傘を忘れた金曜日には【その4】

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傘を忘れた金曜日には【その4】






392:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 01:11:30.22 ID:nK2TqkE+o




 バイトに出るのはなんだか久しぶりだという気がしたが、実際にはそれほどでもないはずだ。

 土日は基本的に暇だから、何事もなく仕事は終わる。

 不意に先輩から、

「なんだか目つきが変わったね」
 
 と、知ったようなことをいわれたけれど、それがどんな意味なのかは分からない。

 バイトを終えた俺は、どうしようかと悩んだ挙げ句に『トレーン』へと向かった。
 何か落ち着いていられない気分だったのだ。

 向かう途中でそういえばと思い、携帯を取り出す。
 どうしたものかな、と悩んだあげくに、大野、瀬尾、真中、ちせの連絡先を呼び出して、グループトークのルームを作る。

「瀬尾さん、挨拶なさい」と俺が送る。

「ただいまです!」と瀬尾からすぐに返事が来た。携帯をいじっていたんだろうか。

 少しして、真中から、

「青葉先輩?」

 と疑問符付きのメッセージ。

「青葉先輩です」と瀬尾は返信した。

「ごしんぱいおかけしましたが、いま、家におります」と追撃。




393:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 01:12:16.64 ID:nK2TqkE+o


 黙っているかと思っていた大野が市川をルームに追加し、

「いつ帰ってきたんだ?」と送る。

「今朝です」と瀬尾は言った。

「連絡が遅い」

「たいへんなごめいわくをばおかけしました」

 と、今度はちせがましろ先輩をルームに追加した。

「ぶじでよかったです。おかえりなさい」

 ちせの文章は思ったよりなんだかそっけなかった。

 とりあえずこれで全員に連絡の義理は果たしただろう。
 あとでとやかく言われる心配もあるまい。

 まあ、もっとも、みんなそんなことまで気にしないとは思うのだが。

 と、真中から、

「せんぱいはなんで知ってるの」とメッセージが飛んでくる。
 今気にするのがそこなのか、と思いつつ画面を開くと、どうやらグループルームではなく個人メッセージらしい。

「諸般の事情」とだけ答えてから、俺は歩くのを再開した。

「そうですか」と真中の返事はちょっと怖かった。




394:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 01:12:43.96 ID:nK2TqkE+o



『トレーン』についた俺を迎えたのは、当然といえば当然だが、ちどりだった。

 彼女は俺を見た瞬間、「うっ」という顔をした。

「……どうした?」

「あ、いえ。いらっしゃい、隼ちゃん」

 ごまかすみたいに、ちどりは笑う。その表情が何かを隠しているんだと流石に気付く。
 不自然に思ったけれど、ちどりは何気なく言葉を続けた。

「ちょうどよかったです。奥にいますよ」

「……誰が?」

「怜ちゃんです」

 案内されて奥のテーブル席に近づくと、たしかにそこに怜がいた。

「やあ」

「やあ。……来てたのか」

「会っただろう、昨日」

「……そうだったか?」

「……ん。まあ、それについても話そうか」

 そう言って、怜は向かいの席を示した。俺は頷いて椅子に座る。

 ちどりは俺が何かを言う前に、奥にいるマスターに注文を伝えた。ブレンド、と。




395:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 01:13:29.77 ID:nK2TqkE+o


 ちどりは何かを言いたげに俺を見たあと、そそくさと厨房の方へと向かっていった。

「……ちどりになにかしたの?」

 怜はそう訊ねてきたけれど、俺は首をかしげるしかない。
 隠しても仕方ない。

「ちょっと記憶があやふやになってる」

「ふうん。なにかあった?」

「……それをおまえにも確認したいんだ。昨日、会ったっていったな」

「ん。……覚えてない?」

「わからない。そんな気もする」

「そっか。会ったよ、昨日。でも、そのまえにひとついいかな」

「……ん」

「きみは、三枝隼だよね?」

「……」

「きみは、ぼくが知っている三枝隼だよね?」

 どうだろうな、と俺は思う。けれど、

「たぶんな」と、そう返事をした。

「そっか。ならいい」

 怜は本当に、それならいい、という顔だった。




396:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 01:14:09.24 ID:nK2TqkE+o


「……いいのか?」

「よくないほうがいい?」

「どうだろうな。ちょっとくらい、検討してほしくはある」

「ふうん……。でも、確かめようがないしね」

 怜はそう言って、コーヒーに口をつけた。

「怜、なにしにこっちにまた来たんだ?」

「……おとといの夜、ちどりから連絡があったんだよ」

「なんて」

「説明が面倒だな」と怜は少し眉を寄せた。

「ええとね、おとといの夜、この店に、隼の学校の人たちがきたんだって」

「……学校の人たち?」

「そう。……ま、そこでいろいろ話したんだ。それでちょっと気になって、噴水に行った。
 そうしたら隼がいて、ぼくは話しかけた。すると……ちょっと様子が変だった、気がするね」

「……俺の様子が?」

「覚えてない?」

「……ああ」

「……そっか。まあ、いいや」

 ふむ、と怜は頬杖をついた。




397:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 01:15:23.31 ID:nK2TqkE+o


「……珍しいな」と、俺は思わず言っていた。

「なにが?」

「怜がそんなふうに、受け流すなんて」

 彼女は少しだけ目を丸くした。

「そう?」

「なんでもかんでも、理由を突き詰めないと我慢ならないやつだってイメージだった」

「ぼくだって、少しくらいは大人になったよ」と怜は言う。

「割り切れることばかりじゃない」

「……怜、実はさ」

「ん」

「瀬尾、見つかった」

「……見つかった?」

「ああ。今日、帰ってきた、らしい」

「らしいっていうのは?」

「まだこの目で見たわけじゃない。でも、たぶん、電話をかければ出ると思う」

「……ふむ」

 しばらく黙り込んだあと、怜は困ったみたいに溜め息をつき、

「結局取り越し苦労だったかな」

 と笑った。そうなのかもしれない。




398:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 01:15:57.37 ID:nK2TqkE+o


「……まだ、心配事がありそうな顔だね」

 怜は俺の方を見る。
 本当にこいつにはなんでも分かってしまうのか。
 それとも、俺がわかりやすいだけなのか。

「そのうち話すよ」と俺は言った。

「そのうち、話せるようになったら」

 でも、そうだな。

「……でも、少し前までと比べたら、いくらかすっきりしてる」

「……ふうん?」

 音が、景色が、消えたからだろうか。

 それを寂しいと思うのは、どうしてなんだろう。




399:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 01:16:34.72 ID:nK2TqkE+o


「まあ、それはいいや。それとはべつに、やっぱり気になるんだけど」

「なにが」

 怜は、厨房の方をちらりと見てから、俺の方へと顔を近付けた。

「ちどり。……おとといから、絶対様子が変だと思うんだけど」

「……ふむ。というと?」

「気付かない?」

「いや、なんだかおかしいとは思ったけど……何かあったのか?」

「それがね」

 と怜が小声になったので、俺は彼女のほうへ耳をよせた。
 怜はささやき声で話を続ける。

「隼の名前を出すたんびに動揺してる気がするんだ。なにかしたんじゃないのか?」

「……んん」

 なにか、と言われても。

「やっぱり思い出せないな」

「でも、絶対、隼の名前だけなんだ。それ以外は普段どおり。
 もともとちどりは、感情を隠すのがうまいけど」

「……そうか?」

「隼は鈍いな。そこがいいとこだけど」




400:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 01:17:02.40 ID:nK2TqkE+o


 と、そんなことを言われると同時に、ちどりが厨房のむこうから顔を出した。
 そして、あからさまにむっとした顔になる。

 そんな顔は珍しいと思った。

 とたとたと歩いてくると、テーブルの上にコーヒーのカップを置いた。

「隼ちゃん、ブレンドです」

「ん」

 椅子に座り直し、コーヒーに口をつける前に、ちどりの顔をじっと見る。
 彼女は俺の方を見ようとしない。

「……」

「……な、なんですか?」

「……あ、いや」

 普段のちどりなら、ここまで視線を合わせないということも、ないような気がする。
 なんとなくその表情が物珍しくて、視線が外せない。

 と、ちどりは落ち着かなさそうにもぞもぞと体を揺らした。
 それからぐっと、決意を固めたように、彼女は俺の目をじっと見返してきた。




401:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 01:17:42.87 ID:nK2TqkE+o


「……あの、隼ちゃん」

「……なに」

「ちょっとお聞きしたいことがあります」

「……え、なに」

「ちょっとこちらへ」

 と言って、ちどりは俺の服の袖を掴んだ。
 怜を見ると、「いってらっしゃい」と彼女は動じていない。

 何事かと思いつつ引っ張られるままついていくと、ちどりは店の裏の路地に俺を連れて行った。

「……あの。こないだのことなんですけど」

「……こないだって?」

「こないだ! ここで……したこと、なんですけど」

「……え?」

 した?
 何を?

 ちどりは俺と視線を合わせようとしない。
 まったく記憶にはないが、ただごとではないような態度だ。




402:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 01:18:19.50 ID:nK2TqkE+o


「わたしもあのときは、頭に血が昇ってたというか、そういう状態でしたけど……あの。気になることがあって」

「……は、はい」

「隼ちゃん、まさか、あの……ああいうこと、他の子とも……」

「……ああいうこと、って」

「だから、その……」

「……」

「な……舐めたりとか……」

「な……?」

 舐めたり。

「や、なんだそれ」

「だから! 具体的内容はともかく! ……ああいうの、よくないと思います」

「いや、全然、全然! 心当たりがないんだけど!」

「……」

 じとっとした視線を向けられて、おもわずうろたえる。
 なんだか不確かな記憶を忘れたままでいたい気持ちになってきた。

 ふう、とちどりは溜め息をついた。




403:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 01:19:14.28 ID:nK2TqkE+o


「隼ちゃん、このあいだは様子が変だったから。だから、仕方ないのかなって」

「……」

 本格的に不安になってきた。

「でも、こないだみたいなこと、他の子にしちゃだめなんですからね」

「いや……あの……」

 何をしたんだ、俺は。

「わたしだったからよかったものの、他の子に同じようなことしたら、大変ですよ」

 いたずらをした子供を叱るような口調だった。

「……ただ、ちょっと、気分がおかしかっただけですよね?」

 すがるみたいな声で、心配そうに、ちどりはそう訊ねてくる。
 俺は、どう答えればいいかわからなくて、

「……うん、たぶん」

 と、そうやり過ごすことにした。

 ちどりはそのとき、ほっとしたような、どこかがっかりしたような溜め息をついて、

「それならいいんです」と言う。

「……わたしも、忘れることにします。隼ちゃんも、忘れてください」

「あ、ああ……」

 ……俺は何をしたんですか。
 と、まさか訊ねるわけにもいかなかった。




409:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 23:32:57.12 ID:nK2TqkE+o


 店内に戻ってテーブルにつき、ブレンドを口に含む。
 
 怜はなんだかけだるげな様子で俺のことを見た。

「どうした?」

「いや、なんだか不思議な感じがしてね」

「不思議?」

「ん。そういえば、隼、ぼくに隠していたことがあるだろう」

「何の話?」

「瀬尾さんのこと。ほら、ちどりにそっくりだって」

「ああ……」

 俺は少しだけ考えて、頷いた。

「詳しい話を聞いてなかった。おととい、ここに誰が来たって?」

「大野くんと、市川さん。それから、ましろ先輩って人」

「……不思議な並びだな」

 真中は来なかったのか、と俺は思った。

「隼の様子が変だっていうのと、瀬尾さんがいなくなったっていうので、話し合いをしてたんだって」

「話し合い」

「それで、スワンプマンの話が出たんだそうだ」

「……それ、ちどりも聞いたのか?」

 怜は首を横に振った。




410:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 23:33:43.49 ID:nK2TqkE+o


「ぼくが聞いた」

「そもそも、怜はなんでこっちに来てた?」

「違うよ。ちどりから連絡があったんだ。隼の様子がおかしいっていうので、何か知ってる人に心当たりはないかって聞かれたらしい。
 それでぼくに連絡が来て、まあ、ぼくの方も暇だったからこっちに来た。そうしたらそういう話になったってわけだ」

「……なるほどな」

 ……スワンプマン。
 たしかに、ましろ先輩に電話でその単語を出した記憶はある。
 それでも、なんというか、不思議な気がする。

 それで、ちどりと瀬尾のことにまで辿り着いたんだろうか? 経過が見えないから魔法みたいな気分にもなる。

「……怜は、どう思う?」

「なにが?」

「スワンプマンのことだよ」

「ぼくは……そうだな」

 彼女はちらりと、カウンターのむこうから疑わしそうな視線をこちらにむけているちどりに視線をやる。

「ぼくにはよくわからない、というのが本音かもしれないね」

「……」

「そういうことがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。本当なのかもしれないし、嘘なのかもしれない。
 でも、ぼくが思うことっていうのはそんなに多くなくて、結局問題なのは……そうだな。
 たとえば、隼やちどりがなにかに悩んでいたとして、ぼくがそれに気付けなかったとしたら、それはぼくにとっては悲しいことだよな、ってことくらい」

「……」

「ぼくはきみたちを友達だと思っているからね」




411:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 23:34:33.15 ID:nK2TqkE+o


「友達、ね」

「不満?」

「いや……」

 どう言ったものかな、と悩む。
 不思議なものだ。

 あんなにもざわついていた葉擦れの音が聞こえないというだけで、気持ちまですっきりしたような気がする。

「なあ怜、俺はおまえに嫉妬してたんだよ」

 怜は、唖然とした顔をする。

「……嫉妬? ぼくに? 隼が?」

 それから笑った。

「なんで隼がぼくに嫉妬なんてするの?」

「なんでもできたから」

「……」

「なんでも俺より上手くできた。それが羨ましかったんだ」

「……そうかな」

 どこか寂しそうに、怜は笑う。俺はそんな彼女の表情を、新鮮な気持ちで眺めている。

「ぼくは隼が羨ましかったよ」

「……俺を?」

「隼の周りにはいつも人がいたから。それに……ちどりだって」

「ちどり?」

「うん。ぼくらは、よく三人で遊んだけど、ちどりと隼の間には、ぼくが立ち入れない壁みたいなものがあった気がするよ」

「……それは逆じゃないか? 俺は、怜とちどりをそんなふうに思ってた」

「……ふむ?」

「ふたりといると、自分が混ぜてもらってるみたいな気分になったよ」




412:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 23:35:09.03 ID:nK2TqkE+o


 怜は何か思いついたような顔をして、ちどりに声をかけた。
 ちどりはとたとたと歩み寄ってきて、「なんですか?」と訊ねてくる。

「ね、ちどり。ぼくと隼とちどりのなかで、いちばん仲の良い二人組って、どの組み合わせだと思う?」

 ちどりは柔らかく首をかしげて、本当に不思議そうな顔をした。

「隼ちゃんと怜ちゃんじゃないんですか?」

「……ふむ」と怜が言う。

「なるほど」と俺も思った。

「違うんですか?」

「逆に、どうしてそう思う?」

「だって、わたしにはわからない難しい話とかしてましたし、ふたりでいろいろ調べ物したりしてましたし。
 こないだだって、コンビニにアイスを買いに行って、しばらく戻ってきませんでしたし」

「……」

「なるほどね」と怜は言う。

 なるほどな、と俺ももう一度思った。

「ええと、それで、この質問には何の意味が?」

「いや」と怜が言った。

「やっぱりぼくらはずいぶんと仲がいいみたいだね」

 そう言って、怜は俺を見て困り顔で笑った。
 俺も思わず笑ってしまった。





413:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 23:35:40.87 ID:nK2TqkE+o





 翌日の午前中、俺はひとり街へと出かけた。

 本屋にむかい、確かめるように適当な本を手にとってみる。そしてページをめくってみる。
 そうしないといけなかった。

 手にとったのは『伝奇集』だった。

『長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。
 よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差しだすことだ。』

『八岐の園』のプロローグに、ボルヘスはそう書いている。

 内容は問題ではない。

“読める”のだ。
 頭に入ってくる。

 これは一時的な状態なのかもしれない。

 けれど今は……読める。

 なるほどな、と俺は思う。






414:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 23:36:09.47 ID:nK2TqkE+o





 本屋で吉野弘の詩集を買い、近くの公園へとわけもなく歩いた。
 それはとてもいい天気だった。もう、梅雨は終わってしまったのだろうか。

 梅雨が終われば夏が来る。

 目が潰れるくらいに眩しい季節が来る。

 公園の入り口の自動販売機でお茶を買って、歩きながら飲んだ。
 それから広場の、木陰のベンチに腰をおろし、そこで本を開く。

 空からは木漏れ日が降ってくる。

 もう悲鳴のようなあのざわめきは聞こえない。

 ここにはもう“ここ”しかない。

 俺はぺらぺらとページをめくる。

 順番にではなく、ひっかかりを求めるみたいに、ぱらぱらと。





415:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 23:36:36.92 ID:nK2TqkE+o






「海は 空に溶け入りたいという望みを
 水平線で かろうじて自制していた。
 神への思慕を打ち切った恥多い人の
 心の水位もこれに似ている。
 なにげなく見れば、
 空と海とは連続した一枚の青い紙で、
 水平線は紙の折り目にすぎないのだが。」




416:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 23:37:09.13 ID:nK2TqkE+o






 詩は、よくわからない。
 正しい読み方がわからない。でも好きだった。

 なんとなく読むのが。
 
 印象派の絵を眺めるような、そんな漠然とした居心地のよさが。

 たとえばモネの描く緑や水面が、
 ピサロの描く雪景色が、
 ルノワールの描く女性が、
 むずかしいことなんてなにひとつわからないのに、そのなかに行ってみたいと思うくらいに。 

 本当に、わからないのに。

 それでいいんだろうか
 それでいいのかもしれない。

 それさえも間違いかもしれないけれど……。




417:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2018/12/19(水) 23:37:35.90 ID:nK2TqkE+o




 ふと読んでいた本に影が落ち、顔をあげるとそこに彼女が立っていた。

「……やあ」と俺は言う。

「うん」と彼女は言う。

「買い物?」と俺は聞く。

「さんぽ」と彼女は答えた。

「となり、いいですか?」

「へんな敬語」

「へんなひとに言われたくない」

 そう言って、彼女はなにかをこらえるみたいな顔をした。

「座れよ」と俺は言った。

「少し話がしたかったところなんだ」

「……」

 真中は、春までのような、感情の読めない起伏の少ない表情のまま頷いた。




423:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/02(水) 01:49:41.77 ID:1oDoDyiEo


「……話したかったの?」と真中は言った。
 
 ベンチに隣り合って座っているのに、これまででいちばん、彼女との間に距離があるように感じる。
 どうしてだろう。それもよくわからない。

「ああ」と俺は頷いた。

「せんぱいがわたしと?」

「そう」

 真中は、自然とこぼれたというような柔らかな笑みを浮かべた。

「そっか」

 俺たちが座っているベンチに木漏れ日がさしている。
 子どものはしゃぐ声が聞こえる。そんな風景の一部に、俺達はなっている。

 木の葉が風にゆすられて、爽やかな葉音を立てた。
 木漏れ日が形を変える。

「……少し、考えてたの」と真中は言った。

「なにを?」

「これまでのこと」




424:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/02(水) 01:50:12.70 ID:1oDoDyiEo


 彼女は視線を上の方へとさまよわせた。何かを見ようとしたというよりは、ただなんとなくそうしてしまったみたいに。
 その姿が不思議と頼りなく、消え入りそうに見える。

「ね、せんぱい」

 と、彼女は不意に、俺の方を向いて、口を開く。

「あのね、ましろ先輩に会ったよ」

「……うん」

「知ってた?」

「いや……」

 どこか不自然なやりとりだと思う。
 どうしてなのかはわからないけれど、自分が真中の前で今までどんなふうに振る舞っていたのか、わからなくなってしまった。

「綺麗な人だった」

「……そうか」

「せんぱいだって、そうわかってるくせに」

「……」

 べつに、そんなこと、あえて考えちゃいない。
 今までずっとそうだった。

「周りに美人が多いから、麻痺しちゃってるの?」

「自分のこと美人とか言うか?」

「……わたしじゃなくて。幼馴染の人とか」

「あ、ああ。そっちか」

「……あの。せんぱい、わたしのこと美人だと思ってるの?」

「……」

 返事はしないでおくことにした。




425:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/02(水) 01:51:11.05 ID:1oDoDyiEo


 毒気を抜かれたみたいな複雑そうな顔で、真中は自分の喉のあたりを指先で撫でた。

「……ま、いいや」

 そう言って、彼女はもう一度俺と目を合わせた。

「それでね、考えてたの」

「……なにを」

 さっきから、表面をなぞるみたいにそう言うけれど、内容についてはいつまでも踏み込もうとしない。
 よほど言いにくいことなのか、それとも自分でもうまく言葉にできないのか。

 やがて、覚悟を決めたみたいに息をすっと吸い込んだ。
 それは本当にさりげなくて、きっと他の人には、そんな変化だってわからないのかもしれない。

 ひょっとしたら、でもそんなふうに見えただけなのかもしれない。
 いくら長い時間一緒に過ごしたからと言って、そうやって何かを感じ取れるほど、俺は真中のことを知っているだろうか。

「わたし、せんぱいにつきまとうの、もう、やめようと思うんだ」

 そして、やっぱり俺は、真中のことなんて、なんにも分かっちゃいなかった。




426:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/02(水) 01:51:36.78 ID:1oDoDyiEo


「……つきまとう、って」

「うん。……ほら、せんぱいが言ってたとおり、あの嘘は、もう意味がないものだし」

 そうだ。俺は言った。散々、何度も言ってきた。
 付き合ってるふりなんてもう必要ない。

「でも、もうあれは……」

「そうだね。あれはもう、関係ないけど、でも、なんだかね、わかっちゃったんだ」

「なにが」

「なにが、とか、なにを、とか、そればっかり」

「主語がなかったら、わからない」

「……ん、それもそう」

 そう言ってるのに、真中の言葉は途切れ途切れで要領を得ない。
 ただ落ち着かない気持ちだけが高ぶっていく。




427:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/02(水) 01:52:02.69 ID:1oDoDyiEo



「……でも、だって、せんぱいは、わたしを好きにならないわけだし」

「……」

「勘違いしないでね、気を引きたいわけじゃなくて。うん、なんていったらいいか、わかんないんだけど……」

 言葉を探るみたいに、口を動かす真中。
 でもそれは、今何かを考えているというより、自分のなかで決まっている言葉を、言語化しようともがいているみたいだった。 
 それさえも、そう見えるだけかもしれない。

「考えちゃったんだ。わたしはせんぱいのことを好きだと思うし、好きだって何回も言ってたけど、本当にそうなのかな」

「……」

「せんぱいだって、そう思ってたんじゃない?」

 否定は、できない。俺は、ずっとそう疑っていた。
 
「考えてみたら、不思議だよね。せんぱい、わたしたちの関係がはじまったとき、わたしがなんて言ったか、覚えてる?」

「……ああ」

「せんぱいは、わたしのことを好きにならない。"だから"、わたしは先輩に、付き合ってるふりをしてほしいって頼んだんだよね」

「……」

 あのとき真中は、自分が周囲から向けられる好意の渦に苦しめられていた。
 だからこそ、"自分を好きにならない相手"の存在が心地よかった。

 そして実際、俺は決して真中を好きにならなかった。少なくとも、好きになろうとしなかった。




428:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/02(水) 01:52:30.96 ID:1oDoDyiEo



「考えてみたら、わたしはせんぱいのことを好きだったのかな?」

「……」

「ずっと考えてたの。わたしは、せんぱいのことを好きになれるほど、せんぱいのことを知ってたのかな、って」

「……なんだよそれ」

「……うん。わかりにくいかも」

 そう言って真中は顔を俯ける。真中が何かを考えているのか、それとも考えていないのかすら、今はわからない。

「せんぱいがわたしを好きにならないからこそ、わたしはせんぱいと一緒にいられた。
 せんぱいは、わたしがせんぱいに何も求めないからこそ、一緒にいてくれた。結局、わたしたちの関係って、そういうものだよね」

「……」

「だからわたしはせんぱいに深く踏み込まなかったし、せんぱいもわたしに踏み入らなかった。
 そういう関係で好きとか、好きじゃないとか、なんだか嘘くさいなって思ったら、もしかしてって思うことがあったの」

「……なんだよ、それは」

「つまりね」と真中はことさらなんでもないような調子で言う。

「わたしは、単に、"近くにいるのにわたしを好きにならない相手"というのが新鮮だっただけなんじゃないかって」

 そうだ。俺もそう思っていた。
 そう思っていたのに、胸の内側がやけに重たくなるのはどうしてだ?

「つまりわたしは……せんぱいのことなんて、ちっとも見てなくて、単に、自分のことを考えてただけなんじゃないか、って」

 そういう彼女の表情でさえ、今の俺にはよくわからない。
 何の表情もないように見えてしまう。






429:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/02(水) 01:54:15.78 ID:1oDoDyiEo


「だからね、せんぱい、終わりにしようよ」と真中は言う。

「嘘も、演技も、偽りも、もう全部おしまいにして、本当の場所に帰ろう。
 だってもう、せんぱいは……ひとりじゃない。わたしも、今はもう、たぶん、平気だと思うから。
 そもそもが嘘から始まったことなんだから、あれは嘘だったんだって、そういうことにしよう?」

「……真中」

「青葉先輩は帰ってきたんでしょう? だったらもう、ちょうどいいタイミングだと思うの」

「どうして、瀬尾がそこで出てくるんだよ」

「だって、せんぱいは、青葉先輩のことが好きでしょう?」

 思わず、言葉を失った。

「わたしには、そう見えたけど」

「……」

 ぐつぐつと、煮えたぎるように感情が胸の内側で熱を持つ。
 それなのに、今はそれがうまく言葉になってくれない。

 これはなんだろう。
 唇が何かを言おうとして震えるのに、吐き出す息は音にさえならない。

 これは、歯痒さか、それとも、悔しさか?




430:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/02(水) 01:57:43.18 ID:1oDoDyiEo


「瀬尾のことは、いい。関係ない」

「……」

「ひとつ、聞かせろ。真中は、それでいいのか」

 彼女は、なんでもないことのように、不思議そうに首を傾げた。

「だって、わたしが言い出してるんだよ?」

「……そうか」

「だから、普通の、ただの先輩後輩になろうよ。中学が一緒で、部活が一緒で、顔見知りで……ほんの少しあれこれあった、それだけの関係」

「……なんだよ、それ」

「だめかな?」

 そんなふうに、当たり前みたいに笑われて、なんでもないみたいに言われて、いったい俺に、どんな返事ができるというんだろう。

 どうしてだとか、そんなことを言える筋合いですらない。
 いったい、具体的に何が変わるのかさえ、わからない。

 それなのになにか、自分はやっぱりどこかで間違えたんだと、
 あるいは、間違い続けていたんだと、そう言われたような気がした。




434:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/03(木) 23:49:43.06 ID:JsmTQrnOo





「ごしんぱいおかけしました」

 と瀬尾が言った。

 翌週の月曜、文芸部の部室には部員全員と、ちせがいた。

「まったくだ」と大野がいい、「本当に帰ってきたんだね」と市川が言う。
 
 そんなやりとりを聞きながら、俺はぼんやりとあの絵を眺める。

 空と海とグランドピアノは、変わらずにそこにある。
 みんな、もうそれに注意を払っていない。

 俺は諦めて、視線を絵から外す。
 ふと、真中と目が合ったのに、すぐに逸らされてしまう。

 いや、俺が逸らしたのが先だったかもしれない。

 少し考えてから、どちらでもいいか、と思った。

 俺はひとり立ち上がり、荷物を持った。

「三枝くん、帰るの?」

「……あ、ああ」

 瀬尾に呼び止められて、思わず戸惑った。
 どうしてだろう。べつに変なところなんてないのに。
 呼び方のせいだろうか。




435:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/03(木) 23:50:15.18 ID:JsmTQrnOo


「バイト?」

「そう」

「そっか。あ、そうだ。わたしもバイト先に顔出さないと……」

 そう言って、彼女もまた立ち上がった。
 慌てて大野が口を挟む。

「もう行くのか。詳しい話、全然聞いてないんだけど」

「んー。ごめん、また今度ね」

「……ま、いいよ。とりあえず、ほんとに無事みたいだし」

 それから大野は、ちらりと俺の方を見た。

「……なに?」

「いや……慌ただしいと思ってな」

「そうかな」

「ああ」

 それ以上大野は何も言わなかった。

「じゃあ、悪いんだけど、今日のところはまた明日ね」

 瀬尾のそんな言葉を横に聞きながら、俺も部室をあとにした。




436:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/03(木) 23:50:49.40 ID:JsmTQrnOo




「なんか、変だね」

 部室を出て少し歩いたところで、瀬尾にそう声をかけられた。

「なにが?」

「三枝くん。なにかあった?」

「……どうかな」

「それに、みんなちょっと変」

「いろいろあったんだよ」

「ふうん?」

「原因のひとつがピンとこない顔をするな」

 そう言って頭を軽く叩いてやると、「いたっ」と瀬尾は声をあげた。

「女の子をたたくな」

「うるさい」

「……やっぱり変だよ、三枝くん」

 三枝くんと、そう呼ばれるのはやっぱり落ち着かない。

「なにがあったの?」

「……さあ。よくわからん」

「なにかはあったんだね」

「それをうまく説明できたらと思うんだが……」

 残念ながら、俺の頭はそんなによろしくない。




437:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/03(木) 23:51:17.38 ID:JsmTQrnOo


「ま、そういう人じゃないと文芸部になんて入らないか」

「……そうか?」

「言葉はいつも思考に遅れをとってるから」と瀬尾は言う。

「ある意味、そのときどきにいつでもふさわしい言葉を使えるような人って、文章を書くのには向かないんだよ」

「なんで?」

「文章の萌芽は、『言いたかったのにうまく言えなかった言葉』なんだって」

「ふうん。誰が言ってたの?」

「『薄明』に書いてあった」

「へえ」

「平成四年夏季号、編集後記だったかな」

「よく覚えてるな」

「好きだったんだ、わたし」

 そんな話を、俺は瀬尾と初めてしたような気さえした。





438:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/03(木) 23:51:45.47 ID:JsmTQrnOo



「瀬尾はさ」

「ん?」

「なんで文芸部に入ったの?」

「……そんなに意外?」

 言うか言わないか迷って、結局、俺は言った。

「ちどりは入らなかった」

 瀬尾はほんのすこしだけ息を呑んだ。そんな気がした。

「なんとなくね」

「なんとなく?」

「そう。三枝くんは?」

「……俺は」

「うん」

「べつにいいだろ、俺の話は」

「ま、いいんだけどね」

 本当にどっちでもよさそうに、瀬尾は階段を降り始める。





439:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/03(木) 23:52:24.28 ID:JsmTQrnOo


「でも、ほんとに何があったの?」

「……」

「バイトって、嘘でしょ」

「嘘じゃない」

「それが嘘。言ったでしょ。わたしに嘘が通用すると思わないことですよ」

「……かなわないな」

「ん。観念して白状なさい」

 やけにニコニコ笑ってる。何がそんなに楽しいんだろう。
 よかった、とも思う。

 でも、なんなんだろう。
 この感覚はなんなんだろう。

「……ね、なんかあったんでしょ。ゆずちゃんと」

「なんで真中なんだよ」

「ふたりとも様子が変だから」

 俺はひとつ息をついて、返事をした。

「たしかに、ないことはないが」

「わたしに言うことじゃない、って?」

 俺は無言でうなずいた。




440:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/03(木) 23:52:53.36 ID:JsmTQrnOo



「なにそれ。寂しい」

「……勝手に寂しがってろ」

「ええー。三枝くん、なんか変だよ」

「変じゃないよ」

「……前と、ぜんぜん違う」

「前って?」

「いつだろ。……部員集めする前とか」

「……」

「……ごめん、なんか、イライラさせてる?」

「違うよ。ちょっと考えてるだけ」

 踊り場の窓から中庭の様子が見えた。

 思わず、立ち止まって、それを眺めてしまう。

 俺は何をやってるんだろう。
 俺は何を考えているんだろう。

 いや、分かってる。

 こういうことなんだ。

 考えないようにしていたこと、頭の中で、言葉というかたちを取る前に押し留めていたもの、それが、噴き出すみたいに線を結ぶ。

"あらゆるものが、弾性を持っている"のだ。




441:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/03(木) 23:53:23.65 ID:JsmTQrnOo


 
「三枝くん……?」

「ああ、うん」

 返事をしながら、俺は、自分の視界が二重にブレてなんていないことをたしかめる。
 耳をすませて、葉擦れの音なんて聞こえないことをたしかめる。
 
 どうしてだ?

 瀬尾は帰ってきた。景色はもう二重なんかじゃない。もうひとりの俺は弔われた。
 初夏の風が窓のむこうで緑を揺すっている。

 あんなにも、純佳にも教えられたのに。
 それなのに、いま、どうして俺は……。

「三枝くん!」

 と、手をつかまれて、ハッとする。

「どしたのさ、いったい」

「……」

「ほんとに、どうしたの?」

「……なあ、瀬尾」

「ん」

「俺、しばらく、部室にいかなくてもいいかな」

「え……? どうして?」

「どうしてってこともないけど……」

「……やっぱ、ゆずちゃんと、なにかあった?」




442:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/03(木) 23:53:51.12 ID:JsmTQrnOo


「……振られたんだよ」と俺は言う。

「それだけ」

「それだけ、って……ほんとに?」

「ああ」

「そ、か。えと……」

「……」

「え、ほんとに……?」

「ほんとだよ」

「そんなばかな」

「なんでおまえが驚くんだよ」

「いや、だって、え、ほんとに?」

「ほんと」

 目が、おかしいのだろうか。
 前よりちゃんと、視界ははっきりしているはずなのに、夢の中にいるみたいにふわふわしている。

 よくわからない。




443:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/03(木) 23:54:22.58 ID:JsmTQrnOo


 どうして俺はここに立っているんだ?
 ここ数日の記憶が判然としない。
 
 俺は本当に目覚めているのか?

