六畳世界から考察するチョコレートと恋愛ごとにおける関係
世間の麗しき婦女たちが一心に慕う男性へとその清らかなる思いを伝えるべく、何故だか甘ったるいチョコレートなぞを贈りつける日である。甘いチョコレートが得意でない人からしたらどう考えたところで迷惑千万、荒唐無稽と言い切ってしかるべきなこのイベントを、人はバレンタインデーと呼ぶ。
浮ついたことと縁もないような世間一般の悲しき男たちですらこの誰が考えたかも特に知らないし興味も湧かないような一つのイベントに浮き立ち、純粋な学生などは自らが登校する際の下駄箱を、ありもしない都市伝説などを信じて念入りに何度も挙動不審に調べることだろう。
私もそんな世間の愚かながら愛すべき男たちと同じく、小学生、中学生の時分にはそのような行為に勤しみ、結局は母から贈られる愛情のチョコレートに、ありがたみと悲しみとで心の内で涙を流したこともある。おそらくはだいたいの人間はそうであるはずなので、どうか同じような心境の読者諸賢は落ち着いてほしい。というよりもそうでなければ一層虚しくなるだけである。
さて、ここまで短く前置きをした私ではあるけれど、つまり言いたいことは単純なことである。バレンタインなぞ、阿呆が踊らされているだけの些事なのだ、と。
振りまいた水分は、いずれは蒸発し、雨と共に鴨川へと零れ落ち、琵琶湖疏水へと流れ溶けていったことだろう。もしかすると私のような悲しき男たちの汁の結露が現在の京都の河川を形成したのかもしれない。そうであれば、少しは自らの阿呆加減にも誇りが持てるやもしれぬ。きっとそんなことはないのだろうけれど。
当然ながらひとまず確定しているのは語り手である私だろう。私はさる大学の三回生である。四月になれば四回生であり、卒業して就職なり院に進むなりの進路をどんなに遅くても決めなくてはならぬ時期でもある。いや決断したところでもう間に合ってはいないだろうが。
次に小津。この男については、語るべきところが多々あるものの、私のように純粋で清らかであろう読者諸賢たちの心を汚すのもいけないので簡素に済ませよう。彼は一言で表すと妖怪である。人の弱い心に付け込み傷を抉り、それで飯を三杯も四杯も食べるようなおよそ人に誇れるような長所を持ち合わせない男である。私個人としては大いに認めたくないし今でもたまに後悔をすることもあるが、そんな彼は私のただ一人の友人である。
そして樋口氏。彼はぬらりひょんのごとき小津が師と仰ぐ人物である。茄子のような顔をして、年中を浴衣姿で過ごす彼の人物は妖怪の小津の師としては似つかわしく、掴みどころのない天狗のような人物である。おそらく彼について何かを掴もうとしても、得意の妖術でひらりと身をかわされてしまうだろう。事実として、彼はある飲み屋だかバーだかで一度宙に浮いてみせたそうである。人伝に聞いた話であるから真実かは知らないが、本当に彼なら可能かもしれないと思わせるほどの凄みが樋口氏にはあるのである。
一人目は羽貫さん。彼女は樋口氏や樋口氏とはただならぬ関係であるらしい城ヶ崎という人物の共通の知り合いで、歯科衛生士をしている。私も一度彼女の世話になったことがあるが、あれは男であれば誰でも経験してよかったと思える素晴らしい体験であった。また本人の思い切りのよいというか、気風のよいといった感じの性格には実に好感が持てることだろう。ただそんな彼女にも欠点があり、酔うと人の顔を舐める癖がある。しかしながらそんなこととは関係なく彼女は間違いようもなく美人であり、その魅惑的なスタイルには多くの男たちが挑んでは撃沈していると聞く。
二人目は明石さん。彼女は私や小津の一つ下の学年であり、工学部で建築を学んでいるらしい。彼女はどのような因果が雁字搦めになってそうなったのか分からないが、私のような阿呆と、なかなかに表現するには難度が高い、ウレシハズカシイ関係となった女性でもある。私にとって彼女は言い難いものの初めてそのような関係となった女性であり、私は彼女と接する度に帰宅してから自らの失敗を振り返っては六畳の部屋で一人震える日々を送っている。
とりあえずは必要になるであろう人物たちの紹介はここまでにしておく。長らくお待たせしたが、ここから物語をゆっくりと語っていくとしよう。読者諸賢は苦いコーヒーなり砂糖やミルクのない紅茶なりでも用意して、テキトウに転がりながら救いようのない阿呆である私の姿を気楽に嘲笑しながらこのオモチロオカチイと思われる物語をどうか拝聴していただきたい。
その日私は大学の附属図書館で調べ物に取り組んでいた。別にそれは重要なことではないので内容は割愛させていただく。とにかく、私はその調べ物のためにほぼ一日を費やして、夕方にもなろうかという頃にようやく図書館を離れたのだった。あとは愛すべき我が六畳の城へと戻りひたむきに本と向き合うだけの窮屈な時間から解放された我が身を労われば今日自らに課した任務は終了となるはずだった。
図書館を出て時計台の辺りへと差し掛かろうかというところでそのように私を呼ぶ声を背後から聞き取ると、私はくるりと後ろに回れ右をした。回った先には私の方へと歩み寄ってくる一人の女性がいた。彼女は理知的な眉をきりりとさせたままにつかつかと私の正面に立った。
「やぁ明石さん」と私は慣れ親しんだ調子で彼女にそう返した。私の目の前にいる彼女こそが先ほどの説明でも出てきた明石さんである。彼女は私の挨拶に軽く頭を下げると特に表情も変えることなく「これからお帰りですか。私もです」とだけ言った。
いい歳したオトナが恋愛関係でそんな初々しい中学生のような触れ合いでよいのか、と言う方もいることだろう。しかし、私と明石さんの仲は、昨今はびこっているようなそこいらの何だか間に合わせで生まれましたといわんばかりのインスタントな感情で結ばれているのではないのである。もっと深く、深すぎて沈んでしまってもう浮き上がらないほどの、精神的な繋がりがそこにはあるのだ。と私の方では勝手にそう思っている。
何せ私には明石さんがいるのだ。他のどんな女性が私を軽蔑し距離と取るとしても、彼女はきっと桃色ブリーフ一丁の私に「また阿呆なことをしましたねぇ」などと笑って迎えてくれることだろう。
しかしながら私も様々な小冒険を重ね、多少の勇気を無謀とは履き違えずに使うことができるようになった。今こそその勇気を奮う時なのだ。
こうして回想しながら述べている最中でも、我ながらあれは見事な誘いだったと自画自賛の念に駆られてしまう。
彼女とはよく、私がこれまでに読んできた小説や寓話、あるいは伝記などとにかく本と名の付く物であればどんな物でも、彼女が気を惹かれそうな本のことを話したものだった。そもそも私が彼女と出会ったのは下鴨の古本市である。お互いに相手の読む物には興味を持ち合っていたのだ。
彼女の返事を待ちながら、私は自分の言葉に何か問題はなかったか、少しでも噛んではいなかったかと自分の口から飛び出て耳を通して帰ってきた言葉をもう一度頭の中で無意味と知っていながら精査した。元々言葉を口にする際は何度も何度も石橋を叩き割る勢いで慎重に検査する私である。こうして出て行った言葉でさえ、どこかで失敗を疑ってしまうのだ。特にこういう大切な場面ではなおさらに。
私はどれほどに見ても慣れぬ光景に曖昧な笑みを浮かべると、「では行こうか」と小さく零すように返すとゆっくりと足に力を入れて進みだした。明石さんは私の右隣を維持したまま私と歩みを共にしながら、そうして私と二人で大学構内から出て行くのであった。
目的地に到着した私と明石さんは、先日見つけたときとまったく同じところにあった目当ての本を特に苦労することなく探し当てると、その値段を見ながら本の購入を検討しあい、最終的には美人であれば誰にでも弱いらしい古本屋の主が値段をまけて、明石さんは目的を達成したのだった。その金額は、私の知る料金よりもずっと安く、私はまったくもってなんといい加減な商売をするのだろうと思ったけれど、それほどに明石さんは魅力的に見られるのだと考えれば私も少しは目を瞑ろうと思わないこともなかった。その後せっかくだから少しばかりコーヒーでも啜りながら話をしようと近くの喫茶店まで二人で向かうことにしたのだった。
ただ歩いているだけでは沈黙が生じて互いにとってあまりいい雰囲気ではないだろう、と考えた私はその明晰なる頭脳をフル活用し、彼女との話題を模索した。結果的に思いついた話題は歩いているだけで浮き足立った雰囲気が伝わってくる街の様子についてのことだった。どこもかしこも、見たところうら若き乙女たちがそこらのスーパーや菓子店に赴き、何やら朱に染めた顔で同じような顔をした女性たちときゃっきゃっと言いながら包みを持って出て行く姿が目に付く。
いったいどういうことなのか、先々で目に入る多くの店に垂れ下がっている、純粋たる乙女たちをある一つの情念に意図的に駆り立てんとせんとする汚らしいオトナたちの必死な気持ちが先走っているように感じられるかわいらしく桃色に染まったのぼりやら看板やらを観察すれば、それははっきりと見えてくる。そんなことも分からぬような私ではないのだ。
冷静に私と同じ分析をしたらしい明石さんは自分と同じ女性たちをどこか遠い世界の者たちを見るような目で眺めながら淡々と言った。
「ああ、そうか。……明石さんは、その、興味はないのかい? こういうことには」
さも明日はそんな日だったかと今さらになって思い出したような顔で頷きながら、私はチラリと目をやるくらいの気持ちで明石さんに流し目で視線を一瞬送った。
別に私はバレンタインなぞ興味はない。だいたいチョコレートなどといういかにもオンナノコ好みな甘いお菓子なんて私は得意ではないのだ。むしろあんなモノを自分が相手を好いているからという理由だけで贈ってくる乙女たちからわざわざもらわねばならぬ男性諸君を思うと少し同情の念を抱いてしまうばかりでさえある。
だから私は別に明石さんが明日に何かをするかどうかなど微塵も興味など湧かない。そもそも明石さんがこのような阿呆らしい浮ついたイベントごとなどに参加するような人のはずがない。だからこれはあくまでもちょっとした話題なのだ。私が明石さんからチョコをもらいたいなどというそんな浅ましく浮世めいた破廉恥なことを考えているというわけでは断じてない!
「先輩。先輩はチョコがほしいのですか?」
「なぜ?」
「いえ、そのようにあからさまに気にしているような視線を投げかけながら聞かれますので」
「そのようなことはないさ。私ももうオトナなのだ。バレンタインなどという中学生くらいのコドモがするような恋愛行事など、疾うに卒業しているとも」
「そうですか……正直私もさほどあの手のイベントごとは好きじゃありません。ですので、明日はむしろチョコではなく大好きなお饅頭でも食べていようかと考えていたところです」
「なるほど。そういうことであれば明日は宇治の方まで一緒に出かけないか? 最近とてもうまい漉し餡饅頭を出す茶屋が出来たと樋口氏から聞いたのだ」
「それはよいことです。先輩がよければぜひともご相伴させてください」
明日の予定を詰めましょう、と足取り軽く先へと歩みを進める明石さんのその上機嫌な後ろ姿を私は眺めながら、しかし、何故だか力の抜ける、しょんぼりとした気持ちを心に抱いていた。
理由は知らぬ。知っているやもしらぬが知らぬと主張させていただく。確かに一瞬だけ心にその理由が浮かんだことは認めるが、それはすぐに間違いだと気付いたのである。読者諸賢ももしかしたら何やら考えたかもしらぬがそれも間違いであるとついでに主張させていただく。
世の中には、掘り下げない方が幸せなこともあるのだ。
「うむ。また明日」
時は過ぎ、私と明石さんは暖房の効いた暖かな喫茶店の中で一杯のコーヒーを味わいつつ明日の予定を詰めに詰めた後、彼女の住むアパートまで明石さんを送りその玄関で別れた。
明石さんは浄土寺の辺りにあるこじんまりとした茶の混じったレンガ模様の落ち着いた色合いのアパートを居としており、そこは彼女の持つ理知的な雰囲気にとても合う静かな空気を流すよい住まいであった。
私は明石さんがアパートの中へと消えていくのをしかと見届けるとひらりと身を翻し、まっすぐに家路へと着いた。
過去の私はたとえ孤独でも強くあろうと凝り固まった意地を胸に、雨にもマケズ風にもマケズ、雪や夏の暑さはできるだけ避けて丈夫ではないにしても病気をしない身体を保ち、玄米ではなく猫ラーメンなどを食してこの辛く長い独り身の暮らしという戦いを耐え抜いてきた有様であったが、今は違う。明石さんがいるだけで私の世界は大きく変化し、そして私の心は弱くなってしまった。
おそらく過去の私が今の私の姿を見れば「なんと女々しき姿か。お前はそれでも誰よりも気高く強くあらんとした男か」などと私を罵ることであろう。そんな言葉などくそ食らえである。今の私にはこれまでになかった充足感がある。これを知ってしまった今、つまらぬ過去になど何を言われたところで戻れるわけがないのだ。むしろ過去の私を今すぐに抱きしめて「強がるんじゃない。君はもう十分なまでに戦ったではないか。今こそ和平のときなのだ」と誠の愛を持って囁いてやりたかった。男が男にそのような囁きをするのは気色悪いことこの上ないので実際にはしないが。
昔、私は四畳半こそが人類に与えられた楽園の地であり支配可能な限界領域であるというようなことを述べたが訂正しよう。美しき四畳半に一畳半を増やした六畳こそが、人類を新たなるステージへと導き、革新者を生み出すのである、と。さぁ急がねばなるまい。私のことを六畳王国が待ち望んでいる。
と、そのときだった。
「おや、何してまんのん」
交差点を曲がり今出川通に入った私は、そこで背後から聞こえた実に覚えのある声に動きを止めた。その声色は、一度耳にするだけで声の主の内面に備わっている隠そうとしても染み出してくるいやらしい根性とどうにか音を閉ざそうとしても耳を塞ぐことを忘れてしまうような不思議な感覚を聞く者にもたらし、全人類を闇に堕とさんとするような深淵に潜む誘惑があるようであった。
私はゆっくりと振り返った。そこには想像していた通りに口元を歪めて、まるで魂を奪いにきた悪魔のごとき笑みを作り出す男がいた。偏った食事と歪みきった精神によって顔色がひどく不健康で、まるで月の裏側から地球へと降り立ってきた宇宙人のような風貌をしている。その男は、京の都に蠢く妖怪の中に立派に名を連ねており、ときに認めるに堪えない気持ちでいっぱいになってしまうが私の唯一の友人であった。
その名を小津といった。
「えへへ、では師匠からどうぞ」
「ちゃんと食べれる物入れたんでしょうね、小津くん」
下鴨神社、糺の森の近所に忽然と立つ骨董品めいた木造アパート「下鴨幽水荘」。この叡山出町柳裏に佇むオンボロで今にも倒壊寸前といった雰囲気の建物は、人から聞いた話によると幕末の混乱期に焼失して再建以後そのままであるという、窓から明かりが漏れていなければ廃墟同然、何も知らずにここを訪れた者は、九龍城に迷い込んだのかと思ってしまうらしく、それも無理からぬ話だと私も思う。
そんな「下鴨幽水荘」の二階、唯一の入居者がいる二一○号室の四畳半にて、私は三人の人物たちと鍋を囲んでいた。それもただの鍋ではない。各々が持ち寄った材料を一つの鍋にとりあえず突っ込んで暗闇の中で食す、いわゆる闇鍋である。
何故このような状況に陥ったのか。責任者へと問いただす必要がある。責任者はどこか。この場合の責任者は私という人間を動かす存在でありそれはつまり私自身である。そうなると私は自分で自分を責めなくてはならない。試しに二、三言だけ自問自答をしてみたけれど自我に対してだけは鉄壁の守りを誇るはずの私でさえもその心理的責め苦は大変辛いもので、私は追及を諦めることにした。いつ何時だって私を最も追い込むことができるのは他でもない私自身だったのである。
訂正 >>32の下鴨幽水荘の住所ですが、出町柳ではなく泉川町でした 最近見たアニメ版と混ぜてしまったらしく脳内補完していただけるとありがたいです
私の正面には小津の師匠である樋口氏、右隣には暗黒の中でもむしろ水を得た魚のごとき調子で気味の悪い鼻歌を歌いながら鍋を楽しそうにかき混ぜているらしい音を立てる小津、左隣には樋口氏の長年の知り合いでこの場の唯一の女性である羽貫さんがいる。
今日は小津の修行とやらの一環として闇鍋を催すことになったそうだが、わざわざそれに付き合う辺り、羽貫さんもかなりの変わり者であるように思う。私も人のことなど言えないが。
ちなみに樋口氏は明石さんの師匠でもあるらしく、私にはまったくもって理解不能なことではあるが、時には修行をつけていただくらしい。そもそも私は樋口氏が何の師匠であるかも知らない。当初は猥談かと思っていたが、明石さんがそのような不埒なことで弟子入りするとは到底思えないから、やはり謎である。聞きたいとも思わない。聞いたらきっと、私は深みに嵌って小津のように樋口氏の妖術に囚われてしまうことだろう。
