周子「12月12日。今日はなんの日でしょうか?」
「はいナターリアちゃん早かった」
「漢字の日だゾ!」
「おーっと……。予想外の子から予想外の回答でお姉さん困っちゃうな……。えっほんまに言ってんの? ちょっと試しになんか書いてみてよ、漢字で」
「任せて任せテ!」
鉈 亞 凛 愛
「ぜーったいあの辺の影響だわこれ。ナターリアちゃんダメだよー。もうちょっと日本語の勉強してからにした方がいいよー。っていうか、字、うまっ」
「うーん、パッションの人たちは冬でも元気があって、あっついですなー。あたし溶けちゃいそう。はい友紀さん、どうぞ」
「今日はバッテリーの日!」
「んー、これはまた……。分かりにくいというか……。いやあ友紀さんが言うんだったら十中八九あっちなんだろうけどさ……。ちなみに、なんでバッテリーの日なの?」
「そりゃあもちろん! 1はピッチャー、2はキャッチャー! 今日は、両リーグから最優秀バッテリーがそれぞれ選ばれて表彰される日なんだよ!」
「あーやっぱりそっちかー。まあそうだよね、友紀さんだったらそっちだよねー」
「ちなみに表彰するのは、一般社団法人電池工業会!」
「あっ待って。いくらあたしでもそんなにぶっこまれるのはちょっと対応できないというか。うん、バッテリーの日だから、最優秀バッテリーを、バッテリーの協会が表彰するわけね? あーもうわけわかんない」
「あー、はい。桃華ちゃん」
「今日は、ダズンローズデイ。12本の薔薇を大切な人に送る日ですわ」
「おおー、いかにも桃華ちゃんらしいというか。3人目でやっとアイドルらしい回答が出てきたねー」
「当然ですわ! では、周子さんには、こちらを差し上げますわ!」
「……ん? 真っ赤な薔薇が、いち、にい、12本。 わー嬉しいわー。けどどうしたの? そりゃあ毎日仲良くしてもらってるけどさ。あたし、桃華ちゃんに大切な人って言われるようなこと、何かしてあげたっけ?」
「何を仰ってますの! そ、れ、は、周子さんが大切な人に差し上げるための薔薇ですわ! 心に決めたお方に全て差し上げるもよし、皆さまにお分けするもよし。さあ、お行きなさい!」
「おっかしいなあ桃華ちゃんはキュートの子のはずなのになー。ダメだよーあまりパッションに染まっちゃ……。今年の冬はやけに暖かいのは、もしかしてこのせいなのかなー」
少し遅めの朝ご飯を終えて、楽しそうに騒ぎ続けているパッションアイドルたちに見送られて、あたしは寮を後にした。
事務所に向かう道中、街はもうすぐそこまで迫ってきているクリスマスに備えて大いに浮かれている。
陽気な音楽と居並ぶイルミネーションに加えて、日が落ちた後には街路樹までもが色とりどりの電飾を纏うのだろう。
友紀さんはともかく、ナターリアちゃんと桃華ちゃんが朝9時を過ぎているのに食堂にいたのはどうしてだろう。
というか、この薔薇、どうしたものかな。
紙袋にすっぽりと収まってはいるけれど、匂い立つフローラルな香りは隠しきれない。
すれ違ったサラリーマンが不思議そうな顔をして周囲を見回している横を、あたしは努めて素知らぬ顔をして通り過ぎた。
数日前に北からやってきているこの冬一番の低気圧のおかげで、列島各地で天気は大荒れ。
東京では雨や雪が降ることはなかったものの、まさに爆弾みたいな寒気が容赦なく都心を吹き荒れて、あたしもとうとう、今年もナナさんから以前に貰ったどてらを引っ張り出した。
ぴかぴか、と炎陣のライブのようにご機嫌に明滅する電飾で着飾ったトラックが、音の割れたクリスマスソングを鳴らしながら目の前の交差点を横切っていく。
車体に書かれているのはどこかのパチ○コの宣伝で、情緒があるのかないのか、なんだかよく分からない。
1つ階段を上がるたびに、クリスマスが、年末が近付いてくる。
勢いよく正面から吹き付けてきた風に、思わず目を細め、首をすぼめた。
