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ビッチ(改)【その2】

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ビッチ(改)【その2】






130:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:29:07.13 ID:gkMads52o

「まあ、直接聞いたことがあるわけじゃないですけど、ピアノは習っているみたいです
よ」

 とりあえず僕は何とか冷静に返事ができた。

「そうか。実は女帝にはピアノがうまいという噂もあってな」

 平井さんは再び煙草を咥えて火をつけた。今度はもう僕もここが禁煙であることを注意
しなかった。

「女帝はな。噂だけはいろいろ聞こえてくるんで、ピアノが上手だとかそういう情報には
こと欠かないんだよな」

 平井さんは煙草を美味しそうに吸って僕の方をじろりと見た。

「情報があるならどんな人かは当たりがつきそうですよね」

「それがな。さっきも言ったけど今まで悪さしてた連中が、これまでしていたような悪さ
をしなくなってしまってな。未成年に無理矢理猥褻なことをするとか、対立するグループ
間で乱闘するとかそういうのが無くなってしまったんだよな」

「ええ」

「ええじゃねえ。兄ちゃんにはわからねえだろうけど、これまではそういうつまんねえこ
とをしでかした連中をしょっぴいて取調べをする中でこっちは必要な情報を手に入れてた
んだが」

 平井さんが何を言おうとしているのか僕にもわかった。

「しょっぴいた連中なんざしょせんはガキだからな。ちょっと締め上げればたいがいのこ
とは吐くし、それで俺たちもがぎどものグループの情報は手に入っていたんだがよ」

「そういう小さな悪さをしなくなったんだよな。少なくともこの界隈を仕切っている連中
は」

「だからよ。それなりに情報は集まってくるが、実際に女帝と会ったことのあるやつから
は情報を取れねえんだわ。女帝のピアノ情報とかどこまで信用できるかもわからん」

「それもこれも女帝のせいだと思ってるよ。そいつが現われてからは極端に検挙件数が減
てな。上司に言い訳するのも大変だぜ」

 本当にあの有希が平井さんがいう女帝なのだろうか。普通に考えればそれはすごく突飛
な考えだ。でも現に僕の妹は入院するほどのひどい仕打ちを飯田という男から受けたのだ。
それも冷たい表情で明日香を見下すように眺めた有希に責められた直後に。

 僕はさっき奈緒から聞いた話を思い出した。昨晩有希は不誠実な僕なんかとは別れるよ
うに奈緒に勧めたという。その時の有希の様子は怒ってはいたけど別に不信な様子はなか
ったそうだ。

 その有希が今日の放課後は奈緒の話すらまともに聞いていないほど、何かに悩んでいた
という。考えたくはないけど、彼女は明日香の事件関係で悩んでいたとしたら。

 明日香を追い詰めて、明日香が僕たちから逃げ出して夜の町を無防備に徘徊したその原
因を作ったのは有希だ。そしてその晩、有希は飯田に襲われて池山に助けられた。

 その一連の出来事を有希が知っていて、そして自分の意図よりも大袈裟なことに、つま
り飯田が逮捕され明日香を助けた池山すら参考人として事情聴取を受けるようなことにな
ってしまったことに対して悩んでいたとしたら。
「その女帝って人は何がしたいんでしょうか」

 僕は素朴な疑問を平井さんに聞いた。

「・・・・・・どういうことだ」



131:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:30:08.09 ID:gkMads52o

「いや。無軌道に騒ぐだけなら単なる高校生の衝動なのかもしれないけど、組織立だって
何かをしようとしているとしたら目的があるんじゃないかと思って」

「ほう」
 平井さんが皮肉っぽい笑いを浮かべた。「兄ちゃんも高校生だろうが。随分うがったこ
とを言うな。まさか、兄ちゃんが女帝じゃないだろうな」

「冗談だよ、冗談」
 僕の顔色を見た平井さんが笑った。「でもいいところを突いてくるな。加山なんかより
よっぽど刑事の素質があるな」

「平井さん!」

 顔色を変えて加山さんが言った。どうもこの人は冷静さに欠けているみたいだ。

「だから冗談だって言ったろ。でも兄ちゃんの言うとおりだ。何のメリットもなくやつら
が女帝に従うはずはねえ」

「メリットって」

「そろそろやばいっすよ。平井さん。ちょっとこいつに情報漏らしすぎじゃないですか」

 不服そうにそう言い出した運転席の加山さんには構わずに平井さんは言った。

「兄ちゃんは合法ドラッグとか合法ハーブとかって聞いたことあるか」

 それはテレビのニュースで聞いたことがある単語ではあった。

「聞いたことはあります。麻薬みたいに違法になっていないけど同じような効果があるや
つでしょう。吸うというよりアロマみたいに焚く感じの」

「そうだ。実際にはかなり危ないことがわかっているけど、法改正が追いつかずに違法薬
物に指定される前のブツって感じかな、だから脱法ドラッグと呼ばれることもある」

「そしてそれはドラッグそのものだ。いい気持になるなんて程度のもんじゃねえんだよ」

「はあ」

「それはとにかくだ。今はまだ違法の麻薬じゃねえしな。表立っては取り締まれねえ。そ
れに暴力団の連中だってまだこんな美味しいネタに気がついていねえみてえだ。時間の問
題なんだろうけどな」

「もうわかったか?}

 平井さんが煙草を捨てて靴の底でもみ消した。

「女帝のグループはその合法ハーブを取り扱っているってことですか」

「ピンポン」
 平井さんが嬉しそうに寒いセリフを吐いた。「あのガキどもが悪さしないで大人しくな
るなんざ理由があるんだよ。それが小遣い稼ぎだったんだろうな」

「まあ兄ちゃんの話はわかったよ。太田有希のことは俺らも気をつけておこう。これから
やつらの事情聴取だから、それとなく探りを入れてみることにするよ」
 平井さんは車に乗ろうとした。「それでいいな? 俺の方も話せる限りのことは兄ちゃ
んに話したぜ」」

「はい。ありがとうございました」

 そのとき再び平井さんが俺の方を見た。

「おまえ、やる気なのか」

「やる気って・・・・・・何を言っているのかわからないですけど」

 平井さんは僕のその言葉を聞いて眠そうな目を少しだけ開いた。僕は平井さんの言葉に
戸惑っていただけだったのに、平井さんはそうは受け取らなかったようだ。

「そうか。やる気なのか。じゃあまあ気をつけろよ」

 そしてもう平井さんは僕の方を見ないで車の助手席に収まった。

「じゃあな」

 何かに腹を立てているかのように加山さんが乱暴にアクセルを踏んだらしい。その警察
車両はタイヤのきしむ音を病院中に響かせながら走り去って行った。あれでは加山さんは
また平井さんに怒られるだろう。



132:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:31:04.47 ID:gkMads52o

「用事は終った?」

 走り去る車を見送っているといつのまにかいたらしい玲子叔母さんに背後から声をかけ
られた。

「うん。さっきはありがとう」

 僕は叔母さんに言った。

「・・・・・・別にいいけど。奈緒人、あんた本当にやる気なの?」

 何なんだ、いったい。さっきから平井さんと叔母といい。僕は単に有希と明日香の受難
との関係が気になっただけなのに。

「まあいいや。あたしにできることなら何でも言いな。明日香のためならあたしも協力す
るから」

「いや、叔母さん」

 僕は叔母さんの誤解を解こうとしたけど、叔母さんはもう頭を切り替えていた。

「それより奈緒人、明日香があんたと話したいって」

「うん。父さんたちは?」

「仕事に戻ったよ。今日はずっと明日香に付いてるって言ったんだけど、明日香が自分は
大丈夫だから仕事に戻ってって」

 こんな状況なのに明日香は両親の仕事を気遣ったようだった。これに関しては他の人に
はわからないかもしれない。でも僕と明日香には両親の仕事を優先することは当然のこと
だった。我が家の生活が成り立っていたのは両親が昼夜なく仕事をしているせいなのだ。

 もちろん寂しく感じないなんてことはない。でも寂しくたってやることはやらないと僕
も明日香もここまで行き抜くことすらできなかっただろう。だから普段の家事や身辺の雑
事にしても、他の同級生たちと比べたら遊びまくっていた明日香だってはるかによくやっ
ていた方だと思う。

 明日香は自分がこんな仕打ちにあった時ですら両親の仕事を心配している。半分くらい
は自業自得と思わないでもないけれども、その動機には疑いの余地はない。明日香の行動
は全て僕のことを思いやってのことだったのだ。

「とにかく病室に戻ろう」

 叔母さんが僕を急かした。

 病室に入ると僕に気がついた包帯だらけの明日香が点滴を受けていない方の手を僕に向
かって伸ばした。僕は差し出された明日香の手を握りながらベッドの脇の椅子に腰掛けた。

「ごめん」

 最初に明日香はそう言った。さっき明日香が母さんに話しかけたときと同じ言葉だけど、
言葉に込められた意味はきっとそれとは違っていたのだろう。

「いや。おまえが無事ならそれでいいよ」

 明日香が僕の手を握っている自分の手に力を込めたけど、それはずいぶん弱々しい感じ
だった。

「あたしね、いきなり飯田に話しかけられたの。奈緒のことで話しておきたいことがある
から俺の部屋に行こうって」

 奈緒のこと? 何で飯田が奈緒のことを、僕の妹のことを知っているんだ。僕は混乱し
た。明日香とその仲間たちは。、直接奈緒との接点はないはずだ。明日香以外で奈緒と池
山たちを知っている可能性があるのは。

 やはり有希は女帝なのだろうか。

「何で飯田がそんなことを知っているのか気になったから、あたしつい飯田の部屋につい
て行って」

「うん。そこはもう詳しく言わないでいいよ」

 僕は明日香を気遣ったけど、明日香はかすかに顔を横に振って話を続けた。

「それで、部屋に入ったらいきなりベッドにうつ伏せに押し倒されて、後ろ手に縛られて、
あたしが抵抗したらすごく恐い目で睨まれて何度も顔を叩かれたの」

 明日香は低い声で続けた。



133:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:31:43.38 ID:gkMads52o

「・・・・・・もういいよ」

「うん。そしたらいきなりドアが開いて池山が入ってきて飯田に殴りかかって、あっとい
う間に飯田のこと殴り倒しちゃったの」

 それでは池山が明日香を助けたというのは嘘ではないのだ。

「池山はあたしの手を解いてくれて、すぐに家に帰れって言ったの。これから警察に電話
するし巻き込まれたくなければすぐにここから出て行けって」

「そうか」

 自分の別れた女を飯田から救うことくらいは理解できる話ではある。でも警察に電話す
るなんていったいどういうつもりだったのだろう。個人的に飯田のことをぼこぼこにする
くらいはあの金髪ピアスの男ならやりそうだ。でも警察にチクルなんて池山らしくない。
ましてさっき平井さんから聞いた話が事実だとすると、飯田も池山も女帝の下でドラッグ
の販売とかに手を染めていたはずで、そんな池山が警察に電話すること自体が理解しがた
い。

「あたし、本当にもう池山のことなんて何とも思っていないんだよ。あたしが今好きな人
はお兄ちゃんだけだし」

 突然の明日香の告白に僕は狼狽した。背後で立っているはずの玲子叔母さんのことも気
になった。

「でもね、あたしが逃げちゃったら池山が飯田を殴った犯人にされるかもしれない。あた
しは池山に助けられたんだから、そこにいて証言しなくちゃって思ったの」

 明日香が言うには池山は何度も早く家に帰れと言ったらしい。自分のことは構わないか
ら、おまえはこんなことに関わりになるような女じゃないからと必死な表情で。

「・・・・・・前から池山はあたしのことを過大評価していたから。あたしが清純で穢れのない
女の子だと思い込みたかったみたい」

「もういい。わかったから。今はもう思い出すな。辛いだろ」

 明日香僕の手を一端離した。

「もっと近くに来て。お兄ちゃん」

 僕が言われたとおりにすると、明日香は片手で僕の腕に抱きつくようにした。明日香の
顔が僕の顔のすぐ横に来た。

「お兄ちゃん聞いて」

「・・・・・・席外そうか」

 叔母さんが聞いた。

「いい。叔母さんも聞いてて」

「いいのかよ」

 叔母さんが戸惑ったようにぶつぶつ言った。

「お兄ちゃん、今度こそ真剣に言うね。あたしお兄ちゃんにはいろいろ辛く当たってきた
けど、本当はお兄ちゃんのことが好き」

 僕の頬に触れている明日香から湿った感触がする。

「あたし、奈緒のこと大嫌いだった。昔お兄ちゃんの愛情を独占していて、今またお兄ち
ゃんを惑して傷つけようとしているあのビッチのことが」

「奈緒はそんな子じゃないよ」

 僕は辛うじて反論した。

「うん。今にして思えばそうかもしれないね。あたし多分奈緒に嫉妬していたのかもしれ
ない」

「どういうこと」

「十年以上も会っていなくて、久しぶりに一度だけ会っただけでお兄ちゃんを夢中にさせ
た奈緒に、あたしは嫉妬していたんだと思う。あたしが素直になって自分の気持ちに気が
ついたのは、お兄ちゃんと奈緒が付き合い出してからだったし」

「明日香」

「返事は急がない。でもあたしはお兄ちゃんとは血が繋がっていないし、奈緒と違ってお
兄ちゃんとは付き合えるし結婚だってできるはず」



134:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:32:21.80 ID:gkMads52o

「結婚って」

「例え話だよ。あたし飯田に乱暴されそうになったとき、お兄ちゃんのことが頭に浮かん
だの。池山でもなくママでもなく」

 明日香は僕から顔を離して僕の顔を見た。顔には痛々しく包帯が巻かれていたけど、そ
れは何かの重荷を降ろしたような幸せそうな表情だった。こんな明日香は初めてだった。

「あたしが好きなのはお兄ちゃんだけ。でも返事は急がないからよく考えてね」

「・・・・・・明日香」

「そろそろ検診の時間ですから、面会時間はここまでですよ」

 そのときさっきの看護師が部屋に入って来て言った。



「明日香、明日退院だって」
 連れ立って病院から出たところで叔母さんが言った。「結城さんと姉さんから頼まれた
んで明日はあたしが明日香を迎えに行くんだけど」

「うん」

「あんたは学校だね」

 叔母さんが言いたいことくらいすぐにわかった。

「妹が退院だからって先生に言うよ。明日は休んで僕も一緒に行っていい?」

「その方が明日香も喜ぶだろうな」
 叔母さんが言った。「まさか目の前で明日香の一世一代のあんたへの告白を見せつけら
れるとは思わなかったけど。あの子も今度ばかりは本気みたいだね」

「叔母さんもそう思う?」

「うん思う。あんたはどうなのよ。最近明日香とはすごく仲いいみたいだけど」

「仲はいいよ」

 叔母さんは少しためらってからそっと言った。

「やっぱり奈緒ちゃんのことが忘れられない?」

 僕はまだ兄妹としての奈緒との再会のことを明日香にも叔母さんにも話していなかった
ことに気がついた。

「それはないんだ。叔母さんにはまた言ってなかったけど、今朝登校中に奈緒に待ち伏せ
されんだ」

「え? 奈緒ちゃんに会ったの?」

 叔母さんは驚いたように言った。多分僕の精神的外傷のことを気にしてくれていたのだ
ろう。

「うん。何で会ってくれないの、嫌いになったのって」

「それだけ聞くとさ、奈緒ちゃんはやっぱりあんたが実の兄貴であることを知らないの
か」

「正確に言うと知らなかったになるんだけど」

「どういう意味よ。こんな場合なのにもったいつけるな」

「いろいろあって奈緒には僕が実の兄貴であることがばれちゃったんだ」

「マジで?」

 叔母さんが驚いた様子だった。



135:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:33:08.25 ID:gkMads52o

「うん、無意識のうちに僕は気がつかせるようなことを口にしちゃったらしいんだけど」

「それで? 奈緒ちゃんはショックだった?」

「それがそうでもない。むしろ引き離されていた僕と再会したことを喜んでいたよ。もう
二度と僕とは別れないって」

 突然の明日香の事件のことで緊張していた僕だけど、その時の奈緒の表情や言葉を思い
出すと胸が温かくなっていった。恋人同士には戻れない僕たちだけど、二度と会えないと
思っていた僕らは奇跡的に再会できたのだ。

「そうか」
 叔母さんが言った。「じゃあ、あんたはこれまで会えなかった実の妹の奈緒ちゃんと、
これまで妹だったけど彼女に立候補した明日香と二人を同時にゲットしたわけか」

「そんなんじゃないし」

 僕は赤くなって叔母さんに言った。



 僕はその日のうちに奈緒に電話した。叔母と別れて帰宅してもやはり家には両親はいな
かった。ワンコールで電話に出た奈緒はやたらにテンションが高かった。

「やっぱりさっそく電話してきた。お兄ちゃんって本気でシスコンだったのね」

 奈緒が電話口で機嫌良さそうに屈託なく笑った。

 僕は明日香の退院の付き添いと、そのために明日は奈緒と約束したとおり朝一緒に登校
できないことを伝えた。

「妹さん病気なの」

 奈緒が明日香のことを妹さんと言うのには何か違和感があった。僕の妹はおまえだ。僕
は一瞬そう思ったでも、それじゃあ明日香は僕の何なのだろう。奈緒と付き合い始めてか
らは僕の彼女は奈緒で僕の妹は明日香だった。これからはどうなるんだろうか。

 今では奈緒は僕の妹だった。だから僕の初めての彼女は消えていなくなってしまったの
だ。そのことがつらくないと言ったら嘘になる。でもフラバのこともあるし、何よりかつ
ての僕の最大のトラウマだった奈緒との強制的な別離が十年もたってから劇的な再会によ
って解決したのだから、僕はもうそれで満足なんだと考えることにしていた。

 それに奈緒は僕の彼女だったことなど忘れたように、兄との再会を無邪気に喜んでいる。
恋人としての奈緒に未練があるなんて彼女に気がつかれてはいけない。

「ちょっと怪我しちゃったんだけどね。大したことはなかったよ」

「そうなんだ。よかったね」

「うん、ありがと。明日は退院の付き添いだけど、明後日以降は妹の容態によっては学校
を休んで面倒を見なきゃいけないかも」

 それはさっきから考えていたことだった。平日の昼間は間違いなくうちには母さんはい
ない。明日香の外傷は大したことがないと言っても退院してすぐに登校できるわけがない
し、そんな明日香を一人にしておくのもかわいそうだ。

「お母様は?」

 少しだけ遠慮したように奈緒が聞いた。そういえばまだお互いの家族の近況とかは、奈
緒との間には全く話題に出ていなかった。

「母さんも父さんと音楽雑誌の編集をしているんだ」
 僕は家の事情を奈緒に話した。「だから普段は昼間はもちろん、夜だって滅多に家にい
ないよ」

「そうか。じゃあしばらくは朝お兄ちゃんと会えないね」

 奈緒が言った。



136:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:34:09.02 ID:gkMads52o

「ごめんね」

「ううん、今は妹さんのことを考えてあげないとね」

 奈緒には申し訳ないけど、この状況では明日香のことを優先する以外には選択肢はなか
った。

「朝来られるようになったらいつもの電車に来てね。あたしは毎朝あの電車に乗っている
から」

「行けそうになったらメールか電話するよ」

「うん。お兄ちゃんありがとう」

 そのとき電話の背後で何かを注意するような女性の声が聞こえた。何を話しているかま
ではよく聞こえなかったけど、少しイライラしているような感じの声だった。

「いけない。ママが怒ってる」
 奈緒が少し慌てたように言った。「ピアノの練習時間だったんだけど弾いていないの気
がつかれちゃった」

「練習を邪魔しちゃってたのか。悪い」

「いいの。お兄ちゃんと話しているほうが楽しいし」

「じゃあもう切るね」

 ママ。よく考えればその人は僕の本当の母親なのだ。そこに気がついた僕は、自分の心
に何らかの影響があるだろうと思ったのだけど、そういうことは起きなかった。まるで無
感動なのだ。

「ごめんねお兄ちゃん。一応ここ防音になっているんだけど、完全じゃないからピアノを
弾いていないとママにばれちゃうの」

「そうなんだ。じゃあまた連絡するから」

「うん、待ってる。おやすみ、お兄ちゃん」

 電話を切った後、僕はしばらくさっき考えていたことを再び思い返してみた。奈緒は僕
の妹だ。この先もずっと。そして明日香は僕に告白した。奈緒と恋人同士だった頃の僕な
ら、どうしたら明日香を傷つけずに断ればいいか考えるだけだっただろう。奈緒を振って
明日香と付き合い出すなんて考えたことすらなかった。

 でも今ではどうなのだろう。僕にはもう彼女はいない。僕は明日香の気持ちに応えるべ
きなんだろうか。奈緒とは違って明日香は義理の妹だ。一滴たりとも同じ血は流れていな
い。だからさっき明日香が言っていたように付き合うことにも結婚することさえにも法的
な制約はないのだ。

 僕は試しに僕と明日香が付き合い出したときの周囲の人たちの反応を想像してみた。兄
友は明日香が僕の義理の妹であることを知っているから、驚きはするだろうけどそれが社
会的なタブーだとは考えないだろう。でも他の人たちはどう思うだろう。考えてみれば僕
と明日香が実の兄妹ではないことを知っているのは、両親や親戚を除けばほとんどいない。

 当たり前のことだけど、父さんや母さんだってわざわざ周囲に再婚家庭であることをア
ピールする必要なんかなかっただろう。それに何といっても去年までは僕自身だって明日
香が自分の本当の妹ではないなんて想像したことすらなかったのだ。

 そう考えると、仮に僕と明日香が恋人同士になったときの周囲の反応は考えるだけでも
面倒くさそうだった。僕の友人たちや明日香の友だちはみな僕と明日香が兄妹なのに禁断
の関係になったと思い込むだろうし、そういう噂だって流れるだろう。そういう人たちに
向かって一人一人に我が家の家庭事情を最初から話していくなんて不可能だ。

 僕と奈緒が付き合い出したときはそういう問題は生じなかった。誰も僕と奈緒が実の兄
妹だなんて知らなかった。というか当事者である僕たちだってそれを知らなかったのだか
ら。そう考えると明日香と付き合い出すのは大変そうなのに比べて、奈緒とこのまま付き
合っている方がはるかに自然で楽そうだった。

 そのとき僕は胸に鋭い痛みを感じた。今、僕は何を考えた?

 奈緒とこのまま付き合うなんてありえない。お互いに生き別れた兄妹だとわかった今と
なっては。奈緒は僕の妹なのだ。奈緒と感動的な再会をはたした今朝は、つらい別れをし
た妹と再会できたことに喜びを感じただけで、それ以外に余計なことを考える余裕なんて
なかった。でも、今改めてこの先の僕たちの関係を考えてみると、僕は自分の汚い心の動
きに気がついた。

 最初に奈緒とキスをしたあの夕暮れの日、正直に考えれば僕の下半身は奈緒の華奢で柔
らかくいい匂いのする身体に反応していなかったか。奈緒とキスを重ねるたびに、次は奈
緒に対して何をしようかとわくわくしながら考えている自分はいなかったか。



137:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:34:49.76 ID:gkMads52o

 そうだ。この次は奈緒の体を愛撫し、そしていつかは奈緒と身体的に結ばれたいと思っ
ていた自分がそこにはいたのだ。そしてその気持ちは実は今になってもまだ清算すらでき
ていなかった。奈緒は妹だ。そして僕のことを兄だと気がついた以上、彼女は僕が自分に
対してこんな破廉恥な気持ちを抱いているなんて夢にも思っていないだろう。つらい別れ
をして以来、再会を夢見続けていた奈緒は、自分の兄を取り戻せたことに満足しているの
だ。彼氏としての奈緒人が消滅してしまっても気にならないくらいに。

 それなのに僕はそんな妹に対して汚らしい欲情をまだ捨てきれていない。

 こんなことを考えていたらまたフラッシュバックを起こしそうだった。僕はとりあえず
無理に考えを違う方向に捻じ曲げた。

 明日香は急がないと言ってくれた。明日香が僕の彼女で奈緒が僕の妹である将来だって、
あり得ない話ではないのだ。というか両親も玲子叔母さんも僕と明日香が結ばれることに
祝福こそすれ反対はしないだろう。

 でもそれは明日香の言うとおり急ぐことではなかった。奈緒との関係の整理とか明日香
との付き合い方とかを今日一日で決めろと言われてもそれは無理だ。奈緒に感じた性欲の
ようなものを思い起こすだけでもつらい今では絶対に無理だった。

 それで僕は無理に今日平井さんから聞いたことを思い起こした。

 有希が女帝だったとしたら、この先明日香や奈緒には何らかの危害が及ぶ可能性がある
のだろうか。明日香に関して言えば、とりあえず飯田は逮捕された。この先どうなるのか
はわからないけど、少なくとも傷害事件の現行犯だから家裁を経て少年院送りとなるか、
あるいは初犯なら執行猶予とか保護観察になるかだろう。

 でも平井さんの話では前から警察に目を付けられていたらしいし、初犯じゃあないのか
もしれない。いずれにせよ再び明日香を狙う可能性はそんなに高くないだろう。

 奈緒はどうか。明日香が飯田のアパートに無防備について行ったのは、飯田に奈緒の話
をほのめかされたからだ。奈緒のような子とボーイズギャングとして警察にマークされて
いる飯田との間にはいったいどんな接点があるのだろう。

 考えられるとすれば有希がその接点だということだった。あの有希が女帝として飯田や
池山にいろいろ命令したり指示する立場にいるなら、飯田たちは有希から奈緒のことを聞
いていた可能性は考えられる。でも奈緒も有希もお互いのことを親友だと言っていた。少
なくとも有希が奈緒のことを親友だと考えているなら、有希の命令で奈緒に危害が及ぶ可
能性は低い。

 そう考えると、明日香と奈緒の身がすぐに危ないというわけでもなさそうだ。その点に
関しては僕は少しだけ安心することができた。それから僕は平井さんと玲子叔母さんの言
葉を思い出した。



『おまえ、やる気なのか』

『そうか。やる気なのか。じゃあまあ気をつけろよ』

 平井さんは戸惑っている僕の言葉なんか気にもせずにそう言い放った。



『・・・・・・別にいいけど。奈緒人、あんた本当にやる気なの?』

『まあいいや。あたしにできることなら何でも言いな。明日香のためならあたしも協力す
るから』

 これは叔母さんのセリフだった。いい大人の二人は、高校生の僕に対していったい何を
期待しているのだろう。



138:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:37:05.68 ID:gkMads52o

 翌朝、叔母さんは家まで車で僕を迎えに来てくれた。叔母さんの車の音はすぐにわかる。
それは周囲に響くような重低音だった。明らかに近所迷惑としか思えないのだけど、叔母
さんはそのシルバーの古い国産のクーペを大切にしていたし自慢もしていた。

「おはよう叔母さん」

 僕は玄関から外に出た。

「おはよう奈緒人。何か雪でも降りそうな天気だね」

 叔母さんが車の中でハンドルを握りながら言った。

「叔母さん、ここは住宅地だし朝なんだからあまりエンジンの空吹かししないでよ」

「悪い。ちょっと調子が悪くてさ。じゃあ行こうか」

 僕は叔母さんの車の助手席に乗り込んだ。スポーツカーらしくひどく腰がシートに沈み
込みフロントウィンドウから見る景色がとても低いように感じる。

「明日香の保険証持ってきた?」

「うん。持ってきたよ」

「じゃあ行こう。あ、帰りは明日香が助手席な。後ろの席は狭いし怪我人にはつらいから
ね」

 叔母さんの車はツーシーターではないのだけれど、後席は飾りみたいなものだった。や
たらに狭いし天井も低い。とても長く人が乗っていられるような空間ではない。

「叔母さんも普通の車に買い換えたら?」

「普通の車じゃん」

 叔母さんがアクセルを踏んだ。車は急発進して坂を下りだした。まるで昨日の加山さん
の運転のようだった。

「叔母さん、ここスクールゾーンだからスピード出しちゃ駄目だよ」

「お、いけね」

 やがて叔母さんの運転する車は環状線に入った。妹の入院している病院はうちからはそ
んなに遠くないのだけど、平日の朝は病院までの国道は通勤の車で渋滞していてなかなか
目的地の近くに辿り着く様子がない。

「叔母さんさ」

 僕は信号待ちでも工事でもないのに一向に動かない車の中でハンドルを握っている叔母
さんに言った。

「うん」

「昨日叔母さん言ってたでしょ? 本当にやる気なのって」

「言ったよ。そんであたしは反対しないよ。というかあたしも手伝うよ」

「手伝うって」

「結城さんや姉さんには言わない方がいいとは思うけどね」

 僕は混乱してきた。

「叔母さんはいったい僕が何をしようとしていると思ってるの?」

「明日香のために、あの子が何でいきなり襲われそうになったのかを調べるんでしょ」
 あっさりと叔母さんは言った。「そんな危険なことは警察に任せておいた方がいいよっ
て普通の大人なら言うんだろうけどね」

 病室から抜け出して平井さんの後をついて行こうとしたときに、僕はそこまで考えてい
たわけではなかった。ただ、あのときの有希の冷たい視線と言葉が思い浮んだだけなのだ。
でも改めて叔母さんにそう言われると、最初から僕はそうするつもりだったのかもしれな
いと気がつかされたのだ。

 もともとすべきことはわかっていたのだけれど、奈緒とのことが頭を占めていたせいで
はっきりとそれを突き詰めて考えなかっただけなのだ。妹でも彼女でも明日香は僕にとっ
て大切な女の子だ。そのことをここ数日で僕は思い知った。明日香が遊んでいた相手は、
明日香が考えていたような単純な遊び人たちではなく、脱法ドラッグとやらを取り引きし
ているような組織らしいのだ。



139:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:38:55.27 ID:gkMads52o

 僕はひ弱な高校生に過ぎない。そんな僕に対して警察の平井さんや玲子叔母さんが何で
そこまで僕の意思を疑いなく決め付けるのかはよくわからなかった。喧嘩が強いわけでも
なければ頭が切れるわけでもない。それでも明日香のためならばしなければ、いけないこ
とはするだけなのだろう。多分明日香の病室を抜け出して平井さんを追いかけたときから
僕は無意識にそう決めていたのかもしれなかった。

「あたしを除け者にするなよ、奈緒人。あたしたちは家族なんだからさ。家族のためには
あたしたちは結束して立ち向かうのよ」

 叔母さんは大袈裟に言って笑った。でも叔母さんを巻き込むわけにはいかない。玲子叔
母さんは頼りになるけど、それでもやはりやつらから見ればか弱い女性に過ぎない。性格
的に男勝りだとか車の運転が荒いだとか、そんなことはこれから相手にするやつらには通
用しないだろう。ドラッグとかを扱っているような連中なのだから、彼らに目を付けられ
たら叔母さんだって明日香と同じような目に会わないとは言い切れない。

 叔母さんをそんな危険なことに巻き込むわけにはいかない。だから僕はもうこの話には
触れずに言った。

「明日香はいつから学校に行けるのかな」

「それはわからないよ。今日主治医に聞いているけど、少なくとも今週いっぱいくらいは
自宅療養なんじゃないかなあ」

 僕は即座に決心した。奈緒には申し訳ないことになるかもしれないけど。

「じゃあ僕が学校を休んで奈緒の面倒をみるよ」

「悪いね」
 本当に申し訳なさそうに玲子叔母さんが言った。「あたしも今日の午前中休むだけで精
一杯でさ」

「叔母さんのせいじゃないよ」

「結城さんと姉さんも仕事を何とかやりくりするって言ってたけど」

「無理しなくていいって言っておいて。僕が明日香の面倒を見るから」

「・・・・・・わかった」

 玲子叔母さんは最近すぐに涙を見せるようになったらしい。ようやく叔母さんは病院の
駐車場に車を入れた。自宅を出てから一時間以上はかかっていた。

 それから明日香が退院するまでも長かった。叔母さんが会計で治療費や入院費用を支払
うだけで一時間弱は要しただろう。突然の入院だったので荷物なんか全くないのはよかっ
たけど、それからが大変だった。明日香が着替えることになって僕は明日香と叔母さんに
病室から追い出された。でもすぐにまた病室のスライドドアが開いて叔母さんが困惑した
顔を見せた。

「明日香の着替えがないや」
叔母さんが言った。

「そう言えば着替え持ってくるの忘れてたね。とりあえず昨日着ていた服じゃだめな
の?」

「・・・・・・飯田って男に破かれちゃったみたいね。病院の人が畳たんで置いといてくれたん
だけどとても着られる状態じゃないな」

 よく考えれば不思議なことではなかった。奈緒のこととか明日香の告白のこととかそう
いう自分にとっての悩みばかり考えていたせいで、僕はこういう本当に必要なことなんか
何も考えていなかったのだ

「悪い。あたしがうっかりしてた」

 叔母さんはそう言ったけど叔母さんのせいじゃない。むしろ昨日病院を後にしてすぐに
仕事に戻るほど忙しかったのに、明日香の保険証を持ってくることを注意してくれたのだ
って叔母さんだった。学校を休んで明日香の退院に付き添うくらいで僕はいい兄貴になっ
たつもりでいたのだけど、それだけでは何もしていないのと同じだ。

「叔母さんのせいじゃないよ」
 僕は叔母さんに言った。「でも破かれた服とか見たら明日香も思い出しちゃったかな
あ」

「・・・・・・気にしていない様子だけど、多分相当無理していると思うな」

「そうだよね」



140:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:39:43.84 ID:gkMads52o

 PTSDから生じるフラッシュバックのつらさは僕が一番わかっていたはずだったのに。

「家に戻るわけにも行かないからさ、あたしちょっと明日香の服を適当に買ってくるわ。
だからあんたは明日香の相手してやってて。できる?」

 叔母さんがわざわざできるかと念を押したわけはよくわかった。

「うん、大丈夫」

「じゃあちょっと行ってくる」

 病室に引っ込んだ叔母さんに付いていこうとして僕は止められた。

「また入院着に着替えさせるからちょっと待ってて」

 ・・・・・・このとき僕はそんなことすら気を遣うことがきない大馬鹿者になった気がした。

 叔母さんが明日香の服を買いに行っている間、僕は明日香と二人で病室で叔母さんの帰
りを待っていた。明日香は外見的には自分の破かれた服を見たショックを表情に表わして
はいないように見えた。

「結局、学校は何日くらい休めばいいんだって?」

 僕は明日香のベッドの横の丸椅子に座って聞いた。

「今週いっぱいは自宅で療養してた方がいいって先生が言ってた」
 明日香が答えた。「お兄ちゃんと違って勉強とか好きじゃないし休めるのは嬉しいな」

「そんなのん気なこと言ってる場合か」

 僕は明日香に笑いかけた。

「だって正々堂々と休めるなんて滅多にないじゃん」

 明日香も笑ってくれたけど何かその表情は痛々しい。

「とりあえず今朝は母さんが会社からおまえの中学の担任に具合悪いから休ませますって
連絡しているはずなんだけどさ」

「うん」

「明日からはどうしようか。いっそインフルエンザになったことにする? 今流行ってい
るし」

「別に・・・・・・怪我したからでいいじゃん」

「だってそしたら」

 そうしたら担任の先生には理由を聞かれるだろう。いずれ平井さんたちの捜査が進めば
学校にも事実が伝わってしまうのだろうけど、その前に明日香がレイプされそうになって
怪我をしたなんて他人には話したくない。

「あまり気にしなくていいよ。お兄ちゃんも叔母さんも」

 明日香が不意に言った。

「おまえ」

「自業自得だもん。あたしがあんなバカやって飯田たちみたいなやつらと付き合ってなか
ったらこんなことも起きなかっただろうし」

「おまえのせいじゃないよ。か弱い女の子に力づくで何とかしようなんて100%男の方
が悪いに決まってる。おまえが変な連中と付き合ったのは感心しないけど、だからといっ
てこれにはおまえに全く責任はないよ」

「うん。お兄ちゃんありがと」

 病院で会ってから初めて僕は明日香の涙を見た。

「だからおまえが気にすることなんて何もないんだ」

「うん」

 明日香の泣き笑いのような変な表情がそのときの僕には印象的だった。



141:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:40:25.72 ID:gkMads52o

「それにしてもさ、あたしはか弱くなんかないって。奈緒とか有希みたいなお嬢様じゃな
いんだしさ」

「・・・・・・僕にとってはおまえはいつもか弱い危なっかしい妹だよ」

「え」

「前にさ、公園で鳩を追い駆けていた幼いおまえの記憶が残っているって話したことある
だろ」

「それ、きっと奈緒の記憶だよ。年齢が違うもん。あたしたちが初めて出会ったのはそん
なに幼い年じゃないし」

「うん。多分それは僕の思い違いなんだろうけどさ。でもそのときの女の子をすごく大切
に感じたことや僕が守ってやらなきゃって思ってその子を追い駆けていた記憶はすごく鮮
明なんだよね」

「お兄ちゃんは奈緒のことをそれだけ大切に思ってたんでしょうね」

「いや、僕はその子をおまえだとこの間まで信じていたしさ。それでもその幼いおまえの
ことが心配な気持ちは確かに感じてたんだ。事実としては勘違いかもしれないけど、おま
えのことを大切に思った想いだけは本当の感情だと思うよ」

「お兄ちゃん・・・・・・」

「おまえと仲が悪かったときとかおまえが夜遅く帰ってきたときとか、正直関りたくない
と思ったことはあったけど、結局気になって眠れなかったんだよね。僕も」

 病室のベッドに腰かけていた明日香が涙の残った目で僕を見上げた。

「それくらいにしなよ。それ以上言うともう本気でお兄ちゃんを誰にも渡したくなくなっ
ちゃうよ」

「うん。おまえと恋人同士になれるかどうかはともかく、少なくともおまえは僕の妹だよ、
一生」

 僕はだいぶ恥かしいことを真顔で言ったのだけど、そのときはそれはあまり考えずに自
然と口から出た言葉だったのだ。

「・・・・・・まあとりあえずそれで満足しておこうかな」
 泣きやんだ明日香が微笑んで言った。「ヘタレのお兄ちゃんにこれ以上迫ったら逃げ出
しちゃうかもしれないし、それはそれで嫌だから」

「ヘタレって」

「とりあえずあたしはこれで奈緒と同じスタートラインに立てたってことだね」

 明日香が言った。

 僕は黙ってしまった。まだ明日香の気持ちに応えられるほど気持ちの整理はついていな
い。僕は昨晩感じた奈緒への性欲のような衝動を思い出した。

「血が繋がっていないだけ有利だしね」

 明日香が僕に止めをさした。

 それでも叔母さんが帰ってくるまで病室内の雰囲気は穏やかだったと思う。お互いに意
識して微妙なラインの会話を続けながらも、昔よりは確実に僕と明日香はお互いを理解し
合おうとしていたのだ。

 僕が奈緒のことで悩んでいたときに明日香は僕を黙って支えてくれたし、今は僕は同じ
ことを明日香にしようとしている。それは明日香の僕への想いとはかかわりなく、ようや
く僕たちが自然な兄妹の関係に復帰できたということだった。

「パパやママもそうだけどまた玲子叔母さんに迷惑かけちゃったな」

 明日香の担任にどう話そうかという話を蒸し返していたときに明日香がぽつんと言った。

 確かにそのとおりだった。僕と奈緒のことでいろいろ迷惑をかけただけでは足りずに、
今回は叔母さんにはお礼の言いようもないほど世話になったのだ。

 真っ先に病院に駆けつけたのも、すぐに僕に連絡をくれたのも叔母さんだ。そして今日
は半日だけとはいえ多忙な仕事をよそに病院の支払いから明日香の着替えの購入まで面倒
を見てくれている。



142:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:41:25.42 ID:gkMads52o

「昔から姉さんにはあんたたちの世話を押し付けられてたからね」

 僕が叔母さんにお礼を言おうとしても叔母さんはそう言って笑うだけだった。叔母さん
にだって自分の仕事やプライベートな時間だってあるのだろうに、僕たちも両親も叔母さ
んに頼ってばかりだ。

「叔母さんって彼氏いないのかなあ」

 明日香がそう言った。

「さあ? 聞いたことないよね」

「あんなに綺麗なんだから絶対いると思うな」

「確かにそうだ」

 そのとき僕は叔母さんのすらりとした細身の容姿を思い浮かべた。確かにあれで彼氏が
いない方が不自然だ。もっとも性格の方はだいぶ男っぽいので大概の男では叔母さんを満
足させられないのかもしれない。

「玲子叔母さんってパパのこと好きだったんじゃないかな」

 突然明日香がびっくりするようなことを言い出した。

「え? パパって今の父さんのこと?」

「うん。あたしたちのパパのこと」

 女の子の想像というのも随分突飛な方向に暴走するものだとそのとき僕は思った。それ
はまじめに取り合う気もしないほど斜め上の発想だった。

「何でそうなるの」

「叔母さんがパパに話しかけるときの雰囲気とかで感じない? 何か甘えているような感
じ」

「どうかなあ。特には気がつかないな」

「ママがいる時は普通の態度なのよ。でもさ、この間の夜みたいにママがいなくてパパと
かあたしたちと一緒にいる時の叔母さんって、すごくはしゃいでててさ。パパに話しかけ
るときの様子とか何か可愛い女の子って感じじゃん」

「それは思いすぎだと思うけどなあ。第一叔母さんにだけじゃなくて母さんにだって失礼
だろ、そんな想像は」

「でもそう感じるんだもん」

 明日香が頑固に言い張った。

「ママとパパって幼馴染で、大学のときに再開してそれで社会人になってからパパの離婚
を経てようやく結ばれたんでしょ」

「叔母さんはそう言っていたね」

 僕はそのときに父さんと母さんの馴れ初めを始めて聞いたのだった。僕の本当の母さん
と父さんとの別れの原因を聞くのと一緒に。

「ママと叔母さんは十三歳年が違うんだ。すごく年の離れた姉妹なんだって」

 その辺の事情を詳しく聞いたことはなかったけど、以前から叔母さんと母さんが年齢が
離れていることだけは何となく感じていたことだった。

「ママが今度四十三歳でしょ?」

「そういや母さんの誕生日って来月じゃん。今年は一緒にプレゼント買おうか」

 これまで仲が悪かった僕たちは母さんへのプレゼントをそれぞれ別々に用意していたの
だ。母さんは平等にそれを喜んでくれたのだけど。

「いいけど。って今はそういう話じゃなくて。パパとママが大学時代に再会したとき、叔
母さんは小学生にはなっていたわけだし、そのときパパに淡い初恋をしたっておかしくな
いじゃん」

「どうでもいいけど、それ全部状況証拠っていうか思い込みだろう」

「可能性の話だよ。あと再婚の頃は叔母さんだって二十歳を過ぎていたんだから、あらた
めてパパに対する禁じられた報われない恋に泣いていたとしても不思議はないでしょ。顔
には祝福の笑みを浮べながら。叔母さんかわいそう」



143:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:42:20.13 ID:gkMads52o

 叔母さんにここまで世話になったと言いながら明日香はさっそくこれだ。でも叔母さん
には悪いけどこういう話で明日香が重苦しい気持ちを忘れられるならむしろ大歓迎だった。
もっとも叔母さんの前ではこういう話をしないように釘はさしておかなければならないけ
ど。

「叔母さん、もてそうだし彼氏とか作って結婚しようと思えばすぐにでもできそうなのに
ね」

 僕は言った。それは本音だった。むしろ僕たちの世話を焼くことが叔母さんの邪魔にな
っているのかもしれない。あとは殺人的に多忙な仕事もそうだろうけど。

「何よ。お兄ちゃん、玲子叔母さんのことが気になるの?」

 明日香が少しだけ真面目な顔で僕を睨んだ。

「ば、おまえ何言って」

「確かに叔母さん綺麗だもんね。よく考えたらお兄ちゃんとは血が繋がってないし」

「おまえ、いくらなんでもそれは叔母さんに失礼だろう」

「・・・・・・何で本気で赤くなってるのよ」

「なってねえし」

「お兄ちゃんってパパに似てるしね。叔母さんもパパに似ているお兄ちゃんのことが気に
なっていたりして・・・・・・それも男性として」

「おまえ・・・・・・怒るぞ」

 明日香は僕の精一杯の威嚇なんか少しも気にしていないようだった。

「考えてみればパパと叔母さんは十五歳違いだけど、お兄ちゃんと叔母さんは十三歳違い
だもんね。パパよりお兄ちゃんのほうが叔母さんに年齢が近いじゃん」

 明日香の冗談に付き合っているときりがない。でも僕はそのとき叔母さんのすらりとし
た容姿を重苦しく思い出した。女帝の率いるボーイズギャング団のことを思い出したから
だ。そいつらは女帝が現われてからは女の人を襲ったりとか、道端で強盗まがいのことを
しなくなったと平井さんは言っていた。そのかわり脱法ドラッグを組織的に仕入れて売る
という暴力団まがいの商売を始めたのだ。一見大人しくなったようだけど危険な連中であ
ることに違いはなかった。本当に女帝という女が実在するとしたら、僕が探ろうとしてい
ることは相当に危険なことに違いない。叔母さんは僕と一緒にその探索をすると意気込ん
で言っていたけど、やはりそれだけは阻止しなくてはならない。これから探ろうとしてい
る連中は、相手が大人だからといって遠慮したり恐れたりする相手ではなさそうだ。深入
りすれば叔母さんだって明日香と同様に飯田のようなやつに何かひどいことをされてしま
う危険がある。

「まあ、あたしは相手が玲子叔母さんでも奈緒でも有希でも、お兄ちゃんを譲る気なんて
ないんだけどね」

 明日香が叔母さんのことから話を変えた。僕はあのとき逃げ去っていった明日香を見送
って以来初めて彼女の口から有希の名前を聞いたのだ。明日香もそのことに気がついたよ
うだった。彼女の表情が曇った。



144:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:43:28.08 ID:gkMads52o

 明日香が笑顔を消して何か話し出そうとしたとき、叔母さんがどこかのショップのブラ
ンドロゴの記された紙のバッグを提げて病室に入ってきた。

「ちょうど先月号で見本を提供してもらったショップを思い出してさ、考えたらこの病院
のすぐそばにあるんだったよ」

 叔母さんが持ってきたショップのロゴは僕には初めて見かけるものだったけど、明日香
はそれを見て曇っていた顔を輝かせた。

「え、これJASPERじゃん。こんなの貰っていいの?」

「たまには明日香にプレゼントしてもいいかなって。高いんだぞ大事にしろよって・・・・・・
奈緒人、あんたどうかしたの?」

「お兄ちゃんはね、叔母さんのこと」

 明日香はとりあえず有希のことを忘れたように、嬉しそうに何かを喋りだそうとした。
嫌な予感がした僕はこいつに飛び掛るようにして口を押さえた。

「何すんのよ! 離してよお兄ちゃん」

「これこれ病院でいちゃいちゃするのやめろ」

 叔母さんが飽きれたように笑った。

「違うのよ。ねえ叔母さん、聞いて聞いて。お兄ちゃんって叔母さんのこと、うう!」

 僕は辛うじて明日香の口を抑えることができた。全く。明日香の悪ふざけにも程がある。

「おいもういい加減にしろよ」

「叔母さんの前だからって照れちゃって」

「おい」

「はいはい。着替えるからお兄ちゃんは出て行ってよ」

「あ、うん。余計なこと言うんじゃないよ」

「わかったから出て行ってよ・・・・・・それとも見たい? て痛い」

 叔母さんが明日香の頭をグーで軽くぶったのだった。

 僕は病室の外で少なくともニ、三十分は待たされたんじゃないかと思う。その間に室内
からは楽しそうな話し声が聞こえてきたので、叔母さんが僕のことを好きだとかという悪
質な冗談を話し合っていたのではないらしい。もちろん叔母さんのことを女性としてどう
こう思う気持ちなんかないし、明日香にしたって冗談で言っているだけなのはわかってい
たけど、身内に関するこういう冗談は気まずい。それでもつらい目にあった明日香がはし
ゃいでいる様子を見るのは正直ほっとした。だからとても気まずいけれど、僕は叔母さん
に関する明日香の悪ふざけを本気で怒る気はなかったのだ。