「これは何でしょうかねぇ。幻の巨大ミミズですか」
「うっ……小津! お前だなこのあんころ餅!」
「まさか。僕はちゃんと食べれる物を入れました。あんこなんて重たい甘味は持ってきてませんよう」
「諸君。箸で掴んだ以上はちゃんと胃に納めるように」
いくらタダ飯とはいえ、小津に付いてきてしまったことをこれほどに後悔したこともないだろう。
舌に残る意味不明で冒涜的な余韻を振り払うべく、我々はすぐさまに電灯を点け、暗闇から狭き四畳半を開放する。
少しでも闇鍋の雰囲気を追い払うためには、まずは明かりを取り戻すことが先決のように思えたのだ。事実、部屋に一条の光が頭上から差し込むだけで、混沌めいた妖しき空気は浄化されつつあるように感じられた。
「あ、そうそう。はい、私からのちょっと早いバレンタイン」
ふぅ、と我々が一息吐き落ち着くと、羽貫さんは突如としてぽんと手を叩き、思い出したように呟いてガサゴソと手荷物の中から包みを二つ取り出した。包みの中から出てきたのは四角の細長い長方形の箱で、何やら不可思議な紋様で彩られた蓋には「かすてら」と書いてあった。羽貫さんは重度のカステラ好きであり、それはこうして集まるととりあえず飛び出してくる代物であった。
今回は私と小津に対して、義理チョコならぬ義理カステラとして用意してくれたらしい。私が思うに、それは羽貫さんから世間一般のバレンタインへの認識への新たなる挑戦である。
「おやおや、カステラですかぁ。羽貫さんも自由ですねぇ」
私と小津が口々に言いながら静々と箱を受け取ると、羽貫さんはけらけらと笑った。
「いいのよ、こんなのチョコじゃなくても。はい、樋口くんはこれの方がいいでしょ?」
「おお、これはこれは。ご好意痛み入る」
「師匠何ですのそれ」
「ふむ。これはかの『テングブラン』、またの名を『偽電気ブラン』という。……貴君らはまだ味わったことがなかったか」
羽貫さんからまったく別の包み――雑に和紙で梱包されていた――を受け取った樋口氏がべりべりと包装を破いて取り出したそれは、特にラベルも貼られていない瓶であった。中には飴色の透明度が高い液体が入っており、樋口氏が瓶を揺する度に中の液体は揺れ動き、狭い室内の光を受けて妖しく魅惑的に光っていた。樋口氏は何やらううぬと唸りながら大仰に説明をした。
小津は何やら樋口氏の語りに豪く関心があるらしく珍しそうに熱心な様子で聞き入っていたが、私はどちらかといえばそれほどに酒飲みでもないし、さほど興味も湧かず、ふんふんと話半分にしたり顔で頷くに留めておいた。
だいたい、樋口氏は語ること全てが胡散臭いのである。彼は自らを天狗と称したり、時には「かもたけつぬみのかみ」を自称し、毎年縁結びをするために多くの神々と会議をするのだなどといって、人をからかうように振舞う。何故明石さんともあろう人がこのような阿呆の権化のごとき人物に弟子入りしたのか私は不思議でしょうがないくらいである。
鍋を囲むために部屋の四方へと退けた信楽焼の狸や理髪店の宣伝灯などのこの四畳半に眠っていた遺物の山の中から、ちょうど四つあった百円ショップなどで売られていそうな安っぽい透明なグラスを発掘すると、私と小津は下の階の流しで若干の埃っぽさを持つそれらを手短に洗い、蠱惑的で妖しげな輝きを放ち続けるその豊穣なる液体をグラスに注ぎ込んだ。
そうして軽く乾杯をしてから、私はおそるおそるその未知の存在を口にした。
その味わいは確かに筆舌に尽くしがたく、小さき私のような身ではとても文に表すことも憚られる、衝撃的なものであった。たった一口ではあるが、酒が舌に触れ喉を通る瞬間、一筋の稲妻がごとき衝撃が走った。かと思えば次の瞬間にはそれは喉を潤す甘露と化し、その余韻のもたらす圧倒的浮遊感たるや、まさしく天狗の名を冠するだけのことはあると言えよう。
私はその液体を実に貴重な体験であるかのようにちびちびと飲んだ。小津は早々に飲み干すと「いいお酒ですねぇ、ささ師匠もう一杯」などと宣いながら樋口氏のグラスに一杯注いでからさりげなく自分の分にももう一口注いだ。
我々はテングブランを味わいながら、テキトウな世間話を肴にしていた。
「ねね、っていうか、私にもらわなくても明石さんにもらえるでしょ? チョコ」
この場に揃う面子は全員私と明石さんの仲を知っている。羽貫さんはややからかうような目で私を見ていた。それがどういう意図か理解できない私ではない。私は頭を振り、即座に表情を硬くして答えた。
「い、いえ。私も明石さんも、そのようなコドモ染みたことなどやりませんから」
「やっぱりあなたたちお付き合いなんてしてないんでしょう」
茶々を入れるように横から小津が一言口にした。「知ってますか羽貫さん。この人はいまだに明石さんとキッスもしてないんですよ。そのうち愛想を尽かされちまうんだ」などと余計なことまで抜かしていた。
この男はことあるごとに私と明石さんを破局したものと認定したいらしい。まったくもって無礼千万な男である。
だいたい私はお付き合いをしているからといって彼女と接吻がしたいわけではない。私と明石さんはもっと高尚な関係にあるのだ。この男はなんと破廉恥極まりない目で私たちを見ているのだろうか。
「ふん。そんなこと言って、知ってるんですよ? あなた正面切って明石さんに『好きだ』の一言も言えないんでしょう。何が破廉恥ですか。あなたなんてただのヘタレじゃないですか!」
「あらま」
「そんな言葉なぞ! ……なくても伝わるのだ、私たちは」
「それはどうかと思うわよー? 相手も不安になっちゃうわよ。私たち本当に付き合ってるのかなー、って」
羽貫さんの常識的且つ女性的目線の尤もな意見を耳に流しながら、そのうち言い合いがヒートアップした私と小津はつかみ合いながらお互いを罵り合う。最初のうちは、お互いのこれこれこういうところが私と小津それぞれの相手にこれこれこういう印象を与えているから直すべきだ、という相手への助言めいた罵倒から始まり、気付けば、お前は根暗だそういうお前はホモサピエンスの面汚しだ、などというただの個人的中傷の応酬と化していた。
そんな我々に対して羽貫さんはもっとやれなどとさらなる戦いへの期待の野次を飛ばし、樋口氏は我関せずと黙々とハンモックにごろりと転がりながらグラスを傾けつつ、足元にあるマチ針がチクチクと刺さった地球儀を蹴ってくるくると回転させて遊んでいた。その佇まいたるや、遠い俗世間の些事を悟りを開いた目で眺めている仙人でいるようだ。
「ふん! お前こそ、もう小日向さんとはどうせ別れたのだろう!」とすっかりありがたみなど忘れてテングブランをぐびぐびと勢いよく飲み干すと同時に、私は小津を鼻で笑うようにして揶揄した。
憤慨した私の返す刀に、小津はぶふぉ、と口にしていたテングブランを噴出すと、怒りを露にするかのように真っ赤に顔を染めた。その顔は普段は地獄からの使者のような振る舞いをする彼の姿を思うと似合わないほどの照れ顔で、素直にキモチワルイと私は思った。
「あなたこそ失礼な! だいたい、あなたには僕と彼女のことなんて関係ないでしょう!」
小日向さんとは、この悪鬼羅刹の化身たる小津とは正反対な清楚可憐な乙女であり、信じられぬことに小津の恋人である。一度だけお会いしたことがあるが、彼女は小津のような外道な妖怪に似つかわしくないほどに優しく、触れ合う者全てをふわふわとした暖かさに包み込んでしまう、まさしく極楽より顕現したこの世の救済を司る天使のごとき女性であった。女神と称しても良いだろう。
一体全体、神は何故このような悪魔と小日向さんのような御使いを出会わせてあろうことか結んでしまったのか。この世には神も仏もないのか。自分のことを棚にあげていつもそのように私は考えている。
「ま、何でもいいですけどねぇ。今年は参加なさらないってことですね、あれ」
「あれ?」
「とぼけないでください。『モダン連合』のことですよ」
「ああ……」
「何それ? モダン……?」
「モダン連合、です。通称ですよ。羽貫さんは知らなくてもいい名前です」
「ふぅん。なんかいかがわしいことするんでしょ。それは分かるわよ」
貸し出されたまま返却されない大学図書館の本を強制回収するために作られた「図書館警察」、キャンパス内の自転車を整理するために設立された「自転車にこやか整理軍」、偽造レポートなどの製造によって多くの学生たちから収入を得る「印刷所」。
これらの独立した組織が衝突しないように折り合いの場として作られ、その実では大学を裏で支配している上位組織「福猫飯店」、下鴨幽水荘を拠点とし幸ある人々を不幸の奈落へと落とさんと常日頃から暗躍する「大日本沈殿党」など、その名を挙げればキリがないほどの学内の多くの組織から一部の構成員や個人が参加する、全国でも有数の規模の結社である。
たとえば可憐な乙女から愛のチョコレートを受け取る予定を持つ男がいたとしよう。連合はその男を追いかけ回して彼が受け取ったチョコを奪い去り、それを別の形に溶かし固めて街頭を行く人々に振舞うという何とも意味不明でおよそ意義のあるとはいえない作戦を展開するのだ。
あるいはチョコをもらうべく乙女との待ち合わせ場所へと一人向かう男を捕らえ、この京都のどこかに存在すると言われる連合の総司令部へと連行して、この寒い季節にクーラーを効かせた最高に凍える室内で冷えきったカキ氷を桃色ブリーフ一丁などという破廉恥極まりない格好で完食するまで解放しないなどというとち狂った拷問を施したりする。
モダン連合はそのような悪魔めいた行為をいともたやすく行うほどに嫉妬に狂いに狂った悲しき男たちの汗と涙の結露たる寄り合いである。間違えてもその活力をモテるための努力に使えばいいのになどとは言ってはいけない。そんな努力をするような気概のある人間はそもそもそのような非生産的な活動などしないのだ。
しかし三回生の今年は違う。私には明石さんがいるし、この小津という男にも小日向さんという、この人を破滅に導く悪魔にはおよそ似つかわしくない清楚可憐な女性がいるのだ。そのような穢れた行事に参加するようなことはない。だいたい私は明日、明石さんとデートをするのだ。
ちなみに私はモダン連合の狩猟対象とはならない。モダン連合はただの野蛮な人間の集まりというわけではない。あくまでもモテない自分たちを差し置いて恋愛行事を楽しむ憎き男たちを妨害することが目的であって、ある程度の規則だってあるのだ。たとえばバレンタインの場合は、普通にデートをしているだけの男女は襲わず、チョコをもらうという行為を妨害することにのみ目標を絞ること、などだ。ただ饅頭を一緒に食べに行くだけならば問題なく明日は過ごせることだろう。
「いやはやうまく逃げませんと。相島先輩は僕がチョコをもらうと皆に嘯いて扇動しているらしいんですよ。前にからかってやったときの仕返しをしてやろうという腹積もりなんでしょうな」
京都市内でもかなりの勢力を誇る諜報機関としての一面を持つ「図書館警察」、そして多くの組織から資金源として頼られる「印刷所」から端を発し学内外を問わずあらゆる組織に影響力を持つ「福猫飯店」。その両方の頂点の地位を手に入れるべく、かつて小津と相島氏は争った仲である。結局相島氏を小津は一時は蹴落としたものの、その後の小津のスキャンダルによって最終的には相島氏がトップへ返り咲いて戦いは終結したと聞いている。そして小津はもうそれらの組織から除名されたはずである。決着のついた以上、相島氏と小津の因縁もすでに解消されたはずだが……どうも小津は知らないうちに火種を抱え込むきらいがあるらしい。
相島氏はモダン連合にも毎年参加していて、その地位ゆえに連合の中でもかなりの発言力を持つらしく、どうやら彼は小日向さんの存在を利用して小津を狙い撃つつもりであるとのことだそうだった。
図書館警察の情報網は正確無比な上に伝達が早い。いかに様々な伝手を持つ小津といえど、その魔の手から逃げるのはかなりの苦労となるだろう。
そう思っていた私に、小津は「けけけ」と人を小馬鹿にするように笑うと、堂々とした調子で「いえいえ。秘策があるのです、ええ。あなたは明日は明石さんと宇治で楽しく饅頭なんて食べるんでしょう? どうぞ気にしないで楽しんでください。お土産期待してますよ」などと言いながら、樋口氏からさらにおかわりを頂いていた。
羽貫さんは「あ、ずるい」と言いながら同じように樋口氏からおかわりを注いでもらうと「あ、私もお土産欲しいな」などと私に期待するような眼差しを向けて微笑んだ。
「はぁ……それくらいは別に買ってきますけれど」
気のない返事をしながら私は酒を煽り合う三方をぼんやりと眺めつつ、明日のことを考えていた。不思議な話である。去年の二月十四日は確か、モダン連合のために様々な行動をうきうきと……失礼、いやいやにしていたはずである。そんな私が、今年は明石さんのような黒髪の乙女とデートをするというのだ。私の世界はこれまでにないほどの広がりを見せ、広がりすぎてもはやどこまで続いていくのか分からないほどだ。まさしく一寸先は闇である。
と、そうして様々なことに思いを馳せているうちに、闇鍋会は解散となり、私は小津や羽貫さんらと別れ、今度こそまっすぐに出町柳の下宿へと戻った。下宿はまだ新しめの鉄筋コンクリートの三階建てで、六畳の部屋と個室トイレが付く破格の物件であった。
愛すべき六畳の王国へと帰国するやいなや、私は早々に入浴をシャワーのみで済ませて眠る準備をすると、睡眠に対する万全の体勢を整え、新たな夢の世界へと船を漕ぎ出した。
明日は私にとってとても大切な一日となることであろう。そしてその予測は何も間違いではなかった。ただしこのときに想定していたことと違い、全てはまったくの想定外の事態に包まれることとなったけれど。
私の部屋はアパートの二階の正面から右奥の角部屋で、玄関から部屋へと入って右側に台所、左手前のガラスの仕切りに風呂と洗面所、左奥側のドアの先にトイレ、奥の方に摺りガラスの窓がついたドアで仕切られた六畳の空間がある。
洗面所から出ると私は六畳部屋へと戻り、改めて枕元に置いているデジタル時計で時間を確認した。明石さんとの待ち合わせ時刻は十時となっている。彼女とは出町柳駅で合流して京阪本線からJR線を乗り継いで宇治の方へと赴く予定だ。
まずは向こうで軽い昼食を済ませ、それから腹ごなしにぶらぶらと街中を回りつつ、目的の茶屋で饅頭と抹茶を味わい、下鴨神社の辺りへと戻ってこれからの互いの縁故が続くようにと、馬鹿馬鹿しいことこの上ないと私は思うけれど、世間一般の愚かなるカップルたちと同じようなことをしてみるのも好奇心の塊たる私としては時にやぶさかではないと思い、縁結びで有名な相生社へと二人で参拝しようと私は考えていた。そしてその後は二人で猫ラーメンを食べに行く。だいたいの予定はこのようになっていた。
およそ三十分ほどが私に与えられている準備時間である。そうと分かると私は早々に朝食をオーブンレンジで焼いたトーストとジャムで済ませ、牛乳で喉を潤した後、洗面所にて歯を磨き髪を手入れして多少の寝癖を元に戻した。それから気軽に鼻歌など歌いながら着替えを済ませて、財布と携帯電話をズボンのポケットに突っ込む。
そうしているうちにもう出発するにはちょうど頃合の時間になっていて、私は全身を包む寒さへの鎧たる厚手のコートを羽織った。大丈夫、あれほどに寝床の中で完全に意識を失うまで行動パターンを想定していたのだ。全ては問題なくうまくいく。私はうむと誰にするでもなく頷いて、玄関へと向かった。
いざいかん、明石さんよ待っておれ。そのように時代がかった口上を口にしながら、私は靴を履き、ドアノブに手を掛けた。と、そのときだった。
がし、と私の手を何の言葉もなく引っ張るようにすると、その人物は私を外へと連れ出した。引っ張られてつんのめるように前へと出た私を待っていたのは、私よりも一回りも丈の大きい、いかにも屈強そうな男たちであった。その揃いの制服には見覚えがあった。それは誰であろう、「自転車にこやか整理軍」の者たちであった。
「え、え、え?」と予想だにしない光景に目を丸くする私を他所に、男たちは驚いてすっかり縮こまった私を御輿のように担ぎ上げて、「こちら実行部隊! 目標を確保!」などと言いながらアパートの廊下をのしのしと歩き、えっほえっほと快活な掛け声を上げながら階段を下りていく。
彼らは間違いようもなく「自転車にこやか整理軍」である。これまでに何度も見た姿だからそれは自信を持って断定できる。しかし彼らが突如私の家へと押しかけこうして連行する理由が分からない。私は特に図書館警察に狙われるようなことなどしていない。
それが何故? まったく回転を怠らない頭脳で私は考察を進めた。彼らが今日この日に動くような理由。あとは――バレンタイン? いや待て。私は「モダン連合」の標的にはならない。チョコをもらう予定なぞとんとないのだ。そんなこと、図書館警察の情報網を以ってすれば知りたくなくても知りえるはずである。しかしだとしたらこれはいったいどういうことなのだ?
