奉仕部の三人は居場所について考える【後半】
- 2015年11月14日 22:10
- SS、やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。
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奉仕部の三人は居場所について考える【後半】
恥の多い生涯を送ってきました。そう言えるほどに人の営みがわからないとも思っていないし、生涯と呼べるほど長く生きていないとも思うが、ある時期から普通なら恥ずべき罪悪感を抱えたまま生きてきた。
かつての少女に大きな罪悪感を。これまで俺に関わった多くの人たちに、少しずつの罪悪感を。それらは決して解消されることがないから僅かずつ積み上がり、時が経つほどに大きく、重くなってきている。
罪悪感は消えない。
だがそうせざるを得なくなったのは、その生き方を選んだのは俺自信だから、誰かに恨み言を言うつもりはない。期待されてそれに応えるということにも、もう慣れた。
ただ、選ばないなんてことが許されるのは子供である今の間だけだ。いつまでもそんな甘えた行動はできない。いつかは敷かれているレールもなくなり、自分で歩き始めなければならない。
そう考えると、未来へと続く道は霞に覆われたように狭く感じられ、己の標を失うような気持ちになった。
俺が罪悪感を感じる必要などないのかもしれない。人との関係なんて、どうやったってどこかで誰かを傷つける。それを自分のせいだとか感じていてもキリがない。
わかってはいる。だが、俺の過大な自意識がそうさせてくれない。頭のどこかで、誰も傷つけなくても済む選択があったのではないか、そう考えてしまうのだ。
そんな選択、あるわけがないし、俺に選べるはずがないのに。
今、講習室には、かつての雪乃ちゃんを感じさせる女の子がいる。夏にも林間学校で出会った子だ。
鶴見留美。俺だけでは過去と同じように、救うことはもちろん、留美ちゃんを取り巻く環境を変化させることもできなかっただろう。
だがこの夏は昔とは違い、俺にはできない選択をする比企谷の案に乗る形で関係を壊す手助けをした。
その時の気分は当然最低なもので、今でも鮮明に思い出すことができる。その代わりに、彼女を取り巻く環境を変化させることはできたと思う。
その後どうなっただろうかと、心のどこかで気にしてはいたが、こんな形でまた会うことになるとは思わなかった。
選抜された小学生達は集団でこのコミュニティセンターに来ていたが、その中で彼女は変わらず独りだった。しかし、独りではいるが、夏とは違って嘲笑などの悪意の対象にはなっていないように見えた。
変化といえば変化だが、改善できたと胸を張って言えるような結果ではない。問題の解決ではなく、解消をしただけというのが相応しい。
観察もほどほどに、何をしたらいいかわからず右往左往している小学生の元に向かうことにした。留美ちゃんがいたのは予想外だったが、俺は会長から頼まれたことをやらねばならない。
「じゃあ小学生のところへ行ってくるよ」
「……え、ええ。お願い」
雪ノ下さんは昨日まで以上に沈痛な面持ちで、ともすれば今にも泣き出してしまいそうだ。反応も鈍く、声にも芯が通っていない。俺はその理由をわかっている。
陽乃さんに何か言われたのだ。ここまで落ち込むような、痛烈な何かを。
俺には陽乃さんが何かを言おうとしているのはわかった。あの場で言わなかったのは、友人や彼の前でというのは憚られたか、陽乃さんなりのせめてもの優しさだろう。
だから昨日俺は、帰りの駅の方向が陽乃さんたちと同じいろはを、人払いの目的で買い物に付き合わせた。いろははそれをおそらくわかっていない。
こうして、少しずつ罪悪感が増していく。俺がいい奴?冗談じゃない。他人を利用するだけ利用して、何も報いていない人間がいい奴なわけがない。
罪悪感は、自分を許すための免罪符だ。
「あ、隼人くん、あたしも手伝うよ」
結衣は席を立ち俺についてきてくれた。比企谷がこちらを横目で見たのがわかったが、無視しておいた。
「助かるけど、そっちはいいのか?」
「うん。あたしはあっちでやれること今はあんまないから……。あたし、ダメな子だからなー」
結衣は大袈裟に肩を落として情けなく笑う。
「そんなことはないさ。結衣には結衣にしかできないことがあるし、みんなも助けられてるよ」
「それ……隼人くんも、ほんとにそう思う?」
隼人くんも。俺以外にもそう評価している人がいるということだ。実際、その評価は正しいと思う。結衣は俺が見たって、誰が見たっていい子だ。
周りを大事に思い、他人への気配りを忘れない。奉仕部でも結衣の存在が潤滑油となって、その関係を維持してきたのであろうことは想像に難くない。
だが反面、自分を押し殺して、たまに無理をしてそうしていることもあるのだろう。最近は思い詰めた表情をたまに見せる。余計なお世話かもしれないが、少し心配だ。
「思うよ。難しいかもしれないけど、もうちょっと自信持ってもいいんじゃないかな」
「……そっか。うん、ありがと隼人くん。ちょっと元気、出たかも」
「そうか。それならよかった。じゃあ行こうか」
「うん」
俺の言葉など気休めにしかならないだろうに。素敵な女の子だよ、結衣は。努めて明るく微笑もうとしてくれる顔を見て、素直にまたそう思った。
それから俺と結衣は、小学生を引き連れてツリーの組み立て、飾り付けの材料買い出し、飾りの作成と手分けをして行った。
林間学校で俺のやったことを知らない小学生はとても懐いてくれ、言うことをよく聞いてくれたので作業は思ったよりスムーズだった。
ただ、留美ちゃんはその輪の中には決して加わらず、一人で黙々と作業をしていた。
案自体は比企谷のものだが、実際に恐怖を味わわせたのは俺だから、俺から留美ちゃんに話しかけるのは躊躇われた。見かねた結衣が話しかけてくれてはいたが、成果は芳しくなかったようだ。
作業をする小学生たちから少し離れた場所で結衣と話す。
「あんなことをしたのに、あまり変わってないな」
「うーん……変わってはいるんだろうけど。あのときの他の子がいないみたいだから、学校でのことはわかんないけどさ」
「……結衣は、少しぐらい変化はあったと思うか?」
「あったと思う、よ。たぶんだけど。あの時よりは……辛そうにしてないかも」
「ならいいんだけどな。ちょっと話してくるよ」
「…………うん」
結衣が頷くまでの少しの間は、留美ちゃんというより、話しかけにいく俺を気にかけていたからなのかもしれない。
留美ちゃんは長いソファーベンチの端にちょこんと座り、ハサミを器用に使って一人で星形の飾りを作っていた。そこへ向かい声を掛ける。
「ここ、いいかな?」
待ったが、返事はない。視線も目の前の紙に固定されたまま微動だにしない。やはり駄目かと思い、諦めかけたところで留美ちゃんが呟いた。
「…………ダメって言ったらどうするの?」
抑揚のない、平たく言えば興味がなさそうな声だった。警戒されているのだろうか。あんなことをしたんだから当然といえば当然だ。
「座らずに立ったままで話しかけるかな」
「…………なら、座れば?そこに立たれると邪魔」
「そうか、ありがとう」
許可してくれたのでソファーベンチの端に座る。不自然なほど真ん中に空白ができた。留美ちゃんは先ほどから顔は一切上げず、飾りを作りながら話している。
「あの時は、悪かったね」
別に許してもらおうとも、罪悪感を和らげようとも思っていなかった。折本さんのことと同じように、これからを考えて少しでも修復できればと思っただけだ。
「…………別に、いい。なんであんなことしたのか、なんとなくわかるし。実際ちょっと楽になったから」
一瞬言葉を失ってしまった。留美ちゃんは俺たちのやったことの意味を理解していた。思っていたよりもずっと賢い子だ。
「そうか……。なら、意味はあったのかな」
「…………でも」
「でも?」
不自然な場所で言葉が途切れたので横を見ると、さっきまでずっと動かしていた手が止まっていた。俯いて恥ずかしそうに頬を染めている。
「……あの時は怖かったんだからね」
上目遣いでこちらを見上げながら話す彼女の顔は、年相応のあどけない小学生のものに見えた。おもわず俺も緊張を解き、顔を綻ばせてしまった。
「ごめん。他にいいやり方が思い付かなくて」
「ふーん……。もう終わったことだからいいけど。お節介だよね、お兄さんたち。私のことなんて関係ないのに」
「お節介か、そうだね。でも君のことを見てたらなんとなく、何かできないかと思ったんだ」
あんな悪役を引き受けても構わないと思ったのは、根はいい子達だと信じたかったからというのも確かにある。
だがそれよりも、知りたいことがあったから引き受けた。過去に俺がやった失敗は、違うやり方なら変えられることはできたのだろうか。あそこにいたのが俺ではなく、比企谷だったら何かを変えられたのか、それが知りたかった。
「そう……。八幡は何してるの?」
八幡と言われてもすぐに比企谷のことだとわからず、首を捻ってしまった。小学生に名前を呼び捨てにされているというのは、信頼されているのか、自分に近いと思われているのか、どちらなのだろう。
「八幡?ああ、比企谷か。あいつは別の仕事してるよ。用があるなら呼ぼうか?」
「べ、別にいい。用なんかないから」
「そうか。じゃあ少し手伝うよ」
置いてあった箱に入っている紙とハサミを取ろうとすると、留美ちゃんはそれを拒絶するように箱を抱えて首を振った。
「いい。一人でやれる」
「……わかった。でも、手伝いが必要になったらいつでも言ってね」
「……うん。ありがと…………ございます」
付け足された敬語は消え入るような声だった。留美ちゃんは俺や比企谷のことを今はどう思っているのか、それは俺にはわからない。
だが、俺の思うほどに留美ちゃんは俺を恨んだり恐れたりはしていない。
救うとまではいかなくても、今回は何かを変えることができたのかもしれない。
もしそうであれば、やはり過去の俺はまちがっていたのだ。そして現在に至るまで、俺はまちがい続けている。
一人でやれると頑なに譲らない留美ちゃんを見ていると、俺の罪悪感の根元である忘れられない出来事が不意に甦った。その姿は、変わろうとし始めたあの頃の雪乃ちゃんと重なって見えた。
一一一
昔、俺は雪乃ちゃんと仲が良かった。何でもないことを言い合える友達だと、自信を持って言うことができた。
まだ幼かったのでそこに恋愛的なものはなく、ただ無条件に信頼し合っていただけな気がする。
家族同士の付き合いがあったせいもあり、俺と雪乃ちゃん、陽乃さんは頻繁に一緒に遊んでいた。好奇心が強く物怖じしない陽乃さんに二人とも憧れ、引っ張られるようにしていた。
雪乃ちゃんは昔はいつも自信がなさそうにしていた。どちらかでいうなら間違いなく引っ込み思案なほうで、お姉ちゃん、葉山くんといつも誰かについていくような子だった。
だが雪乃ちゃんは今と変わらず、その頃から図抜けて美しく、成績も優秀だった。そして俺も、自慢ではないがいつもクラスの中心で、女子からは羨望の目で見られていた。
この年頃の男子は好きな子に対し、ちょっかいを出すという行動でしか気が引けないものだ。
だから雪乃ちゃんは俺とクラスが同じになったことをきっかけに、男子からはからかわれ、女子からは俺と仲がいいという理由でやっかみや嫌がらせの対象となるという境遇に陥ることになった。
しかし、引っ込み思案で大人しい彼女の芯は、その性格からは考えられないくらいに強かった。そんな嫌がらせを相手にせず、かといって反発するでもなく、ただ耐えていた。
彼女は責任を常に内に求め、他人を責めるということをしなかった。
理不尽な話ではあるが、彼女のその行動はあまり効果的ではなかった。度重なる嫌がらせに対して思ったような反応が返ってこないことを逆に疎ましく思われてしまい、やがて女子全員から無視されるという虐めの領域にまでエスカレートしていった。
俺はといえば、クラスの女子に声をかけそういったことは止めるようにやんわりと伝え、調和を取ろうとしていた。当然のように効果があったのは表面上だけで、裏では相変わらず嫌がらせが続いた。
そんな中でも、ただひたすらに耐えている彼女の瞳には、無責任な悪意には決して屈しないという意思と力強さがあった。
だが飽きもせず繰り返されるその行為は彼女の神経を磨り減らし、俺には見せないようにしていたが、沈んだ表情が増え、それに反比例して笑顔は減っていった。
クラスでの味方は俺だけという状態が長く続いていたが、やがて女子の中から勇気のある子が一人、彼女に手を差し伸べた。
その子は雪乃ちゃんと俺の、大切な友達になった。
昔から一緒にいる俺以外の味方ができたことで、彼女は笑顔を徐々に取り戻していった。
俺が彼女を助けることはできなかったが、そんなことはどうでもよくなるほどに嬉しかったことをよく覚えている。
だがここで予想外のことが起きる。雪乃ちゃんに向かっていた悪意が、手を差し伸べてくれたその子に向かったのだ。
彼女はそこで初めて、責任を内に求めるのをやめ、敵意を外に向けた。勇気を持って手を差し伸べてくれた友人を守ろうと必死だった。俺は無謀にも、相変わらず調和によってそれを止めようとしていた。
クラスの中心だった俺はその和を、今となって思えばそんなものを和と呼んでいいわけがないが、空気を壊すような行動がどうしてもできなかった。
クラス全体をバラバラにすることが怖くなり、何も犠牲にせずその子も彼女も守ろうとした。結局のところ、どちらかを選ぶ勇気が俺には足りなかったというだけのことだ。
そんな意味のないことを続けていた俺に対し、雪乃ちゃんの態度は変わり始めた。そしてある日、ついに選択を迫られることになる。
あの子と私と、クラスのみんな。葉山君にとって大事なのはどっち?
俺の答えは───選べない。どちらも大事だ。そう伝えた。
それから彼女は、俺に、人に頼ることをやめた。そして俺は、何かを選ぶことは許されなくなった。
俺と雪乃ちゃんの関係は目に見えて悪化した。
友人への嫌がらせが止まない中、俺が雪乃ちゃんに話しかけてもつれない反応しか返ってこなくなった。
以前なら俺に頼ろうとしていたような場面でも、彼女は一人でやれる、助けはいらないと固辞するようになった。
二人の大切な友達が、雪乃ちゃんの変化の原因を、俺たちの険悪な雰囲気の原因を自分のせいだと感じていることにも気が付かず、俺たちは疎遠になっていった。
そしてある日突然、大切な友達はいなくなった。ごめんねという言葉をたった一言残して。
両親の都合で転校したと担任から聞かされた。俺たちは何も聞いていなかった。その理由が本当なのか、嫌がらせに耐えかねてのことなのか、それすらもわからなかった。
あのとき俺が周囲との関係を悪化させてでも、二人を助ける道を選んでいれば───。
いくら考えても、後悔しても、やり直したくても、時間は戻ってくれず、俺は救えなかった友達に謝ることすらもできなかった。
後に残されたのは、頼ることをやめ陽乃さんのような強さを求めるようになった雪乃ちゃんと、何も選べなくなった俺。以前のように仲良くはできなくなった二人だった。
雪乃ちゃんが変わろうとしてから、すぐに嫌がらせそのものがなくなった。彼女自身が変わることで問題は解消し、結局俺は最後まで何もできなかった。
俺はクラスの和と引き換えに、彼女からの信頼と、大切な友人を失った。
俺が救えなかった彼女とは、雪乃ちゃんも含まれてはいるが、俺にとってより重いのは、かつて存在した、唯一の共通の友人のことだ。
この出来事が、その女の子への罪悪感が、今の俺の根幹となっている。
それから俺は、何も選ばず、他人からの期待に応えることだけを考えてここまで来た。
雪乃ちゃんとは疎遠になるとやがて雪ノ下さんに変わり、学校での会話がなくなるまでそう時間はかからなかった。
あれから前に進めないまま季節は幾度も移り変わり、高校も二年生を迎える。
時の流れはあの出来事の記憶を薄れさせ、昔のように仲良くも信頼もできないものの、普通に会話ができる程度には二人とも大人になった。大きなしこりが残ったままではあるが。
雪ノ下さんとは奉仕部という、いつの間にか入っていた謎の部活を通して話す機会が増えた。
久しぶりに話す彼女はあの時のまま、強くあろうとしているようだった。
奉仕部という部活には比企谷八幡という同じクラスだが馴染みのない男子もいて、彼女はその男子を気にかけているようだった。
その理由は林間学校でわかった。彼は躊躇いなく自分のことさえも投げ出せるうえ、既存の関係を壊すことのできる人間だったのだ。
仮に小学校が比企谷と同じだったとしても、俺は仲良くできなかっただろうと、彼にそう言ったことがある。それは本心だ。
なぜなら俺のできなかったことを平気でやれる人間だから。彼ならばあのとき、彼女たちを救えたのではないかと考えてしまうから。
なんて矮小な人間だ。器が知れる。でも周囲の評価はそうはならない。俺が過剰に持ち上げられ、彼が不当に蔑まれる。
俺はそれが我慢ならなかった。俺が嫉妬さえ抱く彼の評価が不当に低いままでは、俺がより一層惨めになる。
それよりももっと許せなかったのは、彼自身の自己評価が低いことだった。彼が価値のないものだと思っているとしたら、それに嫉妬している自分は一体なんなんだ。
だが俺は彼にはないものを多く持っているのも事実で、それを認めることができないほど子供ではない。彼は俺の対極にいる人間で、お互いができないことをできるという、たったそれだけのことなのだろう。
そうわかってはいても、一度内から這い出てきた醜い嫉妬心は、決して消えることはなかった。
そんな燻った思いを抱えていたものだから、陽乃さんに巻き込まれて折本さん、仲町さんと遊びに行く羽目になったとき、俺らしくないとは思いつつも、つい酷いことを言ってしまった。
その出来事の少し前に、雪ノ下さんからよければ生徒会長になってもらえないかと打診があった。
なんとか彼女の力になれないかと思いはしたが、さすがに生徒会長とサッカー部の部長と兼任は難しいと感じていた。
その後、陽乃さんと雪ノ下さんのやり取りがあり、彼女は自分が生徒会長になるから応援演説をしてほしいと頼みを変えてきた。わざわざ頼みたくもないであろう俺に頼むあたり、彼女の本気が伺えた。
陽乃さんの考えと違い、俺にはもう彼女が陽乃さんの影を追っているとは思えなかった。彼女は陽乃さんも持っていないものを求め、前に進もうとしているのだと思った。
彼女が前に進めるのであれば、それは俺にとっても喜ばしいことだ。できることならその変化を俺も近くで見届けたい。
家族間のことがあるので付き合いが途切れることはないが、前に進めない俺が彼女と並び立つことはできないし、今後の進路もおそらく別になるだろう。
だから、これが彼女を近くで見られる最後の機会になるかもしれない。
だが応援演説を既に引き受けている手前、それも叶わないことだ。
そう思っていたのに、彼女から比企谷も生徒会に入ると聞いて、そう提案したのが彼自身だと聞いて考えを改めたくなった。
なぜ比企谷まで生徒会に入る必要があるんだ。そんな柄じゃないだろう。雪ノ下さんが生徒会長になり、部活に行けなくなるかもしれないということが、彼にとってはそんなに問題なのか。
彼は俺と違って、上辺だけの関係なら切り捨てることができる人間ではなかったか。奉仕部での関係をどうしても変えたくなくてそうするのであれば、俺のやっていることと変わらないじゃないか。
確認したくなった。自分のために。
そんなことを考えていると、どこから聞いたのか、陽乃さんは雪ノ下さんが生徒会長になろうとしていることを知って、本気ではなさそうに軽く俺に言った。
「ついでに隼人も入れば?生徒会長じゃなきゃ兼任でもなんとかなるでしょ。どうせ雪乃ちゃんじゃ上手くやれないだろうから、フォローしてあげれば?」
陽乃さんは別に俺に何かを期待してそう言ったわけではない。雪ノ下さんの状況を聞くのに、俺が近くに居たほうが都合が良いか、単純にそのほうが面白くなると思っただけだろう。
根掘り葉掘り聞かれる俺が真実を話すかどうかもまた、陽乃さんにとってはあまり関係がない。俺の話しぶりから察することができるから。
俺が生徒会に入るだけの意味は自分の中にもう見出だせていた。それでも決めきれなかった俺の最後の後押しをしたのは、皮肉にも俺への興味を失っている陽乃さんの言葉だった。
それが葉山隼人らしくない行動であることはわかっていた。
故に、実際に何人かからはなんで生徒会に入ったのかと理由を尋ねられた。そのときは陽乃さんに言われたことを利用して、詳細をぼかして答えることにした。
そうして生徒会役員となった俺が最初の仕事で見たのは、強くあろうとした彼女と、昔の大人しかった彼女とが同居する、酷くアンバランスで不安定な女の子だった。
そしてもう一つ、知ろうともしていなかったことを知った。
比企谷と話をすると、俺が言われたことのないような思いがけない言葉を聞くことができ、そこで俺はようやく自分が何を求めていたのかを知ることができた。
俺は、否定をされることを望んでいた。
自分でそんな生き方を選んでおきながら、俺は誰かにまちがっていると言ってほしかった。
きっと、そうすることで俺は初めて、あの時から前に進むことができるのだろう。
一一一
稼働時間の限られている小学生を帰宅させ、いつもより遅い時間に短い会議が行われたが、当然結論は出ず保留、先送り、様子見。なんと言ってもいい、決めることはできなかった。
項垂れる女子メンバーを置いて、比企谷に声をかける。
「比企谷、ちょっといいか」
「……おお、出るか」
すんなりと応じてくれた。比企谷も俺と同じように思うところがあるようだ。
人気のない場所まで行く途中に会話はなかった。俺もだが比企谷も、こいつとは仲良くできないと思っているに違いないから、別にこれで問題はない。
「どうする?」
前振りも何もなしに一言だけを伝える。
「……どうにかするしかねぇな。もうタイムリミットだ」
「ああ。時間的にはもう遅いぐらいかもな。いい手はあるか?」
そんなもの俺にはない。ここまできたらやれることは一つだけだ。
「いい手も何も……やるべきことをやるだけだろ」
「君が、やるのか?」
やはり彼も何が必要かわかっているようだ。あとは、誰がやるのかということだけ。
「誰でもいいんだけどな。俺でも……別にお前でも」
「……ああ。雪ノ下さんには、今は望まないほうがいい」
そう言うと彼は辛そうに俯いた。今の雪ノ下さんを見て、彼は何を思うのだろう。俺と違って、比企谷はあんな姿を見るのは初めてのはずだ。
「みたい、だな。明日生徒会室であいつらと話するか」
「そうだな。意思はちゃんと統一しておく必要がある」
「……はぁ、めんどくせぇなほんと。なんでここまで一緒にやることに執着すんだよ……」
比企谷は大仰に溜め息をつきながら実に面倒臭そうに話す。
俺も合同というだけでここまで拗れることになるとは思ってもみなかったので、同じような気分だ。
「さぁな。怖いんだろうな、玉縄は。どうせこうするしかなかったんなら、もっと早くにやるべきだったな」
おお、と力のない声が聞こえてから、しばらく間が空いた。
ポケットに両手を突っ込んで下を向いていた比企谷が顔を上げ、口を開く。
「なぁ。…………お前はなんか、知ってんのか。雪ノ下のこと」
「知ってても君には言わないよ」
彼女が話さないことを俺から言うわけにはいかない。知りたければ彼女自身から聞くべきだ。
「聞くつもりもねぇよ、お前には。知ってるかどうか聞きたかっただけだ」
俺には、ということは、いつか彼女に聞くつもりなんだろうか。彼女はそのとき、ちゃんと答えることができるのだろうか。
「そうか。過去なら君よりは知ってるよ」
「だろうな。ムカつく言い方しか出来ねぇのかお前」
「そんなつもりはなかったんだけどな……。今のことなら君のほうが知ってるだろ」
「……どうなんだろうな。俺にはわかんねぇことだらけだ」
独り言ともとれるような呟きだったが、俺の耳にもしっかりと届いた。
きっと比企谷は、わからないことがわかってきたのだろう。
人を知るほどに、親密になるほどに、わかったことは増えているのに、それ以上にわからないことが増えていく。
その繰り返しだ。つまり、人と人は永久に完全にはわかり合えない。だが、それを続けていくことこそが人間関係なのかもしれない。
「……俺も、変わらないさ」
俺は立ち止まってしまったけれど。
比企谷も彼女も、足掻きながらでも前に進もうとしているんだなと思うと、体の内のどこかに締め付けられるような感覚があった。
「戻るか。サボってると睨まれそうだし」
「今日はもう時間もあまりないけどな。頑張らないといけないのは明日からだな」
「さらに忙しくなるのか……嫌だなぁ」
こいつは仕事はできる癖に、仕事がしたくないという主張は一貫している。つくづく変な奴だ。
「頼りにしてるよ、庶務の比企谷君」
精一杯の皮肉を込めて言ったのだが、彼はすぐに反論の言葉を返す。
「うるせぇ。お前何回も会議サボってんだし副会長の仕事しろよ」
痛いところをつかれた。ちゃんとした理由があるとはいえ、何度か会議に出られなかったことは事実だ。
「副会長の仕事か……。そうだな、俺も働かないとな」
「おお、働け働け。俺が働かなくてもいいぐらいに」
「そこまではやらないさ。庶務の仕事まで奪うと心が痛むからな」
講習室の前で比企谷はあっそ、と呆れるように短い言葉を吐き捨て、扉を開けた。
すると、結衣といろはが軽い愚痴めいた言葉を俺と比企谷に投げてきた。雪ノ下さんからは何も言われなかった。
副会長の仕事。それは、生徒会長の補佐だ。
役職に就いたんだし、仕事、しないとな、俺も。やれることをやらないとな。
それが果たして、彼女のためになるのかはわからないが。
☆☆☆
小学生が参加する日、コミュニティセンターに行く前、いつものように一旦生徒会室に集合することになっていた。
教室で由比ヶ浜を待っていると先に行っててと言われたので、一人で生徒会室に向かっている。最初は戸惑いしかなかった道のりだが、今は特に違和感もなく歩いていることに気がついた。
人間の適応力ぱねぇな。それと同時に、記憶の都合の良さも嫌になるぐらいすげぇ。
時間の流れはどんなに素敵な思い出も、思い返したくない過去も、平等に角を取り丸くする。
辛い過去に関してはそのまま抱えていると、そうして柔らかくしないと、生きていくのに不都合だから人間にとって必要な機能なんだろう。
だが嬉しかったり楽しかったりした良い記憶は、その中にあった小さな違和感や疑問だけが削り取られ、美化された状態で残る。
これは余計な機能だ。そのせいで、楽しいだけではなかったはずなのに、ふとしたときにあの頃に戻りたいと考えてしまう。
斜陽の中に佇む、真っ直ぐな少女が頭に浮かんで、消えた。
生徒会室の扉の前で、無意識に息を飲んでいる自分がいた。緊張の理由はわからないままに扉を開けると、席について机の上の資料に目を向ける雪ノ下の姿があった。
「おす。相変わらず早いな」
鞄を置いて俺も席についたが、雪ノ下からの反応はなかった。視線は机の上に固定されたまま微動だにしない。
「……雪ノ下?」
雪ノ下は今スイッチが入ったかのように、突然ビクッと体を震わせると、ようやく俺と目を合わせ口を開いた。
「び、びっくりした……。いつの間に入ってきたの?」
「いや、ごく普通に扉開けて入ってきたけど……挨拶もしたぞ、一応」
「そ、そうなの?全然気がつかなかったわ」
「どしたんだお前、ボーッとして。なんか具合悪い?」
よく見ると目が潤んでいるような気がする。真っ白な耳もいつもより赤らんで見える。
「そういえば少し熱っぽい、ような……。昨日雨に打たれたせいかしら」
「あー、そういや帰る頃大雨になってたな。俺はギリセーフだったけど。大丈夫なのか?」
「ええ、このぐらい平気よ。ボーッとしてたのは別。ちょっと考え事をしていたから」
「そうか、ならいいんだけどよ。お前の大丈夫は、信じていいもんなのかどうか……。前科あるからな、お前」
前も大丈夫と言いつつ、出てこられなくなるまで拗らせたのを忘れてないぞ、俺は。
「何よ、前科って。人を犯罪者呼ばわりしないでもらえる?」
「文化祭の時みたいに、お前が必要以上に背負い込んで無理するのは知ってるからな。そんなこともうさせたくねぇから、いつでも言ってくれよ。俺でも由比ヶ浜でも、指示だけ出してくれてもいい」
雪ノ下は悲しげに目を伏せて首を振った。
「今は、無理してもできることなんかないわ……。あなたもわかっているでしょう?」
「まぁ、今はそうだな……」
安易に否定の言葉を吐けないほど状況は逼迫している。今の雪ノ下に気休めの言葉をかけたところで楽にはならないだろう。
黙ってしまった雪ノ下を眺めていると、やがて静かに、懺悔ともとれる言葉を呟いた。
「……情けないわ。今の状況は全部私が悪いのでしょうね」
「全部お前のせいなわけねぇだろ。悪いのは俺もあいつらも、海浜の連中も、全員だ」
「そうなのかもしれないけれど、それでも……。私は生徒会長なのだから、責任は当然重いわ」
「そうだとしても……」
言うべき言葉が見つからず口をつぐんでしまった。そんなことをするつもりは毛頭ないが、誰の責任だと強引に犯人探しをするのであれば、海浜高校の連中を除くと当然生徒会長という話になる。
個人の責任で終わらせるつもりも、このまま大人しく見ているつもりもない。
それでも、その職にある雪ノ下に責任を感じるなというのは無理な話だ。そんな適当な奴でないことは俺もよく知っている。
「ねぇ、比企谷君」
雪ノ下の顔へ目を向けると、そこには自虐めいた薄い微笑みがあった。
「私に、失望した?」
「…………何が言いたい」
「いいのよ、言ってくれて。あなたが見ていた私はこんなのじゃなかったって。それに、私もあなたに失望したことがあるもの」
「あんときか……。まぁあれは、俺が一方的に悪いからな。仕方がない」
俺が勝手に相談もせず、一人で考えて一人で行動したからだ。だからその責任が俺にあるのは当然で、異論はない。
「いえ……。私も、同じだったわ……。比企谷君を責めることなんて、そんなことしていい人間じゃない」
「なんだそれ。別にそんなのに資格はいらんだろ」
「ううん。私もわかってるから。姉さんにも言われた」
寒気すら感じるような、酷薄な笑みを浮かべた陽乃さんの顔は昨日も垣間見ることができた。
俺たちと別れたあと、陽乃さんはあの顔で雪ノ下に何を言ったのか。考え事というのは、それに関することか。
「……何を言われたんだ」
「みんなに守ってもらえてよかったねって。私に自分の意思なんかないでしょうって、そう言われたわ」
「んなわけねぇだろ。……気を悪くしたら申し訳ないんだが……あの人のお前を見る目は歪んでる。たぶん、俺は知らねぇけど、昔のお前のイメージを押し付けてるように見える。だからそんな言葉、真に受けんでもいい」
「……ありがとう。やっぱり優しいのね、あなたは。では比企谷君はそうは見ていないということかしら。こんな私に失望していないの?」
雪ノ下の言葉を受け、思考を巡らせ己に問いかける。
失望しているのか?俺は。
失望するということは、俺はまた知らず知らずのうちに理想を押し付けていたということだ。
雪ノ下はこうだと勝手に他人を規定して、そうじゃなかったから裏切られたと感じているということだ。
雪ノ下だって嘘をつく。雪ノ下は完璧な人間じゃない。自信がないこともあるし、弱ることだってある。俺と雪ノ下は似てなどいない。ここまではもうわかっていることだ。
わかっていながら、なおも雪ノ下に持っていて欲しいと願うものは確かに、ある。
でも、それはまだ、雪ノ下から失われてはいない。だったら、俺は失望などしていないはずだ。
「して、ないと思う。俺はもう、お前に完璧さなんか求めてない。今のお前を、否定するつもりはない」
「複雑ね……。期待されていないということかしら」
「そういうわけでもなくて……。すまん、いい言葉が思いつかねぇんだよ。けど、それでも、俺が見てた雪ノ下は、出会った頃のお前は……」
伝えたいことはあるのに、これ以上は言葉にならなかった。俺の表現力、伝達力に問題があるのも確かだが、言葉は感情を全て伝えるには不完全なものだ。
俺はまだ、言葉以外に感情の伝え方を知らない。けれど、誤解を招くのが嫌で不用意な言葉を持ち出すわけにもいかず、また黙り込んでしまった。
言葉なしには伝えられず、言葉があるから間違える。だったら俺は何がわかって、何をわかってもらえるというんだ。
「ごめんなさい。やっぱり今はまだ、自信が持てないわ……」
雪ノ下は諦めたように、俺の無言に対し返事をしてくれた。
「そうか……。すまん」
「謝らないで。私が不甲斐ないからいけないのよ。けれど、私がどうであれ、イベントはなんとかしないと……」
「……そうだな。俺も、やれることをやることにするわ」
「比企谷君……?」
俺の意思を曖昧にだが伝えると、雪ノ下は何かを察したのか俺にすがるような目を向ける。
そして俺はその目をじっと見ていることはできなくて、また目を逸らしてしまった。
「やっはろー、ゆきのん、ヒッキー」
「こんにちはー」
「やあ」
扉が開き、生徒会役員の三人が入ってきた。俺に目を向けていた雪ノ下を見て一色が首を傾げる。
「どうしたんです?ボーッとして」
「……なんでもないわ。みんなの紅茶淹れるわね」
雪ノ下は普段の様子を取り戻したかのように、ティーセットに向かい準備を始めた。さっきまでの表情はもう消えていた。
「おー、ゆきのんありがとー」
「ありがとう、雪ノ下さん」
手慣れた所作で五人分の紅茶がそれぞれの入れ物に注がれる。四人はティーカップかマグカップなのに、俺だけ湯呑み。もう見慣れた光景ではあるが、仲間外れ感が激しい。
役職がない俺をみんな無意識に疎外してるのか?んなわけねぇな。被害妄想いくない。
雪ノ下は紅茶を注ぎ終わり席につくと、駄弁り始めた由比ヶ浜と一色をよそに、また机の上に視線を固定して考え事をし始めた。
外は昨日の夜から雨が降り続けている。雪ノ下は陽乃さんに言われた言葉をどんな気持ちで受け止め、雨に打たれて帰ったのだろうか。
その気持ちを推し量ることは俺にはできないが、今は雪ノ下の重荷を少しでも減らしてやりたい。ただそれだけだ。雪ノ下ができないなら、誰かがやらないといけないことだ。
陰鬱な空模様を眺めながら湯呑みで流し込んだ紅茶は、いつもより渋くて苦かった。
時間になったので五人で生徒会室を出てコミュニティセンターへ向かうことにした。
今日からは小学生が参加になる。お守りは葉山が引き受けたと聞いているから、おそらく俺はあまり関わらないだろう。
林間学校でも感じたが、俺は多数の小学生にすこぶる受けが悪いからきっとそのほうがいい。
その後にはまた進まない会議のための会議が待っていることがわかっているからか、それとも鬱陶しい雨のせいか、皆の足取りは一様に重かった。
いつものように、意識すると辛くなるが顔が華やかなメンバーについて最後尾をとぼとぼ歩いていると、前にいた一色がすっと歩くペースを落として俺の横に並んだ。
「先輩先輩」
一色は俺の傘に入るぐらいの距離にまで顔を近づけて、小声で話しかけてくる。近い、近いから。そういや俺、相合い傘とか小町としかしたことねぇなぁ。
「今さらなんですけど、ちょっと聞きたいことが……」
「な、なんだよ」
「この前、葉山先輩と先輩の知り合いのあの女と、なんか話してましたよね。あれなんだったんです?」
「あー、またそれか……」
由比ヶ浜には既に聞かれたことだ。一色からも聞かれるとは思っていたので特に狼狽えたりはしないが、ややうんざり気味だ。いやでも、あの女って、その言い方どうなのよ一色さん。
「また?あと思い出したんですけど、あの女先輩たちと四人でデートしてたときの相手ですよね?どういう関係なんですか?」
一色は顔こそいつもとさほど変わらない笑顔をたたえているが、声は普段より二オクターブぐらい低い。
あ、これダブルデート(笑)中に会って問い詰められた時と同じ声だ。うん、怖い。一色さんこわぁ。
「ちょっと、一遍に聞かれても答えられねぇんだけど……。あれはデートじゃないし、あの後気まずい別れ方になったから謝ったり、まぁいろいろだ」
「はぁ。あれはデートにしか見えませんでしたけど……まあいいです。それで先輩、何やらかしたんですか?許してもらえました?」
「なんで自然に俺が謝ったことになってるわけ?俺はなんもしてねぇよ。詳しいことは葉山に聞いてくれ、俺はあんま関係ないし」
「葉山先輩に聞けたら先輩に聞きにきませんよ」
「なんで俺なら聞けるんだよ……。お前昨日葉山と買い物行ってたんだし、そんとき聞けばよかっただろ」
「あー、そうしようかとも思ったんですが……。なんか、そんな雰囲気じゃなくてですね……」
一色は若干肩を落として語尾を濁した。はしゃいでるかと思いきや、なんか気まずくなることでもあったのか?
