傘を忘れた金曜日には【その2】
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◇
とにかく時間は差し迫っていた。
俺たちは駅前広場を離れ、南側のビルが立ち並ぶ通りを抜ける。
木々に囲われた大きな公園の傍には住宅街がある。そのあたりに瀬尾の家があるらしかった。
俺は家々のガレージや駐車場に止められた車をひとつひとつ眺めた。
アウディ、レクサス、BMW、ベンツ、フォルクスワーゲン、ポルシェ……。
「真中、今日はなんで遅れた?」
いささか緊張を覚えて真中に声をかけると、彼女は平然としていた。
「ごめん。寝過ごした」
「寝過ごしたって、あのな」
……午後二時に約束したのだが。
「一時半に起きたの」
「どういう生活してるんだよ」
真中は、申し訳無さそうな、いたたまれないような顔をした。
「金曜の夜は好きなの。わたし、金曜の夜に思い切り夜更かしするのが好きなの。ああ、明日も休みだなって」
「……ふむ」
「それで、土曜の朝に寝過ごして、ああでも、明日も休みなんだな、午後はなにしようかなって思うのが好きなの」
「……それはわからんでもないけど、約束があっただろ」
「あの、せんぱい、言い訳させて。べつにね、忘れてたわけじゃないの。ただ、ベッドに入っても眠れなくて」
「ふむ」
「それでね、寝付けないとスマホいじったりしちゃうでしょ」
「はあ」
「動画とか見ちゃうでしょ」
「はあ」
「後味の悪いゲームのエンディング集みたいなのとか見ちゃうでしょ」
「いや、知らんが」
そういう趣味だったのか。
「ゲーム、好きなの?」
「……わりかし?」
首をかしげるそのときの仕草は、以前の、何を考えているかわからないときの真中と同じだった。
そこになんとなく安心する。
言いはしないが、以前と違う表情の起伏にくわえて、私服姿でいるせいで、真中が真中じゃなくなったみたいな気分でいたのだ。
「あの。隼さん……青葉さんの家って」
「あ、悪い」
少しだけ気が紛れたところでちせに言われて、俺はもう一度住所を見直す。
スマホのナビで入力してあるので、間違いがないかぎり瀬尾の家につくはずだ。
居心地でも悪いみたいに、ちせは俺たちから少し離れて歩いた。
……まあ、このままっていうのもよくないだろう。
共通の話題なんて、ふたつしかないわけだけど。
「ちせ、ましろ先輩は元気なの?」
「あ、ましろ姉さんは、元気ですよ」
まあ、あの人が元気じゃない様子というのも、あんまり想像できない。
「最近は日本のお城のプラモデルに凝ってます」
「……そう」
それは"最近の調子"という話題で出てくるべき情報なのだろうか。
「姉さん的には、岐阜城がアツいらしいです」
「あ、そうなんだ」
……そういうこと言うんだ、あの人。
「ていうか、さっき、お姉ちゃんって呼んでなかった?」
「……あ、えっと」
ちせは視線を泳がせて、戸惑った様子だった。
「……すみません」
「あ、や。謝らなくていいっていうか、べつに悪いことじゃないから」
「せんぱい、女の子いじめちゃだめだよ」
「いや、いじめてない、いじめてない」
「……ふうん」
「……なんだよ」
「せんぱいがそんなふうにうろたえてるの、初めて見たかも」
「……うろたえてない」
「うろたえてるもん。ふうん。そうなんだ」
いかにも何か言いたげに、真中はそっぽを向いた。
「うろたえてない。……そんなことはどうでもよろしい」
わざとらしい咳払いをして、俺はちせに向き直る。
「悪いとかじゃなくて。……なんか、変に気を張ってるのかと思って。べつに普段どおりで平気だよ」
「あ……はい」
ちせは恥ずかしがるみたいに肩を縮める。
最初に会ったときの雰囲気が嘘みたいに、普通の女の子みたいだ。
「あの。わたし、子供っぽいから。喋り方まで幼いと……なんだか」
「……そう?」
「はい。他の人は、気にしないのかもしれないですけど……」
ひょっとしたら、思った以上に自尊心の強い子なのかもしれない。
身勝手に、そんな印象を覚える。
「ふうん。なるほど」
続ける言葉に迷っているうちに、真中がちせを見ながら口を挟んだ。
「あの、えっと……」
「はい。……あ、ちせで、いいですよ」
「ちせさん」
「ちせでいいです」
真中は照れたみたいに唇をもごもごさせた。
「なにやってんの?」
「ううん、べつに。えっと、ちせ」
「はい」
「……そっちも敬語じゃなくていいよ。同い年だし」
「あ、うん……」
「ちせは……なんでせんぱいのこと、隼さんって呼ぶの?」
「……あ」
なぜか真中は俺の方をもの言いたげにみる。
「あの、わたしの姉が、隼さんのこと、隼くんって、いつも呼んでたので、それでわたしも、隼さんのことは、つい」
「ふうん……」
「何だよ。呼び方なんてなんでもよくないか?」
「……べつに、いいけど。仲良かったの?」
「誰と?」
「その、ましろ先輩? と」
「……さほど?」
「ふうん……」
ちせはさっきよりずっと居心地悪そうだった。
「……着いたな」
歩きながら、ナビを頼りに表札を眺めていたのが功を奏した。
瀬尾という表札が見つかった。
◇
時刻はちょうど二時三十分を回ったところだった。
場所を調べた上で余裕を持って待ち合わせをしたのが結果的にはよかった。
インターフォンを鳴らすと、はい、とすぐに返事があった。
玄関の扉が開かれ、小奇麗な格好をした痩せた女性が中から顔を出す。
「こんにちは」と彼女は笑いもせずに言う。
「こんにちは。はじめまして」と俺も言う。後ろの二人もそれに倣った。
「突然すみません。お電話した三枝という者です」
「とりあえず中にどうぞ」と彼女はさして興味もなさそうに背を向けた。
少し躊躇したが、家主の行動に従い、玄関の中へと踏み入る。
広めの玄関のすぐ向こうが廊下になっている。すぐ傍に客間が見える。
客間の壁は大きな窓になっていて、外からは見えなかったが中庭につながっている。
それを差し引いても大きな客間だった。
俺たち三人はそこに通されて、ソファに腰掛けるように勧められる。
俺たちはそれに従う。
家財は上品な焦茶色の木目のもので統一されている。全体的に落ち着いた雰囲気だ。
「ごめんなさいね、散らかってて」と彼女は言うが、散らかっているのはせいぜいテーブルの上の新聞くらいだった。
「お茶がいい? コーヒーにする?」
「あ、おかまいなく……」
「コーヒーは嫌い?」
「いえ……」
二人はどうなのだろう、と思いつつ見るが、特に何も言わないようだった。
緊張しているのかもしれない。
「……すみません、突然電話して、訪ねたりして」
「別に。問題があったら断ってるから」
言いながら彼女はカウンターの向こうに入り、コーヒーの準備を始めた。
「迷惑じゃありませんでしたか?」
「言ったわ。問題があったら断ってる」
怜悧な人だという印象を受けた。こう言ってはなんだが、瀬尾の母親とは思えないくらいに。
準備を終えると、彼女は俺たち三人の前に氷の入ったコーヒーを並べてくれた。
「ありがとうございます」と頭を下げる。どうやら俺が代表して話をする流れになっているらしい。
「いいえ。……青葉の、同級生って話だったけど」
「ええと、はい。クラスは違うんですけど、文芸部で一緒でした。俺が副部長で、青葉さんが部長を」
「文芸部?」
「……ご存知なかったですか?」
「あの子、あんまり話さないから、そういうこと。それも、部長」
「はい」
本当に?
それはなんだか……意外だ。瀬尾がそういうやつだと、俺は考えたこともなかった。
「……あの、青葉さん、ご自宅も帰ってないって聞いたんですが、本当なんですか?」
「うん。そう。帰ってきてない」
俺はそれ以上どう質問を続けたものか迷った。
何か伝えられていないか? それを聞きたいのはむしろ向こうのほうかもしれない。
捜索願が出されたって話だ。
両親に聞いてどうなる?
俺たちは何を聞くためにここに来たんだ?
「……率直に言います。俺は、青葉さんがいなくなった日に、彼女と口論をしたんです」
「……口論?」
「はい。というと、正確じゃないかもしれない。俺の行為……悪意があったわけじゃない。でも、それに彼女は憤った様子だった。
すごく、傷ついた様子でした。それで彼女はいなくなってしまって、家にも帰ってないという噂が流れてきた」
「……」
「彼女は自分の意思で、どこかに行ってしまったんだと、俺は思っています」
「ふうん。根拠は?」
俺は、ポケットの中に入れておいた、瀬尾からの手紙を取り出した。
彼女のメモの、最初の一枚だ。
「青葉さんがいなくなったあとに、ボルヘスの『伝奇集』が俺の家のポストに入っていました」
図書室にあった本に挟まっていた、と言ってしまうと、不都合が生じるので言い換えた。
事実としては似たようなものだ。
「そこに挟まっていたのがこのメモです。……彼女は、少なくとも、自分の意思でどこかにとどまっているはずです」
「そのメモを信じるならね」
「字でわかりませんか」
彼女は返事をしなかった。
「……湖畔、ね」
「……心当たり、ありませんか。ご親戚のところとか」
「ないわ」と彼女は言う。
「あの子に親戚なんていないもの」
「……」
その言葉の意味がわからずに、俺はただ戸惑うしかなかった。
「と、言うと」
「……」
彼女はテーブルの上の灰皿を引き寄せると、煙草の箱から一本取り出してライターで火をつけた。
数拍おいて、煙を吐き出してから、中庭の方を見つめたまま、彼女は話を続ける。
「わたしの旦那が、あの子の後見人なの」
「……"後見人"?」
ちせが、思わずというふうに繰り返した。
「知らない?」
「ええと、はい……」
「……あなたは、知ってるんじゃない?」
どうしてか、彼女は俺の方を見てそう言った。
「教えてあげたら?」
「……」
後見人。瀬尾の場合は、未成年だから、未成年後見人ということになる。
……後見人、だと?
――わたしは最初からなんでもなかったのに。
――わたし、やっぱり偽物なんだ。
――わたし、やっぱり、いらないんだ。
「……後見人っていうのは、何かの事情で親権者がいない子供を預かって、財産の管理や法律行為を行う人間のことだ」
「親権者がいない、って?」
「親や養父母がいない子供」
「……」
「未成年者は、保護者の同意なしでは契約行為ができない。部屋も借りられない。仕事もできない。
親権者や、その代理となる保護者がいなければ不都合が生じる。だから、親権を行使したり主張したりするものがいない場合……」
「正確には、もう少しややこしいケースもあるんだけどね」
そう言って、向かい側に座った彼女が俺の言葉を引き取った。
「あの子の場合は誰もいなかった。親戚もね」
「……どういう意味ですか?」
「本当に、誰も、いなかったの」
……どういう意味だ?
「ひとつ、確認してもいいですか?」
「はい、どうぞ」
「あなたは、瀬尾青葉の親戚ですか?」
「いいえ」と彼女は言う。
「……」
「あの子を見つけたのが、わたしの旦那だった。旦那がたまたま、選任されうる職種だった」
「……見つけたって、どういうことですか?」
「話してもいいと思う?」
「……どうして俺に聞くんですか」
「青葉は、あなたにそれを知られたいのか、どうなのか。わたしにも、よくわからない」
「……」
「あの子は少し特殊なのよ」
「特殊……?」
「六年前の五月。街の公園で、汚れた服を着て、地べたに倒れている子供を、わたしの旦那が見つけた。
病院に連れて行って、警察に届け出た。迷子かなにかだと思った。それだったらすぐにどうにかなったはずなの。
本人の意識が戻れば自分の名前や家の場所を言えるはずだし、もしそうならなくても、捜索願が出されていないかとか、そういうことを確認すれば済む」
そうはならなかった、という口ぶりだ。
「わかりやすく言えば、記憶喪失ってところ。あの子は自分の年齢を言えた。誕生日も言えた。
でも、それなのに、名前は言えなかった。誰かに盗まれたみたいに。住んでいたところも、両親の名前も」
……。
「その場合、どういう扱いになるか、分かる?」
「……棄児?」
彼女は首を横に振った。
「珍しいけど、そういうケースもありえたかもしれない。でも、青葉は発見された時点で小学校高学年くらいに見えたし、自分でもそう言った。
学校に入っていたという以上、記憶はなくしていても戸籍はあるはずだし、そこで手続きしてしまうと二重戸籍になってしまう。
それでも、学校に入っていたというなら、多少調べれば、身元は分かるはずだった。普通に考えればね」
「でも、じゃあ……」
「だから特殊なのよ。あんなに大きな子供がいなくなったら親だって捜索願を出すし、
そうでなくてもどこかの学校に入っていたなら写真が残っていて本人かどうか確認できる。
似た子がいれば本人がいなくなってしまっていないか確認すれば、いつかはたどり着けるはずだった。なのに、なかった」
「……なかった、って」
「厳密にいうと、とてもよく似ている子がひとりいたんだけど……その子はね、いなくなっていなかった」
「……待ってください。じゃあ、それで、身元がわからないままだった。そうなると、どうなるんですか」
「無戸籍者」
「……」
無戸籍者。
「……まあ、いろいろ大変だったし、だいぶ時間もかかった。いろいろな意味でね。
うちの旦那が後見人に選任されて……それで、就籍届を出した」
「……どうして、そうできたんですか?」
「どうしてって?」
「話を聞くだけだと、児童養護施設の仕事の範疇というのが妥当という気がする。
親が見つからないからと言って……。別に、いけないというわけではないですけど、納得がいかなくて」
彼女は指に挟んだままの煙草が燃え尽きそうになっていることに気付いて、灰皿に押し付けた。
「六年前だったからよ」
「……六年前?」
六年前。
二○一一年。
「……」
……“震災孤児”。
「でも、五月って」
「時期も場所も状況も、正直言ってそう考えるにはあまりに不自然だった。
でも……ありえなくはない。その二ヶ月の間何かがあって、あの子は記憶をなくしたのかもしれない」
……少なくとも、目の前のこの人はそう考えている。
「でも、だったら、被災した地区の学校の生徒を調べれば」
「……そう。そこも、不自然だった。でもね」
彼女は、少しだけ身を乗り出して、まっすぐと俺の目を見た。
「結果として、青葉はこの家で暮らしていた。あの子の親も、親戚も、知り合いも、どこにもいなかった。
テレビでだって流れた。ビラだって配られた。でも、あの子を知ってる人はひとりもいなかった」
「……」
「それで、あの子はこの家で暮らしていた。……もちろん、本人が望まなかったら、施設という形にはなっただろうけど」
「……」
話を聞きながら、一瞬、俺はまったく違う連想をした。
……ありえない。
六年前の五月。六年前の五月。そうだ。六年前の五月。
「……すみません。さっき、青葉さんの身元を調べたときに、よく似た子がひとりだけいたっておっしゃいましたよね」
「……ええ。それが?」
「その子の名前って、わかりますか?」
「……でも、無関係の子よ。調べてもどうにもならない。まさか押しかけもしないでしょうけど」
「そんなことをしても意味はないでしょう」
「だったらどうして知りたがるの?」
「いえ……少し」
彼女はいくらか迷ったような素振りを見せたが、やがて根負けしたみたいに溜め息をついた。
「名前は、思い出せないけど、苗字は珍しかったから、覚えてる」
「……はい」
「たしか……鴻ノ巣って言ったかな」
……。
「……ありがとうございます」
「……いいえ。ねえ、もし青葉からまた手紙が来たら、教えてくれる?」
「……はい。約束します」
「わたし、あの子のことを、なんにも知らない」
悪夢にうなされるみたいに、彼女は顔をしかめた。
「ときどき、夢を見るのよ。あの子の本当のご両親があらわれて、あの子は何もかも思い出して、いなくなっちゃう」
「……」
「……友達と喧嘩したからって、なんにも言わずに家を出ていくような子じゃない。
結局、この家はあの子にとっての居場所にはなれていなかったのかもしれない。
そうでしょう? ……何か、ずっと抱えていたものがあったから、この家にも帰ってこないのだと思う」
「……手紙が来たら、必ず伝えます」
俺は嘘をついた。
「……お願いね」
「……はい。何かわかったら、必ず」
そこで話は終わった。それ以上、お互いに伝えるべき言葉を持たなかった。
◇
瀬尾の家にいたのは、せいぜい三十分くらいと言ったところだった。
外に出たときにはもう、景色は灰色に澱んでいる。
結局のところ、収穫らしい収穫があったとはいえない。
瀬尾の過去を知ったところで、今瀬尾がどこにいるかはわからないままだ。
『こっちの様子は相変わらずです。穏やかで、日々に変化はない。これってすごく幸せなんじゃないかって思う。
何もかもが簡単に変わってしまうくらいなら、鉱物にでもなっていられたらいいなとわたしは思う。
誰ともかかわらずにいると、なんだか自分というものがどんどん希薄になっていく気がします』
真中もちせも、黙り込んでしまっていた。無理もないだろう。
他人の事情に、勝手に踏み入ってしまった罪悪感みたいなものを感じる。
それでも今俺を悩ませているのは、瀬尾の事情ではなく、さっきの連想の方だった。
『鴻ノ巣』。『六年前の五月』。
瀬尾青葉。
「……とりあえず、瀬尾の居所のヒントはなかったな」
話の内容にはあえて触れず、俺はそう呟いた。
「そう、ですね」
ちせが頷く。真中は黙っていた。
さて、どうしたものだろう。
「雨が降りそうだな。このあとはどうしようか」
瀬尾の行方を知るという最大の目的に関しては、空振りだった。
話をしたところでなんら展開はないだろう。
俺の頭はそう考えている。けれど、耳に響く葉擦れの音が、何かを教えるみたいに騒いでいる。
そうじゃない、おまえはもう気付いている、と、誰かが言っている気がする。
さっきまでの話でわかったことはない、と俺は考えようとしている。
でも、そうじゃない。俺はそれを認めたくないだけで、ずっと頭の中に浮かんでいた。
それを確かめる手段も、実のところ、思いついている。
ただ、もしそうだったとして……どうやって、瀬尾を連れ戻せばいいんだろう。
それは、正しいことなのだろうか?
「……わたし、今日は、帰りますね」
ちせが、少し無理のある笑い方で、そう言った。
「夕方から、バイトもありますから。今日は、ありがとうございました」
「ああ、うん」
そうやって返事をする以外に何を言うこともできない。
ちせは、一刻も早くこの場を離れたいというみたいに、すぐにいなくなってしまった。
俺と真中は取り残されて、ふたりで顔を見合わせる。
「……真中は?」
「……どうしよう」
すぐ帰るという気分にはなれないらしい。
まあ、まだ夕方というほどの時間でもない。
「どこかに入るか」
それで、駅前の近くで休めるところを探したら、真中が急に「そういえば行ってみたい店があった」と言い出した。
携帯で位置を調べて向かうと、店の扉には「CLOSED」の札がしてあった。
「おかしいな。定休日じゃないはずなのに」
ネットで調べてみるとSNSのアカウントにたどり着き、「今日は臨時休業とさせていただきます」という旨の投稿があった。
「なるほど」と俺達は呻いた。
そうこうしているうちに、いよいよ雨が降り出しそうだった。
こうなったらなんでもよかろうと、俺達はとりあえず駅ビルに戻り、テナントのチェーン店に入った。
「なんだかなにもかもうまくいかないね」と真中が言った。
「そんなことはない」と俺は言ったけれど、よくわからなかった。
うまくいかないこともいくことも、そんなに多くはなかったんじゃないだろうか。
向かい合ってテーブル席に腰掛けて、俺と真中は話すことも思いつけずにいた。
彼女はエスプレッソを飲みながら壁にかけられた絵を眺めている。
「雨、降ってきたな」
店の窓ガラスの向こうで、雨音が強くなりはじめた。
真中は返事をしなかった。何かを考えているみたいだ。
言葉を探すのもばかばかしいような気がして、俺もあえて口を開くことはしなかった。
しばらく、そのまま時間が流れた。俺はコーヒーを飲みながら、どこから手をつけるべきだろうと考える。
瀬尾は家に帰っていない。
荷物ももたずに消えてしまった。
あいつの友人関係はかなり偏っていた。そしてその誰もがあいつの行方を知らないという。
そもそもの話、俺との口論の直後姿を消した瀬尾は、荷物も持たず、靴すら履き替えていなかった。
この不自然さは、今まで放置していた。というより、考えるのを避けていた。
財布も持たず、靴も履かずにどこかにいなくなることの不自然さ。
誰かの家に転がり込むなら、荷物くらいは持っていくし、靴だって履き替える。
であるなら、あいつはそもそも、学校から出ていないはずだ。
可能性として、考えなかったわけじゃない。
瀬尾がいなくなった日から、さくらは姿を見せなくなった。
そして再び会ったとき、あいつの様子がおかしかった。
さくらは、学校のなかで起きることなら、だいたいは把握できているはずだ。
瀬尾が学校の中でいなくなったとしたら、それをさくらが知っていたとしたら、
その結果、さくらの様子がおかしくなったとは考えられないだろうか。
そして俺は、瀬尾がいなくなってから、さくらに瀬尾のことを聞いていない。
「……」
もちろん、また空振りかもしれない。でも、確認する価値はあるような気がする。
けれど、もしそうだとしたら、俺は……。
「せんぱい」
「……ん」
「なにか、隠してるでしょ」
「……そりゃあね。人には隠し事っていうのがあるものだ」
「せんぱいは、隠し事だらけだけどね」
「どうしてそう思う?」
「そう思われてないと思うほうが、わたしには不思議」
「せんぱい、あのね。ずっと考えてたんだけど……」
「ん」
「せんぱいにとって、青葉先輩って、なに?」
「……」
なに?
「なにって、どういう意味?」
「べつに、そのままの意味。友達なのか、それとも、べつのなにかなのか」
「べつのなにかってなんだよ」
「わからないけど……」
「俺は、自分にとって誰かが何かなんて、考えたことないよ。真中のことだって、何って言われたら言葉に詰まるし」
「そうかもしれないけど……」
話の途中で、俺の携帯が鳴った。
「電話?」
「ああ。ごめん」
「ん。どうぞ」
断ってから携帯を取り出して画面を見ると、ちどりの名前が表示されていた。
俺は少し考えてから、結局すぐに電話に出る。
「もしもし、隼ちゃんですか?」
「俺の番号なんだから、そりゃ俺が出るだろう」
「そうですよね。今平気ですか?」
「……まあ、一応」
「あ。そうですか。あの、このあとって空いてますか? 今晩なんですけど」
「は? ……まあ、べつに平気と言えば平気だけど、何の用事かによる」
「晩御飯。うちで食べましょう」
「なんで?」
「えっと、お父さんとお母さんが……あ、隼ちゃんの家にはもう電話してて、あと隼ちゃんだけなんですけど」
「ごめん、おまえが何言ってるのかわかんない」
「あ、そうですよね。えっと、怜ちゃんが」
「れい?」
「はい。帰ってきてて、それで、みんなで……」
れい。怜。
「それで、隼ちゃんも……」
俺はとっさに電話を切った。
驚いたみたいな顔で、真中が俺を見上げる。
それ以上に俺の方が驚いていた。
「切っちゃった」
「……どうしたの?」
「……ううん」
べつに、切る理由なんてなかったはずなのに、とっさに切ってしまった。
どうしてだろう。
「……今日はもう帰った方がいいかもね」と真中が言った。
帰りたい、でもなく、帰った方がいい、と。
「どうして?」
「気付いてないの?」
「……なにが?」
「せんぱい、顔、真っ青だよ」
……真っ青。
たしかに、さっきから、『音』がいつもよりひどい。頭まで、痛くなってきたような気がする。
「……ん。かもしれない」
「うん。今日は土曜日だし、帰って休むといいと思う」
「そうだな。今日は少し……疲れたな」
「うん。……気をつけて帰って。なにかあったら、連絡ちょうだい」
「そうするよ」
なにかって、なんだろう? そう思ったけど、詳しくは話さなかった。
◇
それで、真中とは駅ビルの入り口で別れてしまった。
ひとり取り残されて、俺はどうしようかと迷っている。
バイトはない。用事はもちろん、どこにもない。ちせも帰ってしまった。
今日は土曜日。明日は日曜でバイトがある。
ちどりからの連絡のことを思い出す。
突然切ってしまったが、掛け直してはこないみたいだった。
雨は徐々に強くなっていく。俺は建物の軒先で広場を打つ雨のしずくを眺めている。
空からそそぎ地面を濡らす幾つもの線を眺めている。
切り取られた絵画のように、何気ないスナップのように、景色が他人事めいて綺麗だ。
――ねえ、隼。ぼくは、バカだったな……。
――巻き込んで、ごめん。
――ちどりを助けて。
――隼、ごめん。ぼくは、バカだ。
……怜。
どうして、このタイミングで、怜が帰ってくるんだ?
まるで、なにもかもが仕組まれた舞台みたいだ。
すべてが繋がり合おうとしているみたいにさえ思える。
あの日の、あの場所に、俺は閉じ込められたままなんだと、教えようとしているみたいに。
『暗闇はどこにでもある。
暗闇はいつもそこにある。
足元に、手のひらの中に、頭の中に、耳鳴りのように、影のように、いつだってある』
――音は、まだ止まない。あなたがそれを止めようとしないかぎり、止まない。
◇
泉澤 怜について説明することは難しい。
外的な状況を並べ立てることは簡単だ。
たとえば、俺とあいつは小学校の同級生で、ちどりと俺と怜は、いつだって一緒に遊んでいた。
幼馴染と呼んでも、たぶん問題ない関係だろうと思う。
あいつは中学に上がると同時に転校してしまって、一応連絡先は知っているけれど、卒業以来顔を合わせたことはほとんどない。
俺は怜のことを親友だと思っているし、怜もたぶん俺のことをそう思ってくれていると思う。
怜は頭が切れて、物知りで、柔和で、鈍いのに鋭い、自信家で、でも弱くて、強がりで、バカで、そのどれもがどうしてかスマートだった。
言うなれば、あいつは探偵で、俺はその助手だった。
小学校の頃、学校はあいつのためにしつらえられたひとつの舞台装置のようだった。
あらゆる謎、あらゆる悩み、あらゆる失せ物、あらゆる困難が、怜のもとを訪れた。
そして、怜はそのひとつひとつを払いのけるように解決してみせた。
謎のあるもの、ないもの。
それはたとえば花壇の花がなぜか枯れてしまう理由であったり、
あるいは動物小屋から抜け出したうさぎの行方であったり、
あるいは女の子が失くした筆箱のありかであったり、
あるいは図書館から本を盗む生徒に隠された事情であったり、
あるいは新任教師に降り掛かった人間関係の悩みであったり。
怜は人助けを好んだ。
誰かのためになること、誰かの助けになること、誰かを楽しませること、誰かをもてなすことを好んだ。
「たぶん、ぼくはそういうのが好きなんだ」と怜は言っていた。
「誰かのためになること、そうすることで満たされるんだ」
その感覚は俺もわからないでもなかった。わからないでもないはずだった。
だからこそ、俺は怜と一緒にいることを苦にしなかったのだと思う。
あの日、怜があの場所に行こうとしたときだって、俺はべつに止めなかった。
六年前の五月、俺たちは、俺たちは、神さまの庭に迷い込んだ。
あれが白昼夢でないのなら、たぶん。
そして、そのときからずっと、俺の視界は、二重になった。
はっきりと見えるときもあれば、忘れられるくらいにおぼろげなときもある。
葉擦れの音も、またそうだ。
うるさいくらいに響くときもあれば、冗談みたいに静かなときもある。
けれど、止まない。消えない。
あの日からずっと。
……“神隠し”。
誰がそう言ったんだっけ。
一応、純佳にだけ連絡をしておこうと思い、携帯を開く。
見ると、すでに何件かメッセージが届いていた。
「今日はちどりちゃんの家で夕飯をいただきます。私達はもう向かっているので、兄は直接来てください」
……ずいぶん早く集まるらしい。怜が来るとなれば、当然といえば当然だろう。
あいつとも、一応家族ぐるみの付き合いだった。
「少し遅くなる」と連絡をする。とはいえ、まあ、夕飯時までには間に合うはずだ。
遅くなる、とは言ったものの、どこにいくという宛てがあるわけでもない。
とりあえず近くの商業ビルに入っていろいろと眺めてみるが、何か見つかるわけでもなかった。
本屋に入って手慰みにカポーティの「夜の樹」を手にとってみたけれど、頭には入ってこない。
俺は、その事実に、ひどく混乱した。
予兆はあった。葉擦れの音が大きくなって、二重の風景がぶれ始めることが多くなった。
それが今日、臨界点を超えた。
――またこれだ。
他の本ならどうだろうか?
「嘔吐」は? 「人間の土地」。「星の王子さま」。「曙光」。ダメか。「自由からの逃走」。駄目だ。
「羊をめぐる冒険」ならどうか? 「コインロッカーベイビーズ」は?
じゃあ「オラクル・ナイト」はどうだ? 「芝生の復讐」は?
「人間椅子」なら? 「砂の女」は?
駄目だ。
「容疑者Xの献身」。「ラッシュ・ライフ」。「レベル7」。「キッチン」。
駄目だ。
小説や思想書だけじゃない。戯曲もノンフィクションも、写真に添えられただけの詩も、芸能人の暴露本も、よくあるビジネス書でも同じことだ。
絵本や児童書でさえそうだ。一冊の本を読み切れる気がまったくしない。
なにひとつ、頭に入ってこない。
どのような文章も、どのような一節も入ってこない。頭の中で像を結んでくれない。
どれだけ丁寧に意味を拾い上げようとしても、頭の中に残ってくれない。
接続詞を挟んだ瞬間に、その前の語句を忘れてしまう。綺麗に頭の中から消え失せてしまうみたいに。
おそろしいほど、集中できない。……こんなことが、よくある。
原因は、わかっているといえばわかっているし、わかっていないといえばわかっていない。
葉擦れの音のせいだと、思うことにしている。
今日は、キツい日だ。
いままでで一番かもしれない。
「虞美人草」も「パンドラの匣」も駄目だ。
勘弁してくれよ、と俺は泣きたい気持ちになる。こんなことがあるたびに冷静でいられなくなる。
どうしていつもこうなんだ?
どうして俺はひとつの文章を読むことも満足にこなせないんだ?
何かを楽しむことがどうして出来ない?
どうしてこんなふうにすぐに何もかも駄目になってしまうんだ?
偽物なのも、なにもないのも、俺の方だ。
本棚から一冊抜き出して、開き、すぐに戻す。別の棚に向かい、また同じことをする。
何度も何度も同じことを繰り返す。
どれだけやったところで駄目だった。
もう、俺はどんな文字も受け入れることができない。
ひょっとしたらこの先ずっとこうかもしれない。もう二度と本を読むことができないかもしれない。
そんな不安が頭の中を支配する。一度その不安に気付くと、今度はそれがあたかも事実であるかのように感じる。
“俺はもう二度と文章を読むことができない。”
頭を振って、いま、目の前で起きていることを認識し直す。
冷静になれ、俺は本屋に立っている。本棚の前に立っている。それだけだ。それ以外、なにも起きちゃいない。
いったいどうしてこんなざまになったんだ?
動悸がいつになく烈しい。
呼吸が浅くなっている。自覚はある。
でも……でも、どうにもできない!
“どうしてこんなありさまになるんだ?”
本を置き、視界をととのえるためにまばたきをする。
目にうつる本棚に立ち並ぶ背表紙の文字列は、すでに意味を失っていた。
それは何かの影のように平面上を這いうねっているだけのように見える。
急に体の力が入らなくなるのを感じる。
かろうじて立っていることだけはできる。立っていることだけは。
けれど、歩き出すためには、もう少しだけ力が必要になる。
折れるな、と俺は思った。“折れてはいけない”。立ち上がれなくなる。それはまずい。
呼吸をゆっくりと、ゆっくりと、呼吸を。そして、何も考えるな。
いいか、崩れ落ちちゃいけない。今崩れ落ちたところで、“誰も助けてなんてくれない”。
そう考えた瞬間、ひときわ強い風が“向こう”で吹き抜けて、木々の梢を揺らしたのが分かる。
いけない。持っていかれては、いけない。
保て。
維持しろ。
甘えるな。
誰もおまえを“助けてなんてくれない”んだ。
ゆっくりでいい。
取り戻せ。
落ち着け。
大丈夫だ。
なあに、たいしたことじゃない――こんなことは、今までにだってあった。
しっかりとした感覚を取り戻すまでに、十分ほどそこで立ち尽くしていなければならなかった。
さっきまでの眩暈のような感覚は、ようやく落ちついてくる。
けれど、ふたたび本を読めるかどうか試そうという気分にはなれなかった。
“誰も助けてなんてくれない”という言葉が頭の中でまだぐるぐると響いている気がする。
だから俺は立っていなければいけない。ひとりで。
本屋を出て、溜め息をつく。どうにか難所は切り抜けた。
しばらくは、本を読もうなんてしないほうがいいだろう。
なるべく、気分をゆっくり休めなきゃいけない。一度こうなったら、しばらく映画も漫画も何もかも無理だ。
からだが受け付けない。
胸焼けのような気分の悪さが喉の奥の方でつっかえている。
歩くとひどくなりそうで、店を出て少ししたところで立ち止まり、壁にもたれて休んだ。
大丈夫、さっきまでよりだいぶマシになっている。たぶん、無事に帰ることができる。
不意にポケットの中で携帯が鳴動した。
救いを求めるような気持ちで画面を見ると、ただのニュースアプリの通知だった。
――吐き気がひどくなる。
誰もいない。なにもない。
ポケットにしまい直したところで、ふたたび振動があった。
画面をつけるが、何の通知もない。念の為メッセージアプリを確認するが、やはりなにもない。
ファントムバイブレーションシンドローム。
うんざりする。
誰もいない。なにもない。もう一度言い聞かせる。
そこで、もう一度携帯が震えた。
ただのメールマガジンだ。
俺は瞼をぎゅっと瞑った。
理解している。
いいか、“誰も助けてなんてくれない”んだ。
ふたたび瞼を開けると、画面にメッセージの通知が来ている。
「薄情者」
と一言。
「……」
落ち着け。
縋り付いてはいけない。
浮足立ってもいけない。
とりあえず、内容を確認する。
ましろ先輩からだ。
「なんだか妹がひどく落ち込んだ様子で帰ってきたのですが」
「何をしたのですか」
「薄情者」
……妹。
ああ、そうか。ちせだ。
「落ち込んでいましたか」
少しだけ考えて、俺はとぼけることにした。
「きみが何かしたの?」
「いいえ。心当たりはないです」
「そうですか。後輩くんも女を泣かせるようになりましたか」
「人聞きが悪い」
少し待ったが、そこで返信が途絶えた。俺は携帯をポケットに入れ直し、深呼吸をする。
さっきまでと比べてどうか? ……いくらかはマシだ。
さて、と俺は思う。
……いつもどおりに振る舞わなければ。
◇
鴻ノ巣家は俺の家の真ん前にある。
郊外住宅地の狭くて見通しの悪い路地を挟んで、ちどりの家は俺の家に背中を向けている。
昔はずっと仲が良くて、今もこんなに近くに住んでいる。
それなのに、中学を卒業して別々の高校に通うようになってから、俺はちどりとほとんど会わなくなった。
たまに『トレーン』にでも出向かない限り、皆無と言ってもいいだろう。
彼女ができた俺に気を使って、ちどりが一緒に通学したりするのを避けようと言い出したのが一番の理由だ。
それだってもはや、バカバカしいという気持ちもないではない。
鴻ノ巣家の門の前に立つと、賑やかな笑い声が響いてきた。
辺りはまだ雨が降っていて、俺は自分がマッチ売りの少女にでもなったような気分だった。
自己憐憫はよくない。
少しだけ迷ってから、インターフォンを押した。以前ならそんなことはしなかったけれど、今は今だ。
「はーい」
中からすぐに声が返ってくる。なぜだかドキドキする。
こんなこと、昔はなかったけど、頻繁に会わないことに慣れすぎたかもしれない。
でも、その声がちどりだと、やっぱりすぐに分かった。
「あ、隼ちゃん」
ちどりは相変わらずのほわほわした顔で、ドアを開け放した姿勢のまま俺に笑いかけた。
(その表情が、いま、ほんの少し、他の誰かのものとダブる)
高校の制服のうえに、水色のエプロンをつけて、髪をサイドにまとめている。
くるりとした毛先を乗せた鎖骨がほんの少しだけ目に毒だ。
「やあ」
俺が棒読みで挨拶すると、彼女はちょっと不満そうに眉を寄せた。
「どうして急に電話切ったんですか?」
「いや、謎の衝動に襲われて……」
「……それは大変でしたね?」
よくわからないことでも、深く追及しないまま適当に返事をできるのが、ちどりの美徳と言えば美徳だろう。
「怜、来てるの?」
「来てますよ。みんな揃うの、久々ですね」
「そうだね」
俺はやっぱり、自分で分かるくらいの棒読みだった。
招かれるままに玄関に入ると、靴がこれでもかというほどたくさん並んでいた。
うちの家族ももう来ているらしい。
「急に呼び出してすみません」
「いいよ。どうせうちの親父あたりが無理やり呼ばせたんだろ」
「ううん。怜ちゃんが会いたがったんです」
「怜が? 俺に?」
まあ、べつに意外でもないか。久し振りだし、友達は友達だ。
ちどりはスリッパで文字通りスリップしながらダイニングの扉を開けた。
その仕草に懐かしさのような感慨を覚える。
俺が顔を覗かせると、「遅い!」と怒鳴り声が聞こえた。
大きめのダイニングテーブルを囲んで、大の大人四人と子供二人がオードブルに舌鼓を打っていた。
大人たちはもう酒が入っているらしい。まだ六時も回っていないのに気が早いことだ。
「怜が久々に帰ってきたっていうのにどこほっつき歩いてたんだ! それでもおまえ俺の息子か! おまえそれでも人間か?」
酔っぱらった顔で怒号を飛ばした親父を見て、俺はげんなりした。
怜、と呼び捨て。ほとんど自分の子供みたいな言い方だ。
自分の息子ともほとんど顔を合わせていないというのに、たいした親だ。
「我が子になんて言い草だよ」
適当に受け流しながら、俺はダイニングテーブルの隅の方にスペースを見つけて座った。
ちどりはすぐにコップと飲み物を用意してくれた。
俺とちどりは、家が近く、それぞれの両親の親交が深かった関係で、ほとんどきょうだいみたいな育てられ方をしていた。
怜は中学に上がるまで近くに住んでいて、家が近かった関係で仲良くなった。
そこに純佳が加わって、四人でよく遊んだものだ。
親が今みたいに多忙になる前には、バーベキューもしたし、サッカー観戦にも行った。
水族館にも行ったし、動物園にも行った。
夏休みの自由研究は共同でやったりみんなで協力したりしたものだ。
俺がそうしていたように、怜もまたちどりに五百円硬貨を握らせて読書感想文を書かせていた。
バレるのはいつも俺で、怜は上手くかわしていたっけ。
ちどりの両親と俺の両親は、酒が入ってもうだいぶ気持ちよくなっているらしい。
料理や飲み物はちどりがひとりで回していた。
昔からかわらず損な立ち位置だとは思うが、手伝おうとも思わない。
好きでやっているから気にしないでと遠慮されるのがオチだ。
怜は純佳の隣に座っていた。
久し振りにみても、やっぱりほとんど変わらない。前と同じ、綺麗な、不思議な表情。
この表情が、怜の魅力なんだろうと思う。
底知れない、意味深な、けれどなぜか親密さを感じさせるような、笑み。
怜は、こっちを見上げて、俺に笑いかけてきた。
「久しぶりだね、隼」
「ああ。……おかえり、怜」
「うん。ただいま、だ」
怜の声は、ざわめきのなかで役者みたいにすっと俺の耳に届く。
よく馴染む、前と変わらない、人を安心させる声だ。
純佳は、どうしてだろう、ほんの少し居心地悪そうに、オレンジジュースを飲みながら、俺と一瞬だけ目を合わせて、黙った。
親父たちは俺の存在なんか忘れたみたいに酒を飲むのを再開した。
「隼ちゃん、すぐにごはん用意しますね」と、ちどりだけが俺のことを気遣ってくれる。
「どうしたんだ。ずいぶん急だったよな?」
「うん。まあ、ちょっといろいろあってね」
「いろいろって?」
「それはまあ、あとで話すけど……」
怜は、前と同じように――ああ、俺が羨ましかった表情だ――少し意味深に唇を歪めた。
「少し、気になることがあったんだ」
「気になること?」
「うん。隼にも知恵を貸してもらいたいんだ」
「……知恵?」
怜が、俺の知恵?
