【艦これ】鳥海は空と海の狭間に【その1】
・地の文多め。SSというより小説に近いかも。
・過去に木曾を沈めてしまった提督と、そんな提督の秘書艦になった鳥海の話。
――これは私と司令官さんのおわりとはじまりの話。
私たち艦娘と人類の敵。それが深海棲艦。
正体も目的も分からないまま、私たちは争っていました。
大義名分があるとすれば、それは生きるため。死なないため。殺されたくないから。
戦争に日常を織り込んだのか、日々の営みの中に争いが入り込んできたのか。
私がこの世界に生を受けた時には、もう争うのは当たり前になっていました。
始まったことはいつか終わります。
戦いの終わらせかたなんか分からなくて、それでも終わると漠然と信じていた。それが私でした。
けれど分かっていたところで過程が変わったとしても、結果は変わらないのかもしれません。
運命なんて不確かな言葉は信じていませんが、避けようのない出来事がある。そう思えてしまうんです。
結果が決まっているのに過程がいくつもあるのか、それとも過程がいくつあっても一つの結果に行き着いてしまうのか。
いずれにしても、私たちはその時々で最善を尽くそうとしていました。
それがどんな結果を迎えるにしても。
それでも――たまに考えてしまうんです。
あの作戦がなければ。もし司令官さんが前線に出ていなければ、一体どうなっていたんだろうって。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
提督にとって初めての実戦だった。
艦娘を取りまとめるようになってから二年ほどが過ぎているが、今回の作戦まで戦場に出たことがなければ、爆撃に晒されたのも初めてだった。
提督は自身の体が震えてるのには気づいていたが、それが武者震いなのか恐れのせいなのかは区別がついていない。
出雲型高速輸送艦、その一番艦である出雲。それが彼の今の仮住まいというべき城であり艦で、目下の攻撃目標にもなっていた。
爆撃を避けるために艦長が取り舵を行い、提督はといえば手すりを掴んで左に傾ぐ体が倒されないようにする。
艦橋にまでたこ焼きと呼ばれる深海棲艦が使用する艦載機の爆音が響いていた。
それだけ迎撃機や対空砲火を突破して艦隊を攻撃してくる敵機の数が多いためだ。
艦娘が使用する烈風や彗星とも異なるエンジン音は絶え間なく空気を吐き出しているようで、さながらモーターが熱暴走してるような音だった。
出雲には電探や探照灯の類を除いて武装を積んでいなかった。
理屈は不明なままだが人間が行う攻撃は深海棲艦には通用しない。
ならばと火災の原因となり得る武装や弾薬を初めから装備しないのは当然の帰結だった。
もっとも出雲型は艦娘を艦載機のように運用するのも想定しているので、艦娘用の弾薬は積み込んでいるので可燃物は積み込んでいる。
「右二十、戻せ!」
回頭が終わる前に艦長はすでに次の転蛇を命じている。
提督の立場は艦隊司令官だが、艦の行動は艦長に任せるのが原則で口出しはしない。
さほど年が離れていない艦長だったが場慣れしていて、実務に長けた人間なのは航海を通して提督には分かっていた。
命を預けるに足る人間、と提督は全てを任せることにしていた。
左から右への慣性に振り回されながら衝撃に備えて踏ん張り歯を食いしばると、何度も足下から突き上げてくる縦揺れに見舞われる。
揺れはするが直撃弾ではない。それでも体を弄ぶ振動は心地よいものではない。
高速と言えど出雲は艦娘より巨体で敵機にはいい的だ。にも関わらず艦長の操艦は見事で、一度も直撃弾を受けることはなかった。
空襲の勢いも衰え、投弾を終えた敵機も引き返し始める。
提督は次の展開を考え、雲龍か龍鳳の彩雲に送り狼をやらせようと決める。
その前に艦隊の被害確認が必要だと思い立った矢先だった。
見張り員を務める妖精から声のような意思が頭に届く。敵機を発見したと。
艦橋からも三機のたこ焼きが迫ってくるのが見えた。
摩耶が慌てて撃ち上げ始めた対空機銃の火線が、最後尾にいた機体を捉えて火を噴かせる。
しかし残る二機は対空砲火をすり抜け、黒い塊を切り離す。
黒い塊――爆弾を見ながら、提督には確信めいた予感が去来した。
これは当たると。
そして――出雲をそれまでとは明らかに違う揺れが襲った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
一章 と号作戦
新年を迎えてから一週間。
クリスマスに正月と、横須賀鎮守府に訪れたにわかに浮き足立ってにぎやかな日々はあっという間に過ぎていった。
まだ鎮守府のそこかしこに浮ついた空気は漂っているが、提督や艦娘を取り巻く環境はいつまでもそれに浸っているのを許してくれない。
トラック泊地攻略作戦、頭の字を取って『と号作戦』。その発令が三月中旬に予定されているために。
「鳥海、椅子はこの辺りまででいいの?」
「ええ、横に広く取った方が前を見やすいでしょうし」
鳥海を始め夕張や明石といった艦娘、他に何人かの手伝いの艦娘に妖精たちが、ドックに椅子や映写用の機材を持ち込み設置を進めている。
この日は府内で作戦会議――実際は内容の確認にも近いが、行う予定だった。
参加するのは哨戒や遠征任務に携わってない艦娘全員で、それでも百名を優に超えている。
作戦室ではそれだけの人数を収容できないので、ドックに椅子や機材を持ち込むことに。
準備が終わる頃になると提督も顔を出す。
白色の二種軍装を着込んだ二十代の男。外見にはあまり特徴が見受けられない。
階級章は准将を示している。元々この階級は制定されていなかったが、深海棲艦による侵略が始まったのをきっかけに准佐とあわせて正式に制定されていた。
「会場はこれでいいですか?」
「ああ、助かる」
鳥海は提督の補佐役である秘書艦を務めている。
二十歳前後といった容姿で、フレームレスの眼鏡に深紅の瞳、絹のような黒髪を流していた。
翠緑と白を基調にした明るい色合いのジャケットとスカートという組み合わせで、改二と呼ばれる上位艤装と一緒に支給された制服である。
「あの、司令官さん」
提督の呼ばれかたはいくつかある。
多くの艦娘は提督と呼ぶが、鳥海のように司令官という呼び方も多いければ、それらにクソとかクズと呼ばれる本人曰く素敵な修飾語をつけて呼ぶ者もいる。
「本当にあの話もするんですか?」
「話すのが筋だろ。顰蹙は買うだろうが」
「司令官さんがそれでいいのなら構いませんけど……」
鳥海は言葉を濁すが、言外では提督に翻意を望んでいたのも確かだった。
提督も鳥海の本心には気づいていたが、あえてそこには口を挟まない。代わりに気楽な調子で言う。
「色々あったよな。俺はもう提督に任命されて二年は過ぎたし、鳥海も秘書艦になって一年ぐらいか?」
「そうですね……色々ありましたね」
「初めからすごかったよな、鳥海は。言うこと聞かない島風にビンタしたり、摩耶と演習中に殴りあったりとか」
「あ、あれは……!」
鳥海は顔を赤くする。実際に誇張でもなんでもなかったが、鳥海からすれば結果は別にして、過程のほうはできるだけ忘れておきたい類の話だった。
しかし彼女も言われてばかりにはならない。
「司令官さんだって木曾さんとの一件で大騒ぎを起こしてるじゃないですか!」
「違いないな」
あっさりと提督はいなしてしまう。
鳥海としては的確に急所を突いたつもりだったが、提督からすれば急所以前に反撃ですらなかった。
提督は愉快そうに鳥海に笑ってみせる。
「俺も鳥海も、みんなだって多くのことを体験してきてるし、中には変わったなって思うやつだっている。だから大丈夫、って言いたいんだ」
「私はいいんです。司令官さんを信じてますから。でも、みんなが指輪をどう思うかまでは……」
「出たとこ勝負だな」
提督の言葉に鳥海は笑い返す。この人は自分を曲げないんだと、そんな風に再確認して。
口にこそ出さないが鳥海も提督の変化を感じていた。
たとえば以前の提督ならこういう時に、半ば不安を隠すように特徴的な含み笑いをしていたが、それをしなくなっている。
理由を尋ねた鳥海に、提督は木曾との間に踏ん切りがついたと答えていた。
鳥海は木曾とも仲がよかったが、その話には深く踏み込まなかった。
二人には二人の事情があって、それはいくら鳥海でも簡単に立ち入っていい話じゃないのは理解していた。
というのも提督と木曾の関係というのは、沈めてしまった艦娘とその生まれ変わりの艦娘という間柄だからだ。
それが元で『事故』が起きるぐらいにはこじれた関係だったが、それは今では解消されたように鳥海の目には映っている。
鳥海からすれば、提督と木曾の二人は旧知の仲のようだし、『事故』を経てむしろ互いに余計な遠慮をしなくなったようにも感じていた。
だから彼女は提督に限らず、変化そのものに肯定的だった。
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一同が集まったのを見て、提督がと号作戦の説明を始める。
「すでに知っての通り、この作戦はトラック諸島を深海棲艦から解放し、速やかに拠点化するのが目的になっている」
設置したスクリーンにトラック諸島の地図が映し出される。
艦娘たちに馴染みのある四季島など和名としての表記ではなかった。
また敵の規模を示すバーが島々の横に描かれていて、春島と夏島を中心に深海棲艦は陣取っているのが分かる。
他にも近海を遊弋する深海棲艦の集団もいくつか確認されていた。
「まずは数次に渡り、危険な威力偵察を行ってくれた天龍、龍田、球磨、多摩、飛鷹、隼鷹。並びに朝潮型の面々に感謝する」
提督が深く頭を下げると、思い思いの声が返される。
「ま、こういうのは経験値が物を言うし、なんたって世界水準だからな」
「意外と優秀な球磨ちゃんにかかれば朝飯前クマ」
「つまんない任務じゃなくてよかったわ。こういうのでいいのよ、こういうので」
「多摩はコタツで丸くなっていたかったにゃ……」
ざわめきにも似た声が一通り収まってから、提督は説明を続けていく。
と号作戦の完遂は戦略上の観点で必須とされた。
深海棲艦の主立った侵攻ルートはソロモン方面の南太平洋からになっている。
トラック諸島を奪還することで太平洋の制海権をより強固にし、同時に深海棲艦の活動範囲を大幅に制限する目論見があった。
それだけに、と号作戦は敵地への上陸作戦として計画されていて、攻略後はいかに迅速に拠点化するかが鍵とされている。
「まずは海上戦力と陸上の基地航空隊を撃滅し、その上で春島に上陸作戦を敢行する」
艦隊は大きく三つに分けられている。
正規空母を中核とした機動部隊。基地航空隊に先制攻撃したあとは有機的に動いて敵艦隊の撃破を目指す。
戦艦を中核とした水上打撃部隊。これは夜陰に乗じてトラック諸島に艦砲射撃を加えつつ、必要に応じて敵艦隊の撃破も。
そして上陸船団を含めた輸送艦隊とその護衛艦隊となる。
作戦では陸軍の一個師団が上陸作戦を行う。師団の人員は施設の設営隊や保守要員が多数を占めている。
構成もさながら上陸部隊の規模が小さいのは、陸戦の発生が想定されていないためだった。
というのも人の手では深海棲艦を傷つけられないから、そちらにはあまり力を入れられない分、人員を絞ったという事情がある。
妖精からの情報で火炎放射器の類なら深海棲艦でも怯ませるぐらいはできるらしく、火炎放射器で武装した特殊部隊も帯同するがそれも一部でしかない。
いずれにしても決定打にはならないため、船団護衛を務める艦娘も一緒に上陸する予定になっていた。
「それと今作戦では俺も出雲に乗艦して水上打撃部隊に加わる。よろしく頼む」
提督は文字通りの司令官として陣頭指揮や戦況分析、上陸後には泊地設営の指揮も執る手筈になっていた。
また打撃部隊で運用される出雲型輸送艦には、先行上陸のための装備や資材も積み込まれている。
提督は一同の反応を窺うが、すでに話し合っていたこともあってか反対の声は挙がってこない。
といっても表面的な反応なのを承知していて、少なからず不服に思う者がいるのも理解している。
提督が前線に出るという判断には、艦娘たちの間でも当初から意見が割れていた。
意思決定のできる責任者を、危険な前線に帯同させるのは本末転倒じゃないかというのが反対理由だった。
実際、提督の身にもしものことがあれば、作戦の遂行どころか今後の鎮守府の運営にも支障が生じてしまう。
加えて作戦の統制をする以上は、敵の勢力圏内であっても無線を使わなくてはならない。
隠密性を捨てるだけでなく、単独での自衛が難しいのも反対理由に上った。
これが平常の作戦なら艦娘も提督を海に出させなかっただろう。
しかし基地設営の対応は彼女たちには荷が重過ぎるし、そもそも誰もそのやり方を分かってない。
陸軍に丸投げしてしまっては臨機応変な対応ができなくなってしまうかもしれないし、艦隊や輸送船団への被害によって作業の優先順位も変わってくる。
そうなってくると提督に頼るのが一番だと、そんな結論に行き着いていく。
と号作戦に合わせて、妖精によって既存の装備が大幅に更新されたのも提督の起用を後押しした。
特に電探や通信周りの機能が大幅に更新されていて、一足飛びかそれ以上に性能が向上している。
というより向上しすぎてしまい、艦娘たちが前線で交戦しながら処理できる情報量を超過していた。
ここでも白羽の矢が立つのは提督で、一歩引いた位置にいるのだから指揮を執るなり適切な情報を選り分けて与えればいいという話になってくる。
こういった事情で、今回の作戦は提督に出張る意義は大いにあった。
艦娘たちもそれらの点を踏まえて話し合い、その話し合いも結局のところはある一点に集約する話でもあった。
提督の身の安全をどこまで重視して、何よりも優先させるのかと。
その線引きと境界を見定めようとしている内に彼女たちは決めていた。
提督にも同じところで同じだけの危険を背負ってもらおうと。
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「作戦に当たって、絶対に撃破してもらわなきゃならない相手がいる」
画面に上空から見下ろす形で撮られた白い女の映像が現れる。
女の頭には角が生えているが、粒子の粗い映像では表情や目つきまでは判別できない。
威力偵察のさなかに彩雲が撮影してきた映像で、そこでは白い女が手を振り上げる。すると女の周囲の地面から深海棲艦の使う艦載機、通称たこ焼きが生成されていく。
彩雲は迎撃を避けるために後退したので、この映像はここまでだった。
後の偵察で陸地に陣取ったまま戦艦と同等以上の砲戦能力も有しているのも分かっている。
白い女は深海棲艦で、姫という仮称で呼んでいた。
最初にそう呼び出した艦娘の一人は鳥海で、たとえば彼女などは姫という単語からいつかの島風を叱る原因となった海戦を思い起こす。
その戦闘で沈めた深海棲艦が姫に許しを求めるようなことを言っていたのを覚えていたからだ。
深海棲艦の言葉というのは意味を為してない場合が多いが、今ではそうとも言いきれないのではと考えるようになっていた。
「大本営は正式にこの相手を姫級と定め、この女を港湾棲姫と名づけた。港湾棲姫を撃破するのが作戦の鍵だ。こいつは他の深海棲艦と違って陸上でも活動できるらしいからな」
この港湾棲姫を除いて陸上で長時間活動できる深海棲艦はそれまで確認されていなかった。
「港湾なんて名前がついたが、要塞を相手にすると想定して動いてもらいたい。そして俺たちの手元にある姫の情報は限られてる」
一通りの説明を終えた提督は、作戦の質疑応答に移る。即座に長門が手を挙げた。
「港湾棲姫とやらだが、陸上にいるならやはり三式弾で攻撃するのか?」
「そのつもりだが場合によっては徹甲弾も使ってもらう。戦艦と同じ火力なら、打たれ強さも最低そのぐらいは見積もらないといけないし装甲を抜けなかったら話にならないだろ」
長門が納得したように頷くと、今度は夕立が手を大きく振る。
「島には陸軍の人たちが上陸するっぽい?」
「そうだ。施設を建ててくれるのは彼らなんだから、あまり失礼のないように」
「じゃあ陸軍さんと仲良くしておけば部屋を豪華にしてくれるっぽい?」
あっけに取られたような反応を周囲の面々がする中、すかさず白露が乗っかっていく。
「じゃあ白露型にはいっちばんいい部屋を作ってもらわないとね」
「ちなみに白露型は打撃部隊に就いてもらうから陸軍さんとは接点薄いぞ」
「そんなぁ……」
うなだれる白露に睦月が勝ち誇る。
「にゃしし。これは護衛輸送のエキスパートである睦月型の一人勝ちなのね」
そもそも部屋の造りが優遇されるわけないだろう、とはその場の大多数が思ったことだった。
その後もいくつかの質問が続いて一通りの質問が出揃ったであろうところで、提督は咳払いを一つ。
「最後に一つだけ聞いてほしい」
提督がある物を全員に見せる。指輪だった。
妖精が作った物で高練度の艦娘が身につけることで、その効果を発揮し艦娘たちにさらに力と伸び代を与えるということ。
そして、その契約を『ケッコンカッコカリ』と呼ばれているのを提督は伝える。
その話を聞いて艦娘たちは、いよいよ提督と鳥海がそのケッコンを結ぶのかと思った。
二人の関係は鎮守府では公然の秘密だった。
二人の関係をどう感じるかは個々人によって分かれるが、とにかくそういう話なのだと誰もが予想した。
しかし、そういった予想にそぐわないことを提督は言い出す。
「この指輪を近い内に全員に配る。だから、あれだ」
提督は一息。おもむろに正座すると両手を付き、額が床に付くまで頭を下げる。
いわゆる土下座だった。
「みんな、俺とケッコンしてくれ!」
艦娘一同は固まった。事前にどんな話をするのか相談されていた鳥海も例外ではない。相談こそ受けていたが、こういう言い方と行動に出るとはまったく想像していなかったからだ。
固まる艦娘の中から、いち早く足柄が柳のように左右に体を揺らして立ち上がると、提督に指を突きつける。
顔を赤くした足柄は一同の思いを代弁した。
「ケッコンどころかジュウコンじゃない!」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
提督の要求はすぐに波紋を呼んだ。
何か事情があるのだと斟酌する見方もあったし、指輪のメリットを好意的に受け止める声もある。逆に困惑や反発、遠慮といった否定的な意見も多い。
いずれにしても混乱を招くのを提督は承知していたので、一人か二人ずつとの面談を随時行う形にしていた。
すぐに長蛇の列を作って順番待ちになった面談で、最初に提督の前に現れたのは色違いのセーラー服を着た姉妹だった。
多摩と木曾の球磨型姉妹で、次女の多摩はショートヘアーにあどけなさを残した顔立ちをしていて、末女の木曾は右目を眼帯で隠し黒い外套を肩にかけるという格好をしている。
二人は応接用のソファーに深々と座ると早々に木曾が切り出す。
「で、どうしてあんなことを言いだしたんだ?」
「ハーレムを作ってみたくなって」
「それ、冗談でも本気でも大井姉には言わないほうがいいな」
「大井は純だから、そういうのを毛嫌いするにゃ」
提督はその様子が容易に想像できて乾いた声で笑う。
大井は球磨型の四女で、あまり容赦のない性格をしていた。
提督の反応に木曾は呆れたようだった。
「笑い事かよ。改めて聞くけど理由があるんだろ」
「理由も何も、俺は誰にも沈んでほしくない。だから自分にできることなら、できる限りやろうと思ったんだ」
「そのための指輪ってことか? だったら他の言い方はなかったのか。指輪の効果だけ話してケッコンカッコカリか? それは伏せとくとかさ」
「それはそうなんだが、秘密にしてたらどこかで発覚した時に騒ぎになるだろ」
「もう騒ぎになってるぞ。訓練は遅れて始まるわ、集中できてないやつもいるわで神経質になっててさ」
木曾は言葉を切ると、考え込むように両腕を組む。
少しだけ間を置いてから再び話し出す。
「……騒ぎ自体はまあいいんだ。俺を振っといてケッコンなんて勝手をよく言ってくれたなって思ったけどな」
「……すまない」
提督としては他に言いようがなかった。木曾もそれは分かっているのか、盛大にため息をついた。
ため息はそのまま執務室の空気に見えない重圧を上乗せする。
「提督の考えは分かったし、それが俺たちのためなのも理解はできるんだ。提督を支持するって意味でも、俺だって……俺みたいなやつほど指輪を受け取ったほうがいいとも」
「だけど受け取りたくはないんだろ」
「わりぃ、もう少し考えさせてほしい」
「いいんだ。俺が無神経なんだから」
「本当に無神経なら、初めから命令って言っておけばよかったにゃ。そうすれば誰も断らないにゃ」
多摩が言葉を引き継ぐ。
「提督は甘いにゃ。しかもずるい。自分も納得してないくせにケッコンしようなんて。なのに選択の権利をこっちに残すなんて身勝手にゃ」
「そうかも……いや、そうだな」
「まったく提督らしいから多摩は受け取るにゃ」
「うん……ん?」
真顔になって聞き返す提督に、多摩は猫なで声のように穏やかな声をかける。
「何を驚いてるにゃ。多摩は納得したからカッコカリしてあげるにゃ。信じてあげるんだから、もっと感謝するにゃ」
「いいのか?」
「くどいにゃ。多摩の気が変わらないうちに指輪を渡すにゃ」
「ああ……でも指輪はまだこれからなんだ」
「それはがっかりにゃ……代わりに何かお礼をよこすにゃ」
「多摩姉……あんま、がっつくのはどうよ?」
緩くなった空気に木曾も表情を崩していた。
提督も相好を崩して思いつきを口にする。
「じゃあ……よし、かつお節をやろう」
「やったにゃー! って多摩は猫じゃないにゃ! かつお節なんかで!」
「いらないのか」
「ほしいにゃ!」
木曾は保留、多摩はかつお節と指輪を後日受け取るということで話が付いた。
部屋を出る段になって、木曾が提督に話しかける。
「できることをやるって話だけどさ、何かあったのか?」
「あったと言えばあったのかな」
「そうかい」
提督が曖昧にぼかすと、木曾も深くは掘り下げようとはしなかった。
それでも提督は思い返していた。きっかけに当たる出来事を。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
薄明の空の下、枯れた姿を剥き出しにした桜並木が続いてる。
そんな味気ない景色に囲まれた車道を提督たちを乗せた軍の所有車が走り抜けていった。
年明け後の三月に予定されている、と号作戦の会議のために霞ヶ関にある海軍省に出向していた。
会議は翌日からで、この時に移動している理由はそれとは少し違う。
宿泊先の旅館に移動し、そこで人と会う約束になっていたためだ。先方の一方的な都合による約束で、相手が誰か分からない。
きな臭い動きを提督は感じるが、普段から中央とは遠い位置にいる身ではその正体は掴めなかった。
提督は寒々とした景色が流れていくのを見ながら、ガラスに映る自分の姿を目に止める。
普段と代わり映えしない格好だったが、一つだけ違う点があった。戦功を示す甲種勲章も垂らしている点だ。
馬子にも衣装。そんな感想を抱く提督の隣には秘書艦の鳥海が座っていた。
話しかけず、鳥海という艦娘を提督は振り返る。
鳥海はいわゆる艦娘で高雄型重巡の四番艦、それが彼女だ。
艦娘とは何か、という質問は少々厄介だった。
三度の世界大戦の内、二度目の第二次大戦時に使われた軍艦が女の姿を模して生まれ変わった存在。そう目されている。
実際のところははっきりしていない。
彼女たちが当時の軍艦の記憶――艦そのものというより、乗員たちの記憶や言動も内包した集合知のような記憶を有してるのは確かだ。
かといって、彼女たちの性格が必ずしもその背景に引きずられてるわけでもない。
そして人間と変わらない姿であっても、彼女たちは人間とは体の作りが違う。
艦娘の存在こそ世間に知られているが、軍機に関わるために詳細は伝わっていない。
それ故に巷では艦娘たちの様々な噂や推測、時には風説も流れるが、そのほとんどが真に受ける類のものではなかった。
そして提督は彼女たちについて確信して言えることがある。
艦娘は信頼できる、と。
「見てください司令官さん。大売り出しですって。あれはデパートって言うんですよね」
少しはしゃいだ様子の鳥海につられて、提督も彼女が見ている側に視線を移す。
鳥海は普段通りの翠と白のセーラーだが、車内なので帽子は脱いで膝元に置いていた。
弾んだ声が質問を続ける。
「もうすぐクリスマスで、すぐ後は歳末ですよね。やっぱり売り物も安いんですか」
「どうかな。物品の流通が安定したのも今年に入ってからだから」
提督はそう答えてから、なんとも味気ない答えに思えて付け足す。
「この時期は個人商店でもあそこに見えるようなデパートだろうと、いい物を売り出そうとするんだ。歳末が近いし、なんて言ったって縁起物で一年の計は元旦にありとも言うだろう」
「はい」
「ところがいい物はやっぱり高いし、安くなってても高い物は高いから、体感的には逆に高くなってるように感じるかもしれないな」
「なるほど……そういうのは知識しかないから参考になります」
そう言うと彼女はまた車外に視線を戻す。
「さっきから外を楽しそうに見てるな」
鳥海は嬉しそうに頷く。
「普段は航行しても海と空しか見えないじゃないですか。陸はやっぱり珍しいですよ」
その言葉から提督には一つの想像が浮かんでくる。
鳥海が背を向ける形で海に立っている。彼女の先に広がるのは青い空、白い雲、穏やかな波間、そして彼方の水平線。
狭間にある者とは人間――そんな由来で己を名乗ったのは空海だと思い出し、鳥海と空海という言葉は似てると連想する。
そこに過去の高雄型につけられていたというあだ名を思い出す。先人もおそらく同じような連想をしたのだろうと考えて。
「鳥海法師」
「……知ってて言ってるんですか? その呼び方は今聞いてもどうかと思います」
「後光が差してそうなのに」
「でも高雄夫人、愛宕姫、摩耶夫人と続いての法師なんですよ。私だけなんだか違いますよね」
鳥海は窓の外に視線を戻してしまう。
窓ガラスに映る鳥海の顔を見て提督は自然と笑ってしまい、同時にもしも人目がなければ抱き寄せてしまいたくなる衝動に駆られる。
熱を上げるってのはこういうことか、と胸中で呟くに留めた。
そうして車が向かった先は料亭も兼ねている古い旅館で、高級将校が利用する場所には見えない外観をしていた。
街道から外れた側道の脇に位置しているのも印象の悪さに一役買った。
茶色の建物は汚れた藁を寄せ集めたようで、屋根はまるで光を映さないような黒さだった。
どうかすると廃屋のように見えてしまう店構えで、屋号を示す看板が辛うじてそこが旅館だと伝えている。
もっとも草書体をさらに崩したような文字で書かれているので、何を書いてるのか二人には読めなかった。
その外観に提督はさすがに警戒した。
「すごいですね」
そう鳥海は言う。どうすごいと思ったのかは分からないが、少なくとも怖がってる様子ではなかった。
身の危険に繋がらないなら恐れる必要はない、とでも考えているのか。
運転手を務めていた少尉は逃げるように帰ってしまい、しかも出迎えに現れた女将が痩せ細った幽鬼のような女ならば余計に不気味に感じるのも仕方ないはずだ。
女将は最低限の言葉を交わすと、提督たちを丁重に奥座敷にまで案内した。
余計な言葉を交わさないのは女将の性分なのか、二人の身なりから立ち入らないほうが賢明と判断した処世術かは判断が付かない。
提督と鳥海と奥座敷で二人になると、見えない荷物を下ろすように脱力した。
明かりは電灯がちゃんと点いた。ろうそくの火で明かりを灯しそうな気配だったが電気は通っている。
「一体こんな所でどなたにお会いするんでしょう」
「さあな。こんな場所を選ぶんだから物好きだろうが」
それ以上に内密に済ませたいという意図を提督は感じていた。
「物の怪や鬼の類が出てきても、ここなら俺は驚かないよ。案外やんごとなき身分の御方かもしれないし」
そう言いながらも彼は自身の言葉をまるで信じていない。
そういった人間が会いたがるような理由を持ってないと、そう考えているからだ。
「会ってみれば分かりますよね。それにしても……」
鳥海は楽観的に考えているが、古い旅館の言わば出てきそうな雰囲気には思うところはある。
「司令官さん、もしお化けが出てきたら鳥海を守ってくれますか?」
「あー……鳥海が逆に守ってくれると信じてる」
「そこは守ってやるって言うところですよ」
「ちっとも怖がってないのにどうして守るんだ?」
「もう……」
口を尖らせる鳥海に提督が笑い返すと、彼女もまた笑い返してきた。
「そういえば明日の会議では准将とお呼びしたほうがいいのでしょうか?」
「普段通りで構わないよ。准将なんて怪しい階級だし」
鎮守府ではもう馴染んでいるが、准将という階級は制定されてまだ日が浅い。必要に迫られて制定された階級でもあった。
制定には華々しい理由があったわけでなく、むしろ世知辛い事情がある。
深海棲艦との戦いでの多く戦死者を出してしまい、その遺族への給付金が発端だった。
膨大な戦死者の数は天文学的な給付金へと繋がり、そこで新たに准将と准佐を設け特進後の階級をそこに収められるようにし給付金を少しでも抑えようと試みられた。
半ば詐欺に近い所業ではあったが、深海棲艦の苛烈な攻撃が結果的にそういった矛先も逸らした。
加えるなら、提督の場合は箔をつけるために准将という位置に据えられたというのも。
ハンモックナンバーが低く出世街道から外れている若輩者を早いうちから正規の将官になどしたくないという年長者の都合だ。
急場の階級であるため准将が将官か佐官かという点も曖昧だった。が、彼が特進しても少将で止まるのは容易に想像できる話だった。そのための准将という階級だ。
「それに鳥海が普段通りに呼んでくれると安心できるんだ」
「安心ですか?」
「ああ。鳥海の声は優しいからな」
「優しい……やさしい……」
鳥海は呟くと考え込むように俯く。ちょっとしてから顔を上げる。
「ありがとうございます。司令官さん」
鳥海の話し方は早すぎず遅すぎず、すんなりと心に落ちてくる。
そういう所を彼は気に入っていたが、同時に単に惚れた弱みではないかとも考えていた。
それから他愛のない話をしていると料理と酒が運ばれてきた。和食のコースに日本酒とビールという取り合わせらしい。
そして店構えに反して、料理は至極まっとうだった。
料理が並び終わって程なくして、二人に会いに来たという人物も姿を見せる。
白の帽子とセーラー服の少女。妖精だった。
明るい色の髪をした妖精は白猫をどうしてか吊すように持ち上げている。
「はじめまして提督さん、秘書艦さん。わざわざご足労頂きありがとうございます。どうぞ楽にしてください。無礼講というのでお願いします」
妖精は勝手に座るので二人も向かい側に座った。
基本的に妖精は人語を口で介さないが、この妖精は例外だった。
しかし、それ以上に提督は猫が気にかかっていた。白猫は座った妖精の太ももに下ろされてはいるが相変わらず吊されている。
妖精も猫も笑っているように見えたが、真意を読み取れない表情とも取れる。
そもそも猫が本物なのかも定かではなく、彼は聞かずにはいられなかった。
「その猫は?」
「混沌の象徴。平たく言えばマスコットです」
煙に巻かれているのかもしれない。そうして猫を気にしてはいけないのでは、と思い至った。
解放された猫は膝の上で丸くなる。
「それと今日はもう一人来ています。秘書艦さんにも関係のあることです」
「私にですか?」
「どうぞ入ってください」
妖精に促されて入ってきたのは提督も鳥海もよく知っている顔の艦娘だった。
そして、いるはずのない艦娘でもあった。
「なんで……!」
鳥海が驚愕の声を上げる。
その艦娘は提督を見て、それから動揺する鳥海と見つめ合う。
艦娘は本当に嬉しそうに微笑む。
「はじめまして。私が、私も鳥海です」
二次改装前のセーラー服を着た鳥海がそこにいた。
「やっぱり驚きますか?」
「なんだこれは。どうして鳥海が二人もいる?」
提督は二人目の艦娘という前例をよく知っている。
しかし同一の艦娘が二人同時に存在するとは想像していなかった。
「お二人をお呼びしたのは今後のことや彼女について話しておきたかったからです」
そう言いながら妖精は箸を手に取る。
「まずは食べながらにしませんか。冷めてしまいますし」
「話を先にしてくれないか」
「お腹空きましたが……見ての通り、彼女もまた鳥海です。木曾を沈ませたあなたには初めてではありませんね」
「……ああ」
その一言に猫が耳を立てて体を起こす。裏にある感情を読み取ったようだった。
一方、提督の手には鳥海の手を重ねられた。
案じる顔に見上げられるのを提督は視界の端に捉え、自分の感情を抑える。
鳥海が提督の代わりに訊いていた。
「もう一人の私が木曾さんと同じなら、私たちには本者も偽者もないんですね?」
鳥海が代わりに訊くと、妖精も提督と鳥海を交互に見てから答える。
「気分を悪くしたのなら謝りますがそうです」
臆した様子もなく妖精は答える。
今の木曾は言わば二代目で、先代に当たる木曾は過去の海戦で沈んでいた。
二代目は先代の記憶と感情を部分的に引き継いでいて、それが問題を引き起こしもした。
「あなた方がご存じのように二人とも本質的には同じ存在だと言えます。個々の人格や体験は別ですが、鳥海という艦娘であるのに変わりありません」
「じゃあ……」
鳥海は新顔の方に向き直る。話し始めるまでに間があるのは、どう呼ぶのか決めかねたからだ。
彼女は相手を名前で呼ぶことに決めた。
「鳥海。あなたは私の記憶や気持ちを共有してるの? 私にはそんな感覚がないけど」
「一方的に私が知ってた、というのが正しいみたいです。私が二人目として形を為すまでなら、あなたに何が起きてどう感じてきたのか……それは分かってるつもりですよ」
新顔の鳥海は笑う。
両者は同じような顔に同じ声をしているが、よく知る者が見れば笑い方や目線の動きなど微妙な仕種はなんとなく違うようには思える差異がある。
それでも二人はよく似ていて、一緒にいるから違いが分かるだけかもしれない。
たとえば服を入れ替えてしまったら区別がつかないのではと、提督は一抹の不安と難しさを感じた。
「最近になって二人目の艦娘が増え始めてきています。睦月型や特型駆逐艦、それに大淀など」
「大淀って軽巡の大淀か? そもそもウチにもいないのに」
「彼女には我々と人間との橋渡しをやってもらっていましたので。と号作戦に合わせて、そちらには二人目の大淀が配備されるはずです」
戦力の増強はありがたい話だった。と号作戦を考えれば戦力の底上げを図れるのなら、それは歓迎すべきだった。
その時、猫が気の抜けるような声で鳴いた。
「もう食べますよ」
周りなどお構いなしに妖精はついに料理に手をつけ始める。
二人の鳥海は提督の顔を見る。意向を伺うような顔に苦笑するしかなかった。
「俺たちも食べようか」
緊張していると損をしているような空気になっている。
だったら、そんな空気に乗っかってもいいじゃないかと考えて。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
食事が一段落した頃を見計らって、鳥海たちは互いに二人だけで話したいと言いだした。
妖精は初めからそのつもりで、提督としても断る理由はなかった。
外に行くという二人に、提督は風邪だけは引かないように伝えると鳥海たちは連れたって部屋から出て行った。
必然的に提督と妖精が一対一で話すことになるが、後に残された提督と妖精、そして猫はしばし無言になる。
しかし提督はこれはいい機会だと考えて妖精にある疑問を投げかけた。
「艦娘と深海棲艦が何者か、ですか?」
「ああ。それに妖精もなんなのか教えて欲しい」
妖精は真意の読めない笑顔のまま、猫の腹を撫で回していた。
「難しい質問ですね。人間に人間とは何かを問うてるのと同じです」
「人間だったら万物の霊長だったとか、朝昼夕で足の本数が変わる生き物だと答えられる」
妖精は逆に聞き返す。
「それを知ってどうするんです?」
「分かれば戦いの終わらせ方も見つかるかもしれないだろ」
猫を撫でていた妖精の手がしばし止まる。
表情は笑顔が張りついているが、頭のほうでは提督の発言を吟味している。
そして、また聞き返した。
「終わらせていいのですか?」
その問いかけは提督の虚を突いた。しかし、彼もすぐに気を取り直して言い返す。
「当たり前だろ」
「しかし艦娘は兵器と見なされています。特にあなたたち人間はそうであるのを求めている」
「確かに世論はそうだろうし、艦娘たちだって自分たちが兵器なのを否定しないよ」
むしろ艦娘たちは兵器という自己を肯定している。彼女たちにとって軍艦の依り代であるのは当然であって、兵器としても同様だった。
「抑止力という概念はありますが、結局のところ兵器というのは使われてこそ意味を持つのです。戦争が終われば艦娘は存在意義を失うのでは」
「兵器でしかないなら、そうなるだろうな」
艦娘たちは確かに兵器だが、それは側面の一つに過ぎないし、側面は本質の一面であって全てではない。少なくとも提督はそう捉えている。
「そんなことを言い出したら兵器でもないのに、それを扱って戦いたがる人間はどうなるんだ」
どうしようもない暴力性を秘めて、自分は無害だと謳いながら拳を振り上げ銃を手に破壊を命じることもできる人間は。
兵器以上に兵器らしいじゃないか。小さく吐き捨てると、提督は頭を振った。
彼にはこのやり取りがひどい茶番に思えている。
妖精は質問をするばかりで、提督の疑問にはまだ何も答えようとしていない。
「……俺はお前とは駆け引きを楽しむつもりなんてないよ。だから言っておく。戦争なんざなくったって艦娘はもう好きにやってける」
「それは興味深いですね。彼女たちには人権さえないのに」
「そんなのも要らないさ。人に合わせる必要がない」
妖精は笑顔のまま首を傾げた。
本当は分かってるだろうに、と提督は思う。
深海棲艦との生存戦争は人間が欠けてもやりようはあるが、艦娘や妖精が欠けては成り立たない。
万物の霊長。そこにいるのは艦娘か深海棲艦か、あるいは妖精たちか。
いずれにしても深海棲艦が姿を現した時に、人間はその座から転落していた。
「艦娘はとっくに人の手でどうこうできる相手じゃないし、そうでなくたって……艦娘は艦娘だ。権利は押しつけられるものじゃない」
これではまるでパラノイアだと提督は思い、悪友の軍医の悪癖が移ったのかもしれないと自嘲した。
「提督さんは今、己の一存で人という種の存亡に関わる話をしているのかもしれませんよ」
「笑えるな。たかだか一人の意思で人が滅ぶものかよ。人間は抗う生き物だしな」
話が逸らされているのを自覚し、提督は軌道修正しようと試みる。
「なんにせよ物事はいつか終わらせなくちゃならない。深海棲艦との戦いは人間が始めたわけじゃないが、落とし所は見つける必要がある」
「見つからなければ?」
「おそらく負ける。俺たちは深海棲艦についてほとんど分かってないんだぞ」
妖精が何事か言い出す前に、すぐ提督は言い足す。
自身の問いかけの出発点を。
「俺はもう誰にも沈んでほしくない」
提督が艦娘を率いるようになってから、先代の木曾を除いて戦没艦は誰もいない。
それを提督は奇跡のような確率だと思っていたし、奇跡というのがいつまでも続くわけもないと分かっている。
妖精は提督を見ている。その瞳は水底のようだった。
「秩序と混沌」
急に妖精は話の繋がりが分からないことを言い出す。
戸惑う提督に妖精は言葉を続ける。
「光と影、朝と夜、私と猫。プラスとマイナス。どういうことか分かりますか?」
「……表裏一体?」
「そうなんです。我があって彼があり、彼がありて我もある」
提督は思い浮んだままに言っただけだが、妖精が望んだ反応だった。それでも妖精と猫が反対というのは提督にも分からなかったが。
「艦娘と深海棲艦も本来ならそういう関係でした。今は均衡がだいぶ崩れてしまいましたけどね」
「さっきの喩えで考えるなら、どっちが欠けてもおかしくなるのか」
「はい。そして我々が双方についてお答えできるのはそれだけです」
「もったいぶった割りには生かせるような情報じゃなさそうだな」
「ええ、お恥ずかしい限りです」
変わらない表情のまま妖精は言う。
これ以上は教える気がないと自白しているぐらいだから、本当は恥じてないのだろうと提督は思う。
「我々についても多くは語れませんが目的は提督さんと同じです。彼女たちを失いたくはありませんし、幸せになってもらいたいのです」
「まるで親みたいだ」
皮肉だった。通じたのかは定かではないが妖精は頭を振る。
「我々はそのような大それたものではありませんよ。私たちはただ艦娘のために存在しているだけで」
「私たちの中には人間も含まれているのかな」
「どうして、そのようにお考えを?」
「さっきも言ったが人間がいなくても艦娘たちは成り立つからだ。でも、その逆は……」
妖精は猫を撫でながら少しの間を置いて言う。
「我々なら支配には興味ありません。流儀でもないので。もしかして提督さんは人間嫌いなのですか?」
「……博愛主義者じゃないのは確かだ」
「あなたがもし自分たち人間を軽んじているなら悲しい話です」
変わらない表情で妖精は言う。言葉だけで考えれば同情してるようだった。
「人間はそんなに大層な生き物じゃないぞ」
「そうですか? 我々も艦娘もあなた方から学ぶ点は非常に多いです。なぜ二人目以降の艦娘が生まれてきたんだと思いますか?」
それは提督が知りたいことの一つだった。彼は分からないと正直に答える。
「生きていたいという想い。そこに可能性が加わったためです」
「可能性?」
「提督さんや他の艦娘たち、その他の多くから何かを学び、何かを感じ、いかに考えていくか。その積み重ねが艦娘という存在を豊かにし、同時に新たな可能性を模索するきっかけになるんです」
妖精は手品のようにどこからかサイコロを取り出す。
その手が転がすサイコロは一の目を出し続ける。
「初めはどんなに振っても同じ目しか出てこないのが艦娘でした。それが彼女たちの成長に伴い様々な目が出てくるようになります。サイコロでいえば六ですが、それもすぐに足りなくなる」
妖精は別のサイコロも出していく。十面、二十面、三十面、百面と形と大きさを変えたサイコロが次々と。
「これでも足りなくなる。だから二つ目なんです」
妖精は同じ数のサイコロをもう一度出して並べていく。
「あなたの秘書艦で考えてみると、今のあなた方は互いに切っても切れない関係になっているのでしょう。そうして育まれる可能性がある一方で、提督さんという存在がいない鳥海という可能性は消えてしまう。だから新しい鳥海が生まれてきた」
「……違う人生を歩むために? 艦娘なら人生じゃなくって艦生か?」
「言い方は別にして、その通りです」
妖精の言葉を信じるなら、という前提で提督はその話に納得した。
彼女たちは同じ名を冠して、異なる目を通して世界を見ていくのだと。生きて興味が増えていけば、それだけ別の可能性を求めて。
「切っても切れないといえば、秘書艦さんは指輪をしていないんですね。条件は満たしているはずですが」
妖精は別の話を振ってくる。
一つだけある指輪は鎮守府の執務室に置いたまま、他には誰も存在すら知らないままになっている。秘書艦の鳥海も例外ではなかった。
「カッコカリなんて言ってもケッコンだ。おいそれと渡せるもんじゃない」
「そうですか……彼女たちの身を案じてくれる提督さんであるのなら、我々としては渡しておくのを勧めますよ」
提督は何か言い返そうと思って言葉を呑み込んだ。
指輪を渡さないのはカッコカリという艦娘を無視して人間の都合を前提にしたようなシステムと、妖精に対する言い様のない不安が理由だった。
その一方で身を案じるなら、という部分は引っかかった。もし彼女たちの伸び代が増して強くなるのなら、それは戦場で彼女たちを助ける要素になるはずだと。
それに彼は感じてはいた。自分の不快感と有るかも分からないリスクを盾に、最善を尽くすのを拒んでいるのではないかと。
生じた葛藤を察したように妖精は言う。
「私たち妖精は、艦娘のために存在していると言っても過言ではありません。艦娘や提督さんを騙すような真似はしません」
提督は考える。
信じる信じないは保留にしても、指輪を渡すという選択はもっと真剣に考えたほうがいいのかもしれない。
少しでも後悔したくないのであれば抵抗感などは些細な問題になるのかもしれない。やらない後悔よりもやる後悔、
提督が答えが出せないまま、妖精はまた別の話題を投げかけていた。
「ところで、あの二人を同時に運用できそうですか?」
「同じ艦娘同士で? 反対だな。無理ではないけど俺なら避ける。符丁で区別をつけられるが、それでも同じ艦娘が複数という構図は紛らわしくて混乱を招くだろうし」
そもそも同じ顔をした相手が近くにいるというのは耐え難いことのように提督には思えた。
