ハルヒ「スティール・ボール・ラン?」【前半】
暇でハルヒ好きでジョジョ好きなやつ向け
初めて通った塾が隣町にあったので、否応なしに足が必要となり、二週間ほどかけて練習したのを覚えている。
それまでは徒歩圏内にとどまっていた生活は、自転車に乗れるようになったことでずいぶんと広がり、当時の俺は少しばかり興奮状態にあったよ。
何しろ、友人と二人で隣の県まで出かけたこともあったくらいだ。
そのちょっとした冒険の帰り道、土手の上から見た夕日がやたら綺麗で、ハルヒと出会ってからの出来事でだいぶ埋め尽くされちまっている俺の脳内メモリーの中でも、上位に食い込むほど印象的な光景と言っていい。
多分俺は、一生自転車に乗り続けるのだろうと思っていた。なので、十六になってすぐ、ハルヒが俺に免許を取れと言い出すまで、バイクなんてものは俺の人生に全く関係のないものだと思っていた。
「ゆくゆくは自動車の免許も取ってもらうけど、とりあえずバイクね」
ま、ハルヒが自分の思い付きや直感に任せてものを言うのは今に始まったことじゃない。俺はむしろ、ハルヒも年相応に、運転免許に憧れたりもするものなのかということを少し意外にさえ思ったが、何故そこで、自分でなく俺に矛先が向くんだかがわからない。
「運転は下々の者の仕事なのよ。自分から馬車馬にまたがるお姫様がいる?」
ついにお姫様になっちまったのか、お前は。ハルヒはそんなこと言いながら、視線をバイクのカタログから、俺の顔面へと移し、
「私が後ろに乗ってあげるんだから感謝しなさい。雑用から、運転手への格上げよ」
ハルヒの目論見を理解し、俺はため息をついた。以前、自転車の後ろに乗せたことで、味を占めちまったのかね。しかし、バイクの二人乗りと自転車の二人乗りでは全く訳が違う。
詳しく知っているわけじゃないが、傘を差しながら自転車を漕ぐことにさえ罰則がある今時分、そもそもそんなの、許されるのか?
「原付は二種ならタンデムも可能ですよ。ただ、取得後一年経過が条件ですね」
ああ、なんとなく、コイツはこういうことに詳しそうだと思っていた。古泉の発言に、ハルヒはつまらなそうに顔をしかめ、
「知ってるわよ。今すぐに乗せろとは言ってないわ。でも、免許を取るのは一秒でも早いほうがいいじゃない」
そう言いながら、カタログを机の上に置き、代わりに教材と思われる、分厚い冊子を取り出し、俺に突きつけるようにして差し出してきた。
「いい? 必ず一回で合格しなさい」
こいつが何かを思いつく度、俺のため息は深くなる。現時点で、東京湾くらいはあるんじゃないだろうか。
そうして臨んだ普通二輪試験、どうせならキッパリと不合格になりたかったが、どういうわけか、試験は俺にとって簡単だった。もしかして、ハルヒのトンデモパワーによって、試験問題が書き換えられていたんじゃないだろうな。
結局、ハルヒの言った通り、俺は一発で試験を合格し、普通二輪免許を手に入れた。これが学校の試験のほうでもそうできたら、喜ばしいことこの上ないんだが、現実はそう上手くはいかないわけで。
古泉のツテのおかげで、バイク自体も格安で買うことができたし、ハルヒの目論見にまんまとハマってしまった形ではあれど、なんだかんだ、この機会がやってきたのは悪いことではないと、俺は思っていた。
あの日までは。
「これは私専用のメットよ」
アルバイトと受験で、ほとんど休んだ気がしなかった夏休みが明け、九月になった初めの日。
ハルヒは何やら丸っこい荷物を抱えて教室に現れ、満面の笑みでその包みを開けて見せた。中に入っていたのは、淡いブルーの、原付用のヘルメット。
「お前、まだ一年もあるってのに」
俺が苦笑すると、ハルヒは一本指を俺に向けて突き出し、
「『まだ』じゃない、『もう』一年しかないのよ。あんた、それまでに事故ったり免停になったりしたら縛り首だからね。あんたの後部座席は、私……と、SOS団員専用なんだからね」
と、遠足前日の小学生のような笑顔を浮かべた。そんなにバイク移動が楽しみなら、回りくどいことをせずに、自分も免許取れっての。
「ねえ、今日が納車日だったわよね? 私も一緒に行くわ」
「はあ? 何でだよ」
「あんたのバイクは、私たちSOS団の労苦の結晶なのよ。団長として、きちんと迎えてあげる必要があるわ」
駄目だこりゃ、もはやこいつは、頭の中がバイクのことでいっぱいらしい。もしさっき言ったような、免停だの、事故だのということになったら、本当に縛り首にされかねないな。
子供かっつーの。
その名前は、どこかで聞いたことがある。何かの曲のタイトルだったか。ハルヒがその曲を知っていて言っているのかどうかは知らんがね。
つーかな、俺についてくるのは勝手だが、バイク屋から駅まで結構あるぞ。お前、あわよくばもうタンデムしようと思ってないか。
「馬鹿ね、バレたら減点じゃない」
と言いつつ、唇を尖らせて、いかにも残念そうな表情を作るハルヒ。
「どうせ来るなっつっても来るんだろ。勝手にしろ」
「うん、勝手にする!」
メットをかぶって上機嫌なハルヒは、始業式までの間中、俺にバイクについての話題を振り続け、その後の式とHRが終わると同時に、部室へと全速力で駆けていった。
「微笑ましいですねぇ」
荷物をまとめ、廊下へ出た俺を待っていたのは、古泉だった。返答するのも面倒なので、俺は代わりに一つため息をつく。
「彼女が何かに夢中になるのは、良いことだと思いませんか? 世界の安寧のためにも。事実、彼女は夏休みの中頃から、閉鎖空間を発生させていません。それに、今回の件は、あなたにも悪いことばかりではなかったでしょう?」
まあ、楽しみにしている気持ちがゼロだとは言わないけどさ。しかしつくづく思う。そんなにバイクに興味があるなら、自分で免許を取れ、とばいい、と。
「知らん。何をだよ」
「まあ、いいでしょう」
古泉は勝手な熱を吹きながら、ひとしきりニヤついた後、
「今日の団活は欠席させてほしいと、涼宮さんに伝えておいてください」
と、俺に缶コーヒーを差し出しながら言った。
「バイトか?」
「いえ、いつものではありませんよ。涼宮さんと無関係ではありませんがね。さっきも言いましたが、涼宮さんは今、この上なく上機嫌ですから」
んなこた、見ればわかるけどさ。
「では、僕は失礼します。くれぐれも、彼女の機嫌を損ねないようにお願いしますよ」
古泉は一瞬、俺から視線を外した後、手を一振りし、九組のある方角へと去っていった。俺がその背中を見送った後、部室に向かうべく振り返ると、
「な、長門か」
いつの間にか、学生鞄を右手にぶら下げた、長門が立っていた。古泉と俺の会話が終わるのを待っていたらしい。古泉がさっき一瞬視線をそらしたのは、長門に気づいたからだったのか。
「……バイクを引き取りに?」
長門は、どこか眠たそうな瞳でそう訊ねかけてきた。その発言が、脳に染み渡るのに少し時間がかかる。
「…………」
俺がため息交じりに返答すると、長門はすこし溜める様に、俺の顔面を凝視した後、
「気を付けて」
と、短く口にした。
背筋に、さっと、嫌な冷たさが走る。
「気を付けるって……まさか、何か、起きてるのか?」
「そうではない」
俺が、脳裏に走った、嫌な予感を言葉にすると、長門は意外にもあっさりと、それを否定し、
「ただ……気を付けて行ってきて」
母親かっつーの。
無駄に焦っちまった俺は、ワイシャツのボタンを一つ外し、一つ息をついた。ああ、わかった。ありがとうな。
と、そこで長門は一瞬、視線を足元に落として、思い出したかのように、
「私も今日は欠席する」
「お前も?」
「少し、調査が必要」
「説明は難しい。けれど、少し……奇妙」
「奇妙? ……何が、だ?」
「引力」
発言だけを聞くと、俺が電波ちゃんとしゃべっているように見えるかもしれないが、そうではない。長門の発言には必ず意味があるのだ。
「多分、大丈夫」
最後にそう言った後、長門は音もなく俺に背を向けて、古泉が去っていったのとは逆の方向へと歩いて行った。
「引力……?」
一人残された俺は、長門が残したその単語を口にし、首を捻った。
古泉、長門と会話していたのはほんの数分の事だったと思うが、その間に、周囲は帰宅する生徒や、部活動へ向かう生徒たちで溢れかえっていた。
どこか狐につままれたような違和感を抱えたまま、俺は部室でハルヒと合流した。ハルヒはまだメットを被ったまま、団長席にふんぞり返っていて、俺が、長門と古泉の欠席を伝えると、
「あら、みくるちゃんもなのよ。みんな、休みボケしてるんじゃないでしょうね」
と、口をへの字に結んだ。
長門は何か困惑しているような様子だったし、古泉もハルヒに関係する何らかの理由で欠席するらしい。もしかして、朝比奈さんも何か―――長門の言うところの、『奇妙なこと』に関する理由で欠席しているのだろうか。
いや、考えすぎだろう。朝比奈さんはもう三年なのだから、忙しいだけなのだと思う。
と、ハルヒは椅子から腰を上げ、キラッキラの瞳で俺を見た。
「だったら、今日はもう終わり。バイクの引き取り、行きましょ!」
やれやれ、今日のハルヒには、何を言っても無駄なようだ。思わず苦笑がこぼれる。古泉の言う微笑ましさってのが、俺にも少しだけ分かったような気がしたぜ。しかし、まだ時間は昼前だ。引取りの予約時間まで、結構あるぞ。
「お昼も兼ねて、いつもの喫茶店で時間を潰せばいいじゃない」
二人で喫茶店か。どうせまた俺が奢ることになるんだろうな。
ふと、前にもそんなシチュエーションがあった様な気がして、俺は記憶を探る。そう、あれは去年、俺がハルヒと出会って、そう時間の経たない頃、古泉、長門、朝比奈さんが不思議探索を欠席した時の事だったっけな。
あの時は、あの三人が何を思ってか、俺とハルヒを二人だけにする為に共謀したらしいが、もしかして今回も……
「ほら、さっさとする!」
ハルヒはいつの間にか俺の隣をすり抜け、出入り口のドアに手をかけながら、俺が後に続くのを待ち構えていた。再び苦笑を漏らしながら、俺がハルヒに続き、廊下に出ると、ハルヒはいそいそとドアに施錠をし、昇降口に向けて大股で歩き始めた。
置いて行かれないようにするのに少し骨が折れたさ。
しばらくして。俺のもとに無事、初代愛車がやってきた。後部座席とタンデムステップのついた新車で、淡い水色の車体に、黒のステッカーで『SOS』の三文字。もちろん貼ったのはハルヒだ。店で引取りの手続きをしている間に購入したらしい。
本当なら慣らしを兼ねて、家まで乗って帰る予定だったんだが、さすがにハルヒを一人残して俺が帰ってしまうのは気が引けたので、駅まで送り届けることにし、俺たちは新車を見せびらかすような思いで、のんびりと市街地を闊歩していた。んー、いい気分。
「そのステッカー、俺にもくれよ」
俺がそう口にすると、ハルヒは一瞬キョトンとした後、霧が晴れるかのように明るい表情を作り、
「もちろんよ」
と、学生鞄と一緒に手にぶら下げていた、バイク屋のロゴの入ったビニール袋の中身を手で探り始めた。
オプションでついてきた俺のメットは、車体同様ちょうどハルヒが被っているものと似た色合いの水色の無地のもので、何かしら目を引くワンポイントを足したいと思っていたところだった。
車体のほうにも、でかでかとSOSと貼られているのだから、この際統一しておこうと思ったんだ。他意はないさ。
見れば、ハルヒの被っているメットのほうにも、やはり同じものが貼られている。これじゃまるでペアルックだな、なんて考えて、俺は勝手に顔を熱くした。何考えてんだ、俺。
「はい、これ―――」
ビニール袋から数枚のステッカーを取り出し、俺に差し出すハルヒ。その時、俺に向けられようとしていた視線が、不意に逸れ、俺の背後の何かに向けられ、
「キョン! 後ろ!」
直後、ハルヒの表情が一瞬で青ざめ、竦みあがった。まるで熊にでも遭遇したかのようなその反応の意味が分かったのは、ハルヒの視線の先を追い、俺が背後を振り返った時だった。
俺とハルヒの目の前に、視界を覆うほどに巨大な鉄の塊が存在した。それが、巨大な荷台を備えた重量級のトラックであることを理解するのに、数秒ほどの時間を要したよ。
その空間は、さっきまで俺とハルヒが、愛車を転がしながら通り過ぎてきたはずの空間であり、トラックなど影も形もなかったはずだ。もし高速で走り寄ってきたというのなら、何かしらの物音がするはず―――
音もなく現れたその巨大な車体は、荷台の側面にこれまた巨大な、『星条旗』が描かれていて―――あろうことか、その星条旗が、俺たちに向かって倒れこもうとして来ていたんだからただ事じゃない。
「ハルヒ、逃げろ!」
口をついて出たのはそんな言葉だった。目の前に迫りくる星条旗から視線が外せない―――おそらくあと三秒もかからないうちに、俺たちはこれに押し潰される。
「キョ―――」
すぐそばにいるってのに、ハルヒの声がやけに遠く感じられた。その声が、たった三文字の俺の通称を呼び終える前に―――視界が闇へと変わった。
轟音が鳴り響くかと思いきや、俺が体に圧迫感を覚えた瞬間、音らしい音は何も聞こえなかった。ただ、ハルヒの声が何かにかき消され、次の瞬間、俺の体は奇妙な浮遊感に包まれた。
もしかしてあれか、霊体が体から抜けちまって、俺の魂は早くも空へと昇ろうとしているのか? なんて考えたが、その感覚はほんの一秒か二秒ほどで消え、その後、重力というものが、再び俺の体にのしかかり始めた。
体に痛みらしい痛みはない。いつの間にか固く閉じていた瞼を、恐る恐る開くと―――眼前に、気が遠くなるほど高く、鮮明な星空が広がっていた。
「……何、だ……これ」
わずかに唇を動かすと同時に、体に平常どおりの感覚というものが戻ってきた。九月の午後にしては冷えた空気。背中や尻に、ごわついた大地の感触がある。
上体を起こそうとしてみると、特に違和感なく起き上がることができて、突如現れた謎の星空から、視線を周囲の空間に移すと、まったく見覚えのない、砂漠らしき景色が広がっていた。
砂漠、なんて光景を実際に目にしたのは、いつだかカマドウマの君臨する異次元に引っ張りこまれた時以来だ。しかし、今回はその時とは異なり、空に太陽や、周囲に明かりらしきものがほとんど見当たらない。
「キョン……?」
呆気に取られていた俺のすぐそばで、聞き覚えのある声がした。声の方向を振り返り、暗闇に目を凝らすと、ハルヒが俺の傍らで地面に伏している。
「ハルヒ……大丈夫か?」
逡巡の果てに、そんな文句が口をついて出た。しかし、現状を前にして、大丈夫だと断言できる奴がどこにいるってんだ。トラックに押しつぶされたかと思ったら、次の瞬間、夜の砂漠らしき空間にいる。それが今の俺たちが置かれている状況だ。
まさか、ここは死後の世界か? しかし、星空の下の夜の砂漠などという形態をとった死後の世界があるなんて話は、噂話にも聞いたことがない。
ハルヒらしき人物から視線を外し、自分の手のひらを見てみると、そこには砂粒ですこし汚れた、いつも通りの俺の手のひらが有った。
と、ハルヒの声に、俺は再び視線を声のする方向へ移す。暗闇に目が慣れていないせいで、その人物が本当にハルヒなのかが今ひとつわからない。よく目を凝らし、その姿を見直してみると―――
「……きゃあっ!? は、裸!?」
「なっ……」
ようやく、その人物がハルヒであると断定できるくらいに目が闇に順応して来たところで、俺は目の前のハルヒが、一糸纏わぬ姿であることに気づいた。
同時に、ハルヒも、自分が何も身に着けていないということに気づいたらしく、熱せられたアスファルトの上で跳ね上がったカエルか何かのように、体を起こし、両腕で自分の体を覆い隠し、
「み、見んなっ!」
暗闇越しにでもわかるほどに表情をこわばらせ、でかい声で俺を叱責するハルヒ。言われるがまま、俺はハルヒの体から視線を外しましたとも。
何だ、この展開は。何がどうなってこうなっているって言いやがるんだ―――ここはどこで、俺たちは何なんだ。
「えっと……私たち、なんで……ここは?」
困惑した声色でハルヒが呟く。しかし、俺にそんな問いかけをされたって、すぐさま答えを返せるはずもない。どう返答すべきか迷い、視線を周囲に泳がせていると……ハルヒと俺から数メートル離れた場所に、
「あ……『シックス・センス・アドベンチャー』」
俺が気づくと同時に、ハルヒもその存在に気付いたらしい。砂粒でできた大地の上に、俺の初代愛車が、子供にほったらかしにされたおもちゃのように横たわっていた。
さく。と、ハルヒが砂の上を移動する音がする。視線を向けようとして、ハルヒが真っ裸だということを思い出し、あわてて目をそらす。
「壊れてない……壊れてないわよ、キョン!」
俺の愛車の車体に指を添わせながら、ハルヒがこれまたでかい声で言った。そう言や、俺たちがあのトラックに押しつぶされる時にすぐそばに有ったのだから、普通に考えれば、愛車は粉々になっていてもおかしくないな。
しかし、だとするとますますここはどこで、何がどうなっているって言うんだよ。最近の死後の世界にはバイクの持ち込みサービスなんてものがあるのか?
正気に戻ったかのように、ハルヒがか細い声で呟く。
ハルヒの夢と言うと、すぐに去年の春の事例を思い出してしまうんだが、あの時は確か、ハルヒは深層心理で、あの灰色の世界を自ら望んで作り出していたって話だったはずだ。
じゃあ、今回も? 少し性質は違うが、こんな星空も、こんな砂漠も、現実の日本のどこにも存在しないだろう。
異世界。なるほど、その可能性は捨てきれない。いや、むしろ現時点で最有力候補と言っても良いじゃないか?
「ああ……そう、かもな」
ここがハルヒの作り出した異世界だと考えると、俺の思考は急に慎重になる。また、あの青い巨人がどこからか現れて、俺たちを追い回すという可能性も出てくるしな。
しかし、まあ―――結論から言って。その方がよっぽどマシだったと、俺は後ほど思うことになるだな、これが。
「キョン、この音」
愛車の車体に貼りついていた裸身のハルヒが、不意に視線を周囲に配り、そう口にした。音。そういえば、視覚的な驚きに見舞われすぎて、音までは気を配っていなかった気がする。
唇に一本指をあてるハルヒに倣い、冷たい夜の砂漠に聴覚を澄ませる。
ザグ、ザグ。
俺には、その音が、砂の大地の上を何かが移動しているような音に感じられた。そして、その何かは、俺の耳がいかれてさえいなければ、こちらに向かって移動してきているようだ。
「……これって」
ハルヒが何を思ったかは俺の知り得るところではないが、大体俺と似たようなことを考えていたんじゃないだろうか。この奇妙奇天烈な状況で、何かが俺たちの方へと近づいてきている。それも―――
ザグザグザグザグッ
「ひっ―――」
―――無数にだ。
展開が急すぎて、今まで実感がわかなかったが―――これは、『ヤバいやつ』だ。
一瞬の間を置いた後、ハルヒがそんなことを叫びながら、俺の愛車のグリップに手をかけ、それをうんせ、うんせと、必死に引っ張り出した。束の間、ハルヒが何をしようとしているのかを理解できず、呆けた俺に、
「逃げるのよ! 車体を起こすのを手伝いなさい、何か来るわ!」
ハルヒが叱責の声を上げ、ようやく俺は理解した。
「逃げるって……そいつでかよ!?」
「他に何があるって言うのよ! 早く!」
ハルヒは俺の愛車―――『シックス・センス・アドベンチャー』だったっけか? そいつに乗って、この状況から脱しようってのか。数秒、俺の頭にいろいろな事案がめぐる。砂漠の上を走行する際の注意点とかあったっけ?
事故った時の罰則は? 点数で言うといくつの減点になるんだ?
