後輩「また死にたくなりましたか?」【前半】
「大きくなっても、ずーっと一緒にいようね! 」
ここ数ヶ月、同じ夢を見る。最近まで忘れていた幼い頃の淡い記憶、のようなもの。その夢の最後は決まってひとつの約束をする所で終わる。見晴らしのいい場所で、この約束をする所でだ。
夢の続きが気になり、夢の中の時間と格闘するのだが、いくら目覚めまいと、それを見ようとすれども、固く閉ざされた分厚い扉のようにそれ以上の続きは見ることが出来ない。
自分の中で美化されているから曖昧にしか覚えていないのかもしれないが、それも案外悪くないのかもしれない。
とはいえ、そんな約束をした相手が居るというのは少し自慢になったりして、友達に自慢した。鼻で笑われた。ちょっと悔しい。
ベッドから身体を起こし、辺りを見渡す。
外の景色はまだ暗い。時計は4時を指している。
瞼が重い。もう一度寝よう。
「ハル、いつまで寝てるの?」
ぼんやりする視界の中、目の前には自分を起こしに来た姉が立っている。高校3年生にしては身長が低く(本人はかなり気にしているらしい)かわいらしい姉である。
前に妹扱いしたら真顔で死ねって言われた。
「ん、もうちょっと寝ようよ。一緒に」
そう言って布団の中に姉を引きずり込もうとする。姉はそれをひらりと躱した後、困ったようにため息をつく。
「バカなこと言ってないで早く起きて朝ごはん食べて。それにちーちゃんも来るでしょ?」
ちーちゃん。ちーちゃんというのは、近所に住んでる同級生の女の子。所謂幼馴染というやつだ。
どんな子なのと聞かれたら、とりあえず美少女ではある。
身長は大きくもなく小さくもなく、小学校の大半は俺の方が身長が低かった。タレ目で小動物みたい、ファンクラブとかありそう(中学の頃にはそんな大それたものではないにしろ小規模なものはあったらしい)
こんな幼馴染がいると知られたら、どこかで誰かに呪われそう。
来ると言っても朝起こしにきたりする訳でもなく、彼女の部活の朝練に間に合うように家の前に来た彼女といつも一緒に家を出ている。
正直言うと自分はもっと寝てたい。学校は近いわけではないし。
まあ、二度寝でもして姉に迷惑かけるのも嫌だし起きるとしよう。目を開き、部屋を出る。
家事は最初の方こそ一緒にやったりしていたのだが、ここ数年はもっぱら姉に頼りっきりである。
「あんたさ、今日バイトだよね? 」
「うん、だから晩飯用意しなくていいよ 」
「できるだけ早く帰ってきなよ 」
「なに、寂しいの? 」
「……そうじゃ、なくもないけど、さ…… 」
姉の顔を見ると頬がほのかに赤くなっている。どうしたの、と思わず気になって聞いてみる。
「……なんでもないよ」
と言いつつも、顔は赤いままだ。姉との、こういうなんでもない朝のやり取り。変わらない日常。
俺は、そういうものが一番好きだ。
朝食を食べ終わり、身支度をして家を出る。家の前には、幼馴染の女の子。電子端末を片手に持ちながら待っている彼女に、なんだかなーと思いつつ、声をかける。
「おはよ、千咲 」
彼女はそれまで気付いていなかったようで、慌てて手に握っている物をバッグの中に入れ、こちらに向き直る。
「あー、おはようございます。今日も遅いですね 」
「うん、待たせてごめんな 」
「……はーくんは何度言ってもわからないので、しょうがないですねー 」
そう言って彼女は頬を膨らます。口調からして、本気で怒ってるわけではなさそうだが、機嫌が悪くなっては困る。
「いや、ほんとごめんな。なんなら、毎朝待ってなくてもいいのに 」
そのほうが俺も多く寝れていいしさ…とまでは言わなかった。
「いや、別に一緒に登校したくないとか、そういうことじゃないからな?」
自分で言ってから、どこのツンデレだよと少し後悔した。
「……それならいいです 」
「私がはーくんを待ってるの、ずっと続けようって思ってることで、はーくんだって早起きできていいと思うし…… 」
「それに…… 」
彼女にしては珍しく歯切れが悪い。
「それに?」と思わず聞き返す。
「朝くらいしか、一緒にいれないと思って 」
「お、おう……そうか 」
こう、面と向かって言われるとなんて返答をすればいいのか困ってしまう。
うまい返答ができればいいのだが、自分には無理らしい。
彼女はほのかに笑みを浮かべている。
「ほら、ちょっと急ぎましょ?」
最寄り駅までの道のりを、彼女と2人、進んでいく。
校門の前で、体育館へ向かう彼女と別れ、教室へ向かう。
教室には先客が1人。
「あ、ハル。おはよう 」
彼の名前はコウタ。いつも朝早くから学校にいる。
コウタとの付き合いは高校から。たまたま入試の時の席が前後で、たまたま2年間同じクラス。
人付き合いがあまり上手くない自分にとって、この学校で初めて出来た友人であった。
成績優秀で、科目によるが学年トップを取ったりする。でもちょくちょく学校をサボる。あんまりつかみどころのない性格だが、話していて退屈しない。
「ハルは今日も、片桐さんと登校か? 」
「そう、もう慣れたかな 」
「今まで言わなかったけどよ、どこからどう見てもお前らカップルじゃないか? 」
コウタに千咲のことで何かを聞かれたのは初めてのことだった。はっきりしない関係だとは自分でも理解はしている。
だから、俺はいつもそうやってきたように言葉を濁して、「そんなんじゃないよ 」としか言う他なかった。
「好きなやつとか、いないんだろ? だったら片桐さんとそういう仲になるのも、悪くないんじゃないか? 」
「あぁ……好きな子、か……」
「なに、いる感じなの? 」
「好きな子…って言うか、気になる子…? 」
「どんな子? 俺が知ってる人? 」
「前にお前にも言ったことあるだろ、夢の話 」
「あー…… でもあれってハルの妄想じゃなかったっけ? 」
……たしかに妄想なのかもしれない。でも、だとしたら妙にリアル。
女の子の容姿が、好みにどストライクで(別に口リコンというわけではないが)夢の中で惚れそうにはなっていた。
これは本心だ。会ってどうにかなるわけでもないし、昔の約束だから覚えていなくても無理はないけれども。
「ハルがそこまで言うなら、きっと現実なんだろうな 」
そう言って信じているんだか信じていないんだかわからない風に彼は笑う。なんだか慰められてる気分。でも別に悪い気はしない。
また何か思い出そうと、あれこれ考えていると時間は早く過ぎ、予鈴がなる時間になっていた。
考えていても埒があかないので、とりあえず昨日の授業のノートを出して眺めてみるものの、内容はちっとも頭に入ってこなかった。
「今週で学校は最後だぞ。最後の週だからってお前ら油断するなよ 」
担任がSHRでそんなことを言った。
彼は背が高く目鼻立ちのしっかりした若い人で、女子の間で密かに人気があるらしい。
「めんどくせぇ……」が口癖で、17時以降彼の姿をこの学校で見た者はいないという。
大丈夫なんだろうか、この学校。
……来週から夏休みか、と思うけれど、夏休みといっても特にすることに変わりはない。
コウタとたまに遊んで、課題も無理のない程度に進めて、バイトをして、と普段と全く同じである。
高2の夏、これでいいのかな……と思いつつも、変わらないことに対する幸福感もあった。
自分はひとつのことを考えると、他のことは考えられなくなる性格であるし、テスト明けの授業というものは聞こうという気にすらならない。
関係詞がどうの、敬語がどうのとかいう授業は普段なら、まだあれこれと考えながらも耳には入っては来るのだが、その日に限っては全く耳に入ってこなかった。
放課後になり、バイト先へと向かう。バイトはコンビニで、家と学校の中間地点、よりちょっと家の近くにある。
週4勤務だとあまり稼げるわけでもないのだけれども、なんだかずっと家に居てもなにもすることはないし、なにより親にずっと頼っているのもな……と思い、高1の夏から働き始めた。
特にお金を使いたい趣味があったりするわけでもないが、夏休みのシフトも、今年の夏は稼ごう! と考えて結構きつめに入れておいた。
客の入りが無いときに、同じシフトの大学生のお姉様系先輩に声をかけられた。
「どうよ、今年は。彼女とかできた? 」
なんだかそんなことばかり聞かれる日だった。
そんなことを言う彼女は、年上独特の雰囲気を纏っている。姉と2つ、自分と3つくらいしか変わらないのになぜかとても大人に見える。
「あー、見たよ。聞いてみただけ、世間話の一環だよ。きみ、なかなかモテそうだし 」
モテません。関わりのある女子だって、片手で数えることができるほどしか居ない。
「いえ、全然モテないです。告白したこともないですよ 」
隠すこともないので、正直にいっておいた。
彼女はふーん、と言って一瞬つまらなそうな顔をした。
「今年の夏は、いいことあるよきっと 」
そう言って笑みを浮かべる彼女は、やっぱりなんだか自分よりもずっと大人に見え、自分がまだ子どもであると痛く感じた。
バイトが終わる時間になると、辺りはすっかり夕焼けに染まっていた。
うちのコンビニは、場所のわりに弁当の廃棄が多く、週に何回かは食費も浮くから廃棄を貰って食べることにしている。
しかし、今日はなぜかひとつも廃棄はなかった。
まずったな、と思う。
姉に夕飯を要らないと言った手前、なにも食べてきませんでした、というのも忍びない。
とりあえず缶コーヒーを買い、時間を潰そうと、いつもの場所へ向かった。
バイト先から家までの道のりで、少し石段を登ったところにある高台。
展望台のようになっていて、街の景色を一望できる。
そこにはベンチとテーブルがあり、食事ができるようになっている。
今日の展望台は、夕焼けも相まって、なんだかいい感じ。
高いところって、なんだかセンチメンタルな気持ちになれるものだ。
物思いに耽っていると、後ろから目を隠された。
「お前か」
手を外され、そいつが立っている方を見ると、やはりそこには後輩の「なぎさ」がいた。
長めの髪のポニーテールに、整った顔つき。身長は165㎝くらいで、少し大きめ。顔の作りは整ってるけど、あどけなさも残っている、ザ・後輩って感じの女の子。一緒にいると周りとは少し違った空気を感じられる、そんな感じの子。
この後輩は同じ中学出身で、春に同じ高校に入ってきた。
「はい、こんにちはっす。先輩 」
たまに語尾に「っす」をつけるのが少し面白い。
「こんにちは……っていう時間でもないと思いますけど 」
意味のないことを聞いてみた。
「べ、べつにいいじゃないですか。それともあれですか? グッドイブニングとか言いますか? 」
「いや、言わないけど 」
「だったらなんでそんなこと聞くんですか! 」
と、なぎさは体を大きく動かす。オーバーリアクションなところもなかなか絵になる。動くたびにいろんなところ(どこと明言するのは控える、が豊かであるそれ)が揺れている。
ただの気まぐれだよ。と言うとなぎさは、「そうですか、隣、座りますね 」と言って俺から人ひとり分くらい空けてベンチに腰掛けた。
言われてみると、確かにこいつとここで初めて会ったのは、中3の夏くらいだった。
あの時はたしか、家に帰るまでに時間を潰さなくてはいけなくて、下校途中に寄り道をしたくなって、ここでぼーっとしようと思っていたら先客がいて、自分と同じ中学校の制服だったから話しかけたんだっけか。
「あー……もうそんなに経つのか。でもこれと言って中身のある話してないよなぁ……」
「そうでしたっけ? 」
なぎさとここでした話を思い出して見ると、あの教員がうざいだとか、昨日のテレビがどうだったとか、妹と喧嘩したとかそんな他愛のない話ばかりだった。
「うん。でもまあ、好きだよ、楽しいし 」
「はい、わたしも、そう思いますよ 」
話はするけれども、お互いにそこまで入り込むこともない関係。自分にとっては心地よいものであった。
「あの、先輩。夏休みの間、バイトしようと思いまして、先輩と同じところって大丈夫ですか? 」
「ほう、人員的には空いていると思うけど、なんでまた 」
「えっと、社会経験? 」
特に意味はないらしい。ま、大方お金が少し欲しいとか、暇だからとかだろう。
今働いてる人は、店長、お姉様系先輩、メガネ君、大学生ABC(喋ったことはない)、あとはパートの奥様何人か、しか知らない。
「じゃ、店長に言っておくから、今週中に面接受けてね 」
「はい、わかりました。よろしくお願いします 」
そのあと、一言二言交わした後に、暗くなって来たから帰ることにした。
一応、送ってくよと言ったが、近いので大丈夫ですと言われた。なんだかんだでこいつの家しらないんだっけ。
なぎさと別れてから、家への道を歩いていく。
先程まで、夕色に輝いていた空は、紫色に変化し、星が見えるほどになり、あたりに人は1人も居なくなっていた。
帰宅して、自分の部屋に入る。
なぎさと話していたときは気が紛れていたのに、1人になるとまたあれこれと考えてしまう。
面倒なのは、解決しようがないってことか。
内容自体は少ないのではあるが、考えることが多すぎて、結論どころではなくなってしまっている。
どうしよう 男心と 秋の空
……今夏じゃん、馬鹿じゃねぇの。
俺は考えることを放棄した。
その夜は、すぐ風呂に入り布団にくるまって寝た。
早く寝た日は、必然に早く目が覚める。窓からの朝陽。カーテンを閉めるのを忘れていた。
部屋にいても二度寝するだけなので、リビングに降りた。
姉がすでに起きていて、朝ご飯を作っている。
小学生みたいに、ごはんまだー?と言ってみる。
姉は怪訝そうな顔を一瞬した後、まっててねはるくん、とすっげえ棒読みで言った。はるくん、というのに何か少し引っかかった。
なんかどこかから養ってくれる許嫁とかお嬢様だとかが現れないかな、と少し考えたが、どう考えてもギャルゲ並みの妄想だった。
なにより、今とそんなに変わんなくねと思った。あれ、俺恵まれてる?
感謝の気持ちをこめて、姉の頭を撫でてみる。
「……え、あの 」
悪くない反応。
わしゃわしゃと撫でてみる。犬っぽい。
「……妹扱いすんな、ばか 」
調子に乗りました。
久しぶりに1人で向かう通学路は、なんとなく中学を思い出した。
学校に到着する。今日は一番乗りだった。何かしようかなと思って参考書とにらめっこをする。
すぐ飽きた。
机に突っ伏して寝ていたら次に教室に来たコウタが起こしてくれるだろう、きっと。別に対して眠くもなかったのだが、朝ということもあり、五分やそこらで眠りに落ちていった。
「ねぇ……いつまで寝てんのかな」
後席の女子に揺すり起こされた。はっとして周りを見渡す。コウタの姿はない。サボりか……と一瞬で納得する。
担任があいつはどうした、と面倒そうに聞いてくる。俺に聞くなよと思ったが、いつもつるんでいるので仕方がない。一応彼のために当たり障りのない返答をしておいた。
後席の女子に一応さっきの礼を言うと、最近どうなの、と言われた。昨日も誰かに聞かれた気がする。
「まぁ……ぼちぼちってとこかな 」
つまらない人とも思われたくないから、含みのある返答をしてみた。
後席の女子はちょっと驚いたような顔をして俺の顔を少し見つめた後、なにかに気付いたような顔をした。
「いや、そうじゃなくて。あの子と 」
あの子というのはきっと千咲のことだろう。
うまく答えられずにいると、
「夏休み、どっか行く? 」
突然のお誘い。2人でならぜひ、と言ったが、反応的に意味が違っていたらしい。
「……ちーちゃんとだよ。あれなら私も着いて行く? 」
男女比1:2。街でたまにそういう人が居るけど、殺したくなるよね。
あれなら、というのは心配ならという意味であってるはずだ。べつにもう何十回何百回と2人で出かけているのだから緊張とかそういうものは感じない筈ではあるのだが。
まぁすぐ断ると後に影響するかもしれないと思って、必殺技を使った。
「特に用事もなければ、行けたら行く 」
魔法の言葉です。
「それアンタ絶対来る気ないでしょ 」
ばれた。愛想笑いで誤魔化しておいた。
「さっき、吉野さんとなに話してたんだよ 」
思春期男子は男女の会話に敏感らしい。
「べつに? 世間話だけど 」
「それにしては、なんか誘われてなかったか? 」
……盗み聞きかよ。
はぁ、とため息をつきたくなるのを寸前でグッと抑えた。
なんでもない、と言っても結局は勘ぐられるだけなのは目に見えている。
そもそも、後席の女子ーーー吉野さんも悪い。男子と事務連絡以外で喋っているのを見たことがない。俺ですら例外だったりする。
吉野さんはクラスの男子たちがかわいい子は誰だと議論するときに必ずでてくるくらい人気の女子だ。
だいたい俺自身も口下手で、女の子と話すときだって最初の方は緊張する。
話をする女子だって限られている。その人がたまたま美人だっただけであって、自分はなにも悪くない。
「ごめん……本当になにもないからこれ以上は聞かないでくれ 」
そいつはそれ以上はなにも聞いてはこなかったが、後ろめたいような気持ちで心が支配された。
放課後になり、なぎさがバイトの面接に来た。
店長は俺の知り合いということもあってか、ほぼ顔パスでその場でOKを出していたようだった。
いろいろとわからないことがあるだろうし、夏休みの期間中だけでもあったので、俺と可能な限り同じ時間にシフトを組んだらしかった。
なぎさは面接が終わるとぺこりと挨拶をして、そそくさと帰っていった。
それを見ていると、先輩が俺の方を見てニヤニヤしていた。
バイトの終わり際、先輩に「いいことあったじゃん、さっそく 」と言われた。
何のことについてなのかは、気付いていないふりをした。
姉はもう寝ているか、部屋にいるだろうと思い、二階に上がる。
部屋の電気が付いていたので、姉が起きているのを確認して、自分の部屋へ入ろうとする。
姉の部屋からは一切音がしない。
これは自分の推測でしかないが、姉は時折、ひとりで泣いていることがある。朝に目を腫らしたままご飯を作っていることもある。原因はわからないし、自分が仮に聞いたとしても教えてはくれないだろう。
だから、いつも姉に聞くことはできていなかった。今回も姉の部屋の扉の前に立ったまま何もすることができなかった。
気丈に振る舞って自分を元気付けてくれる姉も、どこかで何かと戦っているのだ。
そう考えると自分の感じてる疑問なんて、とても相談できる状況ではないだろう。
画面を見る。コウタからだった。ベランダに出て、電話に出る。
「もしもし、俺だけど 」
「おう、どうした? 」
「……あぁ、いやさ。加藤から聞いたんだけど、お前吉野さんに遊び誘われたの? 」
「まあ、そうだけど…… 」
「……けど? 」
「千咲と一緒に……っていう条件付きだし、積極的に受けるつもりで返答はしてない 」
話が広まるのがはやい。
あぁ、そうか。こいつ吉野さんのことが気になるのか。
「……俺にメリットがないんだが」
「いや、あるだろ。デートだぞデート。またとないチャンスかもしれないぞ 」
……そのデートですらも価値があるものかわからないのだが。
一応友達の頼みだし、言い分くらいは聞いてみるか。
「まあ俺のメリットは一旦置いといて、お前の目的は? 」
「……吉野さんとお近付きしてあわよくばいい感じになりたい 」
正直なやつだった。ここまで正直に言われたからには、無下にはできない。
しかし、人の都合に、ひいては人の恋路に首を突っ込むことは如何なものなのか。
「……あぁ、わかってる。でもあれだ。結局どう転んだとしても決めるのは俺だからお前がそんなに考える必要はないぜ 」
……そう言われると、変に気を使う必要もないし、有耶無耶にしようとしていたこともはっきりできるかもしれない。
「……わかった。じゃあ言っとくわ 」
「さんきゅーな。お前も片桐さんとがんばれよな 」
「何度も言うけどそう言うんじゃないから、本当に 」
「はいはい、まぁ相談とか乗ってくれや 」
その後、今日の学校の話などをして電話を終えた。
ただ、遊びに行くだけ。それ以上でもそれ以下でもない。思い詰める必要なんて、これっぽっちもないんだ。
「それで、結局先輩は行くことにしたんですか? 」
夕暮れ。いつもの場所で、なぎさに遊びの件を伝えた。
「まぁ、一度受けてしまったもんはしょうがないね 」
「……でも珍しくないっすか?
先輩はいくら押されてもそういうのを拒否する人だと思ってたのですけれど 」
どんな偏見だ。
「いや、そうでもないよ。誘われたら大抵断らないと思う 」
いつもすぐ返答をしてくれるのに今回は反応がない。
なぎさはきょとんとした目でこちらを見つめている。
「……じゃあわたしが誘っても遊びに行ってくれますか? 」
「……」
何言ってるのこの子。こういうキャラだっけ? 嬉しいことには嬉しいけれど。
早口でまくし立てられた。その様子を見て、思わず「あはは」と笑ってしまう。
「なんで笑ってるんすか! 」
まるで頭の上に怒りマークが乗ってるのが見えそうな様子だった。
「……いや、単純におもしろくて 」
「……えっと、あの、忘れてください 」
なぎさからの誘いは普通に嬉しいし、悪い気はしない。
だから、あまり深く考えずに答えることにした。
これで問題ない……はず。
「……ちょっと誤魔化すみたいに言うあたり、先輩らしいですけど、許してあげます。
じゃあ、バイトがひと段落つくお盆あたりに2人でどこかいきましょうね 」
答えてからなんだかモヤモヤしてきた。行ったら行ったで楽しいのは目に見えているけれども。
「……わかった。でもあんま期待すんなよ 」
やっぱり予防線を張っておくように行動してしまう。こういう所がズルいと自分でも思う。
「心配しなくても大丈夫っすよ、私は先輩と居るだけで楽しいので 」
ほんとかよ、と思わず口に出してしまったが、間髪入れずにほんとですよと返された。
なんか最近はよくペースを乱される。
ほどよく暗くなるまで話をして、帰路についた。
人間関係なんてものは不確かなもので、信用に値するものなのかはわからない。
たとえそれが、どんなに信頼の置けるような、そんな人が相手だったとしても。
ときには、自分の信じていたもの、信じていた絆、そんなものが短期間に、一瞬でひっくり返ってしまうことだってある。
それを経験してしまったから、いつも斜に構えて、目の前のことを素直に楽しめなくなってしまったのかもしれない。
いつも冗談っぽく振る舞って、相手に対して予防線を張ってしまうのかもしれない。
結局は、臆病になってしまった自分が情けなくて、不恰好で、でもそんな自分が嫌で、認めたくなくて、現実から逃げてしまっているのだ。
それが克服できないうちには、誰に対しても、何に対しても、行動を起こすことなどできないはずだ。
その夜、あれこれを終えて自室に入り、スマートフォンを確認すると通知が一件。
それは、夏休み(3)というグループからの招待だった。
思った通り、グループのメンバーは、コウタ、千咲、そして吉野さんだった。
グループに入るとすぐに画面が埋まっていく。どうやらもう先に話し合っているようであった。案外、というか必然か? みんなノリノリである。
「どこにいくことにしたの? やっぱり映画とか? 」
「まだ決まってないよ 」
「そっかそっか、じゃあ決まったら教えてくれ 」
それだけ打って、返信を見ないうちに通知を切り、電源を落とした。
それから、夏休みまでの学校の時間は驚くほどはやく過ぎて行った。
例の遊びの件については、結局のところ駅前の商業施設でぶらぶらするということになったようだった。
俺が行くと決めたことについて、吉野さんはかなり嬉しそうにしていたらしい(そこらへんについて掘り下げて語るのは避けることにする)。
日程は、千咲が一日中部活が休みのとき、ということで夏休みが始まって3日目か7日目ということになった。
その後も合宿、遠征で忙しいやらなんやらで、その日しか空いていないということだったが、俺を含めての4人は学校での課外講習や補講などを取っていなかったため、その日なら、となった。
恐らく、聞くからにして7月終わりだろうかな。手に握られた電子端末を操作して予定を確認する。日中なら大丈夫。
「り 」とコウタが。
りってなんだよ。
省略しすぎだろ。近頃の若者は、って俺も若者か。
「じゃあ26日、12時にモール前集合で! 」
吉野さんがそう言うと次々と千咲とコウタがGOODみたいなスタンプを押すので自分も押しておいた。
LINEで自分がうったものの後に何もないと不安になるよね。話題は切れてはいるのだが。
意味もなく5分くらいスマートフォンの画面を眺めていた。
とりあえずそのままブラウザを開いて適当なサイトを見てみる。
……無駄にエ口い広告。人が二階から落ちてくるわけねーだろ。
リビングでニヤついていると姉から絶対零度の視線を向けられる。キモいから今すぐ消えろとでも言いたげな。
邪魔なら自分の部屋で勉強すればいいのに、とも思うがリビングの方が集中できるというのも少しわかるので言わないでおく。
邪魔にならない程度に少し話題を振ってみる。
「そいえばさ 」
「……なに? 」
「夏休み中の里帰り、というかおじいちゃんの家に行くの、今年はどうするの? 」
実際気になるところではあった。
姉は受験生ではあるし、貴重な夏休みを使って遠出はどうなのかと。
「もともとは勉強するから行かない予定ではあったけど。
ハルが寂しいなら一緒に行ってあげてもいいよ 」
やっぱそうか。寂しいって言えば、一緒に行ってくれるんだろうけど迷惑はかけられない。
「了解、1人で行ってくる 」
「誰か友達と行ってくれば? 」
「あー……。考えておく 」
「……ちーちゃんとかいいんじゃないの? 」
いいのか?いいのか。昔会ったこともあるし。とはいえ8月に入ってからは忙しいと言うのは既に聞いている。
「千咲は8月中は部活で忙しいって聞いたから多分ムリ。1人で大丈夫だよ 」
「ま、ハルにそこまで仲良い友達を期待しちゃダメか 」
……それは普通に失礼だと思うんだ。
◇
気付けばもう夏休み前の最終登校日。
クラスメイト達はどことなく浮ついた様子である。
至極当然なことだろう。
来年になれば受験一色だろうから、これが高校生活最後の夏休みと言っても過言ではない。
周りの会話に聞き耳をたててみると、夏祭りに行くだとか関西に旅行に行くだとか楽しそうに話している。
机に上半身を傾けてぼーっとしていると後ろから肩を叩かれる。
慌てて振り向くと、千咲が立っていた。
……珍しいな。学校で話しかけてくるの。
「どうした? 」
「今日部活がないので、一緒に帰れたらなーって…… 」
なんだ、そんなことか。
「いいよ、って別に朝言えば良かったじゃねぇかよ 」
「……忘れてたんですよー。じゃあ、集会の後に校門の前で待ってますからね 」
普通に教室でいいんじゃないか。
恥ずかしいのかーーそれはさすがにありえないか。
朝だって人目を避けている。というかむしろ俺のために避けてくれている? のかもしれない。
俺がそういうのを気にする奴だってことをわかっているから。……さすがにそれは考えすぎか。
千咲は優しい女の子だ。俺の主観、ではなくて他人から見ての共通認識として。多分誰が相手だったとしても。仮に俺じゃなくたって。だから、勘違いしてはダメだ。
これじゃあ……危ない危ない、思考を一旦止める。深呼吸をして気持ちを切り替える。
考えごとをしすぎるのも良くない、と先延ばしにして一旦落ち着くことにした。
◇
放課後。
校門の前に千咲の姿を見つけ、手を振ってそちらに向かう。
歩道は駅に向かう生徒達でごった返しになっている。自分たちもその例外ではない。
クラスメイトとすれ違う度に軽く挨拶をする。少し視線を向けられる。なんだか照れ臭いような、慣れない気持ちになる。
「……たまにはこういうのもいいですねー。 」
と千咲が苦笑しながら呟く。
恥ずかしさでそれを考える余裕はない。
とはいえ2人っきりで駅まで行くのはなんだか気まずい。
我慢するかーと考えた矢先、前方に見知った後ろ姿。姉がいた。千咲は嬉しそうな顔をして話しかけにいく。
「楓ちゃん、一緒に帰りませんかー? 」
姉は笑顔でそれに反応して、2人で会話を始める。
姉と千咲と 俺、みたいな距離感。
さっきよりは幾分かマシだと思うがちょっと寂しい。
昔からこいつは姉にすごく懐いている。小さい頃なんかは楓ちゃん楓ちゃんって言ってうちに入り浸ることだって珍しくはなかったほどに。
姉も容姿がいいから、美人姉妹ねーなんて言って周りの大人達はほほえましそうに見ていた。
適当に相槌をうっていると唐突に話を振られる。
「今度遊びに行くんだって?いいなぁ高二の夏 」
今度の4人でのことだろう。
「まぁね」
「私と、私の友達と、はーくんと、はーくんの友達と行くんですよ 」
と千咲が嬉しそうに喋る。
……それならさ、と姉が千咲にこちらに聞こえないようにゴニョゴニョと内緒話をした。
千咲は目をキラキラさせて、それいいですね! と普段より高いテンションでそれに答えた。
と、そんな話をしたところで駅に着く。Suicaで中に入る。ローカル系ICカードはあまり普及していない。
2人が並んだのは上り線。
「じゃ、2人で買い物いってくるからね 」
あぁ、そういう。女子の買い物ですね。男子の俺はお邪魔か、いや真っ直ぐ家に帰れていいけどね?
そのまま先に電車が来た2人に手をひらひらと振って見送り、ホームのベンチに腰掛ける。
なんだかなぁ……と思う。することもないので、音楽プレーヤーを出して適当にシャッフルで音楽をかける。
流れて来たのはブルーハーツ。何も考えず、本当に何の気なしに、まぁシャッフル再生だから当然ではあるけれど。
聴いてるとなんだか泣けてきた。比喩じゃなくてリアルに。
慌てて次の曲に飛ばすといつだったかの深夜アニメのオープニング曲になった。
心が浄化される……いや、大してそんなことはなかった。ガシャガシャと早いテンポが耳に響く。気を紛らわすのには悪くない。
電車待ちが暇だなーと思い、独り言で「ひまだーーーー 」と呟く。
横から「そうっすねー 」と言われた。
慌てて音楽プレーヤーの再生停止ボタンを押して声の方向を見る。
なぎさがけたけた笑いながらこちらを見つめている。
……なにこれ、超恥ずかしい。普通に死ねる。目を潤ませてたところとか見られてないよな。
「お前忍者かなんか? 全然気付かなかった 」
「いやー、先輩あるところに私ありってやつっすよ 」
「それ普通にストーカーじゃないですか、すっげぇ怖いっす 」
茶化したように返してみる。ちなみに語尾も真似て。それから二言三言やりとりを交わす。
「……まぁ冗談はこのくらいにして、先輩が暇だーって言ったくらいに来たんですよ 」
よかった、と心の中で安堵する。男子高校生が女の子の後輩に目を潤ませてるところを見られる。そんな死にたくなるようなシーンはなかったんだ。
「……なので 」
「なので? 」
なんだか嫌な予感がする。なぎさは笑いを堪えきれないような顔をしている。
「先輩が泣いてたこと秘密にしておいてあげまーす 」
「……普通に見てたんじゃねぇかよ、俺の一時の感動を返せ 」
「まぁまぁ……なんかお聞きした方がいいっすか? 」
「いや、あのな。これはあれだ。思春期特有の感受性が強いあれだ 」
「そうっすか、あれっすね」
「そうそう、あれあれ 」
自分で言っててどれだ?と思った。いや実際どれだよ。
「まぁお気を悪くしないでくださいよ。トッポあげるっすから、ほら 」
と言って口にトッポを押し付けてくる。
なぎさもなぎさで、手を使わないでぽりぽりと食べている。なんだかハムスターみたいで愛らしい。
見つめているとなぎさは何かを思いついたような顔をして、俺の手を取って、持っていたトッポを自分の口に持っていく。
あぁ……ていうかそれは。
「……いや、あの、食べかけ、なんですけど 」
「私、あんまりそういうの気にしないっすよ。それにそれ最後の一本だったんですよー 」
お前が気にしなくても俺が気にするわ。でもまぁ、嬉しそうにしてるし、よしとしよう、となぎさに笑いかける。
それを見て、なぎさはふふんと笑った後にトッポのもう一袋を取り出した。
「ほら、先輩。あーんですよ、あーん 」
もう一袋あったのかよ、詐欺だ。目をキラキラとさせているのでしょうがなく頂く。
「およっ、なかなか意外ですねー。……それじゃあ次はですね、ポッキーゲームならぬトッポゲームしましょう 」
なにこの子、こういうキャラだっけか。
「……はぁ、調子に乗りすぎだ 」
なぎさの頬を軽く引っ張る。
「なんでですかぁせんぱーい。最後までチョコたっぷりっすよー 」
甘えたような声で語りかけてくる。そういうのには、心底弱い。
「それ普通に関係ないと思うが…… 」
「……夏の暑さが私を狂わせるんですよ 」
そういって、えへん、とも言いたげな顔をする。
なんだか面白くなって2人でひとしきり笑った。
それから間も無くして下り電車が来て2人で乗り込んだ。
当然、到着点は同じ。当然、話も続いていく。
不思議と退屈はしない。実家のような安心感(言い過ぎ感は否めない)。
他愛もない話をしていると、今はお昼時であるから、普通の流れでお昼ごはんの話になった。
「先輩もうごはん食べたっすか? 」
「いんや、まだ。どっか食べにいくか? 」
気が付いたらそう口に出していた。言った自分でも驚く。
「……そんじゃあですね、私あそこ行きたいっす! 駅の南口の方にあるラーメン屋! 」
「ほう……なんでまた 」
「私結構ラーメン好きなんすけど、家族があんまり好きじゃなくて、でも女子1人だとお店入りにくくて……」
こいつも意外とそういうところを気にするんだな、と思った。
普段から結構1人で行動してるのをよく見るからそういうのは平気なんだろうとばかり思っていた。
「……わかった。俺の無駄に稼いできたマネーの使いどきが今来たな! 」
ちょっとだけ先輩面してみる。奢るとかなんか先輩っぽいじゃん。
「うーんっと。お気持ちは嬉しいんすけど、お金なら自分で出しますよ 」
「別に遠慮とかしなくていいんだぞ 」
「……ほら、あれっすよ。先輩とは上下を作りたくないっていうか、そんな感じっす 」
律儀なやつだ。というか感心した。仮に自分だったら喜んで奢らせてるもんな。
確かに、奢った奢られただと少し、本当にほんのちょっと僅かにでも、上下が定まってしまう感はある(まぁ先輩という立場から言えば上なのではあるがここではそういう意味ではないだろう)。
「わかった。じゃあなんかトッポのお返し、お菓子とか持ってた時にやるよ 」
「……また、食べさせあいっこ、っすね 」
「……」
そうか。そうか? いやいや、違うだろ。
「あのな、あんまり先輩をからかってはいけませんよ 」
「あー……。先輩もしかして照れてるっすね 」
「ち、ちげーし、全然照れてねーし! 」
駄目です。なぎささん超笑ってます。
なんだか敵わないな、と思う。
どうもなぎさといるとペースを握られてしまう。
そんなこんなで、駅に着く。
南口から出て、10分くらい歩いて、ラーメン屋に入る。醤油ベースのスープが有名なラーメン屋だ。結構人気もある。
はたから見たらどうなんだろう、この状況。
制服高校生が2人でラーメン屋。デートか? いやありえないだろ……多分。
俺は勿論、醤油ラーメンを注文する。
なぎさが注文したのは、味噌ラーメンだった。
思わず聞いてみる。
「ここだと醤油ラーメンがスタンダードだと思うけど、なんでまた 」
「私、結構邪道好きっていうか、お店の売りじゃないものとか食べたいなーって思うタイプなんすよ 」
なかなか面白いタイプだな、と思う。
なぎさはおいしーと呟きながら食べていた。ちなみに彼女によると、味噌ラーメンにはコーンが必須らしい。
美味しそうに食べられると、こっちまでより美味しく感じてしまう。なんだか楽しい。
食べ終わって、店主のおじちゃんにまたきますねー、なんて言って店を出る。
「いやー……私また学んじゃったっすねー。」
「あぁ……これで1人で食べに行けるな 」
「そうっすね! でも先輩とも食べに行きたいんで今度また行きましょう! 」
自然にまた会う約束ができてしまった。
まあ、悪い気はしないし? 美味しそうに食べる子と一緒に食事をするのはいいことだ、と今日再確認したので少し嬉しくもある。
帰り際、分かれ道に差し掛かった。
俺はなんだか不思議な感覚になっていた。
なんとなく、離れたくないような気がして、モヤモヤして。
明日からは同じ時間にバイトも入っているけど、なんか寂しい。
「……連絡取れないの不便だからさ、LINE交換しようぜ 」
建前とは言え、なんだか気恥ずかしい。
「いい、ですけど。意外ですね。先輩も夏の暑さにやられましたか?」
「あのな……」
「わー、わかってるっすよ。はい、これで登録してください」
そう言って彼女は俺にスマートフォンを投げ渡してくる。
良いのか?こんな簡単に人に渡して。
こうして、俺のスマートフォンになぎさのLINEが追加された。
家に帰って、早速LINEを送る。返信は思ってたより早かった。
なぜかちゃんとした敬語だった。
LINEで話すの、あんまり慣れません、と。
まぁ、自分もあまりLINEでの会話に慣れていないし、似た者同士か、と思って少し笑みがこぼれた。
その夜はどうでもいいことを2、3回やり取りした後におやすみなさい、と返信して寝ることにした。
最近自分の携帯が鳴ることが珍しくないようになって、ちょっと嬉しく感じた。
◇
次の日の朝、目が覚める。
目の前に、千咲。
夢かと思って再び寝る。
揺すり起こされる。
「……なんでいるんだよお前 」
「きちゃった、ですよはーくん 」
「……」
きちゃった、じゃねーだろ。寝てるときの顔なんて、大抵不細工だし、その、よだれとか垂らしてるかもしれないし。
「……まぁまぁ、私とはーくんの仲じゃないですかぁ 」
「どんな仲だよ…… 」
「ほら、昔は一緒にプール行ったりとか、お風呂とか入ったりしたじゃないですか 」
たしかにそれはそうなんだが、それとこれとは違くないか。
「……で、なんだよ、要件は? 」
「昨日楓ちゃんと服を買いに行ったんですよ。それではーくんに買った服を着てる私を見て欲しいなぁって 」
「……」
あぁ。どうりで見たことない服だと思った。白いスカートがフリフリしていて、かわいい。いつもと違った感じで、ちょっと慣れないけれども。
「あの……そんなにじろじろみないでくれるかな……? は、恥ずかしいっていうか…… 」
恥ずかしいのはこっちのほうだってのに。
千咲を部屋の外に出すために着替えを取り出す。
……出て行く素振りはない。
「……あのさ、着替えるんだけど 」
「それって私でていかなきゃダメですか? 」
ダメだろ。千咲の手を取ってドアの外に追放して、自分は中に戻って鍵を閉める。
「……一階にいってますねー 」
距離が近いのも困りものである。
なまじ幼い頃から一緒に居たから、境界線が不明瞭。異性として見られてるのか、友達の延長線上として見られてるのか検討すらつかない。
千咲はあんなんだから、小学校高学年になって完全に性別の違いを意識し始めたときは勘違いしそうになることが少なくなかった。
でも、あれが普通。あれが彼女にとっての普通であるから、俺が境界線を越えるようなことは絶対にしない、というかできない。
彼女なりに空白を埋めようとしてくれているのかもしれない。昔みたいに振る舞うのも、それでなのかもしれない、と勝手に納得しておいた。
◇
着替えを済ませ、一階のリビングに向かう。
スマートフォンで日付を確認する。今日は24日、遊びまであと2日か。
姉と千咲に今日の予定を聞く。
「午後から塾 」と姉。
「午後から部活 」と千咲。
「午後からバイト 」と付け足す。
「じゃあ、午後まで遊ぼっか 」
当然の流れで姉がそう口にする。
テレビをつけて、スマブラを始める。当たり前だが俺は接待プレイ。
使用キャラは俺がプリン、千咲がディディ、姉がソニック。2人ともガチキャラで辛い。
最初の方はプリンでも圧勝していたが、さすがに動きを読まれたり、見よう見まねで連続掴みとかを習得して千咲がどんどん強くなっていった。
十数回するころにはもう順位は変わっていた。姉と千咲、どちらも、コツを掴んだのか嬉しそうな顔でプレイしている。
女の子とテレビゲームってのも、なんだか新鮮。
飽きてきたころにソフトを変える。次のソフトはゾンビU。ザ・ホラゲーみたいなもの。
姉と千咲は初プレイみたいだったので、2人に任せて俺は後ろからみてることにした。
雰囲気を出す為にカーテンを締め切って、部屋の明かりを暗くした。
実はこのゲーム、意外と難易度が高い。不用意に目をそらしたりすると一発でやられる。噛まれたら死ぬ、マジで。1対5とかもう無理、諦め。逃げるしかない。
千咲は時々ビクってしながらもそこまでビビってはない様子でプレイしていた。
比べて姉はもう見たくない! と言わんばかりに目を覆って怖がっている。意外と怖がりなのな。
それにしても、さっきから千咲がソファで無防備な姿勢で慣れないミニスカなんて履いて座っているから、目のやり場に困る。
と、ダクトを通っている途中でゾンビが出てきて、「ひゃっ 」と千咲の肩が跳ねる。
ダクトとロッカーはマジで怖い。
ふっと、千咲の方を見る。スカートがめくれている、水色。さっき驚いた拍子にめくれたのだろうか。思わず口に出してしまう。
「水色……」
言うなり千咲はこちらを真っ赤な顔をして見つめてきた。
「……はーくん、さいてーです。わかってても口に出すことないと思います」
「いやな、俺だって目のやり場に困るんだよ」
「じゃあクッションとか持ってきてくれるとか、さりげなく伝えて下さい、すごく恥ずかしいです」
恥ずかしい……って、俺だって十分恥ずかしいわ。でも今回は俺が完全に悪いのは明白だ。
姉も俺らの掛け合いを見て楽しくなったのか、千咲に同調して俺に「デリカシーなし! ヘタレシスコン! 」と野次ってきた。
ヘタレは、まぁ……うん。シスコンは違うと思うんだ、知らんけど。そもそも姉であるお前がいうかって感じだし。
こういうやり取りも、なんだか懐かしい。昔はこうして3人でよく遊んだっけ。
じゃあ、いつからだ? こんな風に普通のことに対して、貴重さを感じるようになったのは。昔はこれがあたりまえで、ずっと続くと思っていた、少なくとも、俺は。
◇
11時頃になり、遊びをお開きにした。
千咲が家に帰るというので、送りがてらバイトに向かう。
「楽しかったですねー 」と、千咲が一言。
ちょっと間を置いて、「まぁな 」と返す。
……沈黙。
なんか言わなくては、と思って「また来いよな! 」と思ってるんだか思ってないんだかわからないような言葉を言った。
千咲はくすっと笑う。
「はい、うれしいです。バイト頑張って下さいね 」
そのあと少し会話をして別れた。
適当にぷらぷらと歩く。バイトまではまだ時間がある。でも家を出た。
さすがに、なぎさは居ないだろうけど、いつもの場所に向かう。
鼻歌でゆらゆら帝国の『空洞です』を歌いながら。
頭の中にギターサウンドが鳴り響く。今日みたいな日には丁度いい。
その後も思いついた順に鼻歌を歌っていたら、思ってたよりも早く到着した。
ベンチに腰掛け、街を眺める。
今日は暑いけれども、日陰だとまだ涼しい。我慢できるレベルで。
時間を確認する。11時40分。バイトは13時から18時までだ。
あと1時間近く、どうやって時間を潰すかなーと考えていた。
思えば、夏休みに入るちょっと前に予想していたものとは1日目から全く別物になっているな、と感じる。
なんだか、楽しい。1日目からこれなんだから、夏休み中ずっと楽しいのではないか、とまで思ってしまう。
大抵の楽しいことは、終わりが見えるまでは楽しいとまでは感じないかもしれない。
例えば、旅行の最終日の前の夜。例えば、テレビドラマやアニメの10話、11話に差し掛かったときとか。
でも、終わりが見えるとなんとかして終わってほしくない、と感じる。夢中で気が付かないことの方が多いのだろう。
ひとつの例として、祭りの後の静けさ。あれが俺はすごく嫌いだった。おそらく、今現在も同様に。
夢中になっていて気が付かないから、気が付いたときと終わりが近いからこそ、落差が大きく余計にショックを受けるのだろう。
楽しんでる、とそのときそのときで感じることができるのは良い傾向だ。
あれこれ考えるから楽しめてないんじゃないかとも感じる。
思考より、先に身体を動かしてみるか。それができたら、苦労はしないんだろうけど。
そんなことを考えていたとき、横から少女の声がした。
声の主の方を振り向くと、犬が俺の胸に飛び込んできた(飛び込むというよりはなぎ倒された、という表現の方が正しいかもしれないが)。
上半身のバランスを崩して、テーブルに肩の辺りを強打する。普通に痛い。
「……ご、ごめんなさい。えええっと、お怪我とか有りませんでしたか? 」
恐らくこの犬の飼い主であろう少女が慌てて駆け寄ってくる。
小さめの身体。舌ったらず感のある喋り方。
歳は小学校高学年から中1の間くらいといったところだろうか。
「あ、あぁ……大丈夫大丈夫。ちょっと身体うったくらいだから 」
そう言うとそれまで目を潤ませていた少女の顔つきは一転して晴れやかになった。
大方俺に怒られるかもしれないと思ってたんだろう。
姿勢を起こして犬を少女に渡す。
かわいい犬だったので、少し頭を撫でさせてもらう。
動物と小さい子の扱いは多少得意だ。
「いつもここに散歩に来てるの? 」
「はい。この時間に来たのはたまたま、ですけど 」
「うーん……寝坊した、とか? 」
「……お兄さんは超能力者ですか? 凄いです!! 」
勘だけど当たったらしい。なんか感心された。
「いつもは朝に散歩に来てるんですけど、夏休み初日から10時まで寝てしまって…… 」
少女とベンチに座って少し話をする。
少女は俺の出身の中学校の1年生で、名前は杏(あん)というらしい。
なんだかこちらが話をふらなくても頑張って話してくれている。
なんか変に懐かれてしまったような気もする。このくらいの年頃だと、ちょっと年上に憧れを持ったりするんだろうか?
