【モバマス】アナスタシア「Сириус」【前半】
第一話「観測」
夢を見た。
白銀の世界。白銀の光。サイリウムの光の中。
星空のように輝くその世界の中心で、歌を歌う少女の夢。
僕は彼女をプロデュースしたいと思った。
その夢を現実のものとするために。
*
「寒いな」
白い息とともに吐き出された言葉が雪に消える。僕は肩に積もった雪を払い落とし、歩みを進める。
三月中旬、北海道。
東京ではもう春に入ろうと言うのに、この土地では未だに雪すら積もっている。
地面は凍り、雪の道と言うよりは氷の道になっている。慣れない道に僕は何度も転びそうになってしまうが、周りの人はそうでもないようだ。
お年寄りがすいすいと歩いているのを見ると、なんだか自分が情けなくなってくる。
……落ち込むな、僕。せっかくの北海道、楽しむべきだろう。
こうして僕が北海道にいる理由。それは旅行……ではなく、仕事である。
僕はCGプロという事務所に所属しているプロデューサーであり、アイドルをスカウトするためにこの地まで来た。
だが、北海道でアイドルの原石を見つけるなど、僕には無理な話だ。
こんなにも広大な土地でどうしてそんな人材が見つけられると言うのか。
もしも見付けられたならば、それはもう運命や奇跡なんて言っても過言ではないだろう。
いや、そもそも僕にスカウトの仕事をしろと言う方がおかしいのだ。僕がアイドルの原石を見付けられるような目を持っているとは思えない。
僕は一応『プロデューサー』と名乗っているが、今までにそんな仕事をやってきた覚えはない。
既に売れているアイドルのマネージャー業のようなものをやっていただけだし、その仕事も満足にこなせていたわけではない。
当時担当させてもらったアイドルには「Pさん、よくこの仕事をやれてるね……」と呆れられたくらいである。
僕自身、どうしてこの仕事をやっているのかはわからないのだが……『道を歩いていると声をかけられて採用された』などと言っても、信じてくれる人は少ないだろう。
――一年前。近年は就職難の時代が続いているが、その例に漏れず僕も就職できないでいた。
それに多少の危機感を覚えながらも何もせず、特別な理由もなく街を歩いていたその時、突然黒い男性が声をかけてきたのだ。
「君、ちょっといいかね? ……ふんふむ、そうか、うん、この感覚が、か」
彼に対する僕の第一印象は『いきなり話しかけておいてぶつぶつと独り言を言い始めるなんて危ない人だな』である。
僕は「すみません」と言ってその場から離れようとした。すると彼は「おっと、待ってくれ待ってくれ」と僕を引き止めた。
「そんな目で見ないでくれたまえ。いや、確かに君の反応は正しい。突然声をかけられても怪しいと思うのは当然だ。まずは私の身分を証明するところから、だな」
そう言って男性は懐から取り出した名刺を僕に差し出した。
「私はこういう者だ。知って……いるかどうかはわからないが、知らないのならここで検索してもらっても構わん。すぐに出るはずだ」
検索する必要はなかった。その名刺に書かれてあったのは、今世間を賑わせるアイドルたちが所属する事務所の名前だった。
「……CGプロの部長、ですか」
「ああ、わかってくれたかね。それは良かった。では、早速本題だが……我が事務所の『プロデューサー』になるつもりはないかね?」
「は?」
突然過ぎて素で返してしまった。そんな失礼を彼は「はは」と笑い、
「いや、驚くのも無理はないが……冗談でもなんでもない。私は本気だ。君の職も何も知らない。地位も何も知りはしない。だが、私は君を『スカウト』したい。それだけだ。考えてくれるかね?」
そうは言うが、あまりにもいきなり過ぎる。しかも、あまりにも適当だ。胡散臭いにもほどがある。
だから尋ねた。
「理由は、なんですか?」
「うん?」
「僕をスカウトした、理由は」
まさか何の理由もないことはあるまい。しかし、何の理由にも心当たりがないこともまた事実である。
だから、その口から聞きたかった。僕をスカウトした理由が、何か、あるのか。
彼は答えた。
「理由……理由は、そうだね、先駆者の言葉を借りるならば、『ティンときた』からだ」
「は?」
また素で返してしまった。『ティンときた』? 意味がわからない。
きっと危ない人なのだろう。そう思った僕はそれからのやりとりを適当にこなした。これ以上関わっては危険だと思ったのだ。
そして家に帰ったのだが、暇だったので彼の事務所のことを調べてみるとなかなかに好条件だったのですぐに電話をして事務所に向かって就職した。
これが僕が『プロデューサー』になった顛末である。
就職難から逃げて就職したようなものだが、今のところは思ったよりも忙しい以外の文句はない。
その忙しさからも今は解放されているので言うことなしだ。
『二週間で帰ってくること』との仰せだが、それでアイドルの原石が見つかるとは思えない。
だからこれはもう北海道旅行をしていると考えることにした。したのだが……この雪である。こんな雪ではスカウトも旅行も難しい。
おそらくは最も人が集まっている札幌で適当に道行く人を観察するだけしてみたが、この雪であるからそもそも道行く人がそこまで多いとは言えない。
それでもそこそこにいるということには驚く他ないが、『アイドルの原石』は見られない。
そもそも、街を歩く人を見ているだけでどうしてアイドルの原石なんてものを見付けられるのか。
先輩方はそれでアイドルをスカウトしてきたらしいが……意味がわからない。
僕ならあの渋谷凛や高垣楓であっても見逃す自信がある。そんな僕がスカウトをしようというところからして間違っているのだ。
……とりあえず、これで最低限の仕事はこなしたと言ってもいいだろう。あとは適当に、観光していくとしよう。
*
「あまりやることがないな」
一週間どころか三日も経たずに僕は思った。しかし、まだまだ時間はある。
どうしたものか……そう考えて、僕はとりあえず北海道という土地を巡ってみることにした。
そのついでに道行く人を観察するだけしておいたが、やはりアイドルの原石などそう簡単に見付かるわけもない。
そうしている内に一週間が過ぎた。もういつ帰ってもいいと思えてきた。
仕事をやりたいわけではないが、あまりにもやることがないというのも嫌なものだ。
僕の今の楽しみは道行く人を観察することだけになっていた。警察に不審者扱いされない程度に、道行く人を観察する。
適当に歩いて、人を見る。いつの間にか、凍った道を歩くのにも慣れてきていた。
しかしそんな僕を嘲笑うように暖かい日が続き、道の雪も解けてきた。
せっかく習得した凍った道の歩き方はもう役に立たないものになっていた。
そして、北海道にいられるのもあと三日となった。
未だに何の進展もない。誰も見付けられない。
無駄な二週間だった、かもしれない。
いい息抜きになった、かもしれない。
その両方が間違ってはいないように思える。
ただ、思ったほど楽しくはなかったことだけが事実だ。おいしいものはおいしかったが、それくらいである。
人との交流なんてものはなかったし、観光名所と言われるようなところも感動するほどは楽しむことができなかった。
僕は歩いていた。この短い期間で道行く人を観察する癖が身についてしまったが、観察したところでアイドルの原石を見付けられるわけもない。
ほとんど無意識で道行く人を観察し、すぐにやめて、前を向いていた。
――アイドル。
それは、特別な存在だ。この職に就くまでは何も思っていなかったが、今ならわかる。
彼女たちは僕たちのような人間とは違う存在だ。大人の女性もいるが、年端もいかない少女も多い。
そう、少女だ。『少女』なのに、『アイドル』で居られる。それがどれほどの異常か……僕は、理解できていなかった。
『アイドル』という職業には、様々な拘束がある。
華やかなだけではなく、その裏には想像を絶する拘束があるのだ。『枕』という意味ではない。
少なくとも僕はそういうものを知らないし――あるいは、それだけならばまだ『マシ』なのかもしれない。
むしろ、『そういうこと』が許されていないことにこそ、『アイドル』の過酷さはあるのではないだろうか。
恋愛禁止を始めとして、アイドルには様々な拘束がある。
私生活のすべてが拘束され、どういう風に振る舞うのかまで決められる。ウチの事務所はまだそういったことが控えめではあるが……それでも、ある程度は存在する。
アイドルとは、偶像だ。故に、『偶像であること』を強要される。
『自分』を消して、『個人』を消して、『個性』をつくる。
そのようなことを、年端もいかない少女がするのだ。笑顔を浮かべて、楽しそうに振る舞うのだ。
それが、どれほどの異常か。『少女』であるまま、『偶像』でもある。だからこそ、彼女たちは異常なのだ。
この業界に入って、僕はそれを痛感した。恐ろしい、とすら感じた。……しかし、同時に、憧れた。
そんな存在の、原石。
そんなもの、簡単に見付かるわけがない。
ただ容姿が優れているだけの女性など何人もいる。この二週間でも両手の指で数えられない程度には『容姿だけなら芸能界でもそこそこ』の女性を見付けることができた。
だが、僕は知ってしまっている。アイドルは容姿だけでできるものではない、と。むしろ、アイドルには『中身』こそが重要なのだ、と。
そんなもの、どうやって外見だけで見分けろと言うのだ。少なくとも僕にはできない。外見だけで『アイドルの原石』を見付けろ、なんて無理な話だ。
あるいは、実際に話しかけたりすればよかったのかもしれない。容姿が良い女性に声をかけて、少し話してみて……いや、少し話したところで、何がわかると言うのだ。何もわかりはしないだろう。
僕はもう諦めていた。これはただの旅行だった。そう思うことにした。成果など最初から求めてはいなかった。ただ、思ったよりも暇だったから道行く人を観察していただけだ。それ以上の努力もしていないし、したとしても見付けられたとは思えない。これが、当然の結果なのだ。
北海道でおいしい店をいくつか知ることができただけでよしとしよう。北海道のロケに来た時などに役立つだろう。そうだ、先輩方にも教えてやろう。北海道は広大だが、この二週間でなかなかに回ったとは思う。どのあたりを言われても一つ答えられる程度には知ることもできた。ふむ、そう思えば、今回の旅行は北海道グルメツアーと言ってもいいのかもしれない。こんなことを言えば千川さんにこってり絞られそうだが、僕にこんな仕事を任せた部長が悪い。まあ、千川さんにはおみやげでも買って帰ればいいだろう。そうと決まれば、調査に入ろう。インターネットで調べるのもいいが……せっかくだから、ここらで適当な店がないかを探そう。そこそこに店はあるようだから――
そう思って、顔を上げた、その瞬間。
僕は、夢を見た。
白銀の世界。白銀の光。サイリウムの光の中。
星空のように輝くその世界の中心で、歌を歌う少女の夢。
白銀の髪は白雪よりも美しく、宝石にも似たその目は空を落とし込んだかのように透き通った青い色をしている。
白い肌は光を吸い込んでいるようで、スタイルも彫刻かと見まごうほどに整っている。
――美しい。
そう溜息を漏らしてしまうほどに、その少女は美しかった。
ふと、部長の言葉を思い出した。この感覚が……そうか、この感覚が、そうなのか。
容姿を見るに日本人ではない。どうしてそんな少女が一人でこんなところを歩いているのか、なんてことを考えたが、今はそんなことはどうでもよかった。
外国の……どこの国だろうか。ロシア人? そうかもしれないが、僕はロシア語を話せない。
とりあえず、英語だ。くそっ、こんなことならしっかり英語の勉強をしておくんだった。
話しかける時はなんて言えばいいんだ。うろ覚えだ。
だが、そうこうしている内に彼女がどこかに行ってしまうかもしれない。今は、まず、とりあえず、話しかけろ。
「エクスキューズミー!」
彼女に向かって、大声で、僕は言った。合っているかどうかはわからないが、声をかける時は、たぶん、これだろう。たとえ間違っていても、ただ注意を引ければいい。とにかく、まずは彼女の足を止めなければ。
「? 私、ですか?」
彼女は僕を見て首を傾げた。……日本語、喋れるのか。僕はほっとした。良かった。それなら、だいぶ楽になる。
「ああ。君だ。君に話しかけた。僕はこういう者だ」
僕は彼女に向かって名刺を差し出した。「……プロ、デューサー?」と彼女は首を傾げた。僕はうなずき、
「ああ、プロデューサー。アイドルのプロデュース……あー、手助けのようなものをやっている」
「アイドル……アイドルって、何、ですか?」
「アイドルとは、か」
そんな質問が来るとは思わなかった。日本語は喋れるが、日本の文化にはあまり親しくないのだろうか。
思えば、喋り方も少したどたどしい。日本で生まれ育ったわけではないのかもしれない。いや、そんなことはどうでもいい。アイドルとは。その答えを言うんだ。
「……私、難しい質問、しましたか?」
沈黙が長引いたことに、彼女は心配そうに尋ねてきた。優しい子だな、と思うとともにそんな彼女の気を煩わせてしまったことを申し訳なく思う。僕はすぐに答える。
「いや、そんなことは――違うな。確かに難しい質問かもしれない。だから、僕の答えも正確ではないかもしれない。そう思って、聞いてくれ」
「ダー」と彼女はうなずいた。ダー? と一瞬だけ僕が思いを巡らせると、彼女はすぐに「あ、Yes、ですよ」と言ってくれた。
母国語が出てしまったのだろうか。何語かはわからないが。そんなことを考えるよりも前に、言わなければいけないことがある。
「アイドルというのは、芸能関連の仕事だ。歌を歌ったり、踊ったり……それだけじゃない、色んなことをする。バラエティに出ることもあれば、モデルのようなこともするし、女優のようなことをする場合もある」
「つまり、なんでも、ですか?」
「なんでも……」そう言われて、すっと腑に落ちる。「うん、そうだな。なんでも、だ」
「それが、アイドル……なんだか、とても楽しそう、ですね」
彼女はくすっと笑った。どこか猫を連想させる、かわいらしい微笑み。僕はそれに見惚れてしまいそうになって、すぐに頭を振って意識を戻す。
「でも、その、アイドルの……プロデューサー? が、どうして私に声、かけましたか?」
そう尋ねられて、一瞬だけ、どう答えるか迷った。だが、迷う必要はない。
「君をスカウトしたいと思ったからだ」
僕は言った。ごまかす必要はない。ただ、本心をぶつけた。
「私を?」
彼女は自分を指差して言った。僕はうなずいた。「君を、だ」
「どうして、ですか?」
「それは……」
どう答えるか。どう答えるべきか。これで彼女がアイドルになってくれるかが決まるかもしれない。
容姿を見て? そうじゃない。それはわかっている。
中身を見て? 中身なんてわからない。この短時間でわかる方がおかしい。
なら、何故だ。
それは――
「……ティン?」
彼女は首を傾げた。僕の言葉の意味がわからなかったのだろう。僕が言われたってそう思う。
実際、僕が部長に言われた時も意味がわからなかったのだから。
「……すまない。意味がわからないのかもしれない」だから、僕は謝り――しかし、続けた。「でも、理屈じゃないんだ。君を見て、僕は夢を見た。君がサイリウムの星空の中で歌っている光景がはっきりと見えたんだ。そして、僕はそれを実現させたいと思った。君を、この世界でいちばん輝く星にしたいって、そう思ったんだ。……それが、理由だ」
こんな理由を聞いて、誰が付いて来たいと思う。言った瞬間に後悔した。訂正するべきだろうか。
いや、もう手遅れだろう。『危ない人』だと認定されて、逃げられる……僕はそう思った。
だが、
「……あなたの言うこと、よく、わかりません」
彼女は、『笑った』。
「でも、心は、伝わりました。……詳しい話、聞いてもいい、ですか?」
*
「そう言えば、君の名前を聞いていなかったな」
「確かに、そうですね。……ミーニャザヴート、アーニャ。アーニャは、ええと……ニックネームです。私はアーニャ……アナスタシアです。よろしく、プロデューサー」
*
「……で、ここは、どこだ?」
「私の家です」アナスタシアは言った。「アイドルになるのなら、パパとママにも話、しないといけませんね? 詳しい話を聞くなら、そうした方がいいと思いました」
「……そうか」
そこまで本気にしてくれているということは嬉しいが、いきなり家族と、か……さすがに緊張する。
道中、アナスタシアは様々なことを話してくれた。
自分は日本人とロシア人のハーフであるということや、一〇歳までロシアにいたということ。
『アーニャ』というニックネームは母親が付けてくれた、といったことまで……こんな短期間で信頼されていることは嬉しいが、そんな簡単に個人情報を話していいものだろうか。
事務所に所属しようとしまいと気を付けた方がいいとは言っておくべきかもしれない。
「プリヴェート……ただいま、です」
そう言ってアナスタシアは家に入って行った。僕は少し外で待っているつもりだったのだが、アナスタシアが不思議そうに「入ってこないのですか?」と言ってきたものだから、入らせてもらうことにした。「お邪魔します」
そうしていると、スタ、スタ、と足音が近付いてきて、とても綺麗な女性が顔を出した。
「おかえりなさい、アーニャ……って、その方は?」
十中八九アナスタシアのお母様だろう。僕はすぐさま「初めまして。突然ですがお邪魔させていただきます。僕は――」と自己紹介しようとしたのだが、彼女は「あらあらまあまあ」と嬉しそうに微笑み、「アーニャもそんな歳になったのね……うんうん、そうよね。あの人に教えなきゃ……あ、あなた、上がって上がって♪ えーと、お名前は?」
「え、その、Pです」
「Pさん♪ じゃあ、Pさん、すぐに上がって、おくつろぎになって?」
お母様は僕を引っ張るようにして応接室と思われる場所に連れ込んだ。いやいやまだ自己紹介もできていない。相手のペースに飲み込まれずに、早く切りださなければ――
「あのですね、お母様。僕は――」
「『お母様』ですって♪ それじゃあ、私はあの人に連絡するから、若いお二人で……ね?」
「いや、だから」
「では、ごゆっくり~♪」
バタン、とドアが閉まった。
「……あの」
「プロデューサーはゆっくりしていて下さい。私、お茶を入れてきますね。プロデューサーはコーヒーと紅茶ならどっちが好き、ですか?」
「え? ……それは、コーヒー、だけど」
「わかりました。では、淹れてきますね。待っていて下さいね?」
「あ、はい」
そうしてアナスタシアまで出て行ってしまった。
「……どうしろって言うんだ」
何もできることができず、僕は独りごちた。とりあえずわかったことは、アナスタシアの性格はお母様譲りのものかもしれない、ということだ。
*
アナスタシアの淹れてくれたコーヒーを飲みながら『どうしたものか……』と考えていると、ドタドタドタ、と大きな足音が近付いてきて、バン! とドアが開いた。
「君が、アーニャの連れて来た男か……!」
美形のロシア人の男性。確実にアナスタシアのお父様だろう。面影がある。というかこわい。どうして僕は睨まれているのだ?
「は、はい。そう、ですが……」
「……初めて会ったのは」
「え?」
「初めて君とアーニャが会ったのは、いつだ?」
いつ、と言われても……。「今日、ですが」
「今日!?」
お父様は大変驚いた様子だった。こわい。それと、アナスタシアよりも日本語が流暢……正確には、訛りがほとんど感じられない。お母様とは日本で知り合ったのだろうか。
「……どんな言葉で」
「え?」
「どんな言葉で、娘をたぶらかしたんだ!」
そう言ってお父様がずんずんと近付いてきた。
え? いや、たぶらかす? まあ確かにアイドルにスカウトするなんて『たぶらかす』と言っても違いはないのかもしれないがそれにしてもこの反応は……!
「パパ。ちょっと、待って下さい」
アナスタシアが口を開いた。その言葉にお父様は足を止め、アナスタシアの方を見る。「だが、会って一日も経たずにそのような仲になるなど、騙されているとしか……」
「……パパ、何か勘違いしていませんか?」
「勘違い……?」
お父様が眉をひそめた。そこを、とととと、といった足音とともにお母様が現れて、「あなたったら、そこまで急がなくても……あら? どうかしましたか?」とこの場で何が起こっていたかの問いを発した。
僕が聞きたい。
*
「アイドルの」
「プロデューサー!?」
「はい」驚くご両親に僕はうなずいた。「アナスタシアさんをスカウトしたい、と思い声をかけたところ、それではご両親にも話をしなければならない、ということでお邪魔させていただいております」
「……恋人では、ないの?」
お母様が尋ねる。「違います」「ニェット」僕はアナスタシアと同時に言った。
ニェット? とアナスタシアの方を見ると、「あ、違います、です」と言ってくれた。前に言っていたことと合わせて考えると、『ダー』が『はい』で『ニェット』が『いいえ』ということか。
「そうか。そうだったのか……」
お父様がほっと安心したように肩を下ろした。そういうことか……確かに、恋人だと思っていたのだとすると先程のような反応になってもおかしくはない。
こんなにも綺麗で可憐な娘が見も知らぬ男、それも今日が初対面だという男を連れて来たのだ。焦らない方がおかしいとすら言えるだろう。
「僕が所属している事務所はここです」僕は名刺を差し出し、CGプロの名前を指差す。「渋谷凛や高垣楓、神崎蘭子が所属しているプロダクション、と言えば通じるでしょうか」
「あ、楓ちゃん!」お母様が両手を合わせる。「ということは、えっと、杏ちゃんやきらりちゃんも?」
「はい、そうです」
「きゃー♪」お母様が嬉しそうに声を上げて隣に座るお父様の背中を叩く。「みんなとっても有名よ? しっかりしたところみたい」
「……確かに、私も名前を聞いたことがあるほどだな」
お父様が言う。しかし、その表情はお母様とは対照的で、厳しい。
「しかし、だからと言ってそう簡単に決めるわけにはいかない。アーニャは、どう思っているんだ?」
お父様はアナスタシアの方を見て尋ねる。アナスタシアはその視線から目を逸らすことなく答えた。
「まだ、わかりません」
「わからない?」
「ダー」お父様の言葉にアナスタシアはうなずく。「私は、アイドルになってもいいと思っています。でも、私はまだ、アイドルのこと、よくわかりません。プロデューサーが教えてくれましたが、それでも、まだ……。だから、まずはアイドルのこと、知りたいです」
「……そうか」
お父様は考えこむようにして目を閉じて、開いた。そして僕の方を向いて、
「では、聞かせてもらおうか。教えてくれ。私にも――アナスタシアにも。アイドルというものが、何なのか」
……アイドルとは、か。
先程も答えたが、求めているのはそれとはまた別の答えなのだろう。
どう答えるべきか……迷って。考えて、僕は言った。
「アイドルとは――アナスタシア、先程君が言った通り『なんでもする』職業だ。歌を歌えば、ダンスも踊る。バラエティ番組にも出るし、モデルや女優業なんてものもする。……だが、それはただの仕事内容だ。本質じゃなかった」
「本質?」とアナスタシアが首を傾げる。「ああ」と僕はうなずいて、
「アイドルの本質は、僕は『夢』だと思っている。『希望』と言ってもいいかもしれない。ファンに、自分を応援してくれる人に――いや、違うな。応援してくれる人だけじゃない。自分の姿を見るすべての人に、夢を、希望を与える職業。僕はそう思っている」
「メチタ……ナジェージダ……」
メチタ? ナジェージダ? ロシア語だろうか。そう思いながら僕は続ける。
「しかし、だ」
ここからが、重要なことだ。今からスカウトしようと言うのに、あまり言うべきことではないのかもしれないが、これを言わないことはそれこそ騙していることになるし……これを理解した上で、でなければ意味がない。
「アイドルはそういった華やかなだけの存在ではない。楽しいことも多いだろうが、きっと、同じくらい辛いことも苦しいこともある。芸能界は、厳しい世界だ。あるがままの自分で居られるわけではないし……『アイドル』という言葉の通り、『偶像』で在る必要がある。『夢』と『希望』を与えるための『偶像』……『理想』と言い換えてもいいかもしれないな。そういった存在であることを強いられる」
「……それは、『枕』なんてものを指しているのか?」
「それは違います」お父様の言葉を僕は即座に否定する。「そんなことはさせません。もしこの約束を破ったのならば、僕をどうしてくれてもいい。逆に『枕』のようなことはできないと考えてもらった方がいいでしょう。つまり、恋愛は禁止されると考えて下さい。それだけではない、普段の生活にまで様々な制約が付きます。様々な拘束を強いられます。本当に『嫌なこと』は断ってもらっても構いませんが、それでも、『嫌なこと』もさせられる可能性はあると考えて下さい」
「矛盾していないか?」
「断っても構いませんが、程度によります。その基準は難しいですが……そうですね。アイドルがどう思うかによります。『どうしても嫌』なのか、『頑張ればできる』なのか」
「曖昧だな」
「はい。ですから、『嫌なことはさせない』などと約束することはできません。辛いことも苦しいこともさせます。アイドルは、そういう存在です」
「……勧誘しようと言うのに、ずいぶんとネガティブなことばかり言うんだな」
お父様は呆れたように笑った。自分でもそう思う。だが、
「これを理解した上で、でなければ意味がありませんので」
僕は言った。そうだ。これくらいはわかってもらわなければ困る。あとで逃げられては意味がないのだ。相応の覚悟がなければ意味がない。少なくとも、僕はそう思っている。
――しかし、もちろん、『それだけ』でもない。
「……その上で、言わせてもらいます」
僕はお父様に言って――アナスタシアの方を向く。
「アナスタシア。僕は君が欲しい。君をアイドルにしたい。君ならトップアイドルになれると、世界でいちばん輝く星になれると信じている。僕がそうする。辛いことも苦しいこともある。厳しい世界だ。理不尽にさらされることもある。納得できないこともある。しかし、それでも、その上で――世界でいちばん幸せにすることを誓う。世界でいちばん辛く苦しい道を歩むかもしれないが、世界でいちばん幸せな存在になることができると約束する」
アナスタシアの目をまっすぐに見据えて、僕は言った。
「だから、アナスタシア。僕と一緒に、アイドルへの道を、歩いてくれないか」
すると、「まあ」とお母様が口を抑えて、「む……」とお父様が口を噤んだ。だが、アナスタシアだけは、ただ、僕の目を見ていた。
「……パパ、ママ」
ぽつり、とアナスタシアはこぼすようにして両親を呼んだ。
「私、アイドルになりたいです。……この人を信じて、付いて行きたい」
その言葉に、また、お母様は「まあまあ」と口を抑えた。お父様は数秒間、じっくりと考えるように沈黙して、僕を見た。
「……君の本気は伝わった」
そしてお父様は立ち上がり、僕の前まで歩いてきた。何をされるのだろうか……僕はこわくなってきていた。『そんなものに娘をさせるわけにはいかない』と思われただろうか。
いや、普通に考えればそうだ。僕はどうなるのだろう。だが、どうしてもらっても構わない。
アナスタシアをアイドルにすることができるのであれば、僕の身なんて、どうなっても構わない。さあ、何が来る……!