 さいわいなことに病室の外の廊下で待たされている間に室内から聞こえてくる明日香と
叔母さんの会話は主にファッション関係の話らしかった。明日香の興味が叔母さんが買っ
てきた服の方に移ったみたいだ。

「お待たせ」

 ドアが開いて明日香と叔母さんが並んで出て来た。顔や腕にまだ包帯が巻かれているの
で痛々しい感じは残っているけど、新しい服に着替えたせいか明日香はだいぶ元気な様子
に見えた。

「ほら、この服ちょっと大人っぽいでしょ」

 明日香が僕に言った。

「こないだまでの明日香のファッションはケバ過ぎて見ていられなかったからね」
 叔母さんが笑って言った。「これくらいシックな方がいいよ」

 こうして明日香と叔母さんが並んで立っているとまるで少し年の離れたお洒落な姉妹の
ようだ。とても叔母と姪には見えない。

「じゃあ帰ろうか。さすがに少し急がないと午後の約束に遅れそうだよ」

 叔母さんが言った。



145:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:44:36.57 ID:gkMads52o

 叔母さんが車を病院の入り口にまわしてきたので、まず僕が狭い後部座席に乗り込んだ。
明日香が無事に助手席に座ったのを確認してから叔母さんは車を発進させた。

「雪が降ってる」

 明日香が走り出した車の中から外を見て言った。朝、病院に向かっているときは陰鬱な
曇り空だったのだけど、病院を出る頃には細かい雪がちらほらと空から舞い落ちてきてい
た。

「こんなんじゃ積もらないだろうね」

「積もらなくて助かるよ。明日香は今週は登校しないからいいだろうけど、毎日出勤する
方の身になれよ」

 叔母さんが笑って言った。

「だって叔母さんは好きで今の仕事してるんだからいいじゃん」

「それはそうだけど・・・・・・ってそんなこと誰から聞いたの」

「パパが言ってた。玲子ちゃんは好きな仕事しているだけで幸せだからなって」

 叔母さんが顔をしかめた。

「何で結城さんがそんなこと言ったんだろ」

「叔母さんって何で結婚しないのってあたしがパパに聞いたの。そしたらパパがそう言っ
た」

「何であんたはそう余計なことを結城さんに聞くのよ」

「何でって言われてもなあ。ねえねえ、叔母さんってパパのこと好きだったの?」

「な、何言ってんのよ明日香」

 叔母さんが狼狽したように口ごもった。

「叔母さん、前! 前の信号、赤だって」

 僕の警告に気が付いた叔母さんは横断歩道の手前でタイヤを軋ませて車を急停止させた。
車を急停止させた叔母さんは真っ赤な顔でじっと目の前の革張りの高価そうなステアリン
グを見つめていた。



「ちょっとやりすぎちゃったかなあ」

 叔母さんはあの後あまり喋らなくなった。そして明日香と僕を自宅に送り届けるとそそ
くさと車を出して仕事に戻ってしまったのだった。明日香はリビングのソファで怪我をし
た部分を当てないように上手に横になってくつろいでいた。手元にはテレビのリモコンま
で引き寄せているところを見ると、こいつは今日は自分の部屋ではなくリビングで過ごす
気になっているようだ。

「ちょっとなんてもんじゃないだろ。叔母さん、あれからあまり話してくれなくなっちゃ
ったじゃないか」

「だって気になるんだもん」

 年上の叔母さんのそういう感情面みたいな部分を話すことに僕は違和感のようなものを
感じた。さっきの病室での明日香の冗談だって居心地が悪かったし。だけど今は明日香が
襲われた話とか有希の話とかをするよりも、こういう話をしていた方が明日香にとっては
気が楽だろうとさっきも病院で考えたばかりだ。だから僕は無理に話を遮らずその話に付
き合うことにした。

「叔母さんだってもう三十じゃない? あんだけお洒落で綺麗なのにいつまで独身でいる
つもりだろ。男なんていくらでも捕まえられそうじゃん」

「確かに綺麗だけどさ。叔母さんって性格は男っぽいからなあ」

「お兄ちゃんってやっぱキモオタ童貞だけあって女のこととかわかってないのね」

 随分な言われようだけど明日香の言葉には以前のようなとげはなかった。

「それは反論できないけど」

「叔母さんのしっかりとした態度なんて職場とかあたしたち向きの演技だよ、きっと」

 明日香が随分うがったことを言った。



146:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:46:33.68 ID:gkMads52o

「そうかなあ」

 車の趣味とかきびきびした決断の早い行動とかがあいまって叔母さんを男っぽく見せて
いるのだろうけど、その全部が演技だというのはさすがに素直には受け取り難い。

「男と同じに扱われる職場だってまえに叔母さんも言っていたし。それに叔母さんが両親
があまりそばにいてくれないあたしたちと一緒に過ごしてくれるときってさ」

「うん」

「多分必要以上に頼りになる叔母さんを演出してくれてたんだよ、今まで」

 それはあまり考えたことのない視点だった。たしかにそういうことはあるかもしれない。
叔母さんは以前から好んで僕たちの世話を焼いてくれていたし、まだ幼かった頃の僕たち
に対して安心感を与えようとしてくれていたのかもしれなかった。小さい頃から叔母さん
にべったりだった明日香も今までただ甘えていただけではないらしい。明日香は叔母さん
の心の動きまで察していたようだった。

「本当は叔母さんだって普通の女の子だと思うよ。まあ三十歳になるんだから女の子って
ことはないんだけど」

「女の子ってことはないだろ・・・・・・。そういや叔母さんって誕生日いつだっけ?」

 僕はふと思いついて言った。

「八月でしょ」

「叔母さんの誕生日にも一緒にプレゼントしようか。お世話になってるんだし」

 明日香はそんな僕の提案を瞬時に却下した。

「叔母さんに喧嘩売るつもりならお兄ちゃんが一人でプレゼントしたら? ケーキに三十
本ろうそくを立てて渡しなよ・・・・・・そんな勇気がお兄ちゃんにあるならね」

 三十になる女の人は誕生日なんて喜ばないのだろうか。

「だいたい何でそこでプレゼントなんて発想がでてくるの? お兄ちゃんて中学生の女の
子が好きなロリコンだと思ってたけど、冗談抜きで年上属性もあるの? て痛い」

 僕はさっきの叔母さんを真似て明日香の頭を軽く叩いたのだ。明日香とこんなコミュニ
ケーションが取れるなんて不思議で少しだけ幸福感を感じる。

「何すんのよ」
 明日香が文句を言ったけど、以前の明日香だったら本気でつかみ合いの喧嘩になってい
ただろう。

「あたしさ、パパとママの仲が壊れるなんて絶対に嫌なんだけど、それでもどういうわけ
かママがいないときの叔母さんとパパの雰囲気とか会話とかは大好きなんだ」

 そういえば年末にもそういうことがあった。明日香の言うように叔母さんが父さんのこ
とを好きなのかどうかはわからないけど、確かにあのときの二人は親密な感じだった。

「それはわかるような気はするけどさ。それにしても僕は叔母さんのことをどうこうなん
て全く思っていないぞ。洒落にしてもしついこいよ」

「そうかなあ」

 ちょっと真面目な顔で明日香が呟いた。

「マジで言うんだけどさ。お兄ちゃんって本当のママの記憶ってあまりないんでしょ」

「うん。ほとんどない」

「うちのママだってあまり家にいないしさ。お兄ちゃんにとってのママの役って玲子叔母
さんが引き受けてたんじゃないかなあ」

 僕は不意をつかれた。確かにそういうことはあるかもしれない。僕は昔から叔母さんに
は懐いていた。去年母さんと明日香とは血が繋がっていないことを知らされたとき、しば
らくして僕は叔母さんとも血縁関係になかったことに気がついた。それからの僕の叔母さ
んへの態度は不自由で不自然なものになってしまった。でもこの間の夜、叔母さんは僕に
敬語を使うのはよせと言ってくれたのだ。僕が叔母さんの言葉に従ったとき、叔母さんは
目に涙を浮べてくれていた。

 明日香のことや奈緒のことで僕が自分でも気が付かずにどんなに叔母さんを頼っていた
か。明日香の言葉で僕は改めて真面目に考えた。

「叔母さんだってお兄ちゃんのことすごく大切にしているしね」

 明日香が言った。



147:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:47:24.13 ID:gkMads52o

「でも、真面目な話だけど叔母さんを口説いたりしたらお兄ちゃんのこと許さないから
ね」

 そのとき自分でもようやく気が付いた叔母さんへの僕の真剣な慕情を明日香が無神経に
ぶち壊した。この恋愛脳のばか妹はまた話をそっち方面に持っていったのだ。

「だから何を言ってるんだよ。叔母さんは僕にとっては母親代わりみたいなものだって自
分で言ったばっかじゃないか」

「血が繋がっていない母性ってさ、互いに恋愛感情になりやすいって思うんだ」

 そんなことを考えていたのか、こいつは。人のことは言えないけどちょっと恋愛系の漫
画とかの読みすぎではないのか。それも少女漫画というよりレディースコミックのような
やつを。

「・・・・・・あたしさ」
 明日香が声を低くして言った。「なんか玲子叔母さんとお兄ちゃんが二人きりで笑いあ
っていたり話しをしていたりするところを見ていると何か胸がもやもやする」

「そろそろ洒落になんないよ。もうよそうよ」

「まあ、半分は冗談だけどね」

 半分は本気なのかよって僕は思ったけどこの話題はもう終わりにしたかった。

「まあ、あたしは相手が玲子叔母さんでも奈緒でも有希でも、お兄ちゃんを譲る気なんて
ないんだけどね」

 明日香が突然さっき言ったセリフを蒸し返した。

「有希さんのことはもういいよ。確かにおまえのしたことは感心しないけど、おまえなり
に僕のことを心配してくれたんだろうから」

 明日香が僕の方を真っ直ぐに見た。

「有希はお兄ちゃんのことが好きだよ。自分でもそう言っていたし」

「うん、知ってる。有希さんから直接聞いたよ」

「そうなんだ。あたし有希のことを応援しようと思ったの。有希とお兄ちゃんがくっつけ
ばお兄ちゃんは奈緒のことを忘れてくれるかも知れないって思って」

「だからわかってるよ。もういいんだ」

「でも有希のことをあたしは裏切っちゃったの。有希を応援するなんて言って有希をけし
かけておきながらお兄ちゃんに告白なんてしちゃてさ。しかもそれを有希に聞かれたんだ
から、有希が怒るのも無理はないの」

 でも今となってはそれは多分明日香が思っているような単純な話ではない。有希は女帝
かもしれないのだ。その有希が本気で僕を好きになったのかは考えただけでも疑わしい。
最初に有希に近づいたのは明日香の方みたいだけど、仮に有希がギャング団の女親分だと
したら明日香ごときに誘われるままに僕たちと冬休みを一緒に過ごしたり、僕のことが好
きだなんて告白したりするだろうか。

 やはり有希には何か目的があるのだ。そして有希に不用意に接近してしまった明日香の
身の安全のためにも、僕はその理由を探らなければならない。

 どういうわけか平井さんも玲子叔母さんも最初から僕がそうすることに疑いを抱いてい
なかった。いったい何でかはわからないけど。それを明日香に言う必要はない。だから僕
は明日香にこう言った。

「有希さんのことはもういいよ。そしてもう有希さんには近づかない方がいい。下手に謝
ろうなんてしたらかえって彼女を傷つけると思うよ」

「ちゃんと謝りたかったんだけどな」

「もう関わりになる必要はないよ。おまえが本気で僕のことを好きならなおさらね」

「お兄ちゃん、あたしの愛情を疑っているの?」

 何とか明日香の気持ちを逸らすことができた。これ以上明日香は有希と関ってはいけな
いのだ。そのとき僕は一番大切な話をまだ明日香にしていなかったことに気がついた。

「それよりさ。奈緒と会ったんだ」

「え」

 明日香はすぐに有希のことを忘れて奈緒の話に食いついた。

「何でよ? もう会わないって約束したじゃない」



148:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:49:08.36 ID:gkMads52o

 僕は昨日叔母さんに話したことを繰り返した。奈緒に待ち伏せされ詰られたこと。その
後フラッシュバックを起こした僕が口走ったセリフによって、奈緒は僕が引き離された実
の兄だと気づいたこと。明日香は驚いたように口も挟まずに話を聞いていたけど、僕と奈
緒がこれからは再会した兄妹としてずっと一緒にいようと約束をしたあたりで不服そうな
顔をした。

「それって結局、奈緒とお兄ちゃんはこれまでどおり朝一緒に登校するし、お兄ちゃんは
毎週土曜日にはピアノ教室に奈緒を迎えに行くってこと?」

「まあ、そうだね」

「・・・・・・なんか別れた恋人同士がよりを戻したみたいに聞こえるんだけど」

「そんなわけあるか。これから兄妹として仲良くしていこうってことだよ」

「兄妹ってそんなにいつもベタベタ一緒にいるものだっけ」

「最近は僕だっておまえといつも一緒じゃん」

「お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃないし」

 正しい日本語にはなってないけど、明日香の言うことも理解できた。同時にいい兄妹に
なるはずの兄の方が、今でもまだ妹になったはずの奈緒に対して抱いている性的な情欲の
ことも心に浮かんだのだけどそれは胸のうちにそっと仕舞っておいた。

「お兄ちゃん?」

 明日香が静かな声で言った。今までとは違う真剣な声を聞き、僕は妹の顔を見た。

「お兄ちゃんは本当にそれでつらくならない?」

「え」

「好きになった、とっても好きになった女の子が自分の実の妹だってわかって、それでも
お兄ちゃんは平気なの」

 それは僕の悩みを的確に指摘した言葉だった。本当にそのとおりなのだ。記憶のない僕
が妹の奈緒と再会して、自分の初めてできた大好きな彼女を失って、それでもなお何で奈
緒と一緒に登校したり、奈緒をピアノ教室に送迎したりしようと思えるのか。

「お兄ちゃんがそれでも平気ならあたしは何も言わない。言う権利もないと思うし」

「権利って。おまえは僕のことを助けようとしてくれたんだし」

「それでもね」

 男たちにひどい目に合わされ、入院して退院した今まで、気丈だった明日香の声が初め
て気弱な響きを帯びた。

「勝手なことを言うね。奈緒と会ってお兄ちゃんがつらいなら、お兄ちゃんは奈緒に会う
べきじゃない」

「妹なんだぞ」

「奈緒がお兄ちゃんに対して復讐心を抱いているなら、お兄ちゃんはもう奈緒のことは忘
れた方がいいよ」



149:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:49:57.87 ID:gkMads52o

第二部



 もう十年も前になる。

 それはすごく暑い日だったけど、家庭裁判所の隣にある公園は樹木が高く枝を張り、繁
茂している緑に日差しが和らげられていて、申し訳程度にエアコンが働いている家裁の古
びた建物の中よりよっぽど快適だった。あれは大学二年の頃だったから、今から思うとあ
たしがまだ保育園に通っていた姪の明日香を公園で遊ばせていたのは2003年のことだ
ったと思う。

 明日香は涼しい木陰には片時もじっとしていなくて、あたしは炎天下の中を喜んで駆け
回っている明日香を汗だくになりながら追い駆ける羽目になった。小さい子どもだから無
理はないけど、明日香は二年前に父親を事故で亡くしたことなんかもうすっかり忘れてい
て、その日もちっとも大人しくせずにはしゃぎまわっていた。

 本当なら今頃は飛行機に乗って北海道に向かっているはずだった。大学のサークルの合
宿がちょうどこの日から始まっていたのだ。あたしは随分サークルの合宿を楽しみにして
いた。サークル内に気の合う女の子たちがいっぱいいたということもあるけど、密かに気
になっていた先輩が北海道出身で、自由時間があればあたしをいろいろ案内してあげるよ
って言ってくれていたということもあった。

 大学二年生だったあたしはいろいろな事情もあって、高校時代に期待していたような充
実した楽しい大学生活を送っていたとは言えない状況だった。音楽関係でもしたいことは
あったし、彼氏だって作りたかった。アルバイトもしてみたかったし、同じクラスの子た
ちと講義の後でカフェに集って気になる男の子の話だってしたかった。

 でもこればかりは仕方がない。姉さんの旦那が交通事故で突然の死を遂げてから、あた
しは落ち込んでいる姉さんを必死で励ましたし、一時期姉さんが育児を放棄したときは姉
さんに代わって両親と一緒に姪の明日香の面倒もみた。あの頃は毎日自殺しかねない暗い
顔の姉さんを一生懸命励ましながら、明日香の保育園の送り迎えをするのが大学で講義を
受けていないときのあたしの日課だった。

 姉さんと姪のためだからあたしはそれを当然だと思って引き受けたし、そのことで姉さ
んや明日香を恨みに思ったことはなかったけど、あたしの大学生活はスタートから入学前
に期待したようなものでなくなってしまったことも事実だった。それでも必修の講義のカ
リキュラムを何とかこなして、希望を持って入会したサークルでは幽霊部員扱いされなが
らも、あたしは必死で姉さんを支えた。もともと姉さんとは十歳以上も年齢が離れていた
せいもあって、これまでは姉さんに頼ってきたのはあたしの方だった。その姉さんが抜け
殻のようになってかろうじて自分の仕事だけを必死で守っていた姿を見たとき、あたしは
自分が大学生活に期待していた多くのことを捨てる決心をしたのだ。

 あたしは公園の涼しい木陰を抜け出して噴水の水に手を差し伸べてきゃあきゃあと楽し
そうに一人で遊んでいる明日香を目で追いながらサークルの夏合宿のことをぼんやりと考
えた。今頃はサークルのみんなは飛行機の中で盛り上がっているだろう。滅多にサークル
に顔を出せないあたしに合宿の案内を手渡して誘ってくれたのは気になっていた先輩だっ
た。

「君の同期の女の子たちから頼まれたんだ。玲子ちゃんは家庭の事情で忙しいみたいだけ
ど、せめて合宿くらいは参加してほしいから僕から声をかけてくれって」

 先輩はそんなに目立つ方ではなかったし、あたしだってあのことさえなかったら先輩を
好きになろうなんて思わなかったかもしれない。それは先輩にはすごく失礼なことだった
けど。木管楽器を専攻していた先輩は穏やかでいつも笑顔を浮かべていた。他の先輩たち
と異なり音楽上の野望もないようで故郷の北海道で音楽の教師をしたいということだけが、
先輩の唯一の望みだと聞いていた。もともと将来への夢でぎらぎらしている学生で溢れて
いたこの大学では、そういう堅実な姿勢は珍しかった。あたしが先輩のことを気にしたの
はそのことを友だちから聞かされたからかもしれない。

「君にも事情があるだろうしあまり無理は言えないけど、できるなら合宿に参加した方が
いいよ。知り合いも増えるしね」

「それに」」

 先輩はそこで少し顔を赤らめて照れたように続けた。

「自由時間には君をあちこち案内してあげるよ。北海道はいいところだよ」

 その言葉がしばらくの間あたしの胸の中に留まってぐるぐると渦巻いた。先輩のような
人と恋におちて将来北海道で教員をしている先輩と共に暮らすという考えがあたしの心を
捉えて離さなかったのだ。今から思うと随分先輩には失礼な話だっと思う。先輩のことが
気になっていたのは嘘じゃなかった。でもそれは本気の恋ではなかったのだ。

 姉さんが立ち直って少しづつ元気を取り戻したのは偶然に結城さんと再会したからだっ
た。あたしは以前のように笑顔を見せるようになった姉さんのことが嬉しかった。姉さん
が久しぶりの笑顔で明日香を抱き上げる様子を見ると、依然として大学生活には未練があ
ったあたしも明日香の世話をすることがあまり苦にならなくなってきた。幼馴染だった結
城さんと姉さんの再会と交友関係の復活が恋愛関係に変化するのに時間は不要だったみた
いだった。姉さんは結城さんの存在に心の平穏を見出したのだ。



150:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:50:38.79 ID:gkMads52o

 その頃の結城さんは自分の海外赴任中に、元彼と浮気した挙句、大切な子どもたちをネ
グレクトした奥さんと離婚協議中だった。でもそれさえ片付けば二人は結ばれて改めて幸
せな家庭を築けるだろう。こうして姉さんが旦那の不慮の死から立ち直っていくことは嬉
しかったし、実家の両親も素直に喜んだので、姉さんの旦那さんの死後、暗くなっていた
家の雰囲気もよくなっていった。それでもこの変化によって新たな問題も生じた。それは
主にあたしの個人的な問題だった。あたしは姉さんに紹介されて初めてあった結城さんに
恋してしまったのだ。そしてその不毛な恋から逃れようとあたしは気になっていた先輩が
好きになったのだと自分に言い聞かせ、そう思い込もうとしていた。

 いつのまにか明日香は公園の中央にある芝生のところで同じ年くらいの女の子と遊びだ
していた。この年代の子どもたちが仲良くなるなんて実に簡単なことらしい。明日香とそ
の女の子は手をつないで一緒に逃げ惑う鳩を追いかけていた。明日香の足取りもその女の
子の足取りも危う気だった。互いに走る速度が違うのにお互いに手を離そうとしないから
これではすぐにでも転倒しそうな感じだ。さいわいにも地面は芝生が張ってあるし転んで
もどうってことはないとあたしは思ったけど、すぐに考えを改めた。よその子どもを怪我
させてしまうとまずい。あたしは物思いにふけるのを中断して明日香を止めようと思った。

 そのとき小学生くらいの男の子が二人の後を追い駆け出した。

「こらナオ。あんまり走ると危ないよ」

 男の子の澄んだ声が響き渡った。

 その男の子のことは目に入っていたのだけど、この子が明日香と一緒に遊んでいる女の
子の連れだとは思わなかった。この子は女の子のお兄さんなのだろう。その子の声や表情
には妹を大切にしている様子が窺われてあたしは思わず微笑んだ。兄弟っていいものだ。
あたしだって姉さんのためにいろいろと自分を犠牲にしてきたのだけど、そのことで本気
で姉さんを恨んだことはなかった。血の繋がりってすごいんだなとあたしその子を眺めな
がら考えた。

 男の子は明日香たちに追いついて二人の無謀な冒険を止めさせた。

「あたしたちはころばないもん」

 妹の方が口をとがらせて男の子に反抗した。

「でも転びそうになってたじゃん」

「なってない。お兄ちゃんのうそつき」

 やはりこの二人は兄妹なのだ。

「なってたよ」

 男の子のほうも譲る気はないようで頑固に妹に向かってそう言い張った。

「なってない! ねえ明日香ちゃん」

「そうだよねー。ナオちゃん」

 いつの間にかお互いの名前を教えあっていたらしい。ナオという名前を聞いたとき、あ
たしは公園に隣接した古い建物に集合して話し合いをしている人たちのことを思い出した。
今日あたしは結城さんと一緒に話し合いに参加している姉さんの代わりに明日香の面倒を
見ていた。どうせなら実家で明日香の面倒をみていた方が楽なのだけど、最近やたらに明
日香のことを構うようになった姉さんが自宅を出ようとしただけで、明日香の機嫌が悪く
なったのだ。それであたしは明日香と一緒にこんな場所に来ていた。

 今日は確か結城さんも子どもたちを連れて来ていたはずだった。結城さんの両親が通院
する日だとかで子どもたちの面倒を見る人がいないという話だった。結城さんと姉さんは
家裁のロビーで待ち合わせをしていたから、あたしは家裁の建物に入らずに明日香を連れ
て公園に来たのだった。

 目の前にいる二人はやはり結城さんの子どもなのだろう。名前も奈緒人と奈緒で事前に
聞いていた話と一致する。あたしは三人がもつれ合うようにして会話をしている芝生の方
に向かった。

「こんにちは奈緒人君、奈緒ちゃん」

 このときの奈緒人は少し警戒したようにあたしを見たのだった。そして奈緒ちゃんの手
を握って自分の背後に隠すようにした。その警戒心にあふれた彼の仕草は、この兄妹がこ
れまでどんなに過酷な生活を強いられてきたかを、そして兄妹の絆がどんなに強いのかを
物語るものだった。あたしは胸の痛みを誤魔化して無理に奈緒人に笑いかけた。

「心配しないでいいよ。お姉ちゃんは奈緒人君のパパの友だちだよ」



151:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:51:37.47 ID:gkMads52o

 父親のことを聞いて奈緒人は少しほっとしたように警戒を解いてくれた。

「おばさんはパパのお友だちなの」

 奈緒人は気を許してくれたようだった。

 奈緒人の目を見たときあたしはもう間違いないと思った。奈緒ちゃんはともかく奈緒人
は結城さんにそっくりだった。

「でも奈緒人君と奈緒ちゃんの面倒は誰がみるの?」

 今日明日香を連れて家裁まで来る途中であたしは姉さんに聞いた。

「安心して。いくらなんでも初対面の子どもたちの面倒を玲子にみれくれとは言わないか
ら」
 本来なら相当緊張していてもいい場面なのに、姉さんは笑って言った。「玲子は明日香
を見ていてくれればいいよ。結城さんが言ってたけど奈緒人君って年齢のわりにはすごく
しっかりしてるんだって。それに奈緒ちゃんは奈緒人君が大好きだから、奈緒人君がいれ
ば大丈夫だって結城さんは言ってたし」

 確かに奈緒人がいれば奈緒ちゃんは大丈夫だろう。実際にこの二人を見ていたあたしも
そう思った。年齢の割には奈緒人はすごく大人びている印象だった。きっと奈緒ちゃんを
守るためにそうならざるを得なかったのだろう。こんな子どもにそこまでの生活を強いた
人がすぐ隣の家裁に来ているのだ。そのとき初めてあたしは見たこともないこの二人の母
親に憎しみを覚えた。

「ねえ、お姉さん喉が渇いちゃったんだけどみんなでジュースを飲もうか。ソフトクリー
ムでもいいよ」

 公園の隅にワゴンが出ていてジュースやらソフトクリームやらを販売していることにあ
たしは気がついていた。姉さんの彼氏の子どもたちなんだからあたしがまとめて面倒をみ
たって叱られはしないだろう。

「おばさんいいの?」

 その頃の奈緒人は小学生の割には随分遠慮がちな子どもだった。いや遠慮がちなのはあ
れから十年たった今でも同じだ。

「あのさ、あたしのことは玲子お姉さんって呼んでね」

 この年でおばさん呼ばわりされるのはかなわないので、あたしは奈緒人にそう言い聞か
せた。

「何でなの? あたしはいつも叔母さんって呼んでるじゃん」

 無邪気な声で明日香が余計なことを言った。あんたの呼んでいる「叔母さん」とこの二
人がいう「おばさん」じゃ意味が違うのよ。あたしはそう言いたかったけどそれをこの無
邪気な子どもたちに上手に説明できる自信はなかった。

「玲子叔母さんっていうんだよ」

 明日香が奈緒人に教えた。それでその時から今に至るまであたしは奈緒人に叔母さんと
言われ続けている。



 公園の隅のワゴンであたしはソフトクリームを買って子どもたちに渡した。そろそろ正
午に近い時間で、あたしと明日香が公園に来てから一時間以上も経っている。もう三人は
すっかり打ち解けていた。奈緒人が結城さんに似ていたせいで、ともすればあたしの視線
は彼に釘付けになっていたのだけど、よく見ると妹の奈緒ちゃんはすごく可愛らしい子だ
った。身びいきではなく明日香も可愛い子だと思っていたのだけど、外見の整っているこ
とでは奈緒ちゃんの方に軍配が上がった。

 明日香と仲良しになったらしい奈緒ちゃんだけど、彼女の視線はすぐに奈緒人の姿を求
めていた。途中、奈緒人はあたしに奈緒ちゃんを託して公園のトイレに行った。明日香と
夢中になってお喋りしながらソフトクリームを舐めていた奈緒ちゃんは、奈緒人がそばに
いないこと気がつくとパニックにおちいったのだ。

 突然泣き出した奈緒ちゃんを抱きしめて宥めていたあたしは、奈緒人が帰ってくるのを
見つけてほっとした。奈緒ちゃんはあたしの手から抜け出して奈緒人に抱きついた。

 離婚調停では結城さんの奥さんは二人の親権を主張していて折り合いがついていない。
でもまだ幼い奈緒人と奈緒ちゃんをここまで追い詰めた母親にそんなことを言う資格はあ
るのだろうか。結城さんの離婚に関しては全く口を出す気もその資格もないあたしですら
そう思った。この子たちは結城さんと姉さんに引き取られた方が絶対に幸せになれるだろ
う。いや、幸せになれなくても少なくとも普通の子どもと同じ生活は送れるに違いない。
姉さんが再婚後にも仕事を続けるのなら、そうしたらそのときはあたしがこの三人の面
倒をみてもいい。さっきまでサークルの北海道合宿に未練たっぷりだったあたしだけど、
このときは本気でそう思ったのだ。



152:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/20(土) 23:52:20.55 ID:gkMads52o

 このとき結城さんと姉さんがワゴンのそばにいるあたしたちに気がついて、連れ立って
あたしたちのところに来た。

「あら、結局一緒にいたんだ」

 姉さんが微笑んだ。

「玲子さん、奈緒人たちの面倒までみてもらってすいませんでした」

 結城さんもあたしにそう言った。

「パパ」

 奈緒ちゃんが奈緒人から離れて結城さんに抱きついた。

 あれから十年経った。結局結城さんは奈緒ちゃんを引き取ることはできなかったのだけ
ど、奈緒人だけは結城さんと姉さんの新しい家庭で明日香と一緒に兄妹として育った。
あれからあたしの結城さんへの恋はあたしの心の底に深く隠されていて、あたしは誰に
もそのことを悟られなかった自信があった。

 再婚しても姉さんは仕事を止めなかったので、前ほどではないけどあたしは大学を卒業
するまで引き続き明日香の面倒をみた。あたしは当然、新たに姉さんたちの家族の一員と
なった奈緒人の面倒も一緒にみようとしたのだけど、奈緒人は明日香とは異なり全く手の
かからない子どもだった。

 奈緒と二人で脱走する途中で保護されて、結局奈緒ちゃんとつらい別れを経験した奈緒
人は、その後は一度もあたしに奈緒ちゃんの名前を出すことはなかった。まるで記憶から
すっぽりとその部分が欠落したように。

 あたしは先輩とは何の進展もなく、高校時代に夢想したような充実した大学生活を送る
ことなく大学を卒業した。もちろん演奏家になることもなかった。それでも運がよかった
のだろう。あたしは大手の出版社に入社した。最初は自社で出版している雑誌の広告を取
る営業の仕事についた。その後に雑誌の販促を担当する営業企画の仕事を経て、あたしは
やっと希望し続けていた雑誌の編集部に編集者として配属されることができた。本当は週
刊誌で報道の仕事を希望していたのだけど、結局配属されたのは女子高校生をターゲット
にしたファッション雑誌の編集部だった。

 この頃になるとさすがに仕事が忙しくなってきたあたしは、以前のように明日香や奈緒
人の世話をすることもなくなっていた。明日香は昔と変わらずあたしを慕っていてくれた
けど、この頃には明日香と奈緒人との仲は最悪の関係になってしまったようだった。あた
しは仕事の合間を縫ってこの二人となるべく会うようにしたのだけど、そういうときでも
明日香は全く奈緒人に話しかけることすらしなかったのだ。

 そのせいかはわからないけど奈緒人は内省的な性格の男の子になっていた。口数も少な
いし趣味もインドア系のものばかりだったらしい。でもそんな彼にもあたしは好かれてい
る自信はあった。奈緒人は遠慮がちにだけどあたしに甘えてくれることすらあった。あた
しは時折奈緒人があたしに向ける視線にどきっとすることがあった。そしてその視線は結
城さんのそれにそっくりだった。



 ・・・・・・退院した明日香は、今日奈緒人があたしに異性としての好意を抱いているという
いうようなことを匂わした。あたしは胸の動悸を必死で抑えて明日香の言葉の意味に気が
つかないふりをした。追い討ちをかけるように明日香は結城さんへのあたしの好意につい
て質問したのだ。結局何も言葉が出てこなかったあたしは、二人を自宅に送ってから逃げ
るように車を出した。そうして二人と別れて車を運転して社に戻り途中でも、そのときの
明日香の言葉が繰り返し胸の中再生されていた。



『お兄ちゃんはね、叔母さんのこと』

『違うのよ。ねえ叔母さん、聞いて聞いて。お兄ちゃんって叔母さんのこと』



 結城さんへの想いはとうの昔に克服していて、今あたしに残っているのは明日香と奈緒
人への、叔母としての愛情だけなのに。あのときあたしは何で顔を赤くするほど明日香の
その言葉にうろたえたのだろう。年末に結城さんと会ったとき、いったいあたしは何で少
女のようにみっともなくはしゃいだのだろう。いったい三十歳にもなるあたしは何を期待
したのだろうか。まるで高校生の女の子のように取り乱しながら。



155:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:22:48.27 ID:Ddj6iAmyo

 翌日も僕は学校を休んだ。一見、僕のことをからかったり叔母さんの父さんへの恋を語
ったりしている明日香はもうあまり思いつめていないように見えた。でも、僕がトイレに
行ったり食事の支度をしたりしてリビングのソファに寝ている明日香のところに戻る際、
僕は明日香が僕と話している時にはあまり見せない暗い表情をしていることに気がついた。

 奈緒に会えないことは正直寂しかったし授業に遅れてしまうことへの危惧もあったけど、
僕が悩んでいた時期に僕にそっと寄り添って一緒にいてくれた明日香を一人で自宅に放置
するなんて論外だった。なのでリビングのソファで横になっている明日香の隣で僕はじっ
と腰かけて、PCに録画していた深夜アニメを、転送したスマホで見ていた。明日香がテ
レビを見ているのでイヤホンをして邪魔にならないようにしていたのだけど、それでも明
日香は僕のしていることが気に入らないようだった

「あたしとお兄ちゃんは一緒にいるのに何でお兄ちゃんは自分ひとりでアニメ見てニヤニ
ヤしてるのよ」

 明日香が僕のイヤホンを取り上げた。ニヤニヤなんかしていない。

「よせよ。壊れちゃうだろ」

「一緒にテレビ見ながら話しようよ」

 明日香が僕の手からスマホを取り上げて言った。

「テレビって」

 平日の午前中だから仕方ないのだろうけど、明日香がさっきから興味深々に見入ってい
るのは主婦向けの情報番組だった。

「・・・・・・これ見るの?」

 僕は一応明日香に抗議したけれど実はそんなに視聴していたアニメには未練はなかった。
最近はリアルの生活でいろいろ進展があるせいか、これまではあれほど熱中していたアニ
メがなんだかそんなに面白いとは思わなくなっていた。

「・・・・・・嫌なの? じゃあチャンネル変えようか」

 明日香がリモコンを弄ったけど結局はどれも似たような番組だ。

「いいよ。最初におまえが見ていたやつで」

 窓からはちらほらと舞い降ってくる粉雪が見える。この調子だと今日は積もりそうな勢
いだ。

「・・・・・・この人おかしいよね」

 番組の中で芸人のコメンテーターが何か気の利いたことを言ったのだろう。明日香が笑
って僕の方を見た。

 今頃は奈緒はどうしているのだろう。僕はふと考えた。まだ午前中の授業時間だから授
業に熱中しているのだろうか。それともピアノのことでも考えてるのか。

 ・・・・・・それとも。ひょっとしたら僕のことを考えているのかもしれない。つらかった別
れを経て久しぶりに再会できた兄のことを。奈緒が自分の実の妹であることを知った日
以来、僕は精神的には本当にまいっていたのだけど、奈緒にとってはそれはそういう受
け止め方をするような事実ではなかったようだ。奈緒はすぐに僕が自分の兄であることを
受け入れたばかりか、僕を抱きしめながら本当に幸せそうな微笑みを浮べたのだ。僕は奈
緒が真実を知らされることを恐れていた。出来立ての自分の彼氏が恋愛対象として考えて
はいけない相手だと知らされたときの奈緒がショックを受けて傷付くことを恐れたからだ。

 奈緒は傷付くどころか喜んだ。僕だって妹との再会は嬉しくないはずはなかった。でも、
これほどまでに入れ込ん最初の恋人が付き合ってはいけない女の子だったと知ったときの
絶望感は僕の心に深く沈潜してなくなることはなかった。

 僕ほどにショックを受けていないのは僕が兄だと知る前の僕のことを、奈緒がそれほど
愛してくれていたわけではないからなのだろうか。その考えは僕を混乱させた。奈緒を傷
つけたくないと思っていたはずの僕は、あろうことか奈緒が僕と恋人同士ではいられなく
なるという事実を知っても動揺しなかったことに対してショックを受けたのだ。

 いったい僕は何がしたいのだろう。過去に自分の記憶を封じ込めるほどにつらい過去が
あった。その話は玲子叔母さんが僕に話してくれたら今ではよく理解できていた。そのつ
らかった過去の一部が奈緒との再会によって癒されることになったのだ。

 それなのに僕はこれ以上いったい何を求め、何を期待していたのだろう。つらい別れを
した兄貴と偶然に再会できて喜んでいる実の妹の態度に、僕は何が不満なのだろう。突き
詰めると簡単な話なのだろう。僕はあれだけ大切にしていた妹が再び僕のそばにいてくれ
ることだけでは満足できないのだ。要するに僕は奈緒のことを今でも妹としてではなく女
としてしか見ていないのだろう。無邪気に兄との再会を喜んでいる奈緒の態度に、僕は飽
き足らない想いを感じているのだ。



156:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:23:29.61 ID:Ddj6iAmyo

 本音を言えば、奈緒を傷つけたくない混乱させたくないと思いながらも奈緒が彼氏であ
る僕を失ったことを悲しんで欲しかったのだ。僕が奈緒に対して感じているのと同じ感情
で。奈緒と出合った日。奈緒と初めてキスした日。

 僕はその思い出を今でも大切にしていた。そして僕は奈緒にもその想いを共有して欲し
かった。奈緒は血の繋がった実の妹だった。それが理解できていた今でもなお、僕は奈緒
に自分のことを異性として意識していて欲しいと願っていたのだ。ちょうど今の僕が奈緒
に対してそう考えているように。

「また黙っちゃった。お兄ちゃんってこういうときはいつも何考えてるの」

 明日香は物思いにふけっていて自分を無視していた僕の態度に不満そうだった。

「ただぼんやりとしてただけだけど」

「そんなにあたしと二人きりでいるとつまらない?」

 明日香が言った。

「そんなことないって」

「だってお兄ちゃん、さっきから全然あたしの話聞いてないじゃん」

「だからぼんやりしてたから」

 明日香がソファから半分身を起こした。

「あたし以外の女のことを考えてたんでしょ」

 一瞬僕はどきっとした。明日香の言うとおりだったから。

「いったい誰のこと考えてたのよ」
 明日香がテレビの音量を下げて僕を睨んだ。「・・・・・・もしかして玲子叔母さん?」

「おまえなあ、その話題はいい加減に止めろって。叔母さんに失礼だろ。あと僕にも」

「だってお兄ちゃんと叔母さんのお互いに対する態度って何かぎこちなくて怪しいも
ん。絶対玲子叔母さんってお兄ちゃんのことを男として意識してるよ」

「あんだけ叔母さんに世話になっておいてそういうこと言うか? 普通」

「叔母さんのことは大好きだけど、恋のライバルとなったらまた別だよ」

 どうも明日香はあながち冗談で言っているわけではないらしい。

「百歩譲ってたとえ僕が叔母さんに好意を抱いていたとしても、十七歳の僕と三十歳にな
る叔母さんが男女としてつりあうわけないだろう」

 明日香を宥めるためにそう言うと、どういうわけか彼女は僕の言葉が気に障ったようだ
た。

「・・・・・・冗談で言っているのに何でお兄ちゃんはマジで叔母さんのことが気になるみたい
な言い方をするのよ」

 明日香はとても冗談とは思えない表情で言った。

「あたし嫌だからね。お兄ちゃんが三十歳の叔母さんを彼女にするなんて」

「あのなあ」

「世間体だって悪いよ。知り合いはみんな本当の叔母さんだって思ってるのに、甥と叔母
さんが男女の関係になっちゃうなんてさ。血は繋がっていないことは知り合いはほとんど
誰も知らないわけだし」

 何かわからないけど明日香のスイッチが入ってしまったようだ。明日香にとっての地雷
は奈緒だと思っていたのだけど、昨日からこいつは随分叔母さんのことにこだわっている。
こいつをそんな考えに追いやるようなことなんて、僕と玲子叔母さんとの間には何も生じ
ていないのに。

 明日香がテレビの音量を下げたせいで部屋の中は静かだった。相変わらず窓の外には粉
雪が降りしきり庭の樹木を白く装っている。叔母さんは嫌がっていたけどこの分だと積も
るかもしれない。

「正直に言うとさ、さっきまで奈緒のことを考えてた」

 これ以上甥と叔母の恋愛なんて妄想には付き合いたくなかった僕は正直に言った。

 明日香はそれを聞くと黙ってしまった。



157:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:24:11.14 ID:Ddj6iAmyo

「だから玲子叔母さんのことを考えていたわけじゃないって。変な誤解するな」

 でも明日香は全然安心したような表情を見せなかった。

「・・・・・・最悪だよ」
 明日香が低い声で言った。「お兄ちゃん言ったよね? 奈緒とは再会したいい兄妹の関
係だって」

「うん」

「あたしと二人きりでも奈緒の方が気になるの? 実の妹なんでしょ? お兄ちゃんは実
の妹のことでいつも頭がいっぱいなわけ?」

「いや、違うって」

「どう違うのよ。お兄ちゃんはあたしの気持ちを知ったんでしょ。あたしはお兄ちゃんの
ことが好き。お兄ちゃんにあたしに彼氏になって欲しい。血も繋がっていないし、ママだ
ってそれを望んでいるのに」

 穏やかな午前中の時間はこれで終ったみたいだった。明日香は今では涙を浮べていた。
こいつは昨日は僕に返事は急がないと言ったばかりだったはずなのに。

「お兄ちゃんが高校の友だちの女の子が好きであたしが振られるなら仕方ないよ。それに
さっきはああは言ったけど玲子叔母さんとお兄ちゃんがお互いに求め合うなら、賛成は出
来ないけどまだしも理解くらいはするよ。年齢はともかく少なくとも血は繋がっていない
んだし」

「学校に好きな子なんていないし、玲子叔母さんはそういう対象じゃないだろ」

 明日香は僕の話なんて聞いていないようだった。

「でも、何でそれが奈緒なの? 奈緒だってお兄ちゃんが彼氏じゃなくて実の兄だってこ
とを受け入れたんでしょ? お兄ちゃんだってそう言ってたじゃない。それなのに何でお
あたしと一緒のときにいつもいつも奈緒のことばかり考えてるのよ」

 明日香はいい兄妹として仲直りする以前のような興奮した口調で話し出した。

 奈緒のことを考えていたと正直に明日香に話したのは失敗だったようだ。そのときの僕
は、明日香の話を聞いているうちに玲子叔母さんのことを一人の女性として意識させられ
そうで、そのことがとても気まずかった。だから、本当は黙っていた方がいいと思ってい
たのだけど、正直に奈緒のことを考えていたと話したのだった。

 でも明日香が叔母さんのことを気にしているのも本当だろうけど、やはり明日香の一番
気に障る存在は奈緒のようだった。奈緒が悪意をもって僕を陥れるために近づいたのだと
いう誤解は解けたはずだった。あれは偶然の出会いだったのだ。それを理解してもなお、
明日香の奈緒に対する敵愾心はちっとも薄れていないようだ。

 こうなってしまったら仕方がない。明日香が僕に対して敵愾心を持っていた頃、明日香
が切れたときは僕は反論せず怒りが収まるまでじっと耐えたものだった。それがどんなに
ひどい言いがかりであったとしても。久しぶりに今日もそうするしかないだろう。それに
今回は明日香の言っていることは単なる言いがかりではなかった。奈緒と兄妹して名乗り
あったときの安堵感が消えていき、さっきから悩んでいるように僕が奈緒に対して再び恋
愛感情を抱き出したことは事実なのだ。でもそれだけは明日香にも誰にも言ってはいけな
いことだ。

 昔はよくあったことだった。ひたすら罵声に耐えているうちに明日香の声は記号と化し
意味を失う。そこまでいけば騒音に耐えているだけの状態になり、意味を聞き取って心が
傷付くこともない。久しぶりにあの頃は頻繁にあった我慢の時間を過ごせばいい。そう思
っていた僕だけど、どういうわけか明日香の言葉はいつまで耐えていてもその意味を失わ
なかった。

「まさかお兄ちゃんは血の繋がった妹を自分の彼女にしたいの?」

 以前と違って明日香の言葉は鮮明に僕の耳に届き僕の心に突き刺さった。

「実の妹とエッチしたいとかって考えているの?」

 もうやめろ。やめてくれ。以前と違った反応が僕の中で起きた。僕はまたフラッシュバ
ックを起こしたのだ。視界が歪んでぐるぐる回りだす。叔母さんや奈緒の声が無秩序にで
も鮮明に聞こえてきた。



158:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:24:52.49 ID:Ddj6iAmyo

『奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?』

『鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに』

 叔母さんの驚愕したような声。

『あたしピアノをやめます。そしたら毎日奈緒人さんと会えるようになりますけど、そう
したらあたしのこと嫌いにならないでいてくれますか』

『それで奈緒人さんがあたしと別れないでくれるなら、今日からもう二度とピアノは弾き
ません』

『あたしのこと、どうして嫌いになったんですか? ピアノばかり練習していて奈緒人さ
んと冬休みに会わなかったからじゃないんですか』

 僕を見上げる奈緒の縋りつくような涙混まじりの目。



「お兄ちゃんごめん」

 気がつくと僕はソファで横になっていた。明日香の顔が間近に感じる。

「・・・・・・まったやっちゃったか。ごめん明日香」

 明日香が僕を抱いている手に力を込めた。

「あたしが悪いの。自分でもよくわからないけど、奈緒のことを考えたらすごく悲しくな
って、でも頭には血が上ってかっとなっちゃった。本当にごめんなさい」

 代償は大きかったけど、でもこれでようやく明日香の気持ちはおさまったようだった。
僕は安堵したけど、もちろん事実としては何も解決していないことは理解できていた。
明日香はもう何も喋らずに僕に覆いかぶさるように横になった。思ってたより重いな、こ
いつ。僕は何となくそう思った。全身が汗びっしょりで体が体温を失って冷えていくのを
感じる。明日香の包帯を巻いた手が僕の額の汗を拭うようにした。明日香の手に僕の汗が
ついてしまうのに。そのまま明日香は僕の頭を撫でるように手を動かした。それはずいぶ
んと僕の心を安定させてくれた。

 やはり奈緒への恋心、つまり自分の実の妹への恋愛感情は無益なだけでなく有害ですら
ある。世間的にどうこう以前に自分の心理ですらその禁忌に耐えることすらできていない。
再びフラッシュバックに襲われた僕はやっと冷静に考えられるようになった。きっと明日
香の言うとおりなのだろう。もうこれは本当に終らせなければならないのだ。それに僕の
恋は無邪気に兄との再会を喜んでいる奈緒をも戸惑わせ傷つけることになるかもしれない。兄としての僕への奈緒の想いの深さは、恋人が実は兄だったという事実をも圧倒したため、
奈緒は僕のように傷付かずに済んだのだろう。それを蒸し返せば今度こそ奈緒を深く傷つ
けることになるかもしれない。

 奈緒が僕のように胃液を吐きながらフラッシュバックにのたうちまわって苦しんでいる
姿が浮かんだ。だめだ。自分の大切な妹にそんな仕打ちをするわけにはいかない。奈緒へ
の無益な恋心に惑わされていた僕がそれに気がつけたのは、明日香のおかげだった。確か
にきつく苦しい荒療治だったけど、そのおかげで僕は目が覚めたのだろう。

 僕は大きく息を吸った。この決心によって傷付く人は誰もいない。明日香の望みをかな
えられるし、僕のことを実の兄として改めて別な次元で慕い出した奈緒だってもはや傷付
くことはない。叔母さんだって僕たちの味方をしてくれるはずだった。