皮肉か、とか思ってしまうあたり、やっぱり俺はだいぶひねくれてしまったんだろう。
こいつが俺の知恵なんて必要とするとは思えない。
「隼ちゃん、けっこうお腹空いてますか?」
「まあ、割と」
「いまあるので足ります? いろいろ買ってきてあるんですけど」
「あ、うん。……あ、自分でやるよ」
「いいです。隼ちゃんはお客さんなんですから」
とりあえず俺は怜の隣に腰掛けた。親父たちは騒いでいたけれど、たぶん無視しても問題ない。
「彼女ができたんだって?」
「あれ、言ってなかったっけ。……中学のときだけど」
「聞く機会がなかったじゃないか。上手くいってるの?」
「いや。いまいち」
「ふうん」
「怜は、そういうのないの?」
「ぼく? うん。そうだな。ぜんぜん」
ぜんぜん、と怜はへらへら笑った。
「猫は元気?」
「猫?」
「ほら、ちどりと拾ってきた猫。飼ってただろう」
「死んだよ」
「そっか。……学校はどう? 文芸部だって?」
「おまえは俺の親戚かなにかか」
「そう冷たいこと言わないでよ。ひさびさに会って、何話したらいいかわからないんだ」
怜は首を軽く揺すって、短い髪をさらりと揺らした。そんな仕草さえ絵になる。
はい、とちどりが俺の前に食器を運んでくる。
「ありがとう」
「いえいえ。たんと召し上がってください」
……どういう返事をすればいいんだ?
「ちどりも座れば」
「あ、はい」
と言って、エプロンを外すと、俺の隣に腰掛けた。
「みんな揃うの、ひさしぶりですね」
「だな。ちどり、何飲む?」
「あ、いいです。自分でやります」
「そう言うな」
「あ……じゃあ、オレンジジュースを」
「はい」
グラスに注いでジュースを渡すと、ちどりは両手で受け取って、「ありがとう」と笑った。
変なやつだ。文句のひとつくらい言ってもバチはあたらない立場なのに、平然としている。
こういうところで、ちどりと怜は似ている。損を損と思わないところが。
「兄、今日はどこに行ってたんですか」
怜を間に挟んで、純佳がそう声をかけてくる。
「駅の方」
「駅? どうして?」
「ちょっと約束があって」
「……柚子先輩?」
「……」
沈黙が答えになってしまった。
「少しな」
「柚子先輩って?」
怜が口を挟んだ。
「兄の彼女です」
「なんだ、いまいちとか言って、ちゃんとしてるんじゃないか」
「ちゃんとってなんだよ。べつに、本当に用事があっただけだ」
「ふうん」と、ちどりが息をついたのが少し意外で、三人が揃ってそちらを見た。
ちどりは面食らったような顔をして、「なんですか?」と言う。
「べつに」と、今度は俺がごまかす番だった。
◇
馬鹿騒ぎのあと、うちの家族がいよいよ帰るという段になった。
純佳は途中で眠ってしまったけれど、起こされればちゃんと起きて、帰り支度をはじめた。
少し怜と話してから帰る、というと、三人は俺を残して先に帰ってくれた。
ちどりの父親は眠くなったのか、さんざん楽しんで満足したのか、おぼつかない足取りでダイニングを出て行った。
自室に戻って眠るのだろう。
ちどりとちどりの母親が片付けを始めたのを見て、俺と怜はそろってそれを手伝った。
誰が散らかすわけでもないけれど、大勢でひとつのテーブルを囲むと、どうしても汚れてしまうものだ。
誰かがそれを片付けなきゃいけない。当然だ。
「ごめんなさい、ふたりとも、手伝ってもらって」
ちどりの母親は恐縮そうにしたけれど、むしろ恐縮がるのは俺の方だった。
「いや、人様の家を散らかして片付けもせずに帰ったうちの家族の方こそ、すみません」
「それはいいの。うちだって楽しいんだから」
「はあ」
そういうもんなのか。そういうもんなのかもしれない。
結局、俺ひとりで他人行儀になったって仕方のない問題だ。
片付けを終えると、ちどりが俺と怜に麦茶を出してくれた。
オードブルの食べすぎて胸焼けしていたけれど、よく冷えた飲み物をすんなりと俺の喉を通り過ぎていく。
俺たちはさっきまで賑やかだったテーブルを挟んで、ちどりが洗い物をする音を聞きながら話をはじめた。
「……隼、背が伸びたね」
麦茶のグラスに入れられた氷がからんと鳴った。
来る前の妙な緊張なんてはじめからなかったみたいに、俺は落ち着いて怜と向かい合っていられる。
こういう相手だからずっと一緒にいられたんだろう。
「怜だってそうだろう」
俺は肩をすくめた。こんな会話、よく知った同士でするのはどうも面映い。
「まあね。といっても、もう止まっちゃったみたいだけど。でも、隼が文芸部っていうのは意外だな」
「そうかな。……そうかもしれないな」
「うん。いや、どうだろう。意外なところが、隼らしいかもしれない」
「褒めてる?」
「ぼくは隼のこと、いつも褒めてるつもりだけど」
「怜に言われると、あんまりそういう気がしないんだよな」
「それはぼくに対して失礼だね」
テーブルに両肘をつけたままの姿勢で、怜は静かにコップを持ち上げて、ほんの少しだけ麦茶を口に含んだ。
その喉が鳴るのを眺めながら、俺は溜め息をついた。相変わらず、遠回しな喋り方をする奴だ。
「それで?」
と訊ねると、怜は首を傾げた。
「というと?」
「あのな。さっき自分で、知恵を貸してほしいって言ってただろ」
「ああ、その話」
すっかり忘れていた、というように、怜は肘を机から離して姿勢を正す。
「うん。ちょっぴり厄介な問題かもしれないんだ。説明が難しくてね、だから、うん。曖昧な話になるかもしれないけど……」
怜が言いにくそうに口を歪めるのを、俺は意外な気分で見ていた。
でも、考えてみれば、こいつが俺に相談ごとを持ち込むときは、だいたいこんな具合だったような気がする。
怜の場合は、問題の解決に他人の知恵を借りる、ということがほとんどない。
自分で判断し、自分で実行する。他人の手を借りるにしても、そのことを躊躇したりはしない。
だから、こいつが相談を持ちかけてくるときは、大抵、問題の解決の方法がわからないというよりは、何が問題なのかが自分で分からないときだ。
以前にもたしか、似たような相談をされたことがあった。
そのときは確か、誰かに告白されたけど、どうしたらいいかわからない、という話だった。
その告白をどう処理すればいいのか、ではない。
その告白がいったい何を意味していて、それがどうして自分の身に起きたのかがわからない、というような。
こいつは前提が不足しているときにばかり悩むのだ。
「ずいぶん持って回った言い方をするな」
そういうときにいつもしてきたような言い方で、俺は怜に続きを促す。
「単刀直入に頼む」
ああ、うん、と、怜は頷いて、それからちらりと流しで洗い物をしていたちどりの方を見た。
俺は立ち上がる。
「ちどり、悪いけど、少し散歩してくる」
「あ、もう帰りますか?」
「ああ、うん。どうしようかな」
「すぐ戻るよ」
そう答えたのは怜だった。
怜がそういうのなら、すぐ済むのだろう。俺は言葉を付け加えた。
「ついでにアイスでも買ってくるよ。何がいい?」
「あ、えっと、じゃあ、隼ちゃんに任せます」
「了解」
軽く頷いてから、俺と怜は玄関に向かった。
外に出ると、空には星が頼りない光で浮かんでいた。
昼間はうっとうしいくらいに主張していた熱気はもう掻き消えていて、今はひんやりとした冷気が火照った肌に心地いいくらいだ。
藍色の空を見上げながら、ぼんやりと物思いにふけりたくなるけれど、今は残念ながらそういうタイミングではなさそうだ。
「少し涼しすぎるね」
「昼間の雨で気温が低かったからな。油断してると風邪でも引きかねない」
「そうだね。でも、アイスを買ってこなきゃ」
「まあ、そうだな」
そのまま俺たちは目も合わせずに歩きはじめた。
コンビニまでは五分とかからない。住宅地を抜けて道路を渡ったらすぐだ。
いまさらもう、怜を促したりはしない。
今はきっと、自分の言葉を頭のなかでまとめているんだろう。
どう説明したらいいか、何から話せばいいのか。
俺の知っている怜はそういう人間だ。
半端な状態では、あまり言葉を吐かない。それがまるで恥ずかしいことみたいに。
交差点の横断歩道の前で信号待ちをする。
向かう先にコンビニ、少し離れてガソリンスタンド、通りの反対側には飲み屋と、少し先には焼肉屋がある。
でも、人通りなんてかすかで、行き交う車もほとんどない。並ぶ店のおかげで明るいけれど、それにしては静かなものだ。
道路越しにコンビニを見ると、軒先のあたりで何人かの若者がたむろしている。
知り合いはいないようだ。このあたりの人ではないのかもしれない。
「隼、少し突拍子もない話なんだけど、聞いてくれるかな」
やっとか、と思いながら、俺は返事をした。
「聞くには聞くよ。うまく期待に沿えるとは思えないけどな」
「うん。助かる」
ほんのすこしだけ、怜が安堵したように肩の力を抜いた。
いくらか緊張したらしい。まさかここまで来て、俺が話を聞かないと思っていたわけではないだろうが。
一度深呼吸してから、怜はまっすぐに歩行者信号を見つめながら口を開いた。
俺は横目で怜の方を見ていたけれど、目を合わせることをおそれるみたいにこっちを見てくれない。
「どこから話せばいいか、わからないんだ。でも、とにかくひとつひとつ話そうと思う。信じてもらえるか、わからないんだけど」
「前置きが長いな。おまえの話なら、俺は疑わないよ」
怜は照れくさそうに笑った。
「たぶん、隼は疑うよ。でも、それでいいんだ。ぼくだって本当は疑ってる」
こいつは未だに、自分のことを「ぼく」と呼ぶんだな、と、そんな場違いなことをいまさら考えながら、俺は続く言葉を待った。
不意に怜は顔をあげ、こちらを見た。
「ねえ、隼。……瀬尾青葉さんという人を、知ってる?」
俺は思わず反応できなかった。
どうして怜の口から、彼女の名前が出たのか、それがわからない。
でも、その説明は、いまからされるんだろう。
話をすすめるために、俺はひとまず疑問を飲み込んで頷いた。
「知ってる」
怜は何かをたしかめるみたいに頷いた。
「うん。そうだよね。そうじゃなかったら、筋が通らない。じゃあ、もうひとつ質問。その瀬尾青葉さんって、今はどうしてる?」
俺は少し考えてから、口を開いた。
「……そこまで言われると、さすがに質問の意図が気になるな。怜、どうして瀬尾を知ってる?」
そうだね、と静かに頷くと、怜は視線を前方に戻して、何かに気付いたように声をあげる。
思わず視線の先を追いかけると、歩行者信号の青が点滅している。どうやら気付かないうちに青に変わっていたらしい。
俺たちは顔を見合わせて、その場にとどまった。
「それで?」
「……うん。ちょっとした事情でね。瀬尾青葉さんの持ち物を、ある場所で拾った」
「持ち物?」
「うん。学生証なんだけどね」
「……そうか。どこでだ?」
「……」
「どうして嘘をつく?」
「嘘って?」
「学生証を拾ったなんてことは、ありえない。瀬尾は、荷物ひとつ持たずにいなくなった。鞄も財布も、靴さえも履き替えずに」
「……」
「身一つでいなくなった奴が、学生証なんて持ってるわけないんだ。……なあ、怜。どこで瀬尾のことを知った?」
俺は、静かに答えを待つ。怜の返事は、なかなか返ってこない。
「信号、青だ」
そう声を掛けてから、俺は怜の背中を押す。
コンビニの入り口を抜けるとき、軒先の若者たちがぼんやりとした視線を少しだけ俺たちに投げつけてきた。
べつにおかしなところなんてないはずだが、まあ、単に視線が何か対象を求めていただけだろう。
俺だって何気なく彼らを見ていた。
俺たちはいくらか余分にアイスを買った。
レジからの帰り際、俺は頭をさげ、怜は「ありがとうございました」とにこやかに言った。
店員も怜ににこやかに頭をさげた。こういうところだ。
ビニール袋を提げて、また信号待ちするハメになった。今度は軒先の彼らとは目が合わなかった。
怜は、少し思い悩むような素振りを見せたあとに、スキニージーンズのポケットに手を突っ込んで、
『それ』を取り出して、俺に差し出した。
「……」
受け取って、俺はめまいがした。
それは、瀬尾青葉の学生証だった。
学校名、氏名、クラス、学籍ナンバー、生年月日。全部、瀬尾のものだ。
……顔写真が、
顔写真の部分だけが、刃物かなにかで刻んだみたいに傷つけられていて、確認できない。
「拾ったんだ」
「どこでだ」と俺は繰り返した。
「……落ち着いて聞いてくれるかな。ここからは、たぶん、少し混乱すると思うから」
赤信号。赤信号が変わらない。
「……たぶん、隼は怒るだろうな」
「らしくない。……言えよ。怒ってやるから」
怜は笑った。諦めたみたいな笑い方だった。
「“むこう”で拾った」
「……」
「“森”だ」
「……」
一瞬、言葉を失っただけで、済むかと思った。
次に、俺は頭が真っ白になり、
葉擦れの森に風が吹き抜けた。
「――おまえ、行ったのか」
怜は返事をしなかった。
「あそこに行ったのか。怜」
「ごめん、隼。聞いてくれ」
「絶対に近付かないって約束しただろう」
「違う、隼」
「怜、おまえ、忘れたわけじゃないだろうな」
「分かってる。聞いてくれ」
「分かってるのか、怜、全部……」
全部おまえのせいなんだぞ、と、そう言いかけた自分にハッとして、
(――ちどりを助けて)
さすがに、続く言葉は吐かなかった。
「分かってる。ごめん、落ち着いて話そう」
……そういえば、雨はいつのまに止んだんだっけ?
そんなことを不意に思い出して、俺は冷静になれた。
「……どうして近付いたんだ?」
「違うんだ。隼、ぼくはあそこに近付いていない。第一、ぼくは別の街にいたんだ。分かってるだろう?」
「……」
「違ったんだ。隼なら、気付いていただろう? 入り口は、あそこだけじゃなかったんだ」
「……」
「入り口はある。どこにでもある。無数にある。どこにでもあるんだ」
そうだ。
俺だってわかっている。
暗闇はどこにでもある。
暗闇はいつもそこにある。
足元に、手のひらの中に、頭の中に、耳鳴りのように、影のように、いつだってある。
「……六年前のあの日から、ぼくはあの建物には近付いていない。
でも、ある日、何かの拍子で、本当に、何かの拍子でとしか言いようがない。あの場所にいた」
「……“神さまの庭”にか」
「隼は、そう呼んでるんだな」
「……」
「入り口はどこにでもあるんだ。隼に怒られる覚悟はしてた。でも、ぼくは、それを見つけてから、あそこに通ってた」
「よく、帰ってこれたな」
「うん。怖い思いはしたから気をつけてたんだ。本当に危ないところには、近付かないようにしてた。案内人もいたしね」
「どうして教えてくれなかった?」
「怒っただろう」
「当たり前だ。でも、おまえがあそこを調べたがることくらい俺にだって分かる。言っておいてくれたら、対策だって打てた」
「ぼくがいなくなってしまえば、隼には必ず連絡がいく。ちどりや隼が、ぼくの行く宛の筆頭だからね。
もしそうなれば、隼ならすぐにあっちを連想しただろう。ちどりは、わからないけど」
「……」
「信号、青だ。……アイスが溶けちゃうね。行かないと」
「……それで?」
「……うん。このあいだ、向こうで、それを拾ったんだ」
「あっちで、か」
「そう」
あっち。
あそこになら、そうだな。ありえる。
あるはずのない学生証が落ちていることも、それが刃物で傷つけられていることも、
あそこなら、すべてがありうる。
なにもない。でも、すべてがある。
あそこはそういう場所だった。
「戻ろう、隼。話の続きは、アイスでも食べながらゆっくりしよう」
釈然としない思いのまま、俺は怜の言う通りに歩き始める。
ちどりを心配させるのは、よくない。
今の俺には、そのくらいしかない。
◇
「夢じゃないかと思ってたんだ」と、帰り際、俺は怜に向けてそう言った。
「なにが?」
「あのときのこと」
「……」
「本当は、今でも疑ってる」
「……そうだったんだ」
含みのある微笑みを浮かべて、怜はそれ以上言葉を続けなかった。
何もかもが現実感がなくて、そのせいで俺は、覚えているべきなのか、忘れるべきなのかも分からなかった。
こうして久しぶりに怜と話したことで、それが事実だったんだと理解できる。
そうじゃなかったら、やっぱり夢だったんだと思っていただろう。
ちどりは、あのときのことを何も覚えていなかったから。
◇
六年前の五月だった。
当時は、俺も怜もちどりもランドセルを背負った小学生だった。
そして、その当時、怜は名探偵だった。
知識と頭の回転を武器に、快刀乱麻に日常の謎に光を当てる、陽の下の存在だった。
困っている人を捨て置けない正義感と、世界があたたかくやさしさに満ちているべきだという理想を持った善人だった。
そして、子供らしさのひとつのあらわれとして、自分の優秀さに対する自負心も持ち合わせていた。
もっともそれは、怜の魅力のひとつにすぎなかったように思う。
そのほんの少しの思い上がりは、他の面で大人びていた怜を子供っぽく見せて、むしろ親しみすら湧いたくらいだ。
第一、自負といっても、他人を見下すような態度をとっていたわけでもないのだから。
世知に長けているわけではなかったにせよ、怜の自負にはかわいげがあった。
それを帳消しにするくらいの愛想と愛嬌があった。
だから、怜はめったに人に嫌われなかった。
けれど人間というのは複雑な生き物だ。
嫌われないような人間だからこそ嫌われるということがある。
五月に起きたのはそういうことだ。
◇
「ねえ、隼。丘の上に公園があるだろう」
六年前の五月のある日の放課後、俺は怜にそう話しかけられた。
「あそこに、涸れた噴水があるって聞いたことある?」
「噴水?」
「なんでも、木立の奥に隠れてるんだって聞いたんだけど」
「いや……知らない」
ふむ、と怜はわざとらしく唸ってみせた。
「それがどうしたんだ」
「……シマノがね。そこで落とし物をしたっていうんだ」
「……落とし物?」
「そう。代わりに探してきてほしいって頼まれた」
「……シマノだろ。放っておけよ」
シマノというのは、当時、俺や怜につっかかってくることが多い男子だった。
特に、何かと注目を集めてみんなに人気だった怜のことは、嫌っていたみたいだった。
たぶん、僻んでいたんだろう。
「でも、頼まれた」
そういうときの融通の効かなさは、ある意味では美徳でもあったんだろう。
それでも俺は呆れた。
「なんでシマノは自分で取りにいかないんだ?」
「それがまた、変な話でね」
と、怜は言った。
そうだ。今にして思えば、警告はそのとき既になされていた。
変な噂があるらしいんだ、と怜は続けた。
ちょっとした怪談みたいなものがね。
まあ、漠然としてるんだけど……。
黄昏時の公園に、
人の気配が消えたあと、
涸れた噴水に水が湧き、
水面に木立の梢が浮かぶと、
水面の月が静かに揺らぎ、
ひときわ強い風が吹き抜け、
鏡を覗く誰かをさらう。
そんな漠然とした噂だった。
「……どうも、怖いらしくてね」
「……怖い? シマノが?」
そういう奴じゃない。仮に怖がったとしても、怜に対して、怖いなんて素直にいう奴じゃない。
俺にはもう、そのときちゃんとわかっていた。
シマノは、わざと怜をそこに近付けようとしていた。
からかうつもりで、怜を試すつもりで。
怜にだって、そのくらいのことはちゃんとわかっているはずだった。
「悪いんだけど、隼、付き合ってもらえないか?」
「……行くのか」
「うん、まあ、頼まれたから。でも、ほら……」
「……」
「ひとりだと、ちょっと怖くてね」
素直に言えるのも、怜のいいところといえばいいところではあった。
けれど、俺は一緒にはいかなかった。
俺が帰らなければ、純佳がひとりで家にいることになる。
まずいことが起きるわけではないが、それはなんとなく避けたいことだった。
「悪いけど、行けない」
「そっか。……なら仕方ない」
「落とし物って、なんなんだ?」
「……時計だって」
「時計?」
「うん。お父さんの時計なんだって」
「……そうか」
そのとき俺は、絶対に怜を止めるべきだった。そんなのはもちろん今だから言えることだ。
当時は、そんなくだらない、漠然とした噂なんて信じちゃいなかった。
怜だってシマノの思惑なんてわかった上だろうと思っていたから、それでもいいなら勝手にすればいいと思った。
せいぜい、「暗くなる前に帰れよ」と言うくらいが関の山だった。
怜はなまじ自負がある分、当たり前の危機に無頓着なところがあった。
そうわかっていたなら、やっぱり俺はついていくべきだったのかもしれない。
◇
ちどりの家に戻るまでに、そんなに時間がかかったわけではないはずだった。
袋の中のアイスは溶けていない。ただ、話の内容のせいで少し時間を長く感じただけだ。
「おかえりなさい」
「ごめん。遅くなったね」と怜は言う。
「ううん。ちょうど片付けも終わりましたから。何か飲みますか?」
「ん。……じゃあ、麦茶をもらえるかな」
「隼ちゃんは?」
「ああ、うん。もらうよ」
ちどりはくすっと笑った。
「どうした」
「いえ、べつに」
なんだか含みのある言い方だと思ったけれど、追及はしないでおく。
するとちどりは、勝手に言葉を続けた。
「なんだか、本当に、昔のままだなあって」
そんなことなんかで、こいつは本当に嬉しそうに笑うのだ。
でも、そのとき不意に、気付いたことがあった。
「……ちどり?」
「……はい?」
名前を呼ぶと、不思議そうに首をかしげる。
それで違和感は消えてしまった。
自分でも、その正体がうまくつかめない。
いま一瞬、ちどりがどこか遠くにいるように感じられた。
それが何か意味のある感覚なのか、それともさまざまな状況と情報が、俺を疲れさせているせいなのか、わからない。
……瀬尾青葉、鴻ノ巣ちどり。
怜にも、話さないといけないだろう、おそらく。
買ってきたアイスを三人で食べながら、少しの間、なんでもない話をする。
それぞれの学校や部活のこと、友人や教師や勉強のこと、家族のことなんかを。
それから俺たちは、解散した。
ちどりの前で例の話をすることには当然抵抗があった。
俺と怜は、あとで改めて連絡することにした。
馬鹿騒ぎのあとだというだけではなく、三人とも疲れているのはわかっていた。
ちどりは食事を準備したし、怜はひさびさにこっちにきた。俺は俺で、昼間から混乱し通しだ。
やけに長く感じる、そんな一日だった。
家に帰ってシャワーを浴びたあと、いつものようにベッドに横たえる。
体が眠りたがっているのはわかっていたし、今日は例の音は控えめだった。
いつのまにか、また雨が降り出していた。屋根を打つ雨音のせいで、やけに考え事がまとまらない。
俺は起き上がって机に向かい、卓上灯をつけて、置きっぱなしにしてある筆記用具を手にとった。
考えること、起きたこと、いろいろなことを書き留めていく。
・瀬尾青葉
と、まず最初に書く。
瀬尾がいなくなったのは五月の半ば頃、部誌が発行された直後だ。
最後に彼女の姿を見たのは、おそらく俺だ。荷物も持たずに彼女はいなくなった。
その十日ほど後、五月の末に、彼女からの手紙を大野が発見した。
こちらから返事を送ると、二枚目の手紙が返ってきた。
その次に手紙が来たのは数日後のことだった。今のところ、瀬尾からの手紙は三枚ということになる。
考えなければいけないことを、そのまま並べてみることにする。
(1)瀬尾青葉は今どこにいるのか?
(2)どんな手段で『伝奇集』にメモを挟んでいるのか?
(3)彼女は今、どんな状態なのか?
……ひとまず、こんなところだろう。今日瀬尾の家で聞いた話については、考えることはない。
少なくとも、瀬尾の居所のヒントにはならない。
まず、(1)瀬尾がどこにいるのか、という部分。
誰かの協力を得て、普通に過ごしている、と考えることもできなくはないが、難しい。
なにより、やはり、『伝奇集』にメモを挟まなければいけない理由がわからなくなってしまう。
いろいろな情報を統合して考えると、可能性として検討の余地があるものはふたつ。
まず、瀬尾が──こう考えるのは俺にはひどく苦しいことだが──"神さまの庭"にいる、とすること。
根拠は、怜が持っていた学生証だけだ。
けれど、そのひとつが決定的だという気もする。
瀬尾は鞄ひとつ持たずにいなくなった。学生証は瀬尾の手荷物として部室に残されたままになっていたはずだ。
もしそうでなかったとしても、怜が"あっち"でそれを拾ったというなら、瀬尾が"あっち"にいるというのは突飛な想像とは言えない。
もうひとつは、瀬尾が学生証を鞄とは別に持ち歩いていた場合。
もしそうだとすると、怜が学生証を持っていてもおかしくはない。
怜が瀬尾をかくまっている、と考えることができるからだ。
けれど、実際的にそれはありえないことだろう。
怜と瀬尾は知り合いではないはずだし、やはり『伝奇集』の問題も残る。
付け加えて、怜が瀬尾をかくまっているのなら、俺に瀬尾青葉の学生証を拾ったとわざわざ報告する理由もない。
そうだとすると、やはり、瀬尾青葉は、"神さまの庭"にいる。あるいは、いた。
それ以外の可能性は、ありえなくはないが、"学生証"があちらに存在することに矛盾する。
あるいは……"あっち"では、そういうこともありえるのかもしれないが、いずれにせよ、
瀬尾青葉が、現状何かの形で"あっち"に関わっている可能性は否定できない。
それは、瀬尾の手紙からも、なんとなく想像ができる。
湖畔というのは……"あっち"の湖畔のことなのかもしれない。
次に、(2)『伝奇集』のメモのこと。
もし、瀬尾が"あっち"にいるのだとしたら、これはあながち謎であるとも言えないのかもしれない。
あんなおかしな場所があるのなら、その程度の不思議はありえないことでもない。
ましてや俺は、そうした不思議をいくつか目の当たりにしている。
さくら。彼女についても、考えたいところだ。
最後に、(3)瀬尾青葉がどんな状態にあるのか、だ。
ちせが懸念するまでもなく、状況がよくないのは確かだろう。
あの場所について、俺は詳しく知っているわけではない、けれど……。
あそこに長く居たら、きっと、戻れなくなる。それは、なんとなく分かる。
そこまで考えてから、俺は(4)を書き足した。
(4)瀬尾青葉を連れ戻すためにはどうすればよいのか?
怜は言っていた。
「入り口はどこにでもある」。俺もそう思っている。
けれど、あの中は迷路だ。
入り口は無数にあるが、その先の空間は必ずしも繋がっていない。
……とはいえ、ものは試しだ。やってみる価値はあるかもしれない。
俺は(4)の横にメモを書き足した。
「← 実際に行ってみる」
書いてから、重く鈍い痛みが頭の中にのしかかってくるのが分かる。
……あとで考えよう。
こうして書き出してみて、俺がいくつものことをごちゃごちゃとないまぜにして考えていたことがわかった。
自分のことや、さくらのこと、カレハのこと、真中のこと、……ちどりのこと、怜のこと。
六年前の五月のこと。
それは、たしかに、問題だし、今、やけに話に上がってきている。
けれど、それらは、瀬尾には直接関係はない。
今は、それについて、すぐさま考える必要はない。
肝心なのは瀬尾のことだ。
他のことは、とりあえずは、考えないほうがいい。
そのはずだ。
やれることを、考えてみよう。
ひとつは、さっきも書いたとおり、直接、あちらに向かうこと。
怜の手を借りる必要はあるかもしれない。
けれど、こうなってしまうと、真中やちせを巻き込む気にはなれない。
協力すると言った手前ちせには申し訳ないが、彼女には伝えないでおこう。
他にあるとしたら……。
「……」
見落としていた。
『伝奇集』を使ったやりとりは、まだ行える。
そこで直接、瀬尾の居場所を本人に聞くことはできるはずだ。
……それが、まだ繋がっていれば、だけれど。
困ったことに今日は土曜で明日は日曜。学校の図書室は閉まっている。
早くても、試せるのは来週だ。
となると、明日すべきことは……。
まあ、いい。
やれることを、いくつか検討してみよう。
怜の協力を仰ぐかどうかは、またあとで考えよう。
そこまで考えると、体が一層重くなった。
特別なにかしたわけではないにせよ、今日はひどく……ひどく、疲れた。
瀬尾を連れ戻すなら、行動をするしかない。
けれど、と考えてしまう。
みんな、瀬尾がいなくなったことで、心配している。
心配させるのは、本意ではないだろう。
でも……瀬尾は、それさえも気にかけることができないくらい、追い詰められていたんじゃないか。
そうだとしたら、瀬尾を連れ戻すことは、瀬尾にとっていいことなんだろうか?
彼女が抱えているものがなんなのか、俺は、かけらさえ知ってはいない。
それはもしかしたら、六年前の五月、あのときのことと、関係があるのだろうか?
考えても、たしかめようはない。けれど、考えてしまう。
無関係、なのかもしれない。でも、何もかもが符号する。
「こんなことってあるんだろうか?」と何度も思った。
瀬尾の顔を見るたびに、不思議な気分にさせられた。
彼女の顔は、姿は、鴻ノ巣ちどりに瓜二つなのだ。
でも、それがいったい、どういうことなのか、俺には、わからない。
どうしても眠る気になれずに、こっそりと家を抜け出した。
六月の夜の風は湿気を多く含んでひそやかに重く肌に張り付く。濡れたアスファルトに街灯の光が滲むのを見て、なんとなく息をついた。
もう少しすればもっと寝苦しい夜が来ることだろう。今はまだ、涼しいくらいだった。
妙に、目が冴えてしまっている。馬鹿騒ぎのあとだからかもしれない。
どうせ気分だって落ち着かないままなのだ。そのまま散歩をすることにした。
俺たちの暮らす住宅地は大きな丘の傾斜に沿った並びになっている。
怜があのとき向かった公園は、この丘のちょうど中腹あたり、住宅が途切れる場所に今もまだある。
夕方にはこのあたりの子供のたまり場になって、けっこう賑わっているが、この時間はどうなのだろう。
携帯を取り出して時間を確認する。自宅の灯りが消えているとだいぶ遅いように錯覚するが、まだ普段なら起きている時間だった。
歩こうと思った。去年の暮れから履き続けているスニーカーの靴紐が、もうだいぶ汚れたままになっているのに不意に気付く。
いつもそうだ。
街灯の灯りはゆらゆらと頼りなく揺れていた。
ひそかに息を吐いて、幽鬼にでもなったような気分で静まり返った家々の間を歩いていく。
と不意に、うしろから誰かが俺の服の裾を掴んだ。
びっくりして振り返ると、そこに純佳が立っている。
「……どこに行く気ですか」
少し、むっとしたような、けれど寝ぼけたような顔で、純佳は俺をじっと見た。
「どこって、散歩だよ。寝てたんじゃなかったのか」
「玄関の、ドアが開く音がしたので」
そんな過敏なタチだったか、と思ったけれど、口には出さない。
「どこまで行く気ですか」
「だから、散歩。ちょっと公園まで」
俺はひとつ息をついて、純佳の表情を見た。
居心地悪そうに目をそらして、けれど俺の服を掴んだまま離そうとしない。
「一緒にいくか?」
「はい」
「即答。寒くない?」
「へいきです」と純佳は言う。平気ならいいのだ。
どこにいく、とも聞かないまま、俺が歩き出すと、純佳は黙ってついてきた。
夜空を厚い雲が覆っていて、月明りも星明りも望めそうにない。
「……兄、今日はいつにもまして様子が変です」
「いつもどおりだと思うけど」
「そりゃ、いつも変ですけど、今日はことさら」
「……なんにもないんだけどな」
「そんなことないです」と純佳は言った。
「なんにもないこと、ないです」
どうしてなんだろう。
わからないけど、別に不快ではない。
「部活、ちゃんと行ってるの?」
「……はい。いちおう」
「そっか」
それ以上どう続けていいか分からなくて、すぐに黙ってしまう。
「もうすぐ、引退ですから」と純佳は言う。
そうか、もうそんな時期なのか、と、他人事のように思う。
「サボりすぎて、試合に出させてもらえるかは怪しいですが」
「まずいね、それは」
「それもひとつの結末です」と純佳は悪びれずに言った。
本当はどう考えているのか、俺にはわからない。そう簡単な話でも、きっとないだろう。
俺たちは風に吹かれながら坂道を昇る。民家の灯りはついていたり消えていたり、さまざまだった。
時折どこかの二階から騒がしい笑い声が聞こえて、それがかえって住宅街の物寂しさを浮き立たせる。
雨が降ったらどうすればいいだろう、と俺は思う。
純佳を、連れて行っていいのだろうか。
「兄、何か考えていますね」
「またそれか」
「今は本当にそう感じました」
裾を掴む手が、ほんの少し引き寄せられる。
「どうした?」
「……兄、どこにいくんですか」
と、いまさら純佳は訊いてきた。
「公園だよ」
「公園?」
「確かめたいことがある」
純佳は、黙ってついてくる。俺たちはそのまま坂道をのぼり、目的地までたどり着いた。
開けた空間に、ブランコ、滑り台。奥の方は展望デッキ……というと大げさだが、小高い位置からあたりの街を見渡せるように、四阿と柵がある。
敷地は広く整備されていて、木々の合間を縫うように小路が続き、囲うようにベンチが並んでいる。周辺には木立がある。
木立の向こうは鬱蒼として暗く、ここからでは覗けない。
「……」
俺は、どうしようか迷ったあと、結局、木立の方へと進んでいく。
純佳は物問いたげに立ち止まろうとしたが、俺が止まらないのを見てついてきた。
どう言ったものかな、と思ったけれど、結局そのまま口に出した。
「純佳がいれば安心だよ」
「……また、そんなことを言う」
純佳は文句ひとつ言わない。もっと怖いものがあるというみたいに。
「木立の奥には……」
そうだ。木立の奥には、涸れた噴水。
どのあたりだったろう、と考えながら進んでいく。
空間がねじれたみたいに、木立の奥は広く感じる。実際はさほどでもないのかもしれないが、わからない。
草花の露が服の裾を濡らす。
そこで待っていろ、と、純佳に言ったところできかないだろうとわかった。
やがて、少しだけ開けた空間があり、そこには確かに涸れた噴水がある。
雨水が溜まったのだろうか。汚れた水に、枯れ葉が浮かんでいる。
途端、耳もとに音が鳴り響く。いつもの音だ。
「……」
耳鳴りみたいに、意識が一瞬で持っていかれそうになる。
それを抑え込んで、噴水へと近付いていく。
夜の闇は暗く、周囲のものは縁取りくらいしかつかめない。
俺はポケットから携帯を取り出してライトをつけた。
他にはなにもない。
ここが、まずひとつ。
この奥に……小屋がある。
小屋には鏡がある。
怜は、そこ。
俺は、ここだ。
「兄、何を探してるんですか」
「……なにかを探してるって、どうして思うの」
「なんとなくです。ただの散歩にしては、変だから」
まあ、それはそうか、と納得した。
「少し、手がかりみたいなものを」
「手がかり?」
「友達と、ミステリーゲームみたいなのをしててな」
適当な嘘をついて、もう一度あたりを見回す。
「いなくなったやつを、探さなきゃいけないんだ。……そういう遊びだよ」
心当たりがここしかないから、ここに来るしかなかった。
とはいえ、やはり、何もなさそうだ。
もしかしたら、瀬尾の持ち物がこの辺にあるかもしれない、と思ったのだが。
「……どうして」と純佳は言う。
「どうして、兄が探さないといけないんですか」
その問いかけに、俺は意表を突かれたような気持ちになった。
「あのときだってそうだった。どうして、兄が探さないといけなかったんですか」
「……あのときって」
「怜ちゃんとちどりちゃんがいなくなったときのことです」
「……」
「どうして、兄が探さなきゃいけなかったんですか。兄が何かしたわけじゃないのに」
怜とちどりが、いなくなったとき。
あの、五月のこと。
「純佳」
「他の誰かが探してもよかったのに。他の誰かに任せてもよかったのに。なんで兄が探さなきゃいけなかったんですか」
「……結果見つかったんだから、よかったじゃないか」
そうじゃない、というみたいに、純佳はもどかしそうに首を横に振った。
それでも、言いたいことが言葉にならないのか、口は引き結んだままだ。
それは、そうかもしれない。『結果見つかった』、なんて、都合の良い言い方にもほどがある。
問いただして来ないのは、恐れているからかもしれない。
そのとき、俺は噴水の底に、何かが浮かんでいるのを見た。
……葉、ではない。紙切れ。
「……」
何かの紙片。汚れた水面に浮かんでいる。それは……。
メモ用紙。何かが書かれていた様子がある。けれど、滲んでいて、読めない。
もしかしたら、明るいところでなら、もう少しちゃんと見ることができるかもしれない。
破れないように、俺はそれをそっとポケットに入れる。
「兄は馬鹿です」
と純佳は言った。
「……なんだよ、急に」
そう訊ねてみても、純佳はそれ以上何も言ってこなかった。
結局、俺たちはそこで帰ることにした。それがちょうどよかったはずだ。
◇
家に帰ってからもう一度シャワーを浴び、今度こそ灯りを消してベッドに入った。
目が冴えているのは変わらないし、音はさっきよりも大きくなっている。
やっぱり、今日は止めておくべきだったかもしれない。
さっき拾った紙は、とりあえず机の上に置いておいた。
灯りの下で見てみてもよくわからなかったが、ところどころ読めそうな部分もあったので、明日検めてみることにする。
そう考えて、純佳のさっきの問いについてもう一度考えてみる。
どうして、俺が、探さなきゃいけないのか?
……責任を感じているから?
わからない。
瀬尾が何を望んでいるのかはわからない。
でも、俺は、瀬尾に訊きたいことがあるような気がしている。
それがなんなのかは、まだわからない。
わからなくなって、目を閉じたとき、ノックの音がした。
すぐに部屋のドアが開かれる。
「……兄、いますか」
「いるよ」
返事をすると、純佳は身体を扉の内側に滑り込ませて、ドアを閉めた。
それからおもむろにベッドに近付いてきて、静かに布団の端を持ち上げ、潜り込んでくる。
「どうした」
「文句がありますか」
すぐそばから声が聴こえる。
ないよ、とも、あるよ、とも言えない。
純佳がこんなふうになった理由が、俺には少しだけ分かるような気がする。
──あのとき、お兄ちゃんはどこにいたの?
──兄は、どこにも、いなくならないですよね?
──兄は……わたしを置いていきませんよね?