そう覚悟を決めた、その瞬間。
お父様は、僕に向かって頭を下げた。
「娘を、よろしく頼む」
その言葉には、深い、深い思いがこもっていた。
だから、
「はい」
僕もまた、そのすべてを受け止める覚悟をもって応えた。
「任せて下さい。必ず、彼女を幸せにしてみせます」
*
「では、詳しい手続きに関しては明日、資料をまとめて持って来ることにさせていただきます。今日はありがとうございました」
そう頭を下げて、Pはアナスタシア宅を後にした。扉が閉まった後も、アナスタシアはどこか呆けたようにして、扉を見つめ続けていた。
そんな様子を見て、アナスタシアの母親はくすりと笑い、父親は複雑そうに表情を歪めていた。
「アーニャ。そんなに見つめていても、Pさんはそこに居ないわよ。アイドルになると決めたのだから、することもあるんじゃないの? ほら、東京に行くことになるんだし……色々、ね」
「……それも、そうですね。では、少し、自分の部屋に戻ります」
母親の言葉に、アナスタシアは熱に浮かされたような状態のまま、ふらふらと自分の部屋に戻っていった。
アナスタシアが自分の部屋に入って行ったことを確認すると、アナスタシアの母親はすぐに「ふふっ」と微笑んだ。
「これは恋人よりも大変だったかもしれませんね、あなた」
しかし、その言葉に夫は答えない。答えたくないからだろう。そんな彼の様子もおかしくて、彼女は笑みを深めてしまう。
昔から彼はこうだった。素直じゃなくて、不器用で。アナスタシアとは正反対だ。
アナスタシアは素直な良い子だ。少し頑固なところはあるが、親の言うことをきちんと聞く『良い子』の見本のような存在だ。
だが――ふと、リビングに飾ってある写真が目に入る。北海道に来てすぐ、家族で撮影した写真だ。……この頃から彼女は良い子だった。わがままを言わない良い子だった。
だからこそ、こう思う。
「あの子が、あんなにはっきりと『なりたい』って言うなんて」
それは彼らにとって驚くべきことだった。そして、同時に。
「……それについては、感謝している」
夫の言葉に、彼女は微笑む。そう、今回のことは驚くべきことだったが、同時に感謝するべきことでもあったのだ。
アナスタシアは良い子だ。わがままを言うことは滅多になく……しかし、それは親からすれば心配の種でもあった。彼女はしたいたいことやなりたいものについて、ほとんど話すことがなかったのだ。
だから、もう少しわがままを言ってくれたら、と以前から思っていた。それは二人とも同じ気持ちだった……の、だが。
「しかし……アイドルとは、な」
父親としては複雑なところなのだろう。彼は深く溜息をつく。
「あの人なら、大丈夫そうでしょう?」
「……もしも何か問題があれば、すぐに連れ帰る」
つまり、今は問題がないということだ。彼女がくすくすと笑うと、彼はますます顔を難しくさせる。
「でも、アーニャへの、あの言葉。……本当、どれだけ熱いプロポーズなのかしら」
彼女のその言葉に、しかし、彼は何も答えなかった。
もちろん、答えたくなかったからだ。
第二話「アイドル」
アナスタシアは僕に付いて来ると言ってくれたが、それだけですべての問題が片付くわけではない。
アイドルになるということは東京に来るということでもある。少なくともウチの事務所に所属するのであればそうだ。
アナスタシアはまだ一五歳の少女である。聞いた話では、この春から高校に通うところだったという。
つまり僕が声をかけた時にはまだ中学生だったということで……いや、正確には卒業式を済ませてあるから違うのだろうが、同じようなものだろう。
とにかく、せっかく受験して合格した学校に通えないというのは大きな問題で、『さて、どうしようか』ということになった。
アナスタシアは「私は貴方に付いて行くと決めました。大丈夫です」と言ってくれたが……そもそも、この時期に別の学校に入学することなどできるのか、という問題もあった。
さて、どうするか……そう考えながらも、まずは報告をしなければいけないということで事務所に連絡をした。
千川さんが出た。
『そのアナスタシアさんが入学する予定だった学校は? ……はい、そうですか。わかりました。……プロデューサーさんは明日、アナスタシアさんが入学する予定だったという学校に行って下さい。また、あとで資料を送るのでアナスタシアさんとご両親と一緒に転入する学校はそこでもいいのかを相談して下さい。入学する予定だったという学校の姉妹校なので問題ないかとは思いますが……それでは、お願いしますね』
ということで、解決した。
実際、その翌日にアナスタシアとご両親とともにアナスタシアが入学する予定だったという学校に連絡して向かうと、そのための手続きが行われた。
一日でいったい何を……と僕は千川さんがどんな手を使ったのかを考えかけたが、途中でやめた。
結果的にアナスタシアが入学できることになった。それだけで十分過ぎることだろう。
試験は受けなければならないらしいが、アナスタシア曰く問題ないらしい。
こちらの都合で迷惑をかけると言ったら、「お互い様、です」と言われた。
いったい何が『お互い様』なのかはわからなかったが、そんな僕を見てもアナスタシアはくすくすと笑うだけだった。
アナスタシアがどこに住むのか、という問題もあったが女子寮に住むということで解決した。
女子寮に関する資料も千川さんは送ってきてくれており、それを見せて説明した。
ご両親は納得してくれて、アナスタシアも納得してくれたと思う。
それ以外にも様々な問題があったが、なんとかなった。
千川さんの力を借りたものも多かったが……いったい、あの人は何者なのだろう。感謝しかない。
千川さんは「おみやげ、楽しみにしていますからね♪」とだけ言ってくれたが、これは本当に気合を入れなければならないだろう。
そういったことを三日間で済ませて、僕は東京に帰った。
アナスタシアが東京に来るのはもう少ししてからである。
高校の入学式には間に合いたいとのことなのですぐに来るとは思うが……やはり、そう短時間で準備ができることでもないのだろう。
「お前、ずいぶんと変わったな」
二週間ぶりの事務所に入るや否や、先輩はそう言った。
「何と言うか、目が生きてる。輝かせたい星、見付けたか?」
それに対しては「先輩は変わらずロマンチストですね」と応えた。この先輩はしばしばポエムのような物言いをするのだ。ポエム先輩である。
「だけど」先輩はにっと歯を見せて笑った。「間違ってはいないだろ?」
その言葉に僕は何も返さなかった。図星だったからである。
「それじゃあ、ま、気合入れて頑張れや」
そう言って先輩は事務所から出て行った。
「どこに行くんですか」と尋ねると「輝きの向こう側」と答えられた。
いきなり765プロの『あの公演』のことを言われた僕はもちろん戸惑ったが、それはつまり、あのアリーナに行く、ということだったのかもしれない。
回りくどすぎる。そう思いながら僕は事務所に入り、部長の部屋にまで向かった。
アナスタシアのことに関する報告を済ませて部屋を出ると、そこには千川さんがいた。とりあえずおみやげを渡すと、代わりに書類の山を渡された。
「できるだけ早く片付けて下さいね♪」
……とりあえず、アナスタシアが来るまで暇することはなさそうだ。
*
四月、空港。
僕は時計を何度も見返しながら、アナスタシアのことを待っていた。
時間が間違っていなければ、もう着いているはずだが……そう思いながらもう一度アナスタシアの搭乗した飛行機が既に到着しているかどうか確かめようとした時、
「プロデューサー!」
弾むような声が聞こえて、僕は声の方向を見た。
そこにはキャリーバッグを片手に持ち、もう片方の手でこちらに手を降っているアナスタシアの姿があった。
その端正な顔に浮かぶやわらかな笑みを見ていると、僕まで笑顔になってしまう。
「アナスタシア! ……待っていたよ。一人で大丈夫だったか? とにかく、変わらず元気で何よりだ」
アナスタシアに駆け寄り、僕は言った。
アナスタシアは「ダー」と声を弾ませて、すぐに「あ」と自分の言葉を改めようとした。
しかし僕はその前に「『はい』、か?」と尋ねた。
アナスタシアは「ダー♪」と笑みを深めて返してくれた。
アナスタシアの持っていたキャリーバッグを持って、僕はアナスタシアを車まで案内した。
電車でも良かったのだが、アナスタシアも飛行機に乗って疲れているだろう、と思ったのだ。
そう思ってアナスタシアには後部座席を勧めたのだが、助手席に座りたいと言ったので助手席に座ってもらった。
さらには運転している最中、彼女が眠ったりすることはなく、ずっと興味津々といった様子で外を見ていた。
「べつに、見ていても楽しい光景じゃないと思うが」と言うと、「いえ。楽しいです」と答えられた。
まあ、楽しんでくれていることに文句はない。僕は運転に集中した。
とりあえずは、女子寮だ。荷物はもう届いているらしい。女性の荷物だからすべてを手伝うわけにはいかないが、手伝える範囲であれば手伝おうと思っている。
……とにかく、まずは着いてから、だな。
*
「ん? 新人くん……と、誰?」
女子寮に入ろうとすると、ちょうどある二人のアイドルが出てくるところだった。今の言葉は、その内の一人の言葉だ。
「新人くん……って、僕がここに入ってからもう一年経っているんですが、本田さん」
本田未央。あの『ニュージェネレーション』の、本田未央である。
彼女は僕がこの事務所でいちばんの新人であることから僕のことを『新人くん』と呼ぶ。もう慣れたが、それでも一応は言っておかなければならないだろう。
「まま、それはそれとして……そのめちゃくちゃ綺麗な子は誰なのかなー? 君がスカウトしてきたアイドル、とか?」
「……まあ、そうですね」
「やっぱり!」本田さんは輝くような笑顔を浮かべ、アナスタシアの方にぐいぐいと近付いていく。「私、本田未央! あなたは?」
「あ、アーニャ……アナスタシアです」
さすがのアナスタシアもここまでの勢いには少々ながら押されるらしい。本田さんは「アーニャ! かわいいね!」と言って笑い、手を差し出した。「これからよろしく、アーニャ!」
「……ダー。よろしく、お願いします」
アナスタシアは本田さんに差し出された手を握り、しっかりと握手を交わした。
「……クックックッ、新たなる星の輝き、か」
そして、もう一人のアイドルが、こちらに近付いてきた。
アナスタシアの輝くような銀髪とはまた異なる、灰にも近い色の髪。
華美な装飾の施された、ゴシック口リィタとも言うべき服装。
白の肌に、紅き双眸。
難解な言葉を操る、個性的で画然たる『世界』を持つ存在。
この事務所の中でも圧倒的な人気を誇るアイドルの一人。
その名は――
「――我が名は神崎蘭子。アナスタシア、と言ったかしら? 眩き白銀よ……これよりともに偶像として輝こうぞ」
そう言って神崎さんはアナスタシアに近付き、手を差し出した。
そんな神崎さんに対してアナスタシアは、
「……プロデューサー? どういう意味、ですか?」
僕の方を見てそう言った。「……あぅ」と神崎さんの声が聞こえる。……いや、まあ、初めてならその反応になるだろう。
「つーまーりー!」
気まずい空気が流れる中、本田さんが大きく声を上げてその空気を壊した。
「これからよろしく、ってことでしょ? らんらん!」
「……左様」
本田さんの言葉に神崎さんはうなずいて言った。
「そういうことですか! ランコ、これからよろしくお願いしますね」
「うむ」
そうして、アナスタシアは神埼さんと握手を交わした。
――振り返って考えてみると、これが一つの始まりだったのだろう。
この出会いこそがアナスタシアと、後に彼女のライバルとなる存在との出会いだった。
*
あの二人はちょうど女子寮から出るところだったので、すぐに別れた。
「それじゃあね、アーニャ♪」「また会おう、眩き白銀よ」と言って立ち去る彼女たちを見るアナスタシアの目は、どこか輝いているように思えた。
「どうした? アナスタシア」
だから僕は彼女に尋ねた。アナスタシアはハッとして僕の方を向き、
「……彼女たちが、『アイドル』なんですね」
彼女のその言葉には、様々な感情が含まれているように思えた。
本田未央と神崎蘭子。『トップアイドル』にも近い位置にいる彼女たちを見て、感じるところがあったのだろう。
「ああ。そうだ」
しかし――いや、あるいは、だからこそ、僕は言った。
「アナスタシア。君には、今の彼女たちを超えるアイドルになってもらう。僕がそうする。そうしてみせる。君ならそれができると信じている。だから……そうだな、期待していてくれ」
「期待……ですか」アナスタシアは少しの戸惑いとともに言って、ふっと微笑んだ。「わかりました。期待、しておきますね?」
「任せてくれ」
僕は言った。アナスタシアに――そして同時に、自分自身に。
*
アナスタシアの部屋に着くまでに数人のアイドルと出会った。
陰から見ているだけのアイドルもいたが、話しかけてくるアイドルもいた。
アナスタシアは戸惑いながらもあたたかく迎えてくれるアイドルたちに対して感謝している様子だった。
そんなアナスタシアを見るアイドルたちもまた、アナスタシアに対して好印象を持ってくれているようだった。
ある人には「こんな良い子を泣かせちゃダメだよ? 新人くん」なんて言われたくらいだ。もちろん、そんなことをするつもりはないが。
アナスタシアの部屋に着くと、まずはアナスタシアが持ってきた荷物を置いて、休憩した。そこまで重い荷物ではなかったが、それでも長時間持つと多少は疲れる。
そうして壁にもたれかかっている僕をアナスタシアは見ていた。気を遣わせただろうか。そう思った僕はすぐに壁から離れて、「整理、始めるか?」と尋ねた。しかしアナスタシアは首を振った。
「荷物の整理を始めるなら、隣人にうるさくするかもしれないと言っておいた方がいい、ですね?」
アナスタシアは言った。
確かに、言わないよりは言っておいた方がいいだろう。既に事務所からその連絡はされていると思うが、それでも『今から始める』という連絡はしておいた方がいい。
……そんなことをアイドルから指摘されるプロデューサーとはどうなのだ、と僕は自らを責めた。気遣いができていないにも程がある。
しかし、自責したところで何も事態は発展しない。
「そうだな。あいさつ、しておくか」
気を取り直して僕は言った。アナスタシアは「ダー」と応えた。
*
下の部屋、右隣りに住んでいる部屋に人は不在のようだった。
人が住んでいることは確かなのだが、今は出かけているのだろう。
まだ寝ているだけ、という可能性もあるが……そこまで確認する術はない。
正確には管理人に聞けばわかるのだが、そこまで調べることはマナー違反であるとも思える。
その住人とのあいさつは後に回して、最後に左隣りの部屋に人が居るかどうかを確かめることにした。
『今更インターホンを鳴らすなんて誰……ホントに誰? って、新人チャン? ということは……!』
インターホンを鳴らすとまずそんな声がして、たたたた、と外からも微かに聞こえるほどの勢いでこちらに近付いてくる足音。
かと思えば一度止まり、その足音が離れていって、しばしの無音。
それからまたこちらに足音が近付いてきて、ドアが開いた。
「初めまして! 前川みくです! これからよろしくにゃ♪」
猫耳としっぽを装着し、猫を模したポーズをして現れたのは前川みくさん。
『猫キャラ』のアイドルとして知られ、非常に人気のあるアイドルだ。
この事務所の中でも『アイドル』に対する思いは人一倍で、プロ意識も高い。
僕たちが来たことを確認してから急いで猫耳としっぽを付けてきたのだろう。
その額には若干の汗が滲んでいたが、猫を模した姿勢は完璧そのものであり、僕としても『これがプロ意識の為せる技か』と感心するほどであった。
しかし、
「……にゃ?」
アイドルモードで現れた前川さんにアナスタシアは困惑気味。
それはそうだろう。あいさつをしようとしたらいきなり猫耳にしっぽを付けた少女が現れたのだ。まったく戸惑わない方がおかしいと言える。
「……新人チャン」
困惑したアナスタシア、テンション高めであいさつした手前もう引けなくなってしまった前川さん。
そんな彼女たちの間に流れた沈黙に耐え切れなかったのか、前川さんは僕の方に助けを求めた。
「あー……アナスタシア。彼女は前川みく。まあ、見ての通り猫キャラのアイドルだ」
「猫……キャラ?」
キャラとは何なのか。そう言うかのようにアナスタシアは首を傾げた。
確かに、いきなり『猫キャラ』などと言われても何のことかはわからないかもしれない。
こういう文化に慣れてしまって、通じるのが当然と考えてしまったが、むしろ知らない人もいる方が当然なのだ。
しかし、どう説明したものか……僕は考えこんだ。
「……あの、二人とも? みく、さすがにちょっとこのポーズを維持するのに疲れてきたんだけど……」
前川さんは震える声で言った。見ると先程の猫を模したポーズをずっと維持していた。
片脚を上げた前傾姿勢。ほんの少し震えてはいるが、こんな姿勢ここまで維持できているとは……さすがは人気アイドル、と言ったところか。
しっかりとした体幹がなければこんな姿勢を維持することは難しいだろう。
ポーズ一つにしても日々のレッスンが重要であるという良例だ。勉強になる。
「……き、聞いてる? そ、そろそろ、限界なんだけど……」
前川さんはぷるぷると震え始めた。しまった。先輩アイドルに何をさせているんだ。
僕はすぐにアナスタシアを紹介することにした。
「すみません、前川さん。こちらはアナスタシア。今日から隣の部屋でお世話になる、新人アイドルです。どうぞよろしくお願いします」
「ミーニャザヴート、アーニャ。私はアーニャ。アナスタシアです。これからよろしくお願いします。アーニャと呼んで下さいね?」
僕が言うと、アナスタシアもまた自己紹介してくれた。
前川さんはふぅと息を吐いてから猫を模した姿勢をやめて、アナスタシアに向き直った。
「アーニャ……ということは、アーニャンだね。うん、これからよろしくね」
そう言って差し出された手をアナスタシアは握り、「ダー」と笑った。
「でも……アーニャンとは、なんですか?」
「えっ……何って言われても、愛称のつもりなんだけど……し、新人チャン。どう説明すればいいの?」
前川さんは助けを求めるように僕を見た。
「わかりません」
僕は正直に応えた。『愛称』以上の答えを僕は持ち合わせていない。
「……えーとね、アーニャン。これを説明するには、その前に色々と説明しなきゃいけないことがあるんだけど――」
多少の沈黙の後、前川さんは説明を始めた。
やっぱり良い子だな、と思う。わざわざ一から説明してくれるとは……本来なら僕の仕事なので情けない話なのだが、ありがたい。
前川さんが話していたことは『アイドル』としての基本、『キャラ』というものの存在。そういったものを前川さんなりにわかりやすく説明したものだった。
自分がアナスタシアのことを『アーニャン』と呼ぶには『自分のキャラ』を説明することが必要で、それにはまず『キャラ』について説明しなければならず、さらに言えば、その『キャラ』というものが『アイドル』にとってどういう意味があるのか。そんなところから説明しなければならないと判断したからだろう。
アナスタシアは興味深そうに前川さんの話を聞いていた。
そんなアナスタシアの反応を見て気を良くしたのか、前川さんは「アーニャン、これからもわからないことがあったら何でもみくに聞いてね」とまで言ってくれた。
アナスタシアにとってもその申し出は大変嬉しいものだったらしく、「ダー♪ スパシーバ、みく」と笑った。
「スパ……何?」と前川さんが怪訝な調子で尋ねると、アナスタシアはすぐに「ありがとう、です」と返した。
前川さんはそれを聞いて一瞬だけ目を丸くさせて、すぐに恥ずかしさと嬉しさが半々に混じったような笑みを浮かべた。「どういたしまして、にゃ」
――良い隣人に恵まれたな、アナスタシア。
今日初めて出会ったとは思えないほど親しげに笑い合う彼女たちを見て、僕はそんなことを思った。
こんな隣人が――友人ができる。それは、あるいはこれから先の人生においても非常に貴重な財産になるだろう。
――ありがとう、前川さん。
心の中で、僕は彼女に感謝をした。それに何かを感じ取ったのか、前川さんはこちらを見て「どうしたの? 新人チャン」と尋ねた。
何でもありません、と僕は答えた。
*
前川さんは「荷物の整理をするなら手伝うよ?」と言ってくれたが、その申し出は断ることにした。
アナスタシアもさすがに初対面の人間に荷物の整理から手伝ってもらうことには抵抗があったらしい。
「そっか。でも、困ったら何でも言ってよね。あと、新人チャン。アーニャンに変なことしたら、みく、怒っちゃうからね」
前川さんにはそう言われたが、変なことなんてするはずがない。
「プロデューサーも、無理に手伝う必要はありませんよ?」
アナスタシアはそう言ってくれたが、こちらの都合で連れて来たのだからこれくらいは手伝わせて欲しい。
重いものもあるだろうし、男手もないよりはあった方がいいだろう。
さすがに下着類やらそういったものには手を出せないが……触られたくないもの以外は手伝わせて欲しい。
僕がそういったことを言うと、アナスタシアは了承してくれた。
それから数時間。
殺風景だったアナスタシアの部屋も、多少は生活感のある部屋になった。
とは言っても、女子高生が住む部屋にしてはこれでもまだまだ殺風景だと思うが。
「これくらいで大丈夫です」
アナスタシアは言った。まだいくつか開けられていないダンボール箱が残されていたが、あれはあまり触られたくないものなのだろう。僕はそう思ったのだが、そうでもないらしい。
「私はアイドルで、貴方はプロデューサーです。なら、隠すことなんてありません。あれは、まだ、どうするか決まってないだけです。……下着は、その、恥ずかしいから、ですが、必要なら、見せられます。私は、アイドルになると決めましたから」
その白い肌を朱に染めてアナスタシアは言った。
アイドルだからと言ってそこまでする必要はないのだが、それくらいなら覚悟はしている、ということだろうか。
いや、ウチの事務所には女性スタッフも豊富なのでそういった時は女性スタッフに任せることになると思うが。
「しかし、思ったよりも早く終わったな」
僕は言った。一日をすべて費やしてもまだ足りないほどだと思っていたのだが、そんなことはなかった。
アナスタシアも疲れているだろうし、これでもう解散、でもいいのだが……。
「アナスタシア。何か、したいことや行きたいところはあるか?」
せっかく時間に余裕があるのだから、と思い僕は尋ねた。
アナスタシアは「ンー」と少々考えこみ、「事務所の人たちにあいさつ、しておきたいですね」と言った。
しかし、それは既に明日に予定されている。そう言うと彼女は「そう、ですか。それなら……」とまた考えこんだ。
「なんでもいい。何もなければそれでいいが、何かあるなら気軽に言ってくれ。僕も今日は……いや、今日だけじゃない。今の僕の仕事は君のプロデュースだし、仕事でなくとも、出来る限り君の助けになりたいと思っている。君をこちら側に連れて来た責任もあるし……何より、ご両親に『任せて下さい』と言ったからね」
助け舟のつもりで僕は言った。答えを急かしているように感じられては問題だが、そうは受け取られていない……と思う。
「何か欲しいものがあれば買いに行こう。何か見に行きたいなら言ってくれ。僕は君のプロデューサーだ。遠慮することはない。君がアイドルに専念するためなら、僕はそれ以外のすべての雑事を引き受ける。って、これはさすがに鬱陶しいか。でも、僕がそうしたいんだ。だから……そうだな、僕のことを信じてくれ。失礼と思うことでも、遠慮せずに、すべてを言ってくれればいい。もちろん、言いたくないことは言わなくてもいいけどね」
さすがに胡散臭いか、と自分でも思う。色々な意味で『クサい』とは思う。
しかし、これは確かに僕の本心でもあるし、誠意のつもりでもある。すべてを話してくれと言うのならば、すべてを話すべきだろう。嘘偽りない本心を、そのままに。
「……わかりました」
アナスタシアは微笑んだ。楽しそうに、面白そうに。僕に優しく笑いかけた。
「スパシーバ、プロデューサー。……お言葉に、甘えさせてもらいますね?」
「ああ」僕もまた、笑みを浮かべて言った。「なんでも言ってくれ」
「ダー。それなら――」
そう言って、アナスタシアは窓の外を見た。窓の外の、空を見た。
「――星が、見たいです」
*
今の時間から日帰りで星が見ることのできる場所。そんな場所があるのだろうか。
そんなことを考えながら調べると、意外にもすぐに見付かった。今から行けば、ちょうど星が見え始めるくらいの時間になるところだ。
それならば、と僕たちはすぐに出発することにした。帰る時間がそこまで遅くなっては色々と問題だと考えたからだ。
「……東京は人が多い、ですね」
駅の人いきれを抜けるとアナスタシアは言った。車で行くよりも電車で行った方が早いと判断した僕たちは電車を使うことにしていた。
「疲れるか?」と尋ねるとアナスタシアは「少し」と答えた。「でも、今日からはここが、私の住む場所、ですね」
その言葉に含まれていた意味がどういったものか、すべてを推察することはできないが、変に気を遣う必要はないということだけは理解できた。
アナスタシアの言葉にはホームシックめいたものも含まれていたかもしれないが、同時に覚悟のようなものも感じられたのだ。
たとえまだ一五歳の少女だとしても、覚悟をしている人間に何か心配するようなことを言うわけにはいかないだろう。それは失礼と言うものだ。
僕はただ「ああ」と応えた。
電車に乗っている間、僕はアナスタシアと様々なことを話した。
アナスタシアは星が好きだということ。それ以外にも、様々なことを。
ただ、今回は以前と違って僕のことも話すことになった。僕の話なんて何も面白くはないと思ったが、アナスタシアにとってはそうではなかったらしい。
僕がプロデューサーになった経緯、プロデューサーになってからの話、その時に担当していたアイドルとの話……。
そういったことから、本当にどうでもいいことまで、アナスタシアは興味深そうに聞いてくれた。
そんな風に聞かれると僕も気が良くなってしまって、プロデューサーだというのに自分のことをどんどん話していってしまった。
そうしている内に目的地に着いてしまった時、僕は自分のことを話し過ぎてしまったことを謝った。
「いえ、プロデューサーの話、面白かったです」
アナスタシアはくすくすと笑いながらそう言ってくれたが、それが逆に恥ずかしさを強めた。
……次は、きちんとアナスタシアの話を聞こう。僕は思った。
駅からバスに乗り、数十分するとそこに着く。ちょうど日が落ちてきて、星の輝きも微かに見えるようになってきていた。
「えー……っと、うん、こっちだな」
僕はアナスタシアとともに最も星が見えるという場所に向かっていた。そこそこの数の人が僕たちと同じ目的を持っているらしく、その流れに付いて行くだけで良かった。
そして、その場所に着いた頃、ちょうど日が落ちて、星がはっきりと見えるようになった。
「……確かに、ここは、星が見えるな」
空を見上げて、僕は少しながら感動していた。
北海道でならば、見ようと思えばもっと綺麗な星空を見ることができたのかもしれないが、北海道では星空を見ようとすら思っていなかった。
そう考えると、こんな星空を見たのは初めてかもしれない。こんなところに、こんな場所があるなんて……行こうと思えばいつでも行ける距離に居たのに、今まで知らなかった。
いや、正確には知ろうとすらしていなかったのだろう。この、美しい空のことを。
「……綺麗ですね、プロデューサー」
星を見上げて、アナスタシアは言った。僕は星のことを何も知らないが、アナスタシアは何かわかるのだろうか。アナスタシアには、この星空も僕とは違う見え方をしているのだろうか。
だが、星に関する知識なんて何もない僕でも、一つだけ、わかることがある。
それは、
「……ああ。とても、綺麗だ」
星空は、綺麗ということだ。
そして、それを見る、少女の瞳も――
「……? プロデューサー? どうか、しましたか?」
「いや」僕の視線に気付き『自分に何か言いたいことが?』とでも言うように尋ねるアナスタシアの言葉を僕はすぐに否定した。「なんでもないよ。少し、見ていただけだ」
「そう、ですか」
完全に納得しているわけではないようだったが、それ以上の追及はなかった。僕はほっとした。
本当に見ていただけなのだから問題はないと思うのだが、それでも、ほっとしたことは事実だった。……やっぱり、アナスタシアには星が似合う。僕は思った。
「……プロデューサー。プロデューサーは、私を『世界でいちばん輝く星にする』と、言ってくれましたね?」
星空を見上げたまま、彼女は言った。
「ああ。間違いなくそう言ったし、必ずそうしてみせる」
「……スパシーバ」アナスタシアは僕の方を向いて微笑み、また、星空を見上げる。「……プロデューサーは、この夜空でいちばん輝く星を、知っていますか?」
「いちばん輝く、星?」
「ダー」彼女はうなずいた。「太陽や、月ではない、地球から見える恒星の中で、最も明るく、輝く星――」
「最も明るく、輝く星……」
アナスタシアにつられて、僕もまた、星空を見上げた。満天の星空。だが、どの星が最も輝いているのかは、僕にはわからない。
「……すまない。僕には、わからない」
正直に、僕は言った。この中でいちばん輝いている星が何か。いくつかにしぼれないことはないが、どれがいちばんなのかはわからない。
「……イズヴィニーチェ。すみません、プロデューサー。私、意地悪な問題、出しました」
アナスタシアは言って、こちらを見た。意地悪な問題? それはいったい、どういうことだ?
「太陽でも、月でもなく、地球上から見える恒星の中で、最も明るく、輝く星……それは、今の季節、この時間、日本からは見えません」
……確かに、それは意地悪な問題だ。そもそも、この星空の中に答えなんてなかったのだから。
アナスタシアは続ける。
「その星の名前は、シリウス――冬の大三角でも有名、ですね。その名前の由来は、ギリシャ語で『焼き焦がすもの』『光り輝くもの』を意味する『セイリオス』という言葉です」
へぇ……と僕は素直に感嘆した。確かに、シリウスならば知っている。それが最も明るく輝く星だということまでは知らなかったが。
「……プロデューサー。今、シリウスは見えませんね?」
「ん? ああ。いや、僕にはわからないけれど、そうなんだろう?」
「ダー。今は、まだ、見えません」
そう言って、アナスタシアは僕に近付いて、僕の手をとった。
「……アナスタシア?」
いきなりどうしたのか。そう思って僕は訊ねた。しかし、アナスタシアは僕の手をとったまま、離そうとしない。僕の手をとって、顔をうつむかせている。
「……プロデューサー。私は、何の星だと思いますか?」
顔を伏せたまま、彼女は言った。僕の手をしっかりと握りしめて、言ったのだ。
その時になってようやく、僕はアナスタシアの言いたいことを理解した。
そうか、そういうことなのか。これが――これこそが、アナスタシアの決意なのか。これこそが、アナスタシアの覚悟なのか。
「――シリウス」
僕はアナスタシアの手を握り返し、彼女の目の前に立って言った。
「アナスタシア。君は、シリウスだ。今はまだ見えないが――すぐに、見えるようにしてみせる」
アナスタシアは顔を上げた。その顔には、ほんの少しの不安と、歳には不相応とも言えるほどの覚悟があった。
「そのために……これから、ともに歩いていこう。約束だ」
「……ダー。約束、です」
改めて、僕たちはしっかりと互いの顔を見据えて、固い握手を交わした。
満天の星空の下。固い、固い、誓いの握手を。
*
女子寮に着く頃にはもう夜も遅い時間になっていた。
「すまないな、こんなに遅くなってしまって」
時計を確認して僕は言った。こんな時間になってしまっては、もう寝ることくらいしかできないだろう。
「いえ、私が頼んだこと、ですから」
アナスタシアは言ってくれたが、それでも、ここまで遅くなるならば何か別の方法もあったはずだ。何の考えもなしに気軽に了承してしまった僕に落ち度がある。
「それに、プロデューサーと食事もできました。一緒に食事をすることは大事、ですね」
「……それに関しては、もっと良い店に行ければ良かったんだけどね」
帰る時間には女子寮の食堂も閉まっている時間だと思われたので、僕はアナスタシアと食事をした。しかし、さすがに急なことだったので良い店を探す時間もなかった。
知り合いに聞こうにもちょうど用事中だったらしく連絡が付かず……とりあえず、アナスタシアの好物が肉じゃがということだったので、僕が知っている肉じゃがが食べられる店に行ったが、アナスタシアのような少女を連れて行くようなところではなかったな、と今でも思う。
居酒屋にまだ高校生にもなっていない少女を連れて行くなど……我ながら、考えられない話だ。
「? とても良いお店、でしたよ?」
アナスタシアは不思議そうにそう言った。これはこれで本心なのだろう。
北海道やロシアではあのような店に行ったことはなかったらしく、物珍しそうに周囲を見回していたし、何やら興奮してもいた。
味は確かな店だったから料理もおいしそうに食べていたし……だが、それでも、女子高生を連れて行くような店ではないことは確かだ。
「ありがとう。……まあ、気に入ってくれたのなら、嬉しいよ」
かと言って、満足しているアナスタシアにわざわざそんなことを言う必要もない。
またこのような機会があるかどうかはわからないが、その時のためにもアナスタシアのような女性を連れて行ける店を調べておかなければならないな、と思う。
――そう言えば、彼女にも同じようなことを注意されたな。
僕はある少女のことを思い出した。今回と同じような状況で、居酒屋ではない、適当な店に入ったのだが……アナスタシアとは違って、彼女はしっかりと文句を言ってきたな、と思う。
「女性と食事をするのに、こんなところに連れてくる? 本当に、Pさんはダメなんだから♪」なんてからかってきた。
同時に「まあ、私はPさんがそういう人だって知ってるからいいけどね」とも言ってくれたが。
……まだ、たった数ヶ月前のことなのか。僕は思う。
今、彼女はどうしているだろう。元気にしていることは知っている。活躍していることも知っている。
だが、あの時から、もう会っていない。まだ数ヶ月も経っていないはずなのに、どうしてか、ひどく昔のことのように感じる。もうずいぶんと、会っていないような――
「……? 誰か、いますね」
アナスタシアが言った。その言葉に僕はアナスタシアの視線の先――女子寮の、前を見る。
そこには、一人の少女が立っていた。
一人の少女が、僕たちの方を見て、立っていた。
「ずいぶん遅かったね。こんな時間まで、二人で何をしてたの?」
どこか棘のある調子で、彼女は言った。それはこちらの台詞だ。どうして君が、こんな時間に……。
「私はあなたたちを待っていただけだよ。何時になるかはわからなかったけれど……今日の内に、会っておきたかったから」
そう言って彼女は僕から視線を外し、アナスタシアを見た。その刺すような視線を、アナスタシアは真っ向から見つめ返す。
「あなたが、アナスタシアちゃん? ……新しい、Pさんのアイドル、ね」
「……そう言うあなたは誰、ですか?」
アナスタシアは言った。攻撃的とも思える視線に怯むことなく、真っ向から立ち向かっていた。
「あ、確かに自己紹介がまだだったね。――Pさん、せっかくだから、説明してよ。『いつもみたい』に、さ」
彼女は僕に笑いかけた。アナスタシアに対する攻撃的なものとは対照的に、優しく、朗らかに。
「プロデューサー……?」
アナスタシアはここに来て初めて不安そうに僕を見た。僕と彼女の関係はどういうものか。彼女はいったい、どういう存在なのか……それを、尋ねる視線だった。
「……わかった。紹介するよ」
そして、僕は口を開いた。
「彼女の名前は北条加蓮。……アナスタシア。君の前に、僕が担当していたアイドルだ」
第三話「約束」
事務所。
「アナスタシア……ねぇ」
部長も同席している中、一人の男がぼやいた。
「あの北条加蓮を差し置いて、プロデュースする価値があるのかどうか」
彼は現在の北条加蓮のプロデューサーであった。『名目上は』という枕詞は必要だったが。
「彼が『ティン』ときたんだ。それを信じてやるのが私たちの仕事じゃないかね?」
くつくつと笑いながら部長は言って、湯のみを手にとった。しかしその中身は既になく、ふぅと落胆の息を吐きながら湯のみを置いた。
「その『ティン』っていうのが俺にはよくわからないんですよ」ぶすっとして男は言った。「そんな直感で重要なことを決めるなんて……」
「確かに、君はそうかもしれないね」部長は言う。「君は直感に頼らない方がいいだろう」
「……どういうことですか」
男は部長の真意を探るようにして訊ねる。しかし、部長は鷹揚に笑い、
「信じるものが違う、ということだよ。君は今のままでいい。そのやり方を今更曲げるわけでもないだろう?」
「……それは、そうですけど」
腑に落ちない、といった様子で男は言った。そんな彼に部長は苦笑し、
「まあ、北条くんのプロデュースを辞退したことも、彼なりに考えてのことなんだよ。彼なりに、北条くんのことを考えてのことだ」
「……考えて、ですか」
男は言う。加蓮のことを思い浮かべて……加蓮とPのことを、思い浮かべて。
「……部長、確かに、部長の『ティン』ときた、というのはすごいものなんだと思いますよ。実際、あいつは『あの時期』の北条加蓮のプロデューサーを務めきった。それはすごいことですよ」
男は言う。自分では絶対に無理だった。そんな確信すら抱いているのに、彼は彼女のプロデュースをきっちりとこなした。
一年間という短い期間ではあったが――確実に、強固な信頼関係を築いていた。
だからわかる。Pが加蓮のことを蔑ろにするわけがないと――あの頃の二人の関係を知る者ならば、それがわからないはずがない。
しかし、それでも――だからこそ、納得いかなかったのだ。
男は続ける。
「あいつが北条のことを――北条の実力と自分の経験、プロデュース能力が見合っていないことを考えて北条のプロデューサーから降りたことはわかっています。でも、それでも、北条にはあいつが必要だった……そんなことがわからないなら、それは、もう……」
男は熱くなっていた。現在、加蓮を担当しているプロデューサーは彼であったが、だからこそ、思うところがあったのだ。
確かに加蓮はPがプロデュースする前に比べればずいぶんと接しやすくなった。
Pがプロデューサーから降りた直後はどうなるかと思ったが、そんな心配はいらなかった……少なくとも表面上は、そう思えた。
しかし、その奥では?
北条加蓮は現在この事務所の中でも人気の高いアイドルだ。それはPがプロデュースする前からそうだった。
加蓮がある時期『プロデューサー不信』とも言えるような状態になった原因であるプロデューサーの力もあって、実力だけならばトライアドプリムスの残り二人――渋谷凛と神谷奈緒にも匹敵するほどの実力の持ち主だった。
そんな彼女が得意とするものの一つに『演技』がある。
そんな彼女の演技力ならば、表面を取り繕うことなど造作もないことだろう。その奥に秘めた感情を隠すことなど、造作もないことだろう。
そして男は確信していた。北条加蓮は自らの心を隠している。
彼もプロデューサーとしての経験はそこそこ長い。自分の担当しているアイドルが『何かを隠している』という程度はわかるのだ。
今回のことに関しては、原因すらも――
「――本当にそうかな?」
部長は言った。男はハッとして部長を見た。いったい何を言っているのか。北条加蓮にとってPが必要だったことなんて、当然の……。
しかし部長は男の目から逃げない。真っ向から男の視線を受け取って、応える。
「北条くんにとって、彼が大切な存在だったことは確かだろう。私もそう思う。だが、『必要』かどうかは別の話だ。『北条加蓮』には必要だったのかもしれないが、『アイドル』としては……」
そこで部長は一度言葉を止めた。止めて、笑った。
「まあ、本当にどうなのかはわからないがね。しかし、彼もそのあたりは考えたのだと思うよ。……私たちにはわからないことも、きっと、あるよ」
そんな風に言われては、男に返す言葉はない。
しかし、ただ一つ、確かなことがあった。
「でも、北条がアナスタシアのことを知ったら絶対に面倒くさいことになりますよ」
男は言った。部長は苦笑した。
「それは確かに、絶対だね」
彼らはまだ、その『面倒くさいこと』が起きていることを知らない。
*
「そうそう、つまり、私はあなたの先輩、ってことになるね」
くすくすと笑いながら加蓮は言った。……読めない。加蓮が何を目的にしているのか、僕は掴みかねていた。どういう目的で、こんなことをしているのか。
「カレン……先輩、ですか」
「うん、先輩先輩。……なんか先輩って響き、いいね。好きかも。ねぇねぇアナスタシアちゃん、『加蓮先輩』って呼んでみてくれない?」
「カレン、先輩?」
「きゃー!」加蓮は嬉しそうに頬を抑えた。「Pさん、私、先輩って言われちゃった。先輩……先輩だって♪」
……読めない。いったいどういうことだ。ついさっきまでは攻撃的な姿勢をしていたのに、今はもう、これだ。加蓮は何を考えているんだ? いったい、何を……。
それはアナスタシアも同じようだった。加蓮が何を考えているのかわからず、不思議そうにしている。
僕ですら今の加蓮が何を考えているのかわからないのだ。アナスタシアの戸惑いは僕のものよりもずっと大きいものだろう。
「この呼び方、いいなぁ……あ、アナスタシアちゃん。私は今、あなたのことをこう呼んじゃっているけど、普段はなんて呼ばれているの? 私はなんて呼んだらいい?」
アナスタシアは戸惑いながらも答える。「普段はアーニャ、と呼ばれています。ですが、呼び方はなんでも構いません」
「なんでもいいの? それじゃあ……」加蓮は少しだけ考えて、言った。「アーニャちゃん! アーニャちゃんって呼ばせてもらうね。それでもいい?」
「ダー」アナスタシアはうなずき、すぐに訂正する。「はい、構いません」
「ダー……」加蓮はアナスタシアの言葉を反芻する。「『ダー』っていうのは、ロシア語?」
「ダ――はい。ロシア語で、『イエス』ですね」
「へぇ……そうなんだ。つまり、バイリンガル?」
「いえ。英語も話せますから、トリリンガルです」
「トリリンガル……」加蓮は驚いた様子を見せた。「すごいね、アーニャちゃん」
「スパシーバ。ありがとうございます」
最初の態度はどこへやら、加蓮はすっかりアナスタシアに親しげに接しており、アナスタシアもまた、加蓮に心を許していっているようだった。
そして、だからこそ不気味だった。
……加蓮。君はいったい、何を企んでいる?
