微笑んだ。
「よく似合ってる」
「ありがとうございます……!」
ほたるの気分は高揚した。周囲をながめると、ただのショッピングに来た一般客のほうも、ほたるを見て声を上げていた。
あの子かわいい。
アイドルさん?
私もあんな衣装着てみたいなぁ。
ほたるはくすぐったい思いがした。
中には家族と歩いているちいさな女の子もいて、こちらへ手を振ってきた。ほたるが手を振りかえすと、その子どもが小さな歓声をあげた。
私はアイドル、なんだ……。
その事実に、ほたるは自分でも少しおどろいた。
「今日のライブ、何が起こっても絶対に途中で止めないでください」
それはほたるが、初めてプロデューサーに言ったワガママだった。
プロデューサーは何も言い返さずにうなずいた。
ステージはもう設営が済んでいた。ステージといっても仕切りとマイク、曲を流すためのスピーカーがそのまま置かれているのと、上の階から横断幕が垂れ下がっているだけの簡易なものだった。それでもほたるは、機会と場所が与えられたことを心底から感謝した。
会場の周りには、すでに小さなひとだかりができている。ほたるのファン___未来にはそうなる可能性があったが、今はそうではなかった。
大半は“346プロダクションのアイドル”を取材にきた、メディア関係者。残りは、単に新しいアイドルを物色しに来たか、物珍しさで立ち寄った一般人だった。ほたるはこのライブを行うまで、外部的な露出がほとんどなかったのでこれは無理もないことだった。
スタッフがそのひとだかりをかきわけて道を作った。そこを歩くと無数のシャッター音が鳴り響いて、ほたるの視界を揺らめかせた。足が震える。鼓膜がキリキリする。
まっすぐに、立ち止まらずに進む。自分の鼓動が聞こえる。ほんの数メートルなのに、ステージがやけに長く見えた。だが、進んでいればたどりつけないことはなかった。
マイクスタンドの前に立ち、ほたるは一度空を仰いだ。百貨店はほたるのいる一階から、空まで吹き抜けていた。
空は青々としている。けれども、その中に黒いシミのような雲があった。ほたるはそれを知らなかったことにして、視線をまっすぐに戻した。
夏樹さん、きてくれたんだ……。
ほたるは勇気が湧いてきた。この場所に、自分を知ってるひとがちゃんといる。ふたりも。
ほたるは意を決して口を開いた。
「今日は、私のデビューライブに来てくださって、本当にありがとうございます!
一生懸命歌います! よろしく、お願いします……!」
飾りのない言葉と、最後のほうで少しの臆病。それがかえって初々しい印象を与えたのか、ひとだかりの中から拍手が上がった。
ほたるはぺこりと頭を一階下げて、マイクの前で背筋を伸ばした。
拍手が止む。アンプから、曲の前奏が流れはじめる。
このライブ、絶対に……。
ほたるの思考はそこで切断された。
撮影会は拍子抜けするほど早く終わった。1時間もかからなかった。カメラマンの腕がいいのか、自分が慣れているのか。ともかくもあまり愉快でない時間が早く過ぎたことを、夏樹はよろこんだ。
白い旧型のスクール水着の肩ひもを伸ばしながら、夏樹は撮影器具を片付けているカメラマンに言った。
「このギター、アタシが持って行っていいかな」
撮影用に用意された、木目のプラスチック板で出来たアコースティックギター。一応ナイロンの弦が張ってあるが、ペグが回らないのでチューニングはできず、ブリッジが大雑把にできているのでオクターブもうまく噛み合わない。音は出るが、音が出るだけだった。
そんな代物をカメラマンが欲しがるわけもなく、そもそも彼以外の人間も必要にすることはなく、夏樹はそのギターを手に入れた。
夏樹も弾くつもりで欲しがったわけではない。ステージで壊すつもりだった。プロダクションに提案すれば、それくらいはやらせてもらえると思った。
更衣室で着替えて、ギターについた水滴をタオルで拭き取った。ついでに弦を軽くつま弾いてみると期待を裏切らない、ひどい声を出した。大きさ自体はドレッドノートサイズであるので、音量はやけに大きい。
見てくれは立派。でも不器用で、うまく表現ができない。そう思うと、妙な愛おしさが湧いた。
「お疲れ様です」
自分も随分偉くなったもんだと思いながら、おうともうんともつかない返事をする。そして運転手に荷物を渡して車の後部座席に乗り込んだ。
「このまま自宅に向かいますか?」
「そうだね」
夏樹は軽く伸びをした。車が動き出す。
運転手と談笑するほどの間柄でもなく、夏樹はポケットからスマートフォンを取り出した。メッセージを確認して、今日ほたるのデビューライブを行われることを思い出した。
はい
お時間が合えば
昨日の夜、ほたるから返ってきた言葉をながめながら夏樹は苦笑いした。
「運転手サン、行き先変更だ」
アタシの時はライブハウスだったけな。夏樹は自分の初ライブの時のことを思い出した。観客の中に、自分がバンドをやっていた時代のファンがいて、随分気まずい思いをした。
まだほんのり湿っているギターを抱えながら会場に向かう。イベントの告知があちこちで出ていたので、迷うことはなかった。
会場にはすでにひとだかりがあって、その中心にほたるがいた。淡い白色のドレスと、花飾りのようなティアラがよく似合っている。
アタシに気づくかな。気づくだろうな。夏樹はギターを床に転がして、自分の髪をしゃっきりと立て直した。
ほたるがゆっくりと口を開いた。
「今日は、私のデビューライブに来てくださって、本当にありがとうございます!