もう黄色い秋服を片付け終えてしまった銀杏が、細い腕をぶるぶると震わせている。
手に持った紙袋も前後に大きく揺れ、そのたびに微かに薔薇の香りがする。
なんだか不思議な気持ちになった。
いつもと変わらない冬の東京を歩いているのに、ファンタジー映画の世界に迷い込んだような錯覚を覚えた。
桃華ちゃんや夕美ちゃんのライブに来ているファンは、こんなイイ気持ちになっているのかな、なんて思った。
今日は、12月12日。
漢字の日。
バッテリーの日。
そして、ダズンローズデイ。
「あ、さっすが志希ちゃん。分かる? 多分これだと思うよー」
「わぁお、ゲラニオールに、シトロネロール? うーん、朝から鼻腔をくすぐるいーい香りー。志希ちゃん幸せー。おはよー周子ちゃん。どーしたの? ひょっとして、ブライダルのお仕事か何かー?」
「ブライダル違うよー。さっき桃華ちゃんに貰ったんだよね。なんか、今日は薔薇をあげる日なんだってー」
「そーなの? あたし聞いたことなかったなー」
「志希ちゃんアメリカ帰りじゃん。海の向こうではさ、今日って何かの記念日なの?」
「今日? 今日っていうと、12日? そーだねー。日本は記念日大好きだもんねー。なーんの日だったかなー」
「おお、考えてる考えてる……。カウント取っていい?」
「はい一ノ瀬さん、お答えをどうぞ」
「Ugly Christmas Sweater Day!」
「……ごめん。全っ然分かんない。なにそれ? アグリクリスマス?」
サンタとかトナカイとかが、これでもかーってくらいに飾り付けられてるやつ。嬉しいんだけど、友達とかの前ではあんまり着づらいよね。ダッサいし。
アメリカの12月12日はね、みんなでそういうセーターを着て、ダサ可愛さを競う日なのだー」
「あ、悪趣味というか、何というか……。志希ちゃんも持ってるの? そのダサ可愛いセーター」
「あるよー。おばあちゃんじゃなくて、カレッジのルームメイトに貰ったやつだけど。でも、あんまり着ようとは思わないかなー。
手編みのセーターだからさ、毛糸もこもこ、静電気バリバリ。あたしの髪の毛、ますます波打っちゃーう」
「お、2本もくれるの? にゃはー嬉しいー。ローズの香りもたまにはいいねー。じゃあ、そーんな周子ちゃんには、お返しに志希ちゃんお手製のこれをあげちゃうー」
「おお……。前にも思ったけど、胸元に何か収納する人って本当にいるのね」
「ふっふふふん。誰かが1度は現実でやったからこそ、映画や小説でデフォルメされて長く使われるってわけ。事実は小説よりも、misterious and cute! っていうか胸ポケット使ってる人、この事務所にはあたしの他にもいっぱいそうだしー」
「胸ポケットの意味違うし。これも香水? いつものより随分と小さな瓶だけれど」
「そうだよー。試作品というか、失敗作というか。あ、危ないわけじゃないよ? 思い通りの出来に近付く1歩手前だっただけ。完成品は、今夜のお楽しみねー?」
「はいはーい、楽しみにしとくねー。んでこれ、何の香りなの?」
「ヒントは、周子ちゃんしか欲しがらないフレーバー。いや、周子ちゃんだけじゃないかな、まゆちゃんとか……、どうなんだろ。苦労したんだからねー、サンプルを採取するの。んでんで、それよりさ。この薔薇、他の人にはもうあげた? プロデューサーには?」
「は? プロデューサーさん? なんで?」
「なんでって……。にゃはははははーん!」
また夜にね、と言いおいて事務所を出て行った志希ちゃんを見送って、あたしはソファの上で膝を抱えた。
ちひろさんの姿も、プロデューサーさんの姿もない。
他のアイドルも仕事なのかオフなのか、普段はそこそこ騒がしいこの部屋にいるのは、今はあたしだけだ。
暖房の風量をあげようかと思ったけれど、立ち上がるのも億劫だし、あたし1人のために暖房を強めるのも何だか癪だった。