僕の訝しむような視線に気付いたのか、加蓮はこちらを見た。そして、微笑んだ。
「Pさん。アーニャちゃん、とっても良い子だね」
「……ああ。僕もそう思う」
それは確かだ。アナスタシアはとても良い子だ。……良い子過ぎて、心配になるほどに。
「私よりもよっぽどプロデュースしやすいんじゃない? Pさんと初めて会った時の私は……結構、荒れてたしね」
えへへ、と恥ずかしそうに加蓮は笑った。確かにアナスタシアと比べれば、初めて会った時の加蓮は荒れていた。だが、
「年頃の女子高生なんだ。あんなものじゃないか?」
加蓮が特別荒れている、ということもないだろう。あの時の僕は新人であったし、そんな特別荒れているようなアイドルを任せられるとは思えない。
「……うん、Pさんは、そういう人だよね」
加蓮は言った。どういうことだ? 僕は加蓮の言っていることの意味がわからなかった。だが加蓮はその答えを言うことなく、続ける。
「Pさん。アーニャちゃんは、たぶん……ううん、きっと、絶対に、すごいアイドルになると思うよ。今、すごいアイドルである私が保証してあげる」
「すごいアイドルって……自分で言うか?」
「言うよ。だって、すごいアイドルなんだもん。……Pさんが育ててくれた、アイドルだよ」
「それは僕じゃない」僕は加蓮の言葉を否定する。「僕の前任のプロデューサーのおかげだ」
「……それはあんまり認めたくないけど、まあ、歌やダンスはそうかもね」
少しだけ顔を歪めて加蓮は言う。
僕が担当した時、加蓮は既に人気アイドルだった。それは間違いなく僕の前に彼女を担当していたプロデューサーによるものだったのだが、ただ一つ、性格の面でそりが合わなかったらしい。
そのため、加蓮は僕の前任のプロデューサーに対して未だに良い感情を抱いていない。
……これでも、昔よりはずいぶんと丸くなっているのだが。
「でも」と加蓮は僕を見る。「アイドルとしていちばん大事なことは……貴方が、教えてくれたんだよ」
「そんなことは」
「あるの。……容姿が良くても、歌が上手くても、ダンスが上手くても――それだけじゃ、アイドルにはなれない。そういう意味では、私はきっと、Pさんに会うまではアイドルじゃなかったんだと思う」
……加蓮の言葉の意味がわからないわけではなかった。だが、僕がそれを教えたとはどうしても思えなかった。むしろ、僕が……。
「……ねぇ、Pさん。さっきも言ったけど、アーニャちゃんは、必ず、すごいアイドルになると思うよ」
何も返さない僕に向かって、加蓮は言った。
「そう――Pさんがプロデュースしなくても、ね」
そう言って、加蓮は微笑んだ。
その微笑みは、優しく可憐で――残酷で。
一瞬――ほんの一瞬だけ、僕はその言葉に退きそうになった。
その言葉は、きっと、事実で……僕がプロデュースしなくても、アナスタシアがトップアイドルになるだろうことは想像に難くなかった。
むしろ、僕ではない、もっと実績のあるプロデューサーの方が……そう、思いかけてしまった。
しかし。
「……加蓮。それは、君の言う通りかもしれない」
僕は言った。その瞬間、加蓮は「じゃあっ」と口を開き――その前に、僕は続けた。
「だが、それでも――僕は、アナスタシアをプロデュースしたいんだ。他の誰でもない、僕が、トップアイドルにしたい。……そう思った、アイドルなんだ」
たとえ、僕の他に適任がいたとしても。
僕よりもずっとプロデュース能力が高い人間がいたとしても。
それでも――彼女は譲れない。彼女だけは、譲れない。
彼女は僕がプロデュースすると決めたんだ。僕が輝かせると決めたんだ。
自分勝手と言われてもいい。そんな感情で一人の少女の人生を変えるのかと言われればそうだと言ってやる。
他の誰にも任せておけない。他の誰にも背負わせてなんてやるもんか。
この責任は、僕のものだ。
それだけは、絶対に譲れない。
「……そっか」
僕の目を見て、加蓮は言った。……とても、とても、寂しそうに。
「Pさんにとって、アーニャちゃんは、そんなに……」
顔をうつむかせて、ぽろぽろと、溢れた水がこぼれる時のように、言葉を漏らす。
「……Pさん。私が……私が言おうとしたことは、さ。アーニャちゃんは誰がプロデュースしてもすごいアイドルになれるけど、私は違うってことなんだよ。私はPさんじゃないと……Pさん以外のプロデューサーじゃダメ、って。そう言おうと思ってたんだ」
「それは――」
「違う」僕の言葉を先取りするように加蓮は言った。「でしょ? ……うん。わかってる。実際、今の私はアイドルをやれているからね。Pさんが居なくても、アイドルをやれてる……それは、事実だから」
そして、加蓮は顔を上げて、僕を見た。見て、笑った。
「だから、作戦変更♪ ……Pさん。アーニャちゃんがそんなに魅力的なら――どうしてもプロデュースしたいアイドルだって言うんなら、私は、その上を行くよ。Pさんが、絶対にプロデュースしたいって……そう思うようなアイドルに、なってみせる」
そのまま加蓮はアナスタシアの方を向いて、その手を差し出した。
「ということで、アーニャちゃん。これからは私たち、先輩後輩で――ライバルだから。これから、よろしく」
アナスタシアは差し出されたその手を見て、加蓮の顔を見て。
「ダー。これから、よろしくお願いします」
嬉しそうに、笑った。
*
「……なんか、締まらないなー」
「締まらないって、何がだ?」
「いや……ライバル宣言した後って、格好良く去りたいでしょ? それなのに、送ってもらう、って……」
はー、と加蓮はわざとらしく溜息をついた。……まあ、その気持ちもわからないでもない。
しかし、さすがに年頃の少女をこんな夜にひとりで帰らせるわけにはいかないだろう。
あの後、アナスタシアは女子寮に帰ったのだが、加蓮はそういうわけにはいかなかった。
あの時間でも申請すれば女子寮に泊まることもできたのだが、その場合、僕ではなくアナスタシアと二人で女子寮に行くことになる。
それはさすがに格好がつかないにもほどがあるので、妥協して僕に送ってもらう、とのことだった。
……と言っても、加蓮はなかなか僕が送ることを了承せず「送る」「大丈夫」「送る」「大丈夫」というやり取りを何度もしてアナスタシアに笑われたのでその時点でもう格好も何もないとは思うが。
「……でも、アーニャちゃん、本当にかわいいね。良い子だし。だからこそ、最後のアレはちょっとびっくりしたかも」
思い出すようにして加蓮は言った。「最後のアレ?」それが何を指すのかわからなかったため、僕は訊ねる。そんな僕に加蓮は指を立てて答える。
「ほら、ライバル宣言の後の。……まさか、笑ってくるなんて。もしかして、アーニャちゃん、結構闘争心強い?」
「さあ?」
「さあ、って……」加蓮は呆れるようにして言う。「しっかりしてよー。アーニャちゃんのプロデューサーなんでしょ?」
「そうだけど、実際に喋ったのは両手で数えられるくらいの日数だからなぁ……まあ、僕からすれば意外ではなかったが」
「へー……」そう言って加蓮は口を尖らせた。「なんか、むかつく」
「は? どうして」
「むーかーつーくーのー」そう言いながら加蓮は僕の腕を持って振り回した。……鬱陶しい。鬱陶しいが……。
ふっ、と思わず笑みがこぼれた。「む」それを見逃す加蓮ではなく、自分がむかついているって言ってるのに何を笑っているのかと責めるように睨まれる。
「いや、べつに加蓮をバカにしているわけじゃない」
それは誤解だと言うために僕は言う。しかし加蓮は納得せず、
「そう言うってことはバカにしてるってことでしょ。……もう」
そう言ってそっぽを向いた。……すっかり機嫌を損ねてしまったらしい。
あまり言いたくはなかったが、これから加蓮の家に着くまでずっとへそを曲げられては家で何を言われるかわかったものではない。僕は自分が笑ってしまった理由を言うことにした。
「……加蓮。さっき笑ったのは、その……嬉しかったからだよ」
「……嬉しい?」加蓮は唇をへの字に曲げたまま言う。「私がむかついているのが?」
「そうじゃない。……その、つまりだな」
そこで僕は詰まってしまう。なんだか、恥ずかしい。
アナスタシアには色々と恥ずかしいことも言えるのだが、加蓮にそういうことを言うとからかわれる可能性が高いのだ。
だから、あまり言いたくない。
だが――僕は加蓮の顔を思い出す。さっきまで、アナスタシアと一緒にいた時の加蓮の顔。その時の彼女の笑った顔。何かを隠すように、笑った顔。
……あんな顔を、させるくらいなら。
「加蓮。君とこんな風に話せることが、嬉しかったんだよ」
加蓮の目をまっすぐに見て、僕は言った。「えっ」と加蓮は固まり、ぼっと顔が赤くなる。
「……い、いきなり、そんなこと、言わないでよ」
そう言って加蓮は僕から顔を隠すようにしてそっぽを向く。……そんな彼女を見ていると、僕もなんだか恥ずかしくなってきた。
顔が熱い。きっと、今、僕の顔は真っ赤だろう。
「……でも、うん、私も……私も、嬉しい」
そっぽを向いたまま、小さな声で、恥ずかしそうに、加蓮は言った。……そんなことを言われると、さらに顔が熱くなってしまう。顔から火が出るとはこのことか。
四月。春とは言っても、まだ夜は少し寒い。その寒さが一刻も早く顔を冷ましてくれることを僕は願った。できれば、加蓮が僕の顔の赤みに気付く前に。
それから数分以上、僕たちは互いにそっぽを向いて歩いていた。
お互いに、自分の顔を見られないように。
自分の心を、悟られないように。
*
「……じゃあね、Pさん」
加蓮の家の前。彼女は言った。加蓮のご両親にあいさつしておきたがったが、「いいよ、もう」と断られた。
それでもどうか、と思ったのだが、「顔を見られたら、ウチに泊まらせられるかもよ?」と言われて折れた。ご両親なら確かにしかねない。そう思ったからだ。
「今日はありがとね。私に、付き合ってくれて」
「いや、大丈夫だ。……原因は、僕にもあるからな」
「うん。それは否定しない」
加蓮は得意そうに笑った。加蓮らしいな、と僕は思う。
「……ねぇ、Pさん」
「なんだ?」
「必ず、振り向かせてあげるから」
加蓮は言った。強い、強い覚悟がこもった目。
「……僕も」
そんなことを言われては、応えないわけにはいかない。
「必ず、証明してみせる。僕こそが、アナスタシアのプロデューサーなんだって」
僕は加蓮の目を見た。まっすぐに、見つめた。
まっすぐに、熱く、見つめ合って……そして、加蓮は言った。
「じゃあ、Pさん。またね」
「ああ。また」
そうして、僕は加蓮から背を向けて歩き始めた。
十数歩ほど歩いた時、加蓮が僕を呼んだような気がした。
僕は振り返らなかった。
*
女子寮。
アナスタシアは今日あったことを思い出していた。
空港でプロデューサーと会い、女子寮に来て……そこで、色んなアイドルと出会った。
本田未央、神崎蘭子、前川みく……それ以外にも、色んなアイドルと。
それから、プロデューサーと星を見に行って……そして、女子寮の前で、北条加蓮と出会った。
彼女はプロデューサーが前に担当していたアイドル、らしい。
しかし、そんな言葉だけでは彼女たちの関係は表せない。彼女とプロデューサーの間には、いったい、どんなことがあったのだろうか。
アナスタシアはそんなことを思った。そして、今日、自分とプロデューサーの間にあったことを思い出した。
「……アイドル」
誰もいない部屋で、ひとり、アナスタシアは呟いた。
今、夜空に星が見えることはない。
しかし、それでも……。
「……輝く、星に」
アナスタシアは胸の前でぎゅっと自らの手を握りしめた。
今日の誓いを忘れないために。
自分の中に、刻みこむために。
*
翌日、事務所。
僕とアナスタシアはその時に事務所に居た人たちにあいさつをした。
部長や他のプロデューサー、たまたまそこにいたアイドル、千川さん……まずはそういった人たちにあいさつをして、それからアー写……アーティスト写真の撮影に行った。
「笑顔の方がいい、ですか?」
撮影所、アナスタシアが言った。それにカメラマンの方がこちらを見た。
プロデューサーである自分の判断に任せる、ということなのだろう。確かに普通なら笑顔の方がいいのかもしれないが……僕は言った。
「いや、いつも通り、自然にしていてくれ、アナスタシア」
「ダー」
そして撮影は終了。ほとんど一発オーケーであった。
あんまりにもすんなり終わるものだから一度笑顔の写真も撮ってみよう、と提案されたのでアナスタシアに言うと、アナスタシアは笑顔をつくった。
……とりあえず、アナスタシアは作り笑顔が苦手らしい、ということがわかった。
――あとで調べてみたのだが、ロシアでは『作り笑顔』という文化があまりないらしい。
『本当に幸せだったり嬉しかったり面白かったりした場合』だけしか笑わないようだ。
そんなアナスタシアが『笑顔の方がいいですか』と訊ねた理由は……おそらく、彼女なりに勉強してきた、ということだろう。もしかすると作り笑顔も練習してきたのかもしれない。
練習して『アレ』ならばアナスタシアには無理に笑顔を作らないように言っておかなければならないが、そもそも彼女はよく笑う子だから大丈夫だろう。……たぶん。
次はレッスン室だ。アナスタシアがどれほど動けるのかを確かめる必要があった。最初にどれほどできるのかは人それぞれである。
歌やダンスといったものはアイドルにとって重要であり、僕の考えているプロデュースにおいては必要不可欠と言っても過言ではない。
……まあ、今日の出来によっては考え直す必要があるかもしれないが。
「あ、Pさん……と、あなたがアナスタシアさんですね」
レッスン室の前。アナスタシアと同年代……もしくは年下と言っても通じそうな外見の女性がこちらを向いて言った。
「ああ。今日はよろしく、ルキちゃん」
僕は言った。彼女は今日アナスタシアのレッスンを見てくれるトレーナーである。『ルキちゃん』というのは彼女の愛称のようなもので、トレーナーの『ルーキー』であることからそう呼ばれている。
「ルキちゃんって……Pさん? こっちもルキくんって呼んでもいいんですよ?」
「君にならどう呼ばれてもいいよ、ルキちゃん」
「だーかーらー!」
しかし、彼女自身は『ルキちゃん』と呼ばれることをあまり許したくはないらしい。かと言って、
「じゃあ、トレーナーさん」
と呼ぼうとすると、
「……それはちょっと、他人行儀過ぎませんか?」
などと言うのだ。もうどうしようもない。
「……ルキ?」
アナスタシアが首を傾げて言った。……ルキちゃんの名前を本当に『ルキ』だと思っている恐れがあるな。僕は思う。だが、べつにいいだろう。僕は彼女を紹介することにした。
「アナスタシア。こちらはルキちゃん。ウチの事務所専属で、自慢のトレーナーだ。僕と同じくらいまだまだ新人だが、実力は僕が保証する。そして、ルキちゃん。こちらはアナスタシア。前に話した子だ。これからお世話になると思う。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします、ルキ」
僕が軽くお辞儀をするのに、アナスタシアも続いてルキちゃんに向かってお辞儀をした。
するとルキちゃんも慌ててお辞儀をして、「こ、こちらこそ、よろしくお願いします!」と言った。……アナスタシア、完全にルキちゃんのことを『ルキ』と呼んでいるな。
「それでは、アナスタシアさん。レッスン着に着替えて、レッスン室に来て下さい」
「ダー」アナスタシアは言って、すぐに訂正した。「はい。わかりました」
そしてアナスタシアは更衣室へ入って行った。それを確認すると、ルキちゃんは口を開いた。
「……すごく、綺麗な子ですね。ロシア人とのハーフ、でしたっけ」
「ああ」僕は言う。「今月、高校に入学する」
「……や、やっぱりハーフの人は大人びてますね」
「君が童顔なだけだと思うよ」
そう言うと、ルキちゃんは無言で僕の横腹をつついてきた。「痛っ、結構痛いっ」結構痛かった。「女性に失礼なことを言うからですっ」ルキちゃんは唇をつんと尖らせて言った。
僕とルキちゃんは同じ頃に事務所に所属したこともあって親しい仲にあった。
加蓮を除けば最も親しいだろうし、あるいは加蓮よりも親しいかもしれない。その程度には深い信頼関係を築けていると思う。
少なくとも今のように冗談を言ったりからかったりしてもこの関係が変わったりすることはないと確信できる程度には親しい仲だ。
「お待たせしました、プロデューサー、ルキ」
そう言ってアナスタシアが現れた。ルキちゃんは言った。
「それじゃあ、始めましょうか」
*
レッスンが終わり、アナスタシアはまた更衣室へ。
その間、僕はルキちゃんとアナスタシアについて話していた。その、才能について。
「……これは確かに、すごいですね」
ルキちゃんは言った。感嘆している、といった様子だった。
「さすがはPさんがスカウトしてきただけある、という感じです。……まだ一日目なのに、教えたことをスポンジのように吸収していく。今日は、ちょっと力を見るだけのつもりだったのに……」
彼女は僕よりも遥かに多くのアイドルを見ている。その中には新人アイドルも多く含まれることだろう。そんな彼女をしてこう言わせる……それが、どういう意味を持つのか。僕にも、わからないわけではない。
僕は今まで加蓮以外にプロデュースしたことがない。そして、僕が受け持った頃の加蓮は既に実力だけなら相当のものを持っていた。だから、僕は新人アイドルというものをあまり知らない。
そんな僕でも、アナスタシアの特異性がわからないわけではなかった。『新人アイドル』という枠ではわからないが、『アイドル』という枠全体でなら……そして、その『アイドル』という枠の中でも、アナスタシアは『異常』と言っていい存在だったように思えた。
最初から上手く歌えたわけではない。最初から上手く踊れたわけではない。
何度も失敗していたし、体力もそれほどある方だとは思えなかった。
だが――ルキちゃんが言った通り、彼女は教えたことをスポンジのように吸収していった。
間違いを指摘されれば素直に応じ、修正する。それが上手くいかなければまた修正。
それも、それを楽しそうにするのだ。
最初から上手くできること――それは、そこまで重要なことではない。
重要なのは、成長できること。
成長したその先の姿が、どんなものか。
そして、アナスタシアのそれは……。
「……ルキちゃん」
僕は口を開いた。これならば……僕は頭に描いていたプランを修正する。
どういう風にどういう時期にどういう展開をするか。そのプランを修正する。
『もしもあまり良くないようであれば』という可能性は考えていた。だが、逆は考えていなかった。
そう、考えてはいなかったのだ……そのはずなのに、僕はすぐにどのように修正するのかを決めることができた。
たぶん、それは元々のプランが『妥協』だったから。
理想と現実は違う。僕でもそれはわかっている。だから、僕は最初から『これくらいなら』という程度でプランを構築していた。
アナスタシアがそこそこ歌を歌えて、そこそこダンスが踊れる……その程度のレベルで、考えていた。
『さすがにこれは無理だろう』と考えて、最初から『妥協』でプランを構築していたのだ。
故に、その妥協を消すだけで――アナスタシアにふさわしいプランが構築される。
「なんですか? Pさん」
僕の呼びかけにルキちゃんは首を傾げた。僕は言った。
「アナスタシアのレッスン、基礎の基礎からみっちり叩き込んでくれ。アナスタシアの限界ギリギリまで……いや、限界すら無視して、壊れない程度に、みっちりと」
「……え?」
ルキちゃんは呆けるようにして声を漏らした。いったい何を言っているのか。そんなことを思っていそうな顔だった。
しかし、僕は答えなかった。……いや、答えなかったわけではない。どんな言葉よりも明確な答えを返したつもりだった。
そんな僕を見て、ルキちゃんもまた、何も言わなかった。ぎゅっと自分の服を掴んで、僕の方を見ているだけだった。
そして、着替えの終わったアナスタシアが来た。
「……プロデューサー、ルキ、どうかしましたか?」
僕たちの様子に何かを感じ取ったのだろう。心配するようにして彼女は言った。
「心配することはない。君のことについて話していただけだ。そうだろう? ルキちゃん」
「……Pさん」
ルキちゃんは僕の名前を呼んで、僕を見た。僕もまた、ルキちゃんを見た。目が合った。……それだけで、互いの思いは伝わった。
「……アナスタシアさん」
ルキちゃんはアナスタシアに向かって言った。「なんですか?」アナスタシアは首を傾げた。
「明日からのレッスン……とっても厳しいものになると思う。それでも……」
そこまで言って、ルキちゃんは言葉を止めた。僕は代わりにその言葉の続きを言おうとした。だが、
「ダー。その覚悟なら、できています」
アナスタシアは言った。
「プロデューサーは言いましたね? アイドルは辛く苦しいもの。それがわかっていて、私はここに居ます。だから、もう覚悟はできています」
まっすぐに、ルキちゃんの目を見て、彼女は言った。
そして、彼女のその目を見て……ルキちゃんはいきなり、パン! と両手で思い切り自分の頬を叩いた。
突然のその行動に僕とアナスタシアはぎょっとした。しかし、ルキちゃんは目の端に涙を溜めながらも「……いちばん覚悟が足りなかったのはわたしみたいですね」と笑い、ビシッとアナスタシアを指差して、言った。
「アナスタシアさん、覚悟しておいて下さいね? 今からわたしは、姉さんたちよりも厳しくいきます!」
頬は赤く、涙目で……しかし、まっすぐなその言葉に、アナスタシアは力強く答えた。
「ダー! 望むところ、です」
それを受けるルキちゃんは笑顔であり、アナスタシアもまた笑顔だった。
しかし数秒後、ルキちゃんは「……痛い」と自分の頬を両手で包み、アナスタシアはそんな彼女を「大丈夫ですか? ルキ」と心配していた。
最後の最後で締まらないな。僕はそんなことを思いながら、これからのことを考えていた。
……さて、これからは僕が頑張る番だ。
第四話「スタートライン」
アナスタシアの入学式には僕が出席することになった。
あのご両親ならば北海道からでも出席しに来るのではないかと思ったのだが、どうしても都合がつかなかったらしい。
アナスタシアは残念そうにしていたが、僕が行くということを知るとよろこんでくれた。
高校まで送り、校門で別れる。入学式の前に教室に、とのことだ。
自分の時はどうだったか……と思い出すが、あまり覚えていない。そこまで昔のことではないはずなのだが……。
入学式が始まるまで少し時間があったので、僕はこの学校の雰囲気がどんなものかを調べることにした。
今日が入学式だからということもあるかもしれないが、荒れてはいない。
もっとも、千川さんが荒れたような高校を薦めるはずもないので当然と言えば当然だが。
入学式は体育館にて行われる。体育館を覗くと既に大勢の保護者がいた。教師と思われる方の案内に従い席に座る。そして式が始まる時間になった。
入学式は滞りなく進んだ。保護者席ではアナスタシアのことと思われる話が少し聞こえたが、悪いものはなかったのであまり気にしないことにした。
そして式が終わり、保護者だけのちょっとした話があり、体育館を出た。校内でアナスタシアを待つかどうかは迷ったが、出ておくことにした。
アナスタシアに『終わったら連絡してくれ』とメールをして、待つこと数十分。アナスタシアからメールが来た。
そしてアナスタシアと合流し、帰ることにした。
「学校はどうだった?」僕は訊ねて、すぐに訂正した。「あー、つまり、学校の雰囲気とか」
「雰囲気、ですか」アナスタシアは言って、少し考える様子を見せた。「まだ、わかりませんね」
「それはそうか」僕は笑った。「クラスメイトや、友人は?」
「それもまだわかりません」アナスタシアはそう言ってから、しかしすぐに「でも」と続けた。「少し、話しました」
「そうか」僕は言った。「それは良かった」
そうしてアナスタシアの入学式は終わった。様々な準備もあるだろうと思ったのでその日のレッスンは休みの予定だったが、アナスタシアの希望により軽めのレッスンを行った。
終わった後、ルキちゃんと会ったので話してみると「アーニャちゃん、本当に真面目ですね」と言っていた。
「アーニャちゃん?」と僕が訊ねると「『アーニャと呼んで下さい』と言われちゃったので」と嬉しそうに笑っていた。「Pさんは『アーニャ』って呼ばないんですか?」
その質問には「そう言えば呼んでないな」としか答えられず、「そう言えば、ってなんですかー」と呆れられたが、本当に『そう言えば』と思ったことだった。
そう言えば、僕はアナスタシアのことを『アーニャ』とは呼んでいない。そう呼んだ方がいいのだろうか、とも思った。
しかし今更呼び方を変えるのにも違和感がある。僕はアナスタシアを『アナスタシア』と呼び続けることを決めた。
だがルキちゃんには「一度呼んでみればいいじゃないですかー」と言われた。僕は「気が向けば」と答えた。ルキちゃんは「ぶー」と頬を膨らませた。
口で言うな。
*
事務所。
「ありがとうございます!」
僕は部長に頭を下げた。決して形式上のものではなく、本心から。
「私が頭を下げられることじゃあないよ」部長は言った。「今はまだ『曲』だけだからね。他のことに関してはまだだ」
「それは当然です。むしろ、これが許可されただけで今は十分過ぎるほどです。こんな、贔屓のような……」
「贔屓じゃあない」部長はくつくつと笑う。「私が君のプランを『良い』と思ったから手を貸しているだけのことだ。君以外でも『良い』と思うものを提示されたならば私はすぐさまそれに手を貸す。それだけのことだよ」
それは確かにそうだ、と思った。結局のところ、『何が自分にとっての利であるか』というだけなのかもしれない。
そして、それが『自分にとっても利である』と判断された場合にのみ、それは受け入れられる。
『これを受け入れたならば自分の利となる』と相手に思わせること。それが自分の要求を相手に呑ませるために最も重要なこと、なのかもしれない。
「と言っても、大変なのはこれからだ。君にとっても、私にとっても、ね」
「問題ありません」僕は答えた。「アナスタシアならば、きっと」
そんな僕の言葉に、一瞬、部長は目を丸くした。しかしすぐに笑い始めて、
「そうか。なら、問題ないな」
と言った。
僕ははい、と答えた。
*
一ヶ月が経過した。
アナスタシアのレッスンは順調だった。ルキちゃん曰く、「もうどこに出しても恥ずかしくありません」とのことだ。「アイドルアルティメイトでも?」と訊ねると「うっ……そ、それは、さすがに……」としどろもどろになっていた。
そんな彼女の様子を見て笑うと、「あ! からかいましたね? もー!」と言ってぽこぽこと叩かれた。痛かった。
アイドルアルティメイトはさすがに冗談だったが、ルキちゃんがそこまで言うということはアナスタシアの実力は相当なものに仕上がっているのだろう。
実際、僕に目から見てもアナスタシアは『新人アイドル』と言うにはふさわしくないほどの実力を身に付けていた。しかし……。
「まだ足りないな」
アナスタシアのレッスンを見て、僕は言った。「え」とルキちゃんは固まり、そして、言った。「アーニャちゃん、今まで、本当に頑張ってくれたんですよ? それなのに……!」
「わかりました」
しかし、アナスタシアはそう言った。息が切れ、レッスン着を汗でびっしょりと濡らしながらも、その目には強い光が灯っていた。
「プロデューサー、あなたがそう言うのなら、私はもっと頑張りますね」
「ああ。頼む」
僕は答えた。ルキちゃんは「そんな……」とどこか落ち込んでいる様子を見せていたが、やがて「あーもー!」と声を上げた。
「わかりました! もう、どこまでも付き合いますよ!」
どこか投げやりな調子の言葉だったが、その言葉が本気であることはわかった。「ありがとう、ルキちゃん」僕は言った。「スパシーバ、ルキ」アナスタシアは言った。
「……どういたしまして」
呆れたようにしてルキちゃんは言った。
*
アナスタシアのレッスンは過酷だった。新人アイドルとは思えないほどに高密度のレッスンを受けていた。
基礎の基礎からみっちりと……その言葉通り、基礎トレーニングを重点的にしながらも、歌やダンスのレッスンも怠らない。学校以外の時間はほとんどレッスンと言っても過言ではないだろう。
レッスン、レッスン、レッスン、レッスン……そんな日々。もちろん、休みがないわけではない。
アナスタシアはそれでもレッスンをしようとしたこともあったらしいが、ルキちゃんに「休むこともレッスンの内です!」と怒られてからはしなくなったようだ。
しかし、それでも前科があるので、アナスタシアのレッスンが休みの日はしばしば監視役として僕が一緒に過ごすことになっていた。
それははたして休みなのか、と思ったが、自主トレーニングをやられるよりはマシらしい。
都合があった時は前川さんや神崎さん、本田さんと遊んだりもするらしく、それが理想とのことだが……三人とも人気アイドルであり、そう都合よくはいかない。
よって、アナスタシアの休みの日は僕と一緒に過ごすことが最も多いという不思議なことになっていた。
しかし、僕とアナスタシアの二人ですることなどあまりない。近況を話す程度である。
同年代の女子ならばまだしも、僕なんかと話しても楽しくはないだろうと思ったが、アナスタシアは「楽しいですよ?」と言ってくれた。
しかし、気を遣ってくれているようにしか思えない。やっぱり僕と過ごさない方がいいのではないだろうか……そう考えているのだが、それはルキちゃんが許してくれない。
となれば、アナスタシアにより良い休日を提供できるように努めるしかないわけで……学生の頃、もっと女性経験を積んでいれば良かった、と僕は思った。女性をよろこばせる方法なんて、僕にはわからない。
「――みくはすごいですね。しっかりしてます。私、アイドルにとって大切なこと、色々と教えてもらっています」
アナスタシアは言った。アナスタシアは他のアイドルとも仲良くしているようだった。
まだデビューすらしていないが、女子寮やレッスン室では他のアイドルともよく会うようで、そんな時にはよく話すらしい。
特に前川さん、神崎さん、本田さんの三人と仲が良いらしく、最も話題に出ることが多い。
前川さんは女子寮では隣の部屋だから。神崎さんとは純粋に気が合うようだ。
本田さんは女子寮には入っていないはずなのだが、本田さんだからそうなのだろう。
ある人曰く、『本田未央はコミュニケーション能力の怪物』。
そしてその通り、本田さんの交友関係の広さは異常とも言えるほどで、誰と親しくしていてもおかしくはない。
たとえ女子寮には入っていなくとも、まだデビューしてないアイドルと仲が良くても意外ではない。
なぜなら、彼女は本田未央なのだから。
「ファンの人の前ではちゃんと日本語を使うべきですね、プロデューサー」
前川さんの教えからか、あるいは自分で考えていたことなのか、アナスタシアはそんなことを言った。
それはそうだな、と僕は思った。少なくとも僕が考えているプロデュースでは、そうした方がいいだろう。
『カタコト外人キャラ』というのは確かに存在しており、テレビなどでは貴重な人材である。
アナスタシアはハーフではあるが、一〇歳までロシアにいた影響もあって、ロシア語なまりのようなものがあり、話している時、たまにロシア語が出てくる。
いわゆる『カタコト外人キャラ』の条件は満たしているし、そもそも、テレビの視聴者からすれば『外見が外国人』であればそれだけで十分『外人』と見なされることが多いのだ。
『カタコト外人キャラ』という立場、それにアナスタシアのようなキャラクターの持ち主であればすぐに様々な番組から引っ張りだこになるだろう。
純粋無垢で素直。尋常ではない美形であり、さらにはまだ一五歳。日本の常識にはそこそこ疎く、しかし頭が悪いわけではなく、むしろ聡い。
……そう、『バラエティ』には、すぐに引っ張りだこになるような人材なのだ。
バラエティに出ることが悪いとは言わない。いわゆる『バラドル』というバラエティ番組での活動を主にするアイドルはウチの事務所にも数多く存在している。
しかし、アナスタシアが目指しているところは『そこ』ではない。
『カタコト外人キャラ』としての地位を確立しても意味はなく、むしろその地位を『確立』してはいけないのだ。
その地位を確立してしまったならば、その印象を払拭することは非常に難しくなってしまう。
『人気タレント』になるためにはそれが最短の道なのかもしれないが、僕の目指す『トップアイドル』になるためには遠い遠い回り道になってしまう。
だから、回り道のように見えたとしても、そういったキャラクターを演じることなく、正統派アイドルとしての道を一歩ずつ進んでいくことが『トップアイドル』への最短の道だ、と僕は思う。
もしかすると、僕よりも実力のあるプロデューサーならばそんなことはないのかもしれない。まずは知名度を上げることを優先して、それからバラエティでの印象を払拭することも可能なのかもしれない。
しかし、僕にはそんな実力はない。……実力が足りないとわかっているからこそ、色々と策を講じているのだが。
そうして僕はアナスタシアの『ファンの人の前ではちゃんと日本語を使うべきですね』という言葉に対して色々と考えていたのだが、アナスタシアの言葉にはまだ続きがあった。
アナスタシアは言った。
「だから、私はランコに色々な日本語、教えてもらっていますね。闇に飲まれよ、とか」
「それはやめてくれ」
僕はすぐにそう言った。さすがにそれは本気でやめてほしかった。
しかし、アナスタシアは不思議そうに首を傾げた。
「どうしてですか?」
……ちゃんとした日本語ではないからかな。
僕は思った。
*
五月中旬、事務所。僕は言った。
「アナスタシア。ある人に君のレッスンを見学してもらうことになった。問題ないか?」
「ダー。問題ありません」
ある人とは誰なのか、といったことを尋ねることもなくアナスタシアは言った。まあ、それはそれでアナスタシアらしいか。僕は思い、その『ある人』に連絡した。
翌日、その人と一緒に僕はアナスタシアのレッスンを見学した。アナスタシアはあまり緊張していないようだったが、ルキちゃんが緊張していた。カチコチだった。
僕は彼女をレッスン室の外に呼び出した。
「どうして君が緊張しているんだ……」
僕は呆れながら言った。いや、本当に呆れるしかない。アナスタシアは緊張している様子を見せていないのに……。
「だ、だって……」ルキちゃんは言い訳を言う時の子どものような調子で言う。「こんなこと、初めてなんですもん!」
「アナスタシアも初めてだよ……ルキちゃん、君、アナスタシアより何歳上だった?」
「うっ……」ルキちゃんは呻くようにして言った。「……が、外見では、年下?」
「それを自分で言うのか……」
僕は溜息を吐いた。気持ちがわからないわけではないが……さすがに呆れる。
「そ、そんな目で見ないで下さい」ルキちゃんは言った。そして一度大きく深呼吸をして、「……わかりました。Pさん、わたし、頑張ります!」と覚悟を決めた様子で言った。
頑張るのはアナスタシアの方だ、と僕は思った。
*
ルキちゃんを連れてレッスン室に戻るとアナスタシアと僕が呼んだ女性が話していた。
「プロデューサー、ルキ、話は終わりましたか?」
「ああ。……すみません、お待たせして」
僕は女性に向かって頭を下げた。「いえ、むしろアナスタシアさんと話せてよかったです」そう言って女性は笑ってくれた。僕は安堵した。
それからダンスレッスン、ボーカルレッスンをした。ボーカルレッスンでは女性がアナスタシアにアドバイスをしてくれていた。
その間、ルキちゃんは「あの人、歌の講師さんですか?」と訊ねてきた。「違うよ」と言うと、「えぇ……それじゃあ、結局、誰なんですか……」と頭を悩ませている様子だった。
レッスンが終われば言うよ。僕は思った。
「今日はありがとうございました。……アナスタシアさん、良い歌手に――いえ、良い、アイドルになると思います。私も、応援させていただきますね」
そう言って女性は帰っていった。僕は頭を下げて彼女を見送った。
ルキちゃんは最後まで「あの人は結局誰だったんですか……」と悩んでいる様子だった。レッスンが終われば教えるつもりだったが、まだいいかな、と僕は思った。
どうせ教えるのならば驚かせたいと思うものだ。
「……声を、活かして」
女性を見送った後も、アナスタシアは彼女に教えてもらったことを反復していた。
これは予想していなかったが、彼女との話はアナスタシアにとっても良い経験になったらしい。
早くも彼女に感謝しなければならないことができてしまったな、と僕は思う。
しかし、本番はこれからだ。
*
三日後、レッスン室。
「アナスタシア。君の曲ができた」
アナスタシアとルキちゃんを前にして、僕は言った。「えっ」ルキちゃんが声を上げた。「わ、わたし、聞いてないんですけど……」
「……それは本当にすまない。僕が想像していたよりずっと早くできたから、連絡するのが遅れた」
僕はルキちゃんに頭を下げた。
曲ができたということはレコーディングをしなければならないということであり、それに合わせてレッスンの内容も変更しなければならないということである。
さすがにそれをサプライズで言おうとは思っていなかったのだが……まさか、ここまで早く上がるとは。
誤算だった。曲の制作自体は進行していたので、もっと早くに伝えることもできたのに……完全に僕のミスだ。謝るしかない。
「あ、頭を下げないで下さい」ルキちゃんは慌てて言った。「確かに驚きましたが……問題ありません。レコーディングはいつですか?」
「いや、まだ決まってない」僕は言った。「二週間以内にはやらなければならないが」
「二週間、ですか」ルキちゃんは腕を組んで考え始める。「……十分です。アーニャちゃんなら問題ありません。初めてのレコーディングなので、ある程度の時間は欲しいですが……時間がとれるだけ幸運です。曲をもらってその翌日レコーディング、ということも珍しくはないので」
そうなのか、と僕は思った。やはり僕はまだまだ疎い。こういう時はルキちゃんが頼りになる。業界に入ったのは僕と同じ時期ではあるが、こういうことはルキちゃんの方が詳しいのだ。
「……私の、曲」
アナスタシアは呟いた。誰に向けたものでもなく、ただ、僕の言葉を咀嚼するためのつぶやきのように思えた。
「あっ」ルキちゃんは慌てて声を上げた。「ご、ごめんね、アーニャちゃん。アーニャちゃんの曲なのに、わたしばっかり騒いじゃって……」
あわあわと申し訳なさそうにするルキちゃんだったが、アナスタシアはそれに対して何の反応もしない。ただただ呆然としている。
「アナスタシア」
僕はアナスタシアの名前を呼んだ。アナスタシアはゆっくりと僕の方に目を向ける。
「聴いてみるか?」
微笑みとともに、僕は言った。アナスタシアは目を少しだけ見開き、すぐに目を閉じて……また開いて、柔らかな微笑みを浮かべた。
「ダー」
*
僕とアナスタシア、そしてルキちゃんの三人で、僕たちはアナスタシアの曲を聴いた。アナスタシアのイメージに沿ったメロディ。冬の星空のようなバラード。
「クラスィーヴィ……」
アナスタシアは言った。ロシア語だ。僕も少しは勉強したが、それは付け焼刃でしかなく、ほとんど覚えていない。
だが、そんな僕でもアナスタシアの表情を見ていればなんとなくの意味はわかる。
「この声……」
ルキちゃんが言った。仮歌は既に収録されており、それを聴いて何かに気付いたらしい。
……あの人がコーラスを担当するとは聴いたが、仮歌も、か。本来の担当は作詞だけだったはずなのだが、どうしてこうなったのか。
非常に感謝はしているのだが、ルキちゃんは勘違いしそうだな。
そして、曲が終わる。これから何度も聴くことになるだろう曲の、一度しかない、最初の一回。それが、終わる。
曲が終わっても、僕は何も言わなかった。ルキちゃんも。僕たちはただアナスタシアの方を見て、彼女の言葉を待っていた。
「……スパシーバ、プロデューサー」
アナスタシアは言って、しかしすぐに首を振って、訂正した。
「ううん、バリショーエスパシーバ。……とても、ありがとう。あなたがくれた、初めての曲。私、大切にしますね」
そう言って、笑った。
*
アナスタシアの曲は正統派のバラード。
まさしく僕の理想としているような曲だったが、それ故に難しい曲でもあった。少なくとも新人アイドルがいきなり歌わされて完璧に歌えるような曲だとは思えない。
この曲は勢いで押し通すことができない。ノリと勢いで歌唱力の不足を誤魔化すことができないのだ。良くも悪くも、歌唱力がそのまま出てしまう曲と言える。
だが、だからこそ、その実力を見せつけるにはうってつけの曲とも言える。
小細工なしに真正面からぶつかるしかできない曲であれば、その素の実力をそのまま見せつけることができる。
『アナスタシア』というアイドル。そのありのままをぶつけることができる。
……さて、さすがにそろそろルキちゃんには言っておかなければならないな。
アナスタシアのデビュー。
それに関する、重要な話を。
*
六月。
「アナスタシア。二週間後、あるライブのオーディションがある。君にはそれに出て、あの曲を歌ってもらいたい。ダンスもある。……と言っても、あの曲だからな。激しい振り付けはない。だからこそ、勢いで誤魔化すこともできないが、まあ、これは歌と同じことだな。……歌も振りも、ノリと勢いで誤魔化すことなく、君のありのままを出してくれ。――アナスタシア。君の輝きを見せてくれ」