時間ギリギリまで中学校の教師とか、部活とかのことについて話を聞いた。部活は吹奏楽部に所属しているらしい。
朝6時くらいから、散歩するので良かったら来てください、と元気に言われたので、素直に了承しておいた(犬がかわいかっただけで特に他意はない)
その後、まだギリギリ時間があったので、杏ちゃんをお家まで送り届けた。
杏ちゃんのお家は門が木でできている日本家屋だった。お寺の門をイメージすればそう違わないだろう。あれは多分、いや絶対お金持ち。どうでもいいんだけどね。
◇
コンビニに着くと、なぎさはもうバイト用の制服を着ていて待っていた。
「遅いっすよ、先輩! 何してたんすか」
ちゃんと15分前には着いている。俺は悪くない。普通に返しても面白くないので適当に嘘を混ぜてみる。
「中学生にナンパされてた」
なぎさは本気でドン引きしたような顔をした。考えてみれば当然の反応だ。知り合いがナンパされてるとか俺でも嫌だし。
「はぁ……。先輩は年下好きなんですね」
「……まぁ、間違ってはないな。年上よりはマシだ、知らんけど」
「やっぱりですか……。ちなみに言うと、私は結構年上好きっすよ」
なぎさは甘えるような上目遣いでそう言いながらニヤニヤしていた。
……聞いてないんだが。まぁスルーすることにした。
時間になり、労働が始まる。
なぎさは初めてなので、研修バッチを付けて。
お昼時だというのにさして混んでいなかったので、レジ打ち、品出し、掃除などの基本事項を場所をまわって教えた。
なぎさは律儀にメモも取っていた。要領がいいのか一回説明したことはほぼミスせずにそつなくこなしてくれた。
愛想良く笑顔でパートのおばちゃんに挨拶していたので、職場関係も恐らく問題ない。
意外と人付き合いがうまいんだな、と思う。
そんななぎさの様子を確認しているとお姉様系先輩が俺をニヤニヤしながら凝視してきた。前にもあったな、こんなこと。
「どうだ、手取り足取りってか? 」
ご満悦のようです。
「いえ、一回説明したらわかってくれたので俺はほぼ何もしてないっすよ」
「まぁ見守ってやれよ。ここら辺の客は優しい方だけど、一応な」
「……そうですね。俺でも対処できなかったら、そんときはお願いします」
「はいはい、任せときな」
年上はいいね、頼り甲斐がある。さっきと逆のことを言っている、仕方ない。
「あ、それとアタシは今日もうあがるから、あとよろしく」
「珍しいっすね。なんか用事とかですか?」
「うーん。用事といえば、まぁそうかも」
「……まさか、合コンとかですか?」
「そのまさか、だ。じゃ、またな」
あぁ……。この前彼女できたか聞いてきたのもそういうことだったのか。
あの先輩でも彼氏とか欲しいと思うのか、ちょっと意外。
それから18時までは、特にこれといったこともなく時間が過ぎていった。
なぎさと2人で帰りの支度をして、店を出る。
「はぁーー……。疲れました。長時間立ってるのって意外とキツイんすね」
確かに、自分も最初はそれに慣れなかった。
客の入りが少ない時間帯もあるにはあるのだが、とりあえず1人は客がいる感じ。だから、休もうにもあまり休めない。
そのうち慣れるさ、と返しておく。
「まぁでも、今日の感じ慣れれば楽そうですねー」
どっちだよ。
「いや……。今日はこの時間だから平気だけど、夜とかくるおっちゃんとか面倒だぞ、かなり」
「……絡まれるんすか? 」
「まぁたまにはそういうこともあるけど。一番面倒なのは煙草の注文な 」
「そうなんすか。あれ? でも今日教えてもらったのだと、番号とか書いてあったじゃないですか 」
「省略すんの。マイセン、とか。何ミリかどうかも言わないけど遅いと怒られる。実際遭遇すると超めんどい 」
「あぁ、言われてみれば居そうですね、そういうおじさん 」
「あと年齢確認の画面タッチするのお願いしたらキレられたり 」
「ははーん、俺はそんなに若く見えるのかーって嬉しくならないっすかね、ならないっすね 」
いや、自分で言って自分でつっこむなよ。
「ま、がんばってくれ。できるだけフォローはする 」
「頼もしいっすね。じゃあお願いします 」
頼まれたら仕方がない。頼られるのは好きなほうだ。
女の子相手だと格好つけたい、そんなお年頃なんです。
◇
家に帰ると、姉と千咲がリビングで駄弁っていた。
なんでいるんだよ、と思ったがいるんだから仕方がない。
午前中とは服装が違っていた。部活があったのだから当然か。
千咲はバスケ部よろしくスポーツ系のTシャツにバスパン(自分のところではそう呼んでいる)下には学校名が入っているから多分チームのやつだろう。
部活帰りにちょっと寄っただけか、と2人をスルーして2階に上がろうとすると千咲に呼び止められた。
「今から楓ちゃんとごはんに行こうと思ってるのです。はーくんもどうですか? というか行きましょう」
俺に選択肢はないのかよ……。でもまだ夜飯を食べていなかったので丁度良い。
姉とは何気に久しぶりの外食だ。いつも作ってもらってて申し訳ない、というか姉はそこまで外食を好まない。
来客があることは良いことだ、こういう点においては。
「わかった。着替えてくるから、待ってろ」
「はい。あ、でも私も着替えに行くので、ゆっくりでいいですよ」
女の子は大変なんだな……と思う。俺と姉と食べに行くのだからそのままの格好でも別に構わないのに。
そんなことを考えながら自室に行き、少し暖かめの服装に着替える。夏とはいえども、夜はまだ肌寒い。
リビングに戻ると、姉がもう身支度を済ませて待っていた。
「なんか、こういうのも久しぶりだね」
姉は楽しそうにそう言う。
「あんたとちーちゃんも、昔みたいだしさ。懐かしいね」
「うん。そうだな、本当に」
「……あの頃みたいにさ、3人でこうやって遊ぶのも悪くないわね」
姉は楽しそうにそう言う。でもどこか、ちょっとだけ……ほんの少しだけ、儚げに。
◇
「そういえば、はーくん責任取ってください! 」
千咲は道で突如叫んだ。
……何も覚えはない。
「わたし、朝にあのゲームをしてから、ずっと怖いんです! はーくんのせいです!」
なんだそんなことか。少しだけ笑ってしまう。
姉は姉で、ちゃんと責任取れよーなんて言って茶化してくる。
「そうですそうです! 責任取ってください!」
「……どうすればいいんだ?」
「そうですね……。暗いと怖いので、手を繋ぎましょう」
あほか。んなもん恥ずかしくてできるわけねぇっつうの。
普通に断ろうとしたのだが、姉がキラキラした目でこちらを見つめてくる。……そういう顔にはてんで弱いのです。
「はぁ……。わかった、お店までな」
そう言うと、千咲の顔がぱあっと明るくなる。
こういう顔にも弱いんです。かわいいしな、普通に。
おそるおそる千咲の手をとる。ひんやりと冷たい感触が少しこそばゆい。
自分の手が汗ばんでないか心配になる。
みるみる自分の顔が赤くなっていくのが分かる。千咲の方なんてとてもじゃないが向けない。
少しの時間お互い無言になる。
と、突然すうっと彼女の手が俺の手から離れる。
「……そうじゃなくて、こうつなぎませんか? 」
そう言って、千咲は俺の指に自分の指を絡ませてくる。
世間一般でいうところの恋人つなぎってやつだ。実際やったことはないから、認識としてあっているのかはわからないけれども。
照れたように笑いかけてくる千咲の顔も赤くなっている。
まぁ、指が絡むだけで大して変わらないだろうとタカをくくっていたのだが、
普通のつなぎ方より距離が近いから、お互いの息遣いなんかも聞こえるわけで。
部活後だからだろうか、ときどきふわっと香る制汗剤の香りに頭がぼーっとしそうになるわけで。
肩が当たったりするとお互いビクッとなってさらにぎこちなくなるわけで。
そしてなにより、顔を赤くして俯きながら歩く千咲の姿に思考が狂わされそうになる、わけで。
このままではまずい、色々と。
「……勘弁してください、マジで 」
ぼーっとしている頭から捻り出すようにそう言った。限界です、いろんな意味で。
千咲も千咲でやりすぎたと思ったのか、すぐに普通のつなぎ方に直してくれた。
それからお店に着くまでに、どんな話をした、とかお店に言って何を食べた、だとかは全く記憶にない。
ただ気付いたらもう家に帰ってきていた、ということだけ覚えている。
こんなんじゃ2日後もっとやばいかもしれない、なんてことを考えた。
まぁ、なるようになるだろ。コウタと吉野さんもいるし。というか、なってください、本当に。
◆
その夜、夢をみた。
俺は夢の中で目が覚めると、自宅の屋根裏にいた。
なんでこんな場所にいるんだろう、と考えつつ自分の部屋、であろう場所に行く。
俺のものと思しき荷物はひとつもない。
一階に降りてリビングに向かうと、父さんと姉、そして母さんが三人で楽しそうに食事をしている。
三人からは俺の姿は見えてないようだった。
たぶん、誰からみても三人は理想の家族に映るだろう。そんな風景を目の当たりにした。
姉は昔よくみたような、いまでは全く見ることもなくなった、あどけない少女のような顔で笑っていた。
俺がいない世界線、というよりは選択肢が違った世界線というのが正しいだろう。
これがそのまま事実になっていたかはわからない。
でも、こうなる可能性が僅かにでもあったのなら、もしこんな風に姉が笑っているのなら、それを奪ってしまったのは他でもなく、俺なのかもしれない。
今更何を言っても、遅いんだろうけど。
◇
夢を見るのは浅い睡眠のとき、なんていうことは広く知られている通りで、夜中に目が覚めた。
深く考えずに二度寝をする。夏休み中であることだし、きっと姉も起こさずにいてくれるだろう。
結局次に目覚めたのは昼過ぎだった。
洗面所に行ってから一階に降りる。
家には誰もいなかった。きのう明日は午前から夜までずっと塾にいる、とか聞いた気もする。
お昼ごはんはテーブルにラップをかけて置いてあった。
ラップの上には書き置きがあって、今日は夜帰れないから自分で食べて、あと洗い物よろしくと書いてあった。 あとよくわからん顔文字も書いてあった。地味に可愛かった。
昼飯は冷やし中華。夏ですねぇ……と1人でつぶやく。
冷やし中華を食べながら、あぁ……そういえば昨日杏ちゃんと散歩の約束したっけな、なんてことを思い出した。
まぁ、そのうち。気が向いたら(というか朝ちょうど良い時間に目が覚めたら)行くとしよう。絶対、とは言われなかったことだし。
今日は18時からバイトだったと思う。たしか、なぎさも同じ時間に。
失敗したな……。変な間ができてしまった。遅くとも10時くらいに起きてれば面倒ではあるが学校に行くなりコンビニ近くのカフェとかで時間を潰すこともできた。
半端な時間だ。とりあえず、部屋から夏期課題を持ってきてページを開く。
……やっぱり五分も経たずして飽きた。
スマートフォンを取り出してゲームを適当にプレイする。パズルゲームは衰退しているらしいが、人気なんて別に気にしない。
飽きたころにそのままブラウザで適当な記事をぐだーっとしながら見る。
なんという悪循環。
課題の進捗は当然よろしくない。が、幸いにして授業中に内職を駆使してやっていたストックがある、まだそこまで本気になってやらなくても大丈夫だろう。
何もすることがなくなってしまったのでコウタにLINEを送る。
『いま何やってるの? 』
返事はすぐにきた。
『願掛け 』
神社とコウタのピースが映った写真が送られてきた。撮ったらご利益とか少なくなりそうな気もするけど、さすがに関係ないか。
『願掛け、といいますと 』
『明日ちょっとでも成功しますように、ってな 』
『そうか、がんばれ 』
途切れる。また退屈になる。しょうがない。
コウタに借りてた漫画に手をつける。
最近は電子書籍があったり、Web漫画なんてのも随分と普及している。でもやっぱり、漫画は紙媒体に限る、と思う。個人的にね。
漫画を読んでいたら、いつの間にか昼寝してしまっていた。結論から言うと漫画は面白かった。しかしまぁ通し読みするほどではない。だから寝たんだろう、きっと。
起きると良い時間になっていたので、バイトに向かった。
バイトは19時頃になるとさすがに混んでいた。
なぎさもかなりあたふたとしていた。できるだけ、フォローはしたつもりだ。昨日の心配は今日のところは杞憂に終わったようだった。
バイトが終わってお互い夜飯がまだだったので、家とは逆方向だが、この前のラーメン屋に行った。
俺はまた醤油ラーメンを食べた。
なぎさは今回は塩ラーメンを食べていた。
……やはり邪道が好きらしい。
◇
翌日になって、やっと、個人的にはようやく、4人で遊ぶ日を迎えた。
小学校の時にありがちな遠足の前日に寝つけなくなる、というわけでもなく、布団に入ってから間も無く寝たのではあるが、目が覚めたのは9時過ぎのことだった。
ぐっすりと眠ったのだから、当然あたまは冴えている。
集合時間まで、まだ3時間ほどある。
身支度と、朝飯を食べたりしても時間が余る。
昨日よろしく課題を開く。やっていると今日はだいぶ集中していることに気付く。やれるときに進めておくと後で楽だろう、効率的なやり方。
帰宅部の特権、こういうときには役に立つものです。
数学の課題の添削をしつつ、スマホの電源を入れる。
千咲からLINEがきていた。
通知画面で全文が読めないほど長ったらしく書いてはあるが、要約すると、駅まで一緒に行きませんか、という感じの内容。
返信が遅くなって申し訳ないと思ったのですぐに、わかった、十一時半頃迎えに行く、と返信をした。
リビングに行き、テレビをつける。
ニュースで台風が今南西諸島付近にある、とキャスターが言っていた。
七月上旬は冷夏らしき気配はあったものの、そんなもんか、夏は夏であることだし。
十一時過ぎになったので千咲の家の前まで行くと、もう門の前で待っていた。
こないだ着ていた服とは違う服を身にまとっている。
「あれ、こないだ姉さんと買った服じゃないのか?」
「他にも買ったんです!今日はこんな感じで、どうですか?」
と言って、俺の前でくるっと身体を一回転させる。
水玉のワンピースがひらひらと揺れる。
思わず目をそらす。
なんていうか、こう、自分の武器をわかってるみたいな。手玉に取られている、みたいな。……眩しいのです、自分には。
「に、似合ってるから。……とにかくもういくぞ」
「わー、褒めてくれてありがとうございます」
それから無言で少し距離をとって最寄り駅までの道を歩いて行った。
そういえば、と途中で千咲に駆け寄られて、呼び止められる。
振り返ると、いたずらっ子が面白いものを見つけた時のような笑みでひとこと。
「また、手つなぎますか? 」
……俺はなにも答えなかった。
それからも無言で、というか俺が上の空で空返事のみをしていたからか、県内の人々が言うところの”駅前”にすぐに到着した。
ショッピングモールに着くともう2人が店の前で待っていた。
家から市を跨いだ場所にあるからか、この場所には小さい頃何度か来たことがある程度だったので、少し懐かしい気もする。
「ちゃんと来たね、じゃあまずお昼にしよっか 」
吉野さんがそう言ったので、モール内のレストラン街で食事をとることにした。
小洒落た感じのレストランに入る。
なんかこう、サイゼとかロイホだとか、そういうファミレスを想像していたから、少し肩肘を張ってしまう。
「大丈夫ですよ、手ごろな値段のお店ですし 」
少しビビったのを千咲に見透かされていた。
見渡すと、学生らしき人達もいて、少し安心する。
ひと通り注文をして、料理を食べながら、これからなにをするかについて話をする。
「なにをするって言ってもなー、結構丸投げだったから考えてない、すまん」
「そうですねー、わたしもあんまり……。綾ちゃんは何かありますか?」
千咲がそう言うと、吉野さんはコウタと一瞬目を合わせてから
「私たちは、この映画観に行こうって話をしてたんだけど、どう?」
「知り合いから4人分の無料上映券貰ってさ」
と次々に言った。
コウタからパンフレットを受け取る。
その映画の内容は、がっつりなホラー物だった。
原作本を読んだことがあるので、大まかなストーリーについて知っている。
「……俺はいいけど、千咲は」
言いかけて、続きを躊躇する。
確認の意味も含めて千咲の顔を見る。
顔がムリと言っている、多分、そんな表情。
「じゃ、じゃあ。俺らは2人で適当に買い物とかしてるから、2人で観に行ってくれ」
多分これで大丈夫だ。
「……わかった。じゃあもう映画館行こっか、コウタくん」
吉野さんとコウタはお会計よろしく、と言ってお金を置いて映画館へと向かっていった。
期せずして、コウタの応援をしたことになったと気付いた。
これも予定通り? ……さすがにそれはないか。
千咲が怖いものが苦手というのは俺でさえ最近知ったことであるし。
「じゃあ、俺らも出るか」
自分の食べた料理の分の代金を財布から取り出していると、くいっ、と服の裾を引っ張られる。
「はーくん、いろいろとありがとうございます」
「別に感謝されることはしてない、というか吉野さんはお前が怖いもの苦手って知らなかったのか?」
「……綾ちゃんに言うのは、ちょっと恥ずかしくて」
「まぁ、わからなくもないよ」
行動的にバレバレだったことは伏せておこう。
レジに行くと、赤いメガネの学生らしき店員に凝視された。なんかしたっけ、俺。
会計を済ませて外に出ると、千咲の表情は暗かった。
理由を尋ねる。
「せっかく4人で遊びに来たのに、私が怖いのダメだからって、えっと、無理しても行くべきでしたよね、ごめんなさい、ほんとうに」
千咲は申し訳なさそうにつぶやいた。
「……別に大丈夫だろ、後で合流してから楽しめばいいだろ?」
「はーくんは、ほんと優しいですね、私のわがままなのに」
優しいわけでは、ない。
単にこの間みたいな状況に陥るのが嫌なだけだ。
甘えられるとそれを許してしまう自分はあまり好きではないのだが。
「気にすんな、お前が落ち込んでると俺もやりにくいからさ。……ていうかさ、どこ行く?」
「……そうですね、歩きながら決めましょう」
それからショッピングモールのなかを2人でまわった。
アイスクリームを買ってあげたり、本屋に行って買いたかった漫画を買ったりした。
対応の仕方があやしている感の拭いきれないものではあったが、千咲も段々と機嫌を直したようだった。
その後も何店かお店をまわった後に、千咲が入りたいと言うのでゲームセンターに入った。
ゲーセンの中は子どもと何してるんだかよくわからない年長者でかなり賑わっていた。
煌びやかな電飾と大音量の効果音、人々の話し声で目と耳がやられる。
カップルがイチャイチャしながらプリクラに入っていくのを見て早速帰りたくなった。
「なんか、やりましょう!……なんか」
そう言われて二人組でプレイできるものを探す。
太鼓の達人、はちょっと恥ずかしい気もする。格ゲー……もなんか違うか。ガチ勢と当たったら恥さらしだしな。
「じゃあ、あそこにあるエアホッケーでもするか」
千咲は嬉しそうに頷いた。
機械は結構大きめのものだった。空気がブワーッとしてて凄いよね、あれ。
賭けとかそういうものは何もないので、適当な所で勝たせてあげようと思ったのだが、良いところが1つもなく普通に負けた。
「はーくん弱すぎですね、手抜いてますか?」
恐るべき現役運動部……!。帰宅部風情には運動はつらいものです。
「いや、普通に、至って普通に、負けた」
「運動不足ですねー。はーくんも高校でバスケやればよかったのに、って思いますよ」
「んー、まぁ……」
返答に困る。そりゃ中学ではやってたけどさ、高校になると話が違うというか、な。
「あっ、えっと……何かスポーツです!なんでもいいので!」
「……そうだな。まあこの話はいいとして、もう一回やるか?」
「うーん。じゃあ何か他のやりましょうか」
それからレースゲームや、メダルゲームをした。
千咲は本当に楽しんでいるようで、いつもの笑顔が戻っている。
「時間てきに、最後にあれやってください! 」
千咲が指差したのはクレーンゲーム。
「ゲームセンターといえば、これじゃないですかー?取れたらかっこいいですよー」
「なんか取ってほしいものとかあんの?」
「そうですね……。じゃああのぬいぐるみで」
ウサギのぬいぐるみがお気に召したらしい。
さくっと取ってしまおうと両替機で千円札を100円玉に両替して台の上に積む。
クレーンゲームは得意ではないのだが、5回目くらいで取ることができた。
アームが弱くなくて安心。
まぁ、本番に強いんです、実力です。
「ほれ、これでいいか 」
と言ってぬいぐるみを手渡すと、千咲はえへへっ、と笑いながら嬉しそうに受け取っていた。
そんなにウサギが好きだったのか。
幼馴染だと言うのに知らないことがだいぶ多い。
ゲーセンから出ると、千咲がトイレに行ったので、ベンチに座って待っていた。
暇な時間を潰すにはやはりスマートフォンに限る、ポケットから長方形のそれを取り出し、ホームボタンをタッチする。
コウタからの通知があった。
それによると、
『映画行ったらなんか盛り上がっちゃったから俺ら2人でお茶していくわ。お前も片桐さんと2人で仲良く遊べよな!』
ふざけてんのか、というか4人で遊びに来る意味が失われているような気がする。
……といっても千咲と2人っきりで遊ぶというのも数年ぶりであるから新鮮味はあるにはあるのだが。
とりあえず、俺が余計な気を回さずして2人の仲が縮まった、とポジティブに解釈しておいた。
後で一応文句は言っておくが。
千咲が戻ってくると、千咲も千咲で吉野さんから2人で遊んでという旨のLINEが来たらしく、落ち着かない様子だった。
「あの2人ってそんな仲良くなったのかな?」
「あー……。それもあるにはあると思いますけど」
千咲は言葉に出しかけて、止める。
「……なんかあるのか?」
「い、いえ。つ、次どこ行きますか?」
話を逸らされた。だが、この話は正直どうでもいいので深くは掘り下げない。
「次って言ってもな。だいぶ周ったし、もう帰るか?」
どさくさに紛れて帰りたい願望を出した。疲れたんです、どちらかと言うと、精神的に。
「でもー、勿体無くないですか?せっかくの遊びですよ?」
「……ほら、お前も明日から部活忙しいんだろ。帰って休んだ方がいいって、絶対」
「そこまで言うなら、わかりました。帰りましょうか」
千咲が小さくそう言い、歩き出した。俺も少し後ろをついて行く。
さっき確認したときの時刻は18時過ぎ。5時間程度がかなり長く感じた。
駅までの足取りで、俺たち2人の距離は縮まらないまま、終始無言で歩き続けた。
電車に乗ってからもそれは相も変わらず、千咲が席に座って、俺がその前に立つ。当然会話はない。
この間の夜とか、今日の朝とは違って、なんだか別の意味で落ち着かない。
ーーー怒らせてしまったのかな、千咲はもう少し遊びたかったのかもしれない、自分の意見を押しすぎてしまった、と心の中で暗いワードが飛び交う。
自宅の最寄駅で下車して、家への道のりを歩く。
風が生暖かくて、少し気分が悪い。
ヘリの飛ぶ音と足音のみが辺りに響く。
どう謝ろうか、と考えているともうすぐ千咲の家の近く、というところまで来てしまった。
とりあえず何か、なんでもいいから言わなければならない、と思って、前を歩く千咲に話しかけようと口を開く。
「 あのさ…… 」「……あの、 」
タイミングが被った。
千咲もこちらを振り向いて、何かいいたげに俺の目を見つめていた。
「……はーくんから、どうぞ 」
そう言われたので、俺から話すことにする。
「あのさ……遊んでたときから、お前を楽しませるようなこととか全然できなかったし、お前を怒らせちゃったかなって……」
千咲の方を見やると、彼女はきょとん、と目を丸くしている。
「そ、そうじゃないんです」
怒ってないのか?と一瞬安堵する。千咲はなおも続ける。
「え、えっと。あの、私も、はーくんが、つまらないのに無理して付き合ってくれてるって、その」
……2人して同じことを考えていたのか、と少し笑ってしまった。
「ちがうちがう、俺は結構楽しんでたよ、なんか昔みたいで懐かしかったし」
千咲の顔がぱあっと晴れやかになる。今日のこいつは表情がよく変わるらしい。
「楽しくなかった、わけではないんですね。……私も、すっごく楽しかったですよ」
「あと……これ、どうぞ」
差し出されたのはリボンやらでラッピングされた何か、おそらくプレゼントの類。
「今日楽しかった、お礼です。それに、あの……はーくん誕生日近いけど私遠征と被ってるから先にあげておこうと思いまして」
……誕生日覚えてくれてたのか、少し嬉しくなる。
受け取って、彼女にプレゼントの礼を言い、それからは2人並んで帰り道を歩いた。
千咲の家の前まで送り届けて、挨拶と部活頑張れという旨のことを言って歩き出した。
朝のときのように、ちょっとまってください、と呼び止められた。
「あの、プレゼント……。ちゃんと大事にしてくださいね! 」
それに、軽く返事をして、いつもよりゆっくりとした歩調で家に帰った。
家に帰り、ラッピングをほどき、商品を手元に出す。
出てきたのはアニマル柄のファンシーなマグカップと、小さめのキーホルダーだった。
前者はいいが、後者の物を見るとさすがに戸惑った。
だって、まぁ……。
キーホルダーは、パズルのピースの形をしていて、文字が半分に切れている。
これってつまり……そういう、ねぇ……。
少し、というかかなり戸惑いながら、机にそのキーホルダーを置いた。
とりあえず、浮つく思考を隅に追いやって、今度またお礼をちゃんと言わないとな、と思いながら部屋を後にした。
◇
次の日の夜、父親が久しぶりに夕食前に帰ってきた。
姉と会話しているのを盗み聞きすると、これから一週間くらいは早く帰ってくる、とのことらしい。
姉は家族が一緒に居ることをなによりも喜ぶ。
今日だって見るからに嬉しそうな様子で料理を作っている。
そのため、俺もできるだけ姉を家に一人にさせないように夕飯はほぼ必ず家に帰ってきてとることにしている。
中学のとき(姉は高一)にあまり家で夕飯を食べなかった時期があって、そのときに姉に泣きじゃくられてからずっとのことだ。
ごくたまに家族愛以上なんじゃないかってくらい執着したりする……こともあるが、俺も姉のことは好きだし今のところ何も言うつもりはない。
普段はこき使われてたり絶対零度の視線を向けられてたりするしな。
姉は父親のことが大好きであるが、俺はそうではない。むしろ苦手に感じている。
俺のほうから一方的に苦手意識を持っている、というか持っていると感じているだけかもしれないが。
会話らしい会話というのも、もう三、四年程していない。
避けているのはお互いさまだ、きっと。
料理が終わったようなので、配膳を手伝う。一人分多いだけなのに、手のかけ方が普段とは違って豪勢に見える。
いつもの通りなら、姉とテレビを見ながら談笑したり賑やかにしているのだが、今日はそういう感じではない。
姉が一生懸命に父親に話しかける。
父親がそれに返答する。
それの繰り返し。
俺はずっと黙ったまま食事を摂り続けていた。
そういえば……と父親が口を開く。
「どうだ、ちゃんとやれてるか?学校とか、家のこと、とか」
「うん……。できてるよ、ちゃんと。ハルもいるしね」
と姉が返答する。父親は上機嫌になって、「おまえはどうだ?」と俺に訊いてきた。
「まぁ、家のことは殆どお任せ状態だけど、なんとかって感じかな。姉さんが居ないとダメだけどね、多分」
父親もそれを聞いて安堵したのか、きょうだい仲がいいのはいいことだなーガハハ、なんて言ってグラスの中の酒を飲み干した。
食事を二人より先に終え、食器を片付けて自室に戻る。
窓を開けて、外の様子を見る。
お邪魔虫は退散しますよ、と夜の空に向かって小さく呟いた。
ーーー俺は、ちゃんとやれてるのだろうか。頼りきって、流されるままで、何か得るものはあるのだろうか。
父親に聞かれたことを再び考え直す。
恐らく、明確な答えは出せない。
それでも本来なら、普通の家族なら、こんな質問はありえないとも感じてしまう。
一般的な家族なら親が子をあたたかく迎えるのが普通だろう。
それが親の責務であり、意味を同じくして子どもの責務でもある。
歪なんだ、この家は。
ずっと前から。多分この先も……ずっと。
自分も自分で逃げてばかり。成長なんてまるでない。
コミュニーケーションを避けて、最低限のことしか話さない。
殻に閉じこもって、そこから出るような努力をしない。
ふと気づいて机の上に置いてあるキーホルダーを机の奥に押し込んだ。
その日はすぐに毛布にくるまって寝た。
夢はなにも見なかった。
◇
いつもより早く目が覚めた。
部屋の掛け時計が指す時刻は五時半ばほど。
ひさしぶりに熟睡できたからか二度寝するにも寝付けない。
ベランダに出て、外の様子を確認する。ちょっと曇り、でも朝日が出ているので少し暑い。
廊下に出て、洗面台の前に立つ。
顔を洗う水がひんやりとして少し気持ちがいい。
鏡に映る顔だって、いつもと変わらない。
俺もこの家も、何も変わっていない。
ごく普通の、ありふれた一日だ。
リビングに降りて冷蔵庫から麦茶を取り出す。
夏の暑さには麦茶に限る。一口でグラスの中の麦茶を飲み干す。
グラスを手元に置いた後、そういえば、昨日の夜に姉と父親は二人でなにを話したのだろうか、と考える。
進路のこと、家のこと、卒業してからのこと。
或いはなにも話さなかったのかもしれない。
自分からその場を立ち去っておいて気になるというのも勝手な話ではあるが、俺の居るところだとできない話だってあったのかもしれない。
音楽を聴きながら、なにかを誤魔化すように歩いた。
一曲、終わってまた一曲、と聴き流す。歌詞なんてこれっぽっちも頭に入ってこない。
次の曲は『空洞です』だった。
そういえばこれを聞いていた時に何かあったな、と一瞬考えて、杏ちゃんのことを思い出した。
時間的には丁度いい。約束も果たせることだし、時間つぶしにもうってつけだ。かわいい犬で癒されるのも悪くはない。アニマルセラピーだね、多分。
さっきよりも軽快な足どりで高台への道を急いだ。
◇
高台に到着して、ベンチに座っている少女に挨拶をする。
「あ、お兄さん。おはようございます 」
腕に抱えた犬の手を使って俺に挨拶をしてきた。
少しかわいい。いや、とてもかわいい。
「お兄さんが来ると思って、ここで毎日待ってたんですよー 」
杏ちゃんはそう言ってぷくーっと?を膨らました。
それをつつきたくなる衝動を我慢する。
……普通に犯罪っぽいな、俺。
「ごめんごめん、覚えてはいたんだけど用事とかいろいろでさ 」
「いいですよー、今日来てくれたし 」
「そういえばさ、その子の名前なんて言うの? 」
聞くと、杏ちゃんは笑いながら『みたらし』と、答えた。お恥ずかしながら、的微笑。
……おいしそうでいいね、なんか。
『みたらし』という名前が気にいったので、十分くらいわしゃわしゃと犬を撫でていた。
人に懐きやすい犬だこと、くすぐったそうにしていてかわいい。
撫でながら、杏ちゃんに問いかける。
「みたらしはどうしてみたらしって名前になったの?」
「うーん……と、名付けたのはお姉ちゃんで、由来は色?だったかな 」
「へぇ……。お姉ちゃんが居るのか 」
杏ちゃんの姉なら確実に美人だろう。加えてあの家から想像するに、お淑やかな美人が想像できた。
「そうなんですよ。わたしのお姉ちゃんかわいくて面白いんですよー 」
杏ちゃんはえへへ、と笑っている。
姉妹仲が良さそうで、何より。姉と千咲みたいなもんか、と考えて少し微笑ましくなる。
「お兄さん、お姉ちゃんのこと見たら絶対かわいいって思いますよ!保証します!」
ベンチに座りながら手をわちゃわちゃと動かす。その姿が誰かとダブる。
「あっでもお姉ちゃん好きな人いるみたいで、部屋にツーショット飾ってありました。……お兄さん、ダメでした」
ダメってなんだよ……。告ってないのに振られた感じ?