一生懸命歌います! よろしく、お願いします……!」
デビューライブにふさわしい、初々しさを感じさせる挨拶。周囲に合わせて、夏樹も拍手をした。
その拍手がしずまると、ほたるの背後にあるアンプから物悲しいメロディが流れはじめた。
もうすぐ歌い出しか。
すげえ演出だ!
夏樹はとっさに耳を塞ぎながらそう思った。だが、そうではなかった。
ほたるがステージの真ん中で倒れていて、背後のスピーカーは破裂していた。
周囲がざわざわと騒ぎはじめた。そのなかにひとりが、雷?、と言った。演出だろ、と言った者もいた。
夏樹はひとだかりを乱暴にかき分けて、ほたるに近づいた。途中で、ある男にぶつかった。
「どいてくれ。アタシは関係者だ」
誰かはわからずに夏樹は言った。その男はよろよろと後ずさるように道を譲った。
ほたるは起き上がっていたが、うまく立ち上がれずに、マイクスタンドにすがりついていた。夏樹は仕切りを飛び越えて、ほたるに駆け寄った。
「おい、大丈夫かよ」
大丈夫なわけねぇだろうが、と思いつつも夏樹はかがんで、ほたるに声をかけた。
「大丈夫、です……」
髪を汗でぬらして、幼い顔をゆがめながらほたるは言った。
「嘘つけ」
夏樹はほたるをそのままステージから連れ出そうとした。だが、ほたるはマイクスタンドから離れようとしない。
「……私が、やろうと思えば……続けようと思えば、ステージの幕が上がる……」
ほとんどうわごとのように、ほたるは呟いた。
夏樹は肩が震えた。どういう生き方をしてきたら、こんな言葉が口から出てくるようになるのか。こんな勇気が、この小さな身体のどこから湧いてくるのか。
夏樹はほたるをステージから引き剥がすのを諦めて、肩を貸して立ち上がらせた。
「プロデューサーがライブを止めると思う。それでもやりたいのか?」
「やります……。許してもらえなくても……私が決めたから……!」
ほたるはマイクを握りしめた。だが曲は止まったままで、周囲はまだざわついている。
夏樹はアンプのほうを見た。どう見ても曲を流せるような状態ではない。マイクの電源も落ちてしまっている。すぐに再開できるとは……そもそもライブが行えるとは到底思えない。
「ちょっと待っててくれ」
夏樹は、一度ステージから降りた。
落雷はほたるを直撃したわけではなかった。また、感電もしていない。だが驚いて倒れたはずみに、右の足首をひどく痛めてしまった。
もうステップを踏めない。あんなに練習したのに。
ほたるは泣きそうになった。だが、ステージからは離れない。たとえ四肢を?がれたとしても、このライブが命を引き換えだとしても、離れるつもりはなかった。
歌を……。
ほたるはまだ少し朦朧とする頭で歌詞を必死に思い起こして、歌いだそうとした。けれども、唇がうまく動かない。
曲に合わせて歌う、ということが身体にしみついてしまっている。だが、曲を流すスピーカーはもう動かない。そして、マイクの電源は切れてしまっている。
できない……また、何も……。ほたるの身体にざぁっと悪寒が走った。
あんなに頑張ったのに。こんなに我慢しているのに。悲しみと怒りで、顔がどんどん熱くなっていく。
ひとりでは、折れてしまいそうだった。
「みんな待たせちまったな!」
夏樹がギターを抱えながら、ステージに上がってきた。
「仕込んだ火薬の量がちょっと多すぎてさ!」
夏樹の声は、マイクがなくてもよく響いた。視線が集まる。ほたるも夏樹のほうを見つめる。
悪戯が失敗した子どものように笑っていた。
悲しいことなんて、まるでこの世界に存在しないかのように。
「一回仕切り直させてもらうぜ」
そのまま前奏が始まる。本来の曲は静かなピアノが主体の、穏やかなバラード。夏樹の演奏では鳴りの悪いギターとあいまって、刺々しい音になっている。
だが、それは確かにほたるの曲だった。
どうして夏樹さんが。それを深く探り当てる余裕はなく、歌のパートが近づいてくる。
マイクがなくても、声は出せる。ほたるは深く息を吸ったあと、唇を開いた。
数十秒前のプロデューサーは、無力感に打ちひしがれていた。
ほたるが倒れていたのに、なにもできなかった。曲が止まってしまったのに、何の対処もすることができなかった。