妖精は感心したように頷くと、猫の前脚辺りを掴んで顔を隠すように吊し上げる。
「提督さんはどうして我々が人間を立てるのか疑問に思っているようですが、今のが答えです。我々には人間の持つ価値観による判断が重要なんです」
「人は……俺は間違えるぞ?」
「学ぶのに正解はないと考えています。そろそろ二人が戻ってきそうですね」
結局、提督からすれば分かったこともあれば分からないままのこと、かえって悩まなくてはならないことまで出てくる有様だった。
「提督さん、我々はあなたを提督に据えたのは正解だと思っています。何かあればできる限り力を貸しますので」
そして……提督は最後の言葉に関しては、あまり信じていなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
提督が面談を行う一方で、執務室の外では鳥海が順番の整理を行っていた。
あまりに列が長くなりすぎたので、現在は記帳式に切り替えて次の一組だけ待たせる形にしている。
待ち時間はまちまちで一組目の多摩と木曾が十分ほどで済んだかと思えば、その後の妙高と足柄は一時間近く話し込んでいた。
こうなってくると鳥海も待つ艦娘も暇を持て余すので、雑談に花を咲かせることになる。
「印象変わりましたよね。髪型は……変わってないと思うんですけど」
「そうかしら? 確かにお下げにまとめる髪は増やしてみたんだけど……変?」
「いえいえ。ボリューム感が出て余裕の表れみたいというか、よりおおらかに見えると言いいますか」
「ふうん、じゃあ今までそうじゃなかったと言いたいのかしら?」
「まさか。叢雲さんのそういう鋭いところは変わらないんですね」
「あら、ありがとう。褒め言葉は丁重に受け取るわ」
鳥海の向かい側に駆逐艦の少女、叢雲が椅子に座っている。
改二艤装への更新に合わせて変わった印象について二人は話していた。
叢雲はタイツに包まれた足を組み背筋を張った姿勢で、利発そうな表情と相まって様になっている。
それでいて張り詰めた気配は微塵もなく、同じ艦娘からも厳しい性格と評されることが多い叢雲だが、今の様子からではそう見えない。
「ところで鳥海はこの件をどう思ってるのよ」
「私ですか?」
「もしかして自分には関係ないって思ってない?」
「ええ……そこまでは」
「あんたねえ……」
叢雲は顔を手で押さえると頭を振る。それでも、すぐに気を取り直す。
「もしかして司令官と私たちが納得するかの話だと思ってない?」
「違うんですか?」
「ううん、あってる。でも判断材料には鳥海も入ってる。だから無関係でもないのよ」
そういうものでしょうか、と鳥海は曖昧な笑みを浮かべた。
そういうものよ、と叢雲は神妙に答えた。
「いい? 例えばそう……磯波とかね。指輪にもカッコカリにも興味あるの。でも、あんたと対立してまではと遠慮するような子よ」
鳥海が考え込むのを見て叢雲は話を続ける。
「他にも例えば……高速戦艦のKとしましょうか。そのKは常日頃から、あいつが好きだと公言してて」
「たとえですか?」
「――たとえはたとえよ。まあ、今回の一件でそういう子も望めばカッコカリできるわけ」
「そうなりますね」
「で、司令官と鳥海で固まっていた仲にも割り込める――そういう望みを持つかもしれない。望みがあるなら諦めない。それが艦娘じゃない?」
「……そうかもしれません」
「だから、あんたがどう思うかも無関係じゃないのよ。主に火種って意味でね」
「……それなら私の答えは簡単です。私は司令官さんの意思を尊重します」
「他の子を優先するようになったとしても?」
叢雲はわざと挑発するように問いかける。
対して鳥海は穏やかに微笑み返した。
「月並みですけど信じてますから」
「何それ、正妻の余裕ってやつ?」
「そういうのじゃありませんよ……でも信じたいだけの理由はあります」
「あー、はい。ごちそうさま。それだけ聞ければ十分よ」
叢雲はたとえという形で聞いたが、彼女もまた遠慮という立場を選ぼうとしていた。
しかし鳥海の様子から、それは懸念だと判断して話を受けようと決める。
少しだけ緩んだ気持ちが叢雲の口を軽くしていた。
「ったく、何があればそこまで言えるんだか」
「気になりますか?」
叢雲はここでちょっと嫌な予感がした。
「別にそこまでは……」
「せっかくだから聞いてくださいよ。司令官さんと何があったか。デートに行ったんですよ。たぶんデートだったと思うんですけど」
「本当にいいから。そういうのは摩耶とか島風とか他にちゃんと聞いてくれそうな人が」
「今ここで話したくなったんです。だめでしょうか?」
もっと強く断るべきだったと叢雲は気づいたが後の祭りだった。
何せ彼女たちは暇を持て余している。
「あれは先日の……」
「あ゛あ゛あ゛あ゛」
藪蛇だったらしい我が身を嘆いて叢雲はあられもない声を上げた。
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───────
─────
と号作戦の会議はつつがなく終了していた。
詳細な作戦計画より発動までの段取りや戦力の配備計画、作戦完遂後にいかにトラック諸島を拠点化し運用していくかを主眼に置いて議論されたためだった。
投入される戦力は横須賀鎮守府に在籍する全艦娘に加えて、それまで未配属だった艦娘が年明けすぐに多数組み込まれることになっている。
加えて改二艤装への更新や新装備の導入も推し進められる。
手薄になる本土の守備には二人目以降の艦娘が就き、また妖精による陸上航空隊も各地に設立、配備されるのがすでに決まっていた。
この陸上航空隊はトラックにも配置されることになっており、と号作戦の輸送艦隊に積み込まれる。
輸送艦の手配から人員の選定、配備など含めて三月中旬を目処に作戦が発動する形で会議はまとまった。
そうして提督と鳥海は来た時と同じように公用車で移動していた。
外の景色を見る鳥海の横顔に提督が話しかける。
「トラックが任地だってな。まるで明智光秀だ」
「そうですか」
至極素っ気ない返事を鳥海は寄越す。
提督は気後れしたが、それでも話し続ける。
「光秀は本能寺の変を起こす直前、信長に領土を転封されてるんだ。まだ毛利領……敵地の国に。奪還もしてないトラック泊地鎮守府提督なんて肩書きの俺とぴったりじゃないか」
「ええ」
「まあ、光秀の転封も後世の創作らしいけどな」
今度は何も答えなかった。鳥海は頑なに車窓から冬の空を見ている。
面白みのない話なのは提督にも分かっているが、彼女が反応しない理由がそこじゃないのも分かっていた。
「何が不満なんだ? 妖精に頼んどいた服のセンスか?」
今の二人は私服らしい格好に着替えている。街中に出るのに制服はあまりに悪目立ちしすぎるためだ。
提督の場合はシャツにズボンとありきたりの格好な上に、セーターを重ねてコートを羽織ってしまえば簡単に人混みに溶け込んでしまうだろう。
鳥海は淡いクリーム色のワンピースに緑のカーディガンを羽織っていて、色合いは普段の制服と同じだが受ける印象はずいぶん違う。
提督は妖精のセンスは決して悪くないと思っている。
いっそ鳥海の服装を評論すれば反応するだろうかと考え始めたところで、鳥海が口を開く。
「……理由はお分かりのはずです」
提督を見る鳥海の眉根は下がっていた。
鳥海は怒っているわけではなく心配している。顔を見れば明らかだった。
「俺が前線に出るのがそんなに不安か? それとも余計な重荷を抱えたくないのか?」
「両方ともです」
「まあ、そうなるな」
「司令官さん、私は真剣に……マリアナで補給するんですから、そのまま現地に留まってくれた方が。あそこにだって基地施設は……」
鳥海の言葉を提督は手で制す。
「と号作戦を完遂するには、俺も現地にいたほうがいいのは分かってるんだろ」
鳥海は言い返さなかった。
遠く離れた場所からでの指揮では判断材料を見誤ってしまうかもしれない。そうでなくとも命令の遅れというのを提督は強く警戒していた。
「迷惑をかけるのは承知してる。だが足を引っ張るだけのつもりはないよ」
「……それでも心配ぐらいしてもいいじゃないですか」
今度は提督が何も言えない番だった。
息苦しくなるような沈黙が続く内に目的地に着いた。
「ここって……」
「ショッピングセンターかな」
二人が立ち寄ったのは日本各地で増えつつある複合型のショッピングセンターの一つだ。
地域密着型の施設で四階建て。その手の施設としては規模としては小さいが、限られた時間を二人で見て回るには十分だと提督は判断していた。
車を降りて、まだ戸惑う鳥海の手を引いて中に入る。
二つのドアを潜れば、センターには家族連れから壮年の夫婦、三十絡みの主婦たちに友達同士の学生やら制服の店員たちと様々な人間がいる。
これで休日だったら人でごった返していたに違いない。特に今はクリスマスが近い。
「待ってください」
鳥海が立ち止まる。彼女としては大して力を入れてないのだろうが、それだけで前に引いていた提督の体が進めなくなる。
「どうすれば?」
「好きにするといい。見て回って欲しい物があれば買っていいし……ああ、金の心配はするなよ」
「では、お言葉に甘えて……」
そう答えるも、鳥海はまだ迷ってるようだった。
仕方のない話ではある。
彼女たち艦娘が市井に接点を持つ機会はほとんどなかった。
個人の買い物は専属の業者に委託して取り寄せるという形式になっている。
以前は提督も艦娘たちの娯楽も兼ねて、鎮守府の敷地内に一般の店舗などを誘致できないかも考えていたが実現はしていない。
軍機の保守と民間人の安全を保障しきれないという二つの問題を解消できないとされたからだ。
それでも提督はそれ自体は諦めていない。トラック泊地での構想も考えているが、まだ絵に描いた餅と変わらない。
鳥海はしばらく立ち止まっていたが、やがて歩き出す。
行き先も歩幅も彼女に任せようと提督は決めた。
最初に立ち寄ったのはファンシーショップだった。
たぬきなのか熊なのか魚なのか、明るい色使いで彩られている掴み所のない顔をしたキャラクターたちが所狭しと並んでいる。
時代や戦況によってはこういうキャラでさえ戦意高揚のために利用されたりするが、主張に妥協しないキャラたちからはそういう様子を微塵も感じない。
それはたぶん好ましいのだろうと提督は思った。日々の苦労を癒すための存在にあまりに似つかわしくないと思えたからだ。
鳥海は文房具やタオルなどの生活用品が並ぶ中を抜けて、ぬいぐるみコーナーに向かう。
だれた顔をしたぬいぐるみを手に取る。切り身のぬいぐるみらしい。
「切り身ってなんだ……」
「摩耶がこういうの好きなんですよ」
「摩耶様の意外な側面ってわけか」
「意外ですか? 天龍さんもこういうの集めてますけど」
さらりと秘密らしいことを聞かされて提督は反応に困った。
同時に、鳥海からでさえこうして秘密は漏れていくのだから恐ろしい話だとも思った。
「愛宕姉さんにはこれがいいかしら」
今度はパンツをはいた豚だった。色々あるんだなと提督は妙な感心をしていた。
「この二つ、よろしいでしょうか?」
「高雄にはいいのか?」
「高雄姉さんはこういうのをもらっても困ってしまうかもしれませんので。別の小物などを見繕ってみます」
高雄には後で日本酒の入ったチョコの詰め合わせを買うことになる。
「島風には連装砲ちゃんがいるし、何がいいのかな」
鳥海は楽しそうだった。しかし提督には気がかりもある。
「なあ鳥海。買うのは構わないんだが、自分の分も買ったらどうだ? さっきから誰かの分しか買ってないだろ」
「あ……せっかくだから、そうですよね」
鳥海は愛想笑いみたいな表情で提督をかわす。
これが駆逐艦なら何にするかで悩みはしても、買うのを迷いはしないだろう。
車内で見せていた不満が消えているので、提督としてはまず最低限の成果は収めているが。
「司令官さんこそ、どうしてここに?」
「こっちに来た時、デパートを気にしてただろ。場所は違うけど、こういうとこに連れて行ってもいいと思ったんだよ」
本当はもう一つ大事な理由があるが、それはすぐに行動に移す予定なので言わない。
この後も店を変えながら物色は続き、ショーウィンドウの前で鳥海が立ち止まる。
マネキンたちが冬物を着込んでポーズを取っていた。
鳥海は借り物の服を見て、聞かれるでもなく無言で頭を振る。
「普段からもっと服装に興味があったらよかったんですけど。司令官さんはどう思いますか?」
「俺はあまり気にしないけど、鳥海は気にしてもいいと思うぞ。もっと着飾ったり化粧してみたりだとか」
「そうですよね……あ、そういえば」
「どうした?」
鳥海はおかしそうに笑う。
「思い出したことがあるんです。軍艦の頃の話なんですけど、私に乗ってた人がある艦を厚化粧って読んだんですよ。その子もそれを覚えてて、今なら私を野暮ったいなんて言い返すのかなって」
「俺の知ってるやつか?」
「いえ、うちにはいませんね。いずれ会うかもしれませんけど」
鳥海は意外とこういう昔話はしたがらないので、提督には新鮮に映る。
「そうか。それにしても本当に興味ないのか?」
「興味ないというか……うまく想像できないんです」
鳥海は困ったように眉尻を下げる。
「私だって女子の端くれです。でも、私たちの普通を考えちゃうと……これでいいのかなって」
「いいじゃないか。まあ物は試しって言うし、買う物に悩んだ方が健全かな」
二人はブティックに入る。
こういう時、男がウンザリするほど女の品定めは長いと相場が決まっている。
あれこれ試着しては候補から外しきれず、悩みに悩んで予算の範囲内で妥協するというのが定番だと、提督はそう考えていた。
しかし鳥海はあれこれ服を選んでみても試着はせずに時間を潰していく。それも長続きしない。
結局、鳥海は何も買わなかった。
だからというわけではなかったが、提督はここで目的を果たすことにする。
「……これなんてどうだ?」
店を出てすぐ、彼は自分で買ったマフラーを手渡す。
自然に言ったつもりだが、内心では緊張もしていた。
提督は形が残る物を誰かにあげたり受け取るのは、ずっと避けてきたからだ。
形見になってしまいそうだという思いがあるからだ。実際、彼が受け取ったり預けた物がそうなってしまったことは続いた。
提督としてはそれを思い込みと認めて打破したかった。でなければ指輪を渡すことなどできないと。
だから、まずは慣れが必要だった。いきなり誰かに指輪を渡すよりも、もう少し軽い物で。
指輪の意味合いはもっと重くなるし、それを節操なく渡すことになるかもしれないのだから。
「これを私に……?」
「この季節は首元が寒いんじゃないかと」
受け取り、鳥海はじっと見つめる。
「男のセンスだから気に入らなかったらごめんな」
「そんなことありません……」
「本当はバルジ周りをどうにかしたほうがいいとは思うんだけど、お腹を見せてこその鳥海というか」
照れ隠しにしても他に言い様があるはずだが、提督には言葉が思い浮んでこない。
「……まあ気まぐれみたいなものさ」
もちろん嘘だが、今ならこんな嘘は嘘にならないと提督には思えた。
鳥海はおもむろに眼鏡を外すと、いきなりマフラーに頭を下げるように顔を押し当てた。正直、提督は面食らう。
「タオルじゃないぞ」
「わ、分かってます」
毛糸越しの声は少しかすれていて、どうしてそうなったか察しがつくと猛烈に叫びたくなった。
もちろん本当に叫ぶわけにはいかないので、取り乱して辺りをうろうろと歩き回る。端から見れば怪しい挙動であっても、彼もあまり冷静ではなかった。
「鳥海は最高だな!」
「い、意味が分かりません!」
鳥海は眼鏡をかけ直すと、そんな反論をしてくる。頬に赤みが差していた。
「このお礼は必ずします!」
「もうもらってるよ」
提督からすれば、そんな反応がもらえたなら十分すぎた。
そして提督はこの時、決心した。
「少しばかり話を聞いてくれないか」
提督は指輪の話、それを全員に配る気になったのを鳥海に伝えようと決める。
彼は自分なりの善処を尽くしてみようと決心していた。
備忘録を兼ねて艦隊編成。
特に補足がない場合は改二が存在する艦娘は改二とする。
順不同。
○水上打撃部隊
・高雄型
・妙高型
・プリンツ、ザラ
・武蔵、長門、陸奥
・伊勢、日向、扶桑、山城
・ビスマルク改・ローマ・リットリオ
・雲龍、龍鳳、飛鷹、隼鷹(いずれも艦載機は艦戦+彩雲)
・球磨型
・川内型
・島風、天津風
・綾波型
・白露型
・夕雲型
・Z1、Z3、リベ
・秋月、照月
・明石
・秋津洲
・潜水艦隊
○機動部隊
・雲龍型、グラーフ、大鳳を除いた正規空母。また鶴姉妹は改止まり
・千代田、千歳、祥鳳、瑞鳳(いずれも艦載機は艦戦+彩雲)
・金剛型
・とねちく
・五十鈴、阿武隈
・大淀
・阿賀野型
・暁型
・陽炎型
・朝潮型
○輸送艦隊
・天龍、龍田
・長良、名取、由良
・夕張改
・古鷹型
・最上型
・睦月型
・吹雪型
・初春型
・鳳翔、グラーフ
・あきつ丸
・瑞穂
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
月の沈み始めた夜空に、空とはまた違う色の黒点が多数浮かんでいる。
その正体は艦載機の集団だった。
トラック諸島から二百海里の位置より、艦娘たちの手により飛び立った海鷲の群れは烈風、彗星、流星の三機種を中核とした戦爆連合で述べ四百六十機に上る。
払暁になる頃、先導する彩雲に導かれた戦爆連合はトラック諸島の東側から侵入すると二群に分かれて、それぞれ春島と夏島の飛行場を目指していく。
深海棲艦側も艦載機の飛来を察知し、押っ取り刀で球状の迎撃機を上げ始める。
しかしその動きは新たに彩雲に搭載された電探により察知され、烈風の一団に素早く頭を抑えるよう指示を出す。
まだ高度も速度も上がりきらない深海棲艦の戦闘機を、烈風たちは急降下からの一撃で次々に撃墜していく。
その間隙を縫うように飛行場へ流星隊の水平爆撃が始まり、彗星隊は散発に始まった対空砲を狙って急降下爆撃を加えていく。
流星は五百キロ爆弾と八百キロ爆弾を装備した二種があり、五百キロ組が先行して爆撃を始め八百キロ組が後続して爆弾を投下した。
第一次攻撃は三十分とかからずに終息する。
艦載機側の被害は空戦と対空砲火により十五機を喪失。
一方、深海棲艦側は春島と夏島の飛行場を早々に使用不能に追い込まれた。
港湾棲姫から見れば復旧そのものは難しくなかったが、流星の投下した八百キロ爆弾の三分の一は時限信管がセットされていた。
それらは空襲後の二時間に渡り各所で断続的に爆発を起こすことになる。
いつ爆発するか分からない爆弾は飛行場を修復しようとする港湾棲姫を悩ませ、一時的に両島を放棄させた。
と号作戦の第一陣はこうして始まった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
と号作戦に当たり、妖精は従来の装備や設備の環境を大幅に向上させていた。
その恩恵を最も受けたのが彩雲であり、電探を搭載するようになりビデオ撮影した映像をリアルタイムで司令部施設へ送信できるようにもなっている。
彩雲から中継されてきた映像は艦隊旗艦を務める高速輸送艦『出雲』の作戦室スクリーンに映し出されている。
映像は黒煙を上げ穴だらけになった夏島の姿で、春島も似たような状況だった。
飛行場の損害では航空機の運用は不可能なはずだった。少なくとも人間の見地から考えれば。
「上手く行きすぎか?」
提督は独りごちる。
被害は最小限に、戦果は最大にというのは指揮官であれば誰しもが望む展開だが、実際に成立すると落とし穴が潜んでいるようにも彼は感じてしまう。
味方から挙った損害も含めて、第一次攻撃は一方的な成功と言っていい。
「まずは上々な滑り出し、ですかね」
出雲の艦長が提督に話しかけ、提督も頷き返す。
三十過ぎの長身の男で、日に焼けた肌は黒い。髪は海軍の規定に反して長いが、あまり手入れもされていない。意図してというよりは勝手に伸びてしまったという様子だった。
また彼は上手く隠しているが、左腕が思うように動かず不自由なのに提督は気づいている。
事前に艦長の経歴を見る機会があった提督は、艦長が深海棲艦との緒戦に参加し重傷を負いながらも生還したのを知っていた。
おそらくは後遺症があると推測し、手腕としてハンデを周囲には気づかせないのなら、蒸し返すような真似は必要ないと結論づけた。
提督が艦長に好感を受けたという点も影響はしているかもしれない。
「無線封鎖は、このままで?」
「ああ、次も予定通り対地攻撃をやってもらう」
機動部隊には第一次攻撃隊で十分な被害を与えたと判断し、かつ敵艦隊を未発見の場合は対地攻撃を行うよう事前に命令している。
ただし、この場合は烈風の比率を七割にし、烈風の半数を戦闘爆撃機として運用するよう指示していた。
提督としては、ただの一度の攻撃で基地施設を封じられるとは考えられなかった。
その点、烈風なら爆弾を投棄してしまえば通常の戦闘機として扱える。
攻撃隊の七割が戦闘機なら大きな被害は出ないだろうと提督は見込んでいた。
提督には懸念があった――深海棲艦のたこ焼きは長大な滑走路を必要としない。それは港湾棲姫を映した映像でも示唆されているし、艦娘が扱う艦載機でもそうだった。
春島と夏島の飛行場が最大規模の拠点なのは確かでも、各島に分散配備して航空機を隠している可能性は十分にある。
運用上の不備がないのなら、被害分散の目的でもやらない理由がなかった。
そうなると深海棲艦はまだ余力を残していることになるし、全島を目標にすると機動部隊の火力だけでは中途半端な戦果しか挙げられない。
「こちらはこちらの任を果たそう」
打撃艦隊としては敵地に艦砲射撃を行う必要があり、提督の座乗する出雲を含めた三隻の出雲型輸送艦は西進していた。
このうち電装を更新し指揮能力を強化しているのは出雲のみで、同型艦の丹後と相模は更新が間に合わず通常の機器のままだった。
三隻に艦娘は分乗し、また三隻とも先行上陸のための工兵が乗り込み資材も積み込んでいる。
打撃部隊には雲龍、龍鳳、飛鷹、隼鷹といった空母たちも組み込まれていて、彼女たちから飛び立った彩雲が進路方向に半円状の索敵網を敷いている。
敵艦隊を発見できないまま正午を迎える。
その間に機動部隊の彩雲からは第二次攻撃の様子が中継され、そこでは懸念通りにそれまで見過ごされていた島々から迎撃機が上昇するのが映されていた。
二百五十キロ爆弾を積んでいた烈風もそれらを一斉に海上に投棄し、迎撃態勢を整えていった。
この攻撃でも攻撃隊の被害は軽微だったが、攻撃そのものは不十分な結果に終わる。
一三一○。機動部隊が第三次攻撃の発艦を始めた頃、打撃艦隊も進路上に布陣する深海棲艦の艦隊を発見した。
ル級とタ級戦艦を合わせて十隻含んだ有力な艦隊で、ヲ級やヌ級も含んでいれば随伴艦も多い。
出雲の電探で確認された総数は百八に及び、それらに番号が割り振られていく。これらは艦娘たちにも共有される。
「出てきてくれたか。泊地にしかける前でよかった」
提督は安堵の息を漏らすが、まずは優勢な数で大きく敵艦隊を撃破しなくてはならない。
深海棲艦は主力の戦艦部隊を中央に置き、その両翼をリ級やチ級といった巡洋艦が固め、それぞれにイ級が付き従うという構図だった。
雲龍たちが直掩の戦闘機を上げる中、無線封鎖を解いた打撃艦隊は提督の指揮に合わせて艦娘たちも次々に展開していく。
「長門以下、武蔵、伊勢型、扶桑型は正面、敵戦艦を迎え撃て! 妙高型、綾波型、白露型も正面。戦艦部隊を支援しろ!」
深海棲艦が正面に主力を当てるなら、提督もそれに応じるしかない。
その一方で高速戦艦たちには別の命令を与える。
「ビスマルク、リットリオたちは右翼側から艦隊を攻撃、そのまま右翼の敵を撃破したら敵戦艦を長門たちと挟撃。球磨型、夕雲型もそちらに!」
横文字混じりの応答を聞きながら、提督は左翼側にも目を向ける。
「高雄型、川内型、島風、天津風、秋月型は左翼の敵を迎え撃て。主力を潰すまで戦線を支えるんだ!」
迎撃の戦闘機が編隊を組んで東の空に向かう間に、艦娘たちも布陣を整えて進撃を始めている。
その様子は出雲の艦上でも電探の輝点として確認できた。
動きとしてみるなら夕雲型の何人かが遅れ気味で、それは経験不足による緊張によるところが少なくない。
その点を指摘するのはこの時ではなかったし、この時の提督の役目でもない。今の彼は無事を願いつつ戦況の変化に目を凝らすしかなかった。
艦載機同士の空戦は、戦闘機の数で倍近い差をつけている艦娘側が圧倒し制空権を確保する。
途中から参加した瑞雲が爆撃に移るが、目立った戦果は挙げていない。
「武蔵、先行して砲撃を始めるぞ!」
最初に砲撃を行ったのは武蔵で、他艦よりもひときわ長い射程を生かした形だった。
武蔵の砲撃は護衛に付いていたイ級たちの頭上を飛び越えて先頭のル級に届くが、水柱を巻き上げるに留まる。
その一方で転用できる諸元のいくらかは出雲を介して、他の艦娘にも転送されていく。
武蔵が次発装填を終える前に、各所では最前衛を務める艦娘たちが砲戦を始めていた。
砲戦が始まって一分。
左翼側にいたリ級三隻の反応が次々に消えていき、今またイ級の反応も一つ消失する。残りはイ級が二隻だが、これもすぐに消えた。
他の二ヶ所でも優勢に戦闘を進めているが、左翼側の動きは輪をかけて早い。
そちらで先鋒を務めているのは鳥海、摩耶、島風、天津風の四隻だった。
「左翼側、戦況は?」
少し遅れて鳥海の声が届く。普段よりも張った声だった。
『敵部隊を潰走させました。こちらに被害はありません!』
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撃てば当たった。というのが短い砲戦における鳥海の感想だった。
弾道を計算し、それらに電探による補正や経験からの誤差を加えて撃つ。そういった砲撃を単発で連続して加えながら照準を調整し、挟叉を得られたら斉射に切り替える。それが砲戦の基本で、弾の無駄撃ちも減らせる。
しかし鳥海は初撃から斉射だった。
照準をつけている内に、当てられると直感したからだ。
最初の砲撃で鳥海に狙われたリ級は水柱に紛れて爆発の光が走り、少し遅れてから大爆発を引き起こした。轟沈だった。
深海棲艦の先鋒はリ級とイ級が三隻ずつという編成だったが、その一角を早々に失った形だ。
深海棲艦も何か尋常ではない様子を感じ取ったのか、鳥海に狙いを定め砲弾を放つ。
まだ当たらないと割り切っている鳥海は最後尾のリ級を目標に定める。
自動装填の兼ね合いで、彼女の主砲は十五秒に一度の砲撃ができる。
それを長いと取るか早いと取るか、少なくともこの時の鳥海はもどかしさを感じていた。次も当てられると予感していたからだ。
装填が終わるなり、鳥海はすぐさま斉射する。
右側に三基六門、左側は二基四門で計十門となる三号型二十センチ砲が干渉を避けるための誤差を加えて一斉に放たれる。それは最初と同じ結果を呼び込んだ。
「当たった!」
高揚の響きを乗せた鳥海は、二十六番が割り当てられた摩耶が撃ち合うはずだったリ級も狙いに定め、そのまま沈める。
その間に島風たちもイ級を沈め、相手を失った摩耶も残るイ級への砲戦に入ったため早々に勝負が付いた。
提督から状況を求める通信が入り、鳥海がそれに応える。
『もう沈めたのか?』
鳥海は少し迷ってから答える。
「計算通りに撃ったら当たりました」
提督が息を呑む気配が伝わってくる。
一分足らずに三隻撃沈という戦果は演習でもまず出ないし、鳥海にも経験のない話だった。しかも被害はない。
『左翼側、戦線を押し上げる。できるか?』
「はい!」
『まず左翼側を潰走させる。鳥海たちはそのまま前進。見つけた側から攻撃だ。後方の高雄たちは鳥海たちの支援。場合によっては、中央艦隊を側面から支援』
提督からの命令の下、再び彼女たちは動き出す。
――この海戦で艦娘側は数で劣っておいたが質の面では大きく優位に立っていたために、深海棲艦側を散々に打ち破る形で帰結する。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
一六一○。
先の海戦を終えて補給や応急処置が進む中、出雲の対空電探が敵影を捉える。接触までおよそ四十分で艦娘たちの出撃や迎撃機の準備を済ますには十分な時間だった。
出雲型を中心とした輪形陣が三つ作られ、雲龍らから放たれた烈風は味方艦からの対空砲火に巻き込まれないように、さらに前方の海域にまで進出していた。
しかし敵機は少なくとも三百機を数えているので、航空隊の劣勢は確実だった。
出雲の護衛には摩耶と秋月型。夕雲型の高波から清霜までの五人に、戦艦では武蔵と扶桑、山城が就いている。
その中でも摩耶と秋月型は敵機の予想侵入方位に一番近い位置に陣取っていた。
摩耶は急造の僚艦となった秋月型の二人に話しかける。
「緊張してるのか、新人」
「はい! いいえ、問題ありません!」
言い直す秋月に摩耶は初々しさを感じる。
照月は姉と比べれば落ち着いていたが、それでも動作には緊張らしい硬さが残っていると摩耶は見て取った。
「二人はさっきのが初陣だっけか?」
「はい。ガンガン撃つつもりだったんですけど、気づいたら終わっちゃってて」
「あれは確かになぁ」
照月の感想に摩耶も頷くしかなかった。苦戦するはずと考えていた戦いは終わってみれば快勝だった。
「みなさんの動きがすごかったですけど、あれはやっぱり指輪の効果もあったんですか?」
「私たちもせっかくだからもらいましたけど、練度が足りてないみたいで」
摩耶は自分の左手をかざしてみる。手袋で隠れているが、摩耶の指にも指輪がはめられている。
作戦前に提督から指輪を受け取ったのは全体の三分の二ほどで、残りのは三分の一は断るか保留という形だった。
摩耶にも摩耶なりの葛藤はあったが受け取っている。
自分の感触や直前の戦闘での鳥海の戦果を思い返しながら答える。
「調子のよさはあるけど、大事なのは日々の訓練だな。これがあるからって簡単に強くなれるわけないだろ」
いかにも先輩らしい答えだと、摩耶はちょっと悦に入った。
秋月も感心したように摩耶を見つめる。
「やはり日々の積み重ねが最善ということですね。それにしても指輪……牛缶いくつ分なんだろう」
「秋月姉、その比較はどうかと思うな」
「そうかな?」
「え……そうだと思うけど……あ、そういえば出雲の守りってこれでいいんですか? 旗艦なのに他の艦より守りが薄いような」
話を強引に変えた照月だったが、その疑問は摩耶も配置割りを聞いて最初に感じていた。
「確かに配置についてる数は少ないみたいだな。ま、そんだけあたしらが期待されてるってことだろ」
摩耶は答えつつ、ここが敵機が狙いやすいように用意された穴だとも気づいていた。
「ったく旗艦のやることじゃないだろうに」
「どういうことです?」
「あんなんでも提督だから、しっかり守ってやんねーとってことさ」
照月が不思議そうな顔をしたのと同時に、夕雲型の中でも特に目のいい高波がいち早く報告してくる。
「敵攻撃隊、一時の方向に目視したかも! じゃなくて目視しました……です!」
それを受けて提督が艦隊全体に通信を入れる。
『日没までの時間を考えれば、これが最後の攻撃だ。総員の奮起に期待する』
「よーし、対空戦闘だ! 提督はあたしの後ろに隠れてな!」
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軽巡の那珂と川内は北の方角に目を凝らしているが、敵影はまだ見えてこない。
姉妹なので二人の制服は似通っているが、那珂は艦隊のアイドルを自称するだけあって自前のマイクを持ち込んでいたり、スカートをフリルに改造している。
姉の川内は黒い手甲や、吹き流しに似た白のマフラーを巻き、どことなく忍者を思わせる姿をしている。
気合いの入った摩耶の声を聞いて、那珂はくすりと笑う。
「おー、摩耶ちゃんってば張り切ってるねー」
「うんうん、分かるよ。陽が沈めば夜戦ができるからね!」
姉の嗜好にさっきとは違った意味での笑顔が那珂の顔に出る。アイドルとしてはなんとか許される範囲の笑顔だった。
「たぶん違うと思うよ?」
「夜戦やらないの?」
「そうじゃなくって……うん、お姉ちゃんはそのままが一番だよ」
「どういう意味さ、那珂ってばー!」
武蔵は両腕を組んで空を仰ぐ。重々しい艤装と相まって、その姿は正に威風堂々としている。
そのすぐ隣では清霜が同じように腕を組んでいる。彼女は小柄だった。
「武蔵さん、戦艦とはこのような時に何を考えるのでしょう?」
「さあな。戦艦と一口に言っても色々いる。日向なら敵のことを考えるかもしれないし、長門なら作戦について考えるかもしれん」
「なるほど。では武蔵さんなら?」
「私は……雷撃機をどれだけ引きつけられて、今なら魚雷に何本まで耐えられるかと考えていた」
「……清霜はたぶん一本だけです」
「ああ、こんな考えはよくないのだろうな」
武蔵は腕組みを解くと、清霜を見下ろし、それから片膝を崩して目線の高さを合わせ直す。
「清霜は戦艦になりたいんだったな」
「はい! いつか武蔵さんみたいな大戦艦になります!」
武蔵は清霜の灰色と紺色の髪を撫でる。清霜は嬉しそうにされるがままだった。
「えらいぞ。清霜ならいつか立派な戦艦になれる。だが、なるなら私のようではなく武蔵以上の大戦艦になれ!」
「はい!」
鳥海は自らの艤装を何度も見ては思案する。そんな鳥海に愛宕が話しかける。
「どこか具合でも悪いの?」
「いえ。私も摩耶みたいに対空機銃をもっと積んでみればと……でも、うーん」
「あらあら、鳥海ったら欲張りさんね」
「そう、ですよね。でも私も摩耶ぐらい対空戦闘が得意なほうが喜ばれるのかもって」
「うーん、お姉ちゃんはそう思わないけど。二人の長所が違うのは一緒に力を合わせなさいってことじゃない?」
言われて、鳥海は驚いたように愛宕を見る。
「大丈夫よ。あなたも摩耶も自慢の妹なんだから。ね?」
「ありがとうございます、愛宕姉さん。でも、なんだか物騒ですよ……その、お別れみたいで」
「もう、考えすぎよ! じゃあ、ぎゅっとしてあげるね。はい、ぱんぱかぱーん!」
「それはちょっと恥ずかしいです……って姉さん、アンテナ刺さっちゃいますよ!?」
高雄は遠巻きに鳥海と愛宕の様子を見て、額に手を当てて項垂れる。
「あの二人は何をしてるんだか……」
「いいじゃないですか。仲睦まじくて」
「そうよ。余裕があるのはいいことだわ」
妙高と足柄が高雄に応じるも、高雄は釈然としていないようだった。
「そうは言うけど、緊張感に欠けてるわ」
「あら、じゃあ緊張感のある話でもします?」
「妙高姉さんがそう言うと、ガチの話になりそうなんだけど……」
不意に高雄は妙高の指をじっと見つめる。
視線の意味に気づいて、妙高は苦笑した。
「本当に緊張感のある話になりそうですね」
「妙高はもらったのね……足柄は断ったの?」
「ええ、私はオコトワリ。うちは私だけよ」
妙高は高雄と足柄へ控えめに笑った。
「肩身が狭いですね」
高雄には、それがどちら側を指してるのか判断がつかなかった。
「高雄さんはどうしてもらわなかったの? あんまり断るイメージなかったから」
「足柄。人に大事なことを聞くのなら、まずは自分も相応の話をするのが筋というものです」
「う……それもそうなのかも。私は」
すぐに高雄が制止する。
「ちょっと待って。聞いたら話さないといけなくなるじゃない」
「そうなりますね……でも気になってるんじゃない?」
「もちろん」
高雄の様子に足柄は思わず吹き出した。
「ロハでいいわよ。私の場合、ケッコンって単に強さとか身を守るためだけに交わすんじゃないと思っただけ。なんていうの……想いが必要っていうの?」
「分かる……ような」
「提督に都合があるなら、私にだって都合はあるのよ。そんなに小難しい話があるんじゃなくって……そう! 愛のないケッコン生活なんて願い下げだわ!」
宣言すると足柄はかえって自信を深めたようで、満足げに何度も頷いていた。
高雄はそんな足柄の様子に目を伏せ、目を開けても二人とは目を逸らしたまま言う。
「私は……あの子の前で指輪している自分がどうしても想像できなかったのよ」
その声を聞いては妙高も足柄も何も言えなかった。
高雄は小さな声で妙高に訊く。
「あなたはどうしてなの、妙高」
「そうですね。思うところはあるけど肯定したほうがいいと思ったんですよ」
妙高は言葉を考え、選ぶ。
「このカッコカリは理由がどうあれ、提督の弱さが表われた形だと思うんです。人間的な弱さ、でしょうか。提督という立場で見るなら足を引っ張るような部分が」
足柄もこの話を聞くのは初めてだったので、真剣に妙高を見つめる。
「カッコカリを黙っていてもよかったはずなんです。ただ指輪を渡して、これで少し強くなれますと言えば十分でしょうから」
妙高は自分の指を確かめ、あくまで穏やかな調子で話す。。
「それをしなかった……できなかったのは提督の弱さだと思います。これがどういうものか知っていて、それを隠し通すのが辛いから秘密を暴露したんです。そうすれば、この話に乗った艦娘も秘密を共有して同意の上でと、一種の契約になりますからね」
三人は北の空を見上げる。敵影はまだ見えていないが、そろそろ近そうだと感じて申し合わせずとも離れていく。
妙高は二人にだけ聞こえるように通信を入れる。
「私はそういう部分も含めて肯定してあげないと、と思ったんです。カッコカリが提督の免罪符だとしても、提督が最良の提督じゃないにしても、私にはこれで十分だと思えたんです」
それが私の理由です。そう言ってのける妙高は笑っているのだと、顔を見ずとも高雄と足柄にも伝わった。
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戦闘機隊の迎撃をかいくぐってきた深海側の艦載機の数はおよそ百あまり。
戦艦たちが敵集団に三式弾を撃ち込み、大輪の花のような弾幕をいくつも生み出す。
何機かが花弁に触れて爆散したり黒煙を引きながら落ちていくが、焼け石に水といった状態だった。
すぐに艦載機は二つの高度に分かれながら散開し、円を描くように艦隊の周囲を巡る。
重巡たちも三式弾での砲撃を始める中、出雲の電探は新たに南から接近してくる機影を探知していた。
その数はおよそ二百。当然だが敵味方識別装置の示す光点も味方機としては表示されていない。
『南方向より敵艦載機らしき反応あり。約二百。総員警戒されたし』
通信員の妖精が全艦隊に通達する。
奇襲こそ防げるが、戦闘機隊は前方海域の空戦から抜け出せる気配はなく、依然として危険な状態であるのに変わりない。
その通信を見計らったかのように、円を描いていた艦載機たちが戦闘行動に移る。
敵機が最も集中したのは出雲を中心とする輪形陣だった。
雷撃機は艦娘を、爆撃機はどちらも狙う形で次々と飛来してくる。
対する艦娘も高角砲や対空機銃を盛んに撃ち上げ、接近してくる敵機を撃墜していく。
特に出雲の前方に位置する摩耶と秋月型の砲火は熾烈で、攻撃機も寄り付こうとしなくなっていた。
その動きを察知して、摩耶が秋月たちに指示を出す。
「秋月、照月! お前たちは出雲の左右に回れ! 雷撃機に、それから衝突にも気をつけろ!」
「衝突!?」
悲鳴じみた声の秋月に、摩耶は怒鳴り返す。
「出雲とだ! ムチャクチャな操艦で動きが読めないんだよ!」
その操艦で何度も爆撃を避けてるのも事実だったが、護衛に就く艦娘からすれば位置取りにも苦慮する状態だった。
ぶつけられても大した損傷は受けないが隙が生じてしまうし、何よりも出雲の艦体が無事ではすまない。この場合、質量差は問題にならなかった。
「とにかく左右を頼む。後方は武蔵もいるはずだから、あっちはなんとかしてくれる!」
秋月型の二人は強張った顔で頷くと言われたようにする。
この頃になると艦隊から被害も少しずつ出始めてきた。
『武蔵さんが被雷! あ、でも対空砲火は健在です!』
『この武蔵が魚雷の一本や二本でどうなるものかよ!』
『すっごーい! さすが武蔵さん! 清霜も負けてらんないね!』
あっちは平気、と聞き流す摩耶にさらに別の声も聞こえてくる。
『顔はダメだってば!』
『那珂ぁ!』
川内の声に摩耶は一瞬、通信を切ってしまいそうになった。
ただそれは耳を塞ぎながら戦うのと同じになってしまう。
「クソが!」
摩耶は苛立ちもぶつけるように砲口を天に向ける。
秋月型が抜けて火線が薄くなったと見て、艦載機が新たに集まり始めていた。
摩耶は撃った。ひたすらに撃った。
終わってみれば摩耶は多数の艦載機を撃墜していたが、本人にそれを確認する余力がなかった。
散り散りに後退していくたこ焼きの数は襲来時の半分にまで減っている。
艦娘たちが一息つく間もなく、第二波が間近に迫ってきていた。
『敵増援を目視した。みんな注意して!』
『動きが速いなぁ……こっちが本命みたい!』
丹後を護衛している時雨と白露が通信を入れてくる。
摩耶は給弾に異常がないのを確認し、艤装の対空機銃が加熱しすぎていると感じた。
すぐさま摩耶は左側の艤装を海中に突き入れてから上へと思いっきり振り上げる。
巻き上げた海水がバケツをひっくり返したように摩耶に落ちてくる。
摩耶は濡れ鼠になるが、灼けた銃身も音を立てて冷やされていく。
「髪がゴワゴワになるから嫌なんだ……クソが!」
何度目になるか分からない悪態をつきながらも、その目には闘志がたぎっている。
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結果から顧みると、深海棲艦による第二波は水上打撃艦隊に大きな被害をもたらした。第一波の成果がほぼ空振りという結果の埋め合わせをするように。
それまでとは違う新型の艦載機が投入され、また多くが艦娘たちに直接襲いかかってきた。
初めに武蔵が被雷した。累計で三本目の魚雷に、さしもの武蔵も速度が落ちて対空砲火にも隙間ができた。
その穴埋めをしようとした清霜が次に急降下爆撃を受ける。清霜は武蔵の死角をカバーしようとするあまり、機動が単調になりすぎていた。
一発が至近弾、一発が命中弾となり左側の艦上構造物を吹き飛ばされ、スクリューがねじ曲がって速度が出せなくなる。
すぐに提督の命令で照月が両者のカバーに入り清霜はそれ以上の追撃を免れたが、武蔵には攻撃が続いて魚雷一発と三発の急降下爆撃をさらに受けた。
主砲の発射に影響はでなかったものの、艤装は中破した。
他でも被害が続く。
愛宕が立て続けに急降下爆撃の直撃を受け、艤装を大破させていた。愛宕本人は奇跡的にかすり傷程度で済んだが、今作戦での継戦は不可能となった。
妙高もまた敵の集中攻撃に晒され、魚雷一本と数発の至近弾を受けている。
深海棲艦の艦載機は迎撃機がいないと分かると機銃で追撃をかけてくるなど執拗な攻撃性を見せた。
第二波の攻撃は巡洋艦以下の艦娘を中心に被害が広がり、無傷で済んだのは片手で数えられるほどしかいなかった。
それでも艦娘側は奮戦したと言える。摩耶や秋月型、白露型を中心に多数の艦載機を撃墜し、武蔵以外の戦艦は健在だった。
何よりも喪失艦を出さなかった上に、出雲型輸送艦には一本の魚雷も一発の爆弾も落ちなかったのだから。
――最後の最後に出雲へ落ちた一発の爆弾を除けば。
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提督は爆弾が出雲に向かって落ちるのを見た。
それまで敵弾を回避し続けてきた艦長の操艦も艦娘たちが展開する弾幕も無視して、初めからそうと決まっていたように黒い塊が左の後部甲板に落ちる。
出雲の艦隊が上から抑えつけられたように揺れた。
提督は無意識に手すりを握りしめていた。目は閉じない。走馬燈も見えなかった。
沈黙。
五秒が経ち、十秒が経った。爆発は起きない。
提督と艦長は申し合わせる間もなく、艦橋のガラスまで駆ける。艦橋からでも被弾箇所は見えた。
甲板には焼けたような穴が空いて、黒い塊が中心にある。
「不発弾……?」
提督は呟く。しかし自信はなかった。
自分たちが仕掛けたような遅延信管かもしれないし、ただの爆弾ではなく中から大量のイ級が這い出してきて乗員を襲い出すのではと思ってしまったからだ。
その時、艤装を背負った明石が駆け寄っていくのが上からも見えた。
工作艦の明石などは戦闘力には期待できないので艦内待機をしていた。
「危ないぞ、明石!」
「爆発したら、どこにいても同じでしょう!」
その通りだった。
明石は爆弾の様子を手早く確認すると、艤装のアームで固定し、クレーンで掴み上げる。
「艦長、速度を落としてくれ」
「は……了解です!」
出雲型はよく揺れる。それはこの状態では命取りになると提督は思った。
「このまま投げ捨てます。近くに誰も寄らないように言ってください!」
それは提督が言うまでもなかった。
明石は慎重に、しかしできるだけ早く舷側に寄って爆弾を投げ捨てた。
海中に投棄された爆弾はそのまま海の底へと沈んでいった。
提督は様子を見に戻ってきた艦長と顔を見合わせる。
「……くくく」