いけない、このままでは何がなんだか知らぬうちに連行されてしまう。どうする? 何か考えなくては――
と、そこで私は男たちの手の上で必死に辺りを見回した。何か、何かないか。こういうときだけ発揮されるまるで肉食動物の魔の手から逃れる草食動物のごとき目ざとさで私は周辺を観察する。九時を過ぎてそれぞれに休日を謳歌しようとしているらしき私と同じような学生たちの姿を確認しながら、そこである人物たちに着眼した私は起死回生の策を閃いた。
今にも私を車の真ん中の座席に放り込もうとしていた屈強な男たちはその声でぴたと止まり、私の指差す方角を見る。その先の路地には確かに、こんな朝方から二人で逢引して、いかにも市販品らしきチョコをその辺の百円ショップで売っていそうな包みに入れてさも手作りの物を持ってきましたといった風にして、でれでれと間の抜けた顔をした男へと手渡す乙女の姿があった。分かりやすいほどに私たちはそうですとあからさまに主張するような張り紙でも背中にしているのが幻視できてしまいそうなほどに阿呆なカップルである。
モダン連合規則、その三。特殊任務の中でも通常任務を果たすことを忘れることなかれ。この場合、通常任務とは当然、チョコを渡された男への組織的でありながらその実とてつもなく個人的な制裁である。
規則に対して忠実である彼ら整理軍はすぐに行動に移そうとした。しかし、そうなると担いでいる私の存在が邪魔である。かといって私を逃がすわけにはいかない。だが車に私を押し込んでいる間にあのカップルがどこかへと消える可能性もある。おそらくそのような逡巡を彼らはしていたことだろう。私の狙い通り、思考に気を取られた整理軍たちは、一瞬だけ力が緩み、確実に油断していた。
「あ、しまった!」などと男たちのリーダー格らしき人物が言ったときには、もう時既に遅し。私は作戦を実行するついでに見繕っていた逃げ道へと勢いよく駆ける。普段のそれとは比べ物にならない逃げ足の速さを以って、一拍子ほど遅れて動き出した男たちを私は置き去りにした。幸いなことに京都市内は複雑な地形をしている。この辺りで暮らし地理を完全に把握しているおかげで縦横無尽な移動を可能としていた私に、油断してしまった彼らが追いつける道理などなかった。
身体中の筋肉を襲う、普段から運動をしていないことによる急激な活動の反動に私は嘆息しつつ、落ち着きを取り戻そうと深呼吸を始めた。その効果もあってか、私は脳に酸素が満ちてくると、やっと平常心へと立ち返った。
「これはいったいどういうことだ! 私は今日は明石さんと楽しく一日を過ごすはずなのだ。だのに何故あんな丈の合わない制服をぴっちりと着るような筋肉ダルマたちに誘拐されかけねばならないのだ!」と冷静に怒りを胸中で叫ぶ。意味不明だ。私は特にあんなくだらない桃色恋愛行事になど参加する予定などないというのに。どうしてこのような理不尽な目に遭わねばならないのだ。
これはもしや私の危機をスバラシキ愛の念力を以ってして察した明石さんからなのではないか!? とすぐさまに都合よく思い至った私は携帯電話を取り出した。まったく想定外の出来事のせいで慌てていたのとそのひどい願望のせいで着信相手も確認せずに私は電話に出た。すると。
『おはようござんす。どうです? ご無事ですか?』
その人をおちょくるだけおちょくって最後にはけたけたと後ろ指を差しながら無関係を装って笑ってきそうな底意地の悪い声を耳にした途端、私は全てを察した。
ゆっくりと私は携帯電話を耳から離して通話画面を見る。そこには「小津」と表示されていた。
「小津! テメエこの野郎、私をいったい連中にどう売り込んだんだ!」
『連中? 何のことです?』
「モダン連合だ! お前、相島先輩に私を自分の代わりに狙うように言ったんだろう!」
そうとしか思えない。さっき小津が電話を掛けてきたときの、まるで私がどんな目に遭ったかを知っているかのような言葉からして私には分かる。小津が昨日言っていた秘策とかいうのはつまり、私を身代わりに使うことだったのだ。
小津はたっぷり間を置いて、実に余裕を隠し立てもしないで表に出しながら答える。
『いやだなあ勘違いですよ。ただ僕はあの闇鍋会の後に相島先輩にちょっとお話しただけですよ、「僕を標的にされるんでしょうけどその前に少しくらい弁明させてください」ってね。そこであの人と世間話してるうちについうっかり、僕の友人がバレンタインに明石さんからチョコをいただくので、本当に小日向さんからチョコをもらうわけでもないのにそう相島先輩が皆に吹聴してる僕なんかを狙うよりもいいかもしれませんねぇ、いやむしろ僕の身代わりに差し上げますから見逃してください、なんて口を滑らせただけですよ』
私は恨みがましい口調で搾り出すような声で返すと、状況を整理した。
つまりこういうことである。まるでメロスがセリヌンティウスを邪知暴虐な王に人質として差し出すように、小津は私を相島氏に差し出したのだ。ただし、メロスと違い小津は友情の欠片もないような破廉恥な男であるから、絶対に戻ってこない。私の処刑は決定しているのである。
人を煽るように無駄な説明口調でそんな言葉を並べ立てた小津に対して、私はぷるぷると心中で怒りを溜めに溜めて決壊寸前のダムのようにすると、必ずや明日は小津を二人でよく行く居酒屋に連行して、たっぷりのきのことあっさりした鳥肉がうまい健康的なきのこ鍋をお見舞いしてやろうと決意した。そうしてあの不健康な青白い顔色の血行を少しでも良くしてしまえばいいのである。
「こ、この野郎……何回も参加してるんだから知ってるだろう。実行部隊の連中は聞く耳持たないような物騒な連中なんだぞ? そもそも情報を流したのがお前じゃ私の弁明など聞いてもらえないに決まってる!」
何事であっても信用のある情報が優先されるのが人間心理の尤もな部分である。この場合で言うと、私に関する情報を流した小津という男はとてもとても信頼ならない男ではあるが、その小津が収集した情報には圧倒的な信用がある。そういうものだ。だから今回の件についていくら私が小津から流された情報は嘘であると主張したところで、当事者たる私がむしろ嘘を吐いて拷問から逃れようとしていると解釈されることだろう。
「よくもそんなことをヌケヌケと……!」
石炭燃料を投下された機関車のごとく蒸気を噴するほどの興奮を感じつつ、私はこの卑劣極まりないな友人へさらに何事か文句をぶつけようとした。と、そのときだった。
『ああ、待ってください。今行きますよ、ええ』
まるで電話の向こうで誰かに促されたかのように私ではない人物に返答する小津に、私はすぐに食らいついた。先ほどまでそんな余裕などなかったが、小津と話しているうちに落ち着いてきた私は、電話口の向こうによくよく聴覚を集中してみると何だか騒がしいような印象を覚えた。まるでどこかの駅にでもいるかのような音だった。電車が発車するときに鳴る警告音が遠くから微かにしたのである。
『ああ、いや。まだ関西の本場の笑いを見たことがないというものですから。ええ、感謝してますよ。あなたで時間を稼いだおかげで連中に捕捉されずにこっそり難波まで来れました』
「まさか、小日向さんか? 私を差し置いてお前だけデートか!?」
なんたることか。このまさしくホモサピエンスの面汚しであると表現せざるをえない卑怯な男は、あろうことかこの三年間を無駄に一緒に過ごしてきたこの私を物騒な連中に売りつけた挙句、自分だけ楽しくあの清楚可憐な乙女と逢瀬を重ねるというのである。
しかもあろうことか若干粗野な雰囲気のある関西の笑いの場だと! あれほどに上品な雰囲気を醸し出す彼女を吉本新喜劇などで有名ななんばグランド花月に連れ出して、思い切りコテコテな関西の笑いを一緒に楽しもうなどとは、小津はなんと罪深き男なのであろうか。もう一度言おう、なんたることか。
『いえいえそういうわけでは……おっと、はい。ちょっと待ってくださいってば』
「おいちょっと待て! 話はまだ……」
『あなたなら大丈夫ですよ。逃げる人を散々図書館警察時代は追いかけたじゃありませんか。そのノウハウを活かすんですよ。じゃ、また』
確かに私は過去に小津と共に図書館警察に籍を置いていたこともある。ちなみにそのときの貸し出し図書の取立て相手は樋口氏であった。あれを参考にしろなどと言われても私は鞍馬山などで修行を積んだ天狗ではない。彼のように妖術など使えないし、小津のような逃亡を補助してくれる人間もいない。どうやっても活かせないであろう過去の経験を用いて逃亡しろなど、土台無理な話である。
それについて述べて抗議してやろうと私は息巻いたが遅かった。ぷつっ、と独特の音が耳に響いたと思ったら、後はもうただただ通話の終了を知らせる音が耳元で鳴るばかりである。
と、新たな決意をそこそこに、そこで私ははっとして携帯電話を持つ手に力を入れた。眼前まで持ち上げた液晶の画面を覗き込んでそこに表示された時刻を確認してみれば、もう九時五十分を過ぎる頃であった。明石さんとの待ち合わせまでもう十分しかない。とにかく、彼女に連絡をせねばなるまい。とても言い辛いし言いたくないけれど、今日の予定が中止になってしまうことを伝えなくてはならない。
何度も言いたいが、どうして私がこのような憂き目に遭わねばならないのだ。誰かに説明を求めたい。きっと必要なときに限ってその威光を発揮してくれない底意地の悪い神や仏の仕業に違いない。いつか必ず、京都中の寺社仏閣の神々に異議申し立てをしてやろう。
『先輩? どうかされましたか?』
「すまない、明石さん!」
彼女の声を耳にするとほぼ同時に、私は無駄に頭を垂れながら明石さんに謝罪の声を届けた。おそらく彼女は突然のことに驚いただろうけれど、私はそのままの勢いで、とにかく事情を説明した。
連合の追手が逃亡した私を捕捉するまでにあまり時間もないと思われたので事細かには伝えなかった。モダン連合などという全ての男の恥部の寄せ集めのような耳を汚す組織の名などは伏せておいて、小津の卑怯な手で嵌められてしまい、相島先輩や自転車にこやか整理軍の連中に追われていることだけを私は明石さんに伝えた。特に、小津がブルータスやユダの中に名を並べて三大裏切り者としていずれ人類史に羅列されるほどに卑劣であったということを強調しておいたのは言うまでもない。
『つまり。小津さんのせいで今先輩は危機に陥っていらっしゃるのですか』彼女はそのようにまとめた。
そう、全てはその通り。あのまったくもって友達がいのない、小津などという恥ずべき男のせいで私のような善良で心の清き一般市民がひどい目に遭ったのである。
私は大きく頷きながら、明石さんに肯定してみせた。彼女はしばらく沈黙していたが、やがていつもと変わらぬ冷静な口調で言葉を紡いだ。
『とにかく先輩、今は……あ、封を開けないでください!』
急に遠ざかった明石さんの声に、私ははてと思った。どうも彼女は今、誰か別の人物と一緒にいるらしい。電話口の向こうによくよく聴覚を集中してみると何だか騒がしいような印象を覚えた。電車が発車するときに鳴る警告音が遠くから微かにする中に、何やら人の声のようなものが混じっている。駅なのだから当然かとも思うが、それにしても携帯電話で若干拾えるほどなのだから、おそらくはその何者かは明石さんと近くにいるのだろう。
「樋口氏に? どうして?」
『小津先輩の不祥事は、仮にもその師匠である樋口師匠が責任を取るべきです。師匠ならいつも逃げてばかりですからいい逃げ道を知ってるはずです。先輩が逃げてる間に、私は小津先輩に事態を解決するように説得しますから。先輩はどうにか逃げて時間を稼いでください』
なるほど、一理ある。明石さんの提案はなかなか建設的であるように思えた。樋口氏の妖術を扱うのは私には到底無理なことであるが、樋口氏のその無駄に浮世離れした力自体を借りることができれば、私のごとき凡人でも時間を稼ぐことが可能かもしれぬ。それに明石さんの言う通り、樋口氏が小津の師匠であるというならば、弟子の責任は師匠の責任となり、そしてそうであれば直ちに私に助力すべきなのである。
そうして樋口氏の助けを借りつつ私は逃れ続け、その間に明石さんがとっ捕まえてきた小津を相島先輩に捧げ返してやるのだ。やつにはメロスのような友情を一度学ぶ必要があると最近は思っていたことだし、実にちょうどいい。
私はその案に乗ることにした。そのように明石さんに返答し、私は全てを委託した。相手への絶対的な信頼。これぞ私の明石さんへの愛の表れである。
「ああ。ありがとう明石さん……本当に申し訳ない」
小津に対してどす黒く染まりきってもはや漂白することは無理と思われる感情とは別に、彼女には言葉通りの気持ちでいっぱいだった。出かけの予定を立てるときの、一見すると表には出ておらず、さりげなく見え隠れだけしていた昨日の楽しそうな様子からして、明石さんは楽しみにしてくれたはずである。今度は情けない気持ちで胸を満たしながら呻くようにもう一度私は謝罪した。
『いいんです。お饅頭はまた今度食べましょう。今は先輩の方が大事ですので』
明石さんはその言葉を最後に通話を終了した。私はまたしばしの間、立ち尽くした。しかし、今度は小津の裏切りに対する絶望からではない。どちらかというと、嬉しさで呆けていたのだ。
ああ、私はなんたる幸せ者か。小津のような悪魔と違い、明石さんは私の身を案じてくれる。これほどにこの世に生を受けたことを感謝したいと思う瞬間もないだろう。
私は身に余る幸福感を噛み締めながら、名残惜しむように明石さんと心温まる交流をさせてくれた偉大なる文明の産物をズボンに突っ込んだ。とにもかくにも、行かねばなるまい。行動せねば未来はないのだ。
私の住まいは元田中駅の近くであるから、私はそれなりの距離を走ったことになる。それを認識できないほどに私は逃走に必死であったらしい。下鴨幽水荘まではここから行くとなると徒歩では多少はかかることだろう。とはいえ急がねばならぬ。いつ追手が私を発見するかも分からない。そう思い、とにかく移動を開始しようとしたそのときであった。普段はそれほどに鳴ることもない私の携帯電話が着信を知らせてきた。今度は誰であろうかと相手を確認すると、何と樋口氏であった。
驚きながらも私はすぐにそれに応えた。彼も小津の師匠なだけあって、耳が早いのかもしれないなと私は何となく考えていた。電話に出た私に樋口氏はやぁとだけ答え、私もどうもとだけ返した。そんな軽い挨拶もそこそこに、樋口氏は本題に入った。
それだけ言うと、樋口氏は話は合流してからと残して、通話を一方的に切った。私にはそれに従う他に選択の余地はなく、私はとりあえず移動を始める。
幸いなことに市営バスの停留所が近いので私はそれで移動することにした。七条西洞院から四条西洞院で市営バスを乗り継ぎ、私は河原町駅までやってきた。途中、バスで連合の人間と出くわすようなこともなく、私は無事にたどり着けた。
そこから私は四条通を行き先斗町へと向かおうとした。が、うまくいったのはそこまでで、事はそこから先は思うようには運ばなかった。私がバスを降りて歩こうとした先にいる人々の中に、今朝間近で見たあの「自転車にこやか整理軍」の制服が見えたのである。
慌てて私は進路を変えて、河原町通を行って適当なタイミングで木屋町通に入ろうと考えた。しかし、今度はその河原町通の方面からまた別の制服姿がやってきた。ならば逆方向から迂回して行こうと私は南へと方向転換しようとして、またまた人々の隙間からチラリと窺えた制服を発見してやめた。