もう1人、誰か来たらお願いするとしよう。
外から入ってきた人には、この室温でも些か厳しいだろうし。
琥珀色をした液体の中で、小さな気泡がいくつかゆらゆらと動いている。
あたししか欲しがらない香りって……。
なによそれ。
試しにねじ式の口を捻って、ゆっくりと鼻に近づけてみる。
少しツンとした、いい匂いかというと少し違うそれは……。
何の香り? これ。
なんだか洗濯を終えたあとの布団のような……。
よく分からないけれど、不思議と落ち着く香りがした。
今日は、12月12日。
Ugly Christmas Sweater Day。
「おはよー、美嘉ちゃん、悪いんだけど、暖房強くしてくんない? あたしもう1歩も動けないわ。遭難直前」
「そりゃそうでしょ、なんでそんな丸まって……。風邪ひいてプロデューサーに怒られても知らないよー?」
「風邪は困るわー……。今年まだ予防注射してないし……。あー、なんか来たよ来た来た。あったかいやつ。春の風ー」
「なに言ってんだか。真冬だよ、ま、ふ、ゆ。暖かいの何飲む? コーヒー?」
「梅昆布茶!」
「ありませーん。生姜湯で我慢してー。……はい、どーぞ」
「あああー生き返るわー……。じゃー美嘉ちゃん、お礼にこれをあげましょうー。だからお返しになんかちょーだい」
「桃華ちゃんに貰ったー。今日はね、色んな人に薔薇をあげるといい日なんだって。せっかくだから、あたし薔薇しべ長者になろうと思って」
「ええ……。悪いけど、全然分かんないかな。っていうか桃華ちゃん? あのコってそういうノリの子だっけ」
「薔薇しべ長者はあたしのオリジナルだよ。今日はなんかそういう日なんだって。薔薇あげる日、みたいな」
「なによそれ……。今日は何の日、っと……。パンの日? ああ、これかあ。12本の薔薇を贈る日です、ふうーん……。なんて読むのこれ。ダズン、ローズデー?」
「アタシもだよ。毎月12日はパンの日なんだって。へえー。で、アタシにくれるの? お返しって……。んー、こんなのあるけど」
「なにこれ? マニキュア?」
「そ。この間買った雑誌の付録。アタシ使わないから莉嘉にあげようと思ったら、あのコも同じの買っててさ。周子ちゃんっぽい色じゃないけど、どう?」
「そやねー。これどっちかっていうと卯月ちゃんとか美穂ちゃんとか、キュートの最前線の子っぽい色だわ」
「えーなにそれー。お出かけ? あたしも行きたーい」
「ア、ン、タ、のためのお買い物ですー。主賓が準備についてこようとするんじゃないの。それより、さっきの薔薇だけど。ホントにアタシが貰っていいの? ダズンローズデーだって桃華ちゃんに言われたんでしょ? プロデューサーにはもう渡したの?」
「プロデューサーさん? いや、今日はまだ会ってないけど。なんで?」
「いや、なんでって……。ねえ?」
慌ただしく美嘉ちゃんは事務所を出て行ってしまった。
あたしのためのお買い物、いったいなにを用意してくれるというのだろう。
再びあたしは事務所に取り残され、低くうなり声をあげている暖房と2人きりになる。
真っ黒なモニター、眠ったままの印刷機、うなだれている観葉植物。
部屋の主がいないと、こんなにも静かなのだなと嘆息する。
扉の向こうで微かに笑い声が聞こえた気がした。
美嘉ちゃんはフレちゃんと出会えたのだろうか。
壁のホワイトボードの今日の日付は赤いペンで大きく丸がつけられていて、その下に『10時 フリスク ラジオ』と書かれている。
清涼菓子の営業……、なわけはない。
プロデューサーさんは今頃、4人のアイドルに囲まれて車のハンドルを握っているころか。
けれど試しに塗ってみたら、案外イケるのかもしれない。
紗枝はんと1度衣装を取り替えてみたときに……、とか、プロデューサーさんに売り込んでみようか。