何がおかしかったのか分からないが提督は急に笑い出す。
艦長も同じような気分になったのか、釣られたように笑い出した。
それは密やかな笑いから、腹を抱えるような大笑いになるまで時間はかからなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
二三二○。
厚い黒雲に覆われ、月明かりの乏しい夜だった。湿った風が海の上を吹いていき、艤装の駆動音も風と波に呑まれていく。
藍より暗い闇の中を艦娘たちが黙々と進んでいく。鳥海率いる艦隊で、その数は三十四。
負傷者を収容している出雲型は後方海域で護衛と共に待機しているので、艦娘だけによる作戦行動だった。
鳥海と摩耶、高雄と足柄の重巡四人、それに川内型軽巡と六人の駆逐艦が前衛を務めている。
その後ろを武蔵を除いた戦艦部隊が続き、殿には那智と羽黒、球磨型と白露型と夕雲型の一部がついていた。
電探の技術が発達していても、夜陰に紛れての攻撃は今なお有効性を残している。特に航空機による攻撃を心配しないでいい点は大きい。
機動部隊の第三次攻撃時に復旧し始めていた春島は集中して叩かれ、港湾棲姫は夏島で姿を確認されているので、最初の攻撃目標は夏島に決まった。
以降、秋島と冬島にも砲撃を行って必要に応じて三島に再攻撃、あるいは西にある七曜島に艦砲射撃を加えることになった。
敵艦隊と遭遇した場合はこれも撃滅し、交戦の結果によって弾薬の消費量が多ければ帰投し補給を受ける手はずになっている。
あと十分ほどで戦艦たちが夏島を有効射程圏内に捉えようという時、砂を噛むような空電の音が艦娘たちのイヤホンに入ってくる。
空電の音は唐突に止まった。
『来ルナ』
その声に何人かが背筋を伸ばすように体を震わせる。
「ここまでやってきたのに冗談でしょう。ねえ?」
足柄が言い返す。この場にいる艦娘の総意でもあった。
『来ルナト……言ッテルノニ!』
最後通牒と取れる言葉から、きっかり十秒後。夏島から発砲の光が五つ生じる。
砲撃は鳥海たち前衛の頭上を飛び越えて、後方の戦艦部隊に着弾する。
付近は深海棲艦の庭になっていたこともあって砲撃の精度は高かった。直撃弾こそ出なかったが複数の艦娘に至近弾が出る。
「総員、戦闘用意!」
鳥海が無線封鎖を解くと、艦隊も一斉に目覚めたように応答する。
「二時と十一時方向の沿岸部に艦影発見! タ級ないしル級、少なくとも三! 他にも多数!」
「よく見つけてくれました、綾波さん!」
川内がすぐさま興奮した声で鳥海に聞く。
「夜戦? 夜戦だよね!」
「はい、夜戦です!」
「よーし! 那珂の敵も討つ!」
「敵って姉さん、那珂ちゃんは健在ですよ」
「そうだよ! 那珂ちゃんはピンピンしてるんだから!」
呆れる神通に、反論する那珂。しかし那珂の顔は包帯――川内のマフラーで覆われている。
「まるでミイラだね」
「覆面じゃない?」
島風と天津風が好奇の視線をそそいでいた。
川内は当然とばかりに答える。
「アイドルは顔が命なら、このぐらいはしておかないとさ。空襲の時には火傷もしたんだし」
「だからってやりすぎだと那珂ちゃんは思うな。ケガする前にケガしてるみたいで」
「ひとまず那珂ちゃんさんのことは置いてください」
話をさえぎり、確認の意味も込めて鳥海は伝える。
鳥海の艤装にいる見張り員も敵の居場所を捉え、おおよその距離を割り出していた。
「予定通り、島と港湾棲姫への攻撃は戦艦のみなさんにお任せします。その間、私たちは比較的近い十一時の敵艦隊から叩きます」
二時方面の敵には那智たちを当て、了解の声を聞いてから鳥海は続ける。
「混戦が予想されるのと陸上からの砲撃もあるので、探照灯の使用は控えてください。各隊、僚艦の位置を意識して常に互いがいるのを忘れずに!」
鳥海は一呼吸はさみ、そして声を張る。
「それではみなさん――」
「夜戦の時間だあああぁぁっ!」
「ちょっと姉さん!」
「いいんです。私も夜戦は好きですから。みなさん、存分に暴れてください!」
鳥海はすっかり乗り気になっていた。
神通はため息をつくような反応を見せるが、表情はどこか嬉々としている。
「……同類でしたか」
「夜戦が嫌いな艦娘なんていませんよ。摩耶、島風、天津風さん。行きましょう!」
「ああ、ずるい! 夕立、時雨! あたしに続け!」
「ナイトパーティーも素敵にしましょ!」
「那珂ちゃんの包帯が羨ましいね……あれなら雨が降っても汚れない」
「なんか物騒だよ、時雨ちゃん!? あとマフラーだからね?」
「遅れてますよ、那珂ちゃん!」
「私が妙高姉さんの分も働かないと……飢えた狼の実力、目に物見せてやるわ!」
「気負いすぎないでね、足柄。綾波と敷波は側面に!」
「綾波、あんたは言われた通り前に出すぎないでよ? 後ろを守るのも大変なんだからさ」
「分かってるよ、敷波。さあ行こう! まずは照明弾から!」
「ほんとに分かってるのかよ……」
戦意の高い前衛は当たるを幸いに深海棲艦に強襲をかけていく。
深海棲艦も数で押し立てて反撃を試みるが、勢いを止めるどころか逆に頭数を減らされていった。
鳥海は先行しながら通常の砲戦よりもさらに距離を詰めて、砲撃を加えていく。
タ級二隻をすでに沈め、今また魚雷を撃たれる前にチ級雷巡を藻屑の一つに変えている。
鳥海には敵の攻撃も集中していて、大口径砲の直撃こそ避けているがロ級やハ級といった駆逐艦の砲撃が何度か艤装を傷つけていた。
撃ち返す形で鳥海や護衛の島風たちの砲撃が、深海側の駆逐艦たちを逆に沈めていく。
鳥海はさらに別のタ級戦艦を見つける。赤いサメのような目をしたタ級は砲塔を巡らすが、すでに鳥海は射線上から外れていた。
戦艦と言っても全身が堅牢ではない。艤装で守られているが、ル級にしてもタ級にしても生身部分の下腹部より下は比較的脆い。
鳥海は砲撃を受ける前に十門の火砲をそちらに集中させる。
直撃弾を受けてタ級が姿勢を崩すと一気に肉薄し、互いの砲撃が交錯する形で撃ち合った。
かすめた砲弾が鳥海の髪を巻き上げる中、さらに直撃弾を受けたタ級は支えを失ったように海中に沈んでいく。
一息つく間もなく横から飛びかかってきたロ級を横転するように避けるなり、高角砲で海面を叩くように撃ち返して沈める。
鳥海は周囲を警戒しながら僚艦の様子を、そして戦場全体の戦況を確認しようとする。
摩耶と島風は複数の軽巡を沈め、天津風が援護に回りながらも行き足が遅れ気味になっているのを見てペースを落とすのも考える。
前衛の戦況は艦娘が押しているが、戦艦部隊が苦戦しているのは通信から分かった。
長門とビスマルクは損傷により戦列から離れ、日向とリットリオは主砲の一部が使用不能にまで追い込まれている。
『砲台は残り二つ。怯まないで!』
陸奥の号令の下、戦艦部隊は砲戦を継続している。
鳥海に合流した摩耶が訊く。
「どうする、あたしらも島に?」
「そうね……でも、私たちの主砲じゃ力不足かも」
その時、天津風が何かに気づく。
「待って、連装砲君が何か見つけたみたい。二時の方向、島に……あれって姫じゃない?」
戦艦部隊と砲台の砲戦は未だに続いていたが、天津風が見つけたのは間違いなく港湾棲姫だった。
姫はいくつもの砲塔を鈴なりにした艤装に似た装備を背負ったまま、物々しさに反して軽やかに着水する。
海に入った姫の周囲に呼応するように、金色に目を輝かせたル級とリ級も次々と姿を現す。
「逃げようって腹か!」
「そうはさせません! みなさん、姫を発見しました! 位置は――」
言い終える前にリ級の一隻が鳥海に探照灯の光を浴びせる。突然の強烈なハイビームに鳥海は顔を手で隠すが、間に合わずに視力を奪われた。
鳥海たちは一箇所に留まり続ける愚は犯さなかった。
すぐさま摩耶が前に出てリ級に砲撃を浴びせるが、リ級は照らすのをやめない。
そして鳥海だけにでなく、至る所で深海棲艦たちは探照灯を艦娘たちに向け始めた。
光の照射先は無作為だったが、照らされた艦娘たちには砲撃が集まってくる。
直感で縦横に動く鳥海を狙って、ル級とリ級の砲撃が追うように夜の海に黒い水柱を噴出させていく。
直撃こそ避けているが、破片や至近弾が艤装を叩きへこませ、アンテナを折り曲げ、ジャケットやスカートを痛めつける。
「っ……せっかく夜目に慣れてたのに!」
敵に集中的に狙われてる現状よりも、視力を一時的に奪われたのが鳥海の戦意をかき立てる。
港湾棲姫はわずかな護衛を伴って包囲を突破しようと移動を始めている。
摩耶の放った一弾が探照灯を放っていたリ級に直撃し沈黙させた。
すぐに別のル級が今度は島風を探照灯で浮かび上がらせる。
「おぅっ! やめてってば!」
島風はすぐに光の照射範囲から逃れるが、ル級はなおも追ってくる。
深海棲艦の狙いは明白だった。港湾棲姫を逃がすために進んで囮になって時間稼ぎをしようとしていた。
「鳥海、姫を追え!」
島風を狙うル級に砲撃しながら、摩耶が叫ぶ。
「けど!」
「けど、なんだ! こっちは三人でどうにかできる。だったら一番腕の立つやつが追ったほうがいいだろ!」
「そうよ。それにあたしにも活躍させてよ。あなたたちと戦えるって証明させて」
天津風が摩耶を援護する。
鳥海はそれでも躊躇ったが、迷いをすぐに捨てた。迷ってる時間が一番危険で無駄で、それなら動いたほうがいいと割り切って。
「ここはお願いします!」
「おう! とっとと片付けて合流するからさ」
鳥海は反転し港湾棲姫を追い始める。距離を取られたとはいえ、姫たちの速度は二十五ノット程度で十分に追いつける位置だ。
一方の摩耶たちは砲戦を行いながら、進路上に味方艦がいないのもあって雷撃に移ろうとしていた。
速度の優位性を生かして、斜め後方に回り込んで射線上へと突入を始める。
「……ねえ、天津風。さっきのどういうこと。証明したいって」
「今する話?」
三人はすでに雷撃体勢に入っている。ル級だけでなく、姫と一緒に現れた他の深海棲艦も射線上に収まっていた。
ル級たちは探照灯だけでなく反撃の応射も始めるが、砲撃は海面を叩くばかりだった。
あとは距離を縮めて発射すれば当たるのを祈るばかりだ。
少しの沈黙ののちに天津風は答える。
「島風と連携が取れるからって原隊から外されて組まされたのはいいけど、三人ともやたら練度高いし……」
「お前、そんなこと気にしてたのかよ」
摩耶の声が無神経に聞こえて、天津風は視線は敵から逸らさないが口は尖らせる。
「そんなことって何よ! あたしには十分な悩みよ。自分だけついてくのがやっとなんて」
「なんかごめん……」
「島風のせいじゃないわよ。あたしは泣き言ならべてる自分ともお別れしたいの!」
「ま、頑張りな。そういう気持ち、分からなくもないし」
「上等よ。いい風吹かせてやるんだから!」
そうして放たれた魚雷はル級や後方にいたリ級を足元から食い破った。
「やった! 見た、二人とも? あたしだってできるんだから!」
「うんうん!」
「よーし、油断せず行くぞ。こっちも姫を追わなきゃならないからな!」
実際には誰の魚雷が命中したのかまでは特定できないが、雷撃の成果は天津風に自信をもたらした。
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鳥海は港湾棲姫を右後方から追いつつ、各艦に現在地と姫を追ってるのを伝えた。
他の艦娘たちも姫を止めようと動くが、深海棲艦も持久するように動きが変わってくる。
港湾棲姫の護衛は一隻ずつ隊列から離れて、進路上の艦娘たちを砲戦に引き込んでいた。
ほとんどの艦娘たちが足止めを食らい満足に動けない中、鳥海は港湾棲姫を追う。
護衛が迫ってこないので次第に距離が縮まり始める。
砲戦距離には入っていたが砲撃は始めない。迎撃がないなら近づけるだけ近づいて――できれば雷撃の必殺距離まで到達しようと鳥海は考えていた。
その時、港湾棲姫が鳥海を振り返る。姫の背負う右側の砲塔が鳥海へ指向していた。
狙われている。という思いに鳥海の背筋に悪寒が走った。鳥海が斉射を、港湾棲姫が右側にある砲塔を撃ち放つ。
より弾速の速い港湾棲姫の砲撃が先に到達する。
正面、そして上から殴りつけるような振動が鳥海を襲う。
「うぁっ! やっぱり姫は手強いわね……」
鳥海本人は幸運にも悲鳴ですんだが、艤装は運に恵まれていなかった。
左舷側の二基の主砲は基部から吹き飛ばされ、高角砲群も全滅。
火災も発生し延焼を防ぎ鎮火するために、海水を使った自動消火装置も作動し始める。
火力の四割を失ったが、鳥海の体は無事だったし機関部にも損傷はなかった。
逆に港湾棲姫も砲撃を回避しようとするが次々と被弾していく。しかし当たった弾のほとんどは厚い装甲に阻まれ弾き返されてしまう。
装甲の薄い舷側に当たった一発だけは艤装に穴を開けたが、港湾棲姫の撤退を阻めるような損傷でもない。
『鳥海、こちらも姫を追撃するわ。状況を教えて!』
高雄の声が鳥海に届くと、すぐに位置関係を伝える。
鳥海は砲撃を続けながら弧を描くように転進して港湾棲姫の真後ろにつける。死角に回れば砲撃の手が弱まると考えて。
『損傷を受けましたが、まだ戦えます。それと強敵なので気をつけてください!』
『強敵なのは分かりきってることじゃない』
たしなめる声音に、鳥海は頭を冷やそうと胸中で思いながら進路を変える。高雄たちを含めた位置関係を考えて、港湾棲姫の真後ろから側面へと。
港湾棲姫は撃ち返してこないが、砲撃を避けるように向きを変える。
『今から姫をそちらに誘導できないかやってみます!』
砲雷撃で港湾棲姫の進路を誘導する。
港湾棲姫も砲撃を避けるように動くので誘導は不可能ではなかった。
しかし鳥海の胸中には疑念もある。
「どうして逃げるの?」
敵わなければ撤退する。それが当然でも、その方法が鳥海には引っかかっていた。
同じ撤退でも進路上の相手を排除しながら撤退すればいいはずだし、自分のような追っ手は邪魔なはずなのに、と。
回避行動にしてもそうだった。鳥海の砲撃がほとんど有効打になっていないのに避けようとしている。無視して突っ切れば、もっと早く移動できる。
弾か燃料が少ないのか、それとも経験が足りなくて判断を間違えているのか。鳥海は理由を推測するが確証に繋がる材料もなかった。
いずれにしても撃つと決めた以上、鳥海は無事な右舷側の主砲を撃ってから魚雷を放射する。
砲撃を避けようとするなら雷撃も避けようとするはずだが、包囲しようという動きに気づいていれば動きも変わるかもしれない。
港湾棲姫は雷撃から逸れる角度を取ると、そのまま直進する。正面から迫る高雄たちを突破する形だった。
高雄以下の砲撃を受けながら港湾棲姫も反撃する。最も火力があるのを足柄と見て取って、彼女に狙いを定める。
瀑布のような水柱に足柄の体が包まれるが、すぐにそれを突き破ってくる。
「まるで扶桑型じゃない! けどね!」
十門の主砲をかざす足柄は皮肉ではなく狼のようだった。
「このぐらいで足柄が怯むとでも!」
主砲を斉射。と同時にほぼ直線上に十六本の魚雷を二度に分けて放つ。足柄はさらに主砲を撃ち続ける。
徹甲弾に続けて撃たれ、痛みに身をよじりながら身を守るように港湾棲姫は両腕で頭と体を隠す。
高雄たちの砲火も殺到し、岩を切り出すように砲弾が港湾棲姫の身と艤装を削っていく。
そこに足柄の魚雷が到達し連鎖的に水柱を上げる。港湾棲姫が苦痛に叫ぶ。二射目の魚雷よる水柱がその声もかき消す。
足柄は勝利を確認していた。少なく見積もっても魚雷が四本は命中したと見たからだ。
沈んでいなくても大破間違いなしと見なして。
しかしそれは間違いだった。
「カン……ムス!」
港湾棲姫が足柄に向かって突進してくる。その速度はまったく衰えていない。
姫は目を赤く光らせ、かぎ爪のような両手にも赤い光をまとわせている。
間違いなく傷ついていた。白い体の至る所には黒い体液がにじみ、額の角は根本から折れている。
艤装らしき装備もねじ曲がったように見える主砲があるし、黒く汚れた穴もいくつか空いていた。
それでもなお港湾棲姫は健在だった。
「こんの!」
不意を突かれた形の足柄だったが主砲を浴びせる。
姫の体にまともに徹甲弾が命中するが止まらない。
港湾棲姫は激突するように迫ってくる。
「離れて、足柄さん!」
追いすがってきた鳥海が間に割って入る。
鳥海はとっさに左腕を盾代わりにしていたが、港湾棲姫の振り回した腕が鳥海の体を軽々とはね飛ばす。
「ああっ!」
「うにゃあー!?」
足柄が弾き飛ばされた鳥海にぶつかりながら、その艤装を掴んで倒れないように受け止める。
港湾棲姫は二人には目もくれずに再度の離脱を図る。
俯いた鳥海は詰まったような息を吐き出すと顔を上げ、港湾棲姫を睨む。
「ほうげき……砲撃です!」
鳥海が頭のアンテナに装備している探照灯で港湾棲姫を照らし出す。
闇の中で夜明けのような光が港湾棲姫の後ろ姿を露わにする。
禁止したはずの探照灯を使うのも、ここで打倒する必要があると感じたからだ。
素早く足柄が鳥海から離れ主砲を構える。鳥海もまた震えが残る右腕で艤装を操作する。
十六門の主砲が港湾棲姫の背中めがけて放たれ、後ろから撃たれた姫はそのまま海面に倒れ込むと海中に沈んでいった。
「やっ……てない! 潜られた!」
足柄が叫ぶ。そこに高雄たちも集まってくる。
「ねえ、ソナーで追えないの!」
「こんなに海が騒がしいのに、サンプリングもできてない音を拾えとか……やってはみるけどさ」
敷波が無愛想に答える。望みが薄いのは明らかだった。
「……ありがとう、助かったわ」
「い、いえ……」
足柄が鳥海に感謝するが、鳥海は俯いたまま声を抑えている。
「あなた……!」
鳥海の左腕は力なく垂れ下がっていた。左腕の骨は折れていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
夜戦の結果を受けて三隻の出雲型は空が白み始める前に移動を始め、午前の間に深海棲艦の姿が確認されていない夏島への上陸が行われた。
上陸した工兵たちは荷揚げ用の場所を確保し、仮組みではあるが指揮所も設置し始める。
提督も出雲から降りて、陸軍側の士官たちと打ち合わせながら監督をする。
タオルで汗を拭う提督に黒い影が差しかかり、エンジン音が唸りを残して通り過ぎていく。
釣られて見上げると二式大艇が哨戒のために飛び立っていくところだった。
ようやく働きどころが来たと張り切っていた秋津洲の顔を思い出しながら、提督は汗をもう一度拭う。
トラック諸島は常夏の島々で、赤道直下に近いので紫外線も強烈だった。
あまりの暑さに提督は軍衣のボタンを全て外して開いている。見栄えを気にしていられない。
テントを張り巡らして負傷した艦娘のための安息所も用意し、今は突貫工事ではあるが飛行場を建設し始めていた。
出雲たちが運んでいたのは戦闘機隊だけだが、妖精たちの陸上航空隊を運用することで守りを固められる。
他にも地質調査が始まり、対空対水上電探の設置も始まった。
昼過ぎになると輸送艦隊の鳳翔から発した彩雲が書簡を投下していった。
前日未明にグアム島を出発した輸送艦隊は無線封鎖を維持し、提督もおおよその位置しか把握していない。
書簡は鳳翔直筆で輸送艦隊の現在地や予想航路、トラック諸島への到着予定、そして提督や艦娘の安否を気遣う言葉が書かれていた。
後でこの手紙を艦娘たちにも読ませようかと頬を緩ませる提督だったが、胸中には気がかりもある。
まず輸送艦隊の到着予定が真夜中だった点。根拠はなかったが厄介だと提督は感じた。
とはいえ輸送艦隊は高速修復材やそれを扱う専用の設備、艦娘用の弾薬や重油を満載している。
それらは一刻も早く使えるようにしたいのが本音だったし、夜間ならば艦載機の爆撃を心配する必要もない。
出雲型に探照灯を積んで夜間の作業を支援し、工兵たちにも深夜のためのローテーションを組んでもらえばいい話だ。
しかしもう一つ懸念があった。
機動部隊が朝になって深海棲艦の機動部隊を捕捉し撃滅している。
ただし新型艦載機を含んだ部隊ではなく、まだどこかにそれらを擁した部隊が残っていた。
偵察機を方々に散らせているが成果は出ていない。
逃がした港湾棲姫も含めて行方不明の深海棲艦たちがどう出てくるのか提督には読めなかった。
大勢は決したように思えるが、輸送艦隊を襲撃され大きな被害が生じれば形勢はひっくり返る。
提督は不安を抱えていたが、輸送艦隊に向けて「航海の無事を願う」と無線で応えた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
日の暮れたトラック諸島。
二百四十八ある島々のとある一島の海岸に女がいた。
明かりもなく闇に浮かぶ女はまだ少女と呼んでもいい外見だったが、太陽の下で見れば肌が病的なまでに白いのが分かるだろう。
深海魚と虫の中間のような外観の深海棲艦を帽子のように被り、またその皮膚はマントのように少女の背中にも伸びている。
煌々と輝く満月のような右目と人魂のように蒼く燃えるような左目の少女はヲ級と呼称される深海棲艦の空母で、まだ人類にも艦娘にも認知されていないが後にヲ級改として呼ばれる一人だった。
「ヲッ!」
ヲ級は闇に目を凝らしながら鳴くような声を発する。すぐ後ろには一人の女が横たわっている。
白い女、港湾棲姫だ。体は砲雷撃で傷つき、黒い血が体にこびりついて固まっている。
二人の肌の白さは陶磁のように美しいが、どこかで水死体を思わせる冷たさも有していた。
もっともヲ級は元より港湾棲姫にも息はある。港湾棲姫の豊かな胸が呼吸に合わせて上下していた。
「ヲッ……起キテ、クダサイ」
ヲ級は正面を見つめたまま、目を覚まさない港湾棲姫に呼びかける。
傷ついた姫を守るためにヲ級は一人留まり、護衛についていた。
港湾棲姫はそこで目を覚ますと、状況を察して体を起こす。傷のせいでその動きはゆっくりとしていた。
二人の前にある海面に波紋が広がっていく。
「手酷クヤラレタワネエ」
波紋の中心から二人の女が姿を現す。どちらも美しい女だが、一目で人間でないのが分かるほど異彩も放っている。
あざ笑うのは長い白髪とその一房をサイドにまとめた白い女。
美しい女であっても、目元や口元に隠しきれない嗜虐性が張り付いている。
黒く染まったセーラー服に甲冑と奇妙な取り合わせで、黒く塗られた艤装に腰かけていた。
艤装はサメさながらに伸びた艦首に巨大な口がむき出しで、単装砲と飛行甲板で身を固めている。
そのすぐ後ろに現れた女は、巨大な口と両腕を持ち両肩に三連装砲を載せた野獣を思わせる艤装を背負うように装着していた。
こちらの女は額に二本の角、胸元には黒い四本の突起が生えていた。
肌こそ白いが膝まで届く黒髪をなびかせ、黒のナイトドレスとチョーカーを身に着けている。
港湾棲姫やヲ級と違い、後から現れた二人は黒の女と呼べる見た目だった。
前者は空母棲姫、後者は戦艦棲姫として遠からず人類から呼ばれるようになる二人だ。
「セッカク助ケニ来テアゲタノニ無様ダコト。多クノ同胞ヲ失ッタドコロカ拠点一ツ守レナイナンテ」
「スマナイ」
「何カラ何マデ甘イノヨ。ダカラ艦娘ゴトキニイイヨウニヤラレル」
空母棲姫のそしりを港湾棲姫は甘んじて受け入れるしかなかった。
港湾棲姫と空母棲姫の間に立つヲ級は、ひたすら静かに空母棲姫を見ている。内に宿った敵愾心を表に出さないように努めながら。
そして空母棲姫の後ろに立つ戦艦棲姫も無言のまま深手を負っている港湾棲姫の姿をみつめている。
そうして物欲しげに吐息を漏らしたのには誰も気づかなかった。
「ソンナニ艦娘ハ手強イノカシラ。私ガ想像スルヨリ?」
「チカラヲ着実ニ蓄エテイタノハ間違イナイ。ソレニ人間モ過小評価シテイタ」
「人間! 他ニ言イ訳ハナクッテ、≠тжa,,」
空母棲姫は港湾棲姫の名を出すが、その名前は人間には発音できないし正確に聞き取れない言葉だった。
「事実ダ。我々ハ人間ニ対シテ、アマリニ無頓着スギル」
「フーン、マアイイワ。≠тжa,,ハオ供ト一緒ニ帰リナサイ」
「オ前タチハドウスル?」
「人間タチノ輸送船団ガソロソロ到着スルハズ。コノママ素直ニ明ケ渡スノハ面白クナイワネエ」
「私モ……一戦交エテミタイ」
それまで一言も発しなかった戦艦棲姫が意思表示をすると、空母棲姫も愉快そうに口元を手で覆う。
「今夜ハヤメテオキナサイ。負ケ戦ニ付キ合ウ必要ハナイワ」
「私ハ構ワナイノニ」
「イズレ相応シイ時ヲ用意シテアゲルワ。今ハ連レ帰ッテアゲナサイ」
戦艦棲姫は頷くと先導するように移動を始め、港湾棲姫とヲ級が庇いあうように続く。空母棲姫は笑みを浮かべたまま見送った。
三人が波間に姿を消すと、空母棲姫の周囲にいくつもの影が姿を現す。
直属の配下となるル級戦艦やリ級重巡。そして一番多かったのは二本角を生やした悪魔のような頭部を持った小鬼たちだった。
空母棲姫は早口で命じると、集まっていた深海棲艦たちは一斉に行動を始める。
それからしばらく空母棲姫は漂うに身を任せていたが、やがて手を空へと掲げる。
「サア、オ前タチ。役目ヲ果タシナサイ。ソノ身ヲ懸ケテ……フフフ、ソノ身ヲ捨テテ」
艤装の甲板を艦載機が滑り落ちるように飛び出しながら、次々と空へ舞い上がっていく。
渦を巻くように編隊を組む艦載機の集団は、凶事を誘う黒い風のようだった。
グラスホッパーを読んだ影響ってことで大目に見てください(´・ω・`)
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
日付が変わってしばらくしてから輸送艦隊が到着した。道中、妨害は受けなかった。
今は探照灯の光が照らす中、物資の積み下ろしが段階的に進んでいる。
提督はその作業を出雲の甲板上から眺めていた。といっても人が動いてるのを辛うじて認識できる程度だ。
日中に比べれば暑さは和らいでいるし、海風が吹いているので涼しい夜だった。
「今日は月が出てて、いい夜ね」
提督が後ろを振り返ると足柄がいる。休んでないのか、と真っ先に思う。
腕を組んで足音を響かせながら、五歩分ほどの距離を開けて足柄は隣に並ぶ。
「昨日は月が隠れて大変だったわ。ちょっと先も真っ暗で、ここから集積所ぐらい離れてたら見えなくなってたわね!」
提督は相槌を打つと集積所と足柄を交互に見た。
なんでこんな話をしているのか。というより何を言いたいのか。無理に話そうとしてるように提督には見えていた。
「何か用があって来たんだな?」
「う……まあ、そうなんだけど。提督にお礼を、謝ろうと思って」
「どっちだ?」
「じゃあ……謝ろうかな」
足柄は敬礼のように姿勢を正すと頭を深く下げる。教範で示されるような模範的な動きだった。
そのままの姿勢で足柄は言う。
「指輪のこととか港湾棲姫も逃がしちゃったし、ごめんなさい」
提督は言葉に詰まるが、すぐに頭だけは上げさせた。
「どっちも足柄が謝るようなことなんてあったか?」
純粋な疑問だった。
指輪は提督が一方的に言い出した話で、受け取りを断った足柄が悪く感じる必要はない。
むしろ作戦前に無用な混乱を招くような真似をした提督こそもっと非難されるのが筋だ。
港湾棲姫にしても交戦していたのは足柄一人ではないし、取り逃がした責任を負うのなら提督になる。
敵情の把握や見通しが甘く、装備の選定も不安定だった点は見逃せない。前夜の夜戦でも艦娘の支援をできていなかった。
結果を出せただけで、問題の発端は己の資質ではないかと考えてしまう。
「やっぱり足柄が謝ることは何もないな」
言い訳に聞こえなければと考えながら言う。
「この作戦は上手く勝てたんだ。それでいいじゃないか」
「うー……確かに勝ったけど、港湾棲姫も倒せてたなら完璧だったのに」
「そこまで望むのは望みすぎじゃないか」
「五分でよしっていうやつ? 勝てる内にどんどん勝ったほうがいいじゃない」
勝利が一番。きっと足柄が言いたいのはそういうことだろう。元から足柄は勝利にこだわっている。
と号作戦の目的はトラック諸島の奪還だ。そのために港湾棲姫の撃破が必須だったが、それは撤退させた段階で成功しているとも。
計画された形でなかっただけで目的という点では達成されていた。
何よりも提督が気に入っている点がある。
「誰も沈まなかったんだ。俺はそこに一番価値を見出してる」
負傷者はいるが戦没者は誰一人としていない。
当たり前のことだろうか。そう思ってないから気に入っている。
掛け値なしのいい結果。だが提督にも思う部分がある。
「しかし、なんだかな……もう少し色々できると思ってた」
「何、どうしたの?」
「反対も説き伏せて前線にまで出てきたのに大したことができなかった。ただの独り相撲だったかもな」
やれることが十あると思っていたら、実際には五とか六程度の成果しか残せなかった。
失望か落胆か、提督には自分というのが期待はずれという実感が広がっている。
「そんな風に悪く言うもんじゃないわ」
足柄は諭すように、子供に教えるように言う。
「提督がいなかった場合の結果は誰にも分からないのよ。提督がいても、私たちは誰も沈まなくてよかったんでしょ? だったら、いいじゃない!」
慰められてると気づいて、これで貸し借りみたいなのはなしだとも提督は思った。
足柄が横を向き、提督もそちらを見ると鳥海が近づいてきていた。
左腕を三角巾で吊るしているのに目が行くが、それ以外は普段から見る姿だ。
鳥海は提督とも足柄とも少し離れた位置から話しかける。
「もしかして、お邪魔でしたか?」
足柄はおかしそうに笑う。
「お邪魔虫は私のほうでしょ。そんなところにまで気を遣わなくていいのよ」
「はあ……」
鳥海は曖昧に答える。よく見ると右手にはラムネの瓶を二本持っていた。
「なんか色々話してたらすっきりしたわ。二人とも、お休みなさい」
言葉通りに機嫌よさそうに笑いながら足柄は提督と鳥海に手を振ると艦内に戻ってしまう。
その後ろ姿をしばらく見送ってから鳥海は提督のすぐ隣に並ぶ。
「どうしたんです、足柄さん?」
「カツを入れてもらってた。足柄だけに」
「はあ……?」
「今日はいい夜ってことだ」
鳥海はよく分からないとばかりに首を傾げた。
提督は一人でおかしそうに笑うと鳥海の右手に視線を落とす。
「そのラムネは?」
「長門さんに分けてもらいました」
鳥海は一本を提督に差し出しながら言う。
「一緒に飲みたいと思って……」
声のトーンが下がっていったのは折った左腕を意識したかららしい。
鳥海は上目遣いに提督を見る。
「司令官さん、私の分も開けてもらえませんか……?」
「喜んで」
いっそ口移しで、とは言わない。拒まれないのは分かっていたにしても。
片手でも開けられるのに、とも提督は言わない。
鳥海に甘えてもらえるのは悪い気がしなかったからだ。
提督は栓を開けた自分の瓶を鳥海のと入れ替える。鳥海は照れたように笑っていた。
「左腕は痛まないか?」
「大人しくしてる分には平気ですよ。響かせると痛くなりますけど」
「となると戦闘は控えたほうがいいな」
「……痛くなるだけですよ?」
「闘争心に溢れた秘書艦なことで……」
それでも今夜はもう戦闘はないはずだと提督は高をくくっていた。
日中に深海棲艦は一度も姿を見せず、夜間なら爆撃機が飛来する可能性も低い。
「今夜はゆっくり休めそうだ」
その予想は三秒後に裏切られた。
敵艦隊発見を意味するサイレンが出雲の艦内中に鳴り響いて。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
動ける艦娘たちを展開させて、出雲も今や自由に動ける状態になっていた。
発見した敵艦隊は南方から接近していて、秋島に設置した電探に引っかかった。
艦種はル級戦艦とリ級重巡とそれなり以上の大型艦、そして未確認の反応が大多数を占めている。
連日の戦闘を思えば小規模の敵だったが、襲撃のタイミングのよさと未確認の敵の存在は得体が知れなかった。
いずれにしても無視はできない。
こちらと同じように艦砲射撃を考えているのなら、この数でも十分に脅威だ。精度を考えなければ射程も長く取れる。
合流した輸送艦隊からも戦力を抽出して二十四人を先行させ、さらに十二人を備えとして送る。
左腕を骨折している鳥海も当然のように先行組に加わっている。
彼女の場合、艤装も左側の兵装を失ったままだが、それでも五割以上の火力を残していた。
提督は心配こそしたが、出撃を止めなかったし不安も口にしない。
提督にとって鳥海はいつだって信頼に応えてくれる相手だった。
「輸送船の退避状況は?」
出雲の艦長が苦い顔で答える。
島のほうでは灯火管制が敷かれているので、順調に進んでないのは提督も予想していた。
「思わしくないですな。エンジンを切っていた船もあって動きが鈍い」
「そういう船は後回しだ。動ける船から順次、艦娘に誘導させる。焦って船同士で衝突しなきゃいいが」
提督は空母を中心に陸に上がったままの艦娘たちがいるのも思い出し、そちらや工兵たちにも集積所や設営所から避難するよう命じる。
輸送船の退避が思うように進まない内に、敵艦隊に動きが生じた。
電探のスコープ上では、未知の敵ととされる輝点が一斉に増速し突撃してきた。
しかも、ばらつきはあるが四十ノット以上は確実に出ている。
艦娘の動きにも乱れが生じる。いきなり混戦に持ち込まれてしまっていた。
「鳥海、敵の情報を教えてくれ」
『敵は新種、小さな鬼です!』
敵情を伝える鳥海の通信が入り、提督はそれを全ての通信網と共有させる。
鳥海の輝点は戦線からやや離れて、状況を俯瞰しようとしているようだった。
『速度は約四十五ノット。島風より速いし、小さくて当てづらいです! 小口径砲と魚雷が多数! ル級からの砲撃も確認!』
回避と反撃を行っているのか、ここで通信が一度止まった。
小鬼と呼ばれた新種はいくつか反応を消失させていたが、先行艦隊を突破しつつある。
この速度差では一度でも突破されたら追撃は困難だった。射程外に抜けるまでは時間があるが、今回は大型艦が控えている。
鳥海からの通信が復旧する。
『機銃でも三式弾でも、とにかく弾幕を! 当たりさえすれば、どうとでもなります!』
「了解した。突破された分はこちらで対処するから、そのまま大型艦の迎撃を頼む」
提督は輸送艦の護衛についていた艦娘たちにも戦闘準備をさせ、輸送船の避難も急がせる。
時間の猶予はあるように思えたが、事は上手く運ばなかった。悪いことはすぐに続く。
『敵航空隊発見。約二百機』
秋島の電探が厄介な一報を伝えてくる。すぐに方位と高度も伝わってくる。
発見された機影は敵艦隊の後方より接近し、高度は三千まで上昇していく。電探の探知圏内に突然現れた集団だった。
提督はその動きから機動部隊の仕業だと確信した。実際には空母棲姫単独ではあるが艦載機が相手という点では間違えていない。
移動速度から夏島に到達するまで二十分程度しかない。
提督は陸に上がっている機動部隊に通信を繋ぐ。
「夜間戦闘ができる戦闘機を全部上げろ! 誘導はこっちでやる!」
『分かりました、稼動全機を発艦させます!』
「全機? やれるのか?」
通信に応じたのは赤城だが、提督の疑問に答えたのは加賀だった。
『みんな優秀な子たちですから』
「よし、当てにするぞ。着艦は夏島の飛行場を使えるようにしておく」
『無事に守り切れれば、ですか』
その通りだった。守りきるのは難しい。
小中規模の爆撃機ならまだしも、夜間にこれだけの数の艦載機から攻撃を受けるとは提督もまったく考えていなかった。
提督は妖精の航空隊にも時間の許す限り機体を発進させるよう伝える。
こちらは夜間戦闘もこなせる練度の機体は少ないが、地上に駐機したままよりはできるだけ空に上げておきたかった。それならせめて抵抗はできる。
「こんな真夜中にどうやって収容するつもりだ……いや、帰ってこなくていいのか?」
まさかとは思ったが、使い捨て感覚で出撃させた可能性に提督は怖気が走った。
「……被害を顧みない深海棲艦らしいやり口か」
推測でしかないが確信のように感じた。そして提督は反感もまた抱く。あるいは憤りを。
そんな相手にいいようにさせるのは提督としては面白くなかった。
だが現実には空海の両面から同時攻撃に近い形で狙われている。
被害は間違いなく生じ、提督にできるのはそれをいかに小さくするかの算段だけだった。
提督はふと足柄とのやり取りを思い返す。自分にとっての勝利とは何かを。そして、この作戦の目的を考えてみる。
どうすれば両立できるのか考え、提督は指揮官がやるべきでないことを思いついてしまう。
それは提督が反感と憤りを抱いた深海棲艦の手段とそう変わらないものでもあった。
やめたほうがいいと自制する内なる声を無視して、艦長に意見を求めていた。
命令でないのは自分一人の都合じゃないと、どこかで理解していたからかもしれない。
あるいは結託する仲間がほしいという心理かもしれなかった。
艦長は話を聞くと目を丸くして、それから口角を吊り上げて不敵に笑った。
「面白そうじゃないですか。提督殿には退艦していただきたいところですが」
「もう時間がない」
「ありませんな」
取って付けたような言い訳に艦長も乗っかる。
提督はすぐ妖精たちにも同じ話をした。
承服できないようなら退艦させればいいとも考えていたが、そうはならないとも踏んでいる。
提督は作戦前に会った妖精の言葉を信じていた。妖精は艦娘のためにあるという言葉を。
そして妖精たちからも賛意を得られた。
この間にも状況は進んでいる。
夜空では戦闘機同士の空戦が始まり、小鬼の集団も確実に迫ってきていた。
足元から伝わる振動が変わり、艦体が一度大きく傾いでから水平に戻る。
出雲は増速すると夏島から遠ざかるように針路を取る。
護衛についてた艦娘は連絡なしのその動きに出遅れた。
追おうにも出雲型の最高速は三十二ノットに達するので、駆逐艦であっても追いつくまでに時間がかかる。
出雲は夏島と接近してきた小鬼たちを横切るように進み、出し抜けに小鬼たちに探照灯を向けた。
イ級よりも小さく、それでいて禍々しい姿が浮かび上がる。
提督はその姿にヤギの頭をしているという悪魔を連想した。
小鬼は全てではないが、光に吸い込まれるように出雲へと向きを変える。
艦娘たちからは明かりを消すよう呼びかけられるが提督は無視した。
その代償はすぐに支払われた。
子供の金切り声のように甲高く笑いながら、小鬼たちは砲撃を始めた。
小口径砲でも装甲のない出雲には脅威だ。
殺到する砲弾が艦首から艦尾まで至る所を叩く。ハンマーで打ちつけるような衝撃に出雲の艦体は身震いした。
艦橋や缶室といった主要区画に命中しなかったのは幸運だった。
しかし砲撃は容赦なく艦体を痛めつけ、衝撃で提督は床に引き倒される。
倒れた拍子に額を切りつけ、血が早鐘を打つ心臓の鼓動に合わせるように勢いよく流れ出す。
提督は痛みを感じない。出血を自覚していても、分泌されたアドレナリンが痛みを忘れさせていた。
合流してきた護衛の艦娘たちも小鬼相手に砲戦を始めていたが、出雲の援護には回れていない。
その間にも予定通りに艦長は陸地に向かって舵を切る。攻撃で速力は落ちているが舵の効きは悪くないようだった。
よほどの強運に恵まれない限り、出雲が沈められるのは分かっていた。
敵を引きつけられるだけ引きつけて、あとは出雲を座礁させてしまおうという魂胆だ。
出雲一隻と引き替えに輸送船や集積所への攻撃をいくらか逸らせるのなら割に合う、というのが提督の出した損得勘定の答えだった。
その意図は理解してないが、小鬼の何人かは出雲の転舵に先回りをしてくる。提督は艦橋のガラス越しにそれを見た。
晒された横っ腹に雷撃をするつもりだ。それが分かっていても出雲からでは何も対処できない。
そこにさらに一発が命中し、出雲がその日一番の揺れを起こした。速力が見るからに落ちるのが分かった。
艦長が舌打ちをする。
「提督。覚悟はいいですか」
「ああ」
そんなのは初めからできている。と提督は思う。もう少しだけ持てば、とも考えたが。
とはいえ最初の砲撃を五体満足に乗り切れただけでも幸運だったのだと思った。
三本の魚雷が全て命中したら、この出雲はどれだけ浮かんでいられるか。一時間か、三十分か。それとも五分持たずに海中に引きずり込まれるか。
艦長には悪いことをした。体のいい巻き添えじゃないか。
死の危機に瀕すると走馬燈が見えるというが、そんなことはなかった。それとも、これから見えるのか。
何をもたついているんだ、あの小鬼たちは。外す距離でもないのに、そんなにのんびりしてたら――。
小鬼たちの横に赤い光が生じた。それは一つ一つは小さい光だったが数百はあった。束ねた火花が一斉に飛び散るような光景だ。
次の瞬間には火花は小鬼の魚雷に当たったのか、膨れあがるような火球を生み出した。
それは小鬼の体を呑み込んで、隣の小鬼にも爆発を連鎖させた。
三式弾が小鬼たちの間近で爆発したらしいと提督は気づく。
『薬指が……』
声が聞こえてきた。提督のよく知る声が。
『薬指がずっと痛くて、それで戻ってみたら……』
「鳥海……」
『あなたは何をやってるんです、司令官さん!』
砲撃の音が続く。小鬼を示す輝点の一つが消えていた。
『司令官さんは司令官らしく、ふんぞり返ってればよかったんです! それをこんなところまで出てきて!』
「怒ってる……よな?」
分かりきったことを聞いていた。聞かずにはいられなかった。
親に怒られると分かっていても話しかけないといけない子供の心境がこんなだろうか、と提督は場違いな想像をした。
『怒りますとも! だから!』
今や小鬼の脅威は遠のいていた。
数は依然多いのだが、この付近にいる小鬼に出雲を狙っている余裕はなくなっていた。
『だから、無事でいてください』
なんて声を出すんだ。これじゃとても敵わない、提督は心底から思う。
艦長がこの先どうするかを確認するように無言で見てくる。
どちらにしても出雲は座礁させるしかない。損傷を受けすぎていた。
あとはもう迎えに来てくれるのを待つしかなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
深夜に始まった戦いは夜の内に終わったが、状況が落ち着く頃には東の空が白み始めていた。
先の戦闘での被害は座礁した出雲と、輸送船二隻が沈没。一隻が炎上するも鎮火に成功。
夏島の被害は戦闘機隊が奮闘してくれたため被害は小さかった。
ただ包囲を突破した少数の機体は体当たりをしてまで攻撃してきたという報告が挙っていて、提督はその点に戦慄していた。
深海棲艦は襲撃が済むと早々に撤退していった。こちらを追い返すだけの戦力は初めからなかったらしい。
提督と艦長は甲板に出ていた。
座礁の影響で船体は斜めに傾いているが、歩くのに困るほどの傾斜ではない。
「よく無茶に付き合ってくれたな」
頭に包帯を巻いた提督は、無精ひげの目立ち始めた艦長に話しかける。
命令しておいて何を言ってるんだと、提督は自分で思ったが聞かずにはいられなかった。
「命令でしたので」
艦長はそう答えたが、程なく別の理由も付け加えた。
「別にフェミニストを気取るわけじゃないんですがね、少しは体を張ってるところを見せたかったのかもしれません」
なるほどと提督は思った。
男ってやつは単純で、女の前でなら少しはいいところを見せたくなる。
それは自分の立場がどうこうとか関係なく、もっと本能的なものだ。
艦娘が聞いたら呆れるか怒るかの二択になりそうだとも、提督は思ったが。
「提督こそ、あの時の艦娘とどうなんです?」
鳥海のことを言ってるのは明らかだった。
提督は左手を見せた。それで十分だと思ったからだ。
艦長は「ああ」と得心したような声を出した。
そちらこそどうだ、と聞き返しそうになって提督は思い留まる。
艦長の目が今ではない遠くを見ていたからだ。この質問は聞いたら最後、きっと地雷になるように提督には思えた。
代わりに違う質問をする。
「提督に興味はないか?」
二人目の艦娘が生まれはじめ、戦域もさらに拡大している。
早晩、鎮守府が複数設立されて地域ごとに分担されるようになるのは明らかだった。むしろ今までが遅すぎるぐらいだ。
だが人材はどうなのだろうとも提督は思う。
口利きできる立場ではないが具申はできる。
「俺らに拒否権なんてのはありませんよ」
「……そういう考え方もあるか」
話はこれで終わりだった。
鳥海を筆頭に迎えがやって来た。すぐ後ろでは高雄や摩耶がボートを曳航している。
提督は既視感に見舞われた。
ややあって、いつか想像した光景とダブったのだと気づく。
想像とはずいぶん違うが、鳥海は空と海の間にいた。
鳥海はこちらを見上げている。
どんな顔をしていいのか迷ってるみたいで、さっきから無事な右手が帽子と胸元を行ったり来たりしてる。
そうして鳥海は手を振ってきた。
怒られよう。そして謝ろう。
それで丸く収まるかは別でも、きっとそれが正しいのだと提督は思って手を振り返した。
この章が一番長くなりそうなので、この先はもう少し軽量化できると思います。たぶんきっと
全体の軸になるのは鳥海と提督ですが、次は白露とワルサメがメインの話となります
私の書く話は碌なことにならないのですが、お付き合いいただければ幸いです
いっちばーん!