しかし直後、ようやく俺も、その現実的思考がただの現実逃避であることに気が付く。現実は―――今、俺たちが直面しているこの状況だ。交通ルールも罰則規制もありやしない。
俺はハルヒに駆け寄り、愛車の車体を一息に引っ張り上げ、なんとかかんとか、二つのタイヤを大地の上に並べた。
メットを探すこともせず、その車体に跨り、アクセルを吹かすと、俺の愛車はハルヒの言った通り壊れてはいないらしく、マフラーから熱気を放出するとともに、ドルドルと音を立ててアイドリングし始めた。
「ど、どっちにだ!?」
後部座席にハルヒが跨ったのを車体の揺れで感じながら、俺がハルヒに向かってそう問いかけると、
「音がしたのは……あっちから!」
と、ハルヒはどこかしらを指で示したようだったが、二人縦に並んでバイクにまたがっている状態からその指の示す先を確認するのはなかなか難しい。
「右よ、右に逃げて!」
業を煮やしたかのように、背後から漠然とした指示が飛んだ。この状況でも、ミラーの向きを気にしている自分が優等生過ぎて憎らしくなりながら、俺が右方向にハンドルを切ると、真新しいタイヤが砂粒の大地の上を転がり始めた。
あと、このてんやわんやで忘れそうになるが、ハルヒは今素っ裸である。
素っ裸のハルヒが、俺の後部座席に跨り、タンデムステップを踏み、俺の体に全力で両手を回していた。いろんなものが背中に当たるが、今はそれどころではない。
ザグザグザグザグッ
何しろ、俺たちを追い立てているこの音は、こうしてバイクを走らせ始めた今でも耳に届くほど、俺たちに接近してきている。
明かりがないため、そいつらが一体何者でどんな姿をしているのかは窺い知れないが、少なくとも、俺たちと友達になりにやってきたわけじゃないということくらいならわかる。
「キョン、追いつかれるわよ―――ッ! もっと飛ばして!」
「無理だ、これ以上は……俺、教習所でも、こんな速度で走ったことねえんだよ!」
「でも、こいつら……」
どうやら運転している俺よりも視界の自由の利くハルヒは、俺たちを追い立てるこの謎の『何か』が、一体何者であるか認識できたらしい。
ここでようやく、俺はさっき丁寧に向きを調節したミラーの存在を思い出し、その鏡面に移る何かの姿を、一瞬、視界の端で捉えた。
それは、一見すると鳥か何かのようにも見えた。こう表現すると可愛らしいが、鳥といっても、ダチョウだのナンタラクイナだのといった全長が人間と同等か、それ以上にも上るような図体のでかい連中の事な。
しかし、ほどなくして明らかになったそいつらの正体は、そんなレベルのモノじゃなかった。こいつらの事ならよく知ってるさ。映画の世界や図鑑だとかでさ。
こいつらは―――
「『恐竜』よ、これ! 標本でも模型でもない―――『恐竜』がいるわ、キョン!」
この状況でもどこか興奮した様子で、ハルヒがその名を叫んだ。しかし―――しかしだ。こんなことをわざわざ口頭で説明する必要はないんだが、それでも、言わせてくれ。
「恐竜が、なんで俺たちの時代にいるんだッ!」
「知らないわよ―――でも、恐竜よ! 小さいけど、本物の恐竜なのよ!」
俺は再びミラーに視線を送り、改めてそいつらの姿を確認したが、なるほど小さい。と言っても、可愛らしい意味での小ささでなく、この手の形態の恐竜のわりに、全体的にミニサイズというだけの話だ。
体長はせいぜい俺たち人間と並ぶ程度か―――とにかく、本来ジュラシックパークに出て来たようなサイズでいるはずの連中だと考えたら、確かに小さいようにも思える。
ついに、俺たちの後方で、そいつらのうちの一体が声を上げた。いわゆる、俺たちがイメージする恐竜の鳴き声というものとは少し違う、人間の声帯が無理をして発しているような、耳に詰まる奇妙な鳴き声だった。
「何これ……私たち、タイムスリップしたの!?」
ハルヒが口にした単語は、俺がさっきから何度か頭に浮かべているものと同じだ。よくあるじゃないか、映画でも、現代人が大昔にタイムスリップしちまってっていう展開はさ。
だが、俺の知る限り、恐竜は砂漠にいない。それにこんな手ごろなサイズで、この手の姿―――ティラノサウルスみたいなステレオタイプな姿をしている恐竜がいたかどうか、断言はできないが怪しい。
連中は、少なくとも三匹はいて、スキップするような足取りで、しかし法定速度をはるかに上回るスピードで走っている俺の愛車の背後を、的確に追跡できるスピードで、俺たちに駆け寄ってきている。
おい、どうなってやがる。本当に夢でも見ているんじゃないだろうか。ハルヒの奴のやらかすレベルの夢でなく、俺が普通に毎晩見るような夢だ。しかし、そのカテゴリに収まる夢だとしても、これは間違いなく悪夢だぞ。
「キョン、前!」
甲高い声でハルヒが叫ぶ。前? ミラー越しに見る背後の光景に気を取られすぎていて、言われてみればここ数秒、前方を確認していなかったかもしれない。
俺が視線を眼前に投げると―――これまた、困ったことに。
『馬』がいた。
まず、この時点で、俺たちがタイムスリップしてきたのが、ジュラ紀だのなんだのではないことがわかる。その辺の時代に、現代と同じような姿をした馬はいなかったはずだ。多分。
そして、その馬には『人』が乗っていた。闇に隠れて見えにくいが、そいつは原始人とかではなく、服を着て、帽子をかぶっている―――少なくとも今のハルヒよりよっぽど文明的だ。
そいつと俺たちとの距離は40mほどだろうか。その人物は馬を走らせているわけではなく、砂の大地の上に立ち止まり、俺たちの方をじっと見つめているようだった。
―――で、極めつけに、
「止まれ。君らはレースの参加者か? 見覚えがないな」
と、俺たちにも理解できる言語で、そう口にした。しかしこの時点で、その言葉を理解するまでの余裕は、俺たち二人には残されていなかった。
ハルヒの声に、再びミラーに視線を移すと、暗闇の中、俺たちのすぐ背後まで恐竜たちが迫っていた―――限界だ。
「くそ、何なんだこいつらは―――! どうにかしてくれ―――ッ!」
脳内を埋め尽くす焦燥と混乱が、叫び声となって俺の口からこぼれる―――と、同時に。
「…………」
俺たちの前に現れた人影が、動いた。ザクザクと砂粒を踏み固める音とともに、そいつは自身を乗せている馬を走らせ、俺たちとの距離を詰めるようにして、こちらへと接近し始めたのだ。どうやら俺たちとすれ違おうとしているらしい。
「何を―――」
「『水場』があった」
馬が大地を蹴る音に紛れて、謎の馬乗りが言う。そしてそいつは、腰のあたりを探ると、そこから片手で扱える程度の大きさの何かを取り出した。俺たちと馬乗りの距離が見る見るうちになくなっていき、ついにすれ違う。その直後、奇妙な音が聞こえた。
ブジュウウ。残り少なくなったチューブ入り調味料を無理やり絞り出したような、粘り気のある音だ。それとほぼ同時に、馬が停止する音がする。
「恐竜が―――」
次いで、ハルヒの声。なんだ、恐竜がどうした。あの馬乗りが恐竜にやられちまったのか? と、ミラーに視線を送ると―――
「倒れたわ……三体とも」
俺たちに迫っていた影が―――ない。そこには大地に倒れ伏した黒い三つの影と、止まった馬の上からそれを見下ろす、あの馬乗りの後姿があるだけだった。
……俺たちは、助かったのか?
呆気に取られる俺とハルヒ。
「脚と脚を繋げた」
と、馬乗りが呟くような音量で言い、こちらを振り返り、
「これからわたしの『クリーム・スターター』で『窒息』させる。まだ近づくなよ」
そう口にすると同時に、馬から降り始める。見ると確かに、大地に倒れた影はまだじたばたともがいているようだ。脚と脚を繋げた? この恐竜たちの?
と、次の瞬間、
どろり。
馬乗りの腕―――例の『何か』を持っている方の腕だ―――が、『溶け』た。
「え……?」
俺の背後でハルヒが声を漏らす。目の錯覚か、暗闇のなかでの見間違えかと、数度瞬きをする。しかし、どう目を凝らしても、馬乗りの腕が途中から途切れているという目の前の光景に変わりはなかった。
見ると、馬乗りの足元には、『何か』を握りしめたままの腕の先部分が、ぼーっとしていて途中からへし折れ、地面に落ちたアイスキャンデーのように落ちている。これだけでも超常現象なのだが、その上、
ズルゥッ
「ひ……」
さすがのハルヒも絶句。
無理もないと思う。地に落ちた馬乗りの腕が、地面の上を這うようにして。動き出したのだから。
「こいつらは元は『人間』だろうが、生きているうちは元には戻らない。可哀そうだが始末する」
ブジュウウ。と、先ほど聴いたものと同じ音がした。その音が、馬乗りの手の中の物から、何かが噴き出す際に鳴っている音なのだと、ようやく気付く。
馬乗りの腕は、倒れた恐竜たちの元で、何度かその奇妙な音を鳴らした後に、再びズルズルと大地を這い、やがて馬乗りのところまで戻って来て、先ほどの映像を逆回しにするかのように、馬乗りの腕に吸い寄せられた。
どんな手品? これ。なんの冗談? あれ。
「君らはレースの参加者じゃなさそうだな。旅人か? まさかハダカでアリゾナ砂漠越えをしようとするヤツがいるとはな」
俺が頬に汗をにじませていると、馬乗りが再びこちらを振り返り、そんな言葉を投げてよこしてきた。アリゾナ砂漠。ここは、アリゾナ砂漠なのか? 俺の記憶が確かなら、それはアメリカ大陸のどこかだったはずだ。
と、今の馬乗りの言葉で思い出す。俺が後ろに乗せていたハルヒは、生まれたままの姿だったと。
「え……あっ」
声とともに、ハルヒが俺の愛車から飛び降りる。さっきまで背中にいろんな柔らかさを感じていたはずだが、この騒ぎでどうにも覚えていない。もったいないねーな、ちくしょう。
「変わった乗り物だが、それは君の『能力』か?」
馬乗りが言う。能力って何だよ。俺は何の能力も持たない、ただの人間だぞ。俺が黙っていると、馬乗りは少し首を傾げ、
「いや、なんでもない。どうやら君らは本当にただの旅人らしいな」
ちげーっつの。
「私たちは……えっと、迷い込んだっていうか……ここはアリゾナ砂漠なの? 『レース』って何?」
と、ハルヒが言うと、
「『スティール・ボール・ラン』を知らないのか? このレースのことなら、アメリカ大陸にいるものなら誰だって知ってる」
なんだそりゃ、大玉転がしか?
「まあいい、とにかく危ないところだったな。わたしは君たちの声と、その乗り物の音が聴こえたから来てみただけだ。そうしたら、『水場』にたどり着けた。その点では君らに感謝している」
馬乗りは、俺とハルヒの顔を見比べた後、
「迷い込んだと言ったな。見る限り、君らは知らないことが多いようだ。少しなら質問に答えてやる。わたしとこの馬が、さっき見つけた水場へ帰るまでの間だけな」
と、馬の手綱を引っ張った。ぶるる。と、馬が息を吐き、砂の大地を蹴りながら歩き始める。俺たちについて来いと言っているらしい。
「それとおせっかいだが、そっちの君は、何か着た方がいい。砂漠の夜は冷えるぞ」
「え、あ……ッくしゅっ!」
そう言われて初めて、俺は周囲の気温がかなり低いことに気づく。考えてみれば、ハルヒは裸で、俺は制服の夏服を着ているだけだ。
「……着るものがないなら、貸してやる」
馬乗りはそう言って、ハルヒに衣類が入っていると思われる布包みを放り投げた。ハルヒは体を覆っていた腕を放し、その布包みを受け取る。
「あ、りがとう……えっと、あなたは」
「わたしの事なら『ホット・パンツ』と呼べ。もう馬を休ませる時間だ、着替えが済んだらさっさと行くぞ」
低い声でそう言い、馬乗り……ホット・パンツはハルヒに背を向けた。慌てて俺もそれに倣う。やがて、着替えを始めたハルヒのたてる布ずれの音を聴きながら、俺は一体何からホット・パンツに訊ねるべきか、思考を巡らせた。
どうやらここはアリゾナ砂漠だという話らしい。しかし、アリゾナ砂漠に、人と同じくらいの体格の恐竜が生息しているという話は聞いたことがない。それに、この不愛想な馬乗りの装いを見る限り、ここが俺たちの知る『現代』だとも考えにくい。
いったい俺たちの身に何が起こったってんだ。助けてくれー、長門。何とかしろー、古泉。
目覚めたときに、自分がどんな状況にいるのかを咄嗟に思い出せなくて、目の前にハルヒの顔面があることにビビり、俺は思わず声を上げた。
「やっと起きたわね。暢気なものね、こんな状況でも」
ハルヒはすこし冗談じみた口調でそう言うと、
「いい加減目を覚ましなさい。ホット・パンツはもう行っちゃったわよ。私たちに必要最低限のものをくれてね」
その言葉を受け、俺の意識もようやく自分たちがどういった立場に置かれているかを思いだす。
―――倒れ掛かってくる星条旗。忍び寄ってくる恐竜。不愛想な馬乗り。それらが俺の夢の産物であったらどれほど楽だっただろうか。
「……あれは、夢じゃなかったのか」
俺が、何の確証もない、ただ自分の望みを反映させただけの文句を述べると、ハルヒは、
「しっかりしてよ、キョン」
と、眉間にしわを浮かべ、手のひらを俺の肩にバシ、と軽く叩きつけた。
「俺はいつの間に眠ってたんだ?」
「テントにつくなりバタンキューよ。ホット・パンツの話をまともに聴きもせず、ね」
頭に軽い痛みを覚え、俺はこめかみを抑えた。だんだんと昨夜の記憶が確かになってくる。そう、俺たちはホット・パンツという名の馬乗りに、この仮のキャンプまで誘導され……そこで夜を明かすことになった。
大地に横たわっていた体を起こし、あたりを見回す。そこは、ホット・パンツが用意してくれた、予備だという簡易なテントの中で、薄い布地の向こうには太陽の光らしき気配があった。どうやら、朝が来たらしい。
俺の傍らにぺちゃんと座ったハルヒは、声のトーンを少しだけ下げ、断りがたい物々しい口調で話し始めた。
「どうやら私たちは、本当にタイムスリップしてしまったらしいわ。ホット・パンツが言っていたの。今は西暦1890年で、ここはアメリカのアリゾナ砂漠だって」
1890年。ざっくりいって百二十年前か。あの馬乗りが冗談を言うタイプだとも思えない。どうやら―――それが真実で、これが現実らしい。俺がマリアナ海溝級に深いため息をつくと、ハルヒは、
「ちゃんと聴きなさい。途方に暮れるためにあんたとおしゃべりしているわけじゃないのよ」
と、すこし眉を吊り上げながら俺を叱責した。悪い、と短く謝辞を述べ、俺はいつの間にか額に滲んでいた汗を手首で拭う。
「でもね。ここは『ただの百二十年前』じゃないと、私は思うわ。だって、あんたも見たでしょ? あの恐竜たちや、ホット・パンツの『能力』を」
ハルヒの言葉を受け、俺の脳裏に、昨夜目の当たりにした超常現象の数々が蘇る。砂漠を跳ねまわる人型サイズの恐竜に、腕をデロデロ溶かすホット・パンツの冗談じみた特技(?)。
「あんな超常現象は、私たちのいた世界には存在しなかった。残念ながらね。だから私は、ここを『異世界』だと判断するわ」
異世界。
そうだ、その思考には昨夜の俺もたどり着いていた。この世界が、ハルヒの力が作り出した別世界……閉鎖空間で、俺は例によってそこに呼ばれちまったのではないか、という思考。
しかし。この世界と以前ハルヒに連れていかれたあの灰色の世界は、いろいろと性質が違うように思える。ここには青い巨人はおらず、代わりに、お手軽サイズの恐竜たちと、不愛想な馬乗りがいた―――こんな世界をハルヒが望んで作り出すだろうか?
しかし、ハルヒのトンデモパワーが働く以外で、こんなぶっ飛んだ世界旅行が実現するとも思えない。以前とは経緯は違えど、今回も何らかの形でハルヒの能力が絡んでいると考えるのが自然なんじゃないだろうか。
「……話をつづけるわよ」
咳ばらいを一つ挟んで、ハルヒが再び口を開く。ハルヒの言う『異世界』と、俺の頭に浮かんでいる『異世界』とは少し意味合いが違うが、要するに言いたいことは一致していると思う。
「ここが異世界なら、元の世界に帰る方法が、かならず、どこかにあるはずなのよ」
つまり、以前俺がハルヒにやったアレのように、ハルヒの力を発動させるキーとなる『何か』を見つけ出せば、俺たちは元の世界に帰り得る。
しかし。しかしだ。以前は長門と朝比奈さんからのヒントがあって、俺たちは無事その『正解』にたどり着いたが、今回はまるでノーヒントだ。
その上、状況がシビアすぎる。アリゾナ砂漠。1890年。『正解』を探す以前に、俺たちは果たして生き延びられるかどうかって話だぞ。そもそも、俺たちはどっちに進めばいい。周囲360度は砂の大地で、行動の指針にできるようなものは何もない。
「……あんた、引力って信じる?」
不意に、ハルヒが、固くこわばっていた真顔を少しだけ和らげ、そんな発言をした。
「引力だ?」
オウム返し。その単語なら―――最近聞いたぞ。確か、長門が口にしていた。確か俺たちがバイクを取りに行くという話で、引力が奇妙だとかなんとか……
「つまりね。この世界には、あの恐竜たちや、ホット・パンツの能力のような……『引力』を持っている現象があるんじゃないかと思うの。私たちが、この世界にやってきたことも含めて」
ハルヒはそう言うと、マントの中から何やら、冊子の束を取り出し、こちらへ向かって差し出してきた。どうやらこの世界の新聞紙らしきその紙面には、『スティール・ボール・ラン』なる文字がでかでかと印刷されている。
「ホット・パンツはこのレースに参加しているそうよ。このレースには、そういう引力を持つ、人や、物事が集まっている……そう感じたの」
何が言いたいんだ。
「私、このスティール・ボール・ランを『辿る』わ」
「……は?」
「きっと、『引力』の集まる先に、私たちが元の世界に帰るために必要な力がある。このレース……途中から参加はできないけど、追いかけることならできるわ」
ハルヒは真顔だ。冗談を言っている様子はない。俺は紙面に視線を落とし、そこに載っていたレースの概要にざっと目を通す……アメリカ大陸横断だと?
「馬なんていらないわよ」
そう言いながら、ハルヒが、視線をテントの出入り口へ向ける。その視線の先には―――降り注ぐ陽光の中、主人を待つ犬のようにたたずむ、俺の初代愛車。
「ハルヒ……この世界にはガソリンスタンドもないんだ」
「『引力』よ」
ハルヒが脈絡のない発言とともに、右手を上げ、人差し指で俺の愛車を指で示した。……何が言いたいんだ。
「『シックス・センス・アドベンチャー』は、私たちと一緒にこの世界に来た。それもきっと引力なのよ」
暑さでやられちまってんじゃないだろうな。
俺がため息をつくと、ハルヒはもう一度、人差し指をずいと突き出し、俺の愛車を強く指し示した。どうやら俺に見に行けと言っているらしい。
渋々ながら俺は立ち上がり、テントから這い出す。……暑い。これが本場の砂漠ってやつなのか。湿気がなく、日陰は涼しいんだが、太陽の照っている場所は地獄だ。
「こいつがどうしたって?」
愛車に跨り、グリップを握ってみる。昨夜だいぶ無理な走行をした割に、車体は綺麗で、アリゾナの直射日光を浴び、目玉焼きが作れそうなほど熱を持っていた。
「あんたホント察しが悪いわね」
と、ハルヒがテントから抜け出し、一瞬、太陽を恨めしく思うように上空を睨んだ後、俺と愛車のそばへやって来て、
「ここ」
と、俺の愛車の一点に指を突き付けた。ガソリンメーターの表示部分だ。
ジリジリと陽光を肌に浴びながら、ハルヒの示したガソリンメーターを見る。見て―――言葉に詰まった。
「わかった? このコ、ガソリンなんて入ってないのよ。横倒しになった時、タンクの蓋が開いて、全部出ちゃったんでしょうね。昨日は夜だったし、わからなかったけど」
馬鹿な。だって昨晩俺とハルヒは、こいつに跨り、あの恐竜どもから逃げ回ってたじゃないか。愕然としながら、俺は刺さったままになっていたキーに手をかけ、それを捻り上げる。
ドルンドルンドルン……
なんでかかるんだよ、エンジンが。メーターが示しているガソリン残量は、あれだ、スッカラカンってやつだ。まさか、これは―――十九世紀の砂漠に恐竜が現れたような。そして昨夜ホット・パンツが俺たちに見せたようなものと、『同じような力』なのか?
―――『引力』。
「キョン。『スティール・ボール・ラン』を辿るわよ。引力を持っているものを追いかけるの」
先ほどと同じことを述べつつ、ハルヒが俺を見る。自分が信じたものをとことん追いかけ続ける、『涼宮ハルヒ』の眼だ。
「ホット・パンツがいろいろ分けてくれたわ。野宿セットとか、食べ物とか、地図とコンパスもね」
と、マントの中から布包みを取り出し、俺に差し出すハルヒ。燻製された魚のいい匂いがするその包みを開けてみると、それはスモークサーモンとクリームチーズに、オニオンが入ったサンドイッチだった。あの馬乗り、女子力高ぇな。
「きっと私は元の世界に帰って見せる。あんたと一緒に」
俺に渡したのと同じ布包みを取り出し、それを開くと、がぶり。と、音がしそうな勢いで食らいつくハルヒ。
こいつ……逞しいぞ。
「食事がすんだら、砂漠を超えるわよ。セカンドステージのゴール、『モニュメント・バレー』を目指すの」
―――いつものように。涼宮ハルヒはどこまでも本気だった。
To be continued↓
あの夜、俺たちが目覚めた場所は、すでにレースの中継地点を越えた先で、例のレースのセカンドステージのゴールであるモニュメント・バレーとやらまでの距離は短い方だったのだが、それにしても俺たちは苦しんださ。
俺とハルヒは、引力とやらの影響を受け、人類夢の永久機関となった愛車の力で、決起の朝から丸三日をかけてゴールへとたどり着いた。
レースの参加者たちの多くは、馬を移動手段としてこのコースを辿ってるというのだから、いやはや、どいつもこいつも根性と体力があるもんだなとつくづく感心するね。
これはゴール地点で拾った新聞の情報だが、先頭集団の連中がこの場所へたどり着いたのはまだ昨日、セカンドステージとやらが開始されてから十八日目のの昼のことらしい。
だったら、後続のレース参加者たちと俺たちが出会ってもおかしくないと思うのだが、結局、俺たちがゴール地点を越え、ロッキー・マウンテンなる山岳地帯へたどり着くまでの間に、レースの参加者らしき人物と会うことはなかった。
それは参加者に限らず、俺たちはホット・パンツ以外、この世界に来てから、人間と遭遇していない。ゴール地点になら、レースを観戦している奴くらいいるかと思ったが、基本的に、上位着順が決定した後のステージの事なんて気にするヤツはいないという事なんだろうな。
「キョン、ここから先は山道よ。きっとコース上に村があるはず」
ごつごつとした岩肌が立ち並ぶ光景を前に、ハルヒは地図を見ながら言った。
「ホット・パンツがくれた食料の残りは、このサードステージの間、ギリギリもつかどうかってところかしら」
「ああ、そうだな」
道端に転がっている馬のフンを回避しつつ、俺は相槌を打つ。
「もうあんなウマいもんには有りつけないかもしれんが、そろそろ食料補給が必要だ。このバイクがいくら疲れ知らずでも、俺たちのほうがガス欠になっちまうぜ」
この世界に来て初めて出会ったのがホット・パンツだったということは、俺たちにとって相当な幸運だったと思う。出来ればまた会いたいとも思うが、セカンドステージの上位着順を見る限り、それは望み薄だろう。
「ホット・パンツはセカンドステージを五位で通過したらしいわね」
後部座席のハルヒが、新聞に目を通しつつ言う。すでに先頭がゴールを決めてから一日が経過している以上、五位に食い込んでいるホット・パンツが、まだそこらで油を売っているということはないだろうからな。
「しかしハルヒよ。俺たちは引力を持っている人間とコンタクトするのが目的なんだろ? ホット・パンツは何か能力を持っていたが、そもそも人と会わないんじゃどうにもならなくないか」
ハルヒの推測がどこまで正しいかわからんが、確かに俺たちにとって、誰かと接触するということは大切だ。この世界に来て仲良くなったのはサボテンと毒トカゲぐらいで、とてもじゃないが何か実になりそうな出会いはない。
「先頭集団に追いつこうってのか?」
「そうよ。私たちには、ガソリンのいらない『シックス・センス・アドベンチャー』っていう武器があるわ。本気になったら、一日ぐらいのロス、大したことじゃないわよ」
「その分、危険は高まると思うがな。先頭に接触するってことは、つまりあの恐竜どもを生み出したような力を持っている奴らとお近づきになるってことだろ?」
「あんた、この世界にいつまでいたいわけ?」
コツン。と、俺の後頭部に、握りこぶしを軽くぶつけながら、ハルヒ。
「この世界で、末永く静かに暮らしたいっていうなら止めないけど?」
ああ、わかったよ。俺はため息をつきながら、人気のない山道の大地にタイヤ痕を刻み込んでゆく。しかし、ハルヒは不思議なことが大好物だっていうのに、このヘンテコ世界にとどまることにはあんまり興味がないようだ。
あんまり恋々とされても困るから、悪いことじゃないけどな。俺だってさっさと元の世界に戻り、朝比奈さんのお茶を飲みたい。古泉を棒銀で打ち負かしたい。長門を図書館へ連れて行ってやりたい。
「よし、ハルヒ。このロッキー山脈は、五日で越えるぞ。一足先に、フォースステージエリアとやらに突っ込んでやろうぜ」
ハルヒがうなずく気配が、俺の背後でした。
俺たちが、山間の景色に村らしき建造物の並びを発見したのは、サードステージが始まってから六日目―――俺たちが山脈に入ってからちょうど五日目で、いい加減食料も底をつきてきたという、夕暮れに近い時間帯だった。
正確には、日本円なら二千円ほど手持ちがあるが、これと食料を替えてくれるほど親切な村人はさすがにいないだろう。
俺の問いかけに、ハルヒは一瞬沈黙した後、
「ないなら稼げばいいわ」
と、何か面白いことを思いついた時の声色で、言い切った。
それから数時間が経過し、ようやく、先ほど峠から臨んだ村へとたどり着いた。俺とハルヒは、さっきから言っていた食料調達と、今夜の宿の目的で、その村に立ち寄ることにし、村人を探しているところだった。
チートとしか言いようのない移動力を誇る俺の愛車が、丸五日かけて走破した距離は、地図の通りなら実に660km。サードステージのゴールまであと60kmというところまでやってきたわけだ。
目標としていた五日以内走破は叶わなかったが、七日かかると予想されているコースだと考えたら、なかなかの好成績だろう
「キョン、人だわ。畑仕事の帰りかしら……いいカモね」
と、最初の人影が見えてきたところで、ハルヒが悪い笑みを漏らした。お前、もしかしてドロボウするつもりじゃないだろうな?