「なんで浮かない顔してんだ。喧嘩でもしたのか?」
「するわけないじゃないですか。葉山先輩だと喧嘩にもなりませんよ、絶対。そうじゃなくて、わたしのこと誘っておいてなんか上の空っていうかー、あんまり元気なかったんですよ」
雪ノ下も今日になって上の空だったが、関係あるんだろうか。あの二人の共通点と、昨日あった特殊な出来事。それを考えると、あるとしたら原因は高確率で陽乃さんだ。
葉山と雪ノ下と、陽乃さん。あの三人は過去を共有しているという、俺にはどうしようもない事実がある。
俺がもっと深く踏み込んだとしても、そこに入ることは決してできないという気がする。
「ふーん……。まぁ葉山も疲れてんじゃねぇの、いろいろ。そういうときこそあれだろ、癒してあげるとポイント高いんじゃねぇの?」
「なるほどー。どうでもいいんですけど参考になるかもなので一応聞きますが、ちなみに先輩は疲れてるとき何してほしいですか?」
どうでもいいんなら聞くなよと思うが、それは口にしたら駄目なんだろうな。もう学んだぞ、俺は。
「俺は……一人にしてほしいかな」
「それもわからなくはないですが……やりなおし。話理解してます?わたしのできることを聞いてるんですよ?」
「割と真面目に答えたんだけどな……。マッサージとかは……ちょっとアレか。んじゃ甘いものとか?」
「ほうほう、手作りクッキーとかですか?ベタですけど、割と効果的なんですかね」
意図して思い出さないようにしてきたのに、奉仕部での最初の依頼のことが頭に浮かんだ。
由比ヶ浜からの、最初の依頼。あのときは俺が屁理屈をこねてうやむやにしてしまったが、その後目的は果たされたのだろうか。
痛くはないけど、鼓動が少し早くなって苦しくなった。
「…………ああ、効くな。俺には特に」
「へー。先輩って意外と……ああいや、先輩はどうでもいいんですってば」
「失敬なやつだなお前は。だったら葉山に聞け葉山に」
「だからそれができ……ちょっと先輩、せんぱーい?」
埒の明かない会話を強引に切り上げ、一色の声を無視して目を前に向けると、由比ヶ浜を挟むようにして歩く三つの傘が見えた。
由比ヶ浜は三人以上のときは、いつだって誰かと誰かの間にいる。
思えば奉仕部でも何も言わなくても間に入って、俺たちを繋いでくれたり緩衝材の役をしてくれていた。
由比ヶ浜らしいと言えばそれまでだが、それで終わらせていいはずがない。そんなのは優しさに甘える行為でしかない。
イメージを押しつけてはいけない。理想を誰かに求めてはいけない。それは弱さだ。憎むべき悪だ。罰せられるべき怠慢だ。傷つけていいのは、自分だけだ。
どこまでも優しい由比ヶ浜も、聖人君子とは違う。俺と同じように悩んだり苦しんだりすることだってあるだろう。
ならば俺は、俺にやれることは。やるべきことは。
考えてはみたが、目的地に辿り着くまでの短い時間で答えが出るはずはなかった。
講習室に入ると、海浜高校のメンバーに加えて見慣れない集団が部屋の一角でそわそわしていた。小学生軍団だ。
玉縄は引率者と思われる教師と言葉を交わしており、それを見た雪ノ下もそこに加わり挨拶を行った。
雪ノ下はそのまま玉縄と一緒に小学生の元へ向かい、二言三言語りかける。すると小学生たちから、はーいというそこそこ元気な声が聞こえてきた。
反応は上場だと思ったのに、戻ってきた雪ノ下の表情は固い。席に座ってからも無表情で小学生たちの方向へ目を向けている。
なんか不可解だなと思って雪ノ下の見ている方向に目をやると、目立つ小学生のさらに奥に見知った顔を見つけてようやく合点がいった。鶴見留美がいたのだ。
パッと見ただけでも彼女が一人浮いているというか、輪から外れているのはよくわかった。
この夏俺がやった、と言っても実際にやったのは葉山たちだが、俺の発案した方法で彼女を取り巻く人間関係を壊してしまったことは忘れられない記憶だ。
問題の解決にはならず、誰もが納得しかねるようなろくでもない案ではあったが、惨めだと言っていた彼女の環境を少しは変えられたかもしれないと思っていた。
この鶴見留美の現状が、夏に俺のしたことが原因であるなら、俺はその責任を取る必要がある。それは、今のこのイベント状況、生徒会の状況も同じだ。
俺の選択が招いたことなら、俺はこの現状を変える責任がある。俺は行動しなければならない。
由比ヶ浜と葉山で小学生のお守り兼、飾り作りの作業をやってもらっている間に、俺と一色と雪ノ下でまだ残っていた書き物を終わらせておいた。
これで事前にやるべきことはもう、ほぼなくなった。これ以上は内容を決めてからでないと取りかかることのできないものばかりだ。
よって、会議で決定が成されない限り、以降の進捗は完全に停滞する。
明日の金曜日で決めてしまえば、土日や翌週の祝日を作業に目一杯当てることでまだ間に合う見込みがあるが、明日で決まらず土日を無為に過ごすことになればもう無理だ。あとはイベントが瓦解していくのを見ているしかない。
小学生たちを帰してからまた会議をすることは決まっているが、雪ノ下は会議の時間が近づくにつれ次第に口数を減らしていった。
葉山と由比ヶ浜が作業を一段落して休憩に戻ってきたので、二人にそれとなく鶴見留美の様子を聞いてみた。
俺が見たままの状況で間違いはなさそうだったが、葉山が少しだけ気になることを口走った。
「やはり比企谷は俺とは違うんだろうな。何かは変わってるみたいだ、確かに」
「何かってなんだよ。解決はしてないんじゃねぇの?」
「解決はしてないな。けど少しは楽になったって、本人が。比企谷のこと気にしてたから行ってきたらどうだ?」
俺のことを?なんの用だろう。もしかして酷いことをしたから罵倒されたりしちゃうの?美少女の小学生に、あの冷たい目で罵倒?人を選んだらそれはご褒美にもなるんだぞ、ルミルミ。
幼い彼女はまだ知らないかもしれないが、社会はそういう人で溢れていることを少し教えてやるとするか。……PTAとかに言われたらえらいことになるな、やっぱやめとこう。
外に出てキョロキョロと辺りを見回すと留美はすぐに見つかった。一人でぽつんと座って飾り作りに没頭しているところに近づき、右手を挙げながら声をかける。
「よう」
で、無視……と。この挙げた右手をどうしてくれようかと思い、流れるような動作で頭を掻いてみたがわざとらしすぎて変な汗が出てきた。俺を探してたとか言ってたけど、騙されたか?
「…………なんの用?」
びっくりした、時差ありすぎだろ。違う時の流れで生きてるのかお前は。
「や、お前が俺に用があったんじゃねぇの?」
「…………別に、ないけど」
留美は小馬鹿にしくさった口調でそう言うと、また折り紙に視線を固定した。ほーん、葉山、嘘じゃねぇかこの野郎。どういうつもりだ。
「そうかよ」
葉山に文句は言いたいがこのまま戻るのもなんなので、隣に腰かけて飾り作りを手伝うことにした。
ハサミと折り紙の束を失敬して図面を眺める。雪の結晶の形をした飾りのようだが……案外複雑なことやってんな、これ。
ハサミの音が途切れたので横を見ると、留美が驚いたようにこちらを見ていた。
「八幡、いい。いらない。一人でやれる」
「ふーん、でも俺やることねぇんだよ。だからやらせろよ」
言ってから、言葉だけ聞くとかなりまずいアレなやつに聞こえる可能性に気がついた。
心配になったので、誰も聞いてないよなと辺りを見回したが幸い誰もいなかった。
「……暇なの?」
留美は不思議そうに首を傾げる。この子このまま成長したら絶対可愛くなるな……。
本当は俺もやるべきことがあるはずなのだが、いかんせん今はもう、会議を進めないことにはどうにもならない。
「困ったことに暇になった。やることがなかなか決まんなくてな」
「……バカみたい。ならさっさと決めればいいのに」
小生意気な言い方だが、今の俺たちに必要で、実にシンプルな言葉だと感じて少し可笑しくなった。玉縄とか、あいつらにも聞かせてやりたいものだ。
「だよな。馬鹿みてぇだし、さっさと決めねぇとな。けど今はこれをやる」
留美からの返事はなかった。それからは静かな時間の中、二人で黙々と飾りを作り続けた。
集中力が必要な作業はお手のものだ、一人の世界に入り込むのは得意だからな。そして、考え事をするにはやはりこの中が一番だ。
先ほど留美は一人でやれるから助けは必要ないと言った。強がりでそう言っているだけなのかもしれないが、一人でやろうとするその姿勢はきっと気高い。
一人で立つことは必要なことだ。一人で立てるようになってこそ、他人と信頼や協力を行えるのだろう。だが一人でやれることには限度があるのも確かだ。
つまり、一人で立つのに、一人で全部できる必要なんてない。
俺はこれからも、可能な限り一人でなんでもやろうとするだろう。けれど俺一人の力なんてたかが知れているから、出来ないこともたくさんある。
そのとき、俺に足りないものを持つ人が傍にいてくれたなら、お互い様だと思ってくれて押し付けあえるなら。
俺にはないものを持っている他人だから、眩しくて、憧れて。だから俺はもっと、そいつらのことをわかりたい。知りたい。
でも、もしも、もしも俺が原因で一人では立てない、誰かの助けなしでは立ち上がれない人を生んでしまったとしたら。俺のせいであれば、俺にできるのは───。
考え事をしながらも手を動かしていると、紙でできた雪の結晶が降り積もっていた。
やがて最後の一つが優しく折り重なると、俺と留美は互いに顔を見合わせた。
「これで最後か?」
「うん……」
留美は満足げな吐息とともに小さな笑顔を見せた。が、それが恥ずかしかったのかすぐに顔を逸らして押し黙ってしまった。
「じゃ、戻るわ。下でまだツリーやってるだろうからお前も行けば?」
「…………え、あ、うん。あの…………」
放心したように頷くと、今度は何かを言い淀んでもじもじし始めた。
「なんだよ」
「……お前じゃなくて、留美」
「は?」
「は?じゃなくて。留美……」
はぁ、なるほど。そう呼べということか。
しかし俺は葉山と違って、馴れ馴れしく女子の下の名前を呼び捨てにすることに抵抗がある。が、相手は小学生だ。臆する必要などない……よね?
「…………またな、留美」
「……うん。またね、八幡」
やだ何これ、すごいムズムズする。見れば留美も顔を伏せて恥ずかしそうに身を捩っていた。
俺の他人との距離感とか付き合いかたって、小学生と同レベルっぽいな。いろんなことに慣れてなさすぎだ。
留美が見せてくれた笑顔は、俺のやったことを肯定するものではない。でも、あんなやり方でも何かを変えられたと、救われたと言ってくれるなら、それはありがたいことだ。
けど俺は、それでは変えられなかったものを変えようとしている。まだ足りないのだ、今までの俺では。
期待はしていなかった会議が予想通り何事もなく終わると、すぐに葉山に声をかけられた。
二人で席を外して話をすると、葉山は今の雪ノ下には多くを望まない方がいいだろうと言っていた。
俺も同感だ。今日に至ってはもうどうしたらよいかわからないといった具合で、向こうの会話に口を挟むこともあまりしなかった。おかげでその役目は俺と葉山がすることになった。
原因ははっきりしないが、本人も言っていた通り雪ノ下は自信を失っている。
葉山も思うところはあるようで、俺と同じようにこれ以上は待てないと感じているようだ。
明日生徒会室で全員に伝えることを二人で決めてから講習室に戻ると、その日は撤収の時間となった。
ここから出るときは一層寒さが堪える気がする。これは毎度毎度晴れない気持ちでいるからというのも多分にあるだろう。
晴れた気持ちでここを出ることができるのはいつになるのだろうか。
夕方まで降っていた雨は既に止んでおり、その残り香の湿った空気の匂いが鼻腔をくすぐる。
他メンバーに別れを告げ、一人で駐輪場へ歩いていると横の道に停車していた車からクラクションを鳴らされた。
なんだようっせーなと思って厳つい顔をした車に目を向けると、中からあまり厳つくない綺麗な女性が顔を覗かせていた。
「比企谷、乗っていくか?」
ゴリゴリのスポーツタイプの車に乗る女性は平塚先生だった。にしても、似合うし格好良いけど、この人こんな車に乗ってるから男に引かれるんじゃなかろうか……。
「いえ、自転車あるんでいいです。遠くないですし」
「そうか、なら私が降りよう。停めてくるから少しそこで待っていたまえ」
俺に何も言わせないまま平塚先生は重低音のエンジン音を響かせて行ってしまった。
えぇー……俺帰りたいんだけど。でもこれ、黙って帰ったら明日殴られるパターンのやつだよな……。
仕方なく待ちぼうけていると、カツカツとヒールの音が聞こえてきたので振り返る。
「すまないな、帰るところを引き留めて。状況を聞かせてもらおうと思ってな」
「先生、放置しすぎじゃないですかね。あんまり芳しくはないですよ」
ほんと全然顔を出さないってどうなのよ。海浜高校側も同じだけど、あいつらは一体どんな報告をしているのだろうか。
「ああ、簡単には雪ノ下から聞いているよ。ただ、比企谷から見た意見も聞きたいんだ」
「はぁ、そうですか」
「なんだその反応は。ま、立ち話もなんだな。そこのカフェに入ろうか、奢りだ」
ちょっと、こっちはそんな長い時間話すつもりないんですが。と言えるはずもなく、というか平塚先生はこちらの話を聞くそぶりも見せず既にカフェに向かって歩き始めていた。
時間も時間なせいか、店内は人がまばらで落ち着いた雰囲気と呼んでもいいものだった。窓際の二人席に向かい合って座る。
「さぁ、君の話を聞かせてもらおう。何が問題でこうなっているんだ?」
「問題、ですか。そうですね……」
俺の思うまま、問題だと考えていることを伝えた。
一番の理由として挙げられるのは、会議に否定が存在しないことだ。
そしてもう一つは、決定者、すなわち責任者の所在が曖昧なまま進めてしまったこと。
「そうだな。概ねその認識で正しいだろう。それはもう、どうするべきかわかっているだろうから終わりにして話を変えよう。雪ノ下の様子は、君から見てどうだ?」
割と長々と力説したつもりなのに、あっさり話を変えられて拍子抜けしてしまった。
「雪ノ下、ですか。まぁ……元気ないですね。本人が不甲斐ないとも言ってましたし、現状の責任を感じてるのかと」
「それだけか?」
短く言うと、問い詰めるような鋭い視線を向けてきた。
「…………なんでさっさと説き伏せて否定しないのか、そう思ってるかってことですか?」
「思っているだろう?」
「そりゃまあ……。俺の知ってる雪ノ下っぽくはないですからね」
「どちらかが間違っていてどちらかが正しいことであれば、雪ノ下は迷わないよ」
平塚先生はそこで言葉を区切ってコーヒーを口に運ぶ。何度か啜ってから続きを話した。
「君は海浜高校の子がやろうとしている、皆の意見を取り入れて最善の策を探ろうとしていることが間違っていると思うか?」
「……いえ、そうは思いません。できるならそれが一番でしょうし。ただ、この現状とそぐわないだけかと。期間を考えると方針の転換はすべきだったとは思いますが」
「雪ノ下も人並みに、人並み以上に迷うし、悩むし、躊躇もするということさ。比企谷と同じようにな」
「俺は別に……迷ってませんが」
「まあ君が素直に喋るとは私も思っていない。けど、悩める若人へ私からありがたい助言をやろう」
「そんなこと頼んでませんけど。なんでそんなことするんすか」
「なんで、か。そうだな……。私は、比企谷が傷付くのを見たくないんだろうな。君は人を傷つけるぐらいなら自分が傷を負うほうがましだと思っているだろう?」
「そんな立派なもんじゃないですって」
「そうだな、全然立派とは呼べない」
胸にズキンと痛みが走った。なんでだ、俺は否定してもらえると思っていたのか。女々しいにもほどがある。
「その心意気は認めよう。だが敢えて厳しいことを言わせてもらう。そんなものはただの自己満足だ。人のためのように見えるがその実、自分のためにしかなっていない」
宣言通り、口調も内容も俺にとってとても厳しいものだった。
「もう、君が傷付くことで君以上に悲しむ人間がいることをわかってもいい頃だ。だから先に言っておく。比企谷、人を傷つけないようにするというのは無理だ」
頭を殴られたような気分だった。話はそれから半時ほどに及んだ。
平塚先生と別れてからの家路で、帰ってからはリビングで、寝る前の自室で、言われたことを考え続けた。
俺を叱責するかようなアドバイスを頭の中で何度も反芻する。その言葉の数々に、俺はどれもまともに返事をすることができなかった。
俺が何を選んでも誰かを傷つける。そんな簡単なことを、しかし間違いようのない真実を突きつけられた。
俺はこれまで散々迷ってきたが、迷っている時間ですら誰かを傷つけていたのかもしれない。そう自覚をすることが、傷つける覚悟をすることが人を想うということだと、そう言われた。
その自覚と覚悟が俺には足りていなかった。だからさっきはあんな、まちがった決断をしかけてしまった。
改めて考える。俺の選択を。自分の思いを。
イベントが無事終わったら、片をつけよう。だが俺は、そこで終わらせるつもりはない。一度でわかった気になって楽をしたいわけじゃない。だから、これから先もずっと続いていく。
考え続けるんだ。大切に思う誰かがいる限り。
一一一
翌日、余計なことを考えないように時間を過ごそうとしていたらいつの間にか放課後になっていた。え、俺昼何食べたっけ……?
いや、それより前もほとんど記憶がねぇぞ……。朝起きてから、それから、えーと……放課後か。これはッ!どこからかスタンド攻撃を受けているッ!
突然のキングクリムゾンによる攻撃に呆然としていると、教室ではあまり話さない奴に声をかけられた。
「比企谷、行こうか」
「ん、ああ葉山か。生徒会?」
「それ以外にどこがあるんだ」
「あー、由比ヶ浜は?」
そう思って教室の後ろに目を向けると、お喋りに花を咲かせる三浦に海老名さん、由比ヶ浜がいた。戸部とその他二名の姿は既にない。
少し前までは由比ヶ浜を待ってから行っていたので、今日も待たなくていいのだろうかと密かに確認の念を送ってみる。
すると向こうも同じように思っていたのか、由比ヶ浜が眉を下げて先行ってて、と口の動きだけで伝えてきた。
頷いて立ち上がる。
「行くか」
教室を出る直前にもう一度ちらとだけ三人を見ると、三者三様の色をした瞳がこちらに向けられていた。
海老名さんの目はキラッキラ輝いていた。なんの期待をしてるんですかね……。
その横には睨むような三浦の視線があった。わかってるよ。忘れてないぞ、一応。
由比ヶ浜の目から感情を窺い知ることはできなかった。こいつには先送りにしたままの話がある。
なんとかしたいとは思っているが、イベントの行方次第ではまた流れてしまいそうな気がする。
いろいろ考えているうちに今度は生徒会室に着いていた。またスタンド攻撃か……。いや、俺の意識はどうなってんだよ。
「雪ノ下さんは不在か」
「平塚先生のとこじゃねぇの。なんて言ってるのかは知らんが、報告はしてるみたいだぞ」
「そうか……」
奥歯に物が挟まったような物言いだった。口を開きかけてやめたので何を言いたかったのかはわからない。
別に葉山と無理に会話をしなくても気にはならないが、さっきも睨まれたことだし、都合よく葉山と二人になれた今のうちに聞いておこう。
「なぁ、聞いていいか」
「なんだ?答えるかはわからないけど、聞くのは自由だよ」
イラッとすんなこいつの話し方は……。思い出したくもない人を思い起こさせる話し方だ。あれだけ強烈な人格の持ち主だ、過ごした時間が長いならこいつも影響を受けていておかしくはないか。
「お前、なんで生徒会入ったんだ?」
「……別にいいだろ、俺の勝手だ。そんなことが気になるのか?」
「俺はそんな気になんねぇよ。でも気にしてるやつもいる」
「優美子に頼まれたか?聞いてくれって」
やっぱりわかるか。確信してるような表情だし無理に隠さなくてもと思ったが、わざわざ名言してやる必要はないと思い直した。こいつがそうだと思っていようと、俺か三浦がはっきり言わない限り確定はしないのだから。
「さぁな。質問に答える気はないか?」
「そうだな……じゃあこうしよう。比企谷が答えてくれたら俺も答えるよ」
「そんなことでいいのか。なんだ、質問は」
「同じだよ。なんで比企谷は生徒会に入ろうと思ったんだ?」
思いもよらない質問だった。動揺を悟られないように答えを探す。
「…………なんでそんなこと聞くんだ」
考える時間が欲しくて、つまらない時間稼ぎの言葉を返した。が、葉山はそれをわかっているようだった。
「ただの興味だよ。答えられないのか?」
なぜ俺は生徒会に入ることを決めたのか。雪ノ下が、由比ヶ浜が生徒会長になると言ったから?