「明日香」

 明日香は僕の髪を撫でる手を止めて僕の方を見た。

「・・・・・・まだ苦しい?」

「いや。そうじゃないんだ」

 僕は体を起こし、半ば僕に覆いかぶさるようにしていた明日香を抱き起こすようにして
自分の隣に座らせた。

「おまえが言ってたことがあるじゃん。僕のことが好きだって」

 明日香が怪訝そうな表情をした。

「言ったよ。それがどうしたの・・・・・・あ」

 そのとき明日香の表情が何かに怯えるような影を宿した。

「よく考えてって言ったのに。あたし、お兄ちゃんにもう振られるの?」



159:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:25:33.38 ID:Ddj6iAmyo

 本心で明日香のことを奈緒以上に愛しているかと聞かれたらそれは違う。でも少なくと
も明日香が大切で心配な存在であることは確かだった。僕が一番つらい時期にぼくを支え
てくれた明日香のことが。それにこれだけは嘘じゃなく本当だった。明日香のその怯えた
表情を見たとき、僕は心底から明日香をいとおしく感じたのだ。

「僕たち付き合ってみようか」

 一瞬、驚いたように目を大きく見開いた明日香の表情を僕は可愛いと思った。

「お兄ちゃん、それってどういう意味」

「どういうってそのままの意味だよ。っていうか僕に告白してきたのはおまえの方だろ
う」

 次の瞬間、僕は明日香に飛びつかれ、ソファの背もたれに押し付けられた。

「だめだと思ってたのに・・・・・・絶対に断られるって諦めてたのに」

「・・・・・・・泣くなよ」

「嬉しいからいいの。お兄ちゃん大好きだよ」

 僕も明日香の体に手を廻して彼女を抱き寄せた。そのとき一瞬だけ記憶に残っていた幼
い奈緒の声が頭の中で響いた。

『お兄ちゃん大好き』



 夜半過ぎに雪は雨に変わっていたようだ。結局、明日香の望みどおり朝の景色が一面雪
景色となることはなかったのだ。その晩、僕と明日香は深夜までソファで寄り添っていた。
初めて心が通じ合った直後の甘い会話や甘い沈黙は僕たちの間には起こらなかった。アン
チクライマックスもいいところだけど、僕と明日香が恋人同士になっても今までの関係や
お互いに対する想いが劇的に変化することはなかったようだった。

 僕が明日香を受け入れてたたとき、こいつは涙を浮べながら僕に抱きついてきた。僕も
そのときは感極まって明日香を抱き寄せたのだけど、しばらくしてお互いの気持ちが落ち
着いてくると、初めて彼女が出来たときのようなどきどきして興奮したような気持ちはす
ぐにおさまっていった。そして残ったのは限りなく落ち着いて居心地のいい時間だった。

 思うに僕と明日香の関係は長年の仲違いを解消して、明日香が僕のいい妹になると宣言
したときの方がはるかにドラスティックな変化を迎えていたのだと思う。結局明日香の気
持ちに応えた僕だけど、付き合うようになってもその前までの彼女との関係とあまり変化
がないような気がする。多分それは明日香も同じように感じていたんじゃないかと思う。

 僕が真実を知りフラッシュバックを起こすようになってから明日香は常に僕に寄り添っ
ていてくれた。改めて付き合い出したとはいえこれ以上べったりするのも難しい。そうい
わけで深夜まで抱き合いながら寄り添っていた僕たちの会話は今までとあまり変わらなか
った。ただ、お互いが恋人同士になったことを両親や玲子叔母さんに話すタイミングとか
を少し真面目に話したことくらいが今までと違った点だ。

 その会話も寄り添いあった恋人同士が近い距離で囁きあっているわりにはきわめて事務
的な会話といってもよかった。

「まあ急ぐことないよ」

 明日香が僕の肩に自分の顔をちょこんと乗せながら言った。

「でもいつかは言わないとね」

「多分、あたしがお兄ちゃんのことを好きなのはもうパパやママにもばれてるし」

「そうなの」

「うん。ママには前からけしかけられるようなことも言われていたしね」

 その話は叔母さんからも聞いていた。母さんは僕と明日香が結ばれることを密かに期待
していたのだという。そうしていつまでも家族四人で暮らしていくことを望んでいたらし
い。

「それに確実に叔母さんにはばれてるし」

「そらそうだ。叔母さんがいる前でおまえは告白したんだから」

「叔母さんには隠し事したくなかったし」

 明日香が言った。



160:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:26:19.58 ID:Ddj6iAmyo

「本当にそれだけなんだろうな」

 僕は明日香に念を押した。

「正直に言うと少しは叔母さんを牽制しておこうとは思ったけどね」

「何度も言うけど、たとえ血がつながっていないとしても自分の叔母だと思ってきた人に
恋するなんてことはありえないよ」

「うん。今ならお兄ちゃんのこと信じてあげる」

 明日香が言った。

「やっとか。まあわかってくれたのならいいけど」

「でもお兄ちゃんにその気がなくても、叔母さんはお兄ちゃんのことを好きかも知れない
よ」

「まだそんなこと言ってるの」

「玲子叔母さんのことはあたしの方がよく知ってるもん」

「それは否定しなけど。だからと言ってさあ」

「叔母さんは多分昔からパパのことが好きだったと思うんだ。でもその気持ちを抑えてき たのね」

「何度も言うけどそのことだって想像にすぎないだろ」

「誰かを好きな気持ちを察するのに証拠なんてあるわけないじゃない」

 まあそれはそうかもしれないけど。

「でも僕は父さんじゃないぞ」

「パパを好きな気持ちがパパにそっくりなお兄ちゃんへの愛情に変わったんでしょ。それ
にお兄ちゃんにとっては叔母さんはママ代わりみたいなものでしょ? そして叔母さんに
とってはお兄ちゃんは血の繋がっていない息子のような存在だったし。その叔母さんの母
性がいつのまにか異性への愛情に変わったんだよ、きっと」

「それも全然根拠のない思い込みじゃん」

「女の勘ですよ」

 明日香は笑った。いったいどこまで本気で言っているのだろう。

「まあ常識的に考えれば世間的にも成就する恋じゃないし。叔母さんだってそんなことは
わかっていると思うけどね」

 明日香の言うことが本当だとしたらそれは僕にとっては非常に落ち着かない気分にさせ
られる話だった。

「だからお兄ちゃんが玲子叔母さんに告ったり迫ったりしなければ、叔母さんの中ではそ
れは秘めた恋で終わるよ」

「そんなことするか」

「うん」
 明日香はそこで嬉しそうに笑った。「そこは信用してるよ。お兄ちゃんもあたしのこと
が好きだってようやく気がついてくれたみたいだしね」

 少なくともそこを信じてくれただけでもよしとしないといけないようだった。

 それからしばらくは僕たちは黙ったまま寄り添っていた。居心地は悪くない。お互いに
長年身近にいたせいか、こういう時間も全く気まずくはなかった。

「そう言えばさ」

 明日香が僕の手を両手で包んで撫でるようにしながら言った。

「うん」

「お兄ちゃんて妹属性ってある?」

「は?」

 僕の趣味はアニメや漫画がゲームだったから妹属性とかと言われればすぐにピンときた
けど、これまでそういう系統に全く興味を示さなかった明日香がよくそんな言葉を知って
いたものだ。



161:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:27:02.88 ID:Ddj6iAmyo

「何でそんなこと聞くの」

「いや。お兄ちゃんって去年まではあたしのこと本当の妹だと思ってたわけじゃん」

「まあね」

「何て呼ぼうかなって」

「はい?」

「あたしたち結ばれたわけだけど、お兄ちゃんが妹と結ばれたことに萌えているのならお
兄ちゃんの趣味にあわせてこれまでどおり、お兄ちゃんって呼んであげようかなと」

「・・・・・・妹だと思ってたら僕がおまえと付き合うわけないだろ」

 一瞬、本当の妹である奈緒の顔が目に浮かんだ。

「そう? じゃあ奈緒人って呼んでいい?」

 確かに明日香にお兄ちゃんて呼ばれることには違和感はなかった。でも僕が実の兄貴で
あることを知った奈緒は自然に僕のことをナオトさんではなくお兄ちゃんと呼んだのだ。

 これからは奈緒が妹で明日香は僕の彼女なのだ。

「そうしたかったら奈緒人って呼べば?」

「うーん」

 自分で提案しておきながら明日香は少し考えて赤くなった。僕の肩に自分の頭を預けな
がら。

「いきなり呼び捨てっていうのも違和感あるなあ」

「・・・・・・じゃあもう好きに呼べば」

「お兄ちゃんすねてるの? 可愛い」

 明日香が顔を起こして僕を覗き込んだ。


 僕たちはその晩随分遅くなってから結局僕の部屋のベッドで一緒に寝ることにした。こ
れまでも明日香が僕のベッドに潜り込んでくることがあったので、別にそれは敷居が高い
ことではなかったし。

 ただこれまでと違って明日香は最初から僕に密着して抱きついたので、僕は少し混乱し
た。変な気持ちがなかったといえば嘘になる。今までの兄妹としての仲直りからの延長上
で自然に付き合い出したような僕たちだったけど、正式に恋人同士になってから一緒に寝
るのは初めてだった。長年一緒に連れ添った夫婦みたいに、こいつとの間には新たな発見
はないと思っていたのだけど一緒にベッドに入って抱き付かれるとこれまで明日香に対し
ては感じなかったような感覚が湧き上がってきた。

 ここは自制すべきところだった。飯田に襲われかかった明日香に対してそういうことを
求めるわけにはいかない。でも体の反応の方は素直だったので僕は明日香がすやすやと寝
息を立てた後もしばらくは天井を見上げて自分の興奮を収めようと無駄な努力を重ねてい
たのだ。それでもいつのまにか僕は寝入ってしまったようだった。

「奈緒人君起きてよ」

 僕が目を覚ますとカーテンを閉め忘れた外の景色が目に入った。雪は小雨に変わってい
るようだった。僕は隣で横になっている明日香の柔らかな肢体を再び意識しながら目を覚
ました。

「・・・・・・何で君なの?」

 結局、明日香は僕のことをお兄ちゃんでもなく呼び捨てでもなく奈緒人君と呼ぶことに
決めたようだ。

「だって呼び捨てって照れくさいじゃん」

 奈緒人君だって呼ばれる方にしてみれば十分に照れくさい。

「・・・・・・なんでお兄ちゃんが赤くなるのよ」

 思わずお兄ちゃんと呼びかけてきた明日香の顔も真っ赤でそれが少しだけおかしかった。

「お兄ちゃんのほうが呼びやすいならそれでもいいよ」

「いけない。奈緒人君だった」

 明日香が笑った。



162:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:27:43.47 ID:Ddj6iAmyo

「まだ十時前だけどもう起きる?」

 今週いっぱいは明日香は医師から自宅療養を指示されている。その間は僕も学校を休む
つもりだったから特に早く起きる必要はなかった。特に昨日は夜更かししていたのだし。
自堕落にいつまでも寝ているつもりはないけど、明日香はまだ怪我だって癒えていないの
だから、何も急いでベッドから出なくてもいい。

「誰か来たみたい」

 明日香が僕を覗き込んで言った。

「聞こえなかった? さっきチャイムが鳴ってた」

 僕は起き上がった。特に気が付かなかったと言おうとしたとき再びチャイムが響いた。

「どうする?」

「とりあえず見て来る。おまえはこのまま寝てろよ」

「うん」

 明日香は再び毛布を引き寄せた。

「はい」

 僕がリビングに降りてインターフォンを取ると女性の声がした。

「突然申し訳ありません。警察の者ですけど」

「・・・・・・はい」

 何となく用件は想像が付く。でもぼくはてっきり平井さんたちが来るものだと思ってい
たのだ。僕がドアを開けるとそこには私服姿の若い女性が二人立っていた。一人が僕に手
帳を見せた。

「明日香さんの具合が悪くなければ、三十分ほどですみますので事情をお伺いしたいんで
すけど」

 その人はそう言った。

「平井さんじゃないんですね」

 いきなり見知らぬ警官が現われたことに不信感を覚えた僕は聞いてみた。これが平井さ
んならまだわかる。両親にも僕にも一応は自己紹介してくれていたのだし。それなのにい
ったい約束もなしに見知らぬ警官を寄こすとはどういうことなのだろう。

 女の人は動じずに微笑んだ。

「性犯罪の被害者の方への聴取は女性警官がすることになっています。明日香さんへの聴
取はあたしたちがさせていただいた方がいいでしょう」

 女の警官は話を続けた。

「それに自分の上司を悪く言うようだけど、平井さんは高校生くらいの女の子の扱いには
慣れてませんしね」

 彼女は笑ってそう言った。

 確かにあの平井さんに明日香が事情聴取されるよりは、目の前で柔らかな微笑みを浮べ
ている女性の警官に事情聴取された方が明日香も緊張しないだろう。二人の女性警官は制
服も着ていないのでそういう意味でも明日香には答えやすいかもしれない。それにしても
この人が何気なく言った性犯罪という言葉は改めて明日香が被害を受けそうになった飯田
の凶行を否応なしに思い浮かべさせられた。明日香は僕との仲が進展して多少は気分転換
できたかもしれないけど、やはり明日香があのとき経験したことは中学生にとっては過酷
な出来事だったのだ。

「ちょっと妹の様子を見てきますから、少し待ってもらえますか」

 僕は言った。明日香に心の準備ができているかを確認しないで勝手にこの人たちを家に
入れるわけにはいかない。

「あら。あなたは明日香さんのお兄さんなのね」

「はい。ちょっとだけ待ってください」

「ごゆっくりどうぞ。明日香さんの気が進まないならまた明日とかに出直してもいいの
よ」

 私服の婦警さんが気を遣ったように言ってくれた。



163:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:28:17.23 ID:Ddj6iAmyo

 僕は自分の部屋の戻って毛布を被っている明日香に声をかけた。

「明日香?」

「誰だった?」

 毛布から顔だけちょこんと出した明日香が聞いた。

「それが・・・・・・警察の人なんだ。おまえから事情を聞きたいって」

 明日香の顔が一瞬曇った。でもすぐに明日香は気を取り直したようだった。

「そう。早く済ましちゃった方がいいんだろうね」

 明日香が殊勝に微笑んだ。

「気を遣って女性の警官が来てくれてるし三十分くらいで終るって」

「そうか」

 明日香が起き上がった。

「じゃあ着替えるね」

「リビングで待っていてもらうな」

「うん。お兄ちゃん?」

 僕は部屋のドアのところで立ち止まった。

「一緒にいてくれる?」

「もちろん」

「お兄ちゃん」

 明日香は僕のことを奈緒人君と呼ぶことなんて忘れてしまったみたいだ。

「どうした」

「・・・・・・キスして」

 明日香が目を閉じた。僕から明日香にキスするのはこれが初めてだった。



 警察の人たちがそれでも一生懸命に明日香に微笑みかけ、できるだけ明日香を刺激しな
いようにしながら事情聴取を終えて引き上げていった後、明日香は大きく息を吐いてソフ
ァに横になった。

「痛っ」

 明日香は顔をしかめて言った。どうやら傷になっているところをソファにぶつけたらし
い。

「大丈夫?」

 明日香は体をもぞもぞと動かしてようやく具合のいい位置を見つけたらしかった。

「平気。ちょっとぶつけただけだから」

 ソファに居心地良さそうに横になると明日香は再び大きくため息をついた。

「やっと終ったのね」

「うん。もうおまえから話を聞くことはないでしょうって言ってたし」

「自業自得なんだから図々しいかもしれないけど。あたし、もうあいつらとは関りになり
たくない」

 明日香が言った。

 警察の女の人たちはあの晩に起きた出来事を優しく同情しながらも、明日香の記憶に残
っていることは一欠けらも取りこぼさずに聞き取っていった。今日家に来た警官は性犯罪
の被害者の聞き取りは女性警官の方が当たることになっていると言っていた。自分の上司
の平井さんは若い女の子の扱いには慣れていないとも。その言葉に嘘はないだろうけど、
彼女の聞き取りだって笑顔やていねいな口調を取り去ってしまえば容赦のないものだった
と言える。これでは明日香が再び言葉と記憶のうえで再びレイプされているようなものだ。



164:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:28:57.19 ID:Ddj6iAmyo

 何度か僕は明日香の手を握りながら女性の警官の尋問をとどめようとした。そのたびに
警官は柔らかい口調で謝りながらも知りたいことを知ろうとする執念を諦めはしなかった。
そして明日香は顔色も変えずに淡々とその夜自分に起きたことを話し続けた。

 そうして飯田に押し倒され縛られて服を破かれたあたりで、明日香の話に池山が登場し
た。この間まで明日香の彼氏だった池山のことを明日香は庇うような説明をした。どうい
うわけか明日香を庇った池山の行為には警官にはあまり関心がないようで、彼女は飯田と
池山の会話の内容を覚えている限り全て話すように明日香に求めたのだけど、女性警官に
とってはその内容は期待はずれだったらしい。でも、縛られて身の危険を感じていた明日
香が二人のやり取りを逐一覚えていることなんて不可能だったろう。

「まあ仕方ないですね。明日香ちゃんだってそれどころじゃなかっただろうし」

 残念そうに彼女が言った。

「ごめんなさい」

 明日香は一応警官に謝ったけど本気で悪いとは思っていないらしかった。何と言っても
明日香は参考人かもしれないけどそれ以前に被害者なのだ。

「じゃあこれで終ります。明日香さんご協力ありがとう。飯田と池山がどうなったかは平
井警部がお知らせにあがると思いますから」

 ソファに座った明日香がほっとしたように少しだけ力を抜いた。明日香から事情聴取し
た警官ともう一人の何も喋らずひたすらメモを取っていた警官が立ち上がった。

「じゃあお邪魔しました。もう明日香さんにお話を伺うことはないからね」

 僕と明日香も立ち上がり二人を玄関まで送った。明日香は相変わらず僕の手を離そうと
しなかった。

「ずいぶん仲のいい兄妹なのね。まるで恋人同士みたい」
 今までずっと黙ったまま喋らなかった方の警官が言った。「うらやましいわ」

「二人きりの兄妹なんです」

 微塵も動揺せずに明日香がしれっと答えた。

「これで全部おしまい。もうあいつらとは二度と関りになりたくない」

 警官たちを見送ってから具合よくソファに横になった明日香が繰り返した。

 ほっとしたことに警察の人たちはドラッグのことや女帝のことは話に出さなかった。単
純にあの女性警官たちには知らされていないのか、それとも捜査上の機密なので匂わすこ
とすらご法度なのか。平井さんが僕にそのことを話したときだって加山さんは顔色を変え
て阻止しようとしたくらいなのだし。

「お兄ちゃん、隣に来て」

 明日香が僕に言った。

 僕は明日香の横たわった体の顔の隣のあたりに腰かけた。明日香が片手を上げて僕の腕
に触れた。

「ごめんね」

 明日香がぽつんと言った。

「何が?」

「あたしが昔バカやってたからこんなことになっちゃったんだよね」

 さっきまで顔色一つ変えず気丈に警官の質問に答えていた明日香は今では曇った表情を
見せている。

「おまえのせいじゃない。悪いのは飯田だろ」

「あたしはもうお兄ちゃんに迷惑かけたりお兄ちゃんが恥かしいと思うような友だちとは
二度と付き合わないからね」

「うん」

「・・・・・・奈緒や有希みたいに誰が見てもお兄ちゃんにとって恥かしくない女の子になるか
ら」

 奈緒はそうかもしれないけど有希は少し違う気がする。でもそれは今明日香に言うこと
じゃない。

「別に今だって恥かしくなんかないだろ」



165:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:30:01.53 ID:Ddj6iAmyo

「優しくしなくていいよ。それよりこんなことしてたらお兄ちゃんに嫌われちゃう方が恐
い。せっかくお兄ちゃんの彼女になれたのに」

 明日香が言った。

「こんなことで嫌いになんてなるか」

「だって・・・・・・お兄ちゃん、僕たち付き合ってみようかって言った」

 明日香がいったい何を言っているのか僕には理解できなかった。

「言ったけど・・・・・・嫌だった?」

「ううん、嬉しかった」

 明日香が話を続けた。

「でも、どうせならおまえのことが好きだとか、付き合ってみようかじゃなくて僕と付き
合ってくれって言われたかったな。付き合ってみようかじゃお試しみたいで不安じゃん」

「考えすぎだよ。お試しとかそんなこと考えて言ったわけじゃない」

「ごめん、そうだよね。さっきまでは何の不安も感じなかったけど、警察の人の質問に答
えていたら不安になっちゃった。あたしってお兄ちゃんにふさわしくないのかもって」

 明日香が苦労してソファから身を起こして僕を見た。

「確かにあたしは池山に助けられたし飯田たちとも遊んでたけど、もう二度とそんなこと
はしないの」

「うん」

「だから・・・・・・お兄ちゃん、ずっとあたしと一緒にいて。パパとママとあたしとお兄ちゃ
んでみんなでずっと一緒に暮らそうよ。あたしのこと捨てないで。もう誰もいらないよ。
お兄ちゃんがずっとあたしの彼氏でいてくれたら」

 僕さえいたら誰もいらないと一番最初に言ってくれたのは、まだ幼かった奈緒だった。
今改めてそれと同じ言葉を明日香から聞かされた僕は、自分では決断したつもりだったこ
とを自分の中では曖昧に済ませていたことに気がついた。

 わかってはいたことだ。今まで曖昧にして突き詰めて考えなかっただけで。

 僕は明日香の顔を見たかったけど、俯いて涙を流しているので目を合わせることもでき
ない。少し乱暴だったけど、僕は明日香の顎に手をかけて少しだけ手に力を込めた。たい
した抵抗もなしに明日香が顔を上げた。僕は明日香の目を見た。

「そうだね、明日香。ずっと一緒にいようか」

 実の妹にはこんな言葉はかけられない。明日香は妹であって妹ではない。だから僕は奈
緒にはこの先一生言ってはいけないことだって、明日香には言える。

 もう手を離しても明日香は俯かなかった。それどころか今までで一番激しく彼女が僕に
抱きついてきた。僕もそんな明日香に応え、両手を明日香の体に回した

「・・・・・・あたしもう大丈夫だよ」

 しばらく抱き合っていたあと明日香が言った。

「え」

「怪我なんて大したことし。初めてはお兄ちゃんがいい」

「おまえ何言ってるの」

「ずっと一緒にって言うお兄ちゃんの言葉に嘘がないないなら、お兄ちゃんの部屋に行こ
う。最初はあそこがいい」

 明日香が立ち上がって涙を拭いて僕を見た。

「リビングの電気消しておいて。テレビも」

 僕は戸惑うばかりだった。

「シャワー浴びてくる。今日もパパとママは帰ってこないから。お兄ちゃんは部屋に行っ
て待ってて」

 明日香がバスルームの方に歩いて行った。ちょうどお昼ごろの時間だった。外の雨は激
しさを増し雨音がはっきりとリビングまで届いている。



166:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:30:32.65 ID:Ddj6iAmyo

 決断するということはこういうことなのだろう。告白してもなおしばらくは急激な展開
を望まない僕の卑怯な心境が、今いきなり試されているのだ。半ば躊躇しいながらもどう
いうわけか僕の体と感情はこれから起こることに準備を始めていたようだった。明日香の
誘惑に反応している下半身を持て余しながら、僕が立ち上がって夢遊病者のように二階に
上がろうとしたとき、再びチャイムが鳴ってインターホンから玲子叔母さんの声が聞こえ
た。

「おーい。いないのかな、まだ寝てるんじゃないだろうな」

 残念なようなほっとしたような心境だったけど、とりあえず僕は玄関に行って鍵を開け
叔母さんを家に招じ入れた。

「寒かったあ。びしょ濡れだよ」

 叔母さんがそう言いながら家に上がって来た。

「叔母さん車じゃなかったの」

 僕は家に上がるといつものようにさっさとリビングに向かう叔母さんの後に続きながら
聞いた。

「打ち合わせ先が駐車できないんでさ。傘なんか全然役に立たないしびしょ濡れになっち
ゃったよ」

「そんなに降ってたんだ」

「うん。いきなり雨が強くなってさ。こんなんじゃ社に戻れないからここで雨宿りしよう
かと思ってさ」

 叔母さんが高そうな、でも雨にぐっしょり濡れたコートとスーツの上着を一度に脱いだ。
リビングのフローリングに雨滴が落ちる。白いブラウスとスカートだけの姿になった叔母
さんは、何かぶつぶつ言いながら濡れた髪を拭こうと無駄な努力をしていた。

 薄い生地の濡れたブラウスから叔母さんの白い肌が透けて見えた。そのとき僕は本当に
叔母さんから目を逸らそうとしたのだった。でもちょうど明日香の誘いに体が反応してい
たタイミングで叔母さんが現われたということもあった。僕は無防備な仕草で髪を気にし
ている叔母さんの全身から目が離せなかった。

 濡れて肌にくっついている感じの白いブラウス越しに、黒いブラジャーが浮かんでいる。
胸だけではなく上半身全体がほの白く浮かび上がっている。これまで奈緒や明日香よりは
るかに大人だと思っていたし、そういう目で見たことのなかった叔母さんの体は思ってい
たより華奢で細身だった。僕は思わず明日香の言葉を意識して顔が赤くなるのを感じた。
明日香の言うように叔母さんの僕に対する母性が異性への愛情に転化しているというのは
本当なのだろうか。

「・・・・・・バスタオル持って来ようか」

 僕はそう言ったけど、このときは玲子叔母さんの体から目が離せないままだった。

「ああ悪い。でもそれよかシャワー浴びようかな」

 そう言って僕を見た叔母さんが僕の視線に気がついた。そのとき一瞬僕と叔母さんの視
線が交錯した。

「・・・・・・あ」

 叔母さんは狼狽したように小さく呟いて、床から拾い上げた服を胸に抱えて僕の視線か
ら自分の肢体を隠す仕草をした。

「叔母さんごめん。って言うか見てないから」

 今まで玲子叔母さんの上半身をガン見していた僕が言っても全然説得力がなかったろう。

「見るって何を。奈緒人、あんた何言ってるの・・・・・・」

 叔母さんがいつもと違って小さな声で呟いた。その濡れた顔が赤くなったのは僕の思い
込みのせいなのだろうか。



167:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:31:03.98 ID:Ddj6iAmyo

「包帯だらけでシャワー浴びられないんだけど」

 そのとき明日香がリビングに戻って来て言った。僕はその瞬間救われた思いだった。

「そういやそうか。って、おまえその格好」

「服を脱いでいる途中で気がついたんだもん。今日はシャワーもお風呂も無理だわ。お兄
ちゃん、体拭いてくれる?」

「あんた、何て格好してるのよ」

 叔母さんが明日香の半裸を見て言った。明日香もそんな叔母さんの姿を驚いたように見
た。

「玲子叔母さん、いつ来たの? っていうか叔母さんこそ何でそんな格好してるのよ」

 奇妙な状況だった。肌を露出しているとしか言いようのない叔母と姪がお互いに驚いた
ように見詰め合っている。僕はこの場をどう収めればいいのだろうか。

「お兄ちゃん」

 ・・・・・・シャワーから戻って来た明日香はさっきまでの甘い口調を引っ込めて、並んで突
っ立っている僕と叔母さんを不機嫌そうに交互に睨んだ。



 結局明日香は不貞腐れて自分の部屋にこもってしまった。叔母さんも濡れた服を抱えて、
タクシーを捕まえるからとだけ小さな声で言って家から出て行ってしまった。

 何がなんだかわからないけど、今僕はリビングに一人取り残されていた。明日香には少
し可愛そうだったかもしれない。初めて結ばれようとしているそのとき、悪気はないとは
いえ突然の叔母さんの来訪に邪魔されたのだから。タイミングもまずかった。僕には明日
香が心配しているような叔母さんに対する恋愛感情なんてないし、叔母さんだってきっと
そうだ。

 でも。

 確かに叔母さんの濡れた体をガン見したのはまずかった。叔母さんも気にしていたよう
だし、その微妙な空気は明日香もすぐに気がついたようだった。僕が叔母さんの体を女性
として意識して眺めたのはこれが初めてだった。濡れたブラウスから覗いていた叔母さん
の肌が僕の脳裏に浮かんだ。僕だって男だからいくら年上の叔母さんとはいえその肢体に
目を奪われることはあっても不思議はない。僕はそう自己弁護した。でもそれは明日香に
対する裏切りでも浮気でも何でもない。

 今日は僕と明日香が一生一緒にいようと誓い合った日だ。一度決めたことなのだから最
後までその決心は貫こうと僕は思った。とりあえず明日香の誤解を解いて仲直りしよう。
ちゃんと話せばきっとあいつだってわかってくれるはずだ。それに明日香は中学生の女の
子としては考えられないような辛い目にあったばかりだった。多少は僕の方から譲歩して
あげる場合なのは間違いない。僕はそう決心するとリビングを後にして二階に続く階段を
上っていった。明日香の部屋はドアが閉まっていて中からは何の物音もしない。僕は思い
きってそのドアをノックした。

「明日香?」

 返事はない。

「明日香・・・・・・入るよ」

 ドアを開けて部屋に入ると明日香はベッドに入って頭から毛布を被っていた。相変わら
ず返事はしてくれない。

「叔母さん、帰ったよ」

 とりあえず何を喋ればいいかわからず僕はそう言った。でも叔母さんの名前を出したの
は失敗だったのかもしれない。明日香は僕を振り向きもせずうつ伏せ気味に毛布の下に潜
り込んでいるままだ。

「・・・・・・」

「風呂に入れなかったんだろ。体拭いてやろうか?」

「なあ、返事してくれよ。僕は明日香の彼氏なんでしょ? 何で返事してくれないの」

 彼氏という言葉に反応したのか、ようやく明日香が毛布の下から顔を覗かせた。

「・・・・・・んで」

 ようやく明日香が低い声で返事した。



168:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:31:42.78 ID:Ddj6iAmyo

「え」

「・・・・・・何であんな」

 明日香がようやく僕と目を合わせてくれた。

「何でお兄ちゃんはあんな目で叔母さんのことを見つめていたの? 何で叔母さんは潤ん
だ目でお兄ちゃんのこと見つめてたの」

「何を考えているのかわからないけどそれは誤解だから」

 僕は言った。ここは正直に話す方がいい。

「確かに叔母さんが、その・・・・・・ああいう格好だったんで思わず見入っちゃったかもしれ
ないけど、別に叔母さんに特別な感情なんかないって。叔母さんだってそうだよ」

「・・・・・・そういう雰囲気には見えなかった。何か今にもお互いに告白しあいそうに見えた
んだけど」

「ないよ。僕だって男だからそれは叔母さんの体を見つめちゃったかもしれない。叔母さ
ん綺麗だし」

 それを聞いて明日香が辛そうに僕から目を逸らした。

「でも恋愛感情とかじゃないんだ。今の僕には好きな女の子は一人しかいないんだし」

「どういうこと」

「もう忘れちゃった? 僕はおまえとずっと一緒にいようって決めたばかりなんだけど」

 再び明日香が僕の方に視線を戻した。どうやら少しだけ明日香は僕の言うことを聞く気
になったようだった。

「明日香、好きだよ」

 僕は真顔で言った。これが本音だったことは間違いない。どんなに僕が奈緒に惹かれて
いても奈緒は僕の妹だった。付き合うことも、ずっと一緒に二人で暮らすこともできない。
結婚して子どもを作ることもできない。何よりも再会した大好きな兄貴として僕を慕って
くれている彼女に対して、僕の正直な想いを話すことすら今では禁忌なのだ。

 それに玲子叔母さんのことに関して言えば、それは明日香の完全な誤解だった。たとえ
僕が不実な恋人だったとしても明日香が嫉妬すべきは叔母さんではなくて奈緒の方なのだ。
でもそれは僕が言うことじゃない。僕はその考えを胸の奥にしまった。

「・・・・・・わかった」

 ようやく明日香がベッドから上半身を起こして言ってくれた。毛布から這い出した明日
香は寒いのに白いタンクトップの短いシャツだけを身にまとっていた。シャツの隙間から
覗く肌に巻かれた包帯が痛々しい。

「信じるよ。あたしだってお兄ちゃんと喧嘩するのは嫌だし」

「・・・・・・明日香」

「ぎゅっとしてお兄ちゃん」

 突然明日香の態度が柔らかになった。僕は明日香の甘い声に従ったけど、言葉どおり抱
きしめたらきっと明日香の傷が痛むだろう。だから僕はベッドの端に腰かけてそっと彼女
の体に手を廻した。

「もっと強くしてくれてもいいのに」

 明日香が僕の首に両手を回しながら言った。この先は明日香の指示を待っていたのでは
駄目なのだろう。僕は自分から明日香にキスした。

「疑ってごめんね」

 明日香が言った。

「叔母さんの体を見つめちゃったのは僕の方だしな。誤解させて悪かったよ」

「もういい。お兄ちゃんの言うことなら信じるよ」

 僕の顔の近いところで彼女の声が響いた。

「お兄ちゃんの気持ちはわかったから、あたしの言うことも聞いて。お兄ちゃんはうざい
と思うかもしれないけど、やっぱりお兄ちゃんが奈緒とか叔母さんのことを話す口調とか
表情とか態度とかって、あたしにとってはすごく不安なの」

「そんなつもりはなかったんだ。でも心配させたならごめん」



169:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:32:20.62 ID:Ddj6iAmyo

 少なくとも叔母さんに関しては明日香の邪推なのだけど、今日は明日香に譲歩しようと
決めたばかりだったから素直に僕は謝った。明日香は僕の首に回した手に力を込めた。

「お兄ちゃんが本気であたしを選んでくれたなら」

「うん」

 密着している明日香の体から女の子らしいいい匂いがする。

「あたし、奈緒にも有希にも玲子叔母さんにも絶対お兄ちゃんのこと譲る気はないから」

「うん・・・・・・僕だってもう決めたんだしそんな心配いらないよ」

「でも不安だから」
 明日香が真面目な顔になって言った。「だからあたしたちが恋人同士だってこと、みん
なにカミングアウトしよう」

「・・・・・・僕は別にいいけど。でもカミングアウトって大袈裟だな」

「だってみんなあたしたちのこと血の繋がった兄妹だ思っているわけじゃない。だからカ
ミングアウトしよう」

「うん。それでいいよ」

 明日香の言うとおりだ。臆病な僕は曖昧なままの関係を望んでいたのだけど、それでは
いけないと思って明日香の気持ちに応えたのだ。だから別に明日香の提案は反対するよう
なことではない。ただ、周囲の反応を考えると多少は気が重いのも事実だった。

「今度パパとママが帰ってきたら真っ先に言おうよ。あとこれはお兄ちゃんに任せるけど、
奈緒ちゃんにもちゃんと話してね」

 今まで明日香は奈緒のことを呼び捨てしていたのだけど、このとき彼女は奈緒ちゃんと
言った。明日香もきっと彼氏である僕の妹として奈緒のことを認識しなおしていたのだろ
う。

「最初に玲子叔母さんに言って」
 明日香が言った。「あたしとお兄ちゃんは恋人同士の間柄になったって」

「わかった」

「メールでいいよ。叔母さんが次に家に来るのを待っていたらいつになるかわからない
し」

「うん」

「あと、有希にはあたしが直接謝るから」

 明日香がさらりと恐ろしいことを言った。明日香は有希のことを富士峰のピアノが上手
な少女に過ぎないとしか認識していないのだから無理はないのだけれど、それは非常に危
険なことかもしれない。

「ちょっと待て」

 明日香が怪訝そうに僕の方を見た。

「両親には話するし、奈緒にも話す。叔母さんにも今この場でメールしてもいい」

「うん」

「何なら渋沢と志村さんにも報告するよ」

「・・・・・・嬉しい」

 明日香が赤くなって僕に答えた。

「でも有希さんには僕から話す」

「何で? 有希に悪いことしちゃったのはあたしのせいだよ?」

「それでも僕から話した方が言いと思う。おまえはもう辛いことは何にもしなくていいよ。
全部僕が被ってやるから」

 女帝のことを話せない以上、こういう大袈裟な言葉で明日香を誤魔化すしかない。それ
でも明日香は僕の言ったことに喜んだようだった。

「幸せだな。本当に誰かが無条件であたしを守ってくれる日が来るなんてなんて嘘みたい。
しかもそれは大好きなお兄ちゃんだなんて」

 少しだけ罪の意識を感じたけどそれを誤魔化すように僕は明日香の体を抱きしめた。明
日香の傷は痛んだのかもしれないけど、彼女はそのことに抗議しなかった。



170:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:32:57.44 ID:Ddj6iAmyo

「明日にでも叔母さんにメールするよ。とりあえず話があるからっていう内容でいい?」

「・・・・・・まあいいか。面と向かってちゃんと言った方がいいもんね」

 明日香が笑って言ってくれた。ようやく明日香の機嫌が元に戻ったようだった。



from :奈緒人
sub  :無題
本文『叔母さんさっきはごめんなさい。叔母さんに大切な話があるんだ。叔母さんは仕事
で忙しいと思うから、もし時間ができたら僕に会ってほしい。突然変なメールしてごめん。
でも僕たちにとっては大事なことだから。じゃあ、玲子叔母さん。会えるようになったら
メールか電話して』



 そのとき僕と明日香は僕が叔母さんに送ったメールのことで少し揉めているところだっ
た。カミングアウトしたいという明日香の希望に沿ってとりあえず僕は玲子叔母さんに大
切な用事があるというメールをした。それを送信した後で明日香がそれを見たがった。別
に隠すようなものでもないので僕は叔母さんに送ったメールを明日香に見せたのだ。

 いつのまにか機嫌を直していた明日香は僕に身を預けるようにして、僕が差し出した携
帯のディスプレイを眺めた。

「あのさあ」

 低い声で明日香が僕に言った。

「うん。とりあえずこれで僕たちが叔母さんに大事な話があることは伝わっただろう」

 僕は明日香に言った。僕はさっそくこいつの希望に応えたのだ。

「お兄ちゃんさ。もしかして自分のことが好きな玲子叔母さんの気持ちを弄んで楽しんで
ない?」

「何のこと?」

 ずいぶんとひどい言われ方だけど、このときの僕には明日香の言ってる言葉の意味がわ
からなかった。

「何よこれ」

 明日香が僕のメールを読み上げた。わざわざ声に出されたことでやっと僕にも明日香の
言いたいことが理解できた。



『叔母さんさっきはごめんなさい。叔母さんに大切な話があるんだ。叔母さんは仕事で忙
しいと思うから、もし時間ができたら僕に会ってほしい。突然変なメールしてごめん。で
も僕たちにとっては大事なことだから。じゃあ、玲子叔母さん。会えるようになったら
メールか電話して』

「この僕たちって誰のことを言ってるの?」

「そら僕とおまえのこと以外にないだろ」

 僕はとりあえずそう答えたけど明日香の怒っている理由も何となくわかる。

「こんなメールを受け取ったら玲子叔母さんがどう考えると思うのよ。『突然変なメール
して』とか『大切な話がある』とか『僕たちにとって大事なこと』とか叔母さんに言うな
んて。いったい何考えてるの」

「いや」

 本当に明日香に言われてメールをしたということ以外は何も考えてはいなかったのだ。



171:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:34:25.82 ID:Ddj6iAmyo

 叔母さんは自分とお兄ちゃんにとって大切な話があるって受け取ったでしょうね」

 明日香が言った。「かわいそうに叔母さん、お兄ちゃんが叔母さんに告白しようとして
いるって思い込んでどきどきしているかもよ」

 詳細は文面では伝えきれないと思ったので、メールでは叔母さんに会いたいということ
だけを切実に伝えるだけにとどめようとしていただけだったのだけど、明日香に言われて
みれば微妙な内容なのかもしれない。僕たちという言葉だって僕と明日香のことを表現し
たつもりだったけど、よく見直せばメールの本文には明日香の名前は一回も出していない。
だからそれが僕と玲子叔母さんのことを指しているのだと叔母さんが考えても不思議はな
かった。

 明日香の言うようにこのメールは叔母さんに対しては誤解を生むかもしれない。そう思
って自分の出したメールを改めて読み直すとこれではまるで僕が玲子叔母さんに愛の告白
しようとしているかのようにも受け取れる。でもそれも叔母さんが僕を男として意識しい
るという仮定が正しければの話に過ぎない。

「まずかったかな」

 僕は少し気弱になって明日香の方を見た。

「これって、完全に告白のために女の子を呼び出すメールだよね」

 明日香が呆れたように言った。

「いやそんなつもりはないんだけど」
 僕はおどおどと明日香の顔をうかがいながら言い訳した。「女の子にメールすることな
んて慣れてないからさ。ちょっと誤解されるような言い回しになったかもしれないけど」

「女の子にメールって・・・・・・。自分の叔母さんにメールしただけじゃないの? それとも
お兄ちゃんの中では玲子叔母さんって女の子扱いになっているわけ?」

 まずい。再び僕は明日香の地雷を踏んだようだ。そんなつもりは全くなかったのだけど、
せっかく僕が叔母さんの体をガン見していたことを許してくれた明日香の憤りに再び火を
つけてしまったようだ。

「違うって。言葉尻を捉えるなよ。誤解を招く表現だったかもしれないけど、わざと書い
たわけじゃないぞ。それに叔母さんだっておまえが言っているような意味では受け取らな
いって。そもそも叔母さんが僕に好意を持っているなんて、全部おまえの妄想だろう」

「それならいけど。でも何で最初に叔母さんに謝っているの」

「それは・・・・・・叔母さんの体を見つめちゃったから」

「お兄ちゃんはそのことを叔母さんが気にしていると思ったから謝ったわけね」

「まあ、気が付いてはいたと思うし」

「お兄ちゃんの言うとおり叔母さんがお兄ちゃんのことを意識していないなら、わざわざ
こんなことを書く意味あるの」

 明日香が指摘した。僕にとって幸いなことに明日香は本気で僕を咎めているわけではな
いようだ。さっきの真面目な言い訳の効果があったのだろう。僕は本気で明日香とこの
先恋人同士でいようと思ったのだ。そして明日香もようやくそのことを信じてくれたみた
いだった。そうでなければこんなにあっさりと追求を止めてくれなかったろう。

「まあいいいけど。叔母さんにはちゃんと話してね」

「わかってる」

 明日香に嫌われていると思っていた時分には全く考えなかったことだけど、こういう仲
になってみると明日香は随分と嫉妬深い恋人のようだった。でもそのことは今の僕にはあ
まり気にならなかった。ちょっと前までの僕たちの関係を考えるとそれは不思議な感覚だ
ったけど決して不快ではない。

「信じているからね」

 明日香が機嫌を直したように僕に抱きついた。

「うん。叔母さんにも父さんたちにもちゃんと話すよ」

 僕も明日香を抱きしめた。慣れというのは恐いものかもしれない。もう僕には明日香の
体を抱くことに違和感がなくなってきていた。実の妹である奈緒を除けば明日香と僕はい
ろいろな意味で一番相性がいいのかもしれない。一緒にいて安心するとか気を遣わなくて
いいとかという意味では、ひょっとしたら明日香は僕にとって奈緒以上に隣にいるのが自
然な存在なのだろうか。

 そんなことを考えながら明日香の体を抱きしめて背中を撫でてやっているうちに、僕は
自分の腕の中の明日香が体を小刻みに揺らしていることに気が付いた。それも僕が明日香
の背中を撫でるごとに次第に大きくなっていくようだ。



172:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:35:12.87 ID:Ddj6iAmyo

 僕は自分の頬に明日香の吐息を感じた。

「どうかした? 傷が痛むのか」

「お、お兄ちゃんのばか。変態」

 明日香は小さい声でそう言った。僕の体に回されている明日香の腕に力が込められた。
 それに気が付いて明日香の顔を見ると顔が真っ赤になっているし息も荒い。

「変態っておい」

「童貞、キモオタ」

 明日香の悪口には慣れていたけど、そのときの明日香の声は今までとは異なり甘いもの
だった。

「恋人同士になっても相変わらずおまえは口が悪いな」

 僕は苦笑して言った。でもこの方が明日香との距離感としては落ち着く。僕は少しだけ
笑ってしまいそうになった。こういうのが本当に幸せということなのかもしれないと僕は
はふと考えた。辛いことを思い出さないようにしたせいか今となっても不完全な過去の記
憶や、奈緒と兄妹の名乗りを上げることによって完治の方向には向かっていたようだけど、
油断するとすぐに発症するかもしれないPTSD。

 ろくなことがなかった僕の人生で初めてのやすらぎが訪れたのかもしれなかった。奈緒
と恋人同士になれたときもそう思ったのだけど、結局あの関係は安定した安寧の地ではな
かったのだ。僕はそういう感傷にふけって明日香を抱いていたのだけど明日香の様子は少
し変だった。

「お兄ちゃんの意地悪」

 自分の脚を僕の足に絡みつかせるようにしながら明日香が小さく言った。明日香の甘い
吐息が僕の耳をかすめた。そして僕の体も明日香に応えて反応しだした。

「もういじめないでよ、お兄ちゃん」

 明日香が悩ましい声で言った。

 僕はそのとき明日香を抱こうと思ったのだけど、お互いに抱き合っている姿勢から次に
はどうしたらいいのかよくわからなかった。服を脱がすのか。それとも服って明日香が自
分で脱ぐものなのか。それでもとりあえず下半身の言うとおりにすることにして、僕は明
日香の胸を触ってみた。考えるよりも行動をという決心は少なくともこのときの明日香に
対しては間違っていないようで、明日香は一瞬びくっとして体を跳ねるようにしたけど、
僕の手を拒否したりはしなかった。

 タイミング的には最悪だったけど、さっきまで明日香に見せていた携帯がマナーモード
になっていなかったせいで、明日香の胸を触りだしたそのときに着信音が鳴った。

こういうことに邪魔が入るのは二度目だった。

 再び邪魔された明日香は不機嫌そうな表情だったけど、こいつらしく僕に抱きついた姿
勢だけは維持していた。そのことが僕には照れくさかった。興奮していた僕は携帯を無視
しようとしたけど、思っていたより冷静だったらしい明日香はディスプレイを見て、僕の
腕から抜け出した。

 僕の腕から抜け出した明日香が勝手に僕の携帯を操作してメールを見ている。

「何で当たり前のように僕あてのメールを見てるんだよ」

 僕はまだ興奮の余韻を残しながら言った。

「やましいことがないならいいいでしょ・・・・・・これ、玲子叔母さんの返信だし」

 僕は明日香の手から携帯を奪い返すようにして叔母さんからのメールを読んだ。



from :玲子
sub  :Re:無題
本文『いつでもいいよ。てか大切な話って何だよ。メールじゃ駄目なの?』

『まあ、仕事の合間とかでいいなら時間は取れるよ。今週中にそっち方面に行くことがあ
るからそんときに電話するよ』

『じゃあおやすみ、奈緒人』

『あとあんた何であたしに謝っているの?』



173:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:35:50.32 ID:Ddj6iAmyo

「ほら見ろ」
 僕はほっとして言った。「叔母さんは全然僕のことなんか気にしてないじゃないか」

「そうだねえ」
 明日香が疑り深そうに叔母さんからのメールを見た。「叔母さんはお兄ちゃんのことは
何とも思っていないのかな」

「だからそう言ったろ」

「そうなのかなあ・・・・・・て、え? お兄ちゃん」

 再び僕に抱き寄せられていきなり自分の胸を愛撫された明日香が戸惑ったように言った。

「続きしようか」

 正直に言うと僕の方も今では玲子叔母さんのメールどころではなかった。

「・・・・・・うん」

 明日香はもう僕にキモオタとか変態とか言わずに僕の手に自分の身を任せた。



 次の土曜日の午後、僕は明日香の了解をもらって奈緒をピアノ教室まで迎えに行った。
奈緒に僕が明日香と付き合い出したことを伝えるためということもあったけど、最後に話
したときに、奈緒からピアノ教室に迎えに来るように言われていたということもあった。