もうそんな時間だったか、と時計を見上げる。
少し早いけれど、昼食を調達しにいこうか。
寮まで戻るか、と少し思案したけれど、近所のコンビニで済ませることにした。
今日はあんまり身体を動かしていないから、それほどお腹は空いていないし。
せっかくだからパンを買おう。
イチゴジャム満載の食パンでもいいし、ガーリックの効いたベーコンパンでもいい。
基本に忠実に焼きそばパンもいいし、和風に粒あんパンも悪くない。
今日は、12月12日。
毎月12日は、パンの日。
「なんで言い直したんよ。フレちゃんこそなにしてんの? こんなところにいていいの?」
「アタシはオシャレにコンビニランチー。あれ? 今日はお昼からお仕事あったっけ? 特になにも予定はなかったと思うんだけどー」
「いや、あれ? なにか……。フレちゃんに言わないといけないことがあった気がするんだけど……。まいっか?」
「いいんじゃなーい? シューコちゃんもホラホラ、アタシと一緒に午後のフレンチといこうよー。はい、フランスパン」
「んー、お昼にフランスパンはちょっと……。固いし……。っていうかこれロシアパンって書いてあるし。パッケージ、思いっきり白青赤だし」
「えー? おフランスも白青赤だよー? 一緒だよー」
「そうだっけ……。え? そうやっけ……。うわ、言われてみるとそうだった気がしてきた……。あれ?」
「オイシイオイシイ、ロシアパン、イカガデスカ?」
「あー聞いたことあるそれ。小学校のときの教科書で読んだことある。って待って、なんでフレちゃんが日本の教科書知ってるの。えっ、フランス生まれでしょ?」
「騙されないぞー。それはドイツの人でしょー。あたし知ってるんだからねー」
「うーんバレたかー。ところでシューコちゃん、お手元のソレはどーしたの? 今日はお菓子屋さんじゃなくてお花屋さん?」
「どっちもハズレー。正解はアイドルでしたー。あちゃー、持ってきちゃってたのか、全然気付いてなかった。はいフレちゃん、プレゼントー」
「おおー? いいのー? あれ、今日はアタシが貰う側なんだっけ? んー、そう言われるとなんだかアタシの誕生日だった気がしてきた! 今日は、……何日だっけ?」
「夕美ちゃんみたいな日だねー。そっかぁ、今日は12日かぁ。じゃあ、なおさら今日のお昼ご飯はこれがオススメ! 今日はだって、憲法記念日だよ!」
「は? 憲法? あれ、それってもっと春じゃなかった? ゴールデンウィークあたりの。なんでそれが関係あるのよ、ロシアパンと」
「ううん、今日だよ? ロシアの憲法記念日」
「待って待って待って。ああもう朝もやったよ、この感じのツッコミ。追いつかないからちょっと待って。なに? ロシアの? ホントに?」
「ああ、そうだった! 美嘉ちゃんが待ってるって話、っていうかなんでプロデューサーがでてくるのよ、ちょっと、フレちゃん! 待ってよ、お金を押しつけるな、こらー!」
肩をぶるぶる震わせながら必死に笑いを堪えている店員さんに頭を下げて、コンビニを出た。
ビニール袋の中には、焼きそばパンと、ロシアパン。
それと薔薇の花。
街を行く風は相変わらず冷たかったけれど、重苦しかった雲は少し晴れて、道路にはぽつぽつと微かな日溜まりが落ちていた。
身体を縮こませている滑り台やシーソーを横目に、もこもこに膨れた子供たちが砂場で転げ回っている。
腰を下ろしたベンチには朝から誰も座っていないらしく、お尻に伝わってくる冷気は昨夜寝る前に感じたもののままだった。
反対側の入り口から、熊みたいに大きな真っ白な犬を連れたお婆さんが入ってきた。
うきゃあ、と子供たちが歓声をあげて群がっていく。
……いいなあ、あたしもモフモフしに行きたいなあ。
利発そうな顔がこちらをじっと見て、わふ、と頷いているのが見えた。
あたしもゆっくりと会釈をする。