彼らに対し私は若干――本当に微細ながら、ざまあみろと思いつつも、私は道を進み、街中に散らばっている追手たちの視線から逃れに逃れ続けて、あろうことか木屋町とは真反対の方向へとどんどんと追いやられるように向かっていた。さらに回り道をし続け、もはや自分が正しい道へと向かっているのかも判断しかねてしまいそうになる。
それでもどうにか遠回りし続け、気付くと私は柳小路へと入っていた。様々な飲食店が並ぶ道だが今は特に人も居らず、がらんとしていた。私は一人でゴーストタウンにでも来たかのような錯覚を感じながらも、とりあえず静かな道を進んでいく。ふと、その途中で足が止まった。
私が視線を送る先には、八兵衛明神があり、多くの信楽焼の狸たちが社にみっちりと並び、参拝者たちを迎えるように座っていた。そこで何を思ったか、私は無事に今日をやり過ごし、いつかまた明石さんと宇治へと出かけられることを祈ろうと、八兵衛明神をお参りすることにした。
そう考えながら参拝をしていると、自分の立つ狭い道の、さっき入ってきた方面から響いてくる靴音を聞き、私は動きを止めた。その靴音は私の隣で止まる。私は瞳を閉じたまま、何者かの気配を感じていた。もしや追手か!? と先ほどに見たむせび泣く男たちの姿が脳裏にフラッシュバックし、これまでの出来事のせいで神経質になっていた私は勢いよく目を開けて気配のする方をばっと向いた。
その先には、筋肉をこれでもかと顕示するような屈強そうな男などではなく、ちょこんとした印象のある黒髪の乙女がいた。彼女は突如として自分の方を向いた私に驚いたらしく、まぁ、などと手を口に当てて大変に驚いた表現をしていた。
「いえいえ。……大丈夫ですか? 何だかひどくお疲れのようですが」とその乙女は私に好奇心旺盛そうに輝く瞳を隠しきれない様子で気に掛けるような声を発する。初対面の女性に対して失礼である、と今になってそう思うけれど、私は突如現れた黒髪の乙女をよく観察してみた。何となく、その立ち振る舞いに「ふはふはして、繊細微妙で夢のような、美しいものだけで頭がいっぱいであろう」という印象を私は感じ取った。
彼女は小さく私に微笑むと、こじんまりとした社の前に立った。
「いえ、その。ちょっと友人の身代わりにされまして。今必死に逃げているところなのです。それで、せっかく近くを通ったから、自分の無事を祈ろうかと」
何故か、私は彼女の質問に答えてしまっていた。不思議なことである。一瞬だけ理由を考察してみて、彼女の無垢な瞳の前では私のような薄汚れた魂も偽ることや沈黙することを忘れてしまうのだろう。そう結論を出した。私の言葉に、彼女はもう一度、まぁ、とやった後に「ご友人の身代わりですか……何だか大変ですねぇ。これも何かのご縁。私もあなたのご無事をお祈りさせていただきます」と、本心から私を労うように言うと、「なむなむ!」と社に向かって手を合わせた。
「万能のお祈りなのです。なむなむ!」
「なるほど。では私も。なむなむ! なむなむ!」
私は彼女に合わせて合掌して祈りを真似てみた。必死である。しかしながらそれも仕方のないこと。私はそれほどに精神的に参っていたし、状況は逼迫していたのだ。そんな私の様子に、彼女は「そんなに何度も言わなくても大丈夫ですよ」と若干の苦笑と共に言う。
その言葉でようやく私は自分を客観的に理解し、少しだけハズカシイ気持ちにうろたえつつ、頭の辺りを掻いて誤魔化すように笑った。しかし、と私は改めて黒髪の乙女を見た。もう昼も近いこんな時間に女性一人でお参りとは、何だかイマドキ珍しいことだと思ったのだ。
「いえ。今日はちょっと、八兵衛明神様に私の小さな背を押していただけたらなぁと思いまして」
私の質問にそう答えながら、彼女は自分の手荷物の小さな手提げかばんに視線を落とした。
「今日はバレンタインですから。ある人に日ごろの感謝をチョコでお伝えしたいのです。ただ、こういったことは初めてでして。心に活を入れるべく、その人と合流する前に、今日は勇気を頂きに参ったのです」
そうぽつぽつと語ると、彼女はチラリとチョコの入っているらしき小さな赤の箱を取り出して私に示した。包装紙には、何故か朱で彩られた真ん丸な達磨とこれまた見事な緋色の錦鯉がプリントされている。
天狗、という単語に私は何だか予感めいたモノを感じて、それとなく聞いてみた。
「もしやその天狗は樋口という名では?」
「樋口さんをご存知なのですか!」
「ええ。彼の弟子と友人でして」
「そのお方はカラス天狗なのですか?」
「いいえ。ただのぬらりひょんです」
まったく予想外の縁から、私はすっかり彼女と話に花を咲かせていた。八兵衛明神を離れ、何とはなしに向かいにあるタバコ屋の軒先へ立つと、私は何となく待ち合わせしている相手を待つ彼女の時間潰しの相手を買って出た。そんな場合ではないが、どうも話を切り上げる気になれなかったのだ。これはこの黒髪の乙女が気付かぬうちに不可思議な妖術を使ったのではないかと、今は睨んでいる。何せ樋口氏の知り合いだと彼女は言うのである。
それに応えるように私もいくつか話した。今日は本来であれば明石さんという女性と宇治まで饅頭を食しに行くはずだったこと。そうならなかった原因を作り、私を身代わりにした友人はメロスどころではなくただのユダであるということなどだ。
そうして互いに笑っているうちに、時間は過ぎていく。私は目的のことなどぽっかりと頭から抜け落ちていた。しかし、どんなことにも終わりがやってくるものである。
唐突に現れる追手の影に、私はすぐにそれを思い出すこととなった。私が彼女にさらに小津の話を聞かせてやろうとしたその時、小路に入ってくる、今日だけで一生分は目撃したと思われるあの制服に私は気付いた。
慌てて私は逃げようとしたが、今この一本道の中で背を向けて走っては、相手だってすぐに気付くだろう。最初に拉致されかけたときに逃げれたのは、相手が油断していたからだ。今回は違う。走る条件は一緒。そして体力は向こうの方が上手である。これはまずい。となると、私がすべきは身を隠すことである。
私は頷き返すと、隠れ場所を検討し始めた。もう相手との距離はそれほどにないだろう。とにかく、急がねば。そう考えていると、私よりも早く、黒髪の乙女が「こちらにどうぞ!」と私を煙草屋の中へと手招きした。急なことだったが、私は素直にそれに従い中に入る。薄暗い店内では一匹の丸々とした猫を膝に抱えた一人のおばあさんがいた。
「突然で申し訳ありませんが、かくまってください!」と本来私が言うべき台詞を乙女が言うと、おばあさんは特に何も言わずにじっと私を見ていた。とりあえず出て行けとは言われなかった。好意的に見るなら、了承してくれたということだろう。
ぺこぺこと頭を下げに下げ続ける私を置いて、黒髪の乙女だけが軒先へと出て行く。私ははっと息を呑みながら、うずくまって外から見えないように隠れた。やがて、彼女と整理軍の男が会話する声が聞こえる。
「すみません」
「はい?」
「この写真の男を見かけませんでしたでしょうか?」
「ええと……あ、この方でしたら先ほどあちらの方へと慌てて走っていられましたが」
「これはどうも。ありがとうございます」
「いえいえ」
「もう大丈夫ですよ」と乙女の声がしたのでホッとした私は「どうもすみません」と、か細い声でおばあさんにお礼を言ってから、そっと音を立てずに店から出た。
「ありがとう」
「いえ。お気になさらず。本当に大変ですねぇ」
頭を下げて礼を述べた私に、彼女はにこりと笑って逆に私を気遣ってくれた。これほどに素晴らしい女性とお付き合いをしているらしいその先輩なる男が、少しだけ羨ましく思えた。いやいや、私には既に明石さんというこれ以上ないパートナーがいるではないか。何を言っているのだ私は。つまらぬことを考えてしまった自分を戒めるべく、私は自分のおでこをポカリと殴った。突然の行動に、黒髪の乙女は実に不思議そうに首を傾げていた。
「やぁ。すまないね、待たせてしまった」
あからさまに挙動不審な振る舞いをする私の背後から、急に男の声がした。
「あ、先輩!」
私の肩越しに誰かを発見すると、嬉しそうな声色で黒髪の乙女は走っていった。その背中を視線で追ってみると、いかにも理知的な雰囲気を放っている一人の青年が乙女の向かう先に立っていた。しかしその理知的な雰囲気は見かけだけだとすぐに私は直感した。この青年からは、私と同じようなニオイがしたのだ。まるで麻薬捜査をする警察犬のように鋭い嗅覚で、私はそれを嗅ぎつけた。この男は間違いなく阿呆である。おそらく相手も同じことを嗅ぎ取ったことだろう。
「……どうも」「ああ、ええと……どうも」などと微妙な距離感で我々は挨拶をした。同じような型の人間が出会うと、何だか息苦しい感覚に人は襲われる。私は新たな発見をした。
これ以上、一緒の空間にいると間違いなく居た堪れない気持ちに苛まれることになるだろう。私は次の行動を考えた。こうして黒髪の乙女が待ち合わせの相手と合流したのならば、もう時間潰しの相手はいらない。そう判断して「私はこれで失礼するよ。どうもありがとう」と紳士的に礼だけ言うと、私は彼らと反対方向へと歩き出した。「がんばってくださいね!」という彼女の心優しき応援を耳にしながら私は進んでいく。
やがて彼らもまた歩き出したのであろう、会話が歩き始めたときよりも加速的に遠ざかっていくのが分かった。「先輩、今日は宇治の方へと行きませんか?」という黒髪の乙女の声を背に、私はまた走り出した。
目的地――樋口氏に指定されていた待ち合わせ場所である、京料理店「千歳屋」はすぐに見つかった。店は高瀬川の反対にあり、既に話が通っているらしく、玄関から店の暖簾をくぐった私を見るや、店の若旦那が近付いてきて「樋口さんはこちらに」と、入ってすぐ脇にある階段から行ける二階へと案内してくれた。
二階へと上がると、まず細い廊下があった。奥には手洗いらしき扉と、その左隣には、手前と奥それぞれに座敷の障子が見えた。右にはぽっかりと空いた空間が一つ、左の座敷二つの入口の中間の辺りの位置にあり、そこには照明で優しく照らされている、瀬戸物らしき壷に生けられた梅の枝が見えた。
奥の座敷にいらっしゃいます、と若旦那は言うと忙しそうに階下へと降りていった。一人になった私は、落ち着いた和の雰囲気のする素晴らしい廊下を進み、座敷へと踏み入った。
「はろー」
障子を開けて座敷に入ってきた私を、羽貫さんと樋口氏が迎えてくれた。座敷は四畳半のこじんまりとした雰囲気で、私から見て右にある床の間には何だかよく読めない掛け軸があった。奥には障子窓が一つある。位置から考えて、おそらく窓からは高瀬川が見えることであろう。部屋の真ん中には細長い漆塗りの机があり、窓側に樋口氏、入口側に羽貫さんが、それぞれ床の間側の座椅子に座っていた。
ようやく信頼のできる人々に会えたことに安堵感を得つつ、樋口氏の言葉が気になった私はすぐに携帯電話で時間を確認してみた。いつの間にやら、時刻はもう午後の一時であった。
「しょうがないでしょう、どこを歩いても追手に見つかりそうな気がしたのです」ため息と共にそのように返しながら、私は机を挟んで樋口氏の正面の位置にある座椅子に腰を下ろした。座椅子は座り心地がよく、これまでずっと歩き続けて、そろそろ疲労が全身に回りつつあった私にはありがたかった。
そんな私を気遣うように言って、羽貫さんは立ち上がって座敷から出て行く。後には私と樋口氏が残された。
ふぅ、と私がもう一度完全に身体を落ち着かせるように息を吐くと、樋口氏がふと口を開いた。
「我が弟子がすまんなぁ」
実にゆったりとした調子の謝罪の言葉であった。知らない人が聞けば、謝る気が本当にあるのか怪しんでしまいそうだが、樋口氏は普段からこういう人なのだ。彼はどんな状況でもどっしりと構えて、まるで激流の中でも位置を変えない大岩のような人物である。
「せめて私なりに君の逃亡を手助けさせてもらうよ。ここの店主とはある一件で懇意にしていてね。時間稼ぎにはぴったりなのだ」
樋口氏いわく、この店の若旦那とは短い付き合いながらよく世話になっているらしい。追われることがあってもここに逃げ込めば、それなりに時間が稼げ、かつ食事も出るということだった。ちなみにその際の滞在費は小津に請求するように言っているそうだ。
なるほど、小津に請求が行くならば何の罪悪感もないことだし、軽食とは言わず、この店で一番高い料理を後で頼もうと私は考えた。が、よくよく考えてみれば今は逃亡中の身。すぐに逃走の体勢に入れるように、食事は出来る限り簡素に済まさねばならない。結局、羽貫さんが頼みにいってくれた簡単な物とやらを大人しく待つことにした。
「それにしても、貴君も大変であるなぁ。別段チョコレートをもらうわけでもないのに」
ふぅ、と吸い込んだ煙を吐き出しながら、樋口氏はそんなことを言った。ええ、とだけ私が返すと、彼はゆったりと窓枠から離れ、また自分が座っていた場所へと座りなおした。
それから、じっと私の目を見るようにすると、「しかし、本当にもらう予定はないのかね?」となんだか探るように言った。
「え? ええ、今さら実家の母からもらうようなこともありませんし、明石さん以外にそんなものをくれそうな人なんて……羽貫さんからもらったのはカステラですし」
急な質問に私が当惑しながら答えると、樋口氏はふぅむと茄子みたいな顔の輪郭を形成するのに一助していると思われる、特徴的な突き出た顎の辺りを撫で回した。
「いや、なに。その明石さんから本当に何ももらえないのかと思ってね」
「もらえませんよ。……明石さんは、こういうコドモ染みた行事など、やらないのです」
昨日のやり取りを私は思い出した。彼女は言っていた。正直私もさほどあの手のイベントごとは好きじゃありません、と。だから彼女からそのような贈り物がある可能性は無に等しいのである。そう思っていると、何を言うか、と樋口氏が私の考えを見抜いてか、笑い飛ばすようにした。
「贈り物をすることに子供も大人もあるまい」
「第一、明石さんがどうという話ではない。貴君はどうなのだ?」
「え?」
驚く私に、樋口氏は朗らかな笑みを向けてきた。一欠片も悪意を感じさせないその笑みは、まるで幼い子供のようであった。
「貴君は、明石さんからチョコをもらいたくないのかね?」
「それは……」
私は答えに窮してしまう。私はずっと、明石さんが、という出だしでバレンタインに関する問いに答えてきた。明石さんではない。私自身はどうであるか。その答えは。
盆を私の前にそっと置くと、羽貫さんは元いた場所に座る。それから肘をテーブルに載せて頬杖をし、こちらを覗き込むようにした。彼女はどうも私と樋口氏の会話を聞いていたらしく、我々の問答に加わってきた。
「小津くんから聞いたわよー? ホントはあなた、明石さんからチョコもらいたいんだ、って」
「そ、そのようなことを言った覚えは!」羽貫さんの言葉に、私は思わず反射的に立ち上がった。羽貫さんは突如声を大きくした私に特に驚くこともなく、余裕のある表情でいた。
「ないの?」
「いや、その……」私は言葉に詰まった。実のところ、羽貫さんの指摘は事実である。身に覚えがあったのだ。そのようなことをはっきりと、ちょっとした勢いで言ってしまったことを。