 平日、明日香に付き添って学校を休んでいる間、僕は何回か奈緒にメールしたり電話し
たりしたのだけどメールの方には返事がないし、何度もかけた電話の方は通じない。結局、
金曜日の夜になるまで奈緒からは何の連絡もなかった。

 それで僕はとりあえず土曜日は約束どおり奈緒を迎えに行くことに決めた。明日香は僕
が自分を置いて奈緒に会いに行くことには反対しなかった。奈緒への伝え方は僕に任せる
と言っていたということもあったかもしれないけど、体を重ねてからというものの、あれ
だけ嫉妬深かった明日香はもうあまり奈緒や玲子叔母さんに対しても嫉妬めいたことを口
にしなくなったのだった。

 その代わり明日香は今まで以上にいつも僕の側にいるようになった。

 これまでだって大概ベタベタしていた方だと思うけど、そんなものでは済まないくらい
に。極端な話トイレと風呂以外はいつも一緒にいる感じだ。その風呂だって昨日までは僕
が体を拭いていたのだったから、実質的には常に隣に明日香がいたことになる。

 心理学上、愛撫、慰め、保護の意識を持つとされる距離感である密接距離のままで。

 同時に明日香はやたら甲斐甲斐しくもなった。食事の用意から何から何までも。僕が休
んで家にいたのは明日香の世話を見るためだったからさすがにこれには困った。体調だっ
て完全に回復しているわけではないのだ。

「おまえは座ってろよ。食事なんか僕が作るから」

 僕は彼女にそう言ったのだけど明日香は妙に女っぽい表情ではにかむように笑って言っ
た。

「いいからお兄ちゃんこそ座ってて。こういうのは女の役目なんだから」

 こういう言葉を明日香の口から聞くとは思わなかったけど、それは決して不快な感じで
はなかった。

「でもおまえ体は・・・・・・」

「もう全然平気だよ。でも良くなったってママに言ったら学校に行かなきゃいけないし、
お兄ちゃんと一緒にいられないから」

「ちょっと・・・・・・包丁持ってるのに」

 明日香は文句を言いながらも後ろから抱きしめた僕の手を振り払わずに、包丁を置いて
振り向いた。

「続きはご飯食べた後にしよ?」

 結構長めのキスの後で明日香が顔を紅潮させながら上目遣いに言った。



174:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:36:26.33 ID:Ddj6iAmyo

 出がけに明日香の行ってらっしゃいのキスが思わず長びいたこともあって、到着してそ
れほど待つことなく、ピアノ教室の建物から生徒たちが次々と出てきた。妹を迎えに来
ているんだから恥かしがることはないと思った僕は比較的入り口に近いところで奈緒が出
てくるのを待っていた。これだけ近ければ見落とす心配はない。

 このときの僕は全くの平常心というわけでもなかったけど、それほど緊張しているわけ
でもなかった。奈緒の兄貴だということを知られてしまった今では、僕に彼女ができたと
いうことを奈緒に話すことに対してはあまり抵抗感を感じないようになっていた。

 奈緒はあのとき僕が離れ離れになっていた兄貴であることを自然に受け入れた。初めて
の彼氏を失うことよりつらい別れをした後も、一筋に兄のことを忘れなかった奈緒なのだ
からそういうこともあるだろう。その後の奈緒は、僕と恋人同士であった頃よりも自然な
態度と言葉遣いで僕を慕ってくれた。

 むしろ悩んで混乱していたのは僕の方だった。奈緒が僕のことを兄であると認めてくれ
た事実にさえ嫉妬した挙句、自分の妹に欲情する気持まで持て余して。でもそれももう終
わりだった。今の僕には明日香しか見えていない。明日香の言うとおり僕と明日香は結ば
れる運命だったのかもしれない。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、血の繋がっていな
い男女としてはお互い他の誰よりも長い間身近に暮らしてきた仲なのだ。行き違いや誤解
もあったけどそれを克服して結ばれた間柄のだから、僕はもう明日香を自分から手放す気
はなかった。明日香のいうとおりこのまま付き合って将来は結婚しよう。そして父さんと
母さんがいる家で共に過ごすのだ。子どもだってできるだろうし。

 そんな物思いに耽っていても目の方は奈緒が通り過ぎてしまわないか入り口の方を眺め
ていたのだけど、なかなか奈緒は出てこなかった。いつもより遅いなと思った僕が奈緒の
ことを見落としたんじゃないかと思って少し慌てだしたとき、見知った顔の少女が教室か
ら出てきた。その子は外に出るとすぐに僕のことに気が付いたようだった。

 それは有希だった。有希は慌てた様子もなくにっこり笑って僕の方に駆け寄ってきた。

「奈緒人さん、こんにちは」

「有希さん・・・・・・どうも」

 有希は全く最後に会ったときのことを気にしていない様子だ。

「もしかして奈緒ちゃんのお迎え?」

「うん」

 ここで嘘を言う理由はなかったから僕は正直にうなづいた。

「聞いてないんですか? 奈緒ちゃんは今週はずっとインフルエンザで自宅療養してます
よ。今日もピアノのレッスンは休んでるし」

 それこそ初耳だった。

「知らなかった」

「電話とかメールとかしてないの?」

「したけど返事がなくて」

 有希が少し真面目な顔になって僕に言った。

「奈緒人さん、これから少し時間あります?」

 このとき僕の脳裏に平井さんが口にした女帝と言う言葉が浮かんだ。

 駅前のファミレスは、以前僕と奈緒が初めて一緒に食事をしたときの場所だった。
僕たちはボックス席に納まってオーダーを済ませた。昼食をして行こうということにな
ったのだけど、冬休みのときのように一枚のピザを僕と有希で分け合うということはなか
った。僕たちは言葉少なくそれぞれに注文を済ませた。今日は昼食を食べながら奈緒と話
をするつもりだったから多少は遅くなっても明日香が心配することもない。

「ごめんなさい」

 オーダーが済むとすぐに有希がしおらしい声で僕に頭を下げた。一瞬僕は有希が明日香
が襲われたことを謝ろうとしているのかと思って身構えた。でもそういうことではないら
しい。

「奈緒ちゃんから全部聞きました。奈緒人さんは昔離れ離れになった奈緒ちゃんのお兄さ
んだったって」

 では奈緒はそれを有希に話したのだ。



175:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:36:53.58 ID:Ddj6iAmyo

「あたしそんな家庭の複雑な事情とか考えずに奈緒人さんのこと一方的に責めちゃって。
本当にごめんなさい」

「いや。奈緒のことを心配してくれて言ってくれたんだろうし謝るようなことじゃない
よ」

 依然として女帝疑惑は振り払えていないものの、この件に関しては彼女には非はない。
それに有希が明日香を襲わせたという推論に関しても全く証拠のない話なのだ。

「奈緒人さんは奈緒が妹だって気づいていたんですね。それで奈緒ちゃんがそのことで傷
付かないように距離を置こうとしていたのね」

 有希がずいぶんと感激したように目を潤ませて僕を見つめていた。

「・・・・・・奈緒にはつらい想いをさせたかもしれないけど。まだしも振ってあげた方がいい
かと思って」

「奈緒人さんの気持ちはわかるし、妹思いのいいお兄さんだと思う」
 有希が言った。「でも結果としてはそんな心配はいらなかったようですね」

「うんそうなんだ。でも奈緒はそこまで君に話したの?」

「あたしと奈緒ちゃんは親友ですから」

 有希は少しだけ笑った。「奈緒ちゃんはすごく喜んでました。昔からずっと会いたかっ
た大好きなお兄ちゃんとやっと会えたって。別れてからも毎日ずっと奈緒人さんのことを
考えてたんだって」

「そうだね。僕もああいう別れ方をした妹と再会できて嬉しかったよ」

「だからごめんなさい。何も知らずにあんな偉そうで嫌な態度を奈緒人さんにしてしまっ
て」

 有希はそう言ったけどその後再び体勢を整えるように深く息を吸った。

「でも明日香には謝りません」

 明日香は女帝である自分がが明日香を襲うように指示したことを明かして、そしてその
命令には後悔していないと言っているのだろうか。僕は一瞬凍りついた。

「あたしは奈緒人さんのことが好き。その気持ちが明日香にばれたとき、奈緒ちゃんには
すごく罪の意識を感じたんです。でもそんなあたしの奈緒人さんへの想いを明日香は利用
した」

「ちょっと待って。そうじゃないんだ」

「実の兄妹だと思って完全に油断してました。あのときは明日香は自分が奈緒人さんと血
が繋がっていないことを知っていて、そして奈緒ちゃんが奈緒人さんの本当の妹であるこ
とを知ってたんでしょ?」

「それは・・・・・・そうだけど」

「じゃあ明日香は奈緒ちゃんから奈緒人さんの気持ちを覚めさせるために、とりあえず奈
緒人さんが好きだったあたしの気持ちを利用したのね」

 それは違うと言いたかったけど、そこだけ切り抜くと困ったことに有希の推理は間違っ
ていないのだ。明日香の本当の目的は僕を救うことだった。でもそのためにいろいろと本
来なら取るべきでない手段を明日香が取ってしまったも事実だった。

 それでも僕は明日香を、自分の彼女を弁護しようと試みた。僕はもう全部を有希にさら
け出すことにした。そうしたって有希が明日香に都合よく利用されたという事実は変わら
ないということはわかっていたのだけど。

「明日香は僕が奈緒が自分の妹だって気がついて、それで僕が悩み傷付くことを恐れて、
奈緒から僕の気持ちを引き剥がそうとしたんだ。決して奈緒と別れさせた僕を自分の彼氏
にしたかったからじゃないよ」

 有希は少し考え込んだけどそれでも納得した様子はなかった。

「それが事実だとしても二つ疑問があるよね」

「・・・・・・うん」

「まず一つ目は奈緒人さんを傷つけないためならあたしを傷つけても、奈緒ちゃんが悩ん
でも構わないのかということ。目的が正しければどんな手段を取ってもいいの?」

 僕は答えられなかった。明日香がしたことはまさにそういうことだったから。まともな
答えなんか期待していないのか、黙り込んだ僕には構わず有希は冷静な表情で続けた。



176:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/22(月) 00:37:20.51 ID:Ddj6iAmyo

「もう一つは・・・・・・。あのとき明日香は明らかに奈緒人さんに告白してたよね? あたし
は奈緒人さんと明日香が本当の兄妹だと思っていたから、あのときは自分が明日香に利用
されたんだって思って悲しかった気持ち以上に、実の兄を異性として愛するなんて気持悪
いって思ったのだけど」

 この話の行き先がだんだんと見えてきた。行き着く先は芳しくないところなのだけど、
もともと有希にはそのことをいずれは話すつもりだったのだ。僕は覚悟した。

「奈緒人さんが明日香の本当の兄じゃないなら、お二人は付き合おうと思えば付き合える
んだよね」

「うん」

「明日香の気持ちに応えたの?」

 僕はゆっくりとうなずいた。

「うん。明日香と付き合うことになった」

「ほらね」

 有希が小さく笑って言った。

「兄貴思いの妹の行動だったって言いたいみたいだけど、結局明日香は望んでいたものを
手に入れてるんじゃない」

 結果としてはそうなる。それは否定できない事実だった。

「あのときあたし、明日香にとって都合のいい話だって言ったけど結局そのとおりだった
わけね」

「でも、明日香だって最初は純粋に僕を救うつもりだったんだ。途中で僕のことを好きに
なったのは事実だと思うけど・・・・・・」

 僕の言葉は途中で途切れた。さっきまで笑っていた有希の目に涙が浮かんでいることに
気がついたからだ。

「あたしは奈緒人さんが好きだった。ちょっとしか会っていないのにおかしいかもしれな
いけど。でも明日香の言うとおり万が一奈緒人さんがあたしのことを気にしてくれていた
としても、あたしは奈緒人さんと付き合う気はなかったの。奈緒ちゃんを傷つけたくなか
ったから」

 それは以前にも二人で大晦日の買出しに出かけたとき聞いていた話だった。

「今では奈緒ちゃんは奈緒人さんのことを再会できた大切なお兄さんだと思っているから、
本当はあたしにもチャンスだったのにね」

 有希は涙を浮べたまま再び微笑んだ。

「でも今では明日香が奈緒人さんの隣に座ってるんだね」

「ごめん」

 こんな間抜な返事しか口を出てこなかった。

「奈緒人さんのことは恨んでないよ。逆にあたしが謝らなければいけないの。でも明日香
は・・・・・・」

「有希さん」

 有希は俯いた。彼女が明日香を許す気がないことは明白だった。やがて彼女は顔を上げた。

「今日はもう帰る」

「うん」

 僕には他にかける言葉が思いつかなかった。最後に有希は涙をそっと片手で払いながら
意味深なことを言った。

「明日香のそういう手段を選ばないやり方が、奈緒ちゃんには向けられていないといい
ね」

 どういう意味かを聞き返す暇もなく彼女はもう後ろを振り向かず、僕を残してファミレ
スを出て行ってしまった。

 有希が去っていった後、目の前には手をつけてさえいない料理がテーブルの上に並んで
いた。もったいないし店の人にも変に思われるかもしれない。僕は自分の目の前に置かれ
た冷めたパスタを一口だけ口にしたけどすぐに諦めた。



178:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:33:29.59 ID:YVbOe2ijo

 有希の言うとおりだった。明日香は有希の恋心を僕から奈緒を離すために利用したのだ。
そのときの明日香は僕に対して恋心なんて感じていなかったはずだから、有希を利用した
といってもそれは有希が僕と付き合うようになってもいいと考えての行動だったろう。つ
まりある意味では有希を応援したとも言える。でも結果がこうなってしまえば今さら何を
言っても有希は納得しないだろう。僕と明日香は結ばれたのだ。決して明日香の仕掛けた
手段によって成就した関係ではない。それでも有希の視点から見れば明日香の一人勝だと
いうふうに思われても無理はない。

 僕はもう半ば有希と明日香を仲直りさせることは諦めていた。それに有希には女帝疑惑
がある。本当に有希が中学生離れした恐い女なのかどうかは定かではないけど、明日香の
身の安全を考えると危険は冒せない。そう考えると有希が明日香と仲直りせずこのまま疎
遠になった方が明日香にとっては安全なのかもしれなかった。

 そう考えると奈緒に会いに来た僕は当初の目的を果たせなかったのだけど、有希に対し
ては期せずしてできることはしたような気がしてきた。有希に謝罪し、でも女帝かもしれ
ない有希と明日香をこれ以上関らせないこと。明日香が有希に直接謝罪すると言ったとき、
僕は彼女を止めた。そして一応はそのとき僕が考えていたことは達成できたのだ。

 そのとき有希が最後に言い捨てて言った言葉が胸に浮かんだ。

「明日香のそういう手段を選ばないやり方が、奈緒ちゃんには向けられていないといい
ね」

 僕と奈緒を別れさせようとしていた明日香は取れる手段は全て動員しただろう。そのこ
と自体には感謝していた僕だけど有希の言葉を聞くと胸騒ぎを感じた。手段を選ばないと
いうことは、当時の明日香なら奈緒に対しても何らかの手を打っていたかもしれない。そ
してそれが奈緒を直接的に傷つけるようなことだとしたら。

 でも。

 僕と明日香は結ばれたのだし、もう明日香には僕への隠しごとはないだろう。それに明
日香は奈緒のことを奈緒ちゃんと呼び出したのだ。奈緒が僕の大事な妹だと正しく認識し
たからだろう。その明日香が奈緒にひどいことを仕掛けているはずはない。自分の彼女を
信じよう。明日香はこれまでのところ、有希の件も含めて全てを僕に正直に話してくれて
いた。奈緒の件は有希の思い過ごしか嫌がらせなのだ。

 僕は席を立って勘定を済ませた。インフルエンザになったという奈緒のことも心配だけ
どさすがに命に別状はないだろう。それよりも明日香のところに帰ろう。きっと明日香も
僕の戻りが遅いと心配するだろう。僕はファミレスを出ると足を早めてできたての恋人の
元に急いで戻ろうとした。



179:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:34:11.93 ID:YVbOe2ijo

 奈緒人は昔から内向的性格の子だった少なくとも結城さんが再婚したあたりからは。結
城さんと姉さんとの新しい家庭に迎え入れられた奈緒人はそのことに喜んでいる様子はな
かった。それまでずっと寄り添ってほぼ二人きりで一緒に暮らしてきた奈緒ちゃんとの別
れは、奈緒人にとっては新しい母親や妹で代替できるようなものではなかったのだろう。
当時の奈緒人は母親に放置されていても失わなかった、生まれつきの明るさを全く外に表
わさないようになってしまっていた。それだけ奈緒ちゃんとの強制的な別れがショックだ
ったのだ。

 結城さんと姉さんはそんな抜け殻のような奈緒人に優しく接していた。一見、奈緒人も
奈緒ちゃんのことを口にするでもなく、それに応えているようだった。当時、仕事で多忙
な姉さんにかわって二人の面倒を看ていたあたしが見ても、当時の奈緒人には奇妙な落ち
着きがあった。奈緒ちゃんのいない今の生活に満足していたはずはない彼は、両親にもあ
たしにも奈緒ちゃんが不在であることに対する不満を一切口にしなかったのだ。

 まるで奈緒ちゃんに関する記憶だけが失われたかのように。

 その奈緒人の行動には二つの側面が会ったと思う。一つは精神病理学的な側面だ。あた
しは奈緒ちゃんのことを一言も口に出さない奈緒人は、自分の妹や実の母の記憶を失って
いるのではないかと考えていた。それは昨年結城さんと姉さんが子どもたちに事実を打ち
明けたときの奈緒人のショックで証明されたと思う。

 解離性障害。そのうち奈緒人に当てはまるのは解離性健忘という症例だった。

 あたしはそのことを以前に少しだけ奈緒人に話したことがあった。あのときの奈緒人は
混乱していたしはっきりとは覚えていなかったんじゃないかと思うけど。それは人間の心
の自己防衛機能のひとつだ。例えばレイプされた女の子はその衝撃的な事実から自分を守
るためにそのときの記憶を全く失ってしまう。普通なら障害トラウマになりPTSDを発
症するような出来事だけど、本人には全くその記憶がないので傷付くことすら生じない。
奈緒人の実の母親にネグレクトされた記憶や奈緒ちゃんとの別れの記憶もきっとそういう
ことになっていたのではないか。

 もう一つは奈緒人の性格上の問題だった。自己防衛的な反応によって辛い記憶を失って
いた奈緒人だけど、彼にとって、辛い環境は新しい家族と暮らすようになっても続いてい
た。それは明日香の、奈緒人に向けられた極端な敵意だった。あたしは明日香の行動を逐
一結城さんから聞かされていた。結城さんはどういうわけかあたしが奈緒人の一番の理解
者で味方だと信じていたから、姉さんでさえあたしには話さないようなことでも隠し立て
せず話をしてくれたのだ。多分、このときのあたしは、結城さんにとって離婚した奥さん
に代わって奈緒人の母親役を務めていた妹の唯さんに代わった、第三の奈緒人の母親だっ
たのかもしれない。

「最近、明日香が奈緒人のことを嫌っているんだよね」

 結城さんはあるとき姉さんが不在の自宅で、明日香と奈緒人の夕食の支度をしに来てい
たあたしに言ったことがあった。二階にいる子どもたちに聞かれないようにひそひそ声で。
結城さんの声がよく聞き取れなかったあたしは、しかたなく結城さんの体に密着するよう
にしながら話を聞き取らなければいけなかった。それはまだ結城さんへの成就しない恋心
を抱いてたあたしには辛いことだった。

「明日香の言うには奈緒人が明日香の着替えを覗こうとするとか、自分の体を嫌らしい目
で見るとか、何気なく触ろうとするとか、まあそういうことを奈緒人が自分にしてくるっ
て明日香は言うんだ」

「姉さんは知っているの?」

 あたしは結城さんの側にいることから生じていた胸の高鳴りを押さえつけながら冷静に
聞こえるように結城さんに聞いた。

「ああ。あいつは年頃の男の子ならそいうことがあっても不思議じゃないって言ってるよ。
何も本気で明日香に手を出そうとするわけがないし、むしろ明日香の思い過ごしだって。
玲子ちゃんはどう思う?」

 クラッシク音楽雑誌の業界では名前の知れた結城さんがこんなことでうろたえているの
を見て、あたしは彼のことを可愛らしく感じた。胸のどきどきも収まってきていたし。

「どう思うも何も悪いのは全部明日香だよ」
 あたしははっきりと言った。「わざわざ自分の部屋のドアを開けて見せ付けるように着
替えたり、シャワーの後に下着姿で奈緒人君の前をうろうろしたりしているのは明日香の
方じゃない」

「じゃあ何で明日香は一々奈緒人のことを僕たちに言いつけるようなことをするのかな」

「明日香も可哀そうなんだよ。姉さんが世話できなくてあたしが育てたみたいなものだし。
やっとできたちゃんとしたパパとママのことを奈緒人に取られそうで恐いんでしょ」

 誰が見たってそう見える。それと明日香自身は気づいていないかもしれないけど、自分
と本気で親しくしてくれない奈緒人への苛立ちもあるのだろう。そしてそれは奈緒ちゃん
への嫉妬心かもしれなかった。



180:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:34:52.55 ID:YVbOe2ijo

 明日香にはかなり古い時点から記憶が残っていた。あの夏の日の公園での奈緒人と奈緒
ちゃんとの出会い以降の記憶すら、明日香には思い出という形で自分の中に保存されてい
たのだった。負けず嫌いの明日香が奈緒人の自分に無関心な態度を見て、奈緒ちゃんに負
けているという感情を抱いていたとしても不思議ではない。要するに明日香の行動原理は
嫉妬なのだ。両親に対してにせよ奈緒ちゃんに対してにせよ。そのことを自分で気づいて
いるのかどうかに関らず。

 あたしはそのことを結城さんに説明した。

「明日香が本当に異性として奈緒人のことを好きならこんな嬉しいことはないけどね」

 結城さんは言った。

「兄妹なのに?」

「実の兄妹じゃないし、あいつもそうなることを望んでるんだ」

 どうやら結城さんと姉さんは本気でこの兄妹が男女の仲になることを期待しているらし
い。

「そうすればもううちの家庭はいつまでも一緒にいられるしね」

 結城さんは言った。

「随分単純に考えているのね」

「僕たちは別れと出会いを繰り返してきたからね。それでもようやく結ばれるべき相手と
結ばれたんだ、せめて子どもたちには同じ想いをして欲しくないだけだよ」

「奈緒人君は優しいからなあ」

「え?」

 戸惑った様子の結城さんにあたしは言った。

「奈緒人君は何でも自分の中に溜め込んで自己解決しようとするから。仮に明日香が奈緒
人君への態度を改めて奈緒人君に告白したら、彼は断らないだろうね。明日香の気持ちや
結城さんたちの意向を考えちゃってさ」

 結城さんが考え込んだ。

「玲子ちゃん、頼む」

 いきなり頭を下げた結城さんの態度にあたしはとまどった。

「頼むって何よ。結城さん何言ってるの」

「迷惑かけっぱなしだけど、頼む。奈緒人のことを見てやってください」

「言われなくてもそうするよ。奈緒人君はあたしの大事な甥っ子、いやそうじゃないね。
あたしの大事な息子みたいなもんだし」

 ・・・・・・結城さん。あなたの息子ならあたしの大事な子どもなの。あたしはそのときそう
呟いたのだ。ただし、心の中でだけひっそりと。結城さんの話はそこで終った。明日香が
階下に下りてきて結城さんに抱きついて甘え出したからだ。



181:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:35:33.45 ID:YVbOe2ijo

 自宅のドアを開けると目の前に明日香が立っていたので僕は驚いた。

「明日香、おまえこんなとこで何やってんだよ」

 明日香はそれには答えずに僕に抱きついた。

「おい」

「最近のあたしの勘って結構当たるんだよ」

 明日香が僕の胸に自分の顔を押し付けるようにしながら言った。

「・・・・・・ひょっとしてずっと待ってたの?」

「だから勘だって。お兄ちゃんのことなんかこんなとこでずっと待ってるはずないじゃ
ん・・・・・・って、あ」

 僕に抱き寄せられた明日香が真っ赤になった。

 僕は明日香と抱き合いながらもつれ合うようにソファに倒れこんだ。

「やめてよ、お兄ちゃん乱暴だよ。こら無理矢理はよせ」

 明日香が少しだけ笑って言った。僕はこのとき明日香をソファに押し倒したままの姿勢
で言った。

「有希さんと話をしてきた」

「・・・・・・え?」
 明日香がふざけながら僕に抵抗していた体を凍らせた。「奈緒ちゃんにじゃなくて?」

「奈緒はレッスンを休んでたんだ。それで有希さんと話をした」

「そうか」

 明日香が僕の体から離れて身を起こした。

「有希、怒ってた?」

「うん」

 有希の反応は疑問の余地のないものだった。あれでは誤魔化しようがない。

「そうか・・・・・・」

「おまえと僕が付き合い出したことを聞いてさ。有希さんは自分がおまえに利用されたっ
て思っている。つまりおまえが僕と奈緒を別れさせるために自分の気持を利用したんだっ
て」

「・・・・・・あたし、あのときは本当に有希がお兄ちゃんと付き合ってくれればって思って」

「うん。おまえが僕のことを心配して奈緒と別れさせようとしていたことはわかってる。
でも結果的におまえと僕は付き合っちゃったから、有希さんは素直にはそのことを受け取
れなくなってるんだよ」

「・・・・・・うん」

 明日香はさっきまでの元気を失って俯いてしまった。

「気にするなとは言えないけど」

 僕は明日香の肩を引き寄せて言った。

「でももう仕方ないよ。おまえはやっぱり有希さんには悪いことしたんだよ」

 僕は明日香の涙を指で払った。明日香が僕の方を見た。

「それでも僕だけはわかってるから。ずっと一緒にいるんだろ? 有希さんの怒りも何も
かも僕が引き受けるよ」



182:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:36:14.76 ID:YVbOe2ijo

「お兄ちゃん」

「だからおまえはもう悩むな。僕が全部引き受けるから」

「いいの? あたし本当にお兄ちゃんに全部頼っていいの」

「うん。僕はおまえの兄貴で彼氏なんだからさ・・・・・・って、え?」

 明日香が僕に抱きついて僕の唇を塞いだのだ。

 口を離しても明日香は僕から離れようとしなかった。もうこれでいいのだ。これでもう
何度目かわからないけど明日香を大切に思う気持ちが僕の中に溢れた。明日香の取った行
動は間違っているにせよその動機は僕のためだ。

「前にも言ったけど、おまえはもっと僕を頼れって。まああまり頼りにならないかもしれ
ないけどさ」

 明日香は何も言わずに子どものように僕に頭を擦り付けているだけだった。僕は黙って
明日香の華奢な体を抱きしめた。



183:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:37:00.30 ID:YVbOe2ijo

第三部



 僕が初めて彼女に出会ったのは大学のサークルの新歓コンパの席上だった。その年サー
クルに入会した新入生たちは男も女もどちらも子どもっぽい感じがした。多分一年生のと
きは僕も同じように見えたのだろうけど。その中で彼女だけはひどく大人びていてクール
な印象を受けた。見た目が綺麗だったせいか、彼女は上級生の男たちに入れ替わり話しか
けられていた。その年の新入生の女の子の中では彼女は一番人気だった。その子が気にな
った僕はしばらく彼女の方をじっと見て観察していた。

 彼女はこだわりなく笑顔で先輩たちに応えていたけど、その態度は非常に落ち着いたも
のだった。どうにかすると年下の男たちを年上の女性がいなしているような印象すら受け
た。彼女が綺麗だったことは確かだったから、僕も彼女に自己紹介したいなとぼんやりと
会場の隅の席で一人で酒を飲みながら考えていた。そういう意味では僕も新入生の彼女に
群がる上級生たちと考えていることは一緒だった。でも彼女の側からは一向に話しかける
連中がいなくならないし、その群れに割り込むのも自分のプライドが邪魔していたので僕
は半ば諦めて同じ二回生の知り合いの女の子と世間話をする方を選んだ。

「結城君も彼女のこと気になるの?」

 しばらく僕は知り合いの子の隣でその子から彼氏の愚痴を聞かされていたのだけど、そ
のうち僕が自分の話をいい加減に聞き流していることに気がついて彼女がからかうように
言った。

「別にそうじゃないけど。彼女、大人気だなって思って」

「あの子、綺麗だもんね。夏目さんって言うんだって」

 僕の隣で知り合いの子がからかうように笑って言った。気になっていた子の話題になっ
たせいか僕は再び離れたテーブルにいる彼女の方を眺めた。そのとき、ふと顔を上げて周
囲を見回した新入生の彼女と僕の目が合った。彼女は戸惑う様子もなく落ち着いて僕に軽
く会釈した。新入生が誰に向かってあいさつしているのか気になったのだろう。彼女を取
り巻いていた男たちの視線も僕の方に向けられたため、僕は慌てて彼女から目を逸らして
何もなかったように隣の子の方に視線を戻した。それで、僕は結局新入生の彼女のあいさ
つを無視した形になった。

「結城君らしくないじゃん。新入生にあいさつされて照れて慌てるなんて」

 彼女が僕をからかった。

「放っておいてくれ」

 僕はふざけているような軽い調子で答えたけど、心の中では自分の今の不様た態度が気
になっていた。あれでは新入生の彼女の僕への印象は最悪だったろう。まあでもそれでい
いのかもしれない。あんなやつらみたいに新入生の女の子に媚を売るようにしながら彼女
の隣にへばりつくよりも。みっともない真似をしなくてよかった。僕はそう思い込むこと
にした。



 次に僕が彼女に出合ったのは、階段教室で一般教養の美術史の講義に出席していたとき
だった。その講義は出席票に名前を書いて提出し課題のレポートさえ提出してさえいれば、
その出来や講義時の態度に関わらず単位が取れると評判だったので広い階段教室は一二年
の学生で溢れていた。美術になんかに興味はない僕はさっさと出席票を書いて教室の後ろ
の出口から姿を消そうと考えていた。講義が始まってしばらくすると出席票が僕の座って
いる列に回ってきた。自分の名前を出席票に書いて隣に座っている女の子に回して、僕は
そのまま席を立とうとした。そのとき、僕は彼女に声をかけられた。

「こんにちは結城先輩」

 出席票を受け取った隣の女の子はサークルの新入生の夏目さんだったのだ。驚いて大声
を出すところだったけど今は講義中だった。僕はとりあえず席に座りなおした。

「ごめんなさい、わからないですよね。サークルの新歓コンパで先輩を見かけました。一
年の夏目といいます」

 講義中なので声をひそめるように彼女が言った。

「知ってるよ。あそこで見かけたし・・・・・・でも何で僕の名前を?」

「先輩に教えてもらいました」

 彼女は出席票に女性らしい綺麗な字で自分の名前を記入しながらあっさりと言った。僕
はその署名を眺めた。夏目 麻季というのが彼女の名前だった。彼女は出席票を隣の学生
に渡すともう話は終ったとでもいうように美術史のテキストに目を落としてしまった。

「じゃあ」



184:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:38:01.83 ID:YVbOe2ijo

 彼女に無視された形となった僕はつぶやくような小さな声で講義に集中しだした彼女に
声をかけて席を立った。もう返事はないだろうと思っていた僕にとって意外なことに、夏
目さんがテキストから顔を上げて怪訝そうに僕を見上げた。

「講義聞かないんですか?」

「うん。出席も取ったしお腹も空いたし、サボって学食行くわ」

 夏目さんはそれを聞いて小さく笑った。

「結城先輩ってもっと真面目な人かと思ってました」

「・・・・・・そんなことないよ」

 僕は思わず夏目さんの眩しい笑顔に見とれてしまった。中途半端に立ったままで。

「でも先輩格好いいですね。年上の男の人の余裕を感じます」
 彼女がどこまで真面目に言っているのか僕にはわからなかったけど、彼女の言葉は何か
を僕に期待させ、そしてひどく落ち着かない気分にさせた。

「じゃあ、失礼します」

 くすっと笑って再び夏目さんはテキストに視線を落としてしまった。

 気になる新入生から話しかけられる。それも僕の名前を知っていたというサプライズの
せいで、それからしばらくは僕の脳裏から彼女のことが離れなかった。何で僕の名前を知
りたがったのか、何で僕に話しかけたのか、何で僕のことを格好いいと言ったのか。悩み
は尽きなかった。多分僕は彼女のことが気になっていたのだ。それも恋愛的な意味で。

 彼女への思いが次第に募っていくことは感じてはいたけれど、それからしばらく彼女と
話をする機会はなかった。キャンパス内で友人たちと一緒にいる彼女を見かけることは何
度かあったけど、彼女が僕にあいさつしたり話しかけたりすることはなかった。

 ひょっとしたらもう二度と夏目さんと会話することはないかもしれない。そう思うと残
念なような寂しいような感慨が胸に浮かんだけど、僕はすぐにその思いを心の中で打ち消
した。僕と彼女では釣りあわないし、きっと縁もなかったのだろう。そう考えれば夏目さ
んに対する未練のような感情は薄れていった。彼女は僕の人生でほんの一瞬だけ触れ合っ
ただけなのだろう。これ以上夏目さんのことを深く考えるのはやめようと僕は思った。

 それにこの頃僕は偶然に幼馴染の女の子とキャンパス内で再会していた。同じ大学の同
じ学年だったのに今までお互いに一向に気がつかなかったのだ。

「結城君」

 自分の名前を背後で呼ばれた僕が振り返ると懐かしい女の子が泣いているような笑って
いるような表情で立ちすくんでいた。

「・・・・・・もしかして理恵ちゃん? 神山さんちの」

「うん。博人君でしょ。わぁー、すごい偶然だね。同じ大学だったんだ」

「久し振りだね」

 中学二年生のときに僕は引っ越しをした。それで幼稚園の頃からお隣同士だった理恵と
はお別れだったのだ。あのとき涙さえ見せずに強がって笑っていた彼女との再会はいった
い何年ぶりだっただろう。僕に声をかけたときい理恵はびっくりしたような表情だった。
そして僕がほんとうにかつての幼馴染だとわかったとき、どういうわけか理恵は少しだけ
目を潤ませたのだった。久し振りに会った理恵に対して懐かしいという思いは確かにあっ
た。でもそれ以上に理恵に対しては再会というよりは自分好みの女の子にようやく出会っ
たという気持ちの方が大きかったかもしれない。気が多い男の典型のようだけど、理恵と
再会した僕は夏目さんのことを忘れ理恵のことを思わずじっと見つめてしまった。

「な、何」

 僕の無遠慮な視線に気がついた利恵が顔を赤くして口ごもった。そのときは僕たちはお
互いの家族の消息を交換して別れただけだったけど、僕の脳裏には夏目さんの表情が薄れ
ていって代わりに理恵の姿が占めるようになっていったのだ。

 その後、再会してからの理恵は僕と出会うと一緒にいた友だちを放って僕の方に駆け寄
って来るようになった。そして僕の腕に片手を掛けて僕に笑いかけた。

「博人君」

「な、何」

 突然片腕を掴まれた僕は驚いて理恵の顔を見る。周囲にいた学生たちがからかうような
羨望のような視線を僕に向ける。

「別に何でもない・・・・・・呼んだだけだよ」



185:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:38:44.96 ID:YVbOe2ijo

 理恵は笑って僕の腕を離して友だちの方に戻って行く。僕に向かって片手をひらひらと
胸の前で振りながら。

 この頃になると僕の意識の中では物怖じしない明るい女の子として理恵に密かに恋する
ようになっていた。理恵の僕に対する態度も積極的としか思えなかったので、僕は久し振
りに再会した幼馴染に対する自分の恋はひょっとしたら近いうちに報われるのではないか
と思い始めていた。つまり一言で言うと僕は理恵に夢中になっていたのだ。なので一瞬だ
け気になった夏目さんと疎遠になったことを思い出すことはだんだんと無くなっていった。

 僕と理恵はお互いに愛を告白したわけではなかったけど、次第にキャンパス内で一緒に
過ごす時間が増えてきた。付き合ってるんだろとかって友人に言われることも多くなって
いた。そろそろ勇気を出して理恵に告白しよう。僕がそう考え出していたときのことだっ
た。

 その日もいつもと同じような一日の始まりだろうと思っていたのだ。自分の狭いアパー
トで身支度を済ませた僕がアパートを出たとき、アパートのドアの前に女の子が立ってい
た。僕は一瞬目を疑った。外出して講義に行こうとした僕の目の前にいたのは夏目さん、
夏目麻季だったのだ

「おはようございます、先輩」

 彼女は微笑んで言った。

「・・・・・・夏目さん? どうしているの」

 そのときはそう言うのが精一杯だった。そこに恥かしげに微笑んでいる理恵がいるのな
らまだ理解できた。その頃の僕は理恵に惹かれ出していたし、思い切り恥かしい勘違いを
しているのでなければ理恵も僕のことを気にはなっていたはずだから。でも目の前にいた
のは夏目さんだった。いったいどうしてここに彼女がいるのだ。

「サークルの先輩に結城先輩のアパートの住所を聞きました」

「いや・・・・・・そうじゃなくて。ここで何してるの」

 夏目さんはここで何をしているのだろう。僕には理解できなかった。とりあえずこの人
目の多すぎるアパートでする話じゃない。僕は夏目さんを促して駅前のカフェに彼女を誘
った。

「・・・・・・サークルで何かあったの」

 人気のない奥の席に落ち着いてから僕は夏目さんに話しかけた。この頃になるとだいぶ
落ち着いてきた僕はサークルで何かが起こったのではないかと思いついたのだ。でもそう
言うことでもなかったみたいで、夏目さんは顔を横に振った。そして突然意表をついた質
問を僕に投げかけたのだ。

「先輩、神山先輩と付き合ってるんですか」

 いったい何の話だ。というか何で彼女が理恵のことを知っているのだ。

「君は理恵、いや。神山さんのこと知ってるのか」

「知ってますよ。最近、先輩と仲良さそうに話している人は誰ですかって聞いたらサーク
ルの先輩が教えてくれました」

「・・・・・・何でそんなこと聞いたの」

 夏目さんは少しだけ俯いたけどやがて意を決したように淡々と話し始めた。

 彼女の話は僕の想像を超えていた。要するに夏目さんは、僕が自分のことを好きなので
はないかと考えたと言うのだった。そして自分のことを好きな僕が仲良さそうに理恵と話
しているのを目撃し、それがどういう意味なのかを聞きに来たそうだ。

「夏目さんさ、それいろいろおかしいでしょ」

 僕はようやくそれだけ言うことが出来たけど、彼女はそれには答えずに言った。

「・・・・・・先輩、あたしのこと好きなんでしょ」

「何言ってるの」

「あたし、わかってた。最初に新歓コンパで合ったとき、先輩はあたしのことじっと見て
たでしょ」

「・・・・・・それだけが根拠なの」

「それだけじゃないですよ。美術史の講義で会ったときも先輩、じっとあたしのこと見つ
めていたでしょ」



186:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:39:33.15 ID:YVbOe2ijo

 自惚れるのもいい加減にしろ。いったい彼女は何様のつもりだ。腹の奥底から怒りが込
み上げてきた。

「君、正気か。酔ってるの?」

「酔ってませんよ。先輩こそ嘘つかないで。あたしがこんなに悩んでいるのに」

「あのさあ、確かに僕は君のことを見たよ。それは認める。君は綺麗だし。でもそれだけ
で君のことを好きとか決め付けられても困るよ。第一、僕は一言だって君のことが好きだ
とか付き合ってくれとか言ってないでしょ」

「生意気なようですけど先輩って自分に自信がなさそうだし、あたしのことを好きだけど
勇気がなくて告白できなかったんじゃないですか。あたし、ずっと先輩の告白を待ってた
のに」

 おまえは何様だ。僕は怒りに振るえた。確かに彼女は目を引く容姿と落ち着いた行動を
取れるだけの知性を備えているのだろう。そして自分の容姿に自信もあるに違いない。そ
れはこの十分程度の会話からでも理解できた。だからといってこんな風に僕の気持ちを決
め付けていい理由にはならない。そのとき僕はふと思いついた。ひょっとしたらこれはも
てない男をからかうゲームなのだろうか。

「・・・・・・・もしかして君は誰かに何かの罰ゲームでもさせられてるの? そうだとしたら
巻き込まれる方は迷惑なんだけど」

「先輩こそいい加減にしてください」

 夏目さんが怒ったように言った。何か彼女の様子がおかしい。

「罰ゲームって何よ。何であたしのことをからかうんですか? あたしのこと好きじゃな
いなら何であんな思わせぶりな態度をとるんですか」

 自信たっぷりだと思っていた夏目さんが今度は泣き出したのだ。

「・・・・・・泣くなよ。わけわかんないよ」

「ひどいですよ。結城先輩、美術史の講義の日からあたしのことを無視するし。あたしの
こと嫌いならはっきり嫌いって言えばいいでしょ」

「あのさあ。僕が君のことを好きなんじゃないかと言ったり嫌いだと言ったり、さっきか
ら何を考えてるんだよ」

「何でわざとあたしの目の前で神山先輩といちゃいちゃするのよ」

 夏目さんはついに声を荒げた。

「してないよ、そんなこと」

「あたしを悩ませて楽しんでいるの? 何であたしに思わせぶりな態度を取りながら神山
先輩との仲を見せつけるんですか。あたしを悩ませて楽しんでるんですか」

 とうとう夏目さんは普通に喋れないくらいに泣き出してしまった。もうこのあたりで僕
は夏目さんとまともな話は出来ないと悟った。彼女は普通じゃない。確かに一時期は気に
なった女の子だったけど、これだけ聞けば十分だった。学内で人気の彼女は実はメンタル
面で問題のある女の子だったのだ。そして運の悪いことにそのメンタルの彼女の関心を偶
然にも僕は引いてしまったようだった。

 その日、何とか彼女を宥めた僕は、夏目さんをその自宅まで送っていった。キャンパス
から一時間くらいの閑静な住宅地にある彼女の自宅まで。駅から彼女の自宅まで歩いてい
るうちに夏目さんは冷静になったようで、今度はしきりに僕に謝りだした。さっきまでの
激情が嘘のようだった。

 夏目さんを送ったあと、僕は大学に向かった。キャンパスに着いて今朝起きた出来事を
ぼうっと思い出していると、今度は理恵に話しかけられた。今までの出来事が嘘みたいに
理恵は明るく僕に話しかけてきた。僕は笑っている理恵に無理に微笑んで見せた。



187:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:40:14.20 ID:YVbOe2ijo

 夏目さん・・・・・・いやもういっそ麻季と呼んだほうがいいだろう。自宅アパート前で待ち
伏せされたあの日からほどなくして僕は麻季と付き合い出したのだから。

 麻季のことをどう考えればいいか最初は自分でもよくわからなかった。でも、何を考え
ているのかわからない麻季が、理恵のことを問い詰めてきたときの表情を思い出すと、い
くら綺麗な子だとはいってもできれば二度と関わらないようにする方がいいと僕は思い直
した。麻季を自宅に送って行ったとき彼女はようやく我に返ったように泣いて謝ったけど、
それは単に謝ったと言うだけで自分の突飛な行動の動機を話てくれたわけではなかった。

 理恵は相変わらず学内で僕を見かけると一緒にいる友だちを放って駆け寄って来る。置
き去りにされた友だちの女の子たちは僕たちの方を見てくすくす笑って眺める。僕は幼い
頃に心をときめかした同い年の女の子との再会に満足してもいいはずだった。

 でも理恵と一緒にいても、僕の視線はどういうわけかいつのまにか麻季を追い求めてい
るのだった。あれ以来麻季は全く僕と話そうとしなかった。たまに教室とかですれ違って
も彼女は僕の方を見ようともしなかったのだ。

 その日も僕は理恵と並んで歩いていた。理恵はさっきから自分の妹が最近生意気だとい
う話を楽しそうにしていた。玲子ちゃんというのが理恵の妹の名前だった。僕たちが昔隣
同士に住んでいた頃には理恵には妹はいなかったから、僕が引っ越した後で生まれたのだ
ろう。今では小学生になったという玲子ちゃんは理恵にとってはひどく相手にしづらい気
難しい女の子らしい。理恵のふくれた顔を眺めながら僕は彼女の話にあいづちを打ってい
た。でも正直会ったことすらない小学生の女の子に興味を抱けという方が無理だった。た
とえそれが気になっている女の子の話だとしても。

 そのとき視線の端に麻季の姿が見えた。彼女は誰か知らない上級生の男と一緒だった。
一瞬、何か心に痛みが走った。麻季が他の男と寄り添って一緒に歩いている。それだけの
ことに僕はこんなに動揺したのだった。よく考えれば僕だって理恵と並んで歩いているの
に。隣で話している理恵の声が消え僕は自分の心が傷付くだろうことを承知のうえで麻季
の方を見つめた。

 でも何か様子がおかしかった。僕が見つめている先に一緒にいる男女は何かいさかいを
起こしているようだった。自分の肩を押さえた男の手を麻季は振り払っていた。

「それでね、玲子ったら結局あたしの買ったCDを勝手に学校に持って行っちゃってね」

「・・・・・・うん」

 手を振り払われた男は麻季のその行為に唖然とした様子だったけど、すぐに憤ったよう
に麻季の顔を平手打ちした。麻季の体が地面に崩れた。

「でね、あいつったら勝手に友だちに貸して」

「悪い」

 僕は驚いたように話を途中で中断した理恵を放って麻季と男の方に駆け出した。このと
きはよくわからないけど何だか夢中だった。とにかくあの麻季が暴力を振るわれているこ
とに我慢できなかったのだ。僕は中庭のベンチの横にいる二人の側まで走った。麻季は地
面に崩れ落ちたままだ。激昂した男が何か彼女に向かって言い募っている。再び男が手を
上げたとき僕は二人の側に到着した。

 先輩らしい男はけわしい表情で僕を見た。それでもその先輩はか弱い女には手をあげた
のだけど、まともに男相手に喧嘩する気はないようだった。きっと手を痛めつけられない
のだろう。ピアノ科とか器楽科にいる連中なら無理もなかった。普通音大には演奏系、作
曲・指揮系、音楽教育系の学科がある。演奏系の学生にとっては手は喧嘩ごときで傷める
わけにはいかない。逆に言うとこの先輩は、自分の大切な手を女を殴るためなんかによく
も使えたものだ。

 僕は音楽学を選考していたから実際の器楽の演奏にはそれほど執着がない。先輩が麻季
を虐めるのを止めないのならそれなりに考えがあった。でも駆けつけてきた僕を見て先輩
は急に冷静になったようで、人を馬鹿にするものいい加減にしろと倒れている麻季に言い
捨ててその場をそそくさと去って行った。

「君、大丈夫?」

 僕は倒れている麻季に手を差し伸べた。そのときの彼女はきょとんした表情で僕を見
上げた。

「怪我とかしてない?」

「……先輩、神山先輩と別れたの?」

 僕が麻季を地面から立たせると、それが僕であることを認識した彼女は場違いの言葉を
口にした。

「何言ってるんだよ。そんなこと今は 関係ないだろ」
 僕は呆れて言った。「君の方こそ彼氏と喧嘩でもしたの?」

「彼氏って誰のことですか?」



188:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:40:55.43 ID:YVbOe2ijo

 相変わらずマイペースな様子で麻季が首をかしげた。男にいきなり平手打ちされて地面
に倒されたというのに、そのことに対する動揺は微塵も見られなかった。

 やはり彼女はいろいろおかしい。僕はそう思ったけど、同時に首をかしげてきょとんと
している麻季の様子はすごく可愛らしかった。綺麗だとか大人びているとか思ったことは
あったけど、守ってあげたいような可愛らしいさを彼女に対して感じたのはこのときが初
めてだった。

 とりあえず麻季は怪我はしていない様子だったけど、そのまま別れるのは何となく気が
引けていた僕は彼女を学内のラウンジに連れて行った。ラウンジは時間を潰している学生
で溢れていた。そのせいかどうか学内で目立っている麻季を連れていても、僕たちはそれ
ほど人目を引くことなく窓際のテーブルに付くことができた。