跳ね回っている子供たちも飼い主のお婆さんも気付いていない、あたしたちだけの会話。
大きな『ロシアパン』の文字と、フレちゃんだかアーニャちゃんだかよく分からなくなってしまった、白青赤の国旗。
ていうか、ロシアパンってなんなんよ。
ケータイ取り出しぽぱぴぷぺ、……っと。
『ロシアパンとは、菓子パンの1つである。
日本の菓子パンとしての『ロシアパン』はライ麦を使っていないため、酸味もなく、硬さも大きく異なりふんわりとしている。
シュガーパンが一般的だが、黒糖を練り込んだものなど様々なバリエーションが存在する』
ライ麦と言われて真っ先に連想するのは、パンよりもサリンジャーの方かなあ。
頬張ったロシアパンは確かに酸っぱくも硬くもなくて、生地にはかすかに甘みがあった。
今日は、12月12日。
ロシアの憲法記念日、らしい?
「おやおや奏ちゃん。あたしは今ねー、人生について考えてたところ」
「嘘おっしゃい。当ててあげようか? 大方、そうね……。あそこの犬が暖かそうだな、とか。そんなところじゃない?」
「うわー、なんかズバリ当てられると、ひくわー。そんなに分かりやすい顔してた、あたし?」
「だって、待ち合わせでもしてるんじゃないのなら、あなたが見てる方にあるのはシーソーと犬とお婆さんくらいなんだもの。お隣、いい?」
「あら、じゃあ……。せっかくだからいただこうかな。代わりにあげられるようなものは、なにもないけれど。それより聞いたわよ。皆に薔薇を配って歩いて、藁しべ長者を目指してるんですって?」
「別に配って歩いてるわけじゃないんだけどね……。はい、奏ちゃんの分もあるよ」
「あら、ありがとう。てっきり夜が待ちきれないのかと思っていたわ。心配しなくても、ちゃんと用意してあるわよ? ケーキを買うんだ、ってフレデリカが美嘉を引っ張っていった方角が、お世辞にもケーキ屋の方ではなかったのだけれど」
「いいわよ。サプライズでもなんでもないんだし。でも、そうねえ……。パンのお返しはないんだけれど……。綺麗な花のお返しは、ほら、こんなのがあったわ」
「なにこれ? 映画のチケット? 『明太子の朝』? 有効期限は……。は? 『明太子の日から』? なにそれ。……って、今日から? 今日って明太子の日なの?」
「チケットというか、招待券ね。お仕事の関係でいただいたの。……言いたいことは分かるよ。ヘンテコなタイトルだけれど、評判はいいらしいんだから。2枚あるし、せっかくだから誰かと行ってきたら?」
「……もう、バカね。いいから、2枚あるから、誰かと、見に、行ってきたら?」
「……ちょ、近い。近いんですけど、奏さん?」
「まったくもう。ぶらぶらするのも程々にして、事務所に戻っておかないとお迎えの王子様が困っちゃうわよ?」
「んー、そやねー。そろそろ寒くなってきたし、戻ろうかな。今日はずっと事務所にひとりぼっちで、暇だったんだよねー。奏ちゃんも一緒に戻る?」
「……王子様?」
「……とぼけちゃって。そんなこと言って、誰かに取られても知らないんだから。さーて、せっかくだから私、モフモフさせてもらってから行こうかしら!」
「え、ちょっと、待ってよ。あたしも、っていうか奏ちゃん、そんなキャラだっけ? ちょっと!」
見知らぬ女子2人に突然絡まれても、熊みたいな犬は不満そうな顔1つせずに頭を撫でさせてくれたし、お婆さんはにこにこ笑いながらあたしたちの相手をしてくれていた。
1人と1匹に別れを告げ、奏ちゃんの背中にも手を振ってから、あたしはもう1度ベンチに座りなおして、ほう、と大きなため息をついた。
足下を撫でる風はどんどん冷たさを増している。
ポップコーンのように跳ね回っていた子供たちの声も、いつのまにか随分と小さくなっていた。
公園の前の道路を、女の人の声を流しながら広報車が通り過ぎていく。