ぐつぐつと音を立てる鍋に私がテキパキと追加の具材を入れては、小津が肉だけを食していく。私に残るのは野菜ばかりであった。見せびらかすように溶いた卵の中に肉をくぐらせてから一口食べて、小津はにやにやとしながら、具材を放り込んだ後で残った野菜を口にする私を見ていた。
いい加減野菜も食え、と私が言っても小津はどこ吹く風であった。このヤロウ、とは思ったがこの鍋は珍しいことに小津の奢りであったので、私は何も言えなかった。妙に上機嫌なところを見ると、どうやら小日向さん関係で何か良いことでもあったのだろう。普段の三割増しほどにいやらしく邪悪な笑みを観察しながら、私はそう分析した。
我々は鍋を囲みながら、様々なことを語っていた。それは、大宇宙の始まりから人類の行く先までを考えるような、とてもとても有意義で価値のある内容ばかりであったけれど、時には偉大な話題にも箸休めがいる。そのために選んだ話題が、バレンタインについてだったのだ。私と小津は去年まで与える側ではなく奪う側であったことを共に回想しあっていた。そのときのことである。小津がふと、思いついたように話題を新しい方向へと発展させたのだ。
小津はおちょくるような笑みを崩さずに、わざとらしい調子で言った。自分だって同じ癖にとここで指摘すれば、一気に小津のこの笑顔も赤面し、あなたには無関係でしょうなどと彼はぎゃあぎゃあと喚くことだろう。そんな光景がありありと浮かんだので私は普通に返答することにした。
「いや、明石さんはきっとチョコなど用意しないだろう」
私が小津のからかうような言葉にあっさりとした調子で告げると、小津はぴたりと動きを止めた。意外そうな表情になると、彼は首を傾げた。
「どうして?」
「考えてもみろ。あの明石さんが、そんなあからさまに阿呆なイベントなどに興味があるわけがない」
私は軽く笑うと、また鍋の中から野菜を拾った。小津はふぅんと言いながら、相変わらず肉に手を伸ばした。それから、箸で掴んだ肉を口元へと運びながら私の言葉を鼻で笑うようにすると、
「そんなの分かりませんよ。というか、明石さんのことじゃなくて、あなたはどうなんですか?」
「私?」
突然に自分のことを聞かれ、私は思わず手を止めた。小津は私をじっと見ながら、少し塊になってしまっている肉を食い千切るようにして飲み込んでいった。それから、箸先を私に向ける。
「それは……まぁ、そのだな」
私がどう答えようかと悩みだすと、小津は誘惑するように薄気味悪い猫なで声を出した。
「ホンネで話しましょうや。僕とあなたの仲じゃありませんか」
「お前なんぞとそんな深い関係になった覚えはない! ……そりゃあ、まぁ、欲しいさ。私だって、男なのだ。そういうことに関心がまったく無いわけではない」
この二十と一年、チョコを贈ってくれた女性といえば母しか知らぬという私である。初めてできた、言わば男女の仲の相手がいるのだ。多少の好奇心も要因として加わり、私のごとき非活動的な男とは縁遠かったバレンタインのような恋愛行事で、もらう側になってみたいと思わないこともない。
「なんだ、やっぱりそうじゃないですか。素直に本人にもそう言えばいいのに。面倒な人だ」
「うるさい。お前のような無茶苦茶なやつに私の気持ちが分かるか!」
「分かりますとも。自分から欲しいなんて言うと何だかがめついヤツに見られて、明石さんに軽蔑されてしまうんじゃないかと恐れているんでしょう」
これ以上ないほどに図星であった。
「ええい、黙れ黙れ」
誤魔化すように声を荒げて、私は小津の口に思い切り椎茸を突っ込んでやった。小津はすぐにそれを吐き出して、代わりにまた鍋から肉を奪っていった。その後は、私はもうその話題で小津だけ盛り上がるのが腹立たしかったので、別の話へと流れを切り替えた。
「確かに、あのときはそんなことも言いましたけれど、だからって私は」いくらかの言い分を述べようとした私に、羽貫さんが身を乗り出して人差し指を私の唇に押し当てた。強制的に発言を止められた私に、樋口氏が今度は口を開いた。
「貴君ももう二十と一年を生きてきたのだ。そろそろ自分の不可能性と可能性くらいは推し量れるであろう。明石さんにチョコをもらうことは不可能性が高いと思うのかね?」
急に何だか重たい調子で樋口氏は私を諭すようにそう言った。その目は私の浅い底をさらうように光っていて、私は自分の内面の全てがこの人に見られているのではないかと錯覚した。おかしい。私はここに避難しに来たはずである。それが、何故、今こうして尋問のようなことをされているのだ。いつの間にか不可思議な状況に追い込まれた私は、押し黙ってしまう。
そんな私に、樋口氏は穏やかに笑むと、ゆっくりと息を吸った。
「もう一度聞こう、貴君は明石さんにチョコをもらいたくないのかね?」
羽貫さんの指が離れ、樋口氏に導かれるように、自然と私は何かを言おうとした。何が喉元から出て行こうとしていたのか。それは現在でも所在が分からぬままである。というのも、私が二の句を出そうとしたその瞬間、「……と、こんな具合で緊張も解けたであろう?」という樋口氏の被せるような言葉を聞いたからである。
「え?」思わず目をぱちくりとしてしまった私に、羽貫さんが「あはは、樋口くんってば人を誘導するの上手なんだからー」などと言いながら愉快そうに笑っていた。
しまった。やられた。私はからかわれたのだ。樋口氏はそれとなく場の雰囲気を作り出し、私から「明石さんのチョコが欲しいです」という一言を流れのままに引き出そうとしたのだ。それに気付き、私はひどく赤面した。危うかった。もう少しで、まるで私の本当の意思であるかのように誘導された答えがこの二人に受け取られてしまうところだったのである。なんという人の悪さか。やはり樋口氏は小津の師匠なのだと私は再認識した。
若干の怒りを込めて、荒々しく目の前の海苔で巻かれた三角形を私は一つ手に取った。そのまま勢いをつけて食べようかと考えていたが、私の猛々しさもそこまでで、近くに香ばしい海苔の潮の香りを感じた途端に、空腹を思い出して力が抜けた。よくよく考えれば、今日はトーストを一枚食べただけである。当然ながら補給もままならなかったので、身体はエネルギーを求めていた。
「いただきます」そう深いため息と共に呟くと、私はゆっくりと手の中のおにぎりを口に運んだ。ぱり、と気持ちいい音と共にそれを噛み砕くと、口いっぱいに海苔の塩味と米の飯の甘みが合わさって広がっていった。うまい。
そこから私は夢中になっておにぎりに食らいついた。おにぎりの具は梅干と塩鮭で、どちらも極めて一般的な物だったが、その味は至高であったと表現したい。空腹に勝る調味料はどこにもないということを私は改めて思い知った。そして胃の中へと収まったおにぎりたちの余韻を流し込むように、最後にぐいと一息で飲んだ熱い番茶の後味たるや、筆舌に尽くしがたかった。
「いい食べっぷりねぇ」どことなく嬉しそうに言うと、羽貫さんはお盆へ手を伸ばした。それから彼女はお盆を抱えながら起立すると、座敷からそれを下げていった。
「さて。時刻はまだ二時だ。気晴らしに何か話でもしていようか」
羽貫さんがいなくなってから、座椅子にもたれる私に微笑みかけながら樋口氏がそのようなことを言うので、私は彼の話相手になることにした。実際、追われていた緊張感を解すには、樋口氏のアヤシイ話でも聞いているのが良いように感じられたのだ。
私と樋口氏は様々なことを話した。最近の鞍馬山や高尾山の天狗事情、この京都のどこかに存在するとされている秘密の集まり「土曜倶楽部」や、その上位組織である「日曜倶楽部」についてなど、その話題はどれもこれも四方山話にしか聞こえなかったが、どこか真実味があった。
「彼らは大丈夫でしょうか? 今頃は連合にいやがらせを受けているのかも……」今になって落ち着いてから考えてみれば、彼らもまた、連合の狙う対象となることだろう。警告くらいはしてやるべきであったかもしれぬ。
ところが樋口氏は私の心配を一笑した。
「心配ない。あの二人、彼の方は学園祭事務局長の友人なのだ。事務局長は実に友人思いの男であると聞くし、何より小津の友人の一人なのだ。すでにいろいろと手を回していることだろう」
なんと、と私は樋口氏の話に驚いた。羨ましい。あの先輩なる人物は、自分のために何かをしてくれる心優しき友がいるというのか。天は不平等である。何故私と似たような阿呆と思われる男にそんな素晴らしき人物が友人にいて、私にはあんな悪魔めいた男しか友人がいないのだ。思わずそのことを私は樋口氏にぶつけた。
それから、「しかし、貴君。小津は確かに救いようのない阿呆であるが、あれほどに友人思いの男もいないぞ? 確かに方法は捻じ曲がっているが」とも加えた。
そんなことはない。すぐさま私は全力で樋口氏の言葉を否定したい気持ちを胸に抱いた。小津は私を身代わりに売り、あろうことか自分だけ幸せな道へと歩むことを選んだのである。良くも悪くも、あいつは自分本位なのだ。樋口氏は小津の師匠であるが故に、どこかしら贔屓目で小津を見ているのだろうと思う。そう私は樋口氏に反論しようとした。と、そのときであった。
なんたることだろうか。私は時間を確認してみた。時刻は午後の三時にもう少しでようやくなろうかという頃だった。まだ樋口氏と話し始めてから、一時間も経っていない。追手たちは私がここに腰を落ち着けて、早二時間ほどで私の所在を探し当ててしまったのである。こうしている場合ではない。早くここから脱出しなくては。
そう思い私は焦りを感じながら樋口氏に視線を送った。樋口氏は羽貫さんの報せを聞いても、まだのんびりとした様子でいて、大儀そうに立ち上がった。
「ふむ。ここへ上がってくるのも時間の問題か。仕方あるまい。貴君、逃げ道を教えよう。こちらに」
「は、はい」
座敷に入る際に履き捨てた靴を羽貫さんから受け取りつつ、樋口氏の向かう先へと私は付いていった。その先は座敷の障子窓であった。樋口氏は窓を指差すと、「ここから屋根に出れる。右隣の店の屋根が見えるかね? ここの屋根を歩いてそこに飛び移ったら、まっすぐに進んで、右に曲がりたまえ。その端には、その店の駐車場へと続く梯子を設置してある。それを使って駐車場に降りるのだ。いつも使っている逃がし屋をそこに待機させているから。後は彼に任せなさい」と説明した。
窓から身を乗り出すと、顔を出してすぐ下には瓦屋根があった。ぎりぎり人が一人ほど通っていけそうではある。右を見てみると、確かに瓦の道が続いており、隣の和菓子店にも同じモノが見える。飛び移るのもそう難しくはない距離であろうことも、ここからでも十分に確認できた。
途中で落ちた場合は危険ではないかと意見しようとすると、「急ぎたまえ。若旦那になるべく一階で留めておくようにとは頼んであるが、それも時間の問題なのだ」と急かすように告げた。
「がんばって。下を見なければ普通の狭い道よ」などと羽貫さんが気休めの言葉をかけてくる。だが、特に命綱もないし、二階であるから落ちたところで痛いだけで済むかもしれないとしても、それでも怖いものは怖いと思う。
私が躊躇していると、座敷の入口の方面から、どたどたと何者かが階段を駆ける音がしてきた。もはや、問答の時間はないようだ。
私は覚悟を決めた。
「ええい!」と掛け声を出しながら、私は靴を履き、窓枠から外へと出た。若干ながら平衡を保つのに苦心したが、どうにか私は瓦の上に立った。
そう告げる樋口氏の声を耳にしながら、私はなるべく下を見ずに歩き出した。落ちればどうなるのだろう、と一縷の不安を心の奥底に潜ませながらも、私は進んだ。途中、通行人たちが驚きの声を上げているらしいのが耳に届き、さらにはこの大捕物を珍しがっているのか、パシャパシャと携帯電話のシャッター音がした。これでは見世物である。私は何となく、池田屋で襲撃されたという攘夷浪士たちの姿を思い浮かべた。彼らが屋根から逃げたかどうかは知らないが。
そうして屋根の端へと到達すると、この料亭のすぐ隣に立っている和菓子店の二階の瓦屋根がすぐそこ、ここからおよそ十センチほどの距離の地点に確認できた。背後には追手が迫っていると半ば自分を脅すように内心で主張すると、私は決死の思いで店から店へと屋根を飛び移った。意外にも飛んでみれば本当に大した距離でもなく、私は失敗しなかったことにホッと安堵しつつも、そのまま瓦の上を道なりに進んだ。そうして道の終点に到着すると、和菓子店の隣の駐車場に続くと思われる梯子が屋根の端に確認できた。それを掴むと、私はするすると降りていく。どうにか料亭から脱出し、駐車場へと降り立った私は周囲を確認した。
確か、待機させている逃がし屋がいると、樋口氏は言っていた。その人物はどこであろうか。周りには和菓子店の利用客のモノと思われる車しか見えず、人影は無い。そう考えていた、そのときである。
「おおい、こっちです」
突如、私は現在位置の反対、駐車場の左側の奥の、一台の車が止められている辺りから声を掛けられた。それに反応するように、私は視線を声のした地点へと集中させた。そこにいたのは――
目標は彼ら整理軍の包囲網をすり抜け、逃げ続けていると聞いていた。そんなところへ、さる情報筋から、目標の青年が現在とある料亭でかくまわれているということを聞き、彼は仲間と共にその料亭へと向かった。そして目標を確保するべく、木屋町に建っていた店の中へと整理軍の面々は踏み込んだ。しかし、ここまで逃げ続けただけあって相手も勘がいいらしく、彼らが到着したところでまたも逃走してしまったらしい。それでもめげることなく、彼らは新たに追跡を始めた。目的の男は先ほど、料亭の屋根から屋根へと逃げたらしく、青年は仲間と手分けして、その行き先と思われる木屋町通周辺の捜索を開始した。
目標は見たところそれほどに足も速くはなさそうだし、そう大した距離を進んでいないはずだが――そう考えながら、彼は自分の担当である、料亭の隣にあった和菓子店を見回る。店の中に入ってみたがそれらしき人物はおらず、聞き込みも大して効果は無かった。彼は次にと、その店の隣にあった駐車場を見てみることにした。普通車が八台ほどは入れると思われる広さの駐車場にはいくつかの車と、左奥に一人だけ人間らしき背が遠くに見えた。
「ちょっと、そこの人」
「うん?」
声を掛けると、その人物はくるりとこちらを振り向いた。思わず、青年は驚いてしまった。何せ、相手はとてもとても不思議な格好をしていたのだ。
まず目についたのは、安っぽい紙製の、しかしステキにかわいい狸のお面である。それだけでかなりその人物の出で立ちは特異であると思われるが、さらによくよく見ると、彼は背中に旧制高校のマントを装備しており、それは風を受けてたなびいていた。
これは、なんと、噂に名高い正義の怪人、八兵衛明神の使いを自称し、今や総勢三百人超ほどは存在すると言われているぽんぽこ仮面、その人なのである。風に聞くところでは、ぽんぽこ仮面は去年からその正義の活動を始め、ある日を境にその人数は増えに増えて、近頃ではぽんぽこ仮面同士で干渉しないようにと、区画と日ごとにそれぞれが活動を担当する場を変えていると聞く。そのナワバリ意識はかなりのもので、同じ区画でぽんぽこ仮面を見ることは絶対にないそうである。