杏ちゃんの姉というのにも少し興味は湧いたが、会ったところで、ね。
それからも少し話をした。
話に夢中になっていて気にしていなかったが、時刻はもう七時過ぎになっていた。
「杏ちゃん、もう七時過ぎてるけど帰らなくていいの?」
杏ちゃんは自分の時計を見てびっくりしたようで「また明日です!」と言ってそそくさと帰って行った。
明日起きれるかな……。
連絡先とか知らないし、でも来るまで待ってたとか言ってたしな。
明日起きれますように、と心の中で願った(何度も言うが犬がかわいかっただけで他意はない)。
ふと、夢の中の少女がよぎる。
あの子も、犬を散歩させてたような。
俺と少女は隣同士で、手をつないでいて。
……なんて、ついにハルの妄想の具現化がなされてしまった、とコウタに笑われかねないことを思い出した。
今は七時過ぎで、姉も俺が家にいないことに気付いた頃だろうか。
どうせここまで来たのだから、てきとうにブラブラして帰るのが良いだろう。
バイトは十八時からだ。どのみち夕飯には帰れない。
コウタに暇かどうか聞く。
秒で返信が来て暇らしいので、コウタの家で遊ぶことにした。
最寄駅の近くにあるレンタルサイクル置場に立ち寄り、お金をチャージして自転車を走らせる。
コウタの家までは、四、五〇分と言ったところか。
蒸し暑くなってくる時間帯だが、スピードを出して走ると風が気持ちいい。
疾走感。爽快感。
自分の影を追いかけながら、猛スピードで自転車を漕ぐ。
自転車も昔はよく乗ったものだ。小学校の頃は友達といつも自転車に乗って遊びに行っていたと思う。
歩道にはジョギングをする人や散歩をする人がいた。日課にしてることがある人ってすごいと思う。
途中、自動販売機で水分補給をしようと漕ぐのを一旦停止する。
ここはスポーツドリンクか、暑いし、夏だし、とボタンを押そうとするが、横にシュークリームジュースなんてものを見つけた。
誰が買うんだこんなの、と馬鹿にしかけたが、近くにいるじゃないか、買いそうなやつ。
なぎさなら絶対買うな、邪道好きだし。
彼女の気持ちを少し知りたい、という好奇心と、無難にスポーツドリンクで水分補給しないとダメだ、という安全思考が交錯する。
邪道を選ぶのってこう、結構くるんだな、全然考えたこともなかった。
必殺技、困ったときの同時押し。
左側が優先されると聞いたことがあるが本当かどうかは試したことがないので知らない。
ガコン、という音を立てて出てきたのはスポーツドリンクだった。
俺はなぎさに心の中で謝罪しつつ、スポーツドリンクを飲み干し、自転車に跨り、また国道沿いの道を風を切りながら進んだ。
◇
「俺は今、人生の絶頂期に来ている!」
開口一番、コウタはそう叫んだ。
「はぁ、そんなに2人で映画が良かったのか 」
俺と千咲の気まずさを生贄に召喚した幸せですね……。
こんなテンションの高いコウタは初めて見るかもしれない。
「ハルよ、聞いてくれるのか? 」
「……」
すっげぇ目がキラキラしてる。まじで誰だよこいつ。
「それでだな…… 」
「おい、まだ聞くなんて一言も言ってないぞ 」
「き、聞いてくれないのか……。聞かないのにここにきたのか……? 」
ゲームをするつもりで来たんだが。
まぁ、聞いて欲しいほど、そんないいことがあったのか?と気にもなるのだが。
……放置してると後で呪われそうだし、やばいな、こいつの雰囲気。
「……どうぞ。好きなだけ話しな、聞くからさ 」
「まずは集合場所でだな…… 」
「ま、まて。この話はそんな長い話なのか? 」
確実に悪い予感がする。
案の定それは的中した。
「えっと、そうだな……。30分は軽く話せると思うからまぁ聞いてくれ 」
いやいや!そっちじゃないんだよ。
短い話なんてショボいとかそういうことじゃなくて長いと面倒なんだよ。
とツッコミを入れようとするが、コウタの様子的にマジのガチ(頭悪そうな表現)な話だったので黙って聞くことにした。
コウタは、ごほんっと大げさに咳払いをして長話を始めた。
曰く、
「ホラー映画で意外とかわいい反応が見れた」
曰く、
「カフェでホイップたっぷりのジュースを飲んでいて意外だったけどかわいかった」
曰く、
「カラオケでラブソングを歌う彼女に超ときめいた」
曰く、曰く、曰く……。話は止まない。
……っつーか、それ、ただの感想じゃねぇかよ!
お前の存在はどこに行ったんだ、小さな声でそう伝える。
熱弁しているからこちらを見てはいない。
……まぁ大きな声では言えないですよね、楽しそうだし。
頭の中で聞いたことを整理する。
まずは1つ目。
なんかあるだろ。たとえば裾をぎゅっとされた、とか。
続いて2つ目。
これもそうだ。最近の女子高生はそんなもんだ、多分。
吉野さんは例外かもしれないけど。なんか孤高に見えるし。
さらに続いて3つ目。
多分お前のためには歌ってねぇよ!ただの選曲だ、歌がうまかっただけだ。
だけか?一応そうしとこう。
とまあこんな風に、コウタがのたまうこと全てに脳内でツッコミを入れていく。
コウタは最初の方はもう止まらん、とばかりに熱弁していたものの、七、八分くらい喋っていた頃だろうか(量が多いのでひどく曖昧ではあるが)次第に勢いを失っていった。
最後の方なんて、目に涙をためていた。
「それからな……。あれ、俺、気付いちまった。俺全く相手にされてなかったんじゃ……? 」
あぁ、気付いちゃったかー。
みるみるコウタのテンションが落ちて行く。
もうライフが赤ゲージであると言わんばかりに彼はどんどん小さくなっていった。
そしてついに、
「あれ?なんで俺嬉しかったんだろう」
なんて言っている始末。
彼は絶望した表情で、なおも続ける。
「お前は!どうせ!片桐さんと!イチャイチャデレデレしあってたんだろ!」
文節ごとにビックリマークがついているかのような勢いで捲し立てられた。
その日のことが頭に浮かんで(主にキーホルダーの件)少し照れくさいような気持ちになる。
「な、なんだその顔は……。ふざけんじゃねぇ! 」
普通にバレた。
「こうなったら勝負だ、勝負しろ勝負 」
コウタの俺の中でのイメージがどんどん崩壊していっている気もするが、彼の様子がかなり珍しいからスルーしよう。
「いいけど、なにで? 」
「スマブラDXだ、三機一本勝負だ」
また懐かしいものを、と思ったが面白そうなので勝負に応じた。
コウタはファルコを選択。俺はまたしてもプリンを選択した(接待プレイではなく、DXとなると途端に強キャラになる)。
三機勝負……なら、やることは1つしかない。
俺は復帰→空中技の繰り返しでジワジワとダメージを与えていく方法を取った。
小学生のときにゲーム好きでネチネチした性格のりょうたくん(彼の名誉の為に仮名にしておく)がしてきて、子供ながらガチ切れしたことがある戦法だ。
対空戦ならこちらに分がある。
近くに寄ってきたところで下Bでスマッシュ攻撃。
なんだかこの戦法の楽しさも今になってわかるかもしれない。あの年でこの戦法をするりょうたくん何者だったんだ……。
終わってみると一方的な展開で勝利した。
コウタは悔しそうに唇を噛むと、「もう一回だ!もう一回!」と再戦をせがんできた。
それから何回か対戦をして、勝ったり負けたりした。
「……なんか、楽しいな 」
コウタは少し落ち着いた(?)様子でそう言った。
「……」
「考えたら、ほぼ初対面に近いし、これからだよな!」
「そうだな、これから。……うん、がんばれ 」
自己解決したようで良かった。
俺には彼にかけるべき言葉なんて思いつかなくて困っていたところだったから。
「だから、お前もな。片桐さんとなにもなかった、ってわけでもないんだろ? 」
一瞬、言葉につまる。
「……なにも、ないよ。俺たちは、そういうんじゃないんだ、本当に 」
「ほんとにそうか?」
「……」
「……俺が思うにさ、お前は最初から好きじゃなくて他の人を好きなのか、最初に好きじゃないって思ってしまってそれを引きずってるかのどっちかだよ、やっぱり 」
「……」
「結論を急ぐ必要はそんなにないと思うけど、自分の気持ちについてじっくり考えてみろよ。
まぁ、さっきまで暴走してた俺が言えたことじゃないかもしれない、けどな 」
彼はそう言ってにっ、と歯を見せて笑う。
「……ま、続きやろうぜ。次は負けねーぜ 」
それからバイトの時間に間に合うギリギリまでゲームをした。
帰り道、オレンジ色に輝く空を背負って自転車を漕ぎながら、コウタの言っていたことをもう一度考える。
『俺の気持ち』
現状維持と衰退は同義語である、と誰かは言った。
始まりがあるから終わりがある、と誰かは言った。
だからって動いたからといって全て上手くいくわけではない。
かえって悪い方向へと進むこともある。
今の自分では、そう考えるだけで精一杯だった。
◇
バイト後、もうそれが決まっているかのように、自然になぎさと一緒に帰っていた。
「今日、なんかピリピリしてたっすよねー。なんて言いますか、こっちまで伝染しちゃったっすよ 」
「あぁ……。なんか、周りはいい感じだったのに自分には全くいい出会いがなかったらしいよ 」
なぎさの言う通りだ。
お姉様系先輩は、合コンで良い成果が出なかったのか、気が張っているような様子だった。
なんつーか、負のオーラが出てた。悪霊が逆に呪われそうなぐらい。
「なんでダメだったんでしょうね。高嶺の花に映ったんすかね、あの人結構顔整ってますし 」
「ま、そうかもな……。大方、性格面だろ、あれは絶対。あんな男勝りな人いたら確実に構えるわ、自信ある 」
下手したら俺より男らしいかもしれない。
そう本人に伝えたら逆に喜びそうなのもまた男っぽい。
「でも、性格なんて初対面じゃわからなくないっすか? 」
「いや、あの人のことだし、猫被るとかできないだろ。やったとしても数分でバレるな、きっと 」
「あー、それわかります 」
じゃあなんで合コンなんか行くんだよ、少しくらい猫被れよ、とも思うが、彼女の一貫した行動には好感が持てる。
性格で好きになる人もいる、とも言うが、容姿の好みは確実に恋人として適正かという条件に入っているだろう。
そういった意味ではあのひとは一歩リード、なんだろうが、どうも近付きがたい雰囲気がある。それが原因だろう。
俺もだから友達が少ないんだな……全然違うな。
「……たとえばさ、俺とお前が付き合ってるとするだろ?」
「……」
なぎさは小さく頷く。
「お前がさ、俺よりも数段コミュニケーション能力の……って聞いてるか?」
なぎさは慌ててこちらを見て口を動かす。
「はっ……はい、聞いてるっす聞いてるっす 」
「それでさ……」
話し出してから、この仮定に意味はあるのか? と気付く。
俺にまともな男女付き合いができるわけなんてないから、仮定から破綻しているのではないか?
「……やっぱりいいか、この話は 」
「あっ……いえ、大丈夫っすよ 」
なぎさは、はっとしたような表情でこちらの様子を伺ってくる。
「まぁ要するに、日々感謝して生きなきゃなんねーな、って話だよ」
彼女はふぅっと深呼吸をした。
「……そうですねー。先輩はとくに、って感じっすよね」
「なんでだよ……」
「ほら、夏休み中ほぼ毎日こんなかわいい子と一緒にいれるんすよー?」
そう言ってなぎさは軽くジャンプして、半歩分くらい距離を縮めてくる。
……確かにかわいい、のだがこれはきっといつものノリだろう。
なら、俺もノってやるしかない。
「いやいや、そんな記憶全くないんだが」
「えー、それは先輩の頭がどうかしてるっすよ」
「いやナメるなよ、俺記憶力半端ねーぞ。小さい頃の思い出とかほぼ覚えてるしな」
「へ?」
「……なんだよ」
「いやー、なんでもないっすよ」
そんな言い回しをされると更に気になってしまう。
けれど、今回は訊くことを避けることにした。
少しの沈黙の後、なぎさは少し駆けあしで俺の前に行き振り返った。
「とっ、とにかく! 先輩は私に感謝してください!」
そう息巻く彼女の頬は、まるでりんごのように真っ赤に染まっていた。
「……お前さ、恥ずかしいならそういうこと言わない方がいいんじゃねーの?」
「それは、まぁ、そうっすね。あはは……」
なぎさは自嘲気味に笑う。
やっぱり恥ずかしかったのか、と少し可笑しくなる。
さっきの仮定に意味はないが、この先こいつにだって彼氏とかいい感じの男子だったり、できるかもしれない。
そうなったときに、俺はどう思うのだろうか。
祝福すべきなのか?
まぁ、確実に今のまま、なんてことにはならないんだろうが。
そんなことで壊れる関係なら無いほうがマシだ、なんて口が裂けても言えなくなってしまっている。
俺はこの関係が好きだ。それだけは自信をもって言える。
変化に怯えて踏み出す勇気がないのだが、変えてもなお変わらぬ関係というものに少し期待感もある。
両価性・両価感情、なんて言っただろうか。
そんなことを考えながら彼女のほうを見ると、「どうしたんすか?」なんて言って俺を見て少し笑っている。
このままがいい、そう思ったばかりじゃないか、と自問自答する。
でも、なぜか、進めたくなる。
夜空。雲がかかっていて月は見えない。
近いのに、遠ざかっているように感じる。
俺と彼女も、いずれはそうなるのだろうか。
少しぐらい、踏み出してみよう。
考えるのは、それからにしよう。
あのとき俺を支えてくれたのは、彼女だ。
だから、きっと……。
「あのさ……」
そう心に決めて、夜道をもう一度歩き出した。
◆
それは、もうすぐ雪が降ってくるような肌寒い、そんな季節の頃だっただろうか。
当時、中学二年生だった俺は部活に明け暮れていた。
弱いチームではあったものの、どうにかして勝てないかと練習は一度も休まないくらい真面目に取り組んでいた。
家族仲だって良好だった。
家の中が狭く感じるほど、家族四人の距離は近かったと思う。
父さんも、仕事が忙しいながら、帰ってきたら笑顔で俺たち子どもに接した。
父さんの仕事が休みのときは、庭でバーベキューをしたり、夏ならば海に行ったり、冬ならば温泉に行ったりした。
近所の人たちからも「家族仲が良くて羨ましいわね」なんて言われているくらいだった。
近くに住んでいた幼馴染の女の子とも仲良くしていた。
その子は、小学校のときからいっつも俺の後ろをはーくんはーくんと言いながらついてきていた。
俺も俺で、それを嫌とは感じていなかった。
むしろ心地よく感じていた、かもしれない。
姉さん、父さん、母さん、幼馴染の女の子、近所の人たち、部活の仲間、クラスメイト……。
みんなが大好きだった。何気ない日常が楽しかった。毎日が楽しかった。
そんな三、四年前のことがとても遠く感じる。
それが変わったのはたしか、他の中学校に練習試合に行った帰りだっただろうか。
チームの仲間と俺は、街の方で昼飯を食べてぶらぶらと歩いていた。
ふと、何か見知った物があると感じて横を見た。
アーケード街のカフェの二階席のガラス越しに母親らしき人物が座っているのを見つけた。
そういえば母さん今日出かけるって言ってたな、なんて思いながら横に視線をずらした。
母の向かいの席には知らない男が座っていた。
俺は驚いた。驚きのあまり言葉が出なかった。
不倫、という言葉が頭によぎった。
でも、仕事の知り合いかもしれないし、昔学校が同じ人にたまたま会ったとか、それだけかもしれない。
そう自分で折り合いをつけて、そのときは深く考えることはしなかった。
当然、夜に帰ってきた母親にも何も聞かなかった。
それから、だろうか。というより、今まで都合良くいっていたからだろうか。
自分が気にも留めてなかったからだろうか。
母親が家をあけることが多くなった。
父親は仕事で夜中に帰ってくるからそのことは当然知らない。
姉も中学三年生で受験も大詰めという時期で朝から晩まで塾に篭って勉強をしていたので知らなかっただろう。
最初のうちは、母さんも母さんで息抜きが欲しいのかな、なんて気楽に考えていた。
しかし明らかにその頻度が増えていっていた。
次第に、おかしいな、と思うことが多くなった。
そんなときに俺の頭によぎったのはあの日の光景。
もしかしたら、本当に……。
俺は信じたくなかった。
俺のこの想像、妄想は杞憂に終わって、今までとなんら変わりない日常が続いていくんだ、そうに違いない、と思いたかった。
だから確認するために、俺は出かけて行く母の後をつけていった。
結果的に言えば、母親は浮気をしていた。
俺は母親が男と二人でホテルに入って行く姿を見た。
慌ててスマホのカメラで写真を撮った。俺は必死だった。
次に浮かんだ思考は、これをどうするか、だった。
当時の選択が100%正しかったとは言えない、むしろまちがっていたとすら思う。
でも、そのときの俺にはその選択をする他なかったのだ。
俺のそのとき取った選択は、このまま誰も言わずに、黙っていることだった。
◇
朝早くに浅い眠りから目覚めた俺は、また高台へと向かった。
空を厚みのある雲が覆っている。気温はまだそう高くない。
今日は音楽プレーヤーは持っていかなかったが頭の中では『Heartbreak_Hotel』だったり、『A_Day_In_The_Life』が流れている、そんな気分だった。
最近は厄介ごとが多い。
人間は困ったときに癒しを求める生き物だ。
今日もみたらしに癒されるとするか。
高台に着くと、やはり杏ちゃんは俺より先にその場にいて、ベンチに座っていた。
軽く朝の挨拶をして、みたらしを抱えて撫でながら話をする。
「杏ちゃんは、なんでいつもこんなに早いの? 」
「あー、えっと。散歩しないとみたらしがうるさくなるんですよー 」
なるほど。
「それに夏休みだと、朝にラジオ体操があってそのついでって感じで 」
夏休みのラジオ体操……。思い出すだけで頭が痛い。
俺は小中続けて全てサボって寝ていた記憶がある。
真面目な子なんですね……いや、俺が不真面目なだけか。
千咲と姉は毎日行っていた記憶があるし。
小学校の夏休み明けにラジオ体操カードを提出するときに、偽造スタンプを使ってバレて担任に怒られたことを思い出した。
「それはほんと、ご苦労様です 」
「いえいえー。まぁ、私のお姉ちゃんもずっと寝てるタイプでしたし、大丈夫ですよー 」
見透かされていた、洞察力すげぇなこの子。
というかその姉ちゃん、気が合いそうだ、すごく。
「というか、お兄さん。ご機嫌ななめですかー? そんな感じがしますよ 」
まったくもって自覚がなかった。というか、多分夏のせいだ。季節が悪い。夏はダレる季節だ。
「いや、夏だからだな。
俺みたいな夏生まれは小さい頃からクーラーやら扇風機やらの近くで過ごしてきたから夏に弱いんだ。
覚えておくとあとで役に立つかもしれないぞ 」
「ふむふむ、かしこくなります 」
変に納得されてしまった。こっちが逆に恥ずかしい感じになっちゃうんですけど。
「でもー、お姉ちゃんも夏生まれだけど夏好きそうですよ? 」
あ、そうなんだ。はい。
「そ、そうだな。個人差もあるな 」
夏が好きなのは大抵ウェイ系だ(偏見)。
あの家にウェイがいる? なんか信じたくないな。奥ゆかしい系ウェイ、なんだそれ。
俺の中での夏が好き=ウェイ系の図式を夏が好き≒ウェイ系と修正しておいた。
まぁ、会ったこともないし、イメージに過ぎないが。
とまぁ、どうでもいいことを頭の中で張り巡らせていると、杏ちゃんは空を見上げていた。
俺もつられて空を見る。
さっきよりも雲が厚くなっている気がする。というか一雨降ってきそうだ。
「雨、降ってきそうですね 」
そう杏ちゃんがつぶやくとほぼ時を同じくして、バケツをひっくり返したような大粒の雨が降ってきた。
俺も傘を持っていないし、杏ちゃんだってもっていない。
屋根付きのベンチではあるのだが、いつ止むかわからない雨を待つのもどうなんだろう。
「雨、止みそうにないけどどうする? 」
「そ、そうですね……。走って帰りますか!私雨嫌いじゃないんで 」
まぁ、杏ちゃんの家まではさほど遠くないのでそれもいい考えだろう。
俺はちょっと遠いからずぶ濡れになるがすぐシャワーを浴びさえすれば風邪とかにはならないと思う。
「……そうするか。心配だから一応家まで送ってくよ 」
「ありがとうございます。じゃあ行きましょうか 」
そう言って杏ちゃんは勢いよく石段を駆け下りていく。
靴で雨がはねる。足音と雨音が耳に響く。
いかにも楽しそうな軽快な足取りで杏ちゃんは進んでいく。
俺はそれをまるで杏ちゃんの兄になったかのような、そんな微笑ましい気持ちで追いかけた。
◇
石段を駆け下りて、杏ちゃんは少ししたら疲れたのか歩きに戻った。
まるでミストサウナの中にいるみたいだな、なんて考えながら歩いていた。
ここ最近は雨が降っていなかったから、木々には丁度いいのかもしれない。
「そういえば、部活とかないの? 」
「あー、私吹奏楽部じゃないですか。二、三年生がコンクール近いからお休みにさせられてるんですよ 」
納得した。中学吹奏楽部の女同士ピリピリした感じってなんか面白かったなと思う。
「私たちは運動部並にきつい!」と豪語して運動部男子から顰蹙を買っていたなんてことも思い出した。
実情は部員にしかわからないことだろうけど。
合唱コンクールの練習のときに男子数人でサボったのはごめんなさい、今元気にしてるかな、あの吹奏楽部の子。
雨に打たれながら会話っていうのもなかなか新鮮だ。
俺は夏は嫌いだが夏に降る雨は嫌いじゃない。清涼感を感じられる数少ない瞬間だからだ。
その後の雨が蒸発したことによるジメジメ感はあまり好きではないのだが。
降り出しよりも雨が強くなってきた。風も、なんか強くなってきたか?
少し急ごうと言おうとしたところで、杏ちゃんは何かを見つけたのか小走りで駆けて行く。
「おねーちゃーん!」
と杏ちゃんは大声で叫ぶ。
どうやら見つけたのは杏ちゃんの姉のようだった。
妹のために傘を持ってきてくれたらしい。
「もう、台風近付いてるから外でちゃダメって昨日の夜に言ったでしょ!」
そう言いつつ、妹に傘を渡す姉。
顔は傘に隠れて見えないのだが、確かに、杏ちゃんの言う通りすらっとしていてスタイルがいい。
……というか、既視感がある。
声にも、なんとなく覚えがある。
「お姉ちゃん、お兄さんにも傘あげて 」
杏ちゃんがそう言うと、杏ちゃんの姉がこちらに振り返った。
長めの髪に整っているがあどけなさの残る顔立ちの女の子。
振り向いた女の子。それは紛れもなく、俺の後輩、なぎさだった。
◇
「せ、先輩? えっと、どうして先輩が?」
なぎさは混乱しているような顔をしながら、俺に尋ねてきた。
「あー……つまり、なぎさは杏ちゃんのお姉ちゃんってことだよな? 」
なぎさが頷く。杏ちゃんも「こちら、姉です」と言って軽く微笑んだ。
「えっとな、最近犬の散歩してる杏ちゃんと仲良くなって、今日もみたらしと遊んでたんだよ 」
「そうだよー。お兄さんとっても面白いから、最近話してたんだ 」
「はぁ……そうなんだ。先輩と杏が知り合ったのは最近かぁ。どうりで杏が楽しそうに散歩に行くと思いましたよ 」
口調がいろいろ混ざっているが、家だとこんな感じなんだろうか。
流石にいつもの気さくな男友達みたいなノリはしていないとは思うが。
「それで、お姉ちゃんとお兄さんのご関係は?付き合ってるの? 」
俺が先に言おうと思ったが、なぎさが素早く「付き合ってないよ」と言った。
その即答具合にちょっと感心した。なんでだろ。
「高校の先輩で、なんですか。この前からはバイト仲間、て感じだよ 」
なんですかってなんだよ。
でも正直俺もなぎさとの関係は表現しにくい。
俺はなぎさの何だ?
友達?は違うか。相談相手?という程相談してない。先輩後輩、バイト仲間はまぁその通りだけれど。
「まぁ、そんな感じだな。展望台の友って感じだな 」
そう思いついたまま口に出してみた。間違ってはない。あの場所で初めて会ったんだし。
「そうなんだー。じゃあ、えっと。姉のことをこれからもよろしくお願いします! お兄さん 」
杏ちゃんは急に畏まってそう言った。なんか、交際許可を出したみたいなセリフだな、それ。
まぁ、できるお兄さん感を演出するために「おう!なぎさのことは任せてくれ」なんて言ってみたりして。
大船に乗ったつもりで……(俺なら泥舟かもしれないが)。
「いやぁ、お兄さん大胆ですねー。任せましたよ、あはは 」
杏ちゃんも笑ってくれた。
なぎさは後ろで「杏!ちょっと!」と言って、照れたような表情になっていた。
妹には弱いんだろうなー、多分。
杏ちゃんは少しいたずらっ子っぽいところがあるから、振り回されてるんだろうか。
なぎさから受け取った傘をさしながら、二人の会話に耳を傾ける。
なんか、癒されちゃうわ。姉妹同士の会話。
アニマルセラピーよりも癒されている(みたらしごめん)。
雨はさらに強くなっている。雷もここから近くはないが、たまに鳴っている。
雨に濡れた服が身体にまとわりついて気持ち悪い。しかも寒くまでなってきた。
なぎさと杏ちゃんの家に到着する。
「なぎさ、悪いけどこの傘借りていいか? 」
「はい、大丈夫ですよ。返すのいつでもいいですから 」
じゃ、と言って歩き出しそうになったときに正面に立っている杏ちゃんが口を開いた。
「えー……お兄さん帰っちゃうのー? せっかく来たんだし遊んでこーよー 」
「また今度な」と言いかけたところで、大音量の雷が鳴った。音の様子からして、かなり近いところで鳴ったはずだ。
ここは我慢して走って帰るか?それともお言葉に甘えるか?
迷っていたときに、なぎさが門を開けて俺に問いかける。
「うち、上がっていきますか? 」
その、なぎさの微笑みに吸い込まれそうになった。
心がざわつく。心拍数が上がる、どうしたんだ俺。
間髪入れず、なぎさが決まりですーと言って俺の手を取る。
流されてしまっている。
でも、杏ちゃんも喜んでるし、今回はいいか。
◇
ちゃぽん、と湯船に身体を沈める時に音が鳴った。
なぎさと杏ちゃんの家に雨宿りがてらお邪魔した俺は、まず風呂に入った。
身体が濡れてて風邪をひくとまずいというのと、服を乾燥機で乾かすのに少し時間がかかるというので、素直に好意に甘えさせてもらうことにした。
杏ちゃんも、俺と同じく雨でずぶ濡れになっていて、客である俺が先に入浴するというのもなんだか申し訳ないと思ったのだが、風呂が家に2つあるとなぎさが言っていたので遠慮なく入浴させて貰った。
家に風呂が2つって……普通1つだよな?
我が家も特に貧しいというわけではないのだが、生活レベルの違いを実感する瞬間だった。
「先輩、着替え……サイズ合うかわからないですけど、とりあえずお父さんのジャージ置いとくんで着てください 」
すりガラスを隔てた向こうからなぎさが話しかけてきた。
「ありがとう。ていうかなんか悪いな、いろいろと 」
「いえいえ、妹と仲良くしてくれたお礼だと思ってください。あと、シャンプーとかドライヤーとか、好きに使って貰って構わないっすからね 」
なぎさは、じゃあごゆっくり、と付け足して脱衣場からいなくなった。
ふぅー、と一息ついてから改めて周りを見渡す。
デカイなぁ……浴室。風呂なんて檜風呂だ。
シャンプー、ボディーソープなんかも高そうなやつだ。
ここに辿り着くまでも、広い庭と長い廊下を通ってきた。
……なんか妙に緊張するな。
俺は夏場は大抵シャワーで済ませているのだが、夏に風呂に入るのも悪くない。
あんまり風呂場に長居しても悪いので、さっと身体を流して上がることにした。
脱衣場で身体をくまなく拭いてから、なぎさの用意してくれた着替えを身にまとう。
髪を素早く乾かして、少し髪を整える。
脱衣場の扉を閉めて歩き出す。
迷いそうなくらい部屋が多いが、おそらく入口の近くの部屋に行けば良いだろう。
その予想は的中して、居間、というか畳のある広間に、なぎさは居た。
広間には、長い机とテレビがあった。
俺は変に畏まって、畳の上に正座していたが、なぎさに崩してくださいと言われたので適当に座ることにした。
俺はもう一度、キョロキョロと辺りを見渡す。この部屋だけでもかなり広い。
「せんぱーい、そんなビビることないっすよ 」
なぎさは俺にそう言うが、ビビるもんはビビるので仕方がない。
木の感じも、照明やらなんやらも結構新しく見える。
「おまえさ、大金持ちなの? 」
下世話なことを聞いた。気になるのはまぁ少し、それよりもこの変な緊張感を解消したかった。
「いやー、大したことないっすよ。この家だって、祖父の土地を相続して最近建てたばかりですし 」
「あぁ、そうなのね。どうりで 」
……それってガチの金持ちなのではないのか、とも思ったが掘り下げないでおいた。
「それにうち、昔は転勤族で。やっと父親の仕事が安定してきてここに腰を据えてるってわけっすね 」
「そうか。そういえばさ、この前のこと考えてくれたか? 」
「はい、ばっちりOKっす。バイトない日ならいつでも大丈夫っすよ 」
俺はこの前のバイトの帰りに、なぎさを祖父母の所への帰省に誘った。
もともと姉がいかないので、一人で行くと考えていたが、なぎさから遊びたいと前々から言われていたし、バイトの息抜きということも兼ねてだ。
「……もう一度聞くけど、ここから大体電車とバスで片道四時間くらいかかるけど大丈夫か? 」
誘ったことには誘った。でも、無理強いはしたくない。
一人で田舎へ行くのは退屈だと思うけれども、なぎさに無理を言ってまでは二人で行きたくはない。
「はい」
「本当に?」
「……大丈夫っすよー。それともアレですか? 」
「……アレって?」
「えっと、その……建前が欲しいんじゃないかって 」
建前。建前……。
そう言われると、戸惑う。
俺の悪いところだ。
なぎさは人の事をよく見ている。今回だって言い当てられている。
いつも俺の考えなんて見透かされているかもしれない。
建前が欲しいのも、間違ってはない。
というか今までの俺ならまず建前があって、それに準じた行動ばかりしてきた。
建前がないと、後でそれの所為にできないから。1人で責任を負うことになってしまうから。
でも、今回は違うと、そう思いたい。
「いや、これは俺の意志で、なぎさと一緒に行きたいと思って誘ったんだ 」
彼女の目をまっすぐ見てそう言うと、一瞬驚いたような顔をされた。
こほん、と咳払いをして、なぎさは言う。
「……そうっすねー。先輩がかわいい後輩の私とそんなに行きたいって言ってるんすから、しょうがないっすね 」
嬉しそうに口角を上げながら。
「まぁ、お前が俺とどうしても遊びに行きたいって言うから誘ったんだけどな 」
俺も、そんななぎさの姿が面白く思えて、いつものように軽口を叩いておどけてみせた。
「じゃあ、特別に!そういうことにしてあげるっすね。楽しみにしてます、本当に」
その後も二人で会話をしていると、風呂から上がった杏ちゃんが広間にやって来た。
風呂上がりで髪を束ねていると、いつものなぎさに似てなくもない。姉妹だから当たり前かもしれないが。
ちなみになぎさは髪を下ろしていた。
いつもポニーテールだからわからなかったが、髪型でだいぶイメージが変わっているような気がする。
今日はなんだか、いつもより幼く見える。女ってこわい。
「ねぇねぇお姉ちゃん、お兄さんと何話してたの? 」
杏ちゃんは会話にまざりたそうな顔をしながら、なぎさにそう問うた。
「先輩と、杏のはなしして盛り上がってたんだよー 」
なぎさはさっきまで話していたことと別のことを言った。
杏ちゃんに言うのは別に問題ないと思うのだけれど、どうしてだ?