……あれ? もしかして一番じゃない?
まあ、そんなことだってたまにはあるし。たまには。
ところで影響ってあるでしょ。他の人とか事件とかで何かが変わるっていうあれ。
一番影響したのは誰かって提督に聞いたら、大体は親だろなんて言うんだよ。
艦娘の親ってなんなんだろうね? 妹たちは親じゃないし、向こうもあたしを親なんて見ないだろうし。
ああ、うんとね。別に親がどうこうって話じゃないの。
えっと、あたしにたぶん一番影響を与えた人がいてね。
んー……人っていうのは、ちょっと違うか。その子は深海棲艦だったから。
でも、やっぱりその子なんだよね。あたしを一番変えたかもしれないのって。
……や、変わったっていうか気づいた?
あたしはどうしたいのかとか、みんなはどんな気持ちだったのかって。
分かってるようで分かってなかったことに気づけたの。
だから、たぶんあたしが一番影響を受けた話。
あたしとあの子の、そしてみんなとの間にあったこと。
あたしはきっと忘れない。
二章 白露とワルサメ
その日、白露は妹たちと臨時の哨戒任務に就いていた。
トラック諸島近辺で不審な電波が感知され、その調査に駆り出されたわけである。
付近の海域では先だって海戦が生起していて、その際の深海棲艦の生き残りが電波の発信源と見られていた。
炎天下の空の下、白露は夕立と組んで小島の海岸線を調べていく。
「退屈っぽい」
「文句言わないでよ。あたしだって別に面白くないんだから」
「面白くない……もう夕立には飽きたっぽい?」
「なんなの、その誤解を招く言い方……夕立こそあたしに面と向かって退屈って」
「じゃあ、お姉ちゃん。水遊びしない?」
何がじゃあなんだろう。白露にはたまに妹がよく分からなくなる。
でも提案自体は悪くないじゃん。白露はそうも思う。
「いいねー。でもお仕事が先だよ」
「隠れてるのが姫級なら、さっさと出てきてほしいっぽい」
「深海棲艦の姫かあ。ちゃんと見たことないんだよね」
先日の海戦では港湾棲姫に続く二番目の姫級、駆逐棲姫の姿があった。
海戦こそ艦娘たちの勝利で幕を閉じていたが駆逐棲姫の撃破は確認されていない。
今回の電波も駆逐棲姫が救援を呼ぶために発した可能性もあった。
「夕立は姫とも戦ってたんだっけ。どんなやつなの?」
「黒くて白かったっぽい」
「深海棲艦って基本その二色だよね……」
夕立の返答に白露は力なく笑った。
本人には悪気が一切ないのを知ってるだけに、白露としては強く言い返せない。
「お姉ちゃん」
「何? まだ退屈とかっていうのはやめてよね」
「姫を見つけたっぽい」
夕立が言うように駆逐棲姫が浜に打ち上げられていたのが見えた。
ロウソクのように白い肌と髪、墨のようなセーラーにネイビーブルーのスカーフ。
仰向けの体からは手足が力なく投げ出されている。
あれじゃ日焼け確実だね、と白露は少し場違いな感想を抱いた。
「写真で見た姿に間違いないね……夕立」
「分かってるっぽい。みんなも呼ぶね」
夕立が油断なく主砲を向ける中、白露は浜に乗り上げる。近くに落ちていた流木を拾うと、それで駆逐棲姫を突いてみた。
「起きて。起きなさいってば」
返事がない。ただのしかばねのようだ。
白露はそんな決まり文句を思い出したが、実際のところ反応があった。
「ン……」
駆逐棲姫がうっすらと目を開ける。その目は白露を見たが、すぐには視界に映る光景を認識できなかったらしい。
目をしばたき、そうして置かれた状況を悟ったようだ。
「艦娘!」
何かをまさぐるような駆逐棲姫に夕立が言い放つ。
「動くな! 動いたら撃つっぽい!」
鋭い声に駆逐棲姫は沿岸の夕立に気づいて、素直に従った。
「……殺セ」
「いい覚悟っぽい」
本当に撃ちかねない夕立をすかさず白露が止めに入った。
「ちょっと待ちなさいって。そのつもりなら初めっから撃っちゃってるし」
駆逐棲姫が白露を見上げると、白露もその目を見返す。
この子の目ってそんなに怖くないんだ。
「あなたが抵抗しなければ、こっちも撃たないよ」
「……ナンデ撃タナイノ?」
「戦う力も残ってないんでしょ? それに敵だからって好き好んで撃ちたいわけじゃないし」
駆逐棲姫は顔を逸らすように夕立の方向を見る。
「あの子だってそうだから。まあ。やる時は徹底的にやるけどね」
「逆ナラ……沈メテタ」
「でも、今はあたしたちがせーさつよだつけんっての握ってるんだよね。だったら、あたしはあなたを連れ帰るよ。話も通じてるんだし」
白露は駆逐棲姫を怖いとは思わなかった。
でも、この子は怯えてる。というのは分かった。
逆ならと言ってたけど、逆ならあたしも怯えるなと白露は思う。
「でも深海棲艦の捕虜なんて無茶っぽい」
「だからって無闇に撃つのがいいわけないじゃない」
「むぅ……」
「捕虜って言っても、まずは提督の許可を取り付けるところからだけどね」
「お姉ちゃんがその気ならいいっぽい……」
夕立は渋々といった感じではあるが姉の言葉に従った。
駆逐棲姫は観念したようだ。初めから拒否権もない。
「……好キニシテ」
白露は提督の承認も取りつけると、他の妹たちも合流したところで駆逐棲姫をトラック泊地へと連れ帰ることになった。
白露は夕立と共に周囲を警戒しながら、駆逐棲姫に話しかける。
少しは警戒心を解きたい、という気持ちもあった。
「ねえ、あなたの名前は? あたしは白露。白露型の一番なの」
「……サメ……」
「ん?」
「ワル……サメ……」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「――そんなこんなで駆逐棲姫、ワルサメを連れてきました!」
執務室では白露が提督と鳥海の前で説明を終えたところだった。
自信に満ちた白露の語りを前に、二人は感心したように何度も頷いていた。
「話は分かった。鳥海はどう思う?」
「そのワルサメを直接見ないことにはですが、私は白露さんの判断を全面的に支持します」
全面的に、ということはそれだけ信じてもらってるということ。
秘書艦さんにそうまで言われると、こっちも自信が湧いてくるね。
「ありがとう、秘書艦さん!」
「いえいえ。それに司令官さんも狙いがあって連れてくるのに同意したんですよね?」
「俺も深海棲艦には興味があるからな。でなきゃ連れてこさせないさ」
「ですが、本当によかったんですか? こういった事例は初めてだと思うんですが」
「つまり一番か……やったな、白露」
「やったー! いっちばーん!」
喜ぶ白露を鳥海は微笑ましく見つめていたが、すぐにそうではないと気づいた。
「……司令官さん」
「分かってる。これは深海棲艦に踏み込むいい機会だ。多少の危険を冒してでもやる価値があるはずだ」
「あの子、そんなに悪い子じゃないと思うよ」
白露は口を出していた。提督も頷く。
「責任を押しつけるわけじゃないが、俺もその点では白露を信じてるからな。ただ駆逐棲姫を信じてるわけじゃない」
まあ、それは仕方ないか。白露も第一印象だけで話してる点は自覚していた。
その時、明石から検疫や検査の結果が出て、ひとまず病原体やワルサメ自身の異常は見受けられないとの連絡が入った。
そうと決まればと三人はドックへと向かい、道すがら提督が言う。
「しかしワルサメか。白露型とは縁が深そうな名前だな」
「春雨みたいだよね」
白露型には春雨と山風という、未だに艦娘として確認されていない姉妹艦が二人残っている。
ワルサメという名はその内の春雨を意識させる名前だった。
夕立が突っかかるのも、その名前のせいなのかも。夕立が春雨を気にかけてるのは白露もよく知っていた。
「白露はワルサメから何か感じないのか?」
「感じるかって言われたって……分かんないものは分かんないよ」
「司令官さんは駆逐棲姫が春雨さんだと考えているんですか?」
「可能性としてはありだろ。木曾や大鯨――今は龍鳳がそうだが、海上で保護された艦娘もいるからな」
そういった艦娘の存在が、深海棲艦は艦娘の成れの果てという説の根拠になっている。
白露にせよ鳥海にせよ、その説は知っているが確認のしようもなければ確認する気も起きない話だった。
「そういえばワルサメに対して、白露を飴として誰かに――たとえば鳥海に鞭役をやらせてみたほうがいいか?」
提督はどちらに向けたのか曖昧な質問をしていた。
鳥海がそれに聞き返す。
「情報を引き出しやすく、ですか?」
「俺たちはあまりに深海棲艦を知らなさすぎるからな」
「……それは反対かな。あたしが仮に同じ立場だったら、そういうのはちょっと。面と向かって正直に話せばいいのに」
白露が鳥海を見上げると、鳥海は柔らかい表情をしている。
「だいたい秘書艦さんが鞭って人選がおかしいよ。人当たりのいい人なんだから、すぐにボロが出るって」
「じゃあ誰ならいいと思う?」
「普段からツンケンしてる人だから山城さんとかローマさんとか……待って。あたしがそう言ってたって言わないでね?」
あの二人、ちょっと怖いって言うか冗談通じないところあるし。
「山城さんもローマさんも真面目すぎるところがありますからね」
「鳥海がそれを言うのか……」
「ここは白露さんの言うように自然体で接するのが一番だと思いますよ」
「やっぱり、そうだよね!」
「ええ。下手に小細工をして裏目に出てしまっても意味がありません。司令官さんも私にはそういうことしませんでしたよね」
鳥海は指輪をなぞるように触っていた。
同じ物を白露も左の薬指にはめているが鳥海と白露、というより鳥海とその他では意味合いが違った。
白露は興味津々だった。
「提督はどんな感じだったの?」
「誠実で直球でしたよ」
「もっと聞かせて!」
「なあ、本人がいる前でそういう話はやめてくれないか」
提督は歩くペースを早くして二人の前を歩き出す。
白露は小声で鳥海に訊く。
「照れてるのかな?」
「照れてますね」
そんなやり取りが聞こえたのか聞こえなかったのか、提督は二人から逃げるように歩調を早めていった。
「もう、司令官さん。そんなに急がないでください」
鳥海は小走りで追いかけ始めた。
いいなぁ、と二人の背中を見ながら白露は思う。
とはいえ白露も置いていかれると困るので、すぐに駆け出して追いかけた。
ドックに着くと、ちょっとした人だかりができあがっていた。
手空きや非番の艦娘たちも集まってワルサメを見物に来たようだが、相手が深海棲艦の姫というのもあって取り巻く空気は重い。
提督が近づくと、それに気づいた艦娘たちが道を空けようと脇へ動く。
人だかりが割れるように動くと、提督、鳥海、白露の順にその間を進む。
渦中のワルサメはすっかり縮こまっていた。
すぐ隣で明石が医療キットをたたみ、ワルサメの後ろには夕立が艤装も外さずに見張っている。
いつでも実力行使に出られるのは明らかだ。
このぐらいの用心が必要なのも分かるけど、それを差し引いても今の夕立はちょっと怖いかも。
検査を終えた明石に提督が話しかける。
「この子がワルサメか。話せるか?」
「ええ、検疫も身体的にも異常がありませんので。まあ生身の深海棲艦を見たのは初めてなので、ひょっとしたらひょっとするかもしれませんが」
「構わない。何か起きるなら、もっと以前に起きてるはずだ」
提督がワルサメと目を合わせると、ワルサメは一歩引いた。提督の後ろでは鳥海が横に移動する――不審な動きを見せたらすぐにでも間に入れるように。
「ようこそ、ワルサメ。ジュネーヴ条約に則って……といっても知らないだろうし適用外だが、身柄の安全は保証したいと思う」
ワルサメは視線を落ち着きなくさまよわせ、白露を見つけると不安げにそちらを見つめた。
提督は提督なりに意図を察すると白露に言う。
「白露。妹たちと一緒にワルサメの世話をするんだ。詳しくは追って伝えるが」
提督はそこで夕立に視線を向ける。
「捕虜ではなく、あくまで客人に応対するつもりで頼む」
釘を差される形になった夕立は頬を膨らませるが、提督はそれを無視する形で集まっていた艦娘たちに向き直る。
「あまり必要以上に怖がるな。向こうだって俺たちが怖いんだ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
提督はワルサメを客人のように扱うと言ったが、その方針は必ずしも嘘ではなかった。
というのもワルサメを拘束しようにも艦娘の力を借りる以外に方法はなく、それならば監視を兼ねた世話役を付けた上である程度の自由を与えたほうがいいというのが提督の判断になる。
有り体に言ってしまうと拘禁よりも軟禁のほうが都合がいい、というわけだ。
もっともお目付役を言いつけられた白露型としては、そこまで分かって行動しているかは疑問符がついた。
少なくとも白露はお構いなしにワルサメと接しようとしている。
あたしだってあたしなりの責任感を持ち合わせているつもりだし。
ワルサメのやってきた晩、簡単な自己紹介などを済ませた白露型一同とワルサメは食堂に足を運んだ。
入り口の前に置かれた『味処 間宮』という木製の立て板を前にしてワルサメは立ち止まった。
「ココハ……」
不思議そうに文字を見るワルサメに白露は答える。
「間宮さんの食堂だよ。その看板は鳳翔さんが書いたんだけど、って言っても分からないよね」
「そもそもワルサメって文字は読めるんですか?」
海風の疑問にワルサメは首を傾げて答えると、夕立が冷ややかに言う。
「読めないふりかも知れないっぽい」
「あんたはまたそんなトゲのあることを」
「ふーんだ」
すっかり拗ねた調子の夕立に白露も困ってはいたが、納得し切れていない妹の気持ちも理解していたので強く怒れなかった。
「まあまあ、まずはお腹いっぱいに食べましょう! 幸せは満腹からです!」
あからさまに明るい声を出した五月雨は、歩きだした途端に立て板に足先を引っかけた。
盛大な音を立てながら立て板を倒し、五月雨は手をばたつかせながら額から床に倒れ込んだ。
「いったーい! なんでこんな……」
「ア、アノ……」
「ああ、うん。気にしないで。よくあることだから」
白露はそう言ったが、ワルサメは恐る恐るといった様子で倒れた五月雨に手を差し出す。
涙目になった五月雨がその手を迷いなく掴むとワルサメは五月雨を立たせた。
「ありがとう……」
「……イエ。足下ニハ気ヲツケテクダサイ」
二人のすぐ後ろでは、涼風が倒れた立て板を元の場所に立て直していた。
「ほんと気をつけろよなー。あんたも助かるよ」
ワルサメは涼風にまで礼を言われると、萎縮して俯いてしまった。
涼風は白露にどうしようと言いたげに顔を向けたので、白露はワルサメの空いた手を引いて間宮に入っていった。
九人はテーブルに座る。白露はワルサメと向かい合う席に、ワルサメの両隣には村雨と五月雨が座って夕立は一人で端に陣取る。
夕食時なので、全員ではないにしても鎮守府の艦娘たちも間宮に集まっていた。
そのため活気はあるのだが、空席もまた多かった。
「とりあえず、あたしとワルサメはお任せ定食にしちゃうから、みんなは好きなの頼んじゃって」
各々が何を食べるかを決めてる間、ワルサメは白露型以外の艦娘を気にしていた。
多くの艦娘たちもまたワルサメを気にしていた。提督がどう言ったところで簡単に、ましてや一日やそこらで変わるわけもない。
けど、これじゃよくないよね。白露は振り返るとワルサメの視線を追い、見ている相手について教えていこうと決めた。
「あれは武蔵さんと清霜だね。日焼けしてる眼鏡の人が武蔵さんで豪快な人だよ」
「ゴーカイ?」
「細かいことは気にするなって感じ? さすが大戦艦っていうか。手を振ったら振り返してくれるかも」
「……ヤメテオキマス」
ワルサメの反応も仕方ないか。まだ妹たちにも気を許せてないのに、まったく知らない武蔵さんに手を振れというのは難易度が高いだろうし。
白露がそう考えていると五月雨が自然と後を引き継いでいた。
「清霜ちゃんは私たちと同じ駆逐艦です。将来は戦艦になりたいって言ってますけど」
「艦娘ハ駆逐艦カラ戦艦ニナレルノ?」
「えーっと……それはどうでしょう? どうかな、涼風?」
「気合いがあれば大丈夫さ。いけるいけるぅ!」
「艦娘ッテスゴイ……!」
無理なんじゃないかなと白露は思ったが、敢えて訂正はしなかった。夢を壊してはいけない。
五月雨は意気揚々と紹介を続けていく。
「それから、あっちはイタリアのみなさんですね。リットリオさんにローマさん、ザラさんとリベちゃん。みなさん優しいですけど……ローマさんはちょっと怖いかも」
「あたしもあの人はちょっと怖いかなぁ。視線が冷たいっていうか」
白露が五月雨に同意すると、村雨も会話に入ってきた。
「それは二人がローマさんをよく知らないからだよ」
「そうなの?」
「水着を買いに行った時にご一緒させてもらったんだけどね」
「いつの間に……」
「ここは常夏の島だよ? それで一緒に選んでもらったんだけどセンスが洗練されてて勉強になったし、お酒のチョイスもいいし」
「そういえば村雨はワイン派だったっけ」
「ええ。それでこの前飲んでたらイタリア産のも勧められてね……その話はまた今度として、みんなローマさんを怖がりすぎなのよ」
「村雨にそう言われると、そんな気がしてきたよ」
「姉さんも今度話してみればいいじゃない。ってごめんなさいね、私たちばっかり話しちゃってて」
村雨がワルサメに話を振ると、彼女はゆっくりと首を横に振る。
「ミナサンノ話ハ聞イテルダケデ面白イノデ続ケテクダサイ」
「そう? じゃあ次は……あっちの窓側にいるのが木曾さんね。いつもはお姉さんたちといるんだけど今日は一人みたい」
白露は木曾をどう言っていいのか上手く思い浮んでこなかった。
「木曾さんは……なんていうか色々あった人だよね」
イケメン枠という言葉も思い浮んでいたが、白露の知る限りでは木曾は強さと弱さの同居している艦娘だった。
だから説明に困った。表層しか捉えていない説明になるのではないかと考えてしまって。
悩む白露の代わりに海風が言う。
「木曾さんにはメイド服を着せたい……私じゃなくて多摩さんが言ってたんですけど」
「木曾にメイド服ってどういうチョイス――」
ちょっと呆れたような時雨が言いかけて固まる。
白露たちも大体同じような想像をしていた。
時雨はどこか愕然としたように声にだす。
「アイパッチの美形メイド。マントは当然そのままだとして、黒のメイド服に白のエプロン。スカートの裾は当然短いしフリルもついてる……当然本人は照れている」
白露型の視線を一身に受けた木曾は、その異様さに気づいたが敢えて無視を決め込むことにした。
時雨は唾を飲み込んだ。
「結構、ううん。かなり有り?」
「多摩さンってすげーンだな……」
江風からもそんな反応を引き出せるんだから、それだけのインパクトがある。
実際に着せようとするのはかなり大変なのは白露も分かっていたが。
「それにしても空席が目立つなぁ……仕方ないか」
白露は辺りを見渡しているとワルサメが不安そうに聞いてくる。
「私ガイルカラデスカ?」
「ううん、そうじゃないよ。もっと深い理由があるんだよ」
「深イ?」
「そ。深いふかーい理由がね」
実際はもったいぶるほどの理由じゃないのは白露にも分かっていた。
そして五月雨があっさりと漏らしてしまう。
「他の鎮守府ができて人が減っただけじゃないですか。今じゃ五十人ぐらいで、ここに来た時の三分の一しか」
「五月雨、そんなことまで言わなくていいよ」
時雨が口を挟むと、五月雨は慌てて口を閉じる。
五月雨が言わなくても、数日もすればワルサメにも察しがついてただろうし、そもそも攻撃をかけてきたのもこっちの頭数が減っていると分かってたからだと思うけど。
時雨はそのまま話を引き継いだ。
「今度はボクからもワルサメに紹介しておこう。あそこにいるのが扶桑と山城だよ」
時雨に言われてワルサメは扶桑と山城を見る。改造巫女服を着た二人の姿はワルサメに別の相手を思い出させた。
「大キイデスネ……」
「そう、扶桑と山城は大きいんだ。君の反応は見所があるね」
「≠тжa,,ミタイデス」
ワルサメの言葉に時雨のみならず一同は困惑した。すぐにワルサメも異変を察した。
「私、言ッテハイケナイコトデモ……?」
「ううん、そうじゃなくってね。名前だと思うんだけど、何を言ったのかちっとも分かんなくて」
白露の返事にワルサメはもう一度同じ名を出した。
「≠тжa,,」
「うん、それ。あたしたちにはちょっと早すぎるかなーって」
ワルサメは立ち上がると、手を上下させて体型を示すようにジェスチャーをする。それから額に手を当ててから前に伸ばすように突き出す。
その動きを何度か見てから白露は聞く。
「もしかして私たちが来るまでこの島にいた姫?」
「ソノハズデス」
「私たちは港湾棲姫って呼んでたけど」
「コーワン? コーワン……カワイイ名前デスネ」
「ちなみにワルサメは駆逐棲姫って呼んでるんだけど」
「コッチハカワイクナイ……」
「そうなんだ……」
白露にはよく分からない感性だった。
疑問が解けたところで時雨がワルサメに尋ねる。
「それで君からしたら扶桑たちは港湾棲姫に似ているのかい?」
「似テイルノトハ違ウカモ……デモ私ハ≠……コーワンヲ思イ出シマシタ。大キクテ優シイカタデ、私ヤホッポニヨクシテクレテ」
「ホッポ? 他の姫とか?」
「ハイ、コンナ小サイ子デ」
ワルサメは手のひらを下に向けて胸の高さで左右に振る。
嬉しそうに説明するワルサメへ時雨が少し踏み込んだことを聞く。
「そうなんだ……そういえば港湾棲姫は健在なのかい?」
「ハイ、元気デス」
「なるほどね」
と号作戦から四ヶ月が過ぎているが、港湾棲姫の安否は不明のままだった。この時までは。
ワルサメは余計な話をしたと悟ったらしく、椅子に座り直すと口を噤んでしまう。
乗せられたと思って、殻に閉じこもってほしくはないけど。
白露はそんな風に考えながらも話し続ける。そうしないと本当に騙しただけのようになってしまうと思えて。
「他にはあっちにいる着物の人たちが蒼龍さんと飛龍さん。もこふわしてそうなのが雲龍さんで三人とも空母だね」
「空母ハ苦手デス……」
「ありゃ、そうなのか。じゃあ、あっちの駆逐艦。島風と天津風に長波だね」
「着任した頃の島風はスピード狂って感じだったけど、ずいぶん丸くなったわね」
村雨が懐かしむように呟くと、それまで一言も発さなかった夕立がテーブルを叩く。
テーブルの足が軋む不協和音と一緒に夕立も立ち上がると白露を睨みつける。
「お姉ちゃん、いつまでこんなことやるっぽい」
白露は夕立が不満を抱いているのは承知していたが、この場で噴出するとは思っていなかった。
椅子に座ったまま白露は夕立を見る。
「いつまでって……晩ご飯が届くまで?」
「こんなの、すごくバカっぽい!」
唾を飲み込んでから、白露は気づいた。
緊張してるよ、あたし。
それはそうだった。夕立の雰囲気は戦闘中に敵に向けるそれに近い。
純粋な戦闘能力で評価すれば、夕立は白露型でも一番で駆逐艦という枠で見ても頂点を争える。
そんな夕立が穏やかじゃない雰囲気を漂わせれば、意識するなというのが無茶な注文だった。
「何が気に入らないの」
怖くない。と言ったら嘘になってしまうが、それでも白露は聞く。
夕立は他の艦娘たちからも注目を集めてるのにも気づいて、少しは落ち着きを取り戻していた。
それでも溜め込んだ感情を吐き出さないと、夕立の収まりもつかない。
「まず名前が気に入らないっぽい! 何がワルサメなの!」
「名前は関係ないんじゃないの、名前は」
「大ありっぽい! ふざけた名前! 春雨みたいで!」
「ハルサメ?」
不用意に口にしたワルサメを夕立は一睨みで黙らせる。
「考えすぎだよ、夕立。あたしも初めて聞いた時はふざけてるのかと思ったけど、それはあくまで白露型の事情でしょ」
妹を意識させる名前なんだから気にするなっていうのも難しいだろうけど。
「確かにお姉ちゃんの言うように、こっちの内輪事情ってやつっぽい」
「だったら……」
「でも、つい最近撃ち合ってたのに、今日になって仲良くご飯食べましょうなんておかしいっぽい!」
夕立はワルサメに視線を移すと、少し抑えた声で言う。
「駆逐棲姫はそう感じないっぽい? 夕立は何発か当ててやったっぽい。覚えてない? 夕立にも一発当ててきたっぽい。覚えてない? 何も感じないっぽい?」
恫喝じみた口調に白露の声も尖る。
「いい加減にしたら、夕立」
「待ちなよ。江風も夕立の姉貴に賛成。裏がないって決めつけンには早すぎないか?」
「裏ぁ?」
うわ、なんか変な声出た。これじゃ怒ってるみたいだと白露は思ってから、実際にあたしも怒ってるんだと考え直した。
江風はしまったという顔を少しだけ浮かべたが、すぐに振り払うように言う。
「たとえばスパイだとか」
「それっぽい。この子がスパイじゃない証拠とかもないのに、みんな気を許しすぎっぽい!」
二人の言い分に異を唱えたのは村雨だった。
「別にこの子の肩を持つわけじゃないけどスパイって線は薄いんじゃない? 話を聞く限りだと計画通りって感じじゃないし」
「自然なほうが本当っぽく見えるっぽい」
「それにしては偶然に頼りすぎって言ってるのよ。見つけたのがたとえば夕立と江風だったらその場で終わりでしょ? そんな運任せの工作なんてあるかしら」
「時雨張りの強運ならいけるっぽい」
「さすがにそういうのでボクを持ち出さないでほしいな」
「時雨はどっちの味方っぽい!」
「どっちの味方でもないし敵でもないよ」
時雨が呆れ顔をしたところで、海風が宥めるように言う。
「夕立姉さんもここは一回……江風も後でちゃんと話を聞いてあげるから、ね?」
「ここで全部話しておいたほうがいい気もすンだけど」
落ち着くタイミングを見計らっていたのか、伊良湖がポニーテールを揺らして席に近づいてくる。
伊良湖は夕立とワルサメは見ないようにしながら白露に聞く。
「用意はできたんだけど運んじゃってもいいかな?」
白露が夕立を見ると椅子に座ったので、運んでもらうよう伊良湖にお願いをする。
すぐに間宮も出てきて白露型とワルサメたちに夕食を配っていく。
白露とワルサメのお任せ定食は魚の開きがおかずで、アサリと小ねぎのみそ汁と小鉢が二つ。
開きはアジを使っていて間宮自家製。小鉢は青菜のおひたしとオクラをかつお節で和えた物だった。
白露型一同は先程までの様子はどこ吹く風で、息を揃えて手を合わせる。
「いただきます」
そんな様子にワルサメだけは困惑していたが、とにもかくにも手を合わせる。
次いでワルサメはアジの開きを真剣に見つめることとなった。
「コレハナンデスカ?」
「魚の開きだけど……こういうのは初めて?」
「魚ハコンナ姿デ泳ガナイノデ……神秘デス」
「そんな大げさな……」
みそ汁を飲んでいた涼風がワルサメに尋ねる。
「こんな時に聞くのもなんだけど、深海棲艦って普段は何食べてんのさ?」
「まさかに――」
「五月雨、それ以上いけない」
時雨が素早く制する中、おずおずとワルサメは答える。
「魚トカ貝トカ海藻ヲ……」
「海産物か。海は食べ物の宝庫だからね」
「アノ……コレハドウ使ウンデスカ?」
ワルサメは割れ物を触るように慎重な手つきで箸を持ち上げていた。
「村雨、教えてあげて」
「いいけど、そういうのは姉さんの役じゃない?」
「あたしは決めるの担当だからです!」
胸を張って宣言する白露に、村雨は気の抜けたような笑顔で返す。
それでも村雨としては教えるのは満更ではなかった。
村雨がワルサメの手を取ると、驚いたワルサメは手を引っ込める。しかし、すぐに手をおずおずと元の位置に戻すと、村雨は箸を握らせる。
「まずお箸はこうやって持ってね……そうそう。いい感じ、いい感じ。次はね」
「串刺しにすればいいっぽい」
「エ? 刺スノ?」
「刺すんじゃなくて摘む感じ? 夕立は変なこと吹き込まないように」
「ぽいぽい」
適当な返事をする夕立をよそに、村雨は箸の使い方を丁寧にワルサメへ教えていく。
ワルサメは箸を開いて閉じるのを繰り返してから、開きの身を言われたように摘む。
「うんうん、飲み込みが早いわね」
感心する村雨が見守る中、ワルサメはほぐれた身を口に運ぶ。
一口噛んだ途端にワルサメの顔が晴れやかに明るくなる。
これ以上ないほどの満面の笑顔で何度も噛んで、味を存分に堪能してから飲み込んだ。
「オイシイ……」
ワルサメは満足したように深く息を吐く。
「ナンナンデスカコレ。同ジ魚トハ思エマセン」
ワルサメに振られた白露は村雨に聞き返す。
「開きだから干物だよね? 半分に切って外に干しとくんだっけ?」
「塩水に浸けたりとかもしてたような……」
「コンナ美味シイ物ヲ毎日食ベテルンデスカ?」
「毎日というか毎食?」
「ズルイ! ナンテズルインデスカ!」
白露たちの予想外の反応を見せながら、ワルサメは食事を再開する。
不意にワルサメの目から黒い体液が流れ出していく。
血の涙にしか見えないそれに、白露たちは悲鳴を上げて飛び上がるように離れた。
「ナ、ナンナンデスカ?」
食べ物を頬張っていたワルサメは、鼻にかかるような声を出す。
時雨がその様子に閃いて手を打つ。
「ボクらや人の涙は血と成分が同じなんだ。きっと深海棲艦も」
「じゃあ、これは泣いてるの?」
「たぶん深海棲艦の目には黒い原因の成分か色素を濾過するフィルターがないんじゃないかな」
「仮説をありがとう、時雨。そうだとしても、さすがにこれは驚いたよ」
「つまり……泣くほど感動しちゃったんですか?」
ワルサメは白露型の視線を気にしながらも食欲には勝てなかったらしく、食事をやめる様子はなかった。
そんなワルサメを見て江風が吹き出した。
「なンつーかさ……普通なンだな。深海棲艦も」
「血の涙が?」
「そうじゃなくって旨いもン食べたら喜ぶンだってこと」
「そんなの……まだ分からないっぽい」
夕立は否定するが、そこには少し前までの勢いはなくなっていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ワルサメが鎮守府に保護されてから一週間。
一週間という時間で白露型とワルサメの距離も縮まっていて、江風はワルサメを受け入れるようになっている。
ただし夕立は前のような強硬的な面を見せないだけで、打ち解けようという素振りは見せていなかった。
昼下がりを迎えた頃、ワルサメが提督と話したいと言いだした。
いい機会かもね、と白露は相づちを打つとこの日の当番の海風と一緒に執務室に向かう。が、三人が着いた時にはもぬけの空になっていた。
「提督ってば、最近は暇になるとすぐにラウンジに行っちゃうんだから」
「でも、そのほうが平和ってことじゃないですか」
「それはそうなんだけどね」
白露たちはラウンジに向かう。そこは艦娘たちからは休憩室や談話室、待機場などと好き勝手に呼んでいる部屋だった。
トラック島鎮守府が設立された際に新設された部屋で、もちろんクーラーも完備。これが重要。この島って暑いからね。
すぐ隣には酒飲みの艦娘のためのバーも併設されている。
白露たちはすぐにソファーに座る提督を見つけ、提督もまた白露たちに気づく。
秘書艦の鳥海の他に島風と天津風、長波もいてソファーや椅子に座りながら何かを話し込んでいるところだった。
「提督ー。ワルサメが何か話したいんだって」
白露たちが近づくと島風と天津風が提督の正面にある椅子を空ける。
この一週間で艦娘側はワルサメに慣れ始めていた。少なくとも露骨に嫌悪感や警戒を向けられるようなことはなくなっていた。
白露が見る限り、ワルサメも感情を表情として出すようになっていたし、極端に萎縮してしまうような事態は減っていた。
それでも完全になくなったわけでもなく、時雨に紹介されて扶桑姉妹に会った時は背中に隠れようとしている。
扶桑姉妹が港湾棲姫に似ているとはワルサメの弁でも、直接会って話すのはやっぱり違うらしい。
怖がるワルサメの様子に「不幸だわ……」と呟く山城の姿は、相手が深海棲艦という点を除けば日常とあまり変わらない一幕だった。
ワルサメは場所を空けてくれた島風に礼を言うと提督の正面に座る。
白露はふと疑問に感じた。
「そういえばワルサメって島風たちと面識あったっけ?」
「イエ。遠クカラ見タダケデス」
「私たちも間近で見るのは初めてだね。よろしくってことでいいのかな?」
「そうしてもらえると、あたしは嬉しいかな」
「分かった。私は島風、こっちは天津風でこっちが長波」
「島風ハ知ッテマス。若イ頃ハスピード狂ダッタトカ」
「今も若いよ!?」
「スピード狂に反対するところだろ」
「この子、今でもそうだから」
そんなやり取りを交わしてる間に、提督はやや前のめりに姿勢を変えている。
ワルサメの話をちゃんと聞こうという態度かもしれないと白露は思った。
「提督ノ知恵ヲ貸シテホシイ。避ケテクル相手ト仲良クスルニハドウシタライイ?」
まじめくさった顔でワルサメの言葉を聞いた提督は、その意味を考えて拍子抜けしたらしい。
「姫様にそんな質問をされるとは思ってなかったな……白露たちは知ってたのか?」
「まさか。誰のことかは心当たりがあるけど」
どう考えても夕立しかありえない。
ワルサメも夕立とは仲良くしたいんだと、白露は少ししんみりとした。
「あたしたちってここにいないほうがいいのかな?」
「それならワルサメも話してないだろ」
「ハイ。ソレデ提督ナラドウスル?」
「そうだな……鳥海や島風たちならどうする?」
提督が話を振るとすぐに島風が手を上げる。
「はい、島風」
「頬を思いっきり引っぱたくの。バシーンって!」
いきなり提督の横にいた鳥海がむせたような咳をする。その反応に提督はおかしそうに笑った。
白露は二人の反応が分からなかったが、ワルサメが夕立にビンタをした場合の展開を想像して即断する。
「却下でお願いします」
「なんで!」
「たぶん血が降ると思うし……どうして島風はそんなことを思いつくのよ」
「実体験? 鳥海さんにはたかれたから、私たちは仲良くなれたっていうか」
「え……本当なんですか、秘書艦さん?」
「叩いたのは事実ですけど、別にそれで仲良くなれたわけじゃ……」
鳥海はしどろもどろに話し、長波が感想を漏らす。
「そこだけ聞くと島風が単なるドMとしか思えないな……ああ、あたしならドラム缶積んで一緒に輸送作戦にでも従事すれば、大抵のやつとは仲良くなれると思うぞ」
「悪くない案のような気がするけど、この子を外に出すのはなー……」
「今回は見送ったほうがいいだろうなぁ。はい、というわけで天津風の番!」
「うーん……私が教えてほしいぐらいよ。提督、なんとかしてちょうだい」
話が戻ってきた提督は自信を持って断言する。
「胃袋を掴むしかないな」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ワルサメが料理をするという案はあっさり採用された。
厨房を使ってワルサメへの指導が始まり、白露は提督と鳥海と一緒にその様子を見学に来ていた。
提督は少し心配そうな顔をしている。あんな自信満々に言ってたのに。
でも、心配するのも分かる。白露たちと話す限り、深海棲艦には調理の概念が乏しいらしいと推測できる。
当然ワルサメも一度だって料理をしたことがないはずだった。
提督が鳥海に確認する。
「初心者だから、おにぎりとみそ汁なのか」
「はい。基本中の基本ですし、おにぎりなら練習用に作りすぎても糧食として持っていけますから」
「うん、いい考えだ。それに間宮もついてるんだから、滅多なことにはならないはずなんだが」
意外だったのは、白露たちが場所を貸してもらうように頼みに来ると間宮が直々に教えたいと言い出したことだった。
白露は一人で仕込みを続ける伊良湖に訊く。
「どうして間宮さんが教えてくれるんです?」
「それはあの子がいつもおいしそうに食べてくれるからですよ」
伊良湖は間宮の代弁をする。
「性格診断なんかになると話半分ですけど、食べ方に性格って出ますからね。おいしそうに食べてくれる子への好感度は鰻登りですよ」
「分かります、おいしそうに食べてもらえると作った甲斐がありますよね」
鳥海が同意すると伊良湖は自信を持って頷き返す。
「だから間宮さんも、ちょっとしたお礼のつもりなんだと思います」
「ほほー……なるほどなるほど」
納得だね。あんな風においしそうに食べてくれる子はちょっと他に思い当たらないし。
白露は何故か誇らしげに思えた。
「そういえば、あの子っていつまでここにいられるんですか?」
伊良湖が提督に訊くと、提督は苦笑いを浮かべる。
「いつまでかな。海軍省も大本営もワルサメについては何も言ってこないんだ。どう扱っていいのか決めかねてるのかもしれない」
「そうだったんですか」
「足場を固める期間だと思えばいいさ。ワルサメも白露たちに懐いてるみたいだし」
「ふふん」
「なんだ、変な笑い声出して」
「提督にだけは言われたくないよ。せっかく提督の考えが分かったのに」
「俺の考え?」
「提督だってワルサメとか深海棲艦と仲良くしたいってことでしょ?」
「……平たく言えばそうだな。和解の芽が出てきたんじゃないかとは思いたいよ」
そう答える提督に鳥海が異を唱える。
「そう考えるには些か性急すぎませんか? 確かにワルサメとは上手くやっていけるかもしれませんが……」
「鳥海の懸念はもっともだが、この一歩の差は大きいと信じたい」
「あたしもそう思いたいな」
ワルサメみたいな子がいるなら深海棲艦とだって仲良くやっていけるのかも。白露はそんな期待を抱いていた。
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白露は時雨と一緒に夕立を『間宮』に誘った。
甘味を食べに、というのは表向きの理由で時雨には事情を話している。
白露たちが注文をしている隣では、提督と鳥海が何食わぬ顔で座っていた。
提督の前には手つかずのお汁粉、鳥海は器からはみ出そうなほど盛りだしたクリームあんみつを崩している。
「ずいぶん頼むじゃない」
「今日は時雨がしつこかったからおなかも空いてるっぽい」
「ボクもたまにはしっかり動きたいしね。夕立はいい訓練相手になってくれるし」
おなかを空かせるのが狙いで時雨にも協力してもらったんだけどね。白露は内心で考えるが表には出さない。
「そういえば、たまには鳥海と演習したいっぽい」
「それはボクも同感だね。提督にだけ独占させておくのはもったいない」
蚊帳の外にいたつもりらしい鳥海は戸惑っていた。
鳥海はスプーンにすくったクリームを器に戻す。
「どうして私と?」
「上達するには手強い相手とやったほうがいいっぽい。その点、鳥海からなら一番学べるっぽい!」
「そう言ってもらえるのは嬉しいですけど買い被りすぎですよ」
「そんなことはないさ。ボクからもお願いしたい。提督、どうかな?」
「水を差す気はないよ。というわけだから、今度付き合ったらどうだ?」
「そういうことでしたら……」
「でも時雨はまだしも、夕立が真面目に訓練するなんて」
「お姉ちゃんでも、それは聞き捨てならないっぽい!」
「あはは、ごめんごめん」
夕立はサボったりはしないけど、基本訓練以外はあんまりしたがらなかったけど。
白露が不思議に思った。
「私は迷いを捨てたいっぽい。そのためには強くなりたいし、それには動くのが一番ぽいって」
「へえ……ちゃんと考えてるんだね、夕立は。えらいよ」
「えへへ、ありがとうお姉ちゃん」
やだ何、この子ちょろかわいい。
白露は少しの間、夕立に見とれてから我に返る。
「そうだ、時雨はどうして?」
「雪風に差をつけられるのは面白くないからね。最後に模擬戦やった時は負け越してるし」
ああ、そうだった。時雨ってこれで結構な負けず嫌いだったっけ。
同じ幸運艦と評される雪風相手だと、尚のことそう思ってしまうみたい。
雪風は陽炎型の大半と一緒に別の鎮守府に移っちゃったから、なかなか会う機会はないかもしれないけど。
「それにしても遅いっぽい。おなかがくっつきそうっぽい……」
「オ待タセシマシタ」
「待ってたっぽい――」
夕立は給仕服のワルサメを見て固まる。
ワルサメは恥ずかしいのか気後れしてるのか、おどおどした手つきで白露たちの甘味を並べていく。
夕立が頼んだのは鳥海が食べているのと同じ物だった。
そして最後に自分が作ったおにぎりとみそ汁を載せた盆を運んできた。
おにぎりの数は四つで、みそ汁からは湯気が立っている。
「アノ……夕立ニ食ベテホシクテ作リマシタ」
ワルサメはそれだけ伝えると一歩引く。
夕立はというと、うろたえていた。
白露と時雨は夕立の前に並ぶご飯を見て言う。
「取り合わせが悪かったかも」
「言われてみれば確かに。残念だったね、夕立」
夕立は今になって何かに気づいたように慌てて首を振る。
「そうじゃなくってなんで……だいたい深海棲艦が作った物なんて」
夕立が思わず言ってしまった一言は、それなりの重さを持ち合わせていた。
ワルサメや白露はおろか、言ってしまった夕立も含めてその言葉に絡め取られてしまう。
そんな空気を破ったのは提督だった。
彼の手が夕立のおにぎりへと伸びると、一つを奪い取りそのまま食べてしまう。
次に立ち直った鳥海が柔らかな声で言う。
「人のご飯を横取りなんてはしたないですよ、司令官さん」
「おいしそうだったから、つい」
その言葉をきっかけに白露は時雨を見た。時雨もまた白露を見た。
二人は同時に手を伸ばすと夕立のおにぎりを取ってしまう。
四つの内三つを失った夕立は、まだ手を伸ばしていない鳥海と視線を絡ませた。
場の空気を察した鳥海が手を伸ばそうとするが。
「これは渡さないっぽい!」
早業で夕立は最後のおにぎりを確保していた。
立ち尽くすワルサメと目と目を合わせ、夕立はおにぎりを一気に食べた。
「どう、夕立?」
白露の問いに夕立が答えようとする。
しかし白露はワルサメのほうに顔を向けた。
「あたしじゃなくって、あっちにね?」
夕立はワルサメを見つめて、意を決したように言う。
「……おいしかったっぽい」
「……オカワリ、シマスカ?」
「食べてもいいなら……ほしいっぽい」
ワルサメは嬉しそうに微笑んで、夕立は肩の荷が下りたようだった。
白露はそんな二人を見て胸をなで下ろした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
夕暮れ時、白露はワルサメと二人で窓から外を見る。
本当なら一人だけでワルサメのお目付役をするのは御法度だったが、白露が少しだけという条件で無理を言っていた。
日中に強い日差しを投げかけていた太陽は、墨をかけたように黒い山の稜線に隠れるように沈んでいる。
今ではダークブルーの夜空が、オレンジ色の残光を西に追いつめていた。夜が来る。
「空ニハコンナ色モアルンデスネ……」
「夕焼けなんて見慣れちゃってるんだけど、たまに見ると思い知らされた気になるんだよね。あたしたちってすごい所にいるんだって」
「海ノ果テニハ……」
ワルサメは何かに思いを馳せてるみたいだった。
「今日ハアリガトウゴザイマシタ」
「ううん、あたしは何もしてないよ。ワルサメが自分で解決したんだから」
「デモ白露ガイナカッタラ、ドウニモナリマセンデシタ。初メテ話シタノガ白露デヨカッタ」
「あ、そうか。深海棲艦とちゃんと話したのってあたしが最初になるんだ」
つまり一番。いっちばーん。うん、やっぱり一番はいいよね。
気を良くして白露は今日の感想を訊く。
「楽シカッタデス」
「うんうん。今度はみんなで料理したいね。もっとワルサメの作ったご飯も食べてもらったりなんかして」
白露からすれば、それはなんでもない口約束のつもりだった。
ワルサメなら二つ返事で乗っかってくると思っていたけど、消え入りそうな声で聞き返してくる。
「ホントニ……イインデスカ?」
「ん? なんで?」
「ダッテ私ト白露タチハ敵ナノニ」
「でも、ほら。ワルサメは捕虜みたいなもんだし仲良くなれちゃったし……うーん……」
自分の気持ちを白露は上手く伝えられない。
白露なりの判断基準はあるが、それは言葉として出そうとすると漠然として要領を得なくなりそうだった。
「夕立とだって仲良くしたかったんでしょ? それってもう敵とか味方って話じゃないよ」
「ソウデショウカ……」
「そうじゃないの? ねえ、あたしともっと話そう。話してくれないと分からないけど、話してみれば分かることってきっとあるよね?」
それは白露がワルサメと関わっていく内に実感し始めている思いだった。
「私ハ……白露ガ好キデス。他ノ艦娘ダッテヨクシテクレテマスシ、夕立トモモット仲良クシタイ」
「うんうん、みんないい人たちだよ。妹たちも提督や秘書艦さんだって」
「ハイ。見テイルト、ココニ熱ヲ感ジテクルンデス」
ワルサメは自分の胸を両手で覆う。白い指がきれいだった。
「あたしたちって、そんなに変わらないってことだよ。艦娘とか深海棲艦とか関係ないんだから」
「デモ……ソウダカラコソ怖クナルンデス。今ガ満チ足リテルカラ……」
「怖がることなんてないよ」
ワルサメは首を横に振る。今にも崩れてしまいそうな表情で。
「艦娘ハ私ノ仲間ヲタクサン沈メテル……コレカラダッテキット……」
「そんなの! 襲われたらやり返すしかないじゃん……深海棲艦がどれだけ人間を殺したと思ってるの!」
責める気はないのに語気が荒くなる。
ワルサメは視線を避けるように俯いた。
「ソウ、ナンデスヨネ……」
「最初に始めたのは深海棲艦なのに……そんなこと言うのはずるいよ……」
戦争だから仕方ない。ありきたりに思える言い分で納得していいと白露は思わなかった。
だけど他にどんな言い分で納得できるの?