どこか遠くの防災無線から流れている『夕焼け小焼け』が微かに聞こえてくる。
太陽はビルの陰にとうに隠れて、一足早い夜がすぐ足下にまで迫ってきている。
都心のビルの谷間にはクリスマスはまだ訪れていないのだな、と思った。
ここにはクリスマスソングに浮かれる有線もないし、これでもかと街路樹を飾り付ける電飾もない。
欠伸混じりに公園を横切っていくお爺さんは栗饅頭のように背中を丸めて、3つ隣のベンチに座っているスーツ姿のお姉さんは、ビジネスバッグを抱えるようにしてずっと狭い空を見上げている。
宵闇のせいで目を凝らさないと読めなかったけれど、何度見直しても『明太子の朝』と書かれている。
いくら評判が良いといっても、これを誰かに勧めるのは、なかなか勇気がいるんじゃないか?
3人の女の子のイラストが描かれているから、どうやらアニメ映画らしい。
赤黄青の寝袋にすっぽりとくるまっているのかと思ったら、よく見るとそれはどうやら明太子の着ぐるみらしかった。
さらによく見ると、声の出演のところに『速水奏』と書かれていた。
あたしが言うのもなんだけれど、奏ちゃん、もう少し仕事を選んでもいいんじゃなかろうか……。
ていうか、この仕事取ってきたのは当然プロデューサーさんだろうけれど、奏ちゃん以外にも絶対適役いたでしょ、明太子アイドル。着ぐるみだし、鈴帆ちゃんとか。
2枚あるから誰かと見に行けったって、いったい誰と見に行こうか。
美嘉ちゃん……、は興味ないかな。
志希ちゃん? フレちゃん? ……それとも?
今日は、12月12日。
明太子の日。
「もー、ほんっと、寒い! 良かったよー、事務所に暖房入ってて」
「ふふ、せっかく白磁みたいなお肌やのに、真っ赤にして。ほらほら、ここ座っておくれやす。周子はんのために、ソファも暖めといてあげたんやから」
「ありがと藤吉郎ー。あれ、家康だっけ?」
「太閤はんでおおとります。それにしても、こないに毎日ひやこいと、なんだか温泉でも行きとうなりますなあ。太閤はんだけに、有馬にでも連れてっておくれやす、ってプロデューサーはんに頼んでみましょか」
「あー、それいいねー。あー、すご。あたしの手、つめた……」
「おおー、ありがとう……。って、すご。きんきらきんやん、この包み紙……。うわあ、髪飾りかあ。これ、なんて花なん?」
「ええと、ええと。夕美はんに教えてもろうたんやけど……。12月12日の花や、言うて。なんやむつかしい、ながーい名前のお花で、お天道さんが、なんとかかんとか……」
「うーん全然わっかんないわ。紗枝はんが困るってことは外国の、なーんか聞き慣れない名前なんだろうけど。えーと、12日の花……っと。ハルジオン、ハナキリン、あ、これか。これでしょ? デンドロビウム。へええ、これデンドロビウムの花なんだ」
「でんどろ……。なんや、そないな名前やった気いします。花簪がええやろかとも思うたんやけれど、普段遣いをするにはあんじょういかへんのとちゃうやろか思うて」
「よううつってはりますわぁ。ほんに、周子はんはどないに飾ってもよう似合わはる」
「褒めたってなにも出ないよー。うわー、嬉しい。嬉しいなあ。大事に使うねー。あ、そうだ。なにも出ないって言ったけれど、これがあったんだった」
「薔薇のお花、どすか?」
「あ、誰かから聞いてた?」
「うふふ、桃華はんから教えてもろたんどす。今日は、なにやら横文字で、薔薇を贈るんやいう日やて。愛しいお人に愛情の印として贈るそうどすなあ。
周子はん、今日はどなたにそのお花をあげはったん? うちも貰えるのはほんに光栄なことやけれど、ほんまに差し上げなあかんお人には、もう渡さはりましたんやろか?」
「あら、そうどすの? おやあ、見たところお花は、あと、ひい、ふう、4本。うちが2本頂戴して、あと2本残ってはりますなあ。周子はん、最後の2本は、どなたさまに差し上げるおつもりなん?」