「そんな野蛮なことしないわよ! 言ったでしょ、稼げばいいって。あのおじさんを家まで乗せてあげて、替わりに食べ物を要求すればいいのよ」
なんだ、それだけの話か。確かに、俺たちにはガソリンのいらないバイクなんて秘密兵器があるんだ。タクシーの真似事をするにはうってつけだ。
ハルヒに言われるがまま、俺はずいぶんぶりに出会った、その人影に声をかける。少し腹の出たそのおっさんは、俺たちの姿を見ると、こちらに向かってゆっくりと歩いてきた。
しかし、その足取りがすこしおかしい。俺の愛車を見て、珍しいものを見つけたようなリアクションをされると思っていたのだが……そういう雰囲気じゃない。なにか戸惑っているように見える。
ハルヒが首を傾げ、言う。やがて、俺たちに声が届くほどまで近づいてきた村人は―――顔に脂汗をにじませ、足を引きずりながら、
「た、助けてくれぇ……丘に、崖の向こうに、オレの家内と子供が……」
と、俺にとっては相当意外な内容の、SOSメッセージを口にした。
「丘? ……丘って、あそこに見える、変な形の岩のところですか?」
俺が訊ねると、村人は首を縦に二度振って見せた。ハルヒと一瞬顔を見合わせ、視線を村人の示した丘へ向ける。
その奇妙な形の岩の存在は、この村へ来るまでの間、俺とハルヒの間でも話題に上っていた。何しろ目を引くからな。
その奇妙な形の岩のふもとに、いくつか人影に見えなくもないシルエットが見て取れる。村人はこのシルエットの事を言っているらしい。
「き、昨日、オレの家族がバケモノになっちまって…………崖の向こうに家内と子供が……助けに行きてえのに、もうすぐ夜になっちまう……」
いまいち要領を得ない、村人の話。バケモノになっちまった。というくだりが俺の中に引っかかる。それはハルヒも同様だったらしく、俺が視線を送ると、いつもの真顔で俺の顔を見返し、
「きっと、何かあったのよ。あの砂漠で、私たちが恐竜に襲われたのと同じような、何かが」
と、手短に言った後、俺の愛車の後部座席に飛び乗った。
「おじさん、あの丘ね! いいわ、私たちが見てきてあげる」
「た、頼む……クーガーが、クーガーが出るかもしれねえんだ……オレの家族が、食われちまう……」
事態はなかなか逼迫しているようだ。ここから愛車を飛ばせば、丘までは数十分もあれば着くだろうか。目の前で人がクーガーに襲われるところは、あまりすすんで見たいとは思えない。
「キョン、急ぐわよ!」
やれやれ、日が暮れる前に村に帰ってこれたらいいがな。走り疲れした体に鞭を打ち、俺は奇妙な形の岩がそびえる丘に向けて愛車を発進させた。
俺たちは十七分の実時間をかけて、村人の言っていた崖の手前に到達した。近づいてみると思っていたよりも巨大な、妙な形にえぐられた岩のそびえる丘。その周囲に、十人には満たないほどの数の人影が見える―――しかし。
「まさか本当に崖の向こうに人がいるなんてな……どうやって渡ったんだ?」
「分からないけど、やっぱり何かあったのよ。見て、丘の地面がボコボコだわ。あんな絶壁の向こうに、足跡や破壊した跡がたくさんあるのは、どう考えてもおかしいじゃない」
と、ハルヒが後部座席から降り、マントの中から双眼鏡を取り出す。ホット・パンツが俺たちにくれたアイテムのうちの一つだ。砂漠でルートを見失わないように走るのに重宝したっけな。
「しかしハルヒ……俺たちに何かできることって、あるか?」
「村からあの丘への迂回路を探して、一人づつ助けてあげるしかないわね……でも、間違いなく日が暮れちゃうわ……あっ」
と、双眼鏡をのぞき込んでいたハルヒが、何やら息をのむように声を上げる。
「どうした?」
「……まずいわ、クーガーがいる! おじさんの家族の人たち、本当に食べられちゃう!」
ハルヒはそう言うと同時に、俺に双眼鏡を差し出して来た。流れに身を任せ、丘に視線を這わせると、ハルヒの言った通り、物陰にクーガーの姿が見て取れる。すぐ近くでは、村人たちが誰かの助けを待ち、不安げに周囲を気にしている―――絶体絶命だ。
「あのデカいのがクーガーか!? くそ、どうする……どれだけ急いだって、あの丘に続く道を探すのにまだ相当かかるんだぞ」
「……キョン、私、気づいたことがあるわ」
焦りを胸にともらせる俺に向かって、ハルヒが不意にそんなことを言い出した。気づいたこと?
「いいから聴いて。この状況に関係のあることなのよ。いや、むしろ、とても大事なこと」
双眼鏡を顔から離し、ハルヒの顔面に視線を移す―――ハルヒの眼が、あの決起の朝のように輝いていた。
「感じるのよ。あの岩の下に、何かがある……いや、何かが『あった』のよ。私とあんたにとって、とても大切な何かが」
そう言うと、ハルヒはマントを翻しつつ、再び俺の愛車の後部座席に飛び乗る。……ハルヒにとって大事な何か? 俺にとっても大事な?
「もう今はないかもしれない……誰かの手に渡ってしまったかもしれないけど、私は確認しなきゃならないわ。私のこの予感が、当たっているのかどうか」
と、ハルヒが俺の胴体に両腕を回す。ちょっと待て―――ハルヒは何を考えてるんだ? 今はあのクーガーから、村人をどう助けるかって話じゃなかったかのか。
いや―――まさか。
「キョン、出して! あの丘に、少しでも早く上るのよ! そのためにはこれしかないわ!」
「お前―――本気で言ってるか!?」
「本気よ!」
つまり、こいつは言っているのだ。今からこの崖を飛び越え、クーガーを追い払い、あの丘へ行くんだ、と。……崖は切り立っている。谷底が見えないほどではないが、もし落ちれば、俺もハルヒも無事じゃ済まないだろう。
とてもじゃないが、正気の沙汰とは思えない。そもそも、ジャンプ台もなしに、この距離を渡ることが出来るのかわからない―――
だというのに。俺の両手は、まるで何かに導かれるように、グリップを強く握っていた。そして、同時に、体の中に炎がともるような感覚。
俺はそこでようやく気付く。この力……体の底から湧き上がってくる感覚こそが、ハルヒの言う『引力』なんじゃないだろうか、と。
「……ハルヒ、しっかり捕まって、歯あ食いしばれよ」
「やってやろうじゃねえか……『シックス・センス・アドベンチャー』!」
言葉とともに、俺がグリップをねじり上げると、マフラーから熱気があふれ出すとともに、エンジンのいななく音が辺りに響き渡った。ああ、気づけば俺も、こいつのことをそう呼んでしまっている―――ハルヒの影響だ。
「オラァッ!」
俺たちを乗せた愛車は、大地のない空間に向かって加速し―――ついに、でかでかと口を開く崖の上空に、その車体を躍らせた。
体から大地の感覚が消え、浮遊感が全身を包む。車体から体が浮き、飛んでいきそうになってしまうのを、グリップを必死で握りしめて耐える。
「行け―――ッ!」
ハルヒの声が、アクセルの音に混じって俺の耳に届く。その瞬間、車体に視線を落とした俺は、視界に奇妙なものを捕え―――わが目を疑った。
車体が光っているのだ。沈もうとしている太陽の光を受けて輝いているのかと思ったが、しかし、俺の愛車を包んでいるその光は、陽光ではありえない奇妙な色彩を纏っていた。
どこかで見たことのある、水色がかった光。そして、その光はまるで質量があるかのように、俺の愛車と、それに跨る俺たち二人の体を包み込んでいて―――
「マジかよ」
思わず、声をこぼす俺。空中にいるはずの俺の体に、愛車のタイヤが、確かに大地に似た何かを捉えている感覚が伝わってきた。ギャルギャルと音を立て、青い光に包まれたタイヤが、何もない空間に食らいつき、俺たちの体を、あの丘の方へと前進させている。
俺とハルヒは、今―――空を『走って』いる。
「キョン、クーガー!」
突然の超常現象に、俺が閉口していると、後部座席のハルヒが前方の斜面の一部を指さし、叫んだ。見れば、先ほど物陰に潜んでいたクーガーが、ついに村人たちの前に姿を現し、牙を剥こうとしている。
俺は空中を走る愛車のハンドルを切り、前輪を少し持ち上げると、着地予想地点をクーガーの姿のある場所へと定め、さらにアクセルを吹かした。
「そこを……どきやがれッ!」
俺が叫ぶと同時に、クーガーのほうも俺たちに気づいたらしい。村人に食らいつこうとしていた巨体を一瞬竦みあがらせ、次の瞬間、俊敏な動きで、飛来する俺の愛車との距離を取り、再び物陰へともぐりこんでいった。
「…………」
視線を感じ、周囲に目を配ると、丘の上に取り残されていた村人たちが、皆一様にぽかんと口を開き、突如飛来した俺たちの姿を、呆然と見つめていた。
「……おいハルヒ、どう説明する? 俺たちは正義の味方だとでも言うか?」
と、ハルヒに訊ねようとして、俺はいつの間にか後部座席からハルヒの姿が消えていることに気づく。慌てて周囲を見回すと……ハルヒは例の変な形の岩のそびえるこの丘の頂上を目指し、斜面を駆け上がっているところだった。
「……さっきから言ってたが、その岩のところに何があるって?」
愛車から降り、ハルヒの後を追う。俺が問いかけるも、ハルヒの意識は丘の頂上にくぎ付けであるらしく、反応は返ってはこなかった。
俺たちにとって大事な何かがある。ハルヒはそう言っていた―――それはもしかすると、俺たちが元の世界に帰るために必要な『何か』なのだろうか。
「……感じる」
俺より一足早く、目指していた岩のふもとへ到着したハルヒは、砂の上に片膝をつき、地面を探り始めた。ハルヒが先ほど言っていた通り、丘の大地は無数の足跡や破壊された跡にまみれている―――俺はその痕跡の中に、目を引くものを見つけた。
「ハルヒ、この足跡は恐竜のものじゃないか?」
クーガーや人間のものに紛れて、そこら中に散らばっている、不可解な形のでかい足跡。以前、図鑑だか教科書だかで見たものと酷似している。この場所で発生した事態は、やはりハルヒの言うところの、引力を持つ何かが引き起こした事態であったようだ。
「あのおっさんの言っていたバケモノってのは恐竜の事だったのか……おい、ハルヒ?」
と、俺が思考を巡らせている間も、ハルヒは一切こちらを見向きもせずに、地面に這いつくばるようにして、何やらを探しているようだった。俺には何が目的なのか見当もつかなかったが―――ハルヒのやることには必ず意味がある。
「……キョン、見て」
やがて、ハルヒは体を起こしながら、こちらを見ずに、声だけで俺を呼んだ。言われるがままにハルヒのもとに駆け寄り、地面に視線を巡らせる。
「これがどうしたって?」
「この足跡、見て。これは―――『私の靴』の跡だわ」
ハルヒの靴?
一瞬、黙考した後、俺はハルヒの脚に視線をやる。ハルヒが履いているのは、ホット・パンツがよこしてくれた革のブーツで、そこに残っている足跡とは形が一致しない気がする。第一、今初めてこの丘へやってきたハルヒの靴跡がこんなところにあるわけがないだろう。
「違うわ。これは私たちの世界の、私の靴の跡」
ハルヒの口にした言葉を、脳が理解するまで数秒時間がかかった。元の世界で、ハルヒが履いていた靴―――それはつまり、俺たちがあの星条旗に押しつぶされる直前までハルヒが履いていたローファーってことか?
ハルヒが示している大地をよく見てみると、わずかだが、周囲の足跡よりもサイズの小さな、女性ものの靴だと考えられる足跡があった。左右一つづつ、ちょうどこの丘の頂上なんじゃないかと思われる場所に並んでいて、ほかの地べたに同じ靴の跡は見つからない。
しかし、ハルヒはこの世界にやってきた時、何故かは知らないが生まれたままの姿だった。靴はおろか、トレードマークのカチューシャすら身に着けていなかったってのに、どうしてハルヒのローファーの跡がこんなところに?
「感じるの。つい最近……多分、昨日まで、ここには私の靴があった。それを見つけて、持って行った『誰か』がいるのよ」
ハルヒは真剣そのものといった口調でそう述べ、そろそろ日も暮れようとしている、ロッキー山脈の空に視線を移した。
「私の服のある場所を感じる。この世界には、私の『衣服』があるのよ。そして引力はそれに続いている。キョン、私の服を探しましょう。急がなきゃいけないわ、私の靴を誰かが持って行ったみたいに、私の服を手に入れようとしてる人が、ほかにもいる……多分、たくさん」
衣服を手に入れようとする人々。脳裏にバーゲンセール開場のような光景を思い浮かべ、俺は眉間にしわを寄せた。ハルヒの服なんか手に入れて、一体何になるというのだ―――しかしハルヒの推測が正しければ、一つ納得がいくことがある。
「……この大騒ぎの痕跡は、お前の靴の奪い合いの跡だってのか」
ハルヒは無言で頷いて見せた。
俺は考えた。この世界の人間たちが、ハルヒの服を奪い合っている。十九世紀のアメリカに恐竜を引っ張り込んでこれるような連中が。
「きっと、私の服をすべて集めたら、私たちも元の世界に帰れるのよ。私の服には、そういう『力』がある」
しかし―――俺は頭部に痛みを覚え、眉間を抑えた。ハルヒの言っていることはつまり、村一つめちゃくちゃに巻き込んでまでハルヒの靴を欲しがるような連中の抗争に、俺たちも参加しようってことだ。
「私には、次の衣服がある場所がわかるわ」
そう言うと、ハルヒは周囲の、夕闇に縁どられた山々を見回した。そして、一点を指で示し、
「こっちだわ。すごく強く感じる……北緯三十九度、六分二十四秒。西経九十四度、四十分、六秒」
そう述べた後、マントから地図を取り出し、それを地べたに広げた。俺は黙って、ハルヒの指先が地図の上を辿るのを見守る」
「ここよ。『カンザス・シティ』の近く……フォースステージのゴールだわ!」
地図から顔を上げ、顔を見合わせる俺とハルヒ。ただの思い付きやカンだとは思えない。ハルヒの奴は、本当に自分の衣服のありかを感じているのだ―――引力によって。
「でも、きっと、ここにあった私の靴を持っている人にも、この位置は知られてしまっている。時間がないのよ。レースの先頭がフォースステージをクリアするまでに、私たちはこの場所に行って、衣服を手に入れなきゃいけない」
フォースステージ。確か、キャノン・シティからカンザス・シティへ向かう、1250kmにも及ぶ馬鹿長いステージだったはずだ。
「私の靴を奪っていった人たちは、昨晩の時点でこの地点まで来ていた。その人たちがレースの参加者なら、きっともう、フォースステージに入ってるわね」
フォースステージの予想所要時間は三週間。俺たちのいるこの地点から、サードステージのゴールまでは、あと60km……睡眠時間を返上して走れば、俺たちも明日にはフォースステージのエリアに入れるかもしれない。
「……選択の余地もねえしな」
ため息をつく俺―――元の世界に帰るために必要だってんなら、やるしかないだろう。
「よし。行くか、カンザス・シティ」
ハルヒが指示した方角に視線をやり、俺がそう言うと、ハルヒは少し重々しくはあれど、俺の知るハルヒの表情に近い笑顔を作り、
と、元気いっぱいに言った。まったく、その元気はどこから湧いてくるんだか。かくして俺たちは、新たな目的地をカンザス・シティに定め、再び愛車にまたがるのだった
あ、その前に、村人はちゃんと助けたよ。ハルヒと俺が飛んできたのを見て、あのおっさんの子供なんか、ハルヒの事を『女神様』だってさ。
レースの先頭集団は、俺たちがあの靴跡を見つけた日の日中に、サードステージを突破し、このダダ長い1250kmの道のりを、俺たちよりも先に辿り始めていたという。
あの山村で、村人からのお礼ってことで、多少の現金を手にしていた俺たちは、サードステージのゴールであるキャノン・シティでレースの速報の載った新聞を買い、食料や野宿のための道具を補給した。
ステージの上位着順には、ホット・パンツの名前もあった。というか、後続に一時間も差をつけて、一位に入賞していた。七日もかかると言われていた山脈をたった五日で走破しちまうとは、先頭の連中はやっぱちょっと凄ぇ。
おそらく、上位に名を連ねている奴のどいつかが、ハルヒの靴を手に入れたのだろう。ハルヒの引力センサーは、誰の手にもわたっていない衣服にのみ反応するらしく、どいつが靴を手にしたのかは、真正面から対面でもしない限りわからないらしい。
「私の服に手を出すなんて、もし遭遇したら縛り首ね」
ハルヒはそんなことを言っていたが、俺たちに攻撃手段というものはこれと言ってなく、仮にハルヒの靴を持った誰かと遭遇したところで、力ずくで奪い返すってのは難しいだろう。
よって、俺はできるだけ、レースの参加者とは接触しないようにしていた。もしハルヒの靴を持っている奴を見つけたって、こちらからどうにもしようがないからな。
コース上にはいくつか町があり、立ち寄るたびに、俺の愛車を珍しがる人々がいて、時々、タクシーの真似事で小銭を稼いだりもした。
その金で食料を買ったり、時々食事を店で済ませることもあったが、俺はそれよりハルヒが料理をしてくれる野宿の日のほうが楽しみだったよ。
ハルヒの得意料理は、何処で捌き方を学んだのか知らんが、野ウサギを使った料理で、缶詰のトマトと豆だとかで煮込んでパスタにかけたやつが最高にウマいのだが、やはりホット・パンツのサンドイッチには敵わなかったな。ハルヒには言ってないが。
そんな調子で息抜きもしつつ、毎日毎日、ただただ愛車を走らせる日々が、十日ほど続いた。ハルヒとの二人旅にもそれなりに順応してきて、ため息をつく日も多かったが、この生活も案外、悪くはないな、とか思い始めてた頃。
俺たちはそいつに出会ってしまったのだ。
カンザス・シティへの道のりも半分ほどまで来ていた。数日前はよくレースの参加者を見かけたのだが、それがここ数日は見当たらず、無事先頭集団を追い抜いけたのかと安心していた矢先、後部座席のハルヒがそう言った。
言われるがままにブレーキをかけ、愛車を停止させる。俺が振り返ると、ハルヒは俺たちの行く手の先、小川の辺の木陰を指で示した。見ると、確かに木のシルエットのそばに、馬に乗った人間らしき姿が視認できる。
「レースの参加者だろうな……でも、前に見かけた参加者とはかなり離れてる。多分、あれが先頭じゃないか?」
「ゼッケンを確認できるかしら……キョン、双眼鏡貸して」
カバンから双眼鏡を取り出し、ハルヒに手渡す。ハルヒが双眼鏡を覗いている間、俺はゼッケン番号を照らし合わせるために、レースの参加者の情報が乗った新聞紙をカバンの底から引っ張り出した。しかしハルヒは、
「……あれ、『ディエゴ・ブランドー』だわ。新聞に載ってた顔よ」
と、俺の情報を待たずに断言した。ディエゴ・ブランドー、通称Dio。レースの優勝候補の一人でもある天才騎手で、前ステージは三位で通過だったっけか。ハルヒが双眼鏡を手渡してきたので、俺もそのご尊顔を拝ませてもらうことにする。
「おお、本当だ。写真よりイケメンだな」
「デカい荷物だこと。こっちに来てるってことは、川を避けてるのかしら」
そういう俺とハルヒも、ある程度の深さの川は避けて行動している。何しろ移動手段がバイクだ。下手に濡らして、サビられたり、故障でもされたら、俺たちは手詰まりになってしまう。修理してくれるバイク屋もこの世界にはないだろうしな。
ディエゴはハルヒの言った通り、デカい荷物を後ろに乗せている。荷物というよりあれは、もう一人人間が乗っているような重さなんじゃないだろうか。……つーか、むしろ、
「ハルヒ、ありゃ荷物じゃないな。の奴、誰か後ろに乗せてるみたいだ……レースの最中だろうに、何やって―――」
「え、そうなの―――きゃっ!?」
ハルヒの声が途中で途切れたのは、俺が停止していた愛車をいきなり全速力で発信させたからだ。手に持っていた新聞を取り落としてしまったが、そんなことを気にしている場合ではない。
何故なら、視線の先にいる、その男が後ろに乗せているのが―――俺にとって馴染みの深い、水色のセーラー服を身にまとった、朝比奈みくる、その人だったのだから。
後続が追い付いてきたのかと思っているか、俺の愛車を珍しがっているのか、わからないが、ずいぶんと余裕があるらしく、俺たちと遭遇するのを避けようとする様子は一切ない。
「ちょっ、キョンッ!」
後部座席のハルヒはまだ、Dioの背後の朝比奈さんの存在に気づいていないらしく、突然の発進に戸惑いの声を上げたが、この時の俺にハルヒを気遣っている余裕はなかった。
ただ―――この世界に最初にやってきた日のように、急すぎる展開についていくのに必死だったんだ。
十数秒の時間をかけ、俺はDioへと接近し、愛車を停止させた。Dioの背後に跨った朝比奈さんが、俺たちに気づいた様子はない。どうやら、気を失っているようだ。
「何だ、オマエら。見覚えがない顔だな」
やがて、低く粘り気のある声で、Dioが、初日にホット・パンツが言っていたのと、ほぼ同じ内容の言葉を口走った。何だと言われたところで、俺としても今、何をどうするべきなのかがわからない。
「Dio……どうしてあんたが、朝比奈さんを……」
「えっ」
ようやく口をついて出たのはそんな言葉だった。俺の発言を聴き、後部座席のハルヒも朝比奈さんに気づいたらしい。遠目には一瞬わからなかったが、華奢な体つきと栗毛色の髪は、俺たちの記憶に深く根付いている。第一、着ている服が、北高のセーラー服だし。
「フン、なるほどオマエら、この女のコの知り合いか」
何かしらに気づいた、というように、一瞬含み笑いをこぼし、Dioが言葉を放つ。俺が次いで放つ言葉を探っていると、それを遮るように、
「ちょっと、あんた! うちのみくるちゃんに何してるのよ!」
と、どこか懐かしさすら覚える声色で、ハルヒが叫んだ。その声を聴き、俺は胸の中に、ここ最近、気づかないうちに失われつつあった何かがよみがえってくるのを感じる。
朝比奈さん―――目の前に、朝比奈さんがいる。
「何をしてる? 何もしちゃいないよ、このコはさっき拾っただけさ」
顎で背後を示しながら、Dioは悠然と言葉を紡いだ。
道端に倒れていた。朝比奈さんが?