僕は言った。アナスタシアはまっすぐに答えた。
「ダー。任せて下さい、プロデューサー」
*
CGプロ主催のサマーライブ。そのオーディションこそ、アナスタシアの出るオーディションである。
既に出演が決まっているアイドルは『ニュージェネレーション』や『トライアドプリムス』、前川みくや神崎蘭子、双葉杏、高垣楓といったCGプロでもトップクラスの実力を持つアイドルばかり。ある意味で『オールスターライブ』と言ってもいい。
そこに新人枠などというものはない。本来であれば、アナスタシアのようなまだデビューもしていないアイドルが参加することはできない。
だが、そこに話題性があれば? ……CGプロも一つの企業である。そこに利益が発生するならば、新人アイドルであっても選考対象となり得る。
今回のオーディションは、つまり、それのプレゼンテーションだ。
『アナスタシアを選んでくれれば今回のライブをさらに盛り上げることができる』ということを証明するためのプレゼンテーション。
もちろん、実力が不相応だと思われたならばその時点で不合格。今回のライブ出演は見込めない。
ライブを台無しにされるわけにはいかないのだから、今回のライブに出演する他のアイドルと比べてあまりにも見劣りするような実力であれば無理なのだ。
まだ事務所に所属して二ヶ月のアイドルが、既に人気アイドルとして活躍しているアイドルたちと比較しても問題ないようなパフォーマンスを見せなければならない。
見劣りしないとまでは言わないが、あまりにも無様な姿を見せられると困る、と。つまりはそういうことである。
もちろん、これは非常に難しいことである。普通の神経をしていれば無理だと思う方が自然だ。僕も自分でそう思う。
しかし同時に、こうも思う。
アナスタシアが目指しているものはトップアイドルだ。
この世界の頂点。この世界で最も輝く星なのだ。
――それならば、これくらいは乗り越える必要があるだろう。
だから、僕はアナスタシアにこのライブのオーディションを持ってきたのだ。
本来ならばまだデビューもしていないアイドルには出ることすら叶わないこのオーディションに出られるように、交渉し、交渉し、交渉し、交渉したのだ。
そして、何とかチャンスをもらった。『それが本当にウチの利益となるのかどうか』を証明するための場を設けてもらうことができた。
オーディションに関して、僕にできることはここまでだ。
歌と、場。
僕に用意できるものは、それだけだ。
あとは――アナスタシア。君に、任せた。
*
オーディションまで二週間。オーディションのための特別レッスンは基礎トレーニングの比率を低くした集中レッスンだった。
これまでのものも新人アイドルが受けるものとは思えないほどの過酷なレッスンだったが、それをさらに過酷にしたようなレッスンだった。
そんな過酷なレッスンにも耐えることのできる肉体ができていたという点では、この二ヶ月間行ってきたレッスンの成果は既に出ていたと言ってもいいだろう。
基礎トレーニングの比率を低くしたとは言っても、毎日のランニングと筋力トレーニングは怠らない。
その量はそれだけでへとへとになってもおかしくないほどの量だった。実際、最初はそれだけで何もできなくなっていたらしい。
しかし今のアナスタシアはそれをこなした後に、さらにオーディションに向けてのレッスンをこなすだけの肉体を持っていた。
さて、ここでアナスタシアが行っている……と言うよりは、この事務所で行っているレッスンについて話そう。
この事務所で行われているレッスンの内容は大きく三つに分けられる。ボーカルレッスンとダンスレッスンとビジュアルレッスンである。
その中から、今回はビジュアルレッスンを重点的に行っていた。
ビジュアルレッスンとは、つまり『魅せ方』。どれだけ素晴らしい歌唱力や運動能力を持っていても、それを『魅せる力』がなければ意味がない。
そして、アイドルにとってはそれこそが最も重要な力だと僕は思う。
圧倒的なまでの歌唱力やダンスの技術があればビジュアルが低くともそこそこのパフォーマンスをすることもできるのかもしれないが、その力を最大限に引き出すためには、ビジュアルという『魅せる力』が必要不可欠だ。
そして、『魅せる力』は極めれば自分の持つ力を実際のもの以上のものに昇華することすら可能だ。
それが、ビジュアル。『魅せる力』だ。僕はそう考えている。
アナスタシアの歌唱力、ダンスの技術は既に新人アイドルとは思えないほどのレベルにまで達している。ならば、あとはそれをどれだけ出すことができるかだ。
アナスタシアはそのために最大限の努力をしてくれている。
一方、僕は次の一手を打つために奔走していた。オーディションに通った後の、次の一手を。
*
オーディション当日、朝。
オーディション会場には既に数多くのアイドルが集まっていた。
オーディションは実際のライブなどでも使われるような会場であり、それをオーディションだけのために使うとは贅沢な、と思わないでもない。
もちろん、小規模な会場ではあるのだが。
予想通り、オーディション会場にいるアイドルたちはほとんどが知っている顔ばかりだった。
デビューもしてないアイドルどころか、新人アイドルですらほとんどいないのではないだろうか。
選考方法は一人一曲、ステージでパフォーマンスをする。それだけである。パフォーマンスの方法は問われていない。
合格者は一応の上限が決められてはいるが、『ふさわしいと判断されたなら何人でも』とのことだ。
それを初めて聞いた時は『また適当な』と思ったものだが、それこそがウチの事務所らしいとも思う。
どんなものであっても良いものならば取り入れる。それがウチの事務所の方針だ。
だから多種多様なアイドルが所属していて、多種多様な活動をしているのだ。懐が広いとも言えるが、僕は単に貪欲なだけだと思う。
まあ、その方針のおかげで自由にさせてもらっているところもあるのだが。
選考の順番は既に発表されている。アナスタシアの出番は後半。途中に休憩が挟まれるので、前半は比較的ゆっくりできる。
他のアイドルの出番を見学することは自由に許可されていた。アナスタシアに見学するかどうかを尋ねると「見たいです」と答えられたので、僕たちは準備をしなければならない時間まで他のアイドルのステージを見学することにした。
僕たちと同じこと考えているアイドル、プロデューサーは多いようで、観客席はそこそこに埋まっていた。
また、既に出演が決まっているようなアイドルたちもいた。「お! 新人くん、アーニャ! やっほー!」なんて手を振っているのは本田さんだ。
隣にいた渋谷さんがそれを注意して、島村さんはそんな二人を見て笑っている。……『ニュージェネレーション』。これだけ見ていると、まるで普通の女子高生のようだ。
ライブ会場と同じとまではいかないが似たような状況だ。僕は思う。数多くの視線にさらされるこの状況をつくるための自由見学なのだろうか。
オーディションが始まるまで、会場はがやがやと騒がしかった。
今日参加するはずのアイドルたちの中ですら緊張とは無縁のように振舞っている人もいるほどだ。しかしもちろんそんなアイドルばかりではなく、ひどく緊張している様子を見せるアイドルも見られた。
アナスタシアもまた緊張しているアイドルの一人だった。無理もない。アナスタシアにとっては初めてのステージとも言えるのだ。ほとんど身内しかいないとは言っても、新人であるアナスタシアからすれば『身内』という意識も薄いだろう。
「アナスタシア」
僕は言った。アナスタシアはこちらを見た。不安が見える。手が微かに震えている。
「プロデューサー……」
アナスタシアは言った。その声は微かに震えている。
「手を」
僕は手を差し出した。アナスタシアはその手を見て、それから僕を見た。どういう意味か……数秒間逡巡してから、彼女は僕の手に自らの手を置いた。
僕はその手を自らの胸に押し当てた。アナスタシアは驚いたようにほんの少しだけ目を見開かせた。
「……伝わったか?」
僕は笑みを見せて尋ねた。アナスタシアなら、それだけで伝わると信じていた。
「……ダー」
そう言ってアナスタシアは笑った。握った手は震えている。どちらの手も。
『それでは、オーディションを開始します。まずは――』
そんなアナウンスが流れた。
オーディションが始まった。
*
わかっていたことだが、やはりこのオーディションのレベルは高かった。アイドルとして既に活躍しているような者ばかりが参加しているのだ。
当然と言えば当然で……そんな中で一際輝いていた者だけが合格する。そんな、オーディション。
アナスタシアは既に着替えを終えていた。
今はアナスタシアの前のアイドルのステージ。それが終われば、次はアナスタシアの番だ。
「プロデューサー」
前のアイドルのステージが終わり、アナスタシアの名前が呼ばれる直前。
アナスタシアは僕を見て言った。それだけで思いは伝わった。
「……ああ。君の輝きを、見せてこい」
だから、僕は言った。アナスタシアは既に前を向いていた。
「ダー」
アナスタシアの名前が呼ばれた。
そして――
第五話「デビュー」
オーディションから一週間後。
既にライブのためのレッスンは始まっていた。合同レッスンもあり、その後のアナスタシアはどこか興奮した様子だった。
先輩アイドルから得ることは多いようだった。また、これはルキちゃんから聞いたことなのだが、アナスタシアは他のアイドルからとてもかわいがられているらしい。
最初はその外見から近寄りがたく思われているところもあったようだが、本田さんや前川さん、神崎さんといった既に親しいアイドルたちと話しているところを見てすぐに他のアイドルたちとも仲を深めていった……とのことだ。
ライブの出演者は既に公表されている。ライブ用の写真はまだ撮影されていないが、公式サイトには出演者の一覧と写真が掲載されていた。
そのほとんどが既に活躍しているアイドルだったのにも関わらず、そこに一人だけいる見知らぬアイドル……『彼女は誰だ』という声が大きくなり、騒ぎになり、それはワイドショーなどでも取り上げられるほどになった。
情報を操作したり……といったことはほとんどしなかった。アナスタシア自身に対するインタビューなどのこと以外はすべて自由。
本田さんや前川さんといったアイドルたちは番組でアナスタシアのことを話すし、ネット上にはアナスタシアの通う高校の生徒と思われる人物による情報も流れていた。
情報がシャットアウトされているわけではなく、むしろいくらでも情報は出てくる……しかし、だからこそ世間の『アナスタシア』に対する興味は増していっていた。
きっとこんな子だろう、いやこんな子だ、いやいや……溢れる情報から様々な『アナスタシア像』がつくられていた。
その『答え』はライブでわかる――これによって、ライブ自体に対する注目もさらに大きなものになっていた。
もともと多くの人気アイドルが出演するライブということで注目度は高かったのだが、アナスタシア騒動によってその注目度はさらに大きなものになっていた。
ある程度注目が大きくなると、そこからさらにもう一段階、注目度が大きくなることになった。
はっきり言って、『ライブ』というものに興味がなければライブがあることは知っていてもその詳細まで知ることは少ない。
それがアナスタシア騒動によりワイドショーにまで取り上げられ、様々な層の人物がそのライブについて知ることになった。
そこでそのライブに興味を持ったのはアナスタシアに対して興味を持った者だけではない。
むしろ、それ以外に注目した人の方が多いだろう。
CGプロに所属するアイドルはバラエティ豊かである。利となることはどのような活動でも許される。どのような分野での活動も許されるのだ。
それ故に、CGプロのアイドルは非常に多くの層に知られており……中には『アイドル』と認識されていないようなアイドルすら存在している。
アイドルと認識されずして人気のあるアイドルたち……今回のライブにも、そんなアイドルは存在していた。
しかし、アナスタシアの騒動により今回のライブが注目され、他の出演者も取り上げられて……結果、爆発した。
アナスタシアの騒動が起爆剤となって、さらなる爆発が起こったのだ。
『この子はアイドルだったのか』という声が溢れるようだった。ライブ直前というこのタイミングで、『CGプロ』そのものに対する注目が大きなものになっていた。
言うまでもなく、私はここまでのことになるとは予想していなかった。
私が想像していたのは、アナスタシアの騒動……それも、もっと小規模なもの。
ファンの間で少し『この子は誰だ』と話題になる程度だと予想していたのだが……。
オーディション前から、各方面に対して働きかけてはいた。
内側に対しても外側に対しても、アナスタシアに関する様々なことで依頼したり交渉したりしておいた。
オーディションに合格する前はあくまで『CDのプロモーション』という名目で――私の中ではライブに出演することを前提として、私にできる限りのことをやっていた。
……しかし、それがここまで大きくなるとは。まったく自分のやったことだという実感がない。
実際、私だけではない数多くの人々の力と積み重なった偶然によってのものなのだが、そこに自分の手が少しでも関わっているという事実は信じがたいことだった。
もちろん、まだ何も終わってはいない。あるいは始まってすらいないのだ。今はまだ、『下準備』でしかない。それをきちんと自覚しなければならない。
気を引き締めろ。この程度のことで舞い上がるな。浮かれるな。お前が目指しているものを忘れるな。
アナスタシアというアイドルがどうなることがお前にとっての目標だ。アナスタシアと約束したことを思い出せ。それを考えれば今回のことなんて何もおかしくはない。
この世界の頂点を目指すのならばこの程度のことは当然だ。
私は自分自身に向かって言う。確かに想定外ではあったが、だから何だと言うのだ。この程度のことを『この程度』と思えなくて、何がトップアイドルだ。
私が目指すものは――私たちが目指しているものは、もっともっと、遥か高みに存在している。
そこに至るための一歩を踏み出す準備が整った。
そして、その一歩はまだ終わっていない。
アナスタシアのデビュー。
それが成功するまでは気を緩めるわけにはいかない。
……ただ、それが終われば、少しだけ、アナスタシアと一緒に祝ってもいいだろう。ちょっとしたパーティーをあげよう。
そのためにも、今は、私にできることをしよう。
アナスタシアのために、全力を尽くそう。
*
ライブ当日。
「こんな時間にすみません、プロデューサー」
朝。空が白んできた時間。アナスタシアから連絡があり、私はアナスタシアとともにライブ会場に来ていた。
「大丈夫だよ。僕も、そんな気分だったから」
既にライブ会場の設営は終了しており、会場の外ではファンだと思われる人々が列をなしていた。ライブの物販の列である。
物販の開始時間まではまだ数時間あるのだが、それだけ欲しいものがある、ということだろう。
あるいはこうして並んでいることすら楽しみの一部なのかもしれない。
「……大きい私、ですね」
アナスタシアは言った。大きいアナスタシア? と思って彼女の視線の先を見ると、そこにライブ用のポスターがあった。ライブ用に撮影した、ポスター。
「変な感じか?」
私は尋ねた。「少し」とアナスタシアは微笑む。
「会場の前にたくさんの人、並んでましたね」
アナスタシアは会場の外に視線を向けた。そこには壁しかなかったが、その先には、今も汗を流したファンたちがいることだろう。
「……入ろうか」
私は言って、観客席に入った。アナスタシアは私の突然の行動に疑問を浮かべている様子だったが、きちんと続いて来てくれる。
空っぽの観客席。今はまだ誰も――スタッフすらいない、無人の空間。
「ゲネプロでも見たが……やっぱり広いな、アナスタシア」
そう言って私は笑う。ゲネプロ――つまり、本番と同じように舞台上で行う最終リハーサル。
そこで既に私とアナスタシアはこの場所のことを知っている。ファンのいない会場のことを知っている。
「ここが人でいっぱいになるんだ。……それってよく考えるとすごいことだよな。この席にも、その席にも、あの席にも――今、目に見えているほとんどが、人で埋まるんだ。それもただの人じゃなく、君たちのことを応援してくれるファンの人で」
その光景は見てみなければわからないだろう。実際に見なければわからない、特別な光景。それが、ライブ会場だ。
「ここが始まりだ、アナスタシア。今日ここで、新しい星が生まれるんだ。……正確には、新しい星が観測される、と言うべきか」
私はアナスタシアの方を見る。アナスタシアと、目を合わせる。
その目には、既に光が灯っている。
「問題を出してもいいか? アナスタシア」
「ダー」
「その星の名前は?」
アナスタシアは答えた。
「シリウス――太陽を除いた地球上から見える恒星の中で、最も明るく輝く星です」
「正解」
私は口角を上げ、挑発するような笑みをつくって、言う。
「今日ここに来たファンに――すべての人に、それを知らしめてやれ。この会場を焼き焦がせ、アナスタシア」
それに対して、アナスタシアは「ダ――」とうなずこうとして、固まり、そして言い直した。
「あなたのことも?」
その言葉に、私は目を丸くしてしまった。アナスタシアがそんな返しをするとは意外だった。そんな私の様子を見て、アナスタシアは薄く笑んでいる。……これは一本取られたな。
しかし、せっかくアナスタシアがこんなことを言ってくれたのだ。私も相応の返しをしなければ失礼だ。私は演技がかった調子で答えた。
「そのことならご心配なく。とうの昔に真っ黒焦げだ」
アナスタシアは堪えきれないようにくすっと笑った。おそらく、私も笑いを堪えきれてはいなかっただろう。
「それなら、大丈夫ですね」
「ああ。だから、容赦なくここを焼け野原にしてやってくれ」
「ダー。頑張りますね」
そうして、私たちは笑い合っていた。
――デビューライブまで、あと八時間。
まだこの会場には私たち二人以外誰もいない。
*
ライブ開始まであと一時間。
開場時間は過ぎており、既に会場の中には大勢のファンが入場していた。
「あわわ……も、もう、始まりますよ! Pさん!」
ルキちゃんが言った。「まだ一時間ある」私は応える。
「あと一時間しかないじゃないですか! ……あ、アーニャちゃん、大丈夫かな……」
「大丈夫だよ。というか、どうして君がそんなに緊張しているんだ。ステージでパフォーマンスするのはアナスタシアだし……そもそも、アナスタシアは君の初めての生徒というわけではないだろう」
ルキちゃんももう一年間は事務所でトレーナーとしてアイドルたちにレッスンをしているのだ。そのレッスンしてきたアイドルたちが今まで一度もライブしてきていない、なんてことはないだろう。
「そ、そうですけど……その、最初からずっと、っていうのはアーニャちゃんが初めてなんですよ」
「……は?」
ルキちゃんの言葉に、思わずそんな声が出てしまう。……今まで知らなかった。
「そ、そんな声出さないで下さい。確かに言ってませんでしたけど、Pさんはもう知っていたと思って……」
ルキちゃんが申し訳なさそうに言う。それに私は「いや」と否定し、
「責めているわけじゃない。驚いていただけだ。……確かにそれなら、緊張していてもおかしくはないな」
「……Pさんは」
「ん?」
「Pさんは、緊張してないんですか?」
ルキちゃんは尋ねた。私は答えた。
「緊張してないわけじゃないが……不安はない」
「どうしてですか?」
「アナスタシアを信じているから」
私がそう言うと、ルキちゃんは息を呑んだ。そして言った。
「……わたしも、アーニャちゃんを信じています」
「そうか。なら、大丈夫だな」
「はい。もう、大丈夫です」
そう言って、ルキちゃんは柔らかく微笑んだ。その微笑みはアイドル顔負けで……知っている人間がウチの事務所の人間だけなんてやっぱりもったいないな、と思った。
「Pさん」
「なんだ?」
「ありがとうございます」
「……どういたしまして」
*
「それじゃあ、いつもの、いこっか!」
「いつもの?」
「あ、そう言えばアーニャは初めてか。まあ、とにかく、入って入って」
「? ……ダー」
「そそ。えーっと、今日は……しまむーが何か言うから、それを言ったら、『オー!』ってやってくれたらいいから。わかった?」
「えっ」
「ダー。わかりました」
「あの、未央ちゃん? 今日は未央ちゃんじゃ……」
「それじゃあ、気を取り直して……しまむー! いこう!」
「えぇ……わ、わかりました。それじゃあ、いきますよ? ……CGプロ! ファイトー!」
『オー!』
*
ライブ開始直前、アイドルたちは続々とステージに向かい始めている。
アナスタシアも同様にステージに向かっていた。何か声をかけようと思いもしたが、少し遠い。
この距離では声を張り上げでもしない限り聞こえないだろう。
どうするか……そんなことを思っていると、アナスタシアがこちらを振り向いた。
その瞬間、答えは出た。言葉はいらない。そう思った。
私はアナスタシアの目を見て、うなずいた。
それに対して、アナスタシアは微笑を浮かべてうなずき、前を向き、ステージに向かった。
……そろそろ、か。
私は時計を見た。
ライブ開始まで、あと――
*
会場の照明が消える。
おおっ、と声が上がる。それがライブ開始の合図とわかっているから。
CGプロ――その『CG』とは『Cinderella Girls』を指す。「アイドルとはシンデレラのようなものである」ということでそんな名前になったらしい。
そんなこともあってCGプロのイベントや楽曲には『シンデレラ』にまつわるものが多い。
このライブ演出もまた、それと同じだ。
会場に設置されてあるモニターには時計を思わせる映像が映し出されている。
カッ、カッ、カッ、と針が進み、やがてそれは一二時――魔法が終わる時間に至る。
その瞬間、パッと照明が灯る。
ステージ上には既にアイドルたちが並んでいる。
「みんな! いっくよー!」
本日のリーダーである本田さんがかけ声を上げ――
ライブが、始まる。
――【お願い!シンデレラ】
CGプロを象徴するような楽曲。今回のライブに出演する全アイドルが歌う全体曲。恒例とも言えるが、既に会場の興奮は最高潮。盛り上がりに盛り上がる。
共通の振り付けではあるが、よく見ると微妙に差異がある。
アナスタシア以外のアイドルからすればこの曲はもう何度も何度も歌った曲であり、それぞれ多少のアレンジを加えている。
全体曲なのにアレンジなどを加えれば調和を乱すのではないか――そう思うのも無理はないが、それを肯定するのがCGプロという事務所である。
そもそも、調和を乱すほどのアレンジを加えているアイドルはいない。
……ほとんどのメンバーがアレンジを加えているからわからなくなってしまっているだけかもしれないが。
ステージ上ではアナスタシアも踊っている。さすがにアレンジはしていないが、それだけだ。それ以外では問題ない。他のアイドルたちと見比べても決して見劣りしていない。
表情は笑顔。瞳は輝き、ダンスはレッスンよりもキレがある。その代わり多少のブレもあるが、それでいい。楽しいという気持ちが伝わってくる。
アナスタシアにとっては、初めてのステージ。
……それは、大成功と言ってもいいだろう。
*
曲が終わるとMCの時間だ。一人ずつの自己紹介。今は前川さんが自己紹介を終えようとしているところだ。
「それじゃあ次は……みんながお待ちかねの新人アイドルだよー?」
前川さんが煽るようにしてそう言うと、ファンから大きな歓声が上がる。
「ちょっと! どうしてみくの時よりも歓声が大きいのー?」
怒ったようにして前川さんは言う。もちろん本当に怒っているわけではなく、ファンからは笑い声が上がる。
「まあ、みんなの気持ちもわかるけどね。みくもとっても気になるもん。それじゃあ、次のアイドル……アーニャン! 自己紹介、お願いするにゃ!」
アナスタシアを指差してから、前川さんは一歩下がる。入れ替わるようにしてアナスタシアが一歩前に出て、マイクを口元に近付ける。
会場の視線が一気にアナスタシアに集中する。この会場にいるほとんどの人間はまだアナスタシアが話している姿を見たことがない。
いったい、どんな話し方をするのだろうか。いったい、どんな声なのだろうか。好奇心の視線が一点に集中していた。
「アー……」
アナスタシアが声を出すと、それだけで観客席がざわっと大きなざわめきを生む。
それがあまりにも大きなものだったからか、アナスタシアはびくっと驚いたようにして肩を跳ねさせる。
「ちょっとちょっと、みんなー。アーニャが話そうとしているんだから、今は、静かに……ねっ☆」
星を飛ばすようにウィンクをして、本田さんが言う。「はーい」と観客席から声が上がる。
アナスタシアは口からマイクを遠ざけてから、何やら口を動かす。『スパシーバ、ミオ』。おそらく、そう言っている。
本田さんはそれを見て笑顔で『どういたしましてっ』と言って、マイクに口を近付け、「それじゃあ、アーニャ。お願いね」
「……はい」
そう言って、アナスタシアは前を向く。ファンの方を向く。
そして、言う。
「私はアーニャ……アナスタシアです。今日は、よろしくお願いします」
そう言って、ぺこりと頭を下げた。
非常に短い自己紹介。だが、それだけで、伝わった。
会場を揺るがすような歓声が上がり、爆竹がそこら中で破裂しているのではないかと思わせるほどの拍手が鳴り響く。
ステージ上のアイドルたちも拍手をしている。隣にいる前川さんなんて感動からか、アナスタシアに抱きついている。
アナスタシアはそれに戸惑っている様子だった。自分は自己紹介しただけなのに……そう思っていそうな顔をしていた。
しかし、すぐに顔をふっと和らげた。和らげてから、嬉しそうに、笑みを浮かべた。
「――って、みんな、アーニャは自己紹介しただけだよー? 確かに私も泣けちゃうけど……ぐすっ」
「絶対嘘でしょ……」
本田さんのおふざけに渋谷さんが呆れたように突っ込む。いつものパターンだ。観客席からは笑い声が上がる。
「ま、それは置いといて……みんな! 自己紹介からそんなに盛り上がっちゃって大丈夫? 疲れてないー?」
本田さんの煽りに、観客席からは「大丈夫―!」という声が上がる。
「うん! 良かった良かった! まだまだライブは続くから、盛り上がっていくよー!」
そんな言葉に、観客席からは「ふー!」と興奮の声が上がる。それが静まるまで待ってから、本田さんは言う。
「じゃ、らんらん! 次の自己紹介、お願いね」
「ふぇっ!?」
神崎さんが驚いた様子で言う。……いや、まあ、この『いかにも次の曲にいく』といった流れからいきなり自己紹介を促されるとこうなるだろう。
神崎さんの戸惑いに観客席からも笑い声が上がる。「うぅ……」と神崎さんはどことなく不満気にしていたが、こほんっ、と咳払いをして――表情が変わる。
「クックックッ……我が眷属たちよ、闇の宴の準備は出来ているかしら?」
一瞬にして雰囲気が変わった神崎さんの姿に、ファンから嬌声にも近い声が上がる。それに対して神崎さんは満足気に微笑を浮かべている。
「出来ているようね。だがその前に……闇に飲まれよ!」
神崎さんを象徴するとも言える言葉、『闇に飲まれよ』。それに対してファンからは悲鳴すら上がる。ちなみに意味は『お疲れ様です』である。
「……我が名は神崎蘭子。今宵は外界の灼熱をも超える地獄を、この狂宴に生み出そうぞ!」
ものすごくおどろおどろしい表現ではあるが、ファンたちは意味がわかっているのか、興奮の声が上がる。
……おそらくではあるが、今の言葉の意味は『私の名前は神崎蘭子です。今日は外の暑さにも負けないくらい、熱くなっていきましょう!』といったところだろう。
それからもMCは続いていた。アナスタシアの方を見るとほっと胸を撫で下ろしている。
マイクに通らない声で、隣の前川さんたちとこそこそ話し合ったりしている。……何を話しているかは、だいたいわかる。
とりあえず、こうしてアナスタシアの初ステージは終わりを迎えた。
*
MCが終わり、次に出番があるアイドル以外はステージ裏に戻ってきていた。
アナスタシアも例外ではなく、他のアイドルとともにステージ裏に戻ってきている。どこか呆然とした彼女に対して、「アナスタシア」と私は声をかける。
「プロデューサー……」
アナスタシアは私の方を見る。その表情はどこか夢心地だったか、私を見て、ぱっと光が灯った。
「プロデューサー! ズヴェズダ……星が、たくさん……!」
言いたいことはたくさんあるのに言葉が出てこないといった調子で、アナスタシアは言う。
溢れるほどの感情があるのに、それを表現することができない。そのことがたまらなくもどかしいといった様子だった。
「……アナスタシア」
そんな彼女の肩に手を乗せて、私は彼女の名前を呼ぶ。アナスタシアは口を止めて、私を見る。
「楽しかったか?」
その言葉にアナスタシアは目を見開かせて、ゆっくりと微笑みを浮かべた。
「……ダー。とても、楽しかったです」
「そうか。なら、良かった」
アナスタシアの微笑みを見て、私もまた笑みを浮かべる。
「まあ、まだ終わってないけどな」
「……そうですね。まだ、終わってません」
「こわいか?」
「ニェット。今は、もう、楽しみです」
「そうか」
「ダー」
ステージ裏は騒々しく、忙しない。出番が先で今はやることがないアイドル以外は誰もが動き続けている。
そんな光景を、私たちは少しの間、無言で見続けていた。そして、二人同時にモニターの方に目を向けた。
ステージ裏に備え付けられているモニター。会場のモニターと同じ映像を映し出しており、ステージ上の様子が見える。
出番が先のアイドルたちがその前に集まっている。
「アナスタシア。あそこに行ってこい」
「……まだ、私、出番があります。大丈夫、ですか?」
「あとはソロと全体曲だけだ。全体曲は最後で、まだまだ先だし……ソロまでもまだまだ時間はある。その前に一度、来てくれればいい。それまでは……ライブを、楽しんでこい」
「……ダー!」
そう言って、アナスタシアは他のアイドルたちが集まっている中に入って行った。それに気付いた他のアイドルたちはすぐにアナスタシアを歓迎してくれている。
……さて、私も私でやることはある。この会場では、私はアナスタシアのプロデューサーであるとともに一スタッフでもある。
アナスタシアの出番までくらいは働くとしよう。
*
アナスタシアのソロ……その前のアイドルが、今、ステージで歌っている。
今、アナスタシアはステージ裏の待機位置で待っているだろう。既に伝えることは伝えたので、私はただその時を待っていた。
前のアイドルの曲が終わろうとしている。ステージで歌っているアイドルは楽しそうで、それを聴くファンたちもまた心から楽しんでいることがモニター越しからも伝わってくる。
会場の熱気は十分。
舞台は整った。
アナスタシアというアイドルのデビューにふさわしい舞台が、ようやく、整った。
曲が終わり、暗転。
歌っていたアイドルの名前を呼ぶ声や拍手などが鳴り響く。
そして、その余韻が消えていった頃……。
観客席の前の方から、おおっという声が上がり始める。
どうしてそんな声が上がったのか。その理由はすぐにわかった。
ライトが点灯。ステージの上を照らす。
ステージの上に立っているアイドルを照らす。
アナスタシアを、照らす。
瞬間、ざわめきが一気に会場全体にまで広がる。
そのざわめきはなかなか終わらない。ざわめきが終わらずとも曲をかけ始めれば自然に静まる……そのはずだが、それにしてはざわめきが大きい。
この状況では曲をかけるにかけられない。「どうしますか!?」とスタッフさんから声がかかる。アナスタシアのプロデューサーは私であり、決定権は私にある。
「どうするんですか?」
隣に立つルキちゃんが不安そうに言う。……そんな顔をしなくても大丈夫だ。これくらい、予想している。
「会場はすぐに静かになります。少し、待っていて下さい」
私が言うと、スタッフさんはこくりとうなずいてくれた。若干ながら心配そうではあったが。
……アナスタシアの騒動は予想以上に大きなものだった。だから、アナスタシアがステージ上に姿を現した時にざわめきが起きて、さらにそれがなかなか静まらない……そんな可能性、予想できないわけもない。
予想ができるのならば、それの対策を講じることも可能だ。
何パターンかの対策の中の一つを、私はアナスタシアに告げた。
「アナスタシア、もし、君が姿を現して、なかなか会場が静まらなかったなら――」
ステージ上。
アナスタシアは、ゆっくりと人差し指を口元に持っていって、
「しー……」
と微笑んだ。
その瞬間、会場にいるすべての人が息を呑み、
アナスタシアは、マイクをぎゅっと握りしめ、
その目を、閉じた。
――【You're stars shine on me】
幻想的であり、落ち着いたイントロからこの曲は始まる。
バラードだ、とその瞬間に誰もが理解する。
切なそうな表情を浮かべて、ゆったりとした振り付けでアナスタシアは踊り始める。
ゆっくりと星を探して空を撫でるようなその振り付けで、一気に観客の意識を奪っていく。まるでその手で魔法をかけていったかのように、会場の雰囲気を変えていく。
観客席からは少しの声も上がらない。無言でサイリウムを振っている。
イントロが終わり、アナスタシアは歌い始める。しかし、それで何かが変わるわけではない。まだ、テンポは変わらない。
切なげな表情とともに、ゆっくりとしっとりとこのバラードを歌い上げる。
美しくも儚げなメロディに、アナスタシアの美しくも可憐で、しかし儚げな声が重なる。切ない歌詞と、アナスタシアの表情、振り付け……そのすべてで、世界を作り上げている。
メロディが少しずつ盛り上がり、声が少しずつ大きくなり、振りが少しずつ大きくなり……そして、サビに至った、その瞬間。
ゾクッ、と背筋に何かが走った。心臓の鼓動が一気に大きなものへと変わる。興奮している。そう自覚する。私は何度も聴いているはずで……それなのに、そのはず、なのに……。
歌は続いている。アナスタシアは真摯に歌い続けている。完全に歌に入り込んでいる。いつも見ているアナスタシアとはまったくの別人のようにすら思える。それほどまでに。
ぐすっ、と泣いているような声が隣から聞こえる。その理由は、きっと、『アナスタシアが立派に歌っているから』という理由だけではない。このステージに魅せられて……。
曲が終わろうとしている。夢のような世界が終わりを告げようとしている。
幻想的で、儚げで、切なくて……悲しくて、苦しくて、それなのに、どうしようもなく愛おしい、この時間が終わろうとしている。
誰もが終わらないでほしいと願っていた。だが、それは叶わぬ夢だ。
だからこそ、今はただ、この世界に浸っていたい――
曲が終わる。アナスタシアは口からマイクを離し、最後の振りに移っている。切なくも、あたたかい……そんな夢が、終わる。
直後、しん……と会場が沈黙に包まれる。そして、その余韻が会場の全体にまで広がった、その瞬間。
感情が、爆発する。
ワアアァッという歓声とともに、会場全体を包み込むような拍手の雨が降り注ぐ。
声は最早意味をなした言葉ではなく、感情をそのままに出した何かでしかなかった。
自分の内から溢れ出た感情を口から出しているだけでしかなかった。
それに対して、アナスタシアは肩で息をしながらファンの方を見ていた。
顔は上気し、白い肌が微かに赤く染まっている。今までに経験したこともないだろう歓声と拍手の嵐に襲われて、アナスタシアは自然とマイクを口元に近付けていた。
それに気付いたファンたちはいったん歓声と拍手をやめて、アナスタシアの言葉を待った。
「スパ――」
そう言おうとして、アナスタシアは言葉を止めた。
言葉を止めて、それから、ファンの方をしっかりと見て、
その顔に、光り輝くような笑みを浮かべて、
彼女は、言った。
「ありがとう!」
と。
第六話「ファン」
「今日のライブ、すごかったな」
「ほんとほんと。やっぱりCGプロのアイドルは良いよなー」
「あー……蘭子ちゃん、今日も良かった」
「お前そればっかりだな」
「仕方ないだろ。ファンなんだから」
「俺は加蓮ちゃんだなー……なんか、最近すごいと思うんだよ」
「トライアドプリムスの一人なんだからすごいのは当然だろ」
「いや、そうなんだけど……最近は特にというか」
「……まあ、俺も今回のは泣いたけど」
「うわ、後出しとかずりぃ」
「ずるいってなんだよ。お前は泣かなかったのか?」
「……泣いたけど」
「泣いたのかよ」
「でも、今日と言えば、やっぱりあの子だろ」
「あの子? ……ああ、そうだな」
「え? ちゃんみお?」
「そっちじゃねえ! いや、そっちもすごかったけどさぁ……」
「ごめんごめん。わかってるよ。新人の、あの子だろ?」
「わかってるなら変なこと言うなよ……」
「でも、本当にすごかったよなぁ」
「うん、すごかった」
「ライブ前から話題にはなっていたけど、まさか、あそこまでとはなぁ……」
「……あの子のこと、もっと知りたいよな」
「今日の曲のCD絶対買うわ」
「……リリイベとかやってくれないかなぁ」
「やったら絶対行くわ。と言うかやるだろ。新人だし」
「CGプロは割りとやってくれるところだしな」
「……俺、あの子、推そうかな」
「俺はまだ様子見かな。まだどんな子かわからないし」
「まあそうだよなー。良い子っぽいしパフォーマンスもすごかったけどな」
「はぁ……アナスタシアちゃん、これからもっと露出増えないかなぁ」
「増えるだろ。こんなライブをデビューライブにするってことは、CGプロも『推す』気だってことだと思うし」
「……だったらいいんだけど、な」
*
ライブ後の軽い打ち上げを終えるとそのまま解散の流れとなった。
女子寮に住むアイドルたちはほとんどが集まって行動していたため、アナスタシアもそれに同行させた。
アナスタシアはまだ興奮冷めやらぬといった様子だったが、デビューライブの後だ。早く帰らせて休ませた方がいいと判断した。
「早く帰ってゆっくり休め」と言うと「……ダー」とどこか不満気に返された。
アナスタシアの不満気な表情というのは珍しくて、私はこんな表情のアナスタシアもかわいいな、なんて思ってしまった。
私はちょっとした雑用をしてすぐに事務所に帰った。
ルキちゃんからは「今日くらい休めばいいのに……」と呆れられたが、そうもいかない。むしろ私の仕事はこれからなのだから。
ネットの評判を見るとアナスタシアの話題が多く見られた。とりあえず、安心した。
スタッフさんや他のプロデューサーからいくら「良かった」と言われても、ファンからもそう思われてなければ意味がないのだ。
今調べた範囲でしかないが、とりあえずはファンからもアナスタシアのパフォーマンスは評価されているようで安心した。
さて、安心したところではあるが、だからこそ、やるべきことは山積みだ。
成功するという前提で進めてはいたが、それでもまだまだやるべきことは残っている。蒔いておいた種も芽吹いてくる頃だ。
とにかく、目の前のことから一つずつ片付けていこう。
……とりあえずの目標は、仮眠をとれるだけの時間を確保すること、だな。
*
一週間後。
アナスタシアのCDが発売された。
ライブの前に発売することも可能だったのだが、メーカーや関係各所と話し合った結果、この時期に出すべきであるという結論に至った。
その理由はいくつかあるが、端的に言えば『この時期に発売することが最も利益となるだろう』と判断されたからである。
ライブの翌日、アナスタシアのCD発売を記念していくつかのインストア・イベントが開催されることが発表された。
ライブが終了した直後から、以前から企画されていたものだけではない多くのイベントの開催が持ちかけられていた。
いくらかの調整が必要ではあったが、そのほとんどを受け入れた。
ライブ前、ルキちゃんにインストア・イベントの話をすると、「どうしてライブの前じゃないんですか?」と訊ねられた。
CDの発売がライブの後だとしても、ライブの前に小さなステージで一つでも多くのステージを経験するべきだ、という判断からだろう。
私がその上でインストア・イベントをライブの後にしたことにはいくつかの理由がある。
アナスタシアのデビューにできるだけ大きな『衝撃』を、というのもあったが、いちばんの理由は「後の方がファンにとって良いだろう」と思ったからだ。そしてそれこそがアナスタシアのためになるだろうと考えたからである。
インストア・イベントで何をやるか。
様々なことが想像されると思うが、私は必ず『ファンと直接話すことができる』ものにしたいと思っていた。
ファンとアイドルが直接話すことができるイベントというと様々なものが想像されることと思うが、今回はお渡し会を中心にしようと思っていた。
今回開催されるインストア・イベントの内容は基本的にはミニライブとお渡し会である。ちょっとしたトークと歌、それからお渡し会。簡単に言えばそれだけだ。
ライブ前よりもライブ後の方がアナスタシアにとってもファンにとっても話すことは多いだろう。
アナスタシアにとっては初めての単独イベントであるし……ファンにとっても、アナスタシアと接するのは初めてだ。
互いに何も知らない状況よりは『ライブ』という大イベントの後の方がいいと判断した。