「どなたさまに、って……」
「んー?」
「……」
「……ふふ、いぢわる言うて堪忍。いつものちょっとしたお返しですえ」
「……もー」
「ほんなら、うちは一足先に準備にあがっときます。そうそう、さっきのぷれぜんとは羽衣小町としてのうちからの贈り物どす。小早川紗枝からのぷれぜんとは……。また、追々に。お迎えはんが来てくれはったら、周子はんも一緒においでやす」
暖房の排気音だけが木霊している部屋の中で、あたしは1人、『お迎えはん』が来るのを待っている。
アイドルたちの声も、窓を隔てた都会の喧噪も、なにもかも遠い世界の出来事のよう。
色を失ったような室内で、あたしは期せずして手元にやってきた一足早いプレゼントたちと、1つ1つゆっくりと対話をしていた。
左右の手首に1滴ずつ、ふわりと撫でるように指で広げる。
美嘉ちゃんから貰った小瓶を開ける。
右手の小指から順に、爪に色を落としていく。
もうとっくにお腹に収めてしまったロシアパンと、少し皺になってしまった映画の券。
そして、窓ガラスに映ったあたしの側頭部を彩る紫色をした花飾り。
それらすべてに「ありがとう」を言い終えた丁度そのとき、はるか彼方でどこかの扉が開く音がして、ばたばたと誰かが急ぎ足で廊下を進む足音が近付いてきた。
呟いたそれは誰にも聞かせるつもりはなかったし、きちんとあたしの意図を汲んだ暖房がさっと吹き消してくれた。
煽りを受けて微かに頭を下げた観葉植物にならって、あたしも小さく会釈をする。
なにやら物音はしばらく続いて、それから何人かの笑い声と足音がその場を離れていく音が微かに聞こえた。
きっと紗枝はんと同じく『準備にあがって』いったのだろう。
残っているのは、事務所の扉を隔てた向こうに感じる誰かの気配。
もう12月12日が終わっちゃうよ?
呆れた風に見上げた時計は無表情であたしの憤りを肯定してくれたけれど、けれども日付が変わるまでにはまだ2時間ほどの余裕があった。
ぴろん、とポケットの携帯電話が鳴る。
取り上げた画面にはメガネのアイコンと『いま寮か?』というメッセージ。
そういえば、今日は1日オフってだけで、どこでなにをしてるとは言ってなかったね。
『事務所に来てるんだけど、誰もいなくてひまー』
少し驚き、少し微笑んだ。
「おう、周子」
なーにが、おう、よ。
気の利いた言葉の1つでも返してやろうと思ったけれど、少し肩を上下させているプロデューサーさんの顔を見るとなにも言えなくなってしまった。
「……プロデューサーさん」
前言撤回。
「おう、周子」も仕方ないかもしれないね、これじゃ。
「そーだね、今日初めてだね」
「1日オフはどうだった?」
「クリスマス色してて、寒かった。1日お仕事はどうだったの?」
「クリスマス色してて、寒かったな」
2人きりの部屋の中で、小声で笑いあう。
あたしの髪と、口元を隠した右手に目敏く注目して、プロデューサーさんが「お」と呟いた。
「もー、まっさきに仕事の話?」
「いや、あー……。そうだな、悪かった。ネイルは桜並木みたいで、髪飾りとあわせて花畑みたいだな。綺麗だ。かわいい、よく似合ってる」
「そ、それはちょっと褒めすぎっていうか……。ふにゃふにゃしちゃうというか……」
「あと、なんか。なんだこの匂い? 香水でも振ってるのか?」
「あ、分かるー? ダッサいセーターを着たケミカルデビルから貰ったんよねー。ね、これってなんの匂いか分かる? あたし分かんなくてさ」
「いや、俺にも分からんというか。んー、これ言ってもいいのか? ひくなよ?」
「なんかな、俺の部屋みたいというか……。うちの布団干したときみたいな匂いがした」
「……ッ!」
なんだどうしたと慌てるプロデューサーさんを「うっさい! ちょっと離れて!」と両手で押しやる。
や、やってくれたな、志希ちゃんのやつ……!