なるほど、つまり俺たちの時と一緒ってことだ。元の世界で何があったかは知らないが―――朝比奈さんも、この世界に迷い込んできてしまったんだ。
「そう怖い顔をするなよ君たち、オレはこのコを次の町まで連れて行ってやろうとしてるだけさ。でも知り合いに見つけてもらったんならこのコはラッキーだな」
Dioはうすら笑いを浮かべながら、意識を失っている朝比奈さんを上半身だけで振り返り、その頭にポン、と左手を乗せ、
「どこの町から来たのかとかも、知ってるんだろ? 君たちが送り届けてやれよ」
そう言って馬から降り始めた。……意外に物分かりがいいな。結構まともなヤツなのか。
「ほら、彼女を馬から降ろすのを手伝えよ。知り合いなんだろ?」
大地に降りたDioは、どうやら本当に朝比奈さんを解放するつもりらしく、俺たちの目の前で、朝比奈さんの体を馬の体に括り付けていたロープをほどき始めた。俺がどう出たものかと戸惑っていると、後部座席のハルヒが、
「ずいぶん親切なのね、あなた。馬に余計な加重をしてまで、みくるちゃんを助けてくれたんだ?」
と、警戒を孕んだ声で言った。そのハルヒの言葉を聴いたDioの動きが一瞬止まる。
「―――いいニオイのするコだったからな。女のコには優しくしなきゃいけないだろ?」
こちらを見ず、黙々と、朝比奈さんの体を馬から降ろすDio。今の発言は若干変態的だが―――ここから見る限り、朝比奈さんに外傷はなく、Dioに何かされたのではないかという俺たちの悪い予感は、現実なってはいなかったようだ。
「……そう。うちのみくるちゃんが世話になったわね。どうもありがと」
ハルヒが俺の愛車から降り、Dioのもとへと近づいてゆく。慌てて俺もそれを追いかけた。なんだ、ホット・パンツといい、このDioといい、レースの参加者たちは意外といい奴が多いじゃないか―――俺はこの時、わりと本気でそんなことを考えていた。
しかし、
その言葉とともに、朝比奈さんの体をお姫様抱っこの体制で抱えたDioが、こちらを振り返る―――その直後。俺の背筋に、これまで感じたことのないほどの『悪寒』が走った。
「……ハルヒっ!」
「えっ……」
その瞬間、俺がハルヒの腕を掴み、手前に引き寄せたのは、ちょっとしたファインプレーと言っていいだろう。ハルヒが一瞬前まで居た空間を、何かが掠めたことを、視覚的に認識することはできなかった。
ただ、何かに切り裂かれた空間から、風圧が発生して、俺とハルヒの服や髪を揺らしただけだった。
「何ッ!?」
異常を察知し、ハルヒが声を上げる。その直後、朝比奈さんの体を抱えていたDioの姿が―――消えた。
「朝比奈さんッ!」
Dioの肩の高さの空間に、突如放り出された朝比奈さんの体を、俺は両腕で受け止める。あともう少し俺とDioとの距離が開いていたら、間に合わなかっただろう。
「ふぇ……きゃあっ!?」
俺の腕に重みがかかると同時に、朝比奈さんは目を覚ましたらしく、声を発した。ハルヒと俺は周囲を見回す―――Dioはどこへ消えた?
「連れてきて正解だった。きっと『寄ってくる』だろうと思ってたぜ。ロッキー山脈で手に入れた『聖なる靴』……そのコはそれと同じ靴を履いていたからな」
声がしたのは、上。見上げると、木の枝の上に両足を着け、こちらを見下ろしているディエゴ・ブランドーの姿があった。しかし、その様相が先ほどまでとは違う。
まるで大型の爬虫類のそれのように、固く強張って見える肌。唇を押し上げる巨大な牙。節くれだった手足―――こいつは、この男は。
「その靴から、『聖なる靴』と同じニオイが少しだけした。そして、そこの女からもな―――オマエも『聖なる衣服』を持っているな! ニオイがするぞッ!」
「食らえ―――『スケアリー・モンスターズ』!」
異形の怪物となりかけたDioが、信じられないほどの素早い動作で木の枝を蹴り、ハルヒに牙を剥いた。
「ハルヒッ!」
朝比奈さんの体を大地に預け、俺はハルヒの腕を掴んだ。そして、そのまま愛車のもとへと駆ける。直後、再び、ハルヒのいた空間をDioの攻撃が掠め取っていった。
「キョン、まだ、みくるちゃんがッ!」
「ハルヒ、あいつはお前の『ニオイ』を知ってるんだ! 狙われてるのはお前だ、『聖なる靴』ってのと同じニオイがするからだ!」
愛車に跨り、アクセルを吹かしながら、俺は自分が察したことをハルヒに説明する。しかし―――ハルヒは今、自身が元の世界で身に着けていたものを、何一つ持っていないはずだ。
Dioの感じているニオイの正体―――そうか。俺にも、わかりかけてきたぞ。
「ハルヒ、あいつが言っているのは『お前の服のニオイ』じゃない、『お前のニオイ』だ! 衣服と同じで、お前自身にも『引力』があるんだ!」
そうだ。俺の愛車がガソリンなしで走ることができる理由。ロッキー山脈で空中を走った理由。それは、『俺のそばに涼宮ハルヒがいるから』だ。ハルヒの持つ『引力』で引き出された、俺の『能力』なんだ。おそらく、ホット・パンツの能力や、Dioの能力と同じような。
「ギャァァァース!」
けたたましい声を上げながら、大地に降りたDioが俺たちに向かって駆けてくる。―――逃げるか? いや、朝比奈さんを置いてはいけない。Dioが朝比奈さんを狙っているわけではないと分かったが、百パーセント安全とは言い切れない。
じゃあ、どうする―――戦うってのか、俺たちが。衣服に引き出された力を使って攻めてくる、このディエゴ・ブランドーと。
しかし、ハルヒの力が俺から能力を引き出してくれたと言っても、俺の能力はこのDioのような戦闘向きの能力ではない。立ち向かって勝利できるかどうかは限りなく怪しい。
ようやく意識と感覚を完全に取り戻したらしい朝比奈さんが、大地に尻をついた体制のまま、俺たちの名を呼んだ。
まだ状況を把握はできていないだろうが、目の前にDioのような怪物がいて、俺たちが逃げまどっていたら、大体分かるだろう。俺たちは今、非常にヤバい状態なのだと。
「キョン、無理よ、逃げきれない! あの力は『恐竜』よ……『恐竜に変身する』能力! 追いつかれる、戦うしかないわ!」
「どうやってだよッ! 武器の一つも持っていないんだぞ―――俺の能力は『移動用』だッ!」
ぽつ。と、俺の手の甲に雨粒の感触が伝わってきた。雨か……そういえばこの世界に来てから、これまで雨に降られたことはなかったな。
「『轢く』とかッ!」
「無理だ、あの速さにはついていけない! それより、あいつに下手に近づくことの方がヤバい!」
背後に、迫りくるDioの気配を感じる―――そのスピードは、初日に出会った恐竜たちのそれよりも一層速いように感じられた。確かに、このスピードで追いかけられたら、俺たちはすぐに捕まってしまうかもしれない―――
「キョン、Dioが来るわ―――! 避けてッ!」
ハルヒの声が、雨音に混じって聴こえる。いつの間にか空はすっかりと曇り、あたりにはしたたかに雨が降り注いでいる。
「ッ!」
ついにDioが俺たちのもとにたどり着こうとしている―――俺が可能な限りDioから離れようと、愛車を発進させようとした瞬間だった。Dioが突然、大地を蹴り、俺たちから距離を取ったのだ。
何だ? 俺たちとDioの間に、遮るものは何もない。せいぜい空から降り注ぐ無数の雨粒があるくらいだ。
「フン、なるほど……『衣服』の力を持つ女……いや、それ以上の力だ。今はひとまず次の衣服だが、オレは必ずお前を手に入れるぞ―――待っていろ」
そう言い放つと同時に、Dioの姿が少しづつ人間のそれに戻ってゆく。何かに追い立てられるよう、俺たちに背を向け、自身の馬のもとへと駆けてゆく。やはりこいつはカンザス・シティに衣服があることを知っていて、それを狙っているようだ。
主人を背に乗せたDioの馬は、一声いななくと、川の上流へと向かって、水に濡れた大地を踏む音を立てながら走り去っていった。―――なんだ、助かったのか、俺たちは。
「……『酸性雨』だわ」
不意に、ハルヒが言葉を発する。降り注ぐ雨粒を両手のひらで受け、
「Dioは、馬が酸性雨に降られるのを避けたのよ……だから、私を攻撃するのをやめたんだわ」
そう言った後、視線を朝比奈さんへと移し、
「この、雨……みくるちゃんがやったの?」
少し離れた場所で、こちらの様子を伺っていた朝比奈さんに訊ね掛けた。
「ふぇ……あ、あの、よくわからないんですけど……私、二人が、危ないって……思って……」
ハルヒの問いかけに、首を傾げ、眉をハの字にしながら、朝比奈さんが困った声を上げる。その視線が、ふと、上空を見たかと思うと、先ほどからひっきりなしに体に受けていた雨粒の感触が一瞬で消えてなくなった。
「あ、雨が……上がった。『俺たちの上空』だけ……」
ニビ色の雨雲に穴が開き、そこから差し込む陽光が、俺たちをスポット・ライトのように照らしている―――そうか、つまり。俺から能力を引き出したように。ハルヒは朝比奈さんからも―――
「ふ、二人が無事で……よかった……」
と、朝比奈さんはそう口にするとともに、再び大地の上に倒れこんでしまった。愛車のもとを離れ、その側に駆け寄る俺とハルヒ。どうやら、また気を失ってしまったらしい。
俺はいろんな意思を込めて、ハルヒを見た。先行きが不安になる要素は山ほどあるが、とりあえず、Dioが、ハルヒに聖なる衣服とやらと同じパワーがあると知ってしまったことが痛い。あんなバケモノじみた力を持ったヤツに四六時中狙われたら、命がいくつあっても足りないぜ。
ハルヒはそう言って、朝比奈さんの体を、先の雨で湿っただ大地から起こすと、
「キョン、昨晩泊まった町まで戻りましょう。みくるちゃんに、いろいろ聞かなきゃいけないし、説明もしなきゃいけない」
と、どこか達観したような表情で、俺に振り向いた。しかし、カンザスにあるっていう次の衣服はどうする?
「今からじゃ、もう先回りするのは無理よ。それに、Dioが持っていたのは私の左靴だけだった。右靴を持っている『誰か』も、カンザス・シティを目指しているはず」
そいつがどんな腹づもりでハルヒの衣服を狙っているか知らないが、下手に遭遇し、ハルヒが衣服と同じ力を持っていることを知られると、面倒なことになるな。
「衣服をすべて取り戻すことを諦めるわけじゃないわ。少なくとも、Dioみたいなやつには絶対渡せない。でも、今は退くときよ」
そう言って、ハルヒは朝比奈さんの体を抱き上げる。今朝出発した町までの道のりは徒歩ってことになるが、なんとか日暮れ前には帰れるだろうか。
雨雲はいつの間にかすべて晴れ、大地にできた水たまりが反射させた太陽光が、水滴を纏った愛車の車体を、キラキラと輝かせていた。
しかし、今後俺たちはどうなるんだ。朝比奈さんを連れてバイクでの旅を続けるのは、そうそう容易いことじゃないだろうと思う。さすがに三人乗りなんてのは不可能だぞ。
「ああ、それについては、ちょっと考えがあるわ。何にしろ、一度町に戻ることが必要だけど」
と、ハルヒには何か妙案があるらしかった。やれやれ―――一体何を考えているやら。
「ほら、ちゃっちゃと歩く。日が暮れちゃうわよ」
朝比奈さんを背におぶったハルヒに尻を叩かれながら、俺はカンザス・シティのある方角に背を向け、愛車を押しながら歩き始めるのだった。
先ほどの雨が、東の空にいい感じの虹を作っていたよ。
Dioと遭遇し、朝比奈さんと出会ってから、時計の長針が八周するほどの時間が経過し、俺たち三人は、キャノン・シティとカンザス・シティの間にある小さな町の、くたびれた安宿の一室にいた。
泥で汚れたセーラー服から、ハルヒの予備の寝間着に着替えた朝比奈さんは、俺とハルヒがした分かっている限りの現状の説明を受け、呆然とした様子でそう呟いた。
「そう。そして、ここはアメリカ大陸。なぜか言葉は通じるけどね。みくるちゃんは、何があってこの世界に来ちゃったの?」
ハルヒの問いかけに朝比奈さんは、目覚めてから何度目かになる困り顔を作り、
「私、何が起きたのかわからなくて……涼宮さんたちが、バイク屋さんからの帰り道、突然いなくなっちゃったって聞いて……」
と、覚束ない口調で記憶をたどり始めた。
「長門さんにも、何があったのか分からないっていうから……その次の日、学校が終わってから、古泉君と長門さんと一緒に、キョン君のバイクのお店に行ったんです。最後に二人に会った人を探そうっていうことになって」
俺の記憶が正しければ、俺とハルヒが元の世界で最後に接触したのは、バイク屋の店員だ。あのトラックと遭遇した時には、周囲に人通りはなく、事故の瞬間を見ていた者も居なかっただろうと思う。
「それから、キョン君たちが駅に帰る時、通りそうな道を歩いていて……気が付いたらもう、二人が、あの知らない人に襲われてるのを見ていました」
知らない人というのは、ディエゴ・ブランドーの事だろうか。予想はしていたが、やっぱり俺たちと似たようなもんだな。
しかしただ道を歩いていて世界旅行ってこともないだろうと思う。なにか切っ掛けとなる出来事があったはずだ。俺とハルヒが、あのトラックに遭遇したような。
「何か、覚えているものはありませんか? 例えば、『トラック』とか」
「トラック、ですか? いえ、あの道は歩道もない、狭い道でしたし、トラックとは逢わなかったと思います」
俺の問いかけに、朝比奈さんは少し考える様に眉をしかめた後、首を横に振った。では―――と、俺が口を開くより先に、ハルヒが、
「じゃあ、『星条旗』は?」
「星条旗……あ、確か……そうだ、あの時、急に空が暗くなって」
そう話し出した。
「上を見たら、すごく大きな……何だろう、布……? そう、大きくて四角い布が、ふわふわと降って来たんです。その布の模様が、確か星条旗だったような……」
星条旗。俺たちをこの世界にぶっこんだ原因と考えられるあのトラックの土手っ腹にも、どでかい星条旗が描かれていた。視線をハルヒに送ると、ちょうど目が合い、
「その星条旗が、みくるちゃんをこの世界に連れて来たのよ。多分―――この世界にいる誰かの『能力』なんじゃないかしら。誰かがその星条旗で、私たちをこの世界に引きずり込んだのよ」
能力。俺の脳裏に、腕を分離させて動かして見せたホット・パンツや、恐竜に変身するディエゴ・ブランド―の姿が過ぎる。
しかし、自分で世界を―――灰色の空の下と、現実世界を―――行き来するって特技を持ってる奴なら知り合いにいるが、違う世界にいる他人を、自分のいる世界に引っ張ってくるってのとは、ちょっと毛色が違うように思える。
「逆に、元の世界にいた誰かが、俺たちをこの世界に送り込んだってのはどうだ?」
「断言はできないけど、多分違うと思う。前も言ったけど、私たちのいた世界には、この世界にいるような、特殊な能力を持っている人はいないわ」
そういうお前が一番特殊な能力を持ってんだけどな。
「ほんとに、ここは違う世界なんですね……じゃあ、古泉君と長門さんも、もしかしたら」
と、朝比奈さん。そうか、朝比奈さんが世界旅行をさせられる直前、古泉や長門も一緒にいたっていうなら、あの二人もこの世界にやってきている可能性は十分ある。
「そうね、そうかもしれない。けど、同じ場所には来なかったみたいね」
朝比奈さんがこの世界にやって来たのを、最初に見つけたのは、おそらくDioだ。そういえば、奴は朝比奈さんが一人で道端に倒れていたのだと言っていたっけな―――その言葉を信用していいのかどうかは分からんが。
もし、長門がこの世界に来ているなら、いろいろと心強い。しかしそう思う反面、この世界で長門が本来の力を発揮できるのかどうか、不安もあるけどさ。
ハルヒが夕食の準備のために、少し席を離した隙に、俺は小声で朝比奈さんにそう問いかけた。するとやはり、朝比奈さんは首を横に振って、
「気が付いたら、なくなってました」
と、申し訳なさそうに、弱弱しい口調で言った。これで俺たち三人が、ただ百二十年前にタイムスリップしたわけじゃないという話の裏が取れた。やはり、ここは俺たちがもともといた世界とは繋がりのない、異世界だってことだ。
「おまたせ」
そこに、ハルヒがスープとパンとコーヒーが三人前乗せられたトレイを片手に、部屋に帰ってくる。
俺は一瞬、もうこんな状況なのだから、朝比奈さんが未来人であることなんかは話しちまってもいいんじゃないか。などと考えたが、ハルヒを不要に混乱させる要因になり得るのでやめておいた。後々古泉や長門に怒られても困るしな。
「……食事をしながらでいいから聴いてちょうだい」
俺が些末な思考にとらわれながら、スープに入っていた干し肉を奥歯でかみしめていると、不意にハルヒが口を開いた。
「さっきも言った通り、私たちが元の世界に戻るためには、私の衣服を集めなきゃいけない。でも、すでに一つはDioに、一つはほかの誰かの手に渡ってしまった。おそらく、その誰かも、スティール・ボール・ランレースの参加者なんだと思うわ」
パンのかけらを口に放り込み、丁寧に咀嚼し、飲み込むハルヒ。
「それに、その他のいくつかの衣服も、すでに誰かが手に入れてる感覚があるの。多分……三つ。そのうち、二つは同じ誰かの所に、もう一つは別の誰かの手の中にあると思う」
ずいぶんと正確な予感だな。
「Dioが私の靴を持ってたでしょ? あれを見たとき、なんとなくコツを掴んだのよ。衣服の気配の感じ取り方の、ね。すべての衣服のありかを感じられるわけじゃないけど、衣服を持っている誰かが近くにいたら、察知できると思うわ」
コーヒーの入ったカップを両手で持ち、ハルヒの言葉に耳を澄ませる朝比奈さん。
ハルヒが地図を取り出し、指で一点を示す。ミシガン湖。湖底にでも沈んでいるんじゃないだろうな。それに、この場所ということは―――
「……またレースのコース上か」
「そうよ。きっと、カンザスの衣服を手に入れた奴には、この位置も知られてしまう」
レースに参加しつつ、聖なる衣服とやらが手に入る。お買い得な話だな。毎度のことながら、俺の唇の間をため息が吹き抜けてゆく。
「でも、涼宮さん……あの、キョン君と涼宮さんは、バイクでレースに参加してるんですよね?」
と、コーヒーカップを空にした朝比奈さんが、口を開く。俺たちはレースに参加しちゃいないんだが、とりあえずそれは置いておくとして、
「さすがに三人じゃバイクに乗れないような……私も行くんですよね?」
そう、そこだ。俺たちのチート的移動手段は、定員が二人という致命的な欠点がある。
これから先、衣服を手に入れるために行動するなら、朝比奈さんかハルヒのどちらかを―――いや、衣服のありかはハルヒにしか分からないのだから、実質上、朝比奈さんを置いて行く以外の選択肢がないじゃないか。
「大丈夫よ」
俺と朝比奈さんが提唱した命題に対して、ハルヒは何でもないことのように答えた。
「二人しか乗れないなら、三人乗りに改造すればいいじゃない」
こいつは何を言っているんだ。
「『サイドカー』よ」
俺からは、絶句。朝比奈さんからは、困惑の声。
「この世界に来る前、バイクの歴史を調べてて見つけたのよ。この時代にもは、自転車用だけど、サイドカーがあったんだって。十九世紀も捨てたもんじゃないわよね」
ニッコリ笑顔のハルヒ―――『考えがある』ってのはそういう事だったのか。
「あのな、ハルヒ。自転車用のサイドカーってのは、荷物を載せるための奴だろ?」
「もちろんそうだけど、荷台に人が乗っちゃいけない決まりなんてないわよ」
あるよ馬鹿。
「現代のルールなんて関係ないわ。ここは自由の国、アメリカ!」
お前みたいなやつがいるから、自由の意味をはき違えた思考の奴が後を絶たないんだよ。第一、そのサイドカーはあくまで自転車用だろう。原付のスピードで引っ張ったりしたらぶっ壊れるんじゃないか? そんなの考えたこともなかったから断言できないけどよ。
「安心しなさい、キョン。『シックス・センス・アドベンチャー』に不可能はないの。私が付いてる限り、あんたの愛車は決して壊れないわ。サイドカーだって、取り付けちゃえば車体の一部! 問題は何もなーい!」
お前のその自信は、一体どこから来るんだ。
確かに俺の愛車は、ハルヒによって引っ張り出された、俺のトンデモ能力で、ガソリンもなしに走るわ、空中を飛び回るわと、いろいろ不可能を飛び越えてきたが……。
「何、あんた、みくるちゃんを乗せたくないわけ?」
乗せたいです。
が、それとこれとは似ているようで全く別の話―――なんだが、もう言うだけ無駄ってやつだな、これは。コイツが可能だと言い切るからには可能なんだろう。つーか、どうせ朝比奈さんを乗せるなら、俺は後部座席に乗ってほしいんだが。だっていろいろ……なあ?