杏ちゃんは、ききたいです、なんのことですか? と俺に詰め寄ってくる。
いろいろと無防備すぎる。夏で、着替えだから薄いというのもわかるが。
中一の女の子相手にさすがにそういうことにはならないのだが、俺だって人並み、いやそれ以上に動揺する。
「お、おう。あのな…… 」
言い出したはいいが、何を言うか思いつかない。
実際なぎさとは杏ちゃんの話はしていないし、急に思いつけというのも無理な話だ。
俺は目線でなぎさに助けを乞うた。
なぎさは、にやっと笑ったあとに、口パクでがんばってくださーいと言った(見間違いでなければ多分)。
「……まぁ、杏ちゃんがお姉ちゃんと違っておしとやかでいい子って話だよ 」
「ちょ、ちょっとなんすかそれ、先輩! 」
「まちがってないだろ。なぎさにはおしとやかって言葉は似合わないし 」
「そ、そりゃあ先輩が私のことをよく知らないだけじゃないっすか? 家だと私凄く物静かかもしれないじゃないですか 」
なぎさは早口で捲し立ててくる。
「それに私がいい子じゃないとも言いたいんすか? 」
腕をぶんぶんと振り回しながら詰め寄ってくる。
なぎさのこういう時の動きはほんと見てて飽きないし、面白い。
「しょうがないな……いい子いい子 、なぎさはいい子ですよ」
そう言うと、「ま、まあそうですよね」と言って、ぶんぶん振り回していた手が急に恥ずかしくなったのか、顔を真っ赤にしながら手をモジモジとさせている。
「あはは、二人ともコントみたーい。おもしろいねー 」
杏ちゃんはそんな俺らを見て大笑いをしていた。
雨は止む気配を見せないままではあったが、会話は晴れているかのようにかなり弾んだ。
それから、せっかくなので三人で何かをして遊ぶことにした。
杏ちゃんがトランプを持って来たのでひとまずそれを。
最初に大富豪をした。
大富豪をやる時には必ずルール確認が必要だ。
イレブンバックだのスペ三だの革命だのご当地ルールがいっぱいあるからな。
杏ちゃんとなぎさの中でのルールに従って始めた。
中学校の昼休みに友達と時間ギリギリまで大富豪をした経験が生きて俺は連勝を重ねた。
なぎさは大人げないですーと言って手を緩めることを希望してくるが、勝負事にはできるだけ勝ちたいものだ。
続いてスピードで遊んだ。
場に出ているカードの連番のカードを出すあれだ。
二人でしかやったことがなかったのだが、三人でやっても結構楽しめる。
俺はスピードがすごく苦手で、何回やっても順位は杏ちゃんが一位、なぎさが二位、俺が三位のまま動かなかった。
杏ちゃんは「さっきと逆転ですねー」と言って楽しそうにしていた。かなり強い。侮れないな中学生。
それからバイトの時間がくるまでUNOだったり、人生ゲームだったりをして遊んだ。
「楽しかったです!また来てくださいね 」
いいえこちらこそ。凄く楽しませてもらいました。
最近はゲームとかアニメばかりだったけど、こういうアナログなもので遊ぶことも良い物だ。
なぎさも、楽しそうにしていたし。
姉妹仲良いっていいな。歳が三つ離れてるっていうのもあるんだろうけど。
まぁ……思うところはいろいろあるがとりあえず、楽しかった。
◇
今日も今日とて、労働労働。
今日のバイトは、昼から十八時まで。
夏休みが始まってからまだそう多くは経っていないはずなのではあるが、ほぼ毎日外に出ているからか、疲労が溜まっていく。
お昼ごはんは、なぎさと近くの中華料理屋で済ませた。
なぎさは冷やし中華を食べていた。中華といいつつ中華料理屋の中にあるとパチモン感が否めないそれは、彼女の言うところの邪道だろうか。
雨足はちっとも弱まる気配はなかった。
すっかり忘れていたが数日前に台風発生のニュースがやっていたのを思い出した。
なぎさに確認すると、やはり今空の上にあるのは台風だった。
朝か昨日の夜にニュースを見てれば濡れずに済んだ、というかすぐに帰れたとも思ったが、済んだことはもういい。
今日の客足はまあまあ、いつもより少し少なめだった。
近隣住民からすれば、急に大雨が降って来たのではなく、予めニュースで見て確認していただろうから、前日に買い込んでおくなりして家から出る人が少ないのだろう。
店内に客がいない時間が二十分くらい続いたので、飲み物の品出しという名目でバックヤードにサボりに行った。
本数が足りないところになるべく時間をかけてゆっくりと飲み物を補充する。
「お、サボり発見。店長にチクっちゃおうかな 」
お姉様系先輩が後ろから話しかけてきた。いきなり現れたので普通にびびった。
「いや……サボりも何も、仕事してますよ、ちゃんと 」
「まぁ……私も同じだ。サボりに来た 」
と言って彼女は椅子に腰かけた。
サボり認定されたことはちょっと嫌だったが、彼女はどうやら本気でサボりに来たらしい。
品出しが終わって俺もやることがなくなったので、当然の流れで世間話に転じた。
「どうよ、なんかいいことあった?お姉さんに話してみい 」
夏休みに入る前にそんな話をしたなぁ……と思い出した。
「あー……いや。なんもないっす 」
あったにはあったのだが、説明するのが面倒だ。それより恥ずかしいことも多いので言うのが憚れる。
「なーんだ、つまんないの。私はさ…… 」
そう言ってお姉様系先輩は長話を始めた。
聞いていると、大学のメンバーで海に行こうとなってるという話だった。
それだけ聞いた俺は「リア充ですねー呪いますよ 」なんて冗談を言っていたのだが、話が進まるにつれて先輩の顔がどんどん強張っていった。
要約すると、八人組のうち六人がカップル。自分と残り一人が余りみたいになっている。周りがそいつと私をくっつけようとしてくるけどそいつのことは好きじゃない。
みたいな内容だった。
大学生も大変だなー、と乾いた笑いが出た。
「ちょっと前まではさ、みんなで楽しくワイワイ遊んでたのにさ、急に洒落気づき出しちゃってさ、ほんとなんなんだろーな 」
あぁ……そういうことか、とお姉様系先輩の不可解な行動に合点がいった。
「じゃあ合コンに行ったのも、自分なりに相手を見つけようとしてたってことだったんですね 」
「そう、と言ったら聞こえはいいけど、実際は誰とも付き合う気なんてなかったから。最初からうまくいくはずなかったんだよ 」
そう言って彼女は自嘲気味の笑みを浮かべた。
「でも、次の日なんかピリピリしてましたよね 」
わざと意地悪な質問をぶつけてみる。俺は性格が悪いのかもしれない。
「それがまた難しいところなんだよねー」
と、彼女はまたしても自嘲気味の笑みを浮かべながら、そう続ける。
「構って欲しくなくても、構われなかったから嫌だったのかな。ほら、自分の魅力が無いと感じてしまった、みたいな 」
言ってることはわかりやすい。ちやほやされたいのだ、簡潔に言えば。
でもその気持ちもわからなくはない。
表面上嫌っている相手でも、いざ相手から完全に拒絶されてしまうと悲しく思ったりするものだ。
「まぁ、つまり。私には恋愛は向いてないってことだ。行き遅れないか心配……本当に 」
笑いながら真剣さを出す言い方をしていた。
俺はそれほど彼女のことをよく知らないので真意がどちらなのかはわからない。
「大丈夫ですよ、先輩なら。それにほら、顔整ってますし 」
「あはははは、そうなんだよ。相澤くんよくわかってるじゃないか 」
美人だと逆に言われなかったりするのか、とも思って言ってみたが、やはりそうだったらしい。
お姉様の風格はそのまま、でもちょっと彼女に対してのイメージはかなり変わった。
「まぁ……いざとなったら友達紹介しますよ」
紹介できるようなそんな友達は居ないけど、一応言っておこう。
「……バカいえ。私はガキには興味ないんだよ」
「あはは、そうですね」
ガキと言いつつも2つくらいしか変わらない気がするのだが。
お姉様系だから後輩系で釣り合いが取れそうだとは思うし。
変な話、ヒモを飼ってそう、なんてイメージを会ったばかりの彼女に対して抱いていた。
最低なイメージだったと自分でも思っている。
でも、なんとなくだけれど、彼女は「自分がこうしたい」という考えからの行動であったり、「自分がこうでありたい」ような自分があるように思える。
意志が強いというか……なんというか。
あたりまえだけど、俺とはまったく違っている。
やっぱり、俺の目には彼女が大人に映った。
◇
バイトが終わる頃には、雨が少し弱まっていた。
夜風が夏とは思えないほどに冷たい。
人の往来もほとんどなく、周囲を見渡しても俺となぎさしか歩いていないほどだった。
今日は、なぎさの家まで送って行った。
去り際に、よかったらうちでごはん食べて行きます?と言われたがさすがに断っておいた。
そこまでは申し訳ないし、姉が待ってるから、と。
一人で、夜の道を歩く。
月が隠れていて辺りは真っ暗だが、家々から漏れる光で若干明るい。
すぐ横をすれ違う自動車が水たまりの水をかきあげながら進んでいる。
雨の音に混じって、どこかで誰かの声がする。
近所の家族の笑い声だろうか、少し羨ましく感じる。
その雨音と、時折聞こえる人の声をBGMにして、家へとゆっくりとした足取りで帰って行った。
◇
家に帰ると、リビングに姉が1人、机に突っ伏して寝ていた。
起こすのも悪いと思ったので、ソファに移動して、小さい音でテレビをつけた。
テレビでは案の定台風情報が流れていた。
ニュースによると、このまま台風は北上して、この地域だと明日の昼には晴れになるだろうとのことだった。
台風の後の強烈な日差し、夏の本格的な訪れを想像して少し気分が沈んだ。
姉はその一時間後くらいに目を覚ました。
姉は時計と、それから俺をみて、酷く狼狽えた。なんで寝てしまったんだ、みたいな顔をしている。
「ご、ごめん。ご飯作るね、待ってて」
「いや、今日は出前とか取ればいいじゃん。ほら、雨の日だとピザが安いし」
なんで俺が謝られなくてはならない、逆に、なんで姉さんが謝るんだ、と思って即座に否定した。
任せているから、任せっきりだから、文句なんて絶対に言わない。というか言える立場じゃない。
姉は受験生だ。そして今は夏休みだ。疲れがたまっているのも仕方がない。それが当たり前なのだ。
だから、悪いなんて思わせてはいけない。そんなのは、俺が許せない。
「でも、お店の人の迷惑になるかもしれないし……」
「大丈夫だよ。仕事なんてそんなもんだって、店の人もわかってるだろうし」
「……わかった。出前、とろっか」
口ではそう言うものの、姉は明らかに精彩を欠いていた。
疲れがたまっているからこうなっているのだろうと思って、届くまで寝てるように言った。
姉は自分の部屋に荷物を持って上がった。電話をかけて、ピザの宅配を注文する。
……そういえば、父さんは帰ってきてないのか? ここ一週間は早く帰ってくると言っていたのに。
まぁでも個人的には、気を張らなくていいからいいとは思うが、姉はそうではないだろう。
それからしばし、暇な時間を過ごした。
なぎさからのLINE通知が来ていたので、それに返信する。
内容的には、杏ちゃんがまた来てねって言っていた、ということ。
なぎさの普段とは違うような口調と、似合わない感じのスタンプを見る限り、杏ちゃんがうった文章だとなんとなく感じた。
コウタからもLINEが来ていた。どうやら吉野さんと二人で遊びに行くことになったらしい。
あの人もどことなく暇そうだし、楽しんでくれ二人とも。
それに軽く良かったな、みたいな返信をした。すぐに既読がついて長話を始めそうだったので、スマホの電源を即座に落とした。
漫画を読んだり、テレビを観たりしていると、インターホンが鳴った。
ようやく宅配ピザが届いた。ちょうどお腹の空き具合がいい頃だった。
届けにきた店員さんに「すみませんこんな雨の中」と白々しいようなことを言うと、「いいんです、仕事ですから」と返された。
いや、本当に、申し訳ないです。でも、ありがとうございます。
姉を二階に起こしに行って、一緒にピザを食べた。
出前なんてうちでは全く取らないから、なんとなく新鮮な気分。
単価を考えると高いかもしれないが、許せるおいしさだった。
なにより、雨の中届けてくれたあの真摯な店員さんのぶんもおいしく感じたのかもしれない。
俺はすぐに自分のぶんを食べ終えてしまった。姉はゆっくりと食べていて、何枚かまだ残っている。
喋ることもないし、姉の雰囲気もどことなく暗くて、話しかけづらい。漂う空気も重く感じる。
俺がその場から立ち去ろうとすると、姉が俺を縋るような目で見つめてくる。
それを見ていないふりをして、リビングのドアに手をかける。
そのとき突然、腰に柔らかい感触を感じた。
首を回して後ろを確認すると、姉が俺の背中に顔をうずめていた。
「どうしたんだよ」
「なんで、私のこと避けるの? お姉ちゃんの……わたしのこと嫌いになったの?」
「……」
言葉につまる。避けていたのは、事実だ。
ここ数日父親がいたものだから、俺としては姉と父親が関わりやすいように身を引いてたんだ。
嫌いになってないと、そう言いかけたときに姉は俺の言葉を遮って話し続ける。
「今日だって……昨日も……どこに行ってたの? 朝から居ないし、夜も遅いし……」
「友達と遊んでて、それからそのままバイトに行ってたんだよ」
「……うそだ。嘘なんでしょ? わたしのことを避けて、家に居るのが嫌だから、ずっと帰ってこないんでしょ? 」
俺はこうなった姉への対処法を知らない。
事実を言っても非難されたのでは、言っても仕方がないとしか言いようがない。
「姉さんのことは、避けてないし、嫌いでもないよ」
そう言うと、きゅっと俺の腰に回した腕の締まりが強くなる。
「じゃあ、お父さん? お父さんのことが嫌いなんでしょ。わたし前々から思ってた。ハルはお父さんのこと嫌いなんだろうなって」
かけられている力がまた強くなる。語気もまた強くなる。涙声になってきていると感じる。
「でも、わたしにとっては、大切な家族なの。ふたりに仲良くして欲しいの。だって……」
一瞬言い止めたが、息を整えて姉は言葉の続きを話す。
「……だって、わたしには……この家にはもう、ふたりしか家族がいないんだから」
「……」
俺は何も言葉が出てこなかった。
姉に対して良かれと思ってとっていた行動が、逆に姉を苦しめていたからだ。
うわべを取り繕うことなんて、簡単だったはずだ。それを拒否したのは、俺の身勝手なエゴでしかない。
「ねぇ……お願い。何があったの? どうしてそんなに、お父さんを避けるの、教えて……?」
姉は、腰に回していた手を外し、俺の肩を掴んで自分の方を向かせて、そう言った。
姉の顔は涙でぐちゃぐちゃになっている。目は真っ赤で、頬も真っ赤になっている。
ーーー俺は、姉に真実を言うべきなのか?
正直に言ったとして、姉はどういう反応をするのだろうか。
きっと、俺を非難する。軽蔑する。
俺はそれだけは耐えられない、と以前から思っていた。
姉も、そんな事実なんかは知りたくないだろうし、お互いが後悔する。そんな事実なら黙っていた方がマシだ。
これも俺のエゴだ。間違いなくそう言える。
でも、このエゴを貫き通すくらいでしか、俺は俺でいられない。
だから、俺は…………
「……別に、姉さんに関係ないだろ」
俺は、姉を突き放すことしかできなかった。
「わかったよ、もういい!ハルなんか嫌い!死んじゃえ!」
姉は俺を突き飛ばすと、ドタドタと二階に上がっていった。
はっ、として伸ばした手は、姉には届かずに、空を掴む。
どうすりゃいいんだよ、と誰もいなくなったリビングで呟く。
テーブルに置きっ放しの、姉のスマートフォンの画面を見る。
その画面に映っていたのは、父から姉へのメール。
簡潔に言うと、また急に忙しくなったからしばらく家に帰れないという内容だった。
俺は再度、どうすりゃいいんだよ、と小さく呟く。
でもその呟きは、姉には…………。
……いや。
誰にも、聞かれることはない。
◆
俺は、神経をすり減らしていた。
大好きだった部活も、楽しかった毎日も、霞んだ目を通してでしか見えなくなってしまった。
近くにいる道化を見て、自らもまた道化を演じる。
俺はどんどん暗くなっていった。
学校に行って、寝て、家に帰って、笑顔で振る舞って……。その繰り返しだった。
いつしか友達も居なくなった。
幼馴染の女の子とも些細なことで喧嘩をして、そのまま話さなくなった。
部活のメンバーにも疎まれるようになって、適当に怪我をしたことにして部活をやめることにした。
俺は中三にあがる頃には、正真正銘、ひとりぼっちになっていた。
そのときは、人と関わらないと疲れなくていいや、なんて思っていた。
辛かったし、苦しかった。でも、学校には行き続けた。
それが俺に与えられた使命だと思っていたから。
それが大好きな家族を守る唯一の手段だと思っていたから。
勉強をしていても、何をしていても、頭の中では「なんで」「どうして」と考えていた。
人と関わりたかった。
でも、俺みたいに薄っぺらいやつと関わりたいやつなんているのだろうか。
終わりの見えない苦痛だった。
けれど、姉が精神的に自立する頃になれば、気持ちも楽になるかもしれないと、そんな淡い期待を持っていた。
少しずつ慣れてきて、もう少しでやり通せるって思った、その時だった。
俺は学校の授業中に意識を失った。
◇
翌朝目が覚めると、やはりリビングには姉だけがいて、父の姿はなかった。
姉は一応、形式上は俺に謝罪した。癇癪みたいなことを起こしてごめんなさい、みたいなことを。
俺もそれに続いて慌てて謝った。大人げなかったし、あの態度はなかった、と。
でも、謝っている間も、食事をとっている間も、一度も目を合わせてはくれなかった。
当然会話もないし、リビングにはテレビの音だけが響く。
姉と喧嘩をすることなんて、もう本当に小さい頃からしていなくて、久しぶりに感じる。
昔喧嘩をしたときは、必ず俺が折れて仲直りをした。姉は頑固な子供だったから、俺が先に謝るしかなかった。
今回昔の喧嘩と決定的に違うのは、俺から折れることはできないということだ。
いつものように、俺が軽口を叩くこともないし、姉も不用意に絡んできたりはしない。
ずっと、空虚な時間が流れていた。
姉は塾に行く時間になったのか、手さげを肩にかけ、無言で部屋から出て行こうとする。
それに俺は小さい声で「いってらっしゃい」と言った。
背中越しでよく見えなかったが、姉は小さく頷いているように見えた、ような気がする。
どうして、こんな…………。
俺が悪いのだけれど、こういう雰囲気は、嫌いだ。
急に家の中が広く感じた。
カーテンを開けると、外の天気は昨日と打って変わって青空が広がっている。
それから、なにをする気にもならなくなった俺は、ソファでどうでもいいようなテレビを見ながらいつの間にか眠りに落ちていった。
◆
ふいに、覆水盆に返らず、という言葉が頭に浮かんだ。
たしか、遊んでばかりの夫に愛想を尽かした妻が出て行ったのだが、夫が官職を得たと知ると急に掌を返して戻ってきたので、夫が『一度失ったものは二度と元には戻らない』という意味を込めて妻の前で盆をひっくり返したというエピソードから出来た故事成語だったと思う。
手短に言えば、『自業自得』と、そう言えばいいのかもしれない。
業は必ず自分に返ってくる。
失ったものは元には戻らない。
人との関係も、なにか自分にとって大切なものも、一度失ってしまえば元には戻らないのだ。
なら、今までの俺はなんだ?
盆をひっくり返されて、必死に泥を掬う妻だったのか?
自分の中の枠組みに固執して、執着して、結果的に姉を傷つけた。
そうまでして、自分は何を守りたかったというのだろうか。
父親に申し訳ないと思っているのも、姉に対してふたりじゃないと接しづらく感じるのも、紛うことなく、俺の感情だ。
今まで必死に塗り固めて、隠していたものが、一気に剥がれて崩れ落ちていくような気分になる。
俺がするべきこと。
俺は人に頼る術を身につけてはいない。
昔はよく世話を焼かれていた子供だったが、あの件以降、人に頼るのが億劫になってしまった。
彼女は、いつも俺に建前をくれた。俺が喋りやすいように、行動しやすいように。それにずっと甘えていた。
それを辞めようと思ってこの前自分の言葉にして、彼女に伝えた。
でも、結局のところ、俺はまるで成長していなかったのだ。
自分で問うた題への答えは、今の俺では一つも見つけることはできなかった。
◇
結局、その日はなにを考える気にも、なにを話す気にもならなかった。
バイトだって普通にいつも通りこなした。
俺の家族になにかがあったとしても、地球は廻り続ける。周囲は意にも介せず、営みを続ける。
『あたりまえ』のことだ。誰でもわかっている、ごく普通の、当然のこと。
でも、俺は酷く混乱させられる。取り繕おうとしても、取り繕えない。
俺の世界は俺の周りによって左右される。もう一度、なんて許されないんだ。
なぎさはバイト帰りに俺に気を遣ってくれたのか、あまり多く話しかけてはこなかった。
むしろ俺の方が不必要に言葉を重ねていた。
帰宅してからは、もう外で食事を済ませてきたという姉は部屋に戻っていて、ひとりで食事をとった。
こんなときでも、姉は夕飯をつくってくれたのだ。その優しさが、痛く感じる。
家族の中ですら、疎外感。
たった一人のきょうだいとも、ギクシャクしてしまっている。
食べ終わった後、洗い物をして自室に戻る。
漫画を読むような気分にも、アニメやドラマを観る気分にもならない。
本棚に積んだままになっていた文庫本を手に取り、数ページぱらぱらと捲るも、続かない。
いっそ千咲に頼んで家に来てもらって、気まずさを解消する……とまではいかなくても姉の機嫌さえ良くなってくれればいいとは思うのだが、根本的な解決にはならない。
ただ、それは引き伸ばしでしかないのだ。
無理やり引き伸ばして、真実を覆い隠した結果、今回の軋轢を生んだ。
引き伸ばしはもう使えない。
どうしたものか……と考えていたときに、ふいにスマホの着信音が鳴った。
「もしもし」
「もしもし、突然だけど、明日会える?」
「……うん、九時にいつものところで」
「はいはーい」
◇
次の日の朝、俺は"駅前"のカフェに来ていた。
「ハル、久しぶり。元気にしてたかな?」
そう言って『母さん』は俺に向かって笑いかけてくる。
「うん。まぁ……それなりに 」
昨日の電話の主は『母さん』だった。
アイスカフェオレに挿したストローで氷をかちゃかちゃとやりながら、はぁっ、とため息を吐く。
父親は俺と姉に、『母さん』と絶対に会うな、と釘を刺した。
でも、俺は数ヶ月に一度こうして会うことを続けている。
姉は多分、というか『母さん』の様子を見る限り言いつけをきちんと守って会っていないようだった。
確証はないが、父親も会ってはいないと思う。
『母さん』は俺と姉がどう過ごしているか知りたがった。
虫のいい話、だとは思う。自分から捨てた子どもの様子を知りたいというのだから。
俺も会うたびに、沈んだ気持ちになる。
でも、会わずにはいられない。俺だって『母さん』の状況は知っておきたいから。
「楓は……元気にしてる?」
「うん。まぁ、受験勉強とか大変そうだけど、そんなには困ってはないと思う 」
最近に限っていえば嘘になる、が完全に嘘というわけでもない。
……あんたのせいでこうなっているんだよ、とも考えるが、言ったところでなにも変わらない。なら言わない方がマシだ。
父親のことをなにも聞いてこないあたり、そうなんだな、と諦めに近いような気持ちになる。
「そっかそっか。……来年アンタも受験勉強がんばらなくちゃね 」
「……そうだな 」
悪びれもせずに、『母さん』はそう言う。
なんていうか、そういうのにもう慣れてしまっている俺がいる。
「そういえばさ、これ見て見て 」
そう言ってスマートフォンの画面を俺に見せてくる。
画面に映っていたのは『母さん』と、その夫、そして小さい子どもが映った写真だった。
はたから見れば、『母さん』のしていることは最低の行いだ。
俺が以前会ったときに、次の家族のことは隠さずに言って欲しいとお願いをしたからそういうことをしてくるのだと思う。
はたから見れば、『母さん』のしていることは最低の行いだ。
俺が以前会ったときに、次の家族のことは隠さずに言って欲しいとお願いをしたからそういうことをしてくるのだと思う。
「うん、よく映ってるね。この子のなまえ、なんて言うんだっけ?」
「美優……美しいに、優しいって書くの。前の奥さんがつけてくれたんだって」
俺と姉の名前の由来……は、聞いたことないな。
「かわいい名前だね。……『母さん』も、いろいろ大変だろうけどがんばって」
夫は前妻と死別してひとり子どもがいる、と聞いていた。
俺は本心からこの言葉を言っていない。が、まるっきり嘘を言っているわけではない。
恨んでないといえば嘘になる。ただ、仕方がないと感じる。
『母さん』には新しい家族がいて、幸せになろうとしている。
それが俺たち家族の不幸を踏み台にして手に入れたものだとしても、壊すなんてことはできない。
たとえ知らない、全く関係ない子であったとしても、幼い子に二度も母親を失う目にあわせることなんて、なにがあってもしてはいけない。
復讐は不幸しか生まない。不幸の連鎖を起こしてはならない。
お人よしが過ぎるなんて言われても、そう思っているのだから仕方がない。
◇
炎天下の中、俺の足はなぎさの家へと向かっていた。
あの出来事から数日が経過した。
でも、なにもアクションを起こせていない。
今日はコンビニバイトが休みで、なんにもすることがなかったので、杏ちゃんとなぎさの家に遊びに行くことにした。
家にずっといても堂々巡りの思考を続けるだけだ。それに、なぎさの心配も解いておきたかった。
だらだらと汗が滴り落ちる。
冷夏かもしれない、といったが完全な間違いだった。普通に暑い。
道に立てかけてあるデジタルパネルが示す温度は31℃。うん、猛暑だな。
薄地のTシャツに、ジーパンを履いているのだが、とにかく蒸れて仕方がない。
思わず「あつーーい」と叫ぶ。
言ったところで、大して変わらない。
近くにいた中学生の集団に不審者を見るような目で見られる。恥ずかしいってものじゃないですね、うん。
家に行くので、手土産程度にコンビニでアイスを買った。
ハーゲンダッツ、出費に関してはまだまだ怖くない。
杏ちゃんにはみたらし団子味を買った。美味しいかはよくわからない。
アブラゼミが大合唱をしている。彼らのせいで余計に暑く感じる。ほんと勘弁してくれ。
へっとへとになりながら、ようやくなぎさの家に着いた。
この前気付かなかったが、表札には「七海」と書いてあった。なぎさの苗字をそういえば知らなかったんだな、と思う。
ななみとなぎさ。かわいい響き。どっちも名前と言っても通じるだろう。
杏ちゃん情報によるとなぎさは夏生まれらしい。苗字も名前も夏っぽくてぴったりだな、と思いながらインターホンを鳴らした。
出迎えてくれたなぎさに買ってきたアイスを手渡して、家の中へと入る。
俺の一歩前を歩くなぎさは髪を後ろでしばって前に流していて、うなじが見える。
おう……へぇ……と自分でもよくわからないような声をもらしていると、なぎさが振り返った。
「先輩、どうすかこのキャラクター、かわいくないっすか? 」
なぎさは、じゃんっ、と言わんばかりに両手を広げてTシャツにプリントされたかわいいサメの絵を見せつけてくる。
うん、かわいいですね。すごく、はい、うん。
恐らくこのとき俺のIQは3くらいになっていた。
原因は単純で、なぎさが胸をはった瞬間そちらに目がいってしまったからだ。
思春期男子はそういうことにめっぽう弱い。俺は他の人より三割マシくらいで弱いだろう。
「あー、うん。かわいいね 」
なぎさは満足したようにえへへっ、と笑うと踵を返して進んでいった。
……確実にバレてた。そういう視線に女の子は普通に気付いてるって千咲が前に言っていた気がする。まぁ彼女にはそういう心配はないだろうと思うけれど。
ぺたぺたと歩きながら、俺はひとりで死にたくなっていた。
◇
この前おじゃました広間に行くと、杏ちゃんは夏休みの宿題に手をつけていた。
数学なんかの問題は、なんとなく懐かしく感じる。
「私、お姉ちゃんとお兄さんと一緒の高校に行きたいんです 」
杏ちゃんは高らかにそう宣言した。
杏ちゃんが入学する頃には俺もなぎさも卒業しているのだが、そこは気にしない。
「でも、杏にはちょっと厳しいんじゃない? 」
杏ちゃんの学力は知らないがたしかにそうかもしれない。俺となぎさの学校は、生徒を放置気味だが一応進学校だ。
ここの地区の中学校なら多くて三人ほどしか毎年進学しない。
まぁそれもそれで、中学のヤツらと離れられていいと思って受験したのではあるのだが。
「ぶー……。だから今こーやってがんばってるの」
杏ちゃんは、むっとした表情をしてそう言う。
そーっと杏ちゃんが解いている問題集を横目で見る。
見る限り全問正解していた。
中一でこれくらい頑張っているなら楽勝じゃないか、とも思う。
苦手な英語を少し教えて欲しいと杏ちゃんにせがまれたので、ちょっと教えることにした。
中学校レベルの英語なら、パターンが決まっていて簡単だ。例文に沿って教えていく。
なぎさはすることがなかったのか、うちわで体を扇いで「あつー」なんて言ってぐーたらとしていたのだが、少し経つとちょっかいをかけてきた。
「先輩、ヒマっす。私にも構ってくださいよー 」
そう言って俺の二の腕をつんつんとしてきた。こそばゆい感触が無駄に気持ちがいい。
「なぎさは勉強大丈夫なのか? ほら、この前高校入って初めてのテストだったろ 」
「うーん……。まだ簡単なんで楽勝っすね 」
なぎさは考え込む様子もなく、そう即答した。
まぁ……最初の方は中学に毛が生えた程度で簡単ではあるとは思うけれども。
「わからなくなったら、先輩に頼るかもしれないっすねー。期待してますよ 」
なんか無駄な期待を持たれてしまった。
俺の成績は良くも悪くもなく……ちよっと良いくらいだ。科目によっては得意なのもあるが。
「お前は夏休みの課題しなくていいの?ついでだしやっちゃえよ 」
「いや、もう終わらせたっすよ 」
すごい。とてもすごいと思う。いつやってるんだ、マジで。
そんな顔をしていると、胸をはって、えっへん、という顔をした。
あの、だからね……そういうのはね。目のやり場に困るんですよ、はい。
俺が閉口すると、なぎさもなぎさでしまった、という表情を浮かべて、顔を真っ赤にしていた。
お互い気まずい感じになる。杏ちゃんは黙々と問題を解いている。
なぎさはアイス取ってきますね、と言って部屋からそそくさと出ていった。
杏ちゃんと部屋にふたりになり、話しかけられる。
「お兄さん、あれはないと思いますよ 」
普通にバレてた。というか見てたんかい。
「あのな、俺も男だからしょうがない部分もあるんだよ、多分 」
「さいてーですね、あはは」
何が悲しくて中学生相手に必死にこんな弁明をしているんだろう、と泣きたくなる。
杏ちゃんはわかってますよーみたいな笑みを浮かべている。この子、結構侮れない。
「そんなお兄さんに朗報ですよ 」
ぱんぱかぱーん、と後ろに効果音がついていそうな言い方だった。
はて、なんのことだ? と首を傾げていると、杏ちゃんが手をチョイチョイとしているので、耳をそちらに持っていく。
内緒話をするときのように、耳元でボソッとひとこと呟かれる。
「……お姉ちゃんが家に男の人連れてくるの、お兄さんが初めてですよ 」
あぁ……そう。そうなのか。まじか。
驚異の三段活用を頭の中で浮かべていた。
わからなくもないが。ちょっとぼっちそうだし、あいつ。
意図せずではなく、意図してそうなってそうなのがあいつだけれど。
「ここだけの話、お姉ちゃんは、中学校入るまでちょっと……いや、結構暗かったんですよ」
「そうなの?」
「お兄さんの前言ったように、あの頃は超おしとやか! って感じだったんですよ」
そう言われて、中学校の時に初めて会った時のなぎさはどんな子だったか、と思い出してみたが、杏ちゃんの言うことは腑に落ちなかった。
「意外だな……じゃあ、どうして今あんな感じになってるの?」
「なんででしょうねー。恋とか? じゃないですか?」
「そんな簡単なもんか?」
「女の子はなかなか単純な生き物ですよ」
さいですか。
しばらくすると、アイスをデザート用の皿に取り分けたものを持ったなぎさが戻ってきた。
杏ちゃんも今日のぶんは終わりということで三人でアイスを食べた。
暑い中食べるアイスは格別だ。
杏ちゃんは、みたらし団子味のアイスをおいしーですーとご満悦そうな顔で食べていた。
そのあと、三人でマリオパーティをして遊んだ。
今回やるパッケージのは初めてやるものだったが、かなり楽しめた。
他には桃鉄なんかもあった。だいぶご無沙汰、という感じで感傷に浸りつつゲームを始める。
キングボンビーに完全に取り憑かれてしまった俺を見てなぎさも杏ちゃんも大爆笑していた。
当然圧倒的敗北だった。歴史的ですらあるかもしれない。まあでも、運が悪い、運が。俺は悪くない。
杏ちゃんがいろいろ引っ張り出してきて、それをプレイする、というのでだいぶ時間が過ぎていった。
どうしてこんなにゲームがあるの?と聞くとお父さんの趣味らしかった。
たしかに、この年代にしては古いハードのゲームも点々としてある。
一通り面白そうなゲームを三人でやった。杏ちゃんはいろいろ動いて疲れたのかぐでー、としている。
外の空が夕焼け色に染まって、気温も少し低くなり始めた。
あんまり長居するのも申し訳ないので、今日のところはお暇することにした。
帰りの支度を済ませて、帰ろうとすると、なぎさが後ろをついてきた。
飲み物補充のためにコンビニに寄りたい、と。
せっかくなので俺もコンビニで何か買って帰ることにした。
なぎさは紙パックのお茶となんかすさまじい色をした炭酸ジュースを買っていた。
俺も少し家で食べる用のお菓子と水を購入した。
買ったものが入ったレジ袋を持ちながら、ふたりで並んで歩く。
「いやー、楽しかったっす。今日もありがとうございました」
ぺこり、と頭を下げ、夕焼けに照らされた彼女の姿は、いっそう魅力的に見える。
「いや、こちらこそありがとな。今度はうちにでも遊びに来てくれ」
特に考えずに言葉にしたが、普通にお誘いをしてしまった。
彼女は無言で頷いた。
千咲とかを誘って、もう少し大人数でワイワイ遊ぶのも悪くない、夏だしね。
姉も、暇な日なら参加してくれると思うし。
気休め程度かもしれないが、ちゃんと話さなくてはいけなくなる可能性もある。
そんなことを考えていると、突然なぎさが立ち止まった。
思わずどうした?と声をかける。
「せ、先輩。わたし……もうちょっとだけ、先輩とお話がしたいです」
「……えっと、いいけど。なにかあった?」
「あの…………その、話といいますか」
俺の様子を探るように、ひとことひとこと、丁寧に言葉を重ねる。いつもの気さくな口調ではなく、かしこまったような口調で。
なぎさの顔は少し強張っている。
俺は黙って言葉の続きを待つ。
彼女は緊張を解すように、ふぅー、と目を閉じて息を吐いてから、
「……ちょっと、寄り道しませんか?」
と口にした。
◇
俺はなぎさの提案を受け入れ、どこに寄ろうと考えながら歩いていた。
曲がり角を過ぎたところに小さい公園があったので、とりあえず、そこにあるブランコに座ることにした。
久しぶりにこの公園に訪れた。
昔はここでよく遊んだな……と思い返す。
自転車で家から十五分くらいの場所だから、小学生のときはここで友達と日が沈むまで遊んでいた。
見渡すと、公園の内部は当時と違って、シーソーだったり、ジャングルジムだったりがなくなっていた。
恐らく危険な遊具だという名目で撤去されたのだろうが、なんだかもの寂しく感じる。
なぎさはブランコに座って吊り具部を握っている。
俺はその反対側に設置してある柵の上に座った。
「……で、どうした? 話って」
なぎさがずっとだんまりなので、仕方なく俺から口を開く。
「……先輩は、今日遊んで楽しかったですか?」
ついさっきされた質問を、もう一度投げかけられる。
「うん、楽しかった。さっきも言ったけど、また遊びたいとも思ってる」
「私は、わからないんです……」
なぎさは先程までよりも強く、吊り具部を握る。
下を向いているせいか、その表情は読み取れない。
彼女は顔を上げて俺の目を見て、その続きを語り始める。
「……ここ最近、ちょっと先輩の様子がおかしくて、なにかあったのかな、と思ったんです。だけど、今日は楽しそうにしていて」
「……い、いや。えっと……」
「先輩、ムリしてませんか?」
なぎさは、再び俯き、俺の言葉を遮るように、そう言った。
優しく諭すように聞こえる言葉も、どこか鋭利なように感じる。
「……無理は、していないよ。なんにもなかったってわけではないけど……」
言いかけて、その続きを口にすることを戸惑った。
目先の問題は、俺の家族についてだ。これについてなぎさに余計な心配をかけてはならない。
俺が続きを言い淀んでいるのがわかったのか、なぎさはまた、俺に語りかける。
「たまに、先輩は暗い顔をしています。でも、今日は無理やり笑ってみせようとしてたように私は思いました」
ブランコから手を離したなぎさが、下で手を強く握り込んでいるのが見える。
線が細くすらっとした体が、ふるふると戦慄いている。
「……べつに、なにがあったか、なんて話してくれなくてもいいんです。わたしはただ、先輩がムリをすることが嫌なんです」
言いきって、なぎさはもう一度俺の目をじっくりと見つめる。
覚悟と決意を感じさせるような、そんな目で。
「俺は……なぎさに心配をかけたくなかったんだ。気を遣ってもらって、悪いと思って」
なぎさは黙って頷く。そして、小さい子どもを見るときのような、そんな微笑みを浮かべる。
「心配くらい、かけさせてください。ダメだって思ったときには、少しくらいきつく接してくれてもいいんです。
先輩にとっての私は、そんな薄情な存在ですか?」
どう言ったものか、と少し考えて端的に事実を口にする。
「違う、そうじゃない。
……姉と喧嘩をして、ちょっと取り乱してたんだ。たったそれだけなんだ」
なぎさはまた黙って頷く。
俺の言葉の続きを待つように。
「なぎさとは、普通に接したいんだ。
一緒にいるときは楽しんでほしいし、俺も一緒に楽しみたいと思ってる。これじゃあ……だめか?」
俺がそう言うと、彼女はブランコから立ち上がり、俺の前にやってきて、手をとった。
「それで良いんです、ありがとうございます、先輩。私も、少し取り乱しちゃってごめんなさい」
えへっ、と彼女らしく笑う。俺も思わずそれにつられて少し笑みがこぼれる。
「いや、謝らないでくれ。元はと言えば俺が悪いことだから。
……姉さんと仲直りできるようにさ、ちょっと話してみることにするよ」
「それは、えっと、がんばってください。
もう暗くなってきたので、帰りますか」
夕焼け空を見上げると、カラスが西の方へ飛んで行くのが見える。
俺の少し前を歩く彼女に、小さく「ありがとな」と呟く。
それに彼女は振り返ることなく、「どういたしまして、先輩」と呟いた。
◇
なぎさを家まで送ってから、まっすぐ家に帰った。
リビングには依然として誰の姿もなく、ラップがされている一人分の夕食がテーブルの上に置いてある。
自室に入る前に姉の部屋から電気が漏れていることを確認した。
今日はいろいろなことがあって、汗を沢山かいた。
べとべとした体で居心地が悪く、シャワーを浴びることにした。
水からお湯に変わる前にもう身体を流す。
火照った身体に水のシャワーが気持ちいい。
ついでに髪やらなんやらも洗ってから、シャワーを止める。
風呂場から出て、身体をくまなく拭いて、寝間着に着替えた。
リビングの時計を確認する。二十時前になっても、リビングには誰もいない。
諦めて、ひとりで夕食をとった。
夕食を食べながら、自分がなぎさに言ったことについて再び考える。
ーーー仲直りできるように、話してみるよ。
そう言ったはいいが、具体的な方法や解決に至る筋道なんてものはまったく考えつかない。
食べ終わって食器を台所に運んで、ソファに寝転がる。
なにかしなければ、とはずっと考えていた。姉と仲直りするには、俺から行動を起こすほかない。
けれど、どんなにイメージしてみてもまた姉にダメージを与えてしまうような想像しか目に浮かばない。
いつまでも堂々巡りだった。
俺はしばし、天井を見上げていた。
明かりが目に痛く感じて、手でそれをそっと隠した。
理屈でものを考えていたら、いつまで経っても解決方法なんて浮かばない。
考えるべき手段はそれではない。
なら、感情に訴えるか?
姉は感情的になって俺に怒りをぶつけた。
そして俺はそれに理屈で返答した。
姉は、理屈なんか抜きにした、俺の本心が聞きたかったのではないか?