ライブ後、インストア・イベント以外にも様々な仕事のオファーがあった。その中にはバラエティ番組なども多かった。
本田さんや前川さんが出ている番組も多く、そういった関係から、というのもあるだろう。
本田さんも前川さんもアナスタシアもそれを聞けば必ず「一緒に仕事がやりたい」と言うと思うが……私は断った。
まだその時期ではない。そう判断してのことだった。
まだアナスタシアのことを知らない人は多い。ワイドショーで取り上げられたりもしたが……そもそもあまり大きく取り上げられたわけではないし、それだけで日本中の誰もが知るようにはなったりしない。
今、アナスタシアのことを知っているのは――つまり、アナスタシアのアイドルとしての姿を見たことがあるのはあのライブに来ていたファンだけだ。
ライブ前、私はアナスタシアをバラエティ番組にあまり出したくないと言ったが、状況はその時とあまり変わっていない。
要するにアナスタシアに『カタコト外人キャラ』というイメージが付くのを恐れて、ということだ。
臆病……かもしれないが、実際にそうなってからでは遅いのだ。まずは『アイドル』としての地位を確立しなければならない。
もっともっと知名度を上げて……それからなら、バラエティ番組に出ても変なキャラクター付けをされることはない、あるいは変なキャラクター付けをされても問題ない、と私は思う。
他にもアナスタシアには様々な仕事のオファーが来ていたが、もちろんすべてを受けるわけにはいかない。とりあえずは保留させてもらって、ルキちゃんと相談しながら決めることにした。
ここまで長々と述べたが、端的に言えば、アナスタシアの次の仕事はインストア・イベント、ということだ。
ファンと実際に顔を合わせて話す初めての仕事、ということである。
*
「アナスタシア。君はアイドルにとって最も重要な存在はなんだと思う?」
CDの発売日、その翌日。インストア・イベントを二日後に控えたアナスタシアに私は尋ねた。アナスタシアは答えた。
「ファン、ですね? アイドルはファンが応援してくれてこそのものです。だから、ファンの存在がいちばん大切です」
満点の答えだな、と思った。うん、素晴らしい。本当にそう思っているのなら――いや、アナスタシアのことだ、本当にそう思っているのだろう。
アナスタシアは既にライブも経験している。その前から既に知識としては知っていただろうし……アナスタシアの近くには、『アイドルとは何か』を教えるにあたって、私よりも詳しいかもしれないようなアイドルが居る。
「前川さん、か?」
そんなわかりにくい質問に対してアナスタシアは「ダー」と答えた。
「みくは私に色んなことを教えてくれますね。ファンのことも、その一つです」
「そうか」私は言った。「感謝、しなくちゃな」
「ダー」
アナスタシアは嬉しそうに言った。……本当に、前川さんにはよくしてもらっているみたいだな、と思う。
だが、この様子を見ているとアナスタシアはまだ知らないのだろうと思う。
ファンという存在が、どういうものなのか。
彼らの存在は、アイドルにとって、どういうものなのか。
知識として知っているかどうか、ではない。自分が、自分で、そう思わなければ意味がない。
……まあ、そのためのインストア・イベントだ。
アナスタシアには知ってもらおう。
アイドルという存在の辛く苦しい部分の逆――あるいは、アイドルという存在にとって、最も幸せかもしれない部分を。
*
インストア・イベント、当日。
「アナスタシア、準備はいいか?」
私たちはとあるレコード店に来ていた。
あまり大きな場所というわけではないのだが、ここはデビューライブの前から、さらに言えばアナスタシアがサマーライブに出演すると決まる前からイベントの開催をしてくれる、と言ってくれていた場所だった。
聞いた話ではここはCGプロが昔から世話になっている場所、らしい。あの高垣楓ですら今でもこの場所でイベントをするという話だ。
CGプロのアイドルにとっては思い出深い場所、ということかもしれない。
「準備……」
私の質問にアナスタシアはどこか呆けた様子で口を開いた。「アナスタシア?」心配になって名前を呼ぶとアナスタシアははっとしてこちらを向いた。そして、その顔に不安を浮かべた。
「……プロデューサー。私、何を話せばいい、ですか?」
初めてのお渡し会、初めてのファンとの会話。アナスタシアはそれに複雑な思いを抱いているようだった。
「君の好きなように話せばいい」
私がそう言うと、「それがいちばん、困ります」と答えられた。これはサマーライブの時よりも弱々しいかもしれないな、と思う。しかし、『好きなように』以外で何と答えればいいのか。私は考え……少し、表現を変えて言うことにした。
「そうだな、つまり、アナスタシアが伝えたいことを言えばいい。ファンに、自分が伝えたいことを」
「伝えたい、こと……」
アナスタシアは私の言葉を反芻する。しかし、まだそれを消化することができていない。
インストア・イベントの開催時間は刻一刻と迫っている。アナスタシアもそれを気にしている。その表情はまだ曇ったままだ。
そんな彼女の表情を見て、私は思う。少々の自己嫌悪を抱きながら、この状況のことを思う。
……予定通り、だな。
*
都内にある、とあるレコード店。
ここはCGプロのアイドルがしばしばインストア・イベントを行うCGプロのファンの間ではそこそこ有名な店である。
今、一人の青年がこの店に入店した。今日ここで開かれるとあるアイドルのインストア・イベントのためだ。
彼は昔からCGプロのアイドルのファンだった。特定の誰かを応援している、と言うよりは『CGプロのアイドル』全体を応援している、という調子であり、そんな事情もあって、彼は今まで特定のアイドルのインストア・イベントのような小規模のイベントに参加することはなかった。
彼はこの理由として『自分が行くことで本当に行きたい人の席が埋まってしまうかもしれない』というものを挙げていたが、言い換えれば、彼は特定のアイドルのインストア・イベントには『本当に行きたい』と思っていなかったのである。
今までは『特定のアイドル一人』を特別応援する、ということはなかったのだ。
CGプロのアイドルなら誰でも好きだしライブにも行くが、それだけだった。それ以上のことはしてこなかった、というわけだ。
しかし、今日、彼は初めてインストア・イベントに来ていた。
それはつまり、彼が初めて『特別応援したいアイドル』ができた、ということだった。
そのアイドルの名前は『アナスタシア』。
最初、彼が彼女を知った時の感想は『この子はいかにもって感じだなあ』というものだった。
日本人とロシア人のハーフであり、芸能界でもなかなか見ないほどの美形。
オールスターライブにも近いサマーライブがデビューライブで、しかも、ここまで騒がれているとは……明らかに事務所から推されているような子だな、という印象だった。
この子は確実に人気が出るな、という思いとともに、自分はそうなるとは限らないけれど、とも思っていた。
こうもあからさまに事務所から推されているようなアイドルに対しては色々と考えてしまうものなのである。
青年は自分で面倒くさい性分だなと思ってはいたが、だからと言って、その思いが簡単に拭えるものではない。
要するに、青年のアナスタシアに対する第一印象はそこまで良いものではなかったのだ。
本田未央や前川みく、神崎蘭子と言ったアイドルたちがその名前を出す度に『良い子』なんて言っている時にはちょっと気になりはしたが、まだ本人を見ていないのに判断することなんてできない、とすら思っていた。意固地になっていたと言ってもいい。
そして、サマーライブ。万が一、アナスタシアがひどいステージをしたならば……彼はそんなことすら考えていた。
間違いなく褒められるものではないし、悪いファン、と言ってもいいだろう。青年も普段はそういう思いを抱くタイプではないし――逆に言えば、CGプロのアイドルに対してそこまで強い思いを抱いたことは初めてだった。
その時の青年はまだそのことに気付いていなかったが、つまりはそういうことだった。
アナスタシアがステージに出ている時、彼は常にアナスタシアを目で追っていた。最初の全体曲、『お願い!シンデレラ』の時から彼はアナスタシアに注目していた。
青年はその時点では悪くないな、と思っていた。だが、それだけで認めようとはしなかった。青年は意固地になっていた。ソロのステージを見なければわからない。そう思っていた。
結果――青年は魅了された。
『You're stars shine on me』。
あの曲が終わる頃には、涙で前が見えなくなっていた。涙を手で拭うことすらできなかった。
そして、気付いた。
これが他のみんなが言っていた感情か、と。
これが『ファン』になるということなんだ、と。
それまでも、青年はCGプロのアイドルのファンであった。
だが、今思えば、それは『なんとなく好きだった』というくらいの感情に近かった。
CGプロは今をときめくアイドル事務所である。『流行』と言ってもいい。
それまでも青年は心からCGプロのアイドルを応援しているつもりだったし、それは確かに事実ではあった。
だが、その思いの強さがどれほどのものだったかと言えば……。
今、青年はアナスタシアのファンである。
今でもCGプロのアイドルのことは好きだ。それは変わらない。
変わったことは、一つだけ。
特別好きな、特別応援したいアイドルができたということ。
青年がアナスタシアというアイドルを応援しているということである。
*
青年は緊張していた。
アイドルのライブなどに参加するようになってから数年になっていた青年であったが、実際にアイドルと会話するのは初めてだったのである。
インストア・イベントはもう始まろうとしている。幸運かどうかはわからないが、青年は整理券の番号で一番が割り振られていた。
最前でステージを見ることができるが、アナスタシアとのお渡し会も最初であるため、他の人がどのように話しているかなどを見ることができない。
こういったイベントは今回が初参加となる青年にとっては複雑な心境であった。
そしてインストア・イベントが始まった。このイベントを回すための司会役の男性が出てきて、何かを話す。
青年の耳には彼の言葉のほとんどが届いてこなかった。
「――それでは、アナスタシアさんに登場してもらいましょう。大きな拍手とともにお迎え下さい!」
男性が言った。青年ははっとしてステージを見る。
周囲から拍手の音が聞こえて、青年は一歩遅れて拍手を始める。
パチパチパチパチ……拍手が鳴り響き、そして。
アナスタシアが姿を現す。
その瞬間、拍手の音がいっそう勢いを増し、青年の背後から「ふー!」といった声が上がり始める。
それはアナスタシアがマイクを口に近付けると自然に沈静化する。
「アー……初めまして、みなさん。今日は、よろしくお願いしますね」
アナスタシアのその言葉に、また「ふー!」といった声や「よろしくー!」といった声が上がる。
アナスタシアはそういった反応に少々驚いている様子だった。しかし不快だとは思っていないようで、「はい、お願いします」と微笑んだ。
それから司会の男性がまた話し始める。アナスタシアに上手い具合に質問をして、アナスタシアがそれに答える、といった調子だ。
サマーライブの時のことに触れながらも、サマーライブに参加できなかった人のことも考えたMC。
アナスタシアの方はアナスタシアの方で初々しい、新人アイドルらしい受け答えをしていた。
サマーライブでの新人らしからぬステージからは想像できなかったが、実際に見るとまだまだ新人の少女なんだな、と思わされた。
しかしそれは彼女の魅力を損なうわけではなく、むしろ身近な存在として、青年の目にはより魅力的な存在として映っていた。
そしてトークパートは終わり、ライブパート。
――【You're stars shine on me】
サマーライブの時よりも遥かに近い距離で見るアナスタシアのステージを見ていると、それだけでこみ上げるものがあった。
アナスタシアの表情が、仕草が、その一挙手一投足がどれだけ細かなもので構成されていたのかがサマーライブの時よりも強く強く感じられる。
これだけで来てよかった、と思えるステージだった。青年は泣かなかったが涙ぐみはした。
歌い終わると、アナスタシアはステージからいったん離れて、お渡し会の準備が始まった。机とお渡し会で渡すサイン入りのCDが準備される。
それから司会の男性が場を繋ぎながら、お渡し会の説明をする。
「お渡し会の時、アナスタシアさんと話すことになると思いますが、あんまり長く話しているとはがしちゃいますから注意して下さいね? どれくらいの時間なら長いかって? 今回は一人につき三〇秒くらいですね! 短い? いやいや、三〇秒は割りと長いんですよ? ラジオだったらメールを読めます。と言っても、アナスタシアさんは新人アイドルですからね、そこらへん百戦錬磨の皆さんにはよーく気を付けてもらいたいと思います。……さて、準備ができたようです。皆さん、節度を守りながらもアナスタシアさんに熱い思いをぶつけちゃって下さい!」
そうして、アナスタシアとのお渡し会が始まった。
青年の緊張が一気に大きなものとなる。心臓の鼓動が聞こえる。何を話せばいいのか。
一応は考えていたはずのそれをまったく思い出すことができない。せっかくアナスタシアに自分の気持ちを伝えられる場所なのに、何を言えばいいのかわからない。
最初は自分だ。だから、いきなり自分の番だ。
スタッフに促されて、青年はアナスタシアの前に立つ。
めちゃくちゃ綺麗だ。青年は思う。ハーフだとかそういうのは関係ない。見ているだけでドキドキしてしまう。息を呑むような美しさ、というのは彼女のことを言うのだろう。
長いまつ毛、大きな目。宝石のように透き通った美しい青の目と雪のように白い肌。もう、見ているだけで満足してしまいそうだ。
「……あの、大丈夫、ですか?」
アナスタシアが心配するように尋ねた。青年はハッとした。
「だ、大丈夫です!」
なんてことをしているんだ。時間は限られている。それなのに……青年はそんなことを思うが、そんなことを思っている暇はない。
今すぐ何かを伝えなければならない。何を? 自分の気持ちを。そうだ、自分の気持ちを伝えるんだ。そのために来たんだ。青年は言う。
「あ、あの! アーニャちゃ――アナスタシアさん!」
青年の突然の気迫にアナスタシアは驚きながらも、「アーニャでいいですよ?」と言ってくれる。青年はその言葉に、「じゃあ、アーニャちゃん!」と言い直す。
「俺、いや、僕は、その――アーニャちゃんのファンです! 前のサマーライブで、あのステージで、ファンになりました! そして、今日も、その、とても楽しかったです! アーニャちゃんはめちゃくちゃかわいいし綺麗だしこんな近くで話せるしあんな近くで歌が聴けるし――いや、そうじゃなくて、そういうことが伝えたいわけじゃ、いや、それも伝えたいんだけど、それがいちばん伝えたいってわけじゃなくて――」
青年はもうなにがなんだかわからなくなってきていた。想いだけが先行して、言葉が付いてきていなかった。
そんな青年を見て、アナスタシアはふっと気が抜けた様子で――安心した様子で微笑み、言う。
「そんなに焦らなくても大丈夫です。落ち着いて下さい」
そんなことを、言われて……青年は一度言葉を止めて、それから、自分のいちばん言いたいことを言った。
「――アーニャちゃん!」
「はい」
「俺、いや、僕は、アーニャちゃんを応援してます! これから、ずっと、必ず――アーニャちゃんの、ファンになったから! ファンに、なれたから! それから、その……変かもしれないけど、本当に、ありがとう。アイドルになってくれて、ありがとう。それだけは、伝えたくて」
そう言った青年の目は、どうしてか、涙ぐんでいた。色々な思いが溢れていたから、かもしれない。
そして、それを受け取る、アナスタシアは――
「……ありがとう、ございます」
その目の端に光るものを溜めながらも、満面の笑みを浮かべて、そう言った。
……そうして終われば綺麗に終わったのだが、現実はそう綺麗にはいかない。それから青年は帰ろうとしたのだが、彼はあるものを忘れていた。
「あの、CD、忘れていますよ」スタッフにそう言われて青年は慌てて戻って、「すみません、忘れてました!」とアナスタシアに頭を下げるようにして謝った。
しかし、そんな彼にアナスタシアは「実は、私もです」と茶目っ気溢れる笑みを浮かべながらCDを渡して、「また、来て下さいね」と言った。
そんなことをされて惚れないわけがない。絶対また来よう……。青年は誓った。
*
インストア・イベントは終わりを迎えようとしていた。
私は裏から見ているだけだったが、今回のイベントは大成功と言っていいだろう。
心配だったお渡し会も、始まる前はひどい緊張と不安が見られたが、最初の一人と話してからは一気に良くなったように見えた。あの人には感謝しなければならないな、と思う。
それ以外のファンもアナスタシアには良く接してくれているようで、こういったイベントに慣れているファンなんて、むしろアナスタシアを笑わせていたようにすら思える。
とにかく、アナスタシアにとってもファンにとっても非常に良いイベントになったようで何よりだ。
お渡し会が終わると、アナスタシアが帰ってきた。
サマーライブの時とはまた異なる表情。『出し切った』と言うよりは『たくさんのものをもらった』といった表情。
そのもらったたくさんのものを、大切に大切に抱いているかのような表情だった。
「アナスタシア」
そんな彼女に、私は声をかける。「プロデューサー……」アナスタシアは私の方を見て、つぶやく。そして、口を開く。
「……プロデューサー。あの人たちが、ファン、なんですね」
「ああ」
「あの人たちが、私を、応援してくれているんですね」
「ああ」
アナスタシアはぽつりぽつりと溢れる思いをこぼすように言葉を紡ぐ。そして、はっきりとした意志をもって、私を見る。
「プロデューサー」
「なんだ? アナスタシア」
「私、もっと……もっと、輝きたいです。あの人たちのために……あの人たちからもらったものを、少しでも、返すために。私の思いを、伝えるために」
アナスタシアは言った。今までもアナスタシアは……私は、『この世界でいちばん輝く星に』と言っていた。だが、それとはまた意味が違う。こもっている思いが違う。
……今日、こうなることは私の狙い通りだった。アナスタシアがファンと接して、ファンがどういう存在なのかを知る。
それがアナスタシアの姿勢に良い影響を与えれば……と、『それ自体』は狙い通りだった。
しかし、その内容に関してはまた別だ。
それからアナスタシアがどう思うか、どうしたいと思うかは、アナスタシアが自分で思ったこと。アナスタシア自身が、ファンから受け取ったものだ。
私の狙いは関係ない。私のような汚い大人の思惑は関係ない。
今、アナスタシアは自分の意志で『そうなりたい』と願った。ファンと接して、ファンから大切なものをもらって……『輝きたい』と願った。
それならば、プロデューサーである私がするべきことは一つだろう。
「……最初に言っただろう? アナスタシア」
私はアナスタシアに向かって言った。
「プロデューサーは、アイドルの手助けをする仕事だ。……君の手助けをさせてくれ、アナスタシア」
私はアナスタシアに向かって手を差し出す。アナスタシアはその手を見て……私の顔を見て。
「……スパシーバ、プロデューサー」
アナスタシアは微笑み、その手をとった。
……さて、今日のイベントはこれだけではない。
次の会場に向かおうとしよう。
*
「――断られたぁ!?」
同日、テレビ局。
番組の収録後のちょっとした世間話の場で、前川みくは信じられないような話を聞いていた。
「そうなんだよー。あのライブの後、確実に『来る』って思ったからオファーしたんだけどね。いやぁ、まさか断られるとは思わなかったよ」
あっはっは、と笑いながらとあるバラエティ番組のディレクターは言った。ゴールデンタイムに放送され、視聴率も上々。
そんな、すべての芸能人にとっては出演すること自体が『大きなチャンス』となるような番組だ。
新人にとってはその機会なんて喉から手が出るほど欲しいはずで……断るなんて、意味がわからない。
「でも、アーニャちゃん、絶対にバラエティにも向いてると思うんだよね。私の勘は当たるし……みくちゃんの話を聞いている限り、そんな感じだしねー」
ディレクターは笑いながら言うが、みくはほとんどその話を聞けていなかった。
アナスタシアが――正確には、そのプロデューサーであるPだが――この仕事を断るということが、信じられなかったのだ。
「どう、して……」
みくがやっとのことで発することのできた言葉はそれだけだった。ディレクターは言った。
「アーニャちゃんのプロデューサー曰く、『まだ』出演できないって話だし、時期が悪い、っていうことかな。この番組だけじゃなく、バラエティ番組の出演依頼はだいたい断っているみたいだし……アイドルのことはよく知らないけど、うん、理解できないことはないよ。私なら絶対に出演させるけどね」
一つを除いて、みくも同じ意見だった、みくなら、こんな仕事は断らない。絶対に出演させるだろう。
そして、除かれた一つこそが重要だった。
アナスタシアのプロデューサーが、Pが、この仕事を断った意味。
それが理解できなかったのである。
――あるいは、理解したくなかっただけなのかもしれないが。
第七話「信頼」
九月、事務所。
「ただいまー! いやー、今日も未央ちゃんは頑張りましたよー。やっぱり美希さんはすごいね。ライブバトルの時はもうこわいくらいなんだけど、普段のお仕事の時はこわいくらいかわいいんだもん。ツバッティーがああなっちゃうのもわか……ん? みくにゃん、どうしたの?」
帰ってくるやいなや好きなことを好きなようにまくしたてる未央だったが、その時事務所にいたみくは未央に対して何も言わずにテレビを見ていた。そこに映っているのはアナスタシア。ちょうど歌い終わったところらしく、上気した顔でファンに手を振っている。
「お、ライブバトルの中継……最近のアーニャはよくライブバトルをしてるよね。『新星』アナスタシア……だっけ? そう呼ばれているみたいだし。でも、この名前、そのまま過ぎるよね。私の『パーフェクトスター』みたいなものを付けてあげればいいのに」
ライブバトル。それはアイドル同士の戦いである。アイドルが群雄割拠する昨今、それは非常に人気の高い催しとなっていた。
仕組みとしては単純。アイドルが交互にライブをして、勝敗を決める。
この『勝敗を決める』ということに対しては『趣味が悪い』などという否定的な意見もあったが、人気の高いイベントであることは確かであり、今のところは存続している。
未だ『ライブ』はアイドルのファンでもない人々にとっては親しみのないものではあるが、そういった人々にとっても『ライブバトル』という『勝敗がつく』ものに対する興味は大きかった。
その結果、今では全国ネットでテレビ中継されるなんてこともあるようになった。
と言っても、スポーツの試合などと同じく、全国ネットで中継されるのは『トップアイドル』クラスのアイドルがライブバトルをした時くらいだが。
「ライブバトルの結果は……アーニャの勝ち! いやー、さすが! もうあのランクじゃあ敵なし、って感じだね!」
そして、注目されてはいるがアナスタシアはまだ『トップアイドル』クラスのアイドルではない。
今、みくが見ている番組はアイドル専門チャンネルの番組である。それでも新人アイドルがテレビで中継されているというのはアナスタシアが注目されているからこそなのだが。
「……未央チャンが言うと嫌味みたいだけどね」
ぼそっとつぶやくようにみくは言った。「あ、やっと反応してくれた」と未央は笑う。みくは溜息を吐いた。
これだから、未央チャンは……。『パーフェクトスター』と呼ばれる彼女がそう呼ばれていることに納得するのはこういう時だ。
まあ、これに関しては『コミュニケーション能力の怪物』の方を思うべきなのかもしれないけれど。
「でも、みくにゃんも言えないと思いますよ? なんたってみくにゃんはウチの事務所でトップクラスに人気のある超人気アイドルですし」
「それも未央チャンが言える話じゃないでしょ……」みくは再度溜息を吐く。「というか、みくはそもそも『さすが』なんて言ってないもん。この短期間でここまでのパフォーマンス、っていうのはすごいと思うけどね」
「うんうん、本当にすごいよね」未央は笑う。そして言う。「それで、どうしてみくにゃんはそんなに不満そうなの?」
いきなりの核心を突くような質問にみくは一瞬ひるみ、しかしすぐに向き直った。みくは答える。
「アーニャンは……バラエティ番組とか、そういうのには、全然出ないよね」
「そうだね」未央はうなずく。「最近はライブバトルしてるかレッスンしてるか……あとはインタビューとか、そういうのしか見ないかな。それで?」
「それで……」みくはその先に続く言葉を言おうとして口を閉じた。それから数秒間言葉を探すようにして、それからまた口を開いた。「……未央チャンは、どう思う?」
「どう思う、か……」うーん、と未央はわざとらしく悩んでいるようなポーズをとる。「どういう意味かにもよるけど、まあ、そういうのもアリかなー、とは思うよ。ライブバトルで実力と人気を付けていく、っていうのはトップアイドルになるための近道だって思うし」
「近道だからって!」
思わず、みくは大声を出してしまう。未央は目を丸くする。そんな未央を見て、みくは自分が大声を出したことに気付いて、「……ごめん」と謝る。謝って、言う。
「でも……近道だからって、それで、いいのかな。ライブバトルばっかりして……それで、楽しいのかな」
「みくにゃんは楽しくないの?」未央は言う。「ライブバトルを、することが」
「そういうことじゃないけど……ううん、ごめん、みくの言い方が悪かったね。みくが言いたいのは、そういう意味じゃないの。今のアーニャンは――新人チャンは、効率だけを求めているみたいで……それが、なんだか、気になるの」
「新人くん、か」
アナスタシアのプロデューサー。アナスタシアへのバラエティ番組の出演依頼をすべて断っているのは彼だ。
アナスタシアの活動について思うことがあるのならば、それはつまり、彼の仕事に思うことがあるということだ。
「新人チャンはそういうことをするような人じゃない、って思うけど……でも、今のままじゃ、アーニャンが……」
かわいそうだよ。その言葉をみくが口にすることはなかった。
「私は大丈夫だと思うよ」
未央が言った。みくは驚いたような顔をして未央を見た。
「みくにゃんが心配する気持ちもわからなくはないけど、うん、大丈夫だと思う。新人くんは新人くんで思うところがあるからそうしているんだと思うよ。だから大丈夫。みくにゃんがそこまで心配することじゃないよ」
未央のその言葉に、しかし、みくはまだ思うところがあった。確かにPはそうかもしれない。だけど……。
「アーニャンは、それでいいのかな」
みくは言った。
「新人チャンに考えがあるとしても……それで、アーニャンは、いいのかな」
その言葉は既に未央に向けたものではなかった。未央も自分に向けられた言葉ではないとわかっていた。だが、その上で彼女は答えた。
「それはアーニャにしかわからない、かな」
*
九月。アナスタシアが通っている高校の夏休みは既に終わった。『夏休み』とは言っても、アナスタシアは普段以上に休まることのない生活を過ごしていたが。
夏休み中、アナスタシアには今まで以上に過酷なレッスンを受けてもらった。仕事も仕事でそこそこにあったが、それ以上にレッスンを積んでもらった。
サマーライブの時点で『新人らしからぬ』という評価を受けたアナスタシアだが、それでは足りない。
私はそう判断して、アナスタシアに夏休み中にしかできないようなレッスンを受けてもらった。
これはアナスタシアだけではなくルキちゃんにとっても過密なスケジュールだったが、彼女はしっかりとこなしてくれた。
曰く、「Pさんとアーニャちゃんが頑張っているのにわたしだけ休むわけにはいきません」とのこと。
「というか、わたしの心配をするよりも自分の心配をして下さい。アーニャちゃんはわたしがスケジュールも管理しているので気を付けられますけど、Pさんのスケジュールまでは管理できませんから」
それに対しては「僕もまったく休んでいないわけじゃないから大丈夫だよ」と言ったが、まったく信じてもらえなかった。
「とにかく、わたしの心配をするくらいなら自分の身体を気遣って下さい。わたしもアーニャちゃんも、Pさんとは違ってしっかり休んでいますから」
そこまで言われると私にはもう返す言葉もなかった。だからと言って本当に休めるかどうかはまた別の話だったが。
夏休み中、アナスタシアのスケジュールはルキちゃんが管理していた。仕事面まで含めると私の手がかかっていたが、それ以外ではルキちゃんに任せた。
これは日常生活にまで食い込むようなスケジュールであり、アナスタシアには厳しいものとなってしまうと思ったが、彼女は「これもプロデューサーは最初に言っていましたね? 大丈夫です。その覚悟はできています」と返してくれた。
まだ一五歳の少女にここまで言わせて、その言わせた当人が休んではいられないだろう。
食事の内容もレッスン内容も睡眠時間も、アナスタシアの生活は管理されていた。
休日は設けていたが、それでも夏休みのほとんどが管理された生活になっていた。
肉体改造……そう言ってもいいくらいには、アナスタシアには頑張ってもらった。
夏休みという期間でもなければ、このように大がかりなことをするのは難しい。
ステージでより良いパフォーマンスをするためには純粋に筋力を付ける必要があるが、無駄に筋肉を付けるわけにもいかない。アイドルにとって無駄な筋肉は『ぜいにく』も同じだ。
それを『売り』とするようなアイドルもいるが、それを『売り』にすることは難しくもある。
まだまだ経験も知識も足りない私にはできないし、そもそも、アナスタシアであってもそれは難しいだろう。アナスタシアの『個性』はそこにない。
ならば、より純粋に肉体を磨き上げることが最善の方法である、と判断した。
もはや『鍛錬』という言葉にも近いアナスタシアのレッスンは確実に成果を上げていた。
もとより美しかった肢体はさらに磨き上げられ、鍛え上げられ、鍛錬に鍛錬を重ねた名刀が美術品にすら勝る美しさを見せるのと同じで、ただ見るだけで息が漏れるようなほどのものとなっていた。
そんな生活の合間に残っていたお渡し会やインタビューなどを受けたりしてアナスタシアの夏休みは終わった。
そして、九月。
私はアナスタシアにライブバトルをさせた。『させ始めた』と言ってもいい。
八月の頃より――正確にはもっと前から、これは決めていたことだった。八月中に実力をさらに付けさせて、それから、ライブバトルをさせる。
サマーライブで『新人らしからぬ』ということで注目されたアナスタシアだったが、その状態からさらに注目され続けるためにはさらなる成長が必要だ。
実力で注目されたのなら、それからも実力を示さなければならない。アナスタシアはまだ新人である。
その注目されている理由は『新人にしてはすごい実力』以上のものではない。まだ一過性のものでしかないのだ。
だが、一過性のものにするわけにはいかない。注目されている今のうちに、『アナスタシア』というアイドルの存在を示す必要がある。
だからこそ、ライブバトルだった。今、ライブバトルは非常に注目されているイベントである。
悪趣味だと言う者も居るが、それ以上に大衆は『勝負』を欲している。『はっきりと優劣がわかる』ということは人間にとっても気持ちのいいことなのだろう。
『スポーツの試合』や……そうだな、例えるなら『フィギュアスケートの大会』。ああいったものに近い。
ああいったものの人気を考えると、ライブバトルの注目も不思議なことではないだろう。
そしてそのライブバトルがどれほど注目されているか。それは『全国ネットで中継されることもあるほど』である。
最近、全国ネットで中継されるほどの高ランクのアイドル同士で行われたライブバトルでは『渋谷凛』と『本田未央』によるものが記憶に新しいだろうか。
同じ事務所に所属するアイドル同士だからと言ってライブバトルが行われないというわけではない。
他の事務所のアイドルと行うことも多いが、同じ事務所のアイドル同士でのライブバトルも決して珍しいことではない。
実際、渋谷さんと本田さんのライブバトルだけでもこれで三回目くらいだったはずだ。他にもアイドルは大勢存在することを考えればその頻度もまたある程度は予想できるだろう。
まあ、そのような話はまだ先のことだろう。今はアナスタシアのことについて話そう。
九月に入ってからのアナスタシアのライブバトルのスケジュール。それもまた過密なスケジュールだった。
現在、アナスタシアと同ランク帯のアイドルでアナスタシアに敵うような実力を持っているアイドルはほとんどいない。
それだからライブバトルに応じてくれるようなアイドルも少ない……かと言えば、そんなこともない。アナスタシアは現在注目されているアイドルである。
その注目されているアイドルとライブバトルをすれば自分もその恩恵を受けることができるし、そもそも、自分よりも上の実力を備えたアイドルとライブバトルをすることは確実に良い経験になる。
だから、多くのアイドルがアナスタシアのライブバトルを受けてくれたし、挑んでくれた。
そうして行われた数々のライブバトル。そのすべてにおいてアナスタシアはサマーライブの時とは比べ物にならないほどのパフォーマンスを見せた。
相手のアイドルも(単純な実力だけで言えば劣っているということはわかっていたとしても)最初から負けるつもりでライブバトルをするわけはなく、全員が全員、本気で『勝つ』気で向かってきてくれていた。全力でやってくれた。
そのことは確実にアナスタシアにとって良い影響をもたらしてくれた。良い経験になった。
もちろんアナスタシアも一度足りとも手を抜いたことはないだろうし、そもそも、ファンの目もあるような場所で手を抜くことなんて許されない。
会場まで足を運んで来てくれたファンに、最高のステージを届けるために……。
七月、八月のお渡し会。あれ以降、アナスタシアは変わった。ファンへの向き合い方も、ステージへの向き合い方も――アイドルへの向き合い方も。
どれだけレッスンを積んでも、それだけでは身につかないものが確かにある。私はそう考えていた。それは『気持ち』……心である。
気持ちさえ強ければ最高のパフォーマンスができる……なんて、そこまでの綺麗事を言うつもりはない。
しかし、それでも、『気持ち』がパフォーマンスに影響を与えていることは事実だ。
……『その時の精神状態がパフォーマンスに影響を与える』と言えば当然のことだが、それとはまた違う意味でも私は『気持ち』が重要だと思っていた。
それを言葉にするとなると難しいが……気持ちは届くと信じているから、なんて言うとクサいだろうか。
だが、私はそう信じている。
そういった日々の中、いつの間にかアナスタシアの誕生日も過ぎてしまった。
誕生日にはちょっとしたパーティーが開催されたが、私は参加できなかった。どうしても外せない仕事があったのである。
その日、私がアナスタシアと会うことができたのはパーティーが終わってからのことだった。
私は申し訳ないと謝ったが、アナスタシアは笑って許してくれた。「でもその代わり、プレゼントが欲しい、ですね?」彼女は言った。
プレゼント自体は用意していたからすぐに渡すことができた。だが、それに対してアナスタシアは「これだけ、ですか?」なんてことを言った。
プレゼントを渡されて『これだけ』なんてアナスタシアらしからぬ言葉だったので、私はやはりアナスタシアが怒っているのではないかと思った。
しかしそうではなかった。
「アイドルとしてのプレゼントは、ありませんか?」
そう言われてようやく私は彼女の言っていることの意味を理解した。私は今日とってきたばかりの仕事と、とある曲について話して、その曲のCDを渡した。
アナスタシアの新しい曲というわけではない。あるアイドルのCDだった。
アナスタシアが今までライブバトルで歌ってきた曲は彼女の持ち曲『You're stars shine on me』だけである。
どれだけ良い曲であっても、毎週のようにやっているライブバトルでこの曲だけ、というのは少しさびしいし、毎回のように来てくれている観客たちも飽きてくるかもしれない。
そう考えた私はアナスタシアがライブバトルで歌うことができるよう、ある曲について交渉した。結果としてそれは受け入れられた。
誕生日にまで新しい仕事と新しく歌う曲の話とは、と思うことがないわけではなかったが、私とアナスタシアの関係を考えれば、これこそが最も良いプレゼントだったのかもしれない。
「スパシーバ、プロデューサー」アナスタシアは言った。「私、頑張りますね」
それからすぐにその曲をライブバトルで披露することができるかと言えばもちろんそんなことはない。少なくとも九月中は『You're stars shine on me』だけのつもりだったし、実際そうした。
そして、今日。
「今回の相手はすごかったな。何と言うか、面白かった。やっぱりああいうステージはああいうステージで面白いな」
ライブバトルを終えた私たちは会場から出て帰るところだった。空は既に暗く、しかし、星はほとんど見えない。
見える星もあるにはあるが……今、この空に見えている星はなんという名前なのだろう。アナスタシアに聞けばわかるだろうか。
そんなことを考えたが、しかし、それを口にしようとは思わなかった。私はライブバトルの話を続けることを決めた。
「ダー。あんなステージもあるんですね。勉強になりました。私も、いつか、あんなステージを……?」
「それは今のところはないから安心してくれ」
「……そうですか。少し、残念です」
「やりたかったのか」
私は笑いながら言った。アナスタシアは「何事も経験、ですね?」と微笑んだ。
「まあ、いつかはそういうのをやってもいいかもな」
「本当ですか!?」
私の冗談混じりの言葉に、アナスタシアは思ったよりもずっと嬉しそうな声で応えた。
アナスタシアも冗談半分だと思っていたのだが……そんなにああいったステージがやりたいのだろうか。
ああいったステージは信念があるからこそ輝くものだし、並大抵の人間ができることではない。
それを考えると、今日の相手だった彼女はいずれものすごいアイドルになるようにも思えるが……だからこそ、アナスタシアがやろうと思って簡単にできることではないだろう。
アナスタシアのことだから、やるとなれば本気で頑張りそうではあるが……。
しかしアナスタシアがここまで嬉しそうに言っていた理由はそういう意味ではなかった。アナスタシアは言った。
「あんな風に、ファンを楽しませることも大事、ですね? そうしたら、きっと、もっともっと……」
アナスタシアは胸の前でぎゅっと拳を握った。それはまるで、かたちのない何かを大切に握りしめるようで……その何かを私は既に知っていた。
その時、私の胸の奥でちくりと何かが痛んだ。
それが何かはわからなかったが、今はそんなことを気にかけている場合ではないと思った。
だから、私はそれを無視した。気付かないフリをすることにした。
それから私たちはレッスンのことやライブバトルのことを話しながら事務所に戻った。
アナスタシアは女子寮にまっすぐ帰らせてもよかったが、今日は事務所に寄りたい気分だったらしい。
私たちは一緒に事務所の中に入った。
加蓮がいた。
「久しぶり、Pさん、アーニャちゃん。今日もライブバトルだったんだっけ。お疲れ様。最近、アーニャちゃんはよくライブバトルをやっているよね。実力もかなり付いてきてるし……そう思ったから、今日はちょっとした提案をしに来たの」
加蓮は言った。
「ねぇ、アーニャちゃん。私とライブバトルしてみない?」
*
加蓮とのライブバトルが決まった。
開催日は一ヶ月後。全国ネットで放送される。
加蓮と話した三日後にはこのことが発表され、それは大きな注目を集めた。
北条加蓮――彼女は現在、トップアイドルと言ってもいいほどのアイドルである。
そんな彼女と、最近になって突如現れた新星――アナスタシア。彼女たちのライブバトルが注目されないはずもない。
実力を考えれば誰もが加蓮の圧勝と見られていた。
いくら新人らしからぬステージを見せるアイドルとは言っても、それはあくまで『新人としては』ということだ。
『トップアイドル』クラスのアイドルと競うことができるほどではない。
しかし、それはサマーライブでのアナスタシアだけを知っているものの評価だった。
お渡し会や今までのライブバトルを見てきた人々の中には『今の実力なら、もしかしたら』と言うような意見もいくつか見られた。
この短い期間でこれだけ成長したのだ。もしかしたら――そんな意見も決して少なくはなかった。
この意見にはもちろん『そうなれば面白い』といった期待も多く込められていると思われる。
もし新人アイドルがトップアイドルクラスのアイドルに勝つようなことがあったならば……それは非常に面白いことだろう。確実に話題になる。
『アナスタシアが勝つ可能性もある』と主張する意見は、ほとんどがそういった期待によるものだろう。
……私はどう思っているか?