 実は俺は目をさましてなんかいなくて、これはただの長い夢じゃないのか、
 本当は俺はいまも、あの森をさまよっているんじゃなかったのか。

 あの森を、さまよっているだけの、はずだったんじゃないのか。

 けれど、その感傷は、

 ──人は暗闇に何かを期待するものなんだよ。

 ──暗闇にこそ何か欠けている真実があると信じたい。

 きっと、単なる現実逃避なのだ。
 俺はそう思いたいだけだ。

 本当は俺は、あの森を出たくなんてなかったのだ。

 あの音が聞こえてさえいれば、俺は、自分の問題をすべてあの森のせいにできていたのに。




444:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/03(木) 23:54:49.85 ID:JsmTQrnOo


「どうして、部活に出ないなんていうの?」

「……」

「それも、ゆずちゃんのせい?」

 そうだ、と答えそうになった自分を、かろうじてのところで、諌める。
 そうじゃない。

 そういうことではない。

 いま、ここで真中のせいにすることは、
 すべてを森のせいにしていたことと、なにも変わらない。

「違う」

「じゃあ、なんで?」

「なんででもいいだろ。個人的な理由だ」

 瀬尾は、むっとした顔になる。

「わたしが個人的にいなくなったときは、追いかけてきたくせに!」

「……」

 返す言葉もない。

「わたし、ゆずちゃんと話してみる」

「なにを」

「三枝くんのこと、ゆずちゃんが振るなんて信じられない」

「あのな、瀬尾」

「そんなのおかしい」




445:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/03(木) 23:55:19.41 ID:JsmTQrnOo


「瀬尾、あのさ」

「……なに」

「それって、余計な介入なんじゃないか?」

「……え?」

「俺と真中の間に、縁みたいなものがあるとする。それがか細くて、今に切れてしまいそうなものだとする。
 でも、それを繋ぎ止めるべきだとか、繋ぎ止めないべきだとか、おまえは判断する立場にあるのか?」

「……」

「それは、おまえの恣意で判断していいことなのか?」

「それは……」

 瀬尾は押し黙る。

 無理もない。

 これは、瀬尾がいつか言っていたことだ。

「でも、わたしは……」

「悪いけど、俺も少し混乱してるみたいだ」

「……わたしは」

 なおも何か言いたげに、瀬尾は俯いた。
 べつに、こんな顔をさせたいわけじゃなかった。

 本当は、いまは、真中のことばかり気にしているわけじゃない。
 どうして俺は、こんなときでさえ、自分のことしか考えられないんだろう。

 ただ、なんとなく、本当になんとなく、重なっていない風景は、葉擦れの音の聞こえない景色は、どうしてか、俺を失望させている。

 そう思わないようにしていたけれど、考えないようにしていたけれど、そうなのだ。
 
 ふと、純佳に会いたくなった。




449:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/08(火) 00:41:18.33 ID:3ljhep99o




 瀬尾は先に帰ってしまって、ひとりになった。
 バイトだと嘘を言って抜けてきたのに、すぐに学校を離れる気にはなれない。

 自分が何かに操られているような気にさえなる。
 あるいはずっとそうだったかもしれない。

 何気なく中庭へと歩いていく。
 そういえばここは、文芸部の部室の窓から見えるんだったっけ。
 
 春、この中庭に、俺は真中を見つけたのだ。
 
 東校舎を仰ぎ見る。ここからでは、どこかどの部室なのか、わからない。
 真中はどうして俺を見つけられたんだろう。
 
 こんなたくさんの窓の中から、どうして俺に手を振れたんだろう。
 
「なにしてるんですか」

 と、不意に声をかけられて、振り向くとコマツナが立っていた。

「ぼんやりしてる」

「部活はサボりですか?」

「……そもそも、部誌作ってる期間以外は自由参加なんだよ」

「ふうん」

 コマツナは興味なさげにゆらゆら揺れて、俺の方へと近付いてきた。




450:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/08(火) 00:41:48.21 ID:3ljhep99o



「なんでひとりなんですか?」

「べつに珍しくもないだろう」

「ふむ」

 何か言いたげに、コマツナは俺の顔をじっと見てくる。俺は負けじと視線を返す。

「……そんなに見ないでください」

「おまえが先に見たんだ」

「失礼しました」

 こほんとひとつ咳払いをすると、彼女は落ち着かなさそうに制服の襟のあたりに触れる。

「ひとつ聞きたかったんですけど、柚子と何かありましたか?」

「ん」

 俺は少しだけ考えて、

「まあ」

 と答えた。

「あったんですか」

「そうだね」

「ふうん。……先輩、こないだとなんか雰囲気違います?」

「気のせいだろう」

「ん、そう言われるとそうかもしれないですね」

 物分りがいいのは美徳だろう。



451:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/08(火) 00:42:21.67 ID:3ljhep99o


「柚子、こないだ、クラスの男子に告白されてたんですよ」
 
「……ふむ?」

「反応薄くないですか?」

「まあ……」

 俺がどうこう言う立場でもない。

 真中は、普通にしていれば、普通にしているだけで、やたらとモテる。
 そんなのは、俺だって知っていることだ。

 ひょっとしたら、そいつと付き合うことになったから、俺との関係を清算したかったのかもしれない。
 あるいは、他の誰かかもしれない。ない話ではない。

「どうも思わないんですか?」

「どうもって?」

「どうもって、って……」

 呆れ顔をされて、少しだけ落ち着かなくなる。
 俺はそんなに変なことを言ってるんだろうか。

「……先輩、もしかして、かなり落ち込んでます?」

「そう見えた?」

「いや、見える見えないで判断すると、よくわかんないです。そんなに話したことないし。でも、ちょっとそんな気がしただけです」

「勘がいいのはいいことだ」と俺が褒めると、コマツナはわざとらしく「てれてれ」と自分の頭をなでた。
 こいつもこいつでこんな奴だったか?




452:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/08(火) 00:43:02.25 ID:3ljhep99o


「慰めてあげましょうか?」

「遠慮しとこう」

「じゃ、お説教してあげましょうか?」

「なんで急にそうなるんだ」

「いきますよ」

 否応無しか。

「いいですか、先輩」

 こほん、と、また咳払いをする。癖なんだろうか。

「先輩、柚子を泣かせたら許しませんよ」

「……」

 まっすぐに、こちらを見ている。射るような眼差し。
 俺はそれを、なんとなく、受ける。巻藁にでもなったような気持ちで。

「どうして、俺が真中を泣かせたりする?」

「知りません。柚子が勝手に泣いてるのかもしれません」

「泣いてたのか?」

「わかりません」

「……」

「勘です」

「勘じゃあ仕方ない」

「はぐらかさないでください」

「勘で言われて、はぐらかすもなにもないだろう」

「それは、そうですけど」

 なおも納得がいかないみたいに、コマツナは歯がゆそうな表情をした。




453:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/08(火) 00:43:41.36 ID:3ljhep99o


「泣かせるなというなら、真中の彼氏にでもいえばいいだろう」

「彼氏? 柚子、彼氏いるんですか?」

「……告白されてたんじゃないの?」

「振ってましたよ」

「そうかい」

「ほっとしました?」

「どうかな」

 むしろ心配なくらいだ。
 
「……先輩と柚子の関係、やっぱり変ですね」

「変っちゃ変かもしれないが」

「柚子、ぜんぜん教えてくれないから。先輩、柚子と、何があったんですか?」

「真中が言わないなら、俺が言うことでもないだろう」

「でも……」

 でも、と、俺も同時に思った。
 べつに、話したってかまわないだろう。真中から言い出したことなのだ。

 そう思って、俺は先週末の出来事を、コマツナに話した。




454:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/08(火) 00:44:09.82 ID:3ljhep99o


 話しながら俺は、あのベンチで読んだ詩集の一節を思い浮かべる。

『海は 空に溶け入りたいという望みを
 水平線で かろうじて自制していた』

 部室に飾られていたあの絵。
 海と空とグランドピアノ。あんなにも、溶け合うように滲んでいる海と空は、けれど、水平線ではっきりと隔てられていた。
 そのことを、今不意に思い出す。

 あの絵が、どうして途方もない祈りのように思えたのか、今の俺にはわかる気がしたけれど、
 それをうまく言葉にすることが、どうしてもできそうにない。

 話を聞き終えてから、コマツナはよくわからない顔をした。
 怒っているような、悲しんでいるような、哀れんでいるような、その全部のような顔だ。

「柚子が、言ったんですか」

「そういうことになる」

 コマツナは、少しだけうつむいたあと、すぐに顔を上げた。

「先輩は、それでいいんですか」

「……俺の気持ちなんて、関係ないだろ?」

「どうしてですか」

「どうしてって……」

「先輩は、柚子と、どうなりたかったんですか?」

 俺は、答えられなかった。 




455:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/08(火) 00:45:34.59 ID:3ljhep99o




 答えに窮した俺を、コマツナは置き去りにした。
 用事があるとかないとか言って。それが本当かどうかはわからない。信じても俺に害はない。

 スマートフォンが不意に震えた。ましろ先輩からのメッセージだ。
 内容はこうだった。

「きみはスワンプマン?」

 どうだろうな、と俺は思う。

「わかりません」

「なるほど」とましろ先輩からの返信が来た。それで何がわかるというんだろう。

 彼女はメッセージを続けた。

「とにかくみんな無事でよかったですね」

 たしかにな、と俺は思う。

「そうですね」

「ところで、さくらは元気ですか?」

 ふと、そこで俺の思考が止まった。

「……さくら」

 今の今まで、まったく気にしていなかったけれど……最後にさくらを見たのは、いつだっただろう。

 記憶が、判然としない。
 俺は、あいつと、何かを約束していなかっただろうか。

 どうしてそれを、今、思い出せないんだろう。

 さくらは、どうして今、ここにいないんだ?





460:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/09(水) 01:41:15.86 ID:dHsWKpbxo




 学校を出て、俺は『トレーン』へと向かった。
 
 家に帰る気にはなれなかった。何か、それがよくないことのように思えた。

 下校途中、俺は何度も自分の視界を確認した。並木道やアスファルトが当たり前に見えることを確認した。
 それはたしかにそれだけで、今までのすべてをかき消すくらいの重みをもって現実として存在している。

 途中で、不意に、携帯が鳴った。大野からの電話だ。

「……どうした?」

「ああ」と大野はため息のような声を漏らした。

「真中の様子がおかしいようだけど」

「どうして俺に電話するんだよ」

「どうせおまえ絡みだろう」

「……どいつもこいつも」

「なにがあった?」

「振られたんだよ」

 俺はいいかげん慣れてきた。

「振られた?」

「もともと偽装の関係だったから、もういいだろうって」

「……それで?」

「それでって、なんだよ」

「おまえはなんて答えたんだ?」




461:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/09(水) 01:41:53.73 ID:dHsWKpbxo


「べつに、なにも」

「……おまえ、それで納得してるのか?」

「……さあ」

 はぐらかしたわけではない。自分でもよくわからなかったのだ。

 けれど、なんとなく、気付いていることもある。
 大野は、ふと黙り込んだ。

「どうした?」

「実は先週まで、おまえを不審に思ってた」

「不審に?」

「スワンプマン。……真中や、市川や、ましろ先輩。みんなで、おまえの様子がおかしいって話をしてたんだ」

「ふむ」

「俺にはどうにもピンと来ないけど、みんなには心当たりがあるらしくてな」

「……白々しいな。おまえもちどりに会いに行ったんだろう」

「まあな。でも、結局俺は、そういうことを考えるのにはとことん向いてないらしい。確かめようもないしな」

「……」

「そのうえで、一個、言わせてもらう。勝手なことをな」

「なんだよ」

「おまえ、真中とどうなりたかったんだよ」

「……」




462:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/09(水) 01:42:21.79 ID:dHsWKpbxo


「おまえはどうなりたかったんだよ。どうしたかったんだよ、真中を」

「なんだよ、急に。……俺が、真中がどうとか、言ったかよ」

「どうせ、無傷でもないだろ。見てりゃわかる。おまえは真中が好きだっただろう」

「……なんで、おまえがそんなことを言うんだよ」

「違うな」と大野は言った。

「おまえが言ったんだ。問題は、おまえがそのまま、真中とのわだかまりをそのままにしていたいのかどうかってことだろ」

「……」

 ああ、そうだ。
 これは──俺が、大野に言った言葉だ。

「おまえが、そこに苛立ちを覚えるなら、おまえがすることなんて決まってるだろ」

「……」

 俺は、真中を、
 どうしたいと、思っていたんだろう。




463:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/09(水) 01:43:00.76 ID:dHsWKpbxo


 深く関わり合ったら、傷を負いそうで、でも、突き放すこともできなくて。
 好きにならない、好きになれない、好きになってはいない、そんなふうに考えて。

 でもそれは、もしかしたら、
『俺が真中を好きになったら、真中は俺から興味を失うんじゃないか』と、
 そんなふうに考えていたからじゃないんだろうか。

「泣いてたんだぜ」と大野は言った。

「……嘘だよ」と俺は言う。

「本当だ」

 ……大野が言うなら、本当なのかもしれない。
 でも、真中は、そうは言っていなかった。

 ……本当に、そうだろうか。

「本当におまえは……嫌味なくらいに、いいやつだな」

 負け惜しみみたいにそう言うと、大野が電話の向こうで不服げに溜息をついたのがわかった。

「少し待ってろ。全部片付けてくるから」

「……全部?」

「……まだ予言が半分なんだ」

 それだけ言って、俺は電話を切った。




464:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/09(水) 01:43:28.01 ID:dHsWKpbxo






『トレーン』の看板も、外装も、扉も、ドアベルの音も、すべて、ちゃんと、見えているし、聞こえている。

 店の中に入ると、マスターがひとりでカウンターの向こうに立ってグラスを拭いていた。

「やあ」とマスターは言う。

「こんにちは」と俺も返事をする。

「なんだか久々だね?」

「けっこう頻繁に来てますよ」と俺は言った。

「マスターが出てこないんじゃないですか」

「うん。そうかもしれない」

 面と向かって話をするのは、ひょっとしたら久しぶりだったかもしれない。




465:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/09(水) 01:44:17.77 ID:dHsWKpbxo


「コーヒーかい?」

「はい。ブレンドを……」

「かしこまりました」とマスターは笑う。

 その笑顔がなんだか懐かしい。
 ……懐かしい?

 そういうのとも、いま、少し違うような気がした。
 既視感がある? ……いや、そんなもの、あって当たり前か。

 ……今は、そんなことはどうでもいいか。

 思わずため息をつくと、カウンターのむこうでマスターがくすりと笑った。

「何か落ち込んでるようだね」

「ええ」

「ちどりがいないのがショック?」

「まさか」

 というのも失礼な話だが、ちどりは関係がない。

「そう」

 あっさりと笑って、マスターは体を翻した。

「ちどりは今日はいないよ。友達と勉強会だって」

「はあ……そうですか。珍しい」




466:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/09(水) 01:44:50.52 ID:dHsWKpbxo


「うん。たしかに珍しい。そうだね」

 そういって、マスターはしばらく引っ込んだ。俺はひとり、店の壁に貼られた絵を眺める。

 二枚の絵。
 タイトルはなんだったっけ?

 わからなくなったときは、絵の内容を見ればわかる。そういう絵だったはずだ。

 一枚は、霧に包まれる夜の街を、もう一枚は、靄の立ち込める早朝の湖畔を。

 しばらく、ふたつの絵を交互に眺めていると、また不思議な感覚に襲われる。
 絵のなかに広がる景色。それが現実のどこかというよりは、その絵の中に奥行きを持って存在しているように思える。

「はい、おまたせ」

 しばらくして、マスターがコーヒーを差し出してくれる。

「絵を見てたの?」

「ええ、まあ……。この絵、マスターが描いたんですよね」

「うん。ずいぶん前だね」

「……『朝靄』と『夜霧』でしたっけ」

「そうだよ。よく覚えてるね」

「たしか、もう一枚あるんでしたよね」

「うん。そう」

「……誰も知らない三枚目」

「そう」

 くすりと、マスターは笑う。
 笑い方がすこしちどりに似ている。




467:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/09(水) 01:45:20.20 ID:dHsWKpbxo


「どうして隠してるんですか?」

「隠してるわけじゃない。ここで見せる理由がないだけだよ」

「あの二枚には、見せる理由があるんですか?」

「そういえば、ないね」
 
 ないんかい。

「まあ、思い出のようなものだよ」

「思い出ですか」

「飾りでもしておかないと、すぐに忘れてしまう」

「そういうものですか」

「そういうものだよ」

「つまりこれは……忘れないためなんですか?」

「そういうことになるね」

 ふうん。

「……じゃあ、もう一枚は?」

「それも、忘れないためかな」

「……」

 俺は、これを訊ねるべきではないのかもしれない。




468:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/09(水) 01:45:50.82 ID:dHsWKpbxo


「霧と靄のむこうに、かすかに人影みたいなものが見えますね」

「ふむ。そう見えるかい?」

「意図は、わかりませんが、そう見えます」

 曖昧に滲んだ景色のなかに、影が見える。
 いるかいないかも不確かな人影。ひょっとしたらそれは気のせいかもしれない。

 人影はいつも、何かに隠されて曖昧に濁されている。滲んで、見えなくなっている。

 人と人との距離もそれに似ているのかもしれない。
 手を伸ばして、触れようとすれば消えていく。

 けっしてつかめない。砂のようにこぼれていく。

 ずっと繰り返されている。
 はじめからずっと。

 桜の森の満開の下で、消えていく女の姿。
 どれだけ歩き回っても、影ひとつとらえられない森の中。
 滲むような靄と霧のなかで、そこにいるように見える人影。

 いるのに触れられない。求めても現れない。見えるのにつかまえられない。

 他者は不確かだ。
 不確かで、おそろしい。

 もし、この二枚の絵に、もう一枚、姉妹や兄弟のような絵があるのだとしたら、
 それはもしかして、

「逆光」

「え……?」

「いえ、なんとなくですけど。もし俺がこの絵の作者で、誰にも見せない三枚目があるとしたら、そういう名前をつけます」

「……ふうん。そのこころは?」




469:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/09(水) 01:46:39.71 ID:dHsWKpbxo


「『夜霧』と『朝靄』。夜と朝で二枚。もし三枚目があるなら、昼だな、というのが一点」

「単純だね」

「はい。それから、両方とも、景色は靄と霧に隠れて見えませんから」

「なるほど、『逆光』。おもしろいね」

「ハズレでしたか?」

「そうだね。残念ながら」

「惜しいですか?」

「『夜霧』と『朝靄』に関しては、いいところを掴んでいるし、発想としては近い。
 でも、もう一枚は、このふたつとはちょっと違う。だからここには飾ってないんだ」

「……一緒に飾ってはいけない、ってことですか?」

「そうだね。答えが透けて見えてしまうから」

「突然ですけど、マスターって、高校のとき、どんな部活に入ってたんですか?」

「部活? なんで急に?」

「最近、部活でいろいろあったので」

「ああ、なるほどね」

 親しみやすい笑みを浮かべて、マスターはカウンターに手をついた。

「僕は文芸部だったよ」

「俺と同じですね」

「うん。そうなるね」




470:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/09(水) 01:47:06.34 ID:dHsWKpbxo


「てっきり、美術部かなにかに入ってたんだと思いました。絵が上手いから」

「手慰みだよ。あれこれ手をつけて、結局どれも身につかなかったな」

「文章もですか?」

 マスターは一瞬、ぴくりと頬を動かした。

「そうだね」

「三枚目の絵」

「うん?」

「『逆光』じゃないなら、『白日』ってところですか?」

 マスターは驚いた顔をしてから、くすりと笑った。

「うん。それで正解だよ」

「靄のむこう、霧のむこうに何があるかをさらすから、『白日』。役割がまったく違うから、並べたら意味がない」

「……そういうことだね」

 マスターは照れくさそうに笑った。

「聞いたことありませんでしたけど……マスターって、どこの高校に通ってたんですか?」

「……」

 怪訝げに眉をひそめられる。どうしてそんな話になるのか、と思っているのかもしれない。




471:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/09(水) 01:47:35.91 ID:dHsWKpbxo


「三枚目、どこに飾ってるんですか?」

「……僕は、どこかに飾ってるって言ったっけ?」

「いえ。見せる意味がないとは言ってましたけど、でも、この二枚にもないと言ってたので。それに、忘れないため、とも言ってましたから。
 だとすると、飾っているのかなと思っただけです。そうだとしたら、その三枚目には、特有の役割があるのかな、と」

「絵に役割なんてあるものかな」

「少なくとも作者がそれを籠めることはできるでしょうね」

 そうかもしれないね、とマスターは曖昧に笑った。

「ところで、この店の名前なんですけど、どうして『トレーン』なんですか?」

「うん?」

「……」

「どうやら、何か話したいことがあるみたいだね」





472:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/09(水) 01:48:04.35 ID:dHsWKpbxo



 俺は何を聞こうとしているんだろう。

「今日、放課後、部室を出たあと、少し知り合いと話をして、帰ろうとしました。
 でも、その途中でふと思うところがあって、図書室に引き返したんです。『伝奇集』を見るために」

「『伝奇集』」

「ご存知ですか?」

「ボルヘスは昔から好きなんだ」

「店の名前に使うくらいですもんね」

「気付いたかい? 何度も読み返したよ。それで?」

「メモが挟んでありました」

「……メモ?」

「これです」

 制服のポケットから、メモ用紙を取り出して、俺は彼に差し出した。
 彼はそれをちらりと見て、ふむ、と目を細めた。




473:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/09(水) 01:48:38.69 ID:dHsWKpbxo



 俺は、メモの内容を読み上げた。

「『よげんをはたして、あのこをむかえにいって』」

「なにかの暗号かい?」

「……いえ、まだ何枚かあります」

 取り出して、それを広げる。合計で、三枚あった。

「『あなたのなかのかれとごういつをはたして』」

「……なんだか、よくわからないな。誰かのいたずらじゃないのかい?」

「……最後の一枚です」

 どうして俺はこんなことをしているんだろう。
 これをたしかめて、どうなるんだろう。

 暗闇の中になにかがあると、そう思うのは、現実逃避だ。
 そう言ったのは誰だったっけ?

「『さくらはでみうるごすのべつのえのなか かれは』」

「……これは」

 この店の名前は『トレーン』。
 瀬尾がむこうにいたとき、連絡に使った本は、ボルヘスの『伝奇集』。
 マスターが何度も読み返した本だという。




474:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/09(水) 01:49:34.97 ID:dHsWKpbxo


 文芸部室の壁には、一枚の絵が飾られている。

 誰がいつ、その絵を描いたのか、それがいつから飾られているのか、知るものは今の文芸部にはいない。
 俺たちの先輩も、そのまた先輩も、それがいつから飾られているのかすら知らなかった。

 佐久間茂のスワンプマン──ストローマンは、自らを『デミウルゴスの子』と呼んだ。
 メモには、『でみうるごすのべつのえ』とある。

 デミウルゴスとは誰か? 
 それがもし、実際の佐久間茂のことを指しているとしたら、その人物は今、どこで何をしているのか。

『でみうるごすのえ』という言葉を素直に受け取れば、瀬尾が入り込んだあの絵を描いたのは、佐久間茂だということになる。
 そして、『べつのえ』ということは、佐久間茂は『他にも絵を描いている』。

『トレーン』、『伝奇集』。
『ちどり』と『瀬尾』。
『佐久間茂』。『デミウルゴスの子』。
『本物』と『偽物』。
『空と海とグランドピアノ』。
『夜霧』と『朝靄』。『三枚目の絵』。
『白日』。

 ボルヘスの『伝奇集』に収められた『八岐の園』という短編集の一篇に、『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』というものがある。
『トレーン』というのは、作中に登場する架空の地名のことだ。

 何らかの集団によって極めて緻密に捏造された『架空の土地』が、やがて現実の歴史を『修正』し、その価値観を覆すに至るまでの短い物語。

『夜霧』と『朝靄』。そして『白日』。
 霧と靄が、人影を滲ませる。けれどもし、その霧と靄が晴れたとき、その人影は本当にそこにあるんだろうか。
『白日』は、その疑問の答えになるのかもしれない。

 陽の光が鮮やかに晴れ渡り、すべてが白日のもとにさらされたとき、そこには誰もいないのだ。




475:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/09(水) 01:50:04.13 ID:dHsWKpbxo


「これは直接関係ないんですけど……マスターって、入婿なんですか?」

「……突然だね。違うよ」

「じゃあ、ご両親が離婚か何かされたとか?」

「……」

「もし違うなら、笑ってくれてかまわないんですけど……」

 俺は、ほとんど妄想に近い点と点をつないで、無理矢理に理屈をこじつけているのかもしれない。
 でも、無視できない何かがそこにあるような気がした。
 
「三枚目の絵は、俺の高校の文芸部室にあるんじゃないですか?」

 もし、違ったとしても、笑ってもらえればいい。
 それでも俺は、さくらを探さなきゃいけない。 
 デミウルゴスの別の絵を探さなきゃいけない。

 そして、少なくとも彼は、まだ笑っていない。

 結局、何かを取り戻したところで、俺は俺で、いまのまま、何もかもが弾性をもっていて、すぐにだめになってしまうのかもしれない。
 変われない、何も求められない自分を見つけるだけなのかもしれない。

 でも、本当にそうなのか? 俺にそう語ったのは、誰だった?

 ──佐久間茂だ。

 俺はずっと、彼が決めたルールのなかにいた。
 
「マスター、『薄明』の佐久間茂は、あなたですか?」

 彼は、ほんの少し怪訝げに目を細めたあと、どこか満足そうな顔で微笑んだ。




481:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/11(金) 00:44:53.20 ID:5tslsyVEo




「僕には、世の中がおそろしい」

 マスターは不意に、そんなことを言った。

「砂を噛むような思いで生きてきたよ、ずっとね」

 煙るような霧の中でで、マスターの体の輪郭は、かすかな光に覆われているようだった。
 まるで彼のすべてが、内側から滲み出して、徐々に大気と混じり合っていくように、俺には見えた。

「笑うかい?」

 彼はそう言って、いつものような落ち着いた顔で、俺を見た。
 なんでもないような顔で。

「赤の他人なら……うまく笑えたかもしれないですけどね」

 いいながら、俺は、彼の背後に広がる景色を見る。

 霧の粒のひとつひとつに点描のように滲む月明かり。
 版画のように影で塗りつぶされた高い建物。
 濡れた石造りの街路を照らすほのかなガス灯の光。
 
 どこかから聞こえる衣服の擦れる音、誰かの息遣いや咳払い。

 けれど視線をそちらに向けても、そこには誰も居ない。

『夜霧』のなかを、俺と彼はふたりで歩いている。




482:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/11(金) 00:45:19.66 ID:5tslsyVEo


「子供の頃から学校が嫌いでね」

「……意外ですね。マスターは……」

「マスター、じゃなくていい」

「……茂さんは、なんでもそつなくこなしてきたように見えるから」

「きみもそういうふうに見えるよ」

 そう言った彼の表情もまた、宵闇にまぎれて、よく掴めない。

 絵の中の人物みたいだった。

「昔からそうだったんだ。行ってしまえば、別に苦ではない。でも、行くのがどうしてもいやだった。
 週末がいつも待ち遠しかったよ。それだけを心の頼りにして、一週間をやり過ごして、でも、ふと気付いたんだ。
 平日をやり過ごして、休日を楽しみにして、でも、休日が終われば、また一週間が始まる」

「……」

「それがいつまで続くんだろう、って。それって、いつまでも終わらないじゃないか」

 靴音が夜の街に響く。向かう先も分からずに、俺は彼の少し後ろをついていく。
 迷子にでもなったみたいな気分だ。




483:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/11(金) 00:45:54.08 ID:5tslsyVEo


「……でも、今まで、生きてきたじゃないですか」

「そう、砂を噛むような思いでね」

「……」

「とても、他人には信じられないような話かもしれないけど、僕には自分らしい自分というものがないんだ」

「……どういう意味ですか?」

「よく言うだろう。好きな食べ物とか、好きな映画とか、女の子の好みでもいい。音楽や、小説でもいい。
 好きな遊び、好きな色、好きな街、好きな建物、好きな雰囲気、好きな植物……」

「……」

「僕には、自分の好きなものっていうのが、わからないんだ」

「……」

「自分が何をしたいのかも、よくわからなかった。そんな人間が、どうやってここまで生き延びてきたと思う?」

 俺が何かを答えるまでもなく、彼は勝手に続きを話した。

「誰かが望んでるとおりに振る舞うんだよ。そうすると、何も考えずに済む。
 考えてみれば僕は、自分で何かを選択することなんてほとんどなかった。“おまえはこうだろう”と誰かに決められていた。
 それで、べつに他にしたいことがあるわけでもないから、それに従い続けていたんだ」




484:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/11(金) 00:46:25.33 ID:5tslsyVEo


 靴音が響く。

「学校でも、家でも、なんでもね。相手の仕草や表情を見れば、相手がどんなふうに僕に振る舞ってほしいかはだいたい分かった。
 状況に合わせて、適当に振る舞うだけだ。そうしておけば角も立たない。幸い僕は、器用な方だったらしい。
 相手が何を自分にもとめているのかをその場その場で感じ取ることなんて、ほとんど無意識でやっていた。
 そう気付いたのは、ずいぶんあとで、当時は自分がそうしていたことになんて、気付いてもいなかったけど」

 気付かないというのが、厄介なところなんだ、と彼は言う。
 僕は自分がそんなことをしていたなんて、全然気付いちゃいなかった。
 ときどき、違和感を持つことはあったけどね。

 僕は平気で嘘をつけた。そして、その嘘を、自分で信じ込むことができたんだ。
 たとえば誰かがある映画を褒めているとして、僕がその映画を観たとする。
 すると、その人とほとんど同じ感想を持つんだ。

 あるいは、誰かがある音楽をけなしていたとする。すると僕は、その音楽をたしかによくないものだと感じた。
 そして、別の誰かとその音楽の話になったとき、その誰かがその音楽を褒めていたら、僕は一緒になってその音楽を褒めることができた。

 適当に口先だけで合わせるんじゃない、本当にその場で“そう思うこと”ができたんだ。

「そういうことをしていると、自分がうすっぺらな書き割りで、風景がすべて平坦で、他人がみんな霧に包まれたみたいに不可解なものに思えたよ」

 人と会ったり話しをしたりしたあと、ひどく疲れを覚える種類の人間だと気付いたのは、もっと前だった。
 もっとも、こんな話、特別珍しくもない、誰だって、大なり小なりやっていることなんだろうと思う。

 でもね、問題はそこじゃないんだ。

「ある人は、僕が何かを演じているんだと言った。別の人は、僕はいつも本心を隠していると言った。
 でも、違うんだ。僕は演じてるわけじゃない。その場その場で本当にそう思っているし、隠すほどの本心なんて僕にはないんだよ。
 他人が何かを言う。そうかもしれない、と僕は思う。別の誰かが、正反対のことを言う。ああ、それもそうだな、と僕は思う」

 つまり僕は、からっぽなんだ。
 建前はあっても本音がない、そういう生き物だったんだよ。




485:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/11(金) 00:47:03.98 ID:5tslsyVEo


「そういうふうに過ごしていると、ときどき、自分を眺めている自分を見つけることがある。
 僕の背後の少し上空から、僕を見下ろしている僕を見つける。そんなことが続くと、ある瞬間に、僕の意識は、僕を見下ろしている僕の方へと移っていった。
 これはたとえ話じゃなく、本当にそういうことがあったんだよ。……まあ、誰も信じちゃくれなかったけど」

 そういうことなんだ、と彼は言う。

「みんながみんな、周囲にある程度、適応して生きている。でも僕は、“本当はこうだ”という自分すらない。
 頼まれごとはたいてい引き受けた。大人受けはよかったし、同級生にも嫌われるようなことはなかったな。
 むしろ、誰かを嫌う側に回ることの方が多かった気がする。なにせ、みんなが誰かを貶めるとき、僕も一緒に貶めていたからね。
 誰かに合わせるというのは、風見鶏のように振る舞うことじゃない。より大きな流れのようなものを見つけて、それに乗ることなんだ。
 だから僕はきっと、“より同調すべき誰か”の視点に、常に合わせていたんだと思う。だからこそそういうことができたんだ」

 でも、ふとした瞬間に気付くんだ。
 ひとりになったときにね。

「僕は本当に、これが好きなんだろうか? 僕は本当に、この人が嫌いなんだろうか?
 そうなったとき、特にそんなことはないんじゃないか、というのが、決まった僕の結論だった。
 そうすると、普段の自分の言動や、感情さえもが、疑わしく思えてくる。そして、ついに結論が出た。
 僕は、周囲に、ただ、合わせていただけだったんだよ」




486:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/11(金) 00:47:42.43 ID:5tslsyVEo


 やがて、夜の街路は、果てに行き着く。

 煉瓦造りの高い壁、その合間に、大きな門扉が現れる。 
 その先の風景は、暗闇の中で、ぼやけてはっきりとしない。

「結局のところ、僕がそんなふうに振る舞っていることになんて、誰も気付かなかった。
 なにせ、僕自身も、僕が誰かに合わせているなんて自覚がなかったんだから、当然だ。
 友達もいたし、恋人もいた。趣味だって、あったように思えた。好きなものだって、あったように思えた。
 でも、それは……本当のところ、誰かに言われて、そうしていただけだという気がする。
 おまえはこうだろうと誰かに言われたことを、僕はそのまま、ずっと、こなしていたような気がする」

 門の前で立ち止まり、彼は後ろを振り返った。
 つられて俺も振り返る。
 
 そこにはただ、人の気配だけがざわつく、霧に包まれた夜の街があるだけだった。

「結局のところ」、と彼は言う。

「何が偽物で何が本物かなんて、誰も分かってないんだ。僕自身でさえもね」

 そう言ってしまうと、彼はその綺麗な手のひらで、門を押した。
 扉は、悲鳴のような軋みをあげて、押し開かれていく。

 その先は、森へと続いている。





493:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/15(火) 00:35:30.17 ID:tcCjf0HSo