何も言わずに、俺は純佳の耳もとに手を伸ばし、彼女の髪を指先で撫でた。
彼女はその指先の存在を不安がるみたいに、そっと首を動かして自分から耳を近づけてくる。
そうして瞼をやさしく閉じてからも、口元が不安そうに、何か言いたげに震えて見えた。
「いくつになっても子供のままだな」
「……いけませんか」
「違うよ」
と俺が言うと、彼女は目を開いて言葉の意味を訊ねるみたいに怪訝げな顔をつくる。
俺がごまかすように首を振ると、純佳は小さく身じろぎをした。
髪がシーツに擦れる音がする。
子供なのは俺の方だ。
葉擦れの森に風が鳴る。
ここは俺のための場所ではない。
そう思った。
その日はそのまま、純佳と一緒に眠った。
不思議と、あの音は気にならなかった。ざわめいてばかりの日、ひどい一日だと思ってたのに、単純なものだ。
そのおかげといっていいのか、久しぶりにぐっすりと眠ることが出来て、朝起きるのだって純佳よりも早いくらいだった。
カーテンをほんの少しだけ開けると、空はようやく黒からかすかな藍色に近付いているところだった。
小鳥の声もまだ聞こえない。
なにか、不思議な気持ちだった。
ベッドから上半身を引き抜くようにして身体を起こしたあと、隣で眠る純佳の寝顔を見た。
子供みたいな寝顔だと思う。
俺は、布団からこぼれるようにほんのすこしだけ姿を見せている彼女の指先に触れる。
それから、静かにそれを、自分の指先で持ち上げてみる。
あたたかな指先だった。
どうしてなんだろう。
やっぱり、よくわからなくなってしまった。
純佳の手のひらを持ち上げて、両手でそれをすくいあげるようにしてみた。
ほっそりとした親指の付け根の、丘のように膨らんだ部分を、自分の指先でなぞってみる。
どうしてそんなことをしようと思ったのか、わからない。
──せんぱいにとって、青葉先輩って、なに?
瀬尾青葉は、俺にとって、なんなのか。
友達なのか、それ以外のなにかなのか。
わからない。
──どうして、兄が探さないといけないんですか。
彼女がいなくなったのは、俺が原因だという気がするから。
彼女が、本当は、いなくなることを望んでいないような気がするから。
──隼さん。わたし、青葉さんのこと、探そうと思うんです。あの人を放っておいたら、よくないことになりそうな気がする。
よくないことに、なるかもしれない。
暗闇は、どこにでもある。でも、そこにさらわれるのは、きっと、瀬尾だけとは限らない。
──だから、わたしはちゃんと、知ってますよ。隼ちゃんが、本当に、本当に優しい人だってこと。
優しいから、探すわけじゃない。でも、じゃあ、どうして俺は、瀬尾を探すんだろう?
こんなことを考えるのは、人間としての欠格事由かもしれない。
友人がいなくなったんだ。心配くらいして、当たり前かもしれない。
──何もかもが簡単に変わってしまうくらいなら、鉱物にでもなっていられたらいいなとわたしは思う。
でも、わからない。
──それって悲しいことのようで、実はとても気楽なことなんじゃないかって思うんです。
どうして俺は、瀬尾を探すんだろう。
──何か、ずっと抱えていたものがあったから、この家にも帰ってこないのだと思う。
瀬尾青葉について、俺がいったい何を知っているだろう?
──前から思ってたんだけど、わたしは、『他の誰か』じゃないよ。
俺は、
──重ねるのはやめてね。
瀬尾青葉の何を見ていたんだろう?
彼女に、誰かを重ねていたから、俺は彼女を放っておけないと思っているだけなのか?
──わたし、やっぱり偽物なんだ。
彼女は言葉を吐き出して、
──やっぱり、いらないんだ。
そのとき俺は、どうして何も言えなかったんだ?
そもそも、俺は本当に、瀬尾のことを心配しているのか?
──あなたはそこで見つけなければいけない。彼女を探し出さなければいけない。
本当のところ、実は俺は、瀬尾青葉を見つけ出すことに、何か期待をしているだけなんじゃないか。
彼女を見つけ出すことで、俺自身のこの空虚を根こそぎ帳消しにできるんじゃないか、というようなことを。
そんなふうに考え始めると、何がなんだかわからなくなってしまう。
窓の外の藍色の空を眺めていると、そんな視界が無性に滲んで、俺は思わず泣き出してしまった。
ぽろぽろと涙がこぼれるのを止められない。
俺は女々しくめそめそ泣いた。
泣きながら純佳の親指の付け根のあたりをふにふにと触っていた。
向こうで風が吹いているのが分かる。耳鳴りみたいに消えてくれない。
「……兄」
気づけば、純佳のまぶたが開かれていた。眠たげな瞳のまま、こちらを見ている。
「泣いてるんですか」
俺は首を横に振った。でも泣いていた。もう隠す気にもなれない。
純佳は静かに俺の手を握って、引き寄せるように俺の身体を倒させた。
それから、俺の頬をつねる。
「よしよし」
言っていることとやっていることが違うな、とか、そんなことくらいしか考えられなかった。
どうして自分が泣いているのかもわからない。
また音が響いている。
それがおそろしいのだ。
いつもいつもいつもいつも、ずっと鳴り止まない。静けさが戻っても、またすぐに連れ戻される。
意識の半分はいつもあの暗い森の中にある。
俺が知らないだけで、みんなそうなのだろうか?
それとも、俺だけがこうなのだろうか?
ずっと鳴り止まないのだ。ずっと自分が半分どこかに置き去りにされたままなのだ。
真中のこと、瀬尾のこと、怜のこと、ちどりのこと、俺には全部全部わからない。
本当はいつだって全部投げ出してしまいたい。
怜と会って、あの場所のことを話したせいなのか。
あの暗い森が、やっぱりたしかにそこにあるのだと、今も耳の奥にあるのだと、そう実感させられる。
それがひどく悲しい。
「泣かないで」
涙が止まらない。……葉擦れの音が、止まない。
ずっと夢だと思っていた。
嘘だ。
ずっと夢だと思おうとしてきた。
あんなのは全部悪い夢で、本当に起きたことじゃないんだと、そう思い込もうとしてきた。
それなのにあれは夢じゃなかった。なにひとつ終わってなんかいなかった。
「兄」
俺は黙ったまま、ようやくまぶたを擦った。
純佳は何も言わずに、俺の手のひらを掴んで、頬を擦り寄せてくる。
そのすべてが、なんだか俺をこの場につなぎとめてくれるような気がする。
それなのに、そんなすべてが、無性におそろしくもある。
なにかを騙しているようで、ふとした拍子に、表情を変えてしまいそうで。
純佳は、俺の手の甲をやさしく撫でた。
俺は反対の手を伸ばして、彼女の頬のあたりに触れる。
「泣いてない」
と俺は言った。
純佳は困った子供を見るみたいに微笑した。
「はい。兄は、泣いてません」
◇
そのまましばらく、なんにも話さずに似たようなことを続けていた。
日が昇り空がようやく白み始めた頃に、俺はベッドから抜け出した。
机の上に、昨日置いた、メモがある。
下手に触るよりもと思ってそのままにしていたが、やはり、湿っていて、滲んでいる。
ゴミを拾ってきたようなものだ。何の収穫にもならないかもしれないことなんてわかりきっている。
メモ用紙には字が書かれている。大半は読めないが、ところどころ、どうにか解読できそうな部分もあった。
もちろん、こんなものは、俺達には何の関係もないものなのかもしれないが……。
ありえないことなんて、ない。
俺があの噴水に行ったときに、俺たちに関係があるものが浮かんでいる可能性。
そんな可能性を否定できないくらい、事態は既に混乱している。
「……」
ふと、文字列だったもののなかに、くっきりと読み取れる部分があるのを見つけた。
まるでそれだけを伝えようとするみたいに、それ以外の部分がおまけか何かみたいに、そこだけがいやに綺麗に字の形をなしている。
そこには、
「わたしはだれ」
と書かれている。
……これは、瀬尾が書いたメモなのか、そうじゃないのか、それはやっぱりわからない。
わからないことの材料が増えていくだけで、事態はちっとも進展しない。
もどかしさばかりが募っていく。
「兄」
見ると、純佳がまだ、布団のなかに身体を横たえたまま、こちらを見ていた。
薄手のカーテンに透けた陽の光を浴びて、彼女の表情はやけに大人びて見える。
「昨日はああ言いましたけど……兄が、したいようにすると良いと思います」
「昨日……?」
どうして俺が瀬尾を探さなければいけないのか、という話だろうか。
「それをこらえても、苦しいだけですから。やりたいようにやって、それで文句を言われたら、そのあとにあらためればいいんです」
「……」
「兄ははじめから考えすぎなんです」
「肝に銘じとくよ」
日が昇ったからだろうか、純佳がいたからだろうか。気分はだいぶマシだった。
◇
それでもまだ、どことなく身体が重いような気がしている。
日曜の朝だったけれど、俺以外のうちの家族はみんな寝て午前中を過ごすつもりらしかった。
純佳は寝足りない様子で俺のベッドを抜け出す気配を見せなかったし、両親も部屋から降りてこなかった。
俺はひとりで朝食をとり、頭の痛みを感じて薬も飲んだ。たまの日曜に頭が痛くて何もできないというのも嫌なものだ。
何はともあれ、瀬尾のことを今すぐにどうこうすることはできない。そうでない以上は俺たちは平然と生活を続けなければいけない。
これは最初からわかっていたことだ。
最近はずっと、そんなふうに過ごしていたんだから。
午後はバイトがあった。いつもどおりに店に行くと、今日は人手が足りないとかで、いつもは夕方しかいない先輩が入っている。
「調子はどうだい」と彼は言う。
「普通ですよ」と俺は嘘のような本当のようなことを言った。
大半の状態は「普通」の振れ幅の範疇に過ぎない。
日曜の午後というのは基本的に暇な時間帯だ。
ピークタイムである昼を過ぎてしまえば、あとは夕方までほとんどやることもない。
少ない人数でも回せるからという理由で人手は少なく、ふいに忙しくなったときは大変だけれど、めったにそんなことも起こらない。
俺と先輩は、別に仲が悪いわけでもないけれど、お互い話す方でもないから、品出しや補充の作業を終えてしまっても、世間話に興じる気にもなれない。
先輩が発注を始めたので、俺はレジを見つつ床の掃除でもすることにした。
ときどき来る客と言えば、二十代くらいの男性客の立ち読みや、出かけた帰りか、飲み物を買っていく家族連れや、そんなところだ。
あとは、近所の家に集まっているらしい、同年代くらいの集団。
俺はレジを打ちながら、発注端末を首から下げながら棚の様子を眺める先輩の顔を盗み見た。
彼はいつだったか言っていた。俺の目に彼が変に見えるんだとしたら、俺の目が変なんだ、と。
ちどりは俺のことを優しいと言った。
でも違う。ちどりの目に俺が優しい見えるのは、彼女自身が優しい人間だからだ。
目に映るすべてはこころの風物に過ぎない。
さくらは世界が愛に満ちていると言った。
彼女はきっと世界を愛しているんだろう。
俺には世界が空虚に見える。
空虚が充溢しているように見える。
何もかもが、実感を伴わない。
生活はいつも、どこか、他人事めいている。
映画のなかの出来事みたいに。
バイトを終えて携帯を確認すると、怜からメッセージが来ていた。
「昨日の話の続きがしたい」とあった。
その話を聞くのは、とても大事なことだろう。
俺と怜はどこに行くか迷ったけれど、落ち着いて話せる場所というのがいくつも思いつかなかった。
それで、結果的に「トレーン」以外にふさわしい場所がないというのがおかしい。
ちどりは今日はいないようで、ちどりの父親が俺を迎えてくれた。
昨日もそうだったけれど、ちどりの両親はうちの親たちとは違って落ち着いた雰囲気なのが羨ましい。
そうは言っても、べつに両親に文句があるわけでもないのだけれど。
先に店に着いたのは俺で、少し待たされたあとに怜もやってきた。
「やあ」と怜は言った。黒っぽいスキニージーンズ、薄い水色のシャツ、いつもみたいに爽やかだった。
「待った?」
「少しだけ」
「うん。ごめんね」
いいよ、と俺は言った。
俺はブレンドコーヒーを、怜はカフェモカを頼んだ。
話を途中で分断されるのもよくないだろうと、注文したものが届くまで、俺達は世間話をすることにした。
「日曜だけど、彼女さんと会ったりはしなかったの?」
「今日はバイトだったよ。……それに、昨日会ったって言っただろう」
「ああ、そう言ってたね。たしかに、あんまりベタベタするのも隼らしくはない」
……そうだろうか。わからない。
怜は記憶のなかの俺と今の俺が符号するのがおもしろいみたいにクスクス笑う。
「怜はそっちで、そういうのいないのか……ああ、昨日もしたか、この話」
「うん。したよ。ぼくは全然、そういうの縁がないんだ」
こいつのことだから嘘だろうなと俺は思った。どうせそういう気分になれないだけだろう。
どうもうまく話せない。違和感があるとかそういうわけでもない。なんとなく、気まずさみたいなものがある。
カップがふたつテーブルに置かれて、マスターは別のお客の相手を始めた。
俺たちはようやく本題に入ることができる。
それでも少し声のトーンを落としながら。
「それで、昨日の話の続きをしよう」
怜は頷いた。
「俺はたぶん、いくつか話せることがある。その前に、おまえの話を訊きたい」
「うん。うまく話せるか、自信ないんだけど」
「謙遜は似合わない」と俺は言う。
「知ってるみたいに言うなあ。……けっこうひさしぶりなのにさ」
「まあ、そう言われればそうだけどな。そんな話がしたいわけじゃない。分かるだろ?」
「うん。そうだね。話をしよう」
怜は抱えていたリュックサックからノートとペンを取り出した。
そう、こういう奴だ。
「どこから話せばいいだろう、と思う。でも、やっぱり順番に話すべきなんじゃないかと思う」
「ああ」
「隼は平気?」
「なにが」
「あのときのこと、落ち着いて話せるかな」
「……」
「ぼくらはあのときのことを、真剣に検討したことってなかっただろう?」
「そうだな」
俺は頷いた。
たぶん、それは仕方ないことだったんだろう。俺も怜も、あのとき自分たちの身に起きたことをうまく消化できないでいた。
「……そこから話を始めるべきだろうな。おまえの身に起きたことと、俺の身に起きたことを、それぞれに」
「うん」
いくらかほっとしたみたいに、怜は微笑んだ。俺がまた怒ると思ったのかもしれない。
昨夜はいくらか、俺も感情的になりすぎた。おまえのせいなんだぞ、と言いかけるくらいに。
でも、落ち着いて考えてみれば……いったい、何が怜のせいだったんだろう?
俺のそんな戸惑いを無視するみたいに、怜は話を始める。
「始まりはシマノだった」
そう、俺の認識も同じだ。
「六年前の五月の始まり頃、ぼくはシマノから頼まれごとをした。シマノのことは覚えてる?」
「覚えてる。おまえを目の敵にしてた」
「正確にいうと、隼をだよ」
「……俺? なんで」
「彼はちどりのことが好きだったんだよ」
「それは初耳だ。俺はあいつに何かされた記憶はないけど」
「それは隼が気にしなかっただけだよ」と怜はなんでもないことのようにいった。
「それに、ぼくもいた。直接隼になにかをするなんて、シマノには怖かっただろうね」
たいした自己評価だと思うが、じっさい、そうだろう。
怜と仲の良い俺にどんな嫌がらせをしようとしたところで、きっと怜に看破されていただろう。
「シマノは、丘の上の公園で父親の時計をなくした。それで、ぼくに探してくるように頼んだ。
自分で取りに行くのが怖いから、と言っていたけれど、実際には違うだろうね」
「ああ。おまえを怖がらせたかったんだろうな」
「うん。……だからこそ、ぼくは引き受けたんだけど」
怜は、実のところ、怪談やおばけや幽霊の類が昔から苦手だった。
合理主義者に見える怜は、その合理主義ゆえに、霊的現象の存在を否定しきれなかった。
それは「起こりうるかもしれない」という畏怖を当時から抱いていたような気がする。
そう考えれば、怜は当時からずいぶん成熟した考え方をしていたわけだ。
あるいは単にそれは俺の錯覚で、当たり前に、子供らしく、怖かっただけなのかもしれないが。
怜は昔から独特のプライドのある奴だった。
シンプルに言うと、格好つけで、見栄っ張りだった。自分が怖がってるなんて悟られるのはいやなやつだった。
とはいえ、そんなのは普段から一緒に生活している人間なら、なんとなく気付いているような話だ。
シマノだって、まがりなりにも怜と同じ校舎で何年も一緒に過ごしたのだ。
怜のそういう性格だって、お見通しの上だっただろうし、怜はそれを見越したうえで、引き受けたのだ。
両方共、実は肝試しのつもりだったのだ。
「でも、さすがにひとりで行くのは怖かった。だから隼に声をかけた。覚えてる?」
「うん。俺は断った」
「純佳がいたからね」
「そう。純佳がいたから」
とはいえ、俺はいつだってそんなふうに付き合いが悪かったわけではない。
純佳だってひとりで家には帰れるし、留守番だってできたはずだ。
考えてみるとどうしてだろう、と思ったところで、怜が言った。
「純佳はあの時期、ちょっと過敏なところがあったからね」
「……ああ、そうだ」
そうだったかもしれない。
原因ははっきりしている。
あの地震だ。
あのときから、純佳は少し、いわゆる「赤ちゃん返り」のような状況になった。
もちろん、このあたりでは電気やガスや水道が止まったくらいで、人的被害なんて言えるものはほとんどなかった。
それでも、あの非日常と言ってもいい状況は、大人の心さえも不安定にさせていた。
それからまだ、ほんの一、二ヶ月後のことだったのだ。
そう考えれば合点がいく。
「それでもぼくは、ひとりで行くのが怖かった」
「ああ」
「それで、ちどりに声をかけたんだ。ちどりは、二つ返事で頷いてくれたよ」
「そうだろうな」
ちどりならきっと、シマノの悪意になんてまったく気付かなかっただろう。
昔から、そういうやつだった。あるいは、シマノのこととは無関係に、怜が困っていたら、ついていっただろう。
「それで、ふたりで行ったわけだ」
「そう。丘の上の公園。涸れた噴水」
「……例の都市伝説だな」
「そう。覚えてる?」
覚えている。不思議なものだ。
「昨日も思い出してたんだ」
黄昏時の公園に、
人の気配が消えたあと、
涸れた噴水に水が湧き、
水面に木立の梢が浮かぶと、
水面の月が静かに揺らぎ、
ひときわ強い風が吹き抜け、
鏡を覗く誰かをさらう。
「その噴水のそばに落としたって話だった。ぼくらはそこに向かったんだ」
「……そうだな」
「そしてぼくらは、"さらわれた"」
怜はそう言った。まっすぐに俺の方を見ている。俺だっていまさら疑ったりしない。
「気付いたときに、ぼくとちどりは、"神さまの庭"にいた」
もちろん、そういう話になる。
「でも、ぼくらはあの噴水からさらわれたわけじゃない。あの木立の奥に、小さな小屋があった。
たぶん、物置小屋かなにかだったんだと思う。スコップとか、そういうものを置いておくような。そこに、鏡があった」
「鏡」
「そう、鏡。あの廃屋に、鏡があったんだ」
「訊いてもいいか?」
「ん」
「どうしてその小屋に入ろうと思った?」
「時計が見当たらなくて、探しているうちに、その小屋を見つけたんだ。入ったのは、好奇心だったかな」
好奇心。
「なるほどな」
「鏡を見つけた。そして、それが光った」
「……」
「眩しくて、目を瞑った。そうして気付いたら、あっちにいた」
荒唐無稽な話。それが嘘じゃないと俺は知っている。
「あれは、どのくらいの時間だったんだろう?」
怜は、俺の目を見てそう訊ねてきた。
「……その日の夜、俺の家に電話がかかってきた。怜とちどりの家からそれぞれだ。
ふたりとも家に帰っていないが、行方を知らないか、という話だった。
俺は母親に、ふたりと会っていないか、と言われて、会っていない、と答えた」
「ふむ」
「たぶん、時計を探してるので遅くなっているのかもしれないとも思った。でも、ふたりの親がパニックになった様子でうちに来た」
そのとき俺が怜の父親に何を言われたのか、それはべつに話す必要のないことだろう。
もともと彼は俺のことをよく思っていなかった。
怜の父親は、怜があの頃のような性格に、つまり、何にでも首を突っ込みたがる、好奇心旺盛な性格になったのは、俺の影響だと考えていたらしい。
事実がどうかは、俺にはなんとも言えない。
それで、俺が何かを知っていると決めつけてきた。
子供を心配する親心と言えばそうだが、当時としてはけっこう恐ろしかったのを覚えている。
そうなると俺も余計に、知らない、と言い張るほかなかった。
でも、心の中ではちゃんと思いついていた。
結局、話を聞き終わると、ふたりの親は家へと帰っていった。
子供が帰ってくるかもしれないと、うちの親も説得した。
明日の朝になっても帰ってこなかったら、そのときは……。そんな話をしていたのを覚えている。
その夜は、もうどこからも連絡は来なかった。
ひょっとしたらちどりも怜も、家に帰ってきていたのかもしれない、と俺は想像したけれど、今にして思えば逆の話だ。
もしどちらかがだけでも帰ってきていたなら、帰ってきた、とうちに連絡をよこしたはずだろうから。
そして翌朝、ちどりも怜もいなかった。
普段一緒に登校していたから、朝の段階でそれはわかった。
俺は当然のように学校に行った。ふたりは当然のようにいなかった。
シマノが話しかけてきて、ふたりはどうしたのか、と訊いてきた。
わからない、と俺は言った。昨日は家に帰ってこなかったらしい、と。
シマノの顔ははっきりと蒼白になった。
俺は彼に、怜の言っていた噂の内容を問いただしたけれど、結局シマノもたいしたことは知っていなかった。
単なるうわさ話だと彼の方も思っていたらしい。
放課後、俺はひとり、丘の上の公園へと向かった。
木立の奥の噴水を見つけるのは簡単だった。
五月の夕暮れは、冬よりはだいぶ明るいにしても、いくらか暗い。
夕空がやけに綺麗だったのを覚えている。
涸れた噴水を見つけたとき、不意に話しかけられた。
中学の制服を着た、知らない女の子だった。
──きみ、この先に行くつもりなの?
不意に、そんな声をかけられて驚いた。
この人は、いったい何を知っているのか。そう思った。
──ここから先はきっと、わたしたちが行くべき場所じゃないよ。
俺は、息を呑んで、けれど言い返した。
──友達が、迷子なんだ。
彼女は困ったような顔をした。
本当に困った、という顔をした。
それは困ったね、と実際に口に出しもした。
──じゃあ、仕方ないから、ついていってあげる。
彼女は、なんだったんだろう。誰だったんだろう。
記憶のなかの彼女の顔はおぼろげだ。
ただでさえ黄昏時だった。
誰そ彼。陰影に飲まれて、記憶の中の彼女の顔はまっくらだ。
そして、俺と彼女はむこうに行った。
怜とちどりが帰ったタイミングがいつなのか、俺は知らない。
「たぶん、一日じゃないか」と俺は言う。
「一日……」
「うん。たぶん、一日だと、思う。怜とちどりが帰ってきた正確な時間は、俺にはわからない」
「……そうか、そうかもしれない。考えてみれば、一日なのかもしれない」
「……」
「ぼくらは、あそこに行って、隼と会って、助けられて……帰ってきたら、隼がいなかった」
「……」
「二週間。隼は、姿を消していた」
悔恨だろうか、後ろめたさだろうか、怜は、目を合わせようとしない。
俺が怜とちどりが帰ったタイミングを知らないのは当たり前だ。
そのとき俺は、まだむこうにいたんだから。
……あの日、あのときから、そうだ。
あの日、葉擦れの森に迷い込んでから、俺のからだの半分は、まだあそこに取り残されているような気がする。
あのときから、葉擦れの音が、止まないままだ。
「隼が帰ってきたのは二週間後のことだった」
と怜は言う。
「ぼくとちどりは先に戻ってきた。でも、ちどりはあっちのことを何も覚えていなかった。
ぼくは大人たちに説明しようとしたけど、あまり信じてはもらえなくて、途中で諦めた。
隼がいなくなったことで、状況はむしろ混乱していった。うちの親は……」
怜は、言いよどんだ。
「おまえは気にしなくていい、と言って、ぼくが隼のことを話すのを嫌った。
たぶん、心配していたんだと思う。また何かしでかさないようにと、ぼくは登下校親に車で送られて、自由に動けなかった」
「……そりゃ、そうなるよな」
「ちどりは何も覚えていなかった。鏡を見たところまでは覚えていたけど、それ以降の記憶は、ちどりにはなかった」
それは俺も確かめた。ちどりは何を話しても覚えていない。
あの日のことなんて、何にもなかったみたいに、ちどりは過ごしていた。
「隼がいなかった二週間、隼の家族は……当然だけど、憔悴した様子だった。
今度はぼくとちどりが、隼の行方を聞かれる番だった。
ちどりは何も覚えていなかったし、ぼくの言うことは……当然だけど、まともな大人なら信じられない内容だった。
途方に暮れただろうね。それでも、おじさんたちはぼくらを責めなかった」
「……」
「ぼくは、純佳にはあのときのことを話さないようにした。純佳にもし教えたら、彼女まであっちに行きかねないと思った。
ふたりは昔から仲が良かったからね」
「……どうだろうな」
そうかもしれない、とも思う。とはいえ、ミイラ取りがミイラ、が増えるのも馬鹿な話だ。
怜の判断は正解だった。
怜は身動きが取れず、
ちどりは覚えておらず、
純佳は知らない。
大人たちは怜の言葉を信じなかった。
だから、俺は……。
「でも、隼はひとりで帰ってきた。そして、それ以降、誰もいなくならなかった。
だからひとまず、一旦は、そこで話が終わった。ぼくも、けっこう怖い目をみたし、隼もそうだった。
だからぼくらは、今までその話を避けていたところがあったね」
「……そうだな」
──今もまた。
葉擦れの音が聴こえる。
「あの場所は、結局なんなんだろう?」
怜は、そう言った。それについて話すのは、きっと困難だけれど必要なことだ。
少なくとも検討の必要がある。
あそこがいったい、どんな場所なのか。
考えたところで、分かるものだろうか?
その瞬間、脳裏によぎる記憶があった。
──あそこは異境の入り口だから。
……そうだ。言っていた。
誰が言っていたんだ?
ましろ先輩だ。
ましろ先輩はたしかに言っていた。さくらのことを、去年、俺に説明するときに、確かに。
桜の木の下は異境の入り口だと。
『異境』ってなんだ?
ましろ先輩は、何かを知ってるんだろうか。
どうして、そのときの会話をよく覚えていないんだろう。
「なんなのか、は、わかりそうにないな。少なくとも、俺達の常識じゃ判断できない領域ってことはたしかだろう」
「ファンタジーだね」
「起きたことがファンタジーだからな」
「そこには、そこなりのルールがあるんだろうか?」
「あったとしても、俺達にそれを推し量れるとは限らない」
「……たしかにね」
あの空間、あの世界が、どんな理屈で人をいざない、どんな理由で人をあんな目に遭わせるのか、それを考えるのは、ひどく難しそうに思う。
世界そのものがひとつの生き物のからだの中のようだった。
「グリム童話に、『トルーデさん』っていう話がある。怜は知ってるか?」
「……知らない。どんな話?」
「あるところに、好奇心旺盛な女の子がいた。女の子はある日、トルーデさんの家に行ってみたいと言う。
両親は、トルーデさんという女の人はとても悪い人だからとそれを止めようとする。けれど、娘は止まらない。
そして彼女はひとりでトルーデさんの家に行く。家についた娘は、真っ青な顔をしている。
それで、トルーデさんは、どうしてそんな青い顔をしているんだって訊くんだ」
「……」
「娘は、トルーデさんの家に来るまでの途中でとてもおそろしいものを見たんだと答える。
最初は、真っ黒な姿の男、次に、緑の姿の男、最後に、赤い姿の男。
そして最後に、窓から見たトルーデさんの姿が、頭が火で燃えている悪魔の姿に見えたのだという」
「……」
「トルーデさんは答える。『おまえは、魔女の姿を見たんだ』と。
そして続ける。『私はお前を必要としていたんだ。さあ、光っておくれ』」
「……それで?」
「魔女は娘を一切れの木っ端に変えて、火に投げ入れる。娘はあっというまに燃え上がり、周囲をほのかに照らす。
魔女はその火で暖を取り、『なんと明るい光だろう』と笑う。……それで終わりだ」
「……終わり? それで?」
「ああ」
「なんとも……言いがたい話だね。どんな教訓がある?」
「見ようによっては、そうだな。人の聞く耳を持たない頑固さや、不相応な好奇心は身を滅ぼすとも取れる。
だけど、俺は違う見方があると思う。この話は、ある意味で、そのような理不尽があることを示してるんじゃないか」
「理不尽」
「そう。ただ他人の家を訊ねたというだけで、薪に変えられて火にくべられるような、理不尽だ」
娘は、おそろしいものを見ても引き返さなかった。
当たり前だ。どれだけおそろしいものを見たとしても、自分が薪に変えられ火にくべられるなんてこと、普通は想像できない。
けれど、そのような、普通では想像できないことは……起こりうる。
「そういう種類の、この世ならざる理とでも呼ぶべきものに対する、戒め」
「……この世ならざる理、ね」
少なくとも、俺や怜の身にはそれが起きた。
その意味を検証するのは、俺には不可能に思える。
俺や怜の身に起きたことに理由があるとすれば、それは俺たちがあそこに踏み入ったからだ。
それ以上のことを考えるには、材料があまりにも足りない。
「……冷静に話そう」と怜は言う。
「まず、前提。ぼくらが暮らしている生活空間。この日常。つまり、こっちの世界がある」
「ああ」
「それとは様相の異なる空間、つまり、むこう、がある」
その認識は、いまさら覆しようがない。あれが夢だとでも言われない限り。
「入り口は無数にある。おそらく。ぼくはそれを知っている」
「むこうに、何度も行ったって言ってたか?」
「うん。通っていた。あの建物には、近付いていない。べつの入り口から、向かった」
「入り口。たとえば、どんな?」
「多いのは、鏡、絵。それから、人目につかない自然の中。川べりや、木立の奥」
「……鏡」
「何でもいいんだ。条件は、あるのかもしれない。でもぼくは、たとえば、手鏡なんかでも、もうむこうに行ける」
「……どうしてなんだろう」
「たぶん、存在を知っているからじゃないかと思う。むこうの存在を知っているから、行けるんだ」
そうかもしれない、とも思う。でも、根拠はない。そう感じるだけだ。
「それはぼくらの世界と繋がっているし、隔たりもほとんどないように見える。
でも、たしかに別の場所、空間だ。少なくとも、あの木立の奥、あの小屋の中に……あんなに広い空間があるわけがない」
俺は黙って頷いた。そうである以上、あそこは『こちら』とは異なる空間なのだ。
「ぼくとちどりが迷い込んだのは、森の中の、広場のような場所だった」
「それはたぶん、俺が最初についたところと同じだ」
森の中の、どこか開けた場所。
太陽は中天に浮かび、
吹き込む風に木々は枝葉を揺らし、
影は川の流れのように姿を変える。
噴水の向こう側では、大きな藤棚がアーチのようにその口を広げている。
藤棚の向こうは、どこかに繋がっている。
「藤棚があった」
「うん。たしかに、あのとき、あった」
「……"あのとき"」
「そう、あのときは、それを見た。でも、二度目以降は、違った」
「どういう意味だ?」
「どこから入るかによって、着く場所が変わるみたいなんだ」
たとえばぼくの手鏡からだと、人の気配のしない西洋風の町並みに着く。
学校の廊下に飾ってあったある絵から入ったときは、暗い地下室についた。
あるいは校舎裏の木立のそば、切り株のそばからだと、ぼくの通っている学校にそっくりの、けれど誰もいない校舎についた。
「瀬尾さんの学生証を拾ったのは、図書室から入ったときだ」
「どこの図書室だ」
「うちの学校の図書室だよ」
「そこから着くのはどんなところだった? ……湖があったか?」
「湖? ……いや。森の中の小川のそばで拾った」
これが本当だとしたら、かなり厄介な話になってきた。さすがに頭が混乱してくる。
「訊きたいんだけど、隼は、あっちに行ったことはないの?」
「あのとき以来、一度もない。……どうして、怜だけ行けるようになったんだ?」
「わからない」と怜は言う。それはそうだろう。わからないことだらけだ。それはわかっている。
いや、考えるだけ無駄だ。
「わかるのは、どこから入ったとしても、ある一定の距離を歩いたところに、森があるってことだ」
「森……」
「そう。あの、森だ」
「あの……」
暗い森。
怜はそこで、俺の顔を見た。
「隼、あのとき……」
「ん」
「助けてくれて、ありがとう」
「……いや」
助けた。
そんな大げさなことを、俺はしただろうか。
◇
あの日、俺はあの噴水のそばで、ある女の子と出会った。
そして、彼女と手を繋ぎ、はぐれないように、むこうへと渡った。
そこにはあの、森の中の開けた空間があった。
俺も彼女も、すぐにそれが、この世ならざる場所だとわかった。
そう考えざるを得ないのだ。
夕暮れが真昼になって、木立が森になったのだから。
そして、少し歩いた先に、藤棚のアーチがあった。
その先に、怜とちどりがいるんだとわかった。
声が聞こえたからだ。
アーチのむこうから、怜とちどりの声が聞こえた。
……聞こえた、気がした。
あのとき俺はたしかに感じた。
俺は彼女と手を繋ぎ、怯えながら藤棚の先へと歩いていった。
並ぶ背の高い生垣が、視界を覆うみたいに立ちはだかる。
それは左右を遮り、道のように続いていく。
いくつもの分かれ道を含む迷路。
悪夢みたいに、空が赤く、夕焼けに染まった。
不思議の国のアリスのような、そんな景色だ。
その迷路を抜けた先に、あの森があった。
あの、枯れ木の森があった。
浮かぶ月は朧、雲は薄く、巨大な鳥の尾羽みたいだった。
真昼の広場を抜け、夕暮れの迷路を抜け、その先が、暗い夜の森だった。
ちどりと怜の声は、近くで聞こえたような気もするし、遠くから聞こえたような気もする。
森には、いざなうみたいに小径が伸びていた。
枯れ木の枝が視界のほとんどを覆い尽くして、先はよく見えない。
戻れなくなるかもしれないと、彼女が言ったのを覚えている。
それでも、彼女は手を離さなかった。
離したら自分の魂が砕けてしまうというように、俺の手を握っていてくれた。
ある場所で、うめき声を聞いた。
怜は、木々の間、崖の下で足を抑えていた。
俺と彼女はすぐに近付き、怜の様子を見た。
怪我をしていた。血が、少しだけ滲んでいた。けれど、無事だった。
──隼、隼……。
真っ暗闇が、怖かったのだろうか、深い森が、怖かったのだろうか。
それとも、怖かったのは、孤独だったのかもしれない。
もう大丈夫だ、と俺は根拠もなく言った。
怜は泣きながら頷いた。
――ねえ、隼。ぼくは、バカだったな……。
ほとんど朦朧とした様子で、怜は言った。
――巻き込んで、ごめん。
怯えたみたいな濡れた瞳で、
――ちどりを助けて。
と言った。
ちどりはどこだと俺は聞いた。
はぐれてしまったのだ、探しているうちに、落ちたのだと、怜はそう言った。
俺と彼女は、怜とともに、どうにか崖の上へと戻った。
さいわい、それほどの高さでもなかったし、低めのところもちゃんとあって、観察さえすれば、道に戻るのは難しくなった。
俺は、彼女に怜を任せることにした。
「ここで待ってて」と俺は言った。
「ひとりで大丈夫?」
もちろん、大丈夫なわけはなかった。
――隼、ごめん。ぼくは、バカだ。
けれど、他にどうしようもなかった。
ちどりだって、ここで泣いているはずだ。
ちどりの声は、俺の耳に届いている。
彼女は泣いている。
彼女が見つからなかったら、怜だって、泣いたままになる。
だから俺は、ちどりを見つけないと。
早く見つけないといけなかった。
小径の先に進めば進むほど、いろんな感覚がなくなっていった。
時間も、意識も、視覚も、どんどんとあやふやになっていく。
振り返っても、枯れ木の枝に隠されて、歩いてきた道の形はわからない。
ちどりのすすり泣く声だけが、ずっと聞こえていた。耳から離れなかった。
段々と俺は不安になってきた。
声はずっと、同じ距離で俺についてきた。
おんなじふうに聴こえるせいで、ちどりの居場所がわからない。
もう、通り過ぎているのかもしれない。もしかしたら、ずっと見つけられないままかもしれない。
月のあかりが眩しくて、なぜだか森がいっそう暗く感じられた。
嫌だと思った。
ちどりに会えないのは嫌だ。
ちどりがいなくなるのは嫌だ。
どこで泣いているんだ? どうしたら会える? まるで分からなかった。
でも、歩くしかないと思った。
やがてたどり着いたのは、開けた空間だった。
枯れ木はそこだけを避けるみたいだった。
焼け落ちた、大きな建物の跡。そんなふうに見えた。
その前で、ちどりは泣いていた。
──隼ちゃん。
どうしてそんなものが目の前に現れるのか、俺には分からなかった。
──隼ちゃん、隼ちゃん。
しゃがみこんで涙を流すちどりに近付いて、彼女が伸ばした手を掴んだ。
足りないみたいに、ちどりは俺の胸元に顔を押し付けた。
俺は彼女の背中に手を回して抱きしめた。
それはちどりを安心させるためというよりは、俺自身が安心したいからだった。
ちどりは、縋り付くみたいに泣いた。
枯れ木の森は笑うみたいに俺たちを取り囲んだままだった。
帰ろう、と俺は言った。
ちどりは、嗚咽を漏らしながら頷いた。
俺たちは来た道を引き返した。
戻るのは、意外なほど簡単で、怜も、あの女の子も、ちゃんとそこで待っていてくれた。
月明かりに照らされながら、迷路の入り口まで戻り、三人が先にその中に入るのを見てから、俺は森を振り返った。
振り返ってしまった。
ふたたび前を見た時、迷路の入り口はもうそこにはなかった。
俺は、森の中、小径すら見当たらない、木々の狭間に取り残されていた。
明かりひとつなく、道らしき道もなく、人の気配もしない。
もう、声も聞こえない。
そんな場所にいた。
◇
「……隼、ごめん」と怜は言う。
「……何で謝る」
「あのとき、助けてもらったのに。……助けにいけなくて、ごめん」
俺は、ひとつため息をついた。そして言う。
「こうして両方無事なんだ。もう済んだ話だ。今問題なのは……」
と、俺は言った。
「瀬尾青葉のことだ」
「……そう、だね」
こうして思い返してみると、やはり、あのときのことが原因なんだろう。
俺の耳の奥に響く音、二重の風景。
俺がむこうから帰ってきたのは二週間後だったと怜は言った。
実際、そんなものだったんだろう。
けれど、俺には、その時間が永遠のように感じた。
助けを求めて、喉が涸れるまで叫びながら、あの森の中を宛もなくさまよった夜。
やがて、歩くことも、叫ぶこともやめてしまった夜の森。
……俺は、結局、どうやってあの森を出たのだったか。
未だに、それが思い出せない。
たしかなのは、ちどりがあの夜のことを覚えていなかったということ。
――隼ちゃん。
――どうしてそんなに、泣きそうな顔をしているんですか?
ちどりがそのことを覚えていなかったということが、俺はおそろしくて、おそろしくて、泣いた。
葉擦れの音が止まないのが、おそろしくて、おそろしくて、泣いていた。
「瀬尾青葉さんは……湖のそばにいるの?」
「ああ。本人の言うことを信じるなら」
「……どうやってそれを知ったの?」
「手紙が届いた」
「手紙」
「……あっちにも送れる。それを使って、やりとりしてみようと思う。
それから、あいつが『むこう』に行くときに使った入り口を探す。
そうすれば、連れ戻せるかもしれない」
「……たぶん、正確な入り口じゃなくても大丈夫だ」と怜は言った。
「入り口が、こっちの位置関係として近い位置にあれば、むこうに出るときも近くに出る」
「……噴水と小屋か」
「うん。……今日は、このくらいにしておこう」
「……」
「隼、ひとつだけ」
「……なに」
「むこうには、ぼくが行く」
「……なんで。おまえは、瀬尾とは直接関係のない人間だろう」
「だからって、隼にいかせられない」
「どうして」
「前のことがあるからだよ」と怜は言った。
実のところ、俺は怜に言われるまでもなく、ためらっていた。
瀬尾はたしかに、むこうにいるらしい。
学生証のことを考えると、状況はきっと、よくはない。
それでも俺のなかに恐れが湧く。
またあの森に行かなきゃいけないのか?
あの、暗い夜の森に、俺はもう一度向かわなければいけないのか?