そんなの、決まっているだろう。
そんな簡単に『トップアイドル』クラスのアイドルに勝てたら苦労しない。
十中八九、アナスタシアは負ける。
私はそう思っていた。
それなのにどうして加蓮とのライブバトルを受けたのか。それは確実にアナスタシアにとっても大きなメリットとなるからだ。
『トップアイドル』クラスのアイドルとライブバトルができる機会なんてめったにあるものではないし、『全国ネットで中継される』ということは、やはり大きい。
今のアナスタシアのパフォーマンスは、さすがに『トップアイドル』クラスのアイドルと比べれば見劣りするが、それでも相当のものである。
アナスタシアの実力をできるだけ多くの人に示すために、こういった場はこれ以上ないほどに理想的だ。
だから、もちろん全力で挑む。それは変わらない。
ただ、事実として、勝つことはできないだろうということだ。
それが現実だ。
何も特別なことはない、当然過ぎる、ただの現実。
……この時の私は、本気でそう思っていた。
そう思ってしまっていた。
――あの時までは。
*
私は事務所の廊下を歩いていた。
加蓮とのライブバトルに備えてルキちゃんと話し合い、そこで決めたレッスン内容についてアナスタシアへ話しに行くためだった。
どうしてかルキちゃんは今回のレッスン内容には不服そうだったが、私はその理由を『無謀だから』だと思い、
「ルキちゃん。心配しなくても、アナスタシアが加蓮に勝てないだろうってことはわかってるよ。でも、それでも今回のライブバトルには確実に大きなメリットがあるんだ」
と言った。しかしそう言うとルキちゃんはむしろさらに不満そうに、何なら怒っているとも思われるような調子で、「……だから、嫌なんですよ」と言った。
何が『だから』なのか私にはわからなかったが、そんなこともあるだろう。そう思って私の方からそれ以上は追及しないことにした。
いつもならレッスン内容を伝えるのはルキちゃんがひとりでするか、もしくは私とルキちゃんの二人でするか、ということが多かったのだが、今回は「Pさんがひとりで伝えて下さい」と言われたのでそうすることにした。
その理由は聞いても答えてくれないような気がしたので聞かないことにした。
今の時間、予定通りならアナスタシアはレッスン室にいるはずだ。私やルキちゃんが居なくてもできるレッスンは多い。とりあえずは基礎トレーニングをしているはずだ。
そろそろレッスン室に到着する。CGプロは大きな事務所である。レッスン室も一つではない。
今から向かうのは第二レッスン室だが、普段仕事をしているような部屋からそこまで行くにはそこそこの時間を要する。
いや、まあ、近過ぎたら確実に通常の業務に支障をきたすだろうからこれでいいとも思うのだが……。
そしてアナスタシアがいると思われるレッスン室の前まで到着した、その時だった。
「アーニャンは、今のままでいいの!?」
前川さんの訴えるような声が聞こえた。その声に私は思わず固まってしまった。
前川さんがアナスタシアにそんな声を出すなんてことは私にとっては非常に衝撃的なことであり、咄嗟に行動することができなかったのだ。
そうしている内に私は入っていく機会を失ってしまった。アナスタシアは応える。
「何が、ですか?」
声を聞く限り、アナスタシアは本当に何のことかわかっていないようだ。ということは、喧嘩ではないのだろうか。
だが、それならどうして……私がそれについて考える前に、前川さんは答えた。
「……アイドル活動のこと、だよ」
「アイドル活動、ですか」
アナスタシアは不思議そうに言う。
私も不思議だった。どうしていきなりそんなことを?
アナスタシアも同じ疑問を抱いたようで、その疑問をそのまま前川さんにぶつける。
「……みくはどうして、そんなことを聞きますか? 私、楽しくなさそうに見えましたか?」
「それは……ううん、そんなことはないよ。アーニャンは楽しそうに……前よりも楽しそうにすら、見えるけど」
前川さんは言う。自分の気持ちを伝えるために懸命に言葉を探しているような言い方で、アナスタシアはそんな彼女の言葉を急かすことなく待っている。
「でも……でもね、バラエティ番組とかには出ないし、みくたちと一緒に仕事をすることも、ほとんどないし。アーニャンはこんなに……こんなに、かわいくて、良い子なのに、みんなはアーニャンをミステリアスで、かっこいい、美人さんって……それは正しいけど、それだけじゃ、ないのに」
……それは私がアナスタシアというアイドルに定めた方針だ。
アナスタシアの人柄を知っているのはアナスタシアと実際に接したことのある者だけだ。
業界人ではない、一般の人たちの中でアナスタシアの人柄を知っているのはインストア・イベントなどに来てくれるようなファンくらいのものだろう。
前川さんは続ける。
「アーニャンが活動しているのは、ライブバトルとか、インタビューとか、そんなのばっかりで……まるで効率だけを求めているみたいに見えて、それが、なんだか……」
前川さんは言葉を濁す。……その先にある言葉は、なんとなくわかる。
「しかも、加蓮チャンとのライブバトル、なんて……そんなの、おかしいよ。アーニャンは確かにすごいよ? でも、それでも加蓮チャンには勝てないよ。そんなライブバトルを受けるなんて……新人チャンは、おかしいよ。加蓮チャンとライブバトルをする時のメリットだけを考えて、アーニャンのことを、何も、考えていないみたいで……」
そして、前川さんは言う。
「……新人チャンは、まるで、アーニャンを『トップアイドル』にするための道具だと思っているみたいだよ」
……その言葉は。
その言葉を受けて、私は、反論できる言葉が思い浮かばなかった。
私が効率だけを求めている……その通りかもしれない、と思う。
私はアナスタシアをトップアイドルにすることしか考えていなかった。そのための最短の道だけを考えてきていた。
……そこに『アナスタシアの気持ち』を考慮していたかどうかは、わからない。
私はアナスタシアを『道具』だと思っていたのだろうか。
アナスタシアを自分の理想を叶えるための道具だと……自分の考える『トップアイドル』という『偶像』をつくるための『道具』だと、そう思っていたのだろうか。
……そうかもしれない。
もしかしたら、そうだったのかもしれない。
アナスタシアと初めて会った時に見た『夢』――あの『夢』を現実のものとするためだけに、私は今までアナスタシアをプロデュースしてきた。アナスタシアのことを大切に思っていたつもりだった。
だが、それは本当に『アナスタシアのため』なのか?
『アナスタシア』という少女のことを考えていたのか?
『アナスタシア』という自分勝手な理想を押し付けた『アイドル』のことだけしか考えていなかったのではないか?
前川さんの言葉を聞いて、私は一気にそんなことを考え始めた。……いや、違う。ずっと前から、気付いていた。
『バラエティに出さない』というのも自分勝手な方針だ。アナスタシアが出たがっていることをわかっていたのに出さなかったのは私だ。
『変なイメージが付くと困る』から? それは私のわがままだろう。
アナスタシアという少女が自分の理想から外れることを許さなかっただけだ。
自分の考える『アイドル』の理想像から外れることを許さなかっただけなのだ。
私にとって、アナスタシアは理想だった。だが、それはただの勘違いだった。私は、ただ、押し付けていただけだ。
ただの一六歳の少女に、自分の理想を押し付けて、それを彼女も望んでいると勝手に思い込んでいた、救えない存在――それが、私だ。
そう認識した瞬間、私は強い吐き気を覚えた。自分自身がどうしても許せなかった。
自己嫌悪なんてしても、私が今までアナスタシアに強制してきたことは何も変わらないのに、自分勝手にも、自分の今までの行動に吐き気なんて覚えていたのだ。
今までそうしてきたのなら割り切ればいい。それがアナスタシアへのせめてもの誠意だろう。
それなのに、『自分の今までの行動は間違いだった』なんて考えて、自分のことを責めて……そんなの、勝手過ぎる。
そんなのは、ただの、自己満足だ。アナスタシアに対して、失礼過ぎる。
ふと、自分が持っている紙の束が目に入った。……こんなもの。私は思う。
ようやく、ルキちゃんが怒っていた理由がわかった。ルキちゃんが不機嫌そうにしていた理由がわかった。
……私はどこまで愚かなんだ。あれだけわかりやすく教えてくれていたのに、それなのに……。
……このレッスンの計画は白紙だ。加蓮とのライブバトルも、もう、白紙にした方がいいだろう。
そう思って、私が踵を返そうとした、その時だった。
「……みくは、優しいですね」
アナスタシアが言った。
「でも、大丈夫です。私は、プロデューサーを信じているから」
私は踵を返そうとしたその足を止めた。いや、違う。動けなかった。アナスタシアの言葉に、止められた。
「トップアイドルは……みくの言う通り、最初は、あの人のメチタ……夢、だったかもしれません。私の夢じゃない、あの人がくれた夢……でも、今は違いますね」
優しげな声で、大切なものを抱く時のような声で、彼女は言う。
「始まりは、あの人の言葉です。でも、決めたのは、私です。アイドルは、ファンのみんなの、ナジェージダ……希望、ですね? そのためなら、私はどんなレッスンも、お仕事もします」
アナスタシアは……私の担当アイドルは、続ける。
「みくも、言っていましたね? アイドルには、辛くて苦しいこともあるって……プロデューサーも、言っていました。辛く苦しい道を歩むことになるかもしれない。でも、それでも……その先にあるもののために、私たちは、頑張っている。……みくも、そうですね?」
アナスタシアは言う。
「だから、私は大丈夫です。カレンとのライブバトルも……難しいことは、わかっています。でも、トップアイドルになるためなら、いつかは超えなければいけない相手、ですね? それなら、私は超えてみせます。それが、私とプロデューサーの、メチタ……夢、だから。プロデューサーと、私となら、できるって……そう、信じているから」
……その言葉に。
もう一度、私は自分自身にバカかと言った。
自分はアナスタシアに理想を押し付けている? 彼女にやりたくもないだろうことを強制してきた?
それこそ、彼女をバカにしている思いだろう。
アナスタシアが自分と同じことを望んでいる……そう、思い込んでいた?
違う。それは『思い込んでいた』のではない。『信じていた』と言うべきだ。
アナスタシアは私のことを信じてくれていた。
私の夢を、信じてくれていたのだ。
……信じていなかったのは、私の方だ。
信じ切れていなかったのは、私の方だ。
アナスタシアは私の道具なんかじゃない。アナスタシアも、そんなことは思っていない。
最初は私が強制したことだったかもしれない。アナスタシア自身の意志ではなかったのかもしれない。
でも、それは最初だけだ。アナスタシアはそんな弱い少女ではない。アナスタシアは、自分の意志で――自分自身で、決めたのだ。
今までも、それはわかっているつもりだった。でも、それは『つもり』でしかなかった。私はアナスタシアのことを信じ切れていなかった。
前川さんの言葉で簡単に揺らぐ程度しか、アナスタシアも自分と同じ思いを抱いていると――私の言葉に仕方なく従っているわけではないと思うことができていなかった。
だが、今――アナスタシアの言葉を直接聞いて、ようやく、私は信じることができた。
ここまでされるまで信じられないなんて……自分でもそう思う。私は、ここまでされなければ、信じることができなかった。その程度の人間だ。
でも、今はそんなことを思い悩んでいる時間はない。
しなければいけないことが、できたから。
「……そっか」
そう思った私がルキちゃんのところに戻ろうとした時、前川さんの声が聞こえた。私は足を止めた。
前川さんは言う。
「アーニャンがそう言うなら、そうなんだね。……どうやら、余計なお世話だったみたいだにゃ」
その言葉を言った前川さんの様子は先程までとはまったく違うものだった。優しげな笑みが混じった、優しい声音……。それに対してアナスタシアは「ダー」と笑い、「でも、心配してくれてありがとうございます」と言った。
「……アーニャンは本当に良い子だね」前川さんはそう言って、「だから、ついつい心配になっちゃうのかも」
「みくにはデビュー前からお世話になっていますからね。それもあって、かもしれません」
「あ、それはそうかも。みくにとってアーニャンはかわいい妹みたいな存在にゃ」
「つまり、みくお姉ちゃん、ですか?」
「んっ! ……そ、それ、ちょっと破壊力ありすぎにゃ」
「破壊力?」
「あー……つまり、かわいすぎる、っていうことかな」
「そう、ですか……私、みくお姉ちゃんのこと、大好きです」
「ふにゃっ!? ま、まさかアーニャンがこんなにあざとい技を使ってくるなんて……」
「ふふっ……私はみくに色々なこと、教えてもらいました。これも、その一つです」
「ふっ、成長したね、アーニャン……もう、みくがアーニャンに教えることは何もない、にゃ……」
……いったい何の漫才をしているんだ。そう思いながらも、私は自分の顔に浮かぶ笑みを抑えようとも思わなかった。
これなら、もう何の心配もないだろう。私はレッスン室を背にして歩き始めた。
今、するべきことは先程立てたばかりのレッスンプランの変更。『北条加蓮に勝つため』のレッスンプランを立てること、だ。
加蓮に勝つことは難しい。単純に実力からしてアナスタシアは劣っている。それは事実だ。アナスタシアを信じるとか信じないとかそんなレベルで語るべき話ではない。重要なことは『その上で』どうするべきか、ということだ。
そのための『策』だ。
そのために『プロデューサー』は存在している。
私はプロデューサーとしての経験はあまりない。実力も大したものではないだろう。しかし、それでも、相手が『北条加蓮』なら別だ。
一年前、私は彼女のプロデューサーだった。彼女にいちばん近い場所で、ずっと、彼女のことを見続けてきたのだ。
加蓮のことなら、私は他のプロデューサーよりも知っている。
加蓮に限って言えば、私は他のどんなプロデューサーよりも知っているという自信がある。
それでも、アナスタシアが勝つことは難しいだろう。それはわかっている。私にできることは少しでも勝つ確率を上げることだけ。『勝てる可能性』を上げることだけだ。
そして、その後は――アナスタシアを、信じるだけだ。
……さて、まずはルキちゃんに謝ろう。
謝って、それから、付き合ってもらおう。
北条加蓮に勝つための、レッスンプランの組み立てを。
*
それから一ヶ月。
「逃げなかったんだね、Pさん、アーニャちゃん」
ライブバトル当日。
ライブバトルが行われる会場の前で、加蓮は言った。
「逃げるわけがないだろ、加蓮。……僕たちは、必ず、君を倒す」
「私を倒す? ……ふふっ。それは無理だよ、Pさん。この一ヶ月で、どれだけ実力を伸ばしたのかはわからないけど……それでも、私に勝てるわけがない」
余裕たっぷりに、加蓮は言った。自分の勝利を確信している。……まあ、それはそうだろう。加蓮の立場からしてみれば、そう思うのは当然だ。
だが。
「……カレン。ここで話していても、何も、わかりません」
アナスタシアは言った。
「証拠は、ステージで見せます。だから……」
「……そうだね、アーニャちゃん。ここで話していても、平行線、か」
加蓮は微笑み、そして、私たちに背を向けた。
「それじゃあ、行こうか。私たちの、戦場に」
第八話「敗北」
北条加蓮は病弱な少女だった。
小さい頃から入退院を繰り返し、学校は休みがち。同世代の友人なんていなかった。
その頃の彼女にとって、世界とは灰色の病室とテレビの中のきらきらした世界だけだった。
だから、彼女はテレビの中の世界に憧れた。
自分のいる場所とは違う、きらきらした世界。笑顔がたくさんで、希望に満ち溢れた世界。
その中でもいちばんにきらめく存在――アイドル。
歌って、踊って、見ている者たちを――彼女のことを、元気にしてくれた存在。
彼女にとっての希望の象徴。
だから、北条加蓮はアイドルに憧れた。
「お母さん、私、アイドルになりたい」
そんな彼女が自らの親にそんな希望を口にしたことはおかしいことではないだろう。
テレビの中のアイドルに対して目をきらめかせてそう言った彼女に、加蓮の母は一瞬だけ目を見開かせて、
「……そうね。加蓮ならきっと、アイドルになれるわ」
すぐにそう言って加蓮のことを抱きしめた。
「お母さん?」
どうして、いきなり抱きついてきたんだろう。
加蓮は思った。その理由に関してはわからなかったが、母がなんだか悲しんでいるらしいということはわかった。
だから、加蓮は安心してと言うように、母のことを抱きしめ返した。
加蓮の母は娘のその行動に何も言わず、何も言えず、ただ抱きしめる力を強めた。
そんなことがあって、しかし、翌日からも加蓮の世界には何の変化もなかった。
きらめく世界に憧れていた彼女の世界は、何も変わることがなかった。
最初はアイドルになるためにはどうすればいいんだろう、と色々考えた。
歌を練習しようとした。ダンスを練習しようとした。
でも、身体がそれを許さなかった。
元気になれば……そう思った。元気になれば、元気にさえ、なることができれば……。
彼女はなおも希望を捨てなかった。アイドルになることをあきらめなかった。
……最初は、そうすることができた。
一年経った。
彼女の世界は変わらなかった。
さらに一年経った。
彼女の世界は変わらなかった。
一年、また一年……また、一年。
病室の中、ただ漫然と流れていく日々。
彼女は、何もできなかった。
努力することも、挫折することも、成功することも。
努力する機会すら、彼女には与えられなかった。
ずっとずっと、変化のない日々。小さな箱に映ったきらめく世界の中だけが目まぐるしく変化していく。でも、彼女の世界は変わらない。
何もなかった。
何もなかったから、あきらめた。
手を伸ばすことすらせずに――手を伸ばすことすらできずに。
最初の一歩すら許されずに。
北条加蓮はアイドルになることをあきらめた。
彼女は、夢をあきらめた。
*
高校生になった頃、加蓮はもう入退院を繰り返すような少女ではなくなっていた。
他の人に比べて体力はなかったが、それくらい。病弱というほどではなかった。
小さい頃にはできなかったことをいっぱいした。髪を染めたり、ネイルをしたり。普通の女子高生らしいことをいっぱいした。
最初は『普通の女子高生らしいこと』をしようと形から入っていただけだったが、いつの間にか、加蓮は本心からそういったことを好むようになっていった。
メイクやオシャレといった趣味を楽しんでいると、同じくそういったものが好きな同世代の友人もできた。
昔の加蓮が思い描いていたような関係ではなく、なんとなく、一緒にいて楽しいから一緒にいるというような関係だったが、それでいいと思った。
表面上だけの関係だったとしても、表面上が楽しかったならそれでいい。
加蓮はそうやってすべてを割り切って考えられるようになっていた。彼女はそれを成長したと考えていた。
大人になったとまでは思わなかったが、夢や希望を信じる無垢な少女ではなくなった。そんな、愚かな存在ではなくなった。そう思っていた。
何にも期待せず、夢を抱かず、ただ、今を楽しめればいい……。
そんな風に、加蓮は日々を過ごしていた。
そして、いつも通りファストフード店で友人たちと喋っていたある日。
「――アイドル事務所のオーディション、だって。みんなで応募してみない?」
なんでもないように、友人の一人が言った。その言葉に加蓮だけが固まり、他の友人たちは「面白そう」と反応を示した。
それはいつも通りの、ちょっとした提案だった。ちょっと興味が出たから、ちょっとやってみないか。特別な思いも何もない、ただの提案。
みんな乗り気だった。加蓮以外の、みんなが。そんな中、加蓮だけが応募しないなんてことはできなかった。加蓮は『付き合い』というものを覚えてしまっていた。
結果として、加蓮は友人と一緒にアイドル事務所のオーディションに応募することになった。
「加蓮とか、めちゃくちゃかわいいし、本当にアイドルになったりしてね。その時はサイン、よろしくね♪」
加蓮の思いなんて知るはずもない友人たちはそんなことを言った。そこに悪意なんてほんの少しもなかったが、その期待は、加蓮の心に影を落とした。
「……なれるわけ、ないよ」
加蓮は答えた。そうだ、なれるわけがない。私が、アイドルなんて、絶対に……。
だが、加蓮は書類選考を通過した。
「加蓮、すごいじゃん! このまま、本当にアイドルになったりして……私たち、応援してるからね!」
「……うん」
友人の激励に、加蓮は力なく笑った。
「ありがとう」
しかし、加蓮はアイドルになるつもりなんてまったくなかった。
書類選考だけでアイドルになれるわけではなく、面接があった。
「どうしてこのオーディションに?」
面接官が言った。加蓮は答えた。
「友達と一緒に、ノリで」
「アイドルになって何がやりたい?」
「そもそもノリで応募しただけだから、特に何も?」
「君のアピールポイントは?」
「小さい頃から病院にひきこもっていたから体力はないし、努力とかもできるタイプじゃないかな。何もないし、する気がない。以上。これでいい?」
「最後にもう一つ。――君は、アイドルになりたいか?」
「なりたくてもなれない、かな」
「これで面接は終わりだ。ありがとう」
「どういたしまして」
はい、終わり。嘘を言ったつもりもないけど、わざわざ受かるつもりもない。今更アイドルに、なんて……そんなこと、ありえない。
加蓮はそう思っていた。しかし、数日後、加蓮の家に合格通知が届いた。……なんで、今更。もしその合格通知が誰にも見つかっていなかったのなら、加蓮はそれをすぐに破いたことだろう。そうならなかったのは、合格通知を見つけたのが加蓮ではなく、加蓮の母親だったからだった。
加蓮の母は驚いていた。加蓮は母にも言わずにあのオーディションを受けていたのだ。そもそも受かるなんて思ってなかったし、友達付き合いでやっていただけだし。
しかし、母親にバレた、というのが悪かった。加蓮の母は目に涙すら浮かべてよろこんでいた。加蓮のことを力いっぱい抱きしめて、良かったね、良かったね、なんて嬉し泣きするのだ。そんなことをされて、今更『アイドルにはならない』なんて言えるわけがない。
結果として、加蓮は事務所に行くことになった。アイドルになるつもり……は、なかった。母のこともあるから事務所には行く。でも、それだけ。どうせ、すぐに見限られる。そう思っていたから。
……そう、その時点では、そう思っていたのだ。
あの二人に、出会うまでは。
*
「……もう。いったい、なんなの?」
事務所。加蓮は苛立ちを隠すことなく、休憩スペースでジュースを飲みながらぼやいた。
苛立ちの原因。それは数十分前にさかのぼる
「俺が君のプロデューサーをすることになった」
事務所に来てまず通された部屋で、そこにいた男は開口一番にそう言った。
いきなりのことで、加蓮は理解が追いつかなかった。プロデューサー? 私の? 何の説明もなしに、いきなり……。
混乱する加蓮に、男は言った。
「……君は、自己紹介もできないのか?」
その言葉で、加蓮の中で何かが切れた。
「北条加蓮。やる気もないし、あんたにそこまで言われる筋合いもない。……これでいい?」
攻撃的な加蓮の言葉。しかし、男は顔色一つ変えず、
「そうか。だが、俺も仕事だ。君が何を言おうと勝手だが、今日はこの紙に書いてあるように動いてくれ」
淡々と告げて、加蓮に紙を渡そうとする。彼の物言いが、さらに加蓮の心を混ぜ返した。
「それって命令、ってこと?」
「べつに命令じゃない。が、今日は相手もいる。君の同期と先輩、それからトレーナーさんが来る。彼女たちとレッスンをすれば、あとは勝手にすればいい。君が彼女たちに迷惑をかけたいと言うのなら別だがな」
……そんなの。
加蓮は理解する。自分には、選択肢なんてない。もう行くしかないのだ。こんなの、命令と同じだ。いや、命令よりもなお悪い。そんな言い方、しなくたって……。
加蓮は男からひったくるように紙を奪い、部屋を出ようとした。そんな彼女の後ろ姿に彼は「しっかりやってくれ」と言葉をかけた。
苛立ちをそのまま足音に変えて、加蓮は廊下を早足で歩いた。頭はまったく冷えてこない。
どうしてあんな言われ方をしなくちゃいけないのか。我慢しなくちゃいけないのか。
そもそも、どうして合格なんてさせたのか。
……やっぱり、来なければよかった。加蓮は思う。気付くと、目の前には休憩スペースがあった。
加蓮は何も言わず、カバンから小銭入れを出す。
がこん。
微炭酸のジュースを一口。言葉が漏れる。
「……もう。いったい、なんなの?」
*
ジュースを飲んで少し頭を冷やしてから、加蓮はレッスン室に向かった。あの男の言うことはあまり聞きたくないが、他人に迷惑をかけたくもない。
「あ」
レッスン室の前に、一人の少女が立っていた。歳は……たぶん、同年代。結構なくせっ毛で、目つきはちょっとキツ目。でもかわいい。そんな感じの女の子。
加蓮の声に気付いたのか、その少女はこちらを向いた。「あ」彼女も同じように声を出した。加蓮と同じく、自分の担当プロデューサーから『同期がいる』とでも聞いていたのだろう。いや、もしかしたら、彼女は『先輩』なのかもしれないけれど。
「えっと……北条、加蓮です。今日、ここに入所……は、違うかな。所属? しました。あなたは?」
さっきあの男に言われたからではないが、とりあえず加蓮は自己紹介をしておくことにした。
「あ、あたしは、奈緒。神谷奈緒だ。……えっと、その、あたしも、今日からここに所属する……その、あ、アイ……アイドルだ。よろしく」
……かわいい。『神谷奈緒』と名乗る少女に対して加蓮が最初に抱いたのはそんな感想だった。
「こちらこそよろしく。……ねぇ。私のことは加蓮でいいから、あなたのことは奈緒って呼んでもいい?」
「あ、ああ。いいぞ」
「そう? ありがと♪ それじゃ、よろしく、奈緒」
「……よろしく、加蓮」
……この子、すごくからかいたくなるなぁ。加蓮は思う。というか、かわいがりたくなる? 神谷奈緒……神谷奈緒、か。なんだか、この子とは仲良くなれそうかも。
そんなことを思ってから、しかし、加蓮は奈緒もこの事務所に所属する『アイドル』になっているということを思い出した。
……短い期間かも、しれないけど。
*
それから二人でレッスン室に入ったが、まだ『先輩』と『トレーナー』は来ていないようだった。よってその二人が来るまでの間、加蓮と奈緒は適当に話しておくことにした。
加蓮は自分がこの事務所に所属することになった経緯を適当に話した。加蓮が話すと、奈緒も同じくこれまでのことを話してくれた。
加蓮と違い、奈緒はスカウトされてアイドルになったようだった。一人のプロデューサーにスカウトされて……それでそのままこの事務所に、ということらしい。
「あたしがアイドルなんて、そんなのありえないー、って思ったんだけどさ。……あいつ、しつこくてさ」
そう言って苦笑する奈緒の顔には、色んな感情が混ざって見えた。嬉しさや、不安……そういった、色々なものが。……奈緒も奈緒で、色々あるのかな。そう思いながらも加蓮はそのことを口には出さず、別のことを口にした。
「へぇ……でも、そのプロデューサーは有能だね」
「は? なんでだよ」加蓮の言葉に奈緒は不思議そうに言った。「あたしに声をかけたんだぞ? むしろ、見る目がないと思うぞ?」
「だからだよ」加蓮は笑う。「奈緒に声をかけたから、有能なんだよ。だって、奈緒、こんなにかわいいんだもん」
「……はぁ!?」
一拍遅れて、奈緒は顔を真っ赤にして声を上げた。
「あ、あたしが、かわいいって……そ、そんなこと言っても、何も出さないぞ!? ま、まさか、加蓮、お前、プロデューサーが仕掛けたドッキリの仕掛け人か何かじゃ――」
「ちょっとちょっと、どうしてそこまで考えるの? 私の言葉、そこまで信用できないかなー。あー、私、傷付いちゃったなー」
「それ絶対に傷付いてない奴の台詞だろ!」
奈緒の言葉に、加蓮は笑う。「あはっ。奈緒、面白いね」
「お前のせいだよ!」
その突っ込みに、加蓮は「ごめんごめん」と笑い混じりに謝る。
「でも、私が初対面からこんなに親しげって貴重だよ? 奈緒にはこの貴重な体験をもっと噛みしめてほしいなぁ」
「貴重かどうかは知らないし、貴重だとしてもこんな体験はいらないっての……」
そうやって奈緒が溜息を吐いた、その時だった。
ガチャリ、とレッスン室のドアが開いて、二人の女性が姿を現した。
一人は大人の女性。トレーナーにしては美人だけど……どちらか一人がトレーナーだと言うのなら、たぶん、こっちがトレーナーさん。
だって、もう一人は、明らかに――
「こんにちは。私は渋谷凛。今日はよろしく」
――『アイドル』だったから。
*
最初に目に入るのは美しい黒髪。
すらりとしたスタイルに、凛とした佇まい。
そして何より、彼女自身の持つ意志の強さを感じさせる、まっすぐな瞳。
それが渋谷凛。加蓮と奈緒の目の前に現れた『アイドル』の名前だった。
「それで、トレーナーさん。これからどうするの?」
軽いストレッチをしながら凛は言った。それを見て慌てて奈緒もストレッチを始め、それならと加蓮もしぶしぶストレッチを始めた。
「今日は……とりあえず、簡単なステップから、かな」
トレーナーは言って、凛を見た。
「凛ちゃん。見本、見せてくれる?」
「わかった」
そう言って凛は加蓮と奈緒の前に立った――直後。
「……こんなの」
無理だよ。その言葉は出なかった。
しかし、加蓮の目から見て、その動きが自分にもできるとは到底思えなかった。
ステップ自体はそれほど難しいものではなかった。ある程度運動神経が良い者なら、少し練習すればできるようなもの。そのはずだった。
それなのに、加蓮は渋谷凛のステップに魅せられた。
そして、それこそが『アイドル』なのだと思い知らされた。
「――っと、これくらいでいいかな?」
「はい。ありがとう、凛ちゃん」
凛の言葉にトレーナーは言い、そのまま奈緒と加蓮を見た。
「それじゃあ、今の凛ちゃんのステップを、できる範囲でやってもらってもいいかな」
……そんなことを、言われても。
加蓮は既にやる気がなくなっていた。今のを見て『覚える』くらいならできた。だが、それだけだ。自分の身体がそれに付いて行くイメージができない。自分があのステップを踊れるイメージがどうしても像を結ばない。凛のように踊れるとは思えない。
「……わ、わかった」
隣からそんな声が聞こえた。奈緒? 加蓮は驚いて隣に立つ恥ずかしがり屋の少女を見る。自分に自信のない、かわいい女の子……そう思っていたのに。
瞬間、加蓮は自己嫌悪に陥った。……『そう思っていたのに』? だから私は奈緒と仲良くできると思ったの? 自分と同じだからって……勝手に、仲間だとでも思っていたの? 私と同じ、なんて……そんなの、そんなの……!
「……加蓮は?」
凛が言った。彼女はそのまっすぐな目で加蓮を見ている。……そんな目で、見ないでよ。そんなまっすぐな目で、見ないでよ――
「私も、わかった」
いつの間にか、加蓮の口が動いていた。その目を見返すために……ではない。これは、ただ、逃げただけ……。
「じゃあ、リズムはとるから、それに合わせて……いきますよ?」
トレーナーの合図に合わせて、奈緒と加蓮は踊り始めた。奈緒のステップは明らかに雑で、どちらかと言えば、加蓮のステップの方が完成度は高かった。
そして二人が一通り踊った後、凛が口を開いた。
「ねぇ、加蓮」
その言葉に、加蓮は凛の方に顔を向けた。
凛のまっすぐな視線が加蓮を射抜いた。
「――ふざけてるの?」
その言葉は怒気を孕んでいた。隠そうともしていない、まっすぐな感情。加蓮はそれを真正面から受けてしまった。
「……どういう意味?」
しかし、加蓮は折れなかった。折れたくなかった。だから、加蓮もまた、凛をまっすぐに見返した。睨み返した、と言ってもいいかもしれない。
「そのままの意味だよ」
加蓮の視線を受けて、凛は平然と言った。
「やる気も意志も、何もない。本気なんてほんの少しも出していない。……それが『ふざけてる』以外の何だって言うの?」
凛の言葉はすべて事実だった。正しかった。加蓮もそのくらいわかっていた。彼女は……凛は、プロなんだ。彼女は既に『アイドル』なんだ。そんな彼女からしてみれば、今の加蓮は自分の仕事を『バカにしている』ような存在に見えるだろう。それはわかっていた。
だが。
「……だとしたら、何なの?」
加蓮は言った。
「凛の言う通り、私はやる気がないよ。本気なんて出していない。でも、だから何? こんなことに本気を出して、何になるって言うの? そもそも、私はアイドルなんてやりたくない。私がここにいるのは私の意志じゃない。だから――」
そこまで言って、加蓮は言葉を止めた。凛の視線に――凛と奈緒の視線に、気付いたから。
「……そう」
凛は言った。その目にはもう先程までの熱がなかった。
「それなら、もう、どうでもいい」
その目にはもう『北条加蓮』なんて映っていなかった。
「――加蓮。あなたが本気を出さなくても、やる気がなくても、どうでもいいよ。勝手にすればいい。勝手に、そこにいればいい」
その目に、映っていたのは――
「私は走り続ける。それだけだから。……だから、邪魔をしないで。私の走る、邪魔をしないで」
……やっぱり、そうなんだ。
「……わかった。それじゃあ、私、もう帰るよ」
加蓮は凛や奈緒から背を向けて言った。
「加蓮……」
引き止めるような奈緒の声が聞こえた。だけど、聞こえないふりをした。
「今日はごめんね。……さよなら」
そう言って、加蓮はレッスン室から出て行った。凛は何も言わなかったし、奈緒は何も言えなかった。
「えっと……それじゃあ、レッスン、再開しましょうか」
この中で一人『大人』であるトレーナーだけが、口を開くことができた。
……この中でいちばん困っているのもまた、実は彼女だったのだが。
*
それから数日が経った。
加蓮は事務所に行っていなかった。さすがにこのまま何も言わないで辞めるというのはダメだということはわかっていた。だから一度は行かなければならないと思っていたが、なかなか自分で行こうという気にはならなかった。そんな勇気は出なかった。
その日も同じだった。土曜日の朝、加蓮は母親に起こされた。
「今日は休みなんだから、寝かせてよー……」
加蓮がそう言うと、母は言った。
「加蓮にお客さんよ」
「……客?」
誰だろう。加蓮には思い当たる人が……いや、ないことはなかった。加蓮は一応CGプロに所属するアイドルになっている。そのアイドルに数日間連絡がつかない……そう考えれば、誰か来てもおかしくはない。
面倒くさいなぁ……怒られたりするのかな。もう、ここでアイドルを辞めるって言っちゃおうかな。
加蓮がそう思っていた時だった。
「そう! えっと……神谷奈緒ちゃん、って言う子!」
「……え?」
思わず、加蓮の口から気の抜けた声が出た。
……さすがに、それは予想外だった。
*
『加蓮の友人』。
それを聞いた加蓮の母はよろこんで奈緒を家の中に招いた。加蓮の母の質問攻めとおもてなし攻めに動揺しているようだったので、加蓮は奈緒を自分の部屋に入れて、「お母さんは絶対入ってこないでよね!」と言って鍵を閉めた。加蓮はふぅと溜息を吐いた。
「なんか、すごいお母さんだな」奈緒は苦笑して言った。「でも、うん、良いお母さんって感じ」
「……良いお母さん、ね」
確かに、それはそうだと思う。もちろん恥ずかしいから口にはしないけど。
「それで、奈緒。今日はどうしたの?」
――私を、怒りに来たの? それとも、慰めにでも来たの?
そういった言葉は口に出さず、加蓮は尋ねた。あんな別れ方をした後だ。あんなことを言った後だ。奈緒は、きっと、私のことを……。
「ああ。ちょっと、チケットをもらってな」
しかし、奈緒は平然と言って、チケットを二枚取り出した。
「凛のライブだ。そこまで大きい会場じゃないけど……加蓮、一緒に行かないか?」
――凛。
その名前を聞いた瞬間、加蓮は苦い顔をした。……彼女には、正直、引け目がある。あの時の口論は明らかに自分が悪い。自分の言ったことを曲げるつもりはないけれど、いつかは彼女に謝らなければいけないだろう。……でも、やっぱり、あんなことを言った後では会いにくい。
とは言っても、これが良い機会であることは間違いない。今を逃せば、自分のことだ、もう二度と会うことはないかもしれない。自分のことなら自分がいちばんわかっている。そう考えると……。
「……うん。行こっか」
加蓮は言った。
「行くよ。私も」
*
加蓮の母は「もっとゆっくりすればいいのに……」と言って加蓮と奈緒を引き留めようとしていたが、ライブが始まる時間もあることを伝えると折れてくれた。
実際のところ、時間にはまだまだ余裕があったが、加蓮の方が耐えられなかったのだ。……自分の親が自分の友人と話している、というのがここまで恥ずかしいことだとは知らなかった。
そして加蓮たちは今日ライブが行われる会場に到着した。と言っても、時間はまだまだある。どうしよっか、という話になった。
そんな時だった。
「ん? 君たちは……」
一人の見知らぬ男性が加蓮たちを見て言った。加蓮は一瞬身構えたが、奈緒は違った。彼女は言った。
「あ……凛の、プロデューサー」
凛の、プロデューサー? それを聞いた加蓮は彼を見た。……この人が?
「あー……そうだな。せっかくだから、中に入ってくれ。案内するよ」
中に……って、つまり、いきなり、凛と……?