こっちが何もしなければ深海棲艦は何もしてこなかった? そうじゃないでしょ。
「ワルサメ。あなたは……」
白露は言い淀む。けれども続きを言う。知らないといけない。
「今までに人を襲ったことはあるの?」
ワルサメは言葉なく首を横に振った。
やっぱり。意外でもなんでもなく、そんな気がしてた。
過ごせば過ごすほどこの子は。ううん、たぶん初めて会った時から、この子に戦いには似つかわしくないと思えていたから。
「白露ハドウナノ?」
「そんなの……関係ないじゃない」
そう言い返すのが精一杯だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
かつて血みどろの戦いが繰り広げられた島。その海岸沿いに黒く壺のような建造物がいくつも建ち並んでいる。
鋼材を大雑把に組み上げ樹脂で固めたような作りの壁は、人間が作った物ではない。深海棲艦による建築物だ。
建築物はどれも同じ作りだが大きさはまばらだった。
その中でも一際大きな建造物の中に丸い部屋がある。丸い円卓があり天井の光源も丸く、淡く青い光を全周に照らしている。
例外も一人いるが、その部屋では深海棲艦の姫が円卓を囲んでいた。その数は七人。
港湾棲姫以外はまだ人類に認知されていない姫たちだった。
「ツマリ≠тжa,,ハ総力ヲ挙ゲテ、ワルサメヲ奪還スベキト言ウノネ?」
「ソノ通リ」
≠тжa,,――すなわち港湾棲姫の主張を空母棲姫は確認した。
トラック泊地を監視している潜水艦たちからは、ワルサメの反応を今でも感知できるとの報告が届いている。
それを受けてワルサメをいかにするかというのが、姫たちの議題だった。
「≠тжa,,に賛成の者は?」
一人の姫が機械仕掛けの黒ずんだ右手を挙げる。後々に飛行場姫と認定される深海棲艦だった。
「生存ノ可能性ガアルナラ、デキル限リ手ハ尽クシタイ」
飛行場姫はそう言うが、二人に賛同する者は続かなかった。
進行役を担う空母棲姫は面白そうに笑う。
「ナルホド。他ノ者ハ……反対トイウコトカシラ? 私モ反対ダワ」
「何故ダ?」
「簡単ナコト。反応ヲ確認シタトコロデ無事トイウ証拠ニハナラナイモノ。我々ガ人間ヲ捕ラエタラドウスル?」
空母棲姫はますますおかしそうに笑う一方で、港湾棲姫からは表情が消えていく。
「第一、時間ガ経チスギテルワ。キットモウ手遅レ」
「デハ何モシナイト言ウノ?」
「ソウネエ。ソレデハ納得デキナイ気持チモ理解デキルワ。コウシマショウ」
空母棲姫は立ち上がると二人の姫を指名する。戦艦棲姫と重巡棲姫だった。
前者は黙々とし、後者は露骨に嫌そうな顔をする。
「我々デワルサメノ返還ヲ要求スル。ソレデワルサメガ無事ナラヨシ。返還ニ応ジレバナオヨシ。向コウガ拒否スレバ力尽クデ事ヲ為ス」
空母棲姫のこの提案には、港湾棲姫が独断で動くのを防ぐ狙いもあった。
結局、空母棲姫の提案は通り三人の姫を中心に出撃することになるのだが、ちょっとした要求をする者がいた。
七人の中で一人だけ姫ではない深海棲艦、レ級だった。
「戦イニ行クナラサァ、アタシモ連レテッテヨ」
従来のレ級のように黒いローブを被っているが、その目は流れ出る血を思わせる赤に輝いている。
好戦的な笑みで頬を吊り上げる彼女だったが空母棲姫はやんわりと拒否した。
「9レ#=Cモ連レテイッテアゲタイケド、アナタガイタラ交渉ドコロジャナイデショウ?」
空母棲姫はレ級をそれなりには評価していた。あくまで番犬の範疇としてなら、という前提つきだが。
まだ数こそ少ないものの、レ級はいずれも一騎当千と呼べる戦闘能力を有している。
特にこの場にいる9レ#=Cと呼ばれるレ級は図抜けた能力で、すでにレ級全体の束ね役になっていた。
その能力といくつか姫と同じ特徴を有しているために、彼女は姫たちとの会合に参加する権利を有している。
「ヒヒッ、確カニアタシガイタラ殲滅戦ニナルカモダケドサァ」
「私ガオ誂エ向キナ戦場ニ連レテ行ッテヤロウ」
レ級にそう言ったのは最後の姫、装甲空母姫だった。
「パナマ運河ノ防衛ニ手ヲ貸スヨウ頼マレテイル。アメリカノ艦娘ドモガ攻撃準備ヲシテイルラシイ」
「連レテッテクレルノカ! ヤッパ、アンタハイイヤツダナァ!」
「褒メテモ艦載機シカ出ナイゾ」
「新型? 新型カア!」
「働キ次第デハオ前ニモヤロウ」
結論は出たと見て、空母棲姫は戦艦棲姫と重巡棲姫に向かって意味深に笑う。
「サア、我々モ出陣シマショウ。ワルサメノ尊厳ノタメニモ」
とても本心には聞こえないその言葉は寒々しくて軽薄だった。
港湾棲姫はそんな様子をただ黙って見ていることしかできなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
翌日の夜になっても白露は悶々としていた。それもこれも全てはワルサメとの会話が原因だった。
「うーん……」
今は村雨と五月雨が様子を見ているので、白露は一人で悩む。
「でもなぁ……」
白露型の部屋で白露はひたすらに悩んだ。
「ああでもないし……」
「お姉ちゃん、さっきからうるさいっぽい! 構ってほしいなら言ってほしいっぽい」
「夕立、それは直球すぎる。姉さんは脳天気だけど、あれで地味に繊細なんだ」
「時雨姉さんは毒っぽいです……」
「ちょっとー! 好き勝手言いすぎ!」
白露は夕立、時雨、海風と順番に見ていく。
長女というプライドは妹たちに悩みをあけすけに打ち明けるという真似を許さなかった。
許さなかったが行き詰まっているのも確かで、遠回しに探りを入れるという抜け道を閃いた。
ここは邪推とかされなさそうな夕立でいいかな。
白露は夕立に質問する。
「夕立は今までに敵を何隻沈めたか覚えてる?」
「十から先は数えてないっぽい。なんで、そんなことを?」
「えっと……白露型で一番沈めてきたのって誰なのかなって。夕立か時雨だと思うんだけど」
「いや、そこは姉さんだと思うよ」
夕立ではなく時雨が意外な答えを寄こした。
信じられないといった思いで白露は聞き返す。
「うそ、あたし?」
「うん。だってボクや夕立は大物食いしたがるから目立つけど、数で言ったら姉さんだと思うよ」
「言われてみれば、そうっぽい。取り巻きを沈めてくれて、いつも助かるっぽい」
「さすが白露姉さんですね」
礼を言う夕立や本気で感心しているような海風に対して、白露はぎこちなく笑い返した。
「……そう、あたしなんだ」
「いっちばーん、だね」
「あはは、いっちばーん!」
一番あたしが沈めてるんだ。白露は笑顔を顔に貼り付けたまま部屋を出て行く。
部屋に残っていたら、妹たちの前で馬脚を現してしまいそうで。
白露は当てもなく歩く。思考も同じように出口の見えない袋小路に陥っていた。
「たとえ敵でも助けたい……かあ。電と潮。初霜も似たようなこと言ってたっけ」
その三人はいずれも他の鎮守府に引き抜かれていったので、白露がすぐに話を聞ける相手ではなかった。
こんな疑問を持ってしまった以上、誰かの話をもっとちゃんと聞いておけばよかった。
後の祭りとは分かっていても白露は落胆する。
この悩みが自分にとってどれだけ大事で、解決しないことには満足に戦えないと悟ってしまっていた。
白露は窓から夜空を見上げる。
「あの三人は誰にも言えないでこんな気持ちを抱えて、それとも誰かに助けを求めてたのかな」
あたしが知ってるぐらいだから、誰かにどんな気持ちか言いたかったり教えてほしかったのかも。
この空の下であの三人は何を考えて、どうやってこの気持ちに折り合いをつけているんだろう。
あたしってば悩める美少女だね。と白露は内心で茶化してみたが、乗ってくれる相手のいない軽口は面白くなかった。
白露はため息をつく。声をかけられたのはそんな時だった。
「あら、こんばんは」
「あ、ああ! こんばんは!」
部屋に戻る途中だった鳥海だった。白露はため息をついたところを見られてしまい、どうしようかと慌てていた。
白露は声も出せずに口を何度も開け閉めする。
鳥海はそれには何も触れずに横に並ぶと、同じように空を見上げた。
「すごい星の数ですよね。ちょっと頭がくらくらしちゃいます」
「あ……」
白露も空を見直して、それまで見ていたはずの星々の光に圧倒された。
自分がどの光を見ていたのかも曖昧になってしまうほどの数であふれている。
こんなに近くが見えていない。遠くも見えていない。このままじゃダメなんだ。
「秘書艦さん、あたし……」
どうしよう。こんなこと聞いてしまったら艦娘失格なのかも。
鳥海は急かさず待つ。白露はたっぷり時間をかけて、迷いに迷ってから打ち明けた。
「秘書艦さんはどうして戦うんですか?」
「そうですね……艦娘だから、でしょうか。私たちの意義は戦うことにあるんですから」
白露はいかにもだと思った。模範的で当たり障りのない回答。
そんな白露の感想を汲んでいたのか、鳥海は言葉を続ける。
「これは建前みたいな理由ですね。突き詰めてしまえば、もっと色々だと思います。撃たれたくない、沈められたくない。単純に戦いたいだけという人だっているかもしれません」
「そんな人……」
いるかも。何人かの好戦的な顔が白露の脳裏を過ぎった。
「もちろん、それがおかしいとは思いませんよ。戦う術をひたすら磨いて、それを発揮できないまま生涯を閉じる……それって心残りでしょうし」
「うん……」
「私はそうですね、初めから明確な理由なんてなかったと思います。好きだとか嫌だとか、そういうことは全然関係なくですね」
「今は違うの?」
「あまり聞かせるような話じゃない気もしますけど聞きたいんですよね?」
鳥海は笑顔を崩さなかった。
「私には姉が三人いるのはご存知ですよね? 軍艦としての話をすると、同じ日にレイテで三人とも失ってしまって」
「あれ、けど高雄さんは確か終戦まで生き延びたんじゃ」
「ええ、五体満足ではなかったですけど。でも落伍した時点で私は助からないと思っちゃったんです。そそっかしいですよね」
柔らかい語りで、冗談のように言う。
こんな話をどうして笑いながら話せるのか、白露には分からない。
分からないけれど、本当の意味で笑ってるわけじゃないのは分かった。
「あの時、私には何もできなかったんです。だけど今はこうしてまた艦娘として巡りあって、今度こそはと思ったんです」
「今度こそは……」
「ええ。それと司令官さんですね。私は……あの人と競争してるんです」
「競争?」
鳥海は頷くが、どんな競争かは白露に教えなかった。
ただこの時の笑顔は本当に優しそうだと思う。
「他にも島風とか伊良湖ちゃんとか、いつの間にか気づいたら周りのみんながどんどん大切になっていって、守らないといけないって思えるようになったんです」
正しいと白露は感じるが、だけどとも思う。
敵がワルサメみたいな相手だったらどうするんだろう。
本当は戦わないでも済む相手かもしれないのに戦うしかないだなんて。
白露のそんな思いを知ってか知らずか鳥海は言う。
「私の選択はもしかしたら……いえ、どんなに愚かでも私は戦います。いつか報いを受けるとしても、他に守る手段がないのなら」
「……提督やみんなのために?」
「司令官さんや皆さんと一緒にいたい私のためにも、です」
「……そっか。自分のためでもあるんだ」
「ええ。自分自身が欠けた理由というのは……きっと辛いですから」
鳥海は深く息を吐く。充足感の伴った呼吸だった。
そのまま鳥海は白露の手を取る。
「白露さんだって守りたい一人ですよ」
「あたし……」
白露は俯いて鳥海の体に身を預ける。溜め込んでいた気持ちを震える言葉として一息に吐き出した。
「あたし、どうしたらいいんだろ……全然分かんないの。どうしたいかも分かんなくて……。
これからだって戦わなくちゃいけないのに相手がワルサメみたいな子だったら、ううん、今まで沈めた深海棲艦もあの子みたいな子だったらって思うと……。
あたしがやってきたことって間違えてたのかな……ワルサメを助けないほうがよかったのかな……もう、もうぜんっぜん分かんなくなっちゃって……」
鳥海は白露が落ち着くまで、何も言わずに待った。
しばらくして白露の様子が元に戻ってくると、鳥海はささやいた。
「私は答えを教えてあげることはできません。だから悩むだけ悩めばいいと思います」
「悩んでいいの……?」
「白露さんの悩みはあなただけのものですから。だから見つけてください。白露さんらしい一番の答えを」
いいんだ。おかしくないんだ。こんなこと考えてても。
白露は今の自分を否定されないどころか肯定されて嬉しかった。
「ありがとうございます」
素直な言葉が白露の口から出る。
「あと秘書艦さん、提督みたいだよ?」
「え……それはなんとも言えない気分です」
「一応は褒め言葉のつもりだったんだけど……」
「私は別に司令官さんになりたいわけじゃありませんし」
鳥海は微笑みながらも、困ったように手を振る。白露にはその気持ちはまだよく分からなかった。
好きな人となら一緒になりたいって考えそうな気がするのに。
けど、今はそれよりも。
「あたし……悩みむよ。これ以上ないってぐらい一番悩むんだから」
まだ何も前進できてないのかもしれない。
それでも白露の心はずっと軽くなっていた。
――二日後。
トラック泊地の前に深海棲艦の姫たちが姿を現し、白露は自分の答えを示すことになる。
そして白露は悩んでいたのが、自分だけじゃなかったのを知る。
導いた先の答えが正しかったとしても、望む結果を得られるとは限らない。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その日、提督は午前中からワルサメと話す時間を設けていた。
保護という形で接触してから、すでに二週間が過ぎている。
鳥海や白露、村雨の立会いの下、提督は深海棲艦や姫という存在について質問をしていき、いくつかの事実を知る。
もっともワルサメも全ては語っていなかったし、提督もそれは承知の上だった。
提督は聞き出せる範囲から仮説を立てていき、一つの推測に至る。
深海棲艦の地上侵出というのは、どうやら人間が考えていたよりも困難らしい。
それが戦況の突破口になるかまでは分からないが、闇雲の中に差した一筋の光明のように思えた。
「アノ、モウ一ツ」
聞ける限りの話が済んだと提督が思っているとワルサメが言う。
「コーワンハ提督ヲ気ニシテイタ」
「どういう意味だろう?」
「ドンナ人間ガ艦娘ヲ束ネテイルノカト興味ガアルミタイ」
なんだそれは、と提督は思う。
興味を持たれてるなら、うまく立ち回れば接触もできるのか?
提督の考えはサイレンの音で中断された。
初めて聞いたであろう、けたたましい音にワルサメが痺れたように飛び上がる。
「ナンデスカ、コレ!?」
「ワルサメの仲間が近づいてきてるんだ」
深海棲艦発見を知らせる第一報だった。
提督はすぐに鳥海に出撃準備を始めさせ、戦闘配置で待機していた艦娘たちに先行するよう指示を下す。
航空隊からも追加の彩雲が発進し、戦爆連合の発進準備が急ピッチで進められていく。
提督は白露たちとワルサメを連れて作戦室に向かう。
本来ならワルサメには見せてはいけない場所だが、それでも構わないと提督は判ずる。
一行が到着すると敵情についての詳細が分かる。
深海棲艦はトラック泊地を艦載機の射程圏内に捉えながら、ラジオの周波帯に乗せて通達を発信していた。
要求は簡潔だった。
速やかにワルサメの身柄を返還しろというもので、拒否した場合やワルサメが無事でないなら総攻撃をかけるという。
時間までに返答がない場合も同様で、一三三○までに返答を求めていた。
提督が時間を見ると、すでに午後一時を回っている。
「あと三十、もう二十七分か。余計な手立ては講じさせたくないわけか」
偵察機が深海棲艦の艦隊に触接しているが迎撃はされていない。
むしろ陣容を誇示しようとしているようだった。
偵察機から転送されている映像には、深海棲艦の集団からやや離れた箇所に三人の姫が集まっているのが映っている。
「ワルサメ、あの姫たちについて教えてもらえないか?」
ワルサメは三人いる姫の中から中央の一人を指す。
一航戦の赤城と加賀を足したような髪型だと提督は思った。
「三人とも初めて見る姫だ」
「>An■■■……アナタタチ風ニ言エバ、タブン空母棲姫。コッチガ戦艦棲姫デ重巡棲姫」
それからワルサメは画面の向こう側の空母棲姫を見ながら、ためらいがちに付け加える。
「怖イヨ、コノ姫ハ」
警告と提督は受け取った。
姫たちを除いても、全体の数は六十強。こちらの総数よりも頭一つは多い。
どの艦種も赤か金色の光を発している強力な個体だけで固められていた。
「レ級がいないだけマシか」
率直な感想だった。一人で複数の艦種の役割を担えるレ級の存在は、姫よりも厄介かもしれない。
時間はもうあまりない。決断して行動に移る必要がある。
深海棲艦の要求を呑むか呑まないか。そもそも信じられるか否か。
戦いを選んでも避けても、満足のいく結果にはならないのかもしれない。
「ワルサメはどうしたい? 俺は君を返すべきじゃないと考えてるし、そのためなら総力を挙げて連中を叩き返すべきだと思っている」
「デモ……アノ姫タチハ強イヨ……」
ワルサメは本心から艦娘たちの身を案じているようだった。
「分かってる。こちらも無傷というわけにはいかないだろうのも。それでも、戦うだけの意味はあると思ってる」
「ソレハ私ガ深海棲艦ノ姫ダカラ?」
「そうでもあるし、それだけでもない。俺たちとこうして意思の疎通ができてる相手だから、俺は守る必要を感じてる」
極端な話、やり取りさえできるなら駆逐棲姫でなくイ級やロ級であっても提督は構わなかった。
「ただ、それはこちらの事情だ」
「提督、あたしは……」
「白露、今はワルサメと話してるんだ」
会話に割って入ってきた白露を提督はすぐに制する。
語調を荒げたわけではないが、白露は力なく引き下がった。
艦娘の自由を尊重してるし多少振り回されても文句を言わない提督ではあるが、あくまで時と場合によりけりだった。
「もし深海に戻りたいなら止めないし白露だろうと邪魔はさせない。決められないならそれでもいいし、俺が言った以外の考えがあるならそれでもいい。今ここで決めてくれ」
ワルサメは目をきつく閉じると真剣に考え始める。
提督は深く息を吐いて待った。急かすよりも、自身にも落ち着くための一拍が必要だった。
「提督ハ私ヲ守ッテクレルンデスカ?」
「それが俺や艦娘を守ることに繋がるのなら」
「デハ深海ニ戻リマス」
意を決したよう、力強くワルサメは提督に告げた。それからワルサメは白露と村雨も見る。
「私ガ戻レバ戦闘ハ避ケラレマス。ソレニミンナヲ説得シタインデス。私タチハ折リ合エルハズダカラ」
ワルサメは明らかに白露を意識していた。当の白露は無言で見つめ返す。
普段の白露ならここで何か言いそうだったが、今回はそうじゃないらしい。
「それでいいんだな?」
「ハイ」
提督は作戦室に詰めている妖精に深海棲艦との通信を繋げさせ、その内容を艦娘たちにも聞こえるようにする。
深海棲艦も通信に応じてきた。
『こちらはトラック島鎮守府を預かる准将だ。貴艦の要求を受け入れ、そちらにワルサメを返す』
提督は時刻を確認する。
『ただし彼女が航行するための艤装を用意するのに時間がかかる。引き渡しには一七○○まで猶予がほしい。また護衛に艦娘をつけるが、そちらが戦端を開かなければこちらからも攻撃は行わない』
『イイトモ、護衛モ用意モ理解シタ』
画面では空母棲姫の口が動いている。深海棲艦の艦隊を仕切っているのは間違いなかった。
『シカシ長スギル。一六○○ニハ返シテモラウ。ソレトコノ羽虫……アア、スマナイ。コノ偵察機以外ノ航空機ヲ差シ向ケテキタラ、ソチラノ主張ハ虚偽ト見ナシ攻撃スル』
『寛大な配慮と格別の理解に痛み入る。しかし一五○○まではこちらも動けない』
『一五三○マデハ待ツ』
深海棲艦側から通信が切られた。
各島の民間人が避難する時間も含めて、もう少し時間を稼ぎたかったがやむを得ない。
それにしてもおかしなものだと提督は内心で苦笑する。
これまでなら互いに見敵必殺と言わんばかりに問答無用で撃ち合っていたはずが、今はどちらもワルサメを巡って要求を押し通そうとしていたなんて。
仮にふりだとしても奇妙なのには変わりない。
あとは茶番でないのを願うばかりだったが、提督としてはあまり期待していなかった。
一縷の望みを託すには、空母棲姫というのは疑わしい存在に映っていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
白露は妹の時雨、夕立を伴ってワルサメの護衛についていた。
艦隊速力は二十三ノット。巡航速度よりも速いのは、この速度でないとワルサメの引き渡し時間に間に合わないためだ。
「ココノ波ハ穏ヤカデスネ」
久々に外に出られたワルサメはそんな感想を漏らす。
風を一身に受けて水上を滑るように進むワルサメは、今にも飛び跳ねそうなぐらい軽やかだった。
ワルサメの艤装は意外なところから用意された。
夕立が改二以前に使用していた艤装を、武装類を撤去して使っている。
誰が最初に言い出したのか分からない方法だけど、試しにワルサメに装備してもらうと思いの外馴染んでいるらしい。
白露は夕立に耳打ちする。
「よく夕立も渡す気になったね。改二艤装があるとはいっても、自分で使い込んできた艤装なのに」
「あの子ならいいかなって」
白露の疑問に夕立は言葉少なに答える。
夕立はワルサメには聞かれないように気を遣っているようだけど、別段嫌そうな顔もしていない。
「夕立はあの子にちょっと冷たくしすぎた気がするから、少しは恩を売りたくなったっぽい」
「ちょっとかー。だいぶだった気がするけどね」
「別に反省はしてないっぽい」
まったく、この子も素直じゃないんだから。白露はそんな風に考えながら夕立から離れると前方に目を向けた。
白露たちとワルサメは二つの艦隊に前後を挟まれている形になる。
前方には水先案内人も兼ねた艦隊が先行していて、内訳は鳥海、武蔵、ローマ、島風、天津風、長波となっている。
白露たちの後方にはトラック鎮守府に戦闘艦として籍を置く四十人あまりが続く。
「提督さんは護衛って言ってたけど、これじゃ総力戦みたい」
「実際そうでしょ。あの数の深海棲艦と戦うことになったら出し惜しみとかできないし」
一触即発。そんな雰囲気の中でワルサメを返さないといけない。
本当にこれでワルサメを無事に返せるのかな?
白露は他の艦娘たちも同じ懸念を抱いているような気がした。
しばらく航行を続けていると、深海棲艦の艦隊を目視できるようになる。
深海棲艦が止まるように要求しているのが聞こえてくると、先頭を進んでいた鳥海が全員に微速まで減速するよう伝えてくる。
完全に足を止める気はないという意図を白露も察した。
白露がワルサメを見ると、少し前までの楽しそうな様子は消えていた。表情も強張っている。
あの日の夕方以来、白露はワルサメとはあまり話していなかった。
「ミナサン、今マデアリガトウゴザイマシタ。私ハ私ニデキルコトヲシテキマス」
それからワルサメは白露を見て、自分から話しかけてくる。
「白露、アリガトウ。楽シカッタヨ」
「あたし……」
ワルサメとは、これでお別れかもしれないんだ。
そう思うといても立ってもいられなくてワルサメを抱きしめていた。
ワルサメもまた同じようにしてくれる。
「ゴメンナサイ……白露ニ酷イコトヲ言ッテシマッテ……」
「そんなことないよ!」
今でも悩みは解消し切れていないが、白露はそれでワルサメを悪く思ったりはしなかった。
白露が笑うとワルサメも笑い返してくるけれど、泣くのを堪えているような気がする。
そう感じたのは白露がそんな気持ちだったからかもしれない。
これ以上名残惜しくなってしまう前に、白露は微速でワルサメから離れていく。
ワルサメは時雨と夕立にも一声伝えると最後に全体へ一礼をして、艦娘たちに背を向けて深海棲艦たちへと移動を始める。
「行っちゃったね」
時雨が呟く。夕立とは違った意味で距離を置くようにしていた節があったけど、表情は冴えていない。
「仕方ないよ。あの子にはあの子の目的があれば居場所もあるっぽい」
「だから帰らなくちゃならない、か。姉さんはよかったの?」
「……よくない。よくないけど、ワルサメがそう決めたなら送り出さないと」
白露は遠のいていくワルサメの背中から目を離せなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ワルサメは夕立の艤装を操っている内に、その艤装を扱っている自分をごく自然なように感じていた。
今までがずっとこうであったような慣れ親しんだ感覚で、自身が望む微妙な動きにも明確に反応してくれる。
艤装というよりも自分の体の一部であるように捉えていた。
だからこそ三人の姫を前にして、艤装の反応がぎこちなくなるのも仕方ないのかもしれないとワルサメは考えた。
「戻ッテコラレタワネ、ワルサメ」
薄ら笑いの空母棲姫を前にして、ワルサメは萎縮していた。
ワルサメが白露たちから感じていた気持ちを感謝や郷愁のような前向きなものだとすれば、空母棲姫からは拒絶や敬遠といった後ろ向きの感情になる。
夕立の艤装はワルサメの感情を如実に反映しているようだった。
「言イタイコトハイクラモアルケド、今日ノトコロハ帰リマショウカ」
「待ッテ。今日ダケジャナイ。私タチト艦娘ハモウ戦ワナイデイイカモシレナイ」
ワルサメの言葉に空母棲姫は興味を示す。
「何カ根絶ヤシニスル作戦デモ?」
「ソンナノナイ。私ハ艦娘ヤ人間ト和解デキルノヲ理解シタ。コノママ争イ続ケルナンテ不毛スギル」
「ソレハ本気カシラ?」
ワルサメが頷くと空母棲姫は信じられないと言いたげに頭を振った。
論外、と重巡棲姫が呟く。戦艦棲姫は無言を貫いたまま哀れむような眼差しを向ける。
「信ジラレナイワネ」
空母棲姫はおかしそうにくすくす笑う。ひとしきり笑うと、その眉が逆立っていた。
「艦娘ニ何モ感ジナイノ? 壊シタクナラナイ? 沈メテヤリタイトハ? 燃ヤシテヤリタイトカ!」
「感ジナイ! アナタタチガ戦ウカラ、私ダッテ戦ワナイトイケナカッタダケ!」
「ツマリ、ワルサメハ初メカラ戦ウ意思ガナイト?」
ワルサメは唾を飲んだ。
できるのなら、それまでの発言をなかったことにしたいとワルサメは思って――思いはしても本当に望んだりはしなかった。
ワルサメは覚悟を決めて頷く。
「モウイイワ」
空母棲姫は言うが早いか、艤装の20.3cm相当の単装砲でワルサメを撃った。
直撃弾を受け、ワルサメは悲鳴ごと海面に叩きつけられる。
「ココマデ変節シテイタノハ残念ヨ。ヤハリ、オ前ハ姫以前ニ深海棲艦トシテモ相応シクナイ」
空母棲姫からは怒りの表情は消え、代わりに唇を酷薄に吊り上げていた。
すでに照準はつけられていて、単装砲はワルサメに向けられていた。
「≠тжa,,ニハ、ワルサメハスデニ壊レテイタト伝エテオクワ」
港湾棲姫の名を聞いて、ワルサメの体に力が入る。
彼女ならきっと話を聞いてくれて、しかも分かってくれるはず。そう考えて。
ワルサメには何も打開策はなかったが、艤装がワルサメの意思を組んだように唸りを上げる。
端から見れば艤装がワルサメの体を引きずるように動かして、空母棲姫が止めとばかりに放った一弾を避けてみせた。
「アラ? アラアラ、避ケテシマウノ? マルデ亀ネ。楽ニシテアゲヨウト思ッタノニ」
引きつったように笑いだした空母棲姫だが、不意にワルサメから視線を外して横を向く。
その方向から遠雷のような砲撃音が何度も聞こえてくる。
「ヤッパリ、ソウコナクテハ。見ナサイ、ワルサメ。艦娘ドモガ戦ッテル。オ前ヲ救イタイヨウネ」
ワルサメが恐る恐る一瞥すると音だけでなく、水柱がいくつも立ち昇っては消え、時に爆発の閃光が混じるのも見えた。
戦局はどちらが有利なのか、あるいは互角なのか。ワルサメには判断できなかったが、この戦いが止めようもない段階なのは悟った。
「戦ワナイデイイト言ッタオ前ノタメニ艦娘ハ我々ト戦ウノヨ。分カルデショウ? コレハ必然、宿命ナノヨ」
「私ノタメニ……」
「サア、助ケハ間ニ合ウカシラ?」
空母棲姫は艦載機を発艦させないで単装砲でワルサメを狙う。あくまでもいたぶろうという魂胆を隠そうともしていなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ワルサメが空母棲姫に攻撃されたのを白露は見た。
なんで、という疑問はすぐに別の思いに消される。ワルサメを助けないと。
動揺が広がる中、何人かの艦娘は素早く戦闘態勢に移行するが、その中でも最初に動いたのが白露だった。
背中にマウントしていた主砲を外すと体の正面に固定するよう構える。
「総員、戦闘用意!」
鳥海の号令が全員に通達されるが、その時にはもう白露は先行していた。
「一番最初に突撃するよ!」
白露はそう叫ぶなり真っ先に先陣を切った。
距離が近かったので、すぐに戦艦は砲戦距離に入る。
互いの戦艦の砲撃が行き交う中を白露は進む。すぐ後ろには時雨と夕立もついてきている。
敵艦隊を牽制するために、白露は両側面に向けて魚雷を放つ。
命中は期待できなかったが、魚雷の進路から外れようとしてにわかに隊列に乱れが生じる。
白露は敵艦の撃沈よりも、少しでも早くワルサメと合流することを優先した。
「白露さんの支援を――――」
通信機から聞こえる鳥海の声は後のほうになるに連れてノイズが混じるようになっていた。
電探の調子も急に悪くなる。遠方まで捉えていたはずが、輝点は消えて近くの敵艦の反応を捉えるのがやっとだった。
「電探が変?」
それは白露に限った話ではない。時雨が通信を入れてくる。
「姉さん、電装系統がおかしい。深海棲艦の攻撃かもしれない」
通信網にも影響が出ているみたいで、普段よりも声が聴き取りづらくなっている。
改めて鳥海からの通信が一同に入る。いくらか音声が明瞭になっていた。
「先行する白露さんたちを支援しながら前進、ワルサメを救出します! ジャミングを受けていますが訓練を思い出して動いてください!」
「秘書艦さんの言う通りだね」
元々、電探に頼りすぎないように訓練をこなしてきている。今だってその延長だって考えればいい。
道具を当てにしすぎないっていうのは古い考え方なのかもしれないけど。
その考えをゆっくり反芻している暇はなかった。
突出気味の白露たちに砲撃が降り注いでくる。
当てずっぽう気味に反撃しながら、視界を塞ぐような水柱を何度もかいくぐっていくと砲撃の手が緩んでくる。
白露たちの後方から追いすがる鳥海たちが敵を引きつけ始めていたからだ。
この間にワルサメに一気に近づこうとするが、ト級軽巡とハ級駆逐艦二隻が白露たちの行く手を阻む。
「時雨と夕立はハ級の二番艦を!」
白露の指示は短いが妹たちに意図は伝わる。
ト級の動きを電探でチェックしながら、より速いハ級から狙う。
艦娘の主砲としては最小に近い12.7cm砲でも手で保持して撃てば、それなりの反動を感じる。
慣れた反動を受けながら、主砲が次々に弾を吐き出していく。
首だけで航行しているように見えるハ級も、側面の耳に見える部分から砲口を露わにして撃ち返してくる。
互いの周りに砲弾が集まり海面を泡立たせるが、白露に集まる弾はすぐに減った。
一発がハ級に命中し、砲戦能力を削いだ結果だ。
「このまま押し切っちゃえば……」
瞬間、白露の脳裏に甦る。
――あたしが一番沈めてる。ワルサメかもしれない相手を。
白露はハ級が健在な砲口を向けているのを見る。敵はまだ諦めていない。
だったら撃つしかないじゃない。
やられたらワルサメを助けられなくなる。妹たちだって危なくなるかもしれない。
「撃つしかないじゃない!」
白露の砲撃がハ級にとどめを刺す。苦い思いを抱きながらも、そればかりに気を取られてられない。
「姉さん、後ろ!」
「分かってるって!」
白露は時雨の警告より先に取り舵を切っている。
それまでの進路上に水柱が連なっていく。
両肩に砲塔を積んだト級が白露を狙ってきていたが、逆に側面から撃ち返していく。
白露の砲撃が吸い込まれるように命中していき、ト級の左側の主砲をねじ曲げて発射不能に追い込んだ。
そのまま回りきった白露は優速を生かしてト級の背後を取ると、右肩の主砲にも集中砲火を加える。
衝撃で基部から浮かび上がった主砲が外れる。もう撃てないはず。
「これで十分でしょ! 帰りなさいよ!」
白露の言葉にト級は嗤うように顔を歪めると、逆に猛然と向かってきた。
十分想像できる行動だったが、白露の反撃が遅れる。撃ち返さないといけないのに撃てない。
そこに時雨と夕立の砲撃が届いて、ト級を滅多打ちにする。
悲鳴を上げる代わりにト級は腕を伸ばす格好で海中に没していき、白露は硬い表情でそれを見ていた。
こうなってもおかしくないのは分かっていたはずなのに。
「姉さん、大丈夫?」
周囲への警戒を怠らないまま時雨が尋ねる。
努めて明るい声で白露は応じようとした。
「ありがとう、おかげで命拾いしたよ」
「それはよかった。でも……」
時雨の歯切れは悪い。それもそうだ。
きっと撃つのをためらっていたように見えていたのだろうから。実際に白露はためらった。
「ゆっくりしてる暇はないっぽい。敵が集まってきてる」
「よーし、急ごう。追いつかれる前に抜けちゃわないと」
白露たちはワルサメと三人の姫たちへと針路を取る。
針路上に他の深海棲艦は見当たらない。このまま抵抗を受けずに到達できそうだった。
「秘書艦さんたちを待ちたいとこだけど……突出しすぎちゃったかな」
「まあ鳥海たちもボクたちが先行できるようにしてくれてたから、それは問題ないと思うよ」
「鳥海たちなら追いついてくれるっぽい。それよりお姉ちゃんは戦えるっぽい?」
率直な質問に白露が夕立を見ると、まっすぐに見返してくる。
白露は周辺警戒をしながら、その視線から目を逸らす。
「お姉ちゃんはさっきからずっと苦しそうっぽい。それって何かに悩んでるからでしょ?」
図星だった。言い返すつもりだったのに口ごもってしまう。
「それってワルサメを助けたら解消するっぽい? 夕立には分からないけど、お姉ちゃんには大切なことなんだよね」
「でも、あたしは!」
「何がでも、なのかは分からないけどボクも夕立に賛成だ」
「時雨までそんなこと言う!」
「言うさ。妹が姉の心配をして何がおかしいんだい?」
「心配って……」
「さあ。迷ってる時間はもうないよ、姉さん。ボクらはもうすぐ姫級たちからワルサメを助け出さないといけない」
「だから失望させるなって言いたいの?」
「失望なんかしないさ。だって姉さんは真っ先に飛び出したじゃないか。それって本当はとっくに心が決まってるんじゃないかな」
時雨に言われて白露は気づいた。確かにその通りかもしれないと。
白露は悩みそっちのけでワルサメを助けたいと思った。
それは紛れもなく白露自身の心から生じた行動だった。
「大丈夫だよ。姉さんがそうと決めたことなら、ボクたちは信じてついていく」
時雨の言葉に夕立まで頷く。揃いも揃って、こうまで言われたら引き下がれない。
でも、この気持ちは悪くないどころか、むしろ清々しかった。
白露は天を仰ぐ。大丈夫、できるできる。
「やってやろうじゃない! ついてきて、二人とも!」
「それでこそ姉さんだ」
「世話のかかるお姉ちゃんっぽい」
妹二人の言葉を背中に白露は進みだした。
それから三人は抵抗らしい抵抗を受けずに進む。
白露たちが近づいてもなお、空母棲姫はワルサメを狙い撃っていた。
ワルサメの体が水流に捕まった小枝のように弄ばれている。
直撃させてないようだけど、裏を返せばそれだけ長くワルサメを苦しめていることになる。
「あいつ……!」
許せない。そう思う白露だったが、すぐに悪寒を感じる。鳥肌も立っていた。
戦艦棲姫と重巡棲姫のせいだと、すぐに気づく。
二人の姫はワルサメと空母棲姫の間に立ち塞がるっている。
一発も撃ってこないが、白露たちに気づいていて視線は三人を追ってきている。
ただそれだけなのに、動きそのものを阻害してくるような重苦しさがあった。
姫たちの視線は威圧感そのものだった。
時雨がいつになく硬い声で言う。
「どういうつもりなんだ?」
「……外さない距離まで待ってるっぽい?」
撃たれないまま接近できたのは好都合でも、意図が不明なのは不気味だった。
「姉さん、ボクと夕立で姫たちを牽制してみる。ワルサメのほうを」
「分かった。でも不用意に撃たないほうがいいかも」
「……そこは臨機応変にやるっぽい」
時雨と夕立が白露とは別に横に逸れ、戦艦棲姫の側面から近づくような針路を取ったのを白露は見る。
すると重巡棲姫が両者から離れるように移動を始めた。波に流されるように緩慢な動きで、どこかしら興味をなくしたようでもある。
時雨たちが戦艦棲姫と対峙している間に、白露はワルサメへと一気に近づいていく。
ワルサメは息も絶え絶えに海面に膝をついている。
沈んでいかないのは艤装がまだ生きているのか、深海棲艦としての特性なのかは白露には判断がつかなかったし、どっちでもよかった。
「ワルサメ!」
「白露!? ドウシテ……」
「助けにきたに決まってるでしょ!」
白露は空母棲姫に向けて砲撃するが、巨大な艤装に反して軽快な動きで空母棲姫は直撃を避けていく。
逆に加速しだした空母棲姫は砲撃を受けながらもワルサメに急接近すると、その体を抱えあげて自身の体の前に突き出す。
「ワルサメを盾にして……!」
白露が砲撃を急いでやめる。最後に撃った一弾がワルサメのすぐ横を擦るように行き過ぎた。
空母棲姫が声を押し殺すように笑う。
「撃タナイノ、艦娘? コイツハオ前タチノ情報ヲ探ルノガ目的ダッタノニ」
「スパイだって言いたいの? そんな見え透いた嘘には騙されないよ!」
「ドウシテ嘘ト言エル?」
「ワルサメはそんな子じゃないし、あんたの言葉は薄っぺらいし」
空母棲姫はつまらなさそう鼻で笑う。
「フーン、カラカイガイモナイ。モット右往左往シテクレタライイノニ」
空母棲姫がワルサメの頭を掴み直すと、ワルサメの口から苦しげな声が漏れる。
白露は主砲こそ向けているが撃てない。代わりに怒りをぶつける。
「人質なんて卑怯だと思わないの!」
「……ソコヨ、ソコガ分カラナイ。艦娘ガ深海棲艦ノ心配ヲスルノ?」
「当たり前でしょ。あんたこそ、どうして同じ深海棲艦にそんなことできるの!」
「コレハ私ガ思ウ深海棲艦デハナイ。ダカラ死ニ体ヲ盾代ワリニシタダケ」
空母棲姫は掲げるようにワルサメを突き出してくる。
体の所々から黒い体液を流してはいるけど、致命傷を負ってるようには見えなかった。
つまり……助けられるってことだよね。
「その子を離して」
「ソウネエ……武器ヲ捨テタラ考エテモイイワ」
「ダメ……ソンナコトシタッテ……」
「黙リナサイ」
ワルサメの髪を引っ張って、空母棲姫は無理やり黙らせようとする。
すかさず白露は言っていた。
「待って! 言う通りにするから……」
なんなの、この展開。映画やドラマじゃあるまいし。
しかも、これって悪党……つまり空母棲姫は絶対に約束を守らないやつだ。
こんな分かりやすい嘘に引っかかる主人公なんて、今までずっとバカだと白露は思っていた。
しかし、今の白露はどうしてそうするのか理解できる。
ワルサメを助ける可能性に賭けるなら、すがるしかない。
白露が主砲を足元に落とすと、空母棲姫は遠くに捨てるよう言ってきたので言われた通りに投げる。
艤装についている対空機銃も同じようにしないといけなかった。
「魚雷ハ?」
「とっくに使い切ってるよ」
嘘じゃない。次発装填分も含めて道中で使い切っていた。
こういう時、映画の主人公だったら武器を隠し持ってたり仲間が助けに来てくれるけど、どちらも期待できなかった。
白露は武器を隠し持っていなければ、時雨と夕立もすぐには来れないはず。むしろピンチかもしれない。
空母棲姫はいよいよおかしそうに笑い出す。
「ソウマデシテ、ワルサメヲ助ケタイノ? 一体オ前ニトッテワルサメハナンナノ?」
「なんだろうね……」
空母棲姫に指摘されるまで、白露はワルサメをどんな存在と考えているのか気にしていなかった。
それでも、すんなりと言葉が出てくる。
「あたしの、大切な友達だよ」
「……不可解ダワ。シカモ不快ヨ」
空母棲姫は忌々しそうに顔を歪めると、ワルサメを突き飛ばすように押しやってきた。
本当に解放してくると思ってなかった白露だが、すぐにワルサメに近づく。
そうして空母棲姫がワルサメに向けて砲口を向けているのも見た。
白露は叫んだ。自分でもよく分からない声で叫びながら、ワルサメを抱きかかえるようにして庇う。
そうして衝撃に見舞われて、音も消えた。
─────────
───────
─────
ワルサメの顔が間近に来る。
「白露! 白露!」
ワルサメが名前を呼んでいる、と白露が意識すると他の感覚も戻ってくる。
耳の痛みと一緒に音が戻ってくる。
心臓がものすごい勢いで音を立てていて、外の音が聞き取りづらい。
背中が焼けるように熱くて痛かった。
艤装の損傷の程度が中破に当たると、白露の頭に自然と思い浮かんでくる。
そして空母棲姫に撃たれたのを思い出して、当たり所がよかったんだと察した。
重巡と同じ大きさの主砲弾が直撃したのに中破程度の被害で済んでるんだから。
「生カスモ殺スモ私次第。イイワァ」
陶然とした様子で空母棲姫は白露とワルサメを見下している。
白露はワルサメの手を借りながら体を起こす。痛くても体にはまだ力が入っている。
「どうせ……殺すんでしょ?」
「当然ジャナイ。オバカサンナノ?」
「二択ですらないじゃない……」
白露は思い出す。ワルサメと初めて出会った時を。
あの時、ワルサメには選択肢があった。
もしもワルサメが死を望んでいたのなら……きっと望み通りにしたのだと白露はふと思った。
「ゴメンナサイ、白露……私ノセイデ……」
ワルサメが白露にしがみついてくる。
白露もまたうずくまるような格好でワルサメを抱きしめ返す。
今のワルサメは白露から離れない。これもワルサメの選んだ選択肢なんだと思う。
「あたしなら……助けたい」
「白露……?」
ワルサメと出会った時のように、今の空母棲姫のように誰かの命を握ってしまったのなら。
「あたしなら助ける。逆を選ぶんだから!」
空母棲姫も自分との比較と気づいたみたいで、おかしそうに笑った。
唇の端は冷笑で吊り上っている。
「ナラバ助ケタ亀ゴト沈ンデ逝キナサイ、艦娘!」
白露はとっさにワルサメを後ろへと突き飛ばす。
こんなのは時間稼ぎにもならないと思いながら、それでも何かせずにはいられなかった。
両腕を広げて砲撃を、自分への止めを待ち構えた。
――しかし、その瞬間はやってこなかった。
その原因は音だ。航空機のエンジン音が近づいてきている。
空母棲姫の注意が空に向く。
白露にもワルサメにも武器はなく、それ故に脅威なしと判断したに違いなかった。
近づいてきたのは二機の烈風と彗星と流星が一機ずつ。
どうして四機だけが飛来してきたのかは分からない。
分かったのはわずか四機でも、艦載機を発艦させていない空母棲姫には脅威になりえるということだった。
彗星が翼を振るような動きを見せると、四機は三つに分かれる。
二機の烈風は増速すると20mm機銃を空母棲姫に浴びせかけていくと、空母棲姫の艤装に火花が散る。多少の傷がつく程度だが、牽制にはなっている。