瀬尾がいなくなる前に、さくらが俺にした予言を思い出す。
──あなたはこれからとても暗く深い森に向かうことになる。
──森の中には灯りもなく、寄る辺もなく、ただ風だけが吹き抜けている。
──あなたはそこで見つけなければいけない。
"あなたはそれを避けることができない"、と、さくらは言っていた。
どうして、そんな予言がありうるんだろう。
わからない。
頭が妙に、痛かった。
ふと、俺は店内の様子を見る。
マスターはカウンターの向こうにはいなかった。
途中から気にするのを忘れていたが、内容を聞かれてはいなかっただろうか?
「大丈夫だよ」と怜は言った。
「ぼくが見ていたから」
そう言って笑う。少し、不注意だったかも知れない。気をつけなければ。
いずれにせよ、やることはやはり変わらない。
むこうはある。
入り口を探すだけだ。
条件はある程度特定されている。
何をするにしても、明日だ。
話している間に、結構な時間になっていたことに気付いて、俺と怜は席を立った。
何度か呼びかけると、マスターはカウンターまでやってきて、会計をしてくれた。
「またのお越しを」と彼は言う。
「怜、おまえ、このあとはどうするんだ」
「……どうするって、帰るよ。明日は学校だし」
「そうか」
……そのとき、不意に思い出した。
「なあ、怜。昨日、瀬尾青葉について俺に聞いたとき、おまえ変なことを言ってたよな」
「変なこと?」
「瀬尾青葉を知ってるか、とおまえが聞いた。俺は頷いた。するとおまえは、"そうじゃないと筋が通らない"って言ったんだ」
「……ああ、そのこと」
「さっきまでの話を聞いても、俺が瀬尾を知ってるって理屈にはならない気がする」
「簡単な話なんだけど、それについては本人の名誉のために話さないでおく」
「……なんだそれ」
「まあ、気にしなくていいと思う。それに関しては別に不可解な事情なんてないよ」
「……」
いまいち話がわからなかったけれど、俺は頷いた。
「何かわかったことがあったら、連絡してくれ」と怜は言った。
「そうするよ」と俺は答えた。嘘だ。
「嘘だって顔をしてるな」
すぐにバレてしまった。俺は頭をかく。
「ひとりでどうにかするつもりだろう」
「……そんなこと考えてねえよ」
「隼はいつもそうだ。自分だけでなんでもやろうとする」
「なんだよ。やけに分かったようなことを言うな」
「分かるよ。ぼくだって隼のことは知ってるし」
「……はいはい。怜はすごいな」
「ぼくだからじゃない。隼が自分でどうにかしようとするのは、ぼくが女だからだろう」
「……」
まあ、否定はできない。
ボーイッシュな雰囲気は変わらないけれど、会わないうちに、怜もずいぶん成長した。
少年にしか見えなかった見た目も、中性的な女の子、とはっきりパッとみただけで分かるくらいになっていた。
「ぼくがむこうに行くのをよしとしないなら、せめて、ぼくと協力するってことは考えてくれる?」
「……そうしとくよ」
見透かされた気持ちで頷く。
『トレーン』の前で、俺と怜はそのまま別れた。
その日は、家に帰って、余計なことはせずに、早めに眠った。
頭痛、けだるさ、さまざまな不調が、家に帰った途端に一気に襲ってきた。
明日はすべきことがある。体調を崩してもいられないだろう。
瀬尾に手紙を出し、無事を確認する。可能なら居所など、詳しい話を聞く。
学生証のことを考えると余裕はないかもしれない、とそのことを思い出す。
急に、瀬尾の無事が心配になる。
あいつは無事だろうか。
……今まで悠長にやっていたことを、後悔しはじめた。
手紙の返事が来ているうちは、まだ大丈夫だと高をくくっていた。
あの、学生証。
昨夜それを見せられてから、それが妙に頭をよぎる。
翌朝俺は、いつものように純佳に起こされた。
「おはようございます」と純佳は言う。
「おはようございます」と俺も言う。
「今日は平気ですか」
どうだろう、と俺は考えた。
「……たぶん平気」
「ならよかったです」と純佳は笑った。
純佳の様子はいつもと変わらない。
俺の様子だってきっと、いつもと変わらないんじゃないか。そう思った。
◇
学校に着き、いつものように自分の教室に向かう。
席に向かい、荷物を置いて、教室の様子をたしかめる。
既にクラスメイトたちは登校してきていて、いつものように教室の様子は賑やかだった。
誰かの机を占領して話をしているやつら、教室のうしろでゲームアプリに興じるやつら、
机に突っ伏して寝ているやつ、イヤフォンをつけて窓の外を眺めているやつ。
どうしたもんかな、と俺は思う。
本当ならすぐにでも『伝奇集』を確認しにいきたいものだ。
朝のうちに挟んでおけば、放課後までには返事が来るかもしれない。
そう思っても、動き出すのが億劫だった。
こうしようと決めたことでも、いざ行動するとなると躊躇してしまうことがある。
周りに人がいるとなおさらだ。
自分が何をしようとしているのか、それが急に不安になったりする。
まあ、そんなことを考えても仕方ない。
そのままぼんやりと、今日の授業のこととか、そんなことを考えておく。
頭が鈍く重い。おとといから、ずっとそうだ。頬杖をついたまま、まどろみそうになるくらいに。
「三枝」
と、不意に名前を呼ばれて、意識が浮かび上がった。
教室の入口の方から、クラスの男子のひとりが俺の方を向いていた。
「なに」
「お客さん。女の子。ふたり」
「……」
隣の席で話をしていた女子が、「三枝、また女?」とニヤついた。
「やかましい。またってなんだ」と俺は返事をした。
「こないだも女子が三枝の席に来てたじゃん」
「こないだ? こないだ……」
市川が来たときのことか。
「あれは部活の子だ」
「じゃああれは?」
入り口をさされて、俺はそちらに視線を向ける。
立っているのは、ちせと真中だ。
「……あれは、まあ、部活の関係だな」
言いながら、俺は立ち上がる。
「文芸部、女子多いの?」
「男子二人だからな」
「あ、そうなんだ」
女子は三人なので比率的に考えればさほどの差はないが。
「……ふうん。かわいいね」
「まあな」と適当に頷くと、隣席の女子はびっくりしたみたいだった。
「三枝ってそういうキャラなの」
「キャラってなんだよ」
ひらひら手を振って、話はおわり、と合図をする。
「ふーん?」と、隣席の女子は意味ありげににやにやしていた。
俺が入り口につくと、ちせがぺこっと頭をさげた。
真中は「や」と適当な挨拶をむけてきた。
「おはよ、せんぱい」
「おはようございます」
「おはよう。どうした?」
「土曜日のことで」とちせが口を開いた。
「ちゃんとお礼を言わないとと思って。わたしが言い出したことですから、付き合ってもらって、ありがとうございました」
「……おお」
やっぱり、見た目のわりにしっかりしている。
見た目のわりに、という言い方はまずいか。
「いや、どういたしまして。結局俺はなんにもしてないし」
「そんなことないです。お話するの、結局ほとんど隼さんに任せてしまいましたから」
「そう……だったか」
というよりは、俺がどうしても気になってしまった、という方が近い。
「まあ、収穫はなかったけどな」
「……はい」
収穫、という言い方が気に障ったのだろうか。ちせは少し暗い顔をした。
「なんだか、余計なことを知ってしまった気がして……」
「あんまり気に病むな」と俺は言った。
「ちせのせいじゃない」
「……はい」
「せんぱい、なんでわたしを無視するの」
黙ってると思ったら、妙なところで口を挟んでくる。
いかにも、というようすで口をむっとさせていた。
「真中は、なにか用事?」
「ひどくない? その態度」
不服そうな態度は続く。率直に、真中の方もなにか用事があったのだろうかと思っただけなのだが。
「せんぱいはわたしに冷たいです」
「そんなことはない」
「……そうかなあ」
「そうだよ」
「ちせとわたしとで、態度が違う気がする」
「気のせいだ」
と言ってみたが、どうだろう。
誰に対しても均質な態度というのはあり得るものだろうか。
「ま、いいや。ちせがお礼しにいくっていうから、ついてきたの」
「なんで?」
「なんでって。だめですか」
「や。だめじゃないけど、なんでだろうって」
真中はもどかしそうに唇を歪めた。
「わたしも、せんぱいにお礼言いにきたの。ありがとう」
「……なんで?」
「せんぱい、やっぱりわたしに冷たいよね」
「違う。お礼を言うなら、俺じゃなくてちせだろ。俺たちはちせについていったんだから」
「……ん。あれ? そっか」
頭の中で状況を整理するみたいに、真中は人差し指を額に当てた。
「ちせが行くのに、せんぱいが付き合って、わたしは……ちせに頼んでついていったから、そうか」
納得したみたいに、真中はひとつ頷いた。
「ちせ、土曜日はありがとう」
「えっと、どういたしまして……?」
……何を見せられているんだ、俺は。
「まあ、それはあくまで口実で、せんぱいとちせをふたりきりにしたくなかったんだけど」
「それは胸の中に秘めておけ」
「うん。今後はそうしようかな」
手遅れだ。
「隼さん、あの、青葉さんのことなんですけど」
「ん」
「『伝奇集』……何かあれば、わたしにも」
「ああ……うん。そうだ。そのことで、真中にも訊きたいんだけど」
「ん。なに?」
「真中もあれに手紙を挟んでたよな。あっちには返事って来たのか?」
ああ、と真中は頷いた。
「来たよ」
「いつ?」
「こないだみんなで見たのより前」
「……そうか」
だとすると、それ以降は途絶えていることになる。
といっても、それは先週のことだ。
「今はあれ、どこにあるんだろう」
「……さあ。図書室じゃないかな。なにか見つけたら、大野先輩が教えてくれると思うけど」
「だよな。わかった」
「それじゃ、戻りますね」
「ああ。気をつけろよ」
ふたりはきょとんとした顔をした。
「……なにに?」と真中。
「……あ、いや。そりゃそうか」
「へんなの」
今度はそろってくすくす笑う。
仲の良いことだ。……そうか? わからないけれど。
ふたりを見送ってから席に戻ると、さっき俺を呼んだ男子に声をかけられた。
「さっきの子、また文芸部?」
「そう。片方は」
「もう片方は?」
「文芸部の先輩の妹」
「ずりいよ三枝」
「なにが」
「あの、比較的ちっこくない方、が、文芸部?」
「……比較的ちっこくない方」
真中だろう。
「そうだよ」
「……やたらかわいかったな?」
「……」
「な、なんだよ、その目」
「いや……」
真中は表情を抑え込むのをやめた。
こうなるのは、当たり前と言えば当たり前か。
……厄介なことにならなければいいけれど。
けれど、俺はどういう立ち位置でいればいいんだろう。
真中に対して、どう振る舞えばいいんだろう。
たとえばあいつを好きだという男があらわれたとき、俺はどんな態度をとるべきなのか?
俺が答えを出せないまま、昔のようなことになってしまったら……それは、俺のせいなのかもしれない。
「あいつは難敵だぞ」と、そう言うと、あからさまに驚いた顔をされた。
「べつにそこまで言ってないだろ。なんだよ、急に。世間話だよ」
「それならいい」
本当にそれならいいと思った。
「……縁の匂いがしますね」
不意に後ろから声が聞こえて、俺は飛び上がるほどびっくりした。
「どうした、三枝」
振り返ると、さくらがいる。心臓が止まるような思いだった。
姿を消していたかと思えば、急にあらわれたり、いったいこいつはなんなんだ。
「なんなんだとはご挨拶ですね」とさくらは言った。
「ほら、話しかけられてますよ」
「あ、ああ。なんでもない。悪寒がしただけだ」
「そうか……?」
彼はそう言って、不思議そうな顔のまま自分の席に戻った。
ひさしぶりの感覚に、俺は慎重になりつつ、さくらを見た。
どうしたんだ、急に。ずいぶんひさしぶりじゃないか。
「サボってばかりでもいられないと思いまして」
こっちはそれどころじゃないんだが。
「そうみたいですね。なので、べつにかまわないですが」
……縁の匂いって言ったか?
「はい。さっきの子と、今の男の子。縁の匂いがします」
「……」
こないだまで、様子がおかしかったのはなんだったんだよ。
「あれは……気にしないことにしました。考えても仕方ありませんから」
さくらについても、いくつか、気になる点はあった。
けれど、今は瀬尾のことが優先事項だろう。
「瀬尾さん、ですか」
さくらが人の名前を呼ぶのは、珍しい。ましろ先輩以外だと、初めてかもしれない。
……そんなこともないか?
「そんなこともないです」
そうかもしれない。
「いなくなってしまったんですね」
……おまえは、何か知ってるか?
「なにも」とさくらは言う。
この間言っていた、予言みたいなのは……。
「なんとなく、そう思ったんです。……あるいは」
あるいは?
「わたしにとっても、無関係のことではないかもしれないから」
……そう言われても、今は点と点が結びつかないままだ。
「あなたはどうするんですか」とさくらは言う。
何がだ。
「あのふたりの縁。わたしがつなぐと言ったら、手伝ってくれるんですか?」
「……」
俺は、答えられない。
答えられない。
「時は流れます。望むと望まざるとにかかわらず」
「……」
「あなたは、そのままでいいんですか?」
「……うるさい」
今は、それどころではない。
──今は?
じゃあ、いつならいいんだ?
そんなふうに自問したけれど、俺にはやっぱり、答えられない。
誰かを求めることは、誰かを好きになることは……俺には、どうしてもおそろしいままだ。
そんな言葉を積み重ねたまま、誰にも離れていってほしくないと思うのは、不誠実なのかもしれない。
けれど、たぶん順序は逆なのだ。
好いた人に離れられるのが怖いから、求めた人に応じてもらえないのがおそろしいから、俺は誰のことも好きになれない。
きっと、そうなんだろう。
◇
その日の昼休み、俺は図書室へと向かった。
さくらは結局、あのあと、真中たちの縁とやらについては何も言わずにいなくなってしまった。
どうする、とも何も言わずに。そのことについてはひとまず考えないことにする。
いくつものことが一気に押し寄せてきている。
俺のことなんて後回しでいるべきだろう。
図書室には担当の委員がいたが、それは大野ではない。
大野も、いつも図書カウンターにいるわけではないのだ。
『伝奇集』……。ボルヘス。岩波文庫だ。棚を見れば、場所は分かるだろう。
案の定、特徴のある背表紙の並びはすぐに見つかった。
伝奇集を探すのはいくらか骨が折れたが、そう難しいことではなかった。
俺は、その本を手にとり、開いてみた。
『長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。』とある。
よりましな方法は……と続くが、それ以降は頭に入ってこない。
そのまま、ぺらぺらとページをめくってみる。
すとん、とあるページが開かれる。栞を挟んであるみたいに。
当然のように、それはメモ用紙だった。
俺は四つ折りにされた紙を手に取り、広げてみる。
案の定、それは瀬尾からの手紙らしかった。
とりあえずほっとする。瀬尾からのアクセスは途絶えていない。今のところは。
内容に目を通そうとして、文字を受け取れない自分に気がついた。
……まだ、戻っていないらしい。さっき、ボルヘスの一節がすっと頭に入ってきたのは、なんだったんだろう。
鈍い痛みが頭に宿っていることに、今更のように気付く。
聴覚を埋めるみたいに音が響く。ずっと鳴っている。
ひとまず、俺はそのメモをポケットの中に入れることにした。
そして、『伝奇集』を持って図書カウンターへと向かった。
図書カードに借りた日付と名前を記入し、図書室から持ち出す。
ひとまず、試してみるのは悪いことではないだろう。
頭がくらくらするのを感じて、教室に戻ると、大野がいた。
「おう」と手をあげられる。────
「ああ」と俺は答える。────
「どこ──てたんだ?」
「図書室」
図書室、と大野は不思議そうな顔をした。
風が吹いている。
「な──図書室──かに」
「……いや。『伝奇集』を」
「──集。今度はな──ってたか?」
「ああ」
……体調が悪いせいだろうか。いつも以上に、葉擦れの音が、うるさい。
「瀬尾──いだな──かりでもあれば──だが──」
「……心配だな」
「おま────ぶか? カオイ──るい──」
「ああ、うん、大丈夫だ。ちょっと、頭痛がするだけだ」
「────」
「……悪い、ちょっと、今日は具合が悪いみたいだ」
「────」
汗が滲むのが分かる。
「悪いけど──まは──りに──れ」
ついに、自分の声すら聞こえなくなった。
まいった。ここまでひどいのは久々だ。
自分の声がちゃんと音として響いているのかどうかさえ、確信がもてない。
視界が二重にブレる。
最近、あのときのことを思い出すことが多い。そのせいかもしれない。
いつもどおり、なるべく普通に振る舞わなければ。
大野は何かを言った。その表情もいまはよくわからない。
たぶん、けれど、俺を気遣うようなことを言って、今は気をきかせて去ってくれたんだと思う。
後ろ姿になって去っていくのが分かる。
そういう想像をするのも、いいかげん慣れてきた。
砂嵐が重なっているみたいに、視界が灰色に、半分、透けて潰される。
……。
自分の席に向かおうとしたけれど、うまく、空間の奥行きがつかめない。
慎重に、一歩一歩、歩く。慣れているはずの教室の机の間の感覚さえおぼろげだ。
けれど、大丈夫。
自分の席について、息を吐く。
目を閉じて、深く深く呼吸をする。
音──音は──
ひゅーひゅー、びゅーびゅー、ざわざわ、ひゅるひゅる、
轟々、颯々、蕭々、轟々。
──があのとき──ッテ──タカら────でも──さ──レ──みた──で──アシ──さ
ため息をひとつ。
それから、落ち着け、と自分に言う。
──かいて──キ──で──アカ──しん──イえ──の──くが──たで──とき──
いずれ止む。
止むんだ、これは。
──だけどあ──シラ──んだ──ていうかあい──シ────シラナイ────
この音は、いずれ止む。
俺はそれを知っている、経験上。
──ざ──せん──イッテて──ど──ショセン────りだろ──カカヨ────いいがかりだ──
……そうなんだろうか。
ずきずきと、頭が痛む。目の奥が痛む。
それが徐々に、吐き気に近付いていく。
──きこえ──な──しら──てすと──きにあい──ドクネ────ろ────
喉の奥から、気持ちの悪い気配がせり上がってくる。
こらえろ、こらえろ。
数を数える、それに徹する。
一から順に、終わりが見えるまで、ずっと数えていく。
──えば────パイサ──きょとって──こうじこ──んだよ──あのば──ウマンシ──
目は、瞑っておく。目さえ瞑れば、問題は音だけだから。
音は……音は、耳元で、鳴り響いている。
頭の中を支配するみたいに、意識を全部もっていこうとするみたいに、響いている。
でも、いずれ止む。
……そうだろうか。
これまでがそうだったからといって、これからもそうであり続ける保証なんて、ひとつもない。
もしかしたら、この音はやまないのかもしれない。
その考えを否定して、数を、数える。
数える……数える……。
息をつく。
少し、音がマシになってきたが、吐き気がおさまらない。
気分が悪いままだ。
どうしようもないなと俺は思う。どうしようもない。
慎重に呼吸しなければ、どうにかなってしまいそうだ。
それでも、さっきよりマシになったのだから、いずれおさまるだろう。
「──さ、おまえ大丈夫──顔色──」
「……ああ、うん」
「まっさお──」
「いや、うん。朝から体調が、悪くてな」
「そっか。保健室──」
「大丈夫だよ」
「そっか。ならいいんだ」
ようやく、落ち着いてきた。
「いや、悪いな。心配かけて」
「……おまえがそんなふうに素直な反応すると、気持ち悪いな」
「……俺のことをなんだと思ってるんだよ」
「胡散臭いやつ」
「……ひどいぞ、それ」
……大丈夫、ちゃんと見えるし、聴こえる。
話しかけてきたのは、クラスメイトの男子。部活は違うが、話す回数は多い。
真中のことを訊いてきた奴だ。
そう、そのくらいのこと、わかる。
「まずそうなら言えよ」
「いや、平気」
「それにしても、三枝もそういうふうになることあるんだな」
「俺だって人間だぞ」
「ん。まあ、そりゃそうなんだけど。あんまりそういうイメージないからな」
「……」
そう言って、彼は去っていく。
昼休み、だ。昼食を、まだとっていない。
身体を軽く動かしてみる。もう、大丈夫そうだ。だいぶマシになってきた。
いつもながら心臓に悪い。教室で吐きでもしたら、人に迷惑がかかるだけじゃすまない。
まったく、俺の生活に暗雲がたちこめたらどうしてくれる。
と、音に文句を言っていても仕方ない。止まないのだから、慣れるしかない。
そのとき、不意に、雨の音に気付く。
一瞬混乱したけれど、どうやら現実に雨が降っているらしい。
ほっと、今度は安堵のため息が漏れる。
雨音に気付けるくらいに、落ち着いてきた。
この分なら、飯くらい食えるだろう。
純佳が作ってくれた弁当に口をつけないのは申し訳ない。
俺はそのまま、雨を見ながら弁当を食べることにした。
たぶん、大丈夫だ。……きっと、大丈夫だ。
◇
葉擦れの音は落ち着いたけれど、俺はその日、部活は休むことにした。
頭痛がひどく、耐えられそうになかった。純粋に体調を崩しているのかもしれない。
瀬尾のことを考える余裕が、今はない。
それでも、帰り道の途中でふと思い出して、例のメモをポケットから取り出した。
瀬尾の手紙。
今度は、内容を、どうにか理解することができる。
「机の角に足をぶつけることが増えました。なんだか、これまでと全然違う生活を送っているせいで、からだの感覚がすり減っているみたい。
そんなわけで、朝起きるたびに、最近のわたしはラジオ体操をしています。
といっても、ラジオなんてないからうろ覚えだし、ラジオ体操なんて小学校のときにやって以来だから、合っているかどうか自信はないんだけど。
まあ、そんな感じで過ごしています。さいわいこっちには本がたくさんあって、暇つぶしには困らないみたい。
これを最初に見るのは大野くんかな。どうなんだろう。三枝くんかもしれない。
最近わたしは変な夢を見ます(こっちの景色のほうが変な夢みたいと言えばそうなのだけれど、ともかく)。
その夢には、なんだか三枝くんがよく出てきます。どうしてなのかはよくわからない。
でも、三枝くんはわたしの夢の中で泣いています。
わたしたちはけっこう長い期間一緒に過ごしたはずだけど、わたしは三枝くんのことをなんにも知らないような気がする。
急にいなくなったせいで、思いつめていないか、最近はそんなことが妙に気がかりです。
ときどき無理をしているような気がしていたから。……こんなこと言っても、困らせるだけかもしれない。
でも、手紙なら素直に言えるような気がする。
わたしはいま小説を書いています。どうしてなのかはわからない。でも、書いています。
だから、心配せずにいてください。わたしは大丈夫だから。
瀬尾青葉」
大丈夫と自分で言うやつが、大丈夫だとは、あまり、思えない。
けれど今は、その言葉に甘えたい気がする。結局は俺の杞憂で、瀬尾は元気にしているんだと、信じたい。
家について、部屋に戻り、ベッドにうつ伏せに倒れ込むように身体を投げた。
葉擦れの音。これはいったい、なんなんだ。
泣き出したいような気分になる。
何に対する罰なのか、それとも、罰ですらないのか。
ただの、理屈に合わない、起きるだけの出来事なのか。
そうだとしたら、どうしてそれが、俺に起きるのか。
わからない。
なにもわからない。
俺はまともじゃない。
ずっと、まともじゃない。わかっていた。
──ねえ、あなたは、すごく恵まれてますよね。
──あなたの周りにはいろんな人がいて、誰もがあなたを、
──あなたみたいな、どうしようもない人を、当たり前に受け入れてくれていますよね?
──そんな人間のくせに、どうして、不満そうなんですか?
不満なわけじゃ、ない。
ただ、どうしても、ここが、この景色が、自分のためのものではないように思えてならない。
俺が本当にいるべきなのは、いや、本当にいるのは、あの暗い森の中で、
それ以外の風景は、俺が他の誰かから、不当に奪い取ったものだという気がする。
本当は焦がれている。そのすべてを、受け取りたいと思っている。
それなのに、どうしても、そうすることがおそろしい。
いつか誰かに、「返せ」と言われそうで。
「おまえのものじゃない」と、言われてしまいそうで。
どうしても、怖くてたまらないのだ。
こんなありようの人間だと、いずれ見透かされはしないかと。
◇
目を覚ましてから、眠っていたことに気付いた。
自分のベッドに身体を横たえて、布団を被っている。
ぼんやりする頭のまま、身体を起こす。
帰ってきてそのまま眠ってしまったのだろう、と思ってから、違和感に気付く。
制服のまま眠ったはずだが、寝間着に着替えている。
覚えていないだけで、ちゃんと着替えたんだろうか。
頭が痛むせいで、思い出そうとすることも難しい。
周囲を見ると、放り投げたはずの鞄は机の上に置かれている。
誰かが階段を昇る音が聞こえる。
ドアが開けられた。
「あ、起きましたか?」
入ってきたのは、
「……瀬尾?」
「え?」
……違う。
ちどりだ。
「……なんで」
「寝ててください。熱があるみたいですから」
「熱?」
「はい」
「……なんでちどりが」
さすがに頭が混乱する。いつもなら、『トレーン』の手伝いをしている頃だ。
いや、それ以前に、ちどりがうちを訪れる理由がない。
彼女は呆れたみたいに溜め息をついた。
「純佳ちゃんから連絡があったんです。『兄に連絡したのに、返事がない』って」
「純佳が?」
「はい。最近調子が悪そうだったから具合が悪いのかもしれないって」
「それで、なんでちどりが」
「純佳ちゃん、部活の大会が近くて練習に出なきゃいけないから、代わりに様子だけでも見に行ってやってくれないかって」
「……おせっかいな」
「迷惑だったとは言わせませんよ。三十八度三分です」
「計ったのか」
「計りました」
「悪かったな、面倒かけて」
「面倒では、ないです」
「なこと、ないと思うんだけど」
やれやれ、というふうにちどりは肩をすくめて、それ以降は反論もしなかった。
「純佳ちゃん、心配してましたよ」
「純佳は、心配性だから」
「そう思うなら、心配かけないようにしないと」
……だからこそ、心配をなるべくかけないように隠すんだと思うのだが。
いや、べつに、純佳に隠そうとしていたわけではない。
「……気付かなかった。熱があるなんて。頭が痛いとは思ってたけど」
「無頓着すぎます」
珍しく、ちどりは怒っているみたいだった。
「ひょっとして、土曜から調子が悪かったんですか?」
「そんなことは、ないけど……」
「でも、ちょっと様子、おかしかったです」
「そんなことはない……」
「さっきから、否定してばっかりですね」
「……ちどりが、俺の言ってること、聞いてくれないから」
ふう、と彼女はまた溜め息をついた。
「とにかく、横になってください。いい子ですから」
今度は俺が溜め息をつく番だった。
「子供扱いするなよ」
「体調管理もできないなら、子供と一緒です。子供だって、具合が悪かったら自分でわかります」
うまく言い返すことも出来ずに、俺は身体を横たえた。
「……店の手伝いはいいのか」
「今日はお休みです。もともと、忙しい店でもないですし、趣味で手伝ってるだけですから」
「趣味だったんだ……」
「はい。実は」
話しながら、ぼんやりとちどりの顔を見る。
やっぱり、似ている。まるっきり同じではないけれど。
髪型だって、雰囲気だって違う。でも、どうしてなんだろう、本当に瀬尾とちどりはそっくりだ。
「ちどり」
「……はい」
「助かった」
「……んふふ」
「……」
珍しいものを見たという気持ちになる。
悪戯っぽい表情が、普段とは別人みたいだった。
普段は、丁寧で控えめな雰囲気のちどりだけど、もともとのイメージはそれとは違う。
もっと子供っぽくて、わがままなところがあった。
年をとるにつれて、だろうか。そういう態度を見せることは少なくなっていった。
「感謝してるなら、ありがとうって言ってください」
「ありがとう」
「うん。よいこです」
「……子供扱いするなって」
「じゃあ次は、『ありがとう、ちどり。とっても嬉しいよ』って言ってください」
「調子に乗るな」
「言ってくれないんですか?」
「……とっても嬉しいよ、ちどり」
「棒読みですけど、許してあげます。……熱、計りましょうか」
「……ん」
なんとなく、言いなりになっていることに不服を覚えながら、体温計を差し出されて受け取る。
本当に子供にでもなったみたいな気分だ。
「こうして隼ちゃんと会うのも、ひさしぶりですね」
「……そうでもないだろ? 店で会ってただろ」
「店は店です。お父さんだっていますし、お客さんだっていますし、わたしも仕事中ですから」
「……まあ」
「わたしはもっとお話したいの、がまんしてたんですよ」
「……」
そう言われてもな、という気持ちになる。
「ちどりが俺を避け始めたんじゃないか」
「それは、隼ちゃんに彼女ができたからじゃないですか」
「……」
どうしたものかな、と迷う。
「あのさ、ちどり」
「……はい?」
「実はさ、嘘なんだよ、それ」
「……え?」
ちどりは目を丸くした。
「彼女ができたって話」
「……え?」
何を言っていいかわからない、という顔を、ちどりはした。
それはそうだろう。もう何年目かもわからない嘘だ。
今までずっと隠していたこと。
「嘘なんだ」
詳しい説明は、できない。
どうしていま、言ってしまうんだろう。
そもそも、どうして俺は、今の今まで、ちどりに言うことができなかったんだろう。
俺が真中の嘘に付き合ったのは、ひょっとしたら、ちどりを割り切るためだったのかもしれない。
「だって、でも……」
「うん。言いたいことは分かる」
「だって、わたしたちと同じ中学の子で、純佳ちゃんも知り合いで……」
「うん。それはそうなんだけど」
「嘘って」
「嘘なんだ」
「じゃあ、隼ちゃんは……」
「……うん」
「年齢イコール彼女いない歴……」
「表現」
ずっと嘘をついてたんですか、とでも言われるかと思っていたのだが、思いの外軽い表現だった。
「……そんな」
とはいえ、やっぱり衝撃だったみたいだ。それはそうだろう。
嘘にしては、あまりに期間が長過ぎる。
「いろいろ、事情があってな」
「……事情、ですか?」
「うん」
「純佳ちゃんは、知ってるんですか」
「……知らない、はずだけど」
勘付いては、いるかもしれない、とも思う。
昔から純佳にはそういうところがある。
「……そう、だったんですか。なんかわたし、ばかみたいですね、ひとりでいろいろ気を使って」
「いや……まあ、俺が悪い」
「でも、事情があったんですよね」
「まあ……」
「……話してほしかったです」
返す言葉もない。
ちどりはしばらく、考え込むように黙り込んだままだった。いろいろ、整理しているのかもしれない。
やがて彼女は、ぼんやりとした表情で俺の腕を掴んで引き寄せると、そこに唇をつけ、
俺の手の甲を噛んだ。
がぶりと。
「痛い痛い」
「……あ、つい」
「ついじゃないよ。おまえは犬かなにかか」
「わん」
「わんじゃねえよ」
茶化すみたいな調子だが、顔には笑みひとつ浮かんでいない。まだ混乱しているのかもしれない。
「……わたし、ばかみたいじゃないですか」
言いながら、また手の甲に唇をつけ、歯を当ててくる。
不満のあまり攻撃してきたというよりは、そうしていないと落ち着かないみたいに。
生暖かい感触に戸惑いつつ、思い出す。
……そういえば、子供の頃、ちどりには、『噛み癖』があった。
攻撃、というよりは……赤ん坊のおしゃぶりみたいに、甘噛みする癖があった。
「怜ちゃんが転校しちゃって、隼ちゃんに彼女ができて……ふたりと距離ができて。
距離を置いたのは、わたしかもしれないけど、でも……寂しかったのに」
「……」
「ひどいです」
手を掴まれたまま、懇願するみたいな目で見られて、困る。
こんなつもりで伝えなかったわけでもないし、こんなつもりで伝えたわけでもない。
「悪かったよ」
「……許しません」
ちどりは、俺と目をあわせずに、俺の手を見ていた。
それから、今度は指先をくわえて、人差し指の付け根に歯をあわせた。
「ちどりさん……あの」
返事はない。他にどうしたらいいのかわからないみたいに、ちどりは俺の指を噛んでいる。
「あのな、ちどり。子供じゃないんだから、やめろ」
「……今だけです。悪いのは、隼ちゃんだから」
「……そりゃ、悪かったけどさ」
さすがに、落ち着かないし、困る。
というより、これはさすがに、まずい。
人差し指の先端に、ちどりの舌先が触れる。
「ちどり」
すねたみたいに、ちどりはこっちを見ない。
……まずい。これは。
ちどりだって子供じゃないし、俺だってもう子供じゃないのだ。
俺はひそかに自分のなかで何かがうごめくのを感じ、
その事実に、
怯える。
「……ちどり」
からだが、こわばるのを感じる。
それが伝わっただろうか。
ちどりは、ようやく我に返ったみたいに、口を離した。
「あ……ご、めんなさい」
「……ん」
俺は、自分の指先を見る。
人差し指の先に、歯の跡が残っている。
痛みはない。
ただ、暖かに圧迫された感覚だけが残っている。
「……わたし、なにか、拭くもの、とってきますね」
逃げるみたいに立ち上がって、ちどりは部屋からぱたぱたと出ていった。
顔は見えなかったけれど、耳がほのかに赤かったのに気付く。
こんなつもりで伝えたわけじゃない。
熱のせいか、いまの光景のせいか、ほのかに濡れた指先のせいか、
それとも、それ以外の何かのせいか、
頭がぼんやりとしたままだ。
「頭が、おかしいのか、俺は……」
おかしいのかもしれない。おかしいんだ、きっと。
こんな……こんなありさまは。
──だから、心配せずにいてください。わたしは大丈夫だから。
自分が、何を考えるべきなのか、どうあることが誠実なのかわからなかった。
ちどりの混乱が、俺にまで伝播したみたいだ。
ちどりが寂しがってるなんて、それがここまでなんて、まったく気付かなかった。
自分が彼女にとってそこまでの存在だとは、思っていなかった。
卑屈と傲慢は、紙一重なのだと思った。
ちどりは濡らしたタオルを持って戻ってきて、また椅子に腰掛けた。
差し出されたタオルで、俺は自分の指先を軽く拭く。
彼女の頬はまだ少し紅潮して見える。
「おかえり」と試しに言ってみると、「ただいま」と恥じ入るみたいな調子で返事が帰ってくる。
「……忘れてください」
「そうするよ」
「……なんで平然としてるんですか」
「どんな態度でいてほしいんだよ」
「さすがに、ちょっと、平然とは、していてほしくなかったです」
「気難しいな」
「隼ちゃんが変なんです」
「今更だろう」
ちどりはそこで、少し不服そうに眉を寄せた。
「また、そういうこと言う」
「そういうことって」
「ふてくされたみたいなこと。隼ちゃんは、すぐそうやって拗ねる」
「……ちどりの方こそ、拗ねてるみたいだぞ、今日は」
「……」
何か言いたいのだけれど言葉がまとまらないのだというように、ちどりは口をもごもごさせる。
それから不満げに、ばしばしと俺の肩を叩いた。
「なに……」
「隼ちゃんのばか」
「……」
「ばか」
「なんだよ」
「うるさいです」
そう言って、彼女は顔を隠すみたいに、膝の上で腕を組んで、からだをたたむみたいに自分の顔をそこに押し付けた。
「うるさいの……」
「……どうしたの」
「わかんない。わかんないです。なんだか、すごく混乱して……」
「どうして」
「……もう、隼ちゃんに近付いたらだめなんだって思ってたから」
「……」
「急に嘘だったなんて言われても、困ります」
「悪かったとは、思うけど」
「……ちょっと、喋らないでください」
そうすることで状況を整理できるというんだろうか。
ちどりは本当に、珍しいくらいに混乱したようすだった。
それでかえって、俺は今まで自分がちどりに何をしてきたかを理解できる。
ちどりは、なにひとつ気にしていないと思っていた。
俺に彼女ができたことも、俺とあまり会わなくなったことも。
彼女にとってはそんなに大きな痛手とはなっていないのだと、勝手に思っていた。
「……ちどり、今日は帰れよ」
「……え?」
「風邪、うつるから。もう十分助かったから」
ちょっと、冷たい言い方だっただろうか。
そんな気もしたけれど、正解がわからない。
いずれにせよ、今日はもう、互いに頭を冷やすのがいい気がする。
これ以上一緒にいてもなんにもならない。
「……あ、ごめんなさい。熱、あるのに」
「話してると、気になんないからいいよ」
「……隼ちゃん、眠ってください。わたし、本でも読んでますから」
「さっきまでぐっすり休んだから、いまはそんなに眠くないよ」
「そうですか。帰ったほうがいいですか?」
「……帰ったほうが、いいと思うけど」
「それは、わたしを気遣ってるからですか。それとも、迷惑だからですか」
「迷惑ではないが、迷惑をかけるのは忍びない」
「じゃあ、少しだけ、お話してもいいですか」
そう言って、彼女は椅子から降りて、ベッドの脇で膝をつき、布団の上に身体を預けるみたいにした。
「……どうしたんですか、ちどりさん」
「訊きたいことがあったんです」
彼女は頬を布団に押し付け、まぶたを閉じる。
「……隼ちゃんは、どうして文章を書くようになったんですか」
「……」
「隼ちゃん、小学の頃以来、文章なんて書かなかったのに」
どうして。
どうしてだろう。
読書感想文でさえちどりに書かせていた俺が、どうして自分で文章なんて書き始めたのか。
小説が好きだったとか、そういうわけでもなく、昔から書いてみたかったとか、そういうわけでもなく。
ただ、何の理由もなく? そういうわけでもないだろう。
あえて言うなら、やはり、
「……誘われたからかな」
「さそ、われた?」
「うん。文芸部に。それに……」
「……」
ちどりは黙って、まぶたを閉じたままにしている。
「ちどり、眠いの?」
「……少しだけ」
「ここで寝ると、風邪うつっちゃうかもしれない」
「さいきん、寝不足で……」
話が繋がっていない。
「夜更かしでもしてるのか」
「違います。なんだか、変な夢ばかり見るんです」
「……どんな夢?」と俺は思わず訊ねた。
「たいした夢じゃ、ないんですけど、湖で……」
「"湖"?」
「毎朝、湖面に靄がかかって……」
「……湖って、どこの?」
「……」
「ちどり?」
……返事がない。どうやら寝てしまったらしかった。
少し気がかりだが、とりあえず、慌てる理由はないような気がする。
目をさましたら、聞けばいい。それに、俺だって、いいかげんもっとちゃんと休むべきだろう。
体調が悪いままだと、いざというときに無理がきかない。
……"毎朝"、か。
そのことは、やはり、今考えても仕方ない。
ちどりは、静かに寝息を立てている。寝不足というのは本当らしく、ちょっとやそっとじゃ起きそうもない。
俺は、さっき彼女にされた質問を思い出して、ひとりで考える。
「どうして文章を書くようになったか?」
べつに大層な理由なんてない。
俺は本来、文章を一切書くことができない人間だった。
今でも思い出すのは、小学校の低学年の頃、国語の授業で読書感想文を書かされたときのことだ。
低学年向けの絵本に近い課題図書をみんなが読んで、みんなで感想文を書いた。
クラスメイトたちが次々と文を仕上げていく間、俺だけが一文字も書き出すことができなかったのだ。
授業の時間、まるまるずっと、本を読み返したりしたけれど、「感想」なんてものひとつも出てこなかった。
何か思ったことを書けばいいと言われても、それがわからない。
表現の仕方がわからないのか? 言葉が出てこないのか?