違う。それはきっかけであって、俺が生徒会に入る理由にはならない。
では奉仕部がなくなると思ったからか。
それも違う。同じように理由になっていない。
なら、残るのは。
なんだ、やっぱり単純なことじゃないか。俺が自分の思いから目を逸らしていたから、そんなことにも辿り着けなかったんだな。
葉山になら話したところで気にしなくてもいいだろう。もう何度も考えたから、今の俺はそれを言葉にできるはずだ。
深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出して、声を出した。
「俺があいつらと一緒に居たかったからだ」
「…………驚いたな。君からそんな言葉が聞けるとは思ってなかったよ」
「俺も初めて言ったわ、こんなこと。恥ずかしいから誰にも言うなよ」
別に葉山に話すのはさほど恥ずかしくもなく、こいつが言いふらすとも思っていなかったが、照れ隠しの言葉を付け足しておいた。万が一昔のアレみたいにクラス中に広まっていたら堪らない。つーか死が見える。
「言うわけないだろ。…………けど、もう一つ教えてくれないか」
「なんだよ」
「君のやっていることは、俺の望んだことと何が違うんだ」
葉山の望んだこと。それは、修学旅行で俺に婉曲な依頼をしたことを指している。戸部の海老名さんへの告白を止めたいというものだ。
そして、俺のやっていることというのは、奉仕部メンバーで生徒会に入ったことだ。そうした理由は、俺が一緒に居たかったから。繋がりを切りたくなかったから。
この二つの本質は同じだ。つまり、どちらも今の関係を変えたくないということ。だが少し違うこともある。いや、これから先が違う、同じにするつもりはないというのが正しいか。
「……あんま変わんねぇよ。あのときの俺とかお前がいないぐらいだ」
「そうか……。君ならそうするのか。それでも変わらないと思っているんだな」
そんなの、俺にわかるはずがない。
それで壊れる関係なら、もともとその程度のもんなんじゃねぇの。これは俺の言葉だ。ならせめて、自分の言ったことには責任を取らないとな。
俺だって楽しい時間がずっと続くなら、何も変えたくないと思う。けれどずっと続くなんてことは絶対にないし、過去にやった同じ間違いを繰り返すわけにはいかない。
「……さぁな。次はお前が答えろよ」
「生徒会に入った理由か……。俺がそうしたかったから、だな」
「なんでだ」
「今のを聞きたかったからというのと……あとは、雪ノ下さんを近くで見たかった」
葉山が淀みなく答えたそれは、なんとなく想像していたものとは全然違っていた。
「陽乃さんに頼まれたんじゃねぇのか」
「ああ、あれは建前用の答えだよ。そんなことを言われたのも確かだし」
「建前用、ね……」
随分開けっ広げに話すな。聞いといてなんだけど、いいのかよそんなことまで言って。
俺がちゃんと答えたから、なんだろうか。適当に答えていたら葉山にも適当な答えではぐらかされていたのかもしれない。
「俺は陽乃さんに憧れてはいるけど、別にあの人の操り人形じゃない。今回は自分でそうしようと思ってそうしたんだ」
「……そうか。じゃあついでに、一応確認しとく。お前と雪ノ下って……」
「そんなの見てればわかるだろ。付き合ってるわけがない。恋愛的に好きとかでもない。ただ、俺にとって特別な人ではある」
質問を言い切る前に答えが返ってきた。俺もそんな風には思っていないが、三浦が一番気にしていたのはこの部分だ。はっきりさせてくれるのは助かる。
だが、最後の発言が気になった。
「それって……」
「気になるか?でもこれはいいだろ。比企谷にも優美子にも関係ないよ」
「あっそ。んじゃもういい」
こいつが関係ないと言うならそうなんだろう。雪ノ下と葉山、それと陽乃さんも絡むことかもしれない。知りたくないわけではないが、葉山から聞きたいことではないしもう黙っていよう。
そう思ったのに、葉山が言い辛そうに、だが確実に俺に聞こえるように続けて呟いた。
☆☆☆
優美子も大変だなぁ……。
直接的にじゃないけど生徒会での隼人くんのことを探るように尋ねられて、まごまごしてたら結構長くなっちゃった。
いろはちゃんのこともゆきのんのことも、好きとかじゃなさそうだし、ましてや付き合ってなんかないと思うんだけど……。他の人と同じようにしてるかと言われると、なんか違うような気もする。
優美子よりも好きだとか、そんなんじゃなくて。なに、なんだろ?見守ってる?なんか、そんな感じ。
でもなー、ゆきのんはともかくとして、いろはちゃんは結構アピールしてる感あるんだよねー……。隼人くんはどこ吹く風だけど。
優美子はそっちも気にしてて、それもあるからあたしはいろはちゃんだけの味方をするわけにはいかなくて……ややこしい。
あたしはわがままで贅沢で、……優柔不断で。友達はみんな大切で、みんな好き。でも今はちゃんと、一番大事なものは決まってる、かな。
だから、人のこと心配してる余裕なんてないんだけどね、ほんとは。
生徒会室まで早足で向かい、扉の前まで来たところで中から隼人くんの声が聞こえてきて、開けようとした手の動きが止まった。
「……比企谷が傍にいるのは、彼女のためになってないんじゃないか」
「なんだそりゃ。お前は雪ノ下の保護者かなんかか。あいつはあいつでちゃんと考えてんだろ」
んん……?ヒッキーと隼人くんだけ?ゆきのんはいないのかな。ってゆーか、なんの話……?
「……どうだろうな。君が作った居場所が逃げ道になってるのかもしれない」
「…………あいつが、何から逃げてるんだよ」
「それは……。いや、俺も人のことを言えないか」
ど、どうしよう。なんか真剣な話っぽい。うわー、半端に聞こえちゃったから入りにくいな……。
おろおろと周りを見渡していると、廊下の奥からいろはちゃんがこちらに向かってきていた。あたしがここに居ることを知られるのはなんとなく気まずい。おもわず人差し指を口にあてて、しーっと空気を吐き出す。
意図が通じたのか、怪訝な顔をしながらも近づいてくる足取りが少しゆっくりになった。中ではヒッキーと隼人くんの話が続いている。
「お前が雪ノ下の何を知ってるのか知らねぇけど、これまで関わろうとしなかった癖にいきなりしゃしゃり出てくんな」
「会って一年にもなってないのに、感心するような独占欲だな」
「…………どういう意味だ」
「君こそ雪ノ下さんのなんなんだ。彼女のことを考えるのに君の許可がいるのか?」
…………え?これって。
「ど、どうしたんですか、中で何かあったんですか?」
いろはちゃんがあたしの傍まで寄ってきて、頭を屈めて小声で話しかけていた。けど、心臓の音が煩くてよく聞こえなかった。
「うるせぇな、そんなんじゃねぇよ。……喧嘩売ってんのか、てめぇ」
「売ってきたのはそっちだろ」
「ああ?」
「何を苛立ってるんだよ」
頭の中はぐちゃぐちゃで、痛いほどに心臓が煩くて、体の力が抜けそうだったけどなんとか堪える。部屋の中は不穏どころじゃなくて喧嘩になりそうな感じだ。このままじゃいけない。
「ゆ、結衣先輩っ、これ、まずくないですかっ?」
いろはちゃんにも今の会話は聞こえたみたいで、囁き声だったけど焦りが伝わってきた。
「だね、行こう」
いろはちゃんに頷いてから扉を勢いよく開ける。ヒッキーと隼人くんは拳を握り、至近距離で睨み合っていた。冷たい憎悪と怒りの入り交じった視線がぶつかり合う。
「ちょっ、先輩たち、何やってるんですか!?」
「ひ、ヒッキー!ダメだよ!」
二人の間にいろはちゃんと割り込んで、肩を押さえて強引に距離を離す。あたしたちの力でもなんとかなるぐらいだったけど、二人は離れても睨み合ったままだった。
「ぉおおち、落ち着いてくださいよ、葉山先輩。せせ、先輩も」
「……お前が落ち着け」
「いろはが落ち着いたらどうだ」
ヒッキーと隼人くんが同時に喋り、それから二人は気まずそうに目を背けた。
「そうだよ、ちょっと落ち着こう?みんな。ヒッキーも、隼人くんも」
二人がこんなに感情を露にするところなんて初めて見た。そんなにムキになるぐらい、二人にとって、大切なの、かな。やっぱり、そうなのかな……。
「やっぱお前とは仲良くできそうにねぇな」
「同感だな」
二人とも目を背けたまま言葉を吐き捨てる。
あたしはみんなに仲良くしてほしいのに。あたしなんて、そんな都合のいいことばっかり考えてるのに。
バカなのかなぁ。こんなこと考えるの。
みんな仲良くなんて、絵空事なのかな。やっぱり、欲しがっちゃダメなのかな……。
でも、こんなのあたし、嫌だよ。
☆☆☆
「……ね、ヒッキー。隼人くんも」
名前を呼ばれ、葉山も由比ヶ浜に顔を向ける。
「目、怖いよ。やだなあたし、そんなの。やだな……」
由比ヶ浜は泣きそうな顔をして目を伏せる。不意に、青白い光を放つ竹林のトンネルから見た空を思い出した。
……何をやっているんだ、俺は。由比ヶ浜のこんな顔を見たくなくて、やりたいようにやってきたのに。
「…………すまん、由比ヶ浜」
「謝るのはあたしにじゃないよ……」
「そうだな。……葉山、悪かったな。熱くなりすぎた」
素直に反省することにした。由比ヶ浜を悲しませてまで張るような意地じゃない。
「いや……俺もだ。すまなかった、比企谷。それに結衣といろはも、怖い思いさせてごめんな」
「はい……。ほんと、怖かったです……」
「じゃあ、仲直り。できる、よね?」
由比ヶ浜は上目遣いで捨てられた子犬のような瞳を向ける。その目はやめてくれ……逆らう気を削がれるんだよ……。
「いや、仲直りも何も、俺とこいつは別に……」
もともと仲良しってわけじゃないし、仲違いするほどのことでもない。さっきはちょっと、こいつの言い方が気にさわって必要以上に頭に血が昇ってしまっただけで、ニュートラルになら放っておいてもすぐに戻る。
「比企谷」
「んだよ」
「仲良くはできなくても、やりようはあるだろ」
俺と葉山は合わない。こいつの様々なことが気に障る。認めたくないが、これはおそらく嫉妬に根差す嫌悪感のような感情なのだろう。
こいつは俺にないものを持ち過ぎている。葉山の築いている関係やその振る舞いを羨ましいと感じたことなどないつもりだが、心の底では俺にない何かを欲しがっているのかもしれない。
それに、気に入らない奴だが、昨日話した通りならこのイベントにおいて見ている方向は同じのはずだ。だったら今こいつが言った通り、先生の言っていた通り、うまくやることもできるに違いない。
まあ、それよりもなによりも、俺は由比ヶ浜や一色を悲しませたくない。葉山もそう俺にそう伝えようとしているのだと思った。
「……ま、これまで通りってことなら」
「じゃあ、仲直りの握手」
おい、由比ヶ浜。何を言い出すんだ……。
「えぇ……。男の手を握る趣味は……」
握手とか気持ち悪いっつの。フォークダンスですらエア手繋ぎだったんだぞ俺は。いやこれ俺がキモがられてるだけだった。
抵抗しようと右手をポケットに突っ込んでみる。葉山は苦笑いしながら頬を掻いていた。
「いいから、ヒッキー。はい」
由比ヶ浜は俺の袖を掴んでポケットから引っ張り出すと、力の入っていない俺の手を支えるようにして葉山へ向ける。葉山は葉山で気乗りしないのか、困ったような顔を由比ヶ浜へ向けたままだ。
「あーもう、葉山先輩も、はいっ」
業を煮やした一色が葉山の手を俺と同じように無理矢理動かし、大層な介護の末、嫌がる男同士の握手が交わされることとなった。
「これで仲直り、ね!」
「もー、この大変なときに生徒会で内輪揉めとか勘弁ですよ……。仲良くしてください、二人とも」
由比ヶ浜と一色の顔から悲しみと恐怖の色が消えたのを見て、気持ちの悪い葉山との握手も無駄じゃなかったと思えた。
「……善処するよ。な、比企谷」
「はいはい……。頑張りますよ、葉山さん」
取り繕った笑顔を作る葉山に皮肉を返してやった。よくもまぁそんなすぐに何事もなかったような顔ができるもんだ。
「こんにちは。…………何をしているの?あなたたち」
俺と葉山の言い争いの理由となっていたことなど露知らずの雪ノ下が戻ってきた。座らずに突っ立っている四人を見て、きょとんとした顔を浮かべている。
「あはは、いやえーと。なんでもないよ、ゆきのん!」
「そうだな、なんでもないよ」
「……そう?ならいいのだけれど」
雪ノ下の余計な心配事を増やしたくないという配慮だろうか。由比ヶ浜は誤魔化すように笑い、葉山はふっと息を吐いた。
それを合図に皆もいつもの席につき、ようやくこれまでと同じような空気が戻った。
今日の本題、やるべきことはここからだ。
雪ノ下にも生徒会長としてやってもらわなければならないことがある。言いにくいことも言ってもらう必要があるだろう。
では、会議のための会議を終わらせるための会議を始めるとしよう。いやもうわかんねぇなこれ。
☆☆☆
あー、怖かった……。葉山先輩も先輩も、あんな顔するんですね……。
葉山先輩に関しては部活で後輩や戸部先輩に厳しいことを言ってるところを見たことがあったので、より驚いたのはどちらかと言うと先輩のほうだ。
あんなに熱くなったりする人とは思ってなかった。いつも無気力で、なんでも適当に流す人かと思ってた。だから意外で、怖くて……まだドキドキしている気がする。
葉山先輩も、誰かと喧嘩するような人だなんて考えたこともなかった。先輩とはほんとに仲良くないのかな……?んー、男子同士って、よくわかんないなー。それとも先輩と葉山先輩が特殊なのかな。
由比ヶ浜先輩のおかげか、案外すんなりといつもの感じに戻ったのは戻ったけど、それにしても。
二人はなんであんな言い争いになったんだろう。
結衣先輩の傍に行くまでは何を話していたのか聞こえてなくて、聞こえたときにはもう雰囲気は最悪になっていた。
わたしは聞こえてなかったけど、結衣先輩なら聞いてるかも。そう思って結衣先輩を見ると、心ここに在らずといった具合で冴えない顔をしていた。
結衣先輩としたらそりゃ複雑ですよね……。葉山先輩とも友達なのに、好きな先輩(隠す気ないですよね?)とあんな風になっちゃったら。
そりゃあわたしも仲良くしてほしいですけど。二人とも同じ生徒会のメンバーだし。
……二人ともちょっと、気になるし。
「雪ノ下さん。それとみんな、ちょっと聞いてくれ」
その声でみんなの目線が葉山先輩に集まる。あ、先輩だけは顔を余所に向けたままだった。もー、仲直りしたのにいつまで根にもってるんですか。
「方針の確認と今後について話し合おう」
部屋がしんと静まり返った。わたしとしてはついに来たか、という感じだ。このままだとまともなイベントにならないであろうことはわたしでもわかる。
総武高校側の生徒会として、これからどうするのかを決めるということだ。
「現状と問題についてはみんなもわかってると思う。だからまず、俺たちはこれからどうするのか、それを確認させてくれ。雪ノ下さん、このままでいいのか?」
「……いいわけ、ないわ。生徒会として最初の仕事だし、ちゃんとしたものにしたい。みんなはどう?」
雪ノ下先輩は静かに自分の思いを語ってから、わたしたちに話を振った。
「わたしもショボいのは嫌ですねー」
あとは、いい加減海浜の人たちにイライラしてるのもある。人の話を聞いてないようで聞いてて聞いてない。雪ノ下先輩はよく耐えれるもんです、ほんと。
わたしだったら適当に聞き流してうんうん頷いてるだけになりそう。相手するの超めんどくさいし。ていうか話理解してくれないし。
「あたしも……やれるならちゃんとやりたいかな」
「カンパは絶対したくねぇ」
先輩……なんですかその理由。確かにわたしも嫌ですけど、私的すぎやしませんかね……。
「俺ももちろん、このままはよくないと思ってるよ」
「そう……。みんなの意見はわかったわ。だったら、代案を用意しておく必要があるわね」
全員の意見が一致した。ならあとはどうするかだけど、代案ってことは別のことをやるってこと?
「待て、雪ノ下。その前に……」
「…………わかってるわよ。ちゃんと否定するということでしょう?」
「……ああ。あんな会議やってたんじゃ一生終わんねぇよ。最終決定権を持ってるやつがいないからな」
「すまないが、言いにくいことも言ってもらわないといけないかもしれない」
「……ええ。やれるだけ、やってみるわ」
先輩の言いたいことを雪ノ下先輩も葉山先輩もわかっていた。ちゃんと否定する。それは今までのような結論を出さないまま曖昧にするのをやめて、これからは反対も反論もして決めることを決めようということだ。
言ってることはたぶん、これであってるはず。……あってますよね?なんとなくみんなわかってる体で進めてるから今さらな質問もしにくい。
ついていけてないとか置いてかれるみたいで嫌なんですけど。とりあえずなんか発言しとこう。
「その、最終決定権って一応向こうの生徒会長じゃないんですか?」
「玉縄君は司会兼進行役といったところだね、現状だと」
「そもそもブレインストーミングで一番難しいのが、意見の取捨選択をするファシリテーター……まとめ役なのよ。ブレインストーミングは全部の案をつぶさに検討するということではないわ」
難しい言葉が出てきた。ほへー、勉強になるなぁ。今後ブレストする機会はある……のかな。それはわからないけど。
「彼と私の事前準備が足りていないと思った時点で違う方法を提案すべきだったのよ。今さら何を言っても言い訳にしかならないけれど……」
「ま、仕方ねぇよ。ちゃんと否定しなかったのは俺らも一緒なんだしよ」
「否定ってことは……対立するってこと?」
結衣先輩がおずおずと発言した。対立、ですか……そうですよね。これまでやってきたことを否定するってのは、そういうことですよね。
「……そうだね。彼らがあのスタンスを変えないというなら、そうなるだろうね」
「い、いいのかな。向こうは反対するんじゃないの?」
「するだろうな。コンセンサスは取れてたとかって。でもあいつらの失敗に巻き込まれるのは御免だ。今さらあん中から選んで、全員でやったところでしょぼいことにしかならん」
「だから、俺たちと時間を分けて二部構成にすれば彼らのためにもなると思うんだ。時間が半分になれば彼らがやることも半分で済むからね」
あれ?葉山先輩と先輩、事前に話をしてたのかな。同じことを考えてるみたいだ。
「はー……。それで、こっちはこっちでやる案が必要ってことですか」
「そういうことよ。何かやりたいことはある?」
「……ないんだなー、これが」
「……えー。ダメじゃん」
結衣先輩から力のないツッコミが入った。わたしもおもわずそう言いたくなったけど、よく考えたらわたしも別にやりたいことなんかなかった。
「いや、俺らがやりたいことである必要はないってことだ。準備時間と予算の兼ね合いもあるから、やりたいことよりできることを考えるほうが早い。それに俺らがやりたいことやってんじゃ遊んでんのと同じだろ」
「……もっともね。今の案は彼らや私たちが中心で、ゲスト主体の企画とは言えないわ」
海浜の人たちってやたらカスタマーサイドとか顧客目線とか言ってましたけども。顧客って一体なんなんですかね……。
「んー、でも時間もお金もかけないと、結局しょぼいのしかできないって結論になりません?」
「そこら辺は見せ方次第だな。金かけりゃいいものができるわけじゃねぇんだし」
「うーん……。お金をかけないでやると……。手作り感が素敵、素朴で庶民的、いいね!みたいな方向?」
「作り手側がそれを全面に押し出していると、完成度の低さを我慢しろって主張に見えるのは私だけかしら……」
雪ノ下先輩、厳しいなー。けどわたしも同感です。雑誌を見て手作りならではの素朴さがウリです、とかって店主がコメントしてる店に行っても、大抵は見た目とか外見が雑なだけだったりしますからね。
「…………そうだ」
「じゃあ、こう……」
葉山先輩と先輩が何かを閃いたのか、同時に呟いた。目を見合わせて葉山先輩は苦笑いを、先輩はしかめっ面を見せた。
「いいよ、お前から言え」
「ではお先に。小学生と保育園の子に何かやってもらうのはどうだ?」
「……なるほど。それなら多少拙くても誰も気にならないわね。お年寄りに受けもよさそうだし」
確かに。老人には子供出しとけばあとはオッケー!みたいなとこありますよね。
「これを基本線にして詰めていくといいんじゃないかな。比企谷の意見は?」
「……同じだ。演劇とかなら保育園と小学校でもやってんだろ」
「そうね、合唱とかよりも時間を使える演劇のほうがいいと私も思うわ」
「おお……。なんか方向性が見えてきた」
結衣先輩が感心したような声をあげた。わたしと結衣先輩の置いてかれてる感がだんだん凄くなってきた気がする。
あと先輩と葉山先輩ってやっぱり気が合うんじゃないですかね……。仲いいのか悪いのかまたわかんなくなってきたんですけど。
「つってもまだ考えなきゃならんことは山ほどあるけどな。多少手抜きしないと準備時間足らねぇし」
「手抜きなら先輩得意そうですね」
「おう、それは俺の領分だな。つってもさ、お前もそんな感じじゃねぇの?」
「えー……。先輩のわたしのイメージってそんな感じなんですかー?」
「なんつーか、要領よく適当にやるの得意そうじゃん」
「ほんと失礼ですね先輩は……。要領がいいのと手抜きは違いますよ」
「あー、そう……」
むー、なんですかそのやる気ない返事は。先輩さては納得してませんね?これは指導の必要がありますかね……。
そんなことを考えていると、雪ノ下先輩が軽い咳払いをしてから話をまとめ始めた。
「それではこの線で、プレゼンできるところまで詰めていきましょうか。でもこれ、会議までにどこまでやれるかしら……」
「今は大まかなところをできるところまでで十分だと思うよ」
「だな。んで会議では準備できてるつっとけばいい。じゃなきゃ対案としては弱いし。嘘も方便だ」
「…………そうね、わかったわ。私もそんな風に柔軟さがあればね……」
そう言うと雪ノ下先輩は悲しそうに俯いてしまった。が、それは数秒だけで、再び顔をあげたときには目にいつもの真っ直ぐさが戻っていた。
こうして方向性が決まると、雪ノ下先輩は速かった。
考えておかないといけない項目をすぐに多数リストアップし、わたしと結衣先輩も含めた全員に迅速な指示を出す。
いきなり言われて慌てていたのはわたしだけで、結衣先輩も雪ノ下先輩の指示を受けてテキパキと予算関係の作業を始めた。
先輩はいつものようにぶつくさ言いながらも手を動かしていた。わたしは先輩たちの力を借りて、資料作りのお手伝いをしながら考える。
生徒会に入ってよかった。先輩たちに近づこうとして本当によかった。
正直このイベントの仕事は超面倒だけど、わたしは今、結構楽しい。この活動で先輩たちの知らない部分、意外な部分をたくさん見ることができているから。
結衣先輩はいつも優しくて明るいけど、悩んだり落ち込んだりもする。雪ノ下先輩は怖いだけじゃなくて、優しかったり可愛いかったりする。葉山先輩も感情的になったり喧嘩したりする。先輩もダメなところばかりじゃなくて、なんか妙に有能だし熱くなったりもする。
全部わたしがこれまで知らなかったことだ。表面だけ見てたらわからなかったことだ。
まだまだ深い付き合いをしているとは言えないけど、少しずつでも踏み込んでいきたい。それで、わたしのこともわかってもらいたい。
ここはもう、わたしにとって一番大切な居場所だ。
でも先輩たちはわたしを置いて、先に卒業してしまう。この生徒会も、あと一年もしないうちになくなってしまう。これは確かなこと。
一番欲しいものはいつだって手に入らない。失くしたくないものはいつか必ず失くしてしまう。
けど、それでも。
わたしはこの生徒会での時間を大事にしていこう。きっと、わたしが年齢を重ねてから思い返したとき、この時間はかけがえのないものになっているだろうから。
☆☆☆
結局会議の時間ギリギリまで、俺と葉山の案を基本線にしてプレゼンの資料作りが行われた。
向かうべき場所が見えてからの雪ノ下はまるで水を得た魚のようだった。
自身でベースとなる叩き台を、と言っても今回は手直しする暇もなく叩き台のままだがそれを作成しながら、二手も三手も先を読んでいるかのような指示は淀みない。わかっていたことだが、やはり実務能力には目を見張るものがある。
それと、もう一つこれまでで新たにわかったことがある。もしかすると雪ノ下はリーダーには向いていないのかもしれない。人前に出たがらない、表だって指揮を取りたがらないのは、それを彼女自身がわかっていたからなのだろうか。
であるなら、今回生徒会長をやろうとしたのは、変わろうと、変えようとしたからではないのか。
やっぱりだ。そうであれば、俺の知っている雪ノ下は変わらずそこに居る。
決断が苦手だろうと、弱音を吐こうと、迷い悩んでいようと、そんなのは些細なことだ。あいつに自分の意思がないなんて、そんなこと、あるはずがない。
例によってコミュニティセンターへ向かう道すがら、いつもなら先頭の由比ヶ浜が最後尾の俺の横に並んだ。
「会議、うまくいくといいね」
「……そうだな、もういい加減終わらせたい。じゃなきゃまた留美に馬鹿にされる」
言うと、由比ヶ浜は驚いたような表情を見せた。
「留美ちゃんと話したの?」
「おお。ちょっとな。なかなかやることが決まらなくてなって言ったら、馬鹿みたいって言ってた」
「あはは。留美ちゃん、そういうとこ変わってないねー」
「あの子は……強いんだな。あの子なら一人で立てるようになる。だから、きっとそのうち誰かと並んで歩くようになるんだろうな」
「うん、そう思う。…………あのさ、会議、ヒッキーもなんか、やるの?」
由比ヶ浜の足が止まった。前を歩く三人と、俺たち二人の距離が徐々に開いていく。伏せられた瞳から感情を窺い知ることはできない。
だが今は、また心配されているんだなと推察できた。俺は多くのやり方を知っているわけではない上、いつも手遅れになる寸前だから、考える時間もなくそのやり方しか選べない。
心配はかけたくない。そんな顔は見たくない。けれど、それでもやらなければならない場合もある。
「……必要ならな。今日は決めることを優先だ」
嘘は決してつかないように、できるだけ誠実に答えたつもりだ。
「そっか……。ね、あたしにもできること、ないかな?」
「……あるけど、お前は考えなくてもいい。由比ヶ浜なら自然にできるから」
「……あたしじゃ役に立てない、かな」
泣きそうな顔で、なおも強引に笑顔を作ろうとするその姿に、俺まで情けない顔をしてしまいそうになったがなんとか堪える。
「んなことねぇって。前も言っただろ。むしろ逆で……俺だけじゃ駄目なんだよ」
「信じて……いいの?」
「ああ」
「わかった。でもさ、ヒッキーも……無理、しないでね」
「わかってる。無理はしない」
会話が途切れ、由比ヶ浜は前を行く三人を追いかけようと体の向きを変える。そこで俺は言おうとしていたことを思い出し、慌てて引き留めた。
「あ、由比ヶ浜」
「ん、なに?」
「前な、小町のクリスマスプレゼント選ぶの手伝ってくれっつったけど……なんかイベント準備で行く暇なくなりそうだ、すまん」
おそらく今日決まると、土日と祝日も使って準備を行うことになるだろう。そうなるともうイベント本番、つまりクリスマスイブになる。
作業が終わってから買い物にいくぐらいならできそうだが、少なくとも俺にとっては、それで済ませていいようなものじゃない。
「あ、あー……そうだね、うん。あたしも、もう無理かなぁって思ってたから別に、いいよ」
「俺から誘っておいてすまん、本当に」
「ううん……。いいの。みんなでこうやって、準備とかできるのも楽しいし。それにね、ちょっとずるいかなって思ってたから」
自らをずるいと評する、その言葉が気に掛かった。由比ヶ浜がずるい?ずるいのは捨てられた子犬のような目線をするときに感じるけど、それとは違う気がする。
彼女は何をもって自身をそう言っているのか、俺には聞くことができなかった。
「…………そうか。またなんか、考えてみるわ」
「…………。あのさ、代わりにイベント終わったら遊ぼうよ、生徒会のみんなで」
「……代わりでもいいのか?」
「いいよ。それで、いいの」
あの約束はまだ生きている。俺はまだそう思っている。だからそんなものを代わりになんてできない。
「俺は、お前がそれでよくても……」
「あたしが最初に誘ったからとか、約束したからとかなら、もういいから」
俺を遮って放たれた由比ヶ浜の言葉は、これまでに感じたことのない拒絶と諦めが混じったものだった。握り込んだ拳の中で冷たい汗が滲む。
「ちっ、違う、俺はそんなんじゃ……」
「……いいの。そういうのはもう……いいの」
「由比ヶ浜……」
「じゃあ、あたし行くね」
たっと駆け出す由比ヶ浜を引き留めようと腕を前に伸ばしたが、その手は虚空を掴むことしかできなかった。
とぼとぼと機械的に足を前へと運ぶ。
同情とか、気にして優しくしてんならそんなのはやめろ。これもまた俺の言葉だ。また俺は過去の俺に苦しめられている。自業自得としか言いようがない。
でも、それで学んだこともある。また始めることだってできると教わった。何度でも問い掛け直すことができると知った。
諦めきれてないのに諦めた気になって、放置して台無しにしてしまうのはもうやめると決めたんだ。俺は醜く足掻いてるほうが性に合ってる。
こんなすれ違いはもう終わりにするんだ。
前を向き、遠く離れてしまった四人の背中を見る。嫌がる足を強引に動かして走ろうとすると、足がもつれて転びそうになった。
一一一
目の前で概ね予想通りの展開が繰り広げられている。が、海浜高校の玉縄を始めとした連中は予想以上の抵抗を見せた。