その間に流星が海面に接触しそうなほどの低高度まで降下し、彗星は左に横転しながら降下位置につこうとしていた。
白露は彗星の尾翼に三本線が入ってるのを見た。
「羽虫ドモガ!」
空母棲姫は烈風の銃撃の合間を縫って、無理にでも艦載機を発艦させようとしていた。
もう白露もワルサメも眼中にない。目論見が台無しにされて焦りを隠そうともしていないように白露には見えた。
そして白露は自分の間違いに一つ気づく。まだ武装が残っている。白露も今の今まで忘れていた武装が。
白露は艤装から爆雷を取り出す。空母棲姫の艦砲を受けても誘爆しないでいてくれた。
頭の片隅に陽炎型の嵐を思い出す。以前、何かの折に爆雷をどう放り投げるか実演していたことがあったからだ。
多少うろ覚えであっても構わなかった。
「ただで、やられるかあ!」
オーバースローで投げた爆雷はアーチを描いて、空母棲姫の艤装上の左甲板に落ちる。
爆雷は偶然にも飛び立とうとしていた空母棲姫の球状艦載機を押し潰し、それにより勢いが殺がれ甲板から飛び出さなかった。
左甲板の中央に留まった爆雷はそこで炸裂した。
想定外の攻撃に空母棲姫の体が前につんのめり動きが鈍る。
そこに彗星が急降下爆撃を敢行する。直角に見えるような鋭い角度からの逆落としだった。
彗星は体当たりするのかと思うほどに急接近してから、爆弾を切り離し機首を上げて退避していく。
投弾された爆弾は空母棲姫の無事だった右甲板に命中し大穴を穿った。
さらに流星の雷撃が空母棲姫の右側に突き刺さり、盛大な水しぶきを生み出した。
「バカナ! タッタコレダケノ攻撃デ私ガ!?」
わずか四機の艦載機と手負いの白露によって、空母棲姫の艦載機は封じられた。
「油断しすぎなのよ、空母棲姫!」
「オノレ、オノレェェ!」
髪を振りかざして、それまでとは違う本気の形相で空母棲姫が向かおうとしてくる。
しかし空母棲姫は突撃せずに素早く後進する。
すると、空母棲姫が進むはずだった付近に砲撃が続いた。
「時雨、夕立!」
二人は矢継ぎ早に回避行動を取る空母棲姫に砲撃を加えていく。
空母棲姫は舌打ち一つを入れながら砲撃を回避していき、自身の体に直撃する軌道上の砲弾を両腕で叩き落とす。
「アノ二人ハ何ヲシテイル!」
「あっちならメガネーズが相手をしている」
時雨が応じると、イヤホン越しにローマが声を張り上げる。
「誰がメガネーズよ、誰が!」
「はっはっは、我々以外にいるまい!」
おかしそうに笑い飛ばしている声は武蔵だった。
歯噛みするローマの顔を白露は自然と思い浮かべていた。
「何が面白いのよ……あんたも何か言ってやりなさい、鳥海」
「聞こえる、白露さん?」
「はい!」
「無視しないでよ!」
「まだ動けるなら、このままワルサメを連れて下がってください」
「了解! でも空母棲姫は……」
空母棲姫は状況を不利と判断したのか、時雨たちの砲撃をやり過ごしながら後退し始めている。
被雷した損傷で速力は落ちてるようだと白露は見て取った。
「時雨さんと夕立さんだけで仕留められそうですか?」
「……難しい、と思う」
本気になったのか、飛行甲板を破壊する前後で空母棲姫の動きはまるで違う。
一矢報いられたのも、どこかで姫に慢心があったのと幸運に恵まれたからこそだと白露は分析した。
手負いの獣は手強いって言うけど、今の空母棲姫は正にそれだった。
追い込んだようで本当は追い込めていないという予感がある。
「ではワルサメと撤退を。時雨さんたちはそのまま二人の護衛に回ってください。姫級の撃沈は初めから想定してなかったんですから」
最後の言葉は言い訳、というよりは慰めのように白露には聞こえた。
そこで通信は切れ、各々がそれぞれの行動に移っていく。
白露はワルサメの手を取る。
「帰ろう、ワルサメ。こんなことになっちゃったけど、あたしはもっとワルサメと一緒にいたいよ」
ワルサメは目に黒い涙をためていた。
血の涙みたいで白露は少し苦手だったけど、今はもうどうでもよくなっていた。
ワルサメは白露を抱きしめる。
「ウン……私モ白露ト、ミンナトイタイ……傷ツケテ、ゴメンナサイ……」
「いいんだよ……いいんだから」
白露は痛む体を押して、ワルサメの頭を撫でていた。
戦闘はまだ続いていたし、泊地まで撤退しないことには本当に安全とは言えない。
それでも白露はこの日の戦いはもう終わると考えていた。
気が緩んでいた、と言えるのかもしれない。
白露もワルサメも、合流した時雨たちも気づかなかった。
海中の脅威がつけ狙っていることには。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
武蔵の体が水柱に包まれ、巨大なハンマーで殴られたような衝撃を受ける。
やや遅れて武蔵の放った斉射が戦艦棲姫に到達する。
同じように戦艦棲姫も巨大な水柱に隠れ、獣じみた艤装が痛みを訴えるように叫ぶのが海上に響く。
「……大和型カ?」
砲戦の最中、戦艦棲姫が武蔵に通信を流してくる。
そして武蔵は応じた。応じない理由がない。
「そうとも。大和型二番艦とはこの武蔵のことだ!」
「アア……アノ大和型トハ。良キ敵ニ出会エタ……」
「それはこちらも同じだ!」
状況はなし崩し的に動いている。
重巡棲姫を鳥海と駆逐艦たちが相手をする一方で、武蔵とローマの二人は戦艦棲姫を相手取るはずだった。
しかし後方からの増援に対処するためローマが離れたので、戦艦棲姫には武蔵一人で当たっている。
姫級との一対一は極力避けるよう申し合わせているが、武蔵からすれば望むところだった。
先のと号作戦では港湾棲姫と戦う前に中破判定を受け主力から外れていたし、ワルサメを迎撃した時も相間見えることはなかった。
武蔵にとって初めての姫級との直接対決で、その中でも戦艦の名を冠した姫だ。
気合が入らないはずがない。
「武蔵ハ私ヲ沈メラレル……?」
問いかけるような言葉を発しながら、戦艦棲姫の艤装が咆哮と共に砲撃を続ける。
発射の爆風にナイトドレスを翻す様は魔女を思わせた。
「それが望みなら、そうしてやろう!」
武蔵もまた攻撃の手を緩めたりはしない。
艦娘としての武蔵は己の主砲を存分に振るう機会を何度なく得ていた。
それでも今回の敵は戦艦棲姫。これ以上の相手というのは、まず望めなかった。
二人の撃ち合いは殴り合いの様相を呈していた。
すでに二人とも被弾して疲労や損傷が蓄積し始めているが、どちらも砲撃のペースは衰えないし撃つ度に精度も上がっていく。
防御性能を頼りに回避は考えず、ひたすら相手に主砲を撃ち込んでより多くの有効弾を狙う。
それが両者の戦い方だ。
武蔵の放った主砲弾がもろに戦艦棲姫の腹部に直撃する。
ル級やタ級ならまず耐えられない命中の仕方だったが、戦艦棲姫は含み笑いさえ浮かべる。
逆に戦艦棲姫の主砲弾が武蔵の艤装に破孔を穿って浸水を引き起こす。
「さすがに手強いな。火力の優劣だけで勝敗が決まるわけでもあるまいが!」
武蔵の表情には焦りはなく、むしろ戦闘を楽しんでいるように見える。
ただし彼女は決して猪武者ではなく戦艦棲姫の戦力も分析していた。
戦艦棲姫の主砲は長門型と同程度の大きさと見て取るが、貫通力はより優れているのを身をもって感じていた。
長砲身の主砲なのか使用している徹甲弾の差かまでは分からないが、決して火力面で優勢に立っているとは思わなかった。
それに何よりも発射速度の差は明確だった。
照準の補正を加えても、五秒から十秒ほど速く戦艦棲姫は弾を撃ち込んできている。この手数の差は砲撃戦が続くほど響く。
単独での勝負にこだわらなければ十分に勝機はある。
それが武蔵の手応えだった。しかし今は一人だったし、この強敵との交戦は武蔵の血を滾らせるだけの理由にもなった。
さらに直撃弾を受けたところで戦艦棲姫は言う。独白するように。
「……痛イノハ好キ。私ヲ満タシテクレル」
「貴様との砲撃戦はやぶさかではないが、そっちのケはなくてな!」
言葉通りの表情というべきか恍惚としたように見える戦艦棲姫に、武蔵は初めて嫌悪感を掻き立てられた。
武蔵は戦艦棲姫に好敵手と認めつつあっただけに、その認識の差は大きすぎた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
鳥海たちは二組に分かれて重巡棲姫に砲撃を加えていた。
島風と天津風でペアを作り、鳥海自身は長波とコンビを組んでいる。
二組は重巡棲姫に対し、一定の距離を付かず離れずで保っていた。
「ヨッテタカッテ撃ッテクレテ……」
間断なく続く砲撃に重巡棲姫は頭を抑えながら呻く。
重巡棲姫の主砲は、巨大な口を持ったウミヘビのような生物の眼部を砲身に置き換えたような特異な形状をしている。
それを二つ尻尾のように体に巻き付けたまま、縦横に駆使しながら反撃を行っている。
しかし命中精度は甘く、艦娘たちには一度も被弾が発生していなかった。照準を特定の誰かに絞りきっていないのも精度が甘い一因かもしれない。
腰部の副砲も砲撃を始めるが、水柱を海面に発生させるだけの結果になる。
「……意外と弱い?」
「このまま押し切れそうね」
島風と天津風がそんな感想を漏らす。二人には打たれ強いだけの相手、という感触だった。
一方、長波は警戒心を隠さないまま鳥海に尋ねる。
「どう思う、鳥海さん?」
「この程度とは思えませんが……」
長波にそう返す鳥海だが、鳥海もまた相手の強さに確信を持てなかった。
ただ二人の懸念は外れなかった。
重巡棲姫は体と尻尾の隙間からビンを取り出す。
鳥海の帽子の上に見張り員を務める妖精が現れ、一時的に視力を強化する。
「あれは……お酒?」
ラベルの銘柄までは読み取れなかったが、洋酒の類だと鳥海は見極めた。
重巡棲姫は突然ラッパ飲みを始める。砲撃を受けているにもかかわらず。
一本を飲み干すと、さらに別の二本目を取り出しあおり始める。
「なんなんだよ、あいつ……」
長波が唖然とする。だが、砲撃の手は緩んでいなかった。
重巡棲姫が飲んでいた酒瓶が砲弾の破片に当たって割れる。
琥珀色の酒を体に被り、握っていた口だけが残ったビンを見つめた重巡棲姫は体を震わせ始める。
歯を食いしばり何かにこらえていた重巡棲姫が――弾けた。
「ヴェアアアアア!」
声にならない声で叫ぶ。
その叫びは周囲の海面にうねりを呼び起こし大気を割るように打ち付け、下手な砲撃音以上の大音響となって鳥海たちの耳を襲う。
あまりの音に鳥海たちは耳を塞ぐ。
そうして叫びが収まった時、重巡棲姫の目には金色の光が生き生きと宿っている。
「ヤット酔イガ落チ着イタワ……」
「さっきのは迎え酒かよ……?」
長波が呟く。呆れ半分、恐ろしさ半分と言った様子だった。
重巡棲姫はその長波を睨みつける。
「見テイタゾ、私ノ酒ヲ台無シニシタノハオ前ダナ? デキソコナイガ頑張ッチャッテサア……イイ迷惑ダ!」
とっさに鳥海は長波を守るよう前に出る。それまでと違い、重巡棲姫からはもはや危険な気配しかない。
重巡棲姫は周囲を圧倒していた。
「高雄型ガ先カ? ソレトモ後ロノチビ二人カ、ソコノ愚カ者カ、ドイツカラ狙オウカ……強イヤツカラカ弱イヤツカラカ」
そこで重巡棲姫はおかしそうに笑い出す。
「アア、出来損ナイナンテ、ミンナ私ヨリ弱インダ。誰カラデモ一緒カア!」
本来の力を発揮しだした重巡棲姫が牙を剥いた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
戦闘そのものは継続していたが、白露たちはすでに戦域から離脱しつつあった。
損傷のより大きいワルサメに合わせ十二ノット弱の速度しか出せていない。
それでも追撃してくる深海棲艦は見当たらなく、白露は胸をなで下ろす。
今は大回りに迂回する針路でトラック泊地への帰投を目指していた。
負傷している白露とワルサメには、それぞれ時雨と夕立が引率する形で護衛に就いている。
その時雨は白露の負傷の度合いに眉をひそめていた。
「姉さんは無茶しすぎだよ」
「しょうがないでしょ、こうでもしないとワルサメが危なかったんだもん!」
「それにしたって、もっと体を大事にしたほうがいいよ」
「心配性だなあ、時雨は」
あくまでも、なんでもないと言うような態度を白露は取る。
本当は心配をかけたのを反省している。
ただ白露は自分で言ったように、必要があるから取った行動の結果なので悔いがあるわけじゃない。
だから時雨にはあまり気にしてほしくなくて、そんな態度でいるのが一番だと思った。
「……そうだね。確かに姉さんの言う通りかも。うん、今は二人が無事だったのを喜ばないとね」
「そうだよ」
時雨は表情を和らげた。白露もその様子に安心して口が軽くなる。
「はあ、帰ったら一番風呂に入れてもらお」
「じゃあボクは姉さんを丹念にマッサージしなくちゃ」
時雨が指を揉みしだくように動かしてる。
「やだ、いやらしい」
「ボクは至って真面目なのに?」
確かに真顔だけど、その動きはどうなの。
時雨には遠慮願うとして、後続のワルサメと夕立を見る。
二人は、というか夕立はワルサメとはあまり顔を合わせないようにしているみたいだった。
それでも白露は知っている。夕立がワルサメに歩み寄ろうとしているのを。
ワルサメの護衛を進んで買って出たのは夕立だった。
それにワルサメへためらいがちに、だけど真っ先に言った言葉も覚えてる。
「……よくがんばったっぽい」
そんな言葉を受けてワルサメもはにかんでたっけ。
まだ二人には距離があるけど、少しずつ近づいているのは分かる。
ワルサメの居場所は艦娘の側にあるのかもしれない。
こんなことになった以上、深海に帰るよりもいいのは確かなはず。
「雨降って地固まるだね。これでよかったんだと思うよ」
「そうだよね」
同じようなことを考えていたのか、時雨がそんな風に言う。
時雨の言葉は雨にちなむ自分たちの名前と重なって、ぴったりだと白露には思えた。
どこかで落ち着き始めていた、この空気は夕立の声で破られた。緊迫して険を含んだ声。
「夕立から九時方向より雷跡確認! 数は六で、お姉ちゃんたちに向かってる!」
こんな場所での雷撃なんて、撃ってきたのは潜水艦以外にありえなかった。
夕立は魚雷が自分たちに向かっていないのを見極める。
「掴まって、ワルサメ!」
「エエッ!?」
「早くするっぽい!」
夕立はワルサメを抱きかかえるなり雷撃地点に出せるだけの速さで向かう。
爆雷投射を行うためで、かといってワルサメを放置できないので、そうせざるをえなかったみたい。
白露たちから見ると、およそ七時と八時方向の間になる角度から追尾してくる形での雷撃だった。
狙われている白露は違和感が頭をよぎったが、今はそれを追求している暇はなかった。
白い泡を吐き出しながら雷速五十ノットという高速で魚雷は迫ってきている。
白露は魚雷と平行になるよう回頭を始めるが、損傷のせいで舵が重くてスクリューの利きも悪い。
「姉さん!」
時雨が手を掴むと、自身に引き寄せるようにしながら射線外へと誘導する。
本調子という前提はあるにしても、後ろからの魚雷なら回避はそこまで難しくない。
距離を自然と取れるから、その間に回避機動も取りやすくて命中率もそれだけ下がる。
怖いのは音響追尾や磁気反応型の魚雷だけど、そういうのは雷速が三十ノット程度だからやっぱりこの逃げ方で正解。
――ただ雷速五十ノットというのは、厄介なやつに狙われている証拠でもあった。
「こんな所にまでソ級が入り込んでるなんて!」
深海棲艦の潜水艦で、これだけ速い魚雷を撃ってくるのはソ級しか確認されていない。
夕立は雷撃点付近に来ると、ワルサメを近くに下ろしてから爆雷を投射していく。
調定深度はたぶん百とか八十だろうけど、正確な位置までは掴めてないからソ級の撃沈は難しいはず。
「二人とも対潜装備は!」
「基本装備だけだよ。水上戦闘しか想定してなかったからね」
時雨は冷静に答えるが顔は曇っている。
ソ級みたいな手強い相手の場合は標準装備だけでなく、主砲を下ろしてでも対潜装備に特化させておかないと力不足になる。
特にソ級は遭遇例こそ少ないけど、水中をほぼ無音ながら高速で動ける上に魚雷の数も多いのが分かってる。
何よりも積極的に反撃も試みる攻撃性も、対潜狩りをする駆逐艦たちから恐れられていた。
夕立の爆雷はすでに爆発し終わっていたけど、ソ級に被害を与えた証拠みたいなのは何も浮かんできていない。
「三式セットでも持ち込んでればよかったんだけど……」
「ない物ねだりっぽい」
「向こうも奇襲に失敗したから、すぐに次の攻撃は来な――もう来た! 三時方向に雷跡!」
そう考えた矢先に次の雷撃が来る。白露が想定してたよりもずっと早い行動だった。
今度の雷撃も白露たちを狙っていたが、先程とはほとんど逆方向から撃たれる。
白露はまた時雨の手を借りて射線から脱した。
時雨は白露から離れ周囲を用心深く警戒しながらも、二度目の雷撃点に急行し爆雷を投下していった。
「ソ級は二人いるね。一人にしては移動が速すぎる」
「みたいだね。二人に囲まれてるのは勘弁してほしいけどさ」
夕立が通信を入れてくる。
「提督さんには対潜哨戒機を要請したけど、通じたかは怪しいっぽい」
「他のみんなも同様だね。救援は当てにしないほうがいいかも」
「提督なら基地航空隊を出撃させてるはず……でも、そうだよね。あたしたちの居場所が分かるとも対潜装備があるとも限らないか」
あくまで自力で乗り切るのを考えなくっちゃ。
そこで白露は先ほどの違和感を思い出していた。
違和感は疑問として白露の頭に引っかかる。
「ソ級は一体誰を狙っているんだろ」
「どういうこと?」
「最初の雷撃って不自然だったでしょ」
あの時、ソ級から見れば夕立とワルサメは側面を見せていて狙いやすかったはず。
なのに遠ざかっている白露と時雨に向けて雷撃を行っている。
それってつまりワルサメを狙ってなかったからじゃ?
どうかな、ありえるの?
空母棲姫はワルサメを沈めようとしてたのに、ソ級はそうじゃないなんてこと。
白露は考え、悩んで気づいた。
「そっか。通信が通じにくいのは、何もあたしたちだけじゃないんだ」
推測は立てられたけど、仮定とこじつけを前提にした都合のいい思い込みかも。
それでも白露は筋は通ってると思えた。このまま動きが取れないよりかはいいとも。
白露は他の三人に向かって言う。
「聞いて。このソ級たちはワルサメは狙ってないと思う」
「私ヲ?」
「二回目はともかく一回目なんか夕立とワルサメのほうがずっと狙いやすかったのに、わざわざこっちを撃ってきてる。
この電波障害で深海棲艦もうまく連携が取れてなくって、そうでなくてもソ級は海中にばかりいるから通信の電波をキャッチできてないんだと思う」
「つまりソ級はワルサメを助けるために仕掛けてきてるっぽい?」
「たぶん空母棲姫のしたことも知らないんだと思う」
「姉さんの推測は正しい気がする。ということはワルサメの護衛は一回忘れてもいいのか」
「うん。あたしの推測が間違えてなければだけどね」
「でも、それが分かったからってどうすればいいっぽい?」
問題はそこ。ワルサメだけ逃がしても、このソ級たちなら脅威にならないかもしれないっていうだけ。
ワルサメを狙わないなら取り囲んで盾みたいにして……いやいや、それじゃ空母棲姫と同じになっちゃう。
それに推測が外れてたら一網打尽にされかねない。
ここは時雨の言うように、ワルサメの護衛をこの間は無視していいって考えられるんだから。
「時雨と夕立だけだったら振り切れるよね? あたしはワルサメと一緒にいれば、そう簡単には狙われないだろうし先にいってもらって助けを呼んでくるとか」
すると時雨が反対してくる。落ち着いた声で、なんとなく試験の採点をされてるような気分。
「姉さんは大事なことを忘れてる。敵がソ級だけならいいけど、この先もそうとは限らない。それに護衛が姉さん一人になったら、ソ級はもっと積極的に襲ってくるよ」
時雨の指摘はもっともだった。
白露は内心で歯噛みする。もしも自分の損傷がなければ、もっと強硬的ではあってもワルサメを連れ出せていけるのに。
逃げるのが難しいなら、やっぱりここでソ級たちと戦うしかない。
改めてそう考えた白露にある思いつきが浮ぶ。妹たちはきっと反対する思いつきが。
「となるとソ級を沈めるか魚雷を撃てないぐらいの損傷を負わせるしかないかー。夕立はこのままワルサメをお願い」
「いいけど……お姉ちゃん、おかしなことを考えてるっぽい?」
夕立が急にそんなことを言い出す。
なんで分かるんだろう? 姉妹だから? それとも表情に出ちゃってた?
白露にも分からなかったが、だからこそ白露は笑う。普段そうであるように明るく。
「まさか。ちょっとピンガーを鳴らすだけだよ」
「だめっ!」
夕立は両手を握り締めて反対する。本気で反発しているのは表情を見れば分かった。
白露が使おうとしているのは、いわゆるアクティブ・ソナーで自発的に音を発生させることでソ級の位置を特定しようとしていた。
ただ、それは逆に白露の位置も露呈させ、ソ級がピンガーに反応して反撃してくる可能性は極めて高い。
「ほんと大丈夫だから。魚雷の命中率って知ってるでしょ? すっごく低いんだから。時雨からもなんとか言ってよ」
「ボクも反対だ」
「えー、時雨まで?」
二人に反対された時にどうするかは考えてあった。
時雨はじっと白露を見ている。そうすれば白露が考え直すと信じてるみたいに。
「このまま根競べをしてれば他のみんなも来てくれるかもしれない。無理をしなくてもいいはずだ」
「でも、それってソ級が大人しく待ってくれるならでしょ。それにあの敵の数じゃみんなだって余裕ないだろうし。時雨だってそう言ってたじゃない」
「だったらボクがやればいい」
「それは考え物だよ。時雨も夕立も損傷はないんだから、それは有効に生かさないと」
説得は難しそう。
というより白露が逆の立場なら、何をするにしても不穏な動きをしてたら反対して止めるだろうと思った。
「白露、危ナイコトハシナイデ。アナタニ何カアッタラ私ハ……」
ワルサメまで、そんなことを言い出した。
気持ちは嬉しいけど、他に方法が思い浮かばなかった。
だったら勝手に始めちゃうしかないよね。
「あたしは自分が正しいと思ったことをやるよ。時雨も夕立も信じてくれるんだよね?」
「それは時と……」
時雨が何かを言い出す前に、艤装からちょっと間の抜けた音が鳴る。
甲高くて、空き缶を落とした時の音をもっと大きくしたような音が海中に広がっていく。
時雨の表情が変わる。目を丸くして、生まれて初めて見た相手に驚いたみたいに。
「やっちゃった。あたしったら五月雨みたい」
引き合いに出した五月雨には心の中で謝るとして、これでもう後戻りはできない。
白露は艤装の主機を動かす。避けるためには同じ場所に留まっていられない。
「ずるいよ姉さん」
時雨は心底そう思ったらしくて、悪い予感を確信してるようだった。
……なんで、そんな顔するかな。時雨みたいな幸運艦じゃないけどさ。
「なに考えてるっぽい!」
夕立は今にも飛び出してくるんじゃないかと思った。
そこにすかさず時雨の声が飛ぶ。
「待って、夕立!」
「なんでっ!」
「音を聞き逃さないで! 姉さんもワルサメもボクたちが守るんだ!」
探知音は海中の二箇所から跳ね返されてきた。時雨が予想したようにソ級は二人いる。
それぞれ離れた位置にいて、どちらも深度四十付近と意外と浅い位置にいた。
攻撃に移るつもりだったのかもしれない。白露は叫んでいた。
「二人ともワルサメに近いほうを狙って!」
ワルサメを狙ってこないというのは白露も頭では分かっていたが、万が一を考えるとそう言っていた。
時雨たちが動く中、白露は二人が狙うソ級に向けてより範囲を絞ってさらにピンガーを使用する。
感知したソ級の深度は深くなっていた。潜行してやり過ごすつもりらしい。
より近かった夕立が対潜攻撃を始める。時雨もすぐに合流しそうだった。
あとは二人に任せるしかなく、白露がもう一人のソ級にピンガーを打とうとする。
だけど、そっちのソ級は身を隠さずに反撃に転じていた。
六本の魚雷がすでに白露の針路を塞ぐように放たれている。
白露は背を向けながら魚雷と角度を合わせようとするが、傷ついた艤装の動きは遅かった。
どうしよう、と考える前に白露はピンガーを鳴らす。
せめて二人目の位置だけでも特定しておきたかった。それがせめてもの抵抗だった。
「ワルサメ、二人を守ってね」
「ナンデ、ソンナコト!」
白露はワルサメに通信を入れていた。どうして、ああ言ったのかはよく分かっていない。
ワルサメの言うように、白露自身もなんでという思いだった。
守らないといけないのは自分たちのほうなのに。
白露は間近まで迫った魚雷を振り返る。軌道はまっすぐ白露に向かって伸びていた。
当たると分かっていてもどうにもできなかった。
だから、せめて歯だけは食いしばる。痛いのは分かってるから、少しでも我慢しようと。
魚雷が足元に入る。信管が不発でこのまま行き過ぎてしまうのを、白露はほんの少しだけ期待した。
だけど、そんなことは起きなくて――。
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─────
白露が目を覚ましたのは、ふくらはぎに激痛が走ったからだった。
肉を内側から上下左右に無理やり引っ張るような痛みに、白露の喉から悲鳴が漏れ出した。
痛い。足が痛い。
あまりの痛みに涙が浮かんできて、水を被ったような視界に時雨の顔が見えた。
下から見上げる時雨の顔はすごく慌てていて、白露が見ているのにも気づいていない。
時雨に抱きかかえられてるんだと、どうしてかすぐに分かった。
白露は震えを抑えられない手を時雨の首に回す。
「あ、たし、あたしの足って」
体を起こそうとした。時雨に支えられてるんだから、上半身の力だけでも難しくない。
だけど時雨は目元を抑えてきて、体も抑えてくる。それに逆らえなかった。
「見るな、姉さん! こんな傷、バケツに浸かればすぐに治る! だから見なくていい!」
目を覆われる前に見た時雨の唇は震えていて血の気が引いていた。
ああ、そんなに酷いんだ。足。
さっきまですごく痛かったのに、今はすごく寒かった。
時雨が心配してる。
でも大丈夫だよ。『白露』が沈んだ時はすごく熱くて息もできなかったんだから。逆なんだから。
白露は自分ではそう口にしたつもりだったが、実際には何も声に出ていなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ワルサメは呆然としていた。
耳に届くはずの音は全てがこだまのように遠くて実感がなく、目に映っているはずの光景は色あせて時間がずれたような進み方をしている。
傷ついた白露は時雨に抱きかかえられている。
波と血で濡れた顔、小さな体がうなされるように震えている。そして足。赤くて、もう足じゃない。
ワルサメはよろめいた。
これは全て自分が招いてしまった結果なのかと。
その通りだ、と内なる声が肯定する。
同胞のはずの姫たちと別離したのも、今こうして白露が傷ついて倒れたのも全ての端はワルサメ自身にある。
どちらもワルサメ自身が望んでいた結果ではないが、ワルサメを取り巻いて起きたことには変わらない。
「終ワラセナイト……」
何を、というのは出てこない。代わりにワルサメは別のことを考えていた。
白露はワルサメを友達と呼んだ。友達が何かはワルサメも知ってはいる。
他の深海棲艦で一番近い関係にいるのは誰だろうと考える。ホッポかもしれないと考えて、少し違うと思った。
でも何が違うのか分からなくて、一つ分かったのはワルサメにとって白露は唯一無二だということ。
それは夕立にも時雨にも言える。村雨だってそうだし海風だって同じだった。
白露はワルサメに二人を守ってほしいと言った。
なんでああ言ったのかワルサメには分からない。だけど、それは白露の望みなのは確かだと思えた。
「夕立トハモット仲良クナリタカッタナ」
驚く夕立の顔を横目にワルサメは前に進み出す。
ソ級と呼ばれている潜水艦型の内、一人はもう反応を感じない。
残る一人は海底で息を潜めているらしかった。だけど諦めていないのは分かる。
まだワルサメたちがこの場に留まっているのだから。
「……アリガトウ、白露。アリガトウ、時雨」
「何言ってるっぽい! こんなのまるでお別れじゃない!」
夕立が隣に来てワルサメの腕を掴む。
小柄な体からは想像できないぐらいに強い力だった。
「痛イヨ、夕立」
「離さないっぽい!」
「提督ヤ他ノミンナニモ伝エテ。短イ間ダッタケド楽シカッタッテ」
「自分で言ってよ!」
「私ハ深海棲艦。ダカラ大丈夫ダヨ」
「全然分かんないっぽい!」
「夕立、私ハ……戦ワナクッチャイケナカッタノ」
「夕立とあなたはこれからでしょ!」
「ゴメンナサイ」
ワルサメは自身の腕を捻るように動かし、夕立の腕を振り解く。
そのまま夕立の袖を掴むと、力任せに投げ飛ばす。
どこにそんな力があったのかワルサメにも不思議だったが、夕立は海面を石切りの石のように跳ねた。
ワルサメが使用している夕立の艤装が自然と体から外れる。
それが正しいと、ワルサメの決意を後押しするように。
海面を歩くワルサメの足が少しずつ沈んでいく。
「時雨も止めてよ! お姉ちゃんになんて言えばいいっぽい!」
倒れた夕立が顔を上げて叫ぶ。
時雨はワルサメを見て、抱えていた白露をより強く抱き寄せる。
「許して……本当は止めなくっちゃいけないのにボクは君を……」
「時雨ガ気ニスルコトジャナイヨ」
ワルサメは笑う。その笑顔は儚げで、時雨と夕立の前から水面に消えていった。
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ワルサメは海底へと沈んでいく。
深海棲艦の体が、細胞が沈み行く感覚を喜んでいるのを自覚しながらワルサメは深く落ちていく。
潜水艦たちほどではないが、深海棲艦であるワルサメの体も海中に適応している。
程なくしてワルサメはソ級を見つけた。
白露が予想したように、潜航してきたワルサメに対してソ級は警戒感を抱いていないようだった。
裏を返せば、あくまで艦娘に囚われている姫を助けるために攻撃を仕掛けてきたということになる。
ソ級もワルサメに近づいてくる。
動きらしい動きもないのにワルサメよりもずっと速かった。
ソ級は長い髪を顔や体に巻き付け、右目だけが誘導灯のように怪しく光っている。
人型の頭の上には扁平な魚のような外殻を身につけている。外殻には水上戦で用いるつもりなのか、小口径の砲が載っている。
ワルサメに対してほとんど無警戒のソ級はすぐ側まで来た。
ぐるりと回り体の無事を確かめたらしいソ級は、ワルサメの正面に戻ってくる。
ワルサメは自分がしようとしていることにためらった。
ソ級があまりに無防備で、何も知らされていないのは明らかだったから。
そんなワルサメに決意をさせたのは、ソ級が頭上を見上げたからだった。
攻撃を続行する意思を見せ、それが声としてワルサメの頭蓋に響いてくる。
だからワルサメも行動した。
両手で人型の首を握り締める。
その異様さに気づいたソ級の口から空気が漏れる。
ソ級の青い眼が揺れ、黒い筋が毛細のように浮かび上がっていた。
驚きと恐怖が入り混じった顔でソ級はワルサメの腕を爪を立てて何度も引っかく。
黒い血がワルサメの指から流れ出るが、ワルサメもまたさらに力を込める。
ソ級は手足をばたつかせて暴れ、魚のような外殻が口を開く。そこからは魚雷が覗いている。
ワルサメからすれば、魚雷を避けるのは容易だった。首を締め上げたまま、体を正面からずらせばいいだけだから。
しかしワルサメはそうしなかった。
自分を助けに来たはずの同胞を手にかけようとしている事実が、ワルサメからその意思を奪っていた。
ワルサメはそのまま首を締め続ける。
そして、それまで硬い抵抗をしていた何かが割れた。
抵抗を失った首は柔らかかった。ソ級の口から拳大もある呼気の塊がいくつも出てくる。
壊れた機械のようにソ級の口が上下に揺れる。
そうして魚の口からは魚雷が滑り落ちるように転がり――炸裂した。
小規模の爆発は、連鎖的にソ級が装備していた魚雷や砲弾を巻き込んで誘爆を引き起こしていく。
水中爆発が二人の体を呑み込んでいった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
戦艦棲姫はトラックの各基地から発進してきた陸攻隊を目敏く発見した。護衛の戦闘機も多い。
空母棲姫以外にもヌ級やヲ級も数人引き連れているが、とても対抗できる数ではないと見て取る。
すでに空母棲姫も後退している以上、それ以上の戦闘は下策と判断し残存の艦隊にも撤退命令を出す。
「名残惜シクハアルガ……」
「ここまで来て逃げるのか!」
戦艦棲姫はそれまで砲撃戦を繰り広げていた武蔵に対して後進を行う。
互いに満身創痍の状態だった。
武蔵は三基の主砲の内、一基が伝送系の断線により使用不可。
装甲の薄い主要区画以外は袋叩きにされて浸水や延焼を起こしている。
戦艦棲姫も艤装口部の歯を何本も折られるか砕かれるかしていて、右肩側の主砲は旋回不能に陥るほどの損傷を受けている。
姫自身の体も裂傷による出血で、ドレスを元の色とは違う黒みで汚していた。
「武蔵……アナタノ攻撃ハ重クテ痛クテ……素晴ラシイ時間ダッタ」
「はん、そんなに痛いのがお好きか?」
「言ッタデショウ。痛ミガアルカラ満タサレル。感覚ト存在ヲ実感デキル」
「知らん!」
武蔵は稼動する二基の主砲を撃つ。戦艦棲姫は撃ち返してこなかった。
「痛みなぞ望まずとも向こうからやってくる。それをありがたがる気持ちなど分かるものか!」
「ソウ、残念」
戦艦棲姫はおかしそうに笑う。
「本当ニアナタニハナイノ? 攻撃ヲ受ケレバ受ケルホド、救ワレルトイウ気持チハ?」
武蔵は答えずに無視する。弾着の時間だった。
戦艦棲姫の体が吹き飛ばされる。それまでとは違い、わざと踏みとどまらなかった。
大きく吹き飛ばされた姫はそのまま体が水中に没していく。
「痛ミガ自ズトヤッテクルノハ……正シイ。相応シイ時ニ決着ヲツケマショウ……アナタガ痛ミヲ引キ連レテクル……ソノ時ニ」
「……相応しい時があるとは思えんがな」
海中に潜られた以上、武蔵にも追撃する余力はなかった。
武蔵は戦艦棲姫をいずれ倒さなければならない相手だと認識している。
その一方、今まで出会ったどんな相手とも違う戦いづらさも感じていた。
「これが厄介事を背負い込むということか」
大抵のことは笑い飛ばせる自負を持つ武蔵だったが、この時ばかりは勝手が違った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
鳥海たちは苦戦していた。
重巡棲姫は本調子を取り戻してからは、四人を相手取りながら一方的に攻勢に転じている。
闇雲だった砲撃は狙いが不規則ながらも高い精度を発揮していた。
四人の艤装には損傷が蓄積し、今ではいずれも中破に相当する損傷を受けている。
「出来損ナイ風情ガヨク動ク……」
戦闘を優勢に推移させていた重巡棲姫だったが、彼女もまた攻撃隊の接近を察知していた。
重巡棲姫は忌々しげに戦闘を継続し続けている四人を見ていく。
姫は戦闘を継続し誰でもいいから沈めておきたいという欲求に対し、冷静な部分が撤退の要を認めていた。
互いにまだ雷撃戦には移っていない。航空隊の攻撃も加われば予期せぬ被害を受ける可能性があった。
また調子を取り戻すまでに無駄弾を撃ちすぎていたというのもある。
残弾が少なく、ものの数分で撃ち切るという状態だった。
弾が切れても素手で襲えばいいという発想はあるが、魚雷を持っているかもしれない相手に接近しすぎるの得策ではない。
結局、重巡棲姫は感情よりも理性を優先させた。
転回を行うと、包囲を抜けるために加速を始める。
その動きに合わせて、最も厄介だと判断した鳥海に向けて砲撃を行う。
鳥海は至近弾を受けながらも砲撃で応じる。
「逃げるんですか!」
「バカメ、ト言ッテヤロウ。見逃シテヤルノダ!」
追撃したい鳥海だったが、彼女もまた追撃が困難なのを察していた。
被弾が重なりながらも最初から最後まで最高速を維持していた重巡棲姫に対し、鳥海たち四人は三十ノットを超える速度は出せなくなっている。
重巡棲姫は牽制と呼ぶには正確な砲撃を何度か行ないながら四人を振り切っていった。
「機嫌の悪い姉さんみたいなことを言って……!」
鳥海は重巡棲姫の追撃を断念した。もっとも彼女たちの戦闘はまだ終わっていない。
すぐに島風たちの被害状況を確認し、味方の援護に向かわなくてはならない。
鳥海は白露たちの安否を気にかけたが、通信には失敗している。
何事もなければいいけれど。そう思うも不安を拭うことはできなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「先に行くっぽい。お姉ちゃんをお願い」
夕立が湿った声で時雨に言う。顔は時雨のほうを向かなかった。
「あたしは最後まで見届けるっぽい。誰かがいてあげないと、あの子がかわいそう」
時雨は少しだけ迷って、白露の様子を見て踏ん切りがついた。
「……分かった。夕立は戻ってきてよ」
「うん、分かってるっぽい」
夕立は時雨の艤装が唸るのを聞きながら、ソナーに耳を傾ける。
海底からの音に声はない。しばらくすると爆発音が聞こえてきて、泡が立つ音が生まれた。
その音も消えると、海には静寂が戻ってくる。波はとても穏やかだった。
夕立は波に身を任せたまま待った。その時間はそれほど長くはなかったが、夕立はもっと長く続いてほしいと思う。
海上に浮かび上がってきたものを見て、夕立は下で起きたことの結果を悟った。
「仕方ないっぽい」
言い訳を口にした夕立は自己嫌悪する。
それでも夕立は自分を必要以上に責めまいと決めた。それはワルサメの行為を台無しにしてしまうような気がしたから。
夕立は目元を拭った。波がしぶいて顔にかかったからだと、そんな風に言い聞かせて。
帰ろうとした夕立はすぐに異変に気づいた。それはほとんど確信めいた予感だった。
桜色の髪をした少女が浮かび上がってきた。
夕立は急いで少女に近づく。少女にはワルサメの面影があって、しかし肌の血色はずっとよかった。
「生きてる……」
息もあるし脈も正常だった。
服は何も着ていなかったので、夕立は艤装からハンモックを取り出すと少女の体に巻きつける。
この子が誰とか何かは、夕立にとってはどうでもよかった。
ただ、この少女だけは助けないといけないと思った。
夕立は前に進み始める。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
白露が目を覚ました時、まだ新しくて白い天井が見えて、ほんの少しだけ戸惑ってから思い出した。
ここはトラック鎮守府にある病室だと。そして、ここにいる理由も。
「ん……足はあるみたい……」
白露は目を閉じ直して、何も見ないようにして足の指を動かしてみる。
痛いところはないし、ちゃんと動いてるらしかった。
この感覚が幻でなければ、と思って白露は体を起こす。
白露はベッドに眠っていて、すぐ隣では時雨がベッドに頭を乗せて寝息を立てている。
時雨を寝かせたまま、白露は足下の毛布をめくってみた。
足の指はついている。というより、どこにも傷の跡はない。
「ん……姉さん?」
白露の動きに気づいて時雨が目を覚ます。
少しの間、無言で見つめ合った。
「ねえ」「あのさ」
そして声が重なった。
白露はここで少しだけ笑う。だけど、それは本心から出たような笑顔ではなかった。
「時雨から先に言って」
別に気を遣ったわけじゃない。先延ばしにしたかっただけ。
向き合わなくちゃいけないけど、やっぱり怖かった。
「足の調子はどうかな?」
「問題ありません! やっぱり酷かったの?」
「それはもう。バケツのお陰で直ったけどね。直ってしまったと言うべきか」
「何それ。時雨はあたしの足が不自由なほうがよかったの?」
問いかけに時雨は意味ありげに笑い返してくる。
「まさか――ヤンデレじゃないだし。バケツさえあれば戦えるこの身にぞっとしただけだよ。まるで呪いみたいじゃないか」
「……あたしは五体満足のほうがいいよ」
この体がたとえ戦うためにあるとしても。
白露はそんな思いをため息と一緒に吐き出した。
「ねえ」「あのさ」
また声が重なった。
白露は笑った。今度はさっきよりも自然に出てきた笑いだった。同時に覚悟も決まった。
「今度は何?」
「えっと……調子はどうかなって」
「さっき聞いたこととどう違うのよ」
「あー、体全体とか気分の?」
「そうだね……うん、ワルサメは?」
時雨は黙ってしまった。
大丈夫、時雨の顔を見た時から分かってたから。
時雨も話すつもりでいたのは分かってる。こういう役は自分の役みたいに背負い込んじゃって。
「ワルサメは……」
白露は時雨の話を聞いた。それは短い話で、だけど白露にはワルサメの気持ちが分かってしまったような気がした。
「そっか」
顔を両腕で隠して息を吸おうとするが、浅くて早くてなんだかうまく吸えないと白露は思った。
分かっていた。分かっていたけれど、それでも期待はしていた。
だって、そうじゃない。
「姉さん」
「あたし、あたしさ」
白露は時雨の胸に顔を当てる。体を預ける。他にどうしていいのか分からなくって。
「いままでいちばんがんばったんだよ。でもうまくいかないよねぇ」
「……ごめんなさい」
「なんでしぐれがあやまるの」
「だってボクは姉さんが必死に守ってきたワルサメより、姉さんを選んでしまったんだ……姉さんの気持ちを分かってたのに」
「ずるいよ」
「ごめんなさい」
白露も時雨も互いを抱き寄せた。二人とも傷ついていた。
─────────
───────
─────
いつかは誰かの身に起こること。
まだそんな風には割り切れなかったけど、それでもいつかそんな風に割り切っていかないといけない。
白露はそんなことを思いながら、自分の頬を叩いた。
鏡がほしかった。しゃんとした顔をしていたかったから。
「……どうかな、姉さん」
時雨が聞いてくる。白露は真顔になって言う。
「時雨は目が赤い」
「えっ!?」
「嘘だよ。引っかかっちゃって」
「ひどいや、姉さん。でも、これなら会わせても大丈夫そうだね」
「会わせるって誰に?」
「誰って妹たちに決まってるじゃないか」
時雨はまた意味ありげに笑うと、病室のドアを開ける。
ぞろぞろと白露型の一同が入ってくる。
海風と五月雨は心配そうな顔して、村雨と涼風は白露の顔を見ると笑い、江風は心配してるんだか安心したんだか殊勝な顔つきだった。
「夕立は?」
「あれ? 入っておいでよ、夕立」
「分かってるっぽい! さあ、あなたも来て」
「でも……」
「でももすともないっぽい!」
「すとってなんですか?」
「知らないっぽい!」
夕立が入ってくる。その手は別の誰かの手を引いていた。
その少女は白露型の制服を着ている。片手を夕立に引かれ、片手は白い帽子を押さえている。
桃色の髪をしたその子は、ワルサメによく似ていた。
その子は帽子を外すと、白露に向かって頭を下げる。
「はじめまして。白露型駆逐艦五番艦の春雨です、はい」
あたしは大切なものをなくして、大切なものが増えて、何が大切か思い知った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