「ほら、コーヒー」

「ありがとう。結城先輩」

 麻季は暖かいコーヒーの入った紙コップを受け取った。それからようやく麻季はさっき
の先輩のことを話し始めた。

「よくわかんないの。でも一緒に歩いていたらこれから遊びに行こうって誘われて、講義
があるからって断ったら突然怒り出して」

 それが本当なら悪いのは自分の意向を押し付けようとして、それが断られた突端に麻季
に手を出した先輩の方だ。でも、あのとき先輩は馬鹿にするなと言っていた。

「よくわかんないけど、付き合っているのに何でそんなに冷たいんだって言われた。わた
しは別にあの先輩の彼女じゃないのにおかしいでしょ?」

 やはり内心そうではないかと思っていたとおりだったようだ。

 最初に新歓コンパで麻季を見かけたときはひどく大人びた女の子だと思った。群がる先
輩たちへの冷静な受け答えを見ていて、彼女は単に男にちやほやされることに慣れている
というだけではなく、しっかりと自分を律することができるんだろうなと。新入生にとっ
てはいくら男慣れしている子でも初めてのコンパで先輩たちに取り囲まれれば多少は狼狽
してしまうはずだけど、彼女には一向にそういう様子が無かったから。

 でもそういうことだけでもないらしい。実はこの子は他人とコミュニケーションを取る
のが苦手な子なのではないだろうか。僕の家に押しかけてきたときの様子だってそうだし、
今現在だってそうだけど僕には麻季が何を考えているのかさっぱりわからない。でも麻季
の中では自分の態度とそれに至る思考過程はきっと一貫しているのだろう。

 先輩はきっと麻季が自分のことを好きなのだと解釈したのだ。そしてその考えに沿って
麻季に対して馴れ馴れしい態度を取ったに違いない。そして麻季も先輩の行動の意味を深
く考えることもせず、自分の意に染まないことを強要されるまではなすがままに付き合っ
ていたのだろう。僕が麻季について思いついたのはこういうことだった。突然に表面に現
われる麻季の突飛な態度もその過程の説明がないから驚くような行動に思えてしまうので
あって、彼女の中ではその行動原理は一貫しているのではないか。

 ・・・・・・こうして考えるとまるでボーダー、境界性人格障害のような感じがする。

 でもきっとそれほどのことではない。麻季の舌足らずの言葉の背後を探ってやればきっ
と彼女が何を考えているのかわかるのだろう。

「神山先輩と別れたの?」

 麻季が言った。

「別れるも何も付き合ってさえいないよ」

「・・・・・・先輩?」

 そのとき気がついた。きっと先輩に殴られて倒れた時に付いたのだろう。麻季の髪に枯
葉の欠片が乗っていた。僕は急におかしくなって声を出して笑った。麻季は思ったとおり
急に笑い出した僕の様子を変だとも思わなかったようだった。僕は手を伸ばして麻季のス
トレートの綺麗な髪から枯葉を取った。その間、麻季はじっとされるがままになっていた。
麻季の髪の滑らかな感触を僕は感じ取ってどきどきした。

「結城先輩、やっぱりあたしのこと好きでしょ」

 麻季が静かに笑って言った。



189:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:42:01.23 ID:YVbOe2ijo

 それは思っていたより普通の恋愛関係だった。僕は麻季と付き合い出す前にも数人の女
の子と付き合ったことがあった。そのどれもがどういうわけか長続きしなかった。結果と
して麻季との付き合いが一番長く続くことになった。あのとき麻季と付き合い出すことが
なかったら、きっと僕は理恵に告白していただろう。そして多分その想いは拒否されなか
ったのではないか。でも麻季と付き合い出してからは自然と理恵と会うこともなくなって
いった。理恵の方も遠慮していたのだと思うし、それよりも僕はいつも麻季と一緒だった
から理恵に限らず他の女の子とわずかな時間にしろ二人きりで過ごすような機会は無くな
ったのだった。

 勢いで付き合い出したようなものだったけど、いざ自分の彼女にしてみると麻季は思っ
ていたほど難しい女ではなかった。こうしてべったりと一緒に過ごしていると、麻季の思
考は以前考えていたような難しいものではなかったのだ。付き合い出す前はボーダーとか
メンヘラとか彼女に失礼な考えが浮かんだことも確かだったけど、いざ恋人同士になり麻
季と親しくなっていくと意外と彼女は付き合いやすい恋人だった。

 多分、四六時中側にいるようになって僕が彼女が何を考えているのかをわかるようにな
ったからだろう。それに思っていたほど麻季はコミュ障ではなくて、相変わらず言葉足ら
ずではあったけど、それでも僕は彼女の考えがある程度掴めるようになっていった。彼女
には嫉妬深いという一面もあったし、ひどく情が深いという一面もあった。そういうこれ
まで知らなかった麻季のことを少しづつ理解して行くことも、僕にとっては彼女と付き合
う上での楽しみになっていた。

 僕が三回生になったとき麻季はお互いのアパートを行き来するのも面倒だからと微笑ん
で、ある日僕が帰宅すると僕のアパートに自分の家財道具と一緒に彼女がちょこんと座っ
ていた。合鍵は渡してあったのだけどこのときは随分驚いたものだ。

 同棲を始めて以来、僕たちはあまり外出しなくなった。食事の用意も麻季が整えてくれ
る。意外と言っては彼女に失礼だったけど、麻季は家事が上手だった。そんな様子は同棲
を始める前は素振りにさえ見せなかったのに。

 僕がインフルエンザにか罹って高熱を出して寝込んだとき、僕は初めて真剣に狼狽する
麻季の姿を見た。

「ねえ大丈夫? 救急車呼ぼうよ」

 僕は高熱でぼうっとしながらも思わず微笑んで麻季の頭を撫でた。麻季は僕に抱きつい
てきた。

「インフルエンザが移るって。離れてろよ」

「やだ」

 僕は麻季にキスされた。結局僕の回復後に麻季が寝込むことになり逆に僕が彼女を介抱
する羽目になったのだ。

 この頃になるとサークルでも学内でも僕たちの付き合いは公認の様相を呈していた。麻
季は相変わらず目立っていた。やっかみ半分の噂さえ当時の僕には嬉しかったものだ。こ
れだけ人気のある麻季が心を許すのは僕だけなのだ。麻季の心の動きを知っているのは僕
だけだ。それに麻季自身が関心を持ち一心に愛している対象も僕だけなのだ。

 麻季と肉体的に結ばれたとき彼女は処女だった。別に僕は付き合う相手の処女性を求め
たりはしないし、僕が今まで経験した相手だって最初の女の子を除けばみな体験者だった
けどそれでも麻季の初めての相手になれたことは素直に嬉しかった。

 僕が四回生で麻季が三回生のとき、僕は就職先から内定をもらった。この大学では亜流
だった僕は別に演奏家を目指しているわけでも音楽の先生を目指しているわけでもなかっ
たので、普通に企業への就職活動をしていた。音楽史と音楽学のゼミの教授はこのまま院
に進んでこのまま研究室に残ったらどうかと勧めてくれたけど、僕は早く就職したかった。
麻季のこともあったし。結局、ゼミの教授の推薦もあって老舗の音楽雑誌の出版社から内
定が出たときは本当に嬉しかったものだ。

 内定の連絡を受けた僕は迷わずに麻季にプロポーズした。僕の申し出に麻季は信じられ
ないという表情で凍りついた。感情表現に乏しい彼女だけどこのときの彼女の言葉に誤解
の余地はなかったのだ。

「喜んで。この先もずっと一緒にあなたといられるのね」

 このときの麻季の涙を僕は生涯忘れることはないだろう。一年半の婚約期間を経て僕と
麻季は結婚した。僕と麻季の実家の双方も祝福してくれたし、サークルのみんなも披露宴
に駆けつけてくれた。

「麻季きれい」

 麻季のウエディングドレス姿に麻季の女友達が祝福してくれた。僕の側の招待客は親族
を除けば大学や高校時代の男友達だけだった。幼馴染の理恵を招待するわけには行かなか
った。でもずいぶん後になって知り合い経由で理恵が僕たちを祝福してくれていたという
話を聞いた。



190:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:42:46.76 ID:YVbOe2ijo

 結婚後しばらくは麻季も働いていた。それは彼女の希望でもあった。ピアノ専攻の彼女
は演奏家としてプロでやっていけるほどの才能はなかったけど、ピアノ科の恩師の佐々木
先生の個人教室のレッスンを手伝うことになったのだ。でもそれもわずかな期間だけだっ
た。

 やがて麻季は彼女の希望どおり妊娠して男の子を産んでくれた。僕たちは息子の奈緒人
に夢中だった。もちろん麻季は佐々木教授の手伝いをやめて専業主婦として育児に専念し
てくれた。奇妙なきっかけで始まった僕たちの夫婦生活は順調だった。麻季は理想的な妻
だった。かつて彼女のことを境界性人格障害だと疑った自分を殴り倒してやりたいほど。

 僕は本当に幸せだった。仕事も多少は多忙であまり麻季を構ってやれなかったけど、で
きるだけ早く帰宅して奈緒人をあやすようにしていた。僕が奈緒人を風呂に入れるとき、
麻季は心配そうに僕の手つきを眺めていたのだ。これでは麻季の育児負担を軽減するため
に僕が奈緒人の入浴を引き受けた意味がないのに。

 僕たちの生活は順調だった。少なくともこのときの僕には何の不満もなかったのだ。

 麻紀と奈緒人と共に歩んでいく人生に何の不満もないと思っていたのは本当だったけど、
あえて物足りないことあげるとしたら、奈緒人が誕生してから麻季との夜の営みが途絶え
てしまったことくらいだろうか。ある夜奈緒人が寝入った後の夫婦の寝室で、僕は出産以
来久し振りに麻季を抱き寄せて彼女の胸を愛撫しようとした。少しだけ麻季は僕の手に身
を委ねていたけどすぐに僕の腕の中から抜け出した。

「・・・・・・麻季?」

 これまでになかった麻季の拒絶に僕は内心少しだけ傷付いた。

「ごめんね。何だか疲れちゃってそういう気分になれないの」

 子育ては僕たちにとって始めての経験だったし、疲れてその気になれないことだってあ
るだろう。僕は育児で疲労している麻季のことを思いやりもせずに自分勝手に性欲をぶつ
けようとしたことを反省した。こんなことで育児もろくに手伝わない僕が傷付くなんて考
える方がおかしい。何だか自分がすごく汚らしい男になった気がした。

「いや。僕の方こそごめん」

 僕は麻季に謝った。

「ううん。博人さんのせいじゃないの。ごめんね」

 一度僕の腕から逃げ出した麻季は再び僕に抱きついて軽くキスしてくれた。

「もう寝るね」

「うん。おやすみ」

 これが僕たち夫婦のセックスレスの始まりだった。この頃はまだ奈緒人には手がかかっ
ていた頃だった。実際、育児雑誌で注意されている病気という病気の全てに奈緒人は罹患
した。そのたびに麻季は狼狽しながら僕に電話してきて助けを求めたり、病院に駆け込ん
だりして大騒ぎをした。

 麻季は真剣に誠実に育児に取り組んでいた。それは確かだったしそんな妻に僕は感謝し
ていたけれど、それにしてももう少し肩の力を抜いた方がいいのではないかと僕は考えた。
そしてそのそのせいで何度か麻季と言い争いになったこともあった。麻季は奈緒人を大切
に育てようとしていた。僕たち夫婦の子どもなのだからそれは僕にとっても嬉しいことで
はあったけど、麻季の場合はそれが行き過ぎているように思えた。

 市販の粉ミルクで赤ちゃんが死亡したニュースを見てからは、麻季は粉ミルクを使うこ
とを一切やめて、母乳だけで奈緒人を育てようとした。ちなみに危険な粉ミルクのニュー
スは外国の出来事だ。それから大手製紙会社の製品管理の不具合のニュースを見て以来、
麻季は市販の紙おむつを使用することをやめ、自作の布おむつを使用するようになった。
製紙会社の不祥事は紙おむつではなくティッシュ製造過程のできごとだったのだけど。

 麻季との同棲生活や結婚生活を通じて彼女がここまで脅迫的な潔癖症だと感じるような
ことはなかった。結局、麻季は僕と彼女との間に生まれた奈緒人のことが何よりも大事な
のだろう。そういう彼女の動機を非難することはできないし、息子の母親としてはむしろ
理想的な在り方だった。

 最初の頃少し揉めてからは、行き過ぎだと思いつつも僕は黙って麻季のすることを容認
することにした。若干不安は残ってはいたけどそもそも仕事が多忙でろくに育児参加すら
できていない僕には麻季の育児方法について口を出せるのにも限度があった。

 こんなに一生懸命になって奈緒人を育てている麻季に対して、これ以上自分勝手な性欲
を押し付ける気はしなかったので、僕は当面はそういうことに麻季を誘うことを止めるこ
とにした。内心では少し寂しく感じてはいたけど。



191:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:43:28.34 ID:YVbOe2ijo

 それに麻季は奈緒人だけにかまけていたわけではなかった。この頃の僕はちょうど仕事
を覚えてそれが面白くなっていた時期でもあったし、少しづつ企画を任されて必然的に多
忙になっていった時期でもあった。だから育児に協力したいという気持ちはあったけど、
実際にはニ、三日家に帰れないなんてざらだった。なので出産直後のように奈緒人をお風
呂に入れるのは僕の役目という麻季との約束も単に象徴的な夫婦間の約束になってしまっ
ていて、たまの休日に「パパ、奈緒人のお風呂お願い」と麻季に言われて入浴させる程度
になっていた。それすら麻季は育児に協力できないで悩んでいる僕に気を遣って言ってく
れたのだと思う。ろくに育児に協力できない僕の気晴らしのためにわざと奈緒人を風呂に
入れるように頼んでくれていたのだろう。

 どんなに育児に疲れていても僕に対するこういう気遣いを忘れない彼女のことが好きだ
った。僕は麻季と結婚してからどんどん彼女のことが好きになっていくようだ。そして麻
季も夫婦間のセックスを除けば、そんな僕の想いに応えてくれていた。この頃は僕も忙し
かったけど麻季だって育児に追われていたはずだ。それでも彼女は一日に何回も仕事中の
僕にメールしてくれた。

 奈緒人が初めて寝返りをうったとき。奈緒人が初めて「ママ」と呼んだとき、奈緒人が
初めてはいはいしたとき。その全てのイベントを僕は仕事のせいで見逃したのだけど、麻
季はいちいちその様子を自宅からメールしてくれた。そのおかげで僕は息子の成長をリア
ルタイムで感じることができた。当時は今ほど気軽に画像を添付して送信できなかった時
代だったので麻季からのメールには画像はなかったけど、それを補って余りあるほどの愛
情に満ちた文章が送られてきたのだ。

 麻季は昔から感情表現が苦手な女だった。それは結婚してからも同じだった。それでも
僕たちが幸せにやってこれたのは僕が彼女の言外の意図を読むことに慣れたからだった。
でも仕事のせいで麻季と奈緒人にあまり会えない日々が続いていたせいで、麻季は僕との
コミュニケーションにメールを多用するようになった。そして、目の前にいる彼女の思考
は読み取りづらくても、メールの文章は麻季の考えを明瞭に伝えてくれることが僕にもわ
かってきた。文章の方がわかりやすいなんて変わった嫁だな。僕は微笑ましく思った。

 そういうわけで麻季の関心が育児に移ってからも彼女の僕への愛情を疑ったことはなか
った。それは疲れきって自宅に帰ったときに食事の支度がないとか、風呂のスイッチも切
られていたとかそういう次元の不満がないことはなかったけど、僕が帰宅すると奈緒人と
添い寝していた麻季は寝床から起き出して、疲れているだろうに僕に微笑んで「おかえり
なさい」と言って僕の腕に手を置いて軽くキスしてくれる。それだけで僕の仕事のストレ
スは解消されるようだった。

 この頃の麻季の僕に対する愛情は疑う余地はなかったけど、やはり夜の夫婦生活の方は
レスのままだった。奈緒人が一歳の誕生日を迎えた頃になると育児にも慣れてきたのか麻
季の表情や態度にもだいぶ余裕が出てきていた。以前反省して自分に約束したとおり僕は
麻季に拒否されてから今に至るまで彼女を求めようとはしなかったけど、そろそろいいの
ではないかという考えが浮かんでくるようになった。まさかこのまま一生レスで過ごすつ
もりは麻季にだってないだろうし、いずれは二人目の子どもだって欲しかったということ
もあった。

 そんなある夜、久し振りに早目の時間に帰宅した僕は甘えて僕に寄り添ってくる麻季に
当惑した。奈緒人はもう寝たそうだ。その夜の麻季はまるで恋人同士だった頃に時間が戻
ったみたいなに僕に甘えた。

 これは麻季のサインかもしれない。ようやく彼女にもそういうことを考える余裕ができ
たのだろう。そして表現やコミュニケーションが苦手な彼女らしく態度で僕を誘おうとし
ているのだろう。長かったレスが終ることにほっとした僕は麻季を抱こうとした。

「やだ・・・・・・。駄目だよ」

 肩を抱かれて胸を触られた途端に柔らかかった麻季の体が硬直した。でも僕はその言葉
を誘いだと解釈して行為を続行した。このとき麻季がもう少し強く抵抗していればきっと
彼女も相変わらず疲れているのだと思って諦めたかもしれない。でもこのときの麻季は可
愛らしく僕の腕のなかでもがいたので、僕はそれを了承の合図と履き違えた。しつこく体
を愛撫しようとする僕に麻季は笑いながら抵抗していたから。でもいい気になって麻季の
服を脱がそうとしたとき、僕は突然彼女に突き飛ばすように手で押しのけられた。

「あ」

 麻季は一瞬狼狽してその場に凍りついたけどそれは僕の方も同じだった。

 僕は再び麻季に拒絶されたのだ。

「ごめん」
「ごめんなさい」

 僕と麻季は同時にお互いへの謝罪を口にした。

「ごめん。今日ちょっと酒が入っているんで調子に乗っちゃった。君も疲れているんだよ
ね。悪かった」

 いつまで麻季に拒否されるんだろうという寂しさを僕は再び感じたけど、ろくに家に帰
ってこない亭主の代わりに家を守って奈緒人を育ててくれている麻季に対してそんなこと
を聞く権利は僕にはない。



192:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:44:09.51 ID:YVbOe2ijo

「あたしの方こそごめんなさい。博人君だって我慢できないよね」

「いや」

「・・・・・・口でしてあげようか」

 麻季が言った。それは僕のことを考えてくれた発言だったのだろうけど、その言葉に僕
は凍りつき、そしてひどく屈辱を感じた。

「もう寝ようか」

 麻季の拒絶とそれに続いた言葉にショックを受けたせいで、僕のそのときの口調はだい
ぶ冷たいものだったに違いない。

 そのとき麻季が突然泣き始めた。

「悪かったよ」

 僕はすぐに麻季を傷つけた自分の口調に後悔し、謝罪したけど彼女は泣き止まなかった。

「ごめんなさい」

「君のせいじゃないよ。僕のせいだ。君が奈緒人の世話で疲れてるのにいい気になってあ
んなことしようとした僕の方が悪いよ。本当にごめん」

 それでも麻季は俯いたままだった。そして突然彼女は混乱した声で話し始めた。

「ごめんなさい。謝るから許して。あたしのこと嫌いにならないで」

 僕は自責の念に駆られて麻季を抱きしめた。こんなに家庭に尽くしてくれている彼女に
こんなにも暗い顔をさせて謝らせるなんて。

「謝るのは僕のほうだよ。まるでけものみたいに君に迫ってさ。君が育児と家事で疲れて
るってわかっているのに。仕事にかまけて君と奈緒人をろくに構ってやれないのに」

 僕の方も少し涙声になっていたかもしれない。麻季は僕の腕の中で身を固くしたままだ
った。かつて彼女が僕のアパートに押しかけてきたときの、まるで言葉が通じなかった状
態のメンヘラだった麻季の姿が目に浮かんだ。ここまで麻季と分かり合えるようになった
のに、一時の無分別な性欲のせいでこれまでの二人の積み重ねを台無しにしてしまったの
だろうか。

 そのとき麻季が濡れた瞳を潤ませたままで言った。

「本当に好きなのはあなただけなの。それだけは信じて」

 何を言っているのだ。僕は本格的に混乱した。もともとコミュ障気味の麻季だったけど、
このときは本気で彼女が何を言っているのかわからなかった。

「わかってるよ。落ち着けよ」

「あなたのこと愛している・・・・・・あなたと奈緒人のこと本当に愛しているの」

「僕も君と奈緒人のことを愛してるよ。もうよそうよ。本当に悪かったよ。君が無理なら
もう二度と迫ったりしないから」

「違うの。あなたのこと愛しているけど、あの時は寂しくて不安だったんでつい」

「・・・・・・え」

 僕はその告白に凍りついた。

「一度だけなの。二回目は断ったしもう二度としない。彼ともちゃんと別れたし。だから
許して」

 混乱する思考の中で僕は麻季に抱きつかれた。僕の唇を麻季がふさいだ。そのまま麻季
は僕を押し倒して覆いかぶさってきた。

「おい、よせよ」

「ごめんね・・・・・・しようよ」

 彼女はソファに横になった僕の上に乗ったままで服を脱ぎ始めた。僕は混乱して麻季を
跳ね除けるように立ち上がったのだけど、その拍子に彼女は上着を中途半端に脱ぎかけた
まま床に倒れた。麻季が泣き始めた。深夜になってようやく落ち着いた麻季から聞き出し
た話は僕を混乱させた。麻季は浮気をしていたのだ。それも奈緒人を放置したままで。



193:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:44:49.99 ID:YVbOe2ijo

 その相手との再会は保健所の三ヶ月健診から帰り道でのできごとだった。麻季は奈緒人
を乗せたベビーカーを押して帰宅しようとしていた。途中の駅の段差でベビーカーを持て
余していた麻季に手を差し伸べて助けてくれた男の人がいた。お礼を言おうと彼の顔を見
たとき、二人はお互いに相手のことを思い出したそうだ。

 彼は大学時代に麻季を殴った先輩だったのだ。麻季は最初先輩のことを警戒した。でも
先輩は何事もなかったように懐かしそうに麻季にあいさつした。当時近所にママ友もいな
いし僕も滅多に帰宅できない状況下で孤独だった麻季は、先輩に誘われるまま近くのファ
ミレスで昔話をした。サークルや学科の友人たちの消息を先輩はたくさん話してくれた。

 当時の友人たちはそれぞれ自分の夢に向かって頑張っているようだった。中には夢を実
現した友人もいた。僕との結婚式で「麻季、きれい」と感嘆し羨望の眼差しをかけてくれ
た友人たちに対して当時の麻季は優越感を抱いていたのだけど、その友人たちは今では華
やかな世界で活躍し始めていた。国際コンクールでの入賞。国内どころか海外の伝統のあ
るオケに入団している友だちもいた。

 それに比べて自分は旦那も滅多に帰宅しない家で一人で子育てをしている。麻季の世界
は奈緒人の周囲だけに限定されていた。結婚式で感じた優越感は劣等感に変わった。麻季
の複雑な感情に気づいてか気が付かないでか、先輩は自分のことも話し出した。国内では
有名な地方オーケストラに入団した先輩は、まだ新人ながら次の定期演奏会ではチェロの
ソリストとして指名されたそうだ。

「みんなすごいんですね」

「君だって立派に子育てしてるじゃん。誰にひけ目を感じることはないさ。それにとても
幸せそうだよ」

「そんなことないです」

「きっと旦那に大切にされてるんだろうね。まあ、正直に言うと君ほど才能のある子が家
庭に入るなんて意外だったけどね」

「あたしには才能なんてなかったし」

「佐々木先生のお気に入りだったじゃん。みんなそう言ってたよ。君がピアノやめちゃう
なんてもったいないって」

 そのときは先輩と麻季はメアドを交換しただけで別れた。それ以来先輩からはメールが
毎日来るようになった。その内容も家に引きこもっていた麻季には眩しい内容だった。そ
のうちに麻季は先輩とのメールのやり取りを楽しみにするようになった。

 そしてその日。先輩のオケの定期演奏会のチケットが送られてきた。それは先輩がソリ
ストとしてデビューするコンサートのチケットだった。麻季は実家に奈緒人を預けて花束
を持ってコンサートに出かけた。知り合いのコンサートを聴きに行くのは久し振りで彼女
は少しだけ大学時代に戻った気がしてわくわくしていた。

 終演時に観客の喝采を浴びた先輩は、客席から花束を渡す麻季を見つめて微笑んだ。実
家に預けた奈緒人のことが気になった麻季がコンサートホールを出たところで、人目を浴
びながらもそれを気にする様子もなく先輩がタキシード姿で堂々と彼女を待ち受けていた。

 その晩、誘われるままに先輩と食事をした麻季はホテルで先輩に抱かれた。



 話し終えた麻季がリビングの床にうずくまっていた。さっき脱ごうとした上着の隙間か
ら白い肌を覗かせたままだ。それがひどく汚いもののように見える。情けないことに僕は
一言も声を出すことができなかった。麻季が浮気をした。こともあろうに大学時代に僕が
麻季を救ったその相手の先輩と。麻季との恋愛や結婚、そして奈緒人の誕生は全てそこが
出発点だったのにその基盤が今や音を立てて崩壊したのだ。

「・・・・・・先輩のこと好きなの?」

 僕はようやく言葉を振り絞った。

「本当に好きなのは博人くんだけ。でも信じてもらえないよね」

 俯いたまま掠れた声で麻季が言った。

「先輩と何回くらい会ったの」

「最初の一度だけ。そのときだって先輩に抱かれながら奈緒人とあなたの顔が浮かんじゃ
って。もうこれで最後にしようって彼に言ったの。それから会ってないよ」

 回数の問題じゃない。確かに慣れない子育てに悩んでいる麻季を仕事にかまけて一人に
したのは僕だった。でも心はいつも麻季と奈緒人のもとを離れたことなんてなかった。麻
季だって寂しかったのだ。仕事中に頻繁に送られてくるメールだって今から思えば寂しさ
からだったのだろう。でも僕はそこで気がついた。あれだけ頻繁に僕に送信されていた
メールがあるときを境にその回数が減ったのだ。それは麻季が先輩と再会してメールでや
り取りを始めた頃と合致する。



194:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/23(火) 00:45:31.23 ID:YVbOe2ijo

「先輩って鈴木って言ったっけ」

「・・・・・・うん」

「鈴木先輩って独身?」

「うん。でも彼とはもう別れたんだよ。一度だけしかそういうことはしてないよ」

 そのとき僕はもっと辛いことに気がついてしまった。麻季が先輩に抱かれた時期は、麻
季に拒否された僕がもう麻季に迫るのはやめようとしていた時期と同じだった。つまり麻
季は僕に対しては関係を拒否しながらも先輩に対しては体を開いていたことになる。僕の
中にどす黒い感情が満ちてきた。できることならこの場で暴れたかった。あのとき鈴木先
輩がしたように麻季の頬を平手で殴りたかった。

「先輩のこと好きなのか?」

「何でそんなこと言うの」

 麻季は不安そうに僕を眺めて言った。

「僕は君のこと愛しているから。君が僕と離婚して先輩と一緒になりたいなら・・・・・・」

「違う!」

 麻季がまた泣き出した。

「先輩は君たちの関係のことを何か言ってたんでしょ」

「それは」

「泣いてちゃわからないよ。ここまできて隠し事するなよ」

 この頃になってだんだん僕の言葉も荒くなってきた。自分を律することが難しくなって
きていた。

「・・・・・・あの。あなたと別れて一緒になってくれって。奈緒人のこともきっと幸せにする
からって」

「そう」

 本当に今日はこのあたりが限度だった。このまま話していると本当に麻季に手を上げか
ねない。奈緒人の名前が先輩の口から出たと言うだけで自分の息子が彼に汚されたような
気さえする。

「でも断ったよ、あたし。最初のときからすごく後悔したから。あの後先輩からメールが
いっぱい来たけど返事しないようにしたんだよ」

 麻季は泣きながら震える手で自分の携帯を僕に見せようとした。

 誰がそんなもの見るか。

「今日はもう寝よう。明日は休みだし明日また話そう」

 僕は立ち上がった。僕の足に麻季がまとわりついた。

「お願い、許して。何でもするから。あたしあなたと別れたくない」

「・・・・・・今日はここで寝るよ。君は奈緒人の側にいてあげて」

 絶望に満ちた表情で床に座り込んだ麻季が僕を見上げた。麻季の悲しい表情を見ること
が今まで僕にとって一番悲しく嫌なことだったはずのに、このときは僕は麻季の絶望に対
しても何も感じなくなってしまっていたようだった。



196:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:36:45.64 ID:8QxDihXuo

 ほとんど眠れなかった僕は翌日ソファで強張った体を起こした。体に掛けられていた毛
布が体から滑り落ちて床に広がった。麻季が僕に毛布を掛けたのだろう。その記憶がない
ところを見ると僕は少しは眠ったのかもしれない。

 家の中は妙に静かだった。もう朝の九時近い。

 ソファで無理のある姿勢で一晩を過ごしたせいで体の節々が痛かった。僕は起き上がっ
て寝室の様子を覗った。寝室からは何の気配もしない。麻季のことはともかく奈緒人がど
うしているか気になった僕は寝室のドアをそっと開けて中を覗き込んだ。

 ドアを開けた僕の目に麻季がベッドの上で奈緒人に授乳している光景が目に入った。麻
季も昨晩の告白に悩んでいたはずだけど、このときだけは自分の白い胸に夢中になってし
ゃぶりついている我が子のことを慈愛に満ちた表情で見つめていたのだ。麻季は寝室のド
アが開いたことにも気がついていない様子だった。

 このとき僕が我を忘れて見入ったのは麻季ではなく奈緒人だった。もう離乳食を始めて
いたはずなのだけど、このときの奈緒人は母親の乳房に夢中になって吸い付いていたのだ。
自分の妻と自分の息子なのだけど、このときの母子の姿は何というか神々しいという感じ
がした。

「おはよう」

 麻季はさぞかし僕に言い訳したかっただろう。でも彼女は僕の方を振り返ることをせず、
「しっ」と僕を優しくたしなめた。

「・・・・・・ごめんなさい。久し振りに奈緒人がおっぱいを欲しがってるの」

「うん、そうだね。ごめん」

 僕は寝室のドアを閉じた。やがて麻季が寝室から出てきてリビングのソファでぼんやり
とテレビを見ている僕の向かいに座った。いつもなら迷わず僕の隣に座るのに。

「ごめんね。もう離乳できてたはずなんだけど、今日は奈緒人はおっぱいが欲しかったみ
たい」

「奈緒人は?」

「お腹いっぱいになったら寝ちゃった。ベビーベッドに寝かせてきた」

「そうか」

「ごめん」

 何で麻季は謝るのだ。奈緒人のことで彼女が謝る理由なんて一つもない。むしろ謝るの
は他のことじゃないのか。さっき見かけた母子の美しい様子が僕の脳裏に現われてしまっ
た。でも昨晩の麻季の告白が思い浮んだ。麻季の謝罪は浮気についてなのだろうか。僕は
混乱していた。これでは冷静な判断ができない。

「奈緒人は離乳が早いよな」

 僕は何となくそう言った。

「そうね。長い子だと卒乳するのが四歳とか五歳の子もいるみたいだよ」

「そうか」

「・・・・・この子も感じていたのかもね。自分の母親が自分だけの物を父親でもない男に触
らせてたって」

 彼女は暗い表情でそう言った。僕は麻季の言葉に凍りついた。

「昨日は慌ててみっともない姿を見せちゃったけど、あたしのしたことが博人君にとって、
それに奈緒人にとってもどんなにひどいことだったのかがよくわかった」

「うん」

 僕にはうんという以外の言葉が思いつかなかった。

「本当にごめんなさい。今でも愛しているのはあなたと奈緒人だけ。でも自分がしたこと
が許されないことだということもわかってる」

「僕は・・・・・・。奈緒人の世話もろくにしなかったし君を一人で家に放置していたことも認
めるよ。仕事が忙しかったとはいえ反省はしている。でもだからといって他の男に抱かれ
ることはなかったんじゃないか」

「うん」

「うんじゃねえよ」

 僕は思わず声を荒げた。



197:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:37:47.72 ID:8QxDihXuo

「不満があるなら何で僕に話さないんだよ。僕にセックスを迫られるのが嫌なら何でもっ
とはっき言りわないんだよ。僕が悪いことはわかってるよ。だからと言っていきなり浮気
することはねえだろ」

「ごめんなさい」

「謝らなくていいから理由を話してくれよ。もう一度聞く。今度は本気で答えろよ」

「・・・・・・はい」

「鈴木先輩のこと、たとえ一瞬でもエッチできるくらいに好きだったの?」

「それは・・・・・・うん」

「僕とはエッチするのは嫌だったのに?」

「・・・・・・」

「黙ってちゃわからないよ。僕が迫っても拒否したのに、先輩に誘われれば体を許したん
だろ」

「うん」

 それを静かに肯定した麻季に僕は逆上した。

「もう離婚だな。このクソビッチが。先輩が好きなら何で大学時代に先輩のとこに行かな
かったんだよ。何で僕のことを誘惑した? 何で僕と理恵の仲に嫉妬したりした?」

 麻季は俯いて黙ってしまった。麻季の目に涙が浮かんだ。一瞬その場を嫌な沈黙が支配
した。そのとき寝室から奈緒人の泣き声が聞こえた。僕と麻季は同時に立ち上がり競うよ
うにして寝室に殺到した。奈緒人はベビーベッドの柵を乗り越えて床に落下したのだった。
一瞬これまでの麻季とのいさかいを忘れ僕は心臓が止まる思いをした。でも奈緒人はそん
な僕の心配には無頓着に起き上がってたちあがり、よたよたとニ三歩歩いた。

「奈緒人が歩いたよ、おい」

「うん。少しだけだったけどしっかり歩いたよね」

 その瞬間僕たちはいさかいを忘れ瞬時に夫婦、いや父母に戻ったのだ。

 麻季が再び床に倒れた奈緒人を抱き上げた。麻季に抱き上げられた奈緒人はもう泣き止
んでいて、麻季の腕から逃れたいようにじたばたしていた。

「フロアに立たせてみて」

 僕は麻季にそっと言った。麻季はもう僕のことは忘れたように返事せずに奈緒人を見つ
めながら大切な壊れ物を置くように寝室のカーペットの上に立たせて、そっと手を離した。

 もう間違いではない。奈緒人は再び自力で歩行して、すぐに倒れ掛かった。危ういとこ
ろで僕は奈緒人を抱き上げることができた。

「やった」
「やったね」

 僕と麻季は目を合わせて微笑みあった。そして申し合わせたように奈緒人の表情を眺め
た。奈緒人はもう歩くことに飽きてしまったようで、僕に抱かれたまま僕の胸に顔を押し
付けて再びうとうとし始めていた。

 僕は自分の腕の中にいる奈緒人を見つめた。

 奈緒人を実家に預け僕以外の男に抱かれた麻季。僕の誘いを拒否して一度だけとはいえ
鈴木先輩に抱かれた麻季。そんな彼女を許す理由としては傍から見れば非常にあやふやだ
ったかもしれない。でも奈緒人の初めての歩行を実際に見届けて感動していた僕は、その
思いを共有できるのは麻季だけだとあらためて気がついたのだ。僕と麻季はそれまでのい
さかいを忘れ、狭い寝室の中初めて歩行した奈緒人のことを見つめていたのだ。このとき
はもう言葉は必要なかったみたいだった。

 結局このときは僕は麻季を許してやり直す道を選んだ。先輩とは二度と連絡もしないし
会わないという条件で。

「僕たち、最初からやりなおそうか。奈緒人のためにも」

 僕の許容に最初は呆然として戸惑っていた様子の麻季は、泣きながら僕に抱きつこうと
して僕に抱かれている奈緒人に気がついて自重した。その代わりに彼女は奈緒人を抱いて
いる僕の手を強く握った。麻季の手は少し湿っていて冷たかった。



198:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:38:23.78 ID:8QxDihXuo

 奈緒人への愛情から麻季の浮気を許した僕だったけど、心底から麻季の改悛の情を信じ
られたわけではなかった。正直に言えば彼女の僕に対する愛情への疑いは残っていた。あ
のときの麻季の言葉を何度脳内で再生したかわからない。



「鈴木先輩のこと、たとえ一瞬でもエッチできるくらいに好きだったの?」

「それは・・・・・・うん」

「僕とはエッチするのは嫌だったのに?」

「・・・・・・」

「黙ってちゃわからないよ。僕が迫っても拒否したのに、先輩に誘われれば体を許したん
だろ」

「うん」



 僕が麻季を許したのは奈緒人のことが大切だからだった。麻季の僕への愛情については
疑わしかったけど、麻季の奈緒人への愛情についてだけは疑いの余地はなかったのだ。

 浮気をした妻と浮気をされた夫のやり直しというのは思ったより大変だった。この頃の
僕はひどく卑屈になっていた。もともと僕たちの付き合いは麻季が僕のアパートに押しか
けてきたときから始まった。あのときの僕は麻季がメンヘラではないかと疑ったのだった。
麻季は僕が自分のことを好きなのにわざと意地悪して理恵と付き合っていると思い込んで
いた。そんなつもりは全くかったのに。

 でも今になっては浮気された僕にとって、それは麻季を信じるためのエピソードの一つ
だった。その思い出は付き合い出してから浮気するまでの彼女の僕への献身的ともいって
いい態度とともに、麻季を信じようとする僕の力になってくれた。それでもそれは未だに
引きずっていた麻季に対する僕の疑念や嫌悪を振り払うには十分な力を持っていなかった
のだけど、僕は自分の意思の力でそれを補おうとした。

 麻季は先輩とは完全に別れたと言った。もともと気が進まない関係だったのだと。僕に
浮気を告白したその晩に先輩に対して、「もうあたしのことは放っておいて。先輩とは二
度と会わない」とメールしたそうだ。別に疑う理由もないので僕は麻季の携帯の送信ボッ
クスを確認することもなくその言い訳を受け入れた。


 こうして僕と麻季の最初の危機は何とか破滅を回避できたように思えた。危機を回避し
たあと、僕たちは麻季が自分の浮気を告白する前の生活習慣に忠実に過ごすようになった。
何もかもが以前のとおりだった。麻季は先輩に出会う前にしてくれていたように、相変
わらず会社で多忙に過ごしている僕に再び奈緒人の写メや一言コメントをメールで送って
くれるようになった。それは麻季が先輩と浮気してからはおろそかになっていた行事だっ
た。麻季の浮気以降で大きく変わったことはまだあった。

 夫婦の危機があったからといって業務の多忙さは少しも遠慮してくれなかった。むしろ
その頃の僕は昇進して小さなユニットの部下を指揮して企画記事を製作する立場に立たさ
れるようになったのだ。もちろんその昇進には昇給がついてきていたから、僕は家庭にか
まけて仕事をおろそかにするわけにはいかなかった。なので麻季とやり直すと決めた日か
らしばらくして、僕は前以上に帰宅する頻度が減った。それでも一度過ちを犯して僕に許
された麻季は何も不満を言わなかった。たまの休暇の日にへとへとになって帰宅した僕を
麻季は笑顔で迎えてくれた。

 問題はその後だった。麻季が妊娠してから長年レスだった、というか僕が迫っても拒否
していた彼女が、どういうわけか僕が仕事で疲労困憊して帰ってくるようになったこの頃
から逆に積極的になったのだ。最初のうちはこれまで僕を拒否していた麻季が、自分から
僕に抱かれようとしていることが嬉しかった。たとえ罪の意識からにせよ、麻季が本心で
僕とやり直そうと努力している証拠だと思ったから。

 でも実際に行為に及ぼうとすると、以前は執着していた麻季の子どもを生んだとは思え
ない綺麗な裸身に対して、僕は得体の知れない嫌悪を抱いたのだ。

 僕も努力はした。意思の力を結集して僕に迫ってくる麻季の裸身を愛撫した。喘ぎ出し
た麻季にキスもした。でも駄目なのだ。いざ事に及ぼうとすると僕は全くその気になれな
くなるのだった。一時はあれだけ拒絶する麻季を抱こうとして足掻いていたというのに。
自分が抱いている麻季の美しい身体は少なくとも一度は鈴木先輩に抱かれて悶えていたの
だ。そう考えた瞬間、僕は萎えてしまい麻季を抱けなくなってしまう。でも麻季はそうい
う僕を責めなかった。



199:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:38:55.40 ID:8QxDihXuo

 そういうときの麻季は「気にしないで」って言って微笑んだ。それはきっと自分のした
行為が僕にどんな影響を及ぼしたかを慮り、そしていい妻であろうと努めようとしたから
だろう。だから勘ぐれば麻季だって義務感から僕を誘っているだけかもしれなかった。そ
して僕がその気にならず僕の相手をしなくてすんだことにほっとしていたのかもしれない。
自分の方から僕を誘っただけで麻季の義務は終了しているのだから。それでも僕は麻季を
信じた。奈緒人が始めて自分の足で歩いたときの麻季の姿と大学時代に僕に声をかけてき
た麻季の様子を思い浮かべて。

 麻季は奈緒人にとってはいい両親だったと思うけど、夫婦としての肉体的な関係はレス
のままだった。以前は麻季に拒否されたからだ。でも今ではその責任と原因は僕にあった。



 その日も僕は編集部で目の回るような多忙な日常を過ごしていた。印刷会社に入稿する
記事の締切日は近づいてきているのに原稿は手元にない。遅筆で有名な評論家の自宅に催
促に行こうとしていた僕は、自分のデスクで鳴り出した電話を取った。

「結城編集長に鈴木様という方からお電話です」

 交換にはいと答えてすぐに受話器の向こうで声がした。

「はい。結城です」

「突然すいません。えと、覚えていますか? あたしは太田と言いますけど」

「はい? 鈴木さんじゃないんですか」

 受話器の向こうで慌てたような感じがする。

「あ、いえ。鈴木なんですけど、結婚前は太田でした。というか大学時代は太田だったん
で結城先輩には太田と言ったほうがいいかなって」

 結城先輩ってなんだろう。ゼミの後輩に太田なんていたっけ。

「すいません。よくわからないんですけど、失礼ですけどどちらさまでしょうか」

 万一作家さんだったらまずいので僕はていねいに聞き返した。

「旧姓は太田れいなといいます。結婚して鈴木になりましたけど」

「はあ」

「ごめんなさい。わかりまえせんよね。首都圏フィルの渉外担当の鈴木と申します。来月
のコンサートの取材の件でご連絡させていただきました」

 それでようやく彼女の用件がわかった。首都圏都フィルは自治体が援助している地方オ
ケの中では実力のあるオーケストラだった。全国レベルの有名なオーケストラほど知名度
は高くないけど、知る人ぞ知るという感じで固定のファンも結構ついていた。特に最近、
地方オケでは有り得ないほど知名度の高いコンダクターが常任指揮者に就任することも話
題となっていた。僕はその指揮者へのインタビューをメールで事務局に申し込んでいた。
メールを読んだ担当者が連絡をくれたのだろう。そこまでは別に不審な点はなかった。

 だけどこの担当者は鈴木なのか太田なのか。それにいきなり人のことを先輩と呼ぶのは
どういうわけなのだろう。

「あの、先輩ってどういうことですか?」

 電話の向こうで少し考え込む気配がした。それからようやく落ち着いた声で返事が帰っ
てきた。

「ごめんなさい。混乱させちゃって。というかあたしの方が混乱しているんですけど」

 何だかさっぱり要領を得ない。

「うちの金井へのインタビューは喜んでお受けします。金井にも了解は得ています」

 ようやく本題に入ったようだ。

「ありがとうございます。それで取材の日時なんですけど」

「これから会えませんか?」

「はい?」

「直接会って打ち合わせさせてください」

 彼女は一方的に時間と場所を指定して僕が返事をする間もなくいきなり電話を切った。
僕のサラリーマン生活を通じてここまでひどいビジネストークは初めてだった。



200:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:39:23.86 ID:8QxDihXuo

 鈴木さんだか太田さんだかの指定した時間は一時間後で、場所は編集部のすぐ近くの喫
茶店だった。幸か不幸か一時間後には何も予定は入っていない。

 僕は首を傾げた。非常識な話しだし何が何だかわからないけど、とりあえず行って話し
を聞けば疑問も晴れるだろう。それに金井氏へのインタビューは次号の目玉記事になる。
先方の担当者の奇妙な言動のせいでなかったことにされるわけにはいかなかった。僕は立
ち上がって椅子に掛けていた上着を羽織った。

「お出かけですか、デスク」

 部下の一人が僕に声をかけた。

「何かよくわかんないんだけど、首都フィルの担当者が会って打ち合わせしたいって言う
からちょっと出てくる」

「はあ? インタビューの日時や場所を決めるだけでしょ? 直接会う必要あるんですか
ね」

「僕に聞かれてもわからんよ。とにかくこっちからお願いしておいて断るわけにもいかん
だろ」

「まあ、そうですね」

「山脇先生に電話で締め切り過ぎてますよって言っておいてくれるか」

「わかりました」

「じゃあ行ってくる」

 徒歩で十五分ほどで指定の喫茶店に着いた。待ち合わせ時間まではまだ四十五分もある。
こんなに早く来る必要はなかったのだけど、せっかく外出の機会が転がり込んできたので
僕は少しゆっくりしようと思ったのだ。席に収まって注文を終えると僕は携帯を見た。今
朝から午後二時十五分の現在に至るまで、麻季からのメールが十通近く届いていた。

 僕は時間を掛けて麻季のメールの全てに目を通した。別に今日も何の変わりもないよう
だけど、それでもこれだけのメールを出すのだから麻季にとって今日は比較的余裕のある
一日なのだろう。奈緒人は順調に歩行距離と時間を伸ばしているようだ。離乳食も食べて
はいるものの、どういうわけか麻季の浮気が発覚して以降奈緒人は再び麻季のおっぱいを
求めるようになってしまった様子だった。離乳は早かった方だったのに。僕は麻季あてに
返信した。奈緒人の今日の出来事への感想と今日も帰宅は十一時くらいになるという短い
内容だった。そして少し迷ったけどメールの最後に「麻季と奈緒人のこと、心から愛して
いるよ」と付け加えた。麻季へのメールを送信し終わったとき人の気配を感じた僕は顔を
上げた。

「音楽之友社の結城せん、結城さんですか」

 その女性が僕にあいさつした。

 名刺交換を済ませると僕は彼女にもらった名刺にちらりと目を落とした。

『財団法人首都圏フィルハーモニー管弦楽団 事務局広報渉外課 鈴木怜菜』

「首都フィルの鈴木です。よろしくお願いします」

「音楽之友の結城です。初めまして」

 彼女は何かほんわかした雰囲気の優しそうな女性だった。ちゃんと仕事の話ができるの
か僕が一瞬心配になったくらいに天然の女性に見えた。仕事をしているよりも専業主婦で
育児とかしている方が似合いあそうな感じだ。外見だけ見れば麻季の方がよほどビジネス
ウーマンに見えるだろう。あくまでも外見だけの話だけど。



201:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:39:53.71 ID:8QxDihXuo

「あのインタビューの件ですけど」

 彼女が手帳を見ながら言い出した。

「はい」

「よろしければ三月十四日の定演終了後にグリーンホールでいかがでしょう」

 グリーンホールは首都フィルの本拠地だった。都下にあるけどそれほど遠いわけでもな
い。僕は手帳でスケジュールをチェックした。その日には今のところ予定がない。

「わかりました。何時にお伺いしましょうか」

「十四時開演ですのでインタビューは十六時くらいからでいいですか」

「結構です」

「もしお時間があるなら十四時にいらして定演を見ていってください」

 その方がインタビューする側としては好都合だった。彼女はしばらく自分のバッグをご
そごそと探っていた。

「あ、あった。これをどうぞ」

「ありがとうございます」

 僕は招待券を受け取って言った。

 それで打ち合わせはあっけなく終ってしまった。しばらく沈黙が続いた。こんな内容な
ら電話かメールで十分だろう。なぜ彼女はわざわざ会って打ち合わせをしようと言ったの
だろう。でも初対面の、しかもこちら側からお願い事をしている身でそんなことを聞くわ
けにいかなかった。