もしも本当なら、一体全体どうやって作ったってのよ、これ……!
「ほ、ほら! あげる!」
最後に残った2本の薔薇を、顔を背けたまま闇雲に差し出す。
プロデューサーさんは黙ったままで、だけどゆっくりとあたしの手からそれを受け取った。
茎の小さなトゲが引っかかって、微かな痛みが指先にちくりと響く。
「なに言ってんのさ、プロデューサーさん。今日はなんの日か、知らないの?」
「今日か、今日はなあ」
横目でみたカレンダーにいくつかある、ぐるぐると赤い丸で囲まれた日付。
どこから誰が持ってきたのかも忘れた、いっぱいの魚群の写真で彩られた12月のカレンダー。
今年いっぱい、月が進むごとに七海ちゃんを喜ばせ、みくちゃんを苛んだカレンダーも、もうあと2週間ほどで終わってしまう。
「……ふふ、ありがと。今日初めて言われたよ。嬉しいわー……。ね、あたしからのプレゼントのお返しは、なんかないの?」
「お返し?」
「そ、お返し。今日はあたし、薔薇しべ長者を目指してるからねー」
なんだそりゃ、とプロデューサーさんは肩を竦めた。
別になにもなくたっていいんだけどね。
結構な無茶ぶりだった割に、今日はみんなびっくりするくらい色んなものをくれたと思う。
薔薇しべチャレンジは、おおむね成功だ。
左手の人差し指でつんと触れたあたしの唇は、少し冷たくて、少し乾いていた。
微かに笑ったプロデューサーさんの右手が伸びてくる。
……嘘やろ?
さ、流石に冗談やったんやけど?
こ、心の準備は全然できてないんデスケド?
「あほたれ」
べちん、と鈍い音を立ててあたしの額をプロデューサーさんの指が弾いた。
うーん、最後の薔薇のお返しがデコピンとは。
ま、そんなところだろうと思っていたけどね。
「奏みたいなこと言いやがって。楓さんとかならともかく、お前等2人がそういう売り方をするには5年早いわ」
「もー。怒らないでよー。冗談やーん」
「あーあー。赤くなってら、悪い。お前、本当にいつ見ても綺麗な肌の色してるよな。見てやるから、ほれ。目、閉じろ」
目をつぶって、額を突き出す。
あたしの額になにかが触れた。
少し暖かくて、少し柔らかくて……。
漫画みたいに両手両足をばたばた動かして、あたしは勢いよく飛び退いた。
背後にあったソファに足を取られ、腰が抜けたように背中から座り込む。
「よし、行くか。もうそろそろ皆の準備も終わったろ。会場は上の階の会議室抑えてあるからな。今日は日付変わるまで騒いでも大丈夫だぞ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。ちょっと、今あたし、この顔で皆のところに行くのはちょっと無理! っていうか、なんでそんな平気な感じでいられるのさ! こら、プロデューサーさん! プロデューサーさんってば! こら、もお!」
今日は、12月12日。
ハッピーバースデー、あたし。
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コメント一覧 (2)
-
- 2018年12月18日 00:27
- 結構好き
-
- 2018年12月19日 07:48
- 周子らしさ満開でいいと思います