たぶん、そんなに珍しい話のだろうが、それでも俺は書けなかった。
そして放課後、俺は居残りになり、担任の先生と一緒に感想文を書くことになった。
けれどもちろん、事態が変わるわけでもなく、俺は一文字も書き出せない。
苦肉の策、だったのだろうか。最終的に担任は、原稿用紙と鉛筆を俺の代わりに握った。
そしてこう訊ねてきたのだ。
「どんな話だった?」「どう思った?」
俺は答えられない。
担任は訊き方を変えた。
彼女は本をぺらぺらとめくり、あるひとつのシーンを開いて、俺に見せ、
「このシーン──かわいそうだと思わなかった?」
と訊ねてきた。
俺は、何秒か黙り込んだあと、頷いた。
担任は原稿用紙に鉛筆を走らせた。
"この話を読んで、ぼくはなんてかわいそうな話なんだろうと思いました。"
担任は手品を見せたあとみたいに微笑した。
俺はたまらなくおそろしい気持ちになりながら、その様子を見ていた。
担任は俺に質問し、俺の感想を訊ねているように見せかけながら、
疑問形で"正答"を付け加えた。そうすることで、俺は頷くことだけで感想を表明することになった。
そして原稿用紙二枚分の感想文が出来上がった。
俺はそれがおそろしかった。
その「正しい答え」は、担任としては、書き方を教えたつもりだったのかもしれない。
けれど、俺が感じたことは逆だった。
俺はむしろ、「そう感じること」が正解で、「そう感じない」のは間違っているのだと言われた気がした。
その感覚は、読書感想文が市のコンクールに入選したことでよりいっそう強まった。
体育館のステージの上で賞状を手渡され、館内にまばらな拍手が響いた。
朝会が終わったあと、家が近いからという理由でよく話す上級生が声をかけてきた。
──すげえよな。新聞にも載ったんだぜ、おまえの作文。
俺は答えられない。
──俺、読みながらちょっと泣いちゃったもん。
答えられない。
その頃の記憶はもう虫食いの部分のほうが多いくらいなのに、未だにそのことだけはくっきりと思い出せる。
あのとき以来俺は文章を書かなくなった。読書感想文はちどりに任せるようになった。
それがどうして、今書いているのか。
まあ、答えはきっとシンプルだ。
文芸部にさそわれたから、と、コンプレックスがあったから、だ。
初めから、"文章を書けない"というコンプレックスから始まって書くようになったのだ。
それがだいぶマシになったのだから、言うことはない。
ちどりの寝顔を見て、俺はこっそりと、彼女の髪に触れてみる。
誰かに触れるたびに、なにかを盗み取ろうとしているような気分になる。
どうあっても、俺は人を突き放せないような気がする。
遊びに混ぜてもらっているような気持ちで、ずっと生きている。
いつだってそれが奇跡みたいに思えてしまうのだ。
◇
ふと気付くと俺は眠っていて、起きたときにはちどりはいなかった。
枕もとには書き置き。
「熱がだいぶさがったようすなので、帰ります。おだいじに。今日のことは誰にも秘密にしてください」とあった。
メモ書きをとりあえず枕元に置き、自分でも体温を計ってみた。
三十六度八分。ずいぶん上がったり下がったりする熱だ。
たしかに熱は下がったらしい。食欲もある。この分なら回復したと思ってもいいだろう。
ついでに時計を見ると、まだ七時頃だった。ずいぶん長く寝た気がする。
……こんなに急激に体温が変化して、人間って大丈夫なのか?
まあ、今は無事なのだからいいだろう。
そこで誰かが階段を昇ってくる音がした。ちどりが忘れ物でもしたのか、と思っていたらドアを開けたのは純佳だった。
「おかえり」と最初に声をかけると、純佳はきょとんとした顔になった。
「ただいま帰りました。……起きてたんですね」
「いま起きたとこ」
「ちどりちゃんからメールで、熱だって」
「だいぶ落ち着いたみたいだ。疲れが溜まっていたのかもしれない」
と、よく言うけれど、そういえば俺は、疲れが溜まっていると熱が出るというメカニズムが事実に即しているのかどうか知らない。
昼間のことを考えるに、体調以外の要因が大きそうな気はするのだが。
「やっぱり兄はばかです」
そう言って今度は、さっきまでちどりがしていたみたいに、純佳がベッドのそばに寄り添った。
「……あのな、子供じゃあるまいし、熱出したくらいで心配しすぎだよ」
茶化したわけでもないけれど、純佳は否定すらせずに、
「心配くらいします」と言った。
「他の誰が心配しなくてもわたしは心配します。普通じゃないっていわれても、それでかまわないです」
彼女もまた、まぶたを閉じた。違うのは、純佳はすぐに顔をあげたことだった。
「おなか、空いてますか。ごはんは食べれますか?」
「……ん、どうかな」
「風邪ひいたとき、食欲ないなら、食べないほうがいいらしいです」
「へえ。無理しても食べたほうがいいって聞く気がするけど」
「風邪のときは、からだは風邪を治すためにがんばってるわけです。その仕事をしてるから食欲が抑制されて、
でも、そのときに無理して食べちゃうと、治す仕事が中断させられるんです。消化器系が弱ってるなら、余計な負担もかかります」
「……博識だな?」
「こないだテレビで言ってました。食欲、ありますか?」
「長々と話をさせて恐縮だが、食欲はある」
「……よかったです」
本当にほっとした顔を見せる。
最近は、こいつのこんな顔ばかり見ている気がした。
「……あれ、これ」
と言って、純佳は俺が枕元に置いたままにしていたメモ書きを手にとった。
「……兄、ちどりちゃんに何かしたんですか?」
怪訝げな表情で妹に睨まれる兄の図である。
「なにかって」
「いったい、ちどりちゃんに何をしたんですか? あるいはされたんですか?」
「看病されたんだよ。それだけだ」
「……それだけならこんな書き方しないと思いますけど」
「気になるならちどりに聞けよ。なんにもないっていうから」
「それはまあ、ちどりちゃんが事実の隠匿を兄に依頼している以上、そうでしょうけど……」
頭も口もやたら回る奴だ。とっさに言葉が次々出てくるところがすごい。
とはいえまあ、ちどりの書き方も拙かった。
「今日のことは誰にも秘密にしてください」。あいつは言葉選びが逐一意味ありげなのだ。
「……まあ、あまり立ち入らないでおきます」
「そうしてくれ」
「とにかく、今日は油断せずに早めに休んでください。ごはんはつくりますから」
ああ、と頷いたとき、インターフォンのチャイムがなる音が聞こえた。
「……誰だろう。見てきますね」
そう言って純佳はいなくなった。
ひとりになって、俺はもう一度さっきの書き置きを眺めてみる。
秘密、秘密。
心配しなくても、ちどりのことを話すような相手は俺にはほとんどいないっていうのに。
それともちどりは、何か別のことを心配していたんだろうか。
……別のことってなんだ? 自分で考えたことなのによくわからない。
「兄」
「ん」
「おともだち、お見舞いにきましたけど」
「……友達?」
「はい」
「連絡もなしに……」と思って、ふと思い出す。携帯はどこだろう。
枕元、テーブルの上。ない。
……制服のポケット。そうだ。ちどりが着替えさせたと言っていた。
冷静に考えるとやはり、着替えさせられたというのがどうにも居心地が悪い。
などと今考えても仕方ない。
とりあえず立ち上がり、クローゼットを開け、吊るされていた制服のポケットを探る。
すぐに見つけて、画面を開く。
大野から何通かメッセージが来ていた。
寝巻き姿は気まずいが、大野ならいいだろう。とりあえずそのまま玄関に向かった。
体調はだいぶマシになっている。
そして俺の家の玄関口には、大野と市川と真中が立っていた。
俺はさすがに開き直るしかなかった。
「みなのもの、おはよう」
と俺は手を挙げて言った。「何を言ってるんだこいつは」という顔を市川がする。
「元気そうだね」と市川は言う。
「そうでもない」
「うん。妹さんに聞いた。体調悪かったんだってね。それならそうと、言ってから帰ってくれればいいのに」
「心配かけたか?」
「わたしが? ううん」
市川は心底意外なことを言われたというふうに目を丸くした。
こいつのなかで「自分が三枝隼を心配する」ということはものすごく意外なことらしい。
まあそれもいいだろう。正直なやつは気疲れしなくていい。
それにしても、さっきから大野と真中がやけに静かだ。
というより、むしろ、顔色が悪いようにすら見える。
何か驚いているみたいな。
「……そっちのふたりも、わざわざ悪かったな」
「あ、ああ」
やっぱり、大野の反応は鈍い。
それにしても、純佳も意地が悪い。あいつは真中を知っているんだから、そう教えてくれればよいものを。
「連絡かえってこなかったから、心配なのもあってな。昼間、体調悪そうだったって真中に話したら、見舞いにいこうっていうので」
「ああ、そうか。今はおかげでだいぶよくなったよ」
「せんぱい」
と、不意に口を挟んだのは真中だった。
「……ん」
その声の冷たい響きに、俺はいくらか驚いていた。
真中の顔つきは何かを抑え込むみたいにこわばっている。
「せんぱい、ひとつだけ、訊きたいんだけど……」
「……なに」
「この家に……さっきまで、せんぱいたちのほかに、誰かいなかった?」
「……真中?」
「せんぱい。なにか、隠してること、ない?」
「……」
ずいぶん、真剣な様子だ。答えを間違ったら、どうなるっていうんだろう。
「……たくさん、あるけど」
「そう。ねえ、せんぱい。わたしたち、ちょっと前からこの家の近くにいたんだ。
すぐに来なかったのは、ちょっと話し合うことができたから」
「……」
「せんぱい、わたしたち、ここについたとき、玄関から青葉先輩が出ていくのを見たの」
「ん……?」
真中は、俺の言葉を待つみたいに間を置いた。
この期に及んで俺は、どう返事をすればいいのかわからないでいる。
ちょっと驚いたような気持ちだった。
「せんぱい、ひょっとして……せんぱいが、青葉先輩をかくまってたの?」
「……あ、ああ。そうか、おまえらから見たら、そうなるのか」
「……どういう意味?」
「いや、違う。そうか、無理もない。……そうか」
普通そうなるか。同じような顔の人間がふたりいるなんて、まず考えない。
だから、同一人物だと、自然と考えてしまうのだ。
「違うよ。……あれは瀬尾じゃない」
「……青葉先輩じゃない? じゃあ、誰だったの?」
「あれは……」
……少し、考える。
「純佳」
リビングで待機していた純佳を呼ぶと、彼女は扉の隙間からひょこりと顔を出した。
「ちょっと出かけてくる」
「だめです」
「……」
駄目ですと来た。
「寝ててください」
「心配ないよ。だいぶ平気になったから」
「無理をするとこじれます。無理をするとこじれるんです」
二回言った。……ああ、そうか。
無理をするとこじれるのか。そんな言葉が妙に印象に残ってしまった。
とはいえ、このままこいつらを帰すのはよくない気がした。
不信感と混乱というのは、抱いているほうが疲れるものだ。
そういう負担を、この場でこいつらに背負わせるのはよくない。
まして……今後はもっとあれこれあるかもしれないのだ。
こんな勘違いなんかで、互いに消耗してもいられない。
「……じゃあ、純佳、ひとつお願いがある」
「……なんですか」
「こいつらを、『トレーン』に連れて行ってやってくれないか」
「『トレーン』に?」
純佳はあからさまに戸惑った表情になった。無理もない。
この場で俺以外に、俺の考えていることを理解できるやつはいないだろう。
だからこそいいかげん、情報の共有をしておいたほうがいい。
それは俺にとって恐ろしいことでもある。
「ちどりに会わせてやってくれ。本当は俺がいけたらいいんだが」
「……どうして?」
「まあ、ちどりに何か言う必要はない。純佳はちどりを呼んで、今日のお礼をあらためて伝えてくれればいい」
「……」
やはり要領を得ない様子だったが、それ以上は純佳には説明しない。
俺は全員の顔を順番に眺めてから、言った。
「たぶん、俺に訊きたいことができると思う。その説明は、明日の放課後にする。
純佳にも……あとでちゃんと話す。隠し事はいいかげんやめる。それでいいだろう」
「……せんぱい?」
「行って、見ればわかる。俺は純佳の言う通り、今日は休むことにするから」
「……わかりました。柚子先輩、準備するので、少し待っててください」
「わざわざ来てもらったのに、悪いな。明日ちゃんと話すから、今日はもう行ってくれ」
納得した様子ではなかったが、三人は頷いてくれた。
市川だけが、何を考えているかわからなかったが、それも仕方ない。
他人の考えを読み取る力は俺にはないんだから。
そうして四人が玄関から出ていくのを眺めてから、俺は自分の部屋に戻った。
いろいろなことが、一気に起きるものだ。
◇
しばらくして、大野から連絡があった。
「誤解は解けた。詳しいことは、明日、学校に来られたら聞く」
「了解」とだけ返信した。
それから少しして、純佳が帰ってくる。
俺はリビングで彼女を待っていた。
「……いろいろ、柚子先輩から聞いてきました」
「ん。どんな?」
純佳は何を話せばいいのか、困ってしまった様子だった。
「……柚子先輩たち、ちどりちゃんを見てびっくりしてました。
兄と一緒の部活の子と、そっくりなんだって。その人が、いなくなったんだって」
「……うん」
「じゃあ、兄。こないだ公園に行ったときに話してたのは……」
「そういうことだな」
「……やっぱり、ほんとに探してたんだ」
「……そういうことになる」
純佳はそれ以上何も聞かなかった。
何を聞けばいいのかもわからなかったのかもしれないし、俺の体調に気を使ったのかもしれない。
ちどりと瀬尾がそっくりだということは、ただそれだけなら、べつに考えても仕方ないような話だ。
大野も真中も市川も、複雑な何かを感じはするだろうが、結局のところそれを瀬尾の失踪と関連付けはしないだろう。
俺たちはそのあと夕食を食べ、俺はやっぱりすぐに休むことにした。
眠れるだろうか。……たぶん、眠れるだろう。
ひどく身体が疲れているのは事実だ。
明日、大野たちに、何を話せばいいだろう?
考えてみたけれど、うまく思いつかなかった。
◇
その夜、また、あの葉擦れの森に、俺の意識は浮かんでいる。
それが夢なのか、それとも二重の景色の片割れなのか、やはり判断がつかない。
目の前に、カレハがいる。
「ずいぶん、苦しそうでしたね」
そう、彼女は微笑んだ。
「……あ」
と、試しに声を出してみた。
そして驚いた。
……どうして、声が出せるんだ? 以前はまるで話せなかったのに。
「いえ、声を出せているわけではないです」
カレハは俺の方を見ている。……見られている俺の身体を、俺はうまく動かせない。
「不便なものですから、便宜的に、声を用意させていただきました。こういう機会もなかなかないものですから」
用意、と来る。ずいぶんな話だ。厄介な相手という印象は変わらない。
が、絶好の機会と言えば、そうだ。
「……いくつか、訊きたいことがある」
「わたしに訊いて、わかることでしょうか」
「だといい。そうじゃないとしても、整理したいから、ちょっと付き合ってもらう」
……そう、そうしないといけない。
瀬尾のことは、ひとまず、瀬尾のことだ。
それとは別の問題が、俺の目の前に浮かんでいる。
いいかげん、そっちにも向き合いたい。
カレハは、ゆっくりとした動作で俺のそばに座った。
「どうぞ」というふうに、彼女は微笑む。
風は吹いているが、景色が統一されている分、昼間に聞くよりも、葉擦れの音はだいぶマシだ。
混乱していない分、助かる。
「きみは、いったいなんなんだ?」
「……なんなんだ、と聞かれても」
カレハは落ち着いた様子でゆっくりと首を傾ける。
どこか忙しない口調のさくらとは、また違う。
彼女はやはりさくらとは違う存在なのだ。
「わたしには結論は出せません。あなたがさくらと呼ぶ少女とは、また別の存在です」
「……神さま、か?」
彼女は含み笑いを漏らす。
「違います。けれど、あなたたちから見たら似たような存在かもしれませんね。
少なくとも、あなたたち人間とは少し違うルールで動いているかもしれません。
理から外れた存在とでもいえば、少し、かっこいいですかね」
「……」
「呆れましたか?」
「いや、意外だっただけだ。……とにかく少なくとも、人間ではない」
「はい。幽霊でもないです。神というのは違います。悪魔でもないはずです。
もっとも、定義によります。怪異とか、妖怪と言われたら、はずれではないかもしれない」
「きみをどう呼ぶかはべつにして、とにかく……きみのような存在が、いる」
「はい。聞き分けがいい子は好きですよ」
カレハは子供を見るように微笑む。
カレハのような存在が、いる。ひとまずそれを、認めなければいけない。
さくらやカレハのような存在。神隠し、神さまの庭、葉擦れの森、そういう存在が『在る』。
ひとまずそう仮定することからしか、話は進まない。
今まで俺がそれを真面目に考えてこなかったのは、あまりにもバカバカしいからだ。
まず第一に、神隠しの記憶を、俺は夢だと思い込もうとしてきた。
あんなバカバカしいことが現実にあるわけがない、と。
そして、瀬尾とちどりの顔が……いや、体格や体型すらもが、あまりに似通っていることについても、偶然だと思おうとしてきた。
これは自然なことだろう。
どれだけ似ていても、髪型や表情の変化が違えば別人のようにも見える。印象が似ているだけなら、そんなに珍しい話でもない。
神隠しが夢で、瀬尾とちどりのことが偶然なら、葉擦れの音や二重の景色は、単に俺の幻覚に過ぎない。
けれど、もう事態は、そういうものを否定できないところまで来てしまった。
ひとつは怜の言葉だ。
怜には神隠しのときの記憶がある。
少なくともあいつは『神隠し』を体験している。そして、何度も『むこう』に行っている。
『むこう』の存在は、これで少なくとも俺だけの夢や幻ではなくなる。
そして、それが事実なら、俺が見てきたこの二重の景色と葉擦れの音は、その現象となんらかの関係があるはずだ。
もうひとつは、瀬尾青葉の失踪と、彼女からの手紙。
誰かがかくまっているとか、どこかに隠れている、という可能性は、状況上、低い。
であるなら、彼女はやはり、『むこう』のどこかにいる、と考えることができる。
いま、この場所も……たぶん、ただの夢ではない。
まずは、それを前提にしよう。
これらの現象はたしかに起きている。
さくらやカレハの存在、神隠し、神さまの庭、瀬尾の手紙、『むこう』との行き来、二重の風景。
その仕組はおそらく、考えてもわからない。
問題はそれが現に起き、俺たちに影響を与えているという点だ。
ひとつずつ、整理しなければいけない。
今までうまく考えられなかったのは、いろんなものを同時に解決しようとしていたせいだろう。
問題は、分けて考えなければいけない。
分けて検討したあと、すべてを結び直す必要がある。
瀬尾青葉が向かったのはどこか。
答えはもはや、ほとんど出ている。神さまの庭。神隠し。怜の発言の通りなら、『むこう』のどこか。
どこから向かうかで、どこに出るかが変わるという。
瀬尾の靴は下駄箱に残されたままだった。ということは、瀬尾は校内のどこかからむこうへと渡った。
そしてむこうで生活をしている。怜が『むこう』で学生証を拾ったのも、状況的には証拠の一つになりうる。
とはいえ、学生証がふたつある意味も理由も仕組みもわからないままだ。ただ、「それは起きた」。
瀬尾が「伝奇集」を介して手紙を送れる仕組みについても同様だろう。
そして怜の話を信じるならば、『むこう』へは、いける。
少なくとも、怜は通っていた。
さいわい、瀬尾がどこから『むこう』へ渡ったかということについてもも、まったく宛がないわけではない。
ということはつまり、瀬尾青葉の行方については、五里霧中というわけではない、ということだ。
問題は、別にある。
誇大妄想のような、ひとつの想像。
それが、目の前にいるカレハによって、より強調される。
見れば見るほど、さくらとそっくりだ。
そこについては、直接訊ねるのがいいだろう。
「カレハ……と、呼んでいいんだよな?」
「はい。名前は必要ですから、便宜上」
便宜上、と来る。
「カレハとさくらは、似ている」
「はい。そうですね」
やはり、そうだ。
「きみは、さくらを知っている」
「はい。知っています」
「けれど、さくらは、きみの存在を知らない」
カレハは感心したような顔になった。
「そこに目をつけるとは」
「……そんなに意外でもないだろう」
「てっきり、『そういうものだ』と受け流してしまうと思いましたから」
「もうひとつ、気になった点があったから。さくらは以前、俺に『森』についての予言をした。
……でも、それがなんなのか、彼女自身でもわかっていない様子だったんだ」
なるほど、とカレハは頷いた。
「『森』について知っているのは、カレハの方だった。きみは俺に、以前、その話をしたな」
「はい。わたしはここにいますから」
ここから先の話をするのは、俺にとってはひどく苦しいことだ。
「さくらとカレハは……なんらかの形で、繋がっている。
感覚か、意識か、記憶か、それがなんなのかはわからない。どこまでの規模なのかもわからない。
別人で、知っていることも過ごしている時間も違う。それなのに……繋がっている」
カレハは、やはり子供を褒めるみたいな顔で、手をぱちぱちと叩いた。
「すごいですね」
その言葉が肯定だとわかる。
少なからず、俺はショックを受けた。
否定してほしかった。
そうじゃなければ、このあとの話は、いっそうの混乱をきたすことになる。
それでも続けなければならないだろう。
いっそこんな景色さえただの夢であれば、どれだけいいことか。
「逃げられませんよ」と見透かしたみたいにカレハは笑った。
「あなたは逃げられないんです」
まじないみたいに、繰り返すだけだ。
カレハは、俺の言葉を補足するみたいに、勝手に話しはじめた。
「わたしとさくらは、ある程度、感覚を共有しています。もっとも、そんなにはっきりとした感覚ではありません。
ある程度、です。そして、彼女とわたしはまったく同じ存在というわけでもない」
「けれど、同じ部分もある。さくらは心を読み取る力があり、神出鬼没だ。
そしてきみもまた、俺の心を読み取ることができる」
「……そう断言してしまっていいんですか?」
「以前、きみは声を持たなかった俺の考えていることを読み取ってみせた。
それに、俺の書いた小説にさえ言及した。これで不十分か?」
別の可能性だって、考えることはあった。
たとえばカレハと、彼女がいるこの森が、俺の記憶が作り出した夢である可能性。
葉擦れの森が現実に存在するからといって、この森が「現実」とは断定できない。
むしろ、普通に考えたら、現実ととらえるほうが不自然だ。
なにせ俺はどこからも『むこう』に行っていないんだから。
夜ごと見る夢だと考えるほうが、自然だろう。
そうだとすれば、カレハが俺の小説について知っていてもおかしくない。
俺が作り出した夢なんだから。
けれど……そうじゃないと仮定したとき、仮説が生まれる。
さくらとカレハが、よく似た別の存在であること。
彼女たちがある程度感覚を共有していること。
それはひとつの可能性を示す。
「同様のことが、瀬尾青葉と鴻ノ巣ちどりの間に起きている、と考えられる」
カレハは、肯定も否定もしない。
「……少し、突飛な想像という気が、やはりしますね」
もちろん、俺にだってわかっている。けれど、この仮説を続けるしかない。
実のところ俺は、的外れであってほしいと願っているのだ。
「俺は瀬尾青葉の家に行き、彼女が血縁のいない、孤児だったと知った。
彼女の……こう言ってよければ、親、が、彼女を見つけたのは、六年前の五月だった」
「……なるほど」
「六年前の五月、俺と、ちどりと、怜は、神隠しに遭った」
突飛な想像。たしかにそうだ。
けれど瀬尾の家に行き、六年前の五月の話を聞いたとき、俺は謎が解けたような気分になったのだ。
それまで、瀬尾とちどりが似ているということは、不思議なことではなかった。
俺にとっては大きな意味を持つことだったが、そこに裏があるなんて考えていなかった。
「カレハ、俺が間違っていたらそう言ってくれていい。
俺たち三人は神隠しに遭い、帰ってきた。
同時期に、『ちどりにそっくりな瀬尾青葉』が現れ、俺は『風景が二重に見える』ようになった」
「……」
「理屈はわからない。話している今だって信じられないし、あまり信じたくもない」
カレハは見透かしているように微笑する。
生徒の答えを静かに待つ教師のように。
「ちどりは今日、『湖の夢を毎朝見る』と言った。
瀬尾青葉は、『静かな湖畔』で過ごしていると書いていた。
……理屈は、わからない。でも、さくらとカレハが繋がっているように、ちどりと瀬尾も繋がっているんじゃないか」
「……どう、でしょうね。わたしは、どちらにも会ったことがありませんから」
「……全部仮説だ。土台になる部分に証拠がなにひとつない。状況からの推測だ。
そしてそのうえに、もうひとつ重ねることができる」
いや、重ねなければならない。
「俺はいま、葉擦れの森にいる。葉擦れの景色を見ている。からだは動かせない。きみがそばにいる。
……この声は、きみがどうにかしてくれているんだったな」
「……はい」
「葉擦れの音、二重の景色。これが夢でも幻でもないなら、俺はこれを『見て』いて、『聴いて』いるってことだ」
それはつまり、感覚を得ている、ということになる。
「夜眠っている間も、どうして葉擦れの音が聞こえるのか。そのときだけ、どうして景色が二重じゃないのか。
考えてみれば単純なことだ。普段ふたつを見ている俺は、『俺』が眠っているときだけ、片方を見ているんだ」
「……」
辻褄が合う。
怖いくらいに。
「カレハとさくらがそうであるように、ちどりと瀬尾がそうであるように、俺もまた、誰かと繋がっている」
カレハは否定しない。
「そして、そいつは……眠りもせず、休みもせず、身体一つ動かせずに、この森にいる」
俺が眠っている間も、俺が起きている間も、身じろぎすらせず、夜の明けないこの森で、声も出せずにいる。
いや、あるいは、違う。
話せないのではなく、話さない。動けないのではなく、動かない。そうなのかもしれない。
なにせ、俺はこの景色を見ている"誰か"の身体の主導権をもっているわけではなく、
「その誰か」が見ている景色、聴いている音を、共有しているに過ぎないからだ。
カレハは、その身体に宿っている俺の意識を、彼女自身の力で読み取っていた。
そして、俺の意識に"声"を与えて、会話を試みた。
けれど、当の身体の持ち主は……カレハにも、俺という存在にも、何の反応も示さない。
「よく、そこまで考えつきましたね」
カレハはまた微笑む。その笑みが、おそろしいと思った。
「ご褒美に、見せてあげます。からだを動かす気は、ないみたいですから」
「……なにを」
「このからだを動かす気がない以上、あなたはこのからだを見ることができない。
目は頭上をずっと眺めていますからね。あなたが、夢だと感じたのも無理はないです。
わたしやさくらなら、相手がからだを動かせば、それが自分じゃないとわかりますから」
そう言って彼女は、"俺"(の視界)に近付いた。
そっと、手に何かが触れる感触が、かすかに感じられ、"それ"が視界に映るように持ち上げられた。
「見えますか?」と彼女は訊ねる。
俺は、背筋が粟立つのを感じた。
「これが腕ですよ」
焦げ茶色の肌は、えぐれたように細い。
骨と血管が浮き出て、月夜に照らされ、枯れ枝のようにいくつも窪みがある。
人間の腕というよりは、ミイラの腕のようだった。
それは生きている人間の腕とは思えなかった。
死体の腕のように見えた。
その腕の持ち主の視界を、俺はいま、眺めている。
「……あとちょっとですね」とカレハは言う。
「もしまだわからないことがあれば──」と、続いた。
「さくらのことを知っている人に、訊いてみるのがいいかもしれませんね」
そして彼女は腕を離し、月を見上げた。
不意に、思い出したように声をあげる。
「そういえば、さくらは、この世界は愛で満ちていると言っていましたね」
そう言った表情に、どうしてだろう、嘲りのようなものが、含まれているように見えた。
葉擦れの森は、ざわめいている。
「それは、さくらの景色。わたしのとは、違う……」
俺は、何かを言おうとして、もう声を出せなくなっていることに、遅れて気付いた。
カレハは俺のことなんて忘れたみたいに、もうこちらを見ようともしない。
「この世界は、愛や、歓びや、安心や、幸福に、"満ちてはいない"」
彼女は歌うようにそう微笑んで、
ひそやかに"俺"の……枯れ枝のようだった腕の持ち主の方を見た。
「もうすぐですよ」と彼女は言う。
「たどり着けるといいですね」
そうしてカレハは姿を消して、
俺は、動かない視界のまま、葉擦れの音を、聴いているほかなくなった。
叫ぶべき声も動き出す力ももはやない。
まるで枯れ木のひとつのように、ただ夜を眺め続けるだけだ。
◇
翌日、まだ心配そうな様子の純佳に起こされた。
前日の夜からそうだったが、具合はだいぶマシになっていた。我ながら単純な身体をしている。
葉擦れの音は、いつもよりだいぶ控えめに感じられる。
認識の問題だろう。
「無理はしないでくださいね」と純佳は言う。
「大丈夫だよ」と俺は言った。
純佳のつくった弁当の入った巾着袋を鞄に入れて、俺たちは一緒に玄関を出た。
さあさあという雨音が降っているのを聞きながら傘をさす。
「今日はバイトは?」
「……ああ」
と思って、俺は携帯を見た。シフト表は写真に撮って残してある。
「今日は休みだな」
「わかりました。晩ごはん、どうしますか?」
「んん……。食べる」
「なにがいいですか?」
「ええと、そうだな……」
何が食べたい、と聞かれるとなんとも言いがたい。
「……オムライスとか」
「……オムライス、ですか」
ふむ、と、純佳は考えるような顔つきになった。
「わかりました」
わかりました、とだけ言われると、何を言い加えるべきか迷う。
「……兄」
「ん」
「しつこく言いたくありませんが、無理はしないでくださいね」
……やっぱりこいつは、俺の心を見透かしているような気がする。
「肝に銘じとくよ」
いつもどおり、そう言っておいた。
◇
教室に着くと、大野がいた。
おはよう、とひとまず声を掛け合う。
「調子はどうだ」
「至って快調だ」
「それはよかった」
そして話は、すぐに昨日のことに流れる。
「ちどりには会ったな」
「ああ。昨日はおまえが何を考えてるのかと思ったが、納得がいった」
そうか、と俺は思う。
大野はそれで納得するのか。
「でも、どうして話さなかったんだ?」
「なにを?」
「今まで、雑談でもなんでも、瀬尾とそっくりの知り合いがいたなんて言ってなかっただろ」
「べつに、言う機会もなかったしな」
「やっぱりおまえは、秘密主義者って気がするよ」
呆れたように、大野は言う。
以前もそんなことを言われたっけか。
今は、さほど否定する気にもなれない。
「隠し事はなしだと言っていたが……」
「うん」
そうは言ったものの、どうしたものかなと未だに迷っている。
すべてを話す気には、あまりなれない。
何を話すべきかを考えたとき、大野や真中や市川に話せることはあまりないような気がする。
瀬尾のこと、ちどりのこと、俺のこと、その全部が、意味不明で混乱している。
それを、伝えてもいいのだろうか。
ましてや、昨日の夜のあの景色、あの中でカレハに聞いた言葉が事実なのだとしたら……。
……いや、けれど。
「話せるかぎりのことは、話す。俺がしようとしていることも」
「……ああ」
大野は、不思議そうな顔をした。
秘密主義。そうかもしれないな、と思う。
昼休みに俺は、一文字も目を通していないままの『伝奇集』に「近々そちらに行く」というメモを挟んで図書室に返却した。
◇
そして、図書室を出たあと、そのまま東校舎へと向かう。
雨は朝から降り続いている。さあさあと静かな音のまま、続いている。
部室の入り口に立ち、さて、そこから始めてみよう、と思った。
部室を出たとき、既に瀬尾の姿を俺は見つけられなかった。
追いかけるまでに、そんなに時間が経っていたわけじゃない。
それでも、この周辺に入り口足り得るものがなかったか、探す価値はあるだろう。
足音すら聞こえなかったけれど、探る意味はある。
まずは、廊下の窓。
「鏡」「絵」「自然」。鏡でいいなら、窓でいけない理由はない。
その理屈でいえば、水もまた、鏡たりうる。
とすれば……どこからでもむかえるような気がする。
けれど怜は、そうは言っていなかった。あいつなら、窓や水を試さないはずもない。
だとすると、何かの条件があるのかもしれない。
窓をひとまず度外視して、周囲を見回す。
とはいえ、他にそれらしいものがあるだろうか。
「隼さん」
と、声をかけられたほうをみると、ちせが立っている。
「やあ」
「こんにちは。探しものですか?」
「……ちょうどいいっていえばいいか」
ちせは首をかしげた。
「ちせは、東校舎のなかで、鏡がある場所って知らないか?」
「鏡……? お手洗いにはありますけど」
「ん。そうだな」
それは最初に考えた候補だ。今のところ、それが最有力と言えるだろう。
「それ以外で思いつくのは、なにかないか?」
「……鏡、ですか」
「ああ」
「階段の踊り場……には、窓しかありませんね」
「だな」
考えてみれば、校舎のあちこちに鏡を置く理由もない。
そっちの線は、やはり、薄いだろう。
「とすると、絵か」
「絵……ですか?」
「そう。絵だ。絵だったら、なにか浮かぶか?」
ちせは少しだけ考え込むような顔になったが、すぐに、おそるおそる、というふうに口を開いた。
「文芸部室に……絵が飾られていましたね」
「うん。そのほかなら、どうだろう」
「……わかりません。文化部の部室棟ですから、どこかにはあるかもしれませんが」
となると、やはり、入り口はかなり絞られる。
トイレの鏡。あるいは手鏡でもいいのかもしれないが、それはひとまず置く。
そうでないとしたら、もうひとつは、あの絵だ。
俺はちせに礼を言い、部室に戻る。
なぜだか彼女は後をついてきた。
文芸部室に入り、壁に架けられた絵を眺める。
海と空とグランドピアノ。
ましろ先輩は、この絵を象徴的だと言った。
「ここに描かれているのは、空と海とグランドピアノ。ねえ、それでぜんぶなんだよ。それがすべてなんだよ。なんだかそれって、とっても綺麗じゃない?」
世界の終わりのような、あるいは始まりのような、予兆のような、余韻のような絵。
ピアノの前にひとつだけ置かれた椅子。
初めてこの絵を見たときに、俺は、孤独な絵だと思った。
綺麗な孤独についての絵だと思った。
瀬尾青葉は、部室を出て姿を消した。
その後誰も彼女の姿を見ていない。
けれど、そのときまだ彼女がむこうに行っていなかったとしたら。
俺たちが部室を出たあと、こっそりと戻ってきていたなら。
そして、この絵が『むこう』への入り口になったとしたら。
俺は静かに、絵に向けて手を伸ばす。
恐れが……湧く。
それでも、そっと触れてみる。紙の感触があるだけだ。
「隼さん……?」
不思議そうに、ちせが首をかしげた。
「……ん、確かめてた」
「何を、ですか」
ちせを巻き込むわけにはいかない。
「いろいろ」
納得がいったふうではなかったが、ちせは何も訊いてこなかった。
俺たちはそのまま部室を出る。
「隼さん、青葉さんのことなんですけど……」
「ん」
「なにかわかったこと、ありますか?」
「いや……」
俺は迷っている。
怜や、ちせや、大野や、真中、それから市川。
みんな瀬尾を心配している。
けれど、それを話すべきなのだろうか。
話してしまって、いいのだろうか。
信じてもらえるとも思えない。悪い冗談だと思われるかもしれない。
だから、
「まだ、わからない」と、そう言うしかなかった。
「……どうして、鏡と絵なんですか?」
「ちょっと調べたいことがあっただけだよ」
「青葉さんと、関係があるんですか?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない」
「隼さん」
ちせはむっとした顔になった。
「隼さん、ごまかしてます」
「……まあ、そうだな」
「ちゃんと話してください」
それでも俺はためらう。
どちらがいいのだろう。
「……ちせ、今日の放課後、暇か?」
「……はい? 放課後、ですか」
「ああ。もし暇だったら、ここに来てくれ」
「……」
「瀬尾のことについてわかったことを、そこで話す」
「……やっぱり、なにかわかってるんですね」
いかにも不満そうに、ちせは口をとがらせる。
「なにもわかってないのとほとんど一緒だよ」
「とっかかりくらいは、あるんですね」
「たぶん、あると思う」
「わかりました。放課後、ここに来ます」
「ああ、そうしてくれ」
ふと、カレハの言葉を思い出した。
さくらのことを知っている人に、話を訊いてみたら、と言っていたか。
心当たりはひとりしかいない。
ましろ先輩……この状況で、彼女が関係することが、なにかあるんだろうか。
不意に、声をかけられる。
「あの」と後ろから。
さくらだ。
まだ、ちせはこの場にいる。
なんだよ、と訊ねてみる。
「いえ、少し……話したいことが、あるんです」
話したいこと。
話したいこと?
「……ちせ。それじゃ、放課後に会おう」
「はい。よろしくおねがいします」
どこか不安そうな面持ちだったが、ちせは素直だった。
俺は逃げるみたいに階段へと向かう。
少し迷って、昇る方を選んだ。
屋上に昇るのはひさしぶりだという気がした。
もちろん、実際にはそんなことはないのだけれど、最近はいろいろとありすぎて、俺自身も混乱しているのだろう。
「話っていうのは?」
さくらは俺の言葉に答えずに、フェンスの方へと歩いていった。
見下ろす街は広い。
広い。どこまでも、広い。
「……あなたが考えていること、わたし、わかるんです」
「知ってるよ」
「カレハって、誰ですか」
「……」
「……わたし、少しだけ、未来を見ることができました。ほんのすこしだけ。
でも、今は何も見えない。……どうしてなのかわからない。なんにも見えないんです」
「見えない?」
「……わからないんです」
さくらは戸惑っている。それが、不思議な気がしてならない。
俺はこいつが、何もかもを見透かしているような気分になっていた。
俺の心を見透かして、未来を眺めて、糸を手繰り寄せるように人と人とを結びつける。
そんな人外の存在が、戸惑いを覚えるなんて、考えたこともなかった。
俺の葉擦れの音でさえ、こいつは見抜いていた。
でも、考えてみればそうだ。
こいつは、葉擦れの音の正体を知っていたわけじゃない。
俺の心を読んで、それを知っただけなのだ。
瀬尾がどうしていなくなったのかさえ、こいつは知らないんだろう。
「わたしは気付いたら、この場所にいました。そのことに疑問を覚えたことなんてなかった」
「……」
「いつからここにいたのかなんて、覚えてない。わたしを見つけたのは、ましろが初めてです。
少なくとも、覚えているかぎりだと、そうです。それまでわたしはずっとひとりだった」
何を言えるだろう。
「ずっとひとりだったこと、思い出すんです。誰にも見つからなかった。
誰にも触れられなかったし、誰にも声が届かなかった。
誰もわたしを求めていなかったし、わたしも誰も必要としてなかった」
さくら。
さくらはいる。眼の前に、いる。
俺にはそれがわかる。
「わたしは、誰にも見つからないまま、小細工や、与えられた力のいくつかを使って、人と人とを結びつけてきました。
誰に褒められなくたって、それがわたしのやるべきことだった。どうしてかは、知らない。
ただそれは、わたしがそういうものだから、そういうふうに作られたから。生まれたときから、そういう存在だったから」
世界は愛に満ちている、とさくらは言った。
この少女のことを、俺はどれだけわかってやれるだろう。
どうして考えずにいられたんだろう。
こいつが『誰からも見えない』存在だってことを。
こいつの声は誰にも届いていないってことを。
愛に満ちていると断言したこのひとりの女の子が、誰からも愛情なんて与えてもらっていないことを。
そういう存在だからと、俺はわかった気になっていた。
「わからないんです。なにも。自分が何者で、何のために生まれたのかも」
俺は、彼女に聞かせてやれる言葉を、今、持っているだろうか?
「わたしは、なんにも変わらずにいられるはずだったんです」
何かを間違ってしまったような気がした。
俺は、ここに来るまでに、いくつもの間違いを犯してきて、その最たるものが彼女に対して態度だという気がした。
俺は彼女の言葉にもっと耳を傾け、彼女を知ろうとするべきだったんじゃないか。
彼女から頼まれたことを無視するみたいに、いろいろなことが起きた。
本当は俺は、彼女の頼み事を日々ひとつひとつ消化していくことで、前に進めたんじゃないだろうか。
誰かと誰かの縁を結ぶ手伝いをして、そうすることで、何かを得ることができたんじゃないか。
どうしてこんなにも、それが混乱してしまったのだろう。
今、その結果として、彼女は混乱している。
俺が手伝いをしなかったせいなのか? それとも、『カレハ』のせいなのか?