「すみません、この人通らなかったですか? うちのサークルの皆から借金をしてて、追っているのです」実にテキトウな嘘である。何せ相手はぽんぽこ仮面。正義の味方なのだ。もしもこの男を追っている理由を尋ねられ、正直に答えようものなら、協力してもらえないことだろう。ここは目標の男には悪いけれど、一つ悪人になってもらうことにしよう。
ふぅむ、とぽんぽこ仮面は写真をじっと見た。いったいこのお面で写真がちゃんと見えているのだろうかと思ったけれど、よく見ると目のところに穴が空いていた。
「ああ、この人ならば先ほど慌てて北へと走っていたのを見たよ。私はここらでさっきからパトロールしているが、いかにも怪しい雰囲気であったから、よく覚えているとも」と、あっさりとぽんぽこ仮面はそう言った。
相手は正義の怪人。当然ながら嘘は吐かないだろう。だって正義の怪人なのだから。そう結論付けると、青年はお礼を言って、その場を離れた。仲間からの連絡がそのタイミングで来たが、どうやら彼らは空振りだったようだ。しかし、青年は確実な証言をもらった。まだ近くに目標はいるはずである。ぽんぽこ仮面の言葉を仲間たちに伝えると、前向きに気持ちを改めて、青年は確かな足取りでその場を去っていった。
その声と共に、私は彼の車らしい軽自動車のトランクから出て、駐車場のアスファルトに立った。それから周りをきょろきょろと見渡し、安全を確認する。辺りには誰もいない。いるのは、ただ一人。
「ありがとう、助かりました」
そう、ぽんぽこ仮面だけである。初めて見るその姿をじろじろと物珍しげに眺めながら、私は礼を言った。
まさか逃がし屋が怪人だったとは、誰が予想できようか。さすがは自称天狗でもある樋口氏。このような怪人とのコネクションがあるとは御見それした。
「初めてお会いしましたが、本当に狸のお面なのですね」
なんとなく感想を洩らした。京都ではもはやこの正義の怪人は珍しくもなんともないらしいが、私は彼を初めて肉眼で見たのである。彼が出没し始めた頃は、いつもいつも出現情報を聞く度に、一目見ようと現場をちらりと見に行ったこともあるのだが、結局一度も出会えず、いつの間にやらその話題性も薄まり、私はとんと興味を失くしていたのである。
ううむ、後で写真を撮らせてもらおうか、明石さんに見せたらどんな反応をするだろう、などと、私は気軽な調子で考えていた。が、そこで。
ぽんぽこ仮面が急に、何だかおかしそうに笑った。紙製の仮面の下からだったので、その声はくぐもっていた。
「どうしました? 何がおかしいんです?」
私が尋ねると、ぽんぽこ仮面はさらにおかしそうに「ふふふふふふ……」と笑みを零した。とても気味が悪い。そう思っていると、ぽんぽこ仮面は笑うのを止めた。
ん? と私がその言葉に対し、疑問符を浮かべていると、ぽんぽこ仮面はおもむろに自身の正体を隠すマスクへと手を伸ばした。それから、少しずつ、その仮面を引き剥がしていく。
まさか、素顔を晒すというのか! これまで誰にも知られることなく、そしておそらくはそれほどに興味を持たれていない、あのぽんぽこ仮面の正体を、彼はあろうことかぽんぽこ仮面を一過性の話題と認識していたこの私に知らせようとしているというのだ!
私は片時も目を離さないでいた。徐々に徐々に、ぽんぽこ仮面がヴェールを脱いでいく。そして、ぽんぽこ仮面は素顔を見せた。それを認識すると同時、私はひどく仰天した。
ぽんぽこ仮面の素顔は、想像していたものよりもずっと不健康であった。出来合いの物ばかり食べているであろう不摂生ぶりを感じさせ、さらにその印象に、内面に隠そうとしても隠し切れないであろう精神の歪みを足したその顔色は、何だか月の裏側から来た人のように青白い。我儘で天邪鬼、他人の不幸でいったい何杯の白飯をかっ食らってきたのだと問いかけたくなるその顔は、小津にそっくりであった。というかほぼ小津である。むしろ小津本人である。
「お前、ぽんぽこ仮面だったのか!」背を仰け反らせながら絶叫すると、小津は人を小馬鹿にするような目をしていた。
「これは変装ですよ。正義の味方なら、ある意味誰も怪しまないというものです。ま、話は車の中で」
そう言うと、私の背を押して小津は入った入った、と促した。されるがままに私は白の車の助手席へと乗り込む。
「お前、車なんて持ってたのか?」
「城々崎先輩からお借りしたのです。まったく、あなたは面倒をかけるんだから」
城々崎氏は、小津が籍を置く無数のサークルの中の一つ、映画サークル「みそぎ」の元部長である。明石さんもかつては一回生の頃にそこへ籍を置いていた。私も一度だけ、あることで入院した小津の見舞いに来た彼にお会いしたことがあるが、爽やかな雰囲気の男前であったと覚えている。城々崎氏は少し前に、小津にそそのかされた相島氏によってサークルのトップの座を奪われ、今はただの院生として在学している。ちなみに城々崎氏は樋口氏とも何やら因縁があるらしく、彼らの関係は一言で表すのが大変に難しいので割愛させていただく。
そのことにまた少しばかりの激憤を覚えつつ、はたとあることに私は気付いた。
「というか、お前戻ってきたのか? 小日向さんは?」確か、小津は小日向さんと難波まで行っていると今朝に小津本人から私は聞いた。何故その小津が、ここにわざわざ戻ってきているのだろうか。
そう思っていると、小津は文句の一つでも言いたげにしながら、口をへの字に曲げた。「誰のせいだと思ってるんですか。明石さんに、彼女にあることないこと吹き込むから今すぐに戻って来いと脅されたので、慌てて戻ってきたのです。あなたの逃亡を手伝うためにね」
おかげでせっかくの充実した予定が台無しですよう、などと不服そうにした小津を小突きながら、私は納得した。
なるほど、明石さんが呼び戻してくれたのか。ならばちょうどいい。ここでコイツを私の身代わりにして、この状況を改善してくれる。私は、次の行動方針を決めると、うんうんと頷き、身振り手振りで自身の被害妄想ぶりを表現する小津の右手首を掴んだ。
「よし、お前を今すぐに相島先輩に引き渡してやる。元々はお前の問題だ、自分で解決しろ」
「いやです。そういうことなら、僕はあなたを置いていきますよ。そのまま連合にとっ捕まって、風邪でも引かされればいいんだ」
私と小津は、二人でおよそ十五分ほどに渡って言葉の剣を打ち合わせ、火花を散らし合った。しかしどんな戦いもいずれは必ず終わる。新たな言論の剣を補充するだけの罵りの言葉も出尽くしてきた頃、小津がつるりと口を滑らせたことで争いは中断となった。
「だいたいね、今あなたのために明石さんが……おっと」
「明石さん? ……そうだ、彼女はどうしているのだ!」私は今さらになって気付いた。小津がここにいる理由、原因。その明石さんは、何故ここにいない? 彼女は今朝だって私のことを心配してくれていたのだし、小津と共にここにいて然るべきであるはずだ。というよりも、私としてはそうであってほしい。
そう思いながら私が小津に尋ねると、小津はしまったなぁというような表情を作ると、次の瞬間には開き直るように投げやりに答えた。
「話をつけに行きましたよ、相島先輩のところへね」
「なんだと!」
思わず目を剥いた私に、小津は矢継ぎ早に説明しだした。
「いえね、あなたの説明がぼんやりしてて完全な詳細が伝わらなかったからもっと細かい説明をしろとあんまりにも脅すもんだから、連合のこととかあなたが狙われてる理由とか、全部教えたんです」
なんと。明石さんは「モダン連合」などという汚らしい集団の全容を知ってしまったというのか。私があの組織でどれほどに嫉妬深い男たちに毒されてしまったのかも、もしや知られてしまったのだろうか。今度会うときには、私は進んであのような集まりに参加していたわけではないということを事細かに伝えておかねば。
「そしたら明石さん、なんと聞いて驚いてください。彼女ね――」そこで、小津はもったいつけるように言葉を止めた。どういうつもりだろうと私が思わず小津に視線を向けると、小津は鬼の首でも取ったかのように最高にあくどい、会心のいやらしい笑みを浮かべた。
不審に思う私に対して、小津はにやにや顔を崩さぬまま、こう言った。
「チョコ、ホントは用意してたんですよ、あなたに」
「え」
私の頭の中に広がる思考の世界の波が、すっと止まった。と思っていると、不意に単語の数々が、活動を静止させた脳内で、羅列していく。
明石さんが。チョコを。用意していた。私に? だって、明石さんは。バレンタインなど好きではないと、そう言って。
「それで明石さんったら、連合の目的がチョコを奪うかあなたを拷問にかけるかの二つだということなら、あなたに手渡すのを諦めてね、用意したチョコを相島先輩に差し出しちまってあなたを諦めてもらおうって言うんです。いやいや、ナイスアイディアですよねぇ」
まったく想定していない事態に次ぐ事態に、私は目まぐるしさを感じていた。新たな事実を受け入れるだけで精一杯だというのに、まだ話は続きがあるというのか!
つまり、明石さんは私に内緒でこっそりとチョコを用意していて。しかし、連合が私を狙うのならば、私の身代わりにそのチョコを犠牲にしようと考え、明石さんは相島氏のところへ赴いたと、こういうことである。
「おい、それで明石さんはそれを渡しに行ったというのか?」
「はい」
私の事実確認に、小津は阿呆のようにこくりこくりと首を縦に振った。私はその所作が妙に腹立たしくて、小津の顎を掴んでむにむにと何度も握った。
「お前! それで連中が素直にはいそうですかと言うと思っているのか!? もしも明石さんをやつらが……!」
明石さんに何かあったらどうするというのだ。たとえば、私に対する人質として明石さんが捕まりでもすれば……ああ、私の中の悪魔はなんたることを想像したのだ! この破廉恥め! 私は心の奥底に潜んでいる小津の悪影響を諸に受けている悪意を罵倒した。
「あのねぇ。お忘れですか、規則その四、あくまでも紳士然とし女性に手を出すことなかれ、ですよ」
そう言ってから、小津は説教するようにちっちっち、と右手の人差し指を私の目前に出して揺らした。
それはその通りである。「モダン連合」の基本的な考え方を私は思い出していた。あくまでも狙うは男や、男の受ける恩恵であって、それを生み出す女性ではない。女性に手を上げるような常識で考えたって破廉恥な者は、連合の中でも吊るし上げられ、図書館警察の情報操作を以って、二度と京都市内を出歩けないようにされてしまうのだ。
「それはそうだが……」
私は納得のいかないように呟いた。小津の言うことは尤もだが、小津に言われると何でも反発したくなってしまうのだ。私はもうそういう身体にされてしまったのである。
そんな煮え切らぬ態度を見せる私に、ね? と小津は私に向かって首を四十五度傾けて覗き込むようにした。何だかなよなよとしたその仕草は実に気持ち悪いと私は思った。そういう行為は麗しき乙女がやってこそである。小津のような妖怪がやったところで、目を留めるのはそれを祓う陰陽師や退魔師などだけである。
「まぁ、でも確かに。相島先輩は僕自身をひどい目に遭わそうと企んでましたからねぇ。チョコなんてどうでもいいのかもしれないといえば、その通りですなぁ」
「このヤロウ……! やっぱり突き出してやる! お前が私と明石さんの身代わりになれ!」
私が小津とそうして揉み合いを狭い車内で起こしていると、ふと、着信音が鳴った。私の携帯電話である。
誰だ、と小津と左手でやり合いながら、私が右手を伸ばしてズボンのポケットからそれを取り出して確認してみれば、画面には「明石さん」と表示されていた。小津の首根っこを掴む左手をぱっと離すと、私は慌てて両手で携帯電話を掴んで操作すると、縋りつくようにそれを耳元へと当てる。
「明石さん!? 無事か?」
そう尋ねると、私は彼女の返事を待った。早く彼女の声を聞きたい。連合の元へ向かうなど無謀だ、私が小津を身代わりにして連中に捧げるから、君は心配せずに私を待っていてくれと告げたかった。しかし、私のその願いは裏切られた。
『明石さんと君へのチョコは預かっている。返して欲しくば、今から言う場所へと来ることだ』
それは、くぐもった男の声だった。電話越しだから誰か知っている人間だとしても分からなかったことだろう。ただ、低音の男の声であったのだ。
「お、おい! もし彼女に何かあってみろ、色々な恨みを以ってあんたを末代まで祟るぞ!」肉体的な報復は私のようなインドア派を地で生きるような人間には不可能である。だがしかし、文明人には文明人なりの仕返しのやり方があるのだ。
男は特に私の言葉に反応を示さず、ただただ淡々と返してきた。
『安心したまえ。女性に手を出すようなことはしない。だが、彼女が心配ならば来ることだ。場所は下鴨神社、西の駐車場で待っているぞ』
それだけ吐き捨てるように男が言うと同時、ぷつ、とあの独特の電子音と共に通話は終わった。私は愕然と今の状況に思いを馳せた。
なんたることか。最悪の事態は想像から現実へとやってきた。明石さんは、私の人質にされてしまったのだ。
「で、どうするんです? 別にいいんじゃないですか? チョコを諦めてこのまま逃げちゃえば。あなた、バレンタインみたいなコドモ染みたことはどうでもいいんでしょう? 明石さんだって、単にあなたを煽るために人質にしただけでしょうから。手を出したら他への示しがつかないことくらい、相島先輩も分かってるでしょう」
「馬鹿! 明石さんを助けねば!」
「素直に言えばいいのに。明石さんのチョコが奪われるくらいなら、取り戻したい、って」
小津は私の底を浚うかのように私を見つめながらそんな戯言を言った。私はその戯言に激怒した。
私は明石さんが危ない目に遭っているのではないかと心配しているのだ。別にチョコなぞ優先順位としては二番目である。しかも一番目の明石さんと二番目のチョコの間の溝は日本海溝のように深く、その差は歴然である。私はチョコなど、どうだっていいのだ。
私が怒りを表すように喚くと、小津は仕方ないと言わんばかりにあからさまに嘆息すると、車に鍵を挿した。
「はいはい。じゃ、行きますか」
その言葉と共に、車は発進した。目指すは下鴨神社。そこには相島氏や明石さんがいると思われる。
待っていてくれ明石さん。君を必ず、私は助けてみせる。できれば君のチョコも。連合に渡れば、明石さんの気持ちの篭った贈り物も、ただのチョコへと溶かし直されて誰だか知らぬ人々に振舞われてしまうのだ。それは、私に贈り物を用意してくれた明石さんの気持ちに対して失礼なことである。だからなるべく救わねば。断じてチョコが欲しいからではない。彼女の心遣いがもったいないことになってしまうからだ。
広い駐車場の真ん中に、一台の黒いバンが止まっている。周囲には他の車など一切なかった。そのバンの後部座席のドアの近く、日も落ちかけて橙に染まりかけたアスファルトの上に立つ、一人の女性が見えた。遠目からでも分かる、明石さんだ。その隣には彼女の両腕をしっかと掴む二人の人間と、彼らの少し前に出るようにして、空いた駐車スペースの一つの上にもう一人が突っ立っていた。
そこから離れた距離、ほぼ入口近くの場所に私は車を小津に止めさせた。小津は、ああ、あれですかねぇなどと呑気な調子で感想を呟いていた。
「それでここからはどうするんです? 言っておきますけど、僕を連中への手土産にするというのはなしですよ」
「……明石さんが危ないのだ。こうなれば、腹をくくるしかあるまい」