 自分の意見がない。
 相手が何をしたいかを常に想像し、自分が何をしたいかをあまり検討しない。

 他人に合わせること。
 誰もが、程度はあれど、していることだ。

 けれどそれが"過剰"であれば……。

 たとえば食事を選ぶときに基準になるのは、相手が何を食べたいか、だけで、自分が食べたいものはない。
 少なくとも、なにもないと自分では思っている。

 自分と他人の境界線が曖昧で、他人から簡単に影響を受ける。
 自分自身の好みや、目標や、生活態度でさえ。

「他人に合わせること」に困難を感じる人種とは反対に、「他人に合わせすぎるが故に自分がわからない」。

"過剰同調性"と、そういうふうに言われることがある。

 空気を読む、という言葉がある。
 空気を読めない、という困難がある。

 そして、あまりに敏感に空気を読むあまり、相手の感情を掴み取ってしまうあまり、その相手に配慮し、自分の思うとおりに振る舞えない、ということもある。
 そのように振る舞っていると、やがて、"自分の思うとおり"というものが、どこかに隠されてしまう。

 結果的に、無自覚に、常態的に他人の顔色を窺い続けてしまい、強い疲労を感じる。
 自分自身は抑圧され、"ふるまい"だけが残される。
 
 HSP──ハイリー・センシティブ・パーソン。

 知られていないだけで、五人に一人が、そう呼ばれる傾向を持つとも言われている。
 それは"遺伝的性質"であり、生来的な傾向だとも言う。

  



494:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/15(火) 00:36:21.74 ID:tcCjf0HSo



「いつも、死ぬことばかり考えていたよ」

 彼は、そう言って話を続けた。
 草茂る森の合間を、縫うように道が続いている。

「でも、死にたい自分が本当なのかもわからなかった。死にたいのではなくて、"こんな人間は死ぬべきだ"という、誰かの考えに合わせているような気もした。
 なにもかもが僕にはよくわからなくて、曖昧模糊としていたんだ」

 暗い森に風が吹き抜け、耳によく馴染んだ葉擦れの音が空間を泳いでいく。

「どこにも自分の居場所なんてないように思えた。自分が誰にも必要とされていないんだと思った。
 僕はからっぽで、なにもない。なにかに対する憎しみだけが強くなって、でも、自分が何をそんなに烈しく憎んでいるのかも分からなかった」

 わかるかな、と彼は俺を振り返った。どうだろうな、と俺は思った。

「だから僕はこの国を造ったんだよ」

「……"造った"」

「まあ、順番が違うかもしれない。もともと僕はこの国をイメージしていて……それを、成立させようと思った」

「……」

「理解できないって顔してるね」

「……イメージするまでは、分かりますけど」

「架空の人間を作り上げようとしたことはない?」

「……どういう意味ですか?」

「ひとりの人間を想像するんだ。具体的に。性別や、体格や、髪型、顔つき、性格や趣味、服の好みや、小物のセンスに至るまで。
 詳細であれば詳細であるほどいい。そして、"その人物がどんな部屋で生活するかを想像する"。
 そして、ひとつの部屋を用意する。それから家具を用意するんだ」

「……」

「その人物の好みの机、たとえば学生だったら、学生机があるかもしれない。制服が部屋のどこかに掛けてあるかもしれない。
 年齢によって、絨毯やベッドシーツ、枕のカバーなんかの趣味も違う。カーテンなんかもそうだね。
 本棚にはどんな本があって、CDがあって、どんな映画を見るんだろう。
 人によっては、たとえば、脱ぎちらした服がそのままにしてあるかもしれないね。そんなふうに……
 居もしない人間が、いまさっきまでそこにいたかのような、そういう部屋を作りたいと思ったことはない?
 ちょうどボルヘスの短編みたいにね」

「……何を言ってるのか、よくわからないです」





495:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/15(火) 00:36:50.33 ID:tcCjf0HSo


「僕がしたのはそういうことだよ。"あたかもその場所が存在しているかのように振る舞う"。
 そこから持ち帰ったものや、そこで起きたことを"捏造する"。
 どうやったと思う?」

「……」

「『薄明』を使ったんだよ。僕が高校生だった頃、文芸部の部員は二十人ほど居た。でも、僕以外の全員が、幽霊部員だったよ」

「……え?」

 それは、おかしい。
『薄明』には……佐久間茂の他にも、

「……」

「最初にしたのは、架空の文芸部を作り上げることだった。
 どんな人間がいるのかを最初に決め、どんな人間がどんな文章を書くかを決めた。
 原稿を出さないような部員のことも、詳細に設定した。最終的には、『盗作を行った部員』がいたかのような展開まで作り上げた」

「……」

「気付いたかな、きみは。読んだんだろう、あれを」

「……どうして、そんなことしたんですか?」

「どうしてかと言われると、どうだろう。それが僕にとってとても楽しい遊びだったからだよ」

 影絵のような森を歩きながら、その声に耳を傾けていると、徐々に現実感が失われていく。
 この感覚が、嫌に懐かしい。



496:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/15(火) 00:38:01.28 ID:tcCjf0HSo


「意味がないと言えば、意味がない。でも当時の僕はそれを心の支えにするくらいには、他に何もなかった」

 俺には想像することしかできない。
 それなのに、どうしてもイメージできない。
 
 目の前のこの人が、そんなことをしていたなんてことが。
 そういうものなのかもしれない。

「僕は『薄明』それ自体に物語を付け加えることにした。今にして思えば、誰も気付かないだろうけどね」

「物語……?」

「部誌に参加しているメンバー……つまり、僕が作り上げた架空の部員たちの周辺に、奇妙なことが起きている。
 そういう物語だよ」

「……」

「そこまでは気付かなかったかい?」

「ええ」

「まあ、そうなんだろうな。結局のところ……誰もそんなに注意深く、誰かの作ったものを見たりはしない」

「……」

「ああ、べつに、がっかりしてるわけじゃない。そういうものだと、割り切ってるし……もともと、そんな気はしてたからね。
 でも、問題はそこじゃない。問題は、それが『起きた』ってことだ」

 彼の進む道は、やがていくつかに分かれていく。
 そのうちのひとつを、彼は迷うでもなく選んだ。




497:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/15(火) 00:38:28.31 ID:tcCjf0HSo



「僕は『薄明』を一年間、ひとりで作り上げた。そして、そのなかに物語を作った」

「どんな……物語ですか?」

「……そうだね」

 と、彼は短く笑って、

「それについては、自分で確かめてみるのがいいかもしれない」

 そして、彼の行く道はやがて森を抜ける。

 こんなにも、
 こんなにもあっけない、短い森だっただろうか?

 それとも、この森は、俺が囚われていたあの場所とは、違うのだろうか。

「結局のところ」と彼は言う。

「この歳になってこんなことを言うのも面映いけれど……結局、人はみんなひとりぼっちなんだと思う」

 俺のからだは森を抜け、空の色はもう闇ではなく、静かな藍色へと移り変わりつつある。
 声はすぐそばから聞こえる。




498:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/15(火) 00:38:55.16 ID:tcCjf0HSo


 木立の隙間に、大きな大きな水たまりが見える。

 湖が、広がっている。一歩進むごとに、日が昇っていく。
 湖面を覆う朝靄が、そのむこうを隠している。

 この人に、そんなことを、言ってほしくなかった。

 こんな人にまで、そんなふうに言われたら、これから先、なにを求めて生きればいいのかわからなくなる。

 そこまで生きて、辿り着く結論が、そんなことでしかないなら。

「僕は、みんなのことが好きだよ。愛してるって言ってもいいと思う。
 ちどりや……そう、きみのこともね。でも、ときどき全部がどうでもよくなる。そんな夜を、何度もやり過ごしてきた」

 後ろ姿だけが、振り向きもせずに進んでいく。
 
「でも……ひょっとしたら、僕も年を取りすぎたのかもしれないね」

 やがて、道は曲がっていく。湖畔に、小さな小屋が立っている。
 その脇を抜けて、彼はまだ進んでいく。
 湖に近付いていく。

「ずっと、靄がかかったみたいに、世界のことも、他人のことも、よくわからなかった。
 今にして思えば、そこにはたいしたものは隠されていなかったのかもしれない。
 本当のことは、まだ、わからない。人は結局、孤独なのかもしれない。
 でも、いまは……それでもかまわないような気がする」

 小屋の裏手に道は伸びている。その先に、古びた桟橋がある。

 小さなボートが繋がれている。
 揺れてはいない。
 
 波すらも、ない。

 凍りついているのだと、そのとき気付いた。

 不意に、湖のむこうに視線を走らせたとき、そのむこうに、何も見えないことに気付く。
 靄に隠れているのではない。
 なにもないのだ。




499:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/15(火) 00:39:21.02 ID:tcCjf0HSo



 あるのは水平線。
 空と海。
 
 視線をあげると、突然に、空が晴れ渡っている。
 夜が、ガラスのように砕けて消えた。そんな気さえした。

 遠く向こうに"何か"が見える。
 それがなにかは、分からない。

「結局、人はある意味ではずっと孤独で、安らぎなんて求めるだけ無駄なものかもしれない。
 あるいは、そんなもの、求めちゃいけないのかもしれない。人生に安らぎを求めると、不思議と、反対に苦しんでいくことになるから。
 でも、それを受け入れてしまうと……ふと、安らげたりする。本当に不思議なことに」

「……」

「見えるかな」

「……なにが、ですか」

「きみが探してるものは、このむこうにあると思うよ」

「……」

「友達がいるんだろう?」




500:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/15(火) 00:40:31.64 ID:tcCjf0HSo


「……俺には、わからないです」

「……なにが?」

「どうして、こんな世界ができあがったのか、この世界が、結局なんなのか。ぜんぜん、わからないままです」

 ふむ、と彼は息を漏らす。

「それはまあ、どうでもいいことだよ」

「……どうでもいい、ですか」

「迷惑をかけて悪いとは思う。きっと、きみにも、もしかしたら、ちどりや、他の子たちにもそうかもしれない」

「……ちどりのこと」

「ん?」

「気付いてたんですか?」

「……どういう意味?」

「……いえ」

 気付いていなかったのだろうか。
 佐久間茂。ストローマンは、気付いていた。

 言わないほうが、きっといいのだろう。




501:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/15(火) 00:40:59.02 ID:tcCjf0HSo



「……茂さんは、どうするんですか」

「帰るよ、僕は。……ここにはもう、用事はないから」

「本当にないんですか」

「うん。……見つかるといいね、友達」

「……」

 何を言えばいいんだ?

「……茂さん」

「……ん」

「本当に、人は孤独なんでしょうか?」

「……さあ?」

 靄に隠れた湖。 
 霧に紛れた街。
 見果てぬ水平線。
 葉擦れの音が響く森。
 鏡の中の国。
 人気のない場所。

 ここはどこか薄暗くて、ひとりぼっちの国みたいだ。




502:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/15(火) 00:41:25.77 ID:tcCjf0HSo


「たとえば、人と人との距離が……海と空みたいなものだったとしたら、結局、繋がりあえないかもしれないね」

 そう言って彼は、湖の……あるいは海の向こうを指さした。

 今は、凍てついて、静かに広がっている。

「もしかしたら、水平線のむこうで、つながることもあるかもしれない」

「……」

「きみが、たしかめるといいよ」

 そう言って、彼は俺の方を見た。その視線が、少しだけ、背後にブレる。

「……」

 なにかに驚いたように、彼の表情が止まる。
 振り返らなくても、そこに誰が立っているのか分かった気がした。

 けれど俺は、振り返らなかった。

「……じゃあ、俺は行きます」

 そう言って、茂さんの横を俺は通り過ぎた。
 振り返らずに、俺は、凍てついた湖の上を歩いていく。

 結局のところ、彼のことは、今の俺には関係のないことなのだ。
 どうして、ここに来たんだろう。

 でも、この先にきっと、さくらがいるような気がした。

 この凍りついた湖の先に、彼女がいる。
 彼女を見つけなきゃいけない。




511:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/24(木) 22:33:33.85 ID:1DXOvLAao


 これが湖なのか海なのか、もう、わからなくなっていた。
 
 空も水もどこまでも凍てついて、音も匂いもない。

 自分の息遣い、靴音が、やけに大きく聞こえる。
 それもやがて、徐々に曖昧になっていく。

 ここは静かで、何もない。

 ただ、空と海がある。

 行先には、空と海とが混じり合う、一本の線があるだけ。
 四方を見渡しても、元来た森は見当たらない。

 もう、どこまでも何もない。
 無音、無臭、無痛。
 あるのは光と景色だけだ。

 考えてしまう。

 俺は本当に、ここに来なければならなかったんだろうか。
 こんな何もない場所に、本当に来なければいけなかったんだろうか。

 そんな思考ですら、やがて消えていく。

 疲れや渇きも、いずれ消えていく。
 足を動かしているという感覚すらも徐々に消えていく。

sa



512:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/24(木) 22:34:00.84 ID:1DXOvLAao


 最初に音が、
 次に時間が、
 最後に意識が消えていった。

 歩いている、歩いていると思う。
 歩き続けてきたのだと思う。

 歩いていることすら忘れながら、歩き続けている。
 
 いくつかの景色があらわれては消えていく。

 歩いているのだ。
 変化のない景色。
 どこに向かっているのかもわからない。何があるのかもわからない。

 どうして歩くんだろう。
 
 わからなくなっていく。
 何もかもがわからない。

 何を目指して歩いているのか。
 どうして歩いているのか。
 
 そんなことさえ、歩いているうちに、考えなくなっていく。




513:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/24(木) 22:34:27.39 ID:1DXOvLAao


 そして、ふと気付くと、目の前にそれがある。

 予期していたものだ。そこにはグランドピアノがある。
 この景色が『白日』なのだ。

 でもここに、いったい何があるんだろう。

 誰も居ない。
 さくらも、カレハも、佐久間も、"あいつ"も。

 どうして、茂さんは俺をここに連れてきたんだろう。

 わからない。

 空っぽの椅子、誰も見るもののいないグランドピアノ。
 おあつらえ向きに、無音。

 けれど俺はピアノを弾けない。

 ここで俺ができることなんてひとつもない、はずだ。

 けれど、いま、どうしてだろう。
 吸い寄せられるように、指先が、鍵盤のひとつへと伸びていく。

 その瞬間、響いた音が、凍てついた湖面から、空へと泳いでいった。
 
 その一瞬で、何もかもが動き始めた。
 不意に風が吹き、遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。

 雲の影が動き始め、日は俺の影を長く伸ばした。
 
 やがて、足元から、ぴしりと音がして、

 悪い予感のすぐあとに、浮遊感に襲われる。
  
 氷が砕けたと思ったときには、水のなかに沈んでいく。
 体は鉛のように重たい。
 水は透明な膜のようにまとわりついて、俺の感覚を奪っていく。

 冷たさは感じなかった。

 ただ飲まれていく。

 長いようにも短いようにも思える混濁の果てに、どうしてか、
 俺は、高校の文芸部室に立っていた。




514:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/24(木) 22:34:56.42 ID:1DXOvLAao




 
 眼の前の壁には『白日』がある。戸棚には『薄明』が並んでいる。
 部室の中央に置かれた長机といくつかのパイプ椅子。

 窓の外から昼の日差しが差し込んでくる。
 
 少し薄暗い部屋の中で、やれやれ、と俺は思った。

 どうしたもんかな。

 とりあえず、今まで見てきた景色が全部夢だった、なんてオチではないのだろう、きっと。

 だとすれば、俺はここで何かをしなければいけない。
 でも、何かってなんだ?

 目を閉じて、深く息をつく。

 まあ落ち着けよ、と俺は俺に向けて言う。
 ここまで来ちまったんだ、もうやるしかない。

 どうしてこんな場所に辿り着いたのかはよくわからない。
 それでもやることは決まってる。

 ──もうすぐあなたの身にいくつかのことが起きると思う。
 ──それはあなたとは直接関係がないとも言えるし、そうではないとも言える。
 ──でもどちらにしても、あなたはそれを避けることができない。どうがんばったって無理なんです。

 ──あなたはこれからとても暗く深い森に向かうことになる。
 ──森の中には灯りもなく、寄る辺もなく、ただ風だけが吹き抜けている。
 ──あなたはそこで見つけなければいけない。彼女を探し出さなければいけない。

 あーあ、と俺は思った。

 あいつの予言もアテにはならない。
 まさか、そう言ってた本人を探すはめになるなんて、誰が思うだろう。





515:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/24(木) 22:35:31.12 ID:1DXOvLAao


 それでまんまとあの絵の中に入り込んだ。
 カレハの手紙にそう書いてあった。

 さくらは、デミウルゴスの絵の中、だ。

 茂さんの案内に従って、『夜霧』へと向かい、『朝靄』を抜け、『白日』を過ぎた。
 そして今、見慣れた東校舎の文芸部室に、俺は立っている。

 部室の隅の戸棚の中、『薄明』に目を向ける。

 ここで佐久間茂は、あの国を造り上げたのだろうか。

 今は、その中身を確認している状況ではない。

 とはいえどうしたものか。

 ここまで来て案内人もなしとなると、どうしようもない。

 まあ、それも仕方ないか。

 そもそもの話、ここまで来られたこと自体が奇跡みたいなものだ。
 ここで正解だったのかも、まだ、わからないけれど。

 それでもあいつは学校にしかいない。
 だからきっと、ここでいいんだろう。

 どんな理屈で氷が割れた先が高校なのかとか、そんなことはいまさら考えたって仕方ない。




516:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/24(木) 22:35:56.95 ID:1DXOvLAao


 最初から全部嘘みたいな話だった。

 俺にしか見えない誰かとか、人が消えるとか、絵の中の国とか、そんなもの。

 そんなあれこれの中で言ったら、むしろわかりやすいくらいだ。

「さて」と俺は声に出して呟いた。

 探すしかない。
 俺はそのために来たのだ。

 さくらを見つけて、『合一』とやらを果たす。
 どっちにしたって、そうしないとならない。

 でも……。

 どうして、そうしなきゃいけないんだっけ?




517:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/24(木) 22:36:42.47 ID:1DXOvLAao



 とにかく、周りには誰もいない。俺は部室を出て、廊下へと出る。

 なんだか不思議な違和感があった。
 それがなんなのか、最初はわからなかった。
 
 徐々にそれに慣れていき、やがてはっとした。

 人の声が聞こえる。

 誰かが喋っている。

 少し考えてから、それどころの話ではないことに気付いた。

 廊下に並ぶ文化部の部室から漏れる話し声。
 開けられた窓からは、中庭にいる誰かの笑い声。

 悪い冗談だ。
 
 どうして人がいるんだ?

 ここは現実か? それとも『むこう』か?

 ……手をこまねいていても、埒が明かない。

 埒を明かしたいのかい、と佐久間茂は言った。

 今は埒を明かしたい。

 そのために、まず、どうするか。
 ひとつずつ確かめるしかないだろう。




518:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/01/24(木) 22:37:09.60 ID:1DXOvLAao


 
 階段を降り、中庭を目指す。
 声が聞こえた中だと、そこがいちばん、気分的に近づきやすく思えた。

 そこに、さくらが立っていた。

 彼女は、俺を見て、俺も彼女を見た。

 それなのに、透明な壁があるみたいに、彼女の目は俺をとらえていないように思える。

 それでも彼女は、

「あなたは──」

 と、そう声をあげた。

「……どういうつもりで、ここに来たんですか?」

 そんな言葉が聞こえた瞬間、
 彼女の体が一瞬の瞬きの間に消えていた。
 
 光の粒になって辺りに溶けたみたいに。

 気付けば俺はひとりで立っている。

 笑い声はまだ聞こえている。
 
 今起きたことの意味が掴めない。
 
 ……結局のところ、どうにかして、あいつを捕まえるしかない。

 どういうつもりで?
 何のために?

 その答えは、まだ浮かばないけれど。




527:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/06(水) 00:12:10.04 ID:b3EeR47mo




 中庭に取り残されている。笑い声はまだ聞こえている。

 人々がいる。それが分かる。

 それなのに奇妙な感覚だった。
 
 この校舎のなかにいる誰もが、俺を認識していないという、確信に近い感覚。
 
 試しに俺はあちこちを歩きながら、いろんな生徒たちの様子を見てみた。
 一度は話しかけてもみた。けれど彼ら彼女らは俺の声にまったく反応を示さなかった。

 俺の姿は誰にも見えていない。

 それは当然のことだという気もした、けれど。





528:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/06(水) 00:12:38.23 ID:b3EeR47mo


 渡り廊下には市川鈴音が居た。

「市川」
 
 と声を掛けてみるけれど、反応はない。

 校舎の廊下を真中とコマツナが歩いていく。

「真中」

 と声を掛けてみるけれど、やはり反応はない。
 
 追いかけるようにちせが走り抜けていく。

 図書室には大野がいる。
 
「大野」

 と声を掛けたところで、彼は顔を上げる素振りも見せない。

 自分が誰にも見えていない、自分の声が誰にも聞こえていないというよりは、
 世界中のすべてに無視されているような気がした。




529:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/06(水) 00:13:06.23 ID:b3EeR47mo



 自分の居場所がどこにもない、自分がどこにいていいのかわからない。
 誰にも自分の声が聞こえていない。

 あの日のような感覚だと、ぼんやりと考える。

 この場所はいけない、と俺は思う。
 この場所は俺に何かを突きつけようとしている。
 
「さくら!」

 と、叫んでみたところで、どこからも返事はない。

 たしかに、さっき、姿を見たはずなのだ。
 あいつはどこかに隠れているはずなのだ。

 それなのに、どこからも返事がない。
 
 チャイムが鳴って人々が教室へと去っていく。
 散らかった部屋がひとりでに片付いていくみたいに、あるべき場所にみんなが戻っていく。

 俺には帰る場所がない。




530:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/06(水) 00:14:51.70 ID:b3EeR47mo


 少しだけ考えて、俺はポケットの中の携帯電話を取り出した。
 
 電源は入っている。
 
 よくわからない状況だった。これがなにかに使えるのではないかという気がしたけれど、具体的には何も浮かばない。

 誰かに電話をかける? それでどうする?
 仮につながったとして、誰がこの状況をどうにかできるっていうんだろう。

 まいったな、と俺は思った。

 ここは異質だ。どう考えても、あの森とは別のルールで動いている。

 でも俺はここで何をすればいい?
 さくらを連れ戻しに来た。それはたしかなはずなのに。それだけだったはずなのに。

 このままでは、ただ帰るだけでさえ覚束ない。
 出口があるのかさえ、わからない。

 まいったな、と、そう思っていられるのは最初だけだった。

 授業が終わって、生徒たちが校舎にあふれる。
 そしてやがて黄昏をすぎ、夜が来る。

 校舎から人が減っていく。
 
 誰もいなくなってから、長い長い夜がやってくる。

 みんな気付いていないけれど、そうなのだ。
 本当に世界を支配しているのは、夜だ。
 
 人はまるでそれを克服したような顔をしているけれど、夜なのだ。

 夜はおそろしい。
 何が潜んでいるのかもわからない暗闇。




531:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/06(水) 00:15:25.10 ID:b3EeR47mo


 夜の校舎を亡霊のようにさまよっていると、自分自身が自分自身ではなく、ひとつの現象にすぎないような感覚があらわれる。

 時間の流れがおそろしくゆるやかだった。
 
 夜の校舎は冷え冷えとした空気に澄んでいる。

 もう誰の声も聞こえない。
 
 窓の外には月だけが浮かんでいる。

 思い出すのは夜の森。

 ざわつく葉擦れの音、
 今に聞こえそうだ。

 今に……。

 現れるかもしれない。

 溜息をついて、やり過ごそうとする。

 真夜中の校舎に新鮮味なんてほとんどない。

 ただ明かりもなく暗いだけ。
 なにもない。

 寒々しい気配、
 聞こえる、
 聞こえる。





532:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/06(水) 00:16:01.86 ID:b3EeR47mo


「……」

 今に現れる。

 そんなわけがないだろ、と俺は思う。

 俺は今歩いている。
 廊下を、教室を、渡り廊下を、亡霊のように歩いている。

 さくらはまだ見つからない。

 どこにもいない。

 早くしないと。
 早く見つけないと、さくらを早く見つけないと。

 早くしないと、現れる。

 あいつが……。
 あいつが来てしまう。





533:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/06(水) 00:16:30.80 ID:b3EeR47mo


 森の中、葉擦れの音、
 あの景色はもう俺の視界のどこにもない。

 それなのに、近づいている。

 どうして今更思い出してしまったんだろう。

 あの森を平気で歩けた理由が、今はわかる。
 子供の頃、あの森をあんなに恐れていたのに、どうして今は平気で歩けたのか。

 ……でも、あれは本当なのか?

 あいつは……。

 あいつは、
 でも、今は夜だ。

 夜は暗い。夜は長い。夜はおそろしい。
 でも、あんなことは、全部……

「──人を悪者扱いするなよ」

「……」

 嘘だ、と思った。
 これは悪い夢なんだ。

 あいつは全部夢だったはずなんだ。




534:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/06(水) 00:17:23.64 ID:b3EeR47mo


 あの森には俺しかいなくて、そこにはただ、月と梢の音が聞こえるだけだったはずなんだ。

「都合の悪いことから逃げる癖は治ってないみたいだな」

 それなのに、声が聞こえる。

「……そんな反応されると傷つくな」

「……」

「話をしようぜ、まあ、べつに大した話じゃないが」

「……」

「なんだよ、付き合い悪いな。いいだろ?」

 声は、俺の頭の中で響いている。
 スワンプマンや、カレハや、佐久間茂とも違う。

「──どうせ誰も、おまえのことなんて迎えに来ないんだから」

 逃げ切れない。逃げ切れなかった。
『夜』が来てしまった。






541:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/07(木) 00:25:46.28 ID:yhQ75zcUo



「ずいぶん懐かしいな」

 本当はずっとわかっていた。

「こうして話すのはいつぶりだろうな?」

 ずっとずっと気付いていた。

「つれないな。少しは反応しろよ」

 あの森がどうしてあんなに恐ろしかったのか、俺はずっと気付かないふりをしていた。

 葉擦れの音が、二重の景色が、あんなに怖かったのは、ただ、あそこに置き去りにされたからじゃない。
 この声が聞こえたからだ。

「どうだい?」

「……うるせえよ」

「聞こえてるんじゃないか」

 けたけたと笑うように声は言う。

「無視するなよ」

「……うるせえって言ったんだよ」




542:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/07(木) 00:26:29.64 ID:yhQ75zcUo



 息をついて、壁にもたれる。ここは教室だ。夜の教室。机が並んでいる。
 何年何組の教室かはわからない。それでも窓から空が見える。

 夜が覗いている。

「どうだい、調子は」

「おまえが来るまで好調だったよ」

「減らず口だな、相変わらず」

「……」

「なにか言いたげだな」

「喋るなって言ってるんだよ」

「ずいぶん強気になったな?」

「うるせえよ。……おまえなんて、俺の幻聴のくせに、うるせえんだよ」

「おまえらはいつもそうだな」と声は言う。

「都合が悪くなると、すぐに幻聴だとか、幻覚だとか言う。無意識の擬人化とか、そういうふうに、まるで自分の内部かのようなことを言う」

「……」

「佐久間とか言う奴もそうだっただろう。暗闇の中にはなにもないなんて言ってやがった。あいつは根本をわかっちゃいない」

「……」




543:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/07(木) 00:27:02.46 ID:yhQ75zcUo


「本当に暗闇に何もなかったら、ただの拗ねたガキでしかないあいつに、どうやってこんな世界が作れる?」

「うるせえって言ってんだよ」

「分かるだろう。ここは誰かの無意識でも自意識でもなんでもない」

「……」

「森は在る。俺が作ってやったからな」

「……わけわかんねえんだよ、バカ」

「今日はやけに喋ってくれるな。心細かったか?」

「……なんなんだよ」

「ん?」

「なんなんだよ、おまえは……」

「何でもないさ」

「……」

「何でもない。ただ在るだけだ」

「……それらしいこと言って誤魔化してんじゃねえよ。おまえは俺の幻覚だろうが」

「口調が荒いな。いつもの余裕はどうした? 何を言われたくなくて焦ってる?」

「……」

「そんなにショックだったか?」

「……」

「なあ、おまえが不貞の子だってことがそんなにショックだったかって訊いてるんだよ」

「デタラメ言ってんじゃねえよ……」

「デタラメなんて思ってないくせによく言うよ」




544:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/07(木) 00:27:33.84 ID:yhQ75zcUo



「……もう黙れ」

「勝手にしゃべるさ。おまえ、自分がどうして妹にあんなに縋ってるのか気付いてないわけじゃないだろ」

「……」

「だってそうだろう? 本当に両親から生まれた子供がいなかったら、おまえとおまえの両親のつながりなんて希薄なもんだもんな」

「……」

「ま、こんな話はどうでもいいさ」

「……信じねえよ、そんな話」

「そうかい?」

「おまえは俺の妄想だろうが」

「だから、そうじゃないって。前も教えてやっただろう? おまえが知らないことを、たくさん教えてやったじゃないか」

「……うるさいって」

「さんざん教えてやったじゃないか」

「何がしたいんだよ」

「ん?」

「何がしたくて俺にちょっかいかけてくるんだよ。……ほっといてくれ」

「そんなの決まってるだろ」

「……」

「俺はおまえみたいなガキが不幸になるのを見過ごせないんだよ」




545:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/07(木) 00:28:09.65 ID:yhQ75zcUo


「不幸?」

「だってそうだろ? 欲しいものもないやりたいこともない行きたい場所もない。
 目指す場所なんて最初からなくてただなんとなく生きてるだけ。それがなんともしんどいじゃないか。
 生きてる理由なんてひとつも思いつかない。誰かの劣化品でしかないし、そもそも自分が本物かどうかもわからない」

「……」

「不幸だよ、大層な」

「……」

「しんどいだけの日々なのに、どうせ死ぬまでそれが続くのに、なんでかそれを続けてる。
 ずっと引き伸ばしてる。しんどいのをやり過ごして、でもやり過ごしてもどうせまたしんどいんだ。
 なんでそれを続けなくちゃいけない?」

「……何言ってんだ、おまえ」

「何言ってんだよ、おまえの方こそ」

「……」

「それともおまえ、まさか本当に、おまえがこの森で何かを失くしたとでも思ってるのか?」

「……」

「前も教えてやっただろ。この森でおまえが失くしたものなんてひとつもねえよ。
 あいつも言ってただろ。すべては弾性を持ってる。ここでおまえが失くしたものなんておまえはとっくに取り戻してた」

「……」

「おまえは何かを失くしたんじゃない。最初から何も持ってなかったんだよ。
 何か理由があって何も欲しがれないんじゃない。何も求められないんじゃない。
 おまえは最初から何も求めてなんかいなかったのさ」

「……うるせえ」

「おまえには何もないよ」

「うるせえって。そんなこと……そんなこと、ねえよ」

「ないよ」




546:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/07(木) 00:28:55.72 ID:yhQ75zcUo


「何が無いっていうんだよ」

「何も無いって言ってるんだよ」

「……」

「おまえ、あのさくらとかいうやつを探してるんだろ?」

「……」

「あいつがいつか言ってたよな。おまえはすごく恵まれてるって。それなのにどうしてつまらなそうな顔をしてるんだって」

「……」

「そうだよな。おまえはすごく恵まれてる。周りには良いやつばっかりだ。なんにも悪いことなんて起きてない。
 結局全部おまえが満たされるように作られてる。だからだろ?」

「やめろよ」

「おまえはそれが嫌だったんだろ?」

「……」

「おまえは周囲に嫌な奴が居て欲しかったんだよな。自分に厳しい世界であってほしかったんだよな。
 だって周りが良い奴ばかりだと……自分が惨めになるもんな?」

「……」

「それに良い奴ばかりだと……死にたいなんて言いにくいだろ?」

「……」

 なんなんだ、
 なんなんだ、こいつは。




547:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/07(木) 00:29:27.61 ID:yhQ75zcUo


「だっておまえは何もほしくないのに、何もしたくないのに、生きてる意味なんてなんにも思いつかないのに、
 生きててしたいことなんて一個もないのに、生きてても自分の不出来が嫌になるだけなのに、
 なんにもできない自分が疎ましくなるだけなのに、自分より全然上手くできる奴らがおまえを許してたら、許されるしかないもんな」

「……」

「周囲が良い奴だと、おまえみたいなクズは弱音も吐けなくて大変だよな。
 いや……弱音を吐いて、弱ったふりをして、プライドを切り売りして、どうにか居場所でも作ってたか?」

「……」

「なあ、だから安心しただろ? ここに戻ってこられて」

「何言ってんだ、おまえ」

「あのときに言ってやっただろ、どうせおまえは生きてたってそのまんまだよ、良いことがあったってしんどいままだよって。
 だからもう森から出るなって俺は言ってやったじゃねえか。おまえが不幸になるだけだって。
 そんなことないっておまえはビービー泣いてたな。でもどうだ? 結果はどうだった? なあ、俺が訊いてるんだよ」

「うるせえよ」

「さんざん待ってやったんだ。答えくらい聞かせろよ。……なあ、どうだよ、救いとやらは見つかったか?」

「……」

「おまえはおまえを許せたかって訊いてるんだよ。……誰かがおまえを許すかどうかじゃなくてな」

 夜が、
 夜が続く。

 耳の奥に、誰かのすすり泣きを聴いている。

「勘弁してくれよ」と俺はひとりごとを言う。
 夜は始まったばかりなのだ。




551:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/07(木) 22:48:20.13 ID:yhQ75zcUo



「鴻ノ巣ちどりは駄目だ」と声は言う。

「あいつはおまえのことなんて見ちゃいない。あいつが見ているおまえはあいつが見ている理想像としてのおまえでしかない。
 あいつはおまえの弱さを受け入れられないし、おまえの弱さを美化しすぎている。だから鴻ノ巣ちどりは駄目だ」

 声は続ける。

「瀬尾青葉も駄目だ。あいつはおまえの弱さを知らない。知らなさすぎる。
 あいつはおまえという人間のろくでもなさを低く見積もりすぎている。その重さに気付いたらすぐに投げ出すさ」