準備のいいやつだな。
しかし、自転車用のサイドカーっていくらするんだ? 俺たちは今日この宿に泊まるだけでも少し奮発したくらいの、金銭的余裕のない旅人なんだが。
「あんたが稼ぐのよ、シックス・センス・アドベンチャーで」
ハルヒは当然のように、
「あんたがシックス・センス・アドベンチャーを買うために、私たちは汗水を流してあげたじゃない。その恩返しだと思って働きなさい。もちろん、レースにあんまり遅れないよう、できるだけ短時間で! いいわね?」
良くない、何も良くない。
しかし夏休みのアルバイトの事を引き合いに出されると、俺は弱い……ハルヒの口車に乗せられたとはいえ、確かに俺は、ハルヒに朝比奈さん、古泉、長門の協力を得て、何とか愛車を買うことができた身だ。
「大丈夫よ、あんたの後部座席、乗り心地だけはいいから!」
笑顔が眩しい。
眩しすぎて涙が出て来たよ、ちくしょう。
「あ、みくるちゃんは、私と一緒に情報集めね。レースの経過とか、あと、衣服を狙っていそうな参加者をチェックしたり」
「あ、はい、分かりました……ごめんね、キョン君」
と、朝比奈さんは、一瞬俺に視線を送り、申し訳なさそうに笑った。ああ、情報収集も大事だしな。いいよ、もう。
こうして今日も明日も、十九世紀のアメリカ大陸のド真ん中で、俺の青春はすり減ってゆくのだった。ま、朝比奈さんがいてくれるってだけで、だいぶマシだけどな。
ああ、ちなみにもちろん俺の宿の部屋は別にとってあるよ。
To be continued↓
「うん、大丈夫」
俺の愛車の右隣、すこし低い位置に設置された、拾ったソファのクッション部分で作った即席のシートに腰を掛け、朝比奈さんは薄い笑顔を浮かべて、俺の問いかけに答えてくれた。
朝比奈さんがちょこんと収まるのにちょうどいいサイズの、その不細工な鋼鉄製のサイドカーが、本来なら牧草だの、肥料としての牛のフンだとかを積むためのものだという話は、朝比奈さんには伏せてある。
俺とハルヒが、朝比奈さんと再会を果たした日から、およそ十日間をかけ、俺はキャノン・シティとカンザス・シティの間に位置するその町で、汗水を垂らしながら、辻タクシーのアルバイトに励んだ。
そして昨日の夕暮れ時、たまたま乗せてやった、牧場をやっているという痩せた町人のおっさんから、格安でこのサイドカーを譲り受けるに至ったのだ。
「みくるちゃんに感謝しなさいよね。あんたがあんまり稼がないからって、喫茶店でアルバイトして、援助してくれたんだから」
俺の愛車の傍らで、どこかふてくされたような表情で腰に手を当てていたハルヒは、そんな文句を口にしながら、雑貨屋で買い込んできた食料の入ったカバンをくい、と持ち上げ、
「じゃ、午後から旅を再開しましょ。ずいぶん遅れを取ったわ……少しでも追いつかないとね」
と、俺の手際の悪さを呪うようにじろりとこちらを見た。甲斐性がなくて悪かったな。
「涼宮さんとキョン君、なんだか夫婦みたい」
朝比奈さんが、そんな事を言いながら笑う。やめてください、顔が熱くなるじゃないですか。チラと見ると、ハルヒも顔面がトマト色になっている。
「つ、つまんないこと言わないの」
そう言って、朝比奈さんの肩を平手で軽く叩くトマトハルヒ。ちなみにこいつはこの十日間、宿のベッドに寝転んで新聞を読み漁ることしかしていなかった。主婦かっつーの。
「主婦って……あんたまでワルノリするのはやめなさい!」
パン。と、両手を胸の前で合わせるトマハル。そして場を仕切りなおすと言ったように、顔を軽く横に振った後、カバンから新しい新聞を取り出し、俺と朝比奈さんにも見えるよう、愛車の座席の上にそれを広げた。
と、ハルヒが先ほどまでとは少し違う声色で、指の節をを唇に当てながら言う。確かフォースステージが始まって、今日が二十日目。予想行程日数の二十一日ってのがほぼドンピシャのようだ。
「90kmぐらい、Dioなら一日で越えちゃうと思うけど、Dioはゴールの前に、衣服を取りに行くはず」
そこまで言うと、ハルヒはカバンからもう一枚、ペンで赤く印のつけられた新聞を取り出し、
「で、Dioの他に衣服を狙っていそうなのは―――っていうより、今からでも狙えそうな範囲までたどり着いてると思われる面々が、目撃されてる限りだと……こんな感じ」
見れば、新聞の空欄部分に、ハルヒのものらしき文字で、数名の名前を書き込まれてあった。
『ノリスケ・ヒガシガタ』
『ジョニィ・ジョースター』
『ジャイロ・ツェペリ』
『ホット・パンツ』
『ドット・ハーン』
『ポコロコ』
『サンドマン』
「ホット・パンツは相変わらず先頭あたりにいるみたいだな。あとは……知らない名前だ」
「私もほとんど知らない名前だけど、噂で聞いた名前ならあるわ。『ノリスケ』は聞いてわかる通り日本人で、レースの序盤は下位だったけど、ここにきて追い上げきてるみたい」
そう言いつつ、数枚の写真を新聞紙の上に並べるハルヒ。写真まで手に入れたのか……ハルヒの情報収集も結構気合入ってたんだな。
「『ポコロコ』は、やる事を見る限り何を考えてるのか分からないけど、やたら好成績な……よくわかんないやつよ。『ジョニィ』と『ジャイロ』はコンビを組んでるみたい。『サンドマン』は、なんと自分の脚だけでレースに参加してるネイティブアメリカン」
ああ、とりあえず、最後のは間違いなく能力者だな。でなきゃ頭がおかしいだけで、頭がおかしいだけなら、このフォースステージで先頭集団に食い込んでなんかいないだろう。
ハルヒが小さくため息をつく。確か衣服がカンザス・シティにあると知っているのは、Dioが持っていたんじゃないほうのハルヒの靴を持っている奴、のはずだったよな?
「それであってる。それと補足だけど、ロッキー山脈の村にあった私の靴を手に入れたのが、Dioともう一人の誰かなら、その時点で、そいつはDioと靴の奪い合いを出来る近さにいた」
ハルヒの言葉に、俺はここまでのステージの上位着順の載った紙面に視線を移す。サードステージで、Dioと近い成績でゴールしてるやつが怪しいってことだ。
「ホット・パンツにジョニィにジャイロにポコロコにサンドマンに……今の先頭集団のメンツと大体一緒じゃねーか」
「そうなのよ。どいつもみんな怪しいわ……それに、靴の他にも、すでに誰かに見つかってるはずの衣服はある」
「……考えてもしょうがないんじゃないか? とりあえず、Dioやこいつらに遭遇しそうになったら避けるってことにしておこうぜ」
そりゃ、俺たちが元の世界に帰るためにハルヒの衣服が必要だってなら、いつかは誰が衣服を持っているか突き止め、何らかの方法で奪い取るってことになるんだろうが、現状でそれをやるのは難しい。
「歯がゆいわ……どうしてもっと攻撃的な『力』じゃなかったのかしら」
唇を尖らせるハルヒ。ああ、悪かったな。俺は温厚だから、暴力的な能力には向いてなかったんだろうよ。
「温厚じゃなくてヘタレよ」
「ま、まあまあ、涼宮さん、キョン君……」
眉をハの字にした朝比奈さんが、サイドカーの中で困りながら笑っている。彼女の能力も、まだ詳細は分かっていないが、性格的にあまり攻撃的なやつであることは考えにくいしな。
「まあいいわ。そろそろ出発しましょう……今夜のうちに、できるだけ進みたいわ」
と、ハルヒ。今夜のうちにって、俺に夜通し走らせる気かよ。
頭痛を覚え、頭を抱える俺。次の町って、確か12kmぐらい離れてなかったか……?
そんな俺をよそに、ハルヒはいそいそと後部座席にまたがる。
「出発よ、二人とも。心配ないわよ、言うじゃない、『三人寄れば文殊の知恵』って」
文殊の知恵じゃ、アメリカ大陸横断はできねーんだよ。
その日の夜、俺たちは見事なまでの『嵐』に見舞われた。
ドウドウと鳴り響く雨音、風の音。大地はぬかるみ、川は増水し、それはもうえらいことだった。何しろ、道が合っているかどうか方位磁石を見ようとしても、ガラス面が水滴まみれになっちまって方角を確認できないほどだからな。
「何でこういうことになるのよ!」
後部座席で、俺が着こんでいるのと同じ雨具に身を包んだハルヒが叫ぶ。しかし、これは他ならぬ天災というやつであり、泥にタイヤを取られないよう愛車を運転するのに必死な俺に怒鳴られても、どうにもしようがない。
「駄目だハルヒ、朝比奈さんが参っちまう、やっぱ町に戻ろう!」
夕方ごろから出だした朝比奈さんの熱は、一向に引かない。華奢な体をサイドカーのシートに預け、力なくうなだれている朝比奈さんは、俺とハルヒと同じ雨具を身に着けてはいるが、体力は消耗していく一方だ。
「無理よ、町に帰り着くころには深夜になっちゃう! それに、道に迷っちゃうわ!」
俺が先ほどから何度か提唱している案を、ハルヒはバッサリと切り捨てる。確かに地図を見るにも一苦労、コンパスを見るには二苦労という現状では、正確に帰路を辿ることは難しいかもしれないけどよ。
「この川の上流には、絶対町があるのよ、地図にも載ってる! そこまでたどり着いて、みくるちゃんを医者に見せるのよ!」
俺は先ほどから、ひとまず雨をしのげるような、屋根のある建物が、そこらへんにないかと注意しながら走っているのだが、それもどうにも見つからない。川沿いを走っているのだから何かしらあってもいいと思うんだが―――
「! キョン、あそこ……何かあるわ」
と、不意にハルヒが声を上げた。雨具のフードの下で光っていたハルヒの眼が、俺たちの行く手の一点を見つめている。それに倣い、俺は雨粒で霞んだ大気の向こうを睨む―――すると。
「『馬車』だわ、馬車が停まってる」
馬車。この嵐の中?
普段と比べたらだいぶ緩慢なスピードで、ハルヒの見つけたシルエットに接近してみる。
すると、それはハルヒの言う通り、二~三人乗りと思われる馬車であるらしく、四つの車輪を履いた屋根付きのシートと、二頭の白馬が、忘れられた放置自転車のように佇んでいる様子が見て取れた。
「馬車か……ハルヒ、朝比奈さんを乗せて町まで行ってくれるよう頼んでみないか? あの馬車なら雨ぐらいはしのげそうだ」
「それもアリかもしれないわね……でもちょっと待って、少し様子がおかしいわ」
そうハルヒが言った直後、
「ア―――ン!」
雨と川の音に紛れて、俺たちの前方から誰かの叫び声が聞こえた。一瞬、聴き間違いなんじゃないかと思ったのだが、次の瞬間、その声に応えるように、
「お母さ―――ん!」
と、幼い子供らしいよく通る声が、最初の声よりも俺たちに近い位置から聴こえてきたことで、俺は近くで何かが起きているのを察し、愛車を停止させた。
「キョン、馬車のそばに人がいるわ―――あっ、あれ!」
ハルヒが叫び、先ほど、子供の物らしき声が聞こえて来たのと、ちょうど同じ方角を指で示す。その軌道を視線で追ってみると―――カフェオレ色の濁流の中に、先ほどの声の主と思われる者がいた。
子供だった。まだ、俺の妹と同じくらいの年齢と思われる、子供らしき人の姿が、ドバドバと荒れ狂う水面に浮かんでいて、俺たちのいる方向へ向かって流されてくるのだ。
「知らないけど、助けないと!」
ハルヒが言うのだが―――しかし、川の流れは非常に激しく、泳いでどうこうできる状況ではないし、投げてよこしてやれる浮き輪だのも持っていない。ワナを作るためのロープくらいならあるが、川を流されているあの子供の手の届く範囲までは届かないだろう。
「ハルヒ、無理だ、この状況じゃ……俺たちにやってやれることはない」
「でも……でも!」
歯がゆそうに眉をしかめるハルヒ。俺だって悔しいさ。しかし俺たちには何もない。何もできない―――
いや、待てよ?
「……ハルヒ、一回降りてくれるか。朝比奈さんといっしょに」
「えっ?」
俺がそう言うと、ハルヒは川へ集中させていた視線を俺の方へと向け、困惑した声を上げた。―――俺の予想なら、行けるはずだ。
だって何しろ、
「俺の愛車に不可能はないんだったよな?」
と、ハルヒもそこでようやく、俺の思考を読み取ったらしい、すこし驚いたように目を丸くした後、この状況に似合わない笑顔を作り、
「そうよ、そうだったわね! 行ってきなさい、キョン!」
後部座席からぴょん、と、ぬかるんだ大地に降り立ちながら、俺の背中をバシっと一回叩いた。そしてサイドカーの朝比奈さんの体を起こし、シートから降ろす。―――準備はオッケーだ。
その名を俺が呼ぶと同時に、愛車のタイヤが回り始め、俺の体を濁流の方向へと運び始める。体の中から力が漲ってくる感覚を感じながら、俺はアクセルを吹かし、その濁流の『上』に乗り上げた。
「よし……イケるぞ、ハルヒ!」
泥ですこし汚れた愛車のタイヤが、荒れ狂う水面の『上』を転がり、俺の体を川の中央部へと運ぶ。
まもなく、子供が流れてくるであろう位置までたどり着くと、俺は片手をグリップから離し、向かってくる子供の、水面から突き出した腕を掴むべく、激流を逆走した。
ガシッ
「掴んだッ!」
朝比奈さんとともに、川辺で俺の動向を見守っていたハルヒが、快哉の声を上げる。濡れて滑っちゃいるが、しっかりと子供の腕を掴んだ俺は、そのまま陸を目指して、アクセルを―――
プシュンッ
「……え?」
アクセルを―――吹かそうとしたその瞬間。奇妙な音が、愛車のマフラーから鳴り響いた。そして直後、
「うおっ!?」
沈んだ。
俺と、俺の愛車が、激流の中に、ズボォッっと音を立て、沈んだのだ。
「キョンッ!?」
川辺のハルヒが声を上げる。泥色の川の中央に沈んだ俺の体は、浮かび上がると同時に、濁流の勢いに任せ下流へと流され始める―――おい、どうなってる。俺の愛車に不可能はないはずじゃなかったのか。
いや、そうか―――なるほど。
叫んだ俺の口の中に、泥のニオイのする水が流れ込んでくる。ヤバい。この状況はヤバい。子供の腕はしっかりと掴んでいるのだが、このままじゃ俗にいう二次災害ってやつになっちまう。
どうすればいい。もし水の上を走れなかった場合に危険だからと、ハルヒと朝比奈さんを下したのが間違いだったか。
ハルヒに再び接近すれば能力は蘇るんだろうか? 町で辻タクシーをした時は俺一人でも走れたんだが、水の上となるとそうはいかないらしい。
「はわ、キョン君……!」
雨音と激流、二つの水音が、俺の鼓膜を埋め尽くしていた中で、ふと、朝比奈さんの声が聴こえた。全力で川の流れに逆らい、水面から首を突き出して、ハルヒと朝比奈さんの方向を見る俺。
熱に浮かされていたはずの朝比奈さんが、ハルヒの肩を借りて立ち、流される俺と子供を見つめていた。と、一瞬、その視線が下流の方角へ投げられる。
「キョン君たちを助けて……おねがいっ!」
胸の前で手を合わせ、空を見上げ、朝比奈さんが叫んだ。ああ、俺も神に祈りたい―――神様と似たようなヤツならちょっと離れたところにいるんだが、今そいつに祈っても、現状をどうにかするのは難しいだろう。
ハルヒが本気で願ったことは現実になる。ってのが、俺たちのもともといた世界でのルールだったわけだが、どうもこの世界に来てから、ハルヒの本来の力はなりを潜めているようだしな。
今のハルヒは、衣服のありかを感知したり、そばにいる人間から能力を引き出すことくらいしかできないはずだ。そう、ハルヒのそばにいる人間なら、きっとこんな状況でも―――
「―――お願い、『サムデイ・イン・ザ・レイン』!!」
いよいよ切羽づまり、現実逃避じみた思考に走り出した俺の意識を、朝比奈さんの甲高い声が、現実に返した。何だ? 朝比奈さんは、誰に何と叫んだ? 俺が川の流れに翻弄されながら、再び朝比奈さんの方を見ると―――同時に。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ
地響きにも似た、低く重い音が、上空から降り注いできた。それに呼ばれるようにして、視線を上方へと向ける。先ほどまでと変わらず、そこには分厚い雨雲がどこまでも広がっているだけで、何も変わったところは―――
「この音……雷?」
と、上空を見上げていたハルヒが、誰にともなく呟いたのが、辛うじて俺にも聞こえた。雷?
はっと、何か閃いたといったような表情を浮かべ、ハルヒが傍らの朝比奈さんに向き直る―――その直後だった。
ズガァ――――ン
「いっ!」
鼓膜を蹴破らんばかりの轟音が、あたりに響き渡った。やはり上空から聞こえてきたその音は、先ほどハルヒが述べた通り、雷―――落雷の音であるように聴こえた。少なくとも、俺の耳には。
そして、その落雷が発生した場所は、音の近さからするに俺たちのすぐ近く。位置としては、俺たちのいる位置よりももう少し下流寄りの、川辺のどこかだ―――雷が落ちたと思われる方角へと視線を向けると、そこには。
「『スギの木』に、雷が落ちた……!」
先の轟音を受け、耳をふさいでいたハルヒが、俺同様、下流へ視線を向け、呆然と呟いた。俺たちが見た先には―――吹きすさぶ風に揺れる、一本の巨木が立っていたのだ。どうやら例の雷は、その木に落ちたらしい。
そして、次の瞬間―――その巨木が、左右に『割れ』た。まるでどこぞのチーズを真ん中から二つに割いたかのように、綺麗に二つに、割れたのだ。
ドバァァァァァン
そして、そのうちの一方は、雨でぬかるんだ大地の上に音を立てながら倒れ―――もう一方は、水音と飛沫をまき散らしながら、激流の上に倒れ込んできた。まるで、『桟橋』のように。
「キョン君、その木に捕まってッ!」
朝比奈さんの声で、ようやく状況を理解した。今の落雷は、Dioの時の酸性雨と同じなのだ。朝比奈さんが、自身の『能力』で杉の木に雷を落とし、この濁流に、桟橋を作り出したんだ―――。
「アン……おお、アン……!」
朝比奈さんが作り出した桟橋を伝い、川辺へと上がった俺と、アンという名前らしい少女のもとに、ハルヒと朝比奈さん、そして少女の家族と思われる、馬車のもとに立っていた女性が駆け寄ってきた。
抱擁を交わす少女と母親らしき女性。数秒ほど抱き合った後、母親は俺たちへ視線を向け、
「ありがとうございます……子供の命を助けていただいて、本当にありがとうございます」
「良いの良いの、当然の事をしたまでなんだから!」
成り行きを見守っていただけのハルヒが、俺の吐くべきセリフを奪ってゆく。ま、ハルヒが朝比奈さんのそばに居たからこそ、朝比奈さんの能力が発揮されたのだと思えば、ハルヒも何もしてなかったわけじゃないか。
この二人は、川の上流にある町で暮らす親子で、馬車で隣町へ向かう途中、嵐に巻き込まれたのだという。俺たちが親子の暮らす村を目指していることを聴くと、馬車に乗せ、連れて行ってくれると言ったのだが、
「せっかくだけど、足は間に合ってるのよね」
と、ハルヒが断ってしまった。なんだよ、俺は乗りたかったぞ、馬車。まあしかし、俺の愛車を積み込めるほどデカい馬車じゃなかったし、仕方ないかとも思う。
桟橋にウマいこと引っかかったことで、下流へと流れ去ることを免れた俺の愛車は、ぶっ壊れちゃいないかと心配だったのだが、泥水を被って汚れたことを除けば特に問題はなさそうだった。
ま、仮に錆びたり壊れたりした所で、俺たちが乗れるような形さえ保っていれば、こいつは走ってくれるんじゃないかとも思う。もともと、燃料が入ってないのに走っている時点で普通じゃありえないことだしな。
親子は俺たちに感謝の意を述べた後、隣町を目指して去っていった。礼の品や金をくれるとも言っていたのだが、それもハルヒが断った。まあ、俺としても、金のためにやったわけじゃないしな。
「キョン、よくやったわ」
と、ずぶ濡れの俺の肩を再び叩き、ハルヒが言う。そして、
「みくるちゃんも、スゴイじゃない、あなたの能力!」
そう、朝比奈さん。彼女が助けてくれなければ、俺は愛車と少女ともども、川の底に沈んで、考えることをやめていたかもしれない。朝比奈さんは、恥じらいと困惑の混ざった様な顔で笑ったあと、
と、すこし畏まった表情を浮かべ、
「……Dioさんの時も、さっきも、私、空にお願いしていたみたいなんです」
顔を見合わせる、俺とハルヒ。一瞬置いた後、ハルヒが、
「空? ……もしかして、天気を操れるっていう事?」
「いえ、操れるっていうほどじゃないんですけど……私にできるのは、空と『おしゃべり』することだけ。それで、お空が私のお願いを聴いてくれたときなら、少しだけ」
その言葉を受け、空を見上げてみる。あの騒ぎで忘れそうになっていたが、嵐は今も続いているんだったっけな。風は少しマシになったが雨粒はまだまだ俺たちの体を濡らし続けている。
「……『サムデイ・イン・ザ・レイン』……お願いします」
朝比奈さんが、呟くほどの音量でそう口にした。視線を下すと、朝比奈さんは先の落雷の時と同様、胸の前で手を合わせ、目を閉じている―――その時。
「あっ」
空を見上げていたハルヒが声を上げた。再び視線を空に向けると―――分厚く空を覆っていた雨雲に、変化があった。ちょうど俺たちの上空にあたる部分の雨雲が、少しづつ左右に分かれ始めたのだ。
「この嵐を晴らしてってお願いしてみたんですが……晴れたのは、私たちのところだけ、みたいですね」
十数秒間、俺とハルヒ、言葉も発せず、見る見るうちに形を変える雨雲を見つめた。十日前、Dioを追い払った時同様に、俺たちの上空の部分だけ、雲にぽっかりと穴が開いて、やがてそこから鮮明な星空が臨めるようになった―――
これって、さっきハルヒも言っていたが、結構スゴイ能力じゃないか?