こちらで用意した代案の資料、そしてプレゼン。掴みとしては満点だったのではないかと思う。あの短時間でよくここまで仕上げられたものだ。これにはさすが雪ノ下と言わざるを得ない。
従って、今反対されているのはその代案というわけではない。かといって、俺たちと分割して二部構成にすることそのものでもない。だがそれでも別々にやろうとしていることだけは頑なに譲ろうとしない。
「……だからコンセプトに立ち返って、音楽と演劇のコラボレーションとかそういう方向でいくのも一つの考え方だよね」
「それはもう今からだと間に合わないわ。予算的な問題も解決していないままだし」
「それはみんなで解決していこうよ。そのための会議なんだから」
もう何度同じようなやり取りを繰り返しただろうか。
ふーっと溜め息をついて横を見ると、由比ヶ浜はハラハラしたような顔で雪ノ下を眺めている。
反対側では一色が顔に笑みを張り付けたまま舌打ちをした。……えぇー。会議の邪魔にならないように小声で話しかける。
「……こえぇよ、お前」
「……いやもう、なんか凄いイライラしてきて。雪ノ下先輩、なんでもっとガツンと言ってやらないんですかね」
「そりゃお前、立場ってもんがあるだろ」
雪ノ下は総武高校の生徒会長という立場がある。これが部外者であればもう少し好き勝手に言えたのかもしれないが、その立場がある以上、今後も付き合っていくかもしれない相手方に無茶なことを言うのは無理だ。
そんなことをすれば総武高校生徒会の、ひいては総武高校の悪評に繋がりかねない。
「これはフラッシュアイデアなんだけど二つプログラムを作るのであれば、二つの高校を混ぜて2グループ作るとか、そういうソリューションもあるんじゃないかな……」
「だからそういうのはもう時間が……。…………私たちはもう、演劇を単独でやれるだけの準備ができているの。足りない時間の中で無理矢理足並みを揃えて折衷案を実行したところで、良いものができるとは私は思えないわ」
にわかに会議室に緊張が走る。おそらくこのあたりが生徒会長としての雪ノ下が言える限界だ。これ以上になると完全に相手を押さえつける非難になってしまう。
次に挙手をして発言したのは海浜高校側の生徒会だった。玉縄の旗色が悪いと見たのか、その加勢に回る。
「時間のことだったら今から新しい企画を走らせるより、元の一つに絞ってみんなで協力したほうが効率がいいし、コスパもよくなるんじゃないかな」
そうして議論がまた逆戻りしていく。……駄目か。これじゃ埒が明かねぇな。もういい加減決めようぜ、玉縄。
生徒会メンバーとはいえ、役職もなく生徒会長より間違いなく責任のない、末端の俺ならもう少し言えることもある。
「なぁ。このままじゃどうしたって大したことできないぞ。わかってるのに、なんでそんなに形にこだわるんだ」
俺の責めるような口調に焦ったのか、玉縄は早口でまくしたてる。
「企画意図がもともとそうなってるし。それにコンセンサスはとれてたし、グランドデザインの共有もできてたわけで……」
そうだな玉縄。けどな、もう見えてる問題から目を逸らすことはしたくないんだ。
手遅れになってから誰かのせいにするとか、最終的に台無しにしてしまうとか、もうしたくないんだよ、俺は。
「……違うな。失敗したとき誰かのせいにして、全員のせいにして責任を分散させたら楽だからだろ。このまま誰も何も選ばずになあなあで本番を迎えて、みんなが決めたことだからって痛みを分け合う。そんなの、偽物だ」
ざわっと、声が波立った。その波紋は反響して徐々に大きくなり、声の渦が俺の周りを取り囲む。
「これってコミュニケーション不足なだけじゃない?」
「そうだね、一度クールダウン期間を置いてまた話し合おうよ」
海浜高校の連中はあくまでこちらを否定せず、調和しようと、融和しようとしてくる。
これでも駄目なのかと、次の矢を放つため頭を働かせていると、これまで発言のなかった人間が静かに口を開いた。
「……もう、そういうのはやめにしないか」
大きい声ではなかったのに、場がしんと静まり返った。声の主はなおも話し続ける。
「君たちは演技が上手いな。仕事をする振りの演技が。ありもしない、できもしないものにすがって仕事をした振りをしてるんだろ?そんなに上手いなら俺たちの演劇に出てみるか?」
葉山の突然の挑発的な口調に、誰も口を挟むものはいない。
「おい、葉山」
「ちょっと、葉山君……」
俺と雪ノ下が小声で諫めるように名前を呼んだ。しかし葉山は意に介さない。
「責任も取らず、決定的には何も選ばず結果だけ得るなんて、そんな虫のいい話はないよ。そんなことをしたって後には罪悪感しか残らない。あのときああしておけば、こうしておけばってね」
葉山は唇を噛み締めながら目を伏せ、まるで自らがそう後悔しているかのような顔をしていた。
だが、すっと顔をあげて目を見開き、迷いのない表情で前を向いた。
「わかりやすく言おうか。俺たちを君たちの失敗に巻き込まないでくれ。こんな会議、時間の無駄だ」
会議室は時が止まったかのように静寂に包まれた。
調和を重んじ、いつも温厚で柔和な葉山がそうしたことが、より一層皆の動揺を誘った。故に、同じ言葉であっても他の誰が話すより効果的であったのだろう。
誰もが迂闊に口を開けず静寂が続くと思われたが、最初に話し始めたのは意外な、けれどそうなるかもしれないなとも考えていた人物だった。
「あのー、ちょっと難しそうだしさ、無理に一緒にやるより二回楽しんでもらえるって思った方がよくない?それぞれの学校の個性とか出るしさ」
由比ヶ浜が生まれた空白を埋めるように努めて明るく、未だ呆然としている出席者に水を向ける。
「ね、ゆきのん?いろはちゃん?」
「え?あ、はい。いいんじゃないですかねー……」
「……ええ、そう、そうね」
続けて、由比ヶ浜はすっと視線を飛ばす。その先にいたのは折本だ。
「ど、どうかなー?よくない?折本さん」
「え、あ、うん?いいん……じゃないかな?」
不意打ちの問いかけに反射的に答えてしまったのか、折本は肯定してしまう。由比ヶ浜はさらに続けて玉縄へと話を振った。
「だよねー。玉縄くん、どう、かな?」
「あー、うん?そ、そうだね、それも一つのファイナルデシジョンに……なるのかな?」
玉縄が曖昧ながらも肯定してしまったことで、会議の大勢が決まった。否定の存在しなかった会議は、一度肯定に流れてしまうと雪崩のように落ちて行く。
ようやくのことで長い会議に終止符が打たれた。
ほらな、由比ヶ浜。お前にもやれること、自然にできることがあるだろ。何もできないなんて、そんなわけないんだ。
誇っていいと思うぞ。誰もが同じようにできることじゃないんだから。
一一一
「何を考えているの、あなたたち。言うにしたって、言い方というものがあるでしょう。特に葉山君、あなたは副会長なのよ?私がどれだけ配慮したと思ってるの……」
会議が決着し、講習室は喧騒を再び取り戻していた。
ようやくイベントの内容について具体的な準備ができる。俺たちも演劇をやるために動き始める……はずなのだがその前に、俺と葉山は雪ノ下に怒られていた。
「まったくだ。何やってんだよ、お前……」
「何って、副会長の仕事だけど」
葉山は何事もなかったかのようにあっけらかんと言ってのけた。そりゃ仕事しろとは言ったけどよ、お前ならもっと、こう……なんかあるだろ。
「はぁ?お前聞いてなかったのか?あんな言い方したら雪ノ下もこれからやりにくくなんだろうが」
「聞いてるよ、そこら辺はなんとかするさ。君が俺の何を非難してるのか知らないけど、今怒られてるのは比企谷もだからな?」
「いや、特にお前って言われたじゃん。俺はまだマシなんだよ」
「…………少し、黙りなさい。二人に言っているのよ、私は」
雪ノ下の突き刺すような視線を感じ、おもわずたじろぐ。この目には何度刺されても慣れない。別に恍惚としたりもしない。
一方の葉山は苦笑いしながら頬を掻いていた。
「はぁ、先が思いやられるわ。…………でも、あなたたちが私を助けようとしてくれたのは、わかってるから。こういうのはよくないと思うけど、その…………ありがとう。少しだけスッとしたわ」
言うと、雪ノ下は悪戯に成功した子供のように、意地悪で無邪気な微笑みを浮かべた。こんな表情はこいつが生徒会長になってから初めて見たような気がする。
「ほ、ほんの少しよ。少しだけよ?」
続けて言い訳をするように言葉を重ね、頬を染めて俯く。それを見た俺と葉山は二人して、馬鹿みたいに肩を竦めた。
「じゃあちょっと玉縄君に謝って今後のことを話してくるから、二人は由比ヶ浜さんたちと内容について話しててもらえる?」
「あ、ちょっと待ってくれないか。先に俺が行ってくるから」
「いえ、それなら私も一緒に……」
「いいんだ、まずは俺だけで。すぐだから待ってて」
言うや否や、葉山は一人で玉縄のところへ行ってしまった。
玉縄はイライラしているのか立腹しているのか、息をふーふーと真上に吹き掛けているせいで定期的に前髪が逆立ち、激昂したサイヤ人みたいになっている。
「比企谷君……また、迷惑かけちゃったわね」
雪ノ下は視線を玉縄と葉山の方へ向けたまま呟く。
「んなことねぇよ。俺はあんなのに屈服するほうがよっぽど嫌なんだ。俺こそ、また勝手にやってすまん」
「いいえ……。私は助けられてばかりね、姉さんの言う通りだわ。役職や立場を与えてもらったところで変わらないのね。とても……悔しくなるぐらい、弱い」
変わらず顔は見えないが悲壮感の漂う口調だと感じ、以前にも見た物悲しげな表情を想像した。
「俺はそうは思わんけどな。お前はそれでも、強いよ。俺はそう思う」
「あなたのことだから、意味のない気休めでは……ないわよね」
「俺にはそんな真似できねぇよ」
「でしょうね。…………また、ゆっくり聞かせてもらえる?どう、思っているのかを」
「…………ああ」
思っていることを正しく伝えることができるかはわからないが、きちんと言葉にしなければならない。どれだけ言葉の裏を探られようと、真意を疑われようと、例えただの自己満足だろうと。
「お待たせ。これでひとまずは大丈夫だと思うよ」
葉山が戻ってきた。大丈夫の意味がよくわからないので玉縄の方へ目を向けてみると、先ほどまでの不機嫌そうな表情は消え、代わりに会議を始めたばかりの頃のような自信が伺えた。
「……そ、そう。じゃあ行ってくるわね」
「ああ。俺のせいで、悪いね」
雪ノ下は玉縄のところへ向かった。葉山はその姿を真っ直ぐに見つめている。
「……どうやったんだ?」
こいつ、かなり辛辣なことを言ったはずなんだけどな。そんなことをしといてすぐフォローに行ける神経もわからないが、どうやって機嫌を取り戻したのかはもっとわからないし気になる。
「とりあえず素直に謝って、いろいろ言い訳を取り繕って……。それから、折本さんにアピールしとくよって。なんなら仲町さんも誘って四人で一緒に出掛けないかって言っといた」
「は?え?ってことは、玉縄、そうなの?」
「そうだよ。見てればわかるだろ」
いや……俺わかんなかったんだけど。え、俺だけなの?いやたぶん折本もわかってねぇぞ。
「はー……。で、お前、前回もあんなことしといてまた行くの?」
「そりゃ声をかけるのは俺だからね。それに、この前のことを直接謝れたのは折本さんだけで仲町さんにはできてないからちょうどいい。メールでは謝っておいたけどさ」
「…………はっ。よくやるよ、お前……」
おもわず呆れ混じりの乾いた笑いが漏れた。いつの間にそんなことまで……マメすぎだろ、こいつ。モテるのも頷ける。
初めて葉山のことを心底凄いと思った。全然羨ましくはないけど。
そりゃ俺には逆立ちしても真似できねぇよ。
「自分の持ってるカードから選んで切るしかないんだよな、結局。やり方次第で手持ちのカードは減ったり増えたりするんだろうけどね」
「……そうだな」
俺は手持ちのカードの種類が少なすぎるけどな。むしろそれしかないまである。
「俺は今まで、何も切らずにきたんだ」
「いや、別にお前の話なんか聞いてねぇから。もういい」
「……本当に気に障る男だな、君は」
「お前のことなんて知らねぇよ。……けど、それは別に間違いでもないんじゃないか」
「否定、しないのか?」
「しねぇよ。そんな人様にどうこう言えるほど偉くもないし。それが間違いだって言えるほど正しい答えも持ち合わせちゃいない」
正しい否定は難しい。こいつの行動を不誠実だと否定できるのなら、そいつはさぞや納得のいく答えを出すのだろう。葉山とは違う答えを。
俺はどんな場面でも最終的には自分の持っているカードを切ってきた。だが、切らないほうがましだったんじゃないかということは幾度もある。
俺は何かができた場面で何もしないということに耐えられないだけの話だ。そう、ただの自己満足。それに尽きる。
まあ、そんなことよりも。
「俺はお前が嫌いだからな。否定してやらない」
こいつは自分に期待しない誰かを待っているのかもしれない。そんな自分を見てくれる人を探しているのかもしれない。根拠があるわけではないけれど、そう思った。
「どこまで意地が悪いんだ。俺も素直には認めてやらないけど」
「……じゃあお互い様だな、馬鹿野郎」
「ははっ」
「くっくっ……」
憎まれ口を叩いてばかりなのに。気に障ることばかりなのに。絶対に認めたくない奴なのに。
それなのに、何故か少しだけ葉山のことがわかった気がした。……ぜんっぜんわかりたくもねぇんだけどな。
一一一
「向こうと予算と時間の配分を決めてきたわ。由比ヶ浜さん、ここまでの分の経費はどうなってるか教えてもらえる?」
「あ、うん。今のとここんな感じ。ちょっと不透明なとこもあるけど」
「ありがとう。ではこの枠の中でできることを考えていきましょうか。まずは……劇の内容ね」
さっきは準備できてるとかのたまっちゃったわけだけど、そこからなんですよねー。あー、なんかもうげんなりしてきた。
「オリジナルの脚本にするの?」
「いや、そんな時間はねぇだろ。基本はもう存在してる童謡とか寓話を元にして……つってもまるっきりそのまんまなのもアレだな」
「そうね、クリスマスと結びつけないといけないし。……客席参加型のシナリオにできるといいわね」
客席参加型……あれか。ライブで歌手が客席にマイク向けて歌わせるようなやつか。自分は歌わず客席に全てを委ねるスタイル。これはなんか違うか?違うなたぶん。
「んー、とりあえず天使は出ますよねー?」
「い、いえ、まだそれはわからないわ。なぜ当然のようにそう思うのかしら……」
「先に誰がメインで考えるか決めないか?他にやることもあるわけだし、全員で頭抱えても仕方ないよ」
「そうだねー。誰か一人選んで大枠決めてもらおっか。細かいところはみんなで相談として」
「……で、誰がやるんです?」
お互いで顔を見合わせたが動きはない。よし、誰か挙げてしまおう。何かの間違いで俺になるのは勘弁してほしいし。
「…………わ、私が」
「一色、お前やれよ」
雪ノ下と同時に口を開いたせいで、なんと言ったか聞き取れなかった。
「は?なんでわたしなんですか?」
「あ、すまん雪ノ下。なんか言ったか?」
「…………いえ、何も」
なんで恥ずかしそうなのかは知らんが、本人がいいと言うなら無理にまた言わせることはないか。一色で押してしまおう、面倒だし。
「さっきお前天使がどうの言ってただろ。なんか構想あんじゃねぇの?」
「あ、いえ、あんなのただの思い付きですよ。てゆーかめんど……満足いくものは書けそうにないです」
あ、本音漏れた。言い直さないでいいよもう。
「つってもなぁ……」
ぐるりと雁首揃えた生徒会メンバーを見渡してみる。適当に思い付きで一色を挙げたものの、俺も含めたこの中から選ぶならやはりこいつが適任という気がしてくる。
「なんですか、先輩がやってくださいよー」
「やだよ、ていうか無理だよ。俺が書けるようなもんが小学生やお年寄りにウケるわけがねぇ」
異世界チーレムものなら材木座に書かせるけど。いや俺が書いたほうがマシかもしれんな。真面目に考えても園児が泣くような代物になりそうだ。
まぁどっちにしろ今回見せる層にウケるようなもんが書ける気はあまりしない。他の奴等は……。
「由比ヶ浜だとアホなケータイ小説みたいになりそうだし」
「な、なにぃ!」
「雪ノ下だと難解なポエム連発の小難しいものになりそうだし」
「なな、なっ」
「葉山は…………つまんねぇだろ、どうせ」
「…………はは」
「うん、やっぱ一色がいいよ。なぁ?」
同意を求めるため周りを見渡すと、ジトッとした目線が俺に向けられていた。というか雪ノ下と由比ヶ浜から超睨まれてるんだけど。なにこれこわい。
「先輩、よくそんな全方位に喧嘩売れますね……」
「理由はともかく、俺もいろはがいいと思うな。結衣も雪ノ下さんも他にやるべきことがあるからね。いろはは書記だからこれから少しは時間も取れるだろ?」
「う、そう言われると弱いですね……。…………先輩、ほんとにわたしがいいと思いますか?」
それ以外で俺が選ぶとしたら雪ノ下になるが……あいつにはいろいろ指示出してもらう必要があるからな。うん。
「おお。適任じゃねぇかな」
「……わかりました、ちょっと考えてみます。自信はあまりないですけど」
「……大丈夫よ。あなたを推した人がいるのだから。信じていいと思うわ」
雪ノ下の優しい声音に、小さな声で一色がはい、と返事をした。
「一色さん、クリスマス劇の定番どころは見繕っているから後で纏めて渡すわ。参考にできるところがあればしてみて」
「あ、わかりました。助かりますー」
「はー、やること早いなお前」
素直に感心したのだが、雪ノ下の反応は何故か冷たい。
「…………では別の障害を潰していきましょうか」
無視された上、プイと顔を背けられた。あれ、なんか雪ノ下さん怒ってる?おこのんなの?俺なんかやったっけな……。
続けて障害となりそうな項目について話し合いが行われ、イベントが動き始めたと実感することができた。
雪ノ下はここでも実務能力の高さを存分に発揮する。よくそんなところまで気が回るなと何度思ったことか。
「……今日はこのぐらいにしておきましょうか。それと、申し訳ないのだけれど……。明日明後日の土日も作業することになるわ、時間がないの」
「ま、予想はしてたし。別にいいよ」
と言いつつもかなりウンザリ気味である。会合が始まってからただでさえ毎日帰るのが遅くなってるのに、休みまで削られるとは……。これはあれか、両親から受け継いだのか?社蓄のDNAを。
「うん、あたしもオッケー。先のこと考えたら余裕持たせたいし」
「はいー、といってもわたしはシナリオで頭抱えてそうですけど」
「俺も問題ないよ。劇の役者が来る月曜までには、指示を出せるようにしておきたいからね」
皆が了承し、無事休日出勤が決定した。講習室の使用許可もいつの間にか取っていたらしい。……やる気ありすぎィ!
ま、生徒会の仕事だしな。仕方ないね、入ることを自分で選んだんだからね。
はぁ……。わかってたけど、責任取るって、大変だな。
一一一
明日は土曜日!でも朝から作業。何年後かにはこんなことが日常茶飯事になっているのではないかと、自らの将来を悲観してしまいそうになる。
そんな嫌な予感が拭いきれず、あいつらと別れてからもしょんぼりと自転車に跨がっていると、同じく帰りの折本と顔を合わせてしまった。ここで会うのは二度目だ。
「やっほー比企谷。帰り?」
「おお。そうだよ。じゃあまたな」
「ちょっと待ってよ。なんで逃げるの」
いや、あんまり話したくないからだけど。とかつての初恋もどきをした相手にはさすがに言いにくく、誘われるまま途中まで一緒に帰ることになった。
「今日はもう公園寄らねぇからな。疲れてんだ」
自転車で並走しながら折本に向かって呟く。
「あ、そんなつもりないから大丈夫。あのさー、前も思ったけど比企谷ってさ、やっぱなんか変わったよね。あんなこと言うなんて思ってなかったから驚いちゃった」
あんなこととは会議中での発言を指しているのだろう。あんなことまで言うつもりはなかったのだが……昔の俺なら言わなかったのだろうか。少なくとも同じようには思ったんじゃないかという気はする。
「確かに昔とは違うのかもしんねぇけど、自分じゃよくわからんなぁ」
自分で自分の変化はイマイチわからない。確かにあの頃よりは知識も経験も増えたし、背も伸びた。
そういったわかりやすいことを除くと、わかるのは今は折本を特別意識していないことと、話していても変な汗が噴き出してこないことぐらいだ。
「変わったよ。今比企谷に付き合ってくれって言われたらちょっと考えちゃうかも」
「いや、言わねぇから」
昔は……そっとしておいて。お前はもう忘れてくれよ。俺は忘れないと思うから。俺が覚えておくから。
「いややっぱ無理だなー、彼氏がいきなりあんなこと言い出したらどうしていいかわかんないし。引いちゃうかも」
「あ、さいですか……」
くっと笑いを漏らしながら話す折本に、やる気のない言葉を返す。最近告白もしてないのに振られることが多くないですかね。そんなに警戒しなくても俺は見境なく告白したりはしねぇんだけど。
「人の印象って当てにならないねー。葉山くんもさ、なんか噂で聞いてた感じと違うし」
「葉山か。どう違うんだ?」
「噂だといつでも笑顔の爽やか王子って聞いてたんだけど、今日とか見てるとなんか違うなーと。あ、別に悪いってわけじゃないよ?むしろちょっと……」
「ちょっと、なんだよ」
濁した語尾が気になって条件反射的につい問いかけてしまう。少し目を落とした折本からの返事はなかなか返ってこなかった。
「…………なんでもなーい。あ、葉山くんからさ、千佳も誘ってまたそのうち四人で遊びに行かない?って誘われたんだけど、あと一人って比企谷のことだよね?」
「いや、違う。俺が行ったらまた感じ悪くなんだろ」
「今度はなんないよ。そっかー、比企谷じゃないのかー残念。じゃあ葉山くん誰呼ぶんだろ?」
俺じゃなくて残念だと言われた瞬間、少しだけ胸が高鳴った。これは折本云々じゃなくて、あれだ。俺は可愛い女子からの好意的な言葉というもの全てに弱い。慣れてなさすぎ。
決して気が多いとか惚れやすいとか、そんなことはない。…………はずだ。
「俺が知るわけねぇだろ。葉山に聞け」
「んー、まぁそれもそっか」
玉縄とはどの程度の付き合いなのか、あいつのことをどう思っているかは別に気にならなかった。なのでわざわざ言わないし、それを聞きもしなかった。
別れの岐路に差し掛かり、なんとなく二人とも自転車を止める。半分切れかけた薄暗い街灯が二人の真上で瞬いた。
「じゃ、またな」
「うん、バイバイ比企谷」
気まぐれに点いた街灯に照らされた折本の別れの顔は、打算や裏など微塵も感じさせない、屈託のない笑顔だった。
振り返ってペダルを漕ごうとすると、後ろから呼び止められる。
「あ、言うの忘れるとこだった。私、比企谷の好きな子、わかっちゃったかも」
「……エスパーか、お前は。言うなよ?」
本当に当てられているかはどうでもよかったが、疑ってばかりのどうしようもない俺が、折本のその言葉は疑う気にならなかった。なんとなく当てられているんじゃないかという気がした。
「言うわけないじゃん。応援してほしかったら手伝うけど?」
「いらん。自分でなんとかするからいい」
「へぇー、スゴい自信だね。ま、頑張って」
「おお。自信はねぇけどな……まぁ、さんきゅ」
謙遜ではなく、実際に自信はこれっぽっちもない。自分の思いは決まっているが、相手がどう思うか、思っているかなんて俺にはまだわからないから。
「……うん。比企谷とまた会えて、よかった。今度同窓会あるんだけど、行く?」
「……行かねぇよ。会いたくない奴だらけだからな」
「あっはは、ウケる。そういうの気にならなくなったら、またおいでよ。じゃ、またねー」
「おお。またな」
折本の背中が見えなくなるまで見送ってから、家に向かって進み始める。
あんなの本物とは呼ばない。振られてからはずっとそう思い己の過ちと恥じていたが、さっきの折本の笑顔を見てそれは間違っていたのかもしれないと思い始めた。
裏など感じさせない、誰に対しても同じように接する折本のその姿に、笑顔に、俺は確かに惹かれていたのではないか。
それを恋愛感情だったと断ずることはできないが、過去の届かなかった思いをすべて偽物だったと否定するのは、ただの逃避に過ぎないのかもしれない。
どうして今の自分や過去の自分を肯定してやれないんだよ。そんなことを偉そうに言っていたのは誰だったか。
俺は過去の自分を否定し、現状を肯定できず、変わることすらも拒絶してあらゆることから逃げていた。
本物。平塚先生に叱咤された日、最後に言われた言葉を思い出す。
考えてもがき苦しみ、足掻いて悩め。───そうでなくては、本物じゃない。
そうか。足掻いて悩んで、そうして辿り着いたものは、それはきっと俺にとっての───。
やっぱり独りじゃ駄目なんだな。自分だけで辿り着けた答えなんか、ほとんどがどこかまちがっているもののような気がしてきた。
生徒会に入ってからの短い期間で、いろんな人からいろんなことを教わった。人と関わることで自分が変えられていくのが少しずつわかってきた。
人との繋がりは麻薬だ。一度享受してしまえばもう抜けられない。だが、独りで生きていける身分でもないただの高校生の俺なんかが、その繋がりを無視していいはずがないんだ。
別に友達をたくさん作ろうなんてことは思っちゃいないし、実際にそんなことはできないだろう。
なんでも他人に相談したり頼ったりしたいわけでもない。基本は独りでやれるように、立てるようになるべきだ。
けれど、その上で誰かと並び立つこともできるはずだ。そしてそんなものを欲しがっているのなら、ぼっちを名乗るのはもう卒業しなければならない。
恋人がいなくても、親友と思える友人がいなくても、俺は人と繋がって生きている。
部活仲間がいるし、生徒会メンバーも、家族だっている。どこが独りぼっちなんだ。
材木座が休んだら体育でペアを組める相手がいないかもしれんが……まぁ、とにかく。みっともない言い訳と自虐はもう止めようぜ。比企谷八幡。
一一一
ぼくはもうつかれました。
どにちもみっちりやったはずなのに、さぎょうはおわるけはいがありません。
週が開けての月曜日。俺はまた講習室でパソコンをカタカタとやっていた。
なんかもう、なんなのこれ?俺の仕事多すぎない?雑用だと思って雑に扱ってない?
そう思って隣を見てみると、一色が深刻な表情で、ていうか病んでる感じで頭を抱えてぶつぶつ言っていた。
こ、これはちょっと声をかけにくいな……。
一色はこんな調子なのだが、既に土曜の段階で劇の演目はあっさりと決定していた。あの騒乱の会議後、雪ノ下が用意した定番どころの一覧を見てすぐに、これしかないと思ったらしい。
誰かさんを見てるとこれ以外には考えられなかったと、これが新進気鋭のシナリオライター、一色いろは氏の談だ。意味のわからなさでは神の啓示を突然受けるテロリストと大差ないな。
賢者の贈り物。オー・ヘンリーの短編の一つで、実際クリスマス劇の基本みたいな感じらしい。
らしいというのは、なにぶん読んだり聞いたりしたのが随分小さい頃の話なので、ふわっとしか内容を覚えていないからだ。
確かやってたことはそんな小難しい内容でもなく、登場人物のすれ違いみたいな…………お?高度な皮肉か?
いやいや、一色がそんなこと知ってるはずがねぇし、たまたまだな。すれ違ってるやつはそこら辺にいっぱいいるんだろうなぁ。みんな不器用すぎじゃないの?
演目は決まっているのに何に頭を抱えているのかと言うと、配役とか聴衆参加を絡めるタイミングとかそこら辺もろもろらしい。
どうも葉山の話と総合すると、小学生たちの大半が主役はやりたくないと拒否しているらしく、主役決めが難航しているようだ。
葉山は園児を束ねる保育士の人と打ち合わせをしている。若い女性の保育士さんなのだが、相手が妙に楽しげに見えるのは気のせいか。
……葉山だからか、そうなのか。少なくとも俺だとああいう態度にはならないんだろうな。
くそ、うらやま…………けしからん。今俺が質問をしてそれに返してくれるのはExcelやWordに出てくる謎のイルカだけなのに。お前を消す方法……と。
もう嫌だ疲れた帰りたい。糖分、いやマッ缶分が不足している。ちょっと休憩しよう。人は水分と糖分とマッ缶分があれば生きていける。
ガヤガヤとやっている連中を眺めながらひっそりと講習室を抜け出して自販機へ向かうと、小学生たちがパラパラと散らばって作業を行っていた。
ふとルミルミはどこかいなと思ってキョロキョロしてみると、割とすぐに見つかった。
隅で黙々と天使のコスプレ作りを行っているようだ。一色がこまけぇこたぁいいんだよ!とばかりに天使の出演をとりあえずで決定させたせいです。
「よう」
「…………いい。大丈夫」
留美は俺の顔も見ずに首を振る。ちくしょう……。ほらほら、おじさんにその可愛い顔を見せてごらん?うわキメェ俺死ね。
「まだ何も言ってねぇよ。可愛いげのない奴だな……」
「じゃあ何の用?」
「いや、ちょっと手伝うつもりだけど」
「いらないって言ってる」
「うるせぇ。お前は独りが得意って思ってんのかもしんねぇけどな、俺の方が得意なんだよ。年期が違う」
留美にはまだ負けられないな。俺には長年ぼっちを名乗っていた者なりの矜持がある。もう名乗るのはやめるつもりだが。
「……自慢することじゃないと思うけど」
「ああ、その通りだ。自慢できることじゃない。けど別にその経験が無駄だったわけでもない。まぁたまには一緒にやってもいいだろ」
「…………八幡もお節介好きだよね。好きにすれば?」
留美はようやく顔をあげて俺と目を合わせると、呆れたような笑顔を見せた。
俺は頷いてから留美の横に腰を降ろす。てんてん天使の羽を作ればいいんだろう?