 声は続く。

「大野辰巳はおまえを高く評価しすぎている。それはおまえの実像とは離れすぎている。
 だからあいつも駄目だ。あいつはおまえのことを変わり者だと思っている。仮におまえが助けを求めたって、あいつは変な顔をしておしまいだろうさ」

 声は続く。

「市川鈴音はおまえにさほど興味がない。当然駄目だ。ある意味付き合いやすくはあるだろうが、あいつはおまえが消えても興味を示さないだろう。
 だから市川鈴音も駄目だ。それにあいつはそもそも種類が違う」

 声は続いている。

「宮崎ちせもそのとおりだ。そもそもあいつにとってはおまえは人間じゃない。あいつにとっておまえはフィギュアみたいなもんだ。
 勝手に自分に都合の良い像を投影しているだけ。おまえがちょっとでもその像からはずれればすぐに失望するさ」

 声は、夜は、
 終わらない。

「泉澤怜はどうだ? あいつはエゴの自意識の塊だ。あいつにとっておまえらの存在なんて自分の力の二の次でしかない。
 あいつの好奇心はいつもおまえたちを置き去りにしてきた。あいつは人間に興味が無いんだ」

 途切れない。

「三枝純佳は一番駄目だ。あいつにとってはおまえの弱さが都合が良いんだ。
 あいつはおまえの弱さに安堵している。おまえが不安がれば不安がるほどあいつは嬉しいんだ。そんなのまともじゃない」

 呪詛は続いていく。





552:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/07(木) 22:48:52.49 ID:yhQ75zcUo


 六年前、あのときも俺はこうしてこの声を聴いていた気がする。
 もう、記憶のなかですら曖昧だけれど、こうなってみればはっきりと思い出せる。

 この呪詛はずっと降り続いていた。
 
 絶え間ない雨のように俺を濡らし続けていた。

 あの暗い森のなかで、俺はこの呪いをずっと浴びせられていた。

 こいつが何なのか俺は知らない。
 何がしたいのかもわからない。

 けれど耳をふさいでも無駄なのだ。

 葉擦れの音と、
 夜の空、
 それだけならばまだしもよかった。

 この声が……。

「人のせいにするなよ」と声は言う。

「おまえは最初から空っぽだろう」

 そうして声は続ける。




553:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/07(木) 22:49:47.35 ID:yhQ75zcUo


「さくらを見つけてそれでどうする? あいつを引き戻してどうするんだ?
 瀬尾青葉のときもそうだったじゃないか。あいつを見つけて、そのあとはどうする?
 それで全部おしまいだ。元通りになって、やっぱり空っぽな自分があるだけ。それを突きつけられて、誰かのせいにして……。
 でも、誰かのせいにしたところで、おまえが求めてるものなんてどこにもありゃしない」

「……」

「だから、なあ、全部やめにしちまおうぜ」

「……」

「もういいだろ。よく頑張ったよおまえは、何にもないくせによくそこまで生き延びたよ」

 俺は……

「疲れただろう? おまえは最初からずっと……」

 俺は、

「ずっと、ひとりになりたかったんだよな」

 そう、なのだろうか。

「周りがまともで優しければ優しいほど、つらかっただろ?」

 俺は、

「自分が駄目なんだって思わされて、優しくされればされるほど、自分がそこに居るべきではない気がして」

「……」

「自分がそこにいるべきではないような気がして、自分にふさわしい場所なんてどこにもないように思えて……」

「……」

「だからおまえは、ずっと、『自分の居場所じゃないような気がする』って思い続けてたんだろ?」

「……」

「誰が認めなくたって、おまえが頑張ったんだって、俺が認めてやるよ。
 ほら、もう休めよ。周りに人がいればいるほどおまえは孤独になっていく」

「……」




554:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/07(木) 22:50:49.92 ID:yhQ75zcUo


「べつにおまえは悪くないのに、何にも欲しくなくて、でもそんなこと言うとみんなに変な顔されるから。
 みんなが望むように振る舞って、何か望んでるふりをして、何かあるふりをして、この森のせいで変な音まで聞き続けて、
 それなのにおまえは拗ねずによく頑張ったって。でも、誰もおまえを楽になんてしてくれないんだ」

 おまえはどこにも行けないんだ。

「だからもういいだろ? なあ、俺は親切心で言ってるんだ。おまえは死ぬべきだって」

「……」

「『桜の森の満開の下』……あれがなんで孤独なのか、分かるだろ?」

「……」

「人と人とが触れ合おうとする、その距離に孤独は生まれる」

「……」

「だからここは孤独じゃないんだ。本当にひとりになったとき、人は孤独には決してなれない」

「……」

「だから永遠にここにいればいい」




555:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/07(木) 22:51:15.97 ID:yhQ75zcUo





 夜が明け、声が消えた。

 生徒たちの姿がまたあらわれはじめる。
 俺はその様子をただ黙って眺めている。

 相変わらず、誰も俺には気付かない。

 やり過ごした、と思った。
 
 体の感覚があるのが不思議だった。ものすごく眠たいのに、眠ることができない。
 体の節々が痛んでいる。

 どれくらいの間歩いてきたんだっけ。
 どのくらいの距離を歩いてきたんだっけ。

 もう思い出せない。

 さくらを見つけなければ、いけない。

 また夜が訪れる前に。

 むこうの時間はどうなっているんだろう。

 ここで夜が明けたということは……むこうでも同じくらいの時間が経ったということだろうか。

 ただでさえ眠らずに、何もできずに過ごす夜は長い。

 あんな声を聞かされ続けたら、まるで永遠に終わらないようにさえ思えた。

 それでも俺はまだ折れていないつもりだ。

 こんな夜は、今までだって何度も超えてきた。
 あんな言葉なんかで壊されていられない。




556:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/07(木) 22:51:48.32 ID:yhQ75zcUo


 考えなきゃいけない。
 
 どうしてさくらは俺の前に姿を見せ、すぐに消えたのか。

 いったいなぜ、さくらは俺に会ってくれないのか。

 さくらはそもそも、どうしていなくならなきゃいけなかったのか。

 そもそも──さくらはいったい、なんなんだ?

 仮説。

 一、ましろ先輩の『空想の友達』を、
 二、佐久間茂の『森』が具象化した。
 三、具象化された『さくら』のスワンプマンとして『カレハ』が生まれた。

 カレハもさくらも変な能力を持っている。そこに関しては、考えてもどうしようもない。 

 けれど……

 だとしたらどうして、さくらは『守り神』になんてなった?
 どうして、学校から出られない?

 推論。

 一、さくらはなんらかの理由で守り神として具象化した。
 二、誰かがさくらに守り神としての役割を与えた。
 三、単にさくらが守り神を自称している。

 いや……“違う”。

 ──……守り神さんか。

 ──なんです、それ。

 さくらは、自分のことを守り神だなんて、一度も言っていない。




557:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/07(木) 22:52:21.52 ID:yhQ75zcUo


 ──きみはいったい、なんなんだ?

 ──残念ながら、わたしはその問いの答えを知らないんです。

 さくらにはそもそも“何の役割も与えられてなんかない”。

 さくらはそもそも何者でもない。少なくともさくら自身は、自分が何者かなんてわかっていなかった。

 さくらは……。

 ──じゃあ、おまえは……人知れず、恋の手伝いをしているわけか?

 ──我が意を得たりとはこのことです。そのとおり。わたしは今そのために生きています。

“わたしは今そのために生きています。”

 どうしてだ?

 ──世界は、愛に満ちているんです。

 世界は愛に満ちている。

 そしてあいつは、からっぽになった俺に、からっぽじゃなくなった頃のことを思い出させると言った。

 けれど……。




558:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/07(木) 22:58:02.19 ID:yhQ75zcUo


 俺は、周囲の様子を見る。校舎のなか、騒がしく響く生徒たちの声。
 あいつはこれをずっと眺めていたという。
 それ以前の記憶はないという。

 それならば、どうして……この世界が愛に溢れてるなんて思えたんだろう。

 どうして、誰かと誰かを結びつけることのために生きようなんて思えたんだろう。

 さくらは……この景色に、何を見たんだろう。
 
 誰とも繋がれない場所で、どうしてあいつは、あんなふうにみんなを愛せたんだろう。

 そう思った瞬間、涙がこぼれそうなくらいに感情が溢れ出してきた。
 
 だってあいつは誰とも会えなかったはずなのだ。
 あいつの声はどこにも聞こえていなかったし、あいつの姿は誰にも見えていなかった。

 誰もあいつを知らないし、だから誰もあいつに感謝なんてしなかった。

 あの日俺は、暗い森でひとりぼっちだった。

 それよりもずっと長い時間、あいつは俺なんかよりずっと深い孤独のなかにいたはずだったのに。

 どうしてあいつは、平気でいられたんだろう。

 俺には分かりそうもない。

 言葉で理解できたとしても、実感できそうにない。

 ……考えても仕方ない。
 あいつが逃げるなら、俺は捕まえようとするしかない。

 でも俺は、あいつを見つけて、何を言えばいいんだろう。




566:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/15(金) 21:17:41.69 ID:moRpKdxQo



 結局俺は誰にも見えないままだ。

 誰に話しかけても、誰に会っても、誰も俺のことを見ない。

 いっそ誰かの内緒話でも聞いてみようか、それとも女子の着替えでも覗こうかと思ったが、
 既にそんなことを楽しむような余裕もない。

「さて、どうしたもんかな」

 と、努めて落ち着いたふうを装って、自分に訊ねてみる。

 ひとまず片っ端からさくらの居そうなところを探したけれど、残念ながら見つからない。

 最後に思いついたのが屋上だったが、鍵がかかっていた。

 学校帰りに『トレーン』に寄ったから、今の俺は制服のままだ。
 ポケットには屋上の鍵があるのに、どうしてかそれでは扉は開かなかった。

 開かないということは、そこになにかの意味があるということだ。
 それはたしかだと思う。

 とはいえ、それが何を意味するのかわからない。

 屋上に繋がる扉の前に、俺は座り込んだ。




567:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/15(金) 21:18:17.18 ID:moRpKdxQo


 どうしても、何度もさくらのことを考えてしまう。

 さくらは何を思って、この校舎のなかで生きてきたんだろう。

 さくらが守り神になった理由。
 さくらが縁結びを始めた理由。
 
 そんなことばかりを考えて、それなのにどうしても答えが出てこない。

 今、それを考えることが必要な気がするのに。

 誰にも聞こえない、誰も触れられない。
 
 いま、この状態がさくらの経験していることだとしたら、さくらはどうしてあんなことを求めたんだろう。
 何かを変えられる力を持っていたから?

 からっぽじゃなかったから?

 堂々巡りの思考のうちに、約束のように日が暮れていく。

 



568:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/15(金) 21:18:43.82 ID:moRpKdxQo


 俺はいまさくらと同じような状況に陥っている。それでもさくらの気持ちはわかりそうにない。
 俺には過去があり、さくらにはそれがなかった。

 さくらは気がついたらこの学校にいた。誰からも何の説明も受けず、誰にも話しかけられず。

 そしてましろ先輩に出会う頃には、もう守り神だった。縁結びの神様だった。

 さくらはどこかで、その使命を帯びた。

 ……違うのかもしれない。

 さくらは、自分でそう決めたのかもしれない。

 自分の役目を自分で決めた。
 一度そう思うと、それ以外に考えられないような気がする。

 ──わたしは気付いたら、この場所にいました。そのことに疑問を覚えたことなんてなかった。
 
 さくらは気付いたら学校にいた。
 そして、さくらは誰にも会っていない、ましろ先輩以外には、さくらと話せる人間もいなかった。

 ──いつからここにいたのかなんて、覚えてない。わたしを見つけたのは、ましろが初めてです。
 ──少なくとも、覚えているかぎりだと、そうです。それまでわたしはずっとひとりだった。

 だとすればそうだ。

 さくらが自分で、そうしようと決めたのだ。




569:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/15(金) 21:19:13.35 ID:moRpKdxQo



 どうしてあいつは、世界は愛でできているなんて、そんなふうに言えたのか?

 あいつは人の心が読めた。
 そして少しだけ、世界に働きかけることができた。
 それがどんな形だったのかはわからないけれど、あいつは、そうすることができた。

 ──わたしは、誰にも見つからないまま、小細工や、与えられた力のいくつかを使って、人と人とを結びつけてきました。
 ──誰に褒められなくたって、それがわたしのやるべきことだった。

 ──どうしてかは、知らない。ただそれは、わたしがそういうものだから、そういうふうに作られたから。生まれたときから、そういう存在だったから。

 けれど違う。

 ましろ先輩は、『さくらをそんな存在として作らなかった』。
 そうである以上、さくらは生まれたときからそうだったわけじゃない。

 あいつは誰かの心を読み、そして、偶然かどうか、誰かの想いを実らせた。

 それを自分の存在理由だと考えることにした。

 だって、それ以外に何もないのだ。




570:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/15(金) 21:19:46.61 ID:moRpKdxQo


 ──わからないんです。なにも。自分が何者で、何のために生まれたのかも。

 本当に誰かから与えられた務めなら、そういう存在として生まれたなら、そんな疑問が生まれるわけがない。

 それまで何もなかったさくらに、『誰かの恋を実らせる』という理由ができた。

 そうだとしたら、あいつがあんなふうに、縁結びなんて変なことにこだわっていたのは、
 きっと、あいつが孤独だったからかもしれない。

 それ以外に、世界に関わる方法がなかったからかもしれない。

 だからあいつは、世界は愛でできていると言った。
 そのために自分がいるのだと考えることにした。

 自分は誰とも関われないままで、誰かを憎むこともせずに、ずっとひとりぼっちのまま、
 誰かの幸せを願い続けてきた。
 



571:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/15(金) 21:20:30.40 ID:moRpKdxQo



 どうして今さくらに会えないんだろう。

 さくらに何かを言いたくて仕方がないのに、何を言えばいいのかわからない。
 
 瞼を閉じて、これまでのことを考えた。
 
 真中が入学して、大野が入部して、市川が部活に出るようになった。
 さくらに会って、大野が文章を書けるようになって、部誌を作った。

 瀬尾がいなくなって、ちせと会って、怜が帰ってきて、
 ましろ先輩と会って、ちどりがいて、純佳がいて、
 瀬尾が帰ってきて、俺は変になって、

 さくらがいなくなった。

 こんな振り回されるだけの日々の中で、俺は本当に何かひとつでも自分の意思で行動してきただろうか。
 今まで俺は何かを求めてきたんだろうか。

 考えろ、と頭の中で誰かが言った。

 そうだな、と俺は答えた。

 不意にポケットの中で携帯が震えた。

 メッセージが届いている。

『さくらのこと、よろしくね』

 そんなメッセージが、今、不意に届く。
 やっぱりあの人は、超能力者か何かなのかもしれない。

『それが鍵の代金です』





572:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/15(金) 21:21:00.00 ID:moRpKdxQo



「……」

 俺は、
 どうしたい?

 いつまでもぐだぐだと何もしたくないと文句を言ってばかりだ。
 さんざん甘やかされてきたくせに、それでも何にもしたいことなんて思い浮かばない。

 誰かと一緒に過ごすなんて重苦しくて嫌だった。
 周りのみんながいいやつばかりなのに、そうなれない自分が嫌いだった。

 誰かが俺を好きになるなんて信じられないし、自分で自分を好きになるなんて不可能ごとに思えた。

 いつも茶化してごまかしてきた。

 瀬尾が帰ってきたあと、自分にうんざりしたのは、そのせいだ。
 結局俺は、ただ、与えられた課題をこなしてきただけだ。

 誰かの立てた筋書き通りに動いていただけだ。
 だから、いざ自分で動けと言われると、何もできなくなる。

 今だってそうだった。

 でも、

 ──あなたは……どういうつもりで、ここに来たんですか?

 俺は、
 




573:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/15(金) 21:21:50.16 ID:moRpKdxQo



「どうだい」と声が言った。

「そろそろここに住み着く決心がついたか?」

 夜が来た。
 どんな声も誰にも届かない、誰も迎えにこない、誰も自分を求めない、
 そんな夜だ。

 でも、それは、さくらがずっと居た場所だ。

「……なあ」と、俺は声をあげた。

「なんだよ。珍しいな、今日は返事をくれるのか」

「おまえ、言ったな。この世界を作ったのは本当はおまえだって」

「ああ、言ったばかりだろう、あんな拗ねたガキに世界を作る力なんてあるわけないんだから」

「……佐久間茂がこの世界を考えた。おまえがそれを作った」

「そうなる」

「ましろ先輩が、さくらを考えた。この世界が、さくらを作った」

「そうだな」

 だとしたらきっと、ここは、孤独が生んだ国なんだろう。




574:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/15(金) 21:22:30.38 ID:moRpKdxQo


 ──味方ですから。兄がどんなにずるくても、ひどくても、たぶん許しちゃうと思うんです。

 ──じゃあ、ひいきなしでもマシな人間にならないとな。

 ……なんだよ、
 自分で分かってるんじゃないか。

 さんざん唸って、呻いて、喚いてきたのは、
 自分が思うほど自分がマシな人間じゃないからだ。

 何ひとつほしいと思えないのは、手に入れたところで離れていくとしか思えないからだ。
 声をあげたところで、誰も来てくれないと思っていたからだ。

 なるほど、オーケー、了解。

 ──先輩は、それでいいんですか。
 ──先輩は、柚子と、どうなりたかったんですか?

 ──おまえはどうなりたかったんだよ。どうしたかったんだよ、真中を。

 ──きみにも、探しものがあるんだと思うんだ。
 ──見つけてあげてよ。じゃないと怒るよ。

 ──自分がなにかくらい、きっと、自分で見つけてみせますから。
 ──でも、嬉しい。……約束ですよ。




575:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/15(金) 21:23:07.38 ID:moRpKdxQo


「"全部片付いたら、おまえに付き合ってまた芝居をしてやる"」

 俺はそう言った。忘れてなんかいない。

「答えは決まったかい」

「うるせえよ」

「ひどいな」

「今大事なとこなんだ。ちょっと黙ってろ。どうせおまえは有り余るくらいに時間があるんだろう」

「……ま、そういう言い方もできるな」

「俺は帰るよ」

「……また傷つくだけだぜ」

「うるせえな、おまえと違って俺は忙しいんだよ」

「……そうかい」

 立ち上がって、扉の前に立つ。

 もう一度、鍵を差し込んだ。

 ゆっくりと、それを回す。
 鍵の開く音が聞こえた。




581:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/20(水) 00:41:46.27 ID:VaWGBfBWo




「……なにをしにここに来たんですか」

「……何拗ねてるんだよ」

「拗ねてません」

 屋上のフェンスにむかって、彼女は立っている。背中だけが、こちらから見える。
 景色は夜。まだ、明けたりはしない。

「べつに何かがあったわけじゃないんです」

 そんな喋り方がいつもどおりで、俺は少しだけほっとした。

「正直言っていいか?」

「なんですか」

「結局のところ、なんだけどさ」

「はい」

「ぜんぶ、よくわかんなかったよ」

「……なにがですか?」

「ここがどんな場所かとか、どんな意味があるのかとか、俺に欠けてるものがなんなのかとか」

「……」

「ぜんぶよくわかんなかった」

「……そうですか」

 ほんのすこしだけ拍子抜けしたみたいに、さくらは溜息をついてから振り返った。




582:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/20(水) 00:42:16.18 ID:VaWGBfBWo


「さくら」

「はい」

「おまえ言ったよな。俺にからっぽじゃなかった頃のことを思い出させるって」

「……はい」

「できそうか?」

「……さあ」

「自信なさげだな」

「いまは、自信がないです」

「どうしてこんなところにいるんだ?」

「わかりません」

 と、さくらはそう言って、俺の目を見た。

「ずっとわからないままなんです」

「だよな」

 と俺は頷いた。

 何にもわかりっこない。




583:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/20(水) 00:42:47.35 ID:VaWGBfBWo


 さくらはでみうるごすのえのなか。

 あなたのなかのかれとごういつをはたして。

 よげんをはたして、あのこをむかえにいって。

 ……"あなたのなかのかれ"って、なんのことだろう。

 でも、もしそんなものがもしあるとしたら、俺の中にいるのなら、"彼"とやらはもう俺だろう。
 合一もなにも、最初から俺なのだ。

 もし違うとしても、食べたものが徐々に消化されていくように、やがて馴染んでいくだろう。
 今は少し不自然だったとしても。

 そんなのはきっと、誰かに言われるようなことじゃない。

 問題は今、目の前にいるこの子に何を言えるかということだ。

 でも、

「……駄目だな」

「……何がですか?」

「結局、何を言えばいいのか、よくわからん」

「そんなこと、期待してません」

「そっか」

「はい」




584:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/20(水) 00:43:15.61 ID:VaWGBfBWo


 さくらは、何か言いたげに、あるいは、何も聞かれたくなさそうに、うつむいたままだった。

 俺はそれをどうすればいいかもわからない。

 三枝隼。さえぐさしゅん。

 改めて考えてみても、なんだか自分の名前じゃないような気がする。

「ひとりで、ここまで来たんですか」

「……ん。いや、案内人がいた」

「案内人ですか」

「……」

「どうして、ここがわかったんですか」

「……屋上?」

「違います。こっちにわたしがいるって、どうしてわかったんですか」

「教えられたから」

「それで、どうして……」

「……」

「どうして、ここまで来たんですか」

「……さあ?」




585:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/20(水) 00:43:41.73 ID:VaWGBfBWo


「さあ、って……」

「よくわからないんだよ、全部」

 本当にそうなのだ。
 俺には全部よくわからない。

「なんでかわかんないけど、俺にはさくらが見える」

「はい」

「なんでかわかんないけど、神隠しに遭った」

「はい」

「なんでかわかんないけど、風景が二重に見えて、音が聞こえて、声が聞こえて……」

「……はい」

「幼馴染がふたりに分かれて、俺もふたりいて、いなくなったり、戻ってきたり、消えたりして」

「……」

「何かが足りないとか、欠けてるとか、ずっと思ってたけど……」

 でも、と俺は今、考えてしまう。




586:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/20(水) 00:44:11.25 ID:VaWGBfBWo


「……それが、何だって言うんだ?」

 俺が誰で、本物なのか、偽物なのかとか。
 俺に何かが欠けていて、からっぽだとかからっぽじゃないとか。
 俺が誰にどう見えるとか。

「それって、いったいなんなんだ?」

 この森が、茂さんの作った空間だとか、いや、作ったのは"夜"だとか。

 さくらが何者で、カレハが何者なのかとか。

 それが全部分かれば、何もかもが綺麗さっぱり解決するようなことなのだろうか。

「……わたし、ずっとひとりだったらよかったです」

 さくらは不意に、そう言った。

「ずっとひとりだったら、何にも怖くなかった。何にも変わらずにいられた。
 今までどおり、ただ、するべきことをして、それでよかったんです」

「……」

「でも、ましろも、あなたも、いなくなってしまう」

「……まあ、そうだな」

 否定できない。

「……なんで平気そうなんですか」

「平気そうに見える?」

「見えます」




587:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/20(水) 00:44:43.86 ID:VaWGBfBWo


「俺にはよくわからない」

「そればっかりですね」

「……」

「ずっとひとりのままでよかったです」

 そう言って、彼女はごまかすみたいに声に笑みを含んだ。

「ひとりのままだったら、寂しくならない」

「……」

「そうですよね」

「そうかもな」

 でも、

「よくわかんないんだよ、さくら」

 自分の足音を聞きながら、視界が進んでいくのを感じ取る。

「俺に何かが欠けてるとか、俺の中の誰かと合一を果たせとか言われた。
 俺も何かが欠けてるような気がしてる。葉擦れの音が聞こえなくなってからも、気分は全然落ち着かない」

「……」

 さくらの肩を掴んで、俺は彼女を振り向かせる。
 まっすぐに視線を交わすと、さくらの目が少し揺れた。

 彼女のからだに触れたのは、これが初めてだという気がした。

「でも、それがなんだっていうんだ?」

「……」

「世界はからっぽかもしれない。……たしかに。世界は愛に満ちているかもしれない。……たしかに」

 でも、

「それがいったいなんなんだ?」

「……」




588:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/20(水) 00:45:21.44 ID:VaWGBfBWo


「どうしてここに自分がいるのか、本当はよくわかってないんだ」

 さくらと会って、自分がからっぽだと言われて、手伝いを始めたときも。
 瀬尾がいなくなって、ちせに言われて、瀬尾の居場所をつきとめようという話になったときも。
 あの絵の中に何かがあると気付いたときだって、本当は俺は何にもわからないままだった。

 ただ流されていただけだった。自分がどうしたいかなんて、誰にも説明のしようなんてなかった。

 でも、

「それがなんだっていうんだ」

 俺はそう言う。

「どうしておまえがいなくなったりするのか、俺にはちっともわからないんだ」

「……」

「佐久間茂がどうだとか、『薄明』がどうだとか、そんなの全部、本当はどうだっていいんだ」

「どうだって、って」

「そんなのいいんだ、本当は」

 まっすぐにさくらの目を見る。彼女の目もこちらを見ている。




589:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/20(水) 00:45:47.88 ID:VaWGBfBWo


 さくらのむこうがわに空がある。街がある。雲がある。月がある。
 あんなにも怖かった月が、今は不思議と、そうでもない。

「帰ろうよさくら。どうせもう、ひとりじゃいられないんだ」

「……帰ったって、でも、どうせ、わたしはひとりです」

「俺がいるだろ」

「あなただって、いなくなるじゃないですか」

「そうだよ」

「そうだよって……さっきから、いったいなんですか」

「どうにかする」

「……どうにか、って」




590:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/20(水) 00:46:21.58 ID:VaWGBfBWo


「なあ、さくら。実は、困ってるんだ」

「……なにが、ですか」

「真中に振られそうなんだ」

「……自業自得です」

「そうかもしれない。でも、おまえ、縁結びの神様だろ」

「あなたが勝手に呼んでるだけです」

「でも、これもひとつの縁だろう」

「……」

「助けてくれよ」

「……そんな大事なこと、他力本願にしないでください」

「困ってるんだ。このままじゃ、話もしてもらえない」

「……」

「だから、戻ってこいよ。そしたらまた、おまえを手伝ってやる」

「……でも、あなたがいなくなったら、わたし」

「……」

「また、ひとりぼっちです」




591:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/20(水) 00:46:51.46 ID:VaWGBfBWo


 そう言ってうつむいたさくらを、俺はどうしてだろう、不思議とあたたかな気持ちで見ていた。
 どうして気付かずにいられたんだろう。
 
「なあ。佐久間茂がこの国を作った。らしい」

「……なんの話か、わかんないです」

「おまえもたぶん、この国の副産物として、生まれて、ここにいるんだと思う」

「……」

「佐久間茂にこんな国を作れたんだから、俺にだってそのくらいのことはきっとできる」

「……なに、言ってるんですか」

「おまえの居場所くらい、俺が世界に書き加えてやるよ」

 茂さんに秘密があるように、母さんに秘密があるように、
 何かを隠しながらみんな生き延びている。
 
 それぞれがそれぞれの孤独を押し隠して生きている。




592:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/20(水) 00:47:28.40 ID:VaWGBfBWo


「何言ってるんだ」と声が言った。

「さんざんおまえの泣き言に付き合ってやったんだ」と俺は言う。

「少しくらいは役に立てよ」

 戸惑ったように、さくらが俺を見た。声は、少しだけ溜息をついて、笑った。

「おまえにそれだけのものが作れるのか?」

「書いてやるよ」

「……」

「いいだろう」

 と声は言った。

「試してやるよ」

「交渉成立だ」

「さっきから、何を言ってるんですか」

「帰ろうぜ、って言ってる」

「……なんで」

 か細い声で、ささやくように言う。彼女はうつむいたままでいる。

 俺はその仕草を眺めている。




593:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/20(水) 00:48:08.43 ID:VaWGBfBWo


「……おまえを放っておけない」

「どうして」

「たぶん、だけど……」

 ひとりぼっちでいる少女。
 誰にも見てもらえなかった少女。

 不意に、
 背後から声が聞こえた。
 夜ではない。

 夜とは違う。

「言ってやれよ」

"俺"が立っている。

 その姿は、一瞬で見えなくなった。

 どうしてなんだろう。
 俺にはやっぱり、全部わからない。

 出会ってしまった以上は、もう、他人じゃないからとか、
 なんとなく、自分を見ているようだったからとか、
 そういうあれこれをひっくるめて、

「なんとなく……」

「はい?」

「うん、なんとなく、なんだけどさ」

 本当に、ただなんとなく、

「おまえがいない生活が、既に少しだけ寂しいんだ」

 だから、たぶん、こういうべきなんだろう。

「俺は、おまえに居てほしいんだ」




594:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/20(水) 00:48:37.94 ID:VaWGBfBWo


 さくらは、驚いたみたいな顔で、俺を見た。
 俺も少しだけ、自分自身に驚いた。

「そうだよ」と、また背後から声が聞こえる。

「やれやれ」と夜が言った。

 でも、それがなんだっていうんだろう。
 そんなのはちっとも大事なことじゃない。

「帰ろうよ、さくら」

 少しの逡巡のあと、
 さくらは小さく頷いた。

 それから俺の手をとった。
 こんなにも、小さな手だったのか、と、俺はまた驚いた。

「……信じてあげます」

「……うん」

「あなたが、わたしの居場所を作ってくれるんですね」

「うん」





595:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/20(水) 00:49:08.29 ID:VaWGBfBWo


「もしできなかったら?」

「できなかったら……どうしようかな」

「……一生、取り憑いてあげます」

「それは落ち着かなさそうだな」

「絶対にそうします」

「ふむ」

 じゃあがんばらないとな、というのも少し違う気がした。
 だから、

「やれるかぎりはやってみるよ」

 と、そう言ってみせる。

「はい」

 と、さくらはようやく笑った。

 月が煌々と光っていた。




604:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/22(金) 01:02:30.54 ID:su5zp2Hbo


「それで……」とさくらは言った。

「帰るって、どうやって帰るんですか?」

「……わかんないのか?」

「知りません。気付いたらここにいましたし」

「……マジで?」

「……えっと、はい」

「……」

「……あの、どうやってここに来たんですか?」

 どうやって、と聞かれても、落ちてきたとしか言いようがない。

 



605:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/22(金) 01:03:10.88 ID:su5zp2Hbo


「困りましたね」

 落ち着け。
 ここがあの森の一部なら、鏡を探せばいいだけだ。

 フェンスから離れて、さくらが塔屋の扉へと向かっていく。

「鏡……」

 以前、怜とも話した。
 概念的に鏡であればいいはずだ。

 月の鏡……という言葉もあるが、残念ながら月に触れることはできない。

 怜ならば、きっとこういうときでも、慌てたりしない。

 考えろ。鏡、鏡、鏡。

 ……いや、
 鏡じゃなくてもいいのだった。

「部室に行こう」

「部室、ですか?」

「『白日』がある」

「……あの絵ですか」

『夜霧』からこちらに入ってきたのだ。『白日』から帰るのも、おあつらえ向きだろう。




606:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/22(金) 01:04:04.83 ID:su5zp2Hbo



「あなたに任せます」とさくらは言った。

「……責任、投げるなよな」

「そういうわけじゃないです。評価を改めただけです」

「評価?」

「あなたはもう少し、自分の柔軟さを評価すべきだと思いますよ」

「……どういう意味?」

「そのままの意味です。行きましょう」

 階段を降り、文芸部の部室へと向かう。

 夜の校舎は、窓から差し込む月の光以外には、ほとんど灯りがない。

「どうしてだろうな」

「はい?」

「ちょっと、ワクワクする」

「……子供みたいですね」

「夜の校舎だぞ。仕方ないだろ」

「でも、そっちの方がずっといいです」

「……そう?」

「はい」




607:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/22(金) 01:04:43.89 ID:su5zp2Hbo


 廊下を歩く途中で、不意に、渡り廊下に人影を見つけた気がした。

「いま、何か見えたか?」

「……なにか?」

「人影みたいなの」

「気付きませんでした」

 ……気のせい、だろうか。
 それとも、単に、『夜霧』を歩いたときのような、単なるこの世界の演出のようなものか。

 いずれにしても、もう見えない。
 もうこの世界でするべきことはない。

 文芸部室の扉は簡単に開いた。
 
 壁には、『白日』が飾られている。

 海と空とグランドピアノ。決して混ざり合わない水平線。

「……なんで、ピアノを描いたんだろうな」

「なんでって、どういう意味ですか?」

「いや。人と人との距離が、海と空みたいなものだったら……」

 結局、繋がりあえないのかもしれない、と茂さんは言っていた。
 でも、ここにはピアノがある。

 さくらは、俺の心を読んだのだろうか。
 少し、不思議そうな顔をした。




608:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/22(金) 01:05:23.08 ID:su5zp2Hbo


「空って、どこからが空ですか?」

「……ん?」

 彼女は部室の中へとゆっくりと踏み入って、静かに窓を開け放った。

 そして指先を伸ばす。
 そのままこちらを振り向いて、当たり前のような顔で、彼女は、

「ほら、これが空じゃないんですか?」

 なんでもないことのように、そう言った。

 一本取られた、と俺は思った。

「なるほど」

 だとしたら空は、海と接している。
 混じり合うことがないとしても。




609:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/22(金) 01:05:51.28 ID:su5zp2Hbo


「あるいは、もしかしたら」

「ん」

「旋律は、空に届くかもしれません」

「……旋律」

「はい。それに、日差しも、雨も、空から海に届くでしょう」

「けっこうあるものだな」

「はい」

「雨も、海と空を繋ぐ」

「はい。空と海との距離なんて、たいしたことないです」

「……単なる言葉遊びだけどな」

 だとしたら、茂さんは、たとえば旋律が海と空を繋ぎうることに気付いていたのかもしれない。
 気付いた上で、ピアノの前の椅子に、誰も座らせなかったのかもしれない。

 雨は海と空を繋ぐ。

「……そっか」

「どうしました?」

「いや」

 だったら、傘をささずにずぶ濡れになるのも悪くないのかもしれない。




610:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/22(金) 01:06:18.71 ID:su5zp2Hbo


「帰ろうか」

「はい。……帰れますかね」

「さあ。試してみないとな」

「……行き当たりばったりですね」

「おまえも相当だろ」

「まあ、たしかに」

 俺とさくらは、『白日』に向き合う。変なタイミングではぐれないように、さくらの手を取った。

「そういえばさ」

「はい?」

「さくらにはなんとなく、さわれないイメージがあった」

「……ふむ?」

「すり抜けそうな気がしてたんだ。さくらも、物にさわれないんだと思ってた」

「だとしたら、わたしの体は床をすり抜けていきますよね」

「テレパシーとテレポートを使うやつが急に物理法則っぽいことを言うな」

「それに服も着られません」

「でも、それ、どうなんだろうな。他の人には、服も見えないわけだろ」

「わたしが触ってるものは、他の人には見えなくなるんです」

「……怪奇現象を生み出せるな」

「いえ、あの、わたしが怪奇現象なんです。ある意味で」

「でも、その理屈だと、校舎が誰にも見えなくならないか?」

「……まあ、わたしにもよくわかんないです」

「まあそうか。……とにかく、なんとなく、さくらにはさわれないんだろうなと思ってた」




611:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/02/22(金) 01:06:48.17 ID:su5zp2Hbo


「……ちゃんと触れてほっとしました?」

「いま、俺も透明人間なのかな」

「そうかもしれませんね」

「温度がある」

「不思議ですか?」

「さくらに限った話じゃないけど……」

「はい」

「人間の体温って、触れるたびに不思議になるよな」

「わたしが人間かどうかは、怪しいところですが」

「それを言ったら、俺もけっこう怪しいけどな」

「そうですか?」

「そうだよ」

 俺が真顔でうなずくと、さくらはおかしそうに笑った。

「そんなことは、いいんですよ」

 たしかに、と俺は思った。

「帰りましょう、隼」

 俺は一瞬、あっけにとられて、それから笑って頷いた。

「そうしよう」

 繋いでいない方の手で、俺は『白日』に触れる。

 光はあふれ、視界が鋭く満たされていく。
 その洪水に溺れながら、ゆるやかに時間が流れていくのを感じる。
 手のひらに温度がたしかにあった。




623:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/10(日) 20:58:51.27 ID:J7JQGDwio





「元素周期表みたいですね」と誰かが言った。それは分かってる。 
 でも、何の話なのかはわからなかった。何が元素周期表みたいなんだろう、みんな何の話をしていたんだろう、俺には何もわからない。

 意識がものすごく曖昧だった。とても、深い眠りからようやく目覚めたときみたいに。

 けれど俺は眠っていたんだろうか?