俺の正直な気持ちをぶつければ、なにかが変わるかもしれない。
だが、俺はそれをすることに少し躊躇した。
感情で物事を話すのは、口をついて出てきたものだけを言えばよいのだから一見簡単に思える。
だけど、整合性なんてない感情の吐露で、さらに混乱させてしまうことだってあるはずだ。
まず言ってみて後から考えろ、という自分と、そんな恥ずかしい自分を見せていいのか、という自分がいて、頭の中でどうしたものかと葛藤する。
もう一度、頭を整理して考え直す。
俺は家族を守りたかった。自分の身を削ってまでも。
『ふつうの家族』であることを、何よりも願った。
姉だって、きっとそうだろう。
…………なら、話せば、話し合えば、絶対にわかってくれるはずだ。
それが、家族なのだから。
俺が"やるべきこと"はひとつだけだ。
立ち上がって、階段を駆け上がり、姉の部屋の前に立つ。
俺はそのまま、軽く二、三回ノックをして、返事を聞かないまま、姉の部屋のドアを勢いよく開けた。
◇
「なにか用でもあるの?」
俺が部屋に入ると、間髪入れずに姉は椅子に座ったまま、こちらを見ずにそう言った。
「……姉さんと、仲直りしたくて」
「……べつに、この前の朝に謝ったじゃない」
姉はこの前のように感情的になることはなく、落ち着いた様子で静かな声音で返答してきた。
たしかに、お互い謝りはした。
でも、それは本心からのものではない。
「そんな、上辺だけの仲直りじゃなくて、ちゃんと話をした上で仲直りをしたいんだ」
姉からの返事はない。
けれど、俺はそんなことを気にせずに言わなければならない。
「…………姉さんのことを避けていたわけじゃないんだ。俺が避けていたのは父さんの方なんだ」
姉の細い肩がびくっと震える。
俺は反応を待たずして話を続ける。
「俺は父さんとの間に、『母さん』がうちからいなくなってから、距離を感じるんだ。
俺の一方的な思い込みかもしれないけれど 」
姉は俺の方に振り返って、「どうして」と小さく呟く。
「俺はさ、姉さんが笑っているのが好きだったんだ。うちで、みんなで、楽しく過ごしてて、姉さんが笑顔で……」
言葉を発しながら、姉が目線を合わせてきたのに気付く。
なにかに縋るような、そんな目を俺に向けてくる。
「どんな結果でもさ、姉さんのあの頃の笑顔を奪った父さんが許せなかったんだよ、結局。
悪いのは『母さん』なのはわかってる。そんなのわかりきってる。
でも、それでも俺は…………」
詭弁だというのは、自分でもわかっている。
父さんは100%被害者だ。
父さんだって絶対に傷ついている。
そんなことは重々承知だ。
わざわざ言明することでもないほどわかりきっている。
でも、他にやりようはあったのではないかと思う。
『母さん』がこの家からいなくなってから、父親は完全な仕事人間になってしまった。
なにかを忘れるように。なにかから逃げるように。
夜遅くまで仕事をして、深夜に家に帰って、寝て、起きて、また仕事。
そのときに、もっと俺たちのことを考えてくれたならば……姉のことを考えてくれたならば……。
「俺はずっと……」
「ち、ちがうよ。……ハルは、いつもお父さんに申し訳ないって顔をしてる。
……見てるから、わかる」
姉は視線を下ろして、小さく呟く。
「……」
「私は、それがずっとどうしてだろう? って思ってた。でも、それを訊ねることでハルがもっと追い詰められちゃうのかなって……」
まずい……言い当てられてしまった、と少し自分の表情が硬くなるのを感じる。
考えていた言葉はもう使えない。
父親に対して許せないと思うのは、自分の保身のためだ。
父親を避けるための、表向きの理由に過ぎない。
恨むことによって、嫌うことによって、自分の昔の行為から目を背けたかったんだ。
「…………それも、そうかもしれないな。俺は父さんに対して申し訳なく思ってる気持ちもある」
姉は姿勢を変えないまま「どうして?」と俺に聞いてくる。
そんなの、言えるわけがない。
父さんに『母さん』の不貞を教えたのは俺だなんて。
自分の保身のために、その事実を黙っておくことを諦めただなんて。
姉さんには、嫌われたくない。
だからまた真実を隠して、言葉を重ねる。
「それは……まだ、言えない。俺の中でも整理がついてないんだ」
あぁ……これも引き伸ばしだ。言っていて自分でそうだと気付いてしまう。
これじゃあ、今までと変わらない、なんの意味もない、と俺は落胆する。
だが、姉の反応は俺の予想とは全く違うものであった。
「……そっか、やっぱり言えないことなんだ」
姉はそう言うと、ゆっくりと俺の方に向かって手を伸ばしてくる。
俺は動かずに、その様子を見つめていると、この前のように、腰を掴まれてお腹のあたりに抱きつかれた。
強くはなく、優しく、そっと包み込むような感触がする。
「でも、話してくれて嬉しかった。……このまえ、ハルに拒絶されたことが、いちばん嫌だったから」
そう言って、姉は潤んだ瞳でこちらを見据えて微笑んだ。
心なしか、声もうわずっているように聞こえる。
俺はいつもそうすることを拒んでいた。
言ってもわかってくれない。
理解してもらえない、と自分の中で勝手に完結して。
けれど、なぜか今なら信じてもいいのではないか、と感じる。
姉を長くは待たせたくない、なら俺は父親と話すしかない。
父親と話をして、和解とは言わなくとも改善くらいはする必要がある。
そう思うと、今まで躊躇していたことが嘘のようにするりと口から出てくる。
「……父さんと二人で話したら、姉さんにも話すよ。約束する。それまで待っててほしい 」
「……うん。わかった 」
姉はそう言うと、俺の腰から片腕を外して、ごしごしと目元をこすった。
「私はハルのお姉ちゃんだから、いつまでも待ってあげる。大好きな、弟の頼みだからね 」
姉は再度、俺の目をじっくりと見る。
目元は、赤いままだった。
姉のその姿に感化されたのか、俺の視界もなんとなく霞んで見える。
俺も、右手でごしごしと目元をこすった。
泣いてなんかいない、俺は男だから、泣いてちゃいけない。
「……ありがとう、姉さん 」
姉から顔を背けても、涙声はごまかせなかったと思う。
向き直り、姉に向かって精いっぱいに笑う。
たぶん、ひどく不恰好だった。自分ではわからないけれど、情けない姿だったということだけははっきりしている。
でも、家族の姉ならそんな情けないような姿を見られたって構わないと、そう思ってしまう。
目が合うと、姉も潤んだ瞳で俺をみて、笑い返してきた。
その笑顔はかつての、中学生以前の姉の、あのあどけない笑みと、寸分の狂いもなく同じものであるかように、俺の目に映った。
◇
その次の朝、俺は姉の声で目覚めた。
どうやら起こしにきてくれたらしい。
夏休み中なのにどうして、と問うと、家族なんだから一緒に朝ごはんを食べるのはあたりまえでしょ、と返事が返ってきた。
姉は昨日のことが余程嬉しかったのか、朝食とは思えないくらいの豪華な食事を作っていた。
……昨日の今日で元気だな。俺は昨日のことを思い出すたびに恥ずかしさで死にたくなるというのに。
姉になら泣いている姿を見られてもいいとそのときは思ったけれど、冷静に考えると恥ずかしすぎる。
なんとなく向かい側に座る姉と目が合わせづらい。
なんだかぎこちない感じで会話が続けられる。
たまに、姉も俺も喋らない静かな時間が流れる。
でも、これまでよりはなんだか居心地が良い。
俺はなんだか嬉しくなって、ご飯のおかわりを何度もした。
姉は嬉しそうに笑っている。
俺もそれを見て、ますます嬉しい気分になった。
◇
正午過ぎ、俺はあてもなく自転車を漕いでいた。
今日はバイトが休みだ。
でもなんだか無性に落ち着かなくて、外に出たい気分だった。
駅とは反対の方向に自転車を走らせる。
風を切る感覚が爽快な気分を与えてくれる。
ちょっと疲れたころに、向日葵畑のある公園で足を止めた。
はじめて訪れる場所だ。
あたりを見渡すと、家族連れだったりお年寄りだったりがベンチに座って会話をしている。
丁度よく日陰の席が空いていたので、そこに腰掛けることにする。
てきとうに思いついた曲を鼻歌で歌う。
いつもどおりだ、なんて考える。
太陽の光は性懲りもなく地面を照らし続け、セミが大合唱をしている。
ふつうの夏だ。
ごく普通の、なんでもないような夏。
リュックの中から家から持ってきた麦茶を取り出し、それを飲む。
「あついー」と言いながら付近を駆け回る子どもたちの姿を見ながら、これからどうするか、という思考にありつく。
姉との不和は一応解消された。
それも思ったより良い方向で。
なら、次は父親と話さなければならない。
俺が決めたことだ。最後までやり通さないといけない。
けれど正直言って、取り合ってもらえるビジョンが見えない。
だいぶ前から会話らしい会話もしたいないし、父親だって話したくないかもしれない。
昨日とった選択は、見方によっては現状維持だ。
取り巻く環境や状況はなにひとつ変わっていない。
再度、どうしたものかな、と考える。
幸いにして父親はあと一週間以上家に帰っては来ない。
それにお盆時くらいは一日中家にいる日だってあるはずだ。
今はあれこれ考えていても身動きが取れない状況だ。
まだタイムリミットまで時間はあることにはある。
だから今は、少しくらい素直に楽しんでもいいんじゃないか、と、そう感じた。
それからしばらくして、家に帰った。
あとで何かあったときの為に課題を進めておくのがいいだろう。
そう考えて、まばらに手をつけていた課題を解いていく。
今日はなんだか集中して取り組むことができた。
キリのいいところまで進めて、ベッドに寝転がってスマートフォンを手に取る。
暑さを紛らわすために、『海』とか『雪』とかで画像検索をする。
いい感じの画像を保存。
ものすごく暑くなったときにでも見ると涼めるかもしれない。
たいして涼むことはなかったので、一階に降りてアイスを取ってきて食べる。
そんなこんなで、姉が帰ってくるまでいろいろやって暇をつぶしていた。
姉が帰ってきて、一緒に夕食の買い物に行った。
あたりは暗くなっていて、暑さも少しやわらいでいる。
買った荷物をはんぶんこして持って帰った。
姉に、今日はなんだか楽しそうだね、と言われた。
それに俺は、姉さんも楽しそうだよ、と返した。
そんな一日だった。
◇
翌朝、また姉に起こしに来させるのも申し訳ないので、目覚ましを使って自分で起きた。
今日もこれまた豪勢な食事だった。
とはいえ、献立はちゃんと考えているらしく、彩り鮮やかで重くないものばかりだった。
姉は俺より少し早く食べ終えて、塾へと出かけて行った。
寝汗が酷かったのでシャワーを浴びて普段着に着替える。
今日のバイトは夕方からだ。
また課題をやって時間をつぶすか?とも考えたが進捗状況的にそう焦ることはない。
家にいて怠惰な時間を過ごすのも悪くはないが、時間を無駄にしているとも感じてしまう。
迷ったが、結局学校に出かけることにした。
学校に行けば、誰かと会えるかもしれない。
一応もし誰も居なかったときの為に勉強道具は持って。
駅まで歩くのも面倒に感じたので、暑さの中自転車で学校まで行くことにした。
学校の近くまできて、急な傾斜を勢いよく駆け上った。
陸上部が外でランニングをしている。おつかれさまです。
駐輪場に自転車を置いて、渡り廊下を通って校舎に入る。
校舎の中は夏だというのに涼しかった。
自分の教室に着いて、席に座る。
課外講習期間外だろうか、自分のほかには教室に誰も人はいなかった。
窓から外の様子を伺うと、校庭でサッカー部とソフトボール部が部活をしている。
廊下は涼しかったが、教室はそれなりに暑さを感じる。
窓を全開にして、大型の扇風機をつける。
教室に辿り着くまでも知り合いに誰にも会わなかったな、と少し悲しくなったが、もともと知り合いも少ないので仕方がない、と割り切る。
とりあえず、課題のページをペラペラとめくる。
昨日のぶんの添削をした。結構まちがえていた。自分では集中してると思っていたがそうではないらしかった。
添削が終わって、また新しい問題に手をつける。
しばらくそうしていると、少し眠くなってきた。
机に顔を伏せて、目を閉じる。
木の匂いが鼻に広がる。
好きな匂いではないが、嫌いでもない。
少しして、眠りに落ちた。
◇
目が覚めると、もうお昼どきになっていた。
昼飯は持ってきていない、が食べに行くのも面倒だ。
とりあえず近くのコンビニに買いに行くことにした。
特別棟の出口から外に出て、コンビニに向かう。
途中で体育館からボールをつく音と練習の声が聞こえた。
そういえば千咲が合宿があると言っていたのを思い出す。
少し懐かしさを感じて、自然と俺の足は体育館へと向きを変えた。
体育館に入って、すぐに階段を登って二階に行く。
トレーニングスペースからフロアを見渡す。
一面はハンドボール部、もう一面は女子バスケ部が使っていた。
ぼけーっ、と練習を見る。
千咲を見つけて目線で追う。小さい身体でコート上を走り回っていた。
身長が150半ばだと、バスケ部の中だと小さい方なんだな。まぁ高校生だとそんなもんなのか。
また懐かしいな、と感じる。
中学のころは一緒のコートでバスケをしていたな……なんて。
それからも少し見ていると、ふと上を見上げた千咲と目があった。
慌てて目を逸らす。
横目でちらーっと見ると、普通に俺だと気付かれたらしく、千咲はなんとなく精彩を欠いたようなミスを連発していた。
邪魔しちゃ悪いな、と思い引き返して帰ろうとすると、ボトルを手に持ったマネージャーらしき女子に声を掛けられた。
「……相澤くん、だっけ。ここでなにしてるの?」
名字を知られていた。ごめん俺は君の名前を知らないんだ。
「……」
なにしてるの、と言われても見ていたという他ない。
「……もしかして、ちーちゃんを見にきたとか?」
「それはない、ありえない」
即座に否定した。
というか俺と千咲が幼馴染って知ってるのか。
「えーでもさー、毎日一緒に登校してるじゃん。付き合ってないの?」
……それもそうか、と納得する。
千咲の朝練の時間に間に合うように出ているのだから、当然マネージャーに見られることもあるだろう。
「付き合ってないし、千咲と俺はただの幼馴染だよ」
決まりきった模範解答を口にする。
マネージャーと思しき女子はよくわからない表情をしている。
「ま、それはおいといて。見るにしてもちょっと他のところでお願いできないかな」
「あぁ、ごめん。……でもそんな邪魔だったか?」
「ほら、あの子。全然集中できてないみたいだから」
そう言って下にいる千咲を指差す。
見ると、やはりポロポロとミスをしていた。
「……すまん。すぐ帰るわ」
なんで謝るかもわからないが、一応謝罪の言葉を口にする。
「ごめんねー。うちのチーム結構あの子頼みのとこあるからさ」
それは知らなかった、というかそこまで上手かったのか。
周りより身長が低いなりにがんばっているのだな、と感心した。
「あっ、よかったらマネやる?まだまだ募集中なんだけど」
「は?」
急に思いついたようにマネージャーの女子がそう口にした。
思わず素で反応してしまった。
冗談じゃない。
プレーヤーならまだしも(当然やる気はないが)マネージャー、それに女子の。
「い、いや。さすがにそれはまずいだろ、いろいろと」
「ぷっ、冗談冗談。さすがに私も女の子がいいよー」
よくわからないが、冗談だったらしい。
「まぁ……マネージャーはあれだが。千咲にがんばれって伝えておいてくれ、よろしく」
「はい、あの子喜ぶよーきっと」
マネの女子はそう言って俺に笑いかけてきた。
マネージャーも合宿中いろいろとおつかれさまです、と心の中で言って、体育館の外に出た。
……やっぱり、千咲との距離感も見る人によってはそう映るんだな。
思い出すたびに悶えそうなことばかりされているが、特にこちらからアクションを起こすわけでもなく、あっちも核心に触れるようなことはせず。
ふとしたときに距離が詰まりそうになって、それを避けて。からかわれてもわかってないふりをして。
距離を詰めてみよう、と思ったことだってあることにはある。
けれど、なんだか戻れなくなることが怖かった。
あのときも、俺の方から喧嘩をふっかけて、千咲を泣かせてしまった。
でも、それでも近くにいて欲しかった。
我儘だ、子どもの考えだ。
そんなことは頭ではわかっている。
また一緒にいるようになっても千咲の優しさに甘えてしまっている。
千咲は優しいから、あのときのことを聞いてはこないし、なんでもなかったかのように接してくれる。
ただ、『あのときはごめん』とひと言だけでも話しかけてきてくれた千咲に言うことができればよかった。
その機会を完全に失ってしまっている。
だから、彼女に対しても、申し訳なさはずっと残っていると感じてしまう。
◇
その夜、祖父母の家から電話がかかってきた。
結構久しぶりにかかってきたと思う。
要件は恐らく里帰りのことだろう。
「もしもし、今年はいつ帰ってくるの?」
「うん、と……次の週末土日どっちもかな。あと姉さんは勉強するから行けないって」
「えっと、じゃあハル一人ね。一人でこっち来るのなんてほんとちっちゃい頃ぶりね」
確かに、いつも姉と、もしくは家族全員で行っていた記憶がある。
ちっちゃい頃の記憶は曖昧で、あまりよく覚えていない。
……そういえば、なぎさのことは話していなかった。
説明しようにもなかなか難しい。
「そのことなんだけどさ、友達……と一緒に行ってもいい?」
なぎさと俺は先輩後輩なのだが、説明が面倒なので友達ということにした。
「わかったわ、じゃあゴハン多めに用意しておくからね」
そう言われて、少し父のことや姉のことなどを話してから電話を切った。
完璧に男友達と行くと思われている。
が、女の子だと言ったら言ったで面倒くさいかもしれないので控えておいた。
姉にも一応そのことを言っておく。
一緒に行くような友達がいない、と貶されたので言っておこうかと。
姉は俺が言ったことを聞くと、ノータイムでその子を家に連れてきなさい、と言った。
どうして?と聞くと、なんとなく、と返してくる。
……まぁ、今度はうちで遊ぼう、とこの前誘ったことだし、都合が良いことには変わりはない。
食事のあと、部屋に戻ってなぎさにLINEを送る。
姉が是非うちにお越しくださいと言っていた、と。
返事はやはりすぐに返ってきた。
『じゃあ明日杏連れて行きますね、お昼過ぎくらいにお邪魔します』と、よくわからないパンダのスタンプを押してきた。
きもかわというかなんというか、ご当地ゆるキャラみたいな変なやつだった。
『それ好きなの?』と聞くと、『好きなんです』と返ってきたのと同時にスタンプを連打された。
意外とかわいいとこあるんだな。
そういう趣味を持っているとは知らなかった。
誕生日とかにストラップとかをあげたら喜ぶかな。
でもいつか知らないし、あげるならサプライズっぽくあげたいな、なんて考えていた。
なんとなく、今日一日を振り返ってみる。
お昼過ぎまで、千咲のことばかり考えていたのに、今はなぎさのことで頭がいっぱいになっていた。
……節操なし。
どうしてか、そう口にしていた。
とはいえ自分で言ってどうすんだ、と、あまり深くは掘り下げないようにした。
◆
気が付くと、夢の中だった。
俺は夢の中で、小学生?くらいの姿になっていた。
炎天下の中、土の上にある水溜りで自分の顔を見る。
なぜだか靄がかかって見えない。
後ろから、誰かに声をかけられた。
慌てて振り向いたが、そこには誰の姿もない。
知らない場所だったので、とりあえず歩くことにした。
生い茂る雑草をかぎ分けながら歩いていると、大通り(雑草が生えていない舗装された道、でも狭いことには狭い)に出た。
しばらく、道なりに沿って歩く。
また、どこからか俺を呼ぶ声がした。
「いっちゃやだ……どこにもいかないで……」
と、そう聞こえた気がした。
俺は声の聞こえた方向に走り出して、その声の主を探した。
声は近付いたと思うと、それに反比例するかのように小さくなっていく。
虫取りカゴと、何枚かの洋画のDVDが落ちていた。
今度ははっきりと真後ろから俺を呼ぶ声がした。
振り返ったが、"その子"の姿は見えなかった。
夢は、そこで途絶えた。
◇
翌日の昼過ぎに、なぎさと杏ちゃんがうちに来た。
俺の部屋には入ってこないとは思ったが、一応掃除をしておいた。
姉は今日は塾が休みだったようで、うちにずっと居る。
姉妹が到着すると同時に、なにか買い出しに行ってこい、と姉に言われたのでお菓子やらなんやらをコンビニまで買いに行く。
こういうときの定番はなんだろう。
カントリーマアムとかポテトチップス、それと数本の飲み物を購入して急いで家に帰った。
リビングに入ると、もうゲームをして遊んでいる音がする。
姉となぎさと杏ちゃんはすぐに仲良くなっているようだった。
飲み物を注ぎにキッチンに行くと、なぎさが手伝いに来た。
「おまえって姉さんと面識あったのか?」
「あ、いえ。私は知ってましたけど、お話しするのは初めてっすね」
どうして知ってるんだろう?と首を傾げると、それを感じ取ってか、なぎさが言葉を続ける。
「ほら、目立つじゃないっすか、楓さん」
「目立つ……?」
姉は比較的おとなしい方だ。
目立つと言われてもあまり馴染みのない言葉だ。
姉の方を見てみる。……目立つか?
「ちっちゃくてかわいいって、私の学年でも有名なんですよ」
「……知らなかった。俺の同級生にもそういうやついるのかな?」
「いますねー。先輩が気付いてないだけで絶対いますよ」
「そうなのか…………。なんか複雑な気分だ」
「いやぁ、それはシスコンっすねー、まぁちょっとだけわかる気もしますが」
ふふふ、と少しわざとらしく笑われた。
シスコンというより、きょうだいのそういう話を聞くのがあれだという意味だったのだが。
「ていうか、なぎさもシスコンだろ」
なぜか、なぎさ『も』と口を滑らせていた。
自分から認めてしまった。間違ってはないと思うけれど。
「そっすねー。杏かわいいですもん、モテるんですよ、かなり」
なぎさはそう言って誇らしげに笑う。
なぜ姉のおまえが誇る……とツッコミを入れたかったが我慢した。
「そういう、なぎさ自身はどうなんだよ」
とくに何も考えず、気になったのでそう訊いてみる。
「そうですね。わたしはー、ヒミツです。でも、先輩ならわかると思いますよ」
そう言葉を残して、リビングに飲み物を注いだコップを持っていかれた。
ーーー先輩ならわかると思いますよ。
頭の中でその言葉を繰り返したが、まったく分からなかった。
なぎさが手土産として持参してきたケーキをお皿に取り分ける。
それを持って行くと、杏ちゃんが早く食べたい!という風に嬉しそうにしている。
姉も嬉しそうにしていた。
俺もケーキを食べたあとにゲームに参加した。
ゲームする。つかれてきたらお菓子を食べて休憩する。食べたら再開する。飽きたらボードゲームをする。
このサイクルでだいぶ時間が経って、気付けばオレンジ色の光が部屋に差し込むくらいの時間になっていた。
バイトの時間が近いので、遊びを切り上げることにして、姉と雑談をしているなぎさに合図を送る。
なぎさは帰りの支度をしていたが、杏ちゃんは遊び足りないような様子だった。
「もう帰るよー」となぎさが言っても、帰ろうとしない。
しょうがないので、姉にもうちょっと遊んであげて、と耳打ちしてバイトに向かうことにした。
「人の家にお邪魔してゲームするって多分初めてだから、嬉しかったんだと思います、ごめんなさい」
彼女は申し訳なさそうに呟いた。
……べつに謝らなくてもいいのに。
大丈夫だよ、と俺が返すとそれからしばらく無言の時間が続いた。
単純に話のネタがなかった。
いつもなら、杏ちゃんにコントと言われるようなやり取りをどちらともなく始めるのだが、疲れていたのかそうはならなかった。
与えられるのを待っていても仕方がない。
が、ムリに喋ろうとしてもこの前みたいに心配されるかもしれない。
週末のこと、この前のこと、話したいことはいろいろあるが、次の機会にとっておこう。
歩いていると、なぎさは鼻歌を歌いはじめた。
知らない曲だった。ゆっくりとしたテンポ、バラードだろうか。
なんだか、すこし懐かしい気がする。
◇
夕方からのバイトはかなりキツく感じた。
最近外出することが多かったし、今日も結構身体を動かすようなゲームをしたから当然といえば当然だった。
お姉様系先輩は居なかった。
この前言ってた海にでも行ったのかもしれない。
なぎさは行って早々に夕方のピークを迎えたもんだから、あたふたと慌てていた。
八時過ぎくらいに、むかし俺にタバコについてイチャモンをつけてきたおじさんが来店した。
今ではなかなか仲良く(?)なって、たまに世間話なんかをされる。
いい歳したおじさんなのに、立ち読みコーナーでジャンプだったりマガジンだったりを読んでいる。
まえに、マンガ好きなんですか?と訊いたら、こち亀が終わって悲しい、と言っていた。
おじさんは少し立ち読みをした後に、おつまみと酒を持ってレジに行った。
レジ担当はなぎさだ。
不慣れだと何か言われるかもしれないな、と思って近くまで行こうとしたが、「まあ最初はそんなもんだ、ガハハ」と笑いながらなぎさがお目当てのタバコを取るまで待っていた。
対応の差を感じる。というか性別か。女の子には優しいんですね。
それから少しして、店内にお客さんが一人もいなくなった。
「まえに言ったひと、あのひと。俺は初バイトで怒られた」
一応なぎさにおじさんのことを伝えておく。
また来るかもしれないし、結構常連さんだから。
「そうなんすかー。
うーん……私には優しかったですよ」
なぎさはまた、えへん、という顔をしていた。
なんだかちょっと悔しくなった。
帰り道では、さっきとはうって変わって話がはずんだ。
杏ちゃんの好きな食べ物の話から広がって、なぎさと杏ちゃんが毎日交互に料理をしているということを聞いた。
ちょっと親近感を抱く。
うちはほぼ姉に任せっきりではあるのだが。
別れ際になって「明日も楽しみです」と言われた。
知らなかったが、多分そういうことになったんだろう。
夏休みがかなり充実しているような気がする。今までにないような、そんな楽しい感じ。
ひとりになってから、なぎさがさっき鼻歌で歌っていた曲の歌詞を口ずさむ。
英語だったから歌詞の意味はそれなりにしかつかめないが、気分はハイになっていた。
千咲の家の前を通りすぎるときに部屋を見ると明かりが点いていた。
合宿が終わって帰ってきたんだろう。
まじでいろいろと大変そうだな、本当に。
帰ったらLINEしておくか、と考えながらゆっくりと帰っていった。
◇
八月序盤らしく、朝起きたときにはまだ九時台だというのに外はガヤガヤとしていて、強い日差しが部屋の中に差し込んでいた。
夏休みというと長いイメージを持つが、まぁ、そんなことはない。
うちの学校は、夏休みの始まりが他校よりはやい分、終わるのが少しはやい。
夏休み明けには、実力テストという名の課題テストが待っている。
"実力"テストなのだから、"実力"で、という割には課題から丸々コピーで出すあたりテストの存在意義が見えない。
ふと、ベッドの横のカレンダーが目に留まって、残り日数を数えてみた。
残りは三週間あるかないかくらいだった。
少し憂鬱な気分になりながら居間に行き、ソファに寝転がる。
ひんやりとした感覚が気持ちいい。
寝転がりながら、俺の思考は夏休みの残りの二週間でなにをできるか、ということに行き着く。
課題も終わりかけているから時間には多少の余裕がある。
今日はみんなで遊んで、週末はなぎさと田舎に行って、姉と千咲はどうせ遊びに行きたがるだろうから、三人でどこかに行くというのもあるだろう。
夏らしいイベントを考えてみる。
海、プール、バーベキュー、花火、キャンプ、避暑地に旅行……。
あとは……夏祭り、とか。
夏らしいイベントといえばそこらへんが定番だろう。
ここ数年の自分には恐ろしく縁が無いようなことばかり思いついた。
考えてみたら、自分は夏休みならではというイベントを何もやっていなかった。
バイトして、たまに遊んで、ゲームして、これでは普段と変わらない。
現実的には花火だが、それなりに人数が居ないと面白くないだろうし。
夏祭りは姉と行ってもたいして楽しめないだろう。
せいぜい出店のホットスナックを食べまくれること位しかメリットがない。
それにバイトが入っていたかもしれない。
スマートフォンを手に取り、シフト表を見ようとしたときに、リビングのドアが開いた。
そちらを見ると、商品がパンパンに詰まったスーパーの袋を持った姉がいそいそとそれを運んでいた。
「その荷物どうしたの?」
「あー、これね。なぎちゃんと杏ちゃん来るじゃない」
「あぁ……はい」
「ちーちゃんも呼んだら、ちーちゃんの友達も来るって言ってて、よかったらお昼ごはんつくろうかーってなって」
「うん……って、は?」
「あー、大丈夫大丈夫。今日も塾お休みだし、六、七人分なら余裕だよー」
姉の心配をしていないわけではなかったが、今はそうは考えていなかった。
千咲はまだわかるにしろ、千咲の友達って……。
男女比率的にハーレム状態だ、なんて考えている余裕はなかった。
急いでコウタに今日遊びに来れないかと連絡を取ったが家族旅行で九州に行っていると返信がきた。
いつも暇そうにしてるのにこういうときに限って……。
こういうときにさくっと呼べる友達がいないのは正直キツイ。
千咲は流石に中学の時の友達は誘わないだろうし、高校の共通の友人はあまりいない。
となると、吉野さんあたりだろうか。
ゲーム好きって聞いたことあるし。
予想は的中して、十時過ぎ頃に千咲と吉野さんがやってきた。
「はーくんお久しぶりです、遊びに来ました」
「おじゃましまーす、遊びに来たよー」
手土産にミスドを貰った。わざわざ買いに行ったのか。
荷物を受け取って、居間に二人を通した。
姉と千咲が話をはじめて、吉野さんもそれに加わっている。
話に混じるのもなんだか億劫なので大人しくテレビを見ていることにした。
なんとなく甲子園の中継をかける。
昨日開幕したとかなんとか、あまり野球には興味がないが、暇をつぶすには丁度いい。
麦茶を持ってきて、それを飲みながらテレビ画面を見ていた。
一発逆転のあるスポーツは見ていて面白い。
自分が慣れ親しんだスポーツは最後まである程度決まってしまうものであったからかもしれない。
九回裏二死満塁、三点差、とか。
すごくワクワクする、素人目で見ても。
俺の人生も一発逆転できないだろうか。
『あなたの願いを叶えましょう~』なんて言って天使が現れてなんでも叶えてくれたりとか。
バカなことを考えていたら、俺の名前を呼ぶ声が聞こえて、唐突に話を振られた。
「はーくん、部活見にきてましたよね。るりちゃん……あ、マネージャーの子から聞きました」
「え、ハル見に行ったんだ。懐かしいなー、部活命だった頃もあったよね」
「ま、まぁな……」
この話は正直したくない。
が、話の流れを止めるのも申し訳ない。
「どうでしたか?久しぶりに見ましたよね」
「……あー、お前ミスしすぎ。周りに比べてちっこいんだからもっと動けよ」
素直に感想を言った。
「ち、ちっこいってなんですか。失礼ですよ、普通に!」
千咲は、いーっと俺に睨みをきかせた後に、俺の手をとり、自分の頭に持って行った。
「……なんだよ」
「ほ、ほら。私だって伸びてるんですよ? 確認してください」
少しも伸びている気がしない。というか中学入ってから全く変わってないような気がする。
「変わってなくない?」
千咲は不満であるのを表現するように、置いている手をバシッと叩く。
「去年から、1センチも!伸びたんですよ!この違いがわからないとモテませんよ!」
「いや、別にモテなくていいし……」
「はいはい。喧嘩しないの」
姉が笑いながらそう言った。
吉野さんも後ろで笑っている。
このまま会話を続けてもあれだな、と思っていたところだったので助かった。
「ちーちゃんと相澤くんって面白いね、やっぱ」
「いやまったく面白くないです」
即答した。が、まだ笑われている。
仕方がないのでその場から退散して、三人分の飲み物を注ぎに行った。
その間、俺以外の三人で何かを話していたようだったがうまく聞こえなかった。
でも、千咲は顔を真っ赤にしていたような気がしなくもない。
テーブルに麦茶を置いて、またテレビの前へと戻った。
三人は夏祭りの話を始めたようだった。
浴衣がどうの、とか誰と行くか、だとか。
女同士の会話には少しついていけません。
……少しじゃなかった、凄く無理です。
聞き耳をたてるのはなんとなく嫌だったので、話し声を完全にシャットアウトすることにした。
なぎさと杏ちゃんはやく来てくれ、と思ったが、ふつうに彼女達も女だった。
八方塞がり、とはこの事か。
でも、なぎさと一緒にいると、男友達のそれというか、あまり気を使わずに接しているような気がする。
とにかく、テレビの前ではやく時間が過ぎることを祈っていた。
◇
十一時頃になって、ようやく姉妹がうちにやってきた。
なぎさは千咲と吉野さんがいて、少し驚いたようだった。
二人と面識はないらしかったが、すぐに打ち解けていた。
杏ちゃんはどうも、と一言だけ形式めいた挨拶をして、俺が座っているソファの隣に腰掛けた。
「……杏ちゃん人見知りなの?」
思ったことを訊いてみる。
「……ゲームを早くしたくて」
思ってた反応と正反対だった。
どうやら昨日でかなりハマってしまったらしい。
対戦ゲームが好きな子、結構いいな。
「じゃ、じゃあ始めるか。昨日やったやつでいいか?」
「はい、はやく始めましょう」
ゲームのロード場面で急かされたのは初めてかもしれない。
ゲームを始めて少し経つと、姉が料理を始めた。
なぎさがキッチンに行って自然にそれを手伝っていた。
そういえば料理できるって昨日聞いた気がする。
千咲と吉野さんにゲームに混ざるか聞いたところ、課題を進めると言っていた。
じゃあなんでうちに来たんだ……。
杏ちゃんはというと、ゲームの上達が早く、俺はCPU相手をボコボコにする姿を眺めていた。
一応協力プレイなのだが、一人で倒してくれるので次に進むだけだった。
無言でプレイしても飽きてくるだろうから話を振ることにした。
「そういえばさ……」
「なんですか?」
「ちゃん付けめんどいから、杏って呼んでいい?」
杏ちゃんは、コントローラーを持ったまま固まった。
「それって口説いてますか?」
なわけないだろ、ふつうに。
「いや、なぎさの妹だからいいかなって」
我ながら意味のわからない答えだ。
まあ突発的に思いついた事なので仕方がない。
「いいですよー。お姉ちゃんのお友達ですもんね」
……お友達、か。この前もそう説明したが、実際どうなのだろう。
少し前にも考えたことがある。
なぎさとは友達、なのだろうか。
というか、よく関わる人だってどうなのだろう。
姉は家族で、千咲は幼馴染で、コウタはラフな感じで、吉野さんは友達の友達みたいな感覚で、なぎさは後輩で。
まともな友達と呼べるのはコウタくらいだった。
クラスメイトとだって、会えば話をしたりはするけれど、そこから深い付き合いをしようとは思えない。
あのときの経験がそうさせているのか?
自分が不安なときに離れていった元友人との経験で知らず知らずのうちにそういう思考に陥っているのか?
でも、それは考えていても仕方がないことだ。
しばらくすると、姉となぎさが昼食を作り終えたようで、みんなで昼食を食べることにした。
パスタとピザ、ものすごくカ口リーが高そうな組み合わせだった。
美味しかったので素直に褒めると、なぎさが作ったものだったらしく、「まぁ私にかかればちょろいもんっすよ」なんて言って少し照れていた。
午後になって、六人全員でゲームをすることにした。
交代時間に千咲に勉強を教えたり、自分でも課題の残りを進めたりした。
吉野さんがどのゲームでも圧倒的な強さで、少し驚いた。
俺も全く歯が立たなかった。杏ちゃん……杏は、強い人を見つけて嬉しい!と言わんばかりに楽しんでいた。
空がオレンジ色に染まってきた頃に、飲み物を求めて自動販売機に買いに行こうとすると、杏がついてきた。
「で、お兄さんは誰が好きなんですか?」
「なにか買ってやろうか?」
質問を流すことにする。
が、杏はそうはさせまいと話を続けてくる。
「みんな美人で、お兄さんもてもてですよね」
「……」
「誰とくっついても私的にはおもしろいと思うんですよー」
「……」
何視点だ、それ。
「でもお兄さんはこの前みたいに女の子らしい身体つきの子が好きそうなので、お姉ちゃんがいいと思いますよ」
自分の姉を推すのはどうなんだ、と思ったが言うのはやめておいた。
「……それは、どうして?」
「ほら、楓お姉ちゃんも今日の二人も私も、お姉ちゃんより小さいから……」
小さいから……。
すぐにわかってしまう自分が少し嫌になる。
まるで俺が巨乳愛好家とでも言わんばかりの暴論だった。
この前のはいきなりああいうポーズを取るから驚いただけだ、そう思いたい。
「……あのな、好きになるなら性格とか相性とか……いろいろあるだろ」
最近なぎさとした会話のまま、そんなことを口走っていた。
中学一年生の女の子に何語ってんだ、俺。
「そういえば……」
「なに?」
「お姉ちゃんと今度旅行行くんですよね? がんばってくださいね、応援してます」
あまり掘り下げてこなかったので少し安心する。
「旅行……まぁ旅行か。うん、ありがとな」
「じゃあ、相談料ですねー。ジュース二本でいいですよ?」
結局奢らせんのかよ。
相談というよりも杏の方から質問をぶつけてきただけな気がする。
まぁ、黙っててくれるのなら安いもんだ。
杏は俺から五百円玉を受け取ると、お茶と炭酸ジュースを買った。
なぎさと違って邪道好きではないらしい。
家に帰ると、残っていた女四人で人生ゲームをしていた。
ぶっちぎりでなぎさが貧乏になっていた。少し面白い。
杏はそれを楽しそうに見ていたのでそのままにして、俺はそろそろみんな帰るだろうと部屋に戻ることにした。
◇
窓から外が真っ暗になったことを確認してリビングに戻った。
吉野さんは帰る用意をしていたが、姉妹と千咲はまったく支度をしている気配はない。
「あ、じゃあ私帰るから。またね、みなさん」
ぺこり、とお辞儀をして吉野さんは帰ろうとする。
姉がまた来てねー、と手を振る。
さすがに外まで見送ることにした。
他四人はそれについてはこなかった。
「駅まで送らなくてもいいか?」
「あー……うん、大丈夫だよ。
それより、いきなりお邪魔しちゃってしてごめんね」
一応、姉の許可はとっているのだから謝る必要はないのに、とは思う。
「いや、みんな楽しそうにしてたし、また良かったら来てくれよな」
社交辞令っぽい言い回しになってしまったが、にぎやかなのは嫌いじゃない。
なにより、姉が楽しそうにしてるのを見れるのは良いことだ。
「今度はみんなで花火やろっか」
「あぁ、それもいいかもな」
「じゃあ、来週あたり。またお邪魔するかもしれないから、よろしく!」
吉野さんはそう言って、またね!と付け足して駆け足で帰って行った。
◇
またリビングに戻って、千咲たちがテレビゲームをしているのをソファに座ってぼーっとしながら見ていた。
かなり白熱していて、自然にもう一戦もう一戦とエンドレスに対戦が繰り返された。
なぎさにいつ帰るの? と問うと、今日泊まりますよ。楓さんから聞いてないんですか? と返答された。
姉の方を見ると、「まぁ……そういうことだから」と意地の悪いような笑みを浮かべた。
どうやらそういうことらしい。
……なぎさと杏と、千咲まで泊まりか。
「親とか大丈夫なのか?」
面倒なので近くにいた千咲にそう訊いてみた。
「はーくんとのおうちなら大丈夫って言われましたよ」
俺の家、じゃなくて姉の家と言って欲しい。
千咲の親御さんに誤解されると厄介だし、実際たまに会うといじられるし。
「じゃあ、私たち盛り上がってるからハルが夜ご飯作ってね、よろしくー」
姉はこちらを見ずにそう言った。
いろいろとマズいのではないか。
……そんなことを言ったら週末泊まりで出かける方がマズいのかもしれないが。
まぁ、過ぎたことは仕方がない。
食材は豊富だったが、すぐにできる簡単なものを作ることにした。
料理をしていると、昼間のようになぎさが少し手伝ってくれた。
誰かと料理をするのは久しぶりで少し楽しく感じた。
夕食を食べた後、またゲームをして騒ぎ出した姉たちをよそに近所のドラッグストアに向かった。
歯ブラシとか入浴剤、スナック菓子を買ってこい、と姉に命を受けたからだ。
自分もちょっと外に出たかったので丁度良い。
種類とか選ぶの面倒だから誰か一緒に行こうと誘うと千咲がついてきた。
少し目が疲れてきていたらしい。
「お泊まり、久しぶりですね」
「そうだな。千咲は合宿終わったばっかなのにまた泊まりで大丈夫なのか?」
ちょっと心配していた。校内とはいえ疲れも溜まってるだろうし。
「……大丈夫ですよ。もう少ししたら遠征になっちゃうので、それまでに夏っぽいことしたいんですよね」
たしか、週末から三日間隣県に遠征に行くと言っていた。
夏休み中盤に差し掛かるというのに自由がないのは少し可哀想に思える。
夜道で灯りもないので、隣同士で歩いていた。
何か喋ろうと思ったが取り立てて言うような話はなく、無言になってしまった。
「なにか、お話しようか」
沈黙を破るために千咲にそう問いかけた。
千咲はなんのこと?というように首をかしげたあと、納得がいったのか喋り始めた。
「じゃあはーくんに質問です。楓ちゃんと、仲良くないですか?」
「……え?」
質問の意味がわからなかった。
特に何かが変わった、という自覚はない。
姉と仲違いしていたときから仲直りしたときまでの期間、千咲には一度も会っていない。
「今日、結構近かったです。前は、もっとこう……距離を取ってるっていうか……」
「い、いや……そんなことはないと思うけど」
千咲はうーんとしばらく唸っていた。
ちょっとした何かがあるのだろうか。
自分ではわからないだけで千咲からしたら気になるようなものなのか。
「……でも、まあ、私の勘違いかもしれませんね、忘れてください」
「……うん」
なんだったんだろう。
自分でも気付いていないだけでそんな変化が起きているのか。
それからも、千咲からの質問タイムは続いた。
千咲が合宿のときに何をしていたかだとか、次は何をして遊びたいかだとか。
ドラッグストアに着いて、入浴剤などは千咲が選んでくれて、自分はスナック菓子を選ぶだけで済んだ。
一応ついてきてくれたお礼として棒アイスを手渡すと、喜んで食べてくれた。
帰り道でも質問されて、それに答えるという方式で、無言にはならなかった。
また、隣同士で歩いて帰った。
距離はさっきよりも、ほんのちょっとだけ近かった。
◇
家に帰って、ゲームに参加して、お菓子を食べて、千咲の課題を少し見た。
時計の針がてっぺんを指すころ、千咲と杏、なぎさと姉の順番で女たちが風呂に入ったようだった。
俺はその後、お湯を入れ直すのも時間がかかるのでシャワーで済ませることにした。
女の子の入った後の風呂、字面だけ見ればそそるようなシチュエーションだったが、なんか……あれだし。
急いでシャワーを済ませて、風呂場から戻ると、リビングには誰の姿もなかった。
もうみんな寝入ったのだろうと、ベランダに出て、音楽を聴きながら、風呂上がりで火照った身体を冷ますことにした。
『透明少女』だったり、『スターフィッシュ』だったり、『白い夏と緑の自転車赤い髪と黒いギター』だったり……。
なんだか夏っぽい曲が連続で流れた。
感傷に浸りつつ、手元にある緑茶を飲んで、空を見上げる。
月は半月で、星が綺麗に目に映る。
周囲に家はあるが、マンションやビルがないからか、ここら一帯は星が見えやすい。
耳に聞こえてくる歌詞を思わず口ずさんでいた。
べつに誰にも怒られはしないだろうけど、一応小さな声で。
そういえば、この前電車を待ってるときになぎさに見られたな、と思い出して周囲を見渡した。
横を見る、誰もいない。
振り向けば、奴がいる。
いや、誰だろう。
リビングの照明は消してしまったのでこちらからは誰であるかは見えない。
「誰かいる?」
とりあえずそう訊くと、その人物は網戸を開けた。
「誰って、私っすよー先輩」
普通になぎさだった。
「……おい、さっきの聴いてた?」
「はい、ばっちり。話かけようとしたんすけど、楽しそうだったのでつい」
また恥ずかしい経験をしてしまったのか俺は。
「……お前忍者かなにか?」
「このやり取り前もやったっすねー」
ふふふ、と笑いかけられた。
お約束、ということだろうか。
「もう寝たとばかり思ってたんだけど」
「そのつもり……だったんですけど」
「けど?」
「先輩が部屋に来ないので迎えに来たんすよ」
「……あぁ、そう」
口先では納得したような言葉を放ったが、なぎさの発言には違和感を感じた。
"俺''が部屋に来ない?