……いかん、難しい。留美と比べるとスピードが全然違う。やべぇ、邪魔にしかなってないとかいうオチは恥ずかしすぎる。集中、集中だ。
そのまま無言で脇目も振らず作業に没頭する。よし、いいぞ。調子が出てきた。コミュニティセンター最速の座と雑用エースの座は譲らない。いやそんなもんいらない。
俺が渡された分の材料は留美よりだいぶ少なかったので、先に工作作業を終えて一息つく。
「…………全然、一緒にやってなくない?」
声が聞こえたので横を見ると、不思議そうな顔で俺を見上げて首を捻っている。
「あん?一緒にやってたじゃねぇか」
「いや……。一緒にやるって、もっと、くだらないこと話しながらわいわいとか、そういうんじゃないの?」
ああ、なるほどな。留美は女の子だから特に、友達とかに一緒にって言われたらそういう感じばかりだったのだろう。でも留美はそういうものがきっと苦手だから苦痛だったのかもしれない。
「……そんなん俺も苦手だからできねぇよ。けど並んで同じ方向に向かって進んでんだから、十分一緒にやってるだろ。前も俺そうだったろ?」
この前も無言で黙々と雪の結晶を作ったが、もしかして一緒にやっているとは思ってなかったのか。
「……そっか。そういう一緒もあるんだ……」
知らなかったのであれば、教えられてよかったのかもしれない。世の中は決して留美が嫌になるようなことばかりじゃないはずだから。
目を輝かせている留美を見て改めて思う。やっぱ可愛いな、こいつ。それに、いつも無愛想だからわかりにくいが、さっきの笑顔を見ると表情も豊かだ。これなら……。
「そうだ留美。お前、うちの演劇出てみないか?」
「……八幡がそんなこと決めていいの?」
「んー、決定までの権限はねぇけど。主役決まんねぇみたいだから提案してみようかと思ってな、お前可愛いし。どうだ?嫌か?」
「え、かわ、え?あ…………」
留美はかぁっとわかりやすすぎるほどに顔を赤らめると、もごもごと口ごもって黙り込んでしまった。
小学生に可愛いって言うぐらいでそんな反応されると俺が恥ずかしくなるんだけど。やめてもらえませんかね……。
「俺からもお願いできないかな?」
背後から肩越しに声が聞こえた。
「んだよ葉山。聞いてたのか」
「勧誘のところからね。俺も留美ちゃんがいいんじゃないかと思ってスカウトにきたんだよ。どう?留美ちゃん」
「隼人くんまで……。あ、うん。わたしなら別に、やってもいい……かな」
おい、なんで俺は八幡って呼び捨てで葉山はくん付けなんだ。若干、いやかなり腑に落ちないが…………親しみの現れということにしておいてやろう。
助かったな留美、寛容な俺じゃなければ教育的指導をされていたかもしれないぞ。
「よかった。じゃあ一度演出兼脚本家のとこに行こうか」
留美がコクリと頷き、それから三人で一色の元へ向かった。まぁ留美に問題があるとは思えないし、すんなりと主役は決まりそうだ。
「おい一色。主演女優連れてきたぞ」
「え、ほんとですか!?この子?主役やってもらってもいいの?」
「うん、やってもいい。八幡と隼人くんにお願いされたし……」
「は?八幡?隼人くん?え、えー?お二人とも、この子とどういう……」
一色の声がいつもより少し下がった。これはあれだな、たぶんイラッときてるサイン。
「まぁちょっとした知り合いだよ。いろはは気にしなくてもいい」
「おい留美、あんまみんなの前で呼び捨てにすんなよ、恥ずいだろ……」
「えぇー……。……はっ!もしかしてこれ二人とも年下好きのアピールですか!?そうやって年下のわたしを遠回しに口説こうとしてます?すいませんわたしの気持ちは今ぐらついてるのでまだ無理ですごめんなさい」
出た、お断り芸。俺はまたかよって感じだけど、葉山もまとめて振られてしまった。おお、いいぞ一色。
いや葉山振っちゃ駄目だろ、何考えてんだこいつ。
葉山が珍しく呆然として言葉を失っている。わはは、こいつもしや一色に勝手に振られるの初めてだな。
……そりゃそうだよな、こいつがされてたらおかしな話だ。
「…………八幡、この人おかしいの?」
無言になる俺と葉山をよそに、留美は一色に冷ややかな目を送る。うわぁ、留美お前それ……別に間違いじゃないな。
「な、なんですとー!?小学生のくせにー!」
一色は小学生相手に激しく憤慨している。留美は深く溜め息をつくと、ギリギリ俺に聞こえるぐらいの声で、うるさい……と呟いた。
肝座ってんなー、こいつ。アイドルとか向いてるんじゃないの。
「でも主役やってもらえるなら助かるよー。お名前は?」
「……鶴見留美。それで、私はどんな役やるんですか?」
「留美ちゃんね。んーと……これ。台詞はそんなに多くないけど、ちょっと覚えてもらうこともあるから。頑張ろうね!」
「……うん。あ、はい」
続けて一色は留美を連れて衣装の採寸に向かった。よし、これで役者の問題も解決だな。あとは細々としたところを詰めていければ形になりそうだ。
「なんとかなりそうだな」
葉山が一色と留美の方向を見ながら口を開く。
「なってもらわなきゃ困るだろ。あんなことまでやっといて」
「そうだな。会長のためにも、な」
「…………そうだな」
雪ノ下の生徒会長としての最初の仕事だ。このイベントを成功させたいという思いは俺たちよりも遥かに強いだろう。
その彼女のために、俺はちゃんと力になれただろうか。
今度の俺は彼女を失望させずに済んだのだろうか。
彼女たちを裏切らずに済んだのだろうか。
一一一
その後も数日間、祝日を含めてバタバタと準備に追われ、いよいよ海浜高校との合同クリスマスイベントの日を迎えることになった。
イベントは24日、イブの午後からなので当日午前の今は最後の作業を行っているところだ。場所は調理室。
園児や小学生への労働対価であるクッキーや、イベントで振る舞う予定のケーキ作りがフル回転で行われている。
それにあたって役に立たない俺と葉山は雑労働を、由比ヶ浜は……まぁ邪魔しないように袋詰めとかやってるな、うん。
この部屋の主の如くいろいろな人間に指示を出しているのは雪ノ下だ。そしてその右腕となるのが一色。
指示を出す相手はその他、今この部屋には本来ならここにいない人間が多数やってきている。
「隼人ー、こっちクッキー詰めたけど。どうしとけばいいん?」
「ああ、ありがとう優美子。この箱に纏めておいてくれ、後で比企谷と運ぶから」
「隼人くーん、いろはすぅー、俺することねんだけどー?」
「戸部先輩はー、うーん。その辺で遊んでてくださいー。あ、邪魔にならないようにお願いしますねー?」
「いろはすひどくね……?隼人くぅーん」
「戸部ぇ……隼人は忙しいんだから邪魔しないでくれる?」
…………いつにも増して騒がしい。葉山が呼んだ連中だが、役に立っているのはケーキ作りに加勢している海老名さんだけな気がする。
雪ノ下がお菓子作りをする手がもう少し欲しいとこぼしたとき、部外者でもいいのか?と俺が質問したのがきっかけだった。
猫の手も借りたいのか、雪ノ下が別に問題ないわと答える。
すると葉山が俺も呼びたいやつらがいるんだけどと言い、なんとなしに誰だよと聞くと、俺の大切なやつらだと爽やかに(イラッとしました)断言した。
誰のことなんだと思っていたが、蓋を開けてみたら結局いつもの連中でこの有り様である。
俺も呼びたい奴や手伝える奴を考えてみたが、いくら考えても戸塚と小町ぐらいしか思い当たらなかった。
それで、この場には由比ヶ浜や小町との繋がりで川崎やその弟の大志に大天使戸塚エル、そして誰も呼んでなさそうなのに何故か材木座までがいる。さらにはめぐり先輩まで来ており部屋は大盛況と言ったところだ。
「海老名さん小町さん、こっちの焼けた生地のデコレーションお願いしていいかしら?」
「はーい、小町にお任せあれ!」
「オッケー雪ノ下さん。ここはなかなか良い景色が見えますなぁ……ぬっふふ」
「何言ってんの、海老名……。はい、クッキーってこんなもんでいいの?あたしあんまお菓子とか作ったことないからよくわかんないんだけど……」
「おおー、いいんじゃないかなー。上出来だよサキサキ。たぶん」
「サキサキ言うな」
「十分よ川崎さん。あなた器用なのね、初めてでこんなにできるなんて」
「…………お、あ、ありがと、雪ノ下。あのさ、今度また、チョコの……」
「雪ノ下せんぱーい。わたしもうそろそろ劇の方にかかっていいですかー?」
「ええ、こっちはもう目処が立ったからもう大丈夫よ。ありがとう。あ、比企谷君たちとタイミングしっかり確認しておいてね」
流石の雪ノ下と言えど一人でどうにかできる範囲をとうに逸脱しているので、チェックはしているものの、演劇の指揮は素直に一色と葉山に任せている状態である。
雪ノ下であれば可能なら一人で全面監修を行いたいのだろうが、体力的な面でも結構キツそうだ。
ここ数日は遅くまでいろいろやっていて寝不足なのか、目付きだけが鋭い。気が張っているからなんとか持っている、という感じで若干心配ではある。
だがそれでも重要な点の確認は怠らないだけの冷静さはあるようだし、少しは失った自信を取り戻しているのだろうか。
「ラジャーでーす。先輩、後でこっちきてくださいねー」
「おお、また後でな」
そうして一色と葉山は演劇の指示のため調理室を抜けて行った。瞬間、三浦が少しだけ寂しそうな表情になったのが見えてしまった。
「ごめんなさい川崎さん、何か言ったかしら?」
「い、あ、いや。もういい……」
何故か川崎がショボくれてしまった。
ちょっと気になるが、それよりも小町と大志がキャッキャウフフとやっているのが(幻聴)もっと気になる。くそ、一体何を話しているんだ……。
他のメンバーはと見渡すと、みんな話し相手を見つけて上手くまわっているように見えた。材木座以外。こっちを見るな。頬を染めるな。
「八幡……。我は何故ここに居るのだ?」
「俺が知るか。暇なら会場のセッティングやるから手伝え」
「お、おう……。八幡は生徒会の一員として立派にやっておるのだな……」
「……立派にやれてんのかは知らんが、今じゃここは俺の居場所だな」
材木座の癖に。変なこと意識させんじゃねぇよ。
失いたくない。この時間も、この居場所も、この関係も。
でも俺はもう、自分に言い訳をするのはやめると決めたから。
あいつらから見たらまた勝手なのかもしれない。けど俺は、前に進むためにそうするんだ。
これから先、俺が想いを告げた後も、この居場所が俺にとって大事なものでありますように。
彼女たちにとって、安らぐ場所で在り続けられますように。
誰にともなく願う。
与えられるものだとは思ってないし、最終的には俺が考えてどうにかするしかないけど、たまには。
いいだろ別に、クリスマスだし、願うぐらい。
材木座が張り切って設営をしている最中、俺はぼんやりとイベントが終わってからのことに気を向けていた。
一一一
「お疲れ様、二人とも」
「由比ヶ浜さんも……今はここにいないみんなもよ。お疲れ様」
「おお、お疲れ」
三人が互いそれぞれに簡単な言葉でもって労をねぎらう。
合同クリスマスイベントは無事に終わった。夕暮れが差す生徒会室では実に静かでたおやかな時が流れている。
イベントが終わってから後片付けやらなんやらをやっているうちにこんな時間になっていた。一色と葉山は会場に来ていた三浦たちともう少し話してから戻ると言っていたので、三人で生徒会室に戻ってきたところだ。
経過段階では多少どころではない紆余曲折を経て慌ただしく迎えた本番だが、結果を見れば成功を収めたと言ってもいいだろう。来場者の反応もとても好意的なものだった。
海浜高校側の企画も当初の予定より随分スケールダウンはしていたが、バンド演奏もクラシックコンサートも見事なものだった。終わってからの玉縄のドヤ顔が少し鼻についたが、正直見直した。
一方の俺たちの演劇もなかなかのものだったように思う。主演女優の留美は堂々と主役をこなし、天使のけーちゃんはマジ天使だった。あれたぶん俺の作った羽根。
ハラハラしながら必死にけーちゃんの写真を撮る川崎は、普段の無愛想さが嘘のようで大分印象が変わった。あいつも可愛とこあるんだなぁ……。ていうかかーちゃんだろあれ。
キャンドルサービスも振る舞ったケーキも、対価として配ったクッキーもいずれも大好評だった。
それを見てシナリオ作りに頭を抱えていた一色はあざとくない素直な笑顔ではしゃぎ、総指揮である我らが生徒会長は満足げに微笑んで頷いていた。
留美を含めた小学生に取り囲まれた葉山は苦笑いを浮かべ、俺と由比ヶ浜はそれを遠巻きに眺めては顔を見合わせて照れ臭そうに笑い合った。
会場には笑顔が溢れていた。留美の笑顔を見ても、もう心は痛まなかった。今の俺はそれを見て青春とは欺瞞だなんてことは思えなかった。
誰かと共に何かを成したと、謙遜なく言えることなんてこれまでにはなかった経験だ。そんなことで達成感や満足感を得ることができるなんて考えたこともなかった。
きっと俺は知らないものを、手が届かないものを認めたくなくて、屁理屈で塗り固めていただけなのだろう。まごうことなきただのガキである。手の届かない葡萄はきっと酸っぱいはず、だから届かなくて平気だと拗ねている狐だ。
でも俺は、もう。
「……終わっちゃったね」
頬杖をついたままの由比ヶ浜が独り言のように呟く。視線は鮮やかなオレンジ色に染まる窓の外へ向けられたままだ。
淡い陽光の中、二人で話しながら帰った転機の日を思い出す。あのときと同じような色の空だが、由比ヶ浜はどうなのだろうか。あのときのような顔はしていないだろうか。ここからでは表情は見えないのでわからないけれど。
「ああ、やっとだな。期間にしたらそれほどでもねぇんだけど、すげぇ長く感じたわ……」
「うん。大変だったけどさ、あたしはもっと、ずっとやってたかったなぁ」
永遠に続く終わりなき仕事とか考えただけでゾッとする。マゾなの?由比ヶ浜だって大変だったろうに。楽をしてたからそんなこと言えるんだとか、とても思えねぇんだけど。
「いや勘弁しろよ、あんなのもう嫌だぞ俺は。雪ノ下もさすがにキツいだろ。なぁ?」
雪ノ下からの返事がないので目をやると、姿勢正しく腕を組んだまま俯いている。というより、頭が垂れ下がっている、項垂れているというほうが正しいか。
「ゆきのん?」
由比ヶ浜が席を立ち、見えなくなっている雪ノ下の顔を下から覗き込む。
「……寝ちゃってる」
言うと、ふふっと柔らかく微笑んだ。耳を澄ませると確かに微かな呼吸音が聞こえてくる。張り詰めていた緊張の糸が途切れたのだろう。
「……そっとしとこうぜ。一番大変だったのは雪ノ下だからな」
「だね。頑張ってたもんね。……お疲れさま、ありがとね。ゆきのん」
由比ヶ浜はこれ以上ないほど柔らかく暖かい声で囁き、うたた寝をする雪ノ下の肩にそっとブランケットを掛けた。その姿は俺が小さい頃に具合を悪くしたとき、優しく看病してくれた母親を連想させた。
「ああ。……少しでも、力になれてたらいいんだけどな」
庶務としての雑用ならたくさんやったが、あんなのは別に俺じゃなくたって何も問題ない。力になれたと俺が断言するのは、俺でなくてはならない何かを果たしてからにしたい。
やっぱり傲慢だな、俺は。特別なことを雪ノ下と由比ヶ浜に求めすぎだと我ながら思う。
「ヒッキーはなれてるよ。あたしは、ビミョーかなぁ……」
「またそんなことを……。お前がいなきゃイベント自体うまくいってねぇよ、たぶん。自信持て」
「うーん……自分のことって、よくわかんないね。あたしは自分のことなんて、悪いところしか見つかんないや」
「お前って案外ネガティブなんだな。俺なんか自分のいいところを山ほど挙げられるぞ」
自分に甘めな評価をするだけなんですけどね。ただそれでも良いところより悪いところのほうが多く目に付くのが悲しい。
「あはは、そりゃヒッキーはいいとこいっぱいあるもん。羨ましいな……」
由比ヶ浜の声音が語尾に向かうにつれて弱くなっていくのを聞いて、言葉に嘘はなさそうだと感じた。こいつは心からそう思っているようだ。
「ほんっと、お前って……。由比ヶ浜がわからなくても、俺や他のやつらはお前のいいところをわかってる。俺がちゃんと見てるから」
自分を完璧に客観視することはおそらくできない。できているかもしれないと自惚れている俺だって、自己評価が他人と一緒なわけはないと思う。
だからこそ他人が、自分を見てくれる他の目が必要なんだろう。
「……そっか。何回も同じようなこと言っちゃってごめん。あたしさ……不安、なんだ」
「……何が」
「三人の新しい居場所で、生徒会でいろいろやれてさ、いろはちゃんも隼人くんもいて……。今、楽しいの。あたし」
「それじゃ答えになってねぇだろ」
「あ、うん。ここにあたしがいてもいいのかなって」
「そんなの、いいに決まってる」
「……ありがと。それとね、……いつまでこのままでいられるのかなって、不安なの……。あたしたち、ずっとこのままではいられないんだよね。きっと」
由比ヶ浜は過ぎてしまった過去を懐かしむかのように、偲んでいるかのように話す。まだ失われているわけじゃない。けれど確実にいつかは失ってしまうと、そう覚悟している気がした。
おそらく由比ヶ浜は生徒会に入った直後から心のどこかでそう考えていたのだ。いつだったか、生徒会室に二人で向かっているときの何気ない会話でもそう感じたことがあった。
胸が詰まる思いがして返事をすることはできなかったが、由比ヶ浜も別に返答を求めてはいないようだった。
このままでなくしてしまうのは俺かもしれない。当然壊すだけで終わらせたいわけじゃないが、静かな水面に石を投げ込むような行為をしようとしているのはわかっていたから、何も言うことができなかった。
会話が途切れ静かになると、雪ノ下の微かな寝息だけが聞こえる。
忙しかった一時がまるで嘘のようだった。休日の校内に他の学生はおらず、生徒会室では時が止まったかと錯覚しそうなほど緩やかに時間が流れていた。
だがいかに緩徐に感じられる時間であれど、現実では刻一刻と時計は進んでおり否が応にも結末を予感させる。今こうしている時間もいつかは終わるのだと。
それでも、今のこの部屋には三人の安らげる居場所があった。以前の俺が求めた奉仕部がここにあった。
そこには頬を朱色に染めながらぼんやりと外を眺める由比ヶ浜がいた。
声を発することはないが、確かにここにいると寝息だけで主張する雪ノ下がいた。
そしてともすればそんな幸福な時間を甘受してしまいそうになる俺がいた。
修学旅行から生徒会選挙の最中、一度は失うことも覚悟した奉仕部は形を変えて生き残り、三人の繋がりは保たれた。
だが本来はそんな無理をしないと繋がれない、居場所がなければ保てない繋がりなんて不自然だ。
俺がずっと欲しかったのは奉仕部じゃない。生徒会でもない。この部屋でもない。きっと、そんなものがなくても自然に居られるような関係だ。
居場所は物理的な場所や空間なんかじゃない。肩書きや役職でも、組織でもない。
居場所とは、心の拠り所のことだ。
なら俺のすべきことは、思いを言葉に変換することだ。
「なぁ由比ヶ浜。蒸し返すけど、あれはよかったのか、本当に」
「あれって?」
突然口を開く俺に少し戸惑いながらも、由比ヶ浜はこちらに顔を向けて返事をしてくれた。
「その、一緒に出掛けるって、約束は」
「約束ならもういいの。えと……忘れてさ、みんなで遊ぼうよ。いろはちゃんと隼人くんが戻ってきたら言ってみるね」
もしかしたら気持ちが変わっているのではないかと淡い期待を込めて再度確認したのだが、由比ヶ浜の言っていることは前回と変わりなかった。変わりないのだが、少しだけ焦りのようなものを感じた。
忘れろと言われてもそんなこと俺には無理だ。立ち止まったままでどうしようもない俺に、自ら踏み込んでくれた由比ヶ浜に俺は何も返せていない。
感情の処理の仕方を知らず適切な距離というものがわからないことを理由に、いや、言い訳にして何も応えていない。
どう答えるのが正しいかなんて未だにわからないが、今の俺がどう思われていようと、俺がどう思っていようと、由比ヶ浜にきちんと向き合わなくてはならない。
うやむやにしてなかったことにしてしまっては過去の俺と何も変わらない。
「いや、俺は」
「…………待って、比企谷君」
寝ていると思った雪ノ下の声が聞こえ、開きかけた口を慌てて閉じる。
「私を、置いていかないで……」
「……ゆきのん」
「起きてたのか」
「二人の声で目が覚めたのよ。由比ヶ浜さん、私は……」
雪ノ下が顔を上げ由比ヶ浜の方へ向けた。弱々しくすがるような瞳と、諦観の滲んだ慈愛の瞳から放たれる視線が交差する。
言葉はなく、僅かな時間であったが二人の意思疏通はそれで図れたようだった。由比ヶ浜が静かに、雪ノ下を安心させるように優しく話す。
「…………大丈夫だよ、ゆきのん。あたしは三人で、みんなでいられたらそれでいいと思ってるから」
「私は……、私も…………それが、いいと思うの」
「ゆきのん……ありがとう」
「待て、お前ら。なんでそうなるんだ」
二人だけで完結しそうな会話に慌てて割り込む。
「なんでって、これからも三人でいられたらいいなって思うの、変かな」
「違う、そうじゃない。それは俺も同じだ」
「だったら、私はこのままでも……」
「……駄目だ、そんなの。どうしたんだよ、雪ノ下。お前が俺に教えてくれたんじゃないのか」
俺は修学旅行で自身の胸の奥で理解しつつあった他人の想いから目を逸らしたくて、変えてしまうことを恐れ、失うことに怯え、うわべだけの馴れ合いに意味を求めた。
その後の生徒会長選挙での彼女の行動は、そんな俺を否定しようとしていたのだと思っていた。
「……前も、言ったでしょう。私に人を責める資格なんかなかったって。……それは、私も同じだったから。比企谷君の気持ちがわかってしまったから」
雪ノ下は俯きがちになりながら訥々と語る。
「理由とか理屈とか建前とか、そんなものどうだっていい。ただ、私は純粋に……この居場所を失くしたくない。絶対に」
姿勢を正した拍子に由比ヶ浜が肩に掛けたブランケットが床に落ちた。雪ノ下はそれを拾うことなく抱えた思いを吐露し続ける。
「例えそれが欺瞞だとしても、これからうわべだけの馴れ合いが続くとしても、それでも構わない。向き合った結果壊れてしまって、所詮この関係はそれまでのものだったなんて私はもう思えない。だから、お願いよ。比企谷君……」
おそらく本心であろう独白が、俺への初めての懇願が終わると、部屋から音という音が消え去った。
瞳を潤ませながら独白を終えた雪ノ下は、自分の肩を抱いて小さく震えている。
俺は何を言うべきなのかわからなくなった。どこまでもすれ違うことに呆れ果て、全身から力が抜けそうになった。
今の雪ノ下が少し前の俺で、今の俺が少し前の雪ノ下だ。
二人のやり取りを見るに、現在の由比ヶ浜と雪ノ下は同じことを考えているようだ。
ならば、馬鹿で愚かなのは俺だけなのだろう。わざわざ今持っている失くしたくないものを、三人で大事にしたいものを壊しかねないことをするんだから。
でも、俺はもう、嘘みたいに甘い葡萄なんかいらない。人を傷つけていることを自覚できないままでいたくない。見て見ぬ振りを続けるような関係で満足したくない。
俺は、手の届かない場所にある酸っぱい葡萄が欲しいんだ。
「俺は……お前らからしたらすげぇ勝手で、酷い奴なんだと思う。ただの俺の自己満足なのかもしれねぇけど、それでも言葉にしたい。そうするって決めたんだ」
こういうことを話すときはどんな顔をすればいいのだろうか。相応しい表情があるのかは知らないが、俺が今どういう顔をしているかは容易に想像できる。
きっと、我慢しようとしているのに我慢しきれず駄々をこねる、泣き出しそうなみっともない顔だ。
「お互いなんとなく感じてるみたいに、言わなくてもわかることだってあるんだと思う。でも大事なことはやっぱり、不器用でも、口下手でもちゃんと伝えないと駄目なんだ。言わなくても理解してもらえたり理解できたりなんてそれこそ幻想だ」
由比ヶ浜がすんと鼻をすすり、目元を拭う。釣られて涙が零れそうになるのを必死で堪えた。
こんなところで泣くのは甘えだ。自分でそうすると決めたのだから、俺が泣く理由なんかどこにもないし、これ以上無様で惨めったらしい姿をこいつらに見せたくない。
「どれだけ言葉を尽くしても誤解されるかもしれないし、言いたいことの半分も伝わらないかもしれない。話せばわかるなんて、俺の傲慢な思い上がりに過ぎねぇのかもしれない」
これまで俺も、雪ノ下も、由比ヶ浜でさえも決定的な言葉を避けに避けてここまできた。その中でも数えきれないほどに、俺の身には余るほどの幸せな時間を過ごしてきた。
「俺は言葉が欲しいんじゃない。けど俺は、お前らに言葉でしか思いを伝える手段を知らない。だから、言葉にするんだ」
「けどさ、言っちゃったら、言葉にしちゃったら戻れなくなることだって、あるよ……」
由比ヶ浜が目をごしごし擦りながら涙声で話す。
「わかってる。そんなことは。それでも……」
「私がさっき言ったお願いは、叶えてもらえないのね……」
雪ノ下が少しだけ恨みが込もったような眼差しを向ける。
「……すまん、それはできない。俺は馬鹿だから、お前らに何を言われてもその裏を疑っちまうんだ。結局お前らのことを信頼してないのかもしれない。これは俺の本音だ。けど、こんなろくでもない奴なのに、そんなこと考えてるのに、それなのに……」
自然と立ち上がっていた。机に手を突いて体を支え、荒くなる呼吸を落ち着かせるためにゆっくり深く息を吸い込む。
「俺は、お前らのことをもっとわかりたい。どうしようもなく、わからせて欲しい」
「比企谷君……」
「ヒッキー……」
二人が力のない声で俺を呼んだ。掠れて消え入りそうな語尾にはどんな意味が込められていたんだろうか。
「そのためにはこのままじゃきっと駄目なんだ。見ない振りを続けてこのままでいられたら確かに楽しい。俺は今の居場所もこの関係も大好きで、失いたくない。けどそれでも、馬鹿みたいな理想を追いかけて全部を失うとしても、それでも……」
曖昧で自分でもよくわからないものを言葉にしてしまってもいいのかと躊躇いがあった。
でも今はそれしか出てこない。どうしても脳裏から離れない、平塚先生に言われた言葉。俺が昔から求めていた抽象的な言葉。
溢れだしそうになる声を一度飲み込んでみると喉の奥が焼けるような錯覚を覚え、耐えきれずに吐き出してしまった。
「俺は、本物が欲しい」
情けない姿だろうが、涙は出ていない。震えてもいない。
必要なことも必要じゃないこともたくさん話しているうちに、きちんと話せているのかわからなくなってきた。
こんなねだるような戯言じゃなくて、もっとスマートに、理路整然と話せたらよかったのに。
でも、俺が考えてもがき苦しんで、足掻いて悩んだ結果だ。受け入れろ。
雪ノ下と由比ヶ浜は少し驚いた顔で、そんな妄言を吐く俺を見つめていた。
☆☆☆
生徒会室の扉の向こうから先輩の願いが、心の奥底からの叫びが聞こえた。実際に叫んだりしてるわけじゃないのに、そんな風に感じた。
葉山先輩と一緒に生徒会室に戻ってきたとき、外に漏れ聞こえてくる声からいつもの雰囲気でないことは容易に察しがついた。
二人ともその場から動くことができず、長い時間ではないが話を盗み聞きするような格好になってしまった。
「行こうか」
「……はい」
葉山先輩の空気を吐くだけの声に促されて、生徒会室の扉を開けることなく静かにその場を離れた。
自分の足元と葉山先輩の背中を交互に見ながら黙って歩く。何を話したらいいのかわからない。
さっきの出来事とわたしは関係がないはずなのに、なぜだか心臓の鼓動は早くなり、顔も熱くなっている気がする。
その言葉の、願いの真意は三人の間には伝わっているのかもしれないけどわたしにはわからない。でも、わからないのに、その言葉はわたしの心を一瞬のうちに鷲掴みにした。
わたしもそんなことを言ってみたい、思ってみたい。求めてみたい。
一緒に聞いた葉山先輩は何を思っただろうか。わたしのように、突き動かされるような何かを感じたりしているのだろうか。
わたしがいくら叩いても全く響かず、びくともしない葉山先輩の作る壁は、少しでも揺れ動いたりしたんだろうか。
「少し話そうか。どこか別のところへ行こう」
葉山先輩は普段と変わらない調子でそう話し、わたしは大人しく頷く。
「どこ、行くんですか?」
「……さあ。何も考えてないよ」
ふっと自嘲気味に笑うその笑顔は、葉山先輩にはあまり見られないものだった。
しばらくそのままついて歩くと、今度は階段を上に昇り始める。その間ずっと会話はなかった。時間が経っても、わたしの鼓動の高鳴りは未だ収まっていない。
一番上の階について葉山先輩が渡り廊下と校舎を隔てる扉を開いた。扉の向こう側は空中廊下だ。
暖かそうな色の夕焼け空なのに、開けた瞬間に外の冷たい空気がわたしの足元に流れ込んだ。
「さむ……」
「ちょっとここで話そうか。ちょうどいいだろ?」
「いや、寒いですよ……」
マフラーとかはまだ着けたままだけど、風がある分校舎よりずっと寒く感じる。全然ちょうどよくない。
「そうか?火照ってるみたいだけど。顔、赤いぞ」
「あ、えっ?やだっ」
慌てて両手を自分の頬に当てる。顔が熱いとは思ってたけど、葉山先輩からもわかるぐらい赤かったなんて。
「うー……恥ずかしいです。早く教えてくださいよ……」
「ははっ。それがいろはの、素の顔?」
少しだけ驚いた。葉山先輩にバレてないとは思ってなかったけど、使い分けていることに言及してくれたのは初めてだったから。
「そう、なんでしょうか。よくわかりません」
「たぶんそうじゃないか?俺はあまり見たことがない顔だよ。比企谷と話してるときはよく見るけど」
「なんでそこで先輩の名前が出るんですか……」
「わかってるだろ?いろはなら」
葉山先輩は自分のことは一切見せないくせに、他人のことはよく見てるみたいだ。そしてその観察眼は概ね間違ってない。けどそんなの、ズルくないですか。
「……そうやって、なんでもかんでもわかってるみたいに、わたしのことを決めつけないでください」
話すときに意識して唇を尖らせた。ちょっとだけ怒ってるんですからね、という意思表示だ。
「わたしの気持ちはわたしが決めます。そんな、先輩には素を見せてるから好きだとか、惹かれてるとか、そんな単純じゃないです、わたし」
「……悪かった。俺が一方的に。醜いな、俺は」
「やめてください。なんでそんなこと言うんですか……。葉山先輩はそんなことないです」
「いや。俺はいろはが思ってるようないい奴じゃない。現に今だって……」
「言わないでください。知ってますから」
台詞の先を言われないよう、強い言葉を重ねて強引に遮った。
ほんとは知らないことのほうが多いけど、わたしだってバカじゃないんだからわかることだってある。でもそれは葉山先輩の口から聞きたくない。
これはただの、葉山先輩はわたしの憧れで、追いかけていたい存在であって欲しいと思う、わたしのワガママ。
「何をだ?」
「わたしだって傍にいたんですから。葉山先輩が誰にどんな感情があるかなんて、ちょっとはわかってます」
「そうなのか……。そんなこと言われたのは初めてだな。俺のことはみんな、何考えてるのかわからないって思ってるよ」
「わたしもそう思ってたんですけどね。葉山先輩もわかってると思うんですけど、生徒会だと結構感情出してますよ?」
会議中、葉山先輩なら絶対話さないような言葉を聞いた。生徒会室で絶対しないような喧嘩をしてた。絶対話さないことを、今話してる。
ここでの印象はこれまでのものと全然違う。だからわたしは、前よりももっと葉山先輩を知りたい。
「そうかもな。たぶん、あれから初めて自分で選んだことだから、だろうね」
「よくわかりませんけど……。でも、そんなのは多かれ少なかれ、誰にだってあるものですよ。わたしなんか、先輩達みんなに嫉妬してます」
先輩たちはみんな凄くて、かっこよくて、眩しくて。わたしの憧れの人達。
でもわたしの入れる隙間はどこにもない。わたしだけ除け者にされてるなんて思わないけど、嫉妬しちゃうんです、どうしても。
「……いろはは凄いな。俺はそんな風に言葉にできないよ」
それは、葉山先輩が誰とも深く関わろうとしてないからですよ。
ずっと聞きたかったことを聞いてみようと思った。今のわたしは別の何かに突き動かされているような感覚があった。昔はわたしも持っていたような気がする、何か。
「葉山先輩は、なんでみんなと、その……壁を作るんですか?もっと踏み込んでみようとか、思わないんですか?」
「……どうだろうな。俺は特定の誰かじゃなくて、常にみんなの葉山隼人であろうとしてる。いつからかそれしかできなくなってただけなんだけど、まだやめる気はない、かな」
そう話す葉山先輩の横顔は、とても寂しそうに見えた。何をなのかはわからないけど、諦めてしまった顔のように見えた。
「……それで誰かを傷つけても、ですか?」
「そうだよ。人と関わることで必ず誰かを傷つけるなら、誰をも平等に傷つけることを選んだんだ、俺は」
「辛く、ないですか?そういうの」
「いや。もうそんなことも思わなくなってる。慣れすぎたんだろうね」
「そんなの……寂しいです。わたしは、葉山先輩の……。葉山先輩と……」
「すまない。俺はそういうのは、まだ……」
葉山先輩は辛そうに顔を伏せながらわたしの言葉を遮ろうとした。
違いますから。まだそんなことしません、わたし。
「最後まで聞いてくださいよ。わたしは今、好きだとかそんなんじゃなくて……。先輩達のことをもっと知りたくなったんです。わたしの大切に想う人に、踏み込んでみたくなったんです」
「踏み込むって、どうするんだ?」
きっと今告白したってうまくいかない。そもそも真剣に好きなのかどうか、自分でもよくわからなくなってる。
そんな気持ちで告白なんかするのはきっと間違ってる。
その代わりに、踏み込んでみたい。その壁の向こうに。
普段なら絶対に聞けない、絶対に答えてくれないことを聞くんだ。
「どうするのがいいのか、わたしもそういうのから逃げて生きてきたのでよくわかんないんですが、聞きたいことがあります。葉山先輩……好きな人、いますか?」
甘えた猫なで声じゃない。上目遣いもしない。わたしがわたしとして聞く、初めての本気の質問。
葉山先輩は目線をわたしではなく外へ向け、遠くを眺めながら答えた。
「……わからない。本当に人を好きになるということが、俺にはよくわからないんだ。でも、もし俺の持っているこれが恋愛感情だと仮定したら、いるのかもしれない。その人は……」
そこで言葉を区切り、わたしの方へ体ごと向きを変える。
え、誰かまで答えてくれるんですか?わたしはいるかどうかだけ聞こうとしたのに。
そこまで考えてなかった、待ってください、まだ心の準備が……。
「その人のイニシャルは、Yかな」
まったく予想していなかった曖昧な答えに拍子抜けしてしまった。
Y。名字か名前かもわからない。だから、葉山先輩の周りにいる人を思い浮かべるだけでも複数の該当者がいる。
あの人かな。それともあの人かな。わたしの知らない人なのかな。わかんないな。
でも、具体的じゃないこの言葉からも確実にわかることがある。
それは、葉山先輩が好きかもしれないその人が実在する人物だということ。
そしてもう一つ、その人物はわたしではないということ。
「俺がこんな奴だってわかって、それでも俺の傍に居ようとしてくれる人がいるのは知ってる。だから、想いに応えるにしても応えないにしても、向き合うとしたらまずはその人からだ」
「そう、ですか」
わたし自身が好きなのかわからなくなってきたし、ちゃんと想いを告げたわけじゃないんだけど。
たぶん、わたしは今、葉山先輩に振られたんだろうな。そこまでいかなくても、少なくとも告白とかしてもダメなんだってことを教えてくれた。
でも意外。わたし、思ったよりも悲しくないし辛くない。なんでだろ。きちんと告白したわけじゃないから?