 瞼を開いている。それはわかる。けれど全てが滲んだように曖昧にぼやけている。
 
「そうかな。そんなふうに思ったことはないけど」

 そう、また別の誰かが言う。俺は、いま、何かを聴いている。それは分かる。

 俺はいままでどこにいて、何をしていたんだったか。

「……ああ、起きたかい」

 そんな声が、俺に向けられているんだとわかる。

 わかったから、もっとはっきりと見ようと思った。




624:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/10(日) 20:59:46.27 ID:J7JQGDwio


 そして、ふとした一瞬のうちに、自分がどこにいるのかが分かった。

 ここは『トレーン』のテーブル席だ。俺は頭を突っ伏して、眠っていたらしい。

 話をしているのは……。

「ずいぶん眠っていたようだけど、大丈夫?」

 茂さん。

「隼ちゃん、来てからずっと眠ってましたよ」

 ちどり。

「やっぱり、疲れが溜まってるんだろうね」

 怜。

 それから……。

「まあ、無理もないか」

「……大野?」

「大丈夫か? 目の焦点があってないけど」

「いや……うん」

 さて、大丈夫か、大丈夫かと問われれば、どうだろう?




625:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/10(日) 21:00:13.03 ID:J7JQGDwio


 重苦しいほどの虚脱感がある。

 とても深い眠りから醒めたのだという実感はある。
 
 というより、これはいっそ、
 俺が今まで睡眠だと思っていたものは本当に睡眠だったのだろうか、と感じるほど、眠ったのだという実感がある。

「……あたま、ぼんやりする」

「しばらくは無理するなよ」

 大野の声が妙にやさしくて、そのせいで俺は、やっぱり今この瞬間のほうが夢なんじゃないかという気がした。

「……なんで、大野がいるんだよ」

「なんでって……おい、ほんとに大丈夫か?」

「そのうち意識がはっきりしてくるよ」と言ったのは怜だった。

「隼は昔から寝起きがひどいからね」

「……なんで、怜もいる」

 ふう、と彼女は溜息をついて、

「さっさと目を覚ましてくれると助かるな。それとも、純佳を呼んで起こしてもらったほうがいいかな」

「……いや、いい。自分で思い出す」

「隼ちゃん、無理しないでくださいね」

 ちどりはそう言うけれど、俺はまだ、自分の体の感覚すらも取り戻せない。
 腕も首もしびれているように重く鈍く、動かせない。

 頭がまったく回らない。




626:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/10(日) 21:00:39.32 ID:J7JQGDwio



「時間がかかりそうだから、僕が言おう」と、茂さんは言った。

「今日は木曜。きみは月曜の放課後から二晩の間家に帰らず行方不明だった」

「……ゆくえ」

「そう。行方不明。そして水曜、つまり昨日の朝、なんでか自宅のベッドにいたらしい」

「……その記憶、ないんですが」

「じき思い出すよ。まあ、二日間でいろいろあったんだろうね。もちろん、僕らには推し量ることしかできないが」

 ああ、そうだ、と茂さんは声をあげ、

「ちどり。そういえば昨日買ってきたプリンがあったんだ」

「はい?」

「ええと、厨房の冷蔵庫の中に箱がある。みんなで食べよう」

「……? わかりました」

 ちどりは文句ひとつ言わずに、厨房へと下がっていった。




627:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/10(日) 21:01:29.46 ID:J7JQGDwio


「……じゃ、改めて話をしようか」と、そう、茂さんは言った。

「……話、というと」

「さすがにちどりには聞かせられないからね、"むこう"のことは」

"むこう"。
 
 そう、俺は"むこう"にいた。思い出せる。

 そこで俺は……。

 ああ、
 思い出してきた。

「怜ちゃんと大野くんは、知ってるんだったね」

「ええ」

「はい」

「だったら、大丈夫。隼くんとは、ちょっとまとまった時間をとって話さないといけなかったからね」

「……ええと、すみません。俺、自分がなんでここにいるのか。いま、金曜って言ってましたか?」

「そう。きみは昨日の朝帰ってきて、今日は学校にも行って、その帰りにここに来た」

 ……思い出せない。
 いや、そんなことはない。

 覚えている。……ようやく意識がはっきりしてきた。

 ふと目がさめたら、自分の部屋にいた。体が重くて、すぐに寝直した。
 それで、気がついたら夕方で、純佳が学校から帰ってきて、あいつは俺を見て一通り文句を言ってからぐすぐす泣いた。
 



628:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/10(日) 21:02:03.34 ID:J7JQGDwio


 次の日は学校にも行って……そうだ、それが今朝だ。

 瀬尾たちにいろいろ事情を聞かれたけれど、うまく説明できなくて、
 真中は相変わらず俺と話そうとはしなくて、
 そもそも意識も記憶もやっぱり曖昧で、
 どうしても眠くて、でも、怜に『トレーン』に来るように言われて、
 危なっかしいからと、大野が俺に付き添ってくれた。そうだった。

「……店に来て座ってすぐに寝ちゃったからね。まあ、それは仕方ないかと思って、目が覚めるのを待ってたんだ」

「……そう、ですか」

「まだすっきりしないかい?」

「……はい、なんでか、わかんないですけど」

「そっか。……続くようなら困りものだね。でも、まあ、仕方ないか」

「……それで、茂さん、話って?」

「きみはたぶん、試してないから、一応伝えておこうと思って」

「……はい」

「"むこう"、もう行けなくなったみたいだ」

「……」

 むこう。
 行けなくなった。

「それは……どうして」

「わからない。僕もそうだし、怜ちゃんもそうだって言う」

「うん。ぼくも、行けなくなった」

 ……行けなくなった?




629:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/10(日) 21:02:30.86 ID:J7JQGDwio


「どうしてですか?」

「さあ? きみが帰ってきてからそうなった。なんでかは、僕にもわからない」

「怜も?」

「そうだね。ぼくも最初は気付かなかったけど」

 ……。

「まあ、とはいえ、それで何が困るってわけではないんだけど、何か知ってたら、隼くんに話を聞きたかったんだ」

「……俺は」

 むこう。
 俺はたしかにむこうにいた。

 でも……俺はむこうで何をしていたんだっけ?

茂さんは柔らかく微笑んだ。




630:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/10(日) 21:02:59.16 ID:J7JQGDwio


「……それで、どうするんですか」

 と、俺が訊ねると、茂さんは不思議そうな顔をした。

「どうするって?」

 そう問い返されて、こちらがあっけにとられてしまった。

「だって、行けなくなって……」

「うん」

「それで……」

 ……行けなくなって、それが?

「べつに困らないだろう?」

「……」

 たしかに、そうだ。
 たしかにそうだ、あの場所に、用はない。今のところ。

「……さくら」

「……?」

 怜が首をかしげるのが見えた。

 さくらはどこだ?




631:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/10(日) 21:03:30.92 ID:J7JQGDwio





 ちどりが持ってきたプリンをみんなで食べたあと、

「疲れてるみたいだから、今日は早めに休むといい」

 と茂さんが言ってくれた。その言葉に甘えて、俺は頷く。

 外は雨が降っていた。

 鞄の底に、折りたたみの傘が入れっぱなしになっているはずだ。
 そう思って鞄をあさったけれど、見つからない。

 ……雨が降ったときに一度使って、そのまま出しっぱなしにしていたのだろうか。

 そう思ったとき、なんだか少し前にも、こんなことがあったような気がした。
 雨が降ったときに、鞄の底の傘を探して、見つからなかったことがあったような。
 
 ……いつのことだったっけ?

 そんなことを考えたとき、不意に入り口の扉が開いた。

「おじゃまします」と言いながら、片手に傘を持った純佳が現れた。

「純佳」

「ちどりちゃんに連絡したら、ここにいるということだったので、迎えに来ました」

「……なんで?」

「雨が降っていたので。傘、忘れていったみたいだったので」

「……そっか」

 そっか、とうなずきながら、なんだかいろいろなことがよくわからない気持ちのまま、俺は純佳に近付いた。

 ひさしぶりかな、と怜が言って、おひさしぶりです、と純佳が言った。

「じゃあ、俺も帰る。無理するなよ」

 大野はそう言って、俺達より店を出ていく。

 追いかけるように、慌てて俺も店を出る。

「それじゃあ、帰ります」

「またね」と怜が言って、ちどりは何も言わずに手を振った。

「またのお越しを」と茂さんが言った。俺はまだ混乱していた。




632:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/10(日) 21:03:57.72 ID:J7JQGDwio


「帰りが遅くなるなら、連絡くらいしてください」

 ひとつの傘のなか、俺と純佳は並んで歩く。

 記憶が判然としないままだったけど、俺は素直に、

「ごめん」

 と謝った。

「兄は、言葉足らずです」

「そうかな」

「そうです。急にいなくなるし……」

 雨がたしかに降っていた。
 傘を打つ雨粒がリズムを刻んでいる。こんな雨の降る夜道を歩いていると、なんだか世界から隠されてるような気がした。

「わたしが……」

「ん」

「いえ……」

 言いかけた言葉の続きを、純佳は言わなかった。
 俺は聞き返さなかった。
 
 なんとなく、言いたいことがわかるような気がしたのだ。 




633:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/10(日) 21:04:24.56 ID:J7JQGDwio



「悪かった」

 そう謝ると、純佳は顔を上げてこちらを見上げる。

 泣き出しそうな顔に見えた。

「……わたしが」

「……うん」

「わたしが、どれだけ心配したと思ってるんですか」

「……うん」

「今度こそ、帰ってこないんじゃないかって……」

「……」

「どこにも行かないって、言ったじゃないですか」

「……うん」



634:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/10(日) 21:04:56.07 ID:J7JQGDwio


 こんなとき、何を言えばいいんだろう。
 どんなふうに言えばいいんだろう。

 心配をかけて、迷惑をかけて、そればっかりだ。
 
 どんな言葉も言い訳になってしまう。

"むこう"に行けなくなったんだと、怜も、茂さんも言っていた。

 でも、それとは無関係に、俺はもう"むこう"に行かないほうがいいのだろう。
 行けるようになったとしても、行くべきではないのだろう。

 帰ってこられるかわからない場所。 
 今回は、本当にそうだった気がする。

 そんな場所との境界を、今まで俺が平気で渡ってきたのは、きっと、
 帰ってこられなくてもいいと、心のどこかで思っていたからじゃないだろうか。

 今は、でも……。




635:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/10(日) 21:05:22.90 ID:J7JQGDwio


「もうどこにも行かない」

「……どうせ嘘です」

 前のときと同じみたいに、純佳は俺の言葉なんて全然信じなかった。
 仕方ないことかもしれない。

 雨が降ってる。

 傘を叩く音が聞こえる。

 ……そうだな、と俺は思った。

 嘘かもしれない。

 どうだろう。

 いや、
 どうだっていいや。

「どこにも行かない。つもりでいる」

「つもりって、どういうことですか?」




636:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/10(日) 21:05:55.80 ID:J7JQGDwio


「先のことはわからないって意味」

「……先のこと、ですか」

「そう」

 今までだって、どこにも行ったりしないと決めていた。
 他人に関わって、踏み込んで、そんなの面倒で誰のためにもならない。

 でも気付いたら、そんなことすっかり忘れていた。

「……仕方ないですね」

「ん」

「兄はばかですから」

「……まあ」

 そういうことになる。

 純佳はそれから黙り込んでしまった。
 俺と彼女はふたりで雨に濡れたアスファルトの上を歩き、その間に何かを考えていた。
 
 何かを考えていたと思う。
 わからないけれど。




637:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/10(日) 21:06:30.13 ID:J7JQGDwio



 まっさきに考えなければならないことは、ふたつ。
 とはいえ、確認しないことには始まらない。

「純佳」

「はい?」

「ちょっと出かける」

「……はい?」

「学校に忘れ物をした」

「……」

 あきらかに、疑わしそうな目を純佳は向けてきた。
 
 ……それはそうか。
 さっき、どこにも行かないと言ったばかりなのだ。





638:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/10(日) 21:07:17.15 ID:J7JQGDwio


「わたしも行きます」

「……ふむ」

 だめです、と言いかけたけれど、仕方ない。

「いいよ」

「え、いいんですか?」

「うん」

「……え、どこに行くんですか」

「学校だって」

「……校門しまってますよね?」

「……ああ、そうか」

 いや、

「十分だろう」

「……ほんとに学校に行くんですか?」

「それが最初だな」

「……?」

「そのうち全部話すよ」

 純佳はちょっと、警戒するような目をした。
 
「そうしないと納得しないだろ?」

「まあ、そうですけど」

 ……まだ少し意識がぼやけている。
 でも、何をすべきかははっきり覚えている。

 とはいえ、大事なのは順番だろう。

 ひとつひとつ、済ませなければ。
 手品は下準備が命だ。




644:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 20:58:55.80 ID:tPIsQ6zzo



 高校に繋がる坂道を登りながら、俺達は無言のままだった。

 街の灯りが雨粒に滲んで絵の中の国みたいに見える。
 でもここは現実で、今日は金曜日で、明日は土曜の休みだ。
  
 覚えているかぎりだと明日はバイトが入っていて、でも俺はこっちに帰ってきたばかりで、未だに感覚が不鮮明なままだ。

 とはいえ……そんなのは、あとで考えればいいことだ。

 校門のそばには桜の木がある。もう、花を散らすような時期じゃない。

 夜の雨の中で見る桜というのは、なんとも言えない不思議な気分がした。

 そこに……

「なにしにきたんです?」

 当然のように、さくらはいる。

「一応確認にな」

「……兄?」
 
 怪訝そうな声を、純佳が隣であげた。
 
「昼間も会ったじゃないですか」

 さくらはそう言った。
 たしかに、そういう記憶はある。けれど、それが実感として馴染むまでには、まだ時間がかかりそうだった。

「ようやく落ち着いてきたところなんだ」

「それなら、仕方ありませんね」

 そう言って彼女は、校門のむこうから俺を見た。

 



645:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 20:59:25.91 ID:tPIsQ6zzo


 さくらは学校の敷地から出ることができない。

「これから、どうします?」

「ん」

「何から始める気ですか?」

「そうだな、まあ……」

「兄?」

「……」

 さて、

「帰るか」

「……誰と、話してたんですか?」

「そうですね。来週、話しましょう」

 両方から話しかけられて、混乱する。
 さっき、全部話すと言ったばかりだが……まあ、あとでいいか。

 いや、まあ、どうせだ。

 俺は純佳の方をみて、

「神様」

 と、そう答えてみた。

 純佳は蛇のぬけがらでも踏んだみたいな顔をした。




646:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 20:59:55.34 ID:tPIsQ6zzo






「……さて」

 まずはひとつ、どうしても優先的に片付けなければならないことがある。
 
 翌週月曜の放課後、授業を終えたあとの教室で、俺はひたすらに待っていた。

「三枝、部活は?」とクラスの奴に声をかけられる。

「もうちょっとしたら行く」

「ふうん?」

「三枝、病み上がりなんだから無理すんなよ」

 と、そう言ったのは陸上部の女子だった。

「おかまいなく」

「会話を会話らしく成立させる努力くらいはしろ」

 そもそも俺はべつに病み上がりではないのだが、言ったって仕方のないことではある。その説明が一番わかりやすい。

「……ところで」

「ん」

「ひとつ聞きたいことがあるんだけど、いいか?」




647:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:00:44.85 ID:tPIsQ6zzo


 俺がそう訊ねると、ふたりのクラスメイトはきょとんと不思議そうな顔をした。

「何だ、その顔は」

「いや、三枝からそんな質問をされると思ってなくてな」

 男のほうが頭をかきながらそう言った。

「俺だって質問くらいする」

「そりゃそうだろうけどな。……で?」

「ああ、うん」

 さて、どう訊ねるべきか。

「あのさ……この学校に七不思議とかって、ある?」

「七不思議?」

 きょとんとした顔をされてしまった。

「……なに、急に」

「ちょっと調べ物」

「似合わな」と女のほうが言った。

「ほっとけ。七不思議じゃなくてもいい。その手の与太話に心当たりは?」

「……ないな」

「そうか。じゃあもう用はない。さっさといけ」

「あ、ひとつあるよ」

「ん」

「縁結びの神様」

「……それだ」



648:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:01:11.54 ID:tPIsQ6zzo





 少しして、さくらが教室にやってきた。

 偶然なのだろうが、それまで話していたふたりは「じゃあ部活行くから」といなくなってしまう。

「何かお話していたんですか?」

 俺は頷いた。

「後で話す」

「そう言ってあなたが話してくれた試しがあったかどうか」

「俺自身も覚えてない。……それで?」

 はあ、とさくらはため息をついて、じとっとした視線をこちらに向けた。

「……ずいぶん偉くなったものですね。人をパシリにしておいて自分は座って休憩ですか」

「役割分担だ」

「誰のために動き回ってると思ってるんです」

「感謝してるって」

「まったく感じ取れません、その感謝が」

「嘘だろ?」

「……そんな素直な目で驚かれても困ります」




649:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:01:43.98 ID:tPIsQ6zzo


 それからさくらは仕方なさそうに笑った。俺は頷いて立ち上がる。

「真中は見つかった?」

「こっそり女の子の行方を探るなんて、ストーカーもいいところですよ」

「たしかに」

「もっと男らしくいったらいいじゃないですか、最初から他人をあてにしないで」

「そういうキャラじゃねーだろ」

「たしかに」

 納得されてしまった。

「話が進まん。真中はいたか?」

「さっきは、渡り廊下近くの自販機のところにいましたよ」

「ふむ」

「つかぬことをお聞きするんですけど」

「ん」

「普通に電話すればよいのでは? どうしてわざわざわたしに探らせるんです?」

「警戒されるだろ」

「そうですか?」

「そうだよ」




650:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:02:19.37 ID:tPIsQ6zzo


 そんなわけで、俺は渡り廊下近くの自販機のあたりまで移動する。

 さくらは俺の斜め後ろをとことことついてきた。もし真中が移動していなければ、そこにいるはずだ。
 そして彼女はそこにいる。

 さくらが様子をうかがっていたのだから、ある意味では当然。

 さて、もう考えているような場合でもないだろう。
 自販機の横に背中をもたれさせて、彼女はぼんやりと渡り廊下のほうを眺めている。

「やあ」

 と、適当に声をかけると、真中は一瞬だけちらりと俺の方に視線をよこす。
 そしてすぐにそらした。反応らしい反応なんて、浮かべる気配もない。

「どうしたの」と真中は言う。

 以前と比べると、やはり、そっけない。

 それも仕方ないことなのかもしれない。

 とはいえ、
 そうは言っても、
 ここから始めるべきなのだろう。

「……わたしは、ちょっと離れてますね」

 そうしてもらえると助かる、と心の中だけで返事をした。
 あまり人に聞かれたいような話でもない。




651:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:03:29.11 ID:tPIsQ6zzo


 どこから話したものだろうな、とはいえひとまず、

「元気か?」

 なんて、世間話にすらなっていないような一言から始めるしかなかった。
 
 仕方ない。

 俺が真中に話しかける。それ自体、何か話があるという宣言のようになってしまう。
 そのことに、真中も俺も気付いている。だから、仕方ない。
 こんなあからさまな場繋ぎの台詞から始めるしかないのだ。

 呆れられても仕方ないような言い方だったのに、真中はくすっと笑って、

「元気だよ」

 と、仕方なさそうに言った。
 
「そっか。元気がいちばんだな」

「似合わないね」

 自分でもそう思った。




652:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:04:26.00 ID:tPIsQ6zzo


「何か用事?」

「そうだな」

 取り繕ったって仕方がない。

「……わたしが惜しくなった?」

「……」

「ね、せんぱい。先週は……どこに行ってたの?」

 どうしてだろう。
 そんな質問に、少しほっとしている自分を見つける。

 もうそんなふうに、何かを話したりしてくれないものだと思っていた。

「ちょっとな」

「また内緒?」

「……」

「どうせ、また、誰かのところに行ってたんでしょ」

 責めるというよりは、からかうみたいな口調だった。

「いつも独断専行。秘密にして、嘘ついて、ごまかして、ひとりで全部済ませちゃう」

「……まあな」

「否定しないんだ?」

 否定したところで仕方ない。
 今までは少し、違うような気がしていたけれど……はっきり言ってそれは事実だ。
 事実を否定しても仕方がない。




653:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:04:56.67 ID:tPIsQ6zzo


「ま、そうだな」

 結局そう頷いた。

 自販機に小銭を入れる。

「なんか飲む?」

「おごり?」

「そ」

「じゃあ、カフェオレ」

「カフェオレな」

「……せんぱい」

「ん」

「何かお話?」

「……何話そうと思ったんだったかな」

「ばかみたい」

 たしかに。




654:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:05:56.40 ID:tPIsQ6zzo


 真中に、何を言えばいいだろう。

「……おまえさ、言ったろ」

「んー?」

「俺が、瀬尾のことが好きだって」

「あ、うん」

「あれは違うな」

「……そう?」

「ていうか、おまえが言ったんだろ」

「なんて」

「俺は誰のことも好きにならないって」

「……そうだっけ?」

「そうだよ」

 その場その場で適当なことを言うのは、俺と真中の両方ともだ。

「……でも、それ嘘だ」





655:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:06:24.92 ID:tPIsQ6zzo



「……ん。そうかな」

「違う?」

「わかんない」

 真中はほんとうにわからないと言うみたいに、カフェオレのパックにストローをさして口をつけた。
 その様子を俺はぼんやりと眺めながら、自分の分のジュースを買った。

 オレンジジュースにしておこう。なんだか今日はそんな気分だ。

 渡り廊下の窓から吹き込む風も、差し込む日差しも、もうあたたかだ。

 季節が変わろうとしている。

「どうでもいいよ」

 と真中は言った。

「わたし、もう関係ないもん」

「そう?」

「……ちがうの?」

「違うかもな」

「まーた、そんなふうに言う」





656:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:06:51.94 ID:tPIsQ6zzo


 思ったよりもずっと柔らかい態度で、俺は逆に戸惑ってしまう。
 何を言ったらいいんだろう。

「真中」

「ん」

「ちょっといろいろあったんだ」

「うん」

「……」

「なあに?」

「なんだったかな」

「へんなの」

「自分のことが……」

「ん?」

「よくわかんないんだよ、俺」





657:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:07:21.51 ID:tPIsQ6zzo



「……へんなの」

 と真中は繰り返した。

 どうなんだろう?

 わからないという気もするし、わかるという気もする。

 何もほしくない、と思う。
 何かがほしい、とも思う。

 自分が好きじゃないとも思う。べつにそこまででもないとも思う。
 
 一貫性がない。

 誰のことも好きになるべきじゃないとも思う。
 でもそう思うのは、どうしてだったっけか。

 その理由は、今も俺の手元にあるんだったか。

 よくわからない。

 俺は真中を好きなのだろうか。
 それはちょっと自信が持てない。
 
 そんなふうに断言できるほど、誰かを好きになるという感情について、自分が理解できている感じもしない。





658:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:08:17.24 ID:tPIsQ6zzo


「真中は、俺が誰のことも求めてない、必要としてない、好きにならないって言うけど」

「……うん」

「そんな気もするし、そうでもないだろって気もする」

「……うん」

「でも」

 でも、どうなんだろうな。
 
 中学の頃から、真中と過ごした。
 真中柚子と三枝隼は付き合ってる。

 そんなふうに言われながら、当たり前みたいに過ごした。

 真中は気付いていたんだろうか。

 人気だった真中と付き合っているということで、俺は相当他の男子に睨まれたし、妬まれた。
 けっこうあからさまに、嫌がらせを受けたりもした。

 俺が本当に、ただ善意だけで、そんな仕打ちに耐えていたと、真中は思えるんだろうか。
 なにもかもがどうでもいいから、真中と付き合っているふりを続けていたなんて。

 ──本気でそう思うんだろうか。

 これを口にするべきなのかすら、俺にはもう判断がつかない。
 



659:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:08:53.47 ID:tPIsQ6zzo


 子供の頃、俺は怜を探偵みたいだと言った。

 そうしたら、そのとき怜はにっこり笑ってこう言ったのだ。

「ぼくが探偵なら、隼は怪盗……」

 そう、そのとき怜は言いかけて、いや、と楽しそうに頭を振り、

「……詐欺師ってとこかな?」

 そんなふうに笑ったのだ。

 詐欺師。
 ひどいやつだと、そのとき思った。

 でも、そうなのかもしれない。

 嘘と韜晦と誤魔化し。取り繕いと言い逃れ。

 本当のことなんて、言葉にしようとしてもどうせ言葉にならない。
 だから適当に喋っているだけだ。

 何かを話すことは、話さないことよりも悪い。
 話す人間は、話さない人間に遅れをとっている。

 結局のところ、俺が本当のことを話さない人間だと思われるのも、
 秘密主義者だと言われるのも、
 嘘をつく人間だと言われるのも、全部、同じ理由だ。

 俺は最初から、正確で明晰な言語化なんてしようともしていなかったのかもしれない。
 正確さなんてほどほどでいい。それが責められるなら、茶化して誤魔化しているほうがいい。

 でも、今は、




660:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:09:44.69 ID:tPIsQ6zzo


「せんぱいは、自分で言ってたよ」

「なにを」

「『俺が俺だ』って。わたしが思うせんぱいとは無関係に、せんぱいだけが自分なんだって」

「……」

「わかんないっていうほうが、わかんない」

「……そんなこと、言ったっけ?」

「記憶、ない?」

「ない、かもな」

「かも?」

「どうもはっきりしない」

「……そか」

「でも、そんなら、いいのかな」

「なにが?」

「……」

 いいのかもしれない。




661:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:10:34.94 ID:tPIsQ6zzo



「真中、俺は……」

「……なに」

「ホントは、俺はさ」

「……うん。なに?」

 当たり前みたいな顔で、真中は俺をまっすぐに見つめてくる。
 それを俺は、不思議な気持ちでみている。

 俺よりも低い背丈。
 細い手足。細い髪。
 俺は、

 ……本当に、言ってしまっていいんだろうか。

「……どうしたの、せんぱい」

 俺は、真中が言うような、浮世離れしたみたいな仙人のような存在ではない。
 霞を食べて過ごすような無欲な人間ではない。

 俺が本当に何も欲しがっていなかったなら、どうして怜と自分を比べて劣等感にさいなまれる必要があっただろう。
 ちどりと比べて、自分が何も上手くできないと思う必要があっただろう。
 ふたりと俺との間に、微妙な距離を感じることがあっただろう。

 俺が何も欲しがらない人間だったなら、どうして真中と付き合ったふりを続けたりしたのだ?
 面倒を嫌うなら、最初からかかわらなければよかったのに。

 俺は、みんなに好かれていた真中と嘘でも付き合っているという事実に、優越感を覚えてはいなかったか?
 自分が真中と親しい存在であるということに、自意識が満たされてはいなかったか?
 



662:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:11:16.96 ID:tPIsQ6zzo


 あの葉擦れの森の中で、声を枯らして誰かを呼んでいたのは確かだ。
 呼ばなくなったのは、単に諦めたからだ。

 あるいはむしろ、
 欲望があまりにも強く大きすぎるあまり、その欲望を達成することが著しく困難であるため、
 その完璧な達成を諦めると同時に、欲望そのものを投げ捨てた。

 真中は、俺が真中を好きにならないと思ったから、俺と一緒にいてくれた。
 だから俺は、真中を好きにならないように気をつけていた。

 どうして?
 
 真中と一緒にいるために。

 最初から、そうだ。
 
 複合的な理由。
 俺の居る場所が、俺のための場所だと思えなかったから。
 誰かを好きになるほど、自分のことが好きじゃないから。
 
 だから俺は真中を好きにならない。

 真中と一緒にいるために、俺は真中を好きにならない。
 俺が真中を好きだと言った瞬間に、真中は俺から興味を失うかもしれない。
 だから俺は真中を好きにならない。

 だから俺は、そうだ。
 真中が俺から離れていかないように、真中に興味なんてちっともないような振りを続けなきゃいけなかった。

 その時点で、最初から俺は真中が好きだった。
 好きだった?

 少なくとも……。

「本当は……なに?」

「めんどくさいな」

「なにが」

「……話すの」




663:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:11:49.11 ID:tPIsQ6zzo



「……」

「なんでもかんでも、言葉にしないとだめかな」

「……じゃあ、大事なことだけ、言ってよ」

「うーん……」

 さて、どう言ったものだろうな。

「……ほんとはちょっと、悲しかっただけなんだ」

 と、真中はそう言った。

「なにが?」

「青葉先輩のことも、ましろ先輩のことも、いろんなことも、いろいろ、あって」

「うん……?」

「知れば知るほど、わたし、せんぱいのこれまでの人生に、どこまでも無関係な人間だなって」

「……」

「一緒にいたのに、ほとんどなんにも知らなかった。せんぱい、何にも話してくれなかったし」

「……」

 そうかな。

「『俺の振る舞いが全部おまえの想定内に収まるくらいおまえは俺のことを知っているのか?』」

「……」

「せんぱいは、そう言ってた。……わたし、なんにも答えられなかった」




664:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:12:29.92 ID:tPIsQ6zzo


 そんなこと、言ったっけな。
 言ったんだろうな、きっと。 
 そんな記憶が、いま、蘇ってくる。

「すっごく、悔しかった」

「……そっか」

「せんぱいの幼馴染さんとか、青葉先輩とか、ましろ先輩とか、それに、ちせとか……」

「……」

「せんぱいの周りにはいろんな人がいて、みんな、せんぱいのこと、知ってるみたいな顔がするのがいやだった」

 真中は、恥じ入るみたいに顔を俯ける。
 俺はそれを黙って聞いている。

「わたしがいちばんじゃないといやだ。せんぱいのこと、いちばん知ってるの、わかってるの、わたしじゃないと、いやだ。
 わたしの知らないせんぱいを、他の誰かが知ってるなんて、やだ」

「……なんだ、それ?」

「……なんでもない。言ってみただけ」

「ん」

 当たり前みたいに、真中は俺の言葉を待つ。

 俺は真中のことが好きだ。

 けれど、真中はやっぱり、俺のことを分かっていない。




665:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:13:14.18 ID:tPIsQ6zzo


 真中もちどりも純佳も、瀬尾も怜も大野も、分かっていない。

 どいつもこいつも、俺がまるで無欲な人間であるかのように誤解している。
 俺自身でさえ、そんなふうに考えている。

 でも今は、違うような気がする。

 共犯意識、恩を着せているような得意な気持ち、
 人に懐かない猫が自分にだけすり寄ってくるような優越感、
 あるいは、もっと純粋に、魅力的な女の子と一緒にいられるという役得。
 もっと単純な、性欲。

 すべてが絡み合っている。 
 すべてが絡み合っていて、
 真中が離れていくと考えるだけで、俺は待てよと言いたくなる。

 ふざけるなよと誰にともなく言いたくなる。

 好きだとか、一緒にいてほしいとか、そんな殊勝な気持ちなんかじゃない。

 勝手に離れてるんじゃねーよ。
 ふざけてんじゃねーよ。
 
 じゃないと俺はまた、あの森の中でひとりだろうが。

 好きだなんて、そんな単純なものじゃない。
 その単純な一言の中に、いろんなものがないまぜになって絡み合っている。
 欲望、劣等感、優越感、孤独、空虚、寂しさ、庇護欲、承認欲求。

 そんなすべてが含まれた感情を、俺は純粋な好意だと思えなかった。




666:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:14:06.87 ID:tPIsQ6zzo


 真中が離れていかないように、真中を突き放した。……それは事実だ。
 でも、そんなないまぜになった感情を抱く自分が嫌で、綺麗な気持ちじゃないのが嫌で、真中を突き放した。……それも事実だ。
 きっと全部が絡み合っている。
 
 それが愛なら、たぶん全部が愛なんだろう。
 世界は愛でできているんだろう。

 俺は言葉の使い方が雑だから、それを愛と呼んでやってもいいんだけど、
 でも今は、いつもみたいにそんなごまかしをつかったら、取り返しがつかないような気がした。
 
 ──きみはね、恋がしたいんだよ。
 ──恋がしたいから、困ってるんだ。

 それが本当だったのかもしれないと思うけれど、好きだなんて言葉ではどこにもいきつかない。

「……せんぱい?」

 自販機の脇に、真中はもたれている。
 仕方ないから俺は、

 とん、と手を突いて近付いた。

「……なにしてるの、せんぱい?」

「……壁ドン?」

「……最近あんまり聞かなくなったね?」

「……だな」

 とりあえず、十五センチ圏内に真中のからだがある。




667:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:14:32.94 ID:tPIsQ6zzo


 いろんなものがないまぜになっているのかもしれない。

 それがなんだ。

 綺麗なだけの感情じゃないかもしれない。

 それがなんだ。

 俺が好きだと言ったら、真中が離れていくかもしれない?
 