いきなり過ぎてまだ覚悟ができていない。もうちょっと覚悟を決める時間がほしかった。いや、でも、これを断る理由も……。
「……わかりました」
肩を落として、加蓮は言った。
凛のプロデューサーと奈緒はそんな加蓮の様子に首を傾げた。
*
「……ここが」
ライブ会場の裏側。初めて見るそこは思っていたよりも汚かった。華やかな場所の裏側は汚い、ということだろうか。
この会場がたまたま『そう』だっただけなのかもしれないけれど。
加蓮たちは控室に向かっていた。そこには凛が待っている、らしい。
凛のプロデューサーはもとから加蓮たちと凛を会わせるつもりだったようだ。先程彼が会場の外にいたのはそれとはまた別の用事だったようだが、どちらにしろ会わせるのだから、ということで今に至る。
「北条さん、神谷さん、今日は来てくれてありがとう。凛もきっとよろこぶよ」
先導する凛のプロデューサーは言った。そもそも、奈緒に凛のライブのチケットを渡したのは彼らしい。
奈緒に渡せばきっと加蓮を誘うだろう。そう予測してのことだったようだが……実際そうなっているのだから、やはりこのプロデューサーも見た目通りの人というわけではないのだろう。
あるいは、単に奈緒が読みやすいだけか。
「……凛がよろこぶかは、わからないけど」
加蓮は言った。本心だった。……あんなことを言われた相手とライブ前に会うなんて、むしろ嫌がるんじゃないだろうか。
加蓮の言葉に凛のプロデューサーは苦笑するだけだった。彼には彼なりの答えがあるようだったが、それは自分が口にすることではないと思っているかのようにそれ以上は何も言わなかった。
そして控室に到着した。凛のプロデューサーがノックをして、扉を開ける。
「プロデューサー。どこに行って……奈緒、それに、加蓮?」
扉の先にいたアイドルは、歳相応の少女らしい驚き顔を見せた。
*
「……ふぅ。ごめんね、二人とも」
自分の担当プロデューサーを部屋の外に蹴りだした少女は言った。「あ、ああ」奈緒は顔を少々ひきつらせながら応える。……まあ、あれを見れば、ねぇ。
加蓮たちの存在に驚いた後、凛はまずプロデューサーを問いただした。
これはどういうことなのか。どうして二人がここにいるのか。どうしてそれを私に言わなかったのか。
そういったことを尋ねた。それに対してプロデューサーは簡潔に答えた。『聞かれなかったから』。
その答えにあからさまに腹を立たせた凛はプロデューサーを部屋から蹴り出した。そして今に至る、というわけだ。
……凛も、普通の女の子なんだな。
プロデューサーとのやり取りを見て、加蓮が抱いたのはそんな感想だった。
アイドルも普通の女の子。それは当然のことのはずで、自分でもわかっているつもりだった。
だが、加蓮が今まで見た渋谷凛は完全にアイドルで、普通の女の子ではなかった。だから、改めてそう思ったのだ。
「それで――加蓮。早速だけど、あなたに言いたいことがあるの」
凛が加蓮の方を見た。加蓮はびくっと肩を跳ねさせる。言いたいこと。それは容易に予想がつく。だから、その前に――
「ごめんなさい」
凛が加蓮に向かって言った。「……え?」加蓮の口から呆けたような声が出た。
「あの時は、その……私、あなたのことを何も知らないのに、自分勝手なことを言った。それを、謝りたくて」
「それはっ」凛の言葉に加蓮は声を上げた。「……私の、方が。私の方が、謝らなくちゃ――」
「でも」
加蓮の言葉を遮って凛は口を開いた。加蓮は口を止めて凛を見た。凛は続ける。
「あの時の言葉に、嘘はないから」
その言葉に加蓮は何も返せず視線を落とした。……やっぱり、そうだよね。あんなことを言われたら、きっと――
しかし、加蓮のその思いは間違いだった。凛の言葉には続きがあった。彼女は言った。
「私は、口下手だから。たぶん、上手く伝えられなかったと思う。だから、今日、伝えるよ」
加蓮は顔を上げて凛を見た。
その目に加蓮は映っていない。
その目に映る、光景は――
「私の、ステージで」
*
それから、加蓮と奈緒は会場の外に出た。凛にはまだ準備がある。それを邪魔するわけにはいかなかった。
とりあえず、昼食をまだとっていなかったのでファストフード店に入った。注文をして、席に座る。
「はー……やっぱり、ここのポテトはおいしいね。ポテトって言うと、やっぱりここのが思いつくんだよねー」
そう言いながら加蓮はフライドポテトを食べ進めていく。それに対して奈緒は「まあ、それは同感だな」と言って同じくフライドポテトを食べ始める。
「……加蓮は、さ」
奈緒が言う。加蓮はフライドポテトから奈緒に視線を向ける。
「加蓮は……そんなに、アイドル、やりたくないのか?」
……その質問、か。
「……正確には、『やれない』かな」
「やれない……?」奈緒は不思議そうな声を出す。「やれない、って、どういう」
「奈緒と同じ……ってわけじゃないけど」フライドポテトを食べながら、加蓮は言う。「『私なんかにアイドルなんて務まらない』みたいな話だよ」
「そんな」
「ことはない? ありがと。私も奈緒にアイドルが務まらないなんてことはないって思ってるよ」
奈緒の言葉を遮って加蓮は微笑む。ポテトと一緒に頼んだシェークをちゅーと啜る。
「でも、そんなの、他人に言われたからって納得できる? そんな簡単に信じられる? ……私は、無理だよ。今まで、ずっと、ずっと……」そう言いかけて、加蓮はいったん言葉を切る。「……とにかく、私にはアイドルなんてできないよ。自分でも容姿はそこそこ良いと思うけど……それ以外のすべての要素が欠けている。奈緒にはあって、私にはない……そんなものが、ね」
そんな加蓮の言葉に奈緒は何も応えなかった。何も言わずに、ただ、悲しそうな目で加蓮を見た。
「……さて。こんな話はいいから、早く食べよう? まだまだ時間には余裕があるけど、もし遅刻したら目も当てられないから、ね」
加蓮はそう言いながら先程までと同じように食事を進める。
「……あたしは」
そうしていると、奈緒が口を開いた。加蓮は口を止めて奈緒を見る。
「あたしは、それでも……加蓮と、アイドルがやりたいよ」
「……そっか」
加蓮は言った。平坦な声で……努めて、平坦にした声で。
「私は、アイドルなんてやりたくないよ」
そして、彼女はシェークに口を付けた。
口の中の苦味を、ごまかすために。
*
ライブ会場には既に大勢の人が入場していた。今回のライブ会場はそこまで大きい場所ではなかったが、加蓮にとっては驚くべき光景だった。加蓮にとって、ここはテレビの中の世界。実際に来るのは初めての場所だったから。
「……お客さん、いっぱいだね」
加蓮は少しだけ興奮した様子で言った。今ではあきらめたと言っても、子どもの頃、ずっと憧れていた場所だ。興奮するくらいはおかしいことではないだろう。
しかし、そんな加蓮の調子に奈緒が気付くことはなかった。なぜなら。
「ああ……これだけの人が、凛を、見に来ているんだな」
奈緒も興奮した調子で言った。……渋谷凛。先程話したばかりの少女に、これだけの人が、会いに来ている。これだけの人が、彼女の歌を聴きに来ている。そう思うと……。
「凛は、やっぱりアイドルなんだな」
「うん……」
すごいな、と思った。加蓮も、奈緒も。
それから、ライブが始まるまでの時間。加蓮と奈緒の間にはあまり会話がなかった。ファーストフード店でのことがあったから……だけではない。
彼女たちは会場の熱に浮かされていた。今から始まるライブに緊張していた。
――そして。
「あ……」
会場の明かりが消える。流れていた音楽も止まる。ざわめきが沈黙に変わる。
空気が変わった。それがわかった。
凛が来る。
その直感は間違っておらず、ゆっくりと凛がステージに上がってきた。
瞬間、加蓮と奈緒の周りから大きな拍手が巻き起こった。
初めて経験するそれに加蓮たちはびくっと身体を震わせる。
「しぶりーん!」「まってたよー!」「ふー!」
色んな声が凛の登場を祝福している。加蓮と奈緒は何も言えず、ただぱちぱちと控えめに拍手をすることしかできない。
「――みんな、今日は来てくれてありがとう。えっと……いつもは司会の人がいるんだけど、今日はちょっと、私一人で、ということみたい。MCは苦手だし、愛想もないけど……今日は、よろしく」
そんな凛の言葉に、ファンは「ふー!」などといった声が上げる。「かわいいよー!」なんて声も聞こえる。
「かわいいって……何がかわいいの? でも、うん……ありがとう」
この言葉にはさらに「ふー!」と興奮した声が上がり、先程までよりも「かわいいー!」という声が大きくなる。その反応に凛は少し驚いた様子を見せていたが……そりゃ、かわいいもん。加蓮ですらもかわいいと思った。今のは反則だ。
「……やっぱり、私、MCは苦手みたい。だから、早速だけど、歌おうと思う。……みんな、準備はいい?」
ファンは「いいよー!」と応える。「いいよー……」隣から小さくそんな声が聞こえた。奈緒……もっと大きな声を出していいんだよ? って、何も言ってない私が言うのもおかしい話かもしれないけど。
そんなことを思った、直後。
「それじゃあ、いくよ」
凛が言った、その瞬間。
凛の表情が変わった。
浮かべていた微笑みは消え――目を閉じて。
それに合わせるようにして、会場の空気も――熱すらも、静まって。
しん……と沈黙が会場を支配する。
先程まで笑いや温かい声で満ちていた会場から、すべての熱が消える。
それは一瞬のことで……一瞬のことだったけど、息を呑むには十分で。
呼吸が止まって、瞬きすらできなくて。
まるで糸が張り詰めたように緊張して……ついさっきまでの熱気によりかいた汗が、滴り、落ちて……それが床に当たって、弾ける、その瞬間――
輝きが満ちていくようなイントロ。それに合わせて蒼のステージライトが点滅し、観ている者の興奮を一瞬でつり上げ――
渋谷凛は、その目を開く。
――【Never say never】
まっすぐな目、まっすぐな声。
その両方がまっすぐに胸を貫いて、溺れたように息が詰まる。心臓に氷の槍を刺されたと錯覚するように、ゾクッとした感覚が襲ってくる。
ああ、これは、間違いなく――間違いなく、『渋谷凛』だ。
まだ出会ってから数日しか経っていないのに、加蓮はそんなことを思った。そう、まだ彼女のことなんてほとんど知らないはずなのに……それなのに、一瞬ですべてが理解できた。そんな気がした。
まっすぐに、まっすぐに……そうか。そうだったんだ。凛は……あなたは、そこに……。
強く、強く、まっすぐに、まっすぐに……そうやって歌う彼女は、そうやって歌われるその歌は……観る者の心にも、強く、まっすぐに届いてくる。
凛は会場にいるファンのことなんて見ていない。私たちのことなんて見ていない。それがわかる。まっすぐに、まっすぐに、ただ前だけを見つめている。ただ前だけを見て、進んでいく。
これが、凛なんだ……これが、『アイドル』なんだ……。
子どもの頃、ずっと憧れていたアイドル……それとはまた別の姿が、今、加蓮の目の前にあった。
凛として……そう、『凛として』……笑顔なんてなく、ファンの顔すらも見ずに、ただ前を向いて歌っている。前だけを向いて歌っている。
だが、それはファンのことを思っていないというわけではない。ファンのことを考えていないというわけではない。
ファンを見るのではなく、前を見る姿を見せることで――ファンに、思いを伝えている。ファンに、想いを伝えている。
――そんな彼女を見て。
そんな彼女の姿を見て、加蓮はある思いを抱いてしまった。
昔抱いた……ううん、違う。昔抱いたものとは違う……違うけれど、同じ想い。
……私も、彼女に――彼女、みたいに。
そう思いかけて、でも、と思う。今更、私なんかが……私、なんて。
「……加蓮」
凛の歌声だけが響く会場で、隣から、そんな声が聞こえた。
「まだ、会ったばかりなのに……それなのに、こんなことを言うなんて、おかしいってことはわかってる」
ぎゅっ、と……いつの間にか、加蓮の手が握られていた。その手の主は、加蓮の方を見ることなく、渋谷凛から目を離すことなく、言葉を紡ぐ。
「でも……それでも、あたしは、加蓮と……加蓮と一緒に、あそこに行きたい」
まっすぐにそのステージを見つめて、奈緒は言う。
「加蓮と、アイドルになりたい」
……加蓮と奈緒が会ったのは、たった数日前のことだ。凛とも同じ。そのはずで……そのはず、なのに。
どうして、こんなに……私は、どうして、こんなことを思っているんだろう。
この二人と……凛と、奈緒と。
彼女たちと、一緒にいたい。
渋谷凛と、神谷奈緒。
この二人と、一緒にいたい、って。
「……私は」
それが『アイドルになりたい』という感情なのかはわからない。
もしかしたら、私は『アイドルになりたい』わけではないのかもしれない。
でも、それでも……この想いは、この想いだけは。
凛と奈緒と同じ場所に立ちたいという、この想いだけは、本物だったから。
だから。
「……私も、奈緒と……凛と、奈緒と、アイドルになりたい」
加蓮は言った。
「三人で、いつか……あの場所に」
ぎゅっ、と加蓮は奈緒の手を握り返した。先程までより、強く、強く。
そして、曲が終わった。
【Never say never】
そんな名前の、歌が終わった。
*
――それから。
加蓮は自分の担当プロデューサーに「レッスンをしてほしい」と頼んだ。プロデューサーは無感情に「どうして?」と尋ねてきた。「凛と奈緒とアイドルをしたいから」と答えた。するとプロデューサーは一瞬だけ目を見開き、すぐに「そうか」と目を伏せた。「なら、レッスンをしよう。渋谷凛と……だったか。実力だけは、そのレベルまで引き上げよう」
そんなプロデューサーの振る舞いを加蓮は一瞬だけ不思議に思ったが、すぐに考えないことにした。こいつが何を考えているかなんてどうでもいい。私は、凛と奈緒と一緒にいられればいい。そう思っていた。
プロデューサーによって行われるレッスンは厳しいものだった。凛と奈緒とアイドルをするためなら……と覚悟していたものよりも、ずっと。
しかし、それでも、加蓮は折れなかった。やはり加蓮は担当プロデューサーのことが好きになれなかったし、むしろどんどん嫌いになっていった。
機械に命令するみたいに「ああしろ」「こうしろ」と言って、少しミスをすれば「そうじゃない」。
いつかトップアイドルになって地位を手に入れたら真っ先にこいつをクビにしてやる……そう思うくらいには嫌いだった。
レッスン以外でも気は合わないし、必要最低限以上の会話は絶対にしなかった。
彼には他の担当アイドルもいるようで、そういった子たちとは話しているところも見かけたけれど……加蓮とそんな調子で話すことはなかった。ビジネスライク……と言うより、完全に『ビジネス』でしかない関係だった。
しかし、彼はプロデューサーとしては有能だった。加蓮もそれだけは認めざるを得なかった。
結果として、加蓮は凛や奈緒とも並び立つことができた。それが可能なだけの実力を付けることができた。
そして、あるユニットが結成された。『トライアドプリムス』。渋谷凛、神谷奈緒、そして北条加蓮から成るユニット。加蓮と奈緒は『いつか凛と同じステージに』という目標を叶えた。
トライアドプリムスはすぐに人気ユニットになった。凛と奈緒といっしょにいる時間が増えた。その仲はどんどん深まっていった。親友……そう呼べるほどの仲にはなっていた。
幸せだった。
凛と、奈緒と……そんな二人と、いっしょにいられて。
親友と呼べるような人なんて……そんな人、私にはできないって……ずっと、そう思っていたから。
間違いなく、加蓮は幸せだった。満足していた。
今がずっと続けばいいと思っていた。
今、この時が……この関係が、ずっと続けばそれでいい。それだけでいい、と。
――だが、それは許されなかった。
*
それはいつも通りだと思っていたある日に起こった。
いつも通り、加蓮は挨拶も交わさずにレッスン室に入り、挨拶も交わさずにいつも通りのメニューをこなした。そしていつも通りプロデューサーがそれを見に来て……そんな時だった。
「加蓮。お前は、いつまでこんなことを続けるんだ?」
プロデューサーが言った。その言葉に加蓮はまず驚いた。いつもは感情がないような指摘しか言うことはなかったから、こんな風に感情のあるような言葉を言うのが珍しかったのだ。
しかし、次に加蓮が抱いた感情は苛立ちだった。『お前』呼ばわりはいつの間にかされていたしもう慣れたからどうでもよかったけど……その言葉は聞き逃せなかった。
「珍しく口を開いたかと思ったら嫌味? アンタ、何が言いたいわけ?」
「そのままの意味だ」
加蓮の棘のある言葉に彼は平坦な声で返す。
「いつまで『アイドルごっこ』をやっているのか、と言ったんだ」
「……は?」
『アイドルごっこ』? それはいったい、どういう意味だ。
「そのままの意味だ」口にも出していない加蓮の質問に彼は答える。「お前がやっているのは『アイドルごっこ』でしかない。……いや、それにも劣るな。お前がやっているのは『ともだちごっこ』だ。それ以上でも、それ以下でもない」
「そうだとして――」
加蓮は反論しようとする。いや、反論ですらない。ただ、言い返してやりたいだけ。むかつくこいつの口を閉じてやりたいだけだった。しかし、そんな言葉を無視して彼は続ける。
「お前はどこも見ていない。ファンのことも、誰のことも。……アイドルとしては最低の部類だし、そもそもお前はアイドルですらない」
そして、彼は言った。
「北条加蓮。お前にアイドルは向いていない」
その言葉を受けて、加蓮は……世界が、遠くなっていくような感覚を覚えた。
深い深い水の底にいるかのように、彼の言葉が遠くに聞こえた。まだ何か言っているが、それはもう、あいまいにしか聞こえない。
……アイドルに、向いていない?
……ファンのことを見ていない?
加蓮はその言葉がどういう意味なのか考えた。文字通りの意味だった。そして、自分のことを考えた。自分がどういう人間か。本当にそうなのか。それを考えた。
それを考えて……考えようとして。
「……うるさい」
そんな思いを無視して、口が動いた。
「私が、ファンのことを見ていない? 誰のことも、見ていない?」
目が熱い。身体が熱い。眼の奥がちかちかする。視界がぼやける。
「それ、アンタが言える台詞なの?」
頭が熱で浮かされたよう。ふわふわとして宙に浮かぶ。熱い。頭が沸騰しているみたい。
「アンタが、私に……それを、言うの?」
……ああ。
もう、とめられない。
「アンタだって……アンタだって!」
それまで抑えてきた加蓮の感情が、不満が、苛立ちが、怒りが、一気に膨らむ。
一気に膨らんで――爆発する。
「アンタだって、私のことを、見たことなんてないくせにっ……!」
そんなことは最初からわかっていた。期待すらしていなかった。
でも、それでも。
「私のことを……凛に勝つための、道具としか、見てなかったくせに」
最初から、互いを利用するだけの関係だとわかっていた。
凛と奈緒とアイドルをしたいからと言った時のこの男の反応はまだ覚えている。
その時から、なんとなく、察していた。
この男は、私を凛に勝たせたかったんだ。
渋谷凛というアイドルに勝つための道具としてしか見ていなかったんだ。
そして、今。
彼は加蓮のことを見限った。
『アイドル』ではない北条加蓮には、『アイドル』である渋谷凛に勝つことはできない。
ただ、それだけのことだった。
そういったことも、すべて、加蓮にはわかっていた。
だが。
「……アンタ、だって」
たとえ、そうだとしても。
「私のことを、見てくれなかったくせに……!」
加蓮は、言わずにはいられなかった。
「……それは」
そんな加蓮に対して、プロデューサーは言葉を止めた。
言葉を止めて……そんなプロデューサーを見て、加蓮は。
「……さよなら」
そう言って、レッスン室から出て行った。
*
数日後、事務所。
「……何があったの?」
凛が言った。加蓮の担当プロデューサーが彼女の担当プロデューサーではなくなったことを知ったからだった。
「何が、って……べつに、何もないよ?」
加蓮はあははと笑って言う。
「凛だって、私とあの人の仲が悪いってことは知ってたでしょ? それがとうとう決裂した、ってだけ。べつに不思議なことじゃないでしょ?」
しかし、凛も奈緒もそんな嘘が通じるほど浅い仲ではない。凛はいつも通りまっすぐな目で加蓮を見て、奈緒は心配そうな目で加蓮を見ていた。
……弱ったな。
そんな目をされたら、言うしかないじゃん。
加蓮は凛と奈緒にプロデューサーと何があったのかを話した。渋谷凛に勝つための道具云々といったところは話さなかったが、それ以外はすべてを話した。凛と奈緒の顔をできるだけ見ないようにしながら、話した。
……この話を聞いた二人がどんな顔をするのか、こわかったから。
「――ってわけ。本当、ひどくない? 私、こんなに頑張ってるのに……それなのに、あんなことを言うなんてさ。確かに仲は悪かったけど、そこまで言われるようなことをしたとは思わないんだよねー」
凛と奈緒の顔を見ないまま、加蓮は笑う。女子高生らしく、口うるさい先生の愚痴を言うみたいに。そうしないと……そうしないと。
「私はそう思うよ」
凛が、そう言うと思ったから。
「……凛?」
奈緒が驚いた様子で凛を見る。しかし、凛は奈緒を見ることなく、加蓮だけを見つめている。
「加蓮はそこまで言われるようなことをしている、って……そう思うよ」
……うん。わかってた。凛は、そうだよね。『渋谷凛』ならそう言うって、わかってた。
「凛も、私がアイドルに向いていない、って……そう思ってる、ってこと?」
私は尋ねた。できるだけ軽く、お調子者みたいに。そうしないと、声が震えて、膝が震えて、くずれ落ちてしまいそうだったから。
「ううん、そうは思わない。『アイドルに向いていない』っていうのは、確かに言い過ぎかな」
その言葉は、少し、予想外だった。凛は甘い言葉なんて言わない。まっすぐに自分の意志を伝えてくれる。だから――
「でも」
そう思いかけて、しかし、凛の言葉には続きがあった。
「『今の加蓮』は、確かに、アイドルに向いていないかもね」
……やっぱり。
凛も、そう思うんだ。
「加蓮は誰も見ていない。誰も、どこも。……少なくとも、私にはそう見える」
世界から色が消えていく。あれ? これ、なんだろう。これって、なんなんだろう。
「ねぇ、加蓮」
ああ、そうか。わかった。私、また、戻るんだ。
「加蓮は、何のためにアイドルをやってるの?」
――あの、灰色の病室に。
凛の言葉に、加蓮は何も答えない。奈緒は口を開こうとするが、それに気付いた凛が奈緒の口の前にさっと手を出して止める。凛は加蓮を見つめたまま、質問の答えを待っている。
「……凛なら」
そして、やっとのことで、加蓮は口を開いた。
「凛と奈緒なら、って……そう、思っていたのに」
凛ならそう言うってわかってた。
わかってたけど……それでも。
「私の味方になってくれるって、思ってたのに」
これは、ただのわがままだ。
自分勝手な、ただのわがまま。
それもわかってる。わかってるけど。
「……やっぱり、私には無理だったんだね」
加蓮は言った。
「――アイドル、なんて」
ぽつりと、こぼすようにそう言って。
「そんなこと……そんなこと、言うなよ」
「……ありがと、奈緒。奈緒は、やっぱり優しいね」
北条加蓮は、凛と奈緒に背を向けて。
「でも、私には、もう無理みたい。……ばいばい、二人とも」
そう言って、部屋から出て行った。
そして、部屋に残された二人は。
「……それじゃあ、行こうか」
凛が言った。奈緒は加蓮を迎えに行くんだと思った。自分もそうしようと思った。だが。
「今日のレッスンは、第三レッスン室だったよね。加蓮がいないから、トレーナーさんに言って、レッスン内容を変えてもらわないとね」
「……は?」
奈緒は凛が何を言っているのか理解できなかった。レッスン? 今の状況で?
そんなの……そんなのっ!
「凛! お前は、加蓮が心配じゃ――」
「心配だよ」
凛はいつもの調子で答えた。奈緒は「は」と息にも近い声を出す。
「心配だけど……でも、これは加蓮が自分で見つけなきゃいけないことだから」
それに……と凛は加蓮が出て行った方とは別の扉に手をかけた。
「さっきの言葉は、本心だから」
そう言って、凛もまた部屋から出て行った。
「……な」
そして、残された一人は。
「なんでこう、あたしの親友は二人とも面倒くさいんだよー!」
部屋の中で、ひとり、叫んだ。
*
それから。
加蓮はアイドルを辞めなかった。が、以前のように活動することはなくなった。
新しい担当プロデューサーが……ということもあったが、誰も加蓮のプロデューサーを続けることはできなかった。
トライアドプリムスとしての活動もいったん休止することになった。『それぞれの活動を大事にするために』という名目であり、実際、凛や奈緒はそれまで以上にソロの仕事に精を出した。
しかし、加蓮は違った。担当プロデューサーもいないのと同じような状態で、さらに仕事をやる気もほとんどなくなっていた。実力としては申し分ないものが備わっていたが、それだけだった。仕事はどんどん減っていった。
加蓮は思った。私はどうしてアイドルを続けているんだろう。もう、アイドルをやる意味なんてないのに。そう思っていた。しかし、アイドルを続けていた。どうしてだろう。私は、どうして、アイドルを……。
そんな時だった。
「えっと……昨日からCGプロに入社したPです。本日付けで、北条さんの担当プロデューサーを任されました」
加蓮が、Pと出会ったのは。
*
加蓮からPへの第一印象は『なんだか頼りなさそうな人』だった。
実際、彼はプロデューサーになったばかりらしい。いきなり部長さんにスカウトされて、そのまま就職。そしていきなり私の担当プロデューサーを命じられた。
……なんで?
加蓮は思った。我ながら、自分ほどプロデュースしにくいアイドルもいないだろう。今までも何度もプロデューサーがついては離れていった。
以前の担当プロデューサーとの件で、加蓮は『プロデューサー』というものをまったく信頼しなくなっていたのだ。
そんな自分に、新人を……?
最初、加蓮は意味がわからなかった。しかし、すぐに理解した。
ああ、そうか。とうとう、私、見限られたんだ。
こんな新人をつかせるってことは、そういうことだろう。
「……アンタも、ご愁傷様」
加蓮は呟いた。そんな加蓮にPは「え?」と聞き返したが、加蓮は「なんでもない」と答えた。
*
「えっと……北条さん。いったい、どこに行くんですか?」
「そんなの、私の勝手でしょ」
振り返りもせずに、加蓮はスタスタと廊下を歩く。Pは遅れてそれに続く。
「ここは……レッスン室?」
Pが言った通り、そこはレッスン室だった。加蓮がよく使わせてもらっているレッスン室。他のアイドルがあまり来ない、空き部屋のような部屋だった。
「……今から、レッスンですか?」
「そう。悪い?」
「いや、悪くはないですが」
加蓮はレッスン室に入り、端に荷物を置いた。そして。
「ちょ!」
Pが声を上げて目を塞ぐ。加蓮は自分の服に手をかけ、いきなり脱ぎ始めたのだ。
「……何慌ててるの? レッスン着、着てるに決まってるじゃん」
Pを冷めた目で見て、加蓮は呆れた息をつく。
「……レッスン着?」ゆっくりとPが目を開き、加蓮を見る。「なんだ……」そして安堵のため息。そんなPに対して加蓮は、
「もしかして、私が初めて会った男に下着姿を見せるような女だとでも思ってたの? ……最低」
チッ、と舌打ちをして、加蓮はPのことを睨む。もちろん、加蓮もPがそんなことを思っていたとは考えていない。これだけキツく当たれば、すぐに音を上げるだろう。そう考えての判断だった。
私なんかに構わない方がいい。早く上司に担当アイドルを変えてくれと言えばいい。
そうすれば、私、だけで……。
「そ、そんなことはないです。ただ、びっくりしただけで」
「あっそ。それじゃ、レッスン始めるから、邪魔しないでね」
それだけを言って、加蓮はPに背を向けた。Pはそんな加蓮の背中に何か声をかけようとしたが、結局何も言わずに加蓮の背を見つめた。
トレーナーもいない場所でできるレッスンは限られている。だが、加蓮は前の担当プロデューサーから鬼のようなレッスンを受けてきていた。体力があまりなかった加蓮に前プロデューサーがいちばんに要求したのは体力だった。過酷なレッスンに耐えられるだけの肉体を求められた。
基礎トレーニング。
その重要性を、北条加蓮は知っていた。
「っ……はぁっ……はぁっ……」
顎を汗が滴り、落ちる。レッスン着は既にびしょびしょに濡れ、肌にはりついている。床には汗がたまっている。
「……あと、もう一セットっ!」
悲鳴を上げる肉体を振り切って、加蓮はトレーニングを続ける。加蓮が理想とするパフォーマンスをするためには、今の肉体ではまだまだ足りなかった。
加蓮にはもともとある種の才能があった。幼少期、何もできなかった子どもの頃。加蓮はテレビに映るアイドルだけを希望にしていた。アイドルだけが希望だった。しかし、身体の弱かった幼い加蓮に歌やダンスのレッスンは許されなかった。
なら、彼女は病室で何をしていたのか。
それは夢想。
アイドルになった自分を夢見ること。
つまり、イメージトレーニングである。
結果、加蓮は『理想の自分』を思い描く才能を獲得した。
それが加蓮の才能だった。ならば、あとは自らをその理想の自分に重ねれば、理想のパフォーマンスができる。
だが、そう簡単にいくわけもない。
理想のパフォーマンスをするには、足りないものがいくつもあった。
そのパフォーマンスを可能にするための肉体と技術。
ただ、それだけ。
どれだけ具体的に理想の自分を思い描くことができても、それに身体が追いつかなくては意味がない。
加蓮はあまり運動神経が良い方ではなかった。どうすればいいのかわかっているのに、それができない。それはどうしようもなくもどかしかったが、近道なんてなかった。
ただ、肉体と技術を高めること。
それが北条加蓮に求められるものだった。『理想の自分を思い描く』という才能により、他の人よりは一人だけでできるレッスンも多い。
仕事がなくなるにつれ、加蓮がレッスンできる時間も多くなった。
昔とは比べ物にならないくらい強い肉体を手に入れた加蓮にとってもオーバーワークになるかどうかといったレッスン量。
それはまるで、自分の身体を痛めつけるかのようで……。
「北条さんっ!」
Pの声。いきなり、何を……。そう思って加蓮はPの方を見ようとしたが、なぜか天井が見えた。
あっ、これ、ヤバ――
とさっ、と柔らかい感触。予想していた衝撃がこなくて、加蓮は頭に疑問を浮かべる。
「大丈夫ですか、北条さん!」
天井の代わりに、Pの顔が見える。
……そっか。私、倒れたんだ。
そして、この人に……。
「ありがとう。でも、もういいよ」
加蓮はPの肩を押して自分の力で立つ。が、まだふらっとしている。
「……大丈夫には、見えません」
その言葉に、加蓮はPを見る。Pを睨む。
「私の身体のことは、私がいちばんよくわかってる。新人のくせに……何もわかっていないくせに、勝手なこと、言わないで」
助けてもらったことは感謝している。
でも、それだけ。裏で何を考えているかなんて、わからない。
加蓮の脳裏にある男の姿がよぎる。……『プロデューサー』なんて、信じられない。
「……なんで」
そんな加蓮に、Pは言う。
「なんで、そんなに、頑張るんですか」
……『なんで』?
その言葉に、加蓮は固まってしまった。
なんで、頑張っているのか?
それは……ただの、習慣だから。習慣? 本当に? 本当に、それだけ?
理想のパフォーマンスを目指しているから。それができるようになるために。
なんで? なんで、理想のパフォーマンスをしたいの? もどかしいから? 本当に?
パフォーマンスは確実に向上している。どんどん理想のパフォーマンスに近づいている。
だが、仕事はむしろ減っている。
そんなの関係ない。本当に? なら、どうしてレッスンをしているの?
どうして、私は……。
「……私は」
Pの言葉に、真面目に答える義理なんてなかった。
アンタに関係ないでしょ。なんでアンタにそんなこと言わなきゃいけないの。
いくらでもそうやってごまかすことができた。
それなのに。
「……そんなの、わからないよ」
加蓮の口から、そんな声が漏れ出た。
「わからないよぉ……」
いつの間にか、加蓮はPの服の裾を握りしめていた。縋り付くように、悲痛な叫びを、絞り出すように。
どうして、そんなことを言ってしまったのかわからない。
初めて会ったばかりの男の人に……どうして。
加蓮は戸惑っていた。自分の発言に。自分の行動に。
だが、一つだけ、確かなことがあった。
少しだけ……そう、少しだけだが。
加蓮の胸の中から、何かが抜け出たような気がした。
ほんの少しだけ、胸が軽くなっていた。
*
休憩スペース。
加蓮とPは二人並んで備え付けの椅子に座っていた。加蓮はスポーツドリンクを口に運び、離す。
「――そうして、私はプロデューサーからも親友からもアイドル失格の烙印を押されましたとさ。おしまい」
加蓮はPに自分のことを話していた。べつにPのことを信頼したわけではない。が、弱みを見せてしまったのだからもういいや、と思ったのだ。
加蓮の話を聞いて、Pは深刻そうに、何かを考えこんでいた。……いったい、何を考えているんだろう。私が生意気ってこと? それとも、かわいそうだとでも?
どっちでもよかったし、どっちでも不快だった。どうでもよかった。今更誰にどう思われようと、どうでもいい。加蓮はそう思っていた。
だが。
「……北条さんは、アイドルだよ」
Pの言葉は、加蓮が予想しないものだった。
「……何を」
いったい、アンタが何を知ってるの?
今日会ったばかりのアンタが、何を……。
「僕にとっては、君は、間違いなくアイドルだったよ」
だが。
彼が、あんまりにもまっすぐな目でそう言うものだから。
「加蓮」
Pの言葉に対して、加蓮は自分の名前を口にした。
「え?」
端的なその言葉にPが固まる。加蓮はもう一度言う。
「加蓮、って呼んで。……これだけ話したんだから、もう、加蓮、って呼んで」
『北条さん』と呼ばれるのは、なんだか、気持ち悪かった。
それに。
「そっちの方が、アンタも気をつかわなくて済むでしょ」
Pは、なんだか無理をしているように感じたのだ。敬語をつかっている彼は、本当の彼ではないような気がした。自分だけ本音をさらけ出していることが不公平に思えた。ただそれだけ。本当に、ただ、それだけだった。
加蓮の言葉にPも最初はどうするか困っていた様子を見せたが、
「……わかったよ。加蓮。これでいいか?」
すぐにあきらめたようにそう言った。
「うん。それでいいよ。やっと、気持ち悪くなくなった」
「気持ち悪く……って」
Pが苦笑する。が、加蓮は気にもかけず、
「それじゃ、私はもう帰るから。またね、『プロデューサー』」
そう言って、ひょいと何かを投げた。Pは慌ててそれを受け取り、何かを確かめる。
「……これくらい、おごるのに」
Pの手の中には、加蓮が飲んだスポーツドリンクの代金分の小銭が入っていた。
加蓮はもういなかった。
*
それからも、Pは加蓮のプロデューサーを続けていた。
最初は刺々しかった加蓮の態度も少しずつ軟化していき、Pも少しずつ仕事に慣れていった。
相変わらず加蓮にはあまりやる気がなかったが、せっかくPが頑張ってくれたなら、とPがとってきてくれた仕事には少しだけやる気を出して仕事に臨んだ。
そういった仕事の評判は非常に良く、今までが嘘かと思うようなほどだった。
パフォーマンス自体はそこまで変わっていなかったはずなのだが、意気込みだけでこうも違うものかと驚いたものだった。加蓮はどうでもいいと思っていたが、Pがよろこぶならまあいいか、と思っていた。
そう思うくらいには、加蓮はPのことを受け入れるようになってきていた。
この人は今までのプロデューサーとは違う。あの男とは違う。やっとそう思えるようになってきていた。
この人は、私のことを、ちゃんと見てくれている。
私自身のことを、見てくれている。
そう思えたから、加蓮はPのことを少しずつ信頼していっていた。
――そんな日のことだった。
Pが、ライブの仕事を持ってきたのは。
*
「……ライブ?」
ただの聞き間違いだと願って加蓮は聞き返す。しかしPは興奮した様子で、
「ああ! やっぱり、アイドルと言えばライブだろう? ずっとずっと、君にこの仕事を持って来たいと思っていたんだが……ようやく、その願いが叶ったよ」
アイドルと言えばライブ。それに関しては同感だ。
でも。
――だからこそ、あんまりやりたくないんだよね。
Pと一緒に過ごしていく日々はそこそこ楽しかった。が、それは『アイドル』としての楽しさではない。
未だに加蓮は『アイドル』に対する苦手意識を持っていた。前のプロデューサーや凛に言われたことが、心の奥底に澱のように溜まっていた。
だから、『ライブ』に対してそこまでのやる気は出なかった。
出なかったが。
「そこまで大きい会場は抑えられなかったけど……でも、ライブはライブだ。一緒に頑張ろう、加蓮」
Pが、そんな風に笑うから。
「うん。わかった」
加蓮は微笑み、答える。
「頑張るよ、私も」
Pのためなら。
少しは、頑張っていいと思えたから。
加蓮はうなずいた。力強く。深く、深く。
*
ライブ会場。
Pの言った通り、そこはあまり大きなライブ会場ではなかった。いつか、加蓮が見に行った凛のライブ……それよりも、もう一回り小さな会場。
加蓮とPは既に会場の中にいた。チケットはすぐに完売。
正直最近は『落ち目』のアイドルだとは言っても、渋谷凛や神谷奈緒と同じ『トライアドプリムス』。その人気は高く、復活を待ち望む声も多い。
「……会場、いっぱいだね」
加蓮はつぶやく。今の自分に、そんな価値なんてないのに……。加蓮にとって、それは自嘲気味な言葉だったが、Pにとっては違った。
「ああ。……やっぱり、加蓮はアイドルなんだな」
落ち着いて、しかし、隠しきれない興奮が溢れ出しているような調子で、Pは言う。
「こんな大勢の人が、加蓮のために集まっているんだな。加蓮の歌を聴きに来てくれているんだな」
……改めて言われると、確かに。
Pの言葉は至極当然のことだったが、改めて言われると確かにそうだった。
みんな、わざわざ私の歌を聴きに来てくれているんだ。
……そう思うと。
「頑張らないとね」
加蓮の口から、そんな声が漏れ出た。そのことに、加蓮がいちばんに驚いた。
「ああ。頑張れ、加蓮」
Pは言って、加蓮の肩を軽く叩く。
「叩かないでよ、もう」
「たっ……そんなに、強く叩いたつもりはないんだが」
「それでも。……ふふっ」
「……からかったのか?」
「さあ? どうでしょう」
加蓮は笑ってごまかした。Pに触れられた肩が熱い。全身が、熱い。
これは、なんだろう。
これは、いったい、なんなんだろう。
「――北条さん。そろそろ、出番です」
スタッフさんが言う。その言葉には「はーい」と答えて、
「それじゃ、行ってくるね、プロデューサー」
加蓮は軽く手を挙げる。
「ああ。行ってこい」
それを見て、Pも軽く手を挙げ、パン、とハイタッチ。
……さて。
胸がドキドキする。
顔が熱い。
まだ始まってもいないのに、汗が出てる。
緊張、してるのかな。
私、こわいのかな。
でも。
……今日は、今日だけは。
プロデューサーのために。
プロデューサーの、ためだけに。
ただ一人のために、歌おう。
……そうすれば。
私にも、歌える気がするから。
「……行きますか」
そして。
ライブ開始の、幕が上がった。
*
「……ふぅ」
ライブ終了後。加蓮は拍手を背に浴びながらステージを後にした。久しぶりのライブは予想以上に疲れるものだった。
ステージライトの光の熱。ファンの視線と歓声。それから、緊張――それらが一気に降り掛かって、ライブ中のことはほとんど覚えていなかった。
「……水。水、欲しい……」
ぱたぱたと手で顔を扇ぎながら、加蓮はPを探して首を振った。……あ、いた。
「プロデュ――」
そう、呼びかけようとした時だった。
Pがこちらを見て、駆け寄ってきて。
そして――
「――加蓮!」
加蓮のことを、抱きしめた。
「……え!?」
一瞬、何が起こったかわからなかった。え? え? 何? どういう状況? どうして、プロデューサーが私のことを?