振られたりしたらもっと泣くかもしれないと思ってたのに。今はむしろ、悲しくならないことが少し悲しい。自分では本気だと思ってたのに。
「今になってこんなこと言うのは卑怯だし、なんの慰めにもならないけど……それでも言葉にしてみたいことがあるんだ」
何も喋らなくなったわたしを見てのフォローなのか、葉山先輩はわたしに言葉をかけてくれた。
「いろはは素敵な子だ、素直にそう思う。もし、もっと早くから君と出会っていたら、出会う順番が違っていたら、きっと俺は……」
「はっ、もしかして好きになってたって言おうとしました?わたしも葉山先輩のこと好きだと思ってたんですけどよくわからなくなったのでまだ付き合わないでもらっていいですか、ごめんなさい」
…………しまった。こんなこと言うつもりなかったのに。わけわかんなすぎる。付き合わないでくれって、何様なんですかわたしは。
葉山先輩、固まってるし。と思ったら。
「ぷっ……くくっ……ははっ、あはははっ」
急に堰を切ったかのように大笑いを始めた。え、わたし笑われてる?いや、葉山先輩変じゃない?
「ど、どうしたんですか、葉山先輩……」
「っはー。可笑しかった。いや、どうしたも何も……いろはが面白すぎて。まだ付き合わないでくれって、そんな日本語があるなんて思いもしなかったよ」
「あ、まぁ……そうでしょうね。わたしも言うつもりなかったですし……。なんかもう自分がどんな人間なのかよくわからなくなってきました」
「くっく……。じゃあ教えようか。いや、聞かせて欲しい」
「な、何をですか?」
「いろはの、好きな人」
「いやだから、自分でもよく……」
「イニシャルでいいよ」
わたしが言い切る前に、葉山先輩は予想して準備していたかのように言葉を被せてきた。
葉山先輩はイニシャルで教えてくれた。名前か名字かもわからない、Yという人を。
わたしの好きな人。
よくわからなくなってきたけど、それなら簡単だ。だって───。
「H、ですかね」
「そうか。誰なんだろうな」
「さぁ。誰なんでしょう。葉山先輩のYさんこそ誰なんですか?」
「さぁ、誰だろうね?」
探り合うような、二人してとぼけているようなわざとらしい会話だった。けれど嫌な感じはしないどころか、不思議とちょっと心地好い。
「そういえば、葉山先輩はこういうの聞かれたことってあるんですか?」
「ああ、何度もあるな。けどはぐらかさずに答えた女子は、いろはが初めてだよ」
そう言われても、喜んでいいのかどうかよくわからない。
特別ではあるんだろうけど、好きかもしれないと言っているその対象にわたしが含まれていないのは確実なわけで。
他人にまともに踏み込むなんて初めてだからよくわからないし、自信はないけど。
それでも今は、葉山先輩に一歩だけ近づけたような気がした。
結局いろいろと凄いはぐらかされたような気がしないこともないけど、まぁ、一歩ずつ、ですかね。
「じゃあ俺はもう少し時間を潰してから生徒会室に行くよ。いろはももう暫くしてから行くといいんじゃないかな」
「そうですね、わたしはもう少しここにいてから戻ります」
「わかった、寒いからほどほどにしろよ。って俺がここに来たんだったな。まぁいいか、風邪引くなよいろは。また後で」
さりげなくわたしを気遣ってくれる台詞に若干の感動を覚えつつ、はいと小さく返事をした。
葉山先輩が去ると、当たり前だけど一人になった。
ちょうどいいから少し落ち着いて気持ちを整理してみよう。寒くなってきたけど。
暫くの間ああでもないこうでもない、わかんないわかんないと一人で思考の堂々巡りをしていた。
やがて葉山先輩が出ていった扉が開き、わたしが今まさに考えていた、もう一人のH先輩がやってきた。
☆☆☆
誰にもわからない、どうしようもない妄言を吐き終わると次の言葉が見つからなくなった。
ここで終わりにしてはわけがわからないままなのはわかっているが、思考がどうしても追い付かない。
立ち尽くしている俺と、それを見つめる二人。互いの息遣いだけが聞こえる。どのくらいそうしていたのかもよくわからない。時間の感覚がおかしくなりそうだった。遠くで消防車のサイレンの音が聞こえた。
一番最初に動いたのは雪ノ下だった。ぎゅっと拳を握り、首を振りながら俺に問いかける。
「私にはわからないわ……。あなたの言う本物っていったい何?」
「それは……」
考えのないままに、半ば自動的に口だけを動かした。
俺にもよくわからない。そんなもの今まで見たことがないし、手にしたこともない。
俺が欲しがっているものを本物と呼んでいいのかもわからないし、今の楽しい時間を偽物と決めつけるのもたぶんまちがっている。
「俺も、よくわかってない。けど……」
具体的な居場所がないと一緒にいられない関係なんて、生徒会が終わったら、この高校を卒業したらきっと途切れてしまう。
俺はもっと続けていきたいんだ。奉仕部だとか生徒会だとかそんなものがなくたって、依頼だとか仕事だとかの理由がなくたって一緒にいられる関係を。
本物なんて、もっともらしいけど曖昧な言葉じゃ他人に理解してもらうには不十分だ。もっと俺の、ただの願望を晒け出せ。
「俺は、ただ……。今のままじゃ嫌なんだ。お前らのことをもっとわかりたくて、考え続けていきたくて、前に進むにはちゃんと自分の思いと向き合ってケリをつける必要があるんだと思った」
息継ぎをすることも忘れて言い切ろうとしたせいで、最後のほうは掠れたような声になってしまった。
でも、今度はまともに話せたような気がする。
俺の思いはちゃんと届いているだろうか。自棄になってそうするわけではなく、今を壊したいからすることでもなく、前に進むためにそうしたいんだという思いが。
「これ以上逃げたくない。だから今じゃないけど、近い内に答えをちゃんと伝える。そのつもりだ」
俺が嫌だから。自分の思いと向き合うことに決めて、逃げるのはやめることにしたから打ち明けさせろ。結局はそういうことになるか。
本当に自分勝手で、傲慢で、エゴの塊だ。ろくでもない自分が心底嫌になる。でも、これが予防線と言い訳を取っ払った俺なんだ。
こういう部分が嫌われるのだとしたら、悲しいし無様だけどもう仕方がない。これを誤魔化して隠してしまうと、それはもう俺ではないから。
「本当に、ただのあなたの願望なのね……。だったら私にはもう、何も言えないわ……」
雪ノ下は呆れ果てたように呟くと目を伏せてしまった。そこにある感情は読み取ることができなかったが、一瞬だけ微笑ともとれる表情が見えた気がした。
「ヒッキー。やっぱりそうなんだ。そうしちゃうんだ……」
由比ヶ浜はゆっくりと顔を上げ目を閉じる。左目から一筋の涙が頬を伝った。
次に開いたときには、先ほどまでの諦めたような力ない表情ではなくなっており、目には新たな光が宿っているように見えた。
「ああ。本当に勝手で、すまん」
「そうだよ、ヒッキーはほんとに勝手だよ……。だったらあたしも、もっと……考えてみる。ゆきのん、ちょっと話そっか」
「……そうね」
俺が今言いたいことはここまでだ。もうこれ以上の言葉は出てこないし、俺の腹はもう決まった。
俺は雪ノ下と由比ヶ浜の関係をどれほど知っているのだろう。一緒に泊まるぐらい仲が良いことは知っているが、どれだけ踏み込んだ関係になっているのかまでは知らない。その二人はこれからどんな言葉を交わすのか。
わかるのは、俺が思いを告げると話したことで二人の関係も変化するかもしれないということだけだ。
二人の間に俺が入ることはできないし、彼女たちの考えを強制的に変えさせることもできない。
なら俺にできるのは、二人が俺と同じものを信じてくれるよう、同じ方向を見てくれているよう祈ることだけだ。
「……外で頭冷やしてくるわ。葉山と一色が戻ってくる頃にまた来る」
「ええ。……待ってるわ」
「またね、ヒッキー」
短い挨拶を交わす二人の目はもう潤んでいなかった。
「おお、また後で。…………その、本当に……ありがとな。戯言を聞いてもらって」
「お礼なんかいらないわ。それに、戯言なんかじゃない」
「そうだよ。聞きたくないって思ってたけど、それでも、ヒッキーの気持ちをちゃんと聞けて、よかった」
そう話す二人の表情を、声を、温度を、感情を。胸の内にしっかりと仕舞ってから、生徒会室の扉を閉めた。
部屋を出て数歩ほど歩いたところで、必死に堪えていた理由のわからない涙が僅かに滲み出たが、拭うことなく足を動かし続けた。
☆☆☆
先輩はわたしの姿を見つけると、意外そうに目を瞬かせながら近づいてきた。
「なんだお前、戻ってたのか。なんでこんなとこにいんだ?」
先輩はさっき聞いたような熱い感じじゃなくて、いつもと変わらない話し方みたいだった。でも、目がちょっとだけ赤いですよ。
そうか、わたしが聞いてたことは知らないんだ。わたしも盗み聞きしてたと思われたくないし、わざわざ知らせる必要はないかな。なんとか誤魔化しちゃおう。
「あ、いや……。ちょっと景色眺めたくて。キレイな夕焼けだなーと」
うぅ、超怪しい。大丈夫かな……。
「……そっか。確かに、綺麗だな」
目映さに目を細める先輩の横顔は、今までの先輩とは違うものに見えた。そう見えるのは先輩が変わったから?それともわたしが変わったの?
よくわからないけど、見た目的にはちっとも格好いいと思ってなかった先輩が、このときは少しだけ格好良く見えてしまった。
「……どうしたんですか?」
「どうしたって、何が」
「先輩こそなんでこんなところに来たんですか?」
きっとあの後、いくつかの話が続いてから先輩だけがここに来たのだろう。最終的にどうなったかなんてわたしには全然想像もつかない。
「ちょっと、頭冷やそうかと思ってな……」
「なんか元気ないです?」
「あ?そりゃお前だろ。声にいつもの張りがねぇぞ」
いつも通りにしてるつもりだったのに、できていなかったらしい。わたし、自分が思ってるほど演技うまくないのかも。
「いや、まぁいろいろありまして……。でも先輩も十分元気ないですよ」
「あー、まぁ俺もいろいろあってな……」
「そうですか……」
「ああ……」
二人並んで沈みゆく太陽を眺める。さっきはここにいる理由を誤魔化したくて言ったことなんだけど、改めて眺めてみるとほんとにキレイだ。
先輩は何も話さない。わたしも黙ったまま。たぶん先輩は今、わたしのことを考える余裕なんてない。結衣先輩と雪ノ下先輩のことで頭がいっぱいなんだろうな。
ズキンと、胸のあたりが痛んだ。気をまぎらわせるために思い付きで質問を投げ掛けることにした。
「何、してるんですか?」
「ボーッとしてる」
「イベント終わって燃え尽きちゃいましたか?」
「あー、そうだ、イベント。うまくいってよかったな」
「なんで他人事なんですか。先輩のおかげでもあるんですよ?」
「俺は別に、なぁ。俺じゃなくてもやれることしかやってねぇからな」
「いいえ、そんなことないです。そもそもなんですが先輩がいないと、この生徒会のメンバーになってませんから」
お互い顔を見ずに、風景を眺めながら話し続ける。視界に人は誰もいないし、人工的な音も聞こえない。なんだか世界に二人だけになったみたいな気分だ。
「そんなことないだろ」
「……そんなことありますよ。少なくとも、わたしは」
「はぁ?お前は葉山がいるからそうしたんだろ」
「それも理由の一つですけど、それは決定的な後押しですね。わたしは先輩が入ることになるって言ったときからそうする気でしたよ」
先輩がわたしに生徒会長にならずに済むって言いにきたとき、そうしようかなって考えが頭に浮かんだ。
奉仕部がなくなるって、生徒会に移るって聞いて、わたしもその中に入れるのかなって思った。
「はー、そうなの……」
「なんですか、その反応」
「いや、なんて言うべきかよくわかんねぇ」
「まったく先輩は……。まぁとりあえず、イベントの成功には先輩も多大に貢献してるんですから、他人事みたいに言わないでください。寂しくなります、そういうの」
「……わかった。でも俺もイベントうまくいってよかったと思ってるよ。一色の考えたシナリオがよくできてたお陰だ、お前に頼んでよかった。俺がやりたくないから適当に押し付けただけなんだけど」
「ちょっと、最後に台無しになるようなこと言いませんでした?」
「やー、それが本音なんだな」
先輩は悪びれることもなくろくでもない真実を語った。わたしのことを信じてくれてるのかも、とか思ったのに……。
「馬鹿正直ならなんでもいいってもんじゃないですよ。ちゃんと使い分けてください」
「いや、俺結構嘘もつくしホラも吐いてるぞ」
「肝心なところではちゃんと自分の本音話してるじゃないですか」
さっき、みたいに。
「……でもそれが先輩っぽいので、やっぱりそのままでいいです。一応ちゃんと褒めてもくれましたし」
押し付けようとしただけっていう理由はともかく、お前に頼んでよかったとか、わたしにとって最高の褒め言葉だ。頭がフットーしそうなほど悩んだ甲斐があるってもんです。
嬉しくて仕方がなくて、顔がニヤけてしまいそうになったけど必死に押しとどめた。
「……まぁ俺はどこまで行っても俺だからな。俺にしかならねぇよ」
「……そうですね」
会話が途切れまた静かになった。先程よりもはっきりと日が傾き、少しずつ薄暗くなり始めている。
このまま太陽が完全に沈むまで二人で眺めていたいけど、そろそろ生徒会室に戻らないと。
最後に、わたしの気持ちが昂っているうちに、何かに突き動かされているうちに聞けることを聞いておきたい。先輩にも踏み込むんだ。そう思って口を開いた。
「先輩は……どうするつもり、なんですか?」
「なんの話だよ」
「結衣先輩と、雪ノ下先輩のことです」
先輩が驚いた顔でわたしを見つめる。わたし自信も驚きたい気分だ。これを聞いてわたしはどうしたいんだろう。
確認したって自分が傷つくことになるのはわかってるのに。
「どういう意味だ」
「意味って、そんなの言うまでもないじゃないですか。見てればわかりますよ、三人とも」
「……そうなのか」
「先輩は、その……どっち、なのかはわかりませんけど」
「…………どっち、か。一応、決まってるんだけどな」
「じゃあ何もたもたしてるんですか」
なんでわたしは後押しするような、焚き付けるようなことをしてるんだろう。こんなことしたいんじゃなくて、外堀を徐々に埋めていくように慎重に近づいていきたいのに。
わたしはもっと周到で狡猾で、駆け引きも計算も上手だとか、そんな風に思ってたのに。こんなの、全然わたしらしくない。先輩たちと話すと、全然わたしの思うようにできなくなる。
……そっか。他人と真剣に向き合うって、計算とか打算でやれることじゃないんだ。
計算高いのをわたしらしいってずっと思ってきたけど、それはわたしがちゃんと人と向き合ってなかったからできたことなんだ。
なら今はこのまま、わたしの感じるまま続けてみよう。その先にきっと、わたしの知らないものがあるはずだから。
「いや、あの……。ただ、怖いんだよ。他人の気持ちなんてわかんねぇから、俺」
「わかんないですかねー?わかりやすい人もいると思うんですけど」
「……俺は過去にそうやって何度もまちがってきたんだよ。勘違いを繰り返して、その度に嫌んなるほど後悔して、それでもう期待すんのはやめたんだ」
先輩は自分を責めるように唇を歪めながら話す。
過去に先輩を勘違いさせた人たちの中には、きっとわたしのような人もいたんじゃないかと感じた。そう考えると、これまでわたしがなんとも思わない男子にしてきたことが酷く残酷な行為に思えた。
すると、感じていないこともなかった罪悪感がみるみるうちに肥大して、収集のつかない自己嫌悪に陥りそうになった。
でも反省と後悔なら後だ。先輩の過去はわたしのしたことじゃないけど、その原因となっているトラウマを少しでも解消してあげたい。
今先輩のためにわたしが何かできるとしたら、それしかない。
「なるほど。自己防衛のためなんですね、それは」
「ま、ただの腐った予防線、言い訳だ。それはもうしない。あとは……」
「勇気、ですね?」
「……かな」
最後の一歩は、他人の想いと向き合うための自信と勇気。それなら、わたしにも。
「そうだ先輩、わたしがあげましょうか、それ」
「は?どういうこと?」
「いいから、黙って目閉じてください。一瞬で済みますから」
「なんだよいったい……。これでいいのか?」
先輩は言われた通りに黙って目を閉じて立っている。えぇー……なんか、無防備だなぁ。根はスゴい素直なのかな。
「まだか?」
いけない、早く済ませちゃおう。
引いていた顔の熱が再度こもるのを感じつつ、右手の人差し指で自分の唇を触った。
そして、その指をそのまま先輩の顔に向けて伸ばす。
「えいっ」
先輩の柔らかい唇とわたしの人差し指が触れ合う。
とくん、と胸の音が聞こえた。
「んなっ!?」
先輩は目を見開いて後ろに飛び退いた。
「なな、何、今の……」
泡を食ったように狼狽えた先輩は、自分の唇の辺りで手をわさわさと動かしている。
「見てわかりませんか?わたしの指です」
わたしは人差し指を突き出して腕を伸ばしたままだ。
「なんでそんなこと……」
「先輩は、わたしが誰にでもこんなことする子だと思ってますか?」
「い、いや。これはさすがに誰にでもとは思わねぇけど」
よかった。お前ならやりそうとか言われたら全然意味ないところだった。
「つまりですねー、わたしがこんなことしたいって思うぐらいには、先輩のこと素敵だなって思ってるってことです」
「…………そうなの?」
「そうです。だから、自信持っていいです。今の先輩は……素敵です。勘違いなんかしてません。ちゃんと、自分とだけじゃなくて、人の想いとも向き合ってあげてください」
ああ、言っちゃった。先輩は決まってて、人の想いと向き合っちゃったら、あとはもう。
「……そっか」
「勇気、湧いてきました?」
「怖いのはそういうことじゃねぇけど……ああ。もらったよ。さんきゅ、一色」
「ならよかったです。先輩が思ったことなら、そう感じたんなら、それは全部本物ですからね?」
言うと先輩の動きがピタリと止まり瞬きの間隔だけが早くなった。んん?変なこと言いましたかね?
「もしかして…………聞いてた?」
あ、しまった。モロに言ってた……。あれを聞いてから、わたしは言おうともしていないことが口から出てばかりだ。
「あ。えーと……割と普通に漏れてました」
「マジかよ……。忘れてくれ、つっても……」
「無理、ですね。忘れられませんよ」
できるだけ真剣な口調で話す。
わたしの心によほど深く残ったのか、さっきは意識せず口に出してしまったけど、この言葉はたやすく口にしていいほど安いものじゃない。
きっと先輩が絞り出すように、考えて悩み抜いた末の言葉なんだから。
ましてや先輩をからかうように口にしたりなんか、わたしも絶対にしたくない。既にわたしにとっても大事にしたいものになってるんだから。
「だよな。忘れろって言われても忘れられないことってあるもんな。でも恥ずかしいんだよ……」
「わかってます。さっきのはちょっと……つい、うっかり」
ほんとは葉山先輩も聞いてたんだけど、絶対に言わないほうがよさそうだ。先輩が恥ずかしさで死んでしまうかもしれない。
「……そうか、ならいい。俺はそろそろ生徒会室戻るけど、お前は?」
「あ、わたしはもうちょっとだけここにいます」
なんかさっきも同じこと言った気がするけど、気分をもう少し落ち着けてから戻ろう。相変わらず寒いけど、内側ではまだ燃えそうな何かが燻っている。
「そうか。ほんとちょっとにしとけよ、ここ寒いし。風邪引くからさ」
「…………はい、ありがとうございます」
葉山先輩と同じような気遣いの台詞が返ってきて、少し複雑な気持ちになった。やっぱり二人は似た者同士で、通じあってるんじゃないですかねー。
「またな」
先輩はポケットに手を突っ込んで歩き始める。離れていく背中を見ていると、もう一つだけ伝えたくなった。
曖昧でも不確かでもない、今のわたしが自信をもって言える確かな想いを。
「先輩」
「ん?」
「この生徒会はわたしにとっても大切な、大好きな居場所なんです。だから先輩。ちゃんと守ってくださいね」
話すとき、自然と笑顔になれた気がした。作らない笑顔なんて久しぶりかも。
「……おお。俺もそんなの御免だからな。やれるだけはやってみるわ」
やれるだけとかじゃなくて、絶対って言って欲しかったな。やれるだけやっても、それで壊れちゃったらどうしてくれるんですか。責任とってくれるんですか?