日差し除けとして設置されたパラソルの下、白露は沖合を見ていた。
その顔には精彩が欠けている。
「はぁ……」
「ため息をつくと幸運が逃げると言いますよ、白露さん」
「あ、秘書艦さん。こんにちは」
白露は鳥海に挨拶してから、視線を海に戻す。
今は沖合で実戦形式の演習が行われている。
組み合わせは夕立と春雨。結果はとうに見えているが、それでも春雨は少しでも夕立に食い下がろうと悪戦苦闘していた。
「一ヶ月ですか、春雨さんが着任してから」
「長かったのか短かったのか……よく分からないなー」
春雨が着任してから、白露は少し気が抜けたような日々を送っていた。
それは上手く隠せているようで、実は全然隠せていなかったのかもしれない。
鳥海と話す機会が増えたのは、そういうことなんだと白露は思っている。
「夕立ってば春雨にべったりなんですよ。春雨も春雨で夕立にべったりで」
夕立の場合、ワルサメに当たって上手く仲良くできなかった反動もあるのかもしれない。
春雨がべったりなのは……夕立が好きだからなのかな。
「白露さんにはどうなんです?」
「あたしは……どうかな……まだ整理できてなくて」
白露はどうしても春雨にワルサメの影を見てしまう。
それは常日頃ではなくて、ふとした仕種や何気ない時に重なってしまっていた。
だから白露はまだ春雨との距離を上手く掴めていない。
「秘書艦さんだったら、どうします?」
抽象的で要領を得ない質問でも鳥海は真剣に考える。
そして答えた。
「向き合って話します。春雨さんも不安でしょうし」
「春雨が不安?」
「当たり前のことだって話さないと伝わらなかったりするじゃないですか。話しても伝わらない時は行動で示したりとか」
「それって提督と秘書艦さんの話?」
「私より司令官さんと木曾さんの話ですね。お互いがいくら大事に思っていても、その気持ちを伝えられなかったらだめなんだと思います」
「そっか……そうだよね。あの子はあの子で、この子はこの子だもんね」
分かってた。ワルサメを乗り越えていかないといけないのも。
だから白露はその日、訓練を終えたワルサメを呼び出した。
いつかワルサメと二人で夕陽を見た窓を前に、白露と春雨は並ぶ。
「ご用って……なんでしょうか?」
春雨は緊張していた。春雨も不安というのは本当らしかった。
白露は自分が少し情けなかった。妹を不安にさせる姉にはなりたくなかったから。
肩の力を抜いて春雨を見る。春雨の顔にワルサメがダブっていた。
でもごめん。今は春雨とお話したいの。あなたを絶対に忘れないから、今は大人しくしててほしい。
「春雨には余計な話かもしれないけど、どうしても話しておきたくてね」
白露が声に出すとワルサメの影が春雨から消える。
戸惑って、だけど白露に興味を持っている春雨の顔が残った。
「あたしの……あたしの一番大切だった友達のことを」
白露は笑いながらそう言った。
鳥海がいつか笑顔でレイテのを話してくれたのがどうしてか、やっと分かった。
あたしは最後まで笑っていられないかも。それでも、できるだけがんばってみないとね。
そして白露は春雨に語り始める。
傷はいつか癒えていく。
三章に続く。
以下は二章終了時点でのトラック島鎮守府の在籍艦娘。順不同。
ちなみに完結まで、このメンバーは固定となります。全員にスポットは当てられませんが。
○重巡
鳥海、高雄、愛宕、摩耶、ザラ
○軽巡(重雷装艦含む)
夕張、大淀、球磨、多摩、北上、大井、木曾
○戦艦
武蔵、扶桑、山城、リットリオ(イタリア)、ローマ
○空母
蒼龍、飛龍、雲龍、飛鷹、隼鷹、龍鳳、鳳翔
○駆逐艦
島風、リベッチオ
・白露型
白露、時雨、村雨、夕立、春雨、五月雨、海風、江風、涼風
・陽炎型
天津風、秋雲、嵐、萩風
・夕雲型
夕雲、巻雲、風雲、長波、高波、沖波、朝霜、早霜、清霜
○その他
明石、秋津洲、間宮、伊良湖
○基地航空隊/運用機種
戦闘機/疾風
陸攻・陸爆/銀河、連山(試作機を試験運用)
偵察・哨戒機/彩雲、二式大艇
姫級との数度の戦闘を顧みて、鳥海を旗艦として第八艦隊を再編することに。
高速艦を中心とし砲雷撃戦能力に秀でた艦隊で、作戦の目的や戦況に併せて多目的に運用される戦力として扱う。
具体的には戦線への切り込み役や敵主力との決戦戦力、迎撃作戦時の遊撃部隊など。
任務内容に応じて、基幹戦力とは別の艦娘も加えて作戦に当たる。
基幹戦力は鳥海、高雄、ローマ、島風、天津風、長波、リベッチオとなる。
私たちはすでに多くの別れを経験しています。
過去の軍艦の記憶が、まるでこの身の出来事のように刻まれているんですから。
その過去の記憶でさえ、私たちは自他をもう艦としては認識していなくて、今のこの姿として捉えてしまうのは変な気分ですが。
私たちは姉妹や戦友を多く失いました。
自分の見える場所で、あるいは知らない場所で。
私は、鳥海は前線に引っ張りだこでしたが、それなりに長生きしたと思ってます。
でも、それだけ死に触れる機会も多くて……姉さんたちや加古さんに天龍さん。知らない所でも在りし日の機動部隊や駆逐艦の子たち。
気が滅入ってしまいますね……。
ただ、これは私だけの話じゃなくて誰の身にも起きていた話なんです。
目の前で沈まれるのと、自分のいない時に失ってしまうのはどちらが悲しいのでしょう。
ええ、すごくバカな話をしてるのは分かっているんです。どっちも悲しいに決まってるんですから。
だって結果は同じじゃないですか。
立ち会ったからって看取りになるとは限らないですし、見てなくてもいなくなってしまった事実は変わらない。
……結局は変わらないんです。失うということには。
いつかは別れの時は来てしまいます。
生きているのなら、それはどうやっても避けようがなくて。
それでも私は手を伸ばしたかったんです。特にあの人には。私の司令官さんには。
約束をしていたんです。
いつかあの人と交わした競争の約束。どちらがより長く生きていけるかの競争をしようって。
私は勝つ気でいましたけど、そう簡単に負けさせるつもりもなかったんです。むしろ最後に逆転されるぐらいでよかったんです。
だから私は……。
三章 喪失
トラック諸島の夏島に設営された飛行場に双発のジェット機が着陸する。
機体は軍で採用されている国産の連絡機で、民間のビジネスジェットを流用している。
唯一の乗客はトラック泊地を預かる提督その人だった。
機体が制止し安全確認が済むと、鞄を持った提督が機外に降りてくる。
すぐに迎えに来ていた艦娘、木曾が近寄って声をかけた。
「よ、久しぶりだな」
「十日ぐらいしか経ってないのに久しぶりはないだろ、木曾」
提督は答えながら半ば今更の疑問を抱く。木曾の格好は暑くないんだろうか。
アイパッチは仕方ないにしても、いつも通りの帽子とマントだ。気温三十度に届く夏島に適した格好には見えない。
昼下がりの頃で、まだこの暑さは続く。
当の木曾は涼しい顔をしながら笑っていたが、額は汗ばんでいるようだった。
「普段から顔を合わせてりゃ、十日ぶりだって久しいもんさ」
「それもそうか。しかし意外だな。てっきり鳥海が迎えに来ると思ってたんだが」
「おいおい、俺じゃ不満だってか?」
「そうは言ってないよ」
「冗談さ。それと、これでも鳥海直々の指名だからな」
木曾はそう言いながら提督を車まで案内し、道すがらに言う。
「鳥海は第八艦隊の練成で忙しいんだ。提督の代理もこなしながらだったしな」
「……苦労をかける」
「それは俺じゃなくて本人に言ってやれよ。あと高雄さんと愛宕さんも手伝ってたし、うちの不肖の姉だってそうだし」
「みんなに埋め合わせが必要ってことだな」
木曾は言わないが、手伝いの中には木曾自身も含まれているのだろう。
何をしてやるか考えていると、木曾は近くに停めてあったシルバーのセダンに乗り込む。泊地の公用車として納入されたものだった。
提督が助手席に座ると木曾はエンジンをかけてエアコンを入れると、冷気が顔や首筋を心地よく抜けていく。
一息ついて木曾は隣の提督に尋ねる。
「横でいいのか? こういう時は運転席の後ろだろ」
「隣のほうが話しやすいじゃないか」
「物好きめ」
口ではそういう木曾だったが満更ではなさそうで、声には親愛の響きが含まれているような気がした。
それにしても運転席に収まった木曾を物珍しく思う。
「運転できたのか」
「当然だ。お前こそどうなんだ?」
「代わりに運転しようか?」
「……いや、いい。人の運転する車に乗るのはどうも落ち着かない」
「ペースが合わないってやつか。確かに衝突しないか怖くなることってあるな」
「それなのかな……ま、ここじゃ対向車も滅多に来ないし、そこまで神経質になることもないんだが」
木曾は車を走らせ始めた。トラック泊地までは車でも三十分はかかる。
運転は荒くないが、スピードはかなり出しているような気がした。
海上と同じ感覚で速度を出しているのかもしれない。
「そういや昼は食べたのか? 機内食ってあったんだろ」
「いや。中途半端な時間だったし、間宮でざるそばを食べたくなった。天ぷらもあるといいんだが」
おいしいものが食べたいなと思い、提督は今になって木曾の言葉を実感した。
「確かに久しぶりだな」
「何が?」
「普段はそんなに意識してなかったけど、間宮で食べるご飯が待ち遠しいと思えてな」
「それで久々か。食い意地の張ったやつめ。花より団子か」
木曾は運転しながら愉快そうに笑う。すぐに次の話を振ってくる。
「横須賀はどうだった? 視察もできたんだろ?」
「ああ、いい提督みたいでみんな元気そうにしてたよ。向こうじゃ睦月型と特型なんかが二代目だった」
「へえ……天龍と龍田もあそこだよな。どうしてた?」
本当に木曾は天龍が好きなんだな。
そう考えると提督はちょっとおかしくなる。
「向こうでも二人とも駆逐艦たちに懐かれてたな。相変わらずというかなんと言うか……ああ、木曾が顔出すならトラック土産を忘れるなとさ」
木曾は余所見はせずに、しかし唸る。
「トラック土産ねえ……名物とか特産品なんてあるか?」
「土でも持っていくとか」
「甲子園じゃないんだからさ」
笑う木曾に釣られて提督も笑う。
そうして提督は言う。おそらく木曾が一番気にしているであろうことを。
「査問会は……罷免されずに済んだ」
「そりゃ朗報だ。提督が続けられるようで何よりだよ。頼りにしてんだぜ」
「ありがたいな」
「なら、そんな浮かない顔しなくてもいいだろ」
「面白い話じゃないからな」
そういう自分の声はまるでふて腐れた子供みたいだ。
提督はそう考えながらも、思い出すようにぶり返してくる不愉快さを持て余していた。
「上は何が不満だったんだ?」
「ワルサメをみすみす失ったのがお気に召さなかったらしい。空母棲姫なんかと交渉せずに交戦すべきだったのでは、交渉するならもっと粘って相手の腹を読み取れなかったのかと」
「言うだけならタダってやつか。いる時は無視してていなくなったら文句を言うって、どんな料簡だよ」
木曾も腹を立てたみたいで、不思議とそれを見ると冷静になろうと頭が考える。
ただ自分の代わりのように怒っているようにも見える木曾に提督は感謝した。
「だが言ってることはもっともだ。俺の判断がワルサメを追い込んだのは確かだから」
他にやりようがあったはず。そんなことは何度だって考えた。
ワルサメを巡って交戦した海戦から一ヶ月あまり。
件の海戦は今ではトラック諸島沖海戦と名づけられていた。
これまで勝ち星を重ねてきた海軍と艦娘たちにとっては、負け戦と苦い結果を残している。
主目標であるワルサメの保護に失敗し、艦娘たちも喪失こそなかったが白露を初め何人もの艦娘が中大破の判定を受けていた。
対して深海棲艦へ与えた損害が少なかったのも、その後の調査で判明している。
海戦で得られたものは小さくないが、それでも負けは負けだ。
「けどワルサメは自分の意思で深海に帰ろうとして、あんたはその意思を尊重しようとしただけだろ」
「尊重する前に止めるという発想はなかったのか、ということだ」
実際どうだったんだ。俺はワルサメを止めるべきだったのか、あるいは空母棲姫の要求を守らないで挑発したほうがよかったのか。
ワルサメを守るためにできたことはもっとあったはず。
危険なのは分かっていたんだ。それとも、そんな当たり前さえ気づけないほどに俺は抜けているのか?
今となってはどうにもならないが、どうにもならないからこそ提督は苦い気分で車外を見た。
気分はほとんど紛れない。
「どうにも引きずってダメだな……春雨もいるって言うのに」
ワルサメと入れ代わるように夕立に保護されたのが春雨だった。
白露型五番艦を自認し、そこかしこにワルサメの面影を残している艦娘。
木曾が前を向いたまま声だけをかけてくる。
「俺はあの二人が同時にいるなんてこと、ありえないと思ってるぞ」
それには提督も同感だった。
ワルサメと春雨が同一人物とは思っていないが、互い違いのような存在だとは考えている。
だから気にするなと木曾は言いたいのだろうか。
過程を考えれば、よかったなどとは思えない。
かといって春雨の存在を否定するような考えも間違えてると思える。
ならば結果を受け入れて進むしかない。
よく言うじゃないか。世界は回り続けている。
「そういえば白露はどんな様子だ?」
「心配いらない。春雨ともちゃんと話してたし」
「ならよかった。俺が最後に見た時は心ここにあらずって様子だったから」
鳥海がいやに気にかけていたっけ。
白露との間に何かあったのかもしれないと提督は考えているが、本人たちの口から出ない限りは詮索するつもりもなかった。
「少しは気が楽になったか?」
木曾の問いかけに笑い返そうと思ったら、出てきたのは苦笑いだった。
「そうだといいんだが……あんまり気が休まらないかもな。もう難題はそこまで来てるし」
「どういうことだ?」
「この作戦名には聞き覚えがあるだろ?」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
鳥海は提督に教えられた作戦名をおうむ返しにする。
「MI作戦ですか? ミッドウェーの?」
「ああ。数十年越しの第二次MI作戦と呼んだほうがいいかもしれないが」
執務室で朝の仕事を始まる前に、提督がMI作戦が近日中に発令されると教えてくれた。
MI作戦といえばミッドウェー島占領を狙った作戦で、旧大戦時での転換点にもなった戦い。
そのMI作戦を強襲という形でまた行うらしかった。
「うちからも戦力を抽出してほしいと要請があってな。鳥海も指名されてる……というより、ここの主力を軒並みだ」
内示という形ではあるが、トラック泊地からは戦艦と重巡、重雷装艦の全員、空母も龍鳳と鳳翔以外全て、駆逐艦も島風や白露型の上四人の姉妹などと主力の大多数を派遣するよう求められていた。
こんなに出して大丈夫なんでしょうか、と鳥海は思うが聞かなかった。
大丈夫でなくともやるしかないのだから。
「では雪辱戦というわけですね」
『鳥海』もまた過去のMI作戦そのものには参加していただけに、悔いの残る戦いだと記憶している。
作戦中に何をしたのかと問われたら、何もしていませんとしか答えられないのが当時の『鳥海』だった。
参加するからには同じ轍は踏めないし、それぐらいの意気込みも必要だと判断する。
「でも、どうして今になって行うんですか?」
「それなんだが本土が空襲された」
「それって一大事じゃないですか!」
色めき立って身を乗り出す鳥海に対し、提督は落ち着いて椅子に座っている。というよりも覚めた反応のように鳥海には見えた。
提督が説明するところによると、一週間ほど前に深海棲艦の艦載機が少数で警戒網を突破して本土へ空襲を行った。
「被害らしい被害は出てないんだ。艦載機による空襲のみで数は少なかったようだし……ただ大本営や上層部の面子は丸潰れになった」
それまで大本営や軍上層部は、艦娘の奮戦により今や前線は本土から遠く離れて脅威が去ったと強調していたという。
それ自体に嘘はなくても誇張はあったみたいで、ところが空襲が起きた。
深海棲艦が未だに健在で、戦争は続いてるという事実は国民に大きな衝撃を与えた。
今の軍は国民に対してそこまで強くない。そうなると、どうしても汚点を拭う必要がある、と。
「そこで前から検討だけされてたMI作戦を実施することになったんだ。今回の敵は東から来たと見なされてるから、そっちの脅威を完膚無きに叩きのめしましたってね」
「それでMI作戦ですか……でも東ならミッドウェーより真珠湾を叩いたほうがいいのでは? というより向こうが健在なのにミッドウェーを叩いたって……」
「ミッドウェーでさえ遠いのに真珠湾は遠すぎるし、今回の作戦は政治的な理由が根っこにある。より勝率の高い作戦を成功させたほうが都合がいいんだよ」
「……戦略的判断ですね。私には難しくて分かりません」
鳥海から出た皮肉に、提督はおかしそうに笑った。
「そう、戦略的な理由だ。どのみち命令なら従わなくっちゃならない」
不本意に思っているのか、あまり提督の表情が冴えてない。
納得はしてない、ということなんでしょうか。
「気がかりがあるんですか?」
「気がかりしかないよ。作戦の意図は分かるけど、政治的な判断を無視しても発動までの準備期間が短い。最前線の一つになるここから戦力を割くって発想も危うく感じるし」
他にもMI作戦のための燃料や資材は、本来なら他で行われるはずの作戦を延期させて流用させるとのこと。
提督の懸念はこの場当たり的な対応を批判するよう向いていた。
だけど、と鳥海は考える。提督自身が口にしたように命令ならば従うのが道理で、何よりも提督の意見は知っている立場からの意見だと思った。
「司令官さん、事情はともあれ私はやったほうがいい作戦だと思います」
「というと?」
「後背を狙われるようでは、勝てる戦いだって勝てなくなってしまいます。それに民間人を危険に晒していい理由なんてどこにあるんですか?」
提督は姿勢を正す。その動作がもっと話すよう促してる気がして、鳥海は話し続ける。
「昨年末、司令官さんは私をショッピングセンターに連れて行ってくれたじゃないですか。あそこは華やかで人々が笑いあっていて、私は好きです」
司令官さんはあの中でどう感じたんだろう。
鳥海は考え、今は自分の気持ちを伝えないとと思う。
「ああいう空気を守るというか保つというか……そういうのって大事だと思うんです。だからMI作戦にどんな事情があっても、その目的が誰かを守ることに繋がるのなら意味はあるはずですし、民間の方に軍の都合なんて関係ないのでは?」
提督は感心するような目で見ていた。
鳥海は急に気恥ずかしい気分になって視線を下げる。すごく青臭いことを言ってしまったような……。
「よく分かった。鳥海は正しいよ。どうも俺は物事を斜に捉えすぎてしまうのかもしれない」
「そんなことはないと思います……」
司令官さんがそんな人だったら私は……そんなことは言わなくても分かると思った。
「止められないなら前向きに考えないとな」
提督の表情が変わって、鳥海は安堵と緊張の入り混じった気分になる。
これでこそ鳥海が司令官と仰ぐ人間だった。
「第八艦隊の様子は?」
「この一週間も引き続き練成に努めていたので、仕上がりは悪くないと思います」
第八艦隊は深海棲艦の姫級との戦闘を前提に置いて新設された部隊で、砲雷撃能力を重視した快速艦による構成となっている。
旗艦は鳥海とし、二番艦に高雄。以下にローマ、島風、天津風、長波、リベッチオと続く。
姫級との決戦は元より、そのための戦線突破や防衛戦では遊撃隊として攻撃的に機能するのを求められての構成だった。
「後はできる限り、様々な状況を想定した演習を重ねて行くしかないかと」
「MI作戦が発令されたらパラオやタウイタウイに引き抜かれた艦娘たちとも一時合流する。彼女たちを相手にするといい」
「そうですね。慣れた相手よりも得られる点は大きいかと」
第八艦隊に集められた艦娘は艤装の性能は高く練度自体も秀でているが、必ずしも泊地の中での最精鋭というわけでもない。
練度で言えば駆逐艦なら白露型から入れ替えられるし、性能で考えると武蔵は外せないはずだった。
この辺りは泊地全体の戦力バランスも考慮されているが、提督から見た運用上の都合も色濃く反映されている。
例えば武蔵の場合は二十七ノットという中途半端に思える速力を敬遠されていた。
また長波を除いた駆逐艦は艤装が特殊なため、性能がばらけて独自規格の部品も多い。
そのために連携を取るのに苦労する艦娘が集まっている。
つまり第八艦隊は精鋭であると同時に寄せ集め艦隊でもあった。
それを思うと鳥海からは笑顔がこぼれ、提督は不思議そうに見返すこととなる。
「なんだか第八艦隊らしいなと思って」
今も昔も雑多でまとまりのない艦隊という感じで。
そこに誇らしさを感じてしまうのは何故でしょうか……。
それからしばらく二人は来たるMI作戦に向けて話し合った。
主力の大半が不在の間の防衛計画の草案が必要だったし、臨時の秘書艦も任命する必要がある。
一日で全てを片付ける必要はないが急ぐ必要もあった。
そういった話し合いを二人で進め、一段落したところで提督は鳥海に聞く。
「鳥海、俺はあの時……前の海戦でどうすればよかったと思う?」
鳥海はすぐには答えなかった。考えていたために。
査問会でどういうやり取りが交わされ、何を言われたのかは初めから聞かなかった。
司令官さんは話したければ話すし、そうでないなら話さないから。
悔やんでるようには見えなかった。でも無関心ではなく気にしている。
折り合いをつける一言がほしいのか、それとも自分とは違う見方を知りたいのか、まったく違う理由から聞かれたのか。
意を汲むことはできない代わりに、嘘偽りのない正直な気持ちを言う。
「申し訳ないですが私にも分かりません。ですが司令官さんは悪くなかったと思います」
もちろん提督の決断が最適だったかは鳥海にも分からない。
そんなこと、誰に分かると言うんですか?
「司令官さんはあの時、これが正しいと思ったんですよね。確かに私たちはワルサメを救えなかったと思います……ですが、どうしても悪い相手を見つけたいのなら、それは約束を反故にした空母棲姫ではないですか」
提督は答えなかった。真っ直ぐに鳥海を見つめていて、そうして今になって鳥海は気づく。
査問会に呼ばれたからじゃなくて、もっとそれ以前に提督は納得していなかったんだと。
ワルサメを救えなかったからかもしれない。それとも、そうなるきっかけを作ってしまった自分を許せないのか、あるいはそんな自分を責めて?
「白露さんは乗り越え始めましたし、夕立さんは埋め合わせをしようとしています。司令官さんだって……前に進みたいんですよね?」
「俺は……」
提督の声は言葉にならない。弱々しく俯くように目を逸らす。
司令官さん。あなたは自分で考えてるよりもずっと優しい人です。
あなたが提督である限り、呵責は終わらないのかもしれません。
だから鳥海は言う。心からの気持ちを込めて。
「あなたは何も悪くありません」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その室内に灯る光は淡かった。
天井は白くおぼろげで、ほのかな温かみを発している。海中から空を見上げた時の光の色だと彼女は思った。
壁や床が黒く塗り固められているのも、どこかで水底に似せようとしたのかもしれない。
陸にいても、心はどこかで海に囚われたまま。
あるいは海こそが自分たちの根源であり、どこにいても繋がりを忘れたくないという思いが喚起させるのか。
望郷なのだろうかと考え、望郷とはなんだろうと思い浮かんだ言葉に彼女は疑問を抱く。
彼女は――青い目をしたヲ級は自問に小首を傾げてみる。
「ヲッ」
本人も無自覚な声とも音とも分からないささやきが漏れる。
そんなヲ級に声をかける者がいた。港湾棲姫だ。
「マタ難シイコトヲ考エテルノ?」
「大シタコトデハアリマセン」
ヲ級の正面、視線を下げた先に港湾棲姫が足を伸ばして座っている。
その膝の上では別の姫が穏やかに寝息を立てていた。
港湾棲姫やヲ級よりもずっと幼い少女で、肌も髪も新雪のように無垢な白さだった。
前髪は短く切り揃えられ、一房だけ跳ねるように髪が飛び出ている。
筆で刷いたような眉に丸みのある顔。
深海棲艦は彼女をホッポと呼ぶ。
港湾棲姫がホッポを見る目は穏やかだった。
ヲ級もまたそんな二人を見ると、名状できない感覚に見舞われる。
もどかしいような、放っておけないような。
ただヲ級はその感覚がむしろ好きだった。
「ワルサメノコト、調ベガツイタヨウネ」
今度はヲ級の横から声がかけられる。
後に飛行場姫と呼ばれるようになる姫で、ヲ級を油断なく見ている。
そんな飛行場姫に港湾棲姫が言う。
「マタ怖イ顔ニナッテルワ」
「ソンナツモリハ……」
飛行場姫は自分の頬に触って表情を動かしてからヲ級に視線を向ける。
「ドウダ?」
「トキメクオ顔デス」
飛行場姫は満足したのか、港湾棲姫に向けて胸を張って誇らしげな顔をする。
一方の港湾棲姫はたおやかにほほえみ返していた。
ふとヲ級は思う。この三人の姫はまるで本当の姉妹と呼ばれる間柄のようだと。
外見に共通点が多いのも、ヲ級のその認識を強めていた。
ただし深海棲艦に姉妹という見方は希薄だった。
ヲ級自身、同型や同種と呼べる仲間は数多いが、そのいずれにも姉妹と感じたことはない。
あくまで同じような姿形をした他の個体でしかなかった。
飛行場姫が改めてヲ級に聞いてくる。
「サア、話シテクレナイ? 先ノ戦イデワルサメニ何ガアッタカ」
ワルサメは帰ってこなかった。
>An■■■、つまりは空母棲姫は、艦娘たちと交戦しワルサメは沈められたためだと説明している。
しかし初めから空母棲姫を信用していない港湾棲姫と飛行場姫は、ヲ級を使って探りを入れていた。
「ワルサメハ初メニ>An■■■カラ攻撃ヲ受ケタ可能性ガ極メテ高イデス」
「ソレダト同士討チヨ……本当ニ?」
「戦闘ニ参加シテイタ者タチノ証言ヲ繋ギ合ワセルト、ソレガ一番アリエル話ニナリマス」
飛行場姫は元より港湾棲姫も、この話を素直に受け入れられなかった。
独善的で高慢な空母棲姫であっても、そこまでするはずはないとどこかで考えている節がある。
なおも疑問を口に出そうとする飛行場姫より先に港湾棲姫が言う。
「先ニ全部説明ヲ……質問ハソノ後デ……ネ?」
ヲ級は頷くと同胞からまとめた話を伝えていく。
ワルサメが空母棲姫の攻撃を受けるなり、艦娘たちとの戦端が開かれた。
その後、包囲を突破した艦娘たちがワルサメを奪還すると撤退していったが、それを最後にワルサメの反応は確認できなくなっている。
ヲ級は淡々とした声で言う。
「私ハ>An■■■ガ大嫌イデスガ、故意ニ貶メルツモリハアリマセン」
「デハ……何カノ理由デ>An■■■ガワルサメヲ沈メタ?」
飛行場姫の疑問に港湾棲姫が答える。
「ソウトモ限ラナイ……最後ニワルサメトイタノハ艦娘ノハズ。ソレハ確カネ?」
「ハイ」
「ソウナルト……艦娘ガワルサメヲ沈メタ可能性モアル……シカシ……助ケニ行ッテ、自分タチノ手デ沈メルノハ……不自然」
ヲ級も港湾棲姫の見方に同感だった。
彼女自身、自分が集めた話がどこかで食い違っているとも考えている。
ただ、それゆえにヲ級は聞いた話を聞いた通りに語った。自分で話を作り上げないように。
そこで飛行場姫が言う。自分の言葉が信じられないような顔をしながら。
「艦娘ハ……ワルサメノタメニ戦ッタノ?」
「理由ハ分カリマセンガ、ソノ可能性モ……」
むしろヲ級はそれ以外の可能性を見出せていない。
何が艦娘たちをそうさせたのかは理解できないにしても。
「ドウイウコト……ソモソモ何故ワルサメガ味方ニ撃タレル?」
「アノ子ハ……戦ウノガ好キジャナカッタ……」
飛行場姫の疑問に港湾棲姫も正確には答えられない。
ただし、そこに鍵があるとも港湾棲姫は考えたようだった。
「理由……人間? ソレトモ艦娘カ……コウナッテハ私タチモ独自ニ動ク必要ガアル……」
港湾棲姫はヲ級と飛行場姫に目配せする。
「人間ハマタ大キナ作戦ヲ考エテイル。ソノ動キニヨッテハ>An■■■モ乗ジルツモリ……ダカラ私タチモソレニ合ワセル」
「……何ヲ考エテルノ?」
飛行場姫は初めて不安そうな顔をする。
港湾棲姫はそれに答えないでヲ級を見ていた。
「難シイ頼ミヲ聞イテクレル……?」
ヲ級に是非もなかった。
懸念をにじませた飛行場姫の顔は見えたが、港湾棲姫の頼みを断る理由はヲ級は持ち合わせていない。
ヲ級にとって港湾棲姫は己の存在を懸けられる相手だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
九月中旬。MI作戦が発令された。
各鎮守府や泊地に散っていた艦娘たちは、それぞれ横須賀鎮守府かトラック泊地に集うよう命じられる。
トラックにはパラオやブルネイ、タウイタウイから選抜された艦娘が集まり、二週間に渡る慣熟訓練の後にトラックを離れ横須賀組と合流。
その後、作戦が本発動となりミッドウェー強襲のために出撃する計画となる。
初めから全ての艦娘が横須賀に向かわないのは、深海棲艦の動きを多少は警戒したためだった。
二週間という期間は瞬く間に過ぎていく。
訓練最終日の夜になると作戦の成功と艦娘たちの無事を願い、立食形式のパーティーがトラック泊地の『間宮』で開かれた。
提督からすれば久々に会う顔も多く、気兼ねなく話す機会を設けるための立食形式でもある。
何人かとはそれ以前から話す機会もあったが、大半の者はすぐに訓練に入ってしまったし、話す機会があった艦娘とも実務的な話に終始してしまっている。
このパーティだけで十分な時間が取れたとは言い難いが、近況の交換も兼ねて提督は話を聞いていく。
元からトラックにいる艦娘たちとも話さないわけにもいかず、提督は常に誰かと話している状態だった。
パーティが終わって艦娘たちが部屋に戻り始めるまでの三時間、提督は水に少し口をつけたぐらいで何も食べずに過ごしていた。
妖精たちが後片付けを始めた段階になって、提督に声がかけられる。
鳥海と、その姉の高雄だった。
「お疲れ様です、司令官さん」
「まさか本当にずっと喋りっぱなしとは……」
笑顔の鳥海と、高雄はその中に少しの呆れを織り交ぜているようだった。
そんな二人は手に食べ物の載った皿と飲み物を持っている。
提督のために用意された物だというのは、二人の顔を見ればすぐに分かった。
「取っておいてくれたのか。夜をどうするか考えてなかったんだ」
「そんなことじゃないかと思いました」
「提督はもう少し自分の都合を優先させても構わないと思いますが」
「優先させた結果がこれなんだ」
妖精が室内の後片付けをしているのを尻目に、元の位置に戻されたテーブルの一つに座る。
正面の席に二人も座る。改めて見ると、二人が取り置いた料理は一人で食べるには多すぎる量だった。
「私たちも頂いてよろしいでしょうか?」
鳥海がそう言ってくれたのは渡りに舟だった。
三人で冷めてしまった料理に手をつけていく。
「しかし助かったよ。一食ぐらい抜いて大丈夫でも腹は空くからな」
「姉さんが取りに回ってきてくれたんですよ」
どうです、と自慢するような調子の鳥海だった。
高雄はすぐに口を出す。
「最初に用意しておこうと言ったのは鳥海じゃない。私は自分が食べる分と一緒に取り置いただけで……」
高雄は何か口ごもってしまう。
なんとなく歯切れの悪さを感じるが、その原因は提督にも分からない。
この場で触れる話題とは思えず、引っかかりを残したまま他のことを言っていた。
「ということは高雄にやらせたわけか。姉をアゴで使えるようになったなんて、鳥海もしたたかになったじゃないか」
「もう、その言い方はどうかと思います……私が全部食べちゃいますよ?」
怒ってるのか怒ってないのか、困りはしてもそこまで困らないことを言い出す。
鳥海は言葉とは裏腹に笑っていて、高雄もそれに釣られて笑う。
考えすぎだったのかもしれない。提督はそう思うことにして、三人での遅くなった夕食を楽しんでいた。
しばらくすると『間宮』の入り口に、スミレの花のような色の髪をした艦娘が顔を出した。陽炎型の萩風だ。
「司令か鳥海さん、お時間よろしいですか?」
萩風は肩で息をしている。もしかしたら、ここに来るまで探し回っていたのかもしれない。
ただ、どちらか片方でいいということは緊急の案件ではないのだろう。
「私が行ってきます。司令官さんと姉さんはごゆっくりどうぞ」
鳥海はそう言うと席を立ち、萩風と一緒にどこかに消えていく。
その様子を見送った高雄が言う。
「萩風……嵐と一緒に秘書艦に起用したそうですね」
「鳥海がいない間の臨時だけどな」
そこで提督はどこか懐かしく思い出す。
懐かしむほど昔の話でもないが、そう感じてしまうのは現在に至るまでに多くの出来事があったからだろうか。
「鳥海を秘書艦にした時も、こんな感じだったような気がするな」
「あの時は……まだ私が秘書艦でしたね」
高雄は目を伏せ、遠くを思い出すかのように言う。
「不向きな子に秘書艦をやらせてみたい……でしたっけ。それで、あの子が抜擢されるとは思いませんでしたけど」
「鳥海の場合は不向きじゃなくて、俺の興味みたいなものだったからな」
高雄の言う理由で秘書艦を変えてみようと検討していた頃だった。
深海棲艦のはぐれ艦隊を迎撃するために、鳥海を旗艦にした艦隊を当たらせて……そこで同じ艦隊にいた島風の独断に本気で怒ったんだ。
あの時から、俺と鳥海の関係は始まったんだろうか。
高雄型、というより艦娘全体で見ても鳥海は目立たない艦娘だった。
大人しい優等生という印象で、それ自体は今でも変わっていない。
ただ鳥海はそれだけじゃなくて、提督はあの時にそれを思い知らされたという話だった。
本気で怒った鳥海は島風の頬を叩いた。しかし提督もまたある意味では叩かれていたのかもしれない。
あの日、あの時。全ては小さな偶然の連鎖だったのかもしれない。今ではそれが一つの形になっている。
あるいはこの形も誰かにとっての偶然の連鎖になって、何かの形を生み出すのかもしれない。
「……面白いもんだな」
「何がです?」
「ああ、悪い。独り言だから気にしないで」
良い結果も悪い結果もどこかで繋がっている。
俺は悪くない――か。
そう簡単に割り切れる話でもないが、いつだってやることは同じだ。ならば、その言葉を信じてもいいじゃないか。
「鳥海なんですけど」
高雄が急に言う。
意識が逸れていたのに気づいて、他にも何か言っていたのかが提督には分からない。
「鳥海?」
取り繕うように言うと、高雄は小さく頷く。
「あの子、よく提督を見ていますね。この調子だと食べ損ねるから、こっちでご飯を取っておかないとって」
「俺の行動が計算しやすいってことじゃないのか?」
ああ、そういうことかと安心しつつ提督は応じる。
しかし安堵の気持ちはすぐに消える。
高雄の表情はどこか茫洋としているようだった。焦点が分からず、提督を見ているようで見ていないようにも思える目をしている。
その目つきに提督は不安になる。
「私では同じ立場でも、そう考えられなかったと思います」
高雄は表情を変えずに言う。
提督は少しばかり返答に詰まった。
仮にそうでも何の問題があるんだと言いたくなり、高雄がどうしてこんな話をしてるんだとも考える。
「なあ、そのさ……」
もし鳥海に、妹に劣等感を抱いているなら、そんなことはないと言いたい。
ただ、それをそのまま指摘しても逆効果にしかならないだろう。
そもそも本当に劣等感があるのかも分からない。高雄は自分の気持ちの隠し方を心得ている。
「同じ判断と同じ見方しかできなかったら面白くないだろ」
遠回しすぎるだろうか。
手探りで進むのは嫌いじゃないが、それでも避けたい状況はある。
たとえば、今この時のような相手の真意が分からず、どう転んでも袋小路に陥りそうな状態とか。
「それに鳥海は高雄が思うほどには完璧じゃないし、まだまだ助けが必要で――」
「そんなの提督がやることじゃないですか。提督でなくても摩耶もいるし木曾だっています。他にも……あの子はもう私の助けを必要とはしていません」
高雄らしくない言い方だった。その物言いは冷たすぎないか。まったく高雄らしくない。
そんなこと口にしたら、何がどうなら高雄らしいのかと逆になじられそうな気もするが。
それとも鳥海を通して、俺に不満があるのだろうか。
たとえばカッコカリの指輪のこととか……提督はそこまで考えても結論は出せなかった。
提督は話せることだけを今は言う。
「それでも鳥海にとって高雄が大切な姉なのに変わりはないよ」
鳥海が高雄をどう話すのか教えたほうがいいのかもしれない。
第八艦隊を新設する時、どれだけ高雄が補佐についてくれるのを喜んだかを。
だが提督はやめておくことにした。
それは自分の口から語るようなことではない気がしたし、少しの時間と機会さえあれば解決すると分かっていた。
その機会がこの場とは思えない。
今は何を言っても素直に受け入れてもらえないか、高雄自身を苦しめてしまうだけのような気がした。
提督はすっかり味気なくなった食べ物を口に運ぶ。
時間が経ってふやけたようになった揚げ物だった。ある意味、この場にはぴったりの食べ物かもしれない。
「……すいません、こんな話をして」
「気にしてないさ」
高雄は悄然としていた。抑えきれない感情なのかもしれない、高雄にとっては。
提督は思う。どうにも自分にはあまり落ち込んでいられる時間もないらしいと。
まあいいさと、胸の内で言う。今まで乗り越えてきたんだから、今回だって乗り越えていくしかないじゃないか。
「俺だって高雄を信じてる」
「そんなの……無責任です」
仕方ないだろ。
無責任に聞こえても信じてるのは本当なんだから。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
二週間の慣熟訓練を終えて、MI作戦に参加する艦娘たちは出雲型の輸送艦に揺られながらトラック泊地を発つ。
提督は臨時秘書艦の嵐と萩風の二人を伴って、埠頭から艦影が見えなくなるまで見送った。
潮風が穏やかなのは、航海の無事を表していると今は思いたい。
「行ってしまったか……無事に帰ってくるといいんだが」
「司令がここで心配しても仕方ないさ。みんな立派な艦娘なんだから、どーんと構えてなって!」
嵐は腰に手を当てて勝気な笑みを見せる。笑い飛ばすまではいかないが、それでも十分に快活な笑い方だった。
男前な嵐の発言に提督は力づけられたような気になる。
「頼もしい限りだ」
「へへ、でも気休めじゃないぞ。司令だってみんなを信じてるんだろ」
「ああ」
「俺や萩はどう?」
「変わらなく信じるさ」
未熟なところもあるが、とは思っても言わない。
嵐は力強く頷く。隣で話を聞いている萩風ははにかむように笑っていた。
「やっぱり心配いらないじゃんか。司令が信じる俺が大丈夫って言うなら、それは大丈夫だってことだよ」
なるほど。嵐流の三段論法か。
理屈ではないが、こういう考え方は悪くない。
気分をよくしたところで二人を連れて引き上げた。
艦娘たちがごっそり減って、書類周りとの格闘や事務仕事は大幅に減っている。しかし完全になくなったわけじゃない。
航空隊を運用していれば燃料や弾薬は消費するし、夕張と明石が新兵器を開発すれば運用試験も発生してまた資材も動く。
他にも食料の管理やら予算管理などもあって、どうあがいても書類というやつからは逃げられなかった。
それでも仕事量は減っているので、細かい仕事が苦手だと思い込んでいる嵐に一度任せてみる。
「えー……こういうのかあ……」
「ぼやくな。午後になったら紅白演習なんだから、それまでに憂いは断っておきたいだろ?」
「そうだよ。がんばろ、嵐?」
見送りの時と打って変わって、嵐は積まれた書類を前にげんなりとしていた。
提督や鳥海からすれば少ないの一言で片付く量でも、日の浅い嵐には山のように高く見えるのかもしれない。
嵐本人は細かい事務仕事は苦手だと思っているようだが、実際にやらせてみると逆だった。
苦手意識があるのか好みでないのかは定かではないが、少しぐらいは実感を伴わせる形で払拭させておきたい。
目安の時間をそれとなく伝えてから、提督は萩風を誘って別の資料を取りに行く。
萩風の性格上、嵐を手伝いたくなってしまうかもしれないので引き離すのが目的だった。
「わざと嵐を一人にするんですか?」
「分かってるなら話が早い。少し付き合ってくれ」
どうやら取り越し苦労だったらしい。
二人で資料室に向かう。
海戦の詳報や公式としての日誌を保管しているのだが、数はまだまだ少なくいくつも用意された棚はがらんどうのようになっている。
骨組みだけの模型のようだと提督は思った。
これはトラック泊地が設立されてから日が浅いという証明でもあった。
探す物が少なく、資料室で目的の日誌をすぐに見つけてしまう。
戻るには早すぎるので、明石の工房に顔を出すのがいいのかもしれない。
そんなことを考えていると萩風に聞かれた。
「司令、どうして私たちを秘書艦に選んだんですか?」
「鳥海と話し合って二人に任せてみようって決めたんだ。もしかして重荷なのか?」
「いえ! そういうわけじゃないんですけど」
萩風は慌てて手を振る。大人しくはあるが、変なところで物怖じしない節がある。
だから、こういう疑問にもどんどん踏み込んでくる。
「球磨さんや多摩さん、同じ駆逐艦でも海風や夕雲も残ってるのに、どうしてその中から私たちなのかなって」
「単純に二人の働きに期待してるからだ。それに萩風も嵐も、いつまでもここにいるつもりはないんだろ?」
「それは……」
「俺としてはここに四駆を勢揃いさせるつもりはない」
萩風は言い淀む。トラック泊地には陽炎型が四人いるが、少し他とは違う事情がある。
まず天津風は僚艦不在の島風と組ませるために留まってもらっている。
艤装や兵装をある程度、共有できている点も大きい。
それから秋雲。彼女の場合は本人が半ば夕雲型のつもりでもあったので、どちらのいる側に行くかで話し合いになっている。
挙句の果てにはネームシップとしての秋雲型を作ろうとまで言い出した。
だが、これは陽炎と夕雲の猛反対にあって潰えている。長女には長女の矜持があるらしい。
最終的に秋雲は自分の意思で、夕雲型のいるトラック泊地に残った。
そして萩風と嵐は――。
「二人だって野分と舞風と一緒にちゃんとした四駆を組みたいだろ」
「それはもちろん……ですが」
どうも萩風は煮え切らない様子だ。
特殊とはいえ陽炎型二人が残ると決まった時、二人だけではバランスが悪いのではないかという話が持ち上がってきた。
整備面でも駆逐艦なら二人よりもう何人かいたほうが、かえって部品の融通を利かせられるという。
そういったこともあって、当時の陽炎型では最も誕生が遅くて練度も低かった嵐と萩風の二人も預かることになった。
「送り出す以上は色々覚えていってほしいんだ。秘書艦をまともに経験できる艦娘って案外少なくなりそうだし」
「お気持ちは嬉しいですけど、いいんでしょうか……ずっと司令のお力になれないのに、そこまでしてもらって」
「あくまで臨時だからな。ずっと力になってくれるって話なら、俺には鳥海がいる」
だから気にするなと言ったら、萩風は頬を赤らめているように見えた。
見間違いか? 今の話に萩風が恥ずかしがるような要素はなかったと思うんだが……なかったよな?