「多分、これでもう、嵐は怖くないね」
笑顔を浮かべる朝比奈さん。その肩に、感極まったハルヒが抱き着く。
「ひ、ひえぇ、やめてください、涼宮さーん」
じゃれ合う二人を見ながら、俺はボッサボサになった前髪をかき上げ、朝比奈さんによって作り出された異常気象の空を見上げた。―――最強のお天気お姉さん。旅をする仲間としては、これほど心強いものもないな。
「あれ、朝比奈さん、そういえば、熱は?」
「あ、なんだかもう、大丈夫みたい。ごめんなさい、心配かけて」
俺が、先ほどまでのぐったりしていた朝比奈さんの姿を思い出してそう訊ねると、朝比奈さんはケロッとした様子で答えてくれた。もしかして、能力に目覚める前兆みたいなもんだったんだろうか。俺の時はなかったけどな、そういうの。
「あんただって、あの最初の夜、えらい辛そうだったわよ。ホット・パンツの話も聞かずに寝ちゃったじゃない」
と、ハルヒ。あれ、そうだっけ?
「よーし、キョン! きっと、レースの参加者は、嵐で思うように進めてないはず。私たちはこの嵐のうちに、一気に追い上げるわよ!」
朝比奈さんと顔を並べ、ハルヒが元気よく言う。ああ、予想はしてたが、やっぱ夜の間中走らされるのか。
「それじゃ、行きま―――」
朝比奈さんを解放し、俺の愛車の後部座席に飛び乗るハルヒ―――と、その表情が一瞬強張ったのを、俺は見逃さなかった。
「どうした?」
「……誰かが私の衣服を手に入れたわ、今」
ハルヒは、口調と表情を一気に物々しく変化させ、そう言った。
時計を見ながら言い切ったハルヒの予感が外れているとは思わないが、そこまで詳しいことがわかるもんなのかとも思う。Dioが思ったより早いペースで進んだだけなんじゃないだろうか。
「そうなのかしら……そんなペースで進んでたら、馬が潰れちゃうと思うけど。この嵐の中なんだし」
馬の移動距離だの、長距離走った場合のペースだのの情報が、ハルヒの頭にはしっかり入ってるらしい。
俺と朝比奈さんは顔を見合わせ、首を傾げた。ペース的にありえない早さだと言うならなら、Dioはおそらく先頭なんだから、後続がDioより早く衣服の場所にたどり着いたとも考えにくい。
「じゃあ、レースに参加してる人じゃない誰かが……?」
朝比奈さんの言葉に、今度は俺とハルヒが顔を見合わせる。
「その可能性が高いかも……てっきり、レースの参加者たちだけが衣服を狙っているものだと思ってたけど、他の勢力も絡んでるとしたら……」
……めちゃくちゃ厄介なことになるな。
「カンザス・シティの衣服を手に入れた人は、次の衣服がミシガン湖にある事にもたどり着く……レースの事なんて関係ないヤツにそれが知られたら、けっこう面倒ね」
ハルヒは眉間に指をあて、ため息混じりに言った。
そもそも、考えてみればハルヒの衣服を本気で集めようと思ったら、レースなんか無視して、列車とかで先回りなんてのもアリなんだよな。ハルヒの衣服に秘められた力が、レースの賞金よりも大事だとしたらさ。
「少なくとも、Dioは絶対にそれはしないでしょうね。ほかの連中は知らないけど」
と、ハルヒ。確かにDioは、レースを制することに相当の執念を燃やしているって聴いた覚えがある。誰かの噂話だったか新聞の記事だったか、忘れたが。
「……ミシガン湖に先回りするなら、そうとう本気にならないといけないわね」
呟くハルヒ―――しかしそう言いながら、ハルヒの眼は燃えていた。俺にはわかる。こいつはもう、『そうとう本気』なんだろうってな。
To be continued↓
朝食の、オクラの入ったシチューをほおばっていた俺は、ハルヒの言葉を受け、思わず絶叫した。ハルヒは今朝到着したばかりの新聞の紙面に目を落としながら、
「ええ、五十四着。間違いないわ。オッズは大混乱でしょうね」
と、冷静に言葉を紡ぎ、コーヒーカップに口を付けた。
「Dioさん……あんなにリードしてたのに、どうしてでしょう?」
ライムギのパンを細かくちぎりながら口に運んでいた朝比奈さんも、すこし呆然とした様子で首をひねっている。
Dioはフォースステージの十日目に、先頭だろう位置で俺たちが目撃しているし、昨日の新聞でも一位通過間違いなしと予想されていたはずだ。それがどうして54着なんだよ。
「どうも、馬に相当ダメージを受けたらしいわ。間違いなく、衣服の取り合いが原因でしょうね」
ニンジンのピクルスを一切れ口に放り込むと、ハルヒは続けて、
「一着はノリスケ、二着はポコロコ。続けてジャイロ・ツェペリ、ジョニィ・ジョースター、ドット・ハーン……サンドマンが六位で七位がホット・パンツ。この中の誰かが、衣服を手に入れたんでしょうね……別勢力って線も、まだあるけど」
俺は考える。Dioがそこまでのダメージを受けたということは、カンザス・シティにあった衣服がDioの手に渡ったとは考えない方がいいだろう。すると、Dioは次の衣服のありかを掴んでいないってことになる。
「微妙だな……でも、これで、ミシガン湖にDioに先に行かれる可能性はなくなったか」
「順位もさることながら、馬が潰れたDioは、しばらく思うように動けないでしょうね。でも、リタイアしてほかの方法でっていう選択もしなかった。多分、次とその次のステージぐらいは捨てる覚悟で五十四着ゴールインなんだと思うわ」
Dioは一時、先頭集団を離れるってことか。そうなると一つ、あまり考えたくない可能性が出てくる。
「でも、馬が回復するまでの間、Dioがおとなしくしてるとも考えにくい……衣服を持っている誰かや、私たちを狙って攻撃を仕掛けるかもね」
「……そもそも、なんですけど」
口を開いたのは、朝比奈さんだ。
「どうしてレースに参加してる皆さんは、涼宮さんのお洋服を狙うんでしょう? 私たちは、元の世界に帰るために、服をすべて集めるっていう目的があるけど……この世界の人たちは、衣服を集めることで、何をしようとしてるのかな」
「それは……」
何か言おうとして、それをコーヒーと一緒に飲み込み、黙り込むハルヒ。確かに俺もその点は気になっている。よくあるところで言うなら、衣服をすべて集めることで、自分の能力がさらに強力になる―――とか?
「そういうのもあると思うけど、それだけじゃないんだと思う」
パンの欠片をかみ潰しながら、ハルヒ。
「きっと、個人がどうこうなるだけじゃない。もっと根本的なこと……この世界にかかわる『何か』が起きるんじゃないかしら」
ハルヒの服にそんな力がねえ。一聴すると突飛な話だが、そんな話も、俺の知る『世界』でのハルヒの持っていた力の事を考えると、ありえない話じゃないと思えてくる。
「しかし、どいつもこいつもがそんな……世界をどうにかするために、衣服を集めようとしてるともなあ……」
「そうね、もっと単純な目的で動いてるヤツもいると思う。さっきあんたが言った、衣服が引き出す能力目当てとか、あるいは、誰かにお金で雇われてるとか」
雇われてる。なるほど、そんな線もあるか。
「でも、衣服を狙うヤツのうち、少なくとも誰か一人は、衣服に秘められた力に気づいてる者がいる。これはただの私のカンだけどね」
お前のカンはよく当たるからな。
そうだな。俺がDioでも、レース参加者の方で衣服を持ってるヤツがいるというなら、そっちを優先して狙うさ。
それにしても……Dioが五十四着ってのは予想外にもほどがある。俺はDioが一着だと信じていたってのに。
「何よ、ずいぶんDioの順位にこだわるわね、あんた」
「ああ……賭けてたんだよ……Dioの単勝に……な……」
俺の言葉を受けたハルヒが、一瞬目を見開いた後、眉をしかめ、哀れなものを見るように俺を見た。
「どうしてこんな不幸なことが……俺の身にばかり……」
Dioの事は金輪際信用しないぞ。
金輪際だ。
俺たちがカンザス・シティにたどり着いたのは、その翌日、ちょうど夜明けと同時にだった。
サードステージまでは、先頭集団と一日差でゴールへ到着していた俺たちだが、フォースステージの途中十日もロスったことを考えれば、二日という時間の差はまずまずだと思う。
そのフォースステージの着順予想で、俺の道楽魂が独り歩きした結果、五十ドルほどの現金をドブに捨てる事になってしまったが、実際のところ俺たちはそう金に困っていない。サイドカーの購入費が、当初の予定よりもだいぶ安く上がったためだ。
カンザスにて、町を訪れるたびの楽しみの一つとなっている、備品や食料の買い足しを済ませた俺たちは、あろうことか到着したその日のうちに旅立った。俺はせめて一泊くらいしようと考えていたのだが、我らが団長が、
「眠る事なんて、キャンプ道具さえあれば、したいときにどこでだってできるわ。そんな事にお金や時間を費やしてる場合じゃないわよ」
と、ミシガン湖への熱い思いを俺たちにゴリ押ししてきたため、結局、カンザスに滞在した時間は、これまで立ち寄った町の中でも最も短い、約三時間ほどで、俺たちは休む間もなくフィフスステージのコースへと進むことになってしまった。
このステージの特徴と言えば、やはり半分ほど進んだ所に横たわっている、ミシシッピー川の存在だろう。しかし俺の愛車とハルヒが揃えば、川を越える事なんか何でもない。
ハルヒが一抹の理性を持っていてくれてよかったよ。
Dioの他には、Dioが誰かに話しでもしていない限り、まだハルヒが衣服と同じ力を持っていると知っている参加者はいないはずだ。それを余計な『目立ち』で浮かび上がらせたくない。
可能なら、誰にも気づかれず、誰よりも早くミシガン湖へ。それが俺たちの今の目標だった。
「しかし走りづらい地形だな……地面が耕してあって柔らかすぎるぜ。それに、このトウモロコシも邪魔だ」
額に滲んだ汗を拭いながら、俺は不満を口にする。ここら一帯は農耕地帯であるらしく、馬で移動する分にはいいんだろうが、バイクとはどうにも相性が悪い。
この分だと、ほぼ休みなく走っても、一日に100kmかそこらしか進めないだろう。ミシシッピーに近づくにつれて虫も多くなり、キャンプする場所を探すのにも苦労しそうだ。
「ねえ、キョン、知ってる? トウモロコシって、宇宙から来たかもしれないのよ」
と、俺を馬車馬のごとく働かせている雇い主が、突然そんなことを言い出した。
「アメリカはトウモロコシ文化でしょ? そのアメリカにトウモロコシがやってきたのは、宇宙人とコンタクトした際に、種をもらったんだっていうのよ」
トウモロコシを差し出してくる宇宙人。俺は脳裏に、麦わら帽子をかぶり、背中にカゴ満タンのトウモロコシを担いだオーバーオール姿の長門を思い浮かべ、笑いにもならないような笑いを漏らした。
「宇宙人……ぷふっ」
おそらく、朝比奈さんも似たようなものを思い浮かべたんだろう。サイドカーのシートの上で、口元を手で押さえ、肩を震わせている。ハルヒ、今のはここ最近のお前の話の中じゃ、抜群に面白かったぞ。
「そう? でも怖いわよ。今やトウモロコシを食べてるのはアメリカ人だけじゃない、全世界の人々が、当たり前に食べてるトウモロコシが、実は宇宙から来ていたら。きっと、地球人はいつか、内側から乗っ取られてしまうわね」
そりゃ怖いな。自我を保っていられるのが、トウモロコシアレルギーの人間だけになっちまう。
いつもは微笑みながら、俺とハルヒの会話を見守っていることの多い朝比奈さんが、珍しく話に乗ってきた。そういや俺も聞いたことがあるな。小さいバケツに一杯で結構な値段がするんで、食ったことはないんだが。
「宇宙人の映画を見ながらポップコーン食ってるやつは、もう手遅れかもしれませんね」
「あら、私、スター・ウォーズを映画館で見たわよ、子供の頃。でも、ポテトチップス食べてたかな」
映画館でポテチ食うなよ……どう考えても騒音被害出るだろ。
「あら、あんた知らないの? ポテトチップスを音たてずに食べる裏技あんのよ?」
「そりゃ初耳だ。この世で、映画館以外の場所じゃ、何の役にも立たない裏技だけどな」
「今度教えたげる」
いいっつーの。ポテチはバリバリ言いながら食べるのが醍醐味だ。もそもそ食ってたら、気分が暗くなると思うぜ。
「ポテトチップス、食べたいなあ。この時代にもあったのかなあ」
風になびく栗毛色の髪が綺麗な朝比奈さんが、ジャンクフードへの懐かしさを空中に浮かべ、ぽやんと見つめている。するとハルヒは、
「ポテチは十九世紀にもあるわよ。知ってる? あれって、元は料理人の嫌がらせだったのよ?」
「ふぇ? どうしてポテトチップスで困るんですか?」
「つまりね―――」
なんか今―――結構平和で、いい感じなんじゃないか? このヘンテコ世界もさ。
「何なら今夜揚げてあげよっか? ハルヒ特製ポテチ。確かまだ芋はあったわよね」
「え、作れるんですか? スゴイ……」
「もちろんよ。キョン、あんたも食べたい?」
「あ、ああ、いいな。俺は少し堅めのヤツが好きだな……ははは」
……いや、分かってる。俺自身もよくわかってるんだ。もともといた世界の方がいいに決まってる。
しかしなんだ、持つべきものは仲間というべきか、こうして三人で駄弁りながら、長閑な風景の中を走っていると、この世界も案外悪くないなっていうような気持ちが湧いてくる。
と、言うか……ハルヒの奴が、俺に無理やり免許を取らせてまでバイクに馳せていた憧れってのは、つまりこういう感じの事だったんじゃないだろうか。
考えてみれば、仲間と一緒にバイクでアメリカ大陸を走るなんて、俺一人の人生だったら一生あり得なかったろうな。
「おい、ハルヒ」
「ん、何よ?」
「悪くないな、バイクってのも」
俺がそんな言葉を漏らすと、後部座席のハルヒは何かしら反応を返してきたようだったが、その内容は、エンジンの音にかき消されて、俺の耳には届かなかった。
カンザスを出てから、すっかりトウモロコシと仲良くなった俺たちは、六日ほどかけ、ミシシッピー川の流れを臨める地点までやって来ていた。
周囲を見渡すと、トウモロコシの影の中を進む、馬に乗ったレース参加者と思わしき人影がいくつも伺える。やはり馬に乗る者たちにとって、川越えはそう容易いことではないらしく、皆、二の足を踏んでいるようだ。
ハルヒが言う。その指が示す先に視線をやると、ゼッケン付きの馬に跨った黒い肌の男が、今まさに、ミシシッピーを渡っているのが見えた。結構なスピードを保ったまま、川の流れに対して垂直に進んでいる。
「あれがポコロコか、ナマで見たの初めてだ。でも、普通川越えって、もっと慎重に行かないか?」
俺が思ったことを口にしてみると、ハルヒは、
「そうね、あんなスピードじゃ、もし馬が足を取られたら―――」
と、俺へ返答しかけ、すぐさま、
「あっ、コケた!」
ミシシッピー川を中ほどまで進んだ所で、急にポコロコの馬が傾き、その右半身が、ズボっと水面に深く食い込んだ。部分的に深いところでもあったのだろうか。
バランスを崩したポコロコは、背中の荷物の重さに引っ張られ、ついに、
「落馬した!」
どぼーん。馬から滑り落ち、ミシシッピーの水面が飛沫を上げた。
「おい、何だありゃ。あれでここまで好成績なのか?」
俺は馬術のことは珍紛漢紛だが、今のポコロコの有り様がろくでもないってことくらいわかる。俺の問いかけに、ハルヒは双眼鏡を目に当てたまま、
「言ったじゃない、よく分からないヤツだって。あらら、流されて行っちゃうわ……」
さらばポコロコ。実は、フォースステージの着順予想でDioに賭けるかポコロコに賭けるか迷ったんだが、こりゃポコロコに賭けなくて正解だったな。いや、結局一位はノリスケだったんだからどのみち正解はしちゃいないが。
と、その時。
ハルヒの言葉に、再びミシシッピー川を睨む。どうやら、たまたま浅い部分があり、そこに乗り上げた形で、流されるのを回避したようだ。上半身を起こしたポコロコは、起き上がりながら、手に何かを持っている。何だあれ、網?
「網みたいね。誰かが魚を捕るために仕掛けてた網に引っ掛かったんだわ。馬にダメージもなさそうだし、ついでにオサカナもゲットしてるわ」
「すごく運がいいんですね……」
ハルヒの実況中継に、唖然とした様子で呟く朝比奈さん。落馬して逆にラッキーってのもなかなか無いだろう。もしかしてあのポコロコは、ここまでもあんな感じで来ているんだろうか?
「あれが彼のやり方さ」
魚の入った網を担いだポコロコが、ミシシッピーの中ほどから、向こう岸に向かって再スタートしたのと時を同じくして、突然背後から声がしたもんで、結構ビビった。
このトウモロコシ畑には身を隠すところがいくらでもあるので、どこかにDioでも潜んでいないかと心配していたもんだから、尚更な。
しかし、振り返ると、そこに立ってのは、Dioではなく―――
「あんたは、ホット・パンツ!」
ウマいもんを作るのが上手で、親切で、腕を溶かして動かす特技を持った、不愛想な馬乗りがそこにいた。この世界に来た初日に出会って以来だから、なんだかんだ一か月ぶりぐらいか? 思わずその名前を声に出しちまったよ。
「聞き覚えのあるエンジン音がしたから、来てみたんだ」
右手に持っていた何かを腰のホルダーらしきものに仕舞い込みながら、ホット・パンツは、凛とした声でそう言った。フォースステージでも上位をキープしていたこの男が居るってことは、俺たちは先頭にかなり近づいているらしい。ポコロコもいたしな。
「しかし不思議だ。君たちはレースの参加者じゃない、何故ここにいる?」
首を傾げながら問いかけてくるホット・パンツに、俺はどう返答すべきか考えた。ホット・パンツが衣服を持っているっていう線もあるんだよな。サードステージでもフォースステージでも、上位にいたわけだし。
それにこの男は、俺や朝比奈さん、Dioの能力と、おそらく同じ系統であろう能力を持っている。それが衣服によって引き出されたものだという可能性だってある。
どう答える? と言う意思を込めてハルヒを見る。ハルヒは一瞬、こちらに視線を投げると、すぐにホット・パンツに向き直り、
たった今、俺が考えていたことと、ハルヒが考えていたこととは、大して違わないと思う。ま、あながち嘘じゃなしいな。
「それと、あなたを探してたのよ。もう一度会いたくてね」
続けて言葉を紡ぐハルヒ。確かに、ホット・パンツには世話になったし、礼を言いたいとは思っていたが、探していたって程でも―――
「そうか。わたしも君らに会いたいとは思っていた。さっきこの『セーラー服』と『右靴』、そして『ヘルメット』を手に入れたときからな」
ホワイ?