そう言いたくなったけど抑えておいて、すぐにまた会うことになる先輩に別れを告げた。
わたしの大切なものなんだから、先輩だけの責任にしてちゃダメだよね。
それに、どうせ責任をとってもらうんならもっと別のことがいい。先輩はわたしに大変なことをしちゃってるんですから。
先輩が扉の向こうに消えるとまた一人になった。日が沈みきるまで後少しだ。
朧気にしか見えなくなった街並みを背後に空を見上げる。心の空白を埋めるように、背中のほうから切なさと遣り切れなさが込み上げてきた。
生徒会だけじゃなくて、先輩の頭の片隅にでもわたしの居場所があるといいな。
わたしらしくない、慎ましくてささやかな願いを消えかけた太陽に向けてみる。
けどやっぱり、葉山先輩にも先輩にも、わたしの入れる隙間はないんだということを改めて自覚すると、さすがに悲しくなってきた。
これが一年の差、なのかなぁ。なんでわたしは同級生じゃないんだろ……。
いや、どうしようもないことで悩んだって不毛なだけだ。なら先輩たちが持っていない、下級生であることの、後輩であることの利点を考えてみよう。
そう思って頭を働かせてみたけれど、ちっとも思い付かないし考えはまとまってくれない。
「…………はぁ。何やってんだろ、わたし……。全然っぽくないなー。超損してる気がするよ……」
おもわず溜め息と愚痴が漏れてしまった。まぁいっか、今は一人だし。
手すりにもたれ掛かり下を向くと、右目から一滴だけ涙が零れ落ちた。
あれ、さっきは涙なんか出なかったのに。
……もしかして、そうなのかな。
自分でも未だによくわかってないんだけど。
今はこの涙一滴分の差だけ、あっちのH先輩が好きなのかも。
うん。今はそう思うことにしておこう。
目尻をすっと人指し指でなぞり、前を向く。
心の中で自分を鼓舞する魔法の言葉を呟いて、わたしの大事な場所に戻ることにした。
どうせあの三人はわたしと葉山先輩に気を使わせないようにとかって、いつも通りでいようとするに違いない。ならわたしもできる限りいつも通りでいられるようにしないと。
自分の大事な場所を守るのに人に任せっきりでいいわけないんだから、自分でもちゃんとやれることをやらないとね。
「うぅ、さむさむっ!」
不意に肌を刺すような空っ風が吹き荒び、慌てて校舎に向かって走る。
扉の隙間へ身体を滑り込ませるようにして入ると、冷たい風はもうわたしに届かなかった。
☆☆☆
「ふー、あったかーい。あれ、わたしが最後ですか?」
生徒会室の扉が開き最後の一人が入ってきた。部屋とは違う温度の冷たい外気とともに、メンバー中唯一の後輩が持つ柔らかい空気も一緒に運ばれてきたように感じる。
「ええ。これで全員集合ね」
一色がコートとマフラーを脱いで席につくのを待ってから、雪ノ下が皆を見渡した。
あれ?こいつマフラーの巻き方こんなだったっけ。あんまり覚えてないけど前と違う気が……。まぁいいや、大したことじゃないし。
「みんな、お疲れ様。イベントをなんとか成功に導けたのはあなたたちのお陰だわ。本当にありがとう」
そう言う雪ノ下の穏やかな微笑みを見て、やっと終わったんだなとようやく実感することができたが、それは俺以外のメンバーも同様だったようだ。
互いに控えめな笑顔で、くすぐったくなるような視線を交わした。
「いえいえ、雪ノ下先輩が一番大変だったんですから。まぁわたしも頑張りましたけど?」
「そうだな。いろはも結衣も比企谷も、みんな頑張ったのは知ってるよ。今はそれでいいんじゃないか」
誰が大変だった、いやそんなことはない、あいつのほうが。
そんな謙遜は必要ない、そんなことはみんなわかっていると葉山は言っている。今はただ各自が思いを抱えて余韻に浸ればいいのだと。
俺も同感だ、少し余韻に浸らせてくれというかのんびりさせてくれ。いろいろありすぎて激しく疲れた。
主に精神が磨耗してもうマジしんどい。いや、ちょっと枕に埋まりたい気分といいますかね、ええ。
空中廊下で一色と会話をしてから恐る恐る生徒会室に戻ると、雪ノ下と由比ヶ浜はいつものように俺を迎えてくれた。
二人の腫らした目だけがいつも通りじゃなかった。胸の痛みを飲み込んで、申し訳ないと心の中でだけ謝っておいた。
あれからどんな会話を交わしたのかは当然聞けず、向こうも話してくれなかったのでわからずじまいだ。
俺はあいつらのことをわかりたいけど、少なくとも今は、これはわからないままでいいんだと思う。こうしていつも通りでいてくれるなら、二人はそうすることを選んだということだ。
彼女たちに負担をかけているかもしれないのはわかっているが、そうせざるを得ない原因を作った俺が謝ったり気を使ったりするのは二人に失礼だ。
だから俺はこのことに関して、口に出して謝るつもりはない。俺が今やるべきことはそんなことじゃない。
ただ、こんな状況を終わらせる責任はもちろん俺にある。このままの状態を長く続けるつもりもないから、早目に行動しないとな。
そんなことを考えているうちに葉山が、そして一色が戻り現在に至る。
今は雪ノ下が全員の分の紅茶を淹れるのを女子たちはかしましく、葉山と俺は黙って待っているところだ。それぞれ特徴的というか一部独創的な入れ物に紅茶が注がれると、温かい香りが立ち生徒会室にくつろいだ雰囲気を作った。
この部屋にいる全員が、お互い何を考えているかなんて本当のところはわかっていない。
奉仕部組の俺たち三人はもとより、一色だって、葉山だって何かを抱えてここでこうしているに違いないんだ。
言いたいことを全て言えていなかったとしても、とても心地好い。そう感じてしまうほどにこの部屋は暖かかった。
しばしの間、終わってしまったイベントについての歓談と生徒会執行部としての後始末を続け、時間もいい頃になると雪ノ下が軽い咳払いをして口を開いた。
「それでは……どうしましょうか。このまま解散でいい?」
雪ノ下が首を傾げながら皆に問いかける。
「え?打ち上げしないんですか?」
「そ、そうだよみんな、打ち上げしよーよ、打ち上げ。兼クリスマスパーティー的な」
由比ヶ浜と一色がさも当然とばかりに打ち上げなるものを行うべきだと主張する。何を打ち上げればいいんですかね……。
「いや、俺もう今日は帰りたいんだけど。用事もあるし」
といっても、ちょっとしたものとチキンを買って帰って小町と食うだけなんだけど。だけ、とはいえ俺にとっては結構重大な行事である。
「えぇ!?先輩、クリスマスに用事あるんですか!?」
一色が机に手を突いて立ち上がり喚き始めた。なんでお前が驚くんだよ……。
「いや、用事というか家族で過ごすというか……。てかお前もクリスマス予定あるとか言ってなかったっけ?」
記憶が確かなら予定が入るに決まってるとか言ってたはずだ。そんで、けっ、このゆるほわビッチめとか思ったはずだ。まったく酷いこと考える奴もいるもんだな、誰だよいったい。
「え?あ、えーと、ですね……。こ、今年は打ち上げとかやるだろーなって空けといたんですよ!文句ありますか!?」
「いや、別にないけど……」
「でも、私もさすがに疲れたわ。申し訳ないのだけれど、今日はゆっくり休ませてもらえないかしら……」
雪ノ下はこめかみに手を当てて長い息を吐いた。うたた寝するほど寝不足気味だったみたいだしなぁ。
打ち上げだとはしゃぐ気分でもないだろう。いや、元気だったとしてもはしゃぐ姿は全然想像できねぇな。
「あーそっか。ゆきのんしんどいよね……ごめん。じゃあさ、みんな明日はどう?」
「明日なら私は別に構わないわよ」
「俺も別になんもねぇな」
「わ、わたしも空いてますね一応」
由比ヶ浜を含めた四人が25日は予定なしということだ。それはそれで健全な高校生としてどうなんだという気がしないこともないが、この中の誰が予定ありと答えても俺は不快感を覚えてしまいそうなので、内心ではほっと胸を撫で下ろしていた。
「隼人くんは?」
「俺は、ちょっと……。どうするかな……」
だが最後の葉山だけは口ごもって言葉を濁した。裏切り者……じゃないよな、こいつは。家族との用事とかじゃなければ、どうせいらんこと考えてるんだろ。
「あ?葉山来ねぇの?お前がいないと俺が男一人で辛くなるんだけど」
別に葉山と打ち上げなんか行きたくはねぇんだけどな、本気で。
でも女子三人と俺一人はどう考えても無理だ。
それなら葉山でもなんでも、なんなら材木座でもいてくれたほうが有り難い。いや材木座と二人じゃ状況変わる気がしねぇな。
「そう言われてもな」
「用があるんならいいけどよ。別にないならせっかくだし、……その、なんだ。生徒会の打ち上げって名目なら別に角も立たねぇだろ。クリスマスなのはたまたま、偶然だ」
きっと葉山はクリスマスに特定の誰かと過ごすのを躊躇っているのだと、勝手に決めつけてフォローしてみた。
こいつがそういうことやっているのは、噂とか教室内で聞こえてくる会話でなんとなく知っている。
野暮な噂が立ったりするのを嫌がっているのかもしれないが、女子は三人でさらに人畜無害の俺もいて、同じ生徒会のメンバーという括りがあるならそう気にすることもないのではなかろうか。
なんか俺が葉山を一生懸命誘ってるみたいで正直不愉快だが仕方ない。女子三人と俺一人に決定したら俺は辞退する所存だし。
「……なるほど。結衣、場所はどこでやるつもりなんだ?」
「んー、よく考えてなかったけど……あんまし街中じゃないほうがよかったりする?」
「我儘言うようだけど、できれば。あんまり知り合いと会いたくはない、かな」
「うーん、どうしようか?」
由比ヶ浜が腕組みをして頭を捻る。んだよ葉山、めんどくせぇ奴だな。出掛けて知り合いと会いたくないとか、こいつは俺か。ってことは俺もかなりめんどくせぇ奴だな。
「そ、それなら、みんながよければだけど……。私の家に来る?」
四人の視線が一斉に雪ノ下に集まった。その台詞を口にした当人は余程恥ずかしかったのか勇気を振り絞ったのか、派手に頬を赤らめて顔を逸らしている。
「……雪ノ下さん、いいのか?」
「え、ゆきのんいいの?」
意外な提案に葉山と由比ヶ浜が同時に確認を取ろうとした。そう問いたいのは当然俺もなので、さぞや怪訝な顔をしていることだろう。
「……ええ、あなたたちなら構わないわよ。迷惑になるほど騒がしい人や場をわきまえない人はいないことだし。葉山君もそれならいいでしょう?」
「問題ないけど……。少し、気が引けてしまうな」
「そんな必要ないわ、特別な意味なんかないから。ただ場所を提供するだけだもの」
あくまで場所を提供するだけに過ぎないことを強調する。それは実際に言っている通りなんだろう。
だがそれ以前に、打ち上げとかそういうことに協力的で、家に他人を上げることまで許すとは思わなかった。これまでの雪ノ下を知っていればなおさらだ。
「……そうか。なら、お邪魔させてもらうかな」
「あのー、雪ノ下先輩のおうちってどんなんです?勝手なイメージなんですけど超広そうですよね」
「広いよー、超キレイな高層マンションだし!しかも一人暮らしだよ!」
一色の疑問に何故か由比ヶ浜が自慢気に答える。
「えー!?高校生で一人暮らしとか、なんですかそれ。どこの階級の人なんですか……」
「……いろいろとあるのよ。では明日のお昼ぐらいからでいいのかしら?場所は由比ヶ浜さんと比企谷君が知っているから迎えはいいわよね?」
「あ、んじゃあたしたちは駅に集合で、買い物してからゆきのんちに行こっか」
「それなら私も駅に行くわ。買い物なら一緒にした方が効率が……いえ、頼りになる荷物持ちもいることだし」
「そこで俺を見るな。わざわざ感じ悪いほうで言い直すな」
幾度も繰り返された軽妙な?やり取り。そこに違和感はない。
けど、不思議だ。こういう会話ができることが。先ほどあんなことを話したばかりなのに。
「何食べますかねー?あ、雪ノ下先輩のおうちって調理器具どんなのがあります?」
それからすぐに解散とはならず、全員で明日の打ち上げ内容についての会議が行われることになった。
何を持っていくだの、何を食べたいだのということが女子中心で話し合われ、次々と決められていく。
そもそも打ち上げとかクリスマスパーティーって何すんだ?という俺の根本的な疑問に対してまともに答えられる人間がいなかったのが若干不安だ。
何度もやっていそうな由比ヶ浜とか葉山ですらはっきり言えないってどういうことだよ。
行くことに決まってしまっているので今さら抗う気はないが、俺はちゃんと打ち上げの空気的なものに混ざれるのだろうか。最悪、黙ってなんか食いながら時間が過ぎ去るのを待つことにしよう。
こんなことを普通に考えるあたり、ぼっちではなくともリア充になるのは絶対無理だな。別になれなくていいけど。
それから生徒会メンバー以外で手伝いをしてくれた連中のことにまで話が及び、そいつらにもちゃんとお礼をしないとという流れになった。小町や戸塚、三浦たちもろもろのことだ。
だが、それらのメンバーで遊びに行くとなると人数や構成がカオスなことになるし、とても全員の予定が合うとは思えなかったので今回は見送って生徒会のみで実施。ヘルプ要因に関してはまた別途考えようということで話がまとまった。
明日の細かい時間や予定があらかた決まると、ようやくお開きとなった。
あれの直後、舌の根も乾かぬうちの全員集合であり、生徒会の様子はどうなることやらと危惧していたが、最後まで不穏な空気や気まずい雰囲気にはならなかった。
雪ノ下も由比ヶ浜もあんなことを話して涙まで流した後なのだから、すぐに完璧に切り替えることはできないと思う。それは俺だって同じだ。なら、程度の差はあれど無理をして普段通りに振る舞っているに違いない。
それなのに、取り繕って上滑りするような会話でもなく、居心地の悪いものにならなかったのは何故だろうか。
修学旅行の後にあった、あのなんとも言えない緊迫した張りつめた空気は今と何が違ってそうなっていたのだろうか。
人数?メンバー?心境の変化?状況の違い?嘘の有無?本音で話したから?
帰りながらも考えてみたけど、俺に明確な答えは出せなかった。きっと答えは、いろいろ、だな。そうに違いない。
人の関係や感情はほとんどが単純に割り切れないものだ。1か0で表せるようなものでもない。俺はここ最近でそれを学んだ。
考えなきゃいけないことは他にもあるからな。今の俺にとって最も大事なことが。
予約していたチキンを受け取り、他にも寄り道をしてちょっとしたものを買って帰った。家に着く頃には、恥ずかしいことをして死にたくなるような気分は少し落ち着いていた。
うん。小町のアドバイスとか後押しは、もう必要ないかな。
今は他のことは全て後回しにしておこう。あとはタイミングと状況を見計らって、俺の思いを伝えるだけだ。
そのタイミングとやらが、俺には成功体験がないのもあり悩ましいところではある。
とある悲しみの過去の記憶によると、自分で想定するようなシチュエーションにはならないからイメージトレーニングは無意味らしい。俺の幻想は殺される前から死んでいる。
要は行き当たりばったり、出たとこ勝負である。今日みたいな。
練習に練習を重ねたって、どうせ大事なとこでトチるのが俺だ。なら俺の思うままに話そうと、そう開き直った。
小町との団欒を終えて風呂に入り、自室のベッドに倒れるように横になる。
体はとても疲れているはずなのに全然寝付くことができず、クリスマスイブの夜はゆっくりと更けていった。
☆☆☆
あんまり寝られなかったけど、寝覚めは悪くなかった。
今日はクリスマス。ゆきのんの家で、生徒会のみんなで打ち上げという名のクリスマスパーティー。
こんなのあたしが楽しみにしないわけがない。そのはず。だから、あたしは元気。
「おはよー、ママ」
「あらおはよう、結衣。今日はゆきのんちゃんのところでパーティーなんだよね?」
ママは今日もいつも通り、のほほんとしながら朝御飯を作っている。
変わらないその温厚さは、あたしが嫌な気分だったり沈んでたりしてても同じで、いつもあたしを救ってくれる。悩んでることがバカみたいに思えちゃうんだ。
あたしは悩んだっていい考えなんて思い付かない。みんなが仲良くやれるように、何をなのかわかんなくてもとりあえず頑張ってみる。あたしにはそれしかできないんだから。
「うん、そだよー」
「当然ヒッキーくんも来るのよね?」
「そ、そりゃ同じ生徒会のメンバーだし、くるよ」
ゆきのんちゃんとかヒッキーくんとか、あたしがちゃんと名前言わないのが悪いんだけど、ママはあたしの呼んでるあだ名のままで話す。
変だとは思うけど、ママっぽいしなんかカワイイから特に直してほしいとは思ってない。
で、家でゆきのんとヒッキーの話ばーっかりしてるから、あたしがヒッキーのこと好きなのはとっくにバレてる。でもママはどうなってるの、とかは一切聞いてこない。
ママに相談するのはなんか違うし、恥ずかしいからあたしも今のところしてない。たぶん、あたしが話そうとするまで、ママはいつまでも待ってくれてるんだろうな。
自分のママながら、優しいよね。あたしもママみたいに優しくなりたいな。
でもあたしはたぶん、なれないんだ。
「あ、パーティーは昼からだけどあたしは朝から行くよー。ちょっと準備とかいろいろするんだって」
昨日の夜、寝る前にゆきのんからメールがきた。クリスマスパーティーも兼ねるなら少し部屋を飾り付けたいから、悪いけど手伝ってもらえないかって。
ゆきのんからメールでお願いごとをされるなんて初めてだった。だから嬉しくて、すぐにオーケーの返事をした。
昨日も思ったけど、ゆきのんはみんなへの態度も柔らかくなりつつある。
打ち上げの場所に自分の家を使っていいって言うとか、前のゆきのんじゃあり得ないもん。生徒会長っていう立場とか、そういうのも影響してるのかな。
「そうなの?じゃあ朝御飯食べたら出掛ける?」
「そのつもりー」
「あらあら。じゃあ準備するわね~」
わかったーと返事をして姿見の前に向かった。慣れた手つきでお団子を作り、櫛で髪をとかしながら鏡に映った自分を眺める。
笑えてるかな、あたし。
今日も笑えるかな。
昨日、ヒッキーの願いと本音を聞いた。聞きたかったけど、聞きたくなかった。
だって無理だもん。頑張るけど、きっと無理。
あたしはみんなと一緒なら十分なのに。それがいいのに。約束ならもういいってちゃんと言ったのに。ゆきのんもそうして欲しいって言ったのに。
でもヒッキーはそれじゃダメだって。前に進むにはそうしてちゃダメだって。
前って、何?あたしにはこれ以上なんかないよ。
ゆきのんとは恨みっこなしで、これまで通り普通にして答えを待とうって話になった。あんまり具体的な言葉は二人とも使わなかった。無意識にか意識的にか、自然と避けるようにしてたんだと思う。
それから二人でヒッキーの悪口とか、いいとことか言い合って、いっぱい泣いた。あたしの方がたくさん泣いてたけど、ゆきのんも泣いてた。
あたし本当はわかってるんだ。ほんとのゆきのんはあたしみたいに優柔不断でもなくて、いつまでもみんな仲良くとかそんなこと思ってなくて、ヒッキーみたいにちゃんと決めることのできる人だって。
今はちょっと、どうしていいかわかんなくて弱気になってるだけ。だから、そのうちゆきのんもちゃんと向き合って受け入れようとするはず。
でもゆきのんは、友達だって言ってくれた。あたしも言った。
言ったけど。
きっとヒッキーが選ぶのは。
ううん、そうじゃない。
あたしが選ばれたとしても、選ばれなかったとしても、もう───。
「結衣ー、朝御飯できたわよ~」
「……あ、うん。今行くー」
暗く深く沈んでいきそうなところをママの声で引き戻され、慌てて返事をする。
ママのところへ行く前に、最後にもう一度鏡の中の自分に向けて笑いかけてみた。
よかった。鏡の中のあたしはちゃんと笑えてるように見える。
あたしにできることなんて限られてるんだから、笑わなきゃ。みんなで楽しく過ごすために、バカみたいなこと言って、バカみたいに笑って…………。
やっぱりあたし、ダメかも。
ママみたいに優しくなりたいけど、きっとなれないんだ。
あたしは嘘つきだから。
☆☆☆
柄にもなく、少し浮かれているのを自覚した。
葉山君の要望もあったとはいえ、我ながらよくあんな提案をしたものだ。
これは、あれかしら。生徒会長になったから、上司が部下を家に招くような…………違う、わよね。
私は、イベントで支えてくれた四人に、助けようとしてくれたみんなに何かお礼がしたかったのだ。
言葉では簡単に伝えたけど、それだけではなくて私にできることがないかと思っていた。そこへあんな話をしてたから、思い付きで。
彼を含めた生徒会のみんなが家に来るということで、昨日の夜帰ってきてからすぐ、他人の目に入れてはいけない私のイメージに影響するようなものを押し入れに放り込み、念入りに掃除をした。
私の寝室まで入るようなことにはならないはずだけれど……まさかということもあるかもしれないから。このぬいぐるみ達ともしばしのお別れだ。ちょっと狭いけど我慢してね。
あとは、服。昨日脱いだものの洗濯物は終わらせておいたから、全部きっちり片付けて……と。
これでいいかしら。少し殺風景に感じるような気も……けどまぁいいか。
普段から片付けや掃除はちゃんとやっているし、これから飾り付けもするし、こんなものよね。
あとは由比ヶ浜さんにぬいぐるみのことを言わないよう念押ししておけば大丈夫。
昨日の夜はイベントで使った飾りを少し拝借して帰り、少しでもやっておこうと思ったけど家の片付けをしている途中で力尽きてしまった。
思ったよりも疲れていたのか、朝まで目が覚めることはなく、久しぶりに寝坊してしまいそうなほど熟睡してしまった。
私一人で全部はできないだろうと、早々に由比ヶ浜さんに応援をお願いしたのは間違いではなかったようだ。
昨日はそんな具合で、朝起きてからは由比ヶ浜さんが来る前に、中途半端だった片付けをしてしまおうと朝から精力的に動いていた。
そうしていろいろやっている間は、考えなくても済んだ。いや、考えないようにするためにいろいろやっていた。
そして今、由比ヶ浜さんが来るまでにやることを終えて手持ち無沙汰になった。空白の時間が生まれてしまった。
本当はそんな気分であるはずがないのに浮かれていられるのは、熟睡できたのは、考えないようにしていたからだ。
彼の言葉の意味を。彼女の涙の意味を。私のしたことの意味を。
先日、彼の慟哭を聞いた。私の無様で惨めな懇願は、彼には届かなかった。
私を置いていかないで。あれが私の本心だ。
気の緩みと日差しの暖かさからついうたた寝をしてしまい、二人の声で目が覚めた時には、彼の口から核心に迫る言葉が紡がれようとしていた。
まともな判断をする時間すらなく、慌てて彼の言葉を遮ってしまった。あの言葉の先にあるのは、彼が由比ヶ浜さんへさらに踏み込むためのものだと確信できたから。
最低だ。
彼の彼女への想いを感じていながら、よくそんなことができたものだ。
改めて考えるてみると、恐怖に近いほどの悔恨が体中を駆け巡り、胸に切り裂かれるような痛みが走る。
あの後、それでも私が普段通りでいられたのは由比ヶ浜さんの優しさがあったからだ。彼女はあくまで三人の調和を優先しようと、私を置いていかないようにしてくれているのがわかったからだ。
私の人生で二人目の、かけがえのない友達。
一人目は、もういない。私の不甲斐なさから失ってしまった。
あの後悔を二度としたくなくて、私は強くあろうとしたのに。変わろうとしたのに。
また間違ってしまうところだった。失ってしまうところだった。
彼が答えを出したいというのを、彼女を選ぶことを止められないのなら。
───違う、昨日のように無理矢理止めていいわけがない。彼女の優しさにいつまでも甘えていていいわけがない。受け入れないといけないんだ、失わないために。
私は二人を祝福しよう。友人として傍にいよう。
もちろん嫉妬がないわけじゃない。哀しくないわけがない。それはそれで多大な喪失感と痛みにうなされるだろう。
けど、それでも、かけがえのない友人をまた失ってしまうよりはましだ。私の居場所を失ってしまうよりは耐えられる。
私は寄る辺がなければ一人で立てない人間だから。
☆☆☆
柄にもなく、少し緊張しているのを自覚した。
雪ノ下さんの実家には何度もお邪魔したことがあるが、彼女が一人暮らしをしている家に行くのは初めてだ。
誕生日会だとかパーティーだとか、そういう理由で友人達と女子の家に行ったことは何度もある。
今日だってそれと同じだ。なのに、掌に冷たい汗が滲むのは俺のどういった感情からなのだろうか。
早く家を出過ぎたせいで、集合場所である彼女の家の最寄り駅には随分と早く着いてしまった。
まだ誰も来ていない改札前で一人佇み、駅の構内を眺める。彼女は毎日ここを通って学校に来ているのだなと考えてみたが、降りたこともある駅なので別に感慨深くもなんともなかった。
何もせずにぼんやりと待っていると、やがて見知った姿の女子が改札から出てきた。清楚で柔らかく感じる、実に女の子らしいシルエット。
「あ、葉山先輩。こんにちは、早いですねー」
いろはの態度は昨日の俺とのやり取りの後も、気にしていないのか、気にしていることを見せないようにしているのか、まったく変わらなかった。俺は後者だろうなと思った。
彼女は俺と理由は違えど、人と深く関わることをなるべく避けているように感じていた。
そうしたくないというわけではないだろうが、不必要に他人のパーソナルスペースに踏み込むことはしない子だと思っていた。
怯えか、恐れか、慎重なだけか、それともそういったものを知らないか。
その彼女が、おそらく比企谷の発言に影響されてだろう、踏み込みたいと言ってきて、実際そうした。
それに対して俺は、完全な拒絶をしたわけではないが、彼女への好意を否定するような発言をした。
ならば彼女が気にしていないはずがないと、そう考えた。彼女の中で、俺の及ぼす影響力が大きいと自負しているわけではないが、まったく気にならないような相手なら彼女はそもそもそうしてこなかったはずだから。
「少し早く出過ぎたかなって思ってたんですけど。待ちました?」
「いや、俺も今来たところだよ」
そうであろうとなかろうと、こう答えることが葉山隼人らしいからそうする。実際に待たされていたとしても、さほど腹も立たない生来の性格はこれに関しては好都合だ。
らしさというものは置いておいても、俺は普通にそう答えるかもしれないと思えるから。
「さっすが葉山先輩ですねー。素晴らしい答えです。どこぞの先輩なら超待ったとか言ってるとこですよ、絶対」
「はは。そうだな、あいつならそう言いそうだ」
比企谷と比較されるのは少しだけ気に障るが、口にも態度にも出さない。彼女の中で比企谷の存在も大きくなっているのは昨日はっきりしたから、仕方のないことかもしれない。
「でもー、それ、素ですか?それとも、そうするのが葉山先輩らしいからそう言ってるだけですか?」
いろはは俺を見上げながら、誰にも言われたことのないことを平気で聞いてくる。…………少し、やりにくいな。嫌ではないけれど。
「さぁ?どっちだろうね」
「わたしは葉山先輩なら、望まれなくても素でそう言ってくれそうな気がします。そんな葉山先輩は素敵だと思いますよ」
「…………あ、ありがとう」
何故か普通にお礼を言ってしまった。わざとらしい、いつものいろはの上目遣いならそうはしなかったと思う。
けどこの時のいろはは……彼女の言葉を借りるなら、素で素敵だった、かな。不思議な子だな、まったく。
それからは、話をしながら残りのメンバーが来るまでの時間を過ごした。踏み込んだものでも、探り合うようなものでもない、他愛のない会話。
そんな中でも、昨日の偶然盗み聞きする形になった彼の言葉については不自然なほどに出てこなかった。
あれに関して口に出されても、聞かれても返答に困るのが正直なところだが。
まるで道化のような生き方を続けている俺にとって、その言葉はとても印象深かった。驚愕、衝撃、呆然、動転。いくつかの感情がない交ぜになった表現しにくいものが胸に去来した。
本物。
そんなもの、あるのだろうか。
そう思いつつも一笑に付すことなど決してできなかった。
彼の求める本物が何を指しているのかはわからない。ともすれば彼自身もわかっていないのかもしれない。
それでも、彼は求めたのだ。今、自身が持っていないと感ずるものを。まやかしや欺瞞ならいらないと。前に進みたいのだと。
そう考えることができる彼のことを羨ましく思う。
俺がそれを求めるには、必要なものを失いすぎた。本来ならば自分の持ち物ではないものを享受しすぎた。そしてそれを今さら手放すことなどできない。
この生徒会に入ったことで、四人の知らなかった一面を数多く見てきた。
俺が深く関わらないから知らなかっただけなのか、変化があって新たに見せるようになったのか、その判断はつかない。
ただ、四人は俺と違って前に進もうと足掻いているのだと思う。俺だけがその場で足踏みを続けている。
今日、ずっと伝えることのできなかった、抱えていた思いを彼女に告げることができたなら。
俺も、前に進めるのだろうか。
☆☆☆
一度来たことがあるはずなのに、そびえ立つタワーマンションを目の前にすると気圧されたように息を吸い込んでいた。
あの時は雪ノ下の具合が悪いと聞いて由比ヶ浜と飛んできたから、別の緊張感があって女子の家を訪問するという浮ついた気持ちはあまりなかった。
けど今はちょっとドキドキで手汗がヤバい。よく考えたら一人暮らしの女子の家を訪ねるとか、何があるかわかんねぇってレベルじゃねーぞ!いや、何もないけどね……五人もいるし。
あいにくの曇り空で今日は一段と寒いのに、両手に持ったスーパーの袋は俺の手汗でベタベタだ。全員の様子を見渡すと大荷物を抱えているのは俺と葉山だけで、女性陣はわりかし軽い荷物である。
これは別に持たされたわけではなくて、自ら志願したものだ。雪ノ下は昨日あんな軽口を叩いておきながら、普通に重い袋を持とうとしていたのでつい奪い取ってしまった。
これが、持って当たり前でしょう?みたいな顔をされると嫌じゃボケぇとか思わないこともないが、当たり前に自分で持とうとされると俺がやらないといけない気がしてくる。つまり、俺は安いプライドで生きている。
ここまでが計算だったら怖いが、雪ノ下に限ってはそんなことはないだろう。だってあいつ不器用だし。困るな、不器ノ下さん通称ぶきのん。この名前だったらきっとドジっ娘属性がついてる。
葉山はさらりと流れるように由比ヶ浜と一色から袋を受け取っていた。こんなところでも俺と葉山の対応力の差が浮き彫りになる。だが荷物を持っているという結果は変わらないので悔しくなんかない。
俺が集合場所に着くのと、雪ノ下と由比ヶ浜が連れ立って到着したのは同時だった。改札とは逆の方向から現れたことが気になったので尋ねてみると、由比ヶ浜は朝のうちから雪ノ下の家でいろいろと準備をしていたらしい。
それから五人でカゴ二つがいっぱいになるほど食材やらなんやらを買い込み、荷物を抱えちんたら歩いてようやく雪ノ下ハウスへの到着となった次第だ。
「じゃあ……どうぞ」
複数の鍵を開錠して先に一人入った雪ノ下が、中からおずおずと俺たちを招き入れる。
「おじゃましまーす」
各自が目の前の家主に軽い挨拶をしながら足を踏み入れた。玄関の三和土からして既に、一人暮らしの家の大きさのものとは思えない。靴何足置けるんだよこれ。
どういった事情があるのかは深く聞いていないのでよく知らないが、高校生の女子が一人でこんな場所に住んでいるというのはどう考えても普通じゃない。
やはり俺は、彼女たちのことをろくに知らないままだ。そう思い至った。ここ最近で思い知らされた。
だから、少しずつでも埋めていこう。縮めていこう。今日、苦手な打ち上げなるものに参加しようと思ったのは、そのための第一歩だ。
「おぉー。結衣先輩が言ってたのはこれですかー」
「へへーん、折角のクリスマスだしねー」
一足先に入った女子陣に続いて部屋に入ると、記憶では大きなテレビとカウチソファぐらいしかなかった簡素なリビングが、飾りに彩られてクリスマスパーティーの会場らしき姿へと変貌していた。
ただよく見ると飾りはちゃちいな。俺も少し作ったからわかったけど、これイベントで使ったやつだし。ということは大半が小学生によって作成されたものだからしょうがないか。
でも、素朴で温かみを感じる。なるほど、これが手作りの味というものか。そういえばほんのりと小学生女子の香りが……しねぇよこの変態が。
「雪ノ下さん、これ冷蔵庫入れるよね?」
「あ、ええ。比企谷君もこっちに来て」
雪ノ下についてキッチンに行くと、また明らかに一人暮らし用ではない大きさの冷蔵庫が鎮座していた。
…………もう疑問に思うのはやめておこう。キリがなさそうだ。
由比ヶ浜は勝手知ったるといった様子で食材を散らかしたり収めたりしている。こいつ結構ここに来てるんだな……。
持っていた荷物を二人に託してリビングに戻ると、一色はちょこちょこと歩き回りながらキョロキョロと辺りを見回している。
「おおお、ゆ、夢の3LDK!?バルコニーまで!?先輩、わたしこんなとこに住みたいです!」
「あ、そう……」
何をしているのかと思えば、間取りを確認していたようだ。え?来て最初にやることがそれなの?