小津の質問に、車中で既に悩みに悩んだ末に出していた、一つの結論を私は口にした。できることなら逃げたかったけれど、明石さんと自分との天秤であれば、当然ながら私は彼女の方へと傾ける。
「おやおや、そうですかそうですか。よござんす、じゃあ僕の身代わりにいやがらせを受けてきてくださいな」
行ってらっしゃい、と小津は旅立つ友人を駅まで気軽に見送りにきた人のようにひらひらと手を振った。私はそれに対して応えずに、車の外へと出ると、小津のいる運転席まで回りこむ。小津は不思議そうに私の行動を眺めていた。私は小津にいったいどういうつもりなのかを示すために、運転席のドアを開いた。
「ただし、お前も、だ!」遠慮せずに私は小津の首根っこを引っ掴むと、さぁ降りろと促した。小津は慌てふためきながら、「わ、ちょ、ちょっと! 暴力反対です!」と抵抗した。
「黙れ黙れ! 大人しくついて来い、さもないと小日向さんにあることないことを喋る」
「ひ、ひどい! 横暴ですぞ! 僕があなたに何したって言うんですか!」
「私と明石さんの休日を潰しただろうが!」
「前に言ったよな? 我々は運命の黒い糸で結ばれているのだ。となれば私とお前は一心同体。赤信号、皆で渡れば怖くない、だ」
「無茶苦茶ですよ!」
往生際悪く未だにぶうぶうと不平を並べ立てる小津をがっしりと肩から手を回して捕獲すると、私は魔法の言葉「小日向さん」を駆使して小津を連行した。こうなれば死なば諸共、いや小津だけ犠牲にして助かってみせよう。
我々はそのまま肩を組んで歩き、まるで二人三脚のようにえっほえっほと彼らの元へと向かった。
近付いてくる私たちに気付くと、前に立っていた一人が、こちらを向いて文句ありげに話しかけてきた。よく見ると、そいつは般若面をしていた。後ろの二人は二人で、それぞれに鼻の長い天狗のお面と狐のお面をしている。さらには、三人とも揃いも揃って黒いコートを全身に羽織っている。なんと珍妙な格好であろうか。天狗面と狐面の二人の間には、明石さんが挟み込まれて、両手を後ろに回していた。
と、彼らの詳細な姿を認識したところで、私は違和感を覚えた。何故か相島氏の姿が確認できないのだ。お面の連中の中の一人にいるのだろうかとも思ったが、それもなんだか奇妙な話である。私にしても小津にしても、相島氏の顔は知っているし、相島氏が今回の発端であることも知っている。わざわざ顔を隠す必要などない。
それについて深く考えようとしたそのとき、私の思考は中断を余儀なくされた。明石さんが私たちに向かって、大声で名を呼んだのである。
「先輩! ……それに小津さんも」
「明石さん!」
今すぐに駆け寄りたい気持ちを堪えて、私は彼女の声に応える。よかった、とりあえず乱暴などはされていないようだ。もしもそんなことになっていたら、怒りのあまりに私がハリウッドの筋肉質な俳優たちのごとく大暴れしていること間違いなしであろう。いつも思うが、何故彼らは必ず映画が終盤になると豊富な銃火器を捨てて、肉弾戦に入るのだろう。やはり現代の文明人といえど、原始人に立ち返りたいときもあるということなのだろうか。
「おっと、そこまでだ。……さて、よく来たな」
おそろしく良く響く低音の声であった。おそらくはこの般若面が私に電話を掛けてきた男だろう。彼は妙に芝居がかった、いかにも悪役というような調子の声色で私と対峙した。距離にして、およそ五メートルといったところだろうか。
彼はさらに大きく身体を動かしながら、音楽劇の公演でもしているかのように右へ左へと歩き回りながら、語りだす。
「当初、こちらとしてはお前にいやがらせをすることだけを目的としていたのだが……そこに、お前の身代わりにチョコを捧げると彼女が直接の交渉にやってきた。我々はその愛情にいたく感動したのだ。そこで、慈悲深いことにお前には二つの選択肢を用意してやった」
そう言うと、般若面はくるりと振り返って、すたすたと天狗面たちの方へと向かう。天狗面は明石さんを狐面に任せて、自分はバンの方を向き、車の後部座席のドアを開ける。そして、ごそごそと何かを中から探し出し、般若へと手渡した。般若はそれを抱えて、また元の位置へと戻る。彼が抱えていたのは、見たところ、百円ショップでも売っていそうな、青いプラスチックのバケツであった。
男は見えるようにバケツを掲げると、中身を示すためにわずかながら傾けた。青いはずのバケツの中には、確かに卑猥な明るさを放つ桃色の液体が窺える。
彼は十分に中身を私が確認したと見るや、バケツを足元に置いた。それから、またも後ろへと歩いた。天狗面がまた何か車の中から漁り、振り向いて般若面に渡した。般若面が見せびらかすように手渡された物を振りながら戻ってくる。それは、小さな赤色の箱であった。四角の箱は、金で縁取られた緑のリボンでラッピングされていて、いかにも贈り物という雰囲気を醸し出している。男は丁寧にリボンを解くと、箱の蓋を開いて、私に中身を見せつけるようにした。その中身に私は見覚えがあった。もちぐまだ。
もちぐまとは、明石さんのお気に入りのクマのぬいぐるみで、むにむにと揉むと、スポンジや餅のように柔らかで豊潤な弾力を揉んだ者にもたらし、その感触による癒しの効力たるやすさまじいものである。明石さんはそれを五匹で一揃いにし「フワフワ戦隊モチグマン」と称している。しかし、目の前に提示されたもちぐまはどうもよく見たところ、茶と白と黒の色の物しかなかった。推察するにあれはチョコレートであると思われる。全部で十二個ほど、箱の中にはペーパークッションに小さなもちぐまたちがちょこんと鎮座していた。男はそのうちの一つをひょいとつまむと、こう告げた。
「チョコかお前、どちらかにはバケツのペンキを被ってもらう。チョコを助けたいと思うのであれば、お前がバケツの中身を丸ごと被る。お前が助かりたいのなら、チョコをこのバケツの中に放り込む。簡単な二択だろう?」
とんでもない要求に、私は言葉を失う。あの間抜けなほどに飛び抜けて明るい桃色で全身を染めるだと! たくましい想像力を駆使して、私はそうなった自分の姿を鮮明に思い浮かべた。静寂に包まれて落ち着いた雰囲気のする糺の森の中に、奇抜であからさまに目立つ場違いなピンクの阿呆が一人、ぽつねんと立っている。周りには下鴨神社の参拝客らしき家族連れからカップルまでの様々な人間がいて、皆して私から一定の距離を置いてくすくすと噂している。なんとハズカシイ格好なのだ。それで市内を歩き回れなどと命令でもされたら、私はきっと恥の熱で蒸発して大気を上り、この空の雨雲の一部となっていずれ地面へと降りかかることだろう。しかし、だからといって明石さんの純粋たる気持ちをあの卑猥な色の暴力の渦中へと沈めてしまうなどということもありえない選択であった。
驚く私に対して、男は続けて説明した。
「選択には十秒やる。さあ、決めろ。チョコか自分自身か? どちらにしても彼女を解放してやる。ついでに言っておくが、自分自身を選ぶのならば、彼女は解放するが、お前には続けて拷問を受けてもらう。ついでにそこのやつにもな。十秒過ぎたら両方共染めた上で拷問だ」
「これは一択ですなぁ。さ、チョコを捨てちゃってください」
「お前は黙れ! 選ぶのは私だ!」
いつの間にか私の拘束から逃れていた小津の横槍に一喝する。まったく、こんな状況だろうと自分が一番か。本当に友情もへったくれもない男である。私もコイツを身代わりにし返して助かってやろうと考えていたから、おあいこではあるが。
そんな私と小津のやり取りなど無視して、男が無遠慮に秒読みを始めた。どうやら相手は本気らしい。
「九」
淡々と男は次の秒を口にする。そこには何の感情もない。ただ命令をこなしているだけといった印象である。
私はどうにか冷静になるように心がけ、選択について吟味し始めた。
「八」
まず明石さんのチョコを選んだ場合である。その場合、私は全身を桃色に染めるなどという前代未聞の破廉恥な姿となり、すぐさまに猥褻物陳列罪でお縄に付くことだろう。
連合はそれで私を辱めるだけでは飽き足らず、さらに拷問にかけると言っていた。どんな目に遭わされるのか、想像するに耐えない。
「七」
では私自身を選んだ場合はどうであろうか。明石さんが私に内緒で、いわばサプライズで用意してくれた、愛の贈り物。それを私は塗料の中へと投げ入れ、贈り物としても食べ物としても、台無しにしてしまう。
それはいかん。チョコレートの原料たるカカオ豆は、南米の子供たちの汗の結晶と聞く。そのような子供たちの苦労を、私はあろうことか猥褻に塗り潰してしまおうというのだ。そんな選択は、そもそも人として問題である。
「六」
ではやはり、明石さんのチョコを選ぶべきか。
しかし、それでは私は一生癒えない心の傷を負ってしまう。果たしてその治療にはどれだけの時間を無駄にしてしまうというのか。いやそもそもこれまでの人生で無駄ではない時間などあったのであろうか。
思わず脱線しかけたが、私はここにきて、愛情よりも自分自身という選択を取り除けないでいた。
だからといって、自分の安全を選ぶというのか。それでは、愛情を捨てて人道を外れた存在へと私が堕ちることになる。第一、明石さんの愛を裏切るなど、私にできるわけがない!
「四」
「ちょっと、時間切れになりますよ!」
後ろから小津が私に巻き添えはごめんだなどと叫ぶのが聞こえる。ええい、うるさい。そもそもお前が私たちを巻き込んだのではないか。お前が一歩前に出て「僕を犠牲にしてください」とでも言えばいいのだ。さすれば、メロスの友情に心動かされた暴君のように、もしかしたら彼らも許してくれるやもしれぬ。一瞬で私はそんな現実逃避を思い描いた。
「三」
どうすればいい。明石さんの気持ちか、私の保身か。つまりはこの二択である。明石さんの気持ちを取るべきだ、という意見が心のどこかに響いてくる。
しかし、それでは私が。いやいや、明石さんの思いの詰まった贈り物をふいにしてしまうなど。だけどそうすれば今度は私自身がろくでもない目に。どうしようもない無限の円環へと私は捉われてしまう。いかん、時間は有限である。このままでは、一番よくない選択のままに話が進んでしまう。
「先輩。もういいのです。先輩が助かるとおっしゃるのであれば、私のチョコなど、捨て置いてください」
その言葉に、私ははっと顔を上げた。視線の先には、明石さんが私にうっすらと微笑んでいるのが見えた。それを口にした明石さんの目には、しかし。
普段から見落としの多い私であるけれど、そんな私でも気付けるほど明らかに、彼女の瞳の端、目尻の辺りが微かに潤んでいるのが視認できた。そしてそれをはっきりと認識した次の瞬間には、一粒の雫が零れるように彼女の頬を伝っていった。少なくともそのように、私の瞳には写った。
「二」
その流れ落ちていった水滴の意味はどういうことか。分からない私ではない。ならば、どうする。どうすればいい? 私は……私は。
「私を! 私は、私自身を犠牲にする」
瞬間、ぴたりと男の声が止んだ。彼は、ほう、と言ってから、わざとらしく身体を傾けてこちらに右耳を向けた。丁寧に耳元に両手を添えている。
「それはどういう意味だ? はっきりと言ってくれ」
しっかりと聞こえていただろうに、なんと意地の悪いことをするのか。慈悲などあったものではない、あの般若は見た目通りの鬼である。だが、現在の私はそれに対して抗議できるだけの立場ではない。私は大きく息を吸い込み、絶叫した。
「私は! 私は、明石さんのチョコが欲しい! だからその塗料は私に被せるがいい!」
さぁ、読者諸賢よ。見よ、この阿呆の踊り狂う様を。ああ天よ。ここに一人の阿呆が、愛に溺れて猥褻な色の海へと沈んでいく姿をどうか深い情けを以って見守ってくれたまえ。
と、そのようにやたら物語の英雄めいた自分の姿を私は走馬灯代わりに頭の中で描写し、これから自分の身体がボロボロと崩れ落ちていくような展開を想像した。
ところが、事態は想像通りに運ばなかった。これまでに一度も大怪我をしたことのない私の健脚が、緊急事態に活動を停止したからである。
やれやれ、と目前に迫る般若男が大きく息を吐くと、自分の仮面へと手を伸ばした。それから、すっと自身の正体を隠すための仮面を取り外した。本日二度目の、謎の人物が突然にその全てを明かす瞬間であった。
そこから現れた顔に、私は先述した通り動きを止めることを強制されてしまう。
仮面の下のその爽やかな顔は、良い印象を見る人に与えるだろうと思われた。男前である、と私は少なくとも評価した。そしてその顔とは、一度だけ正面から会った覚えがあった。入院した小津のお見舞いに来た彼と、私は顔を合わせたことがあるのである。
彼――城々崎氏は、不敵に笑うと、バケツを空いた左手で掴んで、自分の後ろに置き直した。
何が何だかさっぱりである。かつては映画サークル「みそぎ」を率いて学内中の女学生から黄色い名声を欲しいままにした、城々崎氏のような充実したキャンパスライフを送っている人物が、連合の手先だというのか。そうだとしても、何故に彼は私に被せようとしていた塗料を仕舞い込んでいるのだ。状況が飲み込めない。どなたかに説明を乞う。意味不明の光景に取り残されるがままの私を置いてけぼりにして、状況は進んでいく。
いつの間にか、明石さんは城々崎氏と共謀していると思われる二人組から解放されていた。さらによく観察してみれば、その二人組も仮面を外しており、そこから現れた、特徴的な茄子のような男性の顔と凛とした雰囲気を漂わせる女性の顔には、実に見覚えがあった。誰であろう、樋口氏と羽貫さんである。二人は着ていた黒のコートを脱ぎ捨てると、いつもの見慣れた格好へと戻った。
混乱に次ぐ混乱である。もはや収拾がつかないと思われた。私が目の前の光景をただぼうっと眺めていると、すっかり自由の身になった明石さんが城々崎氏から自身の用意したチョコを返却してもらい、すたすたと確かな足取りで私の元へとまっすぐに歩んでくる。彼女はあの理知的な眉をきりりとさせたまま、私にそれを差し出した。
「どうぞ、先輩。受け取ってください」
私の目の前の世界に、愛らしいもちぐまたちがのほほんと座っている姿だけが広がった。
手を出してください、と言われたので素直に出した私の両の手のひらにチョコの入った箱を載せると、一向に動く気配を見せない私の前で羽貫さんに何やら液体の入ったガラスの小瓶を手渡しながら、明石さんはそんなことを言っていた。瓶のラベルには、見間違いでなければ「目薬」という文字があったように思う。
私は何も答えなかった。ただただ、目の前でああ疲れたなどとぼやく城々崎氏や、この状況に対して一歩引いたところで顎を撫で回しながら佇んでいる樋口氏を視界に捉えていた。たぶん、そのときの私は完全に思考停止していて、眼前の光景をそのまま認識して、それについて何ら頭の運動を起こしていなかったことだろう。
やがて、私が異常事態によって機能停止していることに気付いた羽貫さんがそんなことを言った。
むしろこの理解不能な状況の何をどう分かるというのだ。そもそも私はこの世界でいったい何を知っていると自信を持って言えるのだろうか。私はまだ二十と一年しかこの世を生きていない小さき身。そんな私に、果たして何億何万という年月存在してきたというこの地球の中で、何が分かるというのか。そのように壮大すぎて途中で考えることを放棄しそうな題材について思いを馳せることで多少の機能を私が取り戻していると、私が説明してやろう、と樋口氏が説明役を買って出た。