だが、今のプロデューサーはただ自失してほたるの歌を聴いていた。
レッスンに立ち会って曲は何度も耳にしたことがある。その時も、プロデューサーは冷たく胸を打たれた。だが自分を見失うことはなかった。
今のほたるの歌は心を融かす温度がある。ささくれ立った、前のめりな演奏に合わせて言葉が胸の奥深くにしみ込んで、聴く者の一部になる。
曲調はあくまで静かなバラードであるのに、プロデューサーは高揚した。そしてそれはプロデューサーだけではなかった。
この場にいる全ての人間が___ステージの周りだけでなく、歌声が届く限りの全ての人間が、ほたるの歌声に高揚していた。
悲しいけど、悲しいだけじゃない。
もっと近くで聴きたい……!
ほたるの周りに観客が集まってくる。足音が窓をたたく雨粒のように聞こえて、それすらも、歌の一部になる。
ほたるは、悲しいことも、苦しいことも隠さずに言葉を紡いでいた。その表情が、見ている者の心をさらに深くつなぎとめる。
がんばれ、とは簡単に言えない。けれども、ここにいる誰もがほたるを応援していた。
夏樹は、ずいぶん錆びついてしまった自分の腕を苦々しく思いながらも、演奏を楽しんでいた。
音を出すだけでも精一杯だったが、ほたるの歌をすぐそばで浴びると勇気が湧いてくる。
このライブが終わったらアタシ、プロデューサーとちゃんと話さなくちゃいけないな。
夏樹は、びしびしと痛む指を動かして、世界に挑みかかるように笑った。
足首はひどく痛んで声をわずかにうわずらせる。視界はゆらゆらとして、立っているだけでも苦しい。
でも、最高に気分がよかった。自分と会場が、この場所でほたるの歌を聴いている全ての人間とつながれた気がした。
あぁ私って……やっぱりアイドルなんだ。
ほたるは分かった。自分はどうしようもなくアイドルなんだ、と。
音の出ないマイクスタンドを支えにして、ほたるは最後のサビを歌い切った。
そして、ギターの音がゆっくりフェードアウトしていく。
「あっ……」
白菊ほたるは、悲鳴をあげた。
ちっとも悲しくない、悲鳴をあげた。
おしまい
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コメント一覧 (8)
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- 2019年05月08日 02:56
- なんでぇトロル基地攻略すんじゃねえのかよ
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- 2019年05月08日 06:07
- 核兵器紛失とは特に関わりはない
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- 2019年05月08日 07:35
- アイドルを持ち上げるためにいろんな業界をこき下ろすのがなんか嫌
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- 2019年05月08日 10:47
- まあ現実のアイドル業界はもっと地獄だから多少はね?
冒頭の悲鳴が嬉しい悲鳴オチで良かった。
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- 2019年05月08日 11:01
- >>4
現実がつらいから創作くらい楽しいほうがええやん
つらいのは現実だけで十分や
十分なんや
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- 2019年05月09日 11:01
- 続き読みたい。こういうSSがあってもいいじゃん。面白かったよ。
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- 2019年05月10日 09:33
- 何だ、ほたるが戦闘妖精雪風に乗るSSじゃないのか。
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- 2019年05月12日 17:36
- 良かった