なんなんだろうか。
寝るとしたら姉の部屋にだろうし、俺を呼びにくる必要なんてないはずだ。
「どうしてなぎさが?」
「最初は女子みんなで寝ようってなって」
「うん」
「お風呂から上がって楓さんと部屋に行ったらもう杏と千咲先輩が楓さんのベッドで先に寝ちゃってて」
「それで?」
「楓さんは床で寝るからいいけど、お客さんにそれは申し訳ないって。
先輩の部屋を使うようにって言われたんです」
「……」
「で、入ったはいいんすけど、なんだか落ち着かなくて。
先輩に許可も取らなきゃな、って思って呼びに来ました」
姉は馬鹿なのか? 敷布団なり、探せば和室とかにあるだろうに。
というか俺の部屋、ベッド一つしかないんだけど。
なぎさはどう考えていたんだろうか。
「それって、一緒に寝るってことか?」
「ええっ……と……。
い、いやそれは……それは、まあそういうことに、なるかもしれないっすけど」
手をわちゃわちゃと動かしながらそう言った。
おそらく何も考えてなかったんだろう。
いや……普通に考えて一緒に寝るわけないんだが。
「姉さんは何て言ってたの?そのことについて」
「…………どうせヘタレだから何もして来ないだろうし大丈夫だと思うって」
なんだそりゃ。
いや、間違ってないけれども。
「あのな、さすがにこの歳の男女が一緒に寝るってダメだろ」
「……ま、まあそうっすよね」
あっさり納得してくれた。
まぁしてくれないとそれはそれで困るのだが。
「俺はソファで寝るから、ベッド使って早く寝なさい」
「あっ、はい」
しっしっ、とあっちに行くように手を振って、正面を向き直した。
が、なぎさが帰るような気配はしない。
まぁ放置してればじきに帰るだろうと、また音楽を聴こうとイヤホンを耳にかけた。
少しの間があって、突然後ろから肩を掴まれた。
慌ててなぎさの方を見る。
なぎさは何かを誤魔化すように、斜め下を向いて俯いている。
「わ、私は先輩と一緒でも別に構わないというか……」
暗いせいか表情はよく見えない。
でも声音だけでそれが緊張しているものということが分かる。
「……」
「先輩なら、私も、その……」
途切れ途切れながらも、その言葉は俺の耳に響いてくる。
どうしてそう言うのか、俺にはわからなかった。
だが、良いって言ってるなら俺も良いじゃないか、なんて思考には到底至らない。
「……お前がよくても、俺がだめだ、ごめん」
多分、一緒に寝たいと言っても、下心とか、そんな考えで言ったのではないと思う。
けれど、何があったとしても、なかったとしても、それを我慢できる気がしなかった。
「そう、ですよね。……ごめんなさい、先輩」
「いや、謝まるなよ。……俺はもう少ししたら寝るから。じゃあ、おやすみ」
「は、はい。わかりました、おやすみなさい先輩」
なぎさはそう言うと早足でその場から立ち去った。
二階にあがったのを確認してから、薄地の毛布を持ってきて、ソファで寝ることにした。
当然すぐには寝付けない。
さっきまでのことが夢であったかのように、頭の中でぐるぐると回っていた。
寝ぼけてたのかもしれないし、そうでもないかもしれない。
都合の良いように捉えれば、そういうことかもしれない。
……でもまぁ、明日になったら今まで通り接してくれるだろう。
あとでなぎさに今夜のことを言及しても困らせるだけなのは目に見えてることだし。
俺はそのままでいよう。
なぎさもきっとその方が喜ぶだろう。
そう考えて、目を閉じることにした。
◇
翌朝、誰も起きてきていない時間に目を覚ました。
……身体が痛い、全身が痺れている。
ソファで寝るとここまで疲れが取れないのか。
足元に落ちていたスマートフォンを拾い上げて、少しの間画面を見ていた。
コウタからのLINEの通知があった。
画像が添付されていたのでそれを見ると、ハウステンボスと、その前に立っているコウタの写真だった。
たしか長崎県だった気がする、あれ大分県だっけ……?
まぁ、どっちでもいいか。
長らく未読にしてしまっていたので早朝ではあるが軽く返信した。
昨日うちに来れば吉野さんと遊べたのに……ちょっと残念だな。
もう少しだけそっちにいると言っていたから、来週花火するとしたら誘うとしよう。
ソファから起き上がって、水をコップに注いでから椅子に座った。
あまり寝ていないせいか、頭がぼーっとする。
寝起きにはあまり強くない。
コップの水を飲み干したときに、リビングの扉が開いた。
千咲が起きてきたようだった。
「おはようございます、今日はやいんですね」
俺を見るなり挨拶をされた。
どうやら千咲の目は完全に覚めているらしい。
あたりまえか、いつも早いし。
「おはよう」
「……はーくん、寝癖ひどいですよ?直してあげましょうか?」
千咲はそう言って俺の髪を撫でてきた。
手櫛、ちょっとこそばゆい。
正常な思考をしていたなら自分で直してくると言ってこの場を立ち去るはずなのに、寝ぼけていたからかそういう気にはならない。
俺の髪を撫でながら、千咲は話を始める。
「この前あげたコップ使ってくれてるんですね、ありがとうございます」
「あー……この前のね、ありがとう、うん」
「……そういえば、なぎちゃんどこに行ったか知ってますか?朝起きたときにはもう居なくて」
少し考える。
でも頭がはたらかない。
たしか、きのう俺は……。
「なぎさは、俺の部屋にいるよ」
「……え?」
なぜだか千咲は驚いたような顔をしていた。
俺なんかまずいことでも言ったか?
考えてみても、理由は浮かばない。
千咲は俺の顔色を伺うようにこちらを見つめながら黙ってしまった。
なんでだろう?と困っていたときに姉が起きてきた。
「おはよ、二人共。あんた結局なぎちゃんと一緒に寝たの?」
姉がニヤニヤしながらそう訊いてきた。
一緒に、いっしょに。
…………一緒に?
落ち着いてみると、普通にまずい事態だった。
なぎさが俺の部屋にいるなんて言ったらそう思われても仕方がないじゃないか。
千咲のあの妙な反応にも頷ける。
「はーくん、どういうことですか」
千咲が詰め寄ってくる。
近い。
「いや俺は、ここで寝たから」
「ほんとですか?楓ちゃん」
俺の信用はないらしい。
「まぁ、ハルならそうするって思ったけど、ここまでとは……」
「なんだ、ここまでって」
「一緒に寝るくらい、いいじゃないのよヘタレ」
「そんなのよくないです!」
よくないだろ、と俺が反応する前に千咲がそう姉に言った。
姉は突然千咲が反応したので驚いたようだった。
千咲が声を荒げるのをあまり見たことがなかったので、俺も少し驚いた。
「あ…………ごめんなさい」
千咲はすぐに謝った。
それを聞いた姉は、千咲の手をとった。
「……ちーちゃん、朝ごはん作るから手伝って」
姉は露骨に話題をそらした。
あとで困るのは俺の方なのに。
千咲は俺をちらっと見て、姉についていった。
「あ、あとなぎちゃんを起こしてきて?」
姉がキッチンからそう言うと、千咲がまた俺のほうを見てきた。
が、気にしてはいられない。よくわからないことであるし。
「……杏は起こさなくていいの?」
「杏ちゃんは飼い犬の散歩で早く帰っていったからもううちにいないよ」
あぁ……そういえば。みたらしの散歩か。
あとラジオ体操も平日だからあるよな、ご苦労様です。
ずっと見つめてくる千咲の方をできるだけ見ないようにして、自分の部屋に向かった。
というか、また気まずい感じになってしまった。
何度経験しても慣れない。
俺からまた弁解をしなければならないだろう。
まぁとりあえず、なぎさを起こしに行くとするか。
◇
部屋の扉を開けると、俺のベッドになぎさが横になっていた。
どうやらまだ寝ているらしい。
なぎさはぬいぐるみを抱えて気持ちよさそうに寝ている。
起こすのも悪いから少し見ていることにした。
何か抱かないと寝れないのだろうか。
じゃあ昨日寝てたら……いや、やめておこう。
ベッドの横に座って、なぎさの髪を撫でた。
自分でも何をしてるのだかわからなかったけれど、なんとなくそうしていた。
二、三回撫でた所でなぎさが「んっ……」という声を漏らした。
慌てて距離を取る。
どうやら寝言だったらしい。
まだ何か言っている気がして、耳を近付ける。
「は…………………だ………………」
よく聞こえなかった。
でも、少しうなされているような感じだ。
改めて近くに寄って見つめてみる。
整った顔立ち。
少し長めの艶やかな髪。
ちょっと触れただけで折れてしまいそうな細い身体。
普段は快活な彼女が、まるで綺麗な人形であるかのように、俺の目に映る。
いつも気にして見ていなかったけれど、俺はそのとき、確かになぎさに見惚れていた。
しばらく見つめていたら、なぎさが目をごしごしと擦って、身体を起こした。
少しきょろきょろと辺りを見渡す。
ーーー目が合う。
なぎさはえへへ、と笑いながら俺に抱きついてきた。
ベッドの上から座っている俺に抱きついてきたので、必然的にベッドの下に落ちる。
俺が押し倒されるような体勢になってしまった。
「な、なぎさ?どうした?」
頭の中が混乱していて、引き剥がすことができない。
というか、いろいろ当たってて身動きが取れない。
「ふふ、えへへ」
「おい、ちょっと」
「ぎゅーー、あはは」
なぎさは緩い表情で笑ったあと、満足したのかまた寝てしまった。
初めて見るような表情だった。
普段はずっとキリッとしているからだろうか、かなり幼く見えた。
なぎさは俺に抱きついたまま寝ている。
この状況、どうしたものか。
姉でも千咲でも、これを見られるとかなりまずい。
できるだけ早くこの状況を変えなければならない。
朝食の準備を済ませたらこっちでなにをしているのか見にくるかもしれないから。
…………仕方がないので、無理やり起こすことにする。
なぎさの肩を掴んで左右に揺すると、目を覚ましたようで、俺の顔をじっと見てきた。
「せ、先輩? どうしたんですか、って……えっ、あのこれは……」
見るからに混乱している様子だった。
でも抱きつかれたまま、そのままの状態でいた。
「うんと、起こしに来たらおまえに……抱きつかれてこうなった」
簡潔に、そう言った。
嘘はついていない。
なぎさを見ると、耳の付け根まで真っ赤になっていた。
「わ、私……寝惚けてて。ご、ごめんなさい」
「いや、大丈夫」
「え、えっと……」
「あのさ」
「は、はい! なんでしょう!」
「ちょっとどいて、この体勢きつい」
「あ、わかりました」
抱きしめられていた手を外してくれた。
混乱しながらも、外さなかったし、なんだったんだろう。
立ち上がって、呼吸を整える。
息もつけないような時間だった。
「朝食、もうできてるだろうから下行くぞ」
なぎさはふぅ、と胸に手を当てて深呼吸をした。
そして、自分の顔を二、三回パンパンと叩いたあと、いつもの表情に戻った。
「はい、行きましょう、先輩」
なぎさの態度は戻ったが、俺はさっきの感触が忘れられない、あんなの狡いだろ、反則技だ。
やわらかい……というか薄着だから視線のやり場にも困ったし。
やばかった、というひと言に尽きるような、そんな朝のひと時だった。
◇
リビングに行くと、姉と千咲がもう食べ物を並べて座っていた。
着くなり、遅い、遅いです、と口々に言われた。まぁしょうがない。
顔を洗いに行ったなぎさが戻ってきて、四人揃って食事をとることにした。
並びは、俺と千咲が隣。向かいに姉となぎさだった。
俺が席に座ると、千咲が椅子を近くまで寄せてきた。
「……近くない?」
「いいんです」
「いや、千咲」
「いいの」
「……わかったよ」
気圧された。というか目が怖かった。
姉となぎさは、俺らを気にする様子もなく、二人で話をしていた。
「千咲、朝のこと、姉さんから聞いた?」
「聞きました。勘違いしちゃってごめんなさい」
「いやいや、俺の方も寝ぼけててちょっとな」
テーブルから食べ物を取ろうとして右手を伸ばすと、千咲の身体に当たってしまった。
びくっ、と千咲の身体が勢いよく跳ねる。
俺も慌てて手を引っ込めた。
そんな様子を見かねてか、姉がこちらに話を振ってきた。
「ねぇ、あんたたちは食べた後どうする?」
千咲の方を見る。そっちから答えてくれと目線で言った。
「私はー、このあとも一日中暇ですね。とりあえず一回家に帰りますけど、また遊ぶなら戻ってきますよ?」
千咲が、どうぞ、と俺の前に手を出した。
「俺はまた寝たい、正直疲れ取れてないし腰痛い」
今の千咲といても、なぎさといても、考えすぎてしまうような気がするし、一度気持ちをリフレッシュしたかった。
「……なぎちゃんは帰るみたいだから、ハル送って行ってあげて」
「わかった」
「よろしくお願いします」
なぎさが俺の方を見てそう言った。
すると、隣にいた千咲がテーブルの下で俺の腕を握ってきた。
なんのつもりだ、と千咲を見ると、俺のことは見ずに、姉のほうを見ていた。
すぐに腕を振りほどきたかったが、そうはできなかった。
動いたら姉に「なにしてるの?」と言われることは目に見えてるし。
「そんでちーちゃんは、私と買い物行こっか、買いたいものとかあるでしょ?」
「そうですね…………そうします」
千咲が頷く。
なぎさはなにか言いたげな表情を浮かべていた。
目が合うと、すぐに下を向いて目線を外された。
なんだか、もどかしい気持ちになった。
◇
朝食を済ませたあと、千咲と姉は早々と出て行ってしまった。
千咲は何か喋りたそうにしてたが、姉が「はい行くよー」と引っ張って出て行った。
当然なぎさと家に二人きりになった。
洗い物を少し手伝ってもらって、部屋の掃除などをしてる間は漫画を読んだりとかゲームをして待ってもらった。
「どうする?杏呼んでまたゲームする?」
「どうしましょうかねー、先輩はどっちがいいっすか?」
質問を質問で返すな。誰かに怒られるぞ。
俺は寝たい、いろいろ忘れたい。
……いや、忘れたくはないか。
「まあ今日バイトあるし、お開きにするか」
「はい、了解っす。送るの途中まででいいっすよ」
「わかった、じゃあ出るか」
その言葉の通り、なぎさの家と俺の家の中間地点くらいまで送って行った。
不思議となんでもないような会話が続く。
けれどお互い今日の朝の出来事については触れなかった。
お互いを探るように、というか。
途中、自動販売機の前を通りかかって、シュークリームジュースは邪道かどうか訊いた。
「普通に飲めますね、王道です。夏の邪道はスイカソーダです!」
と返された。
まぁ、確かに。わからなくもない。普通にまずいと思うし、あれ。
中間地点まで到着して、杏によろしく、と言って別れた。
朝まで一緒にいて、また夕方からバイトで顔を合わせるというのは少し慣れないように感じた。
家に帰って自分のベッドに寝転がる。
一応掃除はしたけれど、数時間前までここでなぎさが寝ていたのだと思うとなんだか寝られなくなってしまった。
仕方なく和室から敷布団を持ってきて、それに寝ることにした。
テレビを消して、読みかけの本を閉じる。
目を瞑って思考を整理する。
驚くこととか、不安になるようなこともあったけれど、不思議と気分は落ち着いていた。
疲れもあったのかもしれない。
そのまま俺は、普段より安心して意識を手放した。
◇
その日の午後、バイトまでの時間で姉から召喚された俺は、近くのショッピングモールに来ていた。
五時間程ぐっすり眠れたからか、かなり疲れは取れている。
千咲はなぜか朝のように俺の方をじっくりとは見てはこなかった。
こちらとしてはありがたい、のだがどういう心境の変化なんだろうか。
浴衣を選んでくれ、と姉と千咲に言われる。
夏祭り用に買いたいという名目で。
レンタルとかでいいんじゃないかとも思ったが、そこまで口に出すことはしなかった。
千咲に手を引かれて、浴衣が売っている店の中に入る。
あまり混んでいないけど、カップルばかり。
ちょっと前もこんなことあったな。
そういえば、姉は勉強しなくていいのだろうか?
「姉さん、塾とか行かなくていいの?」
「……あぁ、ちょっとね」
話の続きを待つ。
が、続きは一向に言われなかった。
「ま、まぁ少し気になっただけだから」
「うん、ありがと」
フォローを入れて、感謝される。
普段から真面目な姉さんがサボりとも言える行動をしているのは正直かなり気になった。
……けれど話したくないのなら仕方がない。
カマをかけるようなやり取りになってしまったが、何かあったというのは確からしい。
この前父親と何か話したのか?
それとも、俺とのあの会話で?
「ちょっと……」
「どうした?」
少し考えていたら、後ろから千咲に話しかけられた。
「選んでくださいよ、そのために呼んだんですから」
「おう、えっと……」
二着の浴衣を見せられた。
どっちかから選べ、ということだろう。
水色にツバメの柄のデザインと、ピンクに撫子のデザインのものだった。
「着付けとかできるのか?」
「お母さんにやってもらいます」
うん、派手さはあまりない。
千咲のイメージから言うと、後者の方が似合っている気がする。
どっちにしろ似合うとは思う。
「……どっちでも似合うと思うんだけど」
「あのですね、それは一番駄目な解答ですよ?ちゃんと選んでください」
千咲はわざとらしく怒ったように見せてくる。
もう一度見比べてみる。
ポップさのあるピンクの方がいつも着ているような感じだ。
ツバメ柄はどちらかといえば……。
「そっち、ピンクの方が俺はいいと思うな」
「……」
黙られるという反応は予想しなかった。
自分から選べと言ったはずなのに。
返答を待っていると千咲は再度、自分の持っている二つの浴衣を見比べ、うーん、と唸っていた。
「……自分の好みの方でいいんだぞ?」
「……いや、私もこっちがいいって思ってて。これにしますね!」
そう言って走って会計をしに行ってしまった。
姉はというと、白地に紫の浴衣を買っていた。
浴衣に合わせる小物だとか髪飾りも買っていた。
いちいち値が張るようで、少しお金を貸した。
それからフードコートで少し遅めの昼食をとった。
いろいろ買った後に、帰り道で二人と別れる。
今日も泊まります、と千咲は俺に言ってきた。
俺と姉的には歓迎なのだが、大丈夫なのだろうか。
まぁ昨日はすぐ寝てたみたいだし、俺が悩むようなことではないか。
◇
「あのさ……好きってなんだと思う?」
バイト終わりに、お姉様系先輩がそう問いかけてきた。
なぎさと二人で帰ろうとしていた所を呼び止められ、コンビニの前で話を始めた。
「……なんかあったんですか?」
まだ内容は語られていないが、きっとこの前の続きで間違いないだろう。
俺は視線でその答えを促す。
彼女は何かに躊躇したのか、口を開きかけて、閉じた。
彼女は「まぁ、話してもいっか」と呟いて、頬を軽く掻いた。
「このまえ、大学の仲良いメンバーで海に行くって話したじゃない」
「はい」
「それで……。余り物の私ともう一人をくっつけようとしてるって」
「聞きました。で、どうしたんですか?」
「そのもう一人にさ、『君のことが好きだ』って告白されたの。
もちろん私は好きじゃないから断ろうと思ったんだけど、仮に断るとグループ内の空気が微妙になるし……。
他のカップルたちはこの際だから付き合っちゃえ、なんて言って私に断るなんて選択肢が無いみたいな扱いをしてきて…………」
「……」
「……問い詰めたらさ、最初から、そういうつもりだったんだって。
そいつが私に告白する場を作るために、海に行くことを提案したって」
話しながら、語調が少しずつ強くなっていく。
なんとなく、そういう事が起こるかもしれないとは聞いたときに感じていた。
……ひとつの可能性として、ぐらいの考えだったけれども。
でも、先輩は気にも留めていない様子だったから言及するのは避けておいた。
「それで、先輩は断ったんですか?」
彼女は身体の前で手を強く握りしめる。
「考えさせてって言った。断ろうと思ったけど、その……」
続きを言わなくても、言いたいことはわかる。
彼女の言うとおり、断ったら空気が悪くなるし、旅行中なら尚更それが顕著に感じられるだろう。
「でも無理に引き伸ばすと……」
「それはわかってる! でも……その時はもうそのことを考えたくなくて」
「それは、そうですね……」
困った。
こういうときにどう言葉をかければいいのだろうか。
無責任なことは言えないし、かといって下手に慰めるような事を言うのもなんだか白々しいような気もする。
けれど、俺にアドバイスを求めているわけではなさそうだし……。
困っていると、突然隣にいたなぎさが口を開いた。
「あの……言いにくいことかもしれないですけど、その人は、前々から好きみたいなアクションというか……振舞いをしてたんですか?」
先輩は、ちょっと考えるようにして、夜空を見上げた。
「いやぁー、どうだろうね……。
私あんまそういうの気にしてなかったから。
けど、今まで言ってこなかったってことはそういうことじゃないのかな。
ちょっと前には彼女いたしね、そいつ」
「私は……」
なぎさは俺より一歩前に出て、先輩の近くに寄った。
ちゃんと聞いて欲しい、とでも言うように。
「……私は、そんなの偽物だし、狡いと思います。
その、成功率を上げるためにムードをつくることはあるかもしれないですけど、周りの人たちを使って断りにくくして、なんて……」
卑怯だと思います、となぎさは言った。
俺ら二人にはわからないことだとは思う。
そのグループ内での関係性もあるだろうし、俺らの予想以上に深刻なことだったりするかもしれない。
それを卑怯と確定してしまうのも早計かもしれない。
好意は前から多少なりともあったのかもしれないし、他のメンバーに流されて、ということだってあるかもしれない。
けれど先輩は、そんななぎさの顔を納得したように見て深く頷いた。
「……そうだね。本当に好きだったら、もっと真正面からぶつかってきてほしいし、そんな流れで付き合ったとしてもお互いにとって良くないと思う」
先輩は、わざとらしく真面目な顔を作って、なぎさと俺の顔を交互に見たあとに、話を続ける。
「……はっきりと断ることにするよ。それで空気が悪くなったとしても、それはそれだよね。
私は、そうだね……はっきり言える自分が、好きだから」
その通りです、と言ってなぎさは先輩に笑いかけた。
先輩もいつもの様子に戻ったようで、なぎさに笑顔を向けている。
「ありがとね、なぎさちゃん。あと、相澤くんも」
なぎさはともかく、俺には感謝されるようないわれはないと思う。
「いや、俺は何の役にも立ってないですよ」
先輩は、完全にこちらに向き直ると「それでも……」と言って俺に話を聞くように優しい声音で話し始めた。
表情からは真摯さが受け取れる。学校の先生が説教をするときみたいな、そんな感じで。
「それでも、ね。話を聞いてくれただけで嬉しかったから、ありがと」
……納得はしていないが、そこまで言われてしまっては素直に受け取っておく方が良いだろう。
「……はい、どういたしまして」
◇
帰り道を歩いている途中、俺はついさっきのことを考えていた。
意外だな、と。
先輩の話はわかる、なんら意外なことでもない。
どこかに男女のグループがあれば、恋愛事のトラブルが起きたっておかしくもない、むしろあって普通だとも感じる。
俺が意外だったのは、その話を聞いたなぎさの行動だった。
彼女は、その先輩の周りで起きた出来事に対して、『卑怯』『偽物』『狡い』と強い言葉で否定した。
自分の身近で起きたことのように。
自分が経験したことのように。
そんな彼女の様子を見たことが一度もなかった。
初めて見るような顔をしていた。
「なぁ、なんでさっき……」
気になって、さっきのことを訊こうとした。
でもなんだか、訊いてはいけないような気がして、その先に踏み込んではいけないような気がして、続きを話すのを躊躇した。
そんな俺の様子を見て、逆になぎさが俺に話し始めた。
「……先輩は、好きってなんだと思いますか?」
お姉様系先輩に言われた質問と同じ問いだ。
"好き"か。
単純な好意なら、姉さん、千咲、コウタ、なぎさ、他の友だち、クラスメイト、みんな程度の違いはあれど持っている。
だが、なぎさが訊きたいのはそういう意味の"好き"ではないのだろう。
なんというか……恋人にしたいとか、お付き合いをしたいとか、そういう意味に感じる。
「俺は……」
口を開いたものの、その続きが一向に出てこない。
好きだ、なんて言っても相手に責任を負えるわけでもない。
簡単な質問だ。
問いかけだって至ってシンプルだ。
でも、今の今まで考えてこなかったことだった。
"考えないようにしていたこと"だったのかもしれない。
あのときのことで、愛とか好きとか、そういうのを感じるのが怖くなっていた。
言葉に出せば必ず信用に足るというわけではない。
好きだ、と言ったその口でまた違う人に好きだ、と言うのも簡単だ。
けれども、言われた側の記憶には残る。
そして裏切られた、嘘だった、と感じる。
なら言葉に出さずに……いや、言葉にしない方がかえって良いのではないか。
そんなことを、しらずしらずのうちに考えていたのかもしれない。
「……ごめん、わからない」
諦めてそう言った。
「……そうっすか」
「うん、ごめん」
「……まぁ、私もよくわからないっすけどねー」
そう言って、あはは、となぎさは笑った。
「そういえば、週末のことなんだけど」
「ええっと……はい、なんでしょう」
「朝八時くらいに、家の前まで迎えに行くから。それから四時間くらいかな……お昼どきには向こうに着くと思う」
「わかりました、りょうかいっす」
「……なんか悪いな、俺の我儘に付き合わせて」
そう言うと、なぎさは訝しげな視線を俺に向けてきた。
「先輩はお馬鹿さんっすねー、まったく」
「……どうして?」
「私が先輩と行きたいから、行くんですよ。
先輩も、そう言ってくれたじゃないっすか」
それを言われると、そうでしかないので反論はできない。するつもりもないけれども。
「……わかった、できるだけ楽しめるように、考えておく」
それでいいんですよ、と言って、少しの沈黙のあと、なぎさは後ろから俺の背中にパンチをしてきた。
「どうした?」
と問うと、「いえいえー」と言って笑っていた。
それから、帰り道の間ずっと彼女は上機嫌のままだった。
今日は、彼女のいろいろな表情を見た気がする。
困ったような表情とか、怒ったような表情とか、喜んだような表情とか。
夏休みになって、彼女のことをもっと知れたように感じる。
いつもより気分が良かったからか、歩くのが早かったからか、普段よりも早く分岐点に達した。
「じゃあ、ここで」
「はい、また明日」
当然のように言い出された、また明日、という言葉が少し嬉しく感じた。
「おう、また明日な」
なぎさはそれに頷いて、ぺこりと頭を下げた後、いそいそと帰って行った。
◇
家に帰ると、宣言通り千咲が来ていた。
二人は当たり前だがもう夕飯を済ませたようで、ソファに腰掛けてだらだらとしていた。
俺も、準備されていた夕食を食べてから、二人に混じってお菓子を食べながらだらだらとすることにした。
テーブルの椅子に座りながら、ソファに座っている姉と千咲の様子を見る。
かなりだらけている。
夏の暑さにやられているような。
足元に目線を移すと、扇風機がぶるぶると音を立てて振動している。
扇風機をつけていて、しかも夜であるにもかかわらず、部屋の中は熱気に包まれている。
クーラーをつけようと思ったが、つけているのに慣れると外に出るのが面倒になるのでやめておいた。
じゃあなにか冷たいものを食べよう、と冷蔵庫にアイスを取りに行く。
一応千咲と姉に確認して、二人のぶんのアイスも取った。
「あづいーーー」
「ですねー……たしかにあついです」
持ってきたアイスを手渡すと、二人は口々にそう言った。
二人ともソファにがっつりともたれかかりながら、手にした棒アイスを食べている。
もたれかかっている、というよりは寝転がっている感じではあったが。
夏で、しかも暑いからか、かなり薄着だ。
夏休みの始めに千咲がうちに来たときのようにいろいろと見えてしまうことだってあるかもしれない。
「……なんですか」
ちらり、と千咲の方を見ると、振り向いた拍子に目があって、怪訝そうな顔でこちらを見てきた。
「あー、えっと……女の子がそんな格好しててどうなのか、と」
千咲は、下を向いて自分の姿勢を確認する。
そしてそれを変えずに、俺を再度見た。
「べっつにぃー、いいじゃないですかー。とっても居心地がいいってことですよぉー」
間延びしたような、そんな言い方で言われてもな……。
居心地良くされても困るんだけど。
ここ俺の家だし。
「そうだそうだー! ていうか、お姉ちゃんの私には言わないのかなー?」
姉が話に入ってきた。
私がぐうたらしててもなにも言わないのか、ということだろう。
「いや、姉さんはいつもそうだから今更なんも思わないよ」
「うわぁー……差別だ。お姉ちゃん悲しいよ……こんな弟に育ってしまって……」
姉は、うえーん、と見るからに泣いたフリをし始めた。
千咲もそんな姉の様子を見て、勝ち誇ったような笑みをこちらに向けてくる。
「私も楓ちゃんもこのままでいいですよねー」
「そうだー! だらけるの最高!」
いや最高って……。
俺もだらけるのは好きだけどさ。むしろ今夏が例外であとはだらけてるけどさ。
でも、これは少し良くないような気がする。
動かさないとずっとだらけたままでいそうだし。
姉はまあいいとしても、千咲は活発に動いているほうが似合ってると思う。
なんとかしてここから動かすとするか。
「千咲、コンビニ行くぞ。夜食かなんか買いに行こうぜ」
「えー……。面倒ですよ、それにはーくんは今さっき食べたばっかじゃないですかー」
駄目か……じゃあどうやって動かそう、と考えていたときに、千咲は何かに気付いたのか、「あっ」と小さい声で呟いた。
「それって、二人きり? ですか?」
「いや、姉さんも」
ちらっと姉のほうを見る。
「パスで」
即答された。
「じゃあ行きましょうか、はーくん。楓ちゃん、なにか買ってきて欲しいものありますか?」
「じゃあからあげ棒でー! ちーちゃんありがと!」
先程の様子から一転、けろっとした様子で姉は答えた。
この時間に食べると普通に太りそうだ。
言ったら面倒だから言わないけれども。
急に外に出る気になった千咲にびっくりしたが、この状態から動いてくれるならいいことだ。
財布を取って、千咲と一緒に外に出た。
◇
「良かったのか? 夏らしいことしたいって言ってたのに、こんなんで」
夜道、月明かりが照らす中、俺の一歩先を歩く彼女に、そう声をかけた。
「……こんなんで、といいますと?」
「いや、もっとこう、どっか行ったりだとか……」
「いいんですよ。えっと、部活部活だと疲れちゃうじゃないですか。
だから、リラックスできる感じで居れるのはとてもいいことなんです」
「そっか、それならいいけど」
会話が切れると同時に千咲は歩調を緩めて、俺の隣にやってきた。
「私は、はーくんと居ると安心できますよ」
「そうか」
「本当ですよー。あ、楓ちゃんと居ても安心ですね」
そう言って、彼女は距離を半歩分くらい詰めてくる。
今朝のように、少し動くと肩がぶつかりそうなくらいの近さになる。
「……いや、近いだろ」
素直に言うと、ぷくーっとわざとらしくふくれっ面を作って俺に見せてきた。
ちょっとかわいい。
……いや、ちょっとどころではなくかわいい、というかあざとい。
「離れて、いいから……」
そう言っても離れないので、自分から離れることにした。
千咲は俺の顔をまじまじと見て、「いやですよ、っと」と言って、また距離を詰めてきた。
「…………」
多分、嫌な顔をしてしまった。
そして、それを千咲に見られた。
「……だめですか?」
俯きながら言う千咲の声音は、先程よりもずっと暗い。
「……昔はこうやって並んで歩いてたじゃないですか。
なにがいけないんですか?」
俺が答える前に、千咲は話を続け出した。
立ち止まって、少しの沈黙が生まれた。
話すまで動かない、ということだろうか。
「良いも悪いも……昔とは違うだろ、いろいろと。
ぜんぶがぜんぶ昔のようになんて、俺には無理だと思う」
言いながら、俺は千咲にこんなことが言いたかったのではない、と頭の中で否定する。
けれど、出かかった言葉はそんな考えなど無視するかのように、するすると出ていってしまった。
千咲はなにも言わずに俯いたまま、反対の方を向いてしまった。
またやってしまった、と自責の念に駆られる。
小さいころから一緒で、いつも隣にいてくれて、避けていたのは俺の方なのに、また接してくれるようになって……。
昔も今も、悪いのは全面的に俺の方だ。
「ごめん……」
そう言うと、千咲は反対方向を向いたまま、小さく頷いた。
「千咲、俺は……」
「……ごめんなさい。私、先帰ってますね」
よくわからないんだ、と言い終わる前にその場から走って立ち去られてしまった。
言わんとしたことも、全くもって正しいことではない。
千咲が聞きたかったのはそんな言葉ではないのはわかりきっている。
でも、どうしたらいいのか本当によくわからなかった。
どう接するべきか、どんな態度でいるべきか。
千咲とは離れたくない。
あの時のように、会っても避けてしまうような関係に戻りたくはない。
あんな思いは、もう二度としたくない。
……言葉にするのは簡単だ。
繋ぎ止めるために、思っていないようなことでも、それを言えばいいだろう。
けれど、そんなのは時間稼ぎでしかない。
結局何処かで綻びが生じて、現状よりも悪くなってしまうかもしれない。
彼女が最近まで、はっきりとした言葉にしてくることがなかったから、
行動に起こしてくることがなかったから、俺はそれに甘えていた。
このままの関係でいれば、ずっと一緒にいれるのではないか、とそう思っていた。
だが、あんな風にわかりやすくされたら、流石にわかる。わかってしまう。
このままずっと、なんていう俺の願望はただの幻想でしかない。
今まで通りとはいかない。変わらなきゃならない。
千咲は変えること、変わることを望んでいる。
どの方向にでもいいから変わってくれ、と望んでいる。
目を逸らすのはもうやめて、俺も、いろいろなことを決断する時が近付いてきている。
でも、その前に、俺自身のことを片付けなければならない。
中途半端な気持ちで困らせてしまうのは、きっと一番不誠実なことだから。
◇
「ただいま。はいこれ、からあげ棒」
「おかえりー、ありがとありがと」
姉は俺が外出した時の姿勢のまま、うちわで身体をぱたぱたと仰ぎながら横になっていた。
「千咲は?」
「お風呂入ってるよ」
「そっか」
スマートフォンを取り出して、ぽちぽちといじる。
特にしたいと思うこともない。電源を落として机の上に置いた。
冷蔵庫から麦茶を取り出して、グラスに注ぐ。
買ってきたヨーグルトとゼリーを食べる。
寝るのに飽きたように、姉は起き上がって、小さく伸びをした後、俺の様子をじぃっと見つめてきた。
「なに」
「なんかあった?」
「いや、なんもないよ」
「いや、そんなことないでしょ」
「…………どうして」
「なんかあった、って顔してるから」
「べつに、千咲とは……」
「私ちーちゃんのことなんてひと言も言ってないけど? ……やっぱりなんかあったんだね」
単純な手に引っかかった。
まぁとりあえずのところ、姉にも言うわけにはいかないよな。
「……なんでもないよ、ほんとに。
ちょっと、雰囲気悪くなっただけ、それだけ」
「それだけって……私からちーちゃんに訊くのも駄目な話?」
「うん、話したがらないだろうし」
そう言うと、姉はうーん、と悩ましげに唸った後に、咳払いをして俺のことを真剣な表情で見据えた。
「まぁ、本当になにか困るようなことがあったら、お姉ちゃんに相談すること!