「全ては茶番なのだ。小津の発案のな」
その言葉に、私ははっとして振り返った。その視線の先では、小津が小憎たらしく下手糞な口笛を吹きながら明後日の方を向いていた。
まず事の発端は、三日前の小津との夕食の席であった。私から「明石さんのチョコが欲しい」という言葉を誘導尋問で引っ張り出した小津は、それを明石さんに語った。
そして今度は、チョコを用意した明石さんのために、そのままチョコを渡したところで私から本気の感謝の言葉を口にさせることはできないだろうと考えた小津は、私を素直にさせるための茶番を考え付いた。ちょうど二月十四日はモダン連合の活動日でもある。これを利用して、私から完全な本音を明石さんの前で引きずり出してやろう。小津はそのような計画を考案したのである。
それから、本当に私が連合に狙われていると信じ込ませるために知り合いの「自転車にこやか整理軍」の一派に声をかけ、私を襲撃させた。そしていいタイミングで私を取り逃がすように仕組んだ。
私が最初の襲撃で逃げる際に利用したカップルすらも小津の仕込みだというから驚きである。小津は私の性分を理解した上で、「連合に襲われないように情報操作する」という報酬をちらつかせることで、彼らを用意したのだ。そしてその後も、適度な頃合で何度か整理軍に私を追わせて、私に真実味のある緊張感を味合わせたのである。
この話から分かる通り、私が四条河原町で必死になって本物の連合らしき連中の目を避けて移動していたのは、まったくの無駄だったのである。それすらも、小津にとっては狙い通りの思う壺。私はものの見事なまでに小津の手のひらの上で踊りに踊ったこととなる。なんという阿呆であろうか。
ついでにここで説明させてもらうが、そもそも小津は小日向さんとのデートの約束などしていなかったそうである。全ては私にこの茶番を信じ込ませるための細かな嘘なのだ。なんたる無駄な用意周到さか。どうしてそういう頭脳を勉学や世のために使おうとしないのだと声を大にして言いたい。
隠れ家を用意する役では、私を隠れ家に匿い、その際に私にそれとなくバレンタインの話をすることで、心の奥底に隠した本音を私に思い起こさせ、連合の手先役では、チョコか自分かの二択を突きつけて私の本音を引っ張り出す。そういう役割二つを、樋口氏に任せることになっていた。それで小津の計画上の仕掛け人は全てであったのだが、その話をもちかけた闇鍋会の、私が帰った後の酒の席には羽貫さんもおり、彼女は小津の計画を「楽しそう」と判断し、参加を希望したそうである。
これで仕掛け人は揃うはずであった。ところが、今度は樋口氏が城々崎氏をこの無駄なドッキリに連れてきたのである。計画の最後、つまり先ほどに私がした般若面との交渉の場面。原案では樋口氏か羽貫さんが般若面役をすることになっていた。しかし、そこで樋口氏が、万一にも声で正体がバレて、それによって計画に支障が出てはいけないと考え、私との面識がそれほどになかった城々崎氏に協力を取り付けたのである。
今度こそ、これで役者は揃った。あとは読者諸賢の知る通りに、小津による、私主演の(しかし私は主演であることも知らない)茶番劇が始まったのである。
一言だけ感想を述べさせてもらいたい。なんじゃそりゃあ。
樋口氏はカラカラと下駄を鳴らしながら、私の横をすり抜けて小津の元へと歩く。それを私が目で追っていくと、小津は照れたように頭の後ろを撫でながら、樋口氏を迎えているのが見えた。
「小津、今回は見事な手際だった。やはり貴君はなかなか見所があるよ」
「師匠、ありがとうございます」
「しかしなにもこのように回りくどいやり方を取らんでもよかっただろうに。貴君は救いがたい阿呆だな」
小津はしくしくと泣いた。それが泣いているフリであるのは私から見ても明らかだった。
お見合いの仲人みたいな言葉と共に、この場を引き締めるように城々崎氏が我々をぐるりと見回す。それから、「俺はこれをみそぎに返してくる。小津、俺の車でついてこい。それから打ち上げだ」そう告げると、彼は普段は「みそぎ」が撮影で使っているらしいバンに向かって歩き出した。
城々崎氏の声に続くように「そうであるなぁ。行こうか」と樋口氏も動き出す。彼はどうやら入口近くに駐車した城々崎氏の車に乗るらしい。羽貫さんは私に向かってこっそりとウインクすると、樋口氏に続いた。小津も、それじゃ、とだけ残して羽貫さんに続いていく。
「さあて、と。今日は小津くんの奢りね。あ、そうだ。せっかくだから小日向さんも呼びなよ。バレンタイン、彼女も用意してくれたんでしょ?」
「それは勘弁してください!」
「よいではないか小津」
「師匠!」
そこでようやく、私はほぼ落ち着きを取り戻した。呆然と小津たちの乗った車を見送ると、私はゆっくりと明石さんを見た。彼女はただ毅然と構えて、ずっと私のことを見つめていたようだった。
勘違いでなければ、おそらく私からの何かしらの一言を待っている。私は上げたままであった自分の両手に今度は視線を移した。そこには確かに、小さな箱の世界に座り込むもちぐまたちがいた。
とりあえずと私はそれに蓋をし、小さな箱を羽織っていたコートの大きなポケットに仕舞い込む。それから、なんとなく明石さんにお誘いをした。
「明石さん、このお礼に猫ラーメンを食べに行きませんか?」
今日の予定の最後に組み込んでいたそれを果たそうと、私はふと思い立ったのである。そしてついでに、その屋台へと行く前に、近くだからと私は明石さんを誘って、相生社へ参拝することにした。宇治まで饅頭を食べに行くことは叶わなかったが、せめて少しくらいは考えていた予定通りになるように今日一日の行動を戻したかったのだ。陽もほぼ落ちかけた社には特に人もおらず、私たちは鳥居をくぐって賽銭箱の前に立った。賽銭を投げ、私は手を合わせた。
「なむなむ!」
「それは?」
「今日、八兵衛明神で知り合った人に教わったのだ。なんでも、万能のお祈りだとか」
なんとなく、今日一日の中でまだ鮮烈に残っている記憶からの知識を、私はさっそく使ってみることにしたのである。あの黒髪の乙女も、今頃は先輩とやらと仲良く過ごしていることだろうか。
明石さんは回想していた私を他所に、なるほど、と頷いていた。
「それはよいことを聞きました」
彼女は改めて手を合わせて、私に続いた。
「なむなむ」
一度は横を通り過ぎ合った我々であったが、黒髪の乙女の方がはたと私に気付くやいなや、「奇遇ですねぇ!」などと純粋な笑顔を以って立ち止まって振り向いた。遅れて彼女に気付いた私も立ち止まり、「奇遇ですね」と返した。
それから黒髪の乙女を明石さんに、「明石さん、さっきのお祈りを教えてくれた人だよ」と紹介した。すると明石さんは「ああ、なるほど。あれはよいお言葉でした。これからは私も使わせていただきます」などと挨拶した。
先輩とやらは所在なさげにして、ただただ黒髪の乙女の背を見つめ、彼女の交遊録を見守っているようであった。ちなみに私も同じであった。女性というのは、こういうときに知らぬ人とうまく仲良くなる術を心得ている。尊敬の一言である。
私は出来立てのラーメンへと箸を伸ばした。すっかり疲労しきっていた身体は、無類の味のおかげでゆっくりと回復していくようであった。
「しかし、今日は疲れた」
ある程度食べて、私は心の底から自然と零れるようにその言葉を発した。小津のせいでろくでもない目に遭った。そのおかげで明石さんのチョコをもらえたから、不問にしてやることにはしたけれど。
「すみません。まさか小津さんがあれほどに面倒で大仰な計画を企んでいるとは露知らず」
私が視線を移すと、明石さんは箸を置いて、伏せ目がちにしていた。気にすることはない、悪いのはだいたい小津と、素直に君に気持ちを言わなかった私だ、とだけ私は告げてから、一つ気になっていたことを尋ねてみた。
「嘘?」
「だって、君は昨日言っていたろう。バレンタインなど、あまり好きではないと」
昨日の彼女との会話を思い返す。あまりバレンタインには乗り気ではないと、彼女はそう言っていた。だから私はそのような期待をすることを諦めたというのに。
すると、彼女はすっぱりとこう返した。
「それは本当のことです」
「え?」
驚く私に、明石さんはすらすらと特に言い淀むこともなく続けた。
「私がチョコを用意したのは、小津さんに聞いたからです。先輩が私のチョコを欲しいと思っていると。ですから、用意したのです。先輩に喜んでほしかったので」
ああ、そうか。彼女は、私のような阿呆のために。急にある言葉を、私は脳裏に思いついた。それはこれまでにないほどに私らしくもなんともない、陳腐かつ大味な台詞であった。正直なところ、口にするのも恥ずかしい。しかし、今。先ほどの公開処刑によって、私に捨てるような恥などもうなかった。
私は決心を固め、行動を起こすことにした。
「はい」
「その、これから私が口にする言葉はとても今さらで、もしかしたら、また君に阿呆と思われてしまうかもしれないのだ。それでも、聞いてほしい」
その前置きを聞くと、彼女は丼を置いて私の方へと向き直った。その瞳は真摯で、正面に私の瞳を捕まえていた。私はそれに吸い込まれるのではないかと錯覚しつつ、同じように明石さんの目を見つめる。
私は一呼吸置くと、緊張に喉を震わせるようなこともなく、正確に発音することに成功した。
「明石さん。私は、あなたが好きです」
明石さんはそんな私に特に表情を変えることもなく、普段通りの落ち着いた様子でいた。やがて彼女はふぅ、と呆れたように息を吐くと、「先輩。今になってそんなことを言うなんて、先輩はやっぱり阿呆です」とだけ言って、また丼へと向き直って、ラーメンを食し始めた。
彼女は変わらぬ凜とした表情であったが、しかし、麺をするすると飲み込んでから、小さく口元に笑みを零した。
「ですが、そういう先輩だから、私はお付き合いしたいと思ったのです」
私は現在、元田中の下宿へと戻り、こうして今日の出来事をまとめさせていただいている。まとめるのに多少の糖分が必要であったので、例のもちぐまチョコを私は大切に一つ一つ賞味していた。うむ、甘い。元来の私はそれほどに甘いお菓子は得意ではない。しかしながら、頭脳労働には甘味の補給が大事である。
さて。読者諸賢も、この実例を通じて、以前に述べたことについてよく理解してもらえたことだろうと思う。そう、成就した恋ほど語るに値しないものはないのだということを。
そしてしばらくの間、私の毒にも薬にもならぬような無為な話をお聞かせしておいて申し訳ないが、読者諸賢の中に一人はいるであろう相手のいない孤独な者は、このような話など聞いている暇があるなら、今すぐに自分のパートナーを探しにいくべきである。相手がいる方は、同じくこのような話にかまけていないで、自分のパートナーを大事にされるとよい。
とにもかくにも、これが私の人生でも最も体感時間の長いバレンタイン、その詳細である。もう私は疲れてしまった。今からこの六畳の寝床でぐっすりと休ませてもらいたいように思う。
夢の世界へと旅立つ前に、最後にもう一度、この言葉と共に、今回の語りを締めさせていただく。
バレンタインなぞ、阿呆が踊らされているだけの些事なのだ。
座敷に通された私は、さっそく小津の代わりに注文をしてやった。すぐに注文の品、きのこと野菜がたっぷりと入り、あっさりとした鶏肉に味噌出汁が効いた、絶品のきのこ鍋が届いた。
それを見るや小津はすぐさま逃亡を図ろうとしたが、すっかり馴染みの呪文「小日向さん」の詠唱によって、私は彼を呪縛してみせた。
さぁ食え、と私が言うと、小津は渋々とした様子で箸を掴み、椎茸を取ると、たっぷり三十秒は文句を垂れながら、口元へと運んだ。それから、傘の端っこ、ほんの一ミリにも満たぬ分を齧った。それだけで小津は「うええ」と漏らしながら、取り皿に椎茸を戻した。
「まったく。どうしてお前はこうも面倒なことをするのだ」
「いいじゃないですか。おかげで明石さんにやっとちゃんと愛の言葉を告げられたのでしょう?」
「何故お前がそれを!」
「僕の情報網を舐めてもらっては困る」
つい身を乗り出してしまった私に、「ちょっと行儀が悪いですよ」などと抜かしながら、小津はくつくつとおかしそうに笑った。まるで一本取ったかのような態度で、私は途端にさっきまでの勝った気分が失せてしまった。
「どうしてお前はそうやって私に付きまとって余計なことをするのだ」
小津はにやにやと笑った。
「僕なりの愛ですわい」
「そんな汚いもん、いらんわい」
小津は涙目でむーむーと両手を振り回してきたが、「小日向さん」の一言ですぐさま大人しくなって、その憎まれ口を叩くための口を働かせ、椎茸を咀嚼した。彼にとっては健康への第一歩たる菌類の使者の味はあまりにも美味かったらしく、小津はさめざめと泣いた。
完全なる菌の塊を胃の中へと納めると、小津は目尻にいまだ失せぬ涙を溜めたまま、聞き返してきた。
「あなたこそ、どうして僕にこんなもんを食わせるのです! 僕を健康にして、何がしたいのですか!」
もし彼と出会わなければ、きっと私の魂はもっと清らかであったろうと、やはり今でもそう思う。しかし、そんな小津に出会ったからこそ、私は曲がりに曲がった現在の有様へと向き合うことができているのだ。それだけは、肯定的に捉えられることであった。
私は改めて、この唯一の友人へと居住いを正して向き合う。
私はにやりと笑った。
「俺なりの愛だ」
「そんな汚いもん、いりません」
♪ 迷子犬と雨のビート/ASIAN KUNG-FU GENERATION
最後に夜は短しのPVのリンクだけ貼らせていただきます 長ったらしい文章で最後まで失礼 では
ttps://www.youtube.com/watch?v=tmeU9GFJW3I
元スレ
六畳世界から考察するチョコレートと恋愛ごとにおける関係
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1487164822/
六畳世界から考察するチョコレートと恋愛ごとにおける関係
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1487164822/
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コメント一覧 (8)
-
- 2017年03月03日 03:18
- これはちょっと横書きで読むには辛いぞ…
-
- 2017年03月03日 07:27
- まだ読んで...というか読みづらいからギブするつもりなんだけど、こんだけ敷き詰めて15ページってヤバくない?
もっと行間開けて読みやすくして、増えるページ量は、キリの良いところで話を区切ってパート分けするとかさぁ...
-
- 2017年03月03日 13:38
- もりみー好きだったなあ
-
- 2017年03月03日 17:52
- 某ラノベかと思ったぜ…
-
- 2017年03月04日 21:29
- 映画楽しみやねえ
-
- 2017年03月05日 10:53
- 森見登美彦リスペクト?
-
- 2017年03月08日 00:45
- 自演バレバレ
-
- 2018年02月23日 19:56
- 読み辛さは置いといてトレース振りが素晴らしかった