ただの思い違いだろうと提督は気に留めないようにする。
特に理由もなく棚から関係のない日誌の束を取り出すと萩風に押し付ける。
「ここにいた艦娘が他所に移っても活躍できるほうが俺は嬉しいし、そういうのは巡り巡って自分に楽をさせてくれると思ってる」
他の鎮守府や泊地が成果を出していけば、トラック諸島への圧力は減るし担当海域だけに専念できるようになる。
それは悪くない話だったし、トラック出身の艦娘は使い物にならないと思われるのもしゃくだ。
そういった事情を差し引いても。
「ここを離れたとしても萩風も嵐も先は長いんだ。だったら色々教えてやりたいじゃないか」
それは提督の正直な気持ちだった。
提督は萩風に意味もなく押し付けた日報を返してもらうと元の棚に戻す。
これこそ無駄だと思い、提督は乾いた声で笑う。
「そろそろ戻るか」
「はい! でも嵐は終わっているでしょうか?」
「終わってなかったらどうする?」
「どのぐらい残ってるか見て考えます。あとちょっとなら一人でがんばってもらいますし、たくさん残ってたら手伝って……その後、なんでそんなに残ってたのか聞いてみます」
萩風は笑う。その顔はイタズラを企んでるような子供っぽさがあるように提督には見えた。
嵐が絡むと、素の反応みたいな部分が見え隠れするらしい。
「嵐にももっと色々なことができてもらわないと、ですよね?」
「ああ、その通りだ」
提督は自分の役目は艦娘に何かを教えていくことだと思っていた。
ただ萩風を見て、それは少し違うのだと悟った。
彼がやるのは教えることではなく、そうできる環境を作っていくことなのだと。
猫といた妖精の話を思い出す。艦娘とは可能性の形なのだと。
ならば自分は整えていくだけでいい。あとは艦娘は自分たちで自由に考えて思うように生きていく。
「ああ――そういうことか」
提督はどうして提督であり続けたいのか、今になって分かった気がした。
深海棲艦との戦争に終止符を打ちたいのかも。
提督は見ていたかった。艦娘がどうなっていくのかを。そこに交わる人間に何ができるのかを。
全ては可能性だ。この戦争はそれをいずれは飲み込んでしまうかもしれないから、終わらせたいと思うんだ。
「どうかしたんですか?」
聞いてくる萩風に提督は答える。
本音と誤魔化しが半分ずつだった。
「鳥海に会いたいと思って」
「司令。さっきお見送りしたばかりじゃないですか」
萩風も今度は笑っていない。物忘れの激しい相手を見るような生暖かさが視線に含まれている。
そんな眼差しを向けられては冗談とも言えず、提督は肩をすくめて資料室を後にするしかなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
月が雲に覆われて明かりの弱い夜だった。
月明かり以外の光源がない宵闇の中、青い炎が人魂のように揺らめいて動く。
炎は本物の火でなければ人魂でもなく、ヲ級の左目が燃えるがごとく輝いているためだ。
青い目のヲ級は暗がりから空を束の間、見上げていた。
ヲ級は夏島にある手つかずの藪に身を潜めている。
ヤシ科の植物が地の底から天へと指を広げるように葉を伸ばし、赤や白の本来なら鮮やかな花は闇の中では影の塊のようになっている。
藪とは言っても、人の背丈ほどもある草木が鬱蒼と生い茂っていた。
森を凝縮したような藪だった。それが段々と地続きに広がっている。
一口に藪とも森とも呼ぶにはあまりにも深かったが、身を隠すにも絶好の場所だった。
ヲ級が夏島に侵入するまでには、かなりの時間を要している。
日中は哨戒機からの発見をさせるために海底に潜伏し、日が沈んでからは潮の流れに沿って時間をかけて近づく。
なんとか他の深海棲艦たちが動き出す前に島への上陸を果たし、目的の第一段階は達したという状態だった。
ヲ級は喉をくすぐる渇きを感じている。
深海棲艦のほとんどは陸生に適していない。彼女たちの多くは陸に上がると、猛烈な渇きに襲われる。
例外が姫たちであり、人間のように適量の水さえあれば陸上でも支障なく活動できた。
レ級や青い目のヲ級も陸生に対していくらかの適性を、あるいは耐性を有している。
もっとも、あくまで多くの深海棲艦よりも適しているだけで姫たちほどではなかった。
その時、ヲ級の頬に冷たい物が当たる。
ヲ級は歓喜の声を漏らす。
冷たい物は二度三度とヲ級の顔を叩くと、耳の奥で唸る音を立てながら一気に落ちてくる。
雨――スコールだった。
海にいる時ほどではないがヲ級は体が濡れるのを喜んでいるのを実感する。胸が躍っている。
雨だけでも活力が戻るのは、陸上にある程度は適応している証明でもあった。
やはり大半の深海棲艦はそうもいかない。深海棲艦にとって、未だに陸地は安住の地ではない。
気力が充実したヲ級は移動を始める。できる限りトラック泊地に近づく必要があった。
港湾棲姫が彼女に頼んだ使命は、そうしなくては果たせない。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
嵐と萩風は二人とも元から訓練には真面目だったが、秘書艦に据えてからはさらに熱が入っているようだった。
基地航空隊を巻き込んでの防空戦闘から、不得意な夜戦訓練まで着実にこなしていく。
充実した時間は着実に過ぎ去っていき、気づけばさらに二週間が経った。
MI作戦の推移は秘匿されているので分からないが、すでに横須賀を出てどこかの海上にいるはずだった。
頼りがないのはいい知らせでもないが、万事が順調に進んでいる。そんな日々だった。
しかし実際には深海棲艦の蠢動を見落としていて、気づいた時には事態はまずい方向に進んでいた。
始まりはタウイタウイ泊地への空襲だ。
およそ二百機からなる編隊による空襲で、これにより同地に残っていた艦娘や基地施設に被害が生じる。
敵戦力は機動部隊で、主力を欠いたタウイタウイ単独の戦力では撃退は困難と見なされ、すぐにブルネイやパラオからなけなしの戦力で救援の艦隊が編成された。
深海棲艦はタウイタウイ周辺に留まる気はなかったらしく、救援の艦隊が到着する頃になると姿を消してしまう。
同じ頃、マリアナに向けて進攻する深海棲艦の艦隊が哨戒機に発見された。
哨戒機は撃墜されるまでに、総数は百を越えているとの通信を入れている。
またワルサメを巡って生起したトラック諸島沖海戦で認知された三人の姫に複数のレ級を含んでいるとも伝えていた。
正確な規模や数字こそ不明でも、これこそが本命の主力なのは間違いなかった。
「どうなってしまうんでしょう……」
通信文を受け取った萩風の声は上擦って聞こえた。表情が硬く緊張した面持ちだった。
普段は勝ち気な嵐でさえ、次々と入ってくる情報に気圧されたのか口数が少ない。
「やれることをやるしかないだろ」
そう、やれることはある。しかし勝利に繋がる選択肢は少なそうだった。
トラック泊地ではタウイタウイ空襲の一報の段階で、深海棲艦の襲来に備えて警戒を強化している。
しかし、あくまでトラック泊地への攻撃を警戒したものであって、トラックを飛び越えていきなりマリアナを狙われるとは考えていなかった。
旧大戦時のように飛び石をやられるにしても、先に攻撃はあるはずだと考えていた。
「連中にとっても、このタイミングでの主力の露見は誤算だったのかもな」
「早すぎたってこと?」
「ああ。もっと近づくまで隠れていたかっただろうからな」
嵐の質問に頷きながらも提督は悩んだ。マリアナに支援のための戦力を出すかどうか。
深海棲艦の動きには明確な意図がある。
マリアナ攻略が第一目標で、そのためにタウイタウイへ陽動も行っている。
それも主力の艦娘をどこも欠いているタイミングでの攻撃だ。
こちらの動きを読んでいるのか、通信を傍受して内容を解析したのかは分からないが、すでに深海棲艦の術中に陥っている。
だから提督にも分かっていた。マリアナへの支援が可能なトラック泊地が無視されるはずはないと。
早晩、トラック泊地の動きを封じるために深海棲艦が姿を現し攻撃をかけてくるはずだった。
「やっぱりトラックが襲われるのは間違いないのかな?」
「俺が敵ならそうする。マリアナ狙いなら、どの程度の力を入れてくるかは分からないが」
あくまで牽制を狙うのか、あわよくばトラック諸島の奪還を目指してくるのか。
嵐と萩風の表情を改めて見て、提督は二人に笑いかける。
「そんな不安そうな顔をするな。四駆の名が泣くぞ」
「不安なんてそんな! ただ……ちょっとびびっただけだ!」
それを不安と呼んでるんだ。
しかし強がりを言えるのなら問題ないな。萩風も嵐の態度を見て少しは落ち着いたようだった。
提督はすぐに命令を下す。
「萩風は各島の避難状況の確認を」
トラック諸島には軍属の人間やその家族、あるいはそういった層を商いの対象と見なして新天地にやってきた民間人たちが少なからずいる。
また、と号作戦実施の段階では不明で提督にも意外であったが、各島の内陸部には現地民が多く生存していた。
タウイタウイが襲撃された段階で前者は島を脱するための輸送船へ、後者は内陸部に新たに建造された避難所へ向かうように避難勧告を出していた。
「嵐は残っている艦娘全員を作戦室に招集を。非戦闘艦娘にもだ」
すぐ了解の返事をした萩風に対して、嵐は返事が遅れた。
提督は噛んで含めるように言い直す。
「言っただろう、全員にだ」
嵐は弾かれたように頷いた。
二人の臨時秘書官が動く中、提督はマリアナ泊地に連絡を取って、向こうの提督に基地航空隊の運用状況を確認する。
航空機用の燃料や爆弾の備蓄を聞き出し、それから先方へと提案した。
翌日夜明けと共にトラックから敵主力艦隊へ航空攻撃を行うので、攻撃後の航空隊をマリアナの各基地で収容し運用してもらえないかと。
トラックからでは片道攻撃になってしまうし、損傷機も出てくる。しかしマリアナに降ろせば残存機はそのまま戦力として運用できる。
この提案は快く承諾されたが、本当にいいのかとも念押しされた。提督に言えるのは一つだけだった。
「マリアナを落とさせるわけにはいかないでしょう」
結局はそこになる。
トラックにも襲撃があると分かりきっているのに戦力を割くのは賢明ではない。
しかしトラックを維持できたとしても、マリアナが陥落するようなことがあったら補給に支障が生じる。
フィリピンやインドネシアを経由しての補給路はあるが、マリアナを失えばそれも脅かされるようになってしまう。
そうなっては元も子もないし、旧大戦の二の舞はごめん被る。
どちらか一方しか守れないならマリアナを優先して守ったほうがいい。それが提督の判断だった。
提督はパラオにも救援要請を出そうとして思い留まる。
パラオではすでにタウイタウイへ支援を行っていたのですぐには動けないし、そちらを襲った機動部隊が今度はパラオを狙う可能性もある。
――あるいは長駆してトラックを襲うかもしれないが。
どちらにせよ、そんな状況で余計なプレッシャーを与えるような真似はしたくなかった。
だからパラオには、これから民間人を乗せた輸送艦と護衛の艦娘が避難するとだけ伝えるに留める。
最後に本土の大本営にMI作戦の中止と、参加艦娘をマリアナに急行させるよう具申した。
それから提督は萩風から避難状況を聞き、作戦室で招集された艦娘一同と顔を合わせた。
前置きを省いて艦娘たちに現在の状況とこれから想定される展開を説明していく。
「――以上の状況からトラック泊地はマリアナへ航空隊を派遣する。みんなには島の防衛艦隊と護送船団に分かれてもらう」
提督は編成を伝える。防衛艦隊には球磨と多摩、夕雲型と龍鳳。
護送船団には嵐と萩風に五月雨と春雨に改白露型。夕張と大淀。鳳翔に秋津洲。また大事を取って明石と間宮、伊良湖も護送船団と一緒に退避させる。
ただし、と提督は付け加える。
「ここを襲撃する敵艦隊の規模によっては防衛艦隊もパラオまで退避してもらう」
すぐに球磨が異を挟んでくる。
球磨から伸びた一房の髪がクエスチョンマークのように提督には見えた。
「それじゃあトラックはどうなるクマ?」
「一時放棄して、こちらの戦力が整い次第に再上陸作戦を行う」
「提督はどうするクマ?」
「できれば拾ってもらいたいが、無理なら残って航空隊の指揮を執る。その後は避難所に隠れておく」
あそこなら武蔵の砲撃にも耐えられるよう建設されてるし食料の備蓄もある。あくまで非常手段だが。
球磨はため息をつくように言う。
「それなら時間稼ぎでもなんでもするクマ。提督がいなきゃ意味がないクマ」
「助かる。でも、まだ放棄すると決まったわけじゃないぞ。敵情を見て、その可能性もあるって話だ」
球磨だけでなく、他の艦娘たちも見ながら提督は言う。
言いながらも、実際にはどうだろうと思う。口ではこう言っていても撤退も端から視野に入れているのは。
民間人を逃がすために護送船団を組織するとはそういうことだ。
全ては相手次第か。勝ち目のない戦いはしたくない。
「他には……」
そこで嵐が手を挙げる。
促すと嵐は萩風と頷きあった。何故だか嫌な反応だと提督は思った。
「俺と萩も守備艦隊に入れてほしい!」
「私からもお願いします!」
嘆願する二人に嫌な予感が当たったと提督は思う。
理由によっては怒る。声を努めて抑えるよう意識して嵐に言う。
「嵐を巻き起こしたいからか?」
「ち、違う!」
慌てて否定する嵐に重ねて問う。
「護送船団じゃ不満か?」
「それも違う!」
強い否定に少し安心する。提督はそんな内心を見せずに言う。今度は萩風を見て。
「やつらにとって重要な戦いなら必ず姫かレ級がいるはずで、そいつらはもうマリアナで確認されている。どういうことか分かるな?」
「ここに来るのは主力じゃない……ということですか……?」
自信がなさそうに萩風は言うが、その通りに提督は考えている。
トラックに現れる深海棲艦はマリアナと比べれば、貧弱な艦隊のはずだった
ただしトラック泊地に残っているのは、せいぜい二個水雷戦隊を編成できる程度の戦力と少数の航空隊でしかない。
主力でないとしても撃退できる規模の敵とは限らなかった。
それに何事にも絶対はない。未知の姫がいるかも知れない。
「だから今は大人しく――」
提督の言葉を遮るように嵐が訴える。
「違う! 違うぞ、司令! 俺たちだってここを守りたい! 司令にとっちゃ俺や萩は外様かもしれないけど、ここは俺たちにも家みたいな場所なんだ!」
萩風が畳みかけるように言葉を重ねてくる。
「私も嵐と同じ気持ちです。どうか私たちにも機会を……相手が主力じゃなくても戦うのなら命懸けで、ここを守るための戦いなら命を懸ける意味があると思います!」
二人の気持ちは本物のようだった。
そこまで言うのならやらせてみよう、と思う。一方でその判断は情に流されすぎてやいないかとも提督は考える。
正直に言えば不安はある。だが迷う時間も惜しくて、折れたほうがいいと判断した。
「夕雲、そっちから誰か二人を嵐、萩風の両名と交代させる」
「ええ、そのほうがいいでしょう」
話を振られた夕雲は怒るわけでも嘆くでもなく、おっとりと笑っていた。
「みんな、秋雲さんも……くじ引きで護衛船団に行く者を決めます。恨みっこなしでいきましょう」
そうして代わりに選ばれたのが早霜と清霜だった。
ひとまずの話し合いは終わり、後は作戦に備えるだけになる。
全員を解散させた後に多摩が話しかけてきた。
「あの二人は球磨と多摩で面倒見るから安心してほしいにゃ」
嵐と萩風を指してるのは明らかだった。
「苦労をかける」
「いいってことにゃ。それより提督も覚悟を決めるにゃ」
「なんの覚悟を?」
「また誰かを失う覚悟にゃ」
そんなのはもうずっと前からできてるよ、多摩。そう見えてなかったとしても。
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─────
深海棲艦が姿を見せたのは翌日の朝だった。
発見された敵の数はおよそ二十でル級やリ級、ヌ級にチ級と多様な艦種からなる編成をしていた。
バランスの取れた編成で、同時に厄介だと提督は思う。
状況に応じて対応を変えられる柔軟性を持った艦隊だからだ。
しかし望みもある。敵艦隊の編成は上陸を意図したものには見えず、あくまで牽制が目的のようだった。
「球磨、防衛艦隊の出撃だ。深入りだけはするなよ」
嵐と萩風にも何か言おうかと思ったがやめた。
球磨と多摩なら何かあっても抑えてくれるだろうと当てにして。
提督は基地航空隊にも出撃を命じる。
稼働機は連山と銀河が一二機、疾風が二十機という状態だった。
マリアナに送った分がなければ、航空隊だけでも撃滅できたかもしれないが、それを考えてもどうにもならない。
ここまで来たら艦娘や妖精を信じるしかない。それに状況は思ってたほどには悪くないんだから。
何故だか指輪をはめた薬指が痛かった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
曇天の空の下。どことも知れない海上をいくつもの輸送艦が波をかき分けて進んでいる。
鳥海は輸送艦の甲板に立って、前方や後続の輸送艦の列や空と海を視界に入れていた。
元いたトラック近海よりも肌寒く感じるのは、緯度がもっと高い位置にいるからだった。
各輸送艦の周囲には直掩として駆逐艦の艦娘たちが交代で併走している。
ジンベイザメとコバンザメみたい。大きさの対比だとそう思うけど、海に出てしまえば私もまたコバンザメだった。
気を紛らわせようとあれこれ考えてみても、心配が同じ場所に落ち着いてしまう。心は近くよりも遠くに向いている。
この数日、鳥海はぼやけた痛みを感じていて、痛みの出所をかざすように掲げた。左手の薬指を。
「やっぱり、まだ痛むのかしら」
後ろからの声に鳥海は振り返る。高雄姉さんの声だと思いながら。
予想通りに高雄が短めの髪を潮風に吹かれていた。
「太って指がきつくなったのかもしれませんね」
嘘にもならない嘘を言っても、どちらも笑わなかった。
前にも指が急に痛くなったことがある。と号作戦の折、司令官さんに危険が迫った時に。
その時と比べると、今の痛みは弱くて急を訴えてくるような強さはない。けれども不安がじんわりと沁みてくる。
意気込んで参加した自分の愚かしさを嗤うように。
「司令官さんに何も起きてなければいいんですが……」
「そうね……でも今は心配しても仕方ないわよ。それに私はあなたのほうが心配よ、鳥海」
「私がですか?」
頷き返す高雄に鳥海は目を伏せる。
痛みのこと――そして何か起きるかもしれないというのは、鳥海も周囲に話していた。
今回の旗艦を務めている長門にも話は伝わり、その上で長門から艦隊司令部にも話が通ったがMI作戦は継続となっている。
当たり前だった。
根拠が一艦娘の勘でしかないのに作戦に変更があるわけがない。
鳥海はそう自覚していたが、同時に苦しくもあった。取り返しのつかない状態に突き進んでるみたいで。
「悩むなとも迷うなとも言わないけど、海でそれを出されるのは怖いもの」
「そうですね……気をつけます」
「ええ。でも、ここで私に言うのは構わないわよ?」
高雄はそう言うと相好を崩す。そんな姉に鳥海は安心した。
ここで考え詰めるよりは話したほうが気が楽になるのも分かっていた。
そうして鳥海が口を開こうとした時、艦列の先頭艦が回頭を始める。
針路変更のためなのは分かるけど、ほとんど一周回るように動く。
現在地が分からずとも西進しているのは分かっていた。これでは真逆で引き返す動きだった。
「どういうこと?」
同じ疑問を抱いたらしい高雄が呟く。
摩耶が慌てた様子で姿を見せる。
「鳥海、姉さんも!」
「何かあったのね?」
「マリアナへ転進だって。敵の大艦隊が現れたとか」
「それで転進を……このまま救援に向かうのね?」
高雄の質問に摩耶は頷く。
回頭が終わると輸送艦たちも速力を上げていく。
少しでも速くマリアナに到着するためだろうし、状況はそれだけよくないとも。
鳥海は摩耶に訊く。
「摩耶、トラックの様子は分かる? マリアナを狙うなら、あそこも無視はできないと思うけど……」
「ごめん、そこまではあたしも……」
「ううん、気にしないで。まずはマリアナから、でしょう?」
こうなってしまった以上、マリアナに襲来したらしい敵を撃退しないことには話にならない。
痛みは消えてないけど、このままMI作戦を遂行するよりずっといいと思えた。
だけど痛みと共に生じた思いが今また戻ってきている。
……私は初めからここにいてはいけなかったのかもしれない。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
トラック泊地を出た防衛艦隊は複縦陣の隊形を取り、先頭には球磨と多摩が位置していた。
球磨には萩風が、多摩には嵐が後続として従っている。これは球磨たちが名指しで指名したためでもある。
さらに後ろを夕雲型が続き、間に龍鳳が入ってから殿を風雲と沖波が務めていた。
艦隊の針路は東方。最後に発見された敵艦隊の予想位置に向けて行軍する。
先頭にいた多摩は後ろの嵐を見て近くに来るよう手招きをする。
それに気づいた嵐が加速して多摩に近づく。
通信を介さずとも互いの声が聞こえるぐらいまで近づくと、嵐は減速して斜め後ろから併走する。
「なんです、多摩さん?」
嵐の問いかけに、多摩は普段と変わらないひょうひょうとした様子で言う。
「改めて言っておくにゃ。海に出たからには球磨と多摩の指示には従ってもらうにゃ」
「分かってます」
「だったら、さっきみたいなのは当然なしにゃ」
嵐は聞き返さない。多摩の言うさっきには心当たりしかない。
それを裏付けるように多摩は付け加える。
「あまり提督を困らせないでやってほしいにゃ」
「……すいません」
嵐は素直に謝る。
神通や大井のように普段から厳しい艦娘よりも、多摩のような穏やかな艦娘に注意されるほうが嵐にはより失敗を痛感させた。
「昔、よかれと思って提督の命令を無視して行動した艦娘がいたにゃ。その艦娘は作戦を成功させたけど、提督や一緒にいた僚艦にも傷を残していったにゃ」
「……俺もその艦娘とおんなじだってことですか?」
「似てるところはあるけど違うにゃ。多摩はこの先、嵐が同じようになってほしくないだけにゃ」
「……覚えときます」
「忘れないでほしいにゃ。あ、あと外様って言うのもなしにゃ。提督はそんなこと考えて何かをやってるわけじゃないにゃ」
「そうですか? 俺や萩が秘書艦やってるのだって、その辺が関係あるんじゃ……」
「あったとしても外様がどうとかは関係ないにゃ。嵐が外様みたいな疎外感を持ってるのなら、それは嵐自身の問題にゃ。提督にどうこう言うのは違うと思うにゃ」
嵐は言い淀む。嵐は別に疎外感を感じているつもりはないはずだったが、無意識で出てきた言葉なら暗にそう感じていたのだろうかと。
「ま、嵐ばっかりに言っても仕方ないにゃ。萩風にも言っておかないとにゃ。だから今は無事に帰るにゃ」
「はい!」
敵艦隊に向けて進んでいく内に、先だって出撃していた龍鳳の攻撃隊が戻ってくる。
トラック泊地の陸攻隊と協同して攻撃を行っていたが、戻ってきた数は十機にも満たない。
それだけで攻撃隊の成果が芳しくなかったのが、うかがい知れた。
収容作業に入った龍鳳に、トンボ釣りも兼ねた護衛に風雲と沖波が就く。
すぐに龍鳳が攻撃隊の成果を伝えてくる。
「第一次攻撃は失敗です! 敵空母の艦載機はほとんどが戦闘機で構成されていました!」
「戦闘機ばっかりなんて、こっちの真似っこクマ」
「敵も学んでいるということですね……」
球磨と夕雲がそれぞれ感想を口にする。
「こっちが空襲を受ける心配がないのはよかったかもにゃ」
「……だといいクマ」
その後も敵との接触を求めての移動が続く。
水偵は射出していない。満足に制空権も取れていない状況では、徒に落とされるのが関の山だった。
予想接敵時刻が近づいた頃、水平線上に黒い塊がいくつか見えてくる。敵艦隊だ。
「球磨、何かみんなのやる気が出るようなことを言うにゃ」
「そんなのは球磨のお仕事じゃないクマ。でも、みんなに言っておきたいクマ」
球磨は視線は正面から動かさず、張りのある声で一同に伝える。
「球磨たちは居残り組クマ。けれど練度では決してMI組にも劣ってないと思うクマ。それを今から証明しようと思ってるクマ……だから力を貸してほしいクマ」
夕雲がすぐに笑い声に乗せて応じる。
「喜んで。私たちがいてよかったというところをお見せしましょう」
いくつかの声が続く。意欲を見せる中には嵐もいた。
「そうさ、俺たちは今こそ巻き起こすんだ。嵐を。暗雲を吹き飛ばすような最高の嵐を巻き」
「ポエムはやめるにゃ」
「こ、これは抱負を語ったまでです! 抱負を!」
顔を赤らめる嵐を多摩は面白そうに見ていた。
「……嵐はいじりがいがありそうにゃ」
そんな艦娘たちだったが、彼我の距離が思うように近づかない。
異変に気づいた多摩が呟く。
「……深海棲艦が退いてるにゃ?」
距離が縮まらない理由は他になかった。
「警戒を厳に後退するクマ!」
球磨の判断は速かった。深海棲艦のいる正面方向に注意しながらも艦隊に回頭を促す。
「警戒を厳に後退するクマ!」
球磨の判断は速かった。深海棲艦のいる正面方向に注意しながらも艦隊に回頭を促す。
「後退ですか?」
萩風が球磨に聞き返す。体の動きは命令に従っていた。
「後退クマ。球磨たちの目的は泊地を守ることであって敵艦隊の撃滅じゃないクマ」
交戦しないままに球磨たちは引き上げ始める。
前方から後方に変わった深海棲艦は送り狼をすることもなく、水平線上から姿を消していた。
嵐は後ろを何度か振り返るが状況は変わらなかった。
「どういうつもりだったんだ、あいつら?」
「こっちと正面切って戦う気はなかったということにゃ。まんまと誘い出されても事にゃ」
「むぅ……」
不完全燃焼、といった様子で嵐は不満げにうめく。
次の機会があると言おうとした多摩だったが泊地からの緊急通信が届く。
基地航空隊の偵察機が泊地南方で敵機動部隊の反応を感知し、敵は艦載機をすでに発艦させたとのことだった。
艦載機の攻撃目標が泊地なのか、球磨たち防衛艦隊かは不明だった。
「龍鳳、戦闘機を上げる準備クマ! 艦隊陣形も輪形陣に変更、中心は龍鳳クマ!」
「タウイタウイを襲ったやつらかにゃ?」
しばらくして続報が入り、この攻撃隊は泊地と艦隊の二手へと分かれたと判明した。
その情報に萩風が泊地の方角を見つめる。遠目にも入道雲が差しかかっているのが分かる。
「提督や泊地は大丈夫でしょうか……」
「今はこっちの心配が先クマ。乗り切ったらすぐに泊地に戻るクマ!」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ヲ級が生い茂った藪からなる物陰から見守る中、空襲を行った艦載機たちが帰投していく。
攻撃目標になった泊地の建物は外壁を砕かれ、抉られたように破孔がうがたれている。
生物でいえば体内が露出し、内臓や血管を露わにしている状態かとヲ級は考えた。
他にも敷地内にはいくつもの穴が作られ、火災も生じている。
この様子では司令部機能にも影響が出ているかもしれない。
「>An■■■メ、余計ナ真似ヲシテクレル」
事前の取り決めにより、トラック泊地への牽制は港湾棲姫が受け持つはずだった。
しかし今の空襲はタウイタウイ泊地を襲撃した空母棲姫の手勢によるものだ。
端から取り決めを守る意思がないということだった。
いら立つヲ級だったが、消火作業の様子を目の当たりにして考えを改める。これは好機かもしれないと。
小人のような妖精たちがホースやバケツを抱えて忙しなく立ち回る中、白い制服の男が現れたのをヲ級は遠くから見た。
提督の姿を確認できたし、今の空襲でも無事だったのを確認できた。
再攻撃があるかは不明だが、提督も何かしらの動きは起こすはず。
その時こそが狙い目だとヲ級は考え、さらに待つことにした。
消火作業が終わって小一時間が過ぎた頃、小さな車が列をなして泊地から出て行く。
車の数は計六台で、装甲車のようだがサイズが小さい。
「アレデハ人間ハ乗レナイ……」
明らかに大きさが合わない。運転しているのは妖精だと当たりをつけたヲ級は、どこに向かうつもりか興味を抱いた。
一方で提督がいないのなら留まるべきだとも判断する。
艦載機を放てば妖精たちの追跡も妨害もできるが、電探に捉えられる可能性が極めて高い。
ここまで隠密裏に入り込めたのを確信しているヲ級としては、露見は可能な限り避けたいリスクだった。
ヲ級の存在が発覚すれば、それまでの苦労が全てが水泡に帰してしまう。
明らかに大きさが合わない。運転しているのは妖精だと当たりをつけたヲ級は、どこに向かうつもりか興味を抱いた。
一方で提督がいないのなら留まるべきだとも判断する。
艦載機を放てば妖精たちの追跡も妨害もできるが、電探に捉えられる可能性が極めて高い。
ここまで隠密裏に入り込めたのを確信しているヲ級としては、露見は可能な限り避けたいリスクだった。
ヲ級の存在が発覚すれば、それまでの苦労が全てが水泡に帰してしまう。
ヲ級がさらに待つと雨が降り出した。
顔に粒が落ちたと思ったら、それはすぐに耳を圧する大雨へと変わる。
ヲ級は泊地に一気に近づくことにした。
入り口の門は空襲の被害を免れたようで、コンクリート作りの外壁がそのまま残っている。
物陰から飛び出したヲ級は素早く門の角に身を寄せ、周囲の様子を窺う。
降りしきる雨の中に、他の生物の気配はなかった。
その時、ヲ級の耳が打ちつけてくる風雨とは別の音を拾う。
動物が身震いするような音、エンジンの駆動音だった。それも一台分だけ。
ヲ級はその場で気配を殺すようにして待つ。
渇きを感じていないのはスコールのためか、好機到来のための興奮かはヲ級にも分からない。
呼吸を整えていると一台の車が門を抜けていく。
銀の車ですれ違った時に運転席に提督が収まっていたのを確かにヲ級は見た。
水上ならまだしも陸上では自動車の速度には敵わない。
ヲ級は球状の戦闘機を一機だけ射出した。ここまで来たら勝負に出る。逃がすつもりはかけらもない。
攻撃目標は提督の乗る車。その前方だった。
車体に銃撃を命中させるわけにはいかないが、行く手も塞がなくてはならない。
その点、ヲ級の艦載機は的確に使命を果たしたと言える。
艦載機から放たれた機銃は、提督の乗る車の前面に着弾し泥を粉砕する勢いで巻き上げた。
車はコントロールを失って道路から逸れると、太い木に衝突して停まった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
目を覚ました時、提督が最初に感じたのは頭を押さえつけるような痛みだった。
何が起きたのか分からなかった。
提督はエアバッグに覆い被さっていた体を起こすと、溺れかけた時のように速くなっていた呼吸をなんとか抑えようとする。
手足はついていた。肩や腹に食い込んだシートベルトが痛くて、外すと少しだけ体が楽になる。
提督は落ち着きを取り戻すに連れて何があったのか思い出し、すぐにでも車から離れなくてはいけないのを悟った。
運転中に目の前が爆ぜたように見えて、ハンドルを切り損ねて道路から飛び出した。
なんでそんなことになった?
車から降りる時になって右足を痛めたのに気づいた。
引きつる痛みに加えて熱を感じたが、提督は足を引きずるようにしながらも車から出る。
降り出していた雨が瞬く間に服ごと体を濡らす。貼りつく服が今は重たい。
幸いというべきか道はすぐ近くに見えた。
空襲があったのを提督は思い出す。
通信用のアンテナをやられて、艦娘たちと連絡を取れなくなった。
それで他の場所に用意している臨時の指揮場に移るはずだった。
妖精たちには日誌や作戦書を預けて先に出発させたんだ。臨時は臨時でしかなくて、使えるようにするには準備がいるから。
必要によっては処分する情報も、自分で持ち歩くより妖精に預けたほうが確実だった。
それから最後に見落としがないか確認してから車に乗って――。
「ヲ級……」
車道に戻って泊地の方向を見て、提督は呟いた。
青い幽鬼のような目をしたヲ級が、提督へと駆けながら近づいてくる。
何故こんな所にヲ級がいる? 俺を狙ってる? 何が目的だ? 逃げられるのか? 艦載機の仕業か?
いくつもの疑問を抱えたまま、提督もまた走ろうとする。
そして倒れた。右足に力が入ってなかった。
「こんな、ところで!」
両手をぬかるんだ地面に着いて体を奮い立たせると、たたらを踏むように走り出す。
濡れた軍衣の鬱陶しさも、容赦なく叩きつける大雨も今は二の次だった。
右足を引きずりながら、右の踵が地面に触れる度に膝まで痛みが走る。
ヲ級は提督の何倍も速く近づいてきた。実際にはそこまで速くはないが、追われている提督からすればそれだけ圧倒的だ。
「止マレ」
「いや、だ!」
「逃ガサナイ」
ヲ級の伸ばした手が提督の体をかすめる。
闇雲に走る提督だったが、背中の圧迫感に思わず振り返った。するとヲ級の姿が消えていた。
その時、安心するどころか悪寒が体中を突き抜ける。
前を向き直ると、ヲ級がすでに回り込んでいた。
ヲ級は置いてある荷物を取るような無造作で両手を突き出してくる。
提督は右足をついた痛みのままに体を崩すと、その腕をかいくぐって横をすり抜ける。
かいくぐった。と提督が感じた瞬間には地面に引きずり倒されていた。
生温い感触が背中を押さえつけている。ヲ級の手だった。
「殺すのか!」
「ソレナラ、コンナ面倒ハシナイ」
ヲ級が提督の体を俯せから仰向けにめくり、眼下に見下ろす。
青い目からは提督は感情を上手く読み取れなかった。ただ、思っていたほどには凶悪そうには見えない。
ヲ級は帽子のようにもクラゲのようにも見える外殻の口から、触手を使って何かを取り出すのを提督は見た。
それが何かを見届ける間もなく、ヲ級が提督に顔を近づけ覗き込む。
「人間カ。オ前ハ何カ違ウノカ?」
首筋に鋭い痛みが走ったと思うと、何かが流し込まれる。
何かを打たれた。何かを。何を?
提督の頭には鳥海が思い浮んだ。助けを呼びたかった。声は出てこない。息が吸えない。目の前が暗くなっていく。胸がつまる。
まただ、と提督は思った。
左の薬指が痛い。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
マリアナでの戦闘が終息してから、MI組は補給と修理のためにマリアナ泊地に寄港した。
そこで彼女たちが不在の間に何が起きたのかを知らされた。もちろんトラック泊地の状況も、提督のことも。
そうしてトラック泊地に戻ってきた鳥海らMI組を待ち構えていたのは、破壊されて復旧途上の泊地だった。
トラック泊地が空襲を受けてから四日目のことだ。
合流を果たした艦娘たちは互いの労いもそこそこに、復旧の済んだ作戦室で当直を除いたほぼ全員が集まって情報交換を行うことになった。
始まる前に鳥海は高雄に頼む。
「姉さん、代わりに説明してもらってもいいですか?」
「もちろん、それは構わないけど……」
「ありがとうございます」
押し付けるつもりはなくても、端から見ればそう見えてしまうのかもしれない。
高雄はそれについて何も言わなかったが、その表情には憂慮の色が浮かんでいた。
姉さんがそんな顔する必要なんてないのに。鳥海はそう考えたが言えない。
会議という形で情報交換は始まった。見渡す限り、MI組も残留組も表情は暗い。
まずは高雄が代表して話す。
「どこから話しましょうか……まず私たちはMI作戦を中止してマリアナ諸島防衛へと転戦することになりました」
MI組がマリアナの戦闘に参加したのは、トラックが空襲を受けた翌日の話になる。
マリアナでの海戦は航空戦に終始し、MI組の出番は空母を除けばほとんど対空戦闘だけだった。
この時点で深海棲艦の主力は基地航空隊やマリアナの残留艦隊との交戦もあって、少なからず消耗していた。
戦況が変わったと見ると、マリアナ攻略を諦めて深海棲艦は速やかに撤退している。
「マリアナ防衛には成功しましたが、手放しで喜べるような状態ではありませんでした」
高雄は一息つくと用意された水に口をつける。
鳥海は高雄と目が合った。気遣われているように感じたのは、私が気遣われたいからかもしれない。
そんな必要なんてないのに。鳥海は姉の視線から隠れるように目を伏せた。
視界を塞いでいる内に高雄が話を再開する。
「マリアナ泊地の被害ですが、一言で言えば甚大です。航空機だけでなく艦娘にも戦没者が……」
マリアナでは元の所属機とトラックからの合流と合わせて七百機近い航空機が投入されたが、数次に渡る攻勢で半数近くが未帰還。
その後、修理不能と見なされた機体を含めると、合計で七割弱を失う結果になった。
またマリアナに残っていた艦娘はいわば二代目以降の艦娘がほとんどで、戦闘経験の乏しい艦娘が大半だった。
彼女たちは質でも量でも勝る相手に善戦したが、多くの戦没者も出している。その中には二人目の鳥海も含まれていた。
「こんな言い方はよくないのですが……こっちはみんなが無事で安心してます」
「……みんなでもないにゃ」
聞かせる気があったのか定かではないが、多摩の声だった。
ともすれば沈黙に包まれてしまいそうな空気の作戦室では、その声はよく通った。
鳥海はマリアナで補給を受けた際に聞いた話を思い出す。
二人目と同じ艦隊にいたという、やはり二代目の綾波型たちが鳥海に涙ながらに話しかけてきた。
もう一人の鳥海は自らを囮にして、海域で孤立気味だった彼女たちが後退する時間を稼いだという。
その結果、二人目は帰らなかった。
綾波型たちは鳥海に感謝していた。しかし、そんな綾波型たちに何も言えなかった。
それはあっちの鳥海の奮闘であって、私の働きじゃない。
私に感謝なんてしないでほしかった。
彼女は勇敢に戦って死んだ。彼女は何かを守れた。だけど私は。
「……向こうで休んどくか?」
摩耶が小声でささやいてくるので鳥海も小声で答える。
「ううん、大丈夫」
「ならいいけど、無理すんなよ」
無理なんかしてない。鳥海はそう思うが言わない。
この数日で摩耶以外からも何度も同じようなことを言われて、何度も同じ答えを返してきたからだ。
心配しないでほしかった。
「向こうも大変クマ……ここからはトラックの話をするクマ」
高雄から話を引き継いだのは球磨だった。
航空戦に終始していたのはトラックの防衛に就いていた艦娘たちも変わらない。
泊地への攻撃は一度きりで、艦載機による泊地と防衛艦隊への同時攻撃だった。
攻撃が分散されて一波当たりの機体数は少なかったが、それでも被害は出ている。
何人かは空襲で負傷したが、いずれも空襲から三日も経てば治療は済んでいた。
工廠やドックは重点的に守りを固められていたので、機能は損なわれていなかった。
それでも泊地全体で見ると様々な施設が被害を受けている。何よりも――。
「……本当にすまないクマ」
気づけば球磨が鳥海にそう告げていた。
球磨の話の途中から上の空で聞いていた。だから何を言っているのか、頭には意味のある言葉として入ってこない。
一つだけ、ずっと鳥海の頭の中を占めているのは。
「司令官さんはいないんですね」
話を中断する形で言う。
球磨は苦しそうに顔を歪めながらも鳥海から目線は逸らさなかった。
「……そうクマ」
提督は空襲の際に行方をくらませていた。
何があったのか詳細はまだ分かっていない。ただ深海棲艦が関与しているのは間違いなさそうだというのが、艦娘たちの見解でもある。
泊地が空襲を受け司令部機能に問題が生じた。それから仮設の司令部に移動しようとしていたところまでは確認が取れている。
その移動中に何かが起きて、道中で大木と衝突して乗り捨てられた車が発見された。
また提督が移動しているはずの時間、島内でごく短い間だけ深海棲艦の艦載機の反応が対空電探に引っかかっている。
誤報も疑われたものの、今となっては深海棲艦の介入を証明しているようだった。
「そんな顔はしないでください。今はできることから、司令官さんのことは後にしましょう」
「クマ?」
球磨は心底驚いたように目を丸くする。
鳥海は平静に見える様子で言う。
「泊地の復旧具合はどうですか?」
「あー……基地機能は妖精のお陰で復旧して、電気も水道も問題ないクマ。基地航空隊は大半がマリアナに行ったっきりだから稼働機はわずかクマ。当面の問題はそこクマ」
「ではマリアナ泊地に連絡して、戦闘機隊だけでも引き上げられるか要請……いえ、打診しましょう」
艦娘だけで、本当にそんな要請をするのは越権行為になってしまう。
あくまで形式は打診という形にしておく。
司令官さんさえいればこんなことには……そう考え始めた鳥海は、その考えを頭から捨てるように意識する。
「まずは立て直しです。こんなところを襲われたら、ひとたまりもありませんからね」
鳥海の意見に反対する者はいない。
結局のところ誰もがどこかでそうするしかないのは分かっていたし、鳥海が率先して意思表明をしたのも後押しする理由になった。
それから数日、鳥海は提督の代行として精力的に働いた。
新任の提督の選定には時間がかかっているようで、しばらくは艦娘たちだけで泊地を管理する日々が続く。
深海棲艦の活動は各地で見られない。大艦隊を動かすのは向こうにとっても負担というのが大勢の見解だった。
トラック泊地ではパラオに避難していた艦娘たちも戻り、破壊された建物の修理こそ終わっていないが元の様相を取り戻しつつあった。
それでも完全に戻ることはない。
鳥海は執務室を間借りする形で、日々の仕事をしていた。
定時を過ぎて日付が変わる付近まで仕事をする。
当初は目に見えてあった仕事も日を追う毎に減っていき、ついには彼女の裁量でこなせる範囲は片付いた。
残る問題は補給が届いてからなど時間が解決するか、越権でもしない限りは片付かない問題だけとなる。
この数日よりは早く仕事を終えた鳥海は執務室の電気を消そうとして、急に寂しさに襲われた。
息を詰めて、彼女は自分の情動が収まるのを待つ。
激流のような衝動は耐えていれば静まる。鳥海は一度だけ目元を拭ってから深呼吸をした。
口や喉が不自然に震える。それでも声を押し殺す。
鳥海は左の薬指を握る。今はもう痛みを感じない。
─────────
───────
─────
鳥海はあまり眠れない日々が続いている。
睡眠時間が減りだしたのはMI作戦に帯同していた頃からで、当初は緊張のせいぐらいにしか考えていなかった。
日が経っても解消せず、マリアナで提督が行方不明になったのを聞いてからはさらに悪化していた。
それでも疲れが溜まれば眠気も催す。
パジャマに着替えた鳥海はベッドに潜り込む。
鳥海は夢を見て目を覚ました。
夢の内容はいつも忘れてしまう。ただ提督がいたとは思っている……いたと思っていたかった。
忘れたくないけど思い出したくない。そんな矛盾した気持ちを抱えて、また寝に入ろうとして上手くいかなかった。
その日もあまり寝つけないまま起床時刻を迎えた。
起きないと。そう考える鳥海の体は意思に抵抗して動かなかった。
自分の体でなくなってしまったように自由が利かない。
こんなの、ただの思い込み。そうに違いない。
司令官さんがいなくて、苦しくて、ふて腐れたみたいになってるだけ。
だから起きよう。今日も起きて司令官さんらしいことをして……らしいことって何?
鳥海はベッドから跳ね起きた。
つもりだった。実際には体は何もしていない。
泊地の復旧はもう時間の問題で、鳥海が手を出せる部分はなかった。
今までは泊地の復旧という目標を盾に、向き合うのを先延ばしにしていた事実が迫ってくる。
提督がいない。誰にも知られずに消えてしまった。
助けを求めていたのかもしれない。だけど私はそばにいなかった。
なんで作戦に乗り気になってしまったんだろう。
私はまた何もできなくて、見殺しにしてしまったんだ。
鳥海は顔を手で覆った。消えてしまいたかった。
あの子は沈んだ。戦って仲間を守るために。
死んでしまえばお終い。だけど、あの子は自分の望みのために死力を尽くしたんだと思う。
本懐を遂げた。そう言っていいのか鳥海には決められなくとも、もう一人の鳥海が懸命だったのだけは分かる。
それに引き換え、私は何もできなかった。命を賭けられず、約束も守れず、失くしたのも認められないで。
空の明るさが鳥海には目の毒だった。
鳥海は思い出す。
提督と初めて一夜を過ごした夜、お互いに長生きしようという約束を交わしていた。
あの時、私は確かに希望に満ちていた。どんなことでも司令官さんと一緒なら乗り越えていけるんじゃないかって、信じていた。
左手を掲げる。カーテンの隙間から入り込んでくる日差しが室内に明かりをもたらし、鳥海は飾り気のない指輪を見る。
投げ捨ててしまえばいいのかもしれない。司令官さんは、きっとこんな私でも受け入れてくれる。
でも投げ捨ててしまったら、私自身が二度と自分を許せなくなる。今でも許せてないくせに。
大切な約束。
そんなに大切な約束なら……私は絶対に司令官さんの側を離れちゃいけなかったんだ。
消えてしまった提督。壊れた泊地。もう一人の鳥海。そして誤った判断。
その朝、張り詰めていた鳥海の緊張がついに切れた。
鳥海は情緒を抑えきれなくなり、失意の海に沈んでいった。
【艦これ】鳥海は空と海の狭間に【その2】