「結城さんって音楽雑誌の編集者をされてたんですね」

 突然彼女が言った。

「はい?」

「ごめんなさい。あたし、結婚前は旧姓が太田なんですけど、結城先輩と同じ大学で一つ
下の学年にいたんです」

 何だそういうことか。

「ああ、それで」

「はい」

 彼女は微笑んだ。

「先輩はあたしのこと知らないと思いますけど、あたしは先輩のことよく知っています」

「うん? 同じサークルでしたっけ」

「違います。あたし麻季の親友でしたから」

「そうなの? ごめん。全然わからなかった」

 実際にはわからなったというより知らなかったという方が正しかった。大学の頃の麻季
には僕の知る限りでは本当に親しい友人は男女共にいなかったはずだ。何しろその頃の彼
女は筋金入りのコミュ障だった。外見の美しさや一見落ち着いて見える容姿や態度のせい
で取り巻きのような友人はいっぱいいたらしいけど。

「いえ。先輩とは直接お話したこともありませんし。でも麻季からはよく惚気られてまし
た。あの麻季がこれほど入れあげている男の人ってどんな人かなあってよく考えてました
よ」

「そうだったんだ。ごめん、あいつはあまり自分のこと喋らないから」

「結城先輩と麻季の結婚式にも参列させていただきました。麻季、綺麗だったなあ」

 そのとき僕は帰宅して麻季に話してやれる話題ができてラッキーくらいに考えていた。
でも、どういうわけか彼女は俯いた。そして静かに泣き出した。

「鈴木さん、どうしたの」

 僕は驚いて彼女に声をかけた。周囲の客の視線が刺さるようだった。これでは別れ話を
持ちかけている浮気男と振られた女のカップルのようじゃないか。



202:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:40:24.74 ID:8QxDihXuo

「・・・・・・ごめんなさい」

「いや、いいけど。大丈夫?」

 それには答えずに彼女が話し出した。

「音楽之友からの取材メールを見たとき、あたしびっくりしました。最後に結城博人って
書いてあったし。あたしそれが麻季の旦那さんのことだってすぐに気がついたんです。こ
んな偶然があるんだなあって」

「ごめん。よくわからないんだけど」

「あたし、ずっと先輩に連絡を取ろうとしてたんです。麻季の携帯の番号しか知らなくて、
でも麻季には連絡できないし」

「うん」

「だから仕事で先輩から連絡を受けたときチャンスだと思いました。これで先輩とお話で
きるって」

 彼女はコミュ障の麻季には似合いの親友なのかもしれない。さっきから随分彼女の話を
聞いているのだけど、彼女が何を言いたいのか少しも理解できない。

「あたし、結婚してるんです」

 それはそうだろう。旧姓太田と言っていたし、それに左手の薬指には細いリングが光っ
ている。

「あたしいけないとは思ったんですけど。でも最近旦那の様子が変だし不安だったんで旦
那の携帯を見ちゃったんです。そしたら旦那と麻季が浮気していて」

 僕は凍りついた。麻季の浮気の話なんてとうに知っている。今はそれを克服しようと夫
婦ともに努力している最中だった。でも鈴木先輩は独身ではなかったのか。

「君・・・・・・横浜フィルのチェロのフォアシュピーラー、その鈴木先輩の奥さんなのか」

「・・・・・・はい」

 彼女は俯いてそう答えた。



 麻季の告白のあと僕は鈴木先輩について調べていた。ネットでも情報は手に入ったし、
社の演奏家のデータベースにも情報はあった。新人であればネットの方はともかく社のDB
には音楽雑誌に紹介されているような有望な若手しか登録はない。

 鈴木先輩は社のDBにも情報が登録されていた。

 鈴木雄二。

 横浜フィルの次席チェリスト。東洋音楽大学の1年上の先輩。横フィルの有望な新人。

「麻季とうちの旦那が浮気してたって聞いても驚かないんですね」

 怜菜が顔を上げて僕に聞いた。

「・・・・・・うん。麻季から聞いているからね」

「そうか。先輩は麻季のこと許したんですか」

「許したっていうか、やり直すことにした」

「何で麻季と旦那の浮気を知ったんですか。先輩が麻季を疑って問い詰めたんですか」

「いや。麻季の方から告白した」

「そうなんですか」
 怜菜は寂しそうに笑った。「先輩がうらやましい」

「どういうこと?」

「自分から告白したのは麻季も罪の意識を感じていたからでしょうし、先輩に嘘をつきた
くなかったんでしょうね。うちの旦那と違って」

 どう答えればいのかわからない。僕は黙っていた。



203:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:41:21.88 ID:8QxDihXuo

「それにうちの旦那は、まだ自分の浮気があたしにばれていないと思ってますよ」

「鈴木先輩は独身だって聞いたんだけど」

 彼女には気の毒だけど僕にとっては気になることだったので、僕はまずそれを確認しよ
うと思った。

「麻季にそう言われたんですか」

「・・・・・・うん」

「じゃあきっとうちの旦那が麻季に自分は独身だって言ったんでしょうね。麻季がそのこ
とで先輩に嘘をつく理由はないでしょうし」

「君と麻季の親友でしょ。麻季は君と鈴木先輩が結婚したことを知らなかったの?」

「ええ。麻季と先輩の結婚式以来麻季とは会ってませんし、あたしたちの結婚は大学卒業
後だし結婚式も挙げなかったんで、あたしと旦那のことを知っている人は大学時代の知り
合いはほとんどいないと思います」

「あのさ」

「はい」

「僕も麻季に裏切られたと知ったときは自殺したいような心境だったよ。でも僕たちには
子どもがいるし、何よりも麻季は本当に先輩との過ちを後悔していると僕は信じている」

「・・・・・・そうですか」

「麻季と鈴木先輩の仲はもう終っている。君の気が楽になるならそれだけは保証するよ」

「結城先輩にとっては、かつて過ちを犯した二人が今だに密かにメールのやりとりをして
いるのは許容範囲内なんですか」

 怜菜が顔を上げて僕を真っ直ぐ見た。

「そんな訳ないでしょ。でも麻季はもう君の旦那と縁を切っているんだし」

 怜菜がバッグからプリントを何枚か取り出した。

「やり直そうとしている先輩と麻季を邪魔する気はないんです。でも、事実を知らないで
判断するのは先輩と麻季にとってもよくないと思います。余計なお世話かもしれませんけ
ど」

「・・・・・・どういう意味?」

「さっきも言ったように旦那の様子が最近変だったんで悪いことだとは思ったんで旦那の
携帯をチェックしたんです。そしたら麻季と旦那がメールを交換し合ってて。転送すると
旦那にばれそうなんで、旦那が携帯をリビングに置いたまま自宅のスタジオで練習してい
る間に関係あるメールを見ながら全部全部パソコンに入力し直したんです」

 怜菜に渡されたプリントは先輩の携帯の送受信メールのやりとりを印刷したものだった。

「よかったら読んでください」

 僕は怜菜に渡された書類に目を通した。

 最初のうちは久し振りの再会を懐かしがったり大学時代の知り合いの話題を交換したり
しているそういう内容のメールが麻季と先輩の間に交わされていた。メールでのやりとり
が重ねられて行くうちに二人のメールは随分親密な様子に変わっていった。

 僕は胸の痛みを感じながらプリントを読み進めた。メールから理解できた範囲ではその
内容は麻季に告白されたものと事実としては全く同じ内容だったので、少なくとも浮気を
告白したときの麻季が嘘をついていないことだけは確認できた。それでも実際に男女の親
密そうなやりとりを読むことは僕の精神にかなりの打撃となった。メールを読むことによ
って僕は今麻季の告白の事実を実際に追体験させられていたのだ。

 段々と親密さを増していく二人。そのうちメールはもっとも辛い部分に差し掛かった。
 この辺りになると少なくともメールの文面上は麻季は先輩に対して敬語ではなくもっと
親しみを込めた口調になっていた。そして先輩も麻季のことを呼び捨てするようになって
いた。



204:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:41:55.93 ID:8QxDihXuo

『ごめんさい。あたしも久し振りにコンサートに行きたいし先輩の演奏も聞きたい。でも
小さな子どもがいるから家を留守にできないの。ごめんね先輩』

『それは残念。お子さん、昼間は保育園とか幼稚園とかに行ってるんじゃないの』

『何言ってるの。専業主婦だから保育園には入れません。それに奈緒人はまだ幼稚園に入
園できる年齢じゃありません。先輩って音楽以外のことでは常識ないのね(笑)』

『そっかあ。実家とかに預かってもらえないの? 今度の演奏はぜひ麻季に聞いて欲しか
ったなあ。実は演奏のイメージは大学時代の清楚だった麻季をイメージして作ったんだ。
水の妖精だから麻季にぴったりでしょ(笑)』

『清楚な水の妖精って、子持ちの主婦に何言ってるの(笑)。でもわかったよ。実家に預
けられるかどうか聞いてみる』

『ほんと? やった』



 コンサート当時の日付のメールはなかった。それはそうだろう。この日、麻季は結局奈
緒人を自分の実家に預けてコンサートに出かけたのだから。多分、精一杯着飾って。そし
てその夜、麻季は先輩に抱かれた。二人は直接会って二人きりで過ごしていたのでメール
を交換していないのは当然だった。

 僕は麻季の必死の謝罪と奈緒人への愛情表現によってその過去は克服していたつもりだ
ったけど、直接二人のやりとりを見るのはやはりきつかった。ここまで読んでもまだ未読
のプリントがまだ残っていた。麻季の釈明によればその夜の過ちに後悔した彼女は、もう
これで最後にしようと先輩に言ったはずだった。その後も先輩からは言い寄られたりメー
ルが来たりしたとは言っていたけど、麻季は返事をしなかったと泣きながら僕に言ってい
た。証拠として自分の携帯を僕に差し出しながら。僕はプリントの続きを読んだ。もう黙
って僕を見守っている怜菜のことは意識から消えていた。



『僕は本気だよ。学生時代から麻季のことが大好きだった。旦那と別れて僕と一緒になっ
てくれないか。君のことも奈緒人君のことも責任を持って一生大切にすると約束する』

『ごめんなさい先輩。もう連絡しないで。あたしはやっぱり奈緒人が大事。だから奈緒人
の父親である主人を裏切れません』

『奈緒人君のことは大切にするって言ってるじゃないか。それに君だって専業主婦で子育
てと旦那の面倒だけみている人生を送るなんて、君を家庭に閉じ込めるなんて君の旦那は
絶対間違っているよ。昔からあいつは嫉妬深かったけど。麻季はあれだけ佐々木先生に認
められていた自分のピアノを本気で捨てるのか? 僕なら君と一緒に音楽の道を歩んで、
お互いを高めあうような関係になれると思う。麻季を本気で愛している。もう一度自分の
人生をよく考えて』

『先輩、何か誤解してるよ。博人君はあたしに専業主婦になれなんて一言も言っていない
の。妊娠したときにあたしが自分で先生の手伝いを止めたの。奈緒人のために育児に専念
したかったから。間違っても博人君の悪口は言わないで』

『ご主人のことを悪く言ったのはごめん。でもこれだけは撤回しない。僕は君のご主人よ
り君のことを理解しているし君にふさわしいと思う』

『もうやめようよ。あたしは博人君と奈緒人を愛してるの。先輩とはもうメールしません。
これまでありがとう、先輩。もうあたしのことは放っておいて。先輩とは二度と会わない。
何度メールしてきても決心は変わりません』



 僕はプリントを全部読み終わった。その生々しいやりとりに動揺もしたし、僕に対する
鈴木先輩の誹謗めいた言葉に憤りもした。でも結局麻季は先輩を拒絶したのだ。少なくと
も先輩と別れたという麻季の言葉は嘘ではなかった。

「見せてくれてありがとう」

 僕はプリントの束を怜菜に返そうとした。

「先輩、まだニ、三枚読み残しがあるみたい」

 怜菜が言った。最後と思っていたページの下に数枚最後のページに折曲がってくっつく
ようにして残っていることに僕は気づいた。

「先輩には申し訳ないですけど、その最後の方を読んだ方がいいと思います」

 怜菜はさっきまで泣いていたとは思えないくらい冷静な口調で言った。

「・・・・・・わかった」



205:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:42:26.64 ID:8QxDihXuo

 僕は紙を捲って未読のプリントを読み始めた。最初に麻季から鈴木先輩に当てたメール
があった。日付を見ると二~三ヶ月前だ。それを見て僕は目の前が暗くなった。僕が必死
で彼女を信じてやり直そうとしている間に、麻季は再び先輩とメールを再会していたのだ。



『もう電話もメールもしないで。あたしのことを本当に大切に思っていると言う先輩の言
葉が本心ならもう放っておいて』

『ごめん。君のことが心配でいてもたってもいられなくなって。今日も定演のリハだった
んだけど散々な出来だったし』

『説明するからこれで最後にして。あたしは先輩との過ちを博人君に告白しました。博人
君はあたしのことを許してやり直そうと言ってくれたの。もちろん完全に彼に許してもら
えたなんて思っていない。彼は奈緒人のためにあたしのことを許そうと考えてくれたんだ
と思う。もうあたしには奈緒人と博人君のためだけを考えて一生過ごすほかに選択肢はな
いの。先輩のこと嫌いじゃなかった。でももうあたしの中に先輩の居場所はありません』



 麻季は先輩のことは嫌いではないと言っていた。それは本当に辛かったけど、そこだけ
を問題にしてせっかくやり直している僕たちの関係を無にする気はなかった。

「もう少しだけだから全部読んでみてください」

 怜菜が言った。続きを読むと先輩と縁を切ったはずの麻季のメールがまず目に入った。



『奈緒人が今日初めて「おなかすいちゃ」って言ったの。ちょっと言葉は遅かったからす
ごく嬉しかった』

『よかったね。安心した?』

『うん。旦那にメールしたら彼もすごく喜んでた。少し興奮しすぎなくらい(笑) 博人君
も仕事中なのにね』

『そうか』

『あ、惚気話でごめん、先輩』

『いや。麻季が旦那とやり直そうと決めたんだから別に構わないよ。何か悩みでもあった
らいつでも連絡して』



 次のメールは数か月後だった。それは麻季の方から先輩に出したメールだった。



『突然ごめん。先輩元気でしたか。定演の評判聞きました。もうこれで人気演奏者の仲間
入りだね』

 先輩はそれに対してお礼を言う程度の当たり障りのない返信をしていた。

『またメールしちゃってごめんなさい。うまくやり直せてると思っていたんだけど、博人
君内心ではあたしのことを許してないみたい。彼に迫っても全然抱いてくれないの。やっ
ぱりあたしが先輩と寝たこと気にしてるのかな』

『僕が言うのもなんだけど、男ならそんなに簡単に妻の浮気を許せないかもね』

『どうしよう。あたしにはもう博人君と奈緒人しかいないのに』

『気長に仲を修復するしかないんじゃないかな。それでもどうしても駄目だったら僕のと
ころにおいで。僕は一生独身で君を待っているから。それが君を不幸にしてしまった自分
の罰だと思ってる』

『そんなこと言わないで。先輩はあたしに構わずいい人を見つけて幸せになってよ』



 麻季は夫婦生活の不満のような微妙な話題まで先輩に相談していた。そして先輩の方も
は全く麻季を諦めていないような返信をしていた。



206:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:42:58.25 ID:8QxDihXuo

「これって・・・・・・」

「結城先輩、ごめんなさい。先輩を苦しめる気はないの。でも事実は事実だから」

 怜菜は僕に向かってすまなそうに謝った。

「君が謝ることはないよ。ただ、麻季は先輩とはもう縁が切れていると思っていたからこ
ういうやりとりをしているとは思わなかった」

「本当にごめんなさい。先輩だって被害者なのに」

「君はこのことを先輩に言ったの?」

 僕は無理して怜菜のことを心配して言った。でも心中は穏かではなかった。僕が不貞を
働いた麻季を許したつもりだった。でもこのメールを見る限り麻季が僕の態度に不満、あ
るいよく言って不安を感じていることは明らかだった。

 麻季は僕には口では僕に謝罪し一番愛しているのは僕だと言った。でもこのメールのニ
ュアンスでは息子のために僕とやり直すような気持ちが感じられた。そして何よりも夫で
ある僕に対して何も言わないでいる自分の考えを先輩に対しては隠すことなく伝えていた
のだ。

 僕は吐き気を感じた。

「彼には何も話していません。メールのことも麻季のことも。今は様子見ですね。このま
ま彼と麻季がフェードアウトするならなかったことにしようと思ってます。でも、これ以
上二人の仲が縮まったら彼とは離婚します」

 怜菜は冷静にそう言った。でも彼女の手は震えていた。

「できれば離婚はしたくないんです。妊娠しているので」

 僕は絶句した。思わず視線が怜菜の腹部に向かってしまった。

「・・・・・・先輩はそのことを知っているのか」

 自分の妻が妊娠しているのに他人の妻に独身を装っていつまでも待っていると言うよう
なクズなら、もうすることは一つしかない。

「いえ。まだ彼には伝えていません」
 怜菜が寂しそうに笑った。「先輩はやっぱり麻季を許すんですか」

「わからない」

 本当にわからなかった。やり直すと宣言した以上、普通の夫婦生活を送ることは僕の義
務だった。だから誘ってくる麻季を抱けなかったことは僕の責任かもしれない。でも、そ
のことを不倫の相手に、僕をこういう風にした原因者にしれっと相談している麻季の心理
は僕の想像の範囲を超えていた。

「麻季のこと恨んでるだろ」

 自分のことで精一杯だったはずの僕はこのとき半ば逃避気味に怜菜と先輩の仲を考えよ
うとした。麻季とのことは考えたくもなかったので実際これは完全に逃避だった。

「麻季は彼を独身だと思っているみたいだし、ましてあたしが妻だとは知らないでしょう
し」

 怜菜が再び寂し気に微笑んだ。どういうわけか怜菜のその表情に、僕は自分が麻季に再
び裏切られたと知ったとき以上の痛みを感じた。



207:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:43:29.67 ID:8QxDihXuo

「先輩に妊娠しているって言ってみたら?」

「結城先輩には怒られちゃうかもしれないけど、旦那は本当は優しい人なんです。だから
あたしが彼の子どもを妊娠していると知ったら、それで目が覚めるとは思います」

「だったら」

「ごめんなさい。あたしは妊娠とか関係なく彼にあたしのところに戻って欲しいんです。
子どものことを考慮した仲直りなんて信じられません」

 その言葉に僕は言葉を失った。それは僕のしようとしたことへの明確な否定だった。怜
菜はすぐに僕の様子に気がついた。自分だって辛いだろうに、彼女は人の気持ちを思いや
れる人間のようだった。

「ごめんなさい。結城先輩がお子さんのことを考えて麻季を許したことを批判してるんじ
ゃないんです」

 僕が間違っているのだろうか。僕は奈緒人のことを真に一緒に考えてくれるのは麻季し
かいないと考えて麻季の不倫を許した。でもその結果がこのメールだ。

「あたし、決めたんです」

「・・・・・・うん」

「もう一月だけは旦那のことを責めないで我慢します。でも、一月たってまだ旦那が麻季
にいつまでも待っているみたいなメールをしていたら、彼とは離婚します」

「そうか」

「結城先輩には事前に話しておきたかったんです。ご迷惑だったでしょうけど」

「いや。君に恨みはないよ。どうするにしても真実を知れて良かった」

 僕は相当無理して言った。実際、怜菜には何の非もないばかりか彼女が一番の被害者だ
ったかもしれない。

「じゃあ、これで失礼します。インタビューの件はよろしくお願いします」

「あ、ちょっと」

「はい」

「大きなお世話かもしれないけど。君が鈴木先輩と別れたとして、お腹の子ども
は・・・・・・」

「育てますよ。もちろん。一人になってもあたしには仕事もあるし育児休業も取れますか
ら」

 最後に怜菜は強がっているような泣き笑いの表情を見せた。



208:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:44:32.61 ID:8QxDihXuo

 怜菜の話を聞いて以来僕はずっと考えていた。鈴木先輩が独身じゃなくて怜菜が先輩の
奥さんであったこと、麻季が先輩とはもう連絡していないと言いながらも、親密な相談
メールを送っていたこととか。その事実は僕を苦しめた。でも、辛い思いをを必死で我慢
してじっと自分の心の奥底を探ってみると僕が本当に悩んでいたことは麻季の心理や行動
とかではなくて、僕が麻季を許した動機の部分であることが段々と理解できるようになっ
た。



『ごめんなさい。あたしは妊娠とか関係なく彼にあたしのところに戻って欲しいんです。
子どものことを考慮した仲直りなんて信じられません』



 怜菜は彼女と鈴木先輩との仲をシビアに見つめていた。麻季と先輩の関係に目を背け、
奈緒人を言い訳になし崩しに麻季とやり直そうとしている僕とは対照的に。なりふり構わ
ないのなら怜菜にだってできることはあるはずだった。メールのことを鈴木先輩に話して
麻季との仲を清算するように詰め寄ってもいいはずだし、自分が妊娠していることだって
武器になる。怜菜本人も自分の妊娠を知れば先輩は麻季を諦めて自分のところに戻ってく
るだろうと言っていた。

 でも彼女はそれをせず黙って先輩と麻季の仲を見守っている。自分の浮気を知られ怜菜
に責められ彼女の妊娠を知った上で先輩が自分を選ぶことを拒否しているのだ。怜菜は強
い女性だった。自分の行動や悩みを振り返るとますますそう思い、僕は自己嫌悪に陥った。

 僕がしたことは判断停止に近い。麻季と先輩の仲を深く探ろうともせず、麻季の本当の
気持ちを知ることさえ拒否し、麻季が謝っていることに安住して奈緒人を言い訳に彼女を
許した。麻季には当然非がある。先輩とはもう何も関係がないと言いつつ夫婦間の悩みを
先輩にしていたのだから。でも、きちんとした言い訳や謝罪すらさせてもらえず、僕に対
する罪の意識を抱えたままにさせられた彼女が先輩にメールした動機は少しだけ僕にも理
解できた。それなら一度存分に浮気をした麻季を責め立て自分の気持をぶつけてから今後
のことを決めればいいのだけど、今の僕にはそれすら恐かった。麻季を問い詰めようとは
思ったときだってあった。怜菜に見せられたメールのやり取りを思い浮かべて。



『気長に仲を修復するしかないんじゃないかな。それでもどうしても駄目だったら僕のと
ころにおいで。僕は一生独身で君を待っているから。それが君を不幸にしてしまった自分
の罰だと思ってる』

『そんなこと言わないで。先輩はあたしに構わずいい人を見つけて幸せになってよ』



 少なくともこのことだけは麻季に指摘しておくべきだったろう。彼女は僕に嘘をついて
先輩とメールを交わしていたのだから。それでもそれを実行しようとするとき、僕は情け
ないことに奈緒人の無邪気な様子を思い浮かべて躊躇してしまうのだった。これを言った
ら麻季は本当に家を出て行ってしまうかもしれない。そうなればもう二度と麻季とも奈緒
人とも会えなくなるかもしれない。そう思うと僕には何もできなかった。本当に情けない。
怜菜は自分と自分のお腹の子のために一人で必死で耐えているというのに。

 帰宅してマンションのドアを開けたとき、偶然に目の前には奈緒人がいた。奈緒人はい
きなりドアを開けて入ってきた僕を見て凍りついたように固まった。でもそれが僕とわか
ると満面に笑みを浮べて僕の方に手を伸ばしてきた。

 僕はしがみついてくる奈緒人を抱き上げた。

「お帰りなさい、博人君」

 奈緒人を追いかけてきたらしい麻季が微笑んだ。

『かつて過ちを犯した二人が今だに密かにメールのやりとりをしているのは許容範囲内な
んですか』

そう怜菜は言った。もちろん答えはノーだったはずだった。でも帰宅した僕に抱きつく
息子やその様子を微笑んで見ている麻季を見ると、怜菜に会って考え直したことはどこか
に失われてしまい、メール程度は許容するべきじゃないかとも思えてくる。

 怜菜は辛い立場だったろう。自分の夫が親友の麻季に対して自分は独身だと、いつまで
も麻季を待っていると言っているのだから。確かに麻季は嘘をついていた。もう連絡しな
いと言っていたのに、実際は先輩に身の上相談までしていた。

 でも怜菜と違って僕には奈緒人と麻季が微笑んで僕の帰宅を待っていてくれる家庭があ
る。メールのことはショックだったし、麻季の本心がわからなくなったけど、少なくとも
あのメールでは麻季は僕を選んでくれていた。妻の存在を隠して麻季を口説いている先輩
をただ待っているだけの怜菜よりも、僕の方がまだましな状態なのかもしれない。



209:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:45:42.58 ID:8QxDihXuo

 潔く、浮気した麻季と別れるか曖昧に今の関係を続けるのか。このときの僕は本当に揺
れていた。結局、僕は怜菜に会ったことも怜菜から麻季と先輩が未だにメールをやりとり
していることを聞いたことも麻季には話さなかった。奈緒人を抱いた僕に対して微笑んだ
麻季に対して、あらためて愛情を感じたせいかもしれない。愛情というかそれはむしろ執
着といってもいいかもしれないけど。怜菜はメールで証拠を押さえていることや自分の妊
娠を武器にして先輩を引きとめようとはしていない。先輩が自ら目を覚ますことを願って
じっと待っているのだ。そんな怜菜の意思を無視して勝手に麻季にメールの話をするわけ
にはいかなかった。怜菜に見せられたメールは僕を悩ませた。先輩との関係を泣きながら
謝罪した麻季が僕に嘘を言っていたのだ。麻季が嘘をついたことと、自分の悩みを打ち明
ける相手として僕ではなく先輩を選んだことは、麻季が先輩に抱かれたことよりも僕を苦
しめた。

 怜菜は一月だけ待つと言った。別に僕が怜菜に義理立てする必要はない。でも僕は怜菜
の判断に自分を委ねようと考えた。合理的な思考ではないかもしれないけど、あれだけ追
い詰められている怜菜が鈴木先輩を許すなら、僕も麻季を許そう。でも麻季が先輩と別れ
るなら僕も麻季との離婚をを考えよう。

 悩んだ結果、ようやくそこまで僕は自分の思考を整理することができた。このときの僕
には正常な判断能力は失われていたのかもしれない。情けないけど僕は怜菜の判断に全て
を委ねる気になっていた。

「ご飯食べたの」

 麻季が微笑んだまま聞いた。

「連絡しなくて悪い。食べてきちゃった」

 実際は怜菜との会談で食欲を失っていた僕は何も食べていなかった。でも今麻季の用意
した食事を食べられるほど僕のメンタルは強くない。

「気にしないでいいよ。それよりそろそろ奈緒人を寝かせなきゃ」

「ああ。悪い」

 僕の手から奈緒人を受け取った麻季は奈緒人を寝室に連れて行った。

こうして僕は自分の判断を保留して怜菜の審判を受け入れる道を選んだ。怜菜の言う一
月を待つ間、僕は麻季にできる限り優しくした。別に陰険な思いからではない。これが麻
季との生活の最後になるかもしれないのだ。浮気までされて情けないという気持ちもあっ
たけど、麻季と付き合って結婚した生活は彼女の不倫の発覚までは幸せだった。だから僕
は麻季と別れるにせよ、最後までその思い出を綺麗なままにしたかった。

 麻季も僕に対して優しく接してくれた。彼女が本心で何を考えていたかまではわからな
い。でもこの奇妙なモラトリアムの間、僕たちは理想的な夫婦を演じたのだ。

 僕は怜菜と会ったことを麻季には話さなかった。怜菜は僕に対して何も口止めしなかっ
た。でも彼女が何もせずに先輩の行動を見守っている以上、そして僕も怜菜の判断に追随
しようと考えたからには、麻季に怜菜のことを話すわけにはいかなかった。

 それでもいろいろ考えることはあった。怜菜が鈴木先輩を許した場合でも僕は麻季と本
気でこの先やり直せるのか。そして怜菜が先輩を見限ったとしたら僕と麻季は離婚するこ
とになるのだろうか。先輩と麻季は結ばれるのか。その場合の奈緒人の親権はどうなるの
か。それはいくら考えても現状では何の結論も出なかった。

 再び怜菜と会ったのは横フィルの新しい常任指揮者へのインタビュー終了後だった。笑
顔であいさつする怜菜に、僕は少し話せないかと誘ってみた。怜菜が決断するために区切
った期限まであと一週間とちょっとしか残っていない頃だった。

「いいですよ」

 屈託のない笑顔で怜菜は答えた。

 定演のあったホールの近くは知り合いだらけでまずいので、僕は彼女をタクシーに乗せ
てホールから三駅ほど離れているファミレスまで連れ出した。人目を避けて行動している
いることに対して何となく不倫をしているような妙な緊張感を感じる。でもホール周辺は
怜菜や僕の知り合いだらけだったからそうするしかなかったのだ。タクシーの中の彼女は
インタビューの様子や何月号にそれが掲載されるかといった仕事繋がりの話をしていたと
思う。

 適当に見つけたファミレスに入って向かい合わせに座った僕は、時間を取らせたことを
彼女に詫びた。

「いえ。あたしも先輩とお話したかったから」

 怜菜は笑って言った。



210:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:47:18.84 ID:8QxDihXuo

「君は強いな」

 そんなことを言うつもりはなかったけのだけど、僕は思わず口に出してしまった。表面
上はいい家族を必死で演じていた僕は、この頃になるともう精神的に限界だった。家庭で
ストレスを感じながらも麻季に優しく接している分、仕事中の僕の態度は最悪だった。部
下にも些細なことで当り散らしたりもした。

「強くなんかないですよ。旦那の目を盗んで毎日泣いてます。お互い辛いですよね」

 そんな僕の心境を知ってかどうかはわからないけど、彼女は僕にそう言って微笑んだ。
その微笑んだ顔はすごく綺麗だった。・・・・・・大学時代に知り合ったのが麻季ではなく怜菜
だったら、僕は今頃どういう人生を送っていたのだろう。僕のアパートの前で幼馴染の理
恵に嫉妬して騒ぎ立てたのが麻季ではなく怜菜だったとしたら。仕事から帰宅した僕を、
奈緒人を抱いた怜菜がおかえりなさいと迎えてくれる姿が思い浮かんだ。彼女なら麻季と
違って浮気も不倫もしないだろうし、きっと何の悩み事もない夫婦生活を送れていたかも
しれない。それはどうしようもない幻想だった。第一に怜菜なら突然親しくもなっていな
い僕のアパートに押しかけたりはしないだろう。そして僕にとって何よりも大切な奈緒人
を産んでくれたのは麻季であって、怜菜ではない。

「どうしました?」

 怜菜が微笑んで言った。僕は慌てて無益な幻想を頭から振り払った。こんな妄想で現実
逃避している場合ではなかった。あと一週間と数日で結果が出るのだ。

「もう少しで一月になるけど、君の決心が固まったのかどうか聞きたくて」

 僕は言った。

「まだ決めてません。一月たっていないし」

 それから彼女はハンドバッグの中から数枚のプリントを取り出した。読むまでもなく麻
季と先輩のメールのやり取りだろう。未だに麻季は先輩と接触があるのだ。

「多分このことが気になっているんですよね。どうぞご覧になってください」

 そう言われると僕は麻季のメールが気になっていたような気がしてきた。矛盾するよう
だけどさっきまでは先行きのことばかり気にしていて、今現在の麻季と先輩の様子を気に
することは失念していたのだ。



『奈緒人君が順調に成長しているようで何よりです。よかったね』

『ありがとう先輩。この子はあたしにべったりなのでトイレに行くのも大変』

『麻季みたいな人がママならそうなるだろうね』

『この子を幼稚園に盗られちゃったらあたしはすることが無くなっちゃうな。そう思うと
ちょっと恐い』

『そしたら君はそれだけ旦那さんに愛情を注げるんじゃない? やり直すんだからいいこ
とだと思うけどな』

『先輩は何でそんな意地悪なこと言うの?』

『ごめん。意地悪したつもりはないんだ。でも君が彼を愛していると言っていたから』

『あたしの方こそごめんなさい。先輩が心配してくれているのに』

『彼とうまくいってないの?』

『博人君はあたしに優しいよ。でも何か彼の目が遠くて恐いの。あたしを見てくれている
ときでもあたしを通り越してもっと遠くの方を見ているようで』

『こんなこと聞いて悪いけど、旦那は君を抱いてくれた?』

『レスのままです。でもそういうこと先輩には聞かれたくないよ』

『ごめん。でもしつこいようだけど言わせてもらうよ。僕には麻季を誘惑して抱いてしま
った責任がある。麻季が旦那と幸せなら僕はもう何も言わないしメールだってしない。で
も麻季が彼との生活に辛い思いをしているなら、僕のところに来て欲しい。僕は麻季がど
うするか決めるまでは独身のままで待っている。それが僕の贖罪だと思うから』

『ありがとう先輩。今は決められないけど気持ちは嬉しい。あたしのしたことは過ちだ
し博人君を裏切ったのだけど、それでも先輩との一夜が単なる遊びじゃなかったってわか
った。それだけでも先輩には感謝している』

『お礼を言うのは僕の方だ。例え僕が麻季と結ばれても僕は一生君の旦那さんへ罪悪感を
感じて生きて行くんだろうな。それでも後悔はしてないよ』



211:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:47:49.81 ID:8QxDihXuo

 前に読ませてもらたメールよりも二人の距離が近づいていることが覗われた。もうこれ
は駄目かもしれない。このときになってようやく僕にも怜菜が先輩に対して不貞行為の証
拠を突き詰めなかったことが理解できてきた。実際にこの二人が僕や怜菜を捨てて一緒に
なる決断をするかは結果論であって、今はそんなことはどうでもいい。先輩と麻季が自分
たちの関係に価値を見出し、そのことをお互いに確認しあっていることが問題なのだ。

 怜菜は最初からそのことだけを追求していた。だから先輩を責めなかったし麻季に対し
て先輩には自分という妻がいることを話したりもせずずっと耐えて待つことにしたのだ。
そして僕にもようやく理解できた。麻季が奈緒人と僕を愛していて、それゆえに麻季が先
輩と縁を切ることを僕は勝利条件だと考えていた。でもそうではないのだ。麻季と先輩が
お互いに求め合いながらも奈緒人や僕への未練のためにもう連絡も取らず会わないと決め
たとしても、それは何の解決にもなっていないことを。

 そのことを僕はか弱い外見の怜菜に教わったのだ。

「また結城先輩につらい思いをさせたちゃてごめんなさい。まだ期限は来ていないと言っ
たけど、でも正直もう駄目かなって思ってます」

 それまで微笑んでいた怜菜が泣き出した。

「・・・・・・僕もそう思う。これは互いに求め合っている悲劇の恋人同士の会話だもんね」

「わたしもそう思います。こういうことになるかなって思ってはいたけど、それが現実に
なるとすごく悲しくて寂しい。むしろ旦那のことを憎みたいのに、まだ未練が残っている
自分がとてもいや」

「先輩と離婚する?」

「はい。期限前だけどもう無理でしょう。旦那とは別れます。そして一人でお腹の子を育
てます。先輩は・・・・・・どうされるんですか」

 僕は息を飲んだ。優柔不断な僕だけどもう逃げているわけにはいかないことは理解でき
ていた。

「君が先輩と別れるなら僕もそうするよ」

「え?」

 怜菜が一瞬理解できないような表情を見せた。

「何言ってるんです? あたしと旦那が離婚したからといって、先輩が同じことをする必
要なんてないですよ。先輩がお子さんのために麻季と頑張ろうとしているならそれは立派
なことじゃないですか」

「僕もこの間君に会ってから考えたんだ。謝ってくれて奈緒人を大切にしてくれる麻季と
やり直そうとした決心は正しかったのかって。麻季が僕のことを好きなことは間違いない
と思っているけど、少なくとも麻季の心の半分は先輩に取られているようだ。それなら毎
日僕に微笑んでくれる麻季は多少なりとも演技をしているわけで、麻季の気持ちに目をつ
ぶってそんな生活を維持することが本当に奈緒人の幸せになるのかって」

「先輩の気持ちはわかりますけど、麻季は現実逃避しているだけですよ。たまたまその相
手のうちの旦那が優しくしてくれるから自分の気持を勘違いしているんだと思いますけ
ど」

「君だって辛いのに麻季のことなんか庇わなくていいよ」

「そうじゃないです。麻季と旦那との関係は恨んでいますけど、麻季本人のことは恨んで
ません。親友だし彼女のことはよくわかっています。麻季は本心では結城先輩のことしか
愛していないと思います。今はうちの旦那との偽りの関係に酔っているだけですよ」

「もういいよ。今はお互いに自分のことだけを考えようよ」

「・・・・・・はい。もう少ししたら結論を出します。そうしたら旦那に別れを言いだす前に先
輩には連絡させてください」

「うん。わかった」

 その数日後に僕は再び怜菜と会った。最初に彼女と会った社の近くの喫茶店で。

 怜菜に呼び出されて緊張しながら店内に入った僕に気がついた彼女は立ち上がり僕に
深々と頭を下げた。

「お呼び立てしてごめんなさい」

「いや」

 僕たちは向かい合って座った。注文したコーヒーが運ばれてからあらためて怜菜が頭を
下げた。



212:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:49:08.21 ID:8QxDihXuo

「いろいろとご迷惑をおかけましたけど決心しました。今までお付き合いいただいてあり
がとうございました」

「・・・・・・決めたんだね」

「はい。結城先輩には感謝しています」

 怜菜が言った。

「いや。僕の方こそありがとう」

「先輩さえよかったら今日この後帰宅したとき旦那に離婚を求めようと思います」

「いいも悪いもないよ。僕や麻季のことは気にしないで自分の思ったとおりにしてくださ
い」

「ありがとう」

 怜菜はもう泣かずに僕に向かって微笑んでくれた。

「このあと先輩はどうされるんですか?」

「もう少し考えるよ。君にはいろいろ教わったしそういうことも含めて最初から考えて見
ようと思う」

「それがいいかもしれませんね」

「お子さんは順調なの? 体調は平気?」

「・・・・・・しないでください」

 怜菜にしては珍しく乱れた声だった。

「うん?」

「そんなに優しくしないでください。あたし、これから一人で頑張らないといけないの
に」

 怜菜が俯いた。

「最近、先輩があたしの旦那だったらなって考えちゃって。ここまで麻季のことを思いや
る先輩みたいな人があたしの旦那さんだったらどんなに幸せだったろうなって、あたし先
輩とお会いするようになってから考えちゃって」

 後にそのことをで後悔することになるのだけど、このときの僕は黙ったままだった。心
の浮気も有責なのだ。怜菜の毅然とした様子やそれでもたまみ見せる弱さにきっと僕も惹
かれていたのだと思うけど、それを言葉にしてしまえばしていることが麻季や先輩と一緒
になってしまう。

「麻季がうらやましい・・・・・・。ごめんね先輩。お互いに配偶者の浮気に悩んでいるのに、
一番言ってはいけないこと言っちゃった。忘れてください」

 怜菜が立ち上がった。

「今までありがとうございました。誰にも言えずに悩んでいたんで、先輩とお会いしてず
いぶん助けてもらいました」

「僕は何もしていないよ」

 僕はようやくそれだけ言った。

 怜菜が微笑んだ。

「そんなことないですよ、結城先輩。麻季とやり直せるように祈ってます。じゃあさよな
ら、先輩」

「さよなら」

 結局これが生前の怜菜と直接会って交わした最後の会話となった。




 怜菜が事故で亡くなる前、僕は怜菜からメールを受け取った。怜菜が鈴木先輩と離婚し
てから半年近い月日が経過した頃だった。それは職場のPCのメーラーに届いていた。口に
は出さなかったけど鈴木先輩と麻季と同じことをすることが気になって、僕は怜菜とは携
帯電話の番号やメールのアドレスを交換しなかった。だから怜菜は名刺に記されていた職
場のアドレスにそのメールを送信したのだろう。



213:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:49:43.41 ID:8QxDihXuo

from:太田怜菜
to:結城先輩
sub:ご無沙汰しています
『先輩お久し振りです。お元気に過ごしていらっしゃいますか。突然会社にメールしてし
まってすみません。先日は見本誌を送付していただいてありがとうございました。そして
お礼が送れてすみませんでした。わたしが言うのも失礼ですけどいいインタビュー記事で
した。さすがは先輩ですね。うちの上司も喜んでいました』

『現在わたしは育児休業中です。先輩にはお知らせしていませんでしたけど、無事に女の
子を出産いたしました。育児では大先輩の結城先輩に言うことではないですけど、この子
がわたしの支えになってくれています。以前お会いしたとき、わたしは先輩に失礼なこと
を言いました。「子どものことを考慮した仲直りなんて信じられません」って』

『でも今になってみると先輩の気持ちがわかります。今では本当にこの子のためなら何で
もできると考えている私がいます。正直一人で育てていますので辛いことはいっぱいあり
ます。でもこの子の寝顔を見ていると頑張らなきゃって思い直す日々を送っています』

『どうでもいいことを長々とすいません。最近、偶然に学生時代の友人に会いました。彼
女は今は都内の公立高校の音楽の先生をしているのですけど、先日麻季に会ったことを話
してくれました。休日のショッピングモールで偶然に出会ったみたいですね。先輩もご記
憶かもしれません。休日出勤の途上の彼女は麻季と立ち話で近況を報告しあっただけで別
れたそうですけど、「麻季のご主人がお子さんの手を引いていたよ」と、「そして麻季は
あたしと立ち話をしている間もご主人のもう片方の手にずっと抱きついていたよ」って言
っていました。いいご夫婦で麻季がうらやましいって言ってましたね。彼女も未だに独身
なんで(笑)』

『おめでとう先輩。元の旦那と離婚したこと自体には後悔はないのですけど、わたしなん
かが余計なメールを先輩に見せたことで先輩と麻季の人生が狂わないかとそれだけが心配
でした。先輩なら麻季の気持ちを取り戻せるんじゃないかとは信じていましたけど』

『もう結城先輩とお話する機会はないでしょうし、ご迷惑でしょうからメールもこれで終
わりにします』

『最後だから言わせてください。あたしは学生時代から結城先輩に片想いしていました。
麻季が先輩と付き合い出したと教えてくれたとき、あたしは本当に目の前が暗くなる思い
でした。でも麻季は親友でした。麻季は昔から綺麗でしたけど性格に少し理解されにくい
ところがあったので友人は少なかった。でもあたしはその数少ない友人、いえ親友でした。
だから先輩と麻季の結婚には素直に祝福したのです』

『その後、あたしは業界の繋がりで元の旦那に再会しました。しばらくして彼に口説かれ
て結婚したことをあたしはすぐに後悔しました。今までははっきりとは言いませんでした
けど彼は結婚直後から女の出入りが激しかった。浮気がばれたことなんて片手では収まら
ないほどでした』

『でもそれは元の旦那が自分が既婚者であることを明かした上での付き合いでした。とこ
ろがある日嫉妬と不安に駆られたわたしが彼の携帯のメールをチェックすると、彼は自分
が独身であると言って麻季を口説いていたことを知りました。麻季があたしの親友である
ことを彼は知っていたのに。その後のことは先輩もご存知ですね』

『先輩はわたしのことを強い女だと言ってくれました。でもそれは誤解です。わたしは弱
く卑怯な女でした。先輩から取材の依頼メールが来たとき、わたしは胸が高鳴りました。
本当はあのインタビューの件はわたしの上司の係長が担当することになっていたのですけ
ど、わたしはこの人は私の音大時代の親しい先輩だからと嘘を言って自分が担当になるこ
とを納得してもらったのです』

『お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに恋に落ちる二人。そんな昼メロみたいなこ
とをわたしは期待して先輩をあの喫茶店に呼び出しました。そして、先輩はわたしが旦那
と別れるなら自分も麻季と別れるって言ってくれました。もちろんそれは先輩がわたしに
好意があるからではないことは理解していました』

『でも奈緒人君への愛情を切々と語る先輩の話を聞いているうちにあたしは目が覚めまし
た。奈緒人君から母親を、麻季を奪ってはいけないんだと。そしてその決心は自分の娘を
出産したときに感じた思いを通じて間違っていなかったんだなって再確認させられたので
す』

『本当に長々とすいません。あたしの先輩へのしようもない片想いの話を聞かされる義理
なんて先輩にはないのに。でもわたしは後悔はしていません。そして今では先輩が麻季と
やり直そうとしていることを素直に応援しています。生まれてきた子がわたしをそういう
心境に導いてくれました』



214:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2014/12/31(水) 22:50:27.07 ID:8QxDihXuo

『先輩のことだから麻季の携帯のチェックなんて卑怯な真似はしていないと思います。わ
たしから先輩への最後のプレゼントです。昨日噂を耳にしました。最近荒れていた元旦那
に彼女ができたみたいです。わたしが元旦那に離婚を切り出したときも彼は平然として、
君が僕のことを信じられないならしかたないねと言っていました。その旦那が最近ふさぎ
こんでいることをわたしは知り合いから聞いていました。最初は私と別れたからかなって
思っていたんですけど、そうではないようです。やはり麻季が元旦那にきっぱりと別れを
告げたみたい。結局麻季は結城先輩を選んだのです』

『そして元旦那も麻季のことを諦めて、次のお相手をオケ内で調達したらしいです。いつ
までも独身で麻季を待つと言ったあのセリフはどこに行ったんでしょうね(笑)』

『これでわたしの非常識なメールは終わりです。先輩・・・・・・。大好きだった結城先輩。こ
んどこそ本当にさようなら。麻季と奈緒人君と仲良くやり直せることを心底から祈ってま
す』



 怜菜の離婚後も結局なし崩しに麻季とのやり直しを選択した僕は、その辛いメールを読
み終わった。

 それから数日後に混乱した想いを乗せたメールを返信したのだけど、それは送信先不明
で戻ってきてしまった。そのとき僕は業務上の用件を装って首都圏フィルに電話した。知
らない女性の声が応対してくれた。

『首都フィル事務局です』

『・・・・・・音楽之友社の結城と申しますけど鈴木さん、いや太田さんをお願いします』

 鈴木さんか太田さんわからない人からわけのわからない電話が僕にあったことはつい昨
日のようだった。

『鈴木は退職いたしました。後任の多田と申します。どんなご用件でしょう』

『いえ、すみません。ちょっと個人的な用件で電話しました。失礼いたしました』

 電話口の多田さんと名乗る女性は僕の慌てている様子に少し同情してくれたらしかった。
音楽之友社の肩書きも多少は有利に働いたのかもしれない。

『鈴木に何かご用でしたか』

『はい。連絡先を教えていただけないでしょうか』

 無理を承知でそう言った僕に多田さんは答えた。

『それはお教えできません。業務上のご連絡でないならこれで失礼させていただきます』

『すみません。ありがとうございました』

 これで本当に怜菜と僕の繋がりは断ち切られた。



217:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:45:37.94 ID:vk+Esfzmo

 怜菜のメールのとおり怜菜と先輩が離婚したあとも僕は麻季と別れなかった。怜菜の決
断に従って自分の行動を決めようと思っていたのだけど、この頃から奈緒人が急速に成長
していたこともあり僕はそんな奈緒人を大切に育てようとしている麻季と別れることがで
きなかった。麻季と先輩の仲とか最後に会ったときの怜菜の寂しそうな表情とかが僕を苦
しめたけど、息子の成長を見守ることがそのときの僕にとって最優先事項になっていたの
だった。

 怜菜の最後のメールで怜菜の心境を始めて知った僕は心を揺り動かれたのだけど、同時
に麻季が先輩と本当に縁を切ったらしいという話にもほっとしていた。麻季が本当に僕の
ところに戻ってきてくれた。怜菜の告白に動揺していたし一時期彼女の告白めいたセリフ
に心が動いたことも事実だったのだけど、やはり僕は心底から奈緒人をそして奈緒人の母
親、麻季を愛しているようだった。