その言葉の意味を、俺の脳が理解するより早く、ホット・パンツが動いた。先ほど腰にしまった例の『何か』―――この距離で見ると、銃身の短い拳銃のように見えるそれを、左手で取り出し、
「『聖なる衣服』は、次の衣服の場所をミシガン湖だと教えてくれた。しかし、それかそれ以上に強く、君が近くにいることを教えてくれたぞ、涼宮ハルヒ」
二秒後、察しの悪いことに定評のある俺の頭が、ようやく現状に追いついた。つまり―――こいつは、俺たちが懸念していた通り『衣服を狙うもの』だったのだ。そして実際に、そのうちの、なんと三つを手に入れている、と。
「キョン、逃げるわよ!」
「ふええっ!」
俺は慌ててアクセルを吹かし、ミシシッピーに向けて愛車を発進させ―――ようとした瞬間、ブジュウウ。と、いつだか耳にしたのと同じ音が俺の耳に届いた。同時に、左手に違和感を覚える。
「なっ……左腕がっ!」
これは―――なんと説明したらいいんだ。率直に言うと、俺の左腕がホット・パンツの右腕と―――『繋がっ』ている。
「『肉スプレー』だ。涼宮ハルヒを狙ったんだが、まあ君でもいい。そのバイクを運転できなくなればな」
「ま、待て! ホット・パンツ……俺たちは、衣服なんか持っちゃいない!」
咄嗟にそんなことを口走ってしまったが、ホット・パンツが衣服を持っていて、衣服とハルヒが引き合う力によって、俺たちが近くにいることを知ったというならごまかし様がない。
それにこの感じじゃ、今に、ハルヒの存在自体が、衣服と同じ力を持っていることもバレちまう―――
「くそ……逃げろ、ハルヒ! 朝比奈さんを連れてッ!」
俺が声を発するより早く、ハルヒは俺の愛車の後部座席から飛び降りていて、朝比奈さんの手首を握り、ミシシッピーに背を向け、トウモロコシ畑の中へと駆け出していた。
そうだ、逃げてくれ。『ハルヒが衣服を持っている』ならまだいい。今後狙われるリスクはあるが、Dioの奴のようにハルヒの力がバレちまうのが最もヤバい。
幸いというか、ホット・パンツの能力を食らったのは俺だ。俺が囮になっている間にハルヒたちを逃がしてやりたい―――しかし、
「そうもさせないさ」
ホット・パンツが、左腕を持ち上げる―――いつだか目にしたのと同じ光景。その腕は、中ほどから先が『溶け』ていた。その先端部分が一体どこに行ってしまったのかを俺は瞬時に理解する。
「ハルヒ、読まれてるッ! ホット・パンツの腕に『先回り』されてるぞ、そっちは駄目だッ!」
逃走するハルヒが、俺の声を浴び、一瞬こちらを振り返った。しかし、時はすでに遅く、次の瞬間、再びあの奇妙な音……ホット・パンツの肉スプレーとやらの噴出音が聞こえた。
「きゃあっ!」
「ふぇぇっ!」
トウモロコシを一人数本づつなぎ倒しながら、大地の上に倒れ込むハルヒと朝比奈さん。まずい、このまま行くと―――ホット・パンツは、ハルヒの持つ力の事に―――
「……なるほど。力を持っているのは『衣服』でなく、『君自身』ということか」
―――バレちまったよ、おい。少し何かを考える様に静止した後、俺の体を引きずるようにして、ハルヒと朝比奈さんに向かって歩み寄りだすホット・パンツ。駄目だ、ハルヒに近づくな―――
「バイクでわたしを逆に引っ張っていこうと言うのか? みすみす君をバイクに乗らせやしないぞ」
俺の行動に気づいたホット・パンツが、一時、歩みを止めて俺を振り返る。こんちくしょう、俺の考えが丸ごと読まれている。
ハルヒと朝比奈さんは、何らかの方法で、その場から動くことができない状態にさせられている。なら、ホット・パンツのほうをハルヒたちから遠ざけてやろうと思ったのだが。
「無駄な抵抗はやめろ。命を奪おうと言うんじゃないんだ」
いいや、それに相当する事をやろうとしているのさ、あんたは。ハルヒの力に気づいたこいつは、きっとハルヒを連れて行っちまう。どんな目的で衣服を集めているのかは知らないが、おそらくハルヒは無事じゃ済まないだろう―――
その思考が、脳裏に走ったのと同時にだった。
『それ』は、突然体の奥底から溢れ出てきて、同時に、俺の頭の中をいっぱいに埋め尽くした。正体は分からないが、あえて言うなら、『熱』に似た、形のない『何か』。後程、俺はそれが『力』であったことを知るのだが―――この時は、無我夢中だった。
「させて……たまるかよッ!」
ドルドルドルッ……
ホット・パンツが再び、ハルヒたちに向かって歩き出そうとする―――その最初の一歩目の足音をかき消すように、俺が右腕を伸ばした先で、エンジンのいななく音が響き渡った。マフラーから熱気が迸り、タイヤが急速に回転し始める。
「何ッ!」
音を聞きつけ、俺を振り返るホット・パンツ。俺は、体の奥から漲る何かに、自身の感覚のすべてを任せた。そして―――マフラーを掴んだまま、愛車を『発進させ』た。
ミシシッピーの方角へと疾駆する愛車に引きずられる形で、俺、そして、俺と『繋がっ』ているホット・パンツの体が移動させられる。首だけを持ち上げて、ホット・パンツがしっかりと俺に続いて引っ張られていることを確認すると、
「『シックス・センス・アドベンチャー』! 向こう岸まで、突っ切れェ―――!!」
内なる感覚に任せ、そう叫んだ。さすがにミシシッピー川の向こう岸まで行くことができれば―――ハルヒたちがどこかに身を隠す時間くらい稼げるだろう。もっとも、衣服とハルヒが引き合っている以上、またすぐ見つかってしまうかもしれないが。
やがて俺たちの体は、川辺の少し泥っぽい大地を引きずられていき、ほどなくして、ミシシッピーの水流に引きずり込まれた。俺の愛車は、能力によって、水面より下へ沈むことはないが、俺の体のほうは普通に沈んだ。焦って、マフラーを放さないようにするのが大変だったよ。
水中を引っ張られながら、ホット・パンツはそう言い、俺と繋がっている右腕を引き寄せた―――その直後、俺の腕にかかっていた重さが消滅した。
視線を進路と逆に向けると、ホット・パンツがハルヒたちを残してきた岸へと泳いでいく姿が見える―――そうか、繋げるのも能力なら、それを解除するのも能力ってことかい。
「くそ……こうなったら、やってやる!」
マフラーを握った右腕を引っ張り、上半身を水面から突き出すと、走行中の愛車の後部座席に両手をかけ、体を車上へと引きずり上げる。ずぶ濡れの両手をグリップに伸ばすと、何とか正しい姿勢で愛車に乗り上げることができた。
水上をドリフトしながら、進路をハルヒたちのいる岸へと向け直す。ちょうど、ホット・パンツが、陸に上がろうとしているところだった。何も考えず、その背中に向かってアクセルを吹かす。
「この野郎ォッ!」
そう叫びながら、猛然と向かってくる俺に気づいたホット・パンツは、上半身を水面から出した体制で、こちらを振り返った。愛車がホット・パンツの背中を捉えるのと、ホット・パンツが川辺へと上がるのとなら、前者の方が早いはずだ。
しかし―――
「よく見ろ、バイクに乗り上げたのは君だけじゃない」
その言葉と同時に、俺は気づく―――ホット・パンツの右腕が、本体にくっついていないことに。ハルヒたちを束縛した時と一緒だ―――その腕の先のありかは、
「君の右手の上だ」
グリップを握っている俺の右手の甲。その上に、ドロドロに溶けた切断面を持つ、ホットパンツの右腕が、すぐ仲間を呼ぶどっかのRPGの敵キャラのように鎮座していた。そして、その手の中には、あの『肉スプレー』―――
ブジュウウッ
「むぐ―――!!」
噴出口から、泡とも泥とも言えない手触りの、半固体状の『肉』が噴出され、それが俺の眼前を覆った。攻撃が及んだのは、目元だけでなく、噴出された肉は、俺の顔面全体を塞ごうとしている―――息ができねえ。
直後、水面から感じていた大地の感触が消滅した。ハルヒと離れたためか、俺が呼吸ができなくなったためかは分からないが、俺の愛車の力が弱まり、、ミシシッピーの水面に、飛沫を上げながら飲み込まれる。
「キョンっ!」
数秒後、地面に叩きつけられた俺のそばで、ハルヒの声がした。ちょうど二人がいる地点まで吹っ飛ばされたらしい。息ができねえ。ただでさえ息が上がってたって所に、この攻撃は強烈だ。
あの始まりの日、恐竜を『窒息』させると言っていたのは、こういう事だったのか。
と、俺がいよいよ、顔面が紫がかってきたのではないだろうか、という時。不意に、顔に貼りついた肉が崩れ落ち始めた。指先で掻き毟ると、簡単にはぎ取ることができる―――
「ぶはっ!」
口、鼻と、続けて肉を落とした後、目元の肉をこそぎ落とすと、ようやく顔面に違和感がなくなった。少し霞んだ視界を、先ほど声がした方へと向けると、そこにハルヒと朝比奈さんの姿が見て取れる。
「…………」
俺は二人に、何かを言おうとした―――のだが、それを遮るように、ざくざくと、大地を踏みしめる音がゆっくりと俺たちに近づいてくる。ホット・パンツが来ているのだ。
視線を向けると、逆光を背に浴びたホット・パンツの体は、まるでにじり寄ってくる熊か何かのようで―――
「君は、わたしが恐ろしくはないのか?」
と、不意に。ホット・パンツの口から、そんな言葉が零れ落ちた―――恐ろしくないのか、だって? そりゃ、恐ろしいに決まっているだろう。俺たちに害意を持った、得体のしれない能力を持った超人が、目前まで迫っているんだぞ。
「……恐ろしいさ」
わずかな無言の時間のあと、俺がそう返答すると、
「なら、どうして『さし出さ』ない?」
と、先ほどまでの、俺とこの男のやり取りの後であることを考えたら、少しばかり場違いに思える言葉を口にした。さし出す。そりゃ、つまり―――俺が、自分の命のために、ハルヒのことをさし出す、って事か?
それに先ほどは、ハルヒが無事じゃ済まないだろうと考えたが、ホット・パンツの目的次第で、ハルヒだって悪いようにはされないかもしれない。
しかし、それをしないのは何故か? 改めて問われると、すぐにその理由が浮かんでこない。根本的なことを言うなら、元の世界に帰るために? だろうか。
しかし、この肉スプレー使いに、俺たちがこの世界に来たいきさつをこの場で説明するのは難しそうだ。逡巡した後、俺は何も答えを返さないことにした。ハルヒと朝比奈さんも、額に汗をにじませながら、展開を傍観している。
「……そうか。強いな―――君は」
十秒ほども、沈黙の時間があっただろうか。やがて、ホット・パンツは、両手の中のスプレーを腰のホルダーに収めながら、何やらしみじみとした声色で、そう言った。
「え?」
俺が、思わず間抜けな声を返すと、
「涼宮ハルヒを君らから奪うのは簡単だ。だが、今はそれはしない。ミシガン湖の衣服の事もあるし―――いや。それより先に、手に入れなければいけない衣服がある」
と、半身をミシシッピー川に向け、目の前に広がる大河に視線を投げるホット・パンツ。再び、沈黙が舞い降りた。じわじわとだが、太陽が沈もうとしていて、ミシシッピーの水面は、橙色を帯び始めている。ホット・パンツは、ほんの五秒ほど、その光景を眺めた後、
「『ファニー・ヴァレンタイン』が、聖なる衣服を集めている。実際に、いくつかを手にしてもいる」
と、藪から棒に話し始めた。
ファニー・ヴァレンタイン? 聞いたことのない名前だ。知っているか? という意思を込め、ハルヒに視線を向けると、ハルヒは少し呆気に取られたような表情を浮かべながら、
「ヴァレンタイン大統領が……?」
「このレースは、アメリカ大陸に散らばっている、君の衣服を集めるために計画されたレースなんだ……知っているかもしれないが、選手の何人かが衣服を探し集めている。わたし自身も含めてな」
ファニー・ヴァレンタインという名前を耳にした記憶は無かったが、後半の事は俺も知っていた。何人か―――もし、衣服を集めているのが、この男とDioだけなら、何人かという表現はしないだろう。ってことは、まだいるって事だ。おそらく、先頭集団の中に。
ホット・パンツは、言葉を紡ぎ続ける。このあたりでようやく、この男が何を考えているのか。俺たちがどんな状況にあるのかが、頭の中に染み込んできた。つまり―――この男は、俺たちを見逃してくれるつもり、なのか?
「もし、わたし以外に、涼宮ハルヒのパワーに気づいているものがいるなら、より一層だ。レースのコースから出来るだけ離れて、回り道をして、故郷に帰るべきだ」
「……衣服を狙う人々が、私の力を狙ってくるだろうから?」
と、ここまで沈黙していたハルヒが口を開く。夕陽を浴びるホット・パンツは、音もたてずに一つ頷いた後、
「わたしの目的も、最終的には君と、君の衣服をすべて手に入れることだ。しかし、今はヴァレンタイン大統領の持つ衣服を奪取するのが先だと判断する。―――大統領の手に、もし、すべての衣服が集まれば」
そこで一度言葉を切り、ホット・パンツは数秒沈黙した。一国の大統領が、ハルヒの衣服を集めているだと? 一体、その目的は―――
「……忠告はした。君たちとはまた会うことになるだろうが、わたしにはやらなければならないことがある」
ずいぶん唐突に話を切り上げるやつだな。さっきの言葉の続きはどうなっちまったんだ。大統領が衣服を手にしたら、何が起きるって話なんだよ。
「君のおかげで、ミシシッピーの浅い部分も見つけられた。日が暮れる前に川を渡りたい」
さすがアメリカ人、自由だな。と、冗談めかしている場合でもない―――しかし、現状でこれ以上ホット・パンツから話を聞く難しいかもしれない。理由は分からないが、ここまで俺たちに情報をくれただけでもありがたいことだ。
「……もし、わたしの忠告を無視して、『衣服』を追い続けるとしても、『ジョニィ・ジョースター』には近づくな」
ジョニィ・ジョースター。ファニー・ヴァレンタインは知らないが、そっちは俺も知っている。詳しい順位は覚えていないが、何度か上位三着に入ったこともある、ジャイロとコンビを組んでるってヤツだ。
「……親切にありがとう、気を付けるわ」
と、言ったハルヒは、ホット・パンツが突然態度を変えたことに俺ほど仰天はしていないようだが、やはり少し呆気に取られた表情をしている。
傍らの朝比奈さんは、そもそもホット・パンツと初対面だ。何が起きているのか分からないという顔で、ただ成り行きを見守っていた。
「―――わたしはわたしの目的がある。君らには君らの目的がある。各々だ……それに、今君を手に入れなくとも」
そこまで話し、また言い淀むホット・パンツ。ハルヒたちを見る限り、拘束も解かれているようだ。どうやら本当に俺たちは助かったらしい。俺がずぶ濡れになり、愛車が泥だらけにはなったがな。
やがて、ホット・パンツは俺たちに背を向け、ミシシッピーの方角へ向かって歩き去っていった。奇妙な空気と、沈黙が、俺とハルヒ、朝比奈さんの間に流れる。
「……『いい人』、なんでしょうか……」
やがて、沈黙を朝比奈さんが破った。しかし、俺の知る限り、『いい人』は人の顔面に肉を吹き付けたりしない―――が、少なくとも、Dioよりはまだ話せる相手ではあるようだった。やはりハルヒを狙っている事も間違いないようだが……
「……ジョニィ・ジョースター」
ぽつり、とハルヒが呟く。先ほどのホット・パンツの話でも上がった名前。今になって思いだしてきたが、噂に聞いた限り、ジョニィは元天才騎手だが、今は脚が動かない障害を持っているって話だった。
そしてそいつも、ハルヒの衣服を狙っている。……何なんだ、『聖なる衣服』ってのは。俺たちが元の世界に帰るために必要なようなもので、この世界の連中は何をやらかそうってんだ。
「……分からないけど、感じるわ。私たちとジョニィ・ジョースターは、きっといつか出会う」
続けて、呟くほどの音量でハルヒがそう言う。だが、ホット・パンツの話じゃ、ジョニィは衣服を持っていないって話だったが……しかしながら、ハルヒの予感はよく当たるんだよな。いい意味でも、悪い意味でも。
「二人とも、急ぎましょう。ミシガン湖へ! Dioやジョニィが、先にたどり着いてしまう前に」
夕日に染まるミシシッピーを前に、ハルヒが高らかに言い放った。心配が山積みだが、とりあえず―――ミシシッピーの水面に犬神家の一族みたいに突き刺さってる愛車を回収してから考えるとするか。
結論から言おう。
ホット・パンツはいい奴なんかじゃない。
「あんたが悪いんでしょ! どうすんのよ、私たちの全財産が、ミシシッピーを流れてっちゃったのよ!?」
ハルヒの叱咤が容赦なく俺に浴びせられる。俺たちが一体どんな状況にあるのか、今のハルヒの発言で、大体察することができただろうか。早い話、ホット・パンツのおかげで、俺たちは一文無しになってしまったのである。
ハルヒは俺のせいだと言い切っているが、実際のところは、俺たち三人の誰が悪いわけでもない。と、俺は思う。何しろ、ホット・パンツと遭遇し、戦闘になるという、緊急事態が呼んだ事故だったのだから。
要するに、俺が顔面に肉スプレーを食らい、愛車の前輪がミシシッピーの底に突き刺さった時、運悪くも座席の下の収納部分の蓋が開いてしまい、中身が丸ごと水流に持っていかれてしまったというわけだ。
「これじゃ、町についても、新聞も買えないじゃないの!」
「す、涼宮さん、あんまり怒らないで……私たちを助けてくれようって、キョン君、頑張ってたんですから……」
「ミシガン湖に急がなきゃいけないって時に! あんたは! どうして! そうなの!」
俺の頭を平手でバシバシ叩きながら、涼宮ハルヒは不機嫌だった。文句なら、あんな状況を呼び込んだホット・パンツに言ってやるのが正解だと思うんだが。収納のカギをきちんと閉めてなかった俺も、確かに悪いけどさ。
しかしこうなったハルヒに何を言っても、怒りの矛先が俺意外に向くことはないと、これまでさんざん思い知らされてきたので、とりあえず何も言わず、今は叩かれておくことにした。
俺に文句を垂れ、頭を叩くことで溜飲が下がるってんなら、まあ付き合ってやるさ。平手が拳固になったら、さすがに俺も反抗するけどよ。
「乾パンも水浸しになってるじゃない……あーもう!」
余裕だと思っていたミシシッピー越え。結果的に、俺たちは大ダメージを負い、次に訪れた町の空き地にキャンプを構え、アルバイトに励むことを余儀なくされた。
例によって俺は、愛車の移動力を活かしての辻タクシー、朝比奈さんはアイスクリームの屋台で臨時のアルバイト。今回は、ハルヒも資金繰りに参加した。なにやら何やら路上に座り込み、見世物か物売りかをしていたようだが、詳細は知らない。
そうして、俺たちが、旅を再開できる状態になったのが、ミシシッピーでホット・パンツに再開した日から四日が経った夜の事だった。レースの先頭がフィフスステージを突破したという情報は、まだ届いていない。
「フィフスステージのゴールのシカゴから、ミシガン湖までは、一日もあれば行けちゃうわ……いよいよまずいわね、先回りするなら、この町からミシガン湖まで、遅くても三日で走り抜けないと」
ハルヒの予想と言っても、この二日後というのはフィフスステージの予想行程日数そのまんまなんだが、その上さらに、衣服を持っている誰かが、ミシガン湖に近づいているということが、ハルヒにはわかるらしい。
「ホット・パンツさんは、ミシガン湖へ行かないのかな? 確か、大統領の持っている衣服を取りに行くって、言ってましたけど」
と、地図を睨んでいた視線を、俺にちらっと向け、朝比奈さんが言う。
「本人が言ってたんだから、そうするつもりなんでしょうね。とりあえず、あの人が衣服を手に入れてくれるのは、私たちにとっていいこと……とまでは言えなくとも、悪くないことだと思うわ。Dioや大統領の手に渡るよりはね」
あいつならまだ、後々交渉に応じそうな気配があるからな。大統領のほうがどんな奴で、どんな目的で衣服を集めているか知らんが、とりあえず、Dioのやつに対しては、交渉しようなんて考えはそもそも持たない方がいいだろう。
「結局、カンザスの衣服ってのは、ジョニィとジャイロが持っていたヤツだと思っていいのか?」
俺が訊ねかけると、ハルヒはむむ。と、眉間にしわを寄せつつ、
「十中八九、ホット・パンツがジョニィから奪った中に、カンザスの衣服は入ってると思う。っていう事は、Dioが持っていない方の靴を取ってたのも、その二人って事になる。で、ホット・パンツがそれを全部浚って行った、ってことかしら」
むーん。正直言ってよく分からんが、とりあえず今後の展開は、ジョニィの順位次第だな。俺は、新聞と地図を睨みすぎ、カチカチになった視神経を労わるべく、上を向き、閉じた瞼の上に手を置いた。
「ホット・パンツは今や総合でも上位にいるんだし、ここまで来たのにレースを放棄するってのも考えにくいが、本人が大統領のところへ行くって言ってたからなあ……つーか、大統領って、そもそもどこにいるんだ?」
「あんた、何も知らないのね。大統領は、レースのスタートから今まで、ずっとレースと一緒に、アメリカ大陸を横断しようとしてるわよ。もちろん、列車とか馬車でゴールに先回りしてるけど。だから、結局ホット・パンツもシカゴに行くのよ」
あ、そうなの?
しかしそれなら、シカゴにいる大統領が、もしミシガンに衣服があることを知っていたら、とっくにそれを手に入れているはずだよな?
「そうね。でも、ミシガン湖の衣服が誰かに取られた気配はまだしない。大統領は、今、衣服を見失っているはずよ」
なるほどな。伏せていた瞼を開くと、テントの天井から吊り下げられているランプに、暖かみのある光がともっているのが見える。
瞼を何度か開け閉めしていると、朝比奈さんがスープカップを、俺に手渡してくれた。今日の晩飯当番は朝比奈さん。宿に泊まらない日の晩飯は、ハルヒと朝比奈さんが日替わりで作ってくれるのだ。
朝比奈さんが来る前は、俺とハルヒで当番制だったんだが、俺が何か作ろうとしてもマズいもんができるだけだと、ある日を境にハルヒも悟ったらしい。それ以来、俺が晩飯を作らされることはなくなっていた。
今日―――というかここ四日の食事のメニューは、保存食を使ったもので、干し肉とパスタの入ったスープに、チーズの乗ったパンだとかだ。狩りが上手くいったときはもっと豪華だったりもするが、ここは町中だしな。
ま、二人の料理はどっちもウマいから満足してるよ。もしかして、二人でレストランとか出来るんじゃないだろうか。もし元の世界に帰れない、なんてことになったらの話だけどさ。
「キョン、食べたらすぐ寝て、明日は朝五時起床よ。明日でもう、フィフスステージの十三日目だもの、余裕がまるでないわ」
ああ、分かってるよ。飯を食ったら、さっさと隣のテントに帰って、シュラフにくるまって寝りゃいいんだろ。この世界に来てからずいぶんと早寝をする習慣が付いちまった。
かと思いきや、夜通し走らされたりもするし、俺の生活リズムは滅茶苦茶だよ。自律神経失調症にならなければといいんだが、と、前から思っている。
ガソリンいらずのバイクなんていう強力な兵器を有している割に、なかなかうまくいかない俺たちの旅が、再び始まるわけだ。いつ終わってくれるんだかな。
シャミセンの毛だらけのベッドが恋しいぜ。
フィフスステージの上位着順は、なんというか、無難だった。一着は、俺たちの前で奇跡の落馬を見せたあのポコロコ、二着にヒガシガタノリスケ。
俺たちの全財産をミシシッピーに放ってくれたホット・パンツがそれに続く三位に入っていて、その次にジョニィの名前があった。
俺たちがシカゴ入りしたのは、その連中がゴールした日の夜の事で、当然のように、滞在時間は短かった。直前の町で買い出しをあらかた済ませていたこともあったしな。
その際、防寒着を三人分購入した。綿入りの分厚いマントで、ハルヒが赤、朝比奈さんはそれの色違いのもの。俺はそれのサイズのでかいヤツで、黒いのを選択。
レースのコースは、フィフスステージの途中から気温の低い地域に入り、シックスステージラストに至っては凍りかけの海峡を渡る必要があるという。アリゾナも困るが、かといって寒いのも勘弁してほしい。
「キョン! 夜通し走れば、ジョニィより先に衣服をとれる! 時間的には、ジョニィたちはもうミシガン湖畔にいると思うけど、この寒くて暗い夜中に衣服を見つけたりできないはずよ!」
その寒くて暗い夜中を、バイクで走り続けろと言っているのだから、涼宮ハルヒという生き物は実に厄介だとつくづく思う。いくら防寒具があったって、一晩中走ったりしたら、体が芯から冷たくなっちまうっつーの。
とはいえ、衣服を手に入れるにはそれしか無いのも事実だ―――結局、俺はハルヒの指令に従い、シカゴからミシガン湖へ向けて北上するルートを、夜の間中走らされた。それこそ馬車馬のようにな。
その無敵のバイクに乗った俺たち三人は、夜明けとともに、ミシガン湖の畔へとたどり着いた。すっかり雪の積もった森林の中を、木の根を避けながら進む。
「けっこう森が深いぞ、ここからは歩くしかないな」
「ジョニィたちが動くとしたら、今日これからよ。遭遇しないように気を付けるけど、衣服は絶対渡さない」
難しい注文だな。もし、先に手に入れられてしまったら奪い取るつもりだろうか?