わからない。
「……カレハは、おまえと、さくらと、繋がっていると言っていた」
彼女は俺の方を振り返って、目を合わせた。何かを言いたげに、視線が揺らいでいる。
「この世界は、愛に満ちてはいない、とカレハは言っていた」
──不思議なものですね。まるでわたしは、あなたのために生まれてきたみたいな気がします。
カレハがどういう存在なのか、さくらがどういう存在なのか、俺にはよくわからない。
たぶん答えなんて出ないような気がする。
「でもさくら、俺はまだおまえに答えを見せてもらってない。
この世界が愛に満ちているのか、それとも、空虚に充溢しているのか、それを教えてもらってない」
「……」
「だから約束だ。瀬尾のことが片付いたら、おまえの力になってやる。
おまえが望むなら、おまえのことや、カレハのことを、調べる手伝いをしてもいい」
いつのまにこんなふうになったんだろう。
俺は、こんな人間だったっけか?
わからないけれど、この子を放ってはおけない気がした。
「全部片付いたら、おまえに付き合ってまた芝居をしてやる。校内全員恋人持ちにするくらいの勢いで」
「……それは、ましろに頼まれたからですか?」
鍵の代金、とましろ先輩は言っていた。
偽っても仕方ない。それもある。
けれど、
「それだけじゃない。読めるんだろ」
さくらは、かすかに笑った気がした。
ひとりきりで、声も届かず、求めても与えられず、
そのなかでなすべきことをなそうとする少女。
郵便ポストも信号機も愛だと彼女は言った。
甲子園が好きなんだと冗談めかしていっていたっけ。
やけに古臭い言い回しだって知っていた。天王山なんて言葉だって。
でも、こいつは、そう言うこいつは、この学校から出られない。
この学校の中のことしか、知らない。
「俺がからっぽじゃなかった頃のことを、思い出させてくれるんだろ」
そうだ。俺だって、期待していた。
こいつのそんな言葉に、期待していた。
どうして葉擦れの音が止まないのか、どうして目に映る景色が、自分のものじゃない気がするのか。
そんなあれこれのなかで、俺が何かを手に入れることは可能なのか。
それはきっと、行動することでしかたしかめられない。
自分が何者であるかを規定するのは、いつだって、他者か、内面化された他者の視点だ。
他者が、自分の中に潜んだ他者の視線が、自分自身を規定する。
だとすれば、自分に対する『視線』を持たない彼女は、たしかに、何者であるとも自認できないのかもしれない。
「だったら俺が、おまえを見てやる。おまえを規定してやる」
そうやって、『これが自分だ』と胸を張って言えるものを、俺が渡してやる。
「自分のことが自分でわからないなら、俺が決めつけて判断してやる。
それを自分だって誇ればいい。誇れるくらいのおまえを、俺が見つけてやるから」
さくらは、うつむいたままくすくす笑った。
「偉そうなこと言わないでください」と彼女は言う。
「自分がなにかくらい、きっと、自分で見つけてみせますから」
その言葉に、ほんのすこしだけ、俺はほっとした。
「でも、嬉しい。……約束ですよ」
「ああ、約束だ」
そうして、俺たちは改めて契約を交わした。
◇
放課後、俺は部室に向かう前に、図書室に寄った。
大野、市川、真中、それからちせ。みんなにどんな話をするべきなのか、未だに結論は出ていない。
いずれにせよ、瀬尾の居場所についての推測を話すには、必然的に俺自身のことを話さなければならない。
それが俺にできるだろうか。
こんなことなら、怜が拾った学生証を俺が預かっていればよかったと思った。
とはいえ、それを見せたところで、何かの証明にはならないだろう。
図書室の本棚には、昼に俺が返却したばかりの『伝奇集』が既に並べられていた。
ぱらぱらと開いて、探ってみる。
返事は既に来ていた。
「やめておいたほうがいいと思います」
と一言。
名前はないが、瀬尾の字だ。
タイムラグはない。瀬尾は無事だと考えていいだろう。
俺はそのまま本棚に『伝奇集』を戻し、部室へと向かった。
東校舎に繋がる渡り廊下をゆっくりと抜け、部室へと歩く。
扉を開けると、中では既に大野と真中が待っていた。
真中は俺を見て、「昨日はごめんね」と言った。
「いいよ」
「ううん。体調、悪かったのに」
「あんまり気にするな。隠し事があったのは事実だ」
そう言うと、真中は黙った。早く内容を聞きたいのだろう。
けれど彼女も、市川が来るのを待つことに決めたらしい。
「ちせも来る」
「あ、うん。聞いた」
「……」
俺は少しだけ考えた。
すべてに結論が出たとして、謎がすべて解けたとして、俺はどうするのだろう。
真中と、俺のクラスメイトの間に縁があるとさくらは言った。
さくらの手伝いをする、と俺は言った。
仮にさくらがそれを言い出したとき、俺はどうするのか。
「……なに?」
ふと気付いたら、俺は真中のことをじっと見つめていたらしかった。
頭を振り、なんでもない、と答える。
それについても、結論を出さなきゃいけない。
嘘と偽り、まがいもの。
韜晦だらけでごまかしてきた日々に、俺も決着をつけなければいけないのだろう。
少し遅れて、市川がやってくる。
「ごめん、遅くなって」
「ああ、いや」
大野、市川、真中。
たった一月や二月、一緒に活動しただけの関係。
瀬尾がいなくなってから、この場所に違和感を感じないことはなかった。
俺たちは、あいつがいないと、うまく結びつくこともできなかった。
さて、覚悟を決めなければいけない。
そう思って、ちせが来るのを待つ。
けれど、
「……ちせ、来ないね」
しばらくして、真中がそう口を開いた。
放課後になって、結構な時間が経っている。
何かの用事があったとしても、遅い。
俺だって図書室に寄ってきたし、市川はそれより遅れてきた。
なにか不都合でも起きたのだろうか。
「……急な用事とか?」
俺は携帯を開いた。最初に会ったときに、ちせとは連絡先を交換している。
何かの事情で来られなくなったなら、連絡してきそうなものだが……。
「……」
そこで、妙な胸騒ぎを覚えた。
「真中、おまえとちせはクラスが違うよな?」
「え? ……うん」
「ちせのクラスに知り合いとかいるか?」
「……せんぱい、わたしの交友関係ってそんなに広いと思う?」
聞くだけ野暮というものか。多少は広まったとはいえ、まだいろいろと尾を引いている部分もあるだろう。
嫌な予感がよぎる。
というより、それはもはや予感なんて生ぬるいものじゃないように思える。
俺は携帯を操作して、そのままちせの番号を呼び出して電話をかけた。
これで出なかったら、出なかったら……?
俺は今日の昼休みに、あの絵を眺めた。触れるところを、ちせに見られた。
でも、何も起きなかった。
そしてそのあと、俺はさくらに声をかけられ、部室の入り口でちせと別れた。
ちせは聡い。
俺のあのときの行動をちゃんと考えれば、あの絵や、もしくは鏡になにかあるんじゃないかと察してもおかしくない。
ましてや俺たちは、瀬尾の話をしていた。
もしちせが、あのとき部室に引き返したとしたら、
あのとき俺が触れてもなんともなかった絵。
あのときはただ条件が揃っておらず、そしてちせが引き返したとき、条件が揃ったのだとしたら。
ちせは、『むこう』に行ったのかもしれない。
あまりにも迂闊だった。
あのときちゃんと説明していたら……。
それでも、どうなったかわからない。
祈るような気持ちでコール音を聞く。
「せんぱい?」と訊ねてくる真中の声に、答える余裕がない。
どうして俺は『むこう』に行けなかったんだ?
……コール音が止んだ。
ざらついたノイズが聞こえる。
「……ちせ?」
ノイズが続いている。
「……隼、さ……」
「ちせ」
ノイズ。
「ちせ、どこにいる?」
「……、さん……わたし……」
「どこだ?」
「……森……絵が……」
「すぐに向かう。あまり動くな。電話は切るな」
そして俺はポケットに携帯を突っ込んだ。
あたりを見ると、全員が俺に視線を集めている。
一瞬、この場で実演してみせるのが一番説得力があるのかもしれないと思うが、すぐに考え直す。
説明無しで俺が『むこう』にいけば、大野たちは混乱するだろう。
かといって、説明してしまえば、今度はひとりで向かうことを止められる。
ましてや、説明している時間的余裕があるかというと、必ずしもそうとも限らない。
怜は言っていた。
──わかるのは、どこから入ったとしても、ある一定の距離を歩いたところに、森があるってことだ。
ちせは、森、と口走っていた。
あの森は、よくない。
森に迷い込んではいけない。
帰れなくなるかもしれない。
俺は、自分ひとりで全部を解決できるなんて思っていない。
俺の手には負えないことばかりだ。
でも、今、ここにいる人間を巻き込んだら、今度は何が起きるかわからない。
葉擦れの音、繋がり。厄介なことが、また増えるかもしれない。
そんなリスクは、冒すべきじゃない。
「大野」
「ん」
「真中、市川も、少しの間、部室を出ていてくれるか」
「……せんぱい、ちせはどうしたの」
「あとで説明する」
「……」
大野は、納得がいかないように眉をひそめる。
「なあ、おまえ、いったい、何を隠してるんだ?」
「……あとで、絶対に説明する」
俺は大野を見る。
彼は明らかに不信感をつのらせている、ように見える。
「すぐに終わる。だから、俺がもう一度呼ぶまで、絶対に部室に入らないでくれ」
「……」
値踏みするみたいに、大野は俺を見ている。ここで目をそらしてはいけないのだと思った。
「わかった」と言ったのは、大野ではなく、真中だった。
「わたしたち三人とも、部室の外にいればいいんでしょう?」
「ああ」
「大野先輩、鈴音先輩、そうしましょう」
「けど」
「せんぱいは、自分が何をしようとしてるのかも、ちせに何があったのかも教えてくれない」
俺は、答えに窮した。実際、そのとおりだ。
隠し事はやめるといって、またその続きをしている。
人から見れば、傲慢以外のなにものでもない。
「せんぱいは……結局、そう。なんにも話してくれないまま」
「……」
「せんぱいは、誰のことも、最初から、信じてない。頼らない。必要としてない」
反論さえ浮かばない。
そうではないと言いたかったのに、どうしても言うことができない。
「せんぱいは、誰のことも、好きにならない」
でもいいよ、と真中は続けた。
「せんぱいがそういう人だって、最初からわかってたから」
そう言って真中は、背を向けて部室を出ていく。
戸惑ったような大野を取り残し、市川もまた立ち上がった。
「埒が明かないからね」
「……悪い」
「正直なところ、わたしはどっちでもいい」
彼女はそう言った。
「ただ、真中さんがかわいそうだなって思う。でも、きみの事情は知らないから、責める気もない。
でも、彼女の言う通り、きみが誰も頼らず、必要としないのだとしたら、彼女を早く突き放すべきだよ」
「……」
またしても、反論すら、浮かばない。
最後に部室に残った大野は、なにか言いたげにしていたのが嘘のように、困った顔をしていた。
「手厳しいな、あいつらは」
「……いや、そりゃそうだ」
「……すぐに終わる、と言ったな?」
「ああ」
「だったら、待ってるよ。ただ正直、おまえの様子を見てると、嫌な予感しかしないんだ」
沈黙が、肯定のようになってしまう。
「おまえを部室に残すだけで、何が起きるってわけでもない。普通に考えたらそうだ。
でも、瀬尾のこともある。『伝奇集』のことだってそうだ。
……なんだか、妙なことになってる実感は、俺達にもある。分かるよな? 心配してるんだ」
「……約束は守る」
信じてもらおうなんて、都合のいい話かもしれない。
俺はたしかに秘密主義者で、嘘つきかもしれない。
大野は、黙って頷いて、部室を出ていった。
扉が閉まる音がする。
俺は静かに、壁にかけられた絵に向かい合った。
ひとつ、深く呼吸をする。
絵を、眺める。入部してからというもの、俺は暇を持て余すたびに、この絵を眺めていた。
今の今まで、何も起こらなかった。
怜は、『存在を知っているから』あちらにいけるようになったのだと考えていた。
けれど、俺は『存在を知っていた』のに行けなかった。
ちせは、『存在を知らなかったのに』あちらに行った。
いったい何が条件なのか、今の俺にはわからない。
考えるだけ無駄なのか。それはただ、偶然や気まぐれにすぎないものなのか。
でも、怜は、あちらに行ける。
おそらく任意のタイミングで、あちらに通っていた。
怜にできて、どうして俺にできないのか。
俺は、絵に手を伸ばす。触れようとして、躊躇している。
昼休み、俺の身には何も起きなかった。
それは俺が、本心では、『むこう』に行きたくなんかないと思ってるからじゃないのか?
瀬尾がいるとしても、ちせがいるとしても、また『むこう』に行くなんてごめんだと思ってるからじゃないか?
指先が絵に触れる。何も起きない、と判断し、手を引っ込めそうになる。
この絵のむこうに何があるのか、俺は知っている。
何も起こらない。……そう信じていただけだ。
何も起こらない。……起きてほしくないだけだ。
認めよう。
俺は、『むこう』に行くのが怖い。
けれど、
知らねえよ、と思った。
手のひらを押し付けるように、深く絵に突き出す。
身体が、どろどろとした液体のなかに入り込むような感触がある。
俺の腕は肘まで飲み込まれた。
途端、背筋に鳥肌が立つ。
でも、関係ない。
不意に、何者かに腕を引かれるように、身体が吸い寄せられる。
俺は思わず目を瞑り、
身体がなにかに飲み込まれた。
目をもう一度開いたとき、俺は森の中にいた。
空には太陽がある。立っていたのは木立の間の小径だ。
板切れが並び、道のようになっている。その道のまんなかに、俺は立っている。
全身を悪寒が走るが、すぐにそれが収まる。
いまのはたぶん、単に、気持ちの問題だろう。
本当に来てしまった。……夢ではなかった。
そう考えながら、あたりを見回す。
景色はどこまでも森だ。が、葉擦れの森の景色ではない。
深い鮮やかな緑に彩られた、真昼の森。
鳥の声すら聞こえないし、風も穏やかだ。
……大丈夫、と俺は自分に言い聞かせる。
ここはあの森とは違う。まだ、恐れる必要はない。
俺はポケットから携帯を取り出した。
不思議な話だ。電話は切れていない。
「ちせ」
「……隼、さん」
声が聞こえる。さっきよりも、ノイズはない。
「いま、どこにいる?」
「……どこ、と言われても、目印がなにも」
景色が同じようなものだということは、そう離れたところにはいないのか、それともこの森が広いのか。
「どのくらい歩いた?」
「そんなには……途中で、歩き回るほうが危ないと思ったので」
厄介なことに、ここは道の真ん中だ。
距離がそう離れていないにしても、どちらに向かったかがわからない。
俺は空を見た。……太陽の位置が参考になるかと思ったが、方位がわからない。
「太陽は、どちら側にあった?」
「背に。太陽を背に、歩きました」
「……すぐに向かう」
「隼さん、こっちにいるんですか」
『こっち』か。さすがに経験すると早い。
電話を耳に当てたまま、俺は歩いていく。
「隼さん、ごめんなさい」
「いや、俺が説明しなかったのが悪い」
「隼さんは、でも、説明するつもりだったんでしょう?」
「それでも、予想できたことだった」
無性に胸が痛むのは、さっき真中に言われたことを気にしているだろうか。
俺はどこかで間違ったのか?
でも、どこで間違ったんだ?
そんな場合じゃないとわかっているのに、考えるのをやめられない。
「ごめんなさい、勝手なこと……して」
「……ちせ?」
「……は、い」
「おまえ、どうした?」
「ん……いえ、な、にも……」
さっきは、ノイズのせいで気にしていなかった。
こっちに来て話し声が鮮明になってからも、状況のせいで気にかけていなかった。
息遣いが、荒いように感じる。
「……体調、悪いのか?」
「あ、いえ、そういうわけでは……」
そうは言っても、電話の向こうの声だけでも、呼吸が浅いのがわかる。
「少し急ぐ」
「あ……隼、さん。すみ、ませんけど、その……」
「ん」
「……できるだけ、ゆっくり、きていただけると……」
「……は?」
「あ、えっと、大丈夫、なので……」
「……」
「えと、一度……電話、切っても、だいじょうぶ、ですか?」
「……もう一度繋がるとは限らないんだぞ」
「そ、う、ですよね……」
苦しげに何かをこらえるような声が聞こえる。
「……なにか起きてるわけじゃないんだな?」
「は、い」
「……とりあえず、一応歩いてみる。合流できるまで、電話は切らない」
「あ……は、はい」
息遣いが、まだ続いている。
「いま、どうしてるんだ?」
「えっ……ど、どう、って」
「どこかで休んでたのか?」
「あ……はい、えっと、木に、もたれて。少し、つかれ……たので」
「道から、外れてはいないか?」
「道は……はずれて、ない、です」
「……わかった。『太陽を背に、道に沿って歩く』」
その宣言に意味があるのかはわからない。
でも、言葉にしておいたほうがいいように思えたのだ。
景色は続いていく。高い木々は、その空間は、広がっている。
ここには広がりがある。絵のなかの景色、とは、違う。
瀬尾も……あの絵から入ったのだとしたら、彼女に会うことも、できるかもしれない。
とはいえいまは、ちせを見つけて連れ戻ることのほうが先だ。
とにかく、『ここ』に来られた。
それは、結果的にひとつの収穫だ。
あとは、失うものがなければいい。
道を歩いていく途中に、花が咲いているのを見つける。
薄桃色の花びらがバドミントンのシャトルみたいな形をしていた。
平たく広がる尖った輪郭の葉が、木漏れ日をかすかに浴びて濡れたように艶めいていた。
視界の先まで睨んでみても、ちせの姿は見えない。
「ちせ!」
呼んでみても、返事は聞こえない。
まだ、距離があるのか。
俺はもう一度電話に耳を当てる。
荒い呼吸が聞こえるだけだ。
「隼、さ……」
苦しげに、俺の名前を呼んでいた。
歩きながら、なにかわかりやすい目印のようなものを探すけれど、見当たらない。
さっきのを除いたら、花さえほとんど姿を見せなかった。
林冠の隙間は徐々に狭まっていき、やがて日の光は遠く隠れていく。
枝葉の合間に覗く空はたしかに真昼に近い色だが、風景は暗い緑に近付いていく。
木漏れ日がまばゆいくらいに、歩く小径は暗くなっていた。
まずいな、と俺は思う。
頭がくらくらしてきた。
覚悟は決めてきたつもりだったし、知っているぶん衝撃は少ないはずだった。
それでも目眩のような感覚に襲われる。
本当に、こんなところに来てしまった。
わかっていたはずのことなのに、動悸がひどい。
電話に、耳を当てる。
「ちせ」
「……は、い。……んう」
んう。
「……ちせ、どうした?」
「ど、うもしてないです、ん……な、なんですか……?」
「さっき、名前を呼んでみたんだけど、聞こえたか?」
「……いえ、きこえませ……っ、でした……」
「今、もう一度呼んでみる」
と言って、電話を離し、もう一度呼んでみる。
そしてもう一度電話に耳を当てる。
「……ました。きこえ、ました。隼さ、きこえ」
「近くまで来られたみたいだな」
ようやく、ほんの少しだけほっとする。
見当違いの場所に来ていたらどうしようかと思っていたが、助かる。
怜の検証のとおり、「近くから入れば近くに出る」というのはたしかと考えていいかもしれない。
俺は小走りしながらちせの名前を呼んだ。
ときどき電話に耳を当てて、ちせの言葉をヒントに、距離を詰めていく。
やがて、電話のむこうのちせから、声をかけられた。
「とまって、ください」
「……え?」
「少し、待って」
そして静かに、電話が切れた。
そうなってしまうと、俺は本当に待つしかない。
「ちせ」
そう名前を呼んでみる。返事はない。
酩酊したように足元が急にぐらついた。
俺はいま、誰とも繋がっていない。
急な不安……けれど慣れている。
慣れている、はずだ。
やがて、
「隼さん」
と、声をかけられた。後ろから。
振り返ると、そこにちせが立っていた。
「……ちせ」
駆け寄って、彼女の表情をたしかめる。それがちゃんと、俺の知っているちせだとわかる。
「大丈夫か?」
彼女は、言葉にはすぐに答えずに、ほんの少し後ずさった。
「あ、はい。大丈夫ですよ」
彼女は困ったように笑っていた。さっきまでとは違って、もう呼吸は乱れていないようだった。
「体調、悪かったのか?」
「あ、ええと……そんなことは、なかったんですけど」
彼女は、俺と目を合わせようとしなかった。
なにか気がかりなことでもあるみたいに、一定の距離をとって、制服の裾を引っ張るみたいに握っている。
不審には思ったけれど、怪我はないみたいだとほっとする。
それから急に不安になる。
「……ちせだよな?」
「……」
問いかけの意味がわからない、というように、彼女は首をかしげた。
なにかをごまかすみたいな微笑をたたえたまま、もぞもぞとからだを揺らしている。
「ちせ、ですよ……?」
その表情には、どうしてだろう、不安や戸惑いみたいなものは浮かんでいなかった。
もっと気がかりで仕方のないことがあるみたいな、何かを隠したがっているみたいな。
とはいえ、ここでうだうだと言っていたところで仕方ない。
「とにかく、見つけられてよかった」
それまで夢でも見ているみたいに心もとない表情をしていたちせは、はっと思い出したみたいな顔になる。
「……はい。よかった、です。本当に、ほっとしました」
それでようやく、彼女の意識が本当の意味で現状をとらえたような気がした。
「電話、きたとき、ほっとしました。携帯、もってたのに、忘れてて……。
ひとりだし、なにがなんだかわからなくて、このまま帰れなかったらどうしようって」
「……」
「ごめんなさい、隼さん」
「俺が悪い」と俺は繰り返すほかない。
「詳しい説明はあとでする。……とりあえず、帰ろう」
「はい……」
とりあえず、来た道を引き返すことにする。
ちせは、はぐれないためにか、それともいまさら不安が蘇ったのか、俺の制服の裾を掴んでいた。
「隼さんは、知ってたんですね。この場所のこと」
「……おぼろげにはな」
「そう、ですか」
声の調子が、やはり、いつもと違うような気がする。
少し、熱っぽいような、鼻にかかったような、甘えた声。
やはり怯えているのかもしれない。
「……この場所にきてから、わたし、なんだか、おかしくて」
「ちせがおかしいんじゃないよ」と俺は言った。
「この場所がおかしいんだ」
けれどその言葉に、ちせは「ちがいます」と小さな声で言った。
「わたし、おかしいんです……」
消え入りそうな声だった。
少し、こわかったけれど、俺は振り返った。
ちせは顔を隠すみたいにうつむいて、足元を見ていた。
そういえば、顔が少し赤いような気がする。
俺が立ち止まって振り返ったことに気付くと、ちらりとこちらに視線をよこして、からだをびくりと震わせる。
ちせが、スカートから伸びる両足がきゅっと閉じたのが目に入った。
なんでかそれが妙に目に毒で、俺は思わず視線を外し、前方を向き直した。
「……とにかく、戻ろう」
「……はい」
恥じ入るみたいな声が、妙に耳に残る。
気を取り直して、俺は帰り道を……。
──帰り道?
「……あ」
「……隼さん?」
思わず声をあげてしまった。
そういえば、こっちに来る方法はわかっていたけれど、
……帰りは、どうすればいいんだ?
ひとまず道を引き返しはしたものの、帰る宛があるわけでもなかった。
「……隼、さん?」
黙って歩き始めた俺に、ちせは不安そうな声をあげた。
「いや、大丈夫」
と、返事をしてから、真中の声が耳に甦った。
──せんぱいは、自分が何をしようとしてるのかも、ちせに何があったのかも教えてくれない。
真中の言うことは、たしかだ。
今、俺はどんなふうな思考をたどって、ちせに本当のことを話さなかったんだろう。
余計な心配をかけたくなかったから。不安がらせたくなかったから。
それとも、パニックになられると面倒だから?
話したところで、何が解決するというわけでもないだろうから?
でも、そんなふうに考えた末の発言だっただろうか。
そうではなくて、俺はもっと当然のことのように、他人に本当のことを話さない癖がついているんじゃないか。
それは仕方ないこと、なんだろうか。
真中や大野や市川に、ここのことを話さなかったのはどうしてか。
ちどりのことを話さなかったのは、どうしてか。
考えれば考えるほど、わからなくなるような気がする。
「隼さん、青葉さんは……この場所のどこかに、いるんですか」
「……わからない」
さっそく、詳しい説明をせずに、断片的な言葉を返してしまった。
それが悔しくて、俺は言葉を続ける。
「たぶん、いると思う。いろいろと考えてみたけど、そうとしか考えられない」
「ここって、なんなんですか?」
「……あとで、ちゃんと説明する。こうなった以上、他の奴らにも説明はしやすい。
でも、本当のことを言うと」
本当のことを言うと、そうなんだ。
「俺も、よく知らないんだ」
俺は知らない。
この場所のこと、さくらのこと、カレハのこと、葉擦れの森のこと。
神隠し、神さまの庭。そんな名前をつけたところで、なんにもわからないままだ。
何が起きているかはおぼろげにわかっても、理由も理屈もわからない。
それって、なんにも知らないのと同じだ。
ここのことを、真中たちに話しても、なんにも解決しない。
瀬尾とちどりのことも、俺の感覚のことも、全部そうだ。
でも、よく考えてみれば、違うんじゃないか。
俺ひとりで考えていたところで、なんにも解決しないのはおんなじだったんじゃないのか。
たとえば、今もそう。
不安がらせないように、とちせには黙っている。
ちせに言ったところで解決する問題じゃないから、黙っている。
でも、黙っていたところで、俺だって漠然と歩く以外の方策を今は持っていない。
黙っていても、話しても解決する問題じゃないのに、どうして俺は黙っているほうを選ぶんだろう。
「……ちせ、実はさ」
「はい」
「帰り方が、わからないのを忘れてた」
「……え?」
「来る方法は、たぶんというか、まあ、だいたいわかってたんだが、そういえば帰り方は……」
「え、っと。それは……困りましたね?」
「うん」
そういえばそうだ。
六年前の五月のときも、俺は、こちらからどうやって帰ったのかを覚えていない。
「……どうしましょう」
「帰る方法がないわけじゃない。ちゃんと帰る方法はある。それを見つければいいだけなんだけど」
「……方法、ですか」
「まあ、入り口と出口がおんなじものだと信じるなら、最初の地点に戻れればいいはずだけど……」
「でも、隼さん。わたしが来たところには、何もありませんでしたよ?」
「……まあ、だよな。俺もそうだったし」
「なにか、ヒントがあればいいんですけど」
「ヒント、ね……」
やっぱり、こういう謎解きみたいなのは俺の領分じゃない。
こういうのは俺じゃなくて……。
「……ちせ、こっちに来てから、携帯で誰かに電話をかけたりしたか?」
「え? ……いえ」
だったら試す価値はあるか。
携帯を取り出して、怜の番号を呼び出す。
あいつはこっちに通っていたという。それなら、訊くのが一番早い。
が、駄目だった。
「……つながらないな」
「……困りましたね」
ふむ、とちせは一緒に考えてくれる。
「分け入っても分け入っても、森のなか、ですしね」
「道を辿って来たわけじゃないから、道を進んでも、行き着く先で戻れるともかぎらないか」
「……となると、やっぱり、一旦、見覚えのある地点まで引き返してみますか?」
「見覚えのある地点か」
とはいえ、似たような景色が続いているのだから、確信が持てるものでもないだろう。
不用意に歩いて回るのは危ない気もする。
本当に、道標でもあればいいのだが。
怜との会話に、なにかヒントはなかっただろうか。
「そういえば、こっちに来る方法はわかってたって言ってましたけど……」
「ああ」
「昼休みに、鏡や絵を探していた、ということは、それがこちらへの入り口なんですよね?」
「そうなるな。もっとも、俺も実際に来たのは久々だから、半信半疑だったんだが……」
「あの、隼さんがさっきおっしゃったように、入り口と出口が同じものだとしたら……」
「あ、そうか」
思わず声をあげた。
「鏡や絵を見つければ……」
「はい。そこから帰れるかもしれません」
俺たちは一瞬笑いあったが、すぐに肩を落とすハメになった。
「……一応聞くが、そういったものを見かけたか?」
「いえ……」
振り出しだ。
とはいえ、まあ、そういったものを探せば済むわけだ。
「森のなかで、絵といってもな」
「道の先にいくのが、正解なんでしょうか」
「……それは、できれば避けたいな」
道を歩きながら、俺達はなるべく会話が途切れないようにしていた。
黙り込むことで、打つ手がないという現状を認識しなおすのが嫌だったのかもしれない。
いずれにせよ、道は一本だ。
やがて、来たときとは反対に、小径は徐々に広がって、日の光が差し込むようになってきた。
こんなに明るい場所から歩いてきたのだとは、ちょっと信じられないくらいに。
「ちょっと休むか」
急がなくては、と思うのだけれど、実のところ、そこまで焦燥に駆られなくてはいけない理由もない。
焦りはかえって危険かもしれない。それに、ちせはまだ疲れているように見えた。
ぼんやりと空を見る。太陽の位置は、さっきと変わらないように思える。
ただ歩いているだけなのに、道がそこまで整っていないせいか、足の裏が疲れているのを感じた。
……というか、俺もちせも上履きのままだ。
「帰ったら、靴の裏、綺麗にしないとな……」
こんな状況でそんなことを言うのがおかしかったのか、ちせはくすくす笑った。
そのままぼんやりと、足を軽く動かしたり、腰を回したりして身体をほぐす。
近頃は運動不足みたいだ。余計なことばかり考えるのも、そのせいかもしれない。
ふと、ちせの方を見る。
電話中ずっと体調が悪いようだったし、会ってからも少し様子が変だった。
目をむけると、彼女は道のそばの木に背中をあずけて、落ち着かなさそうに身じろぎしている。
自分がおかしい、とちせは言っていたけど、話している分には、いつもどおりだ。
人と会って、安心したのだろうか。
自分の両手の指をからませたりほどいたりして、落ち着かなさそうにしているちせ。
疲れたような溜め息を漏らしながら、膝と膝をこすり合わせるように、落ち着かなさそうに脚を何度も動かしている。
というより、太腿をこすり合わせているようにも見える。
ちせは、俺の視線に気付くと、はっとした表情で、一連の動作を強引に止めて、そそくさと視線を外し、前髪を指先でいじりはじめた。
そういえば、ちせは昼休みからここにいるのだ。心当たりは浮かぶものの、とりあえず口には出さない。
「……えっと、そろそろ行くか」
「は、はい……」
どことなく気まずそうな声のせいで、なんだかよくないものを見てしまったような気分になる。
そうして歩き出したものの、やはり、目につくものはない。
都合よく鏡のかけらでも落ちていないものかと思ったが、そうもいかないらしい。
さっき見かけた花を見て、まだ最初の地点までは戻っていないのだと知る。
「……ほんとうに似たような景色だな」
「花なんて、さっきは気付かなかったです」
視線をむけると、ちせは慌てたみたいにそっぽを向いた。
「……何の花だろうな」
気まずさを打ち払うみたいに、俺は世間話のつもりでそう声をかけた。
「えっと……たぶん、ですけど、イワカガミですね」
「イワカガミ?」
「はい。花びらが筒状で、葉が厚くて、キョシがあって……」
「キョシ?」
「葉っぱの端のぎざぎざです。のこぎりの歯って書いて……」
「ああ、鋸歯か」
なるほど、言われてみれば、深い緑色の艶めく葉は丸い形の端々が尖っている。
房状のピンク色の花は頭を垂れるようにしながらいくつも連なって、束ねられた鈴のようだった。
見た目はほんとうにささやかな、小さな花だ。
──待て。
「……えっと、ちせ? さっき、なんて?」
「……のこぎりの歯ですか?」
「ちがう。この花の名前」
「えっと、たぶん、イワカガミです。花言葉は忠実……」
「いや、花言葉はべつにいい」
野花の知識が堪能だとは知らなかったが、ちせは未だピンと来ていないらしい。
「イワカガミっていうのは、漢字だとどう書くんだ」
「たしか……岩の鏡、だったと」
あ、とちせはぽかんと口を開けた。
「で、でも……これは鏡じゃなくて花ですよ」
「考えてみれば、この道を歩いていて特徴的だったものなんてこの花だけなんだ。
何が起きても不思議はない以上、藁にでもすがる価値はあるだろう」
ましてやそれが、イワカガミだと言うならなおさらだ。
「……と、言っても、どうするんですか?」
「……どうするんだろうな?」
「隼さんって……いろいろ考えてるようで、けっこう考えなしなんですね」
「……」
なんだか呆れられてしまったようだった。
「とりあえず」
「とりあえず?」
「触ってみるか……」
ちせはくすくす笑って、俺が花びらに触れるのを見ていた。
「どうですか?」
「柔らかいな」
「それから?」
「植物に触れている感触がする」
「まあ、植物ですからね」
「……」
「……」
何も起きない。
ちせがまた笑った。今度は楽しそうに、声を上げて。
「……なんだよ、もう」
「いえ、ごめんなさい。なんだかおかしくって」
まあ、状況が状況だ。悲壮感にかられているよりは、笑ってもらえたほうが気分はマシだ。
そしてちせは、言葉を付け加えた。
「イワカガミの名前の由来は、葉にあるそうですよ」
「というと」
「表面がなめらかで、光沢がある様子が、鏡に喩えられたそうです」
「表面がなめらかで光沢のある葉を持つ植物なんて他にもさんざんありそうなものだが」
「無粋ですよ、隼さん」
大人っぽく笑って、ちせは花のそばに屈み込んだ。
「花言葉の忠実というのも、おもしろいですね。頭を垂れた花の様子からという話ですけど、
名前が鏡と言われると、それだけではないような気もします」
「というと」
「というと」
「……なんだ、急に」
「隼さん、二回目なので、真似してみました」
……こんなキャラだったか、こいつは。
「鏡を見るものは、まず自分自身と出会う。鏡は見るものの姿を忠実に映し出すものですよ」
そう言って彼女は、イワカガミの小さな葉を覗き込んだ。
「とはいえ、こんな小さい花ですけどね」
そう言って、彼女は俺の方を振り返った。
愛らしい笑顔の向こう側で、小さな光が見える。
「……ちせ」
「へ?」
まばゆい光が、目を潰すように、視界を覆う。
次の瞬間には、ちせの姿は消えていた。
ひとり取り残されて、「おいおい、マジか」と思わず呟いてみた。
アタリか、これ。こんなんでいいのか?
なんだか急に、自分がものすごく無駄な恐怖を抱いていたような気分になってきた。
それともまさか、別の場所に送られたとか……。そっちの可能性も、考慮するべきだっただろうか。
などと、ここで唸っていても仕方ない。
俺はちせを真似て、イワカガミの葉を覗き込む。
艶めいた葉に……何かが映り込んだ。
思わず俺は、背をのけぞらせた。
そこに映っていたのは俺の顔ではない。
たしかに、誰か別の人間の顔が映っていた。
……いや、そうなのか?
──鏡を見るものは、まず自分自身と出会う。
ふと、足音が聞こえて、考えるより先に振り返っていた。
驚きながらも、俺はどこかで予感していたのかもしれない。
「や。ひさびさ」
瀬尾青葉が、そこに立っていた。
瀬尾は、当たり前みたいな顔で俺に笑いかけた。
さすがに俺は反応できない。言葉ひとつさえ浮かんできやしない。
「本当に、来ちゃったんだね。来ないほうがいいって、言ったのに」
言いながらも、瀬尾はまるで、昨日までも当たり前に会っていた相手にするみたいに、自然に話している。
そうして、花のそばにかがんだままの俺を見下ろしている。
「なにか言ってよ」
「……なにかって、なんだよ」
「なにか」
もどかしそうに、瀬尾は身体をゆらゆらと揺らしてみせる。
「……馬鹿野郎」
「ばかやろうはひどい」
「……」
「ごめんね」
「なにが」
「いろいろ、心配かけて。ちょっと、ひどいことも、うん。言っちゃった気がする」
久しぶりに見る瀬尾の表情は、以前とは違う気がした。
どこか遠くて、澄んでいて、清らかに見えた。
「ん。どうしたの、副部長。じっと見て」
「……」
「ま、青葉さんはかわいいからね。見とれちゃうのも仕方ない」
「……」
「……なんか言ってよ」
いつも以上におどけたような軽口は、なにかをごまかすためだろうか。
わからないけど……。
「瀬尾」
「……なに」
「ひさびさに見るとたしかにかわいいような気がする」
「……な、なに急に。ていうか、ひさびさに見るとってなんだ」
……なるべくいつもどおりに話そうとした結果、過剰にふざけすぎたらしい。
彼女はびっくりしていた。
「……瀬尾」
「な、なに……?」
「帰ろう。ここは、よくないよ」
俺の言葉に、彼女は寂しそうに笑った。
「ん。……うん、いつかは、帰るよ」
「いつかって、いつだよ」
「……いつか、だよ」
「少なくとも、今じゃない。……まだわたしは、ここで見つけてないものがあるから」
「……」
「捜し物をしてるの。たぶん、大事なもの。ここなら見つかると思う」
「……それ、なきゃだめなのか」
「たぶん、なくてもなんとかなると思う。でも、見つけなくちゃ」
「……帰ってこいよ」
「なんで、きみが泣きそうな顔をするの?」
「してない」
あは、と瀬尾は笑った。
「へんなの。……ね、三枝くん」
他人みたいな呼び方だと思った。
一年前まで、そう呼ばれていたのに、なつかしさすら覚えない。
「だったらきみがわたしの、帰る理由になってくれる?」
「……なんだ、それ」
「わたしが帰ったら、きみは、わたしだけの居場所になってくれる?」
「居場所……?」
居場所。
瀬尾青葉の、瀬尾青葉だけの。
「……無理だよね」
わかっていたことをたしかめただけだというみたいに、声は弾んでいるのに、どうして、
どうしてそんなに悲しそうな顔で笑うんだ。
「……だから、もう少しだけ、わがまま、言わせて。心配、してくれたとしたら、ごめんだけど。
たぶんわたしは、見つけないといけないんだと思う」
「……瀬尾、俺は」
「わたしは、ひとりでも大丈夫だから。だから今日は、もう帰りなよ」
「市川も、真中も、大野も、ちせだって、心配してた」
「ちせちゃん、会ったんだね。うん。さっき見てて、気付いたよ」
「俺だって……」
くすぐったそうに、瀬尾はまた笑う。
「だめだよ、ほら、早く帰りなさい」
そう言って、彼女は俺の背にトンと触れた。
俺は前を見る。眼の前の、イワカガミの花を見る。
彼女に帰る意思がないのなら、無理に連れ帰しても、仕方ないのかもしれない。
「瀬尾」
「ん」
「……無理するなよ」
「ん。また手紙出すね」
「やばそうだと思ったら、すぐに来るからな、おまえが嫌がったって」
「……副部長って、そんなにわたしのこと好きだったっけ?」
「茶化すなよ」
「ん。あ、そだ。今度来るときはね、土産物を献上せよ」
「土産物?」
「牛乳プリンがたべたいかな」
「……考えとくよ」
「……ん。へへ、よろしく」
「あのさ、おまえの家にも、行ったんだ」
「……」
「お母さん。心配してたよ」
「……そっか」
瀬尾がそのとき何を考えていたのか、俺にはわからない。
「……俺も、もしかしたら」
もしかしたら、こちらで探すものが、あるのかもしれない。
けれど今は、帰ろう。
あまりあちらを不安がらせてもいけない。
もう、時が経ちすぎている。
「今日のところは、帰るよ」
「ん。ばいばい」
俺は、イワカガミの葉を覗き込む。
やはりそこには、俺ではない誰かの姿が映り込んでいるように見える。
光が視界を覆っていく。
どうして悲しいのかわからなかった。
結局俺は、なんにもできやしないのか。
誰にも、何にも。
最後の最後に、
「またね──隼ちゃん」
そんな声が耳朶を打ったように思えたけれど、それはきっと、気のせいなんだろう。
◇
そして視界を取り戻すと、俺の身体は文芸部室にあった。
瀬尾青葉はどこにもいなかった。
◇
部室にはちせの姿がちゃんとあった。市川と大野もいる。
「隼さん!」
と、ちせが俺を呼んだ。
あっけにとられたような様子の大野と市川を背後に、彼女は俺に駆け寄ってきた。
「よかったです。帰ってくるの遅いから、何かあったのかもって……」
「ああ、うん……」
返事をしながら、からだのふらつきをどうにかこらえる。
急に投げ出された勢いが、からだのなかで渦を巻いて行き場を探しているみたいだった。
やっと落ち着いて直立できるようになると、大野と市川がぽかんとした表情でこちらを見ているのに気付いた。
「……ただいま」
と俺は言う。
大野は表情も変えられないようすで、
「おかえり」
と言った。
「……なにがなんだかわからん。説明してくれるんだったな」
「……ああ。真中は?」
「廊下。俺と市川は、物音がしたから入ってきたんだ」
「あの、わたしが盛大に転びまして……」
恥ずかしそうに、ちせが膝小僧をおさえた。
俺は扉を開け、廊下を覗いた。
真中は、廊下の壁に背をあずけて座り込んでいる。
表情は、ここからでは見えない。
「真中」
と呼んでも、返事をしない。
「真中、終わった」
「……ん」
やっと、真中は顔を上げてこちらを見てくれる。
ちょっとすねたみたいな顔をしていた。
「どうした」
「……せんぱいが、外で待ってろって言ってたから。呼ぶまで待ってろって、言ってたから」
「……」
だから、大野と市川が音を聞いて飛び込んできた後も、ひとりでここにいたのか。
「もういいよ。真中」
「……うん」
彼女は立ち上がって、静かにこちらへ近付いてくる。
それから、なにかを待つみたいに、俺の顔を見上げた。
不安そうな顔をしている。
「……どうしたんだよ」
なんでもない、と真中は言った。
落ち着かないみたいに、両方の手のひらを繋いだまま、俺の方を見ている。
「悪かったよ」と俺は言う。
「全部話す」
「……いいんだ、そんなの。話してくれなくても、いい」
「でも」
「ちょっと寂しかったから、すねてただけ」
「……」
「仕方ないことだから」
この子はどうして、こんなふうな表情をしてまで、俺の近くにいてくれるんだろう。
そんなことが不思議で仕方ない。
今だって俺はこいつにひどいことをしている。
それは俺にだってちゃんと分かる。
──だったらきみがわたしの、帰る理由になってくれる?