 それから数週間後、怜菜への同情と未練を断ち切った僕は、珍しく早い時間に帰宅でき
た。自宅の近所での取材の帰りに直帰することができたのだ。まだ明るい時間に帰宅する
のは久し振りだった。これなら奈緒人がおねむになる前に息子と一緒に過ごすことができ
る。僕はそう思って自宅のマンションのドアを開けた。そこには黒づくめの喪服姿の麻季
が立っていた。

「博人君、ちょうどよかった。さっきからメールとか電話してるのに出てくれないんだも
ん」

「ごめん。近所でインタビューしてたからさ。おかげで早く直帰できたんだけど。それよ
りその格好どうかした? 近所で不幸でもあったの」

「奈緒人は実家に預けようかと思ったんだけど、博人君が帰ってくれてよかった。大学時
代の友だちが交通事故で亡くなったの。これからお通夜に行きたいだけど」

「いいよ。奈緒人は僕が面倒をみてるから。つうか斎場はどこ? 車で送っていこうか」

「ううん。保健所の近くらしいから大丈夫よ。奈緒人、まだ夕食前だからお願いね」

「わかった。亡くなった人って僕も知っている人?」

「博人君は知らないと思う。あたしの大学時代の親友で結婚式にも来てもらった子で太田
怜菜っていうんだけど、多分あなたは覚えていないでしょ」

「・・・・・・」

「博人君? どうかした? 顔色が悪いよ」

「・・・・・・やっぱり送って行く」

「あたしは助かるけど、奈緒人はどうするの」

「連れて行く。君が帰ってくるまで斎場の前に待ってるから」

 麻季はいつもと違う雰囲気の僕に不審を感じたようだった。麻季の勘は時として鋭い。

「博人君、怜菜のこと覚えてるの?」

「とにかく一緒に行こう。僕は外で奈緒人をみながら手を合わせているから」

 自然と涙が溢れてきた。麻季の目の前で泣いてはいけないことはわかっていたし、怜菜
だってそれは望んでいなかっただろう。でもこれはあんまりだ。鈴木先輩と麻季の不倫に
悩んだ挙句、彼女は自分の娘だけを生きがいに生きて行こうとしていたのに。

「あとで全部話すよ。とにかく出かけよう」

 麻季はもう逆らわずに奈緒人を抱いて車に乗った。僕には今でも自宅から斎場まで運転
したときの記憶がない。麻季によれば僕はいつものとおり荒くない安全運転で斎場まで麻
季を連れていったそうだ。

 僕の記憶は通夜の弔いを済ませた麻季が青い顔で車のドアを開けたところまで飛んでい
る。そこから先の記憶はある。麻季がいつもは奈緒人と並んで座る後部座席ではなく助手
席のドアを開けて車内に入ってきた。

「何で?」

「何でって?」

 僕はそのとき冷たく答えた。怜菜の死には先輩にも麻季にも関わりがないことだった。
でもそのとき意識を覚醒した僕は怜菜の淋しそうな微笑みを思い出した。怜菜の死に責任
はないかもしれないけど、その短い生涯を閉じる直前に怜菜を追い詰めた責任は彼らにあ
る。

「何で親族席に鈴木先輩がいたの。何で鈴木先輩が取り乱して泣き叫んでいたの」



218:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:46:08.49 ID:vk+Esfzmo

 離婚して間がないことから親族の誰かが気をきかせたのだろう。もう離婚していたあい
つにはその席で怜菜の死を悼む権利なんてないのに。

「とりあえず家に帰ろう。奈緒人も疲れて寝ちゃっているし」

「博人君は何か知っているんでしょ。何であたしに教えてくれないの。親友の怜菜のこと
なのに」

 助手席におさまったまま麻季は本格的に泣き出した。



 その日も陰鬱な雨が降りしきっていた。

 午前中に僕の実家に奈緒人を預けた僕と麻季は、僕の運転する車で都下にある乳児院を
併設した児童養護施設に向っていた。本来ならもう桜が咲いていてもいい季節だったけど
その日は冬が後戻りしたような肌寒い日だった。

 やがて海辺の崖に面している施設の入り口の前に立ったとき、僕は隣に立っている麻季
の手を握って問いかけた。

「本当にいいのか」

「うん。もう決めたの。博人君はあたしを許してくれた。そして怜菜も鈴木先輩を奪おう
としたあたしを許してくれていたとあなたから聞いた。信じてくれないかもしれないけど、
あたしはあなたと奈緒人が好き。一番好き。もう迷わない。あなたはそんなあたしのこと
を信じているって言ってくれた。本当に感謝しているの」

「それはわかったよ。でも血が繋がっていない子を引き取るとか・・・・・・本当に大丈夫なの
か」

 麻季は僕の手を強く握った。

「大丈夫だよ。あたしは怜菜の子どもを立派に育ててみせる。怜菜はあたしのせいで離婚
したんでしょ。本当なら両親に祝福されて生まれて大切に育てられていたはずなのに」

「そう簡単なことかな。奈緒人だってまだ手がかかるのに」

「博人君は君の好きなようにすればいいって言ってくれたでしょ。今になって心配になっ
たの?」

「違うよ。君が決めたんなら僕も協力する」

 僕はそのとき怜菜のことを思い出した。

 怜菜。わずか数回しか顔を会わせなかった怜菜。旦那の浮気に対してひとり毅然として
立ち向かった怜菜。腰砕けでだらしない僕をさりげなく慰めてくれた怜菜。こんな僕のこ
とを好きだったって最後のメールで告白してくれた怜菜。

 彼女はもういない。熱を出した娘を病院に連れて行った帰りに暴走した車に引かれて彼
女は死んだ。麻季の話では、怜菜は即死ではなかった。自分が抱きしめて守った娘のこと
を最後まで気にしながら救急車の到着前に現場で息絶えたそうだ。

「行こう、博人君」

「うん」

 僕たちは手を繋いだまま施設の中に入った。施設の中に入ると大勢の子どもの声が耳に
入った。



 僕たちの考えは相当甘かったようだ。施設の職員は親切に対応してくれたけど彼女が説
明してくれた要件は厳しいものだった。考えてみれば児童虐待とかが普通にありえるこの
世の中では当然の措置だったのだろう。養子縁組には民法で定められたルールがある。養
子となる子が未成年者の場合、家庭裁判所の許可が必要だ。さらに養子となる子が十五歳
未満の場合は法定代理人の同意が必要となる。もちろん今回のケースの法定代理人は実の
父親だった。怜菜の死後先輩は怜菜の遺児を認知した。

 つまり麻季の希望どおり玲奈の遺児を養子として引き取るためには鈴木先輩の同意が必
要なのだ。

 それは鈴木先輩と怜菜の関係を知った麻季にはかなりハードルが高いことだったと思う。
僕は怜菜の通夜から帰宅して奈緒人を寝かせたあと、怜菜とのやり取りを全て麻季に話し
た。当然、麻季は錯乱した。夫である僕に嘘をついて鈴木先輩とメールを交わしていたこ
とを僕に知られたことや先輩が実は独身ではなかったことを知った以上に、怜菜が鈴木先
輩と麻季との関係を知りながら麻季を責めずに黙って僕と会っていたことがショックだっ
たようだ。



219:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:48:16.10 ID:vk+Esfzmo

 麻季の受けたショックが僕と怜菜が密かに会っていたせいか、怜菜が自分を責めずに最
後まで恨むことがなかったことを知ったせいかどちらが原因なのかはわからない。怜菜の
死には僕も相当ショックを受けていた。そして僕はもう何も麻季に隠し事をしなかった。
怜菜が僕が自分の夫だったら幸せだったのにと言ったことも告白した。最後に怜菜から会
社に届いたメールのことも話した。自分も一瞬怜菜が僕の妻だったら幸せだったろうと考
えたことがあることも麻季に告白した。それでどうなろうともう僕にはどうでもよかった。

 怜菜を救ってあげられなかった絶望に僕は打ちひしがれていた。奈緒人のことは大切だ
けど、鈴木先輩と麻季の浮気によって苦しんだ挙句、最愛の娘を残して死んだ怜菜のこと
を考えると僕は先輩と麻季のことなどどうでもよかった。

 麻季が先輩との関係を誤魔化したり怜菜のことを悪く言うならそれまでのことだ。そう
なったら僕は奈緒人の親権だけを争おう。今の仕事では奈緒人を育てられないというのな
ら転職だって辞さない。道路工事のアルバイトをしたって奈緒人を育てて見せる。でも怜
菜とのやりとりを聞かされた麻季は泣き出した。それは先輩に騙されたことへの涙ではな
く、先輩と離婚した怜菜が最後まで麻季責めずに僕との復縁を応援してくれたことを知ら
されたときのことだった。怜菜の名前を叫びながら泣きじゃくる麻季の姿を見て僕はもう
一度彼女とやり直してみ
ようと思ったのだ。



「あたし、鈴木先輩と話す」
 養護施設の職員から制度の説明を受けたあと、施設を後にした麻季は僕にきっぱりと言
った。「絶対に了解させるから」

 そのとき自分の言葉の勢いに気がついた麻季は一瞬うろたえた様子で僕を見た。
「博人君違うの。別にあたしが言えば先輩が言うことを聞くとかそういうことじゃなく
て」

 最後の方は聞き取れないくらいに小さい声で麻季は言った。

「もういいよ。僕たちはお互いに全部さらけ出した上で、やり直すことを選んだんだ。今
さらそんなことを気にしなくていいよ」

「・・・・・・だって」

「決めた以上はお互いに気を遣ったりするのやめようよ。僕も正直に君への気持とか、怜
菜さんに惹かれたことがあることも話したんだ。もうお互い様じゃないか」

「それはそうだけど・・・・・・。博人君の話を聞いていると、あなたは本当は怜菜みたないな
子の方が似合っていたんじゃないかと思ってしまって。あなたが怜菜の気持に応えていた
ら、今頃怜菜も死なずに幸せに暮らしてたのかな。そんなことを考える資格はあたしには
ないのにね」

「もうよせよ。それより本当に先輩に話すの? 勝算はあるんだろうな」

「大丈夫だと思う」

「僕が先輩に話した方がいいんじゃないか」

「・・・・・・ううん。あたしにさせて。もうあたしと先輩が何とかなるとか絶対ないから。先
輩が独身だってあたしに嘘を言ったことよりも、離婚したとはいえ自分の子ども引き取ら
ずに施設に預けるような人だと知ってもう彼には嫌悪感しか感じない。友だちがほとんど
いないあたしにとって怜菜はようやくできた親友だったの。散々裏切っておいてこんなこ
とを言えた義理じゃないけど、お願い。あたしを信じて」

 僕は彼女を信じて施設からの帰り道、先輩がいるだろう横浜市内にある横フィルのリー
サルスタジオに麻季を送り届けた。

「待っていてくれる?」

「もちろん」

 一時間後に横フィルのスタジオから麻季が早足で出てきた。車のドアを開けて助手席に
乗り込んだ麻季は僕に法廷同意人である鈴木先輩の署名捺印がある用紙を見せた。

「お疲れ」

「うん。あたし頑張ったよ」

 麻季が僕に抱きついて僕の唇を塞いだ。周囲の通行者たちからは丸見えだったろう。



 その後は児童擁護施設の研修や施設職員の家庭訪問と面接があった。最終的に家庭裁判
所の許可を経て僕たちは養子縁組届を区役所に提出した。

 こうして亡き怜菜の忘れ形見である女の子、奈緒が僕たちの家庭にやって来たのだった。



220:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:49:04.81 ID:vk+Esfzmo

 奈緒人と奈緒は初顔合わせの瞬間からお互いにうまが合うようだった。まだ奈緒は幼い
けれど、奈緒人の方はもう自我が出来上がり出す頃だったので、僕と麻季はそのことが一
番心配だったから、奈緒人と奈緒が仲がいいこといは心底からほっとした。僕たちの心配
をよそに二人はすぐにいつも一緒に生活することに慣れたようだった。

 麻季も育児自体は奈緒人で慣れていたから奈緒を育てることに戸惑いはないようだった。
この頃の僕は相変わらず仕事は忙しかったけど、それでもいろいろやりくりしてなるべく
早く帰宅し、週末も家にいるようにしていた。そのせいで昼休も休まずに仕事をする羽目
にはなったのだけど。

 毎日帰宅すると、僕は迎えてくれる麻季に軽くキスしてから子どもたちを構いに行った。
奈緒人はだいたい起きていて僕に抱きついてきた。奈緒はまだ幼いので眠っていることも
多かったけど、たまに起きている時は僕の方によちよちとはいはいしてきて抱っこをねだ
った。そんな僕と子どもたちの様子を、僕から受け取ったカバンを胸に抱いたまま、麻季
は微笑んで眺めていた。

 概ね順調な生活を送っていた僕たちだけど、やはりあれだけのことがあった以上何もな
かったようにはいかなかった。

 麻季と鈴木先輩の関係に関しては、僕はもう別れて何の連絡もないという麻季を信じて
いた。だから以前のようにそのことが夫婦間のしこりになることはなかったはずだったの
だ。麻季は真実を知った瞬間、自分の行いを心底後悔したと思う。

 先輩に独身だと騙されていたとはいえ、自分の親友の怜菜を裏切ってつらい思いをさせ
ていたこと。それでも怜菜は麻季を恨むことなく、僕と麻季の幸せを祈ったまま先輩と離
婚したこと。そして一人で出産し奈緒を育てる道を選んだ怜菜が、娘の奈緒を庇いながら
事故死したこと。

 全てを知って奈緒を引き取って育てる道を選択した麻季だけど、それだけで過去を割り
切るわけにはいかなかったようだ。順調に子育てをしているように見えた麻季だけど、し
ばらくするとやたらに麻季が僕に突っかかってくるようになった。

 麻季が一番こだわっていたのは奈緒という怜菜の遺児の名前のことだった。

 怜菜はなぜ娘に奈緒という名前を付けたのか。怜菜は僕や麻季への嫌がらせで自分の最
愛の娘にその名前を付けるような女ではない。怜菜は最後のメール以降、首都フィルを黙
って退職して僕との連絡を絶った。怜菜が事故に遭わずに存命していたら、僕も麻季も怜
菜の娘の名前を知ることはなかったろう。だからこれは嫌がらせではなかった。第一、怜
菜が麻季への嫌がらせのためだけに、生命をかけて自分が守った娘の名前を命名するなん
て考えられなかった。

 その点では僕と麻季の意見は一致していた。それでも自分のお腹を痛めた息子の名前に
ちなんだとしか思えない奈緒という名前を娘に付けた怜菜の意図を考えると、麻季は冷静
ではいられなかったようだ。怜菜がもう亡くなっているのでその意図は永遠に不明のまま
だ。だからそれは考えてもしようがないことなのだ。僕はそう麻季に言った。

 最初のうちは麻季は僕の言葉に納得していた。育児もうまく行っていたし、そのことだ
けで家庭を不和にするつもりは麻季にもなかった。先輩とのメールのやり取りで僕に嘘を
ついていたことを僕に知られていたことに対して麻季が負い目を感じていたということも
ったのかもしれない。

 それでもしばらくすると麻季は奈緒の名前について文句を言うようになった。確かに兄
妹に奈緒人と奈緒という名前は普通は命名しないだろう。別にはっきりとどこが変という
わけではないけど、常識的には男と女の兄妹に一時違いの名前はつけないだろう。麻季は
最初は柔らかくそういうことを寝る前に僕に話しかけてきた。この先そのことに周囲が不
審に思い出すと子どもたちがつらい思いをするかもしれないと。

 それは強い口調ではなかったので子どもたちをあやすのに夢中になっていた僕はあまり
深くは考えなかった。それがいけなかったのかもしれない。怜菜に対して罪悪感を感じて
いたはずの麻季は次第に怜菜のことを悪く言うようになった。

 ある夜、子どもたちを寝かしつけたあとリビングのソファに僕と麻季は並んでくつろい
でいた。翌日が休日だから僕たちは麻季が用意してくれたワインとチーズを楽しもうと思
ったのだった。結構いいワインに少し酔った僕は、久し振りに麻季を誘ってみようかと考
えていた。麻季と和解してからずいぶん経つけど、怜菜の死や奈緒を引き取るといった事
態が重なったこともあって僕たちは相変わらずレスのままだった。

 今なら麻季を抱けるかもしれない。久し振りの夫婦の時間に僕は少し期待していたのだ。
でも麻季は自分で用意したワインには一口も口をつけず青い顔でそう言った。

「怜菜を裏切ったあたしが言えることじゃないとは思うよ」

「でも、何であたしの奈緒人の名前をもじって奈緒なんて命名したんだろ。怜菜は博人君
にはあたしのことを恨んでいないと言ったらしいけど、本当はすごくあたしを恨んでたん
じゃないかな」

「いや。怜菜さんは本当に君を恨んだりはしていなかったよ」



221:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:49:36.70 ID:vk+Esfzmo

「それなら何でわざとらしく奈緒なんて名前を付けるのよ。怜菜のあたしへの復讐かあな
たへの愛のメッセージとしか考えられないじゃない。そんな気持で命名された奈緒だって
可哀そうだよ。あの子には何の罪もないのに」

 罪があるとしたら先輩とおまえだろ。僕はそう言いそうになった自分を抑えた。

「怜菜さんは冷静に自分や周囲を見ていたよ。数度しか会わなかったけどそれはよくわっ
た。そして鈴木先輩以外は恨んでいなかったよ。というかもしかしたら先輩のことすら恨
んでいなかったかもしれない。そういう意味では聖女みたいな人だったな」

 僕はそのとき浮気の証拠を先輩に突きつけることもなく、ただ先輩が自分に帰ってくる
のを耐えながら待っていた怜菜を思い出した。僕が君は強いなと言った言葉を怜菜は否定
した。自分だって旦那に隠れて泣いているのだと。でも今思い返しても怜菜はやはり強い
女性だった。結局最後まで自分の意思を貫いて先輩と別れ一人出産したのだから。

 あえてつらいことを思い出すなら、怜菜が自分の弱さを見せたのは最後に怜菜と会った
時だろう。あの時は怜菜は僕に惹かれていたとはっきり言った。そのとき僕は麻季と鈴木
先輩のような隠れてこそこそするような卑怯な関係になりたくなくて、はっきりした返事
をしなかった。でもそれが愛かどうかはともかく僕がそんな怜菜に惹かれていたこともま
ぎれもない事実だった。

「そうね。聖女か。怜菜は真っ直ぐな子だったよ。大学時代からそうだったもん。あたし
みたいに既婚者なのにほいほいと浮気するようなビッチじゃなかった」

「もうよそうよ」

「博人君は本当は怜菜と結婚した方が絶対に幸せだったよね。あたしみたいに平気で旦那
を裏切って浮気するようなメンヘラのビッチとじゃなく」

「・・・・・・どういう意味だ」

「怜菜はあなたが好きだったんでしょ」

「・・・・・・多分ね」

「あなたも怜菜が気になったんだよね?」

「あのときはそう思ったかもしれないね」

「ほら。あたしは先輩に抱かれて、その後もあなたに嘘をついて先輩とメールを交わして
あなたを裏切ったけど。あなたと怜菜だって浮気してるのと同じじゃない。違うのはあた
したちが一回だけセックスしちゃったってことだけでしょ」

「そのことはもう散々話し合っただろ。そのうえでお互いに反省してやり直そうとしたん
じゃないか」

 麻季は俯いた。

「もうよそうよ。明日は休みだし子どもたちを連れて公園にでも行こう」

「・・・・・・あたしと違って博人くんは嘘を言わないよね。先輩との仲を誤魔化したあたしに
対してあなたは正直に怜菜に惹かれていたと言ってくれた」

「僕は君には嘘を言いたくないからね。というか君と付き合ってから君には一度も嘘をつ
いことはないよ」

「・・・・・・ごめんね。自分でもわかってるのよ。先輩とあたしと違ってあなたと怜菜は本当
は浮気とか不倫したわけじゃないし、それにもう怜菜はいないんだから将来を不安に思う
必要はないって」

 麻季はとうとう泣き出した。いろいろと納得できないことはあったけど、心の上では僕
が怜菜に惹かれていたのは事実だったから僕は麻季に謝った。

「ごめん。僕と怜菜さんはお互いに情報交換しあっているつもりだったけど、確かにそう
するうちに彼女に惹かれていたことは事実だ。君を裏切ったのかもしれない。それを君の
浮気のせいにする気はないよ」

 麻季は何か言おうとしたけど僕は構わず話を続けた。

「でも奈緒人のために、それから怜菜の子どもの奈緒のためにも僕たちはやり直そうとし
ているんでしょ? 君には悪いと思うけどこんな話を蒸し返してどんなメリットがあるん
だ」

 麻季が再び泣き出した。



222:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:50:08.50 ID:vk+Esfzmo

「ごめんなさい」

「いや」

「あたし最低だ。自分が浮気したのにそれを許してくれた博人君に嫌なことを言っちゃっ
て」

「もういいよ。明日は子どもたちを連れて外出しようよ」

 僕は麻季を抱きしめた。麻季も僕に寄りかかって目をつぶった。僕は数ヶ月ぶりに麻季
に自分からキスした。麻季がこれまでしてくれてたような軽いキスではなく。麻季の体を
撫でると彼女も泣きながら喘ぎだした。僕は麻季の細い体を愛撫しながら彼女の服を脱が
した。

 その晩、麻季の浮気以来初めて僕たちは体を重ねた。独身や新婚の時だってそんなこと
はなかったくらい麻季は乱れた。

 こうして僕は再び麻季を抱くことができた。それからしばらくは麻季の感情も落ち浮い
ていたし、僕が帰ると機嫌よく迎えてもくれた。奈緒人と奈緒も順調に育っていたし、僕
たちは夫婦生活最大の危機を何とか乗り越えたかに思えた。

 そのまま過去のことを引きずらない生活が数年続いた。奈緒人も奈緒も幼稚園に入った
し麻季も昼間は育児から開放されたせいか奈緒の名前や怜菜のことに悩むことも無くなっ
たようだった。奈緒人と奈緒は少し心配になるくらいに仲が良かった。これまでは奈緒人
や奈緒の愛情は僕と麻季に向けられていたと思っていたのだけど、この頃になると二人は
少しでもお互いが目に入る距離にいないとパニックになるくらいに泣き出すようになって
いた。

 例えば外出中に僕と麻季が別行動を取ることもあった。そんなとき僕が奈緒人を、麻季
が奈緒を連れてほんの三十分くらい別々に過ごそうとしたとき、まず奈緒が火がついたよ
うに泣き出し、「お兄ちゃんがいいよ」と叫び出した。泣き叫びはしなかったものの奈緒
人の方も反応は同じようなものだった。「奈緒はどこにいるの」と繰り返し泣きそうな顔
で僕に訴えていたから。

 それで懲りた僕たちは極力二人を一緒にいさせるようにした。そしてこのこと自体は僕
も麻季も嬉しかった。これまで頑張って奈緒人と怜菜の忘れ形見である奈緒を育ててきた
甲斐があったと思った。

 そのまま推移すれば普通に仲のいい家族として歳月を重ねられたのかもしれない。この
頃は僕と麻季が怜菜や先輩のことを話題に出すことすらなかった。僕も、そして麻季もそ
んな今の生活に満足していたのだから。



 編集長に海外出張を打診されたとき、僕は最初戸惑った。それはヨーロッパの音楽祭を
連続で三つ取材するのが目的だった。取材費に限りがある専門誌だったこともあり出張さ
せるのは記事作成兼写真撮影で一人だけ、あとは現地のコーディネーターと二人でやれと
のことだった。音楽祭の日程が微妙に近いせいで出張期間は約三ヶ月だった。

 家庭はうまく行っていた。麻季との仲もそれなりに円滑になっていたし、何よりも子ど
もたちについて何の心配もない状態だった。この頃の僕の帰宅は相変わらず遅かったけど、
麻季がそのことに文句を言ったり悩んだりする様子もなかった。それでも僕は内心麻季や
子どもたちに会えなくなるのは寂しかった。

 わがままは言えないことはわかっていたし、編集部の中から選ばれたことも理解してい
た。今まではこういう取材は自ら音楽祭に赴く評論家に任せていたのだから、自社取材に
踏みきった意味とそれを任された意味は十分に理解していた。

 この頃の家庭が円満だったせいで僕は編集長に出張をOKした。業務命令だったので了
解するのが当然とは言えば当然だったのだけど。その晩、麻季に出張のことを伝えたとき、
どういうわけか麻季はすごく不安そうな表情をした。

「麻季、どうしたの? 大丈夫か」

「うん。ごめんなさい。大丈夫だよ」

 麻季が取り付くろったような笑顔を見せた。

「博人君に三ヶ月も会えないと思って少し慌てちゃった。でもそんなに長い間じゃないし、
博人君が会社で認められたんだもんね」

「ごめんな。でも仕事だから断れないしね」

「わかってる。奈緒人と奈緒のことはあたしに任せて。奈緒は三ヶ月もすると相当成長し
ているかもね」

「それを見られないのが残念だけど。でもたった三ケ月だし辛抱するよ」

 僕は奈緒を抱きながら麻季に言った。



223:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:50:39.68 ID:vk+Esfzmo

「奈緒人は?」

「珍しく奈緒より先に寝ちゃった。いつもは奈緒が隣にいないと文句言うのにね」

 奈緒の方も僕に抱かれらがらうとうとし始めていた。この頃になると奈緒の顔立ちはは
っきりとしてきていた。奈緒は将来美人になるなと僕は考えた。怜菜の可愛らしい表情と、
認めたくはないけど鈴木先輩の整った容姿を受け継いだ奈緒は、当然ながら奈緒人とは全
く似ていなかったのだ。

「奈緒をちょうだい」

 麻季はうとうとし始めた奈緒を僕から受け取って、奈緒人が寝ている寝室の方に連れて
行った。やがて戻ってきた麻季が僕に抱きついた。麻季は不安そうな表情だった。僕は麻
季を抱きしめた。

「博人君好きよ。あなたがいなくなって寂しい・・・・・・早く帰って来てね」

 そのとき麻季が何を考えていたかは今でもわからない。

 それから二月後、取材を後えてホテルで休んでいた僕の携帯が鳴った。日本の知らない
番号からだった。僕が電話に出ると女性の声がした。

「突然すみません。こちらは明徳児童相談所の者ですが」

 その女性は僕が奈緒人と奈緒の父親だと言うことを確認するとこう言った。

「奈緒人君と奈緒ちゃんは児童相談所で一時保護しています。奥様が養育放棄したためで
すけど」

 僕は携帯を握ったまま凍りついた。



 取材を終えていないため日本に滞在できるのはわずか三日間が限度だ。帰国便の機内で、
僕は一月前に業務連絡で二日間だけ帰国したときのことを思い出した。あのとき編集部に
寄って用を済ませてから帰宅した僕に、麻季は抱きつこうとしたけれど、その麻季を押し
のけるようにして奈緒が足にしがみついて来たのだった。麻季は少し驚いて身を引いたけ
どすぐに笑顔を取り戻して僕たちを見守っていた。奈緒人は少し離れてその光景を見つめ
ていたようだった。

 そのときの家族の様子には少し違和感を感じたけど、すぐにいつもどおりの家族の団欒
始まった。久し振りだったのでいつもより会話も華やかだったはずだ。わずか一月後にこ
んなことになるような前兆はいくら思い返してもなかったと思う。麻季と子どもたちにい
ったい何があったのか。いくら考えてもその答は出なかった。

 その三日間でしなければいけないことはたくさんあった。帰国して編集部に連絡して断
りを入れてから、僕は一度自宅のマンションに帰宅し、すぐに車に乗って児童相談所に向
った。相談所のケースワーカーさんから事情を聞いて実家に向った。途中に立ち寄った自
宅の床には小物や封を切られたレトルト食品の残骸などが散乱して異臭を放っていた。出
張前の綺麗に片付けられていた自宅の面影は全く残っていない。それまでに何度も麻季の
携帯に電話をしていたけれど、僕の携帯は着信拒否されているようだった。

 僕は混乱し怯えながらも半ば無意識に運転して実家に辿り着いた。実家のドアのチャイ
ムを鳴らすと、しばらくして警戒しているような声がどちら様ですかと聞いてきた。実家
で暮らしている妹の声だ。

「僕だけど」

「・・・・・・お兄ちゃん?」

「うん。開けてくれ」

 ドアが開くと妹が顔を出した。

「よかった。お兄ちゃんが戻って来てくれて」

 そのとき廊下の奥から奈緒人と奈緒が走り寄って来て僕にしがみつくように抱きついた。

「パパ」

 二人は同時にそう言って泣き出した。僕はしゃがみこんで二人を抱き寄せながら傍らに
じっと立っている妹の方を見上げた。

「・・・・・・今は奈緒ちゃんたちを慰めてあげて。話は後で」

 妹は涙をそっと払いながら低い声で言った。



224:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:51:10.59 ID:vk+Esfzmo

 奈緒人と奈緒は泣きじゃくって僕に抱きついて離れなかった。何があったのか聞きたか
たけど、妹に言われるまでもなく今は子どもを落ち着かせるのが優先だった。僕は大丈夫
だよとかそんな言葉しかかけられなかったけど、そう言いながら子どもたちの頭や背中
を撫でているうちに次第に二人は穏かな表情になって行った。いったいこれまで苦労して
育てたこの二人に何が起こったのだろう。そしてこの先僕の家庭はどうなってしまうのか。
 子どもたちの様子に胸が痛んだ僕だけど、二人が僕に抱きついたまま寝てしまうと改め
て混沌とした境地に陥ってしまった。

「いったい何があったの? 麻季は無事なんだよな」

「どういう意味でお姉さんが無事って言っているのかわからないけど、まだ死んでいない
という意味なら無事みたいね」

 妹が冷たい声で言った。

「・・・・・・どういう意味?」

「お兄ちゃんから電話をもらって、児童相談所から子どもたちを引き取ってすぐにお姉さ
んから電話があったからね」

「麻季は何て言ってたんだ」

 僕は淡々と話す妹に詰め寄りたい気持を抑えて聞いた。それでも無意識に大きい声を出
してしまったらしい。

「子どもたちが起きちゃうでしょ。もっと声を抑えて」

「悪かったよ・・・・・・それであいつは何だって?」

「奈緒人君と奈緒ちゃんを返せって。電話に出たのはお父さんだけど、お父さんのことを
誘拐犯みたいに罵っていたらしいよ」

 いったい何のだ。もともと麻季はうちの実家とは仲が良かった。僕の両親とも妹ともう
まく行っていたのに。

「それでお父さんは、お兄ちゃんが帰るまでは孫は渡さないって言ったの。何があったの
かはわからないけど、自宅で何日も幼い子どもたちを放置するような人には子どもたちは
渡せないって」

「麻季と子どもたちに何があったんだ。おまえは何か知っているのか」

「お兄ちゃん、児童相談所に寄って来たんでしょ。そこでワーカーさんの話を聞いた?」

「うん」

「じゃあ、お兄ちゃんはあたしたちと同じことは知っているよ。あたしたちも児童相談所
の人から説明されたことしか知らないし。お姉さんが電話を切る前にお父さんが何があっ
たのか聞いたけど、お姉さんは答えずに電話を切っちゃったし」

 最初のうちは、体調不良で二人とも休ませますという連絡が麻季から幼稚園にあったら
しい。でもそのうちその連絡すら無くなり、不審に思った幼稚園の先生が自宅や麻季の携
帯に連絡しても応答がない。そんなことが数日間に及ぶようになると、さすがに心配にな
った幼稚園から児童相談所に連絡が行った。同時にマンションの近所の人たちからも隣家
は昼間の間は子どもが二人きりで過ごしているらしいという通報も児童相談所にあったそ
うだ。

 児童相談所の職員が家庭訪問をして見つけたのは、自宅の食べ物を漁りつくして衰弱し
た子どもたちだった。風呂やシャワーも入っていなかったようで異臭がしたそうだ。結局
奈緒人と奈緒はその場で救急車で病院に運ばれて点滴を受けた。そしてその二日後に児童
相談所に一時保護された。

 警察を経由して僕の職場を突き止めた相談所の職員は、麻季には連絡を取らずに編集部
に電話した。編集部から僕の携帯の番号を聞いた相談所のケースワーカーが僕に連絡した。

「結城さんの依頼どおり、実家のご両親と妹さんが二人をお迎えにきたので身分を確認し
た上で、奈緒人君と奈緒ちゃんをお渡ししました。翌日に奥様が見えられましたけどね」
 僕が帰国して児童相談所の担当だというケースワーカーをたずねたとき、彼女は苦笑し
ながら僕にそう説明した。「奥様は男の人と一緒に来て、大きな声で私たちを誘拐犯呼ば
わりしてましたよ」

 僕は妻の不始末を謝罪した。

 結局わかったのはこれだけだった。麻季が子どもたちを放置したことは間違いない。最
初この話を聞いたとき、僕は麻季の身に何か不慮の事故が起きたのではないかと思った。
怜菜の寂しく悲しい事故のことが頭をよぎった。でも、相談所の職員や妹の話によるとそ
んなことは全くないらしい。ようやく自分でも理解できてきた事実。それは想像もできな
いけど麻季が子どもたちを意図的に放置した挙句、子どもたちを保護した相談所や僕の実
家に子どもたちを渡すように居丈高に要求したということだった。



225:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:51:41.30 ID:vk+Esfzmo

 いったい麻季の心境に何が起こったのか。こんなのは僕の知っている麻季の行動ではな
い。自分の不倫や僕の怜菜への想い、それに僕の不在で混乱したとしても、少なくとも麻
季が愛している子どもたちを放置するようなことは考えられない。僕は妻が知らない女性
のように思えてきた。そしてそのことに狼狽した。

「父さんたちは?」

 僕は気分を変えようと妹に聞いた。

「子どもたちの服とか必要な品物を買いに行ってるよ。お兄ちゃんの家からは何も持って
来れなかったからね」

「おまえにも迷惑かけたね」

 僕は妹に謝った。

「気にしなくていいよ。大学はもう講義はないし四月に入社するまでは暇だしね。それに
奈緒人君と奈緒ちゃんも懐いてくれたし」

「悪い」

「だからいいって。あ、父さんの車の音だ。帰ってきたみたいね」

「おう、博人帰ったのか」

 父さんと母さんは大きな買物袋を抱えて部屋に入ってきた。

「おかえり。奈緒ちゃんのサイズの服はあった?」

 妹が心配そうに母さんに話しかけた。

「うん、探し回ったけど見つけたよ。奈緒人の物も一通り揃ったよ」

「よかった」

 僕の子どもたちのために両親と妹がいろいろ考えてくれている。それは有り難いことな
のだけど、そのことは今の僕にはすごく非日常的な会話に聞こえた。これまで僕は子ども
たちの服のサイズなんか気にしたことはなかった。それは全て麻季の役目だったから。本
当にもう戻れないのかもしれないという事実をようやく自分に認め出したのは、このとき
からだった。

「父さん、母さんごめん。二人ともこんなこと頼める状態じゃないのに本当に悪い」

 両親は高齢だった。僕と妹は両親が三十歳過ぎに生まれたのだ。両親が居宅支援サービ
スを受けようといろいろ調べていることは、以前僕は妹から聞いていた。

「おまえのためじゃないよ。孫のためだからね」

 母さんが笑って言った。

「それより博人、麻季さんと何かあったのか」

 父さんが真面目な顔になって言った。

「見当もつかないんだ。一月前に帰宅したときだって普通にしてたし」

「お兄ちゃんも何が何だかわからないんだって」

 妹が助け舟を出してくれた。

「そうか」
 父さんはため息をついた。「おまえ、いつまで日本にいられるんだ」

「明後日にはまた戻らないと」

「わかった。とりあえず一月後には帰宅できるんだな」

「うん」

「じゃあ、それまでは奈緒人と奈緒はうちで預かる。何があっても麻季さんには渡さな
い。その代わりに帰国したら一度麻季さんとちゃんと話し合え」

「・・・・・・明日、麻季の実家に行ってみようかと思うんだけど」

「やめておけ」

 父さんが断定するように言った。

「だって」



226:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:52:12.02 ID:vk+Esfzmo

 僕がそう言ったとき妹が口を挟んだ。

「自相に姉さんが子どもったを返せって言いに行ったとき、男の人と一緒だったんでし
ょ?」

「そうだったな・・・・・・」

 やはり鈴木先輩と麻季の仲が再燃したのだろうか。

「多分お姉さんの実家に行っても解決しないよ。それにお兄ちゃんが電話してもお姉さん
は出ないんでしょ」

「着拒されてる」

「じゃあ無理よ。出張が終るまではこの子たちはうちで面倒みるから。父さんたちは体調
もあるから厳しいだろうけど、あたしも面倒看るから」

「そうよ。唯も大学が休みなんで協力してくれるそうだし、あなたは安心して仕事に戻り
なさい」

 母さんが妹の唯を見て言った。妹も頷いている。これでは全く何も解決しないし、麻季
のことをまだ信じたい僕の悩みも解決しない。でも父さんと妹の言うことが正しいことは
わかっていた。わずか二日でできることはない。

 翌日は麻季を探すことを諦めた僕はずっと奈緒人と奈緒と一緒に過ごした。妹が一緒に
来てくれたので、公園に行ったりファミレスで食事をしたりショッピングモールで二人に
玩具や服を買ったりした(妹の話では両親の服装のセンスは古いので買い足した方がいい
とのことだった)。

 子どもたちは妹に懐いていたけど、それ以上に僕のそばを離れようとしなかった。麻季
のことは気になるけれど唯の言うように今は子どもたちと過ごすことを優先してよかった。
明日には僕は再び子どもたちを置いて出かけなければならないのだから。

 妹の勧めで早朝に実家を立って空港に向うとき、僕はあえて子どもたちを起こさなかっ
た。あとで話を聞くと目を覚まして僕がいないことを知った奈緒人と奈緒はパニックにな
って泣きながら実家の家中を僕を求めて探し回ったそうだ。両親も妹もそれを宥めるのに
相当苦労したらしい。

 僕は実家を出て一度自宅に車を戻してから電車で空港に向かったのだけど、散乱した部
屋を眺めているとこれまで凍り付いていた感情が沸きたった。自宅を出るぎりぎりの時間
まで僕は泣きながら思い出だらけの部屋を掃除した。完全に綺麗にすることは無理だった
けど。時間切れで自宅を出て空港に向う前に、僕はふと思いついてリビングのテーブルに
麻季あてのメモを残した。



『おまえのことは絶対に許さない。奈緒人も奈緒もおまえには渡さない』



 残りの一月、バイエルンでの取材は集中するのに大変だった。ふと気を許すと幸せだっ
たころの麻季の笑顔や子どもたちの姿が目に浮かび、集中して聞くべき演奏がいつのまに
か終っていたりすることもあった。それでも麻季の行動の理由をあれこれ考えているより
は仕事に集中した方がましだと気がついてからは、今まで以上に仕事にのめり込んだ。そ
のせいか編集部に送信した記事や写真は好評だったし、雑誌自体の売り上げも二割増とい
う期待以上の成果をあげたそうだ。

 仕事が終ると僕は実家に電話して奈緒人と奈緒と話をした。僕が消えてショックを受け
ていた二人も次第にもう落ち着いていたようで、僕と話すことを泣くというよりは喜んで
いる感じだった。

『二人とも思ったより元気にしているよ』

 電話の向こうで唯が言った。

「唯が子どもたちの面倒を見てくれるおかげだな」

『うーん。あたしもなるべく一緒に過ごすようにはしているんだけどさ。何というか二人
ともお互いがいれば安心みたいな境地になっちゃってるみたい』

「奈緒人と奈緒は前からいつもべったり一緒だったからな」

『まあそうなんでしょうけど。ちょっとでも奈緒人から離すと、普段は落ち着いている奈
緒がすぐに騒ぎ出すのよね。まあ兄妹が仲がいいのはいいことだけどね』

「そのせいで麻季や僕がいなくても我慢できるなら助かるけど」

 唯は少し笑った。



227:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:52:42.84 ID:vk+Esfzmo

『いいお兄ちゃんだよ、奈緒人は。あたしもあんな兄貴が欲しかったなあ』

「・・・・・・悪かったな。それで麻季を恋しがったりはしていないのか」

『全然。お兄ちゃんのことはいつ帰るのって二人ともよく聞くけど、お姉さんのことはこ
こに来てから一度も口にしないよ』

「そうか」

 僕は子どもたちが落ち着いていることに少し安心することができた。やがて一月が過ぎ
て僕は帰国した。

 帰国した僕を待っていたのは昇進の内示と実家に届いていた内容証明の封筒だった。
編集部に顔を出して無理を言って四日間の有給をもらった僕は、編集長に呼ばれ社長室
で辞令を受け取った。ジャズ雑誌の小規模な編集部の編集長を任されたのだ。正直昇進は
嬉しかったけど、二人の子どもを抱えて今までどおり激務に耐えていけるのかどうか心も
となかった。唯ももう少ししたら大学を卒業して内定している商社に入社することになる。
当然二人の子どもたちの面倒を見るわけには行かないし、かといって高齢の両親だけに育
児を任せるわけにもいかないだろう。

 とりあえず実家に戻って今後のことを相談しよう。そして今度こそ麻季に直接会って彼
女が何を考えているのか説明させなければならない。正直ここまでされるとメモに残した
ように麻季を許すことはできないと思っていたけど、それでも納得できる理由が聞けるか
もしれないと期待している気持もあった。僕にはどこかでまだ麻季に未練があったのかも
しれない。

「パパお帰りなさい」

 実家に戻ると奈緒人と奈緒が迎えてくれた。もう二人は泣くことはなかった。

「お兄ちゃん」

 唯も子どもたちの後ろから出迎えてくれた。

「ただいま」

 僕は大分重くなってきた二人を一度に抱き上げた。思ったより力が必要だったけど子ど
もたちが笑って喜び出したのでその苦労は報われた。唯も微笑みながらそんな僕たちを眺
めていた。

 ついこの間までは妹ではなくてこの子たちの母親がこの場所にいたのだ。ついそんなど
うしようもない感慨に僕は耽ってしまった。

 居間にいた両親にあいさつすると父さんが僕に一通の封書を渡してくれた。内容証明の
封書だ。封筒に記載されている差出人は「太田弁護士事務所 弁護士 太田靖」となって
いる。気を遣ってくれたのか、唯が子どもたちを連れて出て行った。公園まで犬を連れて
散歩に行くのだと言う。奈緒人も奈緒も僕のそばにいることに執着することなく三人と一
匹は賑やかに外出していった。

 僕は父さんを見た。父さんはうなずいて鋏を渡してくれた。封を切って内容を確かめる
と受任通知書という用紙が入っていた。それは太田という弁護士が麻季の僕に対する離婚
請求に関する交渉の一切を受任したという文書だった。そこに記された離婚請求事由に僕
は目を通した。



228:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:53:11.06 ID:vk+Esfzmo

「貴殿は結城麻季氏(以下通知人という)との間にもうけた長男の育児を通知人一人に任
せ滅多に帰宅せず、あるいは帰宅したとしても深夜に帰宅し、長男の育児上の悩みを相談
しようとする通知人を無視して飲酒した挙句、それでも貴殿に相談しようとする通知人に
対して罵詈雑言を吐くなどして通知人を精神的に追い込みました」

「また平成○○年○月頃、貴殿は通知人の大学時代の知人であるAと不倫を始めました。
通知人がAの夫からその話を聞かされ貴殿に事実を質問すると、貴殿は通知人が最初にA
の夫と不倫をしたのであって、貴殿とAはその相談をしていただけだという虚偽の返事を
したばかりか、事実無根である通知人とAの夫との不倫を責め立てるなどして通知人に多
大な精神的被害を生じさせました」

「さらに貴殿と不倫関係にあったAが貴殿との不貞関係が原因で夫と離婚すると、貴殿は
夫と離婚したAと実質的な同棲を試みようとしたものの、それを果たす前にAは不慮の交
通事故で亡くなりました。Aが亡くなったことを知った通知人が長男のことを鑑み貴殿と
の婚姻関係の継続に努力しているにも関わらず、貴殿はAの遺児である女児を引き取り通
知人が育児するよう要求しました。通知人が貴殿との婚姻関係を継続するために止むを得
ずにAの遺児を引き取り努力して育児しようと試みている間、貴殿はAは聖女のような女
だった。通知人のような汚らしい女とは大違いだったという趣旨の暴言を繰り返し、通知
人に対して多大な精神的被害を生じさせました。またこの間も貴殿は滅多に自宅に帰宅せ
ず長男とAの遺児の育児を通知人に任せたままでした」

「かかる貴殿の行為は,単にAとの不貞行為により婚姻関係破綻の原因を作ったことにと
どまらず、通知人の人格を完全に無視し、通知人を精神的に虐待したモラルハラスメント
として認定されるべき行動であり、婚姻関係の破綻の責任は完全に貴殿に帰すものであり
ます」

「以上の次第で通知人は貴殿との離婚及びその条件について当職に委任しました。つきま
しては近日中に離婚及びその条件についてお話し合いをさせていただきたいと思いますが、
まずは受任のご挨拶で本通知を差し上げた次第です。
 なお,本件に関しては当職が通知人から一切の依頼を受けましたので、今後のご連絡等
は通知人ではなく全て当職にしていただくようお願い申し上げます」



「どういう内容だったんだ」

 父さんが険しい声で聞いた。きっと僕の顔色が変っていたことに気がついたのだろう。
僕は黙って父さんに受任通知を渡した。

 父さんは弁護士からの受任通知書をゆっくりと二回読んでから母さんに渡した。母さん
にはその内容がよく理解できなかったようだ。

「博人、おまえこの内容は事実なのか」父さんが僕の方を見てゆっくりと言った。「おま
えはここに書いてあるようなひどい真似を本当に麻季さんにしたのか」

「そんなわけないでしょ。博人はこんなひどい真似をする子じゃないわ」

 母さんが狼狽して口を挟んだ。

「おまえは黙っていなさい。博人、どうなんだ。これが事実だとしたら父さんたちはおま
えの味方にはなれないぞ」

 僕が混乱しながら重い口を開こうとしたとき、子どもたちと唯が帰宅して居間になだれ
込んで来た。

「パパ」

 奈緒が可愛い声で僕を呼びながら抱っこをねだった。奈緒人も照れた様子で僕のそばに
ぴったりとくっ付いて来た。何があってもこの子たちだけは僕の味方をしてくれる。太田
という弁護士の内容証明によって僕は打ちひしがれていた。これまでの家庭生活の記憶が
麻季によって踏みにじられた気分だったのだ。多分このことは一生僕の心を傷つけるのだ
ろう。

 でも、今この瞬間に僕にまとわりつく子どもたちを抱き寄せると、それが僕の心を正気
に戻してくれた。

 父さんに渡された文書を今度は妹が険しい表情で読んでいた。どういうわけか父さんも
母さんも黙ってしまい、結果として大人三人が最後の審判を待つかのように唯の表情を見
守ることになってしまった。

 妹は受任通知をぽいっとテーブルに投げ捨てて吐き捨てるように言った。

「ばかばかしい。お兄ちゃんがこんなことするわけないじゃん。他人ならいざ知らずお兄
ちゃんの家族であるあたしたちががこんな文書を信じるわけないじゃん。こんな内容をあ
たしたちが信じると思っているなら麻季さんも相当頭悪いよね。まあ既婚者なのにお兄ち
ゃん以外の男の人に平気で抱かれるくらいの脳みそしかないんだから、この程度のでっち
あげしかできないんでしょうね」