 ふざけてんじゃねえよ。

「真中」

「はい」

 と、真中はなんでか敬語だった。
 あっけにとられたみたいな、ちょっと慌てたみたいな、高い声だ。
 それが珍しくて、俺はなんだか、慣れないこともやってみるもんだな、と思う。

 さて、なんて言えばいい?

 必要だ、というのとは違う。
 好きだ、というには混乱している。
 ましてや、愛してるなんてお笑い種だ。

 だからって、茶番をもう一度繰り返したいわけでもない。




668:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:17:06.69 ID:tPIsQ6zzo


「……いくじなし」

 と真中が言った。
 
 うるせえよ、と俺は思って、
 すんなりと言った。

「俺はおまえが欲しい」

 それが一番、感覚としては近かった。

 んだけど、

「……は?」

 と、不審そうに見られてしまった。
 それもまた仕方ない。

 レディコミの男役か、と言いたくなるような台詞だった。我ながら。

 真中は、十秒くらいたっぷり黙り込んで、俺の方を見上げていた。
 そして、ふきだすみたいに笑う。

「なぜ笑う」

「笑うよ、これは」

「……俺らしくない?」

「……うん。とっても」




669:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:20:51.00 ID:tPIsQ6zzo


 欲しい。
 
 思い通りに動かしたい。
 所有したい、とすら思う。

 これが純粋な好意だなんて、最初から思ってない。

 真中は、呆れたみたいに俺を見上げて、
 猫みたいに、にんまり満足そうに笑う。
 
 頬にほんの少し朱がさしていて、それを綺麗だと思った。

「わたしが、欲しい?」

 少し震えた声で、真中はそう言った。

「欲しい」

「……ふうん?」

 油断しちゃいけない、とずっと思っていた。
 油断したら、この表情に全部もっていかれる。

 そう思っていた。
 手遅れだ。最初から。

「簡単にはあげないから」

 そういって彼女は、俺のもう片方の手をそっと持ち上げて、自分の頬にもっていった。
 すりよせられるように頬の感触を感じ、てのひらに、真中の睫毛があたるのが分かった。

「……だから、もっと欲しがってよ」

 ……結局これだ。
 完敗だ。

 こうなるのが分かってたから、俺は気取られたくなかったのだ。
 そんな後悔を覚えたけれど、もう手遅れだ。

 俺はこいつを欲しがっている。ほかの誰でもなく。




670:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/15(金) 21:21:36.32 ID:tPIsQ6zzo


「……からかってる?」

 そう訊ねると、真中は柔らかく首を振った。

「もっかい言ってよ」

「なんて?」

「わたしがほしいって」

「……あのな」

「なんかね、なんでだろう。なにが、ちがうんだろうな……」

「……?」

「言い慣れてない感じが、せんぱいだなって気がしたよ」

「……何の話?」

「なんでもない」

 と真中は笑った。

 俺と彼女はそれからしばらく、誰も来ないのをいいことに、もぞもぞと動く貝になったみたいに、黙りあったままそこにいた。





676:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 00:35:35.25 ID:5P8sYMU/o






 部室に行くまでのあいだ、真中はずっと俺の制服の裾を掴んですぐ後ろを歩いた。





677:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 00:36:33.31 ID:5P8sYMU/o




 部室についてからも、真中は制服の裾を離さなかった。
 
 大野と瀬尾と市川は既にそこにいて、それだけで察したみたいに何も言わなかった。

「歩きにくい」

「恥ずかしいの?」

「それもある」

 なんて会話を、俺は沈黙が広がる文芸部室のなかで繰り広げなければいけなかった。

 俺は荷物を机の上に置いてから、部室の隅の戸棚に近寄る。
 
「どうしたの?」

「調べ物」

 そう言って俺は『薄明』の平成四年版を手に取る。

 茂さんが作り上げた架空の書物、架空の文芸部、架空の歴史。
 今から俺はそれを足がかりに、大掛かりな嘘をつかなければならない。




678:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 00:37:01.86 ID:5P8sYMU/o



 手にとって読んでみても、やはりそれをひとりの人間が作り上げたのだという感じはしなかった。
 収められている文章はどれもこれも巧拙や筆致に差異があるように見える。

 つまり、彼はそれほどの書き手だったということだろう。

 それだけのことが俺にできるだろうか?

 わからない。

 とはいえ、今重要なのは、そんなことではない。

 問題はひとつ。

 佐久間茂が作り上げたこの『薄明』のなかに、どんな物語が隠されているのか、だ。

 なのだが。

「……真中」

「ん」

「近い」

「うれしい?」

「……」

 うれしくないこともなかったが、集中できない。

「今日はあっついねー」と瀬尾があからさまにわざとらしいことを言う。

「夏だからな」と大野が答えた。
 
 市川は黙ってノートに絵を描いている。




679:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 00:37:34.16 ID:5P8sYMU/o


 ……とりあえず、『薄明』に視線を下ろす。

 平成四年度に発行された部誌は全部で四冊。
 春季号、夏季号、文化祭特別号、冬季号。

 そのうち、佐久間茂という名前があるのは、春季号と夏季号のふたつのみ。
 以降のふたつには彼は参加していない、ことになっている。

 読むものが読めば、春季号と夏季号に佐久間茂が寄稿した文章は盗作だとはっきりわかる。
 だからこそ、茂さんは、佐久間茂の名前を文化祭特別号以降には載せなかった。
 
 この一連の捏造された事態にはひとつのメッセージがあるように受け取れる。

 これは、『佐久間茂の作品は盗作である』という宣言だ。

 そして、佐久間茂の作品というのは、この四冊の『薄明』を指し示しているともとれる。

 何の盗作なのか?
 
 もちろん本人に聞くのが早いけれど、既に俺はその答えを知っている。
 
『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』。

 彼は、ボルヘスのあの短編の着想を模倣し、それによって架空の部員たちの存在を捏造した。

 これはもちろん、本来ならば紙の上で起きただけの出来事にすぎない。
 けれど、本当にそれだけで済んだのだろうか。




680:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 00:38:00.65 ID:5P8sYMU/o


 机の上に並べた『薄明』に順番に目を通しながら、俺は考える。

 佐久間茂の想像に過ぎない『むこう』は、その存在を現実に映し出し、今にまで影響を与えている。
 それによって、瀬尾青葉がこの場にいて、さくらが生まれ、カレハも生まれた。

 だとすれば、佐久間茂が捏造したこの部員たちは、現実に何の影響も与えなかったのだろうか?

 もちろん、部員たちが本当に生み出されたというようなことはなかっただろう。……おそらく。
 少なくとも茂さんは、そんなことを言っていなかった。

 だが、他の部分はどうか?

 たとえば、茂さんが言っていた、この部誌に仕込まれた『物語』。

 たとえばそれが、なんらかの形で現実に影響を与えたということは、ないだろうか?

 たとえばそれが……。

 ──さくらはいつのまに、守り神なんかになっちゃったんだろうね?

 他の何かと噛み合ってしまった、ということは、ないだろうか。




681:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 00:38:33.51 ID:5P8sYMU/o


 じっくりと目を通しているうちに肩が凝ってくる。
 そもそも俺は文章を読むのが得意ではない。

 こんな調子でやっていけるかどうか不安だけれど、俺は約束してしまった。

 さくらの居場所の作り方なんて、正直なところ見当もつかない。

 そもそも、どうなったらさくらの居場所ができたことになるのかもわからない。

 それでも俺は大言壮語を吐いてしまった。今更飲み込み直すこともできない。

 少なくとも……彼女が甲子園を見に行けるくらいにはしてやらないといけない。




682:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 00:39:53.56 ID:5P8sYMU/o


 と、少し休憩しているところで、真中がじっと俺のことを見ていることに気づく。

「……なに」

「なんでもない」

 なんとなく変な気分で、俺は両手を机の下に垂らすように伸ばした。

 すると真中は、不思議そうな顔で俺の手の甲に指先で触れた。

 ほんの少しなぞるような感触に、肌がざわつくみたいに動揺した。

 何かを言いそうになったけれど、どうしてか声を出せない。
 周囲の様子をうかがうと、みんなそれぞれが別々のことをしていて、こちらを気にする様子はない。

 真中もまた、みんなの様子をたしかめたあと、静かに俺の手に視線を戻して、指先だけでたしかめるように俺の手を撫でた。
 
 俺が文句を言わないのを見て取ると、真中の指の動きはそれまでよりも大胆なものに変わった。
 手の甲全体を手のひらで包むように動かし、かたちをたしかめるように何度も往復する。

 くすぐったい。

 彼女はテーブルの上に載せた本をもう片方の手でもって、何食わぬ顔でそちらに視線を向けている。

 負けてたまるか、いや、何に負けたことになるのかはわからないけれど、などと考えながら、俺は視線をページに戻す。
 真中はまるで俺の我慢を試すみたいにしばらくその動きを続けた。
 



683:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 00:40:49.40 ID:5P8sYMU/o


 
 やがて彼女の指先が、俺の手のひらの内側に忍び込んでくる。
 彼女の指が、俺の指の一本一本の根本の間を、爪の先でひっかくみたいにくすぐる。
 
「……」

 当然、俺は集中できないけれど、真中は片手で器用に文庫本のページをめくった。
 指先が絡められる。

 ああもう、と俺は思った。

 彼女の指と指の間に、自分の指を滑り込ませ、黙らせるみたいに握ってやると、一瞬真中が驚いたのが手のこわばりだけでわかる。

 それでも真中はかたくなに手を離さず、顔色も変えない。
 こういうことに関しては、真中は慣れきっているのだ。

 それは俺だって同じだ。数年間ずっと、葉擦れの音が聞こえ続けるなかで生活してきたのだから、さして難しくない。
 そのはずだ。

 真中はしばらく、俺の手の中でじたばたあがくみたいに指先を動かしていたけれど、やがて諦めたみたいにされるがままになった。
 ようやく静かになった、と思って、俺と彼女は互いの手のひらをそのままに、それぞれに文章を読み始めた。

 



684:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 00:41:17.02 ID:5P8sYMU/o





 佐久間茂の文章の物語。仕掛け。

 それはさして難しい秘密ではなかった。
 別人名義の編集後記や、ところどころの短編小説や散文に、その影を推し量ることができる。

 当然、さまざまな人間が書いた文章という体裁なので、全体像を把握することは難しい。
 
 それでもはっきりと、隠された物語を見つけ出すことはできた。

 それは、『守り神』についての話だった。
 人と人とを結ぶ縁の神。

 少女の姿をした神様は、普段は制服姿で生徒たちの間に隠れ、ひっそりと人々の縁を結ぶ手伝いをしている。
 彼女は誰からも見ることができず、彼女の声は誰にも聞こえず、彼女は学校から出ることができない。

 校門近くの大きな桜の樹。その樹の精だという噂もある。

 その精霊の噂話が、あたかも本当に生徒のあいだでまことしやかに語られていたかのように、ところどころで触れられている。

『さくら』はましろ先輩の空想の友達だ。それはたしかだろう。
『さくら』を連れたましろ先輩が『むこう』に行ったことでカレハが生まれたのだとしたら、そうだ。

 だとすれば、『さくら』が生まれたのは……。

 佐久間茂の書いた『薄明』。
 ましろ先輩の『空想の友達』。
 そして、『夜』と『むこう』。

 その三つが複合的に絡み合った結果なのではないか。
『夜』によって叶えられた『むこう』。そこに踏み込んだ『ましろ先輩』。その『空想の友達』。
 そしてその『空想の友達』、眠っていた空想の友達が、ましろ先輩がこの学校に入学したことで、
『守り神』としての形を持って再構成された。

 ──わたしはこう思ってる。さくらはあの学校にずっと居たわけじゃない。
 ──あの学校にずっと居た、という記憶を持って、ある日突然あらわれたんだって、そう思ってる。

 やはり、ましろ先輩が言っていたとおりなのだろうか。




685:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/20(水) 00:41:55.26 ID:5P8sYMU/o


「……いや」

 と、思わず独り言を言うと、瀬尾がちらりとこちらに視線をよこした。

「なんでもない。少し考え事だ」

「……そ?」

 納得のいかないような顔だったけれど(俺は瀬尾に隠し事ができないらしいので仕方がない)、あえて何も聞いては来なかった。

 ……だとすると、カレハはどうなる?

 カレハが生まれたのは、ましろ先輩がむこうにいったとき、そのはずじゃないか。

 ……。
 けれど……。

 そもそもカレハは、どうして、瀬尾がいなくなった頃に、俺の前に姿を見せたんだろう。

 むこうの俺は、六年前からずっと、あの場所に置き去りだったはずだ。
 そのときからカレハが居たなら、カレハが俺の前に現れるのは、もっと前でもよかったはずだ。

 だとすると、こうだ。

 まず、『俺がさくらを見つけた』。
 
 そして、『カレハがむこうの俺の前に現れた』。

 カレハもまた、ずっとあっちに存在していたのではなく……。
 俺がさくらを見つけたから、俺の前に現れることができるようになったんじゃないのか?

 ……さすがに、頭が混乱してきて、パイプ椅子の背もたれに体重を預けて息をつく。

 この仮定が本当だったところで、どう判断したものか。
 ふと、真中が俺の手をぎゅっと握った。俺はされるがままにしておいた。




690:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/27(水) 22:36:50.49 ID:zBDZg6OAo






「ね、三枝くん。お願いがひとつあるんだけど、いいかな」




691:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/27(水) 22:37:17.74 ID:zBDZg6OAo




 部活を終えて帰ろうという段になったとき、瀬尾にそう声をかけられて、俺はいくらか面食らった。

「いいけど……なに?」

 瀬尾はほんの少しためらいがちに、俺の近くにいた真中を見る。
 真中の方はそのまま瀬尾を見返していた。

「……お願い?」

 なんとなく硬直した空気をいさめるつもりで俺が聞き返すと、瀬尾はこくんと頷いた。

 うなずいてからも、瀬尾は言いにくそうにもじもじと視線をそらしている。
 瀬尾が俺に頼み事をするのも珍しいが、こんなふうに落ち着かない様子でいるのも珍しい。

「お願いって?」

「えっとね……」

「うん」

「……せんぱいって」と、黙っていた真中が口を挟んだ。

「ん」

「青葉先輩にはやさしいよね」

「……」

 俺と瀬尾はそろって真中の方を見た。

「……なんでそうなる」




692:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/27(水) 22:37:44.97 ID:zBDZg6OAo


「だって、そんな感じするし」

「そんなことないと思う」

 と、瀬尾と俺の声は揃った。

「……失礼なやつだな」

「や、べつにそういう意味じゃなくて……」

「どういう意味だよ」

「三枝くんはみんなに優しいじゃん」

「……」

 俺と真中は顔を見合わせた。

「……せんぱい、どんな弱みを握ったの?」

「俺はどんな人間だと思われてるんだ?」

「……わたし変なこと言った?」

 瀬尾は不思議そうに首をかしげた。
 
「変というか……」

 俺が何かを言うのも違う気がして、話を戻す。




693:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/27(水) 22:38:15.70 ID:zBDZg6OAo



「で、結局お願いってなに」

「あ、うん」

 そこで瀬尾は真中の方をちらりと見た。

「……わたし、邪魔?」

「邪魔だってさ」

「や、や。邪魔ってことはないけど」

「いい。せんぱい、今日は先帰るね」

「はいはい」

 俺のうなずきを待たずに、真中はあっさりと去っていった。
 相変わらずのペースで、かえって面食らってしまった。




694:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/27(水) 22:38:47.56 ID:zBDZg6OAo



「……えっと、ふたり、どうしたの?」

 瀬尾にそう訊ねられても、俺はうまく答えられずに肩をすくめるしかない。

「どうというか……まあな」

「あらためて付き合うことになったの?」

「そう言っていいものか」

「よくわかんないね」

「複雑なんだ」

 まあとはいえ、事実だけを言えば、俺から告白したようなものか。
 
「よかったの? 帰らせちゃって」

「真中がいたら話しづらい話題なんだろ」

「そうだけど……」

「変な気を使うな」

「……さっきまでベタベタしてたくせに」

 それはまあ、そうなのだろうけど、ここで真中を追ったところで、良いビジョンがあまり見えないのが不思議なところだ。

『今日は先に帰るね』と真中は言った。
 
『また今度一緒に帰ろう』という意味だろう。

 経験上、そういう意味だと思う。

 それからたぶん、このあとに起きることも聞かれるのだろう。
 不思議なものだ。




695:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/27(水) 22:39:28.41 ID:zBDZg6OAo



 と、思っていたところで、携帯がポケットのなかで震えた。

 真中から、

「ばか」

 と来た。

「……」

 ごめんと返すと、またすぐに、

「節操なし」

 と来る。

「はくじょうもの」

「うわきもの」

「ごめんて」

「ゆるす」

 許すんだ。

 良い子かよ。

「良い子」

「えへへ」

 ……えへへってなんだ。誰だこれ。




696:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/27(水) 22:40:03.26 ID:zBDZg6OAo


 とりあえず対応に困ったので、返信をせずに携帯をしまう。

 それから瀬尾のほうに向き直った。

「それで?」

「あ、うん……。連れてってほしい場所があるんだ」

「……ふむ」

 まあ、ちょうどいいと言えばちょうどいい。
 俺も瀬尾に話さないといけないことがある。

 ちせと、ましろ先輩。
 それから……市川にも。

 とはいえそれはひとつひとつだ。

「じゃあ、とりあえず行くか」

「……うん」




697:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/27(水) 22:40:35.59 ID:zBDZg6OAo




「……えと、ね」

 校門を抜けたところで、瀬尾は言いにくそうに口を開いた。

「どうした」

 と訊ねても、やっぱり困ったような顔をするだけだ。

 甘えるような目でこちらを見ている。
 
「なんだよ」

「ちょっとまってね」

 と言って、瀬尾は深呼吸をした。

「まだ、迷ってる部分もあって……」

「……ふむ」

「えと……」

「うん」

 こんな瀬尾も珍しいな、という気持ち以上に、もっと不思議な違和感のようなものがある。
 この感覚を俺は知ってる。

「……『トレーン』」

「え?」

「『トレーン』に、連れて行ってほしいの」




698:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/03/27(水) 22:41:06.63 ID:zBDZg6OAo


 ああ、そうだ、と俺は思った。
 
 今の瀬尾は……さっきの言葉も、そうだ。

 ちどりに似ている。どことなく。

「ほんとはすごく迷ってるの」

「……だろうな」

「だけど、でも……そうしないと、進めない気がする」

 進むって、どこに。

 そう訊ねたかったけど、やめた。

「だけど、ひとりじゃいけない。だから……」

「俺に付き合えって?」

「……だめかな」

「……駄目じゃないよ、べつに、もちろん」

「そ、そう?」

 瀬尾がいいなら、いいのだろう。

「瀬尾は……」

「ん」

「すごいな」

「……なに、急に」

「あとで牛乳プリン買ってやるよ」

「……それ、約束だからね」

「俺は嘘をつかない」

「……それは嘘」

 瀬尾はぎこちなく笑った。
 



703:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/02(火) 23:12:22.89 ID:DGAy5fz9o





『トレーン』の扉を開けるといつものようにベルが鳴る。

 夕方の店内には、何人かの客の姿があった。応対をしていたマスターは、ちらりとこちらに目を向けると静かに笑った。

「いらっしゃい」

 瀬尾は俺の背中に隠れ、店内の空気をたしかめるように呼吸をした。

「どうも」とだけ声をかけて、俺は奥のテーブル席へとむかう。
 瀬尾は黙ったまま俺を追いかけた。

 席についたところへ、いつものようにちどりがやってきた。

「いらっしゃい、隼ちゃん」

 そう言って、いつものように俺を見てから、瀬尾の方へと視線をうつし、
 その表情が不可解そうに揺れた。

 なにか不思議なものを見たような、
 そんな顔だ。

「……あ、えと。お友達ですか?」

「ん。まあな。……忙しそうだな」

「ええ、まあ、いつもよりは、少し」

「そうか」

「注文は……」

「ブレンド。瀬尾は」

「あ、同じで」

「かしこまりました」

 そう言って、ちどりは小さくお辞儀して去っていく。




704:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/02(火) 23:13:12.56 ID:DGAy5fz9o


「……」

「ずいぶん緊張してるな」

「まあ、ね」

 来たいというから連れてきたものの、俺は瀬尾が何をするつもりなのか知らない。
 ちどりはもちろん、茂さんも瀬尾の存在を知らない。
 
 茂さんなら、瀬尾を見れば何が起きたかを感づくだろうか。

 それもそうかもしれない。
 俺はひょっとして、瀬尾をここに連れてくるべきではなかったのか。

 ……いや。

 瀬尾青葉の判断は、瀬尾青葉の判断だ。

 俺がどうこうできるものじゃない。

 ましてやそれは、ややこしい変な出来事のせいで制限されていいものでもないはずだ。
 おそらくは。



705:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/02(火) 23:13:51.17 ID:DGAy5fz9o



「……」

「なんか、顔赤いな」

「ん。や、まあ……」

「どうした」

「や。……ほんとに敬語だったなあって」

 恥じ入るみたいに、瀬尾はテーブルに両肘をついて顔を手のひらで覆った。

「……なんでおまえが恥ずかしがる」

「……三枝くんにはわかりませんことよ」

「そりゃ、べつにいいけどな。いいじゃないか、敬語」

「そう?」

「似合ってる」

「そうですか?」

「……」

「……」

「似合わないな、不思議と」

「不思議ですね……」

 ちょっとやけになっているみたいだった。




706:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/02(火) 23:14:19.30 ID:DGAy5fz9o


「それで……?」

「ん……」

「どうする気でここにきたんだ」

「ん。まあ、いろいろ考えてたんだけど。ひとまず……忙しそうだし、あとにしよっか」

「……」

 忙しそうだし、というからには、やはりちどりと話したいのか。
 いや、話してみたいのか。

 それはそう、かもしれない。

 瀬尾にとってちどりは可能性そのものだ。

「それより、三枝くんこそ、わたしになにか話があるんじゃないっけ」

「……俺、そんなこと言ったっけ?」

「あれ、言ってないっけ?」

「まあ、あるのはホントだけどさ」

 言ってなかったとしても、瀬尾とももう長い付き合いだ。
 こいつなら見透かしてもおかしくないかもしれない。

 今となっては瀬尾は、俺を取り巻く状況について、いちばん知っている人間だとも言える。




707:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/02(火) 23:14:50.03 ID:DGAy5fz9o


「さくらのことだ」

「さくら……」

 瀬尾は、一瞬きょとんとした顔になって、

「あ、さくら!」

 と、声をあげた。周囲の客がこちらに視線を寄せてくる。俺は唇の前に人差し指を立てた。

「声が大きい」

「ごめんなさい」

「素直でよろしい。覚えてるみたいだな」

「ん。今の今まで忘れてた。戻ってきてから、わたし、姿を見てないよ。……見えなくなっちゃっただけ?」

「いや。たぶん、姿を見せてないだけだろう」

「……そうなの?」

「ああ。さくらはいる」

「……そっか。すっかり、頭から抜けてた。……うん。さくらね」

「そう。さくらのこと」

「……さくらが、どうかしたの?」

「ま、いろいろあったんだけど、ややこしいから過程は省略する」

「省略するんだ」

「説明が面倒でな」

「……ま、三枝くんらしいけどさ。それで?」




708:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/02(火) 23:16:03.05 ID:DGAy5fz9o



 説明、そう、説明だ。
 それが必要だ。……俺に、できるだろうか。

 そもそも俺は、自分が何をしようとしているのか、ちゃんと理解できているのだろうか。

 目的。

 さくらの居場所を作る。

 手段。

“夜”を利用する。

 さくらの居場所をこの世界に書き足す。

「……『薄明』を作りたい」

「……ん。なに、突然」

「フォークロアを作る」

 俺の言葉に、瀬尾は目を丸くした。

「ごめん、順番に説明してくれる?」

「……だよな」

 まあ、仕方ない。話せる部分だけ、話してしまおう、と、そう思ったところで、声をかけられた。




709:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/02(火) 23:16:41.51 ID:DGAy5fz9o


「おまたせしました。ブレンドふたつですね」

 ちどりがやってきた。

 俺と瀬尾が話している間に、客は少しずつ減っていた。
 周囲を見ると、いくらか落ち着いた雰囲気だ。

「……あの、鴻ノ巣ちどり、さん?」

 不意に、瀬尾がそう声をかけた。

「……あ、はい」と、戸惑ったふうに、ちどりが返事をする。

「あの、わたし、瀬尾青葉っていいます」

「……あ、はい。はじめまして、ですよね」

「……うん。三枝くんから、いつも話は聞いてる」

「……ほんとに?」

 と、なぜかちどりは俺を見た。

「なんで」

「だって、隼ちゃんが誰かにわたしの話をするなんて、思えないです」

「……」

 たしかに、と思うと同時に、瀬尾が『たしかに』という顔をした。

「……や、まあな」

「三枝くんとは文芸部で一緒で、いろいろ話をしてるうちにね」




710:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/02(火) 23:17:18.87 ID:DGAy5fz9o


 そんなふうに誤魔化しながら、瀬尾はちどりに笑いかける。
 やっぱりいくらか、緊張した様子だ。

 それにしても……ふたりはやっぱり似ている。
 瓜二つ、とまでは言わない。

 それでもやはり、似ている。

「前から、ちどりちゃんに興味があったんだ」

「興味……ですか」

「うん。あのね、もしよかったら……わたしと、友達になってくれない?」

「……ともだち、ですか?」

「うん。……駄目かな」

 ちどりは、いくらか戸惑った顔を見せた。

 無理もない、といえば、無理もない。
 初対面の相手に、そんな言い方をされたら、普通はそうなる。

 でも、

「駄目なんてこと、ないです。隼ちゃんのお友達なら、大歓迎です」

「……」

 瀬尾は恥ずかしそうに目を覆った。

「どうした」

「や……自分のことじゃないのに、この無垢な信頼が恥ずかしい」

「……そう言われると俺のほうが恥ずかしい気がしてくるな」

「えっと?」

「あ、ごめんね。……うん。じゃあ、わたしと、おともだちになってください」

 そんなふうに瀬尾は、ちどりに手をさしだした。

 ちどりはその手を受け取った。
 



711:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/02(火) 23:18:05.04 ID:DGAy5fz9o






 
 瀬尾とちどりが話をするのを聞きながら過ごして、店を出たとき、まだ外は明るかった。
 夏が近い。

 俺は瀬尾に訊ねずにはいられなかった。

「どうしてだ?」

「ん」

 少しほっとした様子の瀬尾を見て、俺は不思議に思う。
 どうして、ちどりと友達になりたかったんだろう。

 それは瀬尾にとって、もしかしたら、とても残酷なことなんじゃないか。

「……わたしはさ、瀬尾青葉だからね」

「……うん」

「瀬尾青葉だから。鴻ノ巣ちどりじゃない。でも、なんだか、こうしなかったら、いつまで経ってもわたしは、本当の意味でわたしになれない気がする」

「……よく、わかんないな」

「わかんない、かもね。『三枝くんの幼馴染』に興味があったのも本当だし……でも、ちょっと説明がむずかしいかな」

「うん」




712:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/02(火) 23:18:31.91 ID:DGAy5fz9o


「わたしは……わたしとして生きる。だから、鴻ノ巣ちどりは、ちどりちゃんは、わたしのともだち」

「……」

「だめかな?」

「……いや」

 俺がどうこう言うことじゃない。
 きっと、たくさん考えたんだろう。

 ああでもないこうでもないと、もがいてあがいた結果なんだろう。

 だとすれば、それを俺が認めるとか認めないとかいう次元の話じゃない。
 
 瀬尾青葉は瀬尾青葉として生きる。

「……ホントはずっと、悩んでたんだ。鴻ノ巣ちどりとしての記憶を持ってる自分が別人として生きるって、絶対変だから」

「……」

「でも、決めた。『それ』を含めて、わたしはやっぱり瀬尾青葉なんだって」

「……そっか」

「今、わたしがここにある。そこに至るまでのすべてがぜんぶわたし。そう思ったらすっきりしたから」

 だからだろう。
 瀬尾の表情が澄み切って見えるのも。




713:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/02(火) 23:19:21.81 ID:DGAy5fz9o



「だからね、“隼ちゃん”」

「……」

「これからもよろしくね」

「……まあ、好きに呼べよ」

「つめたーい。わたしのこと好きって言ってたくせに」

「なんだそれ、記憶にねえよ」

「覚えてないの?」

「いつの話だ」

「ずっと昔」

「そっか」

 ここに至るまでのすべて。

 経験。
 記憶。
 歪み。
 痛み。
 ありとあらゆる感情。

 今ある混乱。 
 そのすべてが自分であるならば……。




714:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/02(火) 23:19:49.97 ID:DGAy5fz9o


「大丈夫だよ。柚子ちゃんとのこと、邪魔したりしないから」

「そんな心配、してない」

「……そう?」

「ああ」

「ちょっと残念かも」

「なんで」

「隼ちゃんには、わかんないですよ」

「……」

「……なに?」

「いや、ちょっと今……」

 ちどりみたいだった、と、またそう言ったら怒るだろうか。




715:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/02(火) 23:20:28.92 ID:DGAy5fz9o


「ちどりちゃんみたいだった?」

「……うん」

「それはそうだよ」

 と、瀬尾はなんでもないように言う。

「それを含めて、わたしはわたしだからね」

 瀬尾青葉は本当に、強い人間だと思った。

「それで……さっきの話だけど」

「ん」

「フォークロアを作るって?」

「……ああ」

 そうだな、
 その話を始めなきゃいけない。

 他のことはすべて、もう、一段落した。
 最後の仕上げをしなきゃいけない。




721:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/05(金) 01:37:39.98 ID:iNQmpNLTo





 佐久間茂はあの森を作った。
 
 夜の力を借りて。

 夜は現実に影響をきたした。
 その結果、『薄明』を通じてさくらが生まれた。

 これが最初の仮定。

 そしてこう続く。

 仮に『薄明』がさくらのディティールを作り上げたのならば、
『薄明』によってそれを書き換えることは可能ではないか。

 佐久間茂がデミウルゴスなのだとしたら、夜はデウス・エクス・マキナだ。

 これはもはや呪術的儀式に近い。

 佐久間茂の『薄明』、その『後日談』を描くことで、『さくらのディティールを書き換える』。

 矛盾なく、さくらを揺らがせないように、慎重に。
 さくらを今のさくらのままで保ちつつ、さくらを書き換える。

 そのためには、佐久間茂がそうしたように、
『薄明』を作らなければいけない。

『薄明』そのものを物語にしなければならない。

 そのとき夜は、昼の世界に静かに侵食するだろう。

『薄明』。

 夜明け前のほのかな明かり。




722:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/05(金) 01:38:12.56 ID:iNQmpNLTo


 


「……突拍子もないこと考えるね」

「まあな」

「本当にできると思う?」

「わからん」

「でも」

「ん」

「おもしろそう」

 そう言うと思った。




723:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/05(金) 01:38:56.24 ID:iNQmpNLTo





 『薄明』平成四年春季号

 目次

 
 1.小説

『ゆりかごに眠る / 赤井 吉野』
『白昼夢  / 佐久間 茂』
『空の色 / 弓削 雅』
『悲しい噂 / 酒井 浩二』
『ひずみ / 峯田 龍彦』
『ハックルベリーの猫 / 峯田 龍彦』
『許し / 笹塚 和也』



 2.散文

『ちょうどいい季節 / 酒井 浩二』
『神様の噂 / 赤井 吉野』
『偏見工学 / 峯田龍彦』
『恋人のいない男たち / 笹塚和也』 

 3.詩文

『冬の日の朝に思うこと / 赤井 吉野』
『夕闇 / 弓削 雅』
『たちまちに行き過ぎる / 弓削 雅』
『成り立ちについて / 弓削 雅』
『作り方 / 佐久間 茂』


 編集:赤井 吉野  弓削 雅
 表紙:赤井 吉野


 編集後記:赤井 吉野




724:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/05(金) 01:39:52.24 ID:iNQmpNLTo





 『薄明』平成四年夏季号

 目次

 1.小説

『ふんわりとした音 / 赤井 吉野』
『水の上 / 佐久間 茂』
『茜色には程遠い / 弓削 雅』
『もしもあなたがいなくても / 弓削 雅』
『真実 / 峯田 龍彦』
『日々かくのごとし / 峯田 龍彦』
『白線捉える / 峯田 龍彦』
『永遠の途中 / 笹塚和也』

 2.散文

『猫と犬について / 赤井 吉野』
『屋上遊園地について / 赤井 吉野』
『天気について / 赤井 吉野』
『縁結びの少女 / 赤井 吉野』
『幽霊の所在 / 峯田 龍彦』
『無限の猿と踊る / 佐久間 茂』


 3.詩文

『白衣 / 弓削 雅』
『風遥か / 弓削 雅』
『鈴の音 / 弓削 雅』

 編集:赤井 吉野 弓削 雅
 表紙:赤井 吉野
 

 編集後記:赤井 吉野 




725:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/05(金) 01:40:37.10 ID:iNQmpNLTo




 瀬尾と別れたあと、俺は結局、『トレーン』の店先に居た。
 俺がやろうとしていることは、正しいことなのか、可能なことなのか。

 そんな考えが浮かんでは消えていく。
 
 そんなとき、不意に、見知った姿を通りの向こうに見つける。
 彼女は軽く手をあげてから、静かに歩み寄ってきた。

「やあ」と彼女は言う。

「やあ」と俺は返事をする。怜だった。

「最近はよく見るな」

「思ったより簡単にこっちに来られることに気付いたものだからね」

「そうか。何よりだ」

「うん。たったこれだけの距離だったのにな」

「……?」

 その響きになにか変なものを感じて、俺は思わず眉をひそめた。

「べつに深い意味はないよ。……さっき、誰かと一緒みたいだったけど」

「ああ、さっきまで……」

「……瀬尾、青葉さん?」

「……だな」

「……ねえ、隼。どうして彼女がちどりにそっくりなんだって、教えてくれなかったんだ?」

「……」

「彼女は、ちどりだよね」

 さて、どう答えたものか。
 けれど本当は、悩むようなことでもなかった。





726:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/05(金) 01:41:05.82 ID:iNQmpNLTo


「ちどりと言えば、ちどりだが……」

 怜が何かを言い出すよりも先に、言葉を続けた。

「今は、瀬尾青葉だ。本人がそう言ってる」

 怜は、なにか承服し難いような顔をしたが、やがて頷いた。

「なるほど。……どうして彼女はここに?」

「ちどりと、友達になりたかったらしい」

「……」

 今度こそ、いよいよ納得がいかないような顔を、怜はする。
 どうしてだろう。

 いつもより、どこか感情的に見える。

「そっか」

 とだけ言うと、怜は店内へのドアの取っ手を開いた。

「隼は帰るの?」

「そうだな。考えなきゃいけないこともあるし、遅いと純佳が心配する」

「そっか。……ね、隼」

「ん」

「瀬尾さんは強いね。ちどりも、きっと」

「……まあ、そうだな」

「ぼくは……」

「……ん」

「……」

「怜?」

「いや……」




727:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/05(金) 01:41:58.07 ID:iNQmpNLTo



「言いかけてやめるなよ。怜、悪い癖だ」

「隼には言われたくない。ただ、なんとなくね……」

「なんとなく、なんだ」

「ぼくは……昔から、ちどりになりたかったんだ」

「……どういう意味?」

「いや。……なんでもない、忘れてよ」

 そう言って、怜は、今度こそドアを開けた。

「あ、怜」

「……なに?」

「ひとつ、聞きたかったんだ。おまえ、最初に“むこう”の話をしたときのこと、覚えてるか?」

「……えっと、学生証の話をしたとき?」

「そう。そのとき」

「あのときがなに?」

「覚えてるか? おまえ、言ってたよな。“案内人がいた”って」





728:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/05(金) 01:42:28.52 ID:iNQmpNLTo


 ──怖い思いはしたから気をつけてたんだ。本当に危ないところには、近付かないようにしてた。案内人もいたしね。

「……そんなこと、言ったっけ?」

「ああ。あの案内人って、誰のことだったんだ?」

 ましろ先輩ではない。
 佐久間茂でもない。
 おそらく、カレハでもない。誰もそんな話はしていなかった。

 だとしたら、怜の案内人は、誰だったんだ?