瀬尾にそう問いかけられたとき、俺の頭に浮かんだのは、どうしてか真中のことだった。
それがそのまま答えになれば、それでよかったはずなのに。
「……ちせ、連れて帰ってきた」
その言葉の意味を理解できているわけではないだろうが、真中は頷いた。
それ以上何も言えずに、俺は真中に部室に戻るように手招きして、ふたりで扉の内側に入っていった。
戻ると、皆が説明を求めるように俺を見ている。
大野と市川は、俺が戻ってくるさまを目の当たりにした。ちせは実際にむこうに行った。
結果的に言えば、何もなかったときよりは、説明は幾分簡単になったとは言える。
俺は掌を見つめて、握ったり開いたりしてみる。
感覚はちゃんとある。今のこの感覚を疑ってしまえば、どこまでもどこまでも落ちていってしまうだろう。
だから、今は疑わない。
「じゃあ、説明してくれるんだよな」
大野がまたそう繰り返す。俺は頷いた。
そこでちせが「あの!」といきなり手を挙げた。
「……なに?」
「えっと、話を聞く前に、なんですけど」
「ああ」
「……その。ちょっと、お手洗いに、いってきても、いいですか?」
「……どうぞ」
「……す、すみません」
ちせが戻ってきてから、俺は説明を始めることにした。
パイプ椅子に腰掛けて、四人は俺の方を見ている。
俺はホワイトボードの前に立っている。
こんな景色を、俺は見たことがある。
いや、見たことがあるわけではない。知っているだけだ。
『薄明』を出そうというときに、こんなふうに並んで座ったのだ。
そのとき瀬尾が立っていた場所に、いま俺は立っている。
そして、俺の代わりに、ちせが座っているのだ。
不意に雷鳴が聞こえた。音につられて窓の外を見る。
雨が降っている。雲は厚く、景色は暗い。
「雷だな」と大野が言う。
俺は黙って頷いて、どこから話したものだろうな、と考えた。
まずは、そう、起きたことから。
「大野と市川は、俺が戻ってくるところを見たな」
ふたりは、それぞれに頷いた。
「それに、お前以外いないはずの部室に……えっと、名前、ちせさん、だったか」
「ちせ、でかまいません」と、ちせはいつか俺に言ったのと同じようなことを言う。
「ちせがいた。そして、物音に気付いて戻ってきたとき、おまえがいなかった」
俺は頷いた。それが、大野たちが見た景色だ。
真中は直接見てはいないが、おそらく彼女は、俺を疑いはしないだろう。
「見間違いじゃなければ、おまえは……絵の中から出てきた、ように見えた」
大野の言葉が沈黙にまとわりつくように響いた。
皆の視線が一枚の絵に集まる。水平線。海と空とグランドピアノ。
「説明は聞きたい、が……単純に納得できそうにはないな」
真中と市川は、黙り込んでいる。
雨の音が部室の中に響いていた。
「簡単には納得できない話だと思う。だからこそ、というのは言い訳だが、だからこそ、話しにくかった」
「はい」とちせが手をあげた。
さっきまでの落ち着かない様子はなりをひそめて、もういつものように自然な振る舞いに戻っている。
彼女がどうして電話口であんなふうになっていたのか、と、どうして会ったときは普通に戻っていたのか、は、考えないことにする。
彼女は「道を離れていない」と言ったのに、俺の背後からあらわれた。彼女はそのとき、一度道の外にいたのだ。
くわえて、電話を切ろうとしたし、実際、切った。何かを俺に隠そうとしたのだ。である以上、それを暴き立てることもない。
気になるのは、「わたし、おかしいんです」という言葉だ。
それでも、やはり、俺は彼女に何も聞かないことにする。
……あれこれ想像するのもよくない。考えるのも避けるのがいいだろう。
必要があることならば、ちせは話す。そうしない以上、それは知られたくないことなのだ。
「なんだろう、ちせ」
「隼さんは、あの場所のことを最初から知っていたんですか?」
「知っていた」
どうしようかな、と俺は思う。どこから話せばいいのだろう。
ちせと俺がどこにいたのか、そこからだろうか。
それとも……。
「あの場所って?」
大野が口を挟んだ。
そうだな、と俺は頷いた。そこから話すのがいいだろう。
「順を追って説明する。混乱するのはよくないから、俺の解釈みたいなものも付け加えない。
知っていること、起きたことだけを、話す」
信じてもらえるかどうかは、もう関係ない。実際に起きたことの説明を、彼らは求めているんだから。
「ちせは、実際にむこうにいったから、現象としては目の当たりにしていることになる」
「『むこう』。『あの場所』」
「……」
不意に、市川が、その名の通りの鈴を転がすような声音で、呟いた。
「隼くんは絵の中から出てきた。状況から考えると、ちせちゃんもそう。ということは」
混乱したりは、しないんだろうか。市川は落ち着いた様子だった。
「『空間』があるんだね。あの絵の中に」
「そういうことになる」
俺が頷いた瞬間、大野が額を抑えるのが見えた。常識人の大野としては、さすがに頭が痛いところだろう。
「ゲームかなにかか、ここは……」
「理屈はわからない。でも、とにかく、ある」
「本当です」とちせが言う。
「わたしは、昼休みに、隼さんがこの絵を調べるのを見てたんです。
それで、ひとりになったときに、ここに来て絵に触れてみた。そうしたら、気付いたら、まったく別の空間にいました。
どこか……山深くの、森みたいな場所です」
「……幻覚、とは、ならないよな」
「大野たちは、物音がするまで部室の外の廊下にいたんだろう?」
「……そうだな」と、大野が頷く。
「トリックでも疑いたいところだが……そんなことをする意味もないか」
彼は静かに言葉を続けた。
「部室唯一の出入り口は俺たちが見張ってた。今日は雨で窓は閉めっぱなしだし、仮に開いていたって、どうがんばっても窓からは入れない。
というか、そんなことをしてまで俺たちを驚かすことに何のメリットもない。
そこにちせが現れて、おまえがいなくなって、それからおまえが絵の中から現れた。見たものは信じるしかない」
幻覚という説明はありえない。ちせは実際、いなかったはずなのにいたし、いたはずの俺もいなくなっていた。
そして、何より、俺は絵の中からあらわれた。
「わかった。認める。とにかくそういう空間が、『在る』。……瀬尾の手紙のこともあるしな」
とりあえずの納得を得て、俺は話を続ける。
「今日、俺はここにいる人間に、『むこう』について話そうと思っていた。
昼休みにちせと会ったときに、ちせにも話すことにした。そのとき、俺が絵に触れたときは何も起きなかった。
でも、ちせがそのあとにひとりで触れたとき、おそらく、反応したんだろう」
「はい」とちせが頷いた。
「……六年前、俺はその空間に迷い込んだことがある」
詳しい説明は避ける。ちどりのことや、怜のことは、今は直接関係がない。
「……待て。それは六年前に、ここに来て、この絵に触れたってことか?」
「違う。この絵以外にも、入り口がある」
「入り口」
「そう。あちこちに、『入り口』がある。そのことを知っていたから、俺は瀬尾がひょっとしたら、『むこう』に迷い込んだんじゃないかって思ってたんだ」
「……むこう」
「静かな湖畔で暮らしている、と瀬尾が言ったとき、そういう景色は『むこう』にならありえると思った。
瀬尾がいなくなったとき、あいつの靴は下駄箱に残ったままだったし、荷物だってあった。どこかに行ったというよりは、校内で忽然と姿を消したみたいだ」
「……まあ、それは不思議だったが」
「くわえて、瀬尾からは手紙が来た。もし瀬尾が校内に隠れて、『伝奇集』にこっそりメモを挟んでいるのでないのなら……。
そこにはなにか、理外の力が働いていたはずなんだ」
異論はないのだろう。みんな押し黙った。
手紙について、現実的に説明するのは難しい。それを奇妙に思っていたのは、全員が同じなのだ。
「瀬尾の手紙が理外の力によって届けられているなら、そして瀬尾の手紙に嘘がなく、彼女が本当に湖畔で暮らしているなら、
それが『理外の空間』から届けられていると連想するのは難しくなかった。少なくとも俺は、そこにいったことがあるから」
これは、カレハと話し合った夜に話したことの反復にすぎない。
あのとき整理できたおかげで、俺は筋道立てて説明することができる。
とはいえそれを信じてもらえるかというと、少し怪しいところかもしれないが。
「じゃあ、瀬尾は、その絵の中にいるってことか?」
「と、俺は考えて、今日その話をするつもりだった」
「……なんとも荒唐無稽だな」
半信半疑、といったところだろう。
認めるには証拠がないが、状況を見ると俺の説明に難はない。
なにせ、俺とちせは知っている。それは実際に起きたことなのだ。
さて、ここからの言葉を、信じてもらえるかどうか。
「さっき、実は、ちせが帰ったあと、俺は瀬尾に会った」
これには、四人とも驚いた。
「あいつはまだ帰らないと言っていた。何かやることがあるから、と」
「……なるほどな」
「ねえ」と口を開いたのは、また市川だった。
「もう、説明を聞くより、会いにいったほうが早いんじゃないかな」
「ていうと」
「その、『むこう』に。わたしや大野くんや柚子ちゃんも。
それなら、信じるも信じないもないでしょう?」
「……まあ、手っ取り早くはあるんだろうが」
「なにか、渋る理由があるの?」
「正直、俺とちせがこうして帰ってこられたのだってたまたまだったんだ。
実際、ちせは帰り方がわからなくて、俺が迎えにいかなきゃいけなかった」
「そのうえ、隼さんは帰り方がわかりませんでしたしね」
「実を言うと、あまり行きたくはない」
「どうしてだ?」
どう説明するのが最善なのか、わからない。
頭が拒否する。からだが嫌がる。
あの場所には行きたくない。
「何が起きるか、わからない」
「でも、それならなおさら、引っ張ってでも瀬尾さんを連れ帰るべきなんじゃない?」
市川のその言葉は、もっともだ。
「……うん。そうなのかもしれない」
ただ、それでも付け加えなければならないだろう。
「六年前、むこうに迷い込んだとき、俺は帰り方が分からなくなって、暗い森に二週間取り残された。
迷い込んだのは俺ひとりじゃない。四人、むこうに行った。
そのうちのひとりは、そのときの記憶をなくしていた。繰り返すが、何が起きるかわからない」
「……」
「だから、正直、話したくなかった」
真中が、俺の顔をじっと見ていることに気付いた。
何かを言いたげに、けれどこらえているみたいに、じっと、こちらを見ている。
俺が聞いている葉擦れの音、二重の風景のことは言わない。
信じてもらえるかわからないし、俺自身、話したくはなかった。
「にわかには信じがたい話だが……」
大野は、俺ではなく、市川の方を見た。
これまでの流れからして、意見を求めるなら市川だと思ったのだろう。
「……でも、とりあえず、瀬尾さんはむこうにいる。自分の意思で。そういうことだよね?」
「ああ。そう言っていた」
「……隼くんの言うことを信じるなら、か」
もちろん、そういう話になるだろうことはわかっていた。
「でも、市川も見ただろ。こいつは絵の中から出てきた」
「うん、でも、そこが何が起きるかわからない場所だとしたら、
『隼くんが瀬尾さんの幻を見た』って可能性だってあるわけでしょう」
「それを言われると、参る。俺には証明する手立てがない」
「だから」と市川は続ける。
「だからわたしは言う。『むこう』にいって、瀬尾さんの姿を自分の目で見るまで、信じきれない」
たしかに、そういう話になる。
だが、彼女は気付いているだろうか?
俺が見た瀬尾が幻だという可能性を理由に、むこうで瀬尾を見るまで信じられないというならば、
市川がむこうにいったとき、見つけた瀬尾の姿だって、幻じゃないとはかぎらないのだ。
見たものを信じられなくなったとき、人は未分化の混沌に踏み入ることになる。
そこにはもはや足場すらない。
……この二重の風景が、俺にとっての現実を歪めてしまっているのと同じように。
「はい」とちせがまた手を挙げた。
「だったら、みんなで行くといいと思います」
「……ちせ」
「隼さんが心配するのはわかりますが、そこに青葉さんが取り残されているのは事実です。
それに、ここまで聞いてしまった以上、隼さんがいくら止めても、『むこう』へ行きたい人が出るのは当たり前です。
だとしたら、それぞれが勝手な行動を取るよりも、みんなで力を合わせてむこうを調べたほうがいいと思う。どうでしょう?」
さすがに答えに窮する。
「幸い、隼さんとわたしで、帰り道になりそうな法則みたいなものは見つけられました。
もちろん、それが通用するとはかぎりませんけど、わたしが見たかぎり、あの空間にそこまで変なところはありませんでした」
ちせはわかっていない。
あの森に立ち入っていないから、わかっていない。
けれど、それを説明する術はないし、したところでわかってもらえるわけもない。
実際、ちせの言うとおりかもしれない。
怜は、『むこう』に何度も向かい、そして帰ってきている。
だとすると、用心さえすれば、帰ってこれなくなることは、ないのかもしれない。
かもしれない、かもしれない。……人を巻き込むには、仮定が多すぎる。
「……どう? 隼くん」
市川にそう訊ねられ、俺は頷くほかなかった。
「ちょっと、時間をくれ。いろいろと考えてみる」
納得したかはわからないが、俺がそれ以上話をする気がないとわかったのだろう。大野も市川も頷いてくれる。
無事に、確実に帰ってくる方法さえあれば、たしかに『むこう』に行ったほうが話は早い。
俺ひとりでは無理でも、瀬尾の説得もできるかもしれない。
怜に、詳しい話を改めて聞いてみるべきだろう。
◇
「ぼくに何の相談もなかったっていうのは、どういう了見だろうね」
その日の夜、夕食に純佳が作ってくれたオムライスを食べてから、部屋に戻って怜に電話をかけた。
「事後報告になるのは謝るが、状況が状況だったのはわかってくれるだろ」
「それで、瀬尾青葉さんは見つけられたわけだ」
「ああ」
「万事解決だね」
「……ま、そうだな。あいつが帰ってきさえすれば」
「そこが不思議だな」と怜は考え込むように呟いた。
「瀬尾さんは帰り方がわからなかったわけではない。のに、帰らないんだろ?」
「何かを探してる風だった」
「……学生証かな?」
「だったら話は簡単なんだけどな」と俺は笑った。
「観念的な空間だからね」と怜は言う。
「観念的なさがしものなんだろう」
「観念的、というと」
「さあ? 記憶かな」
記憶。そうかもしれない、と俺は思う。
「ちょっと困ったことにはなってるんだ」
「うん。そうだろうね」
「どう思う?」
「仕方ないだろうね。見られたんだから」
「……まあ、そうだな」
迂闊なところがあったのは事実だが、そもそも、「ちせ」があんなふうに簡単にむこうに行ったこと自体が驚きだ。
今日のように誰もが簡単にむこうにいけるなら、あっちに行ったことのある人間は、もっと多くてもいいはずだ。
だからこそ条件があると思っていたのだが、どういうことだろう。
「それで、他の部員もあちらに行ってみたいと言ってるんだ」
「それも仕方ない」
「そう、仕方ないことなのかもしれない」
「まあ、たぶん……問題ないと思う」
怜の反応は、思った以上にシンプルだった。
「根拠は?」
「ないといえばない。でも、『むこう』にいっても、基本的に害はないと思うんだ」
「長年の研究の結果か」
「そういう言い方もできるけど。少なくとも、あの森に入り込まないかぎりは、危険はないと思う」
ここに俺と怜の認識の違いがあるのかもしれない。
怜は、あの場所に踏み入るリスクを、俺よりも軽く見積もっているように思う。
「……まあ、そこに関しては仕方ないか」
今日は実際、帰ってくることができた。
瀬尾が帰ってこない以上、あちらに行く意味はないが、大野たちが瀬尾の無事を確認したいという気持ちも理解できる。
それに、未知の現象をどうにか自分の感覚に落とし込んで納得したいという気持ちも、わからないではない。
「でも、隼、気をつけたほうがいいね」
「ん」
「瀬尾青葉さんの学生証のことを考えれば、彼女が必ずしも安心できる状態ではないということは、たしかだと思うから」
「……」
考えてみれば不思議な話だ。
怜は瀬尾青葉の『顔』を知らない。
とはいえ、そこに関しては、今はわからないことだ。口に出す意味もない。
「それで、怜、聞きたかったのはべつのことなんだ。帰り方のことなんだけど」
「帰り方?」
「むこうに行ったとき、おまえはどうやって帰ってきてるんだ? 通ってる以上、帰り方は知ってるわけだろ」
「うん。まあね。……そっか。その話をしてなかった」
「おかげで帰ってこられなくなるところだった」
「べつにぼくのせいじゃないと思うけどね」
「誰のせいでもないってことだろうな」
うん、と怜は頷いた。
「帰り方はシンプルだよ。鏡や絵を探せばいい」
「鏡、絵、か」
「隼は、どうやって帰ってきたんだ?」
「花だよ」
「花?」
「イワカガミだ」
「なるほどね」と怜はくすくす笑った。
「カガミとついてればなんでもいいってことか?」
「いや、違う。言っただろ。あそこは観念的な場所なんだ」
「観念的な場所。というと」
「物理的に鏡であっても駄目なんだ。観念的に鏡でなければいけない」
「……イワカガミの葉は、観念的に鏡だってことか?」
「そういうことになるね」
「だとすると……『窓』では駄目か」
「駄目だ。たとえ鏡としての機能を果たしたとしても、それは鏡ではない。
そうわかっていれば、出口探しはそんなに難しくないよ」
難しくない? ……怜はあちこちからむこうに行ったという。
そのどこにでも、鏡があったとは……。
いや、違う。
「入り口の近くに、出口はかならずある。簡単には見つけられないだけだ」
「そうは言っても、イワカガミみたいなものばかりだったら、途方に暮れるしかないが」
「いや。それはたぶん、むしろ珍しいくらいの出入り口だよ。普通はもっとシンプルだ」
「結論から言ってくれ」
「水だ」
「……水鏡か」
「それが一番多い。人工物のようなものが多い場所だと、絵のほうが多いな。ただの鏡って場合もあるけど」
「……とにかく、迷ったら、絵か、水か、鏡を探せ、ということか」
「隼ひとりで行かなくてよかったね」と怜は言った。
「ひとりで言っていたら、イワカガミなんて気づきもしなかっただろう」
「まあ、そうだな」
そう考えると、結果的にはよかったかもしれない。
「瀬尾さんが見つかったというなら、ぼくが無理になにかアクションを起こす理由はない。
ただ、むこうに行くときは、念のためにぼくにあらかじめ連絡してくれ」
「……そうするよ」
「それから、隼」
「ん」
「さいきん、ちどりになにかあった?」
「……なにかって?」
「昨日連絡したんだけど、ちょっと様子がおかしかったような気がして。
……考えすぎかもしれないけど、気になってね」
「……心当たりはないが、一応気にかけておく」
嘘だ。ないわけではない。
「隼は嘘つきだからな」と怜は言った。そのとおりだと俺は思う。
◇
怜との電話を切り、あれこれと考えを巡らせる。
瀬尾は見つけた。彼女は帰ろうとしないだけだ。
それを無理に連れ帰ることは、できない。
その上で改めて考えてしまう。
とりあえずのところ。
むこうの法則のようなものを見つけ、ある意味で対策は打てる立場になった。
瀬尾を探していたメンバーにも、一応の説明は行えた。
けれど、何も解決なんてしていない。
俺はこれまで、何を優先しても瀬尾の行方を特定するのが最初だと思っていた。
でも、それは正しかったのだろうか。
瀬尾の居場所がわかったところで、なにも事態は変わっていない。
俺は相変わらず葉擦れの音を聞いている。景色が二重に見えている。
瀬尾を連れ帰ったらさくらを手伝うと約束はした。
けれど……瀬尾が帰ってきたとき、俺はどうなっているんだろう。
「隼ちゃん」と、瀬尾は最後に、俺のことをそう呼んだ。
俺をそう呼ぶのは、鴻ノ巣ちどりだけだ。
瀬尾はちどりに会ったことがない。
今、考えても結論は出せない。
いずれにしても、瀬尾が探しているものは、俺もまた見つけなければいけないものなのかもしれない。
そうしなければ、このわけのわからない状態に決着をつけることはできないだろう。
でも、本当のところ、俺はどうしたいんだろう。
瀬尾を連れ戻して、それで?
それでいったい、どうなるっていうんだろう。
俺は、自分が何を求めているのか、わからない。
……いいかげん、逃げ回っているわけにも、いかないのだろうか。
瀬尾があの場所で何かをさがすというなら、俺もまた、彼女のように何かを見つけなければならないだろう。
そうしなければ、俺は永遠にこのままなのかもしれない。
◇
翌日、瀬尾からの手紙が『伝奇集』に届いていた。
「昨日はありがとうございました。次来る時は牛乳プリンを忘れずに」
そう書かれていたが、その日、俺たちは『むこう』に行くことができなかった。
やはり何か条件があるのだろうか、大野や市川だけではなく、ちせや俺までも、絵の中に入ることはできない。
誰も不平は言わなかったが、拍子抜けした感は否めなかった。
真中は部室にいるとき、なにかいいあぐねているみたいに俺に声をかけずにいた。
その日の夕方はバイトがあって、結局何もできないまま終わった。
バイトに入る前に、俺はある人に連絡を入れた。
◇
県道沿いに立つファミレスのテーブル席に座って、彼女は俺を待っていた。
時刻は夜の九時半を過ぎた頃。バイトを終えてすぐに来たが、いくらか待たせる格好になった。
黒く長い髪の毛先を巻いて横に結び、首にかかるように流している、そんな髪型が大人っぽくて新鮮だった。
俺と毎日のように会っていたとき、彼女が髪を結んでいた記憶はない。
袖の短いカットソーから伸びる腕は、相変わらず白く、細かった。
彼女は俺を見つけてふわりと笑う。その所作は、不思議と懐かしかった。
俺は彼女の真向かいに腰をおろし、その様子を改めて眺めてみる。
そんなに長い時間が経ったというわけでもないのに、別人のようにすら思える。
が、いや、やはり、この人は変わっていないのだと気付く。
単に、私服姿が珍しいというだけのことなのかもしれない。
「お久しぶりです」と声をかけると、彼女は子供みたいににかっと笑った。
「ん。ひさしぶりだね、後輩くん」
人形のような綺麗な顔つきと、取り繕わない自然な表情の動き。
微細に計算されているような、それでいて自然にこぼれだしたような変化。
ましろ先輩は、口元に笑みを浮かべたまま、メロンソーダの入ったカップのストローに口をつけて俺を見ていた。
◇
「どう、部活」
何の説明もしていないから、ましろ先輩はそんな世間話を最初に口に出した。
少し会えませんか、と連絡して、いいよ、と返信が来たのだ。ありがたいことだ。
「順調とは言い難いですね」
「んん。そうなの?」
「ちせから、聞いてないんですか?」
「何を?」
「瀬尾がいなくなったこと」
「……」
きょとんとした顔で、彼女は俺を見る。
「いなくなった? 青葉ちゃんが?」
てっきりちせは、そのことをとっくにましろ先輩に話しているものだと思っていた。
だから今日の用件だって、何も言われなくてもそうわかったはずだと思ったのだけれど。
「……聞いてないんですね」
「ん。あとでお仕置きだね」
「あんまりいじめないであげてください」
「ええ? いっつもわたしがいじめられてるほうなのにな」
「そうなんですか?」
「ん。ちせは、わたしにはお説教ばっかりだからね」
思い出し笑いみたいに、彼女は頬を緩めた。
意外といえばそうだという気もしたが、似合うといえば似合う話かもしれない。
「岐阜城はどうしました?」
「岐阜城?」
「最近日本の城のプラモデルに凝ってるって聞きましたけど」
「あ、うん。……いや、そんな話はいいんだよ。青葉ちゃんのこと」
「ええと、いや、とりあえず見つかったんで、大丈夫です」
「見つかった? ……なんか、全部事後報告だなあ」
「知ってると思ってましたから」
「今日わたしを呼んだのは、そのこと?」
「そのことも、です」
「ん。聞こうか」
ましろ先輩は、背筋をピンと正して、いつもみたいに(……いつも?)、笑う。
「ひさびさに、相談室を開いてあげましょう」
頷いて、俺は話の出だしを考える。。
会うのは久しぶりなのに、ましろ先輩にいろいろなことを話すのには、抵抗がない。
聞きたいことも、言いたいことも、たくさんある。
けれど最初に、いちばん気になっていたことを、聞いてしまおう。
「ましろ先輩。……先輩は、『むこう』に行ったことがありますね?」
彼女は視線をそらしながら、ことん、と力を抜くみたいに、首をかしげて笑った。
◇
「『むこう』って、何の話?」
「……先輩は俺に、桜の木の下は、『異境の入り口』だって言いましたよね」
その言葉が意味のあるものとして頭に蘇ったのは、つい最近のことだ。
先輩は言っていた。瀬尾には、『守り神』と、俺には、『異境の入り口』だと。
そのときは深く考えていなかった。
当時はあの場所のことをまともに考えてはいなかったし、ましろ先輩が『むこう』を知っている可能性だって考えていなかった。
だから気付かなかった。
「そんな話もしたかな」と、ましろ先輩はまた首をかしげる。
「瀬尾には、守り神と言っていましたね」
「ん。その話はしたかもね」
「先輩は、何を知ってたんですか」
「ちょっとまってよ」と慌てたみたいに彼女は手をぱたぱたさせた。
「何の話か、ぜんぜんわかんないよ」
「……」
思えば、ましろ先輩が、俺と瀬尾に別々の情報を与えたことは、それが初めてではない。
部員数が足りなかったときもそうだ。
ましろ先輩は、部の維持条件について、俺と瀬尾に別々のことを言った。
瀬尾には廃部になると言い、俺には廃部にはならないと言った。
そうすることで、彼女は俺と瀬尾を、それぞれに都合よく動かした。
そこまで気付いてしまえば、嫌でも想像してしまう。
先輩は、そのときもまた、俺と瀬尾に別々の情報を与えることで、何かをさせようとしていたんじゃないのか。
「まったく。後輩くんは、わたしのことを全知全能だとでも思ってるんでしょ。
じっさいわたしは、青葉ちゃんのことだって、今日初めて聞いたんだよ?」
「それに関しては、本当に驚きです」
「それなのに、人がいつも何かを企んでるみたいに言って。ちょっとひどいよ」
「……でも、『むこう』のことは知ってるでしょ」
「ん。まあね」
これだ。がっくり肩が落ちるのが分かる。
「知ってるんじゃないですか」
「そりゃあ、まあね。だから教えたでしょ。桜の木の下は、あそこは異境の入り口だって」
異境の入り口。たしかに怜も言っていた。鏡、絵、それから、『人目につかない自然の中』。
もちろんあそこは人目につかないとは言い難い場所だが、あの朝、たしかに周囲に人はいなかった。
「何者なんですか、先輩は。さくらのことも、異境のことも、全部知ってたんですね」
「……だからさ、わたしはべつに、全知全能でもなんでもないんだって。
知ってることなんて、本当にわずかだし、実のところ、なんにもわかってないんだよ」
「じゃあ、知ってることだけでも教えてください」
「甘えてるねえ、後輩くん」
「いけませんか」
「……そこで開き直られると、弱いなあ」
そう言ってましろ先輩は、自分の毛束の先を指先でつまむみたいに撫でて苦笑する。
「ね、後輩くん。さくらは元気?」
「……どう、ですかね。俺にはわからないけど」
あんまり、元気ではないような気がする。
「鍵の代金、ちゃんと払ってもらわないとね」
「忘れてるわけじゃ、ないですよ」
「ん。よろしい。ね、わたしの方からも、いくつか質問するね」
「はい」
「まず、話の流れからして、青葉ちゃんは『異境』にいたんだね?」
「……はい」
「そっか。ところで、後輩くんはやっぱり『異境』を知ってたんだね」
「ええ、まあ……」
……やっぱり?
「やっぱりってなんですか」
「きみの小説。あんなの、分かる人には何のことだか分かっちゃうよ」
そうか。
俺が部誌に寄せた小説は、『むこう』をモデルにした話だった。
知っている人には、それと分かってしまう。
「……先輩は、いつむこうに行ったんですか」
「それは答えになっちゃうなあ」
「何の、ですか」
なぞなぞがしたいわけじゃない。
「ん。そんな怖い顔しないでよ。べつにはぐらかしてるわけじゃなくて……。
ううん、はぐらかしてるんだけど、そうだね、わたしもちょっと期待しすぎたのかも」
「期待?」
「そうだね、ここらで、話してもいいかな」
そう言って、ましろ先輩は俺を見て笑った。
「本当は、自分で気付いてほしかったんだけどね」
「なにを、ですか?」
「わたしときみが、会ったことがあるってこと」
「……」
「きみは、わたしと会ったことがあるんだよ。気付いても、ぜんぜん不思議じゃないのに、きみはぜんぜん気が付かなかった」
「それって、学校で会うより前に、ってことですか」
「ん。そのとおり」
それは、思い出したというより、たくさんの手がかりから結びついた結論だった。
そんなひとつの思いつきが、俺のことを一瞬で支配した。
そうだ。
『むこう』に行ったことがあったからって、俺の小説を読んで、それが『むこう』の景色だと特定できるわけがない。
怜は言っていた。「どこから入るかによって、景色はまるで違う」。
だとしたら先輩は、『俺が見たのと同じ場所』にいたのだ。
──きみ、この先に行くつもりなの?
よぎる記憶は、やっぱり、夢のようだった。
──ここから先はきっと、わたしたちが行くべき場所じゃないよ。
ましろ先輩の表情を、見る。
端正な顔立ち。やさしげな目元、親しげな微笑。
「やーっと、気付いてくれた?」
「先輩は……」
「わたしは、きみが気付いてくれるかもって、ずっと待ってたんだぜ?」
茶化すみたいに、彼女はテーブルの上に両腕を組み、顎をのせて上目遣いに俺を見た。
六年前の五月、あの日、あの場所には、怜とちどりのほかに、もうひとり、知らない女の子がいた。
中学の制服を着た、親切な女の子。
「あれが……先輩?」
「ふふふ」と彼女はわざとらしく笑った。
「気付くのが遅いぞ、後輩くん」
◇
「あの頃のわたしの話はしたって仕方ないことだから、とりあえずいいね。
そうだね、当時のわたしにもいろいろあったけど、それもまあよくある話だから。
それで、わたしはあの頃、『あの場所』に通うのが好きだった。
わたしだけの秘密の遊び。誰にも知られない場所。
その入口に、ある日きみが立っていた。
わかるよね?」
六年前の五月、俺は、いなくなったちどりと怜を探して、あの木立の向こうに立った。
ましろ先輩は、そこにいたのだ。
「きみが入部してきたとき、わたしはきみをどこかで見たことあるなって思ったんだ。
それは錯覚じゃなかった。きみの小説を読む前から、ひょっとしたらって思ってた。
でも、きみはわたしがわからないみたいだったし、言わないようにしてたんだ」
「どうして言ってくれなかったんですか」
「ん。まあ、いろいろね」
「先輩は……じゃあ、先輩が異境の話をしたのは」
「ひょっとしたら、思い出してくれるかな、と思って。でも、空振りだった」
さすがに頭が混乱してくる。
ましろ先輩、瀬尾青葉、鴻ノ巣ちどり。
俺の身の回りに起きたすべての不思議が、六年前の五月に収斂していく。
何が問題で何が聞きたいのかすら、自分じゃわからなくなりそうだ。
「先輩は、思い出させることで、俺に何かをさせたかったんですか?」
「ん、んん。べつに、そういうわけじゃないよ」
彼女は困ったみたいに眉を寄せた。
「よくわかんないな。青葉ちゃんを見つけられて、きみの周りに、もう問題なんてないんじゃない?」
「……」
「きみはなにか、困ってるの?」
なにか、困っているか。
なにか、困っているか、か。
「……べつに、そういうわけじゃありませんよ」
「あ、心を閉ざす音が聞こえた」
「……」
「ごめんね、茶化してるわけじゃない。これでも心配してるんだよ、きみのことは」
「心配?」
「乗りかかった船だからね」
その言葉の意味はわからなかった。俺はため息をつく。
「教えてあげようか。きみが、なにに困ってるのか」
「……」
まるで知ってるみたいな言い草だな、と俺は思う。
「きみはね、恋がしたいんだよ」
「は?」
「恋がしたいから、困ってるんだ」
「……そういえば、なにか注文しないといけませんね」
「あからさまにごまかさないでよ」
「いや、ほら、来てからなんにも頼んでないですし、さすがにお腹がすいてますから」
「……ま、なんかは頼まないといけないんだけどさ」
「おいしそうですね。じゃがバター炒め」
「後輩くん、わたしこのダブルチョリソーってやつ。あ、でも唐揚げ食べたい気分もないではない……」
「おごりませんよ」
「ええ? なんで? 誘ったの後輩くんなのに?」
「年下にたからないでください」
「おっかしいな。ちせにはジュースおごったって聞いたのにな」
「……」
「……やっぱちせには勝てないかー」
「……まあ、サイドメニューくらいだったら別に払いますよ」
適当に注文を済ませてから、あまり間もおかずに皿が届き始める。
先輩はチョリソーを一口かじると、「から……からい……」と涙目になった。
「そりゃ辛いですよ」
「チョリソーは、べつに辛いソーセージのことではない……」
「あ、そうなんだ……」
知らなかったなあ、と思いながら、俺はじゃがバターを頬張った。
「後輩くん、飲み物よかったの?」
「ええ、まあ……」
「飲む? メロンソーダ」
差し出されて、どうしようかなあと迷ったけれど、とりあえずいただいた。
「おお、躊躇もなく」
「……」
「ちょっと照れますなあ」
「……からかってますよね?」
「そんなことないもーん」
子供みたいな人だ、本当に。
「それで、きみの話だけど」
「そんなに辛いんですか、そのチョリソー」
「話題を変えようとしないでね。きみの恋の話」
「悪い冗談はよしてください」
いいかげんにしてほしい。
「恋ってなんですか」
「恋は恋だよ」
「……ああ、そうか」
……この人、さくらの手伝いをしていたんだった。
「さくらは、きみのこと、変だって言ってたよ」
「直接言われましたよ」と俺は答える。
「この世のものとは思えないとかなんとか……」
「ひどい言われようだねえ」
「さすがの俺でも傷つきましたね」
「嘘つき」とましろ先輩はまた笑う。
たしかに嘘だ。そんなに傷つかなかった。
よく分かるものだ。
「さくらは言ってた。『この人には難しいと思います』って」
「……何が、ですか」
「恋が、だって。なんでなのかは知らない。さくらはほら、そういう子だから」
「……」
「わたしも、そうなのかなって思った。でも、さくらはこうも言ってた。
『この人からは、たくさんの縁の糸が伸びていますよ』って」
「……縁の糸、ね」
ポテトフライが届いた。ましろ先輩はにこっと笑って塩をふりかける。
「そう、さくらに言わせるときみは一種の『混乱』なんだってさ」
「混乱?」
「人一倍、縁の糸が多い人。モテるって意味じゃなくてね、どういう表現だったかな……」
「モテるって意味ではなくてですか」
知ってはいるが。
「そう、モテるっていうのとは違う。おそろしく『良縁に恵まれている』って言ったかな」
「良縁……? おみくじみたいですね」
「でも、さくらはきみを難しいと言った」
──あなたが周囲に嫌われていないことの方がわたしには不可解です。
さくらはいつかそう言っていた。
「きみはその縁に心当たりがある?」
「……ずいぶん優しい人間が周囲にいてくれるな、とは思っていますね」
ポテトフライが届いた。ましろ先輩はにこっと笑って塩をふりかける。
「そう、さくらに言わせるときみは一種の『混乱』なんだってさ」
「混乱?」
「人一倍、縁の糸が多い人。モテるって意味じゃなくてね、どういう表現だったかな……」
「モテるって意味ではなくてですか」
知ってはいるが。
「そう、モテるっていうのとは違う。おそろしく『良縁に恵まれている』って言ったかな」
「良縁……? おみくじみたいですね」
「でも、さくらはきみを難しいと言った」
──あなたが周囲に嫌われていないことの方がわたしには不可解です。
さくらはいつかそう言っていた。
「きみはその縁に心当たりがある?」
「……ずいぶん優しい人間が周囲にいてくれるな、とは思っていますね」
「さくらは、きみを『混乱』と呼んだけど、わたしはあんまりそうは思わないんだよね」
ましろ先輩はポテトをつまみつつ、話を続ける。
「厄介な荷物を持ってそうだな、とは思うけど」
「荷物ですか」
「きみを苦しめているものって、なんだろうね」
「……」
そうだな。
瀬尾の行方を見つけた今となっても、俺は以前のように、日々に戻ることができずにいる。
さくらのこと、神様の庭のこと。
何が問題なのか
明白だ。
『葉擦れの音』だ。
だからこそ俺は、ましろ先輩に声をかけた。
「先輩は、『異境』に通ってたって言いましたけど、なにか変なことは起きなかったですか?」
「たとえば?」
「見えないものが見えるようになったとか」
「見えないもの」
「聞こえないはずのものが聞こえるとか」
「きみは何が知りたいの?」
「……異境、って、先輩は呼びますけど。あの場所は、いったいなんなんでしょう?」
「ふむ」
「あの場所が、なにかおかしなことを引き起こす、そんなことがあるんでしょうか?」
たとえば、カレハが言った、あの『繋がり』。
その正体が、今は気になって仕方ない。
俺が考えているのは、この葉擦れの音がどうしたら止んでくれるのか、という、ただそれだけ。
「先輩は、どうして俺が、恋をしたがってるなんて思うんですか」
「きみは、心当たりがないの?」
「俺は……」
人を好きになることは、おそろしいことだ。
茫漠とした塩の砂漠に放り出されるような、
涯のない桜の森の下で求めたものさえかき消えるような、
ひとりで深い森をさまよい歩いたあの夜のような。
「……できることなら、恋なんてしたくないです」
「嘘だよ」と、彼女はあっさりとそう言った。
「どうして、先輩にそんなことが言えるんですか」
「それは、わたしもそうだからだよ」
「……」
「なんてね」
「……先輩」
「ポテト、冷めちゃうよ。ほら、お食べ」
「……」
「さくらはわたしの友達なんだよ」
ポテトをまたかじりつつ、先輩は話を変えた。
「ずっと昔から、わたしとさくらは一緒だった」
「……」
「さくらは、わたしの唯一の友達だった。何でも話せる、誰とも違う、友達」
どうして、そんな話をするんだろう。
「さくらは言ったよ。この世界は、愛に満ちてるんだって。でも、わたしはそうは思えなかったな。
それでもわたしには、さくらはいちばんの友達だった」
「……それで、さくらと一緒に、縁結びをしてたんですか」
「ん。そういうこと」
唯一の友達。先輩がそんな言葉を使うのが、意外と言えば意外だった。
少し考えて、違和感を抱く。
「ずっと昔からって?」
「あ、ほら、料理来たよ、皿寄せて」
「あ、はい」
ウェイトレスはテーブルの上に器用に皿を並べていく。
ご注文は以上でおそろいでしょうか。それではごゆっくりお召し上がりください。
話の内容を忘れたみたいに、ましろ先輩はカルボナーラをフォークで不器用そうに巻き上げている。
「それで、ましろ先輩、さっきの話ですけど」
「んー?」
「ずっと昔から、さくらと一緒だったって言いましたよね。でも、さくらはあの学校の守り神なんじゃ」
「ん。そうだよ」
「じゃあ、高一の頃からってことですか?」
「ん。んー。もっと前だね」
「……でも、それっておかしいじゃないですか」
「そう、おかしいんだ」
先輩はくすくす笑った。
「さくらはいつのまに、守り神なんかになっちゃったんだろうね?」
「……どういう意味ですか?」
「もともとさくらは、わたしの友達だったんだよ。わたしだけの……“架空のおともだち”」
「……」
「子供の頃からね。いつのまにか会えなくなってた。それなのに、わたしが高校に入った頃に、突然、わたしの前にまた現れた。
そのときのさくらは、なんにも覚えてなかったよ。自分はずっとあの学校にいるんだって言ってた」
「……どういう意味ですか?」
「たとえ話でもなんでもないよ。“さくらはわたしの友達”」
「だって、さくらは、でも、ずっと学校にいたんでしょう?」
「本人はそう言ってる。どっちが本当なんだろう?