一色はエレベーターで十五と書かれたボタンを押すときから大袈裟に騒いでいたが、部屋に入ってからのはしゃぎようはそれ以上だ。
「あー、でも一軒家も捨てがたいですね……。どっちがいいですかねー?」
「いや、どっちでもいいよ……。てかなんで俺に言うんだよ」
「あ、雪ノ下せんぱーい。バルコニーって出てもいいですかー?」
聞いちゃいねぇし。それにしても、一色がこんな子供みたいにはしゃぐのってあんま見たことねぇな。でもはしゃぐのが家の間取りって。
こいつとデートするならモデルルームとかがいいのか?なんか怖ぇよ……。いやその仮定がまずおかしいな。
「構わないわよ。でも高いから気をつけてねー」
妄想にセルフ突っ込みをしていると、子供に注意を促すような澄んだ声がキッチンから聞こえてきた。
一色はそれを受けて、はーいと間延びした返事するとバルコニーへ足を踏み出す。
「うっわたっか!眺め超いいー!」
「ほんとだ、家からこんな景色が見えるのはいいな。天気がよければもっとよかったんだろうけど」
いつの間にか葉山もバルコニーの傍で外を眺めている。俺は、えーと……このソファ座ってて、いいよね。いややっぱり許可をもらうまでは立っとこう。
「あれ、葉山先輩はここ来たことなかったんですか?」
「ないよ。当たり前だろ」
「へー。そうだったんですね」
「昔から家族ぐるみの付き合いがあるから、実家のほうはよく知ってるけどね」
「はー……幼馴染みってやつですよね。ちょっと羨ましいです」
「いろはにはそういう人はいないの?」
「いませんよー、だから憧れるんですって。実際にいたらそんないいものでもないかもですし」
「はは、そんなもんかもな」
どうしていいかわからず突っ立っていると、盗み聞きしようとしているわけではないのにバルコニーにいる二人の会話が聞こえてくる。周りを気にして話しているような素振りはない。
今まで特に気にしてはいなかったが、会話をする様子から、この二人の距離感も俺が知るものとは違っているような気がした。
一色からは、気を使いどこまでが踏み込めるラインか探っているような印象は受けない。
葉山からは、個人に関するあらゆる質問をはぐらかす見えない壁は感じない。
人の心は移ろいやすいと言うが、人の織り成す関係もまたしかり、ということだろうか。
近付いたり離れたりなんて、振り返ってみればきっかけすら思い出せない、あっという間の出来事なんだろうな。
「突っ立っていないで座ったら?」
飲み物とグラスを手にして現れた雪ノ下が、薄く微笑みながら俺にソファを勧めてくれた。
「えーと、じゃあ……」
おずおずとソファに腰かけてみる。まるで借りてきた猫だ。でも仕方ねぇだろうが、友達の家にお呼ばれとか記憶にないぐらい過去の出来事なんだから。
雪ノ下は飲み物を置くと、くすくすと笑いながらキッチンに戻っていった。挙動不審な俺を見て呆れたに違いない。恥ずかしい。
置かれた飲み物を飲んでいいのかもわからないので、座ったまま部屋を物色もとい見渡すことにした。
でかいテレビの下にあるデッキに目を向けると、以前見たディスティニィー関連のDVDが変わらずそこにあった。変わらずって思ったけどよく見たら増えているような気もする。
中でもパンダのパンさんシリーズが群を抜いて多い。相変わらず雪ノ下さんはパンさんにご執心のようだ。
「じゃーん、ほらほらヒッキー。これすごいっしよ」
由比ヶ浜が何やらかつまめる一口大の食べ物をテーブルに広げ始めた。
なんかパンやらクラッカーの上にいろいろ乗ってて、おぉ……なんだこれ、カナッペってやつか。すげぇホームパーティー感があるな。
「これ、由比ヶ浜が作ったのか?」
「作ったっていうか……あたしは乗っけただけ。さすがにあたしでもこれぐらいできるよ」
「へー……なんか、凄いな」
「ゆきのんがこういうの慣れてるっぽい。……実家でお客さんをおもてなしとか、よくあるのかもね」
「……かもな」
由比ヶ浜とともに、雪ノ下の知らない一面に思いを馳せる。でもこの場には似つかわしくないよな、こんな感傷は。
「これ食べていいの?」
「ま、まだダメだよ!みんな揃ってから!」
「あ、やっぱり?でもすげぇ旨そうだな。早く始めようぜ」
「……うん。もうちょっとだけ待ってて、ヒッキー」
「りょーかい」
由比ヶ浜が笑ってくれたことに安堵して、静かに全員が揃うのを待つことにした。
やがて一色と葉山も部屋に戻り、準備が整って五人がめいめいの場所に座ると不自然に会話が途切れた。
俺と雪ノ下以外の三人は、飲み物の注がれたグラスを手に雪ノ下へと視線を向けている。あ、そういうことか。
単純なクリスマスパーティーってだけじゃなくて打ち上げだからな、俺も三人に倣ってそうしておこう。
雪ノ下は俺たちの目線を受け、短く息を吐くと照れ臭そうに口を開く。
「こういうのは苦手なのだけれど……。んんっ」
軽い咳払いのあと、生徒会長の挨拶が始まった。
「合同クリスマスイベント、お疲れ様でした。この生徒会になって最初の仕事だったけれど、なんとかうまくいったのはあなたたちの支えがあったからです。同時に私の不甲斐なさ、未熟さも痛感しました」
雪ノ下にしては珍しい、ですます口調の丁寧語。そこに茶々をいれる者はいない。ただ黙って次の言葉を待つ。
「私一人ではできないことばかりでした。至らぬ点も多々あったかと思います。それでも、皆は私を助けてくれました。私はこのイベントを通じて、あなたたちとなら上手くやっていけそうだと、そう感じました。だから、これからも…………よろしく」
この場の全員が持つ優しい眼差しと微笑みに、うわべの気遣いや嘘偽りはないと、そう確信できた。
彼女は生徒会長としての信頼を得ることができたのだと、そう思えた。
「では簡単な挨拶で恐縮だけど……。イベント成功を祝して、ささやかな打ち上げということで。……乾杯」
「かんぱーいっ」
五人のグラスがテーブルの中央に集まり、軽く触れ合う小気味良い音が響いた。
本来の乾杯はグラス同士が触れないようにするものだとか、この場でそんなことはどうでもいいな。そもそも全員ソフトドリンクだしよ。
「ではいただきまーす。うわおっしゃれー、超キレー。雪ノ下先輩、これ乗ってるのなんですか?」
「それは……アボカドと生ハムとクリームチーズかしら。あと黒胡椒が少しね」
出た、アボカド。そう思いつつ俺もつまんで口に運んでみる。
…………なんだこれ、うめぇじゃねぇか。見直したよアボカド。凄いぞアボカド。アボカドがゲシュタルト崩壊して何かよくわからなくなってきた。
「あ、ヒッキー。お菓子も買ってきたんだけどどれにする?」
見ればパーティーパックのような大きさの袋やら箱が大量に用意されている。由比ヶ浜が楽しそうなのは結構なことなんですが。
「いや、こんな食ったら晩飯食えねぇよ……」
とりあえず物色してみると、多少高級感のあるラインナップに混じって、一際目立つジャンクな緑が目に入った。
これは……好きだけどさ、クリスマスらしくねぇだろ。
これを選びそうな奴に一人だけ心当たりがある。話したこともあるし。
そう思って該当の人物に目をやると、向こうも気がついたのかバッチリ目が合ってしまった。
「先輩、買っときましたよ!」
一色はもぐもぐとカナッペを頬張り、ウインクしながらサムズアップしてみせる。
……なんだそれ、可愛いな。そんな心憎いことをされたら食わないわけにはいかねぇだろ。
「よし、クリスマスっぽくはねぇけどキャベツ太郎にしよう」
「あー、ヒッキーそれ選んじゃうかー。おいしいんだけどねぇ……今日はいいや」
「体に悪そうな濃い味がいいですよねー。今日はわたしも食べませんけど」
「え?食わねぇの?」
首を振る二人。葉山と雪ノ下は……。
「俺もいいかな」
「私がそんなもの食べるわけないでしょう」
えーそんなー。俺もう開けちゃったんだけど……。
「くそっ、食うよ、食えばいいんだろ」
なんの因果か、打ち上げの場で一人でキャベツ太郎を食う羽目になってしまった。これは俺の黒歴史ノートに追加してもいいんじゃないですかね……。
嗚呼、このむせ返るようなソース臭。癒されるー。
「あ、あー。ヒッキー、あたしも食べるよー」
「そんなんで先輩にお腹いっぱいになられると困るんですよねー。ケーキ食べてもらわないといけませんし」
「そういやそんなこと言ってたな」
比企谷太郎となった俺を不憫に思ってか、由比ヶ浜と一色が前言を撤回して太郎の処理に加勢してくれる。そして女子三人でケーキを作ると言っていたことを思い出した。それは確かに重要だな。
キャベツ太郎でお腹いっぱいにしてしまったらほんとに後悔しそうだ。ごめんなキャベツ太郎。
結局葉山も雪ノ下も食べ始めたので、割とすぐに売り切れてしまった。
食べるのが初めてらしく、恐る恐る口に入れていた雪ノ下太郎の感想は、狂暴な味、だった。
いや確かに味濃いけどさ、もっと他にないのかよ。
こんな感じで始まった打ち上げは、終始和やかなムードのまま進んでいった。何をするでもなくダラダラと駄弁って、テレビを見たり、DVD(ディスティニィー関連)を流したり。
暇を持て余してスマホを触らないといけなくなる事態にはならなかった。何が楽しいのかと言われてもよくわからないが、気の合う連中とならこういうのも悪くないのかもな。
ま、たまにでいいけどな、たまにで。
されど楽しい時間というのは過ぎ去るのも早いもので、いつの間にかもう日が暮れ始めるような時刻になっていた。
女子陣は夕食後に出されるケーキ作りのためキッチンに集まっており、はしゃぐ声とたまに悲鳴のような悲痛な叫びが聞こえてくる。不安にさせないでもらえますか。
ちなみに夕食は昨日の話し合いで鍋とチキンに決まっていた。
チキンは昨日も食ったし、なんで鍋なんだと突っ込みたくなるが既に材料も買ってしまっている。家族以外と鍋をつつくなんて始めてだから、楽しみというよりちょっと怖い。
女子陣がいないので、今はリビングで葉山と二人きりだ。正直、俺はこいつといる時が一番会話が弾まない。まぁ話さなくても不都合は特にないかなと思っていると、雪ノ下が戻ってきてソファに腰を下ろした。
「あれ、お前作らないの?」
「私は今日は監督のみよ。昨日嫌になるほど作ったからもう作りたくないわ」
「そいやそうだな。……あいつらだけで大丈夫か?」
一色はともかく、先ほどの悲鳴の主でもある由比ヶ浜は。
「ええ、一色さんがいるし、彼女……由比ヶ浜さんも、問題ないと思うわ。凄く上達しているもの。一人で練習して、努力しているのでしょうね……」
雪ノ下は嬉しそうでもあり、寂しそうでもあった。
今まで頼ってくれた子が、急に一人でできるようになり助けを必要としなくなった。子の巣立ちを見る親のような気分なのかもしれない。
「……結衣も前に進もうとしてるんだろうな。やっぱり、変わらないものなんてないんだな」
葉山が誰に語りかけるでもなく呟いた。
目だけを向けて表情を見たが、その言葉の意味するところはわからなかった。
「比企谷、ケーキ作りを見てきたらどうだ?俺はさっき見てきたけど頑張ってるよ、二人とも」
「……そうね、少し見てあげるといいんじゃないかしら」
いいよ俺はと言おうとしたが、雪ノ下と目線を交わす葉山を見て思い直す。ああ、わかったよ。
「そうだな、ちょっと見てくるわ」
立ち上がり、甘い香りを漂わせるキッチンに移動した。
エプロン姿の由比ヶ浜と一色を黙って見守る。口を出して邪魔してもよくないし、楽しそうにケーキを作る二人を見ているのはなかなかに飽きないのでこれで十分だ。
雪ノ下と葉山が二人で話したいこととはいったいなんだろうか。
知ることは怖いが、知らないでいることはもっと怖い。知らなくていいことが世の中にたくさんあるのもわかっている。それでもなお、気にならないと言えば嘘になる。
だが二人には二人の関係がある。
これは雪ノ下と葉山だけじゃなくて、葉山と一色、俺と由比ヶ浜、由比ヶ浜と雪ノ下。五人がそれぞれに別々の、独自の関係を持っている。そして俺が全てを知ることは決してできない。
変わらないものなんてない、か。
変わるとは、失うことだ。ただの喪失と違うのは、失うだけではなく代わりに何かを得るということだけ。
由比ヶ浜が、彼女たちが変わったというなら、何を失い、代わりに何を得たのだろう。
俺は孤独を失った。代わりに得たものは、なんだ。
それはきっと、これからわかる。
一一一
キッチンから戻ると、雪ノ下と葉山は静かに談笑していた。そうしている二人の姿は、絵になると言われればそうなのだろうと思う。ムカつくけど。
「あら、お帰りなさい。ケーキの様子はどう?」
話す雪ノ下に暗然とした様子や気落ちしたものは感じられなかった。深刻な、俺の想像しているような話ではなかったということだろうか。
「ん、あー。問題ねぇんじゃねぇかな。楽しそうだったし」
「そう、ならよかったわ」
「甘いものは得意じゃないけど、俺も楽しみにしておくかな」
「あ、雪」
雪ノ下の声に反応して窓の外へ目を向けると、ちらほらと白い結晶が花弁のように舞っていた。
「珍しいわね、千葉に雪が降るなんて」
「そういえば天気予報で降るかもって言ってたね」
「どうりで家出るとき寒いと思ったよ……。ここにいるとわかんなくなるけど」
この部屋は暖房がよく効いているのもあるが、しっかりしたマンションなだけあって気密性が異様に高いのか、換気を行っているはずなのに空気がこもっていて重いように感じる。
ぶっちゃけて言うとボーッとしてしまいそうなほど暑い。
「綺麗ね……」
窓の外を眺める彼女の横顔は美しく、儚い。触れたら解けてしまう雪のように。
「……二人にも教えてやるか」
そう言い残し、葉山はキッチンのほうへ移動していった。残された俺と雪ノ下の間に沈黙が降りる。
「……バルコニーに出ていいか?」
暑くなってきたし、ちょっとぐらいなら大丈夫だろ。次があるかどうかは知らないが、この部屋からの眺めをちゃんと見ておこう。
「別に構わないけれど……寒いわよ?」
「知ってる」
バルコニーに出ると、眼下に広がるのは雪の舞う千葉の…………寒い!怖い!
高層なだけあって風も強いし、雪ノ下はガラスの向こうから眺めてるだけだし……戻るか。
そう思って振り返ると、由比ヶ浜がバタバタと雪ノ下に駆け寄り、手を取ってバルコニーに連れ出してきた。
「おぉー、雪だー」
「さ、寒い……」
雪ノ下は肩を震わせながら、寒風に煽られて暴れまわる黒髪を手で懸命に押さえ込もうとしていた。
「じゃあこうしようよ」
由比ヶ浜は俺と雪ノ下の間で、二人の腕を抱き抱えるように掴み、寄せる。
「近い……」
「いや近い、近いから」
「えへへ、三人ならあったかいよね」
俺と雪ノ下の言葉はお構いなしに、真ん中の由比ヶ浜はさらに強く身を寄せる。この細い腕のどこにそんな力があるのか、抗うことができない。いやこれ俺の力が入ってないだけだな。
「雪、積もるかな?」
「どうかしら……。明日には晴れるらしいから、積もるまではいかないんじゃない?」
千葉に雪が降ること自体珍しい。積もるとなれば尚更だ。それに今は、全く根拠のない願望に近い予想ではあるが、そうはならない気がした。
すべてを覆い隠してしまう雪はもう、積もらない。
「そっかー。でも、別にいっか。今日見られたら、それで」
「……ホワイトクリスマスってやつだな」
「そうだね、綺麗だね……。三人で見れて、よかった」
目を奪われた。眼前にある幻想的な飛白模様ではなく、安堵の溜め息のような言葉を紡ぐ由比ヶ浜に。小さく顎を引いて頷く雪ノ下に。
口にこそしなかったが、そのとき胸にしていた三人の想いに違いはないのではないかと、そんな幻想を抱いた。
吹き付ける風は依然止まず、いくら身を寄せ合っていても寒いものは寒い。にも関わらず、俺たちは無言で雲が吐き出す息の残滓を眺め続けた。
あと何度、彼女達とこんな景色を見られるのだろうか。
いや、ここにある全ては今しか見られないのだ。俺たちはいつだって後戻りのできない今を過ごしている。
だから俺は、今を胸に刻もう。決して忘れることのないように。
「俺がこんな風にクリスマスを過ごせるとはなぁ……」
あまりの感慨に、吐くつもりのなかった感嘆の呟きが漏れる。失態だと気づいた時には既に、雪ノ下と由比ヶ浜が含みのある笑みを俺に向けていた
「自称ぼっちの比企谷君には刺激が強かったかしら?」
「ヒッキー、まだぼっちだって言うつもり?」
だよな。こんな状況でそんなこと、言えないよな。自嘲と自虐で自己弁護するのはみっともねぇから、もうやめだ。
「……わかってるよ。俺はもう、ぼっちとは言わない。俺には……お前らがいるから」
それ以外の全てを壊してでも、大切にしたい人がいるから。
ちゃんと俺の居場所はここにあるから。
「あ、あと一応あいつらもな」
一色からも、葉山からも貰ったものがある。今も気を使ってくれているであろう、部屋にいる二人にも感謝しとかないとな。
「も、もうそろそろ戻らない……?」
やがて、唇を蒼白にしながら雪ノ下が限界だと主張した。俺も歯がかちかちと鳴って止まらなくなっている。
「だな、戻るか。風邪引きそうだ」
「うん……」
寒さに負けてバルコニーから戻ると、部屋が温室のように感じられた。じわじわと沁みるように暖かさが浸透し、体が徐々にほぐれてくる。
「はー、生き返る……っと、そうだ。ちょっと待ってくれ」
このタイミングで言うのがいいのかよくわからないまま、キッチン向かおうとする二人を呼び止めた。
雪ノ下と由比ヶ浜は小首を傾げて立ち止まる。
けど折角葉山と一色が気を使ってくれて三人になれたんだ。渡しておこう。
「……これ、よかったら貰ってくれるか」
言って、袋から包みを二つ取り出した。昨日チキンを取りに行く前に悩み悩んで買ったものだ。
たいしたものじゃないが、何がいいかわからず考え抜いた残留思念のようなものは宿っているはずだ。いやなんかキモいなこの言い方だと。
二人ともなんのことかわからない様子で呆けていたが、はっと気づくと確認するように聞いてきた。
「これ……クリスマスプレゼント?」
「二つあるのは、私と由比ヶ浜さんに、ということね」
そんなに意外そうな顔でまじまじと見られると恥ずかしいからやめてほしい。
「あ、んー……まぁ……、湯呑み貰ったから、その礼だ。あんま期待はせんでくれ」
直視するのが憚られたが、なんとか二人の視線を受け止めて言うことができた。
そう、これはただの礼だ。湯呑みのお返し。特別な意味は、意味は……ある、かもしれない。
「そう……。気にしなくてもよかったのに」
「ヒッキー……。開けてもいい……のかな?」
「お、おお……。ほんとたいしたもんじゃねぇけど……」
リボンを解く音に続いて、温かい吐息のような声が聞こえた。
「わぁ……。嬉しい……」
「シュシュね……」
喜んで貰えたと思ってもよいのだろうか。俺も安堵してほっと胸を撫で下ろす。
「ゆきのん、お揃いだね」
「ええ。でも、色はこれで合っているのかしら?逆のような気が……」
雪ノ下の疑問ももっともだ。由比ヶ浜が青で、雪ノ下がピンク。イメージとしては逆の印象を持っていてもおかしくはない。
だが、俺は彼女達にはこれが似合うのではと考え、当人の色の好みと違っていたとしても、それでも構わないと結論付けた。それだけ…………じゃないよな。
自分でも薄々わかっている。根底にあるのはおそらく、ただの独占欲。彼女達のことは俺が一番わかっていると、そう思い込みたかった。
だがこれを赤裸々に語るには時期尚早な気がする。というか言っても大丈夫なことなのかよくわからない。
はっきり言うと、気持ち悪いと思われてもおかしくない感情だ。
だから、嘘にならないように少しだけぼかしておこう。そう決意したところで、俺より先に由比ヶ浜が口を開いた。
「……いいんじゃないかな。ヒッキーがあたしたちのことを考えて、これでいいって思ったんだよ。これが似合うって」
「ん、まぁ……そうだな」
俺が言おうとしたことそのまんまだったので少し驚いてしまった。伝えようとしたのは、ちゃんと自分で考えた、というその一点だったからこれでいいはずだ。
「そう……」
雪ノ下はそれきり問うことなく、ただ静かにそう言った。続けて、手のひらのシュシュから顔を上げ、微笑んだ。
「ただの御礼でも……。私は、嬉しいわ。ありがとう」
「うん……。大事にするね。ありがと、ヒッキー」
由比ヶ浜は俺を見つめながらシュシュを大事そうにそっと胸に抱いた。
そこまで喜ばれると、嬉しさに加えて若干申し訳なくも思ってしまう。クリスマスという建前がある今日まで、俺はただのお礼すらできなかったのだから。
「今髪に付けるといきなりでちょっと目立つから、ここで……」
「あはは……そうだね」
二人はシュシュを腕につけ、よく見えるよう胸の高さまで上げて見せた。袖口で青とピンクの花が揺れている。
うん。思った通りだ。
雪ノ下も、由比ヶ浜も、その色がよく似合う。
その姿に満足し頷くと、二人はキッチンに向かった。
一人になると、自分勝手に押し付けた色を俺だけの自己満足で終わらせたくなくなった。
彼女たちが本心からその色を気に入ってくれますようにと、そう願わずにはいられなかった。
鍋とチキンによる和洋折衷の騒がしい夕食も終わり、食後に出てきたケーキもありがたく平らげることができた。
ブッシュ・ド・ノエル。
切り株とか丸太みたいな形をした、あれだ。雪ノ下監修の元、由比ヶ浜と一色の競作として出てきたそれは見事な出来映えだった。味も文句なし。
だが一番胸を打たれたのは、食べた後のうまかったの一言で見せてもらえた、生意気で得意気で自慢気な一色の照れ顔と、ぱぁっと輝くように咲いた由比ヶ浜の笑顔だった。
こんな俺なんかの言葉でそんな反応をされるのは幸福である反面、恐怖でもある。
考えのない無配慮な一言で、容易く憂いを帯びたものに変えることも、壊すこともできるということに他ならないからだ。
俺はこれからも、俺の意思や意図と無関係に関わる人間を傷つけてしまうのだろう。
その傷を見て、俺も後悔と痛みに苛まれるのだろう。でももう、そんなに苦しいなら最初から関わらなければよかったなんて思わない。そう決めている。
その後全員で食事と部屋の後片付けを終えると、帰るにはほどよい時刻となり、最後に来年もよろしくといった趣旨の挨拶を互いに交わして解散となった。
これで冬休み突入だ。学校に行くのは年が明けてからになる。
つまり、彼女達と会おうと思うのなら理由が必要だ。建前ならもういらないが、誘うにしたって誘い文句というものがある。
理由。
それならもう決まってる。
雪ノ下の見送りは固辞し、四人でマンションのエントランスまで降りてきた。雪はまだ積もってはいないが、夜になっても降り続けていた。
「ヒッキー、楽しかったね」
駅に向かい、並んで歩くのは由比ヶ浜。前方には少し離れて葉山と一色がいる。
「そうだな」
「……また、やれるかな?」
「やれるだろ。でも、たまにでいいよ、たまにで」
打ち上げがあるということはその前に何らかの仕事があるということで、そういう意味でもあまり頻度が高いのは困る。
「あはは。あたしは何回でも……したいな」
由比ヶ浜が突然、左手を空へと向けて伸ばし、見上げる。
長い睫毛に雪がかかる。
掲げた手には、青い花。
開かれていた掌が閉じ、きゅっと握られる。
何かを掴もうとしたように見えた。
触れれば解けてしまう雪か。見えなくてもそこにある、届かない星か。
「今度は何食べようかー、ヒッキーは何がいい?」
知らず、見惚れていた。由比ヶ浜の声で我に返り、慌てて適当に思い付いた食べ物の名前を言うと、彼女は呆れたように微笑んだ。
気恥ずかしさに身を縮こまらせ、ポケットに手を突っ込んだところではたと気づく。
…………んん?スマホがねぇぞ。
やべぇどこ行った。あれがないと連絡どころじゃ……。
立ち止まり上下にある無数のポケットをまさぐっていると、一歩前に進んだ由比ヶ浜が振り返る。
「ん?どしたのヒッキー?」
「いや……スマホがな、ねぇんだよ。どっか落としたかな、雪ノ下んとこに忘れたのかな」
「ありゃ、あたし電話してみよっか?」
「おお、頼む」
由比ヶ浜はりょーかいと言ってコールを始める。葉山と一色も離れた場所で立ち止まって、何事かとこちらを見ていた。
「繋がったよ」
神経を尖らせて振動を探す。ポケットに反応はない。
ということは、俺の近くにはないということだ。そういえばいつまで持っていたのかはっきりと思い出せない。
今日はあんま触らなかったからなぁ……。買い物の時に落としてたりしたらどうしよう、うわぁ超めんどくせぇ。
「あ、出た。……もしもし?」
どうやら人の手にはあるらしい。ただ、まだ行方はわからない。固唾を飲んで次の言葉を待つ。
「……あ、ゆきのん?」
……ホッとした。雪ノ下の家に忘れただけのようだ。面倒な手続きや本体再購入という多大な出費はせずに済むと思うと、小躍りしてしまいそうになった。
「ソファの下に落ちてたって。あー、うんそうそう」
「あ、由比ヶ浜。今から取りに行くって伝えてくれ」
打ち上げ会場を提供してくれた家主に下までご足労頂くのはあれかと思って見送りを固辞したのに、こんなところまで持ってきてもらうわけにはいかない。
俺が勝手に忘れたもんだし、取りに行かせて頂きますよ。
「あ、ヒッキーが今から取りに行くって。……うん、わかったー。バイバーイ」
「雪ノ下、なんて?」
「待ってるって。ヒッキー、取りに…………行くんだよね」
「うん?そりゃ行く、けど……」
けど、なんだ。自分の発言に疑問を抱く。
由比ヶ浜がなんでもない箇所で言葉を詰まらせたのが気になった。
雲の細い切れ間から出た月に照らされた彼女の顔は、悲哀の滲む陰りのあるものだった。
クリスマスの夜。降り積もらんとする雪は、まだ止まない。
☆☆☆
共通部ここまで
こっから分岐したりしなかったり
これから投下するエンドはスレ内に収まるんですが
他のと合わせるとどうせ入んないんでエンドだけスレわけることにします
というわけで続きはこっちで
奉仕部の三人は居場所について考える 続きと終わり
奉仕部の三人は居場所について考える 続きと終わり
元スレ
奉仕部の三人は居場所について考える
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1435581486/
奉仕部の三人は居場所について考える
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