私はハルのお姉ちゃんだけじゃなくて、ちーちゃんのお姉ちゃんでもあるんだからね」
「えっと、うん。わかった、もしかしたら頼るかもしれないからそんときは、よろしく」
「任せなさい!」と言って、姉は満足気な笑みを俺に向けてきた。
かっこつけたかったのもあるのか、と可笑しくなって、少し笑ってしまった。
多分、いや確実に相談することにはなると思う。
俺が話せるような人だって限られてくるだろうし、事情をある程度知っている人でないとわからないこともあるだろう。
とはいえ、姉にはまだあのときのことを話していない。
先延ばしにしてしまった、あのことだ。
姉は待ってくれると俺に告げた。
……俺も、その待っていてくれていた姉に嘘偽りなく、本当のことを言いたい。
なにか言われるかもしれないし、なにも言われないかもしれない。
それは今の俺には知り得ないことだ。
けれども、考えて考えて、考え尽くした結果なら、姉の心に響くかもしれない。
だから、話してみないことには何も変わらない。
俺の考えを何度も何度も批判的に問い直せば、見えてくるものもあるだろう。
◇
次の日の早朝に千咲は家に帰って行った。
姉と千咲と三人で朝食まで食べてから帰したのだが、その間もずっと俺と会話はしなかった。
姉もいろいろ考えてくれたのか、千咲と二人で話せるような話題を出して、俺と会話をしなくてもいいようにしてくれた。
カレンダーを見ると、今日はもう金曜日で、明日からなぎさと里帰り、という日まできていた。
お昼前くらいになって、姉が塾へ行った。
久しぶりに、長時間家で一人になる。
ここ数日ほぼずっと誰かと一緒にいたからか、少し落ち着かない気分になる。
一人で家にいるときにクーラーや扇風機を付けるのもなんだか勿体無いので窓を全開にして暑さをしのぐ。
窓から室内に入ってくる風は中々強い。
が、夏らしく温い風が吹いていて、逆に暑く感じてしまう。
テレビの音と掛け時計の秒針の音のみが部屋に響く。
そういえば、姉は卒業した後にどこに進学するのだろうか、と、そんな考えが、急に頭に浮かんだ。
姉は頭が良い。それもかなり。
テストで学年でも一桁から落ちたことはないと聞くし、教師からの評判だってすこぶる良い。
普段の校内での立ち振る舞いから言ったとしても、内申も高評価ばかりだろう。
俺は姉にどこ大志望なの?と、訊いたことはなかった。
考えたこともなかったのかもしれないが。
母さんの稼ぎがなくなったとはいえ、この家に住んでいて、そのままの暮らしを続けている。
姉弟二人とも普通科高校に通っているが、奨学金だとか、そんなのも申請すらしなかった。あれは世帯収入で取れるかが決まると誰かに聞いた。
それどころか姉は高三から塾に通っている。
大手の塾、というか予備校であるから、講習代だってそれなりにかかるはずだ。
でも、大して何事もなくそのまま過ごせているのは、父親の稼ぎが相当だということに他ならない。
地元国立はもとより、難関私大だったり、首都圏の有名大だって狙える学力を持っていると思う。
だから、姉はうちにいて、ずっと自分の近くにいる、とも言い切れないのではないか。
正直なことを言ってしまうと、姉の学力なら地元の国立大に行くためにわざわざ塾に通う必要はないはずだ。
つまりは、そういうことではないだろうか。
訊いてもいないのに決めつけは良くないが、その可能性が高いと感じる。
となると俺は来春から実質一人暮らしということになる。
最低限の家事能力くらいは有るのだが、それでも今姉がいるこの状況より悪くなるのは目に見えている。
もう少し弟離れして欲しいと思うことも少なくはない。でも、俺だって大概ではないのだ。
姉に任せてしまっている部分が多すぎる。
一人になってどう感じるかは、そのときになってみないとわからない。
……とりあえず、返していけるものは時間あるうちにやっておくべきだな。
今日の夕食は、俺が作るとしよう、明日から家を空けるわけであるし。
そういうところから、ちょっとずつでも、返していけたらなぁ……と思う。
ただの自己満足であるかもしれないけども。
◆
意識がはっきりとしたとき、俺はベッドの上に横たわっていた。
ここはどこだろう? と考えて周りをきょろきょろと見渡した。
白いベッド、ピンクのカーテン、俺が着ているのは制服。
学校? 保健室?
カーテンを開けると、眼鏡をかけた若い女の養護教諭の先生が駆け寄ってきた。
「あ、起きたのね。
急に倒れたって言われたけど、睡眠不足とか? まだ体調悪い?」
「……倒れたって、えっと」
「黒板に答案を書いて、って言われて席を立ったらそのままふらふらーっと倒れたって」
とりあえず、記憶がある範囲で思い出してみる。
今日は家を出るときからずっと体調が悪くて、頭がガンガン鳴っていて。
休み時間も机にずっと突っ伏していて、体調が悪いのに数学の授業で当てられて。
そこから…………見えてる景色が真っ逆さまになったような感じがして、どんどん力が抜けていって……。
「あ、はい……。そういうことですね」
「記憶はしっかりある、と。
えっと、今から少し質問するね?
頭とか痛かったらやめるから言ってね」
「はい」
「まず、朝ごはんはちゃんと食べた?」
「食べました。昨日の夜も、はい」
保健室の先生はすらすらと紙にボールペンで記入していく。
「昨日寝た時間と、今日朝起きた時間は?」
「たしか、十一時過ぎには寝て、六時には起きてたと思います」
「睡眠不足、でもないのね」
「……そうっぽいです」
「では、最近なにか悩みとか困ってることとかある? 友達関係とか、家でのこととか」
「…………いえ。特には」
「そっか。君は部活……には入ってないんだよね、たしか」
「そうですけど、なんで知ってるんですか」
部活はついこの前に辞めたのだけれど、顧問以外の教師、しかも保健室の先生に知られているというのは、どうしてなのか気になる。
「あ……えっと。んー、これ言っていいことなのかな」
そう言って、彼女はちらちらと様子を伺いながら、赤みがかった長い髪の毛先をくるくると遊ばせた。
『言って良いですよ』と言え、ということだろうか。
こんなんでいいのか、仮にも養護教諭なのに。
「……どうぞ」
「えとね、最近の君の様子がおかしいって、聞いていたから」
「え?」
「みぃちゃんが…………んんっ、橘先生が、君の様子がおかしいけど、どうしたらいいかわからないって私に相談してきたの」
「……」
橘先生、担任の先生だ。
新任の女教師で、お世辞にも授業が上手いとは言えないが、生徒からは人気がある。
「何度か話してみようとはしたって言ってたよ、えっと、そうだよね?」
たしかに何度か、放課後の教室で話しかけられた。
放課後の教室に残っている奴なんて俺だけで、新任なので部活の顧問を持っていない橘先生は、見回りと戸締りの為に、夕方の教室にたまに現れて、俺と話をしたがった。
部活を辞めます、と言ったときに止めてくれたのは彼女だけだった。
顧問は、どうぞご勝手に、みたいな態度を取ってきたことを覚えている。
こればっかりは仕方がないことかもしれない。部活をサボってばかりいたことだし。……まぁ、ほんの少しもやっとすることはあったけれども。
あとで、途中で逃げる奴は駄目だ、士気が下がっていたから辞めてくれて清々した、と矛盾点たっぷりな皮肉を言っていたと風の噂で聞いた。
あんなのが学年主任だって言うのだから、この学校はおかしいと思う。
「それは……はい。でも、話すこともそんなにないので」
「そっかぁ。橘先生頼りないもんねぇ」
「い、いえ、そんなことは」
「いや、新任で頼り甲斐がある方がおかしいって」
「……」
「でさ、本当はなにがあったの? 橘先生じゃ心許ないなら、私がある程度聞くからさ」
先程までの俺の様子を探るような言い方と違って、その声音は真剣みを帯びている。
「たまたま体調が悪くて、とは考えないんですね」
「だって違うでしょ?」
「どうしてそう言い切れるんですか」
「勘」
「いやいや、勘って…………」
「断片的にでもいいよ、話せることだけでいいから」
「いえ、なんもないんです。ただの、体調不良です」
そう言うと、彼女は怪訝そうに俺を見ながら「ほんとうに?」と言った。
「……あの、いい加減しつこいですよ。
なにもないって何度も言ってるじゃないですか」
訊かれたくないことであるし、語気を強めた。
でも、彼女はそれを御構い無しとでも言うかのように、俺の目から視線を離さなかった。
「こういうことは言いたくないんだけどさ、君のおうちに連絡してもいいんだよ?」
「……」
カマをかけたのか?それとも……。
「するよ?」
「いや……それは、やめてください」
…………迂闊だった。
言われた瞬間に否定しなかった時点で、もう肯定しているのと同じだ。
それに、本当にうちに連絡をするような言い方をされては、俺も強気には出れない。
「それなら、話しなさい」
「……脅しですか?」
「まぁ、そう取ってくれてもいいよ。
……橘先生、すごく心配してたからどうなんだろと思ったけれど、私も、あなたの様子を見てすごく心配してる。
とりあえず、なんでもいいから話してみてくれないかな?」
全く気が付かなかったけれど、さっきからの態度はハッタリだったのか。
俺がぼろを出すように誘導されたんだろうな、きっと。
とはいえ、核心に触れなければそこまで問い詰めてくることもないだろう。
「……わかりました。じゃあ、少しだけですよ」
「うん、聞かせて」
◆
「えっと……コーヒーでも淹れよっか、飲む?」
「あ、はい」
「ミルクは?」
「ブラックでいいですよ」
話を始める前に、先生は立ち上がってコーヒーを淹れに行った。
一度落ち着いて話を聞こうということだろう。
少し待っていると、頭がくらくらとしてきた。
……貧血っぽいな、これ。
ストレス、はストレスなんだろうけど、ここまで力が抜けるとは思いもしなかった。
「っと、はいこれ」
そう言って差し出されたマグカップの中を覗く。
コーヒーの独特な匂いを嗅ぐと少しだけ気分が落ちついた。
先生の持っているマグカップを見ると、中身は茶色……ほぼ真っ白になっている。
「あぁこれね、練乳だよ。君も入れる?」
「美味しいですか?」
「私は好きだよ」
「はぁ……そうですか、お願いします」
先生がまた立ち上がって冷蔵庫の方に歩いて行くと、なにやら隣からガサガサと音がした。
「ごめん、起こしちゃった?」
と、先生の声がする。
隣でぼそぼそと先生と誰かが話をしている。
一、二分くらいして、俺のベッドへと戻ってきた。
「待たせてごめんなさい、隣の子起こしちゃったみたいで」
「大丈夫ですよ。……場所変えますか?」
「いや、小さい声で話せば大丈夫だと思うよ」
「……そうですね」
◇
六時過ぎになって、姉が家に帰ってきた。
なにか作ろうと思ったけれど、姉の食べたいものがいいかな、と思って買い物には行かないでいた。
幸い姉もスーパーには寄って来なかったようで、また出掛けようとしていた。
「今日は俺が作るよ」
そう言うと、姉は面食らったような顔をして俺を見て、「どうして?」と問うてきた。
「なんとなく。……買い物一緒に行こ」
「それはいいけど。うーん…………この前ので料理に目覚めたとか?」
「いや、そういうわけじゃない」
「ま、まぁ……うん。じゃあちょっと着替えてくるから外出てて?」
姉はそう言ってリビングから自分の部屋へと階段を上って行った。
俺も財布とかを持って、外に出て待っている間、姉の好きな食べ物について考えた。
少しして、家の外に出てきた姉に問いかけてみる。
「姉さん好きな食べ物ってなんだっけ?」
「うーん、いろいろ? なんでも好きだよ」
「そっか。姉さんの好きな食べ物作ろうって思ってて」
「うんうん……えっ? まじ?」
普通に言った言葉に、なぜか凄くオーバーなリアクションをされた。
「マジマジ、だから一緒に買い物行こうとしてる」
姉は数秒の間顎に手を当てて考えるような仕草をしたあと「ありえないありえない」と大げさに首を振った。
「ありえないって」
「そう、ありえないよ」
「なにが」
「ハルが」
「はぁ?どこが」
「ハルはいつも『はぁ……しょうがねぇな優しくしてやるよ』みたいな態度するのに! こんなに優しいのはおかしい!」
あまりにも酷い言われようだ……。
もっとわかりやすいと思うんですが、自分が思っているのとは違うんでしょうね。
「優しくされたくないってこと?」
「いやそれはされたいに決まってんじゃん。
でも、お姉ちゃんはハルの回りくどい優しさに愛着持ってたのに……」
姉は頭をぐしゃぐしゃと弄りながら、やたら饒舌にそう言った。
「いやいや、どんなだよ、それ」
「いっぱいありすぎて覚えてないけど、その度にかわいいなーこいつって思ってたの!」
そう言われたものの、あまりピンと来ない。
優しくするときには優しくしてたし……頭撫でたりとか。それは違うか。
「どういう意味?」
「ヒミツ! 教えたら調子乗りそうだから」
「そう……ていうか、かわいいってなんだ」
「姉にとっての弟はかわいい生き物でしょ」
「……そうなの?」と姉に向かって言うと、
「そうなの」と間髪入れずに姉が返答してきた。
なんだか妹みたいにかわいく思えて、いつだかそうしたように、姉の頭を撫でた。
「な、なでるのか」
見るからに動揺している。
ちょっとおもしろくて笑ってしまった。
「ちょうどいい位置に頭があったから、姉さんがわるい」
乗せている手をべしっと払われる。
「また妹とか子どもみたいな扱いした! 普通はお姉ちゃんの頭なんて撫でないんだよ?」
いつもならバカとか死ねとか辛辣なことを言われるのに、今日はえらくご機嫌なようである。
「えっと、じゃあ姉さん、身長何センチだっけ?」
「……」
「言わないの?」
「……ひゃく、ごじゅう…………ご!」
姉はふっふっふー、とドヤ顔をしながらそう宣言した。
そんなあるわけないだろ、騙す気あるのか、と心の中でツッコミを入れる。
「……それ千咲の身長でしょ。実際は?」
「……ノーコメントで」
「二十五センチ差はお姫様抱っこがよく似合うと聞いた」
「ほんとに? あっ……」
「引っかかりやすいね、ははは」
されたいんだな。
「うるさいうるさい! お姉ちゃんだぞ! 敬え!」
「……」
「綾ちゃんもでかいし、なぎちゃんもでかいし、杏ちゃんも私よりすこーし大きいし……身長よこせって感じだよね」
うしろに怒りマークが見える。
「姉さんはそれでいいと思うけど」
「そう言われるのは嬉しい、けど妹扱いされるのはイヤなの」
「してないしてない」
してます。でも言いません。
「したら殴るよ?」
「わかった。で、なに食べたい?」
「……バカにしない?」
「うん」
「オムライス! ハンバーグ!」
子どもか。
「ぷっ……」
「今わらったな、殴らせろ!」
殴られた。が、全く痛くなかった。
「オムライスとハンバーグね、わかった。
やっぱ一緒に作ろっか、その方が楽しいだろうし」
「そうね、楽しいね、うん」
姉はなぜか機嫌は良いままだった。
……まぁ、なんだ。
姉にとっての弟がそうであるように、弟にとっての姉もかわいいものなのだと改めて知ることができたということか。
今度は強めに、わしゃわしゃと髪を撫でると、姉は少し嬉しそうな顔になっていた。
◇
オムライスを食べたのはいつぶりだろうか。
小学五年生? かそこらのときに食べたのが最後だった気がする。
季節とかははっきりしないけど、両親共に仕事で家を空けていたときに、姉が作ってくれたという記憶がある。
姉も俺もちゃんとした料理なんてしたことがなくて、結構失敗をした。
ケチャップライスは全体的にお焦げみたいになっているし、卵はあまり混ざっていなかったのか白身の部分が浮いて見えるようになっているし、卵は卵でやっぱり焦げているし。
初の料理なんて誰しもひどいものであるとは思うが、比較的簡単めに見えるオムライスなら綺麗に作れると思っていたんだろう。
失敗しちゃった、ごめん、と言って姉は申し訳なさそうな様子でテーブルにオムライスの盛られた皿を並べた。
それから俺が食べるまで、姉は自分の皿に手をつけずに、ずっと俺の方を見ていた。
そんな姉の様子を見て、失敗したと言ってもこのレベルなら余裕だろうと思いスプーンで手前の一部分を切って口に運んだ。
普通においしかった、ような感じがする。
そのとき姉になんと言ったかとか姉がそれになんと返してきたかはよく覚えていないけれど、確かそうだったと思う。
そのときぶり…………か。
今はいろいろと状況が変わって、姉も料理をするし、俺も料理をする。
料理の腕に関しても、姉はかなり上手いと思うし、俺も姉レベルではないにしろそれなりに作れる。
いつだったか、俺の見えないところで、姉が料理の練習をしていたというのを千咲のお母さんから聞いた。
高校に入ってある程度時間が取れるときに、私のところに、料理を習いにきたと。
たしかに、家に三人……いや実質二人になってから、姉はかなり料理が上手くなったと思う。
俺も姉が料理している様子を見て、学べるものは学んだものであるし。
姉が千咲のお母さんに習ったものが栄養価の高い和食中心であったからか、最初のうちは、ゴハン、味噌汁、おかず数品だった。
なのでオムライスを作るようなことはなく、今もたまに洋食は作ることはあるが、オムライスが出てきた記憶はない。
さっき姉のリクエストを聞いて、好きな食べ物がオムライスなら作ればいいんじゃないか、と思ったけれど、本当にどうして今まで作らなかったんだろう。
「おいしかったね、久しぶりに食べた」
二人で作ったオムライス(とハンバーグ)を食べたあとに姉が呟く。
「俺もかなり久しぶり」
「うんうん。今日見てて思ったけど、ハルかなり料理上手くなったと思うよ」
「ありがとう、まぁそう言う姉さんも上達凄いと思うけど」
「そんなそんな……あんま考えたことなかったけどそう思う?」
「うん」
「料理できる男はモテるよ、ポイント高い!」
いきなりそう言われても、モテるためにやっているのではないし。
料理できる男が需要あるのって、妻の方が忙しかったり、まず男が彼女のヒモだったりする場合じゃないか?
──いや、一人暮らしとか家に一人でいるときにも役に立つか。
「……まぁ、どちらかといえば料理は食べる側が良いかな。
俺からしたら料理できる女の子の方がポイント高いと思うし」
「そ、そう?」
そう言いながら、姉は口元を手で覆った。
俺から目線を外して、周りをきょろきょろと見ている。
「どうしたの?」
「……それってお姉ちゃんも含まれたりする?」
ポイント高い云々の話だろうか。
「え、そりゃあもちろんだけど」
「へぇ、そっかぁ……ちょっと嬉しいな」
「……嬉しいのか」
「うん、嬉しい」
なにが嬉しいんだろう? と頭を悩ませていると、姉はまた話し出した。
「あのさ、たとえば、たとえばの話だけど……」
「うん」
「私がハルの妹だったら、どんな扱いするの?」
「……え」
「私はお姉ちゃんだからこんな感じで接してるけど、妹だったらどうなってたのか、ってこと」
姉が妹。
想像すると、これまた結構しっくりくる。
……しっくりとはくるのだが、現実味はない。
俺は弟であるけれども、歳は一つしか変わらないし(大半は二つだが)、ほんとに小さいときには友達みたいな感覚で接していた記憶がある。
でも姉は姉で、それ以外はありえないというか、嫌な感じがする。
「きっと……」
「きっと?」
「妹だったらもっと愛でてる」
「なにそれ」
姉はふふっ、と小さな声で笑った。
「でも、姉さんは姉さんだから。
もし姉さんが妹だったら大変そうだし」
「大変って。たしかに小学生のときのハルのお世話は大変だったけど」
「そうだった?」
「いつも泣いてたじゃん。
私と喧嘩しても、先に泣いて謝ってくるし、映画とかドラマとか見てすぐ泣いてたよ」
それは姉さんが頑固だから。
まぁ言わないけど。
「マジか」
「泣いたときは歌とか歌ってあげたの、覚えてない?」
「あんまり……」
覚えてはいる、けど、なんとなく恥ずかしい。
けどさ、と姉は俯きながら呟く。
さっきまでとは違う雰囲気で。
「ハルはさ、強くなったよね。
……なんていうか、その、えっと。
身長とか身体の大きさとかもそうなんだけど、泣いたりしなくなったし、泣き言も全然言わなくなった」
「……」
「私はお姉ちゃんなのに、どうして強くなれないんだろう……ってずっと思ってた。
家に居ても、学校に居ても、どこに居ても不安ばかりだった。
わからないことばかりだ、なんの意味があるんだろうなんて」
「そんなこと……」
突然姉の口から吐き出された言葉にひどく戸惑う。
"強い"
そんな言葉は、俺にはまったく似合わないと思う。
その実、強がっているだけだ。
……強くなったのではなく、弱いところを見られるのが嫌だから、それをひた隠しにしているだけなのだ。
「……ほんとはさ、お母さんのこと、そんなに好きじゃなかったんだ」
「……」
「お母さんにね、なにかがある度にお姉ちゃんなんだからってずっと言われてた。私が泣いていたら、あの人はイヤな顔をしてたんだ。
ハルは優しいから、私と公平になるように自分のことを我慢したりしてくれてたけど、私はなんでだろう……って思ってた」
いつでもプレッシャーがあった。
だから部屋に一人で。
「……ごめん」
「いや……どうして謝るのよ」
「どうしてって言われても」
反射的に、というか。
姉がそんなことを母さんから言われていたのを俺は知らなかった。
いや、耳で聴いてはいたとは思うけれども、聴き逃していたというか、気に留めることがなかったのだと思う。
「私はね、馬鹿正直に信じてたんだよ。……お姉ちゃんなら我慢して当たり前だって。
あの人への機嫌取りだったのかもしれないけど、私はそれをしてて正しいって思ってたの。
それよりも……ハルがどうしてそんなに優しいのかがわからなかった」
──私だってお姉ちゃんなのに、と姉はどこか自嘲気味に呟いた。
頭の中で、もう一度姉の言葉を繰り返す。
……わからなかった。考えようともしていなかった。
姉が泣いていたのも、たまに思い悩んだような表情をしていたのも、過剰なくらい家族の関係に執着してきていたのも、明確な原因があったのだ。
記憶も思い出も、結局は個人の主観でしかない。
自分にとって都合の良くない出来事は、必然的に都合の良い出来事の下に埋もれていく。
俺は、姉にとって家族みんなで居ることが、なによりも良いことだと盲目的に考えていた。
「優しい?」
「うん」
「……どこが」
「駄々とかこねることも無かったし、いろいろ半分こしてくれたりとか、その……」
「そんなの……」
なんで、わからないのだろう。
わざわざ言わなくてもわかりきってることじゃないのか。
「……そんなの、きょうだいだから、それこそ当たり前のことじゃないの?」
「……ほんとうに? そう思う?」
「うん」
そう言うと、姉は眉をひそめて、そうだよね、と小さい声で答えた。
「……弟に甘えることは、悪いことじゃないんだよね。
ずっと守ってもらってたのは私の方なのに、甘えたいだなんて烏滸がましいこと考えちゃいけない、なんてこともないんだよね」
「……うん」
「じゃあさ、妹みたいにハルに甘えてもいい?」
甘えるって。
「甘えたいなら、嫌がりはしないと思うけど」
「……ぎゅーっとしてほしい、とか、一緒に寝たいって言ってもいい?」
「マジで?」
「……七割くらい?」
なぜ顔を赤らめる。
こっちまで緊張するのはどうしてだ。
相手は姉だぞ、姉。
いや、こういう仕草とかそういうの、普通にかわいくて困るんだよな。
「えっと……あまり自信はないけど、望むのであれば少しくらいは」
なんだかおかしい言い回しかもしれない。
「……ふふっ」
その言葉を聞いて安堵したのかどうなのか、姉はわざとらしくこちらに向けて笑った。
「……いや、冗談だから」
「そうなの」
「あ、でもたまになら」
「え、おぉ……うん」
こんな風なへんなやり取りのあと、姉はこほん、と咳払いをした。
「言いたかったことはそれだけ。
まぁ、知ってて欲しかったこと、なのかな?」
「……そっか」
「うーん。明日からハルが家に居なくてお姉ちゃん寂しいなー」
わかりやすいような棒読みでそう言ったあと、こんな感じ? と首をかしげた。
「……甘え下手か」
「そうかもね」
とりあえず……姉はかわいいな、うん。
◇
カーテンの隙間からやけに明るい陽が差し込む。
ゆっくりと身体を起こすと、毛布はベッドの下に落ちていて、いつの間にか着ている服もはだけていた。
なんだか暑すぎる朝だ。今年一番暑いような気さえする。
ベランダに出て、んーっと、大きく伸びをした。
涼しい風が吹いている。中にいるよりも、外の方が涼しい。
そう考えて、しばらく風にあたることにした。
デッキチェアに座りながら、枕元に置いていたミネラルウォーターに口をつける。
……ぬるい。
冷たい時よりも数倍不味く感じる。
なんだろうか、かなり落ち着かない。
地に足がついていないというか、腰が据わっていないというか。
とにかく落ち着かなかった。
原因は昨夜寝付けなかったことなのかもしれない。
無論、今日のこと、昨日のこと、言っちゃえば近いことを考えていたのには違いはないのだが、それよりも、もっと遠くのことを透かして考えていたような気がする。
ごくたまにあることだった。
人なら誰しも一回とは言わず経験したことがあることだとも思う。
──目を閉じると、誰かの声が頭に響く。
それは、知っている人であったり、家族であったり、知らない……思い出せない人であったり。
誰かと話したこと、誰かに聞いたこと、誰かに言われたことが暗闇の中でこだまする。
そうしているうちに、夢と現実の境がなくなったかのように、浅い眠りに落ちたのだろう。
夜通し起きていたような感覚だった。
そのせいか、あまり寝ていたという実感がない。
身体の疲れだったりは綺麗さっぱりなくなっているのだが、どうも心象的には疲れが取れていない様だった。
部屋を後にして、リビングに降りると、いつもの日常となんら変わりない朝の時間が流れる。
少しぼーっとしていて、テレビのリモコンに手をかけようとしたときに姉が起きてきた。
「おはよ」と彼女は眠たげに目をこすりながら話しかけてきた。
それに続いて、「今日は朝ごはん食べてくの?」と質問されて、それに肯定の意味をこめて頷くと、彼女はキッチンの方へと歩いていった。
手に持ったままになっていたテレビのリモコンの電源ボタンを押し、そちらに耳を傾ける。
──本日は今年一番の猛暑になるでしょう。
と、テレビに映っているアナウンサーが言った。
その言葉の後に、各地の気温が書いてあるものが映った。
自分が住んでいる地域は30℃、そう暑くない。
……暑いには暑いけれど、まぁ我慢できなくもない気温だ。
ただ、今日向かう場所(隣の県)の予想気温を見ると、さすがに目眩がした。
35℃オーバー、酷すぎる。
加えて、隣県のあそこらへんの地域は、浜風のせいで、涼しいときは涼しいのだが、そうでないときはずうっと温い風が吹いていて、体感温度が酷いことになる。
「よりによって今日こんなに暑いのね。熱中症気をつけてね、タオルとか準備した?」
キッチンからそう声をかけられた。
「うん、持ってく。姉さんも気をつけてね」と、そう俺は返答した。
数分後、テーブルの上に朝食が並べられて、二人で各々の席に腰掛けた。
ベーコンエッグトーストとコーヒー。
……理想的な朝食だ。
卵は半熟で焼き加減もかなりのものだ。姉の得意料理、というか楽にうまく作れると言っていた料理だ。
コーヒーには練乳が入っている。
からからとスプーンでマグカップの中をかきまぜる。
その様子を姉がまじまじと見つめてきた。
「どうしたの?」
「いつも思うんだけどさ、それって美味しいの?
私にはコーヒーの苦味のある美味しさを消してる様にしか見えないんだけど」
姉はブラック派だった。
いや、姉だけではなくて家族全員が昔からそうだった。俺がブラックじゃなくしたのも、飲むようになってから結構経ってからのことだった。
「……うーん。甘いほうが好きになってしまったというか、一度やってみたら?」
そう言うと、姉はこくりと頷いて、冷蔵庫からコンデンスミルクを持ってきて、ぶちゅーっとカップの中にそれを噴射した。
「スプーン貸して」
「どうぞ」
俺から受け取ったスプーンでそれをかき混ぜて、怪訝そうな目で俺を一瞥した後、姉はおそるおそるコーヒーの入ったカップに口をつけた。
なんだか俺のほうまでハラハラとしてしまう。
「どう?」
姉は考え込むような表情になった。
「意外といける……かも。てか美味しいねこれ、食わず嫌いしてたのが馬鹿みたい」
「だろ?」と言って姉に笑いかけると「なんか負けた気分……」と姉はむっとした顔をした。
「ちょっと緊張してたりする?」
「……なにが」
「お泊まりデート」
彼女は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「いや、言いかただろ。泊まりはそう、正しいけど、デートでは……」
言葉に詰まった。
失敗した。
「あ、赤くなってる。やっぱ意識してるんじゃん」
めんどくせぇ絡みだ。
「じゃ、そういうことでいいよ」
そう言ったら言ったで、彼女は頬杖をつきながら、無駄に間延びしたような言いかたで「つまんないのー」とのたまう。
「ちーちゃんには秘密なんでしょ?」
「秘密って言うか……言う必要もないかなって。
いや、というより言い忘れてた感じかな、多分」
「あ、そう。もう出る?」
さして訊きたいことでもなかったらしい。
「うん」
「そ、じゃあ私、部屋の掃除とかするから。行ってらっしゃい」
「お土産なんか欲しいのある?」
お土産と言っても、道の駅に置いてあるようなメジャーなものしか恐らく買ってこれないだろうけれど、一応訊いておいた方が良いだろう。
「じゃ、写真撮って送ってね」
「おっけ」
そう返したところで、彼女はなにかを思いついたように「あ……」と口にした。
「ハルの楽しい思い出、かな?
宿題ね、それをお土産にして持って帰ってくること!」
「なんだそりゃ」
「まぁ、楽しんできなさいってこと。たまには連絡してね」
「……わかった。それじゃ、行ってきます」
「あーい」
それから少しして、朝食を流しに片付けて、あらかじめ準備しておいた着替えなどの入った宿泊用のリュックを背負って、家の外に出た。
街並みは特に変わらない。
歩いている道も、いつも通りだ。
ただ、なんとなく、空がいつもより高い気がした。
◇
なぎさの家に着くと、彼女はもう門の前にいて、俺を待っていた。
「おはようございます」と彼女が言うので、俺も「おはようございます」と返した。
「なぎさ、親御さん家にいる?」
「あ、はい。今はいますけど、どうしたんですか?」
「えっと、一応挨拶しておかなきゃいけないと思って。
ほら、二日間お前のこと連れまわすわけだしさ」
「あー……そっすか。呼んできますね、ちょっと待ってて下さい」
そう言って、彼女はてくてくと家の門の中へと入っていった。
待っていようとスマートフォンを取り出した瞬間に、横から声をかけられた。
「あ! お兄さん、おはようございます」
「おはよ、今日も散歩? みたいだな」
杏は今日も愛犬の『みたらし』の散歩に行っていたようだった。
「はい、そうなんですー。お姉ちゃんまだ出てきてないんですか?」
「あー、えっとな。お母さん?かな。一応呼びに行って貰った」
俺の言葉を聞くなり、杏は面食らったような表情になった。
「あ、あのー……。めんどくさいことになるかもしれないですよ」
「どうして?」
「うちのお母さん、すごくめんどくさい性格してるんで……」
「それって」
めんどくさい性格ってどんなのだ、と少し考えていたら、杏が「あ、来た」と門の方を指差した。
つられてそちらを見やると、背が高く若そうに見える女の人がなぎさの隣に立っていた。
「どうも、なぎさと杏の母です」
と、その女性は口にして深々と頭を下げた。
俺も少し遅れて頭を下げた。
「あ、はい。……おはようございます。
えっと、なぎささんと土日の間出かけて来ます」
「……」
無言。
かなり空気が重く感じた。
無言の圧力、というか。
……最初に名前とか言うべきだったのに、失敗した。
黙っているのは自分から言えということだろうか。
「あ、あの。なぎささんと同じ高校の、一つ上の学年で、相澤って言います。
なぎささんと杏ちゃんには、大変良くして貰ってます」
これ俺が言うセリフなのか? というくらいかしこまったものを口から出した。
良くして貰ってますというのも、少しおかしい気がする。間違ってはないのだが。
「はぁ、相澤くんね。下の名前は?」
「……ハルです」
名乗るのって恥ずかしいのな。
「ハルくんは、なぎさと付き合ってるの?」
「いえ」
想定内。
なにをもってして想定内なのかは自分でも不明瞭。
「じゃあなぎさと結婚したい?」
「は?」
素で反応しちまった。
まずい、「は?」だなんて年上にはしてはいけない解答……いやいや、質問がおかしいわ。
付き合ってる付き合ってないを吹っ飛ばして結婚したい?だなんて訊く人なんてこの世にいるのだろうか。
や、目の前にいるんだけどどういうことだ、マジで。
「好きな食べ物は?」
意に介してないようだ、少し安心する。
というかなぎさのお母さん、無表情すぎる。
「えっと……。特にないですけど、和食全般好きですね」
「無難だね」
「……はぁ」
「好きな女の子のタイプは?」
この質問を訊く意味はあるのだろうか。
よくつかめない。が、答えるしかない。
「……元気な子ですかね」
「そっか、あ! なぎさとか? じゃあ子どもは何人欲しいのかな?」
「……あの」
さすがに答えあぐねていると、なぎさが前に出てきて、彼女の肩をぺしっと叩いた。
「そろそろ困ってるからやめなよ」となぎさは呆れたような口調で言った。
そうだそうだー、と杏がそれに同調する。
──どういうことだ?
「ちぇー、ダメかぁ。……ごめんねー、ちょっといじってみたかったのよ」
さっきの堅そうな表情から一転、明るい笑顔になったお母さんがそう言ってきた。
「えっと、どういうことですか?」
「先輩、冗談ですよ」
「ごめんねぇー、娘の結婚を許さない父親みたいなことして」
「あぁ……いや、大丈夫です」
「怖かった?」
「……はい、少し」
素直にそう言うと、「そっかぁ、やったね」とわかりやすく喜んでいた。
なぎさと杏と動きがちょっとばかり似ている。やっぱ親子だから似るもんなのか。
「なんてお呼びすればいいですか?」
なぎさのお母さん、というのもなんだかアレだし。
「私のことはミヤコさんって呼んでくれればいいよ!」
「はい。じゃあミヤコさん、ですね」
「お母さんでもいいよ? あ、お義母さんのほうが合ってるかな?」
言い回しで脳内変換を強いてくる。
いや、わかっちゃったけど。
「……ミヤコさんでお願いします」
ミヤコさんがハイテンションすぎて少しついていけない。
なぎさはこめかみに手をあてて呆れた顔をしているし、杏はどうしてかニコニコとしているし。
「えーと……とりあえず連絡先交換しよっか」
「あ、はい。いいですよ」
どうやらLINEの交換らしかったので、QRコードの画面を出してスマートフォンを手渡した。
「どうして簡単に交換しちゃうんですか?」となぎさに睨まれながら言われたので、「まずかった?」と返したら、「いえ、別に……」と煮え切らないような顔をされた。
どうもよくわからない。
はいできた、と返ってきたスマートフォンの画面を見ると『miyako?』──ミヤコさんが追加されている。
「これでなにかあっても連絡とれるね、娘をよろしく!」
言いながら肩をバンバンと叩かれる。
「はい、わかりました」
「じゃあ私、家に戻るから。杏も中入るよー」
「行ってらっしゃい、お姉ちゃん!お兄さん!」
てくてくと二人は門の中に消えていった。
杏に小さくファイティングポーズを向けられたので、じゃあね、と手を振り返しておいた。
──じゃあ行くとするか、と声をかけると、なぎさはいつもの髪型のポニーテールを解いて、今まで見たことないメガネをかけた。
いつも通りかわいく感じるが、雰囲気が変わったような。
少し大人っぽくなった気がする。
ギャップ萌え、メガネ萌え、フェチなのか?