わたしはこう思ってる。さくらはあの学校にずっと居たわけじゃない。
あの学校にずっと居た、という記憶を持って、ある日突然あらわれたんだって、そう思ってる」
「……」
「六年前の五月、あの場所はわたしとさくらの遊び場だった。でもあのとき、きみたちと森の奥に入ってから、
さくらはずっと姿を消していたんだ。そういうものなんだって、思おうとしたんだけど……再び現れた。初対面みたいにね」
「……」
「どっちだと思う? わたしの記憶がおかしいのかな、それとも、さくらの記憶がおかしいのかな?」
どっち、
どっちが……?
そんなの、確かめようがない。
でも、ここでまたひとつつながりが見えた。
“ましろ先輩は、昔からさくらという友達をもっていた”。
そして彼女は、六年前の五月、“俺たちと一緒にむこうに行った”。
そうだとすれば、また繋がる。
学校から出たことのないはずのさくらと、彼女にそっくりなカレハ。
その繋がりが、ましろ先輩によって生まれる。
ましろ先輩とさくらが友達だったなら、“さくらはましろ先輩と一緒にあの森に踏み入った”のだ。
「わたしは思うよ。あの森には、良くも悪くも、よくわかんない力が働いてる」
「……」
「きみの混乱も、もしかしたらそうかもしれないね」
「……先輩だって、『混乱』じゃないですか」
「そうだね。そういうことになる。問題は、きみが方位磁針を見失っていることにあるんだろうね」
「……」
「だから、恋をするといいよ」
「……どうして、恋なんですか」
「なんとなくかな」
そんな軽口は、やっぱり見透かしたみたいな、企んでいるみたいな雰囲気で、
だから俺は、そんな言葉を真剣に考えてしまう。
◇
ましろ先輩と別れて、家への道のりを歩く。
自分が何を考えようとしているのかすらもわからなくなってしまった。
今、俺が求めていることを、俺がわかっていない。
恋をしたがっている、と先輩は言ったけれど、ことはそう単純だろうか。
恋なんて、したところで何が変わるっていうんだろう。
そもそも俺は……この葉擦れの音を、止ませたいと思っていただろうか?
昔からずっとこうだった。
とっくの昔に慣れてしまった。
たまにつらくなる日があるだけだ。
この音が止んだからといって、何が変わるというわけでもないはずなのに、
それとも俺は、この音を止ませることで、何かが変わるんじゃないかと期待しているのか?
……いや、期待していたんだろう。
だからこそ、さくらの誘いに乗って、彼女を手伝った。
ふと思い立って、家を通り越し、あの公園へとひとりで向かった。
もう時刻は十一時を回っている。
純佳には遅くなることを伝えてある。たぶん、先に眠ってしまうだろう。
……頭が痛い。
いろんなことを、思い出す。
春になって、瀬尾と文芸部でふたりきりになった。
大野と真中が入部して、市川が部に顔を出すようになった。
部誌を完成させて、瀬尾がいなくなって、ちせと会って、真中との関係が変わって、
純佳やちどりや怜と、今日はましろ先輩と、過去を探って。
……いろんなことが起きたせいで、妙な焦燥にでも駆られていたのかもしれない。
べつに、いますぐに何かをしなきゃいけないわけじゃない。
切羽詰まった状態にあるわけじゃ、ない。
怜も、ましろ先輩も、むこうに通っていたという。
だったら、瀬尾についてだって、ひとまず安心していいんじゃないか?
森の奥にいかないかぎり、何も起きないんじゃないか?
俺はただ、取越苦労をしていただけなのかもしれない。
第一、なにか起きたとして、どうして俺がどうにかしなきゃいけないなんて思う?
べつに、好きでやっていることなら、放っておいたって……。
ちどりと瀬尾が繋がっているとか、さくらとカレハもそうだとか、そんなことがなんだっていうんだ。
ましろ先輩や怜がむこうに通っていたからって、何かが起きたわけでもない。
瀬尾があっちにいるからって、それがなんだっていうんだ。
さくらが言うように、俺の視界が空虚で充溢しているからって、
真中が言うように、俺が誰のことも好きになれなくたって。
本当はそんなこと、重苦しく考え込むほどのことじゃない。
葉擦れの音が聞こえたまま、今日まで生き延びてきた。
それなのにどうして最近になって、それをどうにかしなきゃなんて思うんだろう。
どうだっていい。
どうだっていいんじゃないか、本当は。
木立のむこうには、涸れた噴水がある。
忘れ去られた小屋がある。
俺は、そこまで、歩いていく。
ぬるい湿気にまとわりつかれながら、雑草をかき分けるように進んでいく。
涸れた噴水が、そこにはある。
空にはぽかんと月が浮かんでいる。
こんな場所に、何があるっていうんだろう。
……ついこのあいだも、ここに来た。
あのとき見つけたメモには、なんて書いてあったっけ。
「わたしはだれ」と、そうあったんだっけ。
そんなこと、どうでもいいじゃないか。
自分が誰かなんて、たいしたことじゃない。
瀬尾青葉は瀬尾青葉で、鴻ノ巣ちどりは鴻ノ巣ちどりで、さくらはさくらで、カレハはカレハで。
俺は三枝隼で。
それでべつにかまわないじゃないか。
そう思うのに、そうじゃないと思う自分も、やはりいる。
涸れた噴水に、雨が、少し残ったのだろうか、水が、溜まって、丸い月を映している。
風が吹き抜ける音がする。
けれど、ここではない。枝葉はかすりとも揺れていない。
むこうで風が吹いているのだ。
◇
翌日の昼休み、俺はひとり屋上で弁当をつついていた。
最近じゃ珍しい快晴だった。このところずっと曇りか雨だったから、こんな日には外で食べるのがいいと思った。
そこにさくらがやってきて、
「ずいぶんぼんやりしてますね」と言う。
「そうだね」と俺は頷いた。彼女はなにも言わずに、俺の隣に腰をおろした。
「どうしたんです、いったい?」
「さあ……。瀬尾も見つかったし、ひとまず、一段落ってところだろう」
もちろん、大野たちをむこうに連れて行くという問題は残っている。
どんな条件が必要なのか、俺もちせも、むこうには行けないままだ。
ルールがわからないままだ。あるいは、そんなものないのかもしれない。
ただ、起きることは起きて、起きないことは起きない。それだけのことなのかもしれない。
「だったら、そろそろ手伝ってもらえますか?」
「ん。そういう約束だったな」
本当は、なにひとつ片付いていない。
でも、なにかしていないと落ち着かなかった。
手繰り寄せられるだけの手がかりは全部手繰り寄せてみた。
でも結局、なんにもわからないままだ。
カレハにも、あれ以来会っていない。
何をどうすればいいのか、そもそも自分がどうしたいのかも、わからないままだ。
結局、瀬尾を見つけた今になっても、俺にできることなんて、なんとなく日々をやり過ごすことだけだ。
それが不満なわけじゃない。でも、ぽっかりと穴が開いたみたいに、なにもかもがどうでもいい。
日常が、またからっぽになってしまう。
ここは俺のための景色じゃない。だから、何をしても仕方ない。
どうしてそんなふうに考えてしまうんだろう。
「わたし、思うんです。人間は、何もしないでいると、腐っていくって」
さくらは不意に、そんな言葉を俺に投げかけた。
ずっと前に、同じ言葉を聞いた気がする。
「手伝ってくれるんですよね?」
「……ああ」
そう、そういう約束だ。
「じゃあ、ここからはラブコメと行きましょう」
さくらはそう言って茶化した。
「ちょうど今日の標的が動き出したところです」
「……ずいぶん急だな」
「縁はいつも動いています。あなたにもいつか見える日が来るでしょう」
「いや、見えないと思うが」
「ま、それはそれとして、です。今回のターゲットのご紹介といきましょう」
「昼飯くらい食わせろよ」
「じゃあ、食べながら聞いてください」
そしてさくらは話し出す。
「今回のターゲットは一年生の男女です」
「はい」
「二人は同じクラスです」
「はい」
「幼馴染同士と呼んで差し支えないでしょう」
「はあ」
「二人は小学校の頃から家が近く仲がよかったのですが、中学に入ると同時に女の子のほうが隣町に引っ越しました。
それで別々の中学校に入ったのですが、高校に進学する際にたまたま同じ学校になったわけです」
思い切り人のプライベートを覗いている気がしてきた。いまさらだけれど。
「そう、いまさらです」とさくらは言った。
「さて、それでこの春再会する運びとなったわけですが、ふたりには気まずい雰囲気が漂っています」
卵焼きを咀嚼しながら、なぜ、と頭の中で訊ねてみる。
「もともと女の子の方は男の子の方が好きだったんです。やんちゃな子でしたが、からかわれがちな女の子にも優しかったので」
返事が返ってくるのにも慣れてはきたが、こうして食事しながらでも意思疎通を図れるというのはなかなか便利だ。
「で、彼女は引っ越しの間際、女の子は携帯電話を買ってもらって、男の子の母親に電話番号を書いた紙を渡しました」
「ふむ」
「ですが男の子の母親は、その紙を男の子に渡すのをすっかり忘れてしまったのです」
「……ははあ」
「女の子は連絡が来ないということで悲しみました。自分なんてべつにいなくても平気だったんだなあと思うわけです。
それで、今年の春同じクラスになってから、彼に話しかけられませんでした。
自分が避けられていると思っているからです」
なるほど。冷食の唐揚げが美味しい。
「わたしもご相伴に預かりたいものです」
やらん。
「で、男の子の方も、女の子が以前よりも女の子らしくなっていることに戸惑って、気後れを感じています」
甘酸っぱいな。
「からあげがですか?」
そのエピソードがである。
「そういうわけで、お互い悪く思っているわけではないのですが、なんとなく気まずくて話しづらい雰囲気なわけです」
そのふたりをくっつけてしまおうというわけですか。
「いえ。お互いの誤解をとくくらいにとどめておきましょう」
さくらにしては控えめな判断だという気がした。
「わたしだって、なにがなんでもくっつくべきだと思うわけではないです。
でも、せっかくの縁が途切れてしまうのはもったいないですから」
縁が見えるとこいつは言うけれど、それはどんなふうなんだろうか。
どんなふうに、何を基準に繋がっているんだろう。
「……わたしは、人の心というのは、もともと瑕疵のない球体なのだと思います」
球体。
丸いビー玉を想像する。
「生きているうちに、それが徐々に、ぶつかりあって、傷つけられて、削れて、割れて、すり減っていくんだと思う。
でも、そうすることで、欠けていくことで、いずれ、その傷にぴたりとはまるみたいに、誰かと繋がり合えるんです」
その説によると、と俺は思った。
最後の最後には、粉々になって消えてしまうかもしれないな。
「そうかもしれない」とさくらは言った。
「でも、傷一つない球体のままでいくら誰かと繋がり合おうとしても、きっと、本当に触れ合える面はごくわずかですから」
けれど、うまく繋がり合えないまま、ぶつかりあって、傷つけられ、削られて、
いずれ、誰ともくっつけないくらい、誰かと繋がっても、すぐに剥がれてしまうくらい、小さく削れてしまうかもしれない。
「そうかもしれない」
とやはりさくらは言う。
「でも、それを拾い集めて、もとに戻してくれる人も、きっといないわけではないですから」
俺はふりかけごはんをぱくぱく咀嚼して、飲み込んでから訊ねた。
「それが愛?」
「あるいは」とさくらは少し考えるみたいな顔をした。
「やさしさ、かもしれないです」
なるほどな、と俺は思った。
◇
弁当を食べ終わったあと、俺はさくらに言われるままに屋上を後にした。
「まずは状況の確認と行きましょう」
そう言って彼女が俺の前を歩いていく。
人がいようとおかまいなしに、彼女は話を続けていく。
「ふたりは今教室でそれぞれに昼食をとっているはずです。あなたが食事を急いでくれたおかげで間に合いそうですね」
「調子は取り戻したみたいだな」
「はい。あ、周りに人がいますから、喋らないほうがいいですよ」
そういえばそうだった。俺には見えるし聞こえるから、つい油断してしまう。
……ましろ先輩の、友達。
考えると、不思議なことだ。
さくらは心が読めるのに、ましろ先輩がさくらを知っていたことは、分からなかったんだろうか。
それに、いまこうして俺がそれについて考えていることを、さくらは『聞いて』いないのだろうか?
「……どうしたんです、急に黙って」
……聞こえていないのか。
どういう理屈なんだろう。
さくら自身の持っている『力』が、さくらにそれを教えまいとしているみたいだ。
あるいはさくらが……知りたくないのか。
すべてがご都合主義だ。
何かをもくろんでいる『何者か』を仮定したくなるくらいに。
でもきっと、そんな存在はどこにもいない。
最初からずっとそうだ。俺たちは何かを演じている。誰が仕組んだ舞台かもわからないまま。
「ここですね」とさくらが言う。
一年の廊下は賑やかだった。ときどき俺をちらちら見てくる奴がいるのは、上級生だからだろう。
あんまり気にかけられないように、なるべく堂々と振る舞う。
「似合いませんね、堂々と、というのは」
じゃあどうしろっていうんだ。
「斜に構えていてください。そのほうが似合います」
……斜に構えたやつはいけすかないって言ってなかったっけか?
「人には向き不向きがあります」
そう言われると返す言葉もなかった。
「ここです」とさくらがある教室の入り口で立ち止まった。
「窓際の三人組が見えますか」
見える。
「一番奥に座っている子です」
なるほど。そう言われても、さっき聞いた情報だけでは何の感慨も湧かなかった。
「男の子の方は……教室中央で、ふたりで食べていますね。眼鏡をかけていないほうです」
ふむ。それで、これを知ったところでどうなるというんだろう。
「顔を覚えておいてください。あとで話しかけることになりますから」
なるほどね。
「ちなみに女の子のあだ名はコマツナです」
「は?」
慌てて口を覆った。
「名前が小松ななみなので」
はあ。そうですか。
「せんぱい、なにしてるの?」
後ろから声をかけられて振り向くと、真中とちせが揃って立っていた。
「ああ、いや……」
「一年の教室に、なにか用事ですか?」
「せんぱいに『用事』なんてものがあるの?」
「どういう意味だ真中」
「あ、いや。深い意味はないけど」
しかし考えてみれば、真中の言う通りかもしれない。
俺の用事なんて、そもそも文芸部関連と大野からの頼み事以外にはほとんどない。
瀬尾がおらず、大野が自分で感想文を書くようになった今、俺には用事なんてものはない。
個人的なものはだいたいメッセージで済ませてしまうし。
……。
「何をむなしくなってるんですか」とさくらが言う。
最近は思うところがいろいろあってな、と頭の中だけで返事をした。
「……そちらは?」
と、ちせが視線をさくらに向ける。
この流れは覚えがあるぞ、と俺は思った。
「悪い、急用を思い出した」
と言って、俺はその場を逃げ出した。
◇
「よかったんですか?」とさくらが訊いてくる。
俺と彼女は、中庭の欅の下に立っている。
「仕方ない」と俺は答えた。何がよくて、何が仕方ないんだろう?
……本当に仕方ないのだろうか?
俺は真中から逃げている。そんな気がする。
「今回はずいぶん雑でしたね」とさくらは言った。
「もう答えが出ているだろう」
「……あなたからしたら、そうかもしれない」
「ちせは“むこう”に行った。それでさくらが見えるようになった」
予想していたことではあった。
俺とましろ先輩に見えて、真中には見えない。
以前のちせには見えなかった。このあいだ、“むこう”に行く直前まで、ちせはさくらを認識できなかった。
今は見えている。
条件はわかりきっている。
「“むこう”に行った人間には、さくらが見えるようになる」
「……そういうこと、なんでしょうか?」
さくら本人さえ、不思議そうにしているが、ここまで来ると話はシンプルだ。
そして、“瀬尾は最初からさくらの姿が見えていた”。
部誌を完成させてあちらに行く以前から、さくらが見えていた。
ということは、“瀬尾は、それ以前にむこうに行ったことがある”。
「……ということは」
やはり、むこうに行ったことがある人間、行ける人間というのは、本当にわずかなのだろう。
それに関して考えるのは、後にすることにした。
「あの二人のこと。どうすればいい?」
「あの二人、というと、コマツナさんたちのことですか」
「そう」
「今日の放課後です。コマツナさんがここに来るので、あなたもここにいてください」
「……」
放課後は部室に行かなければいけない。大野と市川は、瀬尾の姿を見たがっている。
俺だってそうだ。
瀬尾が、あいつが帰ってきさえすれば、俺だって……。
「いいでしょう、今日は息抜きです」
「息抜き、ね」
仕方ない。
もう俺だって、いろいろと限界が来ている。
いろんなことが、耐え難くなっている。
今日のところは、さくらの言うとおりにするのも、悪くない。
◇
そして放課後、俺はさくらと一緒に、中庭の欅のそばにいた。
すると例の“コマツナさん”があらわれた。
「こんにちは」と彼女は声をかけてきた。
「ああ」と俺は頷いた。
「こんにちは」
「柚子の彼氏さんですよね」
人当たりのよさそうな笑顔。俺は少しだけ驚いた。
「真中の知り合いだったのか」
「はい。クラスは違いますけど、ともだちです。先輩のこと、よく聞かされてます」
「悪口ばかりだろ」
「はい」と言って、彼女は困り顔で笑った。
「仕方ないことだけどな」
「そうなんですか?」
「ああ」
さくらはここで待っているだけでいいと言った。
案の定、コマツナさんはここに来た。本当に、こんな力があれば、なんだってやりたい放題じゃないか。
「そうも行きませんよ」とさくらは言う。やっぱりそうかもしれない。
「先輩は、柚子と付き合ってはないんでしたっけ」
「うん。まあな」
「どうして付き合わないんですか?」
「どうして」
どうして? それが分かれば苦労はしない。
「先輩は恋愛感情がないのかもしれないって柚子が心配してました」
「それできみは、おせっかいを焼いてここに来たの?」
「そういう言われ方をするとあれですが、ちょっとどんな人か気になってたので」
「そんなに話題に昇るのか」
「はい。柚子からもちせからも。……どっちの印象も、なんだか偏ってそうで」
たしかにそうかもしれない。
「きみ、名前は?」
「小松ななみです」
「コマツナさん」
「コマツナってゆうな」
「……」
ナチュラルに呼び名を統一しようと思ったのだが、阻止されてしまった。嫌な思い出があるのかもしれない。
「……小松さん。俺にだって恋愛感情くらいあるよ」
「そうなんですか?」
「たぶん。いや、ていうか、わからない。どうなんだろう。そう聞かれると不安になるな」
「え、なんでですか」
「誰かと比べることができないものだしな。自分のこれがそう呼ぶのかなんてわからないだろう」
「わたし、あの、ポップソングとかで好きなフレーズがあるんですけど」
「ん」
「“これ”が“それ”じゃないなら、何が“それ”なのかわからない、みたいな言い回しです」
「……ふむ」
と俺は考えてみた。
「『愛をこめて花束を』みたいな?」
「そう、まさしくそれです。あと、『リユニオン』とか」
「……なんだっけ、それ」
「ラッドです」
「あー、なるほど」
……まあ、そういう考え方もあるのかもしれない。
「先輩って、なんか人間不信っぽいですよね」
「そう?」
ていうか初対面だよね、と言いたくなるのを飲み込む。
一応ここでこうして話しているのは目的あってのことだ。気まずくなってもいけない。
「話聞いてるだけでもそんな気がしますけど、なんだかいつも、浮いてる感じ」
「浮いてる?」
「現実から三ミリくらい」
「ドラえもんか俺は」
「物の例えですよ」
「比喩じゃなかったら怖いだろ……」
小松はくすくすと笑う。
どうして俺は女の子と話す度にこうやって主導権を握られてしまうのか……。
「でも、柚子のこと、はっきりしてあげないとかわいそうですよ」
「わかってるよ」
「なにか事情がありそうですね」
「そんな大層なことでもないけど……」
「……ふむ?」
彼女は不思議そうに眉を寄せた。
「恋というのがどうにも分からなくて」
「ははあ。青春ですね」
「そうかもね。……」
「今です」とさくらは言った。俺もそう思う。
「きみは?」
「へ?」
「恋。してます?」
「……え、ええ。そこでわたしの話になるんですか?」
「なにかの参考になるかと思って」
「人のを聞いてどうこうなるような話でもないと思いますが……」
「何もかもが経験によってしか学べないようなものだとしたら」と俺は言う。
「誰かの思考の足跡である本にも、表現である芸術にも何の意味もなくなるだろう。少なくとも俺はそこに学ぶものがないとは思わない」
「……さすが文芸部ですね。何言ってるかさっぱりわかんないです」
「物の例えだよ」と俺は彼女の言い方を真似た。
「少女漫画に恋を学んだっていいだろう」
「読むんですか?」
「たまにね」
「……ふーん。ちょっと意外」
小松はうなずきながら空を見た。今日の空は薄曇り。いつ雨が降り出してもおかしくなさそうだった。
「わたしも、恋ってよくわかんないです」
「そうかな。偉そうなこと言っといて」
「これがそうかな、って思ったことはあります」
「まあ、わかるよ」
「でも、いろいろあって、なんだかどうでもよくなっちゃって。どうでもよくなるなら、それって、恋なのかなって」
「どうでもよくなるような恋があってもいいだろう」
「そういうもんですか?」
「一時の気の迷いなんて言い方をしてたら、この世に気の迷いじゃないものなんてなくなるだろうからな」
「それにしても今日のあなたはいつにもまして喋りが適当ですね」とさくらが感心したような声を漏らす。
俺はそれを無視した。
「……そういうもん、ですかねえ」
「と、思うよ」
「先輩、けっこう良いこといいますね」
……そうか?
さて、でも、これではもちろん足りないだろう。
俺は少し考えることにする。
「……たとえばだけど。ちょっとしたことが理由で、話しにくくなったりするだろう」
「はあ」
「でも、そういうのって案外、なんでもない誤解や行き違いだったりして、話してみればすぐに解決したりする」
「……はあ」
「急に下手になりましたね」とさくらが言う。じゃあおまえが考えろ。
「わたしは今日は傍観です」
いいご身分だ。
「先輩は、そういう経験、あるんですか?」
「……ずっと前に、女の子に告白したことがある」
「え」
と小松は口をあんぐり開けた。
「いつですか」
「ずっと前だ」
「どうなったんですか」
「返事はその場でもらえなくて……次に会ったときに、なんでもないみたいに振る舞われた」
「……うわ、それは……」
「ま、脈なしだったんだろうな、という話だ」
「……しんどいですね。あれ、でも、その話、いまの流れにどう繋がるんですか?」
「あ、いや。つながらないかもしれない」
「なんですか、それ」
俺は、鴻ノ巣ちどりのことが好きだった。
彼女に告白した。
でも、彼女はなにもなかったみたいに振る舞った。
ちどりはなかったことにしたいんだ、と思った。
だから俺も、なかったことにしていた。
俺は、『神さまの庭』に閉じ込められた二週間のうち、どこかで、『先に帰ったはずのちどり』ともう一度会っている。
そこで俺は、彼女に告白したのだ。
でも、彼女はいなくなってしまって、俺はひとり、暗い森に取り残された。
こっちに帰ってきた俺は、葉擦れの音と二重の風景に悩まされた。
そんななか、ちどりは俺が帰ったあとも、なにもなかったみたいな顔をしていた。
――隼ちゃん。
――どうしてそんなに、泣きそうな顔をしているんですか?
どちらにしても、もう一度ちどりに告白したいという気持ちはなかった。
それがいったいなんだったのか、俺にはもうわからない。
ちどりがあのときの記憶をなくしていると気付いたのは、ずっとあとのことだった。
「でもそれだって、話してみたらなんでもない誤解で……たとえば彼女は、俺の言葉がよく聞こえなかっただけなのかもしれない」
「……」
「連絡先を人づてに渡すように頼んだのに、連絡が来なかったこともある。でもよく考えたら、頼んだ奴が忘れてたのかもしれない」
小松は、ちょっと息を呑んだ。
「気になることなら、本当に会えなくなる前に、確かめればよかったんだよな」
「……」
考え込むような顔のまま、小松は俯いた。
ちょっと動揺しているみたいだ。
「……くだんない話をしたな」
「いえ……。あの、わたし、もう行きますね」
「ああ。まあ、がんばれよ」
「な、なにをですか」
「いろいろかな」
「いろいろ、ですか」
ふむ、と小松は頷いた。
「じゃあ、わたし行きます。先輩も、いろいろがんばってください」
「そうするよ。じゃあな、コマツナ」
「コマツナってゆうな」
それで小松はいなくなった。
俺はさくらとふたり取り残される。
「どうだろうな」と俺は訊ねた。
「どうでしょうね」とさくらもぼんやりしていた。
◇
コマツナとのやりとりを終えてから、俺は部室に向かった。
メンバーは揃っている。ちせもまた、顔を出している。
「遅かったな」と大野が行った。
「所用があったものですから」と俺は軽く返事をする。
「やる気ないね、隼くん」
「そういうわけじゃないが、こうも収穫なしだとな」
「いったい、なんなんだよ、この状況は」
俺は肩をすくめた。
「何が足りないんですかね?」
あれこれと話し合い、いろいろと考えてみたものの、結局その日も"むこう"にはいけなかった。
解散になったあと、ひとり帰路につこうとすると、後ろから真中に声をかけられた。
「せんぱい」
「ん」
うなずきを返すと、真中は何も言わずに隣に並んだ。
そんな、何気ないやりとりが、無性に、苛立たしくなる。
急に、そう感じる。
真中に対する苛立ちではない。俺自身に対する苛立ちだ。
いつまでこんなことを続けるつもりなんだ?
「……真中はさ」
「ん」
「なんで、俺のとこに来るの」
「……迷惑?」
「違う」
そう答えてから、いっそ、迷惑だと言ってしまったほうが、こいつは楽になれるんだろうか、と考えた。
「だったら、いいでしょ?」
「いいっていえば、いいんだ」
「じゃあ、なんなの?」
なんなの、と聞かれても、わからない。
このままじゃ駄目なんだと分かっている。
俺は、自分がどうしたいのか、それが分かっていない。
「……なにか、あったの?」
こんなときに、真中はまだ、心配そうな顔で、俺を見る。
不機嫌そうでもない、からかうようでもない、今はただ俺のことが心配だというみたいな顔で、俺を見る。
その顔に、俺は一層の苛立ちを覚える。
どうして俺をそんな目で見るんだ。
「よくわからないんだ」
「なにが?」
「真中がどうして……俺にこだわるのか」
彼女はムッとした顔をした。それは分かる。
「なんで」
「なんでって、なんだよ」
「どうして、そんなこと思うの」
「……やっぱりやめよう、この話」
「わたしはせんぱいのことが好きだよ」
俺は真中の顔を見た。彼女も俺の方をまっすぐに見ている。
以前のような無表情なら、きっと冗談だってやり過ごすことができた。
でも今は、今の真中の表情は、怒っているようにさえ見える。
それくらい真剣なんだと分かってしまう。
だからこそ俺は、よりいっそう深く混乱する。
これは違う、これは俺のためのものではない。
真中が俺を好きなのだと、そう感じさせられるたび、信じそうになるたび、
俺のなかの歯車が悲鳴をあげるみたいに火花を散らす。
焦げ付きそうになる。
うまく、動作しなくなる。
「話してよ」と真中は言った。
「面倒だなんて思わないから、思ってること、全部言ってよ。不安なことも、どうしたいかも」
「……」
「そうやって話してくれないと、わたし、いつまで経ってもこんなふうにしてないといけなくなる」
不安なこと。
どうしたいか。
そんなの……。
「"どうしたいか"?」と俺は思わず繰り返してしまった。
声が震えていることに、自分で気付いた。
「俺がどうしたいかなんて、そんなの……」
続きを待つみたいに、真中は俺の方を見ている。
じっと、覚悟を決めたみたいな顔で。
怯えているんだろうか。
唇をきゅっと結んで、叱られるのを待っている子供みたいな顔で。
どうしてこんな顔をさせてしまうんだろう。
「……悪い。先に帰る」
結局、俺はまた真中から逃げる。
「逃げるんですね」とさくらの声が聞こえる。
どこで聞いていたんだろう。
自分の足音が廊下にこだましている。
「せんぱい! わたしは、せんぱいのことが好きだよ!」
背後から、そんな声がかけられる。
東校舎には、まだ生徒たちは残っている。
大野や市川やちせだって、遠くには行っていないだろう。
それなのに真中は、そう言わずにはいられないみたいに、そんなことを言う。
言えるわけがない。
俺は何も望んでなんていない。
目標も、目的も、望みも展望も、なにもない。
誰かとどうなりたいとか、自分をどうしていきたいとか、そんなビジョンはひとつもない。
やってみたいことも、触れてみたいものも、見てみたいものも、本当はひとつもない。
俺はただ、やり過ごしているだけだ。
葉擦れの音と二重の風景の中で、どうにか、変に思われないように、みんなからはぐれないように、必死で維持しているだけだ。
最低限の日々を。
それ以上のものを考える余裕なんてない。
俺には、なにもない。
空虚だ。
何も求めたくなんかない。そんな余裕は俺にはない。
何かをしているときだけ、ほんの少し、聞こえる音のことを考えなくて済む。
そうやってどうにかやり過ごしているだけで、本当は、いつだってそれどころじゃない。
自分がどうしたいか?
真中のことを好きになれたら幸せだろうと俺は思う。
でも、俺は、この絶え間ない音の中で、誰かのことを考えている余裕なんてない。
ときどき本当に、自分が存在しているのかさえ怪しく思える。
そんな人間が、誰かを好きになれるわけがない。
誰かを求めていいわけがない。
そんな言葉を、真中にぶつけられるわけがない。
……いや、違う。
俺はそれを、真中に知られたくない、と思っている。
そんなことを言って、真中が離れていってしまうことを、それでも恐れている。
逃げるように足早に昇降口へ向かってから、牛乳プリンかもしれない、と思った。
ひょっとしたら、瀬尾のところに行くためには、必要なのかもしれない。
俺は携帯を取り出して、大野にメッセージを送った。
「牛乳プリンかもしれない」。既読はすぐについたが、返信が来なかった。
◇
「兄、どうしたんですか」
そんなに様子がおかしかったのだろうか。
夕食のとき、純佳は俺に向かってそう言った。
「なにが」
「今日、ずいぶん、様子が変ですよ」
「そうかな」
「はい」
とぼけてみせても、純佳は戸惑いすらしなかった。
彼女には見ただけでわかってしまうらしい。
「べつに、なにもないよ」
「そうですか」
ほっとしたわけではないだろう。それでも純佳は、わざとらしく安堵した表情をつくったように見えた。
食卓を挟んで、純佳の表情を見やる。
一瞬それが泣いているように見えたけれど、どうやら錯覚だったらしい。
俺は死んでしまった猫のことを思い出した。
ちどりと、あの雨の金曜日に拾った小さな猫。
家に連れ帰って、飼い猫にしたけれど、数年後に車に轢かれて死んでしまった。
俺が中学生だった頃のことだ。
怜が転校し、真中と出会い、ちどりと疎遠になった、あの頃。
かわいがっていたのは純佳だった。
純佳はあのときもこんな顔をしていた。
そんなことを思い出して、やるせない気分になる。
あんな気持ちになるなら、最初から猫なんて拾うんじゃなかった、とまでは言わない。
言わないけれど……。
いま、俺は、ひどく疲れているのかもしれない。
どうしてだろう。どうしてこんなに疲れているんだろう。
結局、それ以上交わす言葉もなく、俺達は食事を終えた。
食器を洗い、風呂に湯をためて、その夜を過ごした。
◇
九時半を回った頃に、ましろ先輩から電話が来た。
俺は少し迷ってから、電話を受けた。
「もしもし」
「こんばんは、後輩くん」
「どうかしましたか」
「ん。べつに、たいした用事はないんだけどね。なんだか、ちょっと心配になって」
「心配?」
「なんだろう、虫の知らせって奴かな」
ちょうどいいのかもしれないな、と俺は思う。
「ましろ先輩、聞きたいことがあったんです」
「ん」
「先輩は、六年前、俺と会っていた。そして、そのことに気付いたんですよね」
「うん。そうだね」
「じゃあ、瀬尾青葉とも六年前に会っていたことを知っていましたか?」
「……青葉ちゃんと?」
「……」
「あの、どちらかが、青葉ちゃん?」
「……やっぱり」
やっぱりそうだ。先輩は、瀬尾とちどりを同一人物だと認識していなかった。
「……どうだったかな。森の中は暗かったし、外に出た頃には夜だったし、顔もよく覚えていない」
「俺のことは、すぐに分かったんですよね」
「すぐにじゃないよ。言ったと思うけど、似てるなとは思ったけど、決め手になったのは小説だったから」
「そうですか」
「それに、きみと青葉ちゃん、高校で初対面みたいな感じじゃなかった?」
「……そうですよね」
こんな偶然ってあるんだろうか。
ましろ先輩は、俺が入部したときから見覚えがあるように感じていた、と言った。
「ひょっとしたら」と思っていたと。
そして、その認識を、瀬尾青葉には抱いていなかった。
当然だ。ちどりと瀬尾は、顔立ちや体格こそ似通っているけれど、雰囲気がぜんぜん違う。
髪型も、仕草も、違う。
幼い頃のちどりを見たことがあったとしても、それと瀬尾は結び付けられなかったのかもしれない。
だとしたら、全部偶然だ。
俺と瀬尾が同じ学校に入り、
同じ部活に入り、
そこにましろ先輩がいたこと。
そのすべては、本当に偶然でしかない。
縁、とさくらは言うけれど……これはもう、そういう次元ではないような気がする。
「青葉ちゃんが、あの場にいたの?」
「わかりません」と俺は答えた。
けれど俺は、瀬尾青葉と鴻ノ巣ちどりの"繋がり"に気付いてから、ずっと思っていた。
さくらとカレハのことを知り、さくらが"ましろ先輩の友達"だったことを知って、よりいっそう疑念が深まった。
「先輩、"スワンプマン"って知ってますか?」
「……えっと。スパイダーマンの仲間?」
「いえ。一種の思考実験です」
「思考実験。スワンプは……沼地とか、湿地だっけ?」
「はい。沼の男という意味だったと思います」
「どんな思考実験?」
「ある男が、ハイキングに出かけます。その道程の途中の沼のそばで、男は落雷に打たれます」
不意に……風の音が聞こえる。
二重の景色に、カレハが姿を見せる。
もうすぐですよ、と彼女が言った。心待ちにするみたいに、楽しげに。
やっぱりわたしは、あなたのために生まれてきたのかもしれない。彼女はそう言っている。
「男は落雷で命を落としますが、ほぼ同時に、偶然、もうひとつの雷が沼に落ちます。
その結果、落雷は、沼の汚泥と化学反応を引き起こすんです」
「……どうなるの?」
「奇跡的な偶然によって、その沼の汚泥は、雷によって、死んだ男とまったく同一と言ってもいい存在を生み出すんです」
「同一?」
「はい」
俺は、静かに言葉を選んだ。
「先輩は言っていましたよね。『さくらはあの学校にずっと居たわけじゃなくて、あの学校に居たという記憶を持って、あるとき生まれたんだ』って」
「……うん」
「それと同じです。この、泥から生まれた存在は、死んだ男とまったく同一の記憶、知識を持って、雷によって生まれる。
『雷に打たれる直前の男』と、原子レベルで同一の存在として。
そして、自分が死んだ男自身なのだと疑いもせずに信じ、帰路につくんです」
死んだ男の家に帰り、死んだ男の家族に電話し、死んだ男が途中まで読んでいた本の続きを読む。
「それがスワンプマンです」
「……それが、どうしたの?」
カレハが騒いでいる。「もうすぐだよ」
ずっとまえから、そんな気がしていた。
「先輩、俺は、六年前、先輩たちとはぐれてから、あの森から帰ってきた記憶がないんです。
目に映る全部が、俺のためのものじゃないような気がする。他の誰かの居場所を、かすめとっているような気がする」
ずっと不思議だった。
先輩や、ちどりや怜とはぐれたあと、俺はたしかに、ちどりにもう一度会った。
その記憶がある。それなのに、怜といくら話しても、ちどりがもう一度いなくなったなんてことは言わなかった。
俺があのとき会ったちどりは誰だったのか?
どうしてさくらとカレハという、よく似た存在が、むこうとこちらにそれぞれ存在しているのか?
仮に、あの森が、踏み込んだものになにかの影響を与えたとしたら、
たとえば鏡映しのように、その者とまったく同質の別の存在をつくりだしていたとしたら?
それがどうして、怜や先輩には起こらなかったのかはわからない。
それでもそうだとしたら、説明がつく。
カレハは、「先輩の友達」としてのさくらのデッドコピーだとしたら?
俺があの森の中で再会したちどりが、ちどりのデッドコピーだったとしたら?
そのデッドコピーが、のちに森を抜け出して、瀬尾青葉として生きることになったのだとしたら?
本物とデッドコピーの間には"繋がり"があり、感覚を共有しているとする。
そして俺のこの二重の風景が、その"繋がり"ゆえのものだったとしたら。
だとしたら俺は?
「先輩、俺は、三枝隼ですか?」
「なにを、言ってるの?」
「それとも俺は──三枝隼のスワンプマンですか?」
どこかから、哄笑がきこえる。
誰かが俺を嗤っている。
俺は、あの日森に踏み込んだ三枝隼という少年のデッドコピーなんじゃないか。
だとしたらいま、この暗い景色を眺めている誰かこそが、本当の三枝隼なんじゃないか。
俺は六年もの間、三枝隼という空の玉座を不当に占有し続けた簒奪者なんじゃないか?
傘を忘れた金曜日には【その3】