「それは無理ね……ジョニィとジャイロは、カンザスでDioを出し抜いて、衣服を手に入れてるのよ? ロッキー山脈の抗争の跡にも、十中八九絡んでる。私たちの『能力』じゃ、勝ち目はまずないわ……だから『先取り』なのよ」
ハルヒは地図に視線を落とし、
「大丈夫、ここまで近づけば、かなり強く衣服のありかを感じ取れるわ。ついてきて、二人とも」
「は、はい」
木々の枝を縫って大地に降り注いだのであろう、足跡のついていない真新しい雪の上を、無言で歩いてゆくハルヒ。俺と朝比奈さんは、その背を見失わないよう、愛車を押しながら、速足で追いかけた。
ハルヒが進んだ先は湿地帯になっているらしく、だんだんと大地に湧き水の溜まりが見て取れるようになってきた。雪の下の地面もぬかるんでいて、歩きにくいのだが、ハルヒはスイスイ進んでゆく。
「二人とも、あたりに注意して。ジョニィとジャイロに見つかっちゃダメなんだからね。それに、衣服を見落とさないようにして、もうすぐそばまで来てるわよ」
200mほど進んだ所で、ハルヒが俺たちを振り返り、そう言った。周囲は見晴らしがいいとは言えないが、誰かが近くに居れば、足音だのでわかるだろう。そっちは問題ないのだが、問題は衣服を見落とすな、という所だ。
「水の下にでも沈んでるんじゃないだろうな」
と、俺は周囲を見渡し、頭を掻きながら言った。ハルヒの進む方向からして、衣服が湖の底に沈んでるって展開はないようだが、そこら辺の泉になら、十分沈んでる可能性もある。俺は、ハルヒが付けた足跡の残る大地に視線を落とした。
どこまでも白い雪と、黒ずんだ樹皮の木々の根ばかりの光景―――その中に、ひとつ。目を引くものを見つけた。俺は、それを指で示しながら、
「おい、何だアレ、そこの少し段差になってるところ……何かないか?」
「あれは……『雪だるま』、みたいね」
少し睨むように目を細めた後、ハルヒが言う。雪だるま? って、十九世紀にもあったのか。ま、そりゃそうか。誰だって、雪を丸めたら雪だるまができることぐらい思いつくよな。
「小っちゃくてかわいい雪だるまですね……誰が作ったんだろう?」
「夜の間に雪が積もったんだから……ごく最近のはず。でも、雪に跡がないわね……って、これは『衣服』と、全然関係ないわよ」
手袋(これもシカゴで買った)に包まれた右手で、雪だるまの頭をペしぺし叩きながら、ハルヒが言う。いや、でも、雪だるまの体内に埋もれていたりとか、あり得るんじゃないか? あるいは、誰かが雪だるまに擬態して潜んでいるとか……
「ないわね。この雪だるまから衣服の気配はしないわ。誰かが隠れるには小さすぎるし」
確かに、雪だるまの身長は120cmほどで、ガタイのいいアメリカ国民が身を隠すにはちょっと小さい。俺の意見を一蹴するハルヒがそうしたように、試しに雪だるまを触ってみる。当たり前だが、冷たく、丸かった。
「ほら、いつまでも遊んでないで、衣服を探すわよ」
と、俺たちに檄を飛ばしながら、ハルヒが、ドン。と、一度だけ、強く雪だるまを叩いた。―――すると、雪だるまの足元の雪が音もなく崩れ、
「あっ、雪だるまさんが……」
朝比奈さんが、斜面を転げ落ちてゆく雪だるまを視線で追い、呟くほどの音量で言った。俺はその肩に手をやり、
「朝比奈さん、あんまり覗き込むと危ないですよ。あなたまで転がっていっちまう」
ごめんなさい。と、少し困った顔で、俺に頭を下げる朝比奈さん。そう言いつつ、俺も、転がり落ちて行った小柄な雪だるまに視線を向ける。
その斜面の底は、そこら中にあるような湧き水の溜まりとなっていて―――やがてその雪だるまは、音もなくその湧き水の中に落ち、表面から溶けていき始めた。
―――なんだ、別に大したことじゃないんだが、なんとなく悪いことをした気がする。俺がそんな気持ちで視線を向けると、ハルヒは、
と、俺と似たような気分になっていたらしく、少し申し訳なさそうに雪だるまの落ちた泉を見下ろした。そして、その直後、
「えっ」
と、その眼が突然色を変える。何だ? やっぱり、雪だるまの中にあったか? 衣服。だとしたらすっかり水浸しだろうな。
「違う、あれ―――ウソでしょッ!?」
何やら困惑した様子のハルヒが、慌てて周囲に視線を配り―――マントを肩にかけなおすと、いきなり目の前の斜面に足を下し始めた。
「おい、危ねえって!」
「それどころじゃない!」
叫ぶような音量でそう言ったハルヒは、バランスを崩して転がっていかないかと心配した俺の気持ちをよそに、踵と尻で雪の上に軌道を描きながら、するすると器用に滑り降りて行く。
「す、涼宮さーん?」
朝比奈さんが、困ったような声を上げ、ソリもスキーもなしに遠ざかってゆくハルヒの背中を見下ろした。何だ、何を見つけたんだ、ハルヒは。
俺は、ハルヒがそのまま、雪だるまと同じように泉に入っちまわないかと心配したのだが、ハルヒはこれまた器用に、踵でブレーキをかけ、泉の一歩手前で停止した。そして、雪だるまの落ちた小さな泉に、覆いかぶさるように顔を近づける―――
「二人とも、早く来てッ!」
不意に、俺たちを振り返り、ハルヒが叫んだ。俺たちにもこの斜面を下れってのかよ。と、俺と朝比奈さんがしり込みをしていると、ハルヒは業を煮やしたように、もう一度俺たちを振り返り、
「ユキが―――ユキが、泉の中に!」
「え、えぇっ!? い、今行きます!」
と、突然、俺の傍らの朝比奈さんが、何かに気が付いたかのように―――そして、心底驚いたと言った様子で声を上げた。そして、及び腰で斜面に足を下し、ハルヒほどスムーズにではないが、ずりずりと斜面を下ってゆく。
何だっつーんだ。しかし、こうなったら俺も行くしかない。二人の見よう見まねで、雪靴の底を斜面に―――
ズルッ
「お―――うおわっ!」
ああ、こうなると思ったんだよ。斜めった雪の大地の上に下した足が、音を立てながら、泥か何かのぬめりに持っていかれ、俺はその大地の傾度に全身を預ける羽目になってしまった。
「わっ!」
「きゃっ!」
「うがっ!」
説明すると、ハルヒと朝比奈さんが、雪玉よろしく転がってきた俺にびっくりし、左右に身を引き、俺はそのまま泉に突っ込んだ。その際に発せられた、俺たち三人それぞれの声が、前述したものである。
同時に、ドボンという水音。幸い俺が溺れちまうほど深い泉ではなかったが、この寒冷地で、身に着けているものと体が水に濡れるってのは、正直ちょっと冗談じゃ済まない。
さっさと着替えて、たき火でもして体を温めなければ。
「つっめてぇぇ! ハルヒ、一体こんなとこ、何があるって―――」
と、俺が重力の向きを理解し、上体を起こした―――その時。
ざぶっ
何かが、泉から出てきた。水音を立てながらだ。
ただでさえ、数秒前まで、上下も分からない状況にあった俺は、突然の展開に思わず声を上げた。泉の底に生き物でもいたのか―――いや、あり得ないだろ、こんな冷たい水の中。第一、さっき見たときは、泉には何も―――
「なっ……」
そして次の瞬間。俺は、言葉を失うって言葉の意味を、心から理解したよ。思わず、服に水が染み込んでいくのもかまわず、呆然とその場に留まってしまった。
泉の中に、人がいたんだ。俺と同様、いや、それ以上に、全身ずぶ濡れの人間が。そしてそいつが、俺がつい今しがたにそうしたように、体を起こしたのだ。
そこに、いたのは―――
「な……がと……?」
少し白みがかった短い黒髪。たった今目覚めたかのような眠たそうな瞳。一文字に結ばれた唇。華奢な、触ったら折れちまいそうな身体。
俺の目の前に、長門有希がいた。全身を湧き水で濡らした長門有希が、水浸しになったいつものセーラー服を身にまとい、泉の中から上半身を起こして、俺たち三人の事を眺めまわしていた。
「…………」
長門は―――誰もいなかったはずの泉に、突然姿を現した長門有希は、言葉という概念を忘れてしまったかのように、声を発することはしなかった。
ただ、俺が感じたのは、もともと白い肌が、極端に白く―――青ざめているという事だけだった。そして、次の瞬間、
「朝比奈さん、火!」
俺は、傍らで目を丸くしている朝比奈さんに向かって、そう叫んでいた。
「は、はいっ!」
慌ててマントの中を探る朝比奈さん。薪だ、薪はどこだ。荷物の積んである愛車は、俺たちが下りてきた斜面の上に佇んでいる。森の中だっつーのに、そこらに薪の一つも転がってないのかよ。積もっている雪のせいだ。
ハルヒの言葉を聴き、長門は、ワインの瓶の底の様な透明な瞳で、ハルヒを見た後、僅かに頷いたように見えた。しかしその直後、その瞳の前に瞼が下りる。
「長門! おい、大丈夫か―――ハルヒ、そこらに薪になるもん、ないかッ!?」
「ま、待って! ああ、もう、これ―――とりあえず、これ!」
と、ハルヒがマントの中から取り出し、俺に突き出してきたのは、シックスステージの上位着順が乗った、新聞紙の束だ。それを無言で受け取り、朝比奈さんを振り返ると、ちょうどマッチに火がついたところだった。
何故か、なんてことを考えている暇はなかった。ただ、俺はそのまま、長門が目覚めないんじゃないか。そんな気がしたのだ。
「長門、死ぬな! 長―――」
泉から長門の体を引きずり出し、朝比奈さんが作り出した、即席のたき火のもとへ―――這い寄ろうとして、俺は急に、目の前が暗くなってゆく感覚に襲われた。そうだ、俺も泉に落ちたんだ―――。
「キョン君ッ!?」
体を支える力が、何処からも湧いてこない。覚えているのは、ついに俺の上半身が、重力に任せて、雪の積もった大地の上に倒れた所までだった。
俺が次に目を覚ましたのは、すでに俺たちを包む空気が、夜のそれに替わり始めようとしていた頃。瞼を開いてまず最初に目に入ったのは、テントの天井にともされたランプの光。
「あっ、キョン君」
数日前にもそうしたように、俺がその明かりに慣れるため、数度瞬きをしていると、目の前の光景がいきなり、朝比奈さんの顔面のアップにすり替わった。思わず、小さく声を上げてしまう。
困った様な、安らいだような、不思議な表情で、朝比奈さんが笑う。俺は―――どうなったんだっけか。確か、ミシガンの湖畔にたどり着いて―――あの雪だるまを見つけて―――
そう。そして、俺たちは長門と再会したんだ。
この世界に来たのが何日前の事だったか、もはや俺ははっきり思い出せないが、ずいぶんと長いこと目にしていなかった、あのどこまでも透明な瞳をした、長門有希に。
そう、長門はあの冷たい泉の底から、まるで浮かび上がってくるかのように姿を現した。その体が冷え切っていて、俺たちは必死でそれを暖めようと―――
「長門は……?」
俺が目の前の朝比奈さんに訊ねると、朝比奈さんは、その微妙な表情を崩さないまま、俺のすぐ隣を指で示した。
びっくりするほど重い首の関節を回し、そちらに視線を向けると、俺の予備のシュラフの中で瞼を閉じる長門がいる。
「……夢じゃ、なかったのか……」
そんなことを呟きながら、俺は上半身を起こそうとして、その際、全身が宿命的な気怠さに見舞われていることに気づいた。頭が、筋肉が、骨が重い。体を地に預けていることしかできない。
「長門さんは、多分大丈夫。低体温でもなくなったし……今は眠っているけど、さっきまで起きてたんだよ。あ、今、涼宮さんが、外のたき火で、ご飯を作ってるから、待ってて」
少し疲れたような笑顔を浮かべ、朝比奈さんが、俺の額に濡らした布切れを畳んだものを乗せてくれた。そうか―――長門は、無事だったのか。さっきの俺は本当に、あの瞳が二度と見られないような気がしてしまっていた。
俺が、熱でぼやける思考をなんとか現実に引き戻そうとしていると、やがて、テントの出入り口が開き、ランプと、トレイに乗ったスープか何かを持ったハルヒが入ってきた。ハルヒは俺を見ると、
「キョン! 目が覚めたの?」
と、トレイを地面に置きながら、俺のもとへとしゃがみ込んできた。
「ああ……ちっと怠いが……」
ハルヒに言葉を返す―――本当のところはちょっとどころではなかったのだが、それは今の俺ができる、精いっぱいの強がりの様なものだった。
肉とハーブの匂いがテントの中に充満し、俺はそこでようやく、胃の中が空っぽであることに気づく。しかし、あまり食欲が刺激された感じはしない。そら、これだけ怠かったら、ものが食えなくても仕方ないか。
「ああ、サンキュ」
もう一度、全身の力を振り絞り、体を起こそうとすると、少し無理やりにだが、地べたに座った体制まで持っていく事ができた。
ハルヒがスープ皿とスプーンをさし出してくる。それを両手で受け取ったところで、俺は、俺たちがこのミシガン湖の湖畔までやってきた目的を思い出した。
「ハルヒ……衣服は? どうなっちまったんだ?」
「とっくに取られたわよ。多分だけど、ジョニィとジャイロにね」
ハルヒはほんの少しだけ、唇を突き出し、
「仕方ないわよ。あの状況だったんだもの。水浸しのあんたと有希を放っておいて衣服を探すなんて、出来るわけないでしょ」
そう、少し拗ねたような口調で言った。俺はそんなハルヒに、どんな言葉を返すか、少し迷わされた。謝るべきか、礼を言うべきか……と、俺が言葉を返すより早く、ハルヒは俺から視線を外しながら、
「悪かったわよ。あんたには結構無理をさせてた」
と、尖らせた唇の間から、そんな言葉をこぼした。
「無理?」
俺がハルヒの言葉を反復すると、
「だから、あんたの体調とか、全然気にせずに、毎日運転させ続けて……悪かったわねって言ってるの」
少し口調を強め、さっきとは逆方向に視線を逸らすハルヒ。
何だ、もしかして―――俺のことを労ってくれてるのか、ハルヒは。
何か言葉に迷うように、口の中をまごつかせるハルヒ。どうも、先ほどからの態度を見ていると、俺には、ハルヒが何か、照れているのを隠しているかのように見える。俺がハルヒの次の言葉を待っていると、
「…………」
声も出さず、不意に、長門が、むくり。と起き上がった。
「あ、長門さん」
「え……あ、有希。お、起きたんだ」
長門は、いつもの眠たそうな瞳で、俺たち三人の顔面を順番に眺めまわした後、
「もう、夜?」
と、俺としては数か月ぶりに聴いたことになる、少し低くかすれた声で、短く朝比奈さんに訊ねた。それに対し朝比奈さんは、
「ええ、さっき日が暮れました。長門さん、お腹はすいてませんか?」
「少し」
短く、簡潔な返答を受けた朝比奈さんが、ハルヒに目配せをする。ハルヒはまだ何かモゴモゴしていたが、やがて、何かを諦めたように、俺に渡したのと同じスープ皿を手に取り、それを長門に差し出した。
「…………」
無言のまま、木のスプーンで皿の中身を口に運び始める長門。どうやら、本当に元気なようだ―――よかった。心の底からそう思う。
長門が食事をしている様子を見ていると、萎えていた俺の食欲が、少しづつ回復してきた気がする。長門に少し遅れ、俺もハルヒお手製のリゾットを食い始めることにした。
「キョン、食事しながらでいいから、聴いて。有希から聴いたことを、そのまま話すだけだけど」
長門に一体何から訊くべきか、俺が考えていた時、ハルヒがそう言った。そういえば、朝比奈さんの話だと、長門は俺より先に目覚めていたんだっけな。その間に、ハルヒたちは長門から話を聞いていたのか。
「と言っても、有希も、みくるちゃんと大体同じ経緯……シックス・センス・アドベンチャーを買ったお店に行った帰り、突然星条旗が降って来た。その星条旗に触れたと思ったら、あの泉の中にいたそうよ」
やっぱり星条旗か。俺は脳裏に、俺たちをこの世界に迷い込ませた原因と思われる巨大な星条旗を浮かべて、ため息をついた。『ここ』がアメリカだって事と、その星条旗との間には、何か関連性があるんだろうか?
「そこよ」
パチン。指を鳴らすハルヒ。
「前に話した―――私たちをこの世界に迷い込ませたのが、この世界にいる誰かの『能力』かもっていう話、覚えてるわよね?」
ああ、覚えてる。
「その憶測と照らし合わせて考えると―――怪しいヤツがいるのよ、一人。十中八九『能力使い』で、『星条旗』と関係のありそうなヤツが」
ハルヒが次に口にする名前は、俺の拙い理解力でも予想が付いた。
「衣服を集めている、ファニー・ヴァレンタイン大統領」
鶏肉の破片を奥歯で噛みしめるのを止め、俺は数秒黙り込む。
星条旗、イコール大統領。短絡的というか、イージーな思考だが、あながち的外れでもないかもしれない。ホッパンの話じゃ、大統領は実際に衣服をいくつか持っているんだ。
で、もし、大統領の能力が俺たちをこの世界に連れてきたのだとしたら、
「その能力で、私たちを元の世界に返すことも、可能かもしれない」
だよな。俺たちの憶測が当たっていたら、の話だが―――
俺がそう言うと、ハルヒは少し考える様に宙に視線を泳がせた後、
「予想ならあるわ。―――『衣服』よ」
と、いくらか声のトーンを落としながら、
「大統領の目的は、私と、私の衣服を手に入れること。つまりね、もともとの世界でも、私は何か『パワー』を持っていた。そのパワーを感じ取った大統領が、それを手に入れる目的で、私たちをこの世界へ連れて来たのよ」
「う……」
……思わず、額に汗が滲む。ハルヒの思考が、俺たちの元々の世界の真実と、ニアミスと言っていいところまで迫っていた故にだ。
どう答えればいい、これは。俺が今口を開くと、何かボロというか、ハルヒが自身の絶対性に気づいてしまうような何かを言っちまう気がする。俺は縋るような思いで、朝比奈さんと長門に視線を投げた。
ミントティーを淹れていた朝比奈さんは、俺と似たようなことを考えたらしく、お茶を注ぐ手を止め固まってしまっている。なら長門の方は、というと―――
「常人にはない特別な因子を、あなたが持っていたことは、事実」
マジか、おい。長門の言葉に、俺はさらに全身から変な汗が噴き出してくるのを感じた。それって、言っていいやつなのか? 空になったスープ皿を見つめながら、長門はさらに、
「現在、あなたの持つ因子が、この世界全体に影響を及ぼしている」
今のリゾットに、自白剤でも入ってたんじゃないだろうな。冷汗が止まらねえぞ、おい。
しかし―――まあ、考えても見れば、世界旅行に能力使いと、現時点でここまで超常的な状況にあるんだ。もう多少のネタバレは、気にしてもしょうがないという気もする。
「ふうん。有希はどうしてそんなこと、知ってるの?」
問題はここだ。ハルヒが奇妙なパワーを持っている、くらいなら良いが、俺たちがそれを知っていて、ハルヒを囲っていた事までは、さすがに知られるとまずい。
ハルヒの問いかけに対する長門の返答は、
ホワイ?
「『ムー』で読んだ」
……長門なりの冗談なのか? 今のは。
俺がぽかんとしつつハルヒを見ると、ハルヒもまた、少々呆気に取られた様子で、空のスープ皿を持った長門を見つめていた。長門は手の中の皿を地べたに置くと、一瞬だけ俺に視線を送った後、ハルヒに向き直り、
「おかわり」
そう、短く訴えた。二秒ほど、たっぷりと呆然としたのち、ハルヒは、
「あ、う、うん」
狐に抓まれたような表情で、長門の膝の上から、スープ皿を取り上げ、中身を補充すべく、テントの出入り口へと向かっていった。……とりあえず、全バレの危機は去ったのか? 長門の変化球で、場はなんとなく誤魔化されたような空気となっていた。
「と、ところでよ」
先ほどの話題に回帰されるのを防ぐべく、ハルヒが長門へ二杯目のリゾットを手渡したと同時に、俺はどもりながら口を開いた。
「衣服はジョニィたちに取られちまったって言っていたが、次の衣服の場所は分かってるのか?」
「ええ、感じてる。シックスステージのゴールのすぐそばよ」
例によって、レースのコース上かい。確かこのステージのゴールは、湖の間の海峡を渡った先だったはずだ。ここから更に北へ上がっていく事になる。本格的に寒いだろうな。
それと、もう一つ気になることがある。
俺が発言すると、ハルヒは少し眉間にしわを寄せ、胸の前で腕を組んだ。さすがのハルヒにも、四人乗りを強行する思考はないようで、俺はとても安心した。が、この問題は結構重要だ。衣服を追うためには、歩いて旅をするわけにもいかない。
「……できないわよ、誰か置いていくなんて。こんな十九世紀のアメリカなんかに」
ハルヒが言う。俺も、出来るだけそれはしたくないと思っているが、この状況では―――
「私は単独で行動する」
不意に、長門が口を開いた。単独行動? 長門が?
「あなたたちは衣服を追って。私は、ファニー・ヴァレンタインを追う」
雨音にも似た声が、俺たち三人を呆然とさせる。
「ファニー・ヴァレンタインの能力が、私たちを元の世界へ回帰させ得るものかどうかを調査し、可能なら接触もする」
長門は何でもないことのように言っているが、相手は大統領だぞ。俺たちみたいな一般人が簡単に接触できるとは思えない。
「侵入する」
どうやって?
「『能力』を使う」
たっぷり十秒ほど、沈黙が舞い降りた。それを破るのは、当然のごとく、
「『暗殺』する。場合によっては」
To be continued↓
ハルヒ「スティール・ボール・ラン?」【後半】
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ハルヒ「スティール・ボール・ラン?」
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ハルヒ「スティール・ボール・ラン?」
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