「……えっと、思い違いじゃないかな。そんなこと、言った覚えがないんだけど」

「……そう、か?」

「うん。ぼくはむこうにいるときは、いつもひとりだったし」

 ……でも、それでは話が通らない、ような気がする。
 が、本人にそう言われては、確かめようもない。

「それだけ? ぼくは行くけど」

「……あ、ああ」

「じゃあね、隼」
 
 最後、怜は俺の顔を見なかった。
 そんなこと、今まではなかった。
 
 それなのに俺は、怜に対して何を言えばいいのかもわからない。
 怜のことを、自分がどれだけ知っているのか。

 そんなことを、どうしてか、考えてしまった。




729:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/05(金) 01:43:09.10 ID:iNQmpNLTo





 隼はきっと、気付かないだろう。
 おそらくこの事実はぼくの中でしか存在できない。
 
 砂浜に書いた文字のように、やがては波にさらわれて消えていくだろう。
 
 誰にも確かめられないし、誰にも知ることができない。

 誰も気付かない。

 ぼくをぼくと呼ぶこのぼくが、泉澤怜なのだと、みんなが信じている。

 このぼくがここにあることは……ぼくがぼくを獲得した結果だと、誰も知らない。

 それでいい。

 隼はぼくを探偵と呼ぶ。ぼくは隼を詐欺師と言う。

 けれど本当は違う。
 
 本当の詐欺師は探偵のような顔をしているものだ。

 そんなことを隼は知らなくていい。

 ぼくは、ちどりになりたかった。
 隼になりたかった。
 



730:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/05(金) 01:43:34.96 ID:iNQmpNLTo




「……それで?」

 と、市川鈴音は言った。
 渡り廊下のベンチに腰掛けて、市川鈴音は本を読んでいる。『ゴドーを待ちながら』だ。

 部誌を作る、と俺は言った。瀬尾に話を通した以上、あとは部員を説得するだけだ。

「市川、絵が描けるだろ」

「そりゃ、描けるけど……」

「表紙」

「……もう、期末だよ。部活動休止期間」

「関係ない」

「なくない。なんでそうなるの?」

「まあ、なくはないか。いや、でも、ちょっと描いてほしいんだよ」

「そう言われても……ううん、描くぶんには、いいんだけど、なんで急に?」

「必要だと思う」

「……前作ったときは、なかったよね?」

 たしかに、前回作ったときは、なかった。
 とはいえ、これは儀式だ。

「描いて欲しい絵がある」

「……」




731:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/05(金) 01:44:04.54 ID:iNQmpNLTo



 市川は、静かに考え込んだ。やはり、説明しないわけにはいかないのだろう。

「……なあ、市川」

「ん」

「前から思ってたんだけど……」

 彼女は俺を見ようともしない。ずっとページに目を落としている。

「おまえ、"むこう"に行ったことがあるな?」

「……」

 ようやく彼女は俺を見た。

「……どうして?」

「見たからだよ」

「……」

 さくらを連れ戻しにいった、あの日。

 帰り際、俺は渡り廊下で人影を見た。
 最初はただの気のせいだと思った。

 でも、それだけのはずがない。

 市川鈴音の姿をあのタイミングで幻視するなんておかしな話だ。




732:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/05(金) 01:44:31.80 ID:iNQmpNLTo


 思えば、市川は最初からおかしかった。

 俺が部誌に寄せていた文章、そのなかの、"むこう"に近い風景の描写。
 それを彼女は「実話か」と訊ねた。

 そんなわけがない、と俺は答えたけれど、そもそもの話……。

 どうしてあんな馬鹿げた風景を、こいつは"実話"だなんて思えたんだ?

 そう思った瞬間、あれが単なる幻だったとは思えなくなった。

 思えば市川は、やけに"むこう"の話に対して理解が早かった。

「……隼くんは、探偵みたいだね」

「俺は探偵にはなれない」

「そうかもだけど」

「……で?」

「……どうかな」

「……どうかな、って、どうなんだよ」

「わかんないの」と市川は言った。




733:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/05(金) 01:45:09.07 ID:iNQmpNLTo


「わたしは夢に見てるだけ」

「夢?」

「うん」

 珍しく、真摯な声音だった。
 そのせいで俺は、それ以上の追及ができない。

「……夢、か」

「うん」

「……そっか」

 なら、言っても仕方がない。

「ま、いいや」

「……ん。描いてほしい絵って?」

 訊ねられて、俺は少しだけためらった。
 けれどたぶん、必要なものだろう。

 たぶん、その絵は、描かれるべきだろう。





740:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/10(水) 23:08:07.07 ID:1j+CnVDuo





 期末テストが終わって、夏休みが目前に迫った頃、俺達は部誌を完成させた。

 突貫と言えば突貫だったけれど、瀬尾と真中は協力的だったし、市川も拒みはしなかった。
 そうなれば大野だって付き合いはいいやつだし、その上ちせも引き込めたことが大きかった。

「それにしても」と瀬尾は言った。

「三枝くんがこんなにやる気になる瞬間を生きてるうちに見られるなんてね」

 茶化すみたいなそんな言葉が、やけに照れくさかった。

 文芸部には少しだけ変化があった。

 真中と俺の関係性が変わったこともそうだけれど、そのうえ、ちせが入部することになった。
 
「なんとなくですけど、必要な気がするので」

 と、彼女は言った。それはたしかにそのとおりだと俺は思う。
 ちせがいないと、俺の計画していることは、ほんの少しだけ面倒が増える。

 



741:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/10(水) 23:08:40.61 ID:1j+CnVDuo


「でも、こんなことで本当にうまく行くんでしょうか」

 と、ちせはそう言った。

 何のために部誌を作ろうとしているのか、それを知っていたのは、俺と瀬尾とちせだけだった。

 理由は単純で、この三人にはさくらが見えるから。

 以前、ちせがさくらと顔を合わせたとき、ちせにはさくらが見えていた。

"むこう"に行った人間にはさくらが見える。それが俺の仮説だった。

 そして瀬尾とちせに対して、俺はいくらかの説明をした。

 結果として、それが上手く行ったかどうか、効果はまだ掴めない。

 ひとまず今は、それも一段落したので、俺は少し羽を休めることにしていた。




742:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/10(水) 23:09:20.25 ID:1j+CnVDuo





 放課後、屋上に寝そべって昼寝をしていると、「サボりですか」とさくらがやってきた。

「がんばったんだから、少しくらいサボったって、バチは当たらない」

「ま、そうかもですけど」

「……」

 なんだろう。
 何かを言えるような気がしたんだけど、何も思い浮かばない。

 どうしてだろう。





743:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/10(水) 23:09:50.39 ID:1j+CnVDuo




 『薄明』夏季特別号。


 目次


 0.部誌発行にあたって 
『物語の影響 / 瀬尾 青葉』
『概略 / 三枝 隼』

 
 1.小説

『涼やかな午後 / 大野 辰巳』
『寝顔 / 真中 柚子』
『湖畔 / 瀬尾 青葉』
『朝靄 / 瀬尾 青葉』
『塔  / 市川 鈴音』
『夜霧 / 宮崎 ちせ』
『幽霊のよまいごと / 宮崎 ちせ』
『あなたがそこにいなくても / 宮崎ちせ』
『白日 / 三枝 隼』


 2.散文

『平成四年に発行された部誌『薄明』に関する調査と仮説 / 三枝 隼』
『噂話の効用 / 瀬尾 青葉』
『ファンタジーと現実との対照 / 宮崎ちせ』
『桜の少女についての再考 / 三枝 隼』
『わたしたちの不確かな現在 / 瀬尾 青葉』

 3.詩文

『成り立ちについて / 瀬尾 青葉』
『作り方 / 宮崎 ちせ』
『薄明 / 三枝 隼』


 編集:瀬尾 青葉 三枝 隼
 表紙:市川 鈴音


 編集後記:瀬尾 青葉




744:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/10(水) 23:10:17.26 ID:1j+CnVDuo





 俺の考えは、さくらの存在が佐久間茂の作った『薄明』に根ざしているという仮定から始まる。
 だからその詳細をさくらに話すわけにはいかない。

 誰かの書いた文章が自分の存在を生んだかもしれないなんてこと、さくらは知らなくていい。

 まず第一に必要だったのは、佐久間茂がさくらについてどのような『設定』を用意していたかを確認することだった。

 それはそんなに難しいことではない。『薄明』を確認すればいいだけだからだ。

「でも、本当にそれだけでいいのかな」

 と瀬尾は言っていた。

「部誌に書かれてる以外の設定もあるんじゃないの?」

 そうだとしても、佐久間茂に確認すればいい。それはそうだが、俺は別の理由からそっちを無視した。
 仮に薄明に描かれている以外の情報がさくらの存在に反映されるとしたら、さくらの存在はもっと揺らぎやすく曖昧になる。

 噂話だって変化する。茂さんがさくらのことを忘れることもあるだろう。
 にもかかわらず存在し続けているのは、さくらが『薄明』に依拠しているからだ。

 と、仮定しないかぎり、そもそも俺の解決法も成立しないのだが。

 はっきりいって、根拠があるわけではない。
 
 単に、『これで駄目なら他の方法を試すしかないから、とりあえずやってみるしかない』という理由だ。




745:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/10(水) 23:10:44.90 ID:1j+CnVDuo


「そのために……この『薄明』を使うんですか?」

 平成四年に作られた『薄明』を見て、ちせはいかにも不思議そうな顔をした。
 無理もないと言えば無理もない。

「もし仮にこの『薄明』がさくらを規定しているとしたら、この『薄明』に書かれている情報は無視できない」

「……まったく別のお話を作ることはできないんですか?」

「できなくはないが」

 仮にそれをしてしまったら、今度はさくらではない別の存在が生まれることもありえるだろう。
 もっと言えば、いまいる『さくら』が根っこから変化してしまうこともある。

 それでは意味がない。

 であるなら、『佐久間茂の薄明』を前提にして、そこに情報を付け足すことでさくらに変化を与えなければいけない。

「そんなこと、できるんですか?」

 できるかどうかはわからない、と俺は答えた。

 それはそうか、という顔を、ちせも瀬尾もしてくれた。




746:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/10(水) 23:11:10.65 ID:1j+CnVDuo




 そして俺たちは、『平成四年に作られた薄明において語られた噂話』を検証するという体裁を使った。

 佐久間茂の『薄明』においては、噂話の真偽は曖昧に、あくまでも『そういう噂がある』というふうに語られていた。
 その噂は今現在この校内で流布している噂話の原型になっている。

 桜の樹の精。
 縁結びの神様。

 その物語を『検証する』というかたちで、俺達はそれを作り変えることにした。

 これに関してはひとつアイディアがあった。

『聞き取り調査』だ。

 平成四年に作られた『薄明』の中で『神様』と『縁結びの少女』について書いていたのは赤井吉野という生徒だった。

 俺たちは、赤井吉野という少女──というのは文体からの想像だが──に、さくらについて直接質問しにいった。

 つまり、

『現在流布されている噂話の原型を知っている相手へ聞き取り調査を行い、その詳細を確かめた』。

 さて、とはいえもちろん、『赤井吉野』という生徒が実際に『薄明』を作るのに参加していたわけではない。
 佐久間は『幽霊部員だらけの文芸部』を利用して部誌を作ったのだ。

 けれどだからこそ、『赤井吉野』という生徒は、当時の卒業アルバムにはちゃんと載っている。

 だから、あくまでも、『赤井吉野に聞いた』というかたちで、『さくらについての情報』を書き加えたのだ。
 



747:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/10(水) 23:11:47.93 ID:1j+CnVDuo


・赤井吉野はさくらを見たことがある。
・それは『薄明』を作り上げたあとのことである。
・よって平成四年の『薄明』に描かれた情報は真実というよりは推測であった。
・その少女は時折人前に姿をあらわす。
・彼女は人と人との縁を繋ぐことを楽しみにしている。
・自分がどうしてそんなことをしているかはわからない。
・誰かが必要としたとき、彼女は姿を見せる。
・こっそりと人々の手伝いをしている。
・ある一時期、文芸部は彼女のために恋愛相談所として機能していた。
・文芸部の部室には当時使っていた相談用のボックスが置かれていた。
・それは今現在も残っているはずである。
・赤井吉野自身も勘違いしていたが、彼女は校内から出ることもできるし、望んだ相手と会うこともできる。
・実際、卒業してから彼女が会いにきたといっていた人間もいる。
・彼女は寂しがりなので、相手をしてあげると喜ぶ。




748:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/10(水) 23:12:38.12 ID:1j+CnVDuo




 俺と瀬尾とちせ、それから暇をしていたましろ先輩は、日曜大工をして木製の箱を作り上げた。

 ちょうどよく古びた木材を釘で打ち合わせて。

 そして「古くなっていたものをキレイにした」風に見えるようにしてから、文芸部の部室に置いた。

「なにこれ?」と大野に聞かれたとき、
「調べ物をしているうちに見つけた。文芸部の部室にあったらしい」と伝えたところ、
 大野は疑いもせずに「ふうん」と言った。

 あまり興味のないことなら、人はその真偽を疑わない。

「本当にこれでいいのかな?」と瀬尾は言った。

「さあ?」と俺は答えた。

「でも……」とちせは笑った。

「なんだか、楽しいですね」




749:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/10(水) 23:13:03.74 ID:1j+CnVDuo





「隼!」

 と、声がして、俺は昼寝を邪魔された。

「……なんだよ」

 体を起こすと、さくらが息を切らせて(息が切れるのか。初めて知った)俺のそばにきていた。

「どうした」

「ちょっときて! きてください!」

「どこに」

「校門です!」

 そう言ってさくらはぱっと姿を消した。

 あいつはそれで済むかもしれないが、こちらは階段を降りて渡り廊下を歩いていかなきゃいけないのだ。
 とはいえ、言われたとおりにすることにした。

 近くに置いていた鞄を背負って、靴を履き替えて外に出ると、さっきまでより遠くなったはずの夏の日差しがやけに近く感じる。

 校門のそば、桜の樹。

 そこに彼女は立っている。




750:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/10(水) 23:13:35.32 ID:1j+CnVDuo


 歩み寄ると、今までに見たことがないくらい浮かれた表情で、彼女は得意げに笑った。

「ほら! 早く!」

 俺が近付くと、彼女は俺の手をとって走り出した。

 校門を抜ける。……ここまでは、いつもどおり。
 以前、学校を出るまでの坂道で、さくらを見たことはある。
 このあたりまでは、彼女は前から来ることができた。

 その先。

 坂道を嬉しそうに下っていくさくらを見ながら、俺はもう何が起きたかを理解できていた。

「そんなに走るなよ」

 周囲からはどんなふうに見えるんだろう。俺が手を前に出したまま走っているように見えるんだろうか。
 それもまあ、今は別にかまわない気がする。

 さくらは止まることなく走っていく。息を切らして、楽しそうに笑っている。

「どこまで行く気だ?」

「ちょっとそこまでです!」

 一応鞄を持ってきて正解だった。

 さくらは坂道を下り切ると、どうだと言わんばかりに俺に向き直った。

「どうですか!」

「……なにが」

「この坂道、前まで、下りきれなかったんです」

「……」

「この坂道、わたしには、終わらない坂道だったんです。それが、ほら!」




751:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/10(水) 23:14:05.92 ID:1j+CnVDuo


 道の先の交差点のコンビニに近付くと、さくらは入り口で何度か跳ねた。
 すると自動ドアが反応する。

「……おいおい」

 そりゃまずい、と思って、俺も入り口に近付いて、何気ないふうに入店する。

 するとさくらもついてきた。

「ほら! ほら!」

 さくらは嬉しそうに笑っているけど、俺はさすがに返事ができない。

 ポケットから携帯を取り出して耳にあてる。

「よかったな」

「はい!」
 
「上手くいってよかったよ」

「どんな魔法を使ったんですか?」

「たいしたことはしてない」

「嘘です」

 まあ、ほんのちょっと悪いやつと契約したくらいだ。

「悪いやつ?」

 そうだ。心が読めるんだった。

「ま、追って沙汰があるだろう」

 それだけ言ってから、俺は適当に飲み物を二本買った。店を出て片方をさくらに渡すと、彼女は物珍しそうに受け取る。

「いったい、どうやったんですか」

「知らぬが仏だ」

「……これは、大きな借りができてしまいましたね」

「大げさだな」




752:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/10(水) 23:14:38.68 ID:1j+CnVDuo


 彼女はペットボトルをしげしげと眺めている。

 蓋を開けるのを実演してみせると、おそるおそるといった具合に自分でもやりはじめた。

「お、おお」

「初めてか」

「はい。こんなふうになってたんですね」

「うむ。祝杯である」

「はい、乾杯」

「かんぱーい」

 といって、俺達はボトルを打ち合わせた。店先に誰もいなくてよかった。

 このようにして、嘘から生まれた真を、新しい嘘で書き換えた。

 毒をもって毒を制し、嘘をもって嘘を制する。

 俺にできるのはこのくらいだろう。




753:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/10(水) 23:15:19.88 ID:1j+CnVDuo




『薄明』の表紙は、市川に頼んで、その絵の構図を俺が指定した。
 それは、ひとりの少女が坂道の下から──つまり、学校の敷地の外から、学校を見上げている様子だ。
 
 容姿は俺が可能な限りの注文を入れて、さくらに近いようにしてもらった。

 事情を知らない市川は、

「こういう子が好みなの?」

 と不審そうな顔をしたが、面倒だったので、

「そういうことだ」

 と適当に返事をしておいた。

 そして今、その絵と同じ光景が、俺の目前に広がっている。

「めでたしめでたし」

 と俺は呟いた。
 
 さくらは楽しそうにまた笑った。





759:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/20(土) 23:54:15.53 ID:GpXAKj/vo





 真っ暗なところにひとりで立っている。左右には壁があり、少し低い天井がある。
 あたりの空気は湿気と黴の臭いに侵されている。足を一歩踏み出すと、石を叩く靴音が聞こえる。
 それがやけに響いていた。

 切れかけた裸電球が等間隔でぽつぽつと薄暗く通路を照らしている。

 その明滅の隙間に、通路の先の暗闇がぽっかりと口を開けている。
 背後を見ても同じ様子。自分がどちらから来て、どちらに向かっているのか、もうわかりそうもない。

 しばらく俺は立ち尽くし、そしてやがて歩き始めた。

 時間の感覚がなく、どれだけ歩いても一瞬だという気もするし、ずいぶん長い間歩いてきたという気もする。
 ただ電灯が明滅している。

 そして俺はそれと出会う。それがそこにあることを俺はあらかじめ知っていた。

 だから俺は挨拶をする。

「やあ」

「やあ」

 とそれは返事をした。




760:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/20(土) 23:54:43.39 ID:GpXAKj/vo


「調子はどうだい?」

 と“夜”は言った。

「どうだろうな」と俺はとぼけて見せた。

 夜は黒い竹編みの椅子に悠然と腰掛けていた。
 
 彼の姿を俺は初めてみた。それで驚いた。
 俺は彼の姿を知っている。

「おまえのおかげで助かったよ」

 と彼は言った。

「……おまえを助けた覚えはない」

「いずれわかるさ」

 はっきりと、彼は笑みをつくる。

「……が、それは今じゃない」

「……でも、こちらこそ助かった」

 一応、礼を言うことにした。

「ありがとう。おかげで書き換えられた」

 彼はおかしそうに笑う。

「……本当にここまでするとは、思っていなかったけどな。たぶんおまえは才能があったんだろう」

「才能?」

 才能。俺には無縁なものだ。




761:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/20(土) 23:55:14.63 ID:GpXAKj/vo



「……でも、本当にこれでよかったのか?」

 そう、夜は俺に訊ねた。

「……どうだろうな」

 俺は、
 他にどうしようがあったんだ? と、
 そう訊ねかけて、やめた。

 その言い方は、誰かに責任を押し付けているような気がしたから。

「自分では気付いていないだろうが……おまえは佐久間茂にはできなかったことをした」

「……?」

「おまえは世界を書き換えた」

「それは……茂さんだってしたことだろう」

「違うね。あいつは書き足しただけだ。おまえは書き換えた。その差は大きい」

「……」

「あいつはこの世に暗がりを作った。けれど、それは所詮、粘土のように夜をこねくり回しただけのことだ。
 おまえはけれど、夜を昼に滲ませた。おかげで扉が開かれた。
 あの女に負けたときはこれで終わりかと思ったが、俺にもようやく運が回ってきた」

「……」

 こいつは、
 何の話をしてるんだ?

「けれどまあ……それは、おまえとは直接関係ない。とにかく、感謝するよ」

「……」

「二度も俺の力を使いやがったんだ。普通なら代償を求めてやるところだが……お釣りが来るくらいだ」

「……何を言ってる?」

「礼を言ってるのさ」




762:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/20(土) 23:55:41.46 ID:GpXAKj/vo



「違う。“二度”って……何の話だ?」

「……なんだ、覚えてないのか。人間ってのは、不便なもんだな」

「……」

 二度。
 二度?

「……なるほどな。おまえはどうやら本当に才能があるらしい。自分で書き換えた物語を、自分で信じ込んでいるわけだな。
 それでこそ、というところではある。本当の嘘つきっていうのは、自分がついている嘘を信じ込まなくちゃいけないもんだ。
 しかし……凄まじいな」

「……」

「なあ……おまえ、自分で疑問に思わないのか?」

「……何がだ」

「宮崎ましろ。泉澤怜。鴻ノ巣ちどり。瀬尾青葉。市川鈴音。佐久間茂。そして、おまえ。
 夜の世界、おまえが神様の庭と呼んだ世界。どうしてそこに関係している人物が、おまえの周辺で完結してるんだ?」

「……」

 疑問に思わなかったわけではない。
 
 ましろ先輩、瀬尾、俺。どうしてあのとき、むこうに行った人間が、揃ってこの高校の文芸部に入部したのか。
 そして、どうしてそこに、佐久間茂が通っていたのか。

 神様の庭の夢を見るという市川鈴音が、どうして文芸部に入部していたのか。
 
 どうしてこんなにも完結した関係性の中に、そんな出来事が起きたのか。

 まるで誰かが、

「……まるで、誰かが書いた物語みたいだと思わないか?」




763:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/20(土) 23:56:08.25 ID:GpXAKj/vo



 そんな言葉が。
 馬鹿らしいと笑えないのは、どうしてだったのか。

「おまえは何を言ってるんだ?」

「佐久間茂がどうして『薄明』で遊んだか、覚えてるか?」

 どうして。
 どうして、だったっけ。

「……“どうして?”」

「おまえはどうして、真中柚子をそんなに欲するんだ?」

「……」

「おまえのなかには矛盾した感情がある。
 ほしいものがひとつもないという感情。真中柚子を烈しく求める感情。
 どうしてそんなことが成立する? その矛盾には何か……明らかに、秘密がある」

「……」

「だが、まあ、俺も山師だ。だからおまえのその程度の嘘くらい、なんとも思わない。
 この世界は苦痛に満ちていて、柔らかな光はいつも暗い痛みに押し潰される。
 これから先、どんな光を手にしたって、きっと、それはすぐに失われてしまう。
 そのなかにあって……おまえの嘘は、実に俺の好みだった」

「……待て、おまえは、何を言ってる?」

 二度……俺は、『夜』を使った?
『書き換えた』?

「面白い見世物だったよ、三枝隼。ずいぶん凝ったシナリオを作ったもんだ」

「……」

「おまえのおかげで、俺は自由だ」

 不意に頭上の電球が明滅し、
 もう一度点いたときには、夜の姿はそこにはなかった。




764:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/20(土) 23:56:35.35 ID:GpXAKj/vo





 ねえ、せんぱい、本当にわたしのことを捕まえていてくれる?





765:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/20(土) 23:57:04.89 ID:GpXAKj/vo





 おまえを居なかったことになんかしない。
 おまえがいなくならなきゃならないような世界なら、そんなの、世界のほうが間違ってるんだ。

 おまえを傷つけるだけの世界なら、俺が全部書き換えてやる。





766:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/20(土) 23:58:02.18 ID:GpXAKj/vo







 不意に目をさますと、俺は眠っていた。目をさましたのだから、当たり前といえば当たり前だ。
 でも、いつから眠っていたのか、わからない。

 何か夢を見ていたような気がするが、はっきりとしない。

 体を起こすと、屋上だ。見慣れた屋上。俺だけが鍵を持つ、秘密の場所。

 昼寝をしていたらしい。

「隼さん、またサボりですか」

 ドアが開く音が聞こえて、そちらをむくと、ちせが立っている。

「……ああ」

 むっとした顔のちせを眺めながら、俺は返事をする。

「もう。大野先輩も青葉さんも怒ってますよ」

「怒らせときゃいいんだよ。第一、部誌だって出来上がったんだし、顔出す理由もそんなにないだろう」

「でも……」

 ちせは何かを言いたげに俺の方を見た。

「……隼さん、ひとつ聞きたかったんですけど」

「ん」




767:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/20(土) 23:58:34.07 ID:GpXAKj/vo


「隼さんが書いた小説のタイトル。あれって、どんな意味があるんですか?」

「ん。読んでわからなかった?」

「はい、まあ……」

「つまりさ……次の日が土曜日で休みだろ」

「……?」

「だから、ずぶ濡れになって踊ろうって意味」

「……よくわかんないです」

 俺は起き上がって空を仰いだ。

 瞬間、
 空が拉いだ。




772:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 21:54:21.70 ID:hfXGEpDLo




「兄、起きてください」

「……」

「兄。起きてください。もう起きる時間ですよ」

「……ん。あと五分」

「そんな定番の寝言言う余裕があるなら起きてください」

「……ねむい」

「もう。夜遅くまで起きてるからですよ。昨夜は何してたんですか」

「……ちょっと」

「ちょっとじゃないです。ほら、起きないと恥ずかしいことしますよ」

 恥ずかしいことってなんだ。
 恥ずかしいことってなんだろう。

 興味を引かれて寝たふりを続けると、純佳の声がすっと近付いてきた。

 耳元で、

「起きてください」

 と、囁かれる。
 こそばゆい。

 そのまま黙っていると、湿った柔らかい感触があって、思わず俺はからだをびくりとさせて目を開いた。




773:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 21:55:35.91 ID:hfXGEpDLo


「……なにをしたいま」

「耳をなめてみました」

「なめるな」

「目がさめましたか?」

「おかげさまで」

「じゃあ、早く着替えて降りてきてください。お味噌汁さめちゃいますから」

「……わかったよ」

 平気な顔で純佳が部屋を出ていく。

 どうしてこんな育ち方をしてしまったやら。




774:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 21:56:10.10 ID:hfXGEpDLo




「もうすぐ夏休みですね」

 ダイニングテーブルを挟んで朝食を一緒にとりながら、純佳はそんな世間話をはじめた。

「何か予定は?」

「特には……バイトくらい」

「ですか。柚子先輩とは出かけないんですか?」

「ああ……どうだろうな」

「他人事みたいですね」

 そんなつもりはないけれど、そういう癖がついてるんだろう。

「なんだか……兄は最近、元気そうで何よりです」

「……そう?」

「はい」

「そう見えるなら、そうなんだろうな」

「うん。そうだと嬉しいです」

 そんなふうに思ってくれる人なんて、きっと長く生きていても、そんなに多くはないだろう。
 それだけで、やっぱり俺は恵まれている。

 さくらがいつか言っていた通りに。





775:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 21:57:05.43 ID:hfXGEpDLo





 玄関を出ると、そこにさくらが立っていた。

「遅いです。遅刻しちゃいますよ」

「……さっそく出かけてるのな」

「探検してました。一緒に登校しましょう」

「……ん。まあ」

 まあいいか、と俺は思う。

 純佳はとっくに家を出ていた。俺はさくらとふたり、学校への道のりを辿る。

「しかし、面白いものだらけですね」

「そうか?」

「そうです。こんな面白いものに囲まれてるなんて、あなたは幸せですよ」

「そうかな」

「そうなんです」

「……そうなのかもな」

 でもきっとそれは、
 慣れてしまえば……
 見慣れてしまえば、きっと……。

 けれど、今は……。





776:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 21:57:52.68 ID:hfXGEpDLo


「……もっと楽しんだほうがいいよ、か」

 そんな言葉を思い出して、俺は思わず笑ってしまった。

 どんな日々を過ごしたって、たぶん結論なんて出ないけれど、おんなじところに行き着いてしまうものなんだろう。

「なあ、さくら」

「はい?」

「俺はさ」

「……馬鹿なことを考えてますね」

 こんなことで、本当にさくらの居場所を作ったことになるんだろうか。
 俺は結局、さくらに何もできていないんじゃないか。

 そんなことを考えたところで、どうせいまさらだとわかってるのに。

「ね、隼。お願いがあるんです」

「ん」

「あのね……」




777:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 21:58:25.45 ID:hfXGEpDLo






 部誌を完成させてからまだほんの少ししか立っていないが、文芸部には変化があった。

「これで三通目だね」

 と、瀬尾が呟く。

 それからじとりと、責めるような目で俺を見た。

「……」

 俺たちが完成させた部誌『薄明』はいつものように図書室のスペースを借りて展示・配布されている。
 
 今回、どうやら大野が図書新聞のスペースを借りて宣伝してくれたらしく、けっこう多くの生徒の目に止まっているらしい。

 その宣伝というのが、いわゆる「縁結びの神様についての研究」をピックアップしたものだったという。
 どうやらその話題に興味がある人間というのは少なくはなかったらしく、結果的にさくらの存在は急速に生徒たちに認知されつつある。

 結果、
 冗談半分に文芸部の入り口に置いておいた偽物の箱に、恋愛相談の手紙が何通かやってきている、というわけだ。

「願ったり叶ったりですね」

 と言うさくらの声は、俺と瀬尾とちせにしか聞こえていない。

「……ったく。どうすんだよ、これ」

 呆れたふうに語る大野の隣には市川が座っている。
 おまえたちだって恩恵を受けているんだぞ、とは俺は言わないでおいた。




778:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 22:01:45.73 ID:hfXGEpDLo



「ま、まあまあ。でも、ほら、こういう形でも、部が認知されるのは悪いことじゃないし」

「活動目的に反してるだろ」

 事情をいくらか知っている瀬尾が庇ってくれるけれど、大野は俺の方を見ていた。

「……こんなことになるなんて思わないだろ?」

「そりゃそうだが。どうもこの手紙、いたずら半分ってわけでもなさそうだぞ」

「……みんな真剣に生きてるなあ」

「おまえも真剣に対応してやれ」

「俺?」

「そりゃあな」

「なんで。一番不向きだろ」

「おまえが原因だろうが」

「だから……こんなことになるなんて」

「でも、結果としてこうなった。どうするんだよ」

「どうするったって」

 ……いや。
 まあ、そうだな。




779:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 22:02:13.03 ID:hfXGEpDLo