「……どうしたの?」
「なにがですか?」
「髪とメガネ、珍しい」
「変装っす」
「変装?」
「はい」
「なにそれ」
「変装は変装です!」
変装らしい。
◇
「電車の中はさすがに涼しいっすねー」
ぱたぱたと手で身体を扇ぎながら、なぎさが呟く。
なぎさの家から駅まで歩いて、そこから乗り換えの駅まで乗って、やっと座ることができた。
車窓から外の景色を伺うと、空一面雲ひとつないような晴天で、先程よりもはるかに暑くなっているような気がする。
「そうだな……。あのさ、ミヤコさんっていっつもあんな感じなの?」
「……ですねぇ」
他人がいなくてもあんなテンションなのか。
「杏がすごくめんどくさい性格って言ってたけど、テンション高すぎてってことなのかな」
「そうっすね、家にいないことが多いんですけど、いたらいたでうるさくて困りますよ」
たしかにずっと一緒の空間にいたら疲れてしまうようなテンションの高さだった。
でも少し楽しそう、とも思える。
「そういえば、さっきなに買ってたの?」
「あぁ……ええっと、これとこれです」
差し出されたのは、コンビニで売っているような使い捨てカメラと、ちょっとのお菓子。
「カメラ?」
「はい! いい景色とかあったら写真に残しておきたいなーって思いまして」
小学生のときの遠足やら修学旅行やらで使った記憶がある。
電気屋さんとかに持っていって現像してもらうんだっけな。
「スマホとかデジカメとかで良くない?」
「これ結構じわじわと人気が出てきてるんすよー」
「そうなんだ」
「はい、レトロな感じが出て、かっこよくとれますし……」
知らなかった。
でも、ちょっとわかる気がする。
「それにですね、海の中でも取れるんすよ!」
彼女は嬉しそうに言う。
ほんとか、と一瞬疑ったが、パッケージに防水って書いてあるのでそうであるようだ。
「あれ、海のほうって言ったっけ?」
「え……あ、はい。ききましたききました」
言ったっけ? いや、ちょっと知識があれば切符でわかるか。
なぎさが首を縦に振ったからか、おろしている長めの髪がぶんぶんと揺れるのが目に入る。
たまに払っているのをみると少し邪魔そうだ。
服装は、セーラー服みたいなワンピースを着ていてよく似合っている。
「あの、先輩、なにじろじろ私のこと見てるんすか」
バレた、あたりまえか。
「……いや、みとれてた」
「そっすか」
スルー、圧倒的スルー。お兄さん悲しいよ。
なぎさはそのまま窓の外を見ながらスマートフォンをぴこぴこ(どちらかといえばタプタプと)いじりだした。
つられて俺もスマートフォンを取り出した。現代人らしい暇つぶし方法だ。
画面を見ると、吉野さんからLINEがきていた。
『こうた君ってどんな服好きか知ってる?』と。
なんというか、デジャブな出来事だった。
コウタが遊びを取り付けたと喜んでいたが、これは結構いい線いってるのかもしれない。
そう考えると、僅かにだがその場で微笑んでしまった。
『吉野さんならなんでも喜ぶんじゃない?』と送ると、『いや、参考にならないんだけど』と。
適切な解答を得るために何度か突っ返されたが、俺も負けじと同じような文面で送ると、しぶしぶながらも納得してくれたようだった。
それから、コウタに『やったな』と送ると『意味わかんない』と返ってきた。
考えてみれば当然のことだ。
少しした後、なぎさは「あ」と口にした。
「杏から、ツーショット送って欲しいってきました!」
「なぎさと俺の?」
「はい」
「今撮るの?」
「です。撮りましょうよ、ね?」
「……」
スマートフォンを手に、きらきらとした目で見つめられる。
ていうかあのカメラじゃなくていいんですね……。
「そっちいきますね」
沈黙は肯定と受け取ったのか、なぎさは俺の隣に位置を移してきた。
「先輩、もっと近く寄ってください、うつりません」
そう言われたので、しぶしぶ頷いて、身体を近くに寄せた。
ふわり、と甘い香りが鼻を刺激した。
女の子特有の良い香り、ヘンな気分になりそう。これまた性癖か。
なぎさといい千咲といいなんなんだろう、と考えていると、なぎさは画面に内カメを表示させて、それに向かってピースサインをつくる。
俺もそれにならって同じようなピースサインを作った。
ぱしゃりぱしゃり、と数回シャッター音がなって、そのあとなぎさは満足そうに笑った。
「よく撮れた?」
「はい! ありがとうございます。
この写真の先輩、顔赤いですよ?」
「……ほっとけ」
俺がそう言ったのを聞いて、なぎさは、えへへ、とくすぐったそうにはにかんだ。
◇
突然なんとなく思い付きで、というか、前から気にはしていたことではあったのだが、なぎさの誕生日がいつであるのか気になった。
杏曰く夏が誕生日。でも、もう過ぎたというようなアクションは起こしてきていない。
なったらすぐに俺に言ってきそうだし(偏見)。
そんななぎさは、今俺の肩にもたれかかって睡眠をとっている。
さっきのやり取りのあと、話をしたり途切れたりが繰り返されて、県境を越えたあたりになぎさが眠たそうな顔になっていたので、寝ることを勧めた。
──ごめんなさい、えっと……昨日の夜楽しみであまり眠れなかったんです。
と彼女は申し訳なさげに俺に謝った。
原因はちがうけれども、二人して同じように寝不足気味だったのが少し面白く思えた。
眠いなら寝ていいよ、と言ったときは逆側の壁に身体をくっつけていたのだが、時が経つにつれて、俺の方にぐらぐらと揺れてきて、今の状況に至る。
寝ているなぎさの近くにいると、この前のことを思い出してならない。……はっきりとではなくおぼろげにではあるが、あのときの感覚は身体に残っている。
またなんとなく隣にいる彼女の髪を撫でる。無意識。
つい良からぬことを考えてしまいそうになるのも、そうなんだろう。
四人席の片側に二人で座って逆側に荷物を置いているからか、周りに座っている家族連れだとか、通路を通りすぎるお年寄りだとかにちらちらと見られる。
どうにも落ち着かない。
少しの間、自宅から持ってきた文庫本を取り出して読んだ。
章末まで読み進めるのがやけに早かった。
また手持ち無沙汰になる。
お返しだ、と思って幸せそうに寝ている彼女の寝顔のまえにスマートフォンを持っていく。
この光景を8メガピクセルカメラで撮りたい。撮った写真をiCloudで共有──それができる。そう、iPhoneならね。
ちなみに俺のスマートフォンはアンドロイド製だった。
瞬間、車内にシャッター音が響き渡る。
……あ、無音モードにするの忘れてた。
なぎさが目をぱちぱちとさせる。
起こしてしまった。
「……えっ?」
驚いている。実際起きたときにカメラが自分の顔の前に有ったらどう思うのだろう。
普通にこわいな……犯罪者みたいだ、うん。
「いや、なんでもない」
「……私の顔なんて撮って何に使うんですか?」
たしかに、そう言われるとどうにも返しようがない。
「保存用?」
「あの、もっと良く撮れてるのにして下さい」
べしべしと脇腹を叩かれる。
怒るのはそこなんですね。
「……消してください、恥ずかしいです」
「……」
ノーという意味を込めて首を横に振った。
なぎさはそれを見てむっとした表情で俺を睨む。
「先輩……起きてるときなら、全然かまわないんすけど、寝てるときは、その……駄目です!」
じゃあ消すか、と思ったときに降車駅を告げるアナウンスが鳴った。
終点だ、降りてからはバスで祖父母宅に向かう。
「なぎさ、次で降りるから準備して」
「えっと、消していただけないんでしょうか」
「……いいから、荷物持って」
逃げた。なんか消したくなかった。
「あとで後悔しますよ?」
「いいんじゃない?」
よくわからないけれど、そう返した。
◇
電車から地面に降り立つと、あまりの暑さに身が悶えた。
そばに置いてある電波時計が指し示す時刻は正午ぴったり。
一日のなかでもとくに暑い時間帯だった。
階段を降りて駅なかのお土産ショップのまえを通ると、なぎさが声をあげた。
「先輩! くまねこちゃんが居ますよ!」
なんだそれ、と思ってなぎさが持っているキーホルダーを見ると、以前送ってきていたLINEのスタンプのきもかわ系ゆるキャラだった。
「これってここのゆるキャラだったの?」
「そうっす、はい。かわいいっすよね、愛くるしいフォルムで」
改めて見るとパンダとだけあってまんまるとした体型だ。
中国ではパンダのことを大熊猫と表記すると聞いたことがある。
でもこの地域にパンダってなんの関係があるんだろう、見当がつかない。
それに、かわいくデフォルメされているはずなのに、耳は謎の方向を向いているし、口だって変な開き方をしている。
……なんだろう、これ。
「……そうだな、かわいいな」
「ほんとに思ってるっすか?」
「うん、かわいいかわいい」
なぎさに言っているみたいだ。一人で恥ずかしくなる。
「あの、先輩。これ買っていいですか?」
なぜ俺に訊く。
どうぞ、と告げると、なぎさは小さい子どものような喜びかたをして、レジに会計をしに行った。
待っている間に、自動販売機で飲み物を買う。
すっぱい飲み物を身体が欲していて『すっぱさ100倍!夏の暑さにはこの一本!』とラベルに書いてあるレモンジュースを購入して飲むも、一口で飽きた。
そのあと、駅の外に出てバスターミナルに向かう。
さすがにこの時期ともあってか、バスターミナルは混み合っていた。
ここにいる人の大抵は人気のある観光スポットに向かうバスに乗る観光客だったり、まず都市付近からバスツアーで乗ってきた人だ。
いま住んでいるところからしたらだいぶ田舎ではあるのだが、田舎なりの産業だったり、海が近くだから遊泳場所として人気があったりしてそれなりに栄えている。
だが、俺らが今から行くのは、もっと閑散としている場所で、さして人の往来が多くない。
まぁ、今日はそれなりに混んでいるけれど。
二人で長蛇の列を通りすぎて、目当てのバス停に並ぶ。
向こうのバス停には、二階建てのバス(どう言ったらいいものかよくわからない)が数台停まっている。
「あと何分くらいで来るっすか?」
なぎさはそう言いながら、カバンの中から帽子を取り出し、それをかぶった。
「えっと……あと十分くらいかな。
暑いならなかで待っててもいいけど、どうする?」
「……大丈夫っす、暑いのには結構慣れてるんで」
「そっか、じゃあここで待ってるか」
「そうしましょう」
会話が切れて、さっき考えていたのに忘れていたことを思い出す。
「なぎさ、ひとつ質問していいか?」
「い、いきなりですね。はい、なんでしょう」
彼女はこちらを振り向く。
「前から気になってたんだけど、おまえの誕生日っていつなの?」
「……きょうですよ」
「え?」
きょうって、なんだろう。
凶? 狂? それとも強?
バカな変換を頭の中でしてみたが、普通に考えて、"今日"である他ないのは承知の上です。
「きょうって今日? トゥデイ?」
「はい、今日のトゥデイっす」
「マジで?」
「マジです」
いや、マジか。
……知らなかった。
「どうして言わなかったの、おめでたい日なのに」
「……なんとなく、です」
ちょっと間があった。なんとなく、というわけでもないらしい。
「そっか、まぁなんというか……。誕生日おめでとう」
「あ、あの。ありがとうございます。今年の誕生日で家族以外の人に祝ってくれたの、先輩が初めてっす」
にこぱー、と晴れやかな表情を見せてくる。
本当に嬉しそうだ、見てるこっちまで顔が緩む。
そうしているうちに、目当てのバスが来て、それに乗り込む。
狭いバスで二人席しか空いていなかったので、隣同士で座席に腰掛けた。
「私ももう来年には十七歳ですよ、セブンティーンです」
女子向け雑誌の名前みたいな言い方をされた。
ああいう系の雑誌って見出しだったりで過激なこと、いや……言っちゃえばエ口いことが書いてあるから、本屋で女子向けコーナーを過ぎ行くときに少し驚く。
ああいうのから女の子はそういう知識を得ているのだろうか、ちょっと気になる。
「それで、四年後にはもう成人ですよ、なんだか時間の流れがはやく感じます」
「でも四年は長いんじゃない?」
「えー、そうでもないと思いますよ?
日々をぼんやり過ごしていたら、すぐ過ぎてしまいそうな気がします」
そう言って、なぎさはメガネをくいっと上げる。
言われてみると少しわかるような気もする。
「早く大人になりたいけど、歳はあんま取りたくないな」
「ジレンマっすね」
「はぁ……歳とりたくねぇな」
それはどーなんでしょうね、と彼女は俺に同情するように笑った。
「先輩は、明後日が誕生日ですよね?」
「……そうだけど、知ってたの?」
そういえば俺のほうも自分の誕生日を言っていなかった。
でもなぎさが知っているってことは、言ったことがあるんだろうか。
「このまえ、楓さんに聞きました。『祝ってあげてね、喜ぶだろうから』って」
「あ、そう」
「先輩の名前の字面からなんとなくそうだと思っていたんですよ」
「……そうなんだ。でも、あれでわかるの?」
「はい。なんとなく、ですけど」
誕生日を祝ってくれる人が多いのは嬉しいことだ。
今年は毎年よりも多くの人が祝ってくれるような気がする。
少し話が逸れた。
「……あのさ、誕生日プレゼント。なんか欲しいものとかあるか?」
本題はこっちだった。
「あー……。えと、気持ちだけで嬉しいっすよ。
さっきいきなり言ったのにプレゼントを準備してっていうのも悪いですし」
「いや、遠慮しなくてもいいんだぞ?」
いろいろと世話になってるし。
「そうですね、じゃあお言葉に甘えます。
ちょっと考えても良いですか?」
彼女はそう言って、わかりやすくうんうんと唸っていた。
俺も俺で、自分だったら何が欲しいかな、と考える。
昔だったら、誕生日にはおもちゃとかを買ってもらっていた。
小学校のときは、夏休み中だから友達に誕生日を祝ってもらえなくて、ちょっと寂しく思ったことも少し覚えている。
去年は姉がケーキを作ってくれて、プレゼントに腕時計をもらった。
秋生まれの姉の誕生日には、近くのケーキ屋で買ったチョコレートケーキと、バラのアレンジメントをプレゼントした。
人それぞれ大なり小なり違いはあるにしろ、貰ったら嬉しいと思うだろう。
そんなことを考えていたときに、なぎさが「あ!」となにかをひらめいたように呟いた。
「わたし、いま十六歳ですよね」
「そうだな」
「先輩も、いまこのときは十六歳で、あと二日間だけ一年の間で同い年じゃないっすか」
「うん」
「……だから、先輩のこと…………今日と明日だけ、名前で呼ばせてもらってもいいですか?」
上目遣いやめろ。
……萌えた、嘘。いや、嘘じゃないわ。
「……べつにいいけど、そんなんでいいの?」
「はい! 嬉しいです!」
もっと物とかをねだってくれてもいいのに、とも思う。
でも、これで嬉しいと感じてくれるのならお安い御用だ。
「わかった。じゃあ、なんて呼びたい?」
「……えっと、『はる』はちょっと馴れ馴れしすぎですよね」
それならあまり驚かないレベルだ。
「いや、それでもいいけど」
「千咲先輩の呼び方も、なんとなく抵抗ありますね」
抵抗ってどんな抵抗だ。
というか、俺はいつからはーくんと呼ばれているのだろうか。あまりよく覚えていない。
「そうっすねー……先輩にあだ名を新しくつけるのも恐縮ですし、間をとって『はるくん』というのはどうでしょう?」
あんまりいつもと変わっていないように感じるのは俺だけか?
「……どうぞ、なんなら敬語外してもいいと思うけど」
「えぇー、それは違うっすよ。
はるくんは、あくまで先輩ですから」
自然に使われた。自分で変わっていないと言ったけれどちょっと照れてしまう。
それと同時に、なにか引っかかりのようなものを覚える。
普段から適当な敬語なのに(たまに敬語外してきたりして戸惑うこともある)なにかこだわりでもあるんだろうか。
たとえば、礼儀を払いたいとか。
……ないわ、ないな。
頭の中での思考を瞬時に否定した。
「わかった。じゃあ俺も『なぎちゃん』って呼ぼうか?」
「え」
姉とか千咲とか、みんなそう呼んでるから。
そんな結構軽い理由で口にした言葉だったのに、そう言った瞬間になぎさは口を開けたままフリーズした。
「……だめだった?」
「あ、はい」
「なんで?」
訊くと、一度目を瞑ってから、彼女は話し始めた。
「……ええっと、私のメンタルが持ちません。はるくんだって、くんを取って呼ばれたらそう思いますよ?」
「そう?」
「……そうっす、これは禁止技とか反則技というやつです」
「そっか、それじゃ呼ばないね……なぎちゃん」
好奇心。許せ。
「……」
なぎさの顔がみるみる赤く染まっていく。
異性にそう呼ばれ慣れてないってことなのだろうか。学校での様子を見る限り男との関わりは皆無っぽいし。
そんななぎさの顔を見て、自分でも結構イヤミな顔をしてなぎさを笑ってしまった。申し訳ないとは思っている、多分。
「……あのですね、はるくん。禁止って言葉、わかりますか?
き・ん・し! ですよ? やっちゃいけないことなんです!」
怒られた。というよりは諭された。
「わかったわかった、呼ばないから」
「それでいいんですよ」
呼ばないようにしよう、好奇心は猫をも殺す、なんて言うし。
仮に本気で怒られでもしたら、たまったもんじゃない。
あとひとつ、思い出した。
「そういえば、俺の家来たときに、言ってたことあったじゃん」
「……なんでしたっけ?」
「えっと、杏がモテるって話」
なぎさは、そんなこともありましたね! みたいな様子で手をポンと叩く。
「なぎさは杏とちがって、モテるモテない以前に友達の数が少ないからありえないって言いたかったんでしょ?」
「は?」
「え、ちがうのか」
「……普通にちがいますけど、否定しきれないのが嫌ですね」
そうか、ちがうのか。
「私だって、男友達はほぼゼロですけど、女の子ならそれなりにいますよ?」
「……」
「ほんとですよ?」
念を押されると逆に怪しい。
「うん、信じてる信じてる」
「……なんですか、その棒読み」
なぎさは不満げに、ぷいっと首を横に振った。
「いや、かわいいんだから……友達くらいちょちょいのちょいで出来そうだな、って思って」
フォローのつもりでそう口にした。
すると、まだ言い終わらないうちになぎさはこちらに向き直り、不意を突かれたとでも言うような顔で俺と目を合わせてきた。
戸惑ったような眼差しは何か言いたげに見える。
「なに」
「……い、いやー。その、嬉しいなぁって」
「……」
褒めてないんだけどね。でも気付いてないならいいか。
「そうですね、私も社交性を磨かなきゃいけませんね」
「……なぎさは結構社交性あると思うんだけどな。
姉さんとか千咲とかともすぐ仲良くなってたじゃん」
バイト時の接客だったりも問題ないし、俺と話しているときも気さくな感じであるし。
「まぁ……実際のこと言いますと、あんまり必要としていないんですよね。
話が合う人そんなにいませんし、一人でいるほうが落ち着きます」
まえに昔は大人しかったと杏が言っていたし、本当のことなのだろう。
一人が好きじゃなかったら、こうやって会うことも出かけることもなかったのかもしれないのか。
……なぎさには悪いけど、ちょっと嬉しいな。
◇
しばらくバスに揺られたあと、祖父母宅から一番近いバス停で降車した。
先ほどの駅からすると、周りはだいぶ田舎めいている。
付近を見渡すと、そこらにローカルなコンビニだとか、寂れたようなガソリンスタンド(当然無人である)が主張するくらいの有様だ。
ただ、ほんとうに小さい頃とちがっているのは、結構足元がコンクリートになっていることだ。こういったところで、少しずつ田舎感が薄れていくのだろうと思う。
とはいえ、なぎさと俺が住んでいる地域に比べれば、高層ビルのような視界を遮るようなものもなく、街並みだったり青空だったりが、よりクリアに映る。
バス停から家に向かおうと、その方向に歩き出そうとしたとき、横からクラクションを鳴らされた。
なんだよ、と思いながら音の方向を向くと、緑色の軽自動車の窓が開いた。
「いらっしゃい、外暑いから迎えに来たのよ」
……ばあちゃんだった。
「あ、ありがとう。ばあちゃんって車運転してたっけ?」
「うんと、買い物とかで結構乗るのよ。
今日はおじいちゃん昼過ぎまで忙しそうだったからねぇ」
「そうなんだ」
「じゃ、後ろ乗りなさい。お友だちも……て、あら。女の子なのかい?」
ばあちゃんは視線を横にずらしてなぎさと目を合わせる。
なぎさはそれにぺこりと頭を下げた。
「こんにちは、えっと……なぎさと言います。
せんぱ……はるくんと、同じ学校の後輩です」
「そうかいそうかい、後輩の子ね」
「はい、 二日間お世話になります!」
なぎさはもう一度深々と頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくね。
ハルがお友だちって言うから、てっきり男の子だと思ってたのよ……ごめんなさいねぇ」
──じゃあはい、後ろ乗って乗って、と乗車を促されたので、なぎさに先に乗ってもらって、俺もそれに続いて車に乗り込んだ。
すぅー、はぁー
と、大きく深呼吸をする。
外がかなりじめじめとして暑かったのでクーラーの効いた車内は天国だ。
隣に座るなぎさも、ばあちゃんに許可を取って飲み物を少し飲んだあとに、俺と同じように、ふぅっと息を吐いた。
「電車と市バスでここまで来たんだよねぇ……だいぶ疲れたでしょう?」
赤信号で止まって、こちらを振り向いたばあちゃんがそう口にする。
「いや、あんまり。そこまで疲れてはないよ」
「なぎさちゃんは?」
「えっと、私もそこまでは疲れてないです」
「よかったわ。おうちの人とか、ちゃんと許可もらってきたのよね?」
「……あ、はい。それはばっちりです」
「そう、それなら安心ね」
青信号になって、話題が変わる。
「……ハル、お父さんはまた帰ってないのかい?」
「まぁ、そうだね。帰って来てないよ」
聞くや否や、ばあちゃんはわかりやすくため息をついて、「全くあの子は……」と呟いた。
こちらからは表情は伺えないが、たぶん呆れたような表情をしているのだろう。
「そういえば、お昼まだよね?」
「うん、まだ」
「じゃあ、どこか食べに行きましょうか」
どこか外食に連れて行ってくれるらしい。
がらがらの道路を左折して、少し混み合っている国道沿いの道路に入った。
父親の車でこっちに来るときに、いつも通っている道だ。
海のほうへと進んでいき、橋を通過する。
しばらく進むと、車の量がさらに増えてきた。
「ばあちゃん、こっちにお店ってあったっけ?」
「そうねー……。こっちの方向に何があるかわからない?」
こっちの方向か。
一応、なぎさを連れて行くので、ここらへんの地理についてはもう一度確認しておいた。
でもそうか、食べるところ……いや、あるにはあるのか。
「……水族館?」
「そう! そう、水族館よ。ハルはまだ行ったことなかったはずよね」
たしかに、水族館は数年前にできたばかりで行ったことはない。だから、一緒に行こうと考えて、少し調べていた。
ちらりと真横を向くと、水族館というワードを聞いたなぎさが「おぉー」と声を上げた。
「フードコートがあるからそこでお昼にしましょう。
なぎさちゃんもハルも観光したいわよね?」
ふふっ、と機嫌の良さそうな微笑が漏らされた。
「はい! 水族館楽しみです!」
なぎさは嬉々とした声音でそう口にした。
まぁ、俺も水族館に行きたいかどうか訊く手間が省けてよかった。
◇
「はるくん! こっちです、こっち!」
はしゃぐ彼女に手を引かれて、大水槽の前へと足を進める。
入口付近には地域の海が映し出されたスクリーンがあり、多くの人がその場で立ち止まっていた。
館内には家族連れが多く、かなり賑わっていて、夏休みとはいえ、その人気の高さが伺える。
内装は水族館ならではのゆったりとした幻想的な空間を作り出している。
外装においても、白を基調としたお城のようになっていて、他にはない真新しさを感じられた。
「おばあちゃんも来ればよかったのに、って思いますよね」
「だな……。でも、夕飯の買い出しって言ってたから、仕方ないな」
「……そうですね。ま、私たちだけでも楽しみましょう!」
ばあちゃんはここに着いて俺らを降ろすなり、車でそのまま帰ってしまった。
夕方、閉館時間くらいに迎えに来ると言っていたから、それまでは二人っきりということになる。
先導する彼女の少し後ろについて進んで行くと、ひときわ大きな水槽が立ち並ぶコーナーに到着した。
「きれいですね……。今まで来た水族館のなかで一番かもしれないです」
ガラスに手をつけたなぎさが感嘆の声を上げる。
つられてその方向を見る。
彩り豊かな海藻とともに小型の魚がすいすいと泳いでいる。
俺も、この場所が好きかもしれないな。
落ち着くし、なにより退屈しない。
「他にはどこに行ったことあるの?」
「うん……と、美ら海水族館に行ったことありますね」
「沖縄ね」
「そうですそうです、行ったのは小学生のときだったのであんまり覚えていないですけど。
……はるくんは、どうですか?」
「ここの前にあったとこは何回か」
「おお」
「あとは、シーパラだかシーワールドだかそんな名前のやつ」
「わかります。どっちにしてもなかなか遠いですね」
「でも沖縄のほうが」
「あっ……たしかに」
彼女はなるほど、と言わんばかりに手をポンと鳴らす。
「なぎさは、特に見たい生き物とかいる?」
「……迷いますね。ちょっと考えます」
うむむとわかりやすく唸っている。
少しの間考え込む彼女を見ていると、やがて前髪を払って眼鏡をきゅっとあげ位置を直して、こちらに向き直った。
「一番は、エイですかね。でも、みんなかわいかったりかっこよかったりして大体好きですよ」
「じゃあ、エイのコーナー行ってみるか」
付近を見渡すと、今見ていた水槽の反対側、人だかりができている水槽の解説ボードにエイがいると記されていた。
「おおー。これがホシエイで、あっちがアカエイです」
どっちもかわいいです、と彼女は付け足す。
「……全部同じに見えるんだけど」
「違いますよー! ちゃんと見てくださいよ」
見る。が、そこまで特徴が掴めない。
「エイのどこが好きなの?」
「難しい質問ですね……。
フォルムもかわいらしいですし、ゆるい動きもなかなか」
「うん」
「でも、やっぱり、裏側の顔ですかね」
「……あれ顔じゃなくないっけ?」
「知ってますよー。目はちゃんと前にありますし」
知ってたか。
まあ、そりゃそうか。
「たとえばですね、お腹の顔が鬼みたいに怖い子もいれば、それこそゆるキャラみたいにかわいい子もいて、みんな違うんです。
そういうところが、すごく好きですね」
みんなちがってみんないい、的な。
「そっか」
「そうです!」
「写真、撮ってやろうか? ちょうど、後ろに二匹いるし」
「おおー。ぜひぜひ、お願いします」
手渡されたカメラで、片手でエイを指差し、もう片手でピースをつくる彼女を写真に収める。
どう写っているかはわからないけれど、(たとえば反射とか周りの暗さとか)
まあ、自分の視界にかわいい女の子がいるので良しとしよう。
その後なんとなく水槽を眺めていると、大量のイワシが目の前をぐるぐるとまわりながら通過した。
流れる音楽に合わせて、銀色のきらきらとした群れが縦横無尽に移動する。
「あれ、エサに操られてるらしいですよ」
「そうなの? てっきり音楽とか感じ取ってるのかと思ってたわ」
「えー……けっこう有名ですよー」
言われてみれば、感じ取ってたら取ってたで少し怖いような。
「……なんか、夢がない話だな」
「ふふっ、ごめんなさい」
ちょっと考えてみた。
イワシ。漢字で書くと鰯。
魚へんに弱い(弱し)が変化した説と卑しいが変化した説があると聞いたことがある。
いずれにせよ、群れていないと水槽内の他の魚に食べられてしまいそうだ。
なんだろう、人間とそこまで変わらない……?
むしろ、仲間が近くにいるだけ幾分マシにすら思えてしまうくらいのものだ。
「……とりあえず、イワシ最高だな」
「そうですね、おいしいですし」
彼女の返答を聞いて、普通水族館にいるときに美味しいという感情を抱くのだろうか、と思った。
水族館に来ると、綺麗だ、かっこいい、凄い、とかそんなレベルの感想しか出てこない。
「はるくんの好きなお魚さんは何ですか?」
「そうだな……サメかな、シャーク」
「あー、ちょうど目の前にいますね。
サメについてはあんまり良くわからないですけど、これはハンマーヘッドシャークですよね?」
「うん、そう。別名シュモクザメ」
「はるくんもなかなか物知りですね」
「まあ、かっこいいからな。男は誰でも一度はサメかっこいい! ってなるんだよ」
「へー、なんだか意外ですね」
「そう?」
「そうですよ。なんですかね、クラゲとか好きそうだなって思ってました」
「んー。まあクラゲも好きだけど」
「ですよね! この前はるくんのお部屋にクラゲのストラップがあったので、好きなんだろうなあって」
よく覚えてるな。
あさっては無いだろうけど(クラゲのストラップも机の横に掛けている状態だったと思う)自分の部屋の中身について言われるのはなんだか少し気恥ずかしい。
「それに、おっきいぬいぐるみもありましたし」
「あー、うん。あるな」
「私も、ああいうかわいい系のぬいぐるみが欲しいですね」
がっちりホールドされてたやつな。
そういえばあれっていつ買ってもらったんだっけか、あまり覚えていない。
「いつもはなにか抱いて寝てるの?」
「ええっ……? ど、どういうことですかそれは」
言うなり、なぎさはびっくりしたような表情になって、両手で肩を抱いて後ずさりした。
そんなにまずいことは言っていないはずだから、俺の言葉が足りなかったのか。
「や、朝見たときにぬいぐるみ抱いて寝てたから」
「あ、あー……。なるほど、そういうことですか」
「他にどういうことがあるんだよ……」
「まあいいじゃないですか、こっちの話です」
「そっか。で、どうなの?」
「えー……。そんなに気になりますか?」
なぎさは俺に向けて困ったように笑う。
「それなりには」
「そうですね……。
杏が中学校に入学するまでは、ずっと一緒の部屋で寝てました」
「おお」
「身長的にも柔らかさ的にも、ちょうどいい感じでしたよ」
たしかに、身長差は十センチ差くらいだった。
その身長差なら抱きしめられたらすっぽりとおさまるだろう。
その姿を想像している俺に、「でもですね……」と彼女は呟く。
「でも、春からは流石に毎日抱きしめられるのは嫌だって言われて。
別の部屋になってからはなんだか頼もうにも頼めなくて……」
「で、ぬいぐるみで我慢していると」
「そうなんですよ……。つらいです、おかげで寝起きが悪くなってます」
一緒に寝て、多分一緒に目覚めもする(しかも抱きしめられて)。
めっちゃ百合百合してんな、この姉妹。
姉と千咲もたまに抱き合ったりしているのは見るが、改めて考えてみるとすごいな。
男同士抱き合ってたら気持ち悪い(一般的)けれど、女の子同士なら見てていい気分になる。
「姉妹って、素晴らしいな」
「……はるくん。なにか失礼なこと考えてませんか?」
「んなことないぞ。もっと他のエピソードはないのか?
なぎさと杏がいちゃいちゃしてるやつとか」
「いちゃいちゃ、って……」
と彼女は怪訝そうな表情をした。
「うん」
「えぇっ……。大したことないですよ、私たち普通の姉妹ですし」
「んー、なんかあるだろ」
「はあ……。いや、恥ずかしいので話しませんよ。
これはプライバシーです、たぶん」
「そう言われると余計に気になるな」
「ダメです! この話はもういいですから、先に進みましょう。
……置いて行っちゃいますよ?」
そう言ってぷいっと顔を背けたものの、本当に先に行ってしまうというわけではなかった。
一方通行になっている一階のフロアももうすぐ突き当たりだ。
さっきのことについては、今度杏に訊いてみることにするか。
◇
周りと比べて比較的明るくなっている養殖場を再現したコーナーを抜けた後、外へと続く扉の前まで到着した。
外から差し込む日差しはまだまだ暑さを感じさせる。
壁にくくりつけてある解説ボードには『お魚さんたちと触って遊ぼう! ふれあいコーナー』と銘打ってある。
なぎさに軽く許可を取って外に出ると、ふれあいコーナーという名称通り、子どもからの人気が高いようで、親子連れが多かった。
すぐ近くの人が多い場所はビーチのようになっていて、子ども達がバシャバシャと水を掛け合っている。
「あついですね、やっぱり」
どこかで貰ったのか、水槽がプリントされたうちわを扇ぎながら、なぎさは言う。
「だな、さっきまでが天国だったみたいだ」
「あそこにいる子ども達、なんであんなに元気なんですかね?」
「若さじゃないかな」
「なるほど……。精神的な若さ、ですか」
「うん、そう。そんな感じ」
「じゃあ、若返りも兼ねて、私たちも入っちゃいますか?」
まあ、俺らくらいの年代で足だけ水に入れてる人は居ないことはないが。
なぎさはワンピースだからいいけど、俺は普通にズボン履いてるし。
どうぞ、と手で促すと彼女はふっと笑った。
「……やっぱりいいですかね」
「いいのか?」
「はい。考えてみたら、靴下脱ぐの面倒ですし」
「そっか」
「あっちのほうに行ってみましょう」
彼女が指をさした方向には小さめの水槽が並んでおり、年齢問わず様々な人がその前に並んでいる。
どうやら、『ふれあいコーナー』とはあそこのことを言っているらしい。
近付いていき、解説ボードを見ると、ドチザメ、ネコザメ、イヌザメ、イトマキヒトデ……などの海洋生物に触って遊べるということだった。
「サメですね」
「うん、サメだ」
「家で飼えそうなサイズ感ですね」
「そうだな……飼ってみたい気もする」
「どんだけサメのこと好きなんですか」
また彼女はふふっと苦笑に似た笑みをこぼす。
前に並ぶ人々はわーきゃー言いながら水槽の中の生物に触れている。
外気にあたって、しかもこんな暑い中で、大丈夫なのだろうかと少し心配になる。
自分たちが触れる番になり、二人揃って近くにいるサメに手を伸ばすと、
「わわっ……肌がザラザラしてますこの子!」
と彼女は声をあげた。
そりゃサメなんだからサメ肌で当然だろうと思ったが、初めて触る身からすれば、驚くのも無理はないのかもしれない。
「なぎさはどれがかわいいと思う?」
「えーと……。この子です、しましま模様でかわいいです」
「ネコザメか、かわいいよな」
「そうですねー。はるくんが触ってるサメさんはなんていう名前なんですか?」
「これはドチザメ、んであっちにいるのがイヌザメ」
「……ほー。やっぱり物知りですね」
「まあな」
「じゃあですね、そんな物知りのはるくんに質問です!」
びしっと俺の前に人差し指が突き立てられる。
「イヌザメってどうして犬ってついてるんですか?
犬を飼っている私からしたら、この子とみたらしは似てないですし、気になりますね」
「なんだっけな……」
サメ好き(自称)の俺からしたら知っていて普通のことであるかもしれないが、普通に考えてそこまで詳しく知っているわけがない。
ネコザメは頭部の突起がネコのようだ、だとか、目がよく見ると猫目である、といった理由から来ているというのは昔何かの本で読んだ記憶はあるが……。
「どうですか?」
「そうだな、まったくわからん」
「えー。じゃあ、私の勝ちですね」
「これ勝ち負けあるの」
「そうです、私の勝ちです」
「……どうしてか知ってるってこと?」
「いえ、知りませんよ?」
「じゃあどうして」
なんのことだ、と一瞬考えて彼女を見ると、彼女はえへんと胸を張って嬉しそうにしている。
……もしかして、こいつは学習しないのではないか。
とはいえ、胸を張った彼女に対して何度も照れてしまうような失態を犯すことはなく、調子に乗るなという意味を込めて脇腹を小突いた。
「お? やりますか?」
攻撃をされたのにも関わらず、彼女は嬉しそうに頬を緩めて、俺に反撃を返してきた。
水に入れていない側の手で頬をつねられる。
なぜか、抵抗するのも嫌だなという気持ちになって、されるがまま数秒間つねられた。
その反応が意外だったのか、彼女は首をかしげた。
「どうしたんですか?」
「あ、いや……。なんでもない」
「そうですか……」
「……」
「もしかして、不用意に触られるのが嫌でしたか?」
「ん? いや……」
「えっと……嫌じゃないならはっきり言ってください」
心配性か。
「嫌じゃないよ。お前の手ひんやりしてて気持ちよかったし」
「……おお、セクハラ発言ですか」
にひひ、とわざとらしく笑われた。
「いやいや、ちがうから」
「どうなんでしょうかね、あはは」
勝手に触られて喜ぶ変な人扱いされてしまったらしい。
……間違ってないし、もともとそう思われていた可能性もあるが。
前々からボディタッチは少なくなかったしな、仕方ない。なぎさだって悪い。
「はあ……。次の人待ってるみたいだし、そろそろ離して」
「……そうですね、そろそろお昼食べに行きますか」
「うん、そだな。さすがにさっきよりは混んでないよな」
「もうピークは過ぎたとは思いますけど、二時ですし」
「じゃあ、行くか」
ささっと最後にドチザメをひと撫でして、列から抜けた。
それにしても、もう二時過ぎか……。
自分が思っていたよりも時間が早く過ぎているらしい。
朝以降特に何も口にしてはいないが、大してお腹が空いたということも感じない(時間を気にしなければそうなることはたまにあるが)。
それもこれも、彼女と二人でいるからなのだろうか。よくわからない。
隣を歩きながら、他愛のないことを話しかけてくる彼女の横顔が、俺には眩しい……のは気のせいか?
仮に気のせいではなくて、そうなのだとすれば、俺ってだいぶちょろいんだなあと思う反面、なんだかどうしようもなく怖いとも思ってしまう。
今日は、いつもとちょっぴりちがった感覚で、いつもとちょっぴりちがった彼女で。
……でも、それももしかしたら、すべて俺の捉え方の問題で、何一つ変わっていないのかもしれない。
「ね、はるくん」
「……どうした?」
「さっきの、名残り惜しかったら、いつでも触ってあげますからね?」
「さっきの……って?」
「もう! はるくん私に触られて喜んでたじゃないですか」
「ああ、うん」
「えへへ、ついに認めちゃいましたね」
「……認めるも何も、俺は最初から嫌じゃないって言ってたし」
「え、ええと……。そうですか。じゃあ、触って欲しいときは遠慮なく言って下さいね、触ってあげますから」
そう言って彼女は得意げに眼鏡の位置を直した。
ドラマかアニメにありがちな直し方だな、と笑いそうになった。
「それさ、なんか……」
「……へ? なんですか?」
「なんていうか……字面だけ見ればいかがわしいニュアンスだよな」
「……は」
固まった。
と、同時に肩を強く叩かれる。
「ばかですか! 全然ちがいます!」
「ふっ、どうなんでしょうか」
さっきの彼女の真似をしてみた。
すぐにうわー、と冷めたような顔で見られた。
「あ、わかりましたわかりました。
頼まれても絶対に触ってあげませんからね」
「うん、まあ別にいいけど」
「……え?」
「どうした?」
「……もう一回言ってもらってもいいですか?」
「いや、別にいいけどって」
「……あ。へえ……そうですか。
そう言われたらそう言われたで、ちょっと不名誉な感じです」
「……それってつまりさ」
「い、いや、ちがいますよ?」
俺が言い終わる前に言葉を遮って、ぶんぶんと手を振り回して否定する。
続きを言おうとすると、また「わー」とか「あー」とかなんとか言って遮られてしまった。
「と、とにかく! ちがいますからね?」
それ半分……いや全面的に認めてるのと変わらないじゃねえかよ。
どうやら彼女の中に譲れない何かがあるらしい。
すぐにでも反応が欲しかったらしく、ずずいと身体を寄せてきた。
触れないと言った彼女から触れてきた、これはセーフなのか。
「わかった、わかったから」
「……そ、ですか。いまの話はナシで、お願いしますね」
なんだか墓穴を掘るとかそんなことの多い一日なのかもしれない。
発言には気をつけよう、コンマ数秒くらい考えてから発言しよう。
……いや、それはなんだか変か。もはや考えてないのと同じだし。
「うん」
「ほんとにですよ?」
「わかってるよ」
「……そうですか」
彼女はほっと胸をなでおろした。
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