加蓮は混乱していた。顔は真っ赤で、ステージの上よりも熱かった。プロデューサーはそんなことを気にもとめず、加蓮のことを力いっぱい抱きしめていた。
「良かった……本当に、良い、ステージだった。やっぱり、君はアイドルなんだな。君は、やっぱり……僕にとって、最高のアイドルだ」
その声には熱がこもっていた。強い強い感情がこもっていた。
いきなりそんなことを言われて、加蓮はもともと赤かった顔をさらに赤くさせる。
な、何が起こっているのかまだわからないけど……とりあえず!
「プロデューサー! その、ちょっと……離れて?」
「離れ……? ……っ! す、すまない、加蓮!」
加蓮の言葉に、Pは慌てて彼女から離れた。……まったく、もう。加蓮は胸がうるさいくらい大きく鼓動しているのを感じていた。……今のは、びっくりしただけ。うん、びっくりしただけ……だよね。
ふぅ、と加蓮は一息ついて、Pの方を見た。
……『アイドル』、ね。
加蓮は先程のPの言葉を思い出す。わかってる。期待なんてしちゃいけないって。前からこの人はそうだったじゃないか。私のことを……こんな、私のことをアイドルだなんて言って。
それと同じだ。今はライブにあてられて、それで、言ってしまっているだけなんだ。
そうじゃないと、私のことを『最高のアイドル』だなんて、言えるはずがない。
……凛も奈緒もいるのに、私が、そんな……。
「……アイドルって、言うけどさ」
加蓮は言う。つぶやくような、小さい声で……逃げるように、プロデューサーから、目を背けて。
「どうして、そんなことを言えるの? ……私に、アイドルなんて――」
「言えるさ」
加蓮の言葉を遮って、Pは言った。その言葉に、加蓮は顔を上げて、Pを見る。
「だって――」
Pは加蓮ではない、どこかを見ていた。彼の視線の先に何があるのか。そう思って、加蓮はPの視線を追って――
「――こんなに大勢の人が、加蓮のことを、好きでいてくれているんだから」
サイリウムの光。
アンコールの声。
そして、大勢のファンの顔。
「……これ、って」
――北条加蓮。
彼女は以前、『誰のことも見ていない』と言われていた。
アイドルを続けている理由は、凛と奈緒といたいから。ただそれだけで……それ以上のことは、何も思ったことがなかった。
だが、今日。
彼女は、Pのために歌った。
誰かのために、歌ったのだ。
身体能力に大きな変化はない。技術にも大きな変化はない。
変わったのは、心だけ。
だが――だがしかし、それこそが北条加蓮という『アイドル』にとって唯一足りないものだった。
「……私」
ファン。
アイドルにとって、ファンの存在は大きい。
ファンがいるからこそのアイドルであり、ファンがいなければアイドルはアイドルたりえない。
――逆を言えば、応援してくれる人が一人でもいれば、その瞬間、人は『アイドル』になれる。
あとは、それに気付くかどうかだ。それに気付くことが、できたのなら。
自分のことを応援してくれている人がいると、気付けたなら。
その人たちを、見ることができたなら。
「私、アイドルなんだ」
自分のためにサイリウムを振り、自分のためにアンコールの声を出してくれる。
そんな彼らのことを見て、ファンを見て。
加蓮は、ぽつりと呟いた。
「私……アイドルに、なれたんだ」
その瞳から涙がこぼれた。今まで出さないように懸命に押し殺していたものが、一気に溢れ出していった。
しばしの間、Pはそんな加蓮を見るだけだった。
しかし。
「……加蓮。アイドルなら、あと少し、やることがあるだろう?」
Pが言った。やる、こと……そう考えた加蓮の耳に「アンコール!」という声が聞こえた。
「そうだね。……私、行ってくる」
その表情は、ライブ前のものとは大きく変わっていた。
プロデューサーのためじゃない。
プロデューサーのためだけじゃなく――私を応援してくれている、みんなのために。
ファンのために、歌うんだ。
それがアイドルだって……私は、やっと、わかったから。
――でも。
「ねぇ、プロデューサー。……ううん」
ステージに上がる直前。
Pの方を振り向いて、加蓮は言った。
「――Pさん! 私……Pさんのこと、大好きだよ!」
私がここまで来れたのは、あなたのおかげだよ。
あなたがいたから、私はアイドルになれたんだ。
あなたのおかげで……私は、今、ここにいる。
だから。
「見ててね、Pさん。私が――アイドルに、なったところを」
加蓮の言葉に、Pは一瞬だけ目を見開いて、すぐに微笑んだ。
「ああ。見てる。だから――行ってこい!」
「うん!」
そして、加蓮は宣言する。
「『アイドル』北条加蓮――いってきます!」
*
アンコールも終わり、ファンも帰った、空っぽの会場。
まだ熱の残るその場所に、加蓮とPはいた。
先程までとは正反対に、静寂に満ちたその空間……そのはずなのに、目を閉じれば、今もすぐそこにファンの歓声があるように思えてくる。二人はライブの余韻に浸っていた。
「……Pさん」
そんな中、先に沈黙を破ったのは加蓮だった。加蓮はPの方を見ておらず、それがわかっていたので、Pもまた、加蓮の方を向かずに聞く。
「今日のライブ、どうだった?」
「最高だった」
Pは微笑む。
「君は最高のアイドルだったよ。加蓮」
「……なら、さ」
加蓮は微笑み、Pの方を向く。
「ご褒美……もらっても、いい?」
「ご褒美……? べつにいいけど、僕も新人だから、あまり高いものだと買えないと思う」
「大丈夫。お金で買えるものじゃないから」
「お金で買えるものじゃない? なら――」
そこでPの言葉が止まる。加蓮の表情を見て――思わず、言葉が止まってしまう。
「Pさん」
加蓮は言う。
「私、ずっと、あなたといたい。ずっと、ずっと……あなたの、そばにいたい」
ぎゅっ、と胸の前で手を握って。
まっすぐに、Pを見て。
言葉を紡ぐ。
想いを綴る。
「だから……それを、約束してほしい。その約束が……今の私がいちばん欲しい、ご褒美だよ」
あなたのせいで。あなたのおかげで。
私は、アイドルになった。アイドルになってしまった。アイドルに、なることができた。
他の誰でもない、あなたがいたから……あなたが、気付かせてくれたから。
こんな私なんかのことを……見捨てないで、ずっと、見ていてくれたから。
加蓮は思う。そこに含まれていた感情は感謝だけではない。色んな感情が、胸いっぱいに押し寄せて……その中で、確かな言葉にできること。
『ずっと、あなたの側にいたい』
だから、加蓮は言った。願うように、祈るように。想いを形にすることで叶うものがあると、信じていたから。
「……ああ」
Pはうなずく。加蓮の目をしっかりと見て、加蓮に向き合って、口を開く。
「約束する。僕も、君のそばにいたい。いつまでも、君のプロデューサーでいたい……君が、そう思わせてくれたから」
「……ほんとに?」
「本当に」
「ほんとに、ほんと?」
「ああ」
「嘘だったら……私、絶対に、あなたのことを、許さないからね?」
「だから、嘘じゃな――」
そうPが文句を言おうとした瞬間、勢いよく、加蓮がPの腕の中に飛び込んだ。
「なっ」
加蓮のいきなりの行動にPは驚く。加蓮は思い切りPの身体に抱きついて、離れない。
「ちょ、加蓮! いきなり、何――」
Pは慌てて、加蓮に文句を言おうとした。
だが、
「――本当に、約束だからね!」
……そんな、嬉しそうに、弾んだ声に。
「……ああ」
もう一度、そう言って。
Pもまた、加蓮の肩をそっと抱いた。
*
それからはすべてが順調だった。
加蓮の仕事に対する評価は以前よりもずっと高くなり、どんどん仕事が増えていった。
これは加蓮の本来の実力を考えれば当然のことだったが、そこにはPの力もあった。
Pは入社して一年も経っていない新人プロデューサーであり、加蓮から見ても頼りないように映ることもあった。
しかし、どうしてか『ここぞ』という時にはいつも素晴らしい仕事をするのである。
『他のプロデューサーに比べれば自分なんて』と自己評価は低かったが、実際のところ、彼のおかげで成立した大きな仕事もいくつかあった。
そんなPの助力もあり、アイドル北条加蓮の人気は『トライアドプリムス』の活動を休止する以前よりもさらに高くなっていた。
トライアドプリムスと言えば、加蓮は凛と和解していた。どちらから謝ったりしたわけではなく、ただ、仲良くなっていた。
ある日、凛と加蓮がレッスン室で談笑している光景を見た奈緒が「なんだよ、もう」と嬉しそうに笑って、二人に抱きついて……それで、この三人の仲は完全に修復。以前よりもずっと深く付き合うことができるようになった。
それにともなってトライアドプリムスの活動は再開。活動休止以前よりも遥かに高いパフォーマンスは数々の人を虜にして、その人気は『ニュージェネレーション』にも匹敵するほどのものとなっていった。
加蓮とPの仲も、以前とはまったく違うものとなっていた。ライブ前まではまだどこか一線引いたような加蓮とPの関係だったが、あのライブ以降、加蓮の方からどんどん懐くようになっていった。Pのことを、慕うようになっていった。
Pが加蓮しかプロデュースしていないこともあって、Pと加蓮がともに過ごす時間は長かった。
加蓮の方も暇さえあればPにくっついていったし、Pも暇さえあれば加蓮のレッスンに付き合って、どうしても行けない仕事以外はすべて同行した。
「アイドルのご機嫌とりも仕事だよ?」なんて言って、加蓮がPをショッピングに連れて行ったりすることもあった。加蓮とPの仲は、仕事だけのものではなくなっていた。
そして、月日は流れ、一二月のある日。
Pが運転する車で事務所に帰る途中のこと。
Pが外を見て「雪だな」と言った。その言葉につられて、加蓮は窓の外を見た。Pの言葉通り、外では雪が降っていた。
「……加蓮。今日は家まで、送ろうか?」
Pが言った。加蓮は「べつに大丈夫だよ」と言った。Pは「そうか」と返した。
そして、事務所に到着して、車を出ようとした時。
「加蓮」
そう言って、Pは加蓮の肩に自分のコートをかけた。
「ちょ、これじゃ、Pさんも寒いでしょ」
「大丈夫だ。もう事務所まではすぐそこだし……今日は、それを着て帰ってくれ。送らないなら、せめて、これくらいは……な」
微笑み、Pは事務所に向かって歩き始めた。そんなPの後ろ姿を見て、加蓮は肩にかけられたコートをぎゅっと握った。
「……かっこつけちゃって」
言いながら、加蓮の顔は真っ赤に染まっていた。不自然なほどに、熱く、熱く。
どうしたんだろう。もしかして……風邪?
最初はそう思った。でも、違うような気がした。
なら、私はいったいどうしたんだろう。
どうして、こんなに顔が熱いんだろう。
どうして、こんなに胸が温かいんだろう。
どうして、どうして――
そして、その時、その瞬間。
加蓮は、気付いた。
「……そっか」
私、Pさんのことが好きなんだ。
私、Pさんに、恋、してるんだ。
「――Pさん!」
思った瞬間、加蓮はPの背中に向かって駆け出して、そのまま彼の腕に抱きついた。
「んっ……なんだ? 加蓮。いきなり、抱きついたりして」
「んー? ちょっと、加蓮ちゃんの体温で、暖めてあげようと思って」
Pの腕に抱きついたまま、加蓮は笑う。
幸せだった。
Pのことを好きでいられて……大好きな人と、一緒にいられて。
恋をしていると、気付くことができて。
「Pさん。やっぱり、今日、送ってほしいな」
加蓮の声は弾んでいた。そんな加蓮に対してPは怪訝に眉をひそめたが、
「わかった。送るよ」
……そう、答えてくれるから。
「ありがとう、Pさん♪」
ぎゅー、と加蓮はPに抱きつく力を強める。
「ちょっ……加蓮。その、当たってるから、離れてくれないか」
「だーめ♪」
慌てるPに、加蓮は楽しげに答える。それからもPは加蓮に離れるように何度か頼んだが、何度言っても加蓮が離れようとしなかったため、あきらめてそのまま事務所に帰った。
さすがに事務所の中に入ると知り合いもいて、何度か茶化されることもあった。そのたびにPは恥ずかしそうにしていたが、加蓮は楽しげな表情を崩すことなく、また、Pから離れることもなかった。
北条加蓮は浮かれていた。浮かれているということに気付いてもいた。
だが、だからと言って恥ずかしがることはなかった。
だって、初恋なんだもん。
浮かれるくらい、仕方ない。
加蓮は思い、恋する人に抱きつく力をさらに強めて、幸せそうに微笑んだ。
*
クリスマス。
雪の街。
「はぁ……寒いな」
大勢の人々が幸せそうに歩く中で、加蓮はPを待っていた。
クリスマス。希望の日。
……小さい頃は、この日が好きじゃなかったな、と思う。
クリスマスは、希望の日……みんなが幸せな食卓を囲んで、プレゼントをもらって……。
でも、私にとっては、希望がある日じゃなくって……絶望もなくって。ただ、ぼんやりしながら、灰色の冬空を眺めてた。
だから、好きじゃなかった。私にとって、何の日でもなかったから。
「……でも」
今は違う。暑くも寒くもなかった病院とは違って、私は今、寒さを感じる。
それに、何より――
「――加蓮!」
あの人を待っている時間は……好きな人を待っている時間は、そんなに悪いものではなかったから。
「すまない、待ったか?」
急いできたのだろう。加蓮の元に到着したPは息を切らしていた。息が白くなる季節だからこそ、それが目に見えてわかる。
そんなPを見て、加蓮は嬉しくなっていた。この白い息は、私のためのもの……そう思うと、なんだかたまらなく愛おしく思えたのだ。
「はぁ……さむーい。女の子を待たせるなんて、Pさんは罪な人だね」
そう言うとPはわかりやすく申し訳なさそうな顔をする。……かわいい。Pのそんな顔を見ているのもそれはそれで良いと思ったが、もう一度謝らせようとは思わない。Pがもう一度謝ろうとする前に、言葉を続ける。
「でも、ちゃんと来たから、許してあげる。でもでも、凍えちゃったから、温かいモノをくれるまで、許してあげない♪」
そうやって加蓮が微笑むのを見て、Pもまた、ふっと表情を和らげた。
「ありがとう、加蓮。それで、温かいモノって……」
「うーん……温かいココアがいいかな。マシュマロがはいった、とびきり甘いやつ!」
「了解。……でも、そういうの、どこで飲めるんだ……?」
そうやってPはわかりやすく悩んでみせる。そうして悩んでいる姿を見て、やっぱり好きだな、と思う。
これが好きってことなのかな。これが恋ってことなのかな。
その人のすべてが、たまらなく愛おしくなって……どんなことでも、その人のことを、もっともっと好きになる。心が、温かくなる。
「ね、Pさん」
頭を悩ませるPに加蓮は微笑み、手を差し出す。
「とりあえず……手、握ってくれる?」
「……ああ」
そうしてPは加蓮の手をとり、かと思えば、すぐに驚いた表情を見せた。
「加蓮の手、冷たいな。……本当に、待たせてすまなかった」
「ん、大丈夫大丈夫。こうして、肌で季節を感じると、なんていうか……生きてるなぁ、って感じるから。あ、そんなに重い意味じゃなくてね? 本当に、身体は大丈夫だから。心配しないで」
「……それなら、いいんだが」
そう言いながらも、Pは加蓮の手を握る力を強くした。加蓮は少しだけ目を見開いて、すぐに嬉しそうに微笑む。
「歩こっか」
「ああ」
手をつないだまま、加蓮はPと一緒にクリスマスの街を歩いて行く。
……クリスマス、か。
はぁ、と加蓮は息をはく。息が白い。白い息が、クリスマスの夜空にのぼっていく。
そこにあるのは、病室から見た灰色の冬空じゃなくって……キラキラがたくさん満ち溢れた、希望の夜空。
そう思うのは、きっと――
「……Pさん」
「なんだ?」
「私、幸せだよ。……あなたといられて、本当に」
「……僕も、同じ気持ちだよ」
「っ……本当に?」
Pの言葉に弾かれたように、加蓮はPの顔を見た。そんな加蓮の反応に、Pは驚いた様子で、
「あ、ああ。だって、僕は、君のことが――」
そして。
Pは一度、言葉を止めた。
目を見開き、息を止めて……それから、ゆっくりと微笑んだ。
「加蓮」
今までにないほどに優しい声音で、Pが加蓮のことを呼んだ。
「な、なに?」
そんなPの表情を見るのが初めてだったから、加蓮は動揺して返した。そんな優しい顔されたら、私……。
「加蓮は……アイドルが、好きか?」
Pが言った。アイドル……アイドル、か。
「好きだよ。……昔から、憧れていたから。まあ、Pさんと会うまでは忘れちゃっていたけどね」
加蓮はふふっと微笑む。なんだか気恥ずかしくて、Pの表情を見ることはできない。
「そうか。なら、やっぱり……」
「え?」
Pのつぶやきを、加蓮は聞き返す。しかし、Pは微笑み、
「いや、なんでもないよ。……行こうか、加蓮」
加蓮の手をしっかりと握りしめ、前を向いて歩き出した。
……いったい、なんだったんだろう。
Pのつぶやきを加蓮は不思議に思ったが、すぐに考えないことにした。
Pさんがなんでもないって言ってるんだから、それでいいや。今はただ、この幸せを……。
ぎゅっ、と加蓮はPの手を握り、その腕に自らの身を寄せた。
Pのつぶやきは、白い息に紛れて消えた。
*
一月。
事務所。
「Pさん、どこだろ」
加蓮はPのことを探していた。クリスマス以来会っていなかったので、早く会いたかった。
恋しくて、恋しくて……プロデューサーや、事務員さんのスペースに行って。
ちひろさんから、部長の部屋にいると聞いて。
話が終わるまで、部屋の前でPのことを待っていようと、そう思って。
でも、部屋の扉が開いていて。
話が、聞こえて。
それに気付いた加蓮が、さすがにダメだよね、と踵を返そうとした、その瞬間。
「――僕には、北条加蓮のプロデューサーはできません」
そんな声が聞こえて、加蓮は思わず、足を、止めて。
聞き間違いだと、そう思って。
そう願って。
……でも。
もう一度、加蓮の耳にPの言葉が響いた。
「僕を、加蓮のプロデューサーから降ろして下さい」
……その瞬間。
世界が、灰色に戻ったような気がした。
*
どうして? どうして、そんなことを言うの?
動悸が激しい。息が苦しい。身体の震えが止まらない。
どうして、どうして? どうして、いきなり、そんなこと……。
灰色の世界。灰色の病室。
テレビの中のきらきらとした世界。
ベッドの上には幼い私。きらきらした目でテレビを見ている。一年後、まだその目には希望が宿っている。さらに一年後。まだ希望が残っている。一年後、一年後、一年後、一年後……。その目から希望が消えている。絶望も希望もなく、ただ、諦めだけがある……。
そして、一年前の私。どうしてか、まだベッドの中にいる。灰色の病室の中で、ただきらきらとしたテレビの中の世界を見ている。
どうせ、私には、こんなこと……。
そう思っていたのに、テレビの中から一人の男性が手を差し出す。
『君は、アイドルだよ』
その人の手を取ると、私はテレビの中に引きずり込まれる。
その世界は、煌めいていて……とても、とても幸せで。
凛と奈緒と一緒にステージに立って……ずっと、Pさんが私のことを見ていてくれて。
このまま、ずっと、ずっと、こうしていられたらいいのに……。
そう思っていると、ふと、目が覚める。
そこは眠る前と何も変わらない、灰色の病室。灰色の世界。
……ぜんぶ、夢、だったの?
それに気付いた瞬間、私の目から、涙が、こぼれて――
*
「――加蓮!」
Pの声。加蓮は目を開く。そこにあったのは灰色の病室ではなく、Pの顔。
「……良かった。大丈夫か?」
Pは心の底から安堵したような様子を見せる。
……そっか。今のは、夢、だったんだ。
そう思うと安心して……でも、その前のことを思い出して。
「Pさん。私のプロデューサーを辞める、って、どういうこと? 辞めるって……本当、なの?」
すぐさま、加蓮はPに訊ねた。Pの言葉が、どういう意味だったのか。どうしてあんなことを言ったのか。聞きたくなかったが、聞きたかった。
理由を聞いても納得できるとは思えなかったが、それでも、聞かなくちゃいけないと思ったから。
「……やっぱり、聞いていたのか」
Pは力なく微笑む。それは、ひどく悲しい微笑みで……聞いた加蓮が言葉を失ってしまうほどだった。
そんな加蓮に、Pは言う。
「本当だよ、加蓮。僕は、君のプロデューサーを辞める」
「なんでっ」
「それが『アイドル』北条加蓮にとって必要なことだから」
Pは即答する。……え? と加蓮は力なく声を漏らす。私に、必要? なんで? どうして?
Pは続ける。
「加蓮。君はもう、僕がいなくてもアイドルをやっていける。だから――」
「でも!」
Pの言葉を遮って、加蓮は言う。
「約束……約束、したでしょ。ずっと、ずっと……一緒に、いてくれる、って」
「すまない」
加蓮の言葉に、Pはただそれだけを言って、頭を下げる。
言い訳も何もなく、ただ、そう言われて……。
「……私が何を言っても、無駄みたいだね」
加蓮は知った。
Pはもう、決めている。決意している。
今、加蓮が何を言おうと、その決意は変わらない。
それが、わかった。
わかってしまった。
「……ああ」
加蓮の言葉に、Pはうなずく。そしてもう一度、深く、深く謝ろうとして――
「でも」
そんなPを見て、加蓮は言う。
そう、でも――加蓮はPの顔をまっすぐ見つめて、宣言する。
「私は、諦めないから」
昔の私なら、諦めていたかもしれない。
でも、もう、諦めない。
もう、諦めてなんてあげない。
みっともなくても、しつこくても。
絶対に……絶対に、諦めない。
「いつか、必ず……あなたと、また」
その日。
Pは北条加蓮のプロデューサーを辞めた。
そして、同日。
北条加蓮は決意した。
Pが自分を抑えきれないほどに、魅力的なアイドルになることを。
『トップアイドル』に、なることを。
*
……。
……。
……。
*
ライブバトル当日。
「……ん」
加蓮は自室で目を覚ました。……久しぶりにこんな夢を見たな、と思う。
あの後、Pさんがアーニャちゃんの担当プロデューサーになったと聞いた時は驚いた。
動かずにはいられなくなって、すぐさまあの二人に会いに行ったくらいには動揺したけど……もしアーニャちゃんがいなかったとしても、Pさんが私のプロデューサーに戻ってくれるなんてことは、なかっただろうし。
でも、あの時は会いに行って良かったと思う。嫌味みたいなことも言っちゃったけど、それでPさんが本気になってくれるなら都合が良い。
アーニャちゃんには……正直、嫉妬してる。
でも、同時に、アーニャちゃんは希望だ。
それだけのものを見せることができたなら、Pさんを振り向かせることができるかもしれないって、わかったから。
だから――
「ごめんね、アーニャちゃん」
今日は、私が勝つよ。
まったく歯が立たないくらいに圧倒して。
「Pさんを、振り向かせてやるんだから」
*
朝。
事務所。
「――本当に、いいのか?」
「うん。大丈夫。プロデューサーには、大切なアイドルがいるでしょ」
加蓮は今自分を担当しているプロデューサーと話していた。今日のライブバトルに、付き添いするかどうかの話だ。
「それに、今日は……私と、あの人の問題だから」
加蓮はこのプロデューサーのことをあまり嫌っていなかった。むしろ感謝していた。他にも大切な時期のアイドルを担当しているのに、私の面倒まで見てくれているこの人には感謝していた。
だが、それでも、今日のライブバトルは自分とPの問題だ。その間に他人の存在は必要ない。
「……そうか」
プロデューサーもそれはわかっていた。そのことに少しの寂しさを感じながらも、彼は笑い、軽く手を上げた。
「勝てよ、加蓮」
「当然!」
パン! と加蓮はプロデューサーの手を思い切り叩いた。
「それじゃ、行ってくるね、プロデューサー。帰ってくる頃には、私の担当じゃなくなってるかもしれないけど」
ひりひりと痛む手を握りしめ、加蓮は笑った。
「かもしれない?」
そんな加蓮に、プロデューサーは挑発的に笑ってみせる。そんなプロデューサーを、加蓮は驚いた顔で見つめて……にっ、と笑う。
「……絶対!」
そして。
北条加蓮は、事務所を発った。
向かう先は、ライブ会場。
アナスタシアと、Pのいる場所。
*
「……お、来た来た」
ライブバトルが行われる会場の前。
加蓮はPとアナスタシアのことを待っていた。
こちらに歩いてくるPとアナスタシアに対して、加蓮は挑発的に微笑む。
「逃げなかったんだね、Pさん、アーニャちゃん」
そんな加蓮の挑発を、Pは真っ向から受ける。
「逃げるわけがないだろ、加蓮。……僕たちは、必ず、君を倒す」
「私を倒す? ……ふふっ。それは無理だよ、Pさん。この一ヶ月で、どれだけ実力を伸ばしたのかはわからないけど……それでも、私に勝てるわけがない」
余裕たっぷりに見えるよう、加蓮は言った。そもそも、勝つためのライブバトルじゃない。勝つなんてことは当然で……加蓮が望むものは、その先にあった。
「……カレン。ここで話していても、何も、わかりません」
そんな加蓮に、アナスタシアは言った。
「証拠は、ステージで見せます。だから……」
「……そうだね、アーニャちゃん。ここで話していても、平行線、か」
とりあえず、挑発はできた。
Pさんが本気だってことはわかったし……私に勝つくらいの勢いで、来てくれてる。
このライブバトルに本気で来てくれているってことがわかれば十分だ。
それなら、後は……。
そんな思いを胸に秘め、加蓮は不敵に笑ってみせた。
「それじゃあ、行こうか。私たちの、戦場に」
*
ライブ会場。
控室。
「……凛、奈緒。来てたんだ」
その前に立つ二人の先客に加蓮は微笑みかけた。
「でも、ここ、関係者スペースじゃない? なんでいるの?」
「関係者だからね」凛が言う。「違う?」
「……違わない」
ふふっ、と凛の言葉に加蓮は嬉しそうに微笑む。そんな加蓮を見て、凛と奈緒もまた微笑む。
「それで、今日は何の用? 二人とも人気アイドルなのに……わざわざ、どうして?」
「応援しに来た、じゃ、ダメか?」
奈緒の言葉に、加蓮は「応援……応援、か」とつぶやいて、
「ん、ありがと、二人とも」
そして、言う。
「私、勝つよ。絶対に勝って――Pさんを、振り向かせるから」
加蓮の望みは、Pを自分のプロデューサーに戻すこと。
アナスタシアから、担当プロデューサーを奪うことだ。
もちろん、複数のアイドルを担当しているプロデューサーがいる以上、加蓮もアナスタシアも、どちらも担当すればいいだけの話……かもしれない。
だが、加蓮はPのことをよく知っている。知っているからこそ、彼が複数のアイドルを担当できるような人間ではないということがわかるのだ。
少なくとも、加蓮はアナスタシアからPを奪うつもりでいる。アナスタシアを、悲しませるつもりでいる。
北条加蓮は、そういったすべてのことを理解した上で……それでも、Pと一緒にいたいと思っている。
他人を犠牲にする覚悟がある。
今回のライブバトルにそういう意味があるということは凛と奈緒もわかっていた。だが、それがわかった上で、凛と奈緒は加蓮のことを認めていた。
たとえ正しくなかったとしても……彼女たちは、親友を応援するということを選んでいた。
だから。
「うん。頑張って、加蓮」
「あたしたちは、加蓮の味方だからな」
二人は笑顔でそう言った。そんな二人に、加蓮は微笑みで感謝を表す。
「……それじゃ、二人とも。そろそろ準備するから、あとは観客席で、ね」
加蓮の言葉に、二人はもうそんな時間か、と控室の前から退いて、加蓮を通す。
そして加蓮がドアノブに手をかけた、その時。
「加蓮」
凛が言った。
「アーニャは強いよ。だから――全力で」
その言葉に、加蓮はドアノブを握る力を強める。……凛が、そこまで、か。
でも。
「もちろん」
そんなの、言われるまでもない。
「今日の私は、凛にだって負けないよ」
そして。
北条加蓮は、扉を開いた。
*
観客席。
「お、しぶりんにかみやん。かれんの応援かな?」
凛と奈緒が自分の席に向かっていると、そんな声が聞こえた。
「……未央。それに、みくと蘭子? 珍しい組み合わせだね」
あまり見ない組み合わせに凛は言う。この三人組の共通点はなかなか思い当たらない。
「まあ、珍しいかもねー。でも、アーニャの応援に来た、って言えば、わかるんじゃない?」
そう言えば、この三人はみんなアーニャと仲が良かったはずだ。だから……。
「ふっふっふ……凛チャンと奈緒チャンは、どうせ加蓮チャンが勝つと思ってるんでしょ?」
「いや、まあ、応援しに来てるわけだしな」
みくに対して奈緒が当然だろと言うように答える。しかしみくはそんな奈緒の反応に勢いを削がれることなく、自信満々に言う。
「みくもよく知らないけど、アーニャンには秘策があるにゃ! いくら加蓮チャンでも、一筋縄ではいかないからね!」
「知らないのかよ……」
みくに対して奈緒は呆れたように答える。
「秘策……」
蘭子も知らなかったようで、小さくつぶやく。もちろん未央も知らないようで、
「秘策かー……これは楽しみだね! しぶりん!」
なんて、凛に向かって言ってみせる。
「かもね。本当にそんなものがあるのなら、だけど」
「……本当にあるの? みくにゃん」
そんな未央の問いに、みくは「うっ」と呻き、
「……そ」
「そ?」
「それは、わからないけど! でも、アーニャンだってすごいんだからね! 今に見てろにゃ!」
「わからないのかよ……」
そしてまた奈緒が呆れ顔。未央が「どっちなんだろうねー。らんらん」と蘭子に話しかけ、「……わからぬ」と蘭子が答えて……騒がしいな、と凛は思う。
そして、そのままステージの方を見て、思う。
……楽しみにしてるよ、二人とも。
*
観客席は既に満席。
注目度は最高潮。
ざわめきが会場を支配して、今から始まる催しを今か今かと待ち望んでいる。
ライブバトル。
それは、アイドル同士の戦い。
勝ち負けをはっきりと決める、残酷な競技。
片方が確実に『負ける』……そんな、戦い。
そんなものを楽しんで見るなど、おかしいことだろうか。
片方が確実に悲しむような光景を見て楽しむなど、おかしいことだろうか。
そのことから、ライブバトルに対しては『趣味が悪い』などという声も確実にある。
順位なんてつけなくてもいい。勝ち負けなんてつけなくてもいい。
大切に思うが故に、そう思う者も多いのだ。
だが。
だが、しかし。
それでも、その世界でしか――『勝ち負け』のある世界だからこそ得られるものも、確かにあるのだ。
ライブバトルは残酷だ。だが、だからこそ美しい。
今、この会場にいる者にはそれぞれの思いがある。
観客も、スタッフも――アイドルも。
誰もが、それぞれの思いを持って、この戦いに臨もうとしている。
開戦の時は、近い。
*
「勝つぞ、アナスタシア」
「ダー」
*
「さあ! ライブバトル、そろそろ始まりの時間です! 今日のライブバトルは期待の新人、『新星』アナスタシアさん、そしてあのトライアドプリムスの一人、『煌めきの乙女』北条加蓮さんの対決です! 最近話題の新人であるアナスタシアさんですが、まさかこんなに早く北条さんほどのアイドルとライブバトルをすることになるとは思いませんでしたね! 北条さんと言えば、これまた最近パフォーマンスがさらに良くなったと言われています! つまり! どちらも最近話題の要注目アイドル、というわけです! 今回のライブバトルは先手が北条さん、後手がアナスタシアさん! さて! いったいどのような戦いを見せてくれるのでしょうか! 私も楽しみです! ……では! 北条さんのステージまで、もうしばらくお待ち下さい!」
*
控室。
既に準備は終わり、部屋には一人のアイドルしかいない。
ペパーミントグリーンの衣装に身を包んだ彼女は今までのことを思い出していた。
昔、純粋にアイドルを憧れていた頃。
アイドルになることをあきらめた頃。
すべてをあきらめて投げやりになっていた頃。
アイドルになって、でも、アイドルになれていなかった頃。
すべてが信じられなくて、どうしてアイドルを続けているのかわからなかった頃。
そして。
Pさんに、出会ってから。
あの人は、ずっと私のことを見てくれていた。
あの人に、私はアイドルとは何かを教えてもらった。思い出させてもらった。
私は、今、アイドルだ。
Pさんと離れることにはなって、でもアイドルを続けているのは、アイドルが楽しいから。
ずっと憧れていたアイドルになれたことは幸せで……そんな私がアイドルでいられるのは、ファンのみんながいるからだ。
私を応援してくれるみんな。私のことを好きだと言ってくれるみんな。
みんなのことが、私は大好きで……とても、とても、感謝していて。
Pさんがいなくても、そう思える。
幸せだって胸を張って言える。言えてしまう。
なら、今日のライブバトルはしなくてもよかった? 負けてもいい?
違う。
それでも、私には今日のライブバトルが必要だった。
Pさんがいなくても幸せでも。今でも十分幸せでも。
それでも、私はPさんといたい。
……怒られるかな。Pさんも、みんなも。私に、失望しちゃうかな。
ファンのみんな。凛や奈緒。それから――Pさん。
あなたは、私を最高のアイドルだって言ってくれたよね。
私は、今、最高のアイドルになれてるかな。
今でも、そう思ってくれてるかな。
「……ごめんね」
私は、アイドルだ。
アイドルだった。
今までは、アイドルだった。
でも。
「今日の、私は――」
*
会場。
加蓮のステージの開始時間まではあと少し。
観客の中には時計をちらちらと気にする者も出てきている。
ざわめきは大きく、誰が何を話しているのかはまったくわからない。
そんな中。
コッ、と音が響いた。
この喧騒の中では響くはずもないのに、どうしてか、観客は一斉にステージの方を見た。
その瞬間だけ、音が消える。
コッ、コッ、コッ、コッ。
ステージの上を、一人の少女が歩いている。
その音はたとえ最前列に座っていたとしても聞こえるはずがない、小さな音。
それなのに、今、会場にいるすべての人間がその音を聞いていた。
司会もカメラマンも、息を飲んで動けなかった。
そんな世界をつくった少女は、周囲のそんな反応に対して何も思っていなかった。
もっと言えば、それに気付いてもいなかった。
ステージの中央。予定の立ち位置まで行って、止まる。
そして、彼女はファンの方を向いた。
瞬間、世界は動き出す。
司会が何かを言い、ファンは少女の登場に興奮する。
だが、少女は。
北条加蓮は、それに対して何の反応も見せない。
緊張はなかった。
不思議と、今まであったどんなライブよりもリラックスしているように思えた。
今日のライブは、とても大切なライブなのに。私、どうしたんだろう?
そんなことを思うと同時に、今の自分が絶好調だということもわかっていた。
今までで最高のコンディション。
心の底から、そう思えた。
でも、今日が最高のコンディションって言うのも面白いかも。
正直、アイドルとしてはどうなんだ、って思う。
私情たっぷり。好きな人と一緒にいたいから……なんて、そんな目的でするのに、最高のコンディションって。
女の子としてはいいのかもしれないけど、アイドルとしてはどうなのよ。
……でも、うん。
今日の私は『アイドル』じゃないから。
ファンのためには歌わない。
ただ一人のためのステージ。
怒られるかな。失望されるかな。愛想、尽かされちゃうかな。
そんなことも思う。もしかしたら、そうなるかもしれない。そう思う。
でも。
私にとっては、これこそが。
すぅ、と加蓮は息を吸う。
イヤモニから声が聞こえる。
それに合わせて、ステージライトが消える。
いつの間にか、会場から声が消えている。
パキッ、とサイリウムを折る音が聞こえる。
ペパーミントグリーン。
その色が、会場を照らしていく。
それを見て、加蓮は少し微笑んでしまう。
みんな、大好きだよ。
でも、ごめんね。
今日は、今日だけは。
私は、みんなのためには歌わない。
ただ、一人のためだけに――
Pさんのために、歌うね。
そんな私は、アイドル失格なのかもしれない。
そう思う人も、いるかもしれない。
でも。
だけど。
私にとっては、これこそが。
たった一人のために歌うこと。
恋をした人のために歌うこと。
その姿を、見せること。
それこそが。
「……3、2、1――」
イヤモニからの声。
マイクを口元に持っていく。
そして――
【モバマス】アナスタシア「Сириус」【後半】
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アナスタシア「Сириус」
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