「……どうにかしてやるしかないだろうな」

 俺のその言葉に、大野は少し面食らった顔をした。

「ん……?」

「なんだよ」

「いや、てっきり、知ったことじゃないって言うかと思ったから」

「……まあ」

 普通なら、そう言っているところだけれど。
 ここまで込みで約束したのだ。

 最初から投げ出すつもりはない。

「どうにかやってみるさ」

 さくらが笑った気配がした。
 そっちを向くと、もうそっぽを向いている。





780:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 22:02:45.19 ID:hfXGEpDLo




「せんぱい、わたしに秘密にしてることあるでしょ」

 部活を途中で抜けてふたりで屋上に来ると、出し抜けに真中はそう言った。

「まあな」

 と俺は取り立てて隠さなかった。

「さいきん、せんぱいとちせの様子がおかしい」

「ああ、まあ」

「ちせも関係あること?」

「そうだな」

「わたしには関係ないこと?」

「そういうわけじゃない」

 真中はむっとした顔をする。
 俺はそれを見て少し笑う。

「なんで笑うの」

「べつに、隠したいわけじゃない。ただ、話してもあんまり信じられないようなことだから」

「……そんなの、もういまさらでしょ」

「ん」

「青葉先輩のこととか、絵のこととか、いろいろあって、いまさら信じられないことなんて、想像つかない」

 それもそうか、という気もする。





781:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 22:03:12.25 ID:hfXGEpDLo


「でも、話せないなら、べつにいいよ」

「……いいのか?」

「うん。あのね、せんぱい。わたしがつらいのはね、もっとべつのこと」

 俺たちはフェンスに近付いていく。
 網目を掴んで、街を見晴らす。

 少しだけ考える。

「べつのこと、って?」

「わかんない?」

 そう言って彼女は、ふいに俺の方へと手を伸ばす。
 その指先が、俺の目尻のあたりに触れた。

「……すごい隈」

「……」

 そんなにひどいのかな。

「部誌が完成する前から、ずっとそんなふうだったけど。まだ治ってない」

「……」

「なにか、無理してたんでしょ」

「……べつに、そういうわけじゃない。寝不足には慣れてるし」

「でも、疲れてるみたいだよ」




782:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 22:03:38.42 ID:hfXGEpDLo


「そうかな。純佳には、元気そうになったって言われたけど」

「それは、前よりは、そうかもだけど。でも、やっぱり、無理してる感じ」

 そうなのかなあ、なんて考えてたら、真中は「どうしたの?」というみたいに微笑んだ。

 夏の日暮れはやけに遅くて、だから空はまだまだ明るい。
 それなのに今が夕暮れみたいな気がした。
 
 もうすぐ夜が来てしまうような、そんな気がした。

「……瀬尾が」

「ん」

「瀬尾がいなくなったのは……俺が、あいつの小説を真似たからだ」

「……そう?」

「うん。俺が、俺の文章を書けなかったから、あいつを真似て、あいつはそれで、ショックを受けて、いなくなった」

 発端は、そうだった。
 他のいろんな事情が絡まっているにせよ、そうだった。

「だから俺は……早く、俺だけの文章を書けるようにならないと」

「……そんなの、あるの?」

「わからない」

 創作は模倣から始まる。
 模倣と剽窃からの逸脱が、個性になる。

 そういう理屈はわかる。
 
 でも俺は……。




783:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 22:04:23.11 ID:hfXGEpDLo


「文章が書けるようになりたかったんだ。昔から」

「……書けてたじゃない」

 まるで小さな子供を見るみたいな微笑み。そのせいで、気が緩んでるんだろうか。
 
「書けなかった。だから書こうとして、書こうとして、ずっともがいてた。
 それを続けて、その結果、瀬尾を傷つけた。だから……」

「……だから、書けるようになりたい?」

「……うん」

「まさか、それで……部誌が出来上がったあとも?」

「……笑う?」

「……ふふ」

 笑われてしまった。

「せんぱいはばか」

「……まあ、なあ」




784:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 22:05:29.69 ID:hfXGEpDLo


「あのね、せんぱい。せんぱいがどれだけ隠しても、わたしには全部わかるんだよ」

「……へえ? たとえば?」

「青葉先輩がいなくなったときに、せんぱいがすごく心配して、責任を感じてたこと」

「……それはさ」

「それに、大野先輩も言ってた」

「なんて」

「あいつは基本的にめんどくさがりで嘘つきでスカしてるように見えるけど」

 ひどい言いようだ。

「でも、困っている人を助けるときには善悪にすら縛られないって」

「……」

「大野先輩が困ってるところ、助けてたんだって?」

「なんのことだ?」

「大野先輩が言ってたよ。文章が書けない自分のために、代わりに書いてあげてたって」

「あれは……」

「青葉先輩も、言ってた。新入部員の勧誘のときだって、結局動いたのはせんぱいだったって」

 そんな些細なこと。
 そんな些細な……。

「中学の時だって、わたしのことを守ってくれた。守ってくれる理由なんて、ひとつもなかったのに」

「……そんなの、結果論だろ」

「でも、みんなにはそう見えてるんだよ」

「……」




785:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 22:05:56.80 ID:hfXGEpDLo


「だからね、せんぱい。そんなに自分を追い詰めなくても平気だよ」

「……」

「それがどんなにわかりにくくても、わたしはちゃんとそれを見抜いてあげるから。
 それを見抜いている人だって、きっとたくさんいるはずだから」

「……そうかな」

「うん」

 そう言って、彼女は俺の頬を撫でた。

 どうしてだろう。

 泣きそうになるのはどうしてだろう。

「だから、無理をしないで。自分に何かが欠けてるなんて思わないで」

「……」

「せんぱいは、せんぱいのペースで、少しずつ、なりたい自分になっていけばいいんだよ」

「……年下のくせに、偉そうに」

「……元気になった?」

「うるさい」

「せんぱいってさ、嘘つきっていうより……見栄っ張りだよね?」

「……」

「かっこつけ」

「うるさい」




786:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 22:06:28.99 ID:hfXGEpDLo



 真中の肩に腕を回して、引き込むみたいに抱きしめた。

 泣きそうな自分を見られたくなかった。

 こいつは分かってない。
 こいつは全然分かってない。

「……せんぱいは、強がりすぎ」

「そんなことない。弱音吐いてばっかりだよ、俺なんか」

「……そうかも。そうかな。どうなのかな。わかんないけど」

 真中の小さなからだは、すっぽりと腕の中におさまっている。
 声がそばに聞こえる。

「せんぱい」

「……ん」

「わたしを離さないでいてくれて、ありがとう」

「……なんだよ、それ」

「守ってくれて、ありがとう」

「……」

 俺は、
 真中を守ってなんか、いない。





787:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 22:06:56.74 ID:hfXGEpDLo





 真中を好きになることはない。
 真中を好きになることはできない。

 俺は真中を守れなかったんだから、そんな資格があるわけがない。

 俺は真中を守ったりしなかった。
 真中が傷つくのを眺めているだけだった。




788:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 22:07:44.78 ID:hfXGEpDLo





 それでも、今、真中は俺のそばにいる。

 それが奇跡みたいに思えるのは……どうしてなんだろう。

「ときどきね……」

「ん」

「ときどき、変な夢を見るんだ」

「……どんな?」

「わたしが死んじゃう夢」

「……」

「その夢のなかでは、誰も助けてくれなくて、中学の頃のわたしは、とてもつらくて、それで、死んじゃうの。
 そういう夢を見るんだ」

 俺は、不意に、純佳といつか話したことを思い出した。




789:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 22:08:19.25 ID:hfXGEpDLo


 ──……また夢ですか。

 ──またって?

 ──……あ、いえ。以前にも、そう、他の人に、同じようなことを言われたことがあって。

 ──……他の人?

 ──ええと、兄の知らない人です。

「でも、その世界にもせんぱいはいるの。せんぱいはわたしを守ってくれようとして、でも、わたしは、その手を取れずに死んでしまうの」

「……」

「だからね、わたしは毎朝目をさますたびに、思うんだよ。最近は本当に、強く思う。
 ああ、よかった、ただの夢だったんだ。この世界にはせんぱいがいて、せんぱいはわたしを守ってくれたんだって。
 だから、せんぱい、気付いてないかもしれないけど、せんぱいがしたことは、わたしにとっては奇跡みたいなことなんだよ」

「……」

 うるせえよ、バカ、と、言いかけて、やめた。

「そんなの……」

「ん」

「奇跡なんて、そんなの……」

 言葉にするのが嫌になって、真中をぎゅっと抱きしめた。
 真中がここにいることが、奇跡みたいに思えるのは、俺の方だ。

「……へへ」

 真中は、そんなふうに笑った。俺は、その真中の表情が見られないことを少し悔やみながら、それでも真中を離せずにいた。




790:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/21(日) 22:09:03.74 ID:hfXGEpDLo


 
『薄明』平成四年春季号の冒頭には、江戸川乱歩が好んで記したという言葉が引用されていた。

 曰く、

「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」

 その言葉の意味も意図も、俺は知らないままでいい。

 俺たちは何かを演じているのかもしれない。誰が仕組んだ舞台なのかもわからないまま。
 それを仕組んだのが、仮に俺自身だったとしても。

 それがどうしたっていうんだろう。

 今この腕のなかにあるもの。
 それが離してはいけないものだ。

 それだけわかっていればいい。





793:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:41:50.97 ID:zLydDmoho





「遅いぞ、後輩くん」

 学校近くのファミレスで、俺とましろ先輩は待ち合わせた。

「急に呼び出していったい何の……」

 言いかけたところで、ましろ先輩が気付いた。

「……さくら」

「ましろ」

 俺の斜め後ろから、さくらが顔を見せた瞬間、ましろ先輩は頬を緩めた。

「さくら!」

「あ、先輩。声が大きい」

「なんでさくらが……後輩くん。これは……」

「や。会いたがってたんで」

「会いたがってたって、でもさくらは……」

「隼がなんとかしてくれました」

「なんとかって……」

 ましろ先輩が目を丸くしているのを、俺は初めて見た気がする。

「すごいね……」

 今度ばかりは、俺の勝ちみたいだ。いつも踊らされてばかりだったから、悪い気はしない。




794:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:42:17.95 ID:zLydDmoho


 テーブル席に座ってから、ドリンクバーを頼んだ。
 三人分。店員は変な顔をしていたけれど、「あとで来るんで」と言うと頷いてくれた。

 俺が三人分のジュースを持って席に戻ると、ましろ先輩は俺のことを見上げた。

「いったい、どんな方法で?」

「企業秘密です」

「……きみに鍵を渡したの、正解だったみたい」

 ましろ先輩じゃないみたいな気がした。
 彼女は何もかも、いつもお見通しみたいに見えたから。

 グラスを二人の前に置くと、さくらは当然のようにストローをグラスにさした。
 周囲から見たら、ひとりでに飲み物が減っていくように見えるのだろうか?

 ……人の認識なんて曖昧なものだ。
 誰かが見たとしても、気のせいで済むものかもしれない。

 仮に俺が見たら、そう思うような気がする。




795:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:42:53.94 ID:zLydDmoho


 さくらに頼まれてましろ先輩を呼び出したわけだけれど、彼女たちはお互いに、何も話そうとはしなかった。
 どうしていいかわからないみたいに、ずっとそわそわしてばかりだ。

「さくら」

「はい?」

「なにか、話したかったんじゃないのか」 

「え?」

「そうなの?」

「……えっと、そういうわけじゃないです」

 てっきりそうだと思っていた。
 ということは、まあ、そういうことなのだろう。




796:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:43:22.74 ID:zLydDmoho



「ただ、外に出られるようになったから……ましろに会いたかったんです」

「……」

「迷惑でしたか?」

 ましろ先輩は、一瞬、驚いたような顔をして、また笑った。

「何言ってるの。わかるでしょう?」

 彼女が笑うとさくらも笑う。
 さくらは、不安だったのかもしれない。

「ね、さくら。わたしも何度か、さくらに会いにいこうとしたんだ」

「……そう、だったんですか」

「うん。でも、なんだかそれって……すごく、ひどいことのような気がして」

 だから、会いに行けなかった。ましろ先輩はそう言った。

「さくら。……ひとりにして、ごめんね」

 そんな言葉で、俺はましろ先輩のことが、少しだけわかったような気がした。

「ね、ましろ」

 テーブルを挟んで向かい合って、さくらは先輩の手をとった。

「これからも、ましろに会いにきてもいいですか?」




797:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:43:50.17 ID:zLydDmoho


「……何度だって、会いに来てよ」

「……」

「さくらは、わたしの友達だもの」

 俺は、なんだか自分が邪魔をしているみたいに思えたけれど、そんなことを考えた瞬間に、さくらがこちらを見て、

「何をいってるんですか」

 と笑った。

「あなたのおかげです」

「……」

 そうなのかな。
 どうしてか、そんなふうには、思えない。

 それなのに、

「ありがとう」とさくらは言った。
 泣いているみたいに見えた。




798:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:46:02.93 ID:zLydDmoho






 ちせを部員に加えた文芸部は、瀬尾の主導で夏休み中に新たな部誌を作ることに決まった。

「前回は、わたしが消化不良だったからね」と瀬尾は言う。

 彼女はときどき『トレーン』に顔を出すようになった。
 俺を誘うこともあるし、誘わないこともある。

 ちどりと瀬尾は馬が合うのか、すぐに仲良くなって、週末に一緒に遊びに行く話をするようになるまですぐだった。

 まあ、趣味だってある程度は共通しているのだろうから、当然と言えば当然だろう。

 怜もまた、以前よりも頻繁に『トレーン』を訪れるようになった。

「一度こっちに来てみたら、意外とそんなに遠くないんだと思ってね」

 ということらしい。引越し先では上手くやっているというし、実際そうなのだろう。

 怜はときどき、何か言いたげな表情を見せることがある。
 そのたびに俺は訊ねてみるのだけれど、彼女は首を横に振ってはぐらかすだけだった。

 それを話してくれる日が来るのかどうか、俺には今のところ見当もつかない。
 
 改めて『むこう』のことについて話したけれど、怜も茂さんも、やはり、あちらには行けなくなったままらしい。

 どうしてそんなことになったのかはわからない。
 誰もがむこうにいけなくなったのか、
 それとも俺たちが、むこうにたどり着く条件を満たせなくなったのか。

 茂さんは、むこうについても、瀬尾についても、あまり多くを語らなかった。
 思うところは、きっとあるのだろう。それでも彼は、カウンターのむこうで笑っている。あの覆い隠すような笑みのままで。

 いずれにせよ、俺たちをさんざん混乱させた春の出来事は、まるで夢か何かだったみたいに、途絶えてしまった。

 カレハや、あいつがどうしているのか、俺にはわからない。
 夜からの音沙汰も、今の所はない。記憶しているかぎりは、ない。
 
 少し拍子抜けしているけれど、そんなものなのかもしれない。




799:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:50:36.57 ID:zLydDmoho



 さくらは文芸部の部室に顔を出すようになって、他のやつらがいないときには、よく瀬尾やちせと話している。
 特にちせとは、ましろ先輩という共通の話題があるからか、だいぶ仲良くなったみたいだ。

 とりあえずのところ、仮に俺や瀬尾が卒業したとしても、ちせがいる。

 あとのことは、『薄明』がどのくらい機能しているかに関わっている。

 それについて大野は、

「あの噂がだいぶ広まってるみたいで、ずいぶんみんなに受け入れられてるらしい」

 と言った。

「みんな正直だね」と、呆れ調子で言ったのは市川だった。

 彼女が見る夢について、俺は詳しい話を聞いていない。
 けれど一度だけ、どうしても気になって訊ねた。

「まだ、夢は見るか」と。

 市川は、うん、と短く頷いた。それだけだ。

 彼女はまだむこうの夢を見ている。

 それはただの夢なのだろうか。
 それとも、まだ何かがあるのだろうか。

 あるのかもしれない。あそこは理外の森だから、俺たちの事情とは関係なく、きっと存在し続けるのだろう。
 どこかでぽっかりと口を開けているのだろう。

 それは俺にはわからない。

 わかるのは、市川と大野の距離が、以前よりも近付いたらしいということくらい。
 それについての詳しい話を俺は聞かなかったし、大野も言わなかった。

 やけに俺のことを買いかぶっている大野だから、言わなくてもわかると思っているのかもしれない。





800:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:51:03.33 ID:zLydDmoho


 部室の前に置いておいた箱の中には、ときどき手紙が入っていることがある。
 それの担当は、ひとまず俺ということになった。

 といっても、『神様に対する恋愛相談』を果たして俺が覗き込んでいいものか、という問題もあるにはあった。
 
 とはいえ、『代理人』の役目はやっぱり俺だろう、という話もある。

 ときどき瀬尾やちせの力を借りつつ、主にさくらの主導で、俺は『縁結び』をやることになった。
 手紙には大抵名前も学年も書かれていなかったので、俺達はひっそりと、陰ながら、彼や彼女の悩みに手を貸すことになった。

 それは上手くいったりいかなかったりした。それは当然のことだ。

 さくらがやっていたときとは違う。

「人は縁がない相手のことも好きになったりするものですから、仕方のないことです」と、さくらは言っていた。
 
 そう言われると、俺は自分がやっていることがものすごいおせっかいなんじゃないかという気がしたが、

「それでも、無駄にはなりませんよ」

 とさくらは言っていた。

 そうであってくれればいいと俺も思う。
 傲慢になるつもりはないけれど、そうでなければ寝覚めが悪いから。

 もしそうでなくても……それは仕方ない。
 
 最初からそれは正しいことではないのだ。これは、嘘の上に成り立ったものなのだから。
 だから俺にできることがあるとしたら、その嘘を可能な限り誠実なものにするように努めることだけだろう。




801:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:51:39.29 ID:zLydDmoho


 ちせはときどきさくらを家に招くようになったという。
 それはつまり、さくらがましろ先輩の家に遊びにいくようになった、ということだ。

 あのとき話しただけでは話し足りないことが、ふたりの間にはきっとあるのだろう。

 それができるのを自分の功績だと誇るつもりはないし、おそらくまだ完全ではない。
 
 二重の風景を見ることがなくなった俺は、不思議と今になって、その事実に寂しさを覚えている。

 あいつはどこかに消えてしまったのか。
 カレハはどこにいるのか。

 それを考えるたびに、俺はあの絵の中の景色に入り込みたくなるけれど、
 たとえそれができたとしても、もうむこうには行くべきではないような気がした。

 あなたの中の彼と合一を果たして。

 カレハはそう言ったけれど、俺は結局、そうはならなかったような気がする。
 あの暗い森で、灰のように崩れ落ちたあいつの傍らに、カレハが今もいるような気がする。

 そうであってほしいと、思っているだけなのかもしれない。




802:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:52:49.90 ID:zLydDmoho


 七月の末近い土曜日に、茂さんは俺を車に載せてある場所へと連れて行ってくれた。

 高速道路を二時間走った先には、見渡す限りの森と山があった。
 
 俺と茂さんはふたりで森の中へと入り込み、そこでひとつの廃墟を見た。

 草花の気配が古びた建物に侵食して、割れた天窓から差し込む光に、割れたコンクリートの隙間に咲いた花が照らされていた。

「ここだよ」と彼は言った。

「ここがモデルだったんだ」

 どうしてそこに、俺を連れて行きたかったのか、茂さんは話してくれなかった。
 あのとき、あの絵の中で、茂さんは俺の背後に何かを見ていた。

 それはひょっとしたら、かつての自分の姿だったのではないか。
 そんな想像をしたけれど、俺にはどうせ本当のことはわからない。

 何を言いたくて俺をそこに連れて行ったのか。
 ただ、自分がそこに行きたくて、誰かを道連れにしたかっただけなのか。

 本当のことなんて、どうせ俺にはわからない。
 それでいいのかもしれない。

 その森の茂みのなかで、俺は跳ねる二匹の動物の影を見た。
 そこになにかの面影を重ねたけれど、それは単なる俺の感傷なのかもしれない。




803:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:53:56.45 ID:zLydDmoho


 真中にも釘を差されたけれど、俺は毎夜ノートに向かって自分の文章を書こうとすることをやめなかった。
 
 文章を書けるようになりたい。少なくとも、みんなが書ける程度のものを書けるようになりたい。
 その欲望は、いつしか最初の理由や目標なんて置いてきぼりにして、欲望だけになってしまったような気がする。 

 書きたい、書きたい、という、欲望だけになってしまったように思える。

 純佳はそんな俺に呆れてため息をつきながら、ときどきコーヒーを差し入れてくれる。

 そして朝になると起こしてくれて、弁当まで作ってくれている。

「そろそろ妹離れしてくださいね」
 
 なんて純佳は言う。

 それでも「そうだな」と頷くと、少し寂しそうな顔をするのだ。

 書くのに疲れて窓の外を見てみると、空にはぽっかりと月が浮かんでいる。
 いつか見たときのような恐れのような気持ちは、今は綺麗になくなってしまっている。

 そのたびに俺は何かをなくしたような気持ちになって、なんだか自分が長い夢を見ていたような気分になるのだ。
 あるいは、こんな日常さえもが、ただの夢なのかもしれない。

 本当と嘘の区別なんて、どうせ俺たちにはつきやしない。

 だったら、気にするだけ無駄だ。
 
 そんな夜でも眠ってしまえば朝が来て、杞憂だと言わんばかりにあたりまえの明日がやってきた。




804:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:55:09.21 ID:zLydDmoho


 部活をサボって屋上で昼寝をしていたある日、真中が勝手にそばにやってきて、寝そべった俺の頭を勝手に自分の膝の上にのせた。

「なんだよ」

「なんでもないよ」

 気にしないで、と真中は笑った。

 感情表現が豊かになった真中は、近頃めっきりモテるようになった。

 嘘から出た真で恋人になった俺としては頭の痛い事実だが、今のところ、不届き者は現れていない。

「もしそんなことになっても、せんぱいじゃ相手が悪すぎるよ」

 と、真中が照れもなくそんなことを言うので、

「そりゃあ買いかぶり過ぎだろう」というと、そうではない、と首を横に振って、

「せんぱいは手段を選ばないから、かわいそう」

 手段を選ばない。まあたしかに、そうなのかもしれないな、と俺は思った。
 
 その日はとてもいい天気で、俺はそれが、世界の終わりか始まりか、そのどちらかのようにさえ思えた。
 
 けれどそれはあくまでも、どこまでも地続きの日常の一端で、
 だから俺はほっとして、真中の膝の上で眠った。

「夏だね」

 と、真中がそう呟くのが聞こえて、俺は思わず笑ってしまった。

 いつのまに、こんなに明るいところまで来ていたんだろう。

 



805:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:56:17.49 ID:zLydDmoho




 夏休みに入ってすぐのある日、瀬尾がみんなに召集をかけた。

 みんなというのは文芸部のメンバーだけでなく、ましろ先輩やちどりや怜、更にはさくらまでもを含む『みんな』だった。

 真中とちせが誘ったというので、コマツナまでが来ていたくらいだ。

「お邪魔してよかったんですかね」とコマツナが遠慮していた様子だったが、気にするような奴はひとりもいない。

 瀬尾が俺たちを呼びつけたのは、今となっては廃校寸前というくらい生徒数が減少してしまった小学校、
 の、旧校舎だった。

 野草の生い茂るグラウンドと、周辺を囲うような雑木林のせいで、あたりから隠されているような気さえする。

 俺と大野は瀬尾に言われて背負っていたリュックサックを下ろすように命じられた。
 彼女はその中からいくつものおもちゃの水鉄砲を取り出した。

「……それは、なに」

「水鉄砲」

「見ればわかる」

「見てわかるなら、しようとしてることもわかるはず」

「……何歳だよ」

「楽しそうでしょ?」

「正気か?」
 
 と言って周囲を見ると、みんなはやれやれという顔をした。

「……なんで誰も文句言わないんだ?」

「三枝くん以外、みんな何するか知ってたからね」

「……こいつら全員ノリノリなの?」

 試しに周囲を見てみると、それぞれがそれぞれに自分の得物に手をつけていた。




806:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:56:44.01 ID:zLydDmoho


「……なんだってこんなこと」

「楽しそうでしょう?」

「そりゃ……」

「ね、三枝くん」

「ん」

「もっと、楽しんだほうがいいよ」

 そう言って、瀬尾はからりと笑う。
 
 もう、むこうに逃げ込んでいたときの瀬尾とは違う。
 こんなこと、たしかにちどりは言い出さないだろう。

 瀬尾はもう、瀬尾青葉になったのだ。

「……本気かよ」

「チーム戦。じゃんけん、グーパーね」

 それで俺たちは、日が暮れるまでずぶ濡れになって踊るみたいに遊ぶことになった。
 その日は綺麗に晴れていて、俺達は馬鹿みたいに笑った。

 帰り道の途中で、不意の夕立ちに降られても、俺たちはとっくにずぶ濡れだったから、馬鹿みたいにはしゃいだままだった。
 
 たぶん、この日のことを思い出すとしたら、俺はきっと、その、雨に濡れた瞬間のことを、思い出すんじゃないだろうか。
 ずっとあとになって思い出す瞬間があるとしたら、きっと、そういう瞬間なんじゃないだろうか。

 みんなの濡れた髪や服や、遠くの山に被さる黒い雲の隙間の夕焼けのことなんかを。

 やがて、ずっとずっとあとになって、何もかもが過ぎ去ったあとに、ふと思い返すのだとしたら。





807:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:57:11.33 ID:zLydDmoho




 部室の隅の戸棚の中に、俺達の書いた『薄明』も並べられる。
 これからも俺たちは『薄明』を並べるだろう。

 そのたびに、いくらかの注意を要するかもしれない。
 その懸念はあるけれど、俺はあまり悲観も心配もしてはいなかった。

 いつか、この『薄明』を他の誰かが読むことになるのだろう。

 俺たちがそうしたように、いずれ誰かの目に留まるのだろう。

 それはべつに、俺達の痕跡になるとまでは言えないだろう。
 佐久間茂の『薄明』のような例もあるのだから。

 それでもこれを読んだ誰かは、俺達がここにいたのだと想像するのだろうと思う。

 誰かがこれを見つけるだろう。

 この古い戸棚は化石を隠した地層のように堆積していく。

 それはかつて現在だったもの。更に前には未来だったもの。そして今となっては過去になってしまったもの。
 これから過去になっていくもの。

 俺たちは、そのときちゃんと、誰かにとっての何かになれるだろうか。 
 そんなことを、俺はときどき考える。




808:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:57:43.92 ID:zLydDmoho





 たとえば当たり前に季節が変わり、
 船が積荷を載せ替えるように、人々が入れ替わったとしても、
 また桜が咲いて、その中で誰かが孤独だったとしても、
 あるいは、孤独であるからこそ、誰かが彼女を見つけるだろう。





809:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:58:18.56 ID:zLydDmoho





「もう部活決めた?」

「まだ」

「いろいろあって悩んじゃうよねえ。文化系だっけ?」

「ん。美術部か、写真部か……文芸部にしようかな、と」

「ふうん。なんでその並び?」

「……サボりやすそうだし」

「あはは。文芸部って言えば……この学校の文芸部、変な噂があるんだって」

「噂?」

「なんでも……桜の精霊が……」

「ええ、このご時世にそんな噂?」

「でもなんか、先輩たちが話してるの聞いたんだもん。見える人もいるんだって」

「ふうん……。まさか、信じてる?」

「んー。わたしは自分が見たものしか信じないからなあ」

「友情も愛情も信頼も? 寂しい生き方だね……」

「こら、勝手に人を寂しいやつにするな。そういう意味ではない」




810:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:58:47.78 ID:zLydDmoho


「わかってるよ。……あ」

「ん。どったの」

「校門のところ。誰か立ってる」

「ん?」

「ほら。桜の下……」

「……どこ?」

「え?」

「誰もいないよ……?」

「……そう、なの?」

「うん」

「気のせいかな……」

「……ひょっとして、からかってる?」

「まさか。……早く行こう。移動教室、遅れちゃうよ」





811:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 00:59:50.53 ID:zLydDmoho





 文芸部室の壁には、一枚の絵が飾られている。

 淡いタッチで描かれたその絵は、線と線とが溶け合いそうになじんでいて、ふちどりさえもどこか不確かだ。
 けれど、描かれているものの境界がぼやけてわからなくなるようなことはない。

 鮮やかではないにせよ、その絵の中には色彩があり、陰影があり、奥行きがあった。
 余白は光源のように対象の輪郭をぼんやりと滲ませている。
 その滲みが、透明なガラス細工めいた繊細な印象を静かに支えていた。

 使われている色を大別すると、三種になる。青と白と黒だ。
 絵の中央を横断するように、ひとつの境界線がある。
 
 上部が空に、下部が海に、それぞれの領域として与えられている。

 境界は、つまり水平線だ。空に浮かぶ白い雲は、鏡のような水面にもはっきりとその姿をうつす。
 空は澄みきったように青く、海もまたそれをまねて、透きとおったような青を反射する。

 海と空とが向かい合い、それぞれの果てで重なり合うその絵の中心に、黒いグランドピアノが悠然と立っている。
 グランドピアノは、水面の上に浮かび、鍵盤を覗かせたまま、椅子を手前に差し出している。

 ある者は、このピアノは主の訪れを待ち続けているのだ、と言う。
 またある者は、いや、このピアノの主は忽然と姿を消してしまったのだ、と言う。そのどちらにも見えた。

 その絵は、世界のはじまり、何もかもがここから生まれるような、無垢な予兆のようでもあったし、
 何もかもがすべて既に終わってしまっていて、ただここに映る景色だけが残されたのだというような、静謐な余韻のようでもあった。

 そこに映る景色には、誰もいない。今はもう誰もいない。

 けれどそれは、たぶん絶望ではなかったのではないか。今になって、そんなことを思う。
 そこには誰かがいたのかもしれないし、これから現れるのかもしれない。

 だからこそ、この絵は、予兆のようでも余韻のようでもあるのかもしれない。

 たとえばすべての部品が入れ替わってしまった船があるとしても、
 その船を形作ってきた部品たちが、朽ちてしまったとしても、これから朽ちていくとしても、
 それは存在しなかったわけではない。

 たとえ描いた人間がそう思っていなかったとしても、そういう嘘を、信じてもいいような気がしている。




812:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします 2019/04/22(月) 01:00:16.76 ID:zLydDmoho

おしまい



元スレ
傘を忘れた金曜日には.
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1541601293/
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          • 1. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月22日 16:45
          • 長くてつまらないって地獄かしら
          • 2. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月22日 16:54
          • 長い
            三行で
          • 3. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月22日 18:13
          • 読み進める気力が湧かない文章
            長いなら長いなりの魅力を出そう?
          • 4. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月22日 20:08
          • ショートショートとは
          • 5. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月22日 22:23
          • 読んでもないやつがなんで文句言ってんの?
          • 6. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月23日 00:13
          • 長編だった
          • 7. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月23日 01:19
          • クソ
          • 8. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月23日 07:56
          • 良かったよ 気にせずガンバれ
          • 9. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月23日 10:39
          • 確かにssにしては長めですが、何か心に残るようなお話なのではないでしょうか。
            中身は読んでいませんがそんなタイトルだと感じます
          • 10. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月23日 10:49
          • ここじゃなくてみん暇ならまともなコメントついたんだろうなって感じする
          • 13. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月23日 14:33
          • >>10
            あそこまたSSまとめてくれないかなぁ…
            いやSS以外もいいけどやっぱりSS中心がいい気がする ここで書くことじゃないか
          • 11. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月23日 12:41
          • カクヨムだとめっちゃ評判いいのにな
            読者層の違いと言われりゃそれまでだが
          • 12. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月23日 14:14
          • >>11
            なんか草
          • 14. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月23日 23:25
          • 展開が盛り上がるまでが長いけど、佳境に入ると不思議と引き込まれる話だった。複雑な所が多くてわからない点も多かったけど、これをシナリオにしてノベルゲーム作れそうだなと思うくらい内容は濃い。
          • 15. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月23日 23:58
          • でもやっぱり謎が残りすぎて読後感はちょっとすっきりしないところがあるかな。読解力が足りないのかな
          • 16. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月24日 09:19
          • なんとなくこのサイトって、後の方がコメントの質が高い気がする。
          • 17. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月24日 09:34
          • >>16
            最初で叩きレス入ればあとはつられて叩く人が出てくるし愉快犯みたいな感じで始めあたり叩くひとが出てくるんじゃない?
          • 18. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月24日 13:47
          • 別にいいけど書いた本人がここに書き込むって死ぬほどダサいぞ
            まあセンスないからそういうのわからないんだろうけど
          • 22. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月25日 21:54
          • >>18
            だっせえコメントwww
          • 23. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月25日 22:45
          • >>18
            何を見てそう思ったのか。
          • 25. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月26日 19:04
          • >>18
            私はダサい人間なので貴方のおっしゃるセンスがどのようなものか分かりません。何卒ご教示を賜りたく存じます。具体的にご説明頂けると幸いです。
          • 26. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月26日 21:13
          • >>18
            まあセンスないからそういうのわからないんだろうけど(ニチャア)
          • 19. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月24日 14:05
          • 後からのコメントが質高いのはこれだけの文章量を読むのに時間かかるから。読んでないのは長いというだけで叩くから早い。

            好意的なコメント書いたら自演認定されるし、ここはコメントはレベルが低くなる。

          • 20. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月24日 23:12
          • まあそういうことですよね。コメントするのは自由だから良いんだけど、なんか哀れだなあ。
          • 21. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月25日 02:58
          • 4 相変わらずエレ速の米欄は上から目線の評論家気取りだらけで笑えるな 何年も変わらないね

            多少の誤字はあったけどss自体は良かった
          • 24. 以下、VIPにかわりましてELEPHANTがお送りします
          • 2019年04月26日 11:49
          • パート3あたり、鳥肌止まらなかったけどな…

        はじめに

        コメント、はてブなどなど
        ありがとうございます(`・ω・´)

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