 唯はそれまでお姉さんと呼んでいた麻季を麻季さんと呼んだ。



229:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:53:42.38 ID:vk+Esfzmo

「唯の言うとおりよ。お母さんは博人を信じているからね」

 唯と母さんの言葉に父さんは居心地悪そうにしていた。

「疑って悪かった。母さんと唯の言うとおり博人がこんなひどいことをするわけがないよ
な」

「父さん遅いよ。自分の子どもを信じてないの?」

 どういうわけか唯が半泣きで言った。

「悪かった。ちょっとこの文書に動揺してしまってな。虚偽のわりにはよくできているか
らな」

「ばかばかしい。あなたは昔から理屈ばっかりで仕事をしてきたからこういうときに迷う
んですよ。あたしも唯も一瞬だって博人を疑ったりしないのに」

「それに奈緒人と奈緒の様子を見てみなよ。こんなひどいことをする父親にこの子たちが
こんなに懐くと思うの?」

 麻季が止めをさした。

「悪かったよ。謝る。だが何が起きたかは話してほしい。博人、事実を話してくれ」

 それまで大人の事情を気にせずにまとわりついている子どもたちを構いながら、唯と母
さんの援護に僕は泣きそうになった。

 僕は全てを両親と妹に話した。

 麻季の浮気。そして奈緒人への愛情からそれを許して彼女とやり直そうとしたこと。玲
菜に呼び出され麻季と先輩がメールのやり取りを続けているのを知ったこと。そして、玲
菜に最後に会ったときと離婚後の怜菜のメールで彼女が僕を好きだったということを知っ
たこと。僕もそんな怜菜に惹かれていたこと。

 怜菜の離婚後、僕が再び麻季とやり直そうとしたこと。そして最後に怜菜の死後、麻季
が怜菜が先輩の妻で自分のことを恨まず黙って離婚したことを、怜菜の急死後のお通夜で
知ったこと。麻季は先輩が怜菜の遺児を引き取らないということを知って、その子を引き
取ろうとしたこと(この辺の話は奈緒を引き取る際に両親には説明してあったけど、麻季
が奈緒の父親と浮気をしていたことや僕が怜菜に惹かれていたことは初めて話した)。

 話し終わったとき両親と妹はしばらく何も言わなかった。彼らの気持ちはよくわかった。
僕だって他人からこれほど純粋な悪意をぶつけられたのは初めてだったから。それに麻季
はつい少し前までは他人ではなかった。僕が海外出張を告げたとき、抱きついて甘えてき
た麻季の姿は今でも鮮明に思い浮ぶ。あれはわずか三月ほど前の出来事なのだ。

「・・・・・・お兄ちゃんさ」

 唯が泣き腫らした顔で僕を見て言った。でもその口調は鋭かった。

「今は混乱していると思うけど、することはしておかないとね」

「どういうこと?」

「麻季さんが弁護士を立ててきた以上、こちらもしなきゃいけないことはたくさんあるで
しょ」

 僕は唯の言っていることがよくわからなかった。それに思考の半分は僕に抱きつきなが
らも、二人きりで遊びだした子どもたちに奪われていた。

「まず生活費とか貯蓄の口座を調べて。そして麻季さんが自由にできない状態にしない
と」

 随分生々しい話になってきた。唯は音大で何となく四年間を過ごした僕と違って、国立
大学の法学部を卒業したばかりだ。本人の志向もあって法曹の道には進まなかったけど、
内定している商社では法務部配属が決まっているそうだ。

「あとは親権だね。お兄ちゃんは麻季さんと離婚しても、奈緒人と奈緒を麻季さんに任せ
る気はないんでしょ」

「あるわけないだろ。一週間近く子どもたちを自宅で放置したんだぞ、あいつは」

「だったら養育実績を作って親権争いを有利にしないと。お兄ちゃん、放っておくとこの
まま離婚されて奈緒人と奈緒も麻季さんに盗られちゃうよ。こんなところで腑抜けていな
いでしっかりしなよ。こっちも麻季さんに対抗する準備をしないと。それともお兄ちゃん、
まだ麻季さんに未練がある? 麻季さんと別れたくないの?」



230:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:54:14.33 ID:vk+Esfzmo

「いや、離婚はもう仕方ないだろ。こんだけの文書を送りつけてくる麻季とはもう一緒に
暮らせないよ」

 僕は弱々しく言った。でもそれは本音だった。マンションの部屋に残したメモは麻季も
見たに違いない。僕は麻季が僕のアパートに押しかけてきたこと、先輩に殴られた麻季が
きょとんとして僕を見つめ、結城先輩、あたしのこと好きでしょと言ったときの彼女の表
情を思い出した。すごく切なくて涙が出そうだったけど、もうあの頃には戻れないのだろ
う。

「麻季さんと離婚して子どもたちの親権を取りたいならそろそろお兄ちゃんも立ち上がっ
てファイティングポーズ取らないと。麻季さんの豹変に悩んでいるのはわかるけど、もう
あっちは完全に準備して宣戦布告してきているんだよ」

 妹の方が頭に血が上ってしまったらしい。唯に責められながらも僕はどうにも冷静に計
算する気にはなれなかった。そんな僕を尻目に唯はヒートアップして行った。そんな妹に
両親もやや辟易している様子だった。

「お兄ちゃんの話を聞いていると、確かにお兄ちゃんと怜菜さんは心の中では麻季さんを
裏切ったのかもしれないけど、実際に怜菜さんの旦那と体の関係になった麻季さんと比べ
れば非は全然少ないよ。ちゃんと戦えば二人から慰謝料は取れるよ」

「慰謝料とかどうでもいいよ」

「・・・・・・じゃあお兄ちゃんは養育権もどうでもいいの?」

「そんな訳ないだろ」

「唯の言うとおりだ」
 それまで黙っていた父さんが口を挟んだ。「俺が役所を退職後に社会福祉法人の理事長
をしていたとき、評議員をしてくれていた弁護士がいる。随分懇意にしてもらった人だ。
彼に相談しよう」

「いや・・・・・・とりあえず麻季と一回も会って話していないんだ。とりあえず一度彼女と」

「やめたほうがいいよ。麻季さんの方が今後は一切は弁護士を通せって言ってるんだよ。
もうお兄ちゃんが好きだった麻季さんはいないんだよ。お兄ちゃんもつらいだろうけど、
奈緒人と奈緒を守りたいならお兄ちゃんもいい加減に目を覚まさないと」

 唯がもどかしそうな、というか泣きそうな表情で僕に言った。

「唯・・・・・・」

 自分では割り切ったつもりだったけどで直接会って話せば、麻季との仲が元に戻ること
はないかもしれないけど、少なくともどうして彼女がこんなひどい仕打ちをしたかくらい
はわかるだろうとどこかで期待していたのだろう。でも子どもたちのこの先を考えること
が優先なのだ。

 唯の言うとおりだった。

 今では麻季は敵なのだ。奈緒人と奈緒のことを考えれば、たとえどのような理由があっ
たにせよ一週間も自宅に子どもたちを放置するような母親に任せるわけにはいかない。

 僕は唯や父さんの勧めに従った。つまり麻季を敵に回して戦うことを決意したのだ。



231:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:55:05.07 ID:vk+Esfzmo

 僕は父さんの知り合いの弁護士に正式に妻側との依頼を依頼した。初老の人の良さそう
な人だった。彼は受任通知を見て僕を疑わしそうに見た。きっと不倫したクズのようなD
V男から妻からの慰謝料要求の減額交渉でも依頼されたのだとと思ったのだろう。

 最初から事情を話すと弁護士はようやく理解してくれたけど、彼が言うには証拠がない
ので客観的に立証し反論することは難しいそうだ。

「私は結城さんの代理人を引き受ける以上、あなたが真実を話してくれている前提で交渉
はしますけど、多分それは先方の太田先生も同じでしょうね」

 先方との予備的な交渉の中で離婚するということ自体はお互いに与件になっていたので、
そこで揉めることはなかった。また、お互いに慰謝料の要求も無かった。ただ、問題は二
つあった。一つは離婚理由でもう一つは養育権だった。弁護士によれば実は互いに離婚で
一致していて慰謝料の請求もない以上、離婚の理由はさして重要ではないそうだ。そんな
ところは争わずに養育権の交渉に全力を注ぎましょうと僕は弁護士に言われた。そう言わ
れればそんな気もしてきた。どちらが有責かが重要なのは、離婚するしないや慰謝料の多
寡に影響するからであって、そこが争点になっていない以上はもう気にしない方がいいの
かもしれない。

 先方の受任通知書の内容は巧妙に事実の一部を捉えてはいたけど、悪意によってその意
味を捻じ曲げたものだった。その内容はでたらめだった。でも僕がショックを受けたのは
その内容にではない。僕が傷付くのを承知しながら、それを自分の弁護士に語った麻季の
心の闇に僕は絶望したのだった。そして多分麻季がそういう行動に出た理由は弁護士間の
交渉で明らかになるようなことではないだろう。だから僕は自分の弁護士の言うとおり問
題を親権に集中しようと思った。

 それは合理的な判断だった思うけど、どういうわけかそのとき同席していた唯が納得し
なかった。

「条件とかそういう問題じゃないでしょ。反論しなかったらこんなデタラメを認めたこと
になっちゃうじゃない」

「婚姻関係の破綻の原因がこちらにはないことを主張してもいいですけど、お互いに証拠
がない以上水掛け論になって終わりですよ」

「それでも主張するだけは主張した方がいいと思います。あの内容をこちらが認めたわけ
ではないですし、協議が決裂して調停や裁判に移行したら有責側かどうかは親権にも影響
するでしょ」

「まあ確かにその可能性は否定できませんね」

 結局唯の主張するとおりに交渉することに決まった。



 最初に太田弁護士との直接交渉の際、僕は依頼した弁護士に頼んで同席させてもらった。
もしかしたら麻季と会えるかもしれないと思ったのだ。でも先方は弁護士一人だけだった。
やはり麻季はもう僕と顔を会わす気はまるでないようだった。代理人の弁護士の予想どお
り、僕と麻季の離婚に関してどちらに責任があるかという話し合いは、徹頭徹尾無益なも
のだった。お互いに証拠もなくただ主張しあうだけなのだ。これが当事者本人同士の話し
合いなら泥沼だったろうけど、代理人同士の話し合いだったのでお互いに証拠を要求しそ
れがないとわかると、交渉はすぐにより良く子どもを養育できるのはどちらかという話し
合いに移っていった。

 麻季に有利な点は、これまで奈緒人と奈緒を順調に育てた実績があることだった。不利
な点は二つ。麻季が一週間弱子どもたちを自宅に放置したこと。受任通知書でデタラメを
並べ立てた麻季も、僕が依頼した弁護士が情報公開請求によって入手した児童相談所の通
報記録に残されている事実には反論できなかったのだ。太田弁護士は僕の虐待に耐えかね
た麻季が一時的に錯乱した結果だと主張したけど、その頃僕はオーストリアにいたので、
その主張には重大な瑕疵があった。

 もう一つは麻季の実家が遠方にあり、麻季の両親は育児をアシストできないということ
だった。離婚する以上、養育費だけでは生活していけないだろう。麻季の養育実績は彼女
が専業主婦であることを前提にしていたから、彼女が離婚した場合の生活設計はいろいろ
と不明でもあった。

 一方僕にとって根本的に不利だったのは、まだ幼稚園児である子どもたちを育てる環境
が備わっていないことだった。太田弁護士はよくこちらの事情を調べていた。まず僕の仕
事は時間が不規則だし帰宅も深夜に及ぶことが多い。子どもたちを幼稚園から保育園に移
したとしても僕一人で子どもたちを育てることは不可能だ。僕は親権を争うと決めたとき
に両親に育児協力をお願いして快諾を得ていたけど、その両親自身がそろそろ介護が必要
な状況になりつつあることを太田弁護士には知られていた。

 今、奈緒人と奈緒を育てていけるのは主に唯のおかげだったけど、唯の就職が目前に控
えている以上、それを交渉材料にするわけにはいかなかった。もう最悪は僕が仕事を変え
るしかないかもしれない。ジャズ・ミューズという老舗ジャズ雑誌の編集長を任されたば
かりの僕だったけど、もうこうなったら奈緒人と奈緒を手離さいためには本気で転職しか
ないとまで思うになっていた。



232:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:55:36.15 ID:vk+Esfzmo

「・・・・・・あたし、就職するのやめて奈緒人と奈緒を育てようか」

 ある日、唯が思い詰めたような顔で僕に言ったことがあった。考えるまでもなくもちろ
んそんな犠牲を唯に強いるわけには行かなかった。

 そういうわけで僕と麻季の離婚に関する協議はお互いに折れ合わずに膠着していた。結
局僕と麻季の協議離婚は親権で対立したまま成立せず裁判所による調停に移行した。



 その夜、僕は某音楽雑誌の出版社主宰のパーティーに出席していた。クラッシク音楽之
友にいた頃と違って、最近はこの手の商業音楽関係のイベントへの招待が増えていた。マ
イナーな雑誌ながらも編集長を任されていた僕は、実務から開放された分この手の付き合
いが増えていた。業務が終了したら何よりも実家に戻って子どもたちの顔を見たかったけ
ど、これも仕事のうちだった。

 予想どおり都内の有名なホテルで開催されたそのパーティーには知り合いは皆無だった。
老舗のロック雑誌の編集者やほとんどアイドルミュージック専門のような雑誌の若い編集
者たちがそこかしこで友だちトークを展開している。ところどころで人だかりができてい
るのは、著名な評論家やミュージシャン本人を取り巻いている人たちのようだ。クラッシ
ク音楽専門の雑誌社が余技に出しているマイナーなジャズ雑誌の編集なんて全くお呼びで
はない雰囲気だ。受付してから1時間以上経つけど僕はこれまで誰とも会話は愚か、あい
さつすらしていない。これなら途中で帰っても全然大丈夫そうだ。こういう場で誰にも相
手にされないのはへこむけど、麻季にひどい言いがかりを付けられていた僕は大抵の人間
関係には耐性ができていた。

 それでもこの場の喧騒は気に障った。そろそろ黙って帰ろうかと思った僕は静かにその
場を去ろうとした。途中で金髪の若い男性(多分最近よくテレビで見るビジュアル系のバ
ンドのボーカルだと思う)を囲んでいた人たちの脇を通り過ぎようとしたとき、突然僕は
誰かに声を掛けられた。

「博人君」

 自分の名前を呼ばれた僕が振り返ると理恵が僕のほうを見て微笑んでいた。

「・・・・・・理恵ちゃん」

「わぁー、すごい偶然だね。博人君ってこういうところにも顔出してたんだね」

「久し振り」

 何か大学時代の偶然の再会を思い起こさせるような出会いだった。理恵は人込みから抜
け出して僕の横に来た。

「少し話そうよ・・・・・・・それとももう帰っちゃうの」

「少しなら時間あるけど」

 僕は理恵に手を引かれるようにして壁際に並べられた椅子に座らされた。

「はい」

 僕は理恵から白のワインのグラスを受け取った。

「博人君、白ワイン好きだったよね」

「うん・・・・・・ありがとう」

 これだけの歳月を経ても理恵が僕の好みを覚えていてくれていることに僕は少しだけ心
が和んだ。もっとも理恵の細い左手の薬指を確認はしたので、それ以上の期待はなかった
のだけど。

「本当に久し振りだね。何年ぶりかな」
 僕の隣に座った理恵が少し興奮気味に言った。「少し痩せた?」

「さあ? どうだろ」

「それにしてもここで博人君と会うとは思わなかったよ」

 僕は名刺入れから最近作り直したばかりの名刺を取り出して理恵に渡した。

「今はここにいるんだ。それで声がかかったみたいだけど、どうも場違いみたいだ」

「なんだそうだったの」
 理恵が笑った。「でもそれで博人君に会えたんだね」

 理恵は自分の名刺を僕にくれた。それは若者向けのポップ音楽の雑誌の編集部のものだ
った。



233:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:56:07.13 ID:vk+Esfzmo

「・・・・・・なるほど」

「なるほどって何よ」

 彼女が笑った。

「しかし君も同じ業界にいるとは思わなかったよ」

「本当に偶然だね。もっともあたしは博人君みたいな高尚な音楽雑誌にいるわけじゃない
けど」

「玲子ちゃん・・・・・・だっけ。妹さんも元気?」

「うん、元気よ。あいつには子育てを任せちゃってるし、借りばっか作ってるよ。玲子も
文句言ってる」

 子育てを任せるって何だろう。麻季との親権争いが調停に移ったばかりだった僕はその
言葉に反応してしまった。理恵も指輪をしている以上結婚しているのだろうけど、彼女に
も子どもができたのだろうか。それにしてもこの世界は育児と両立できるような世界では
ない。

「育児って・・・・・・お子さんいるの?」

「うん。女の子だよ」

「そうか」

「博人君、麻季ちゃんは元気? 後輩の女の子に結婚式の写真見せてもらったよ。麻季ち
ゃんのウエディングドレス綺麗だったね」

「あのさ・・・・・・」

「お子さんもできたって聞いたけど」

「うん。子どもは元気だよ」

「うん? 麻季ちゃんは?」

「元気だと思うけど最近会ってないから」

「・・・・・・どういうこと?」

 理恵はいぶかしげな表情を浮べた。

「実はさ。麻季とは離婚調停中なんだ」

 理恵は驚いたようだった。

「・・・・・・何で」

 彼女はそれまで浮べてた微笑みを消した。彼女は呆然としたように僕を見た。

「何で」という理恵の言葉に答えようとしたとき、理恵は誰から声をかけられた。仕事の
話らしかった。

「すぐ行くよ」

 ちょっとだけいらいらしたように理恵が話しかけてきた若い男性に答えた。

「じゃあ、僕は帰るよ。子どもたちが寝る前に帰りたいし」

「・・・・・・まさか、麻季ちゃんがいない家にお子さん一人で家にいるの?」

「いや。子どもは二人だよ。実家に預けてるし妹が面倒看てくれているから」

「お子さん一人だって聞いてたんだけど」

 誰から聞いたのか知らないし無理もないけど、理恵の情報は僕と麻季がまだ普通に夫婦
をしていた頃の頃のものらしい。

「今度機会が会ったら話すけど、子どもは二人いるんだ」

「博人君、いったい麻季ちゃんと何があったの?」

「いろいろとあったんだよ。ほら、編集部の人が呼んでるよ。また機会があったら会お
う」



234:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:56:38.48 ID:vk+Esfzmo

「ちょっと待って。博人君、明日時間作って」

 どういうわけか必死な表情で理恵が言った。人の不幸に野次馬的な興味があるのか。自
分は薬指に結婚指輪をして幸せな家庭があるくせに。最近すさんでいた僕は理不尽にも少
しむっとした。なのでちょっと勿体ぶってスケジュールを確認する振りをした。

「明日? 空いてるかなあ」

 わざとらしくスケジュール帳を探そうとしている僕を尻目に理恵はもう立ち上がってい
た。

「名刺の番号に電話するから」

 何とか乱雑なカバンからようやく手帳を取り出した僕には構わずに理恵はもう呼びかけ
た人の方に足早に歩いて行ってしまった。



 実家に帰宅した僕は既に子どもたちが寝入ってしまったことを唯に聞かされた。

「必死で帰ってきたのにな」

 僕は落胆した。この頃の僕の生きがいは仕事以上に子どもたちだったのだ。

「明日も遅いの?」

 簡単な夜食を運んで来てくれた唯が聞いた。明日は理恵から連絡があるかもしれない。
それが就業時間後なら唯に断っておく方がいい。僕は思い立って今日理恵に会ったことを
唯に話した。

「そういやさ。唯は知らないだろうけど、昔引っ越す前に神山さんっていう家があって
さ」

「ああ。玲子ちゃんと理恵さんのとこでしょ」

 あっさりと妹は言った。

「・・・・・・おまえ、あの頃まだ生まれてなかっただろ。何で知っているの?」

「だって母親同士が仲良くて定期的に会ってたし、あたしもよくお母さんに連れて行かれ
たよ。あ、最近はあんまり会ってないけどさ。玲子ちゃんとは年も近いし仲いいよ。あと
理恵さんもよくその集まりに顔を出してたけど、いつもお兄ちゃんが今どうしているのか
聞いてたよ」

「え?」

「何だ。今日は理恵さんと会ってたんだ」

「いや、偶然なんだけど」

 僕は今日あったことを唯に話した。

「理恵さんの旦那さんが何年か前に事故死したこと聞いた?」

「事故って、いや事故死?」

「うん」

 では理恵は未亡人なのだ。育児を玲子さんに任せているというのはそういう意味だった
のか。

「いや。今日ほんの少しだけ世間話しただけなんで何も聞いてない」

「理恵さんのご主人って信号待ちで停車しているところを後ろから暴走してきた車に追突
されたんだって」

「・・・・・・そうなんだ」

「うん。理恵さんの旦那さんは即死だったって」

 僕は言葉を失った。さっき明るく再会を喜んでくれた理恵もいろいろ辛い目にあってい
るようだった。

「でも何か運命的な出会いだよね。理恵さんとメアドとか交換した? 幼馴染同士の久し
振りの再会だったんでしょ」
 唯が暗い話はもう終わりだとでも言うように微笑んで続けた。「お兄ちゃんも幼馴染と
再会してちょっとはドキドキしたでしょ?」



235:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:57:07.11 ID:vk+Esfzmo

 最近の唯にはたまにこういう言動があった。麻季のことを忘れさせようとしているのか
もしれないけど、やたら僕に女性と親しくさせようとする。奈緒人と奈緒はあたしが面倒
看ているからお兄ちゃんは会社の女の子を誘ってデートしろとか。それは一度一緒にコン
サートに行ってくださいと言ってくれた編集部の若い女の子のことを話したときだった。
彼女は単なる仕事上の部下であってそんな対象じゃないし、そもそも一緒に過ごす相手な
んかいなかったのだけど。

 そんな唯だったから僕と理恵の再会にはすごく食いついてきた。

「麻季と僕のことが気になるのかなあ。離婚調停中だって言ったら明日会おうと言われた
けど」

 それを聞いて唯は目を輝かせた。

「それ、理恵さん絶対お兄ちゃんに興味があるんだよ。明日は遅くなってもいいからうま
くやんなよ」

「いや。それおまえの思い過ごしだから。それに都内からここまで帰るのにどんだけ時間
かかると思っているんだ。終電だって早いのに」

 職場と実家とが距離的に離れていたことも、離婚協議中には不利な点としてカウントさ
れていたことだった。

「終電逃したらどっか泊まればいいじゃん。お兄ちゃんのマンションだってまだあるんだ
し」

「あそこには泊まりたくない。というかそんなことするよりは奈緒人と奈緒と一緒にいた
いよ」

「まあそうだろうね」
 少し反省したように唯が言った。「お兄ちゃんは奈緒人と奈緒が大好きだもんね」

「うん」

「・・・・・・お兄ちゃん、本当に麻季さんには未練ないの?」

「多分、ないと思うよ」

「じゃあ、ほんの少しだけでも子どもたちのことは忘れて女性とお付き合いしてみな
よ」

「離婚調停中なんだぞ。そんな気にはなれないよ」

「大丈夫だって。お互いに離婚を申し出た後なら、婚姻関係破綻後だから誰とお付き合い
したって不貞行為で有責にはならないから」

 法学部にいる唯が小ざかしいことを言い出した。

「そんなこと言ってんじゃないよ。モラルの問題だ」

「それにさ。お兄ちゃんにもし次の伴侶が見つかったら、養育の面で調停で有利かもよ」

「そんなことを考えてまで女性と付き合いたくはないよ。第一そんなの相手に失礼だ」

「・・・・・・じゃあどうするのよ。別にあたしが内定辞退して奈緒人と奈緒のお母さん代わり
をしてあげてもいいけど」

「それはだめ。父さんに殺される。それに唯には唯の人生があるんだし」

「あたしは別にそれでもいいんだけどな」

「おい・・・・・・ふざけんなよ」

「別にふざけてないよ。でもそうしたら収入がないからお兄ちゃんに養ってもらうしかな
くなるけどね」

「だめ」

「冗談だよ」

 妹が笑って言った。

「まあ、とにかくさ。理恵さんがお兄ちゃんに会いたいっていうなら明日くらいは付き合
ってあげなよ」

「今は子どもたちと少しでも一緒にいたいんだけどな」

 唯はそれを聞いて再び微笑んだ。



236:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:57:38.47 ID:vk+Esfzmo

「奈緒人と奈緒とはこの先ずっと一緒にいられるじゃん。今くらいはあたしに任せなよ。
二人ともあたしにすごく懐いているしお兄ちゃんなんて邪魔なだけだって」

「・・・・・・親権がどうなるかわからないんだし、ずっと子どもたちと一緒にいられる保障な
んてないだろ」

「絶対に麻季さんなんかに負けないって。それに親権が心配ならなおさら奥さん候補を探
す努力をしないと。お兄ちゃんがそうしてくれないとそれこそあたしがいつまでも子ども
たちの面倒を看るようになっちゃうじゃん」

「唯には悪いなって思っているよ。でも調停の結果とかに関係なくおまえは就職したら僕
たちのことは考えなくていいよ」

「だってこのままじゃお兄ちゃんが育児なんて無理じゃない」

「いざとなれば転職するよ」

「・・・・・・お兄ちゃん?」

 唯が少しだけ首を傾げて真剣な表情をした。僕は妹のそういう様子に少しだけどきっと
した。

「何だよ・・・・・・」

「お兄ちゃんがそれでいいなら、あたし彼氏と別れてお兄ちゃんの奥さんになってあげよ
うか? その方が奈緒人と奈緒も喜ぶと思うし、お兄ちゃんも好きな仕事を続けられる
し」

 何言ってるんだこいつ。僕は狼狽して唯を見た。

 次の瞬間、唯は手で口を押さえて笑い出した。子どもたちや両親を起こさないようにし
たのだろう。

「何マジになってるのよ、シスコン。あたしが本当にお兄ちゃんのお嫁さんになるかもっ
て期待しちゃった?」

「そんなわけないだろ。冗談でも彼氏と別れるとか言うなよ」

「・・・・・・そこで赤くなるなバカ」

「おまえの顔も真っ赤なんだけど」

「バカ・・・・・・冗談に決まってるでしょ。とにかく明日は遅くなってもいいからね。麻季さ
んなんか早く忘れて理恵さんと楽しんできなよ。嫌いじゃないんでしょ? 理恵さんのこ
と」

 どうなんだろう。子どもたちを麻季に奪われるかもしれないという不安が日ごとに大き
くなっている今、女性と付き合い出すとかは全く考えられなかった。

 唯の悪質な冗談に翻弄されたからというわけでもないけど、次の日の就業後に僕は理恵
が指定した居酒屋で彼女を待っていた。全く色気のない店だったので唯の期待には応えら
れそうもなかったけど、理恵が騒がしい居酒屋を選んだことに僕は密かにほっとしていた。

「博人君、ごめん。待った?」

 混み合った居酒屋の店内で理恵が僕に声をかけた。

「・・・・・・いや」

「何飲んでるの?」

 理恵が僕の向かいに座りながら聞いた。

「先にビールを飲んでる」

「じゃあ、あたしも最初はビールにしよ」

 乾杯をしてから少し沈黙が流れた。理恵はきっと麻季と僕との間に何が起こったのかを
知りたくて今日僕を呼び出したのだろう。でも呼び出された僕の方はまるでお見合いに来
ているような気分だった。僕がそんな気になっていたのは全部昨日の唯の発言のせいだ。
唯は僕が麻季のことを忘れてお嫁さん候補を探すように言ったのだ。

「あのさ」「あの」

 僕と理恵は同時に言った。お互いに苦笑して再び沈黙が訪れたけど、僕は構わずに続け
た。



237:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:58:09.18 ID:vk+Esfzmo

「ご主人、亡くなったんだってね。妹に聞いたよ」

「唯ちゃんに聞いたんだ・・・・・・説明する手間が省けちゃったな」

 理恵が笑った

「お互いにいろいろあったようだね」

「うん。そうだね」

 何となく同志的な友情を感じた僕が理恵を見ると彼女も僕の方を見ていた。

 どちらからともなく僕たちは笑い出した。大学時代の再会時を通り越して家が隣同士で
いつも一緒に遊んでいた頃に戻ってしまったような気がした。

 それから三時間くらいお互いの話をした。理恵は旦那の死後、実家に戻って実家の両親
と妹の玲子さんに育児を頼りながら仕事を続けているそうだ。

 まるで僕と同じ状況じゃないか。僕が思わずそう呟くと理恵は僕と麻季に何があったの
か知りたがった。人様に話すようなことではないけど、どういうわけか僕は理恵には全て
話してしまったようだ。家族と弁護士以外にここまで話したのは初めてだった。話し終え
たとき理恵から同情されるんだろうと僕は考えた。そしてそんな同情はいらないなとも。
でも理恵が口にしたのは同情ではなく疑問だった。

「麻季ちゃんらしくないね」

「え」

「麻季ちゃんらしくない」

 理恵は繰り返した。

「どういうこと?」

 僕は少し戸惑いながら理恵に聞いた。別に彼女は麻季と親しかったわけではないはずだ。

「わかるよ。麻季ちゃんのせいであたしは博人君に失恋したんだもん」

「何言ってるの」

「大学で博人君に再会したときさ、あたし本当にどきどきしちゃったの。生まれてから初
めてだったな。そんなこと感じたの」

 大学時代、僕も理恵と結ばれるだろうと予感していたことを今さらながら思い出した。
麻季が僕の人生に入り込んで来るまでは僕は何となく理恵と付き合うんだろうなって考え
ていたのだった。。

「まあ、結局博人君は麻季ちゃんと付き合い出したからあたしは失恋しちゃったんだけど
さ」

「ああ」

「ああ、じゃないでしょ。あっさり言うな。でもさ、学内の噂になってたもんね、博人君
と麻季ちゃんって。とにかく麻季ちゃんって目立ってたからなあ」

「そうかもね」

「まあ、麻季ちゃんが何であんな冴えない先輩とっていう噂も聞いたことあるけどね」

「・・・・・・結局それが正しかったのかもな」

 僕は呟いた。

「最初から間違ってたかもしれないな。僕と麻季はもともと不釣合いだったのかも」

「そう言うことを言ってるんじゃない」

 少し憤った顔で理恵が言った。

 そのとき、混み合った居酒屋の入り口から入ってきた二人連れの客の姿が見えた。

 何かを言おうとした理恵がぼくの視線を追った。「あれ、麻季ちゃんじゃん」

 それは恐ろしいくらいの偶然だった。僕は前回の一時帰国以来始めて麻季を見のだ。



238:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:58:38.31 ID:vk+Esfzmo

 麻季は男と一緒に店内に入り、店員に案内されて僕たちから少し離れたカウンター席に
座った。久し振りに見る麻季は外見は以前と少しも変わっていなかった。ただ、家庭に入
っていた頃より幾分若やいで見えた。それに全体に少し痩せたかもしれない。

 カウンターで麻季の隣に座った男最初そうじゃないかと思ったのと違い鈴木先輩ではな
かった。そのとき、麻季と僕の視線が合った。

 麻季は一瞬本当に驚いたように目を見はって僕を眺めた。麻季は凍りついたように動き
を止めたけど、その視線はやがて理恵の方に移動した。

「・・・・・・博人君」
 理恵が向かいから僕の肩に手を置いた。「大丈夫?」

 その様子は理恵に気がついたらしい麻季にも見られたはずだった。麻季は視線を自分の
横にいる男に移した。そして彼女はその男の肩に自分の顔を乗せて寄り添った。それは幸
せだった頃、よく彼女が僕に対してよくした仕草そのものだった。男が麻季の肩を抱き寄
せるようにして何か囁いている。

 麻季が僕への愛情を失ったことはこれまで何回も悩んで納得していたはずだけど、実際
に彼女が僕以外の男とスキンシップを取るのを見たのは初めてだった。こんなことで動揺
することはない。そもそも麻季は以前鈴木先輩に抱かれているのだから。そう思ったけど
実際に再会した麻季に無視され、しかも彼女が僕以外の男にしなだれかかっている様子を
見ると、僕はそんなに冷静ではいられなかった。

 ふと気がつくと理恵が向かいの席から僕の隣に席を移していた。

「麻季ちゃんめ。やってくれるよね」

「何が?」

「・・・・・・でもさ。こういう方が麻季ちゃんらしい」

 何が麻季らしいのか。混乱した僕が理恵に聞こうとした瞬間、理恵が僕の首に両手を回
した。

「理恵?」

「仕返ししちゃおう」

 そのまま長い間僕は理恵に口に唇を押し付けられていた。

 理恵がキスをやめても彼女の両腕は僕に巻きついたままだった。僕は麻季に目をやった。
そのときの麻季のことはその後もずっと忘れられなかった。彼女は隣にいる男に体を預け
ながら僕と理恵を見つめていたのだ。

 麻季の目から涙が流れ落ちた。いったい何でだ。そのことに何の意味があるのだろう。

「出ようよ」

 理恵が立ち上がって僕の手を握って僕を立たせた。

「うん・・・・・・」

 会計を済ませて混み合った居酒屋を出るとき僕は最後に麻季を眺めた。もう麻季は僕た
ちの方を気にせず、男と何か賑やかに話し始めていた。

 先に店の外に出ていた理恵を追って外に出ると、彼女は携帯で電話していた。理恵の声
が途切れ途切れに聞こえてきた。

「うん・・・・・・悪いけど明日香のことお願い。多分今日は帰れないと思うから」

 理恵が携帯をしまった。

「今日は遅くなっても平気だから」

「何言ってるの?」

「麻季ちゃんのこと忘れさせてあげるよ」

 理恵が真剣な表情で戸惑っている僕に言った。



239:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 20:59:58.74 ID:vk+Esfzmo

「あたしさ、大学時代に一度麻季ちゃんに負けたじゃん?」

 居酒屋から移動した先はホテルの高層階の静かなバーだった。理恵の行きつけの店のよ
うだけど彼女が言っていたように夜景は素晴らしい。窓際に並ぶように置かれたカウチに
僕は理恵と並んで座った。

「・・・・・・別に勝ちとか負けとかじゃないでしょ」

「負けだよ。大学時代、もうちょっとってとこで博人君を麻季ちゃんに持ってかれちゃっ
たしね。あのとき、あたし結構悔しかったんだよ。しかもそのまま博人君たち同棲し出し
て結婚までしちゃうしさ」

「あのさ」

「何?」

「大学で再会したときさ、理恵って僕のこと好きだったの」

 普段の僕ならこんなことをストレートに女性に聞くなんて考えられない。でも、さっき
の理恵のキスの後ならこういうことを口に出すことも何となくハードルが低かった。

「そうだよ」

 理恵が物憂げに髪をかき上げながらあっさりと言った。

「でもさ・・・・・・僕と麻季が付き合い出したとき、君はその・・・・・・すぐに僕に近づかなくな
ったしさ」

「あたし、博人君に捨てないでって泣いて縋りつかなければいけなかったの?」

「そう言うことじゃなくて」

「それにあたし、あのときは博人君に告白だってされなかったし。不戦敗っていうところ
だったのかな」

「いや、あのときはさ」

「まあ、あたしもプライドだけは高かったからね。何があったか知らないけど博人君と麻
季ちゃんっていつのまにかキャンパスで一緒に過ごすようになっちゃうしさ」

「まあそうだけど」

「でしょ? あのとき君に泣きついてたらみっともない女の典型じゃない。あたしにだっ
て見栄はあるのよ。まして博人君と幼馴染っていうアドバンテージがありながら負けちゃ
ったんだしさ」

 あの頃の僕はいろいろな意味で麻季にかかりきりだった。何を考えているのか今いちわ
からない彼女に不用意に惹かれてしまった僕は、自分の彼女に対する気持を整理するだけ
でも精一杯だったのだ。麻季に対する気持は彼女と同棲する頃にはほぼ落ち着いていたの
だけど、そこに至るまでの僕には正直に言って理恵の気持なんて考える余裕はなかった。

 それにしてもこの店に移ってからの理恵は昔話、しかも麻季絡みの話ばっかりだ。



『麻季ちゃんのこと忘れさせてあげるよ』



 さっきの話はいったいどうなったんだ。別に期待して付いて来たわけじゃないし、理恵
との昔話が嫌なわけじゃないけど、これでは麻季を忘れるどころかますます思い出してし
まう。そして今一番考えたくないのがついさっき見かけた麻季の涙だった。親権を争って
いる子どもたちに対してはともかく、麻季はもう僕に対しては何の想いも残していないは
ずなのに。

「いろいろ悪かったよ」

「・・・・・・・謝らないでよ。博人君に謝られたらあたし、まるで情けない片想い女みたいじ
ゃない」

「そういう意味じゃないよ」

「冗談だよ。あたしもすぐに彼氏できたし」

「彼氏って、亡くなった旦那さん?」

「そうだよ。博人君の結婚より何年かあとに彼と結婚したの。あたしの一人娘の父親」



240:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 21:00:56.01 ID:vk+Esfzmo

 これまで強気な発言を繰り返していた理恵が泣きそうな表情を見せた。理恵のご主人は
突然の死をとげたそうだ。浮気され不倫された挙句、麻季に捨てられた僕とはまた違った
悲しみが理恵にもあるのだろう。

 僕は怜菜の死を知ったときの感情を思い起こした。あのときはその衝撃と悲しみによっ
て、一時期は麻季に裏切られたことなどどうでもいいと思えるほど自暴自棄になったのだ。
なので愛し合っていた人を突然理不尽に喪失した痛みは理解できた。

「理恵が結婚してたって、こないだまで知らなかったよ」

「・・・・・・どうせ、あたしのことなんか思い出しもしなかったんでしょ」

「そうじゃないけど」

「唯ちゃんから聞くまではあたしのことなんか忘れていたくせに」

「だから違うって。昨日、君が指輪してるのを見てさ。それで」

「それで? 指輪を見たからどうだっていうのよ?」

 理恵は少し酔っている様子だった。

「どうって・・・・・・。唯に話を聞く前だったから君もご主人がいるんだろうなって」

「昨日の夜、唯ちゃんからあたしの旦那が亡くなったことを聞いたの?」

「うん」

「そう・・・・・・唯ちゃんって絶対ブラコンだよね。いつも君のことばっかり話しているもの
ね」

 酔っているせいか理恵の話がおかしな方向に逸れた。

「そんなわけあるか」

「あるよ。唯ちゃんって彼氏いるのに彼氏の話じゃなくて博人君の話しかしないのよ。知
らなかったでしょ? それも博人君が麻季ちゃんと普通に夫婦している時からそうだった
んだよ」

 だんだん話が逸れて行ったけど、少なくとも麻季の話をしているよりはよかった。昔の
麻季の気持なんか考えたって前向きな意味はないし、今の麻季の気持を慮っても離婚が覆
ったり親権が手に入るわけでもないのだ。

「・・・・・・ええと、これ何だっけ? まあいいや。同じカクテルをください」

「ちょっとペース早いんじゃないの?」

「いいの。大丈夫。それよか、麻季ちゃんのことだけどさ」

「またかよ。忘れさせてくれるんじゃなかったの」

 思わず僕はそう口に出してしまった。理恵が僕を見詰めた。



241:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 21:01:28.25 ID:vk+Esfzmo

「別にそれでもいいけど」

「え?」

「別にここは切り上げてそうしてあげてもいいよ」

「何言ってるの・・・・・・」

「でもさ」
 理恵は運ばれてきたカクテルを口に運んだ。「さっき博人君から聞いた話の麻季ちゃん
は彼女らしくないけど、さっきわざと君に見せつけるように好きでもない男にベタベタし
たり、あたしと博人君がキスしているのを見て泣いてた麻季ちゃんは麻季ちゃんらしかっ
たなあ」

「意味がわからない」

「あの子らしいじゃん。さっき出会ったのは偶然なのに、博人君があたしと一緒にいると
ころを見かけた途端、すぐに隣の男に甘える振りをするなんてさ。きっと無意識に君の気
を惹きたくてそうしちゃったんだと思うな。君に嫉妬させたかったんだよ」

「そんなわけあるか」

「あたしも、子どもを置き去りにしたり君にDVの罪を着せたりとか、君の話を聞いた後
だったからさ。仕返しにキスするところを見せ付けてやったんだ。要は麻季ちゃんがしで
かしたことを少し後悔させてやろうと思ったんだけど、まさか泣き出すとはね。思ったよ
り麻季ちゃんってわかりやすい性格してるよね」

「・・・・・・麻季がまだ僕に未練があるって言いたいの」

「未練つうか少しだけ後悔してるんじゃない? 自分が始めちゃったことを」

「理恵ちゃんさ、まさか何か知ってるの?」

「知らないよ、何にも。知ってるわけないじゃん。昨日までは君と麻季ちゃんは幸せな家
家庭を築いているんだって思ってたんだしさ」

「・・・・・・本当に意味がわからん。あれだけのことで麻季が何を考えているのかわかったな
ら理恵ちゃんは超能力者だよ。僕自身、自分の身に何が起こっているのか、麻季が何を考
えているのか何にもわからないのに」

「麻季ちゃんがどうして君を裏切ったのかなんてわからないよ。それこそテレパスじゃな
いんだし。でも麻季ちゃんが君に未練があってさ、そしてどういう理由で始めたにせよ、
自分の始めたことを後悔しているくらいはわかるよ」

「それって君の思い過ごしじゃないかな」



242:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 21:01:59.83 ID:vk+Esfzmo

「じゃあ何でさっき麻季ちゃんはあたしが博人君にキスしているのを見て泣いてたのよ」

 理恵が手に持ったカクテルをテーブルに置いて言った。二杯目のそれは既にほとんど中
身がなくなっていた。

「麻季は何で泣いたんだろうな・・・・・・」

 僕は思わず呟いた。

「君を見つめて黙って涙流してたよね。あの後、彼氏に言い訳するのに大変だったろうな
あ。麻季ちゃん」

「・・・・・・うん」

「まあ、君があたしと仲良くしているところを見て悲しくなっちゃったんでしょうね。自
分から君を裏切ったのにね」

「何が何だかわからないな」

 理恵が笑った。「本当だね。君も昔から麻季ちゃんには振り回されてるよね」

「それは否定できないけど」

「あたしさ」

「うん」

「大学時代に麻季ちゃんから直接言われたことがあるんだ」

「え?」

「博人君から手を引けって。博人君はサークルの新歓コンパの時から麻季ちゃんのことだ
けを見つめてるんだからあたしに邪魔するなってさ」

「知らなかったよ・・・・・・麻季が君にそんなことを言ってたんだ」

「まあ、あたしはそんなの真面目に受け止める気なんかなかったんだけどね。だいたい、
あたしにはそんなこと言ってたくせに麻季ちゃんはいつも鈴木先輩とツーショットで歩い
ているしさ。信用できるかっつうの」

「麻季は感情表現が苦手だからね。あのときは鈴木先輩は麻季が自分に気があるって思い
込んじゃったみたいだよ。麻季にはそんなつもりは全くなかったって」

「そう麻季ちゃんが言ってたことを君は今でも信じているんだ」

「え」

「その数年後、麻季ちゃんは君を裏切って先輩と寝たのに?」

「・・・・・・あのときは麻季も育児ばっかで鬱屈していたし」

「君の奥さんなのに、大切な子どもがいたのに先輩に抱かれたんでしょ? そこまでされ
ても大学時代の麻季ちゃんの言い訳を疑わないのね」

「理恵ちゃんは何か知っているの?」

 理恵が両手を上に伸ばして大きく伸びをした。わざとらしいといえばわざとらしい仕草
だ。

「駄目だなあたし。今日はこんなことまで話すつもりはなかったんだけね」

 理恵は何かを知っているのだろう。僕はもう黙って彼女の話を聞くことにした。聞いて
しまったら本当にもう戻れないかもしれないけど。ふと思ったけど、理恵が麻季のことを
忘れさせてあげるというのは勝手に僕が期待したような意味ではなかったのかもしれない。

 僕の知らない麻季の姿を教えることによって僕の未練を断ち切るつもりだったのかもし
れない。今の発言とは裏腹に麻季と偶然に出合って動揺する僕を見た理恵は、最初から全
部話すつもりになったのだろうか。

「博人君って、大学時代に麻季ちゃんが君と付き合う前に何人彼氏がいたか聞いたことあ
る?」

 麻季は過去のことを極端に話さなかったし、自分の写真アルバムを実家から持って来た
りもしなかった。彼女の携帯の写メだって僕か奈緒人の写真くらいしか保存されていなか
ったし。

「大学入学直後に鈴木先輩と付き合ってたじゃない? それは知ってるでしょ」

「だからあれは麻季の口下手のせいで先輩が勘違いしたんだよ」



243:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 21:02:30.78 ID:vk+Esfzmo

「違うよ。あたし二人がキャンパス内で抱き合いながらキスしてたのを見たことあるも
ん」

 もう麻季についてこれ以上ショックを受けることはないと思っていた僕はその話に唖然
とした。

「先輩だけじゃないのよ。麻季ちゃんと噂になっていた相手の男って」

「君の勘違いじゃないの?」

「博人君たちの披露宴の後ってさ、二次会しなかったんでしょ?」

「麻季が友だち少ないって言ってたからね。友だち呼んでパーティーするより早く二人き
りになりたいって言ってたから」

 それも幸せだった過去の記憶の一つだった。



『ごめんね。あたし博人君と違って社交的じゃないし。披露宴には来てくれる友だちはい
るけど、二次会で盛り上がってくれるような知り合いはあんまりいないの。こんな女で本
当にごめん。でもできれば披露宴の後は博人君と二人きりで過ごしたい』



 それでも披露宴では麻季は女友達から祝福されていた。「麻季きれい」と囁いていた彼
女の女友達の声。

「あたしはその場にはいなかったから後で後輩に聞いたんだけどさ。二次会なかったから、
飲み足りない大学の人たちで繰り出したらしいよ」

「うん」

「披露宴の新婦側の出席者が悪酔いしてさ。麻季ちゃんの悪口で深夜まで盛り上がったん
だって」

「意味がわからない」

「麻季ちゃんと関係のあった男たちが酔っ払って未練がましく曝露したんだって。思わせ
ぶりな素振りを俺にしてた癖にって」

 僕は言葉を失った。今さら過去のことを振り返って後悔しても仕方がない。当時の僕だ
って麻季の男関係を詮索したりはしなかった。それに初めてのとき麻季は明らかに処女だ
ったのだ。

「結局さ。あの性格のせいであまり友だちができなかった麻季ちゃんには、自分の女を武
器にして男たちにちやほやされることを選んでたんだと思うよ。だから麻季ちゃんの気持
を勘違いしてたのは鈴木先輩だけじゃないよ。博人君と麻季ちゃんが付き合い出して傷付
いた男は一人二人じゃなかったんだよね。実際にあたしも鈴木先輩以外の男といちゃいち
ゃしている麻季ちゃんのこと見かけたことあるし」

「勘違いしないでね。麻季ちゃんが博人君を一番好きなのは間違いないと思うよ。多分、
今でも」

「・・・・・・今でもって。あんだけひどいことを言われて離婚を求められてるんだよ。麻季が
今でも僕のことを好きだなんて考えられないよ」

「でも、さっきあたしと君がキスしているところを見て泣いてたよね。彼女」

「もてないと思っていた旦那が君みたいな綺麗な女とキスしているのを見て動揺しただけ
でしょ。とにかく麻季は僕のことを一番好きどころか、今では一番嫌いなんだと思うよ」

「・・・・・・今の、もっかい言って?」

「へ?」

「あたしみたいなってとこ、もう一回言ってよ」

「いや・・・・・・あの」

「博人君、あたしのこと綺麗だと思う?」

「・・・・・・うん」

「そっか・・・・・・」

 やはり酔っているせいか理恵が今日初めて幸せそうに微笑んで僕に寄りかかった。



244:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 21:03:01.90 ID:vk+Esfzmo

「うれしいよ、博人君」

「うん」

「いろいろ辛い話してごめんね。結局忘れさせるどころか思い出させちゃったみたいだ
ね」

「まあ、そうだね」

 僕は何となく寄り添ってくる理恵の肩に手を回した。

「あたしたち、今いい感じかな?」

 肩に回した僕の手に自分の手を重ねながら理恵が言った。

「・・・・・・普通口にするか? そういうこと」

「そうなんだけど。今日昼間に唯ちゃんからメールもらってさ」

「うん?」

「・・・・・・兄貴のことよろしくお願いしますってさ」

「何勝手なこと言ってるんだ。唯のやつ」

「ブラコンの唯ちゃんも、あたしにならお兄ちゃんをあげてもいいって言ってくれたの
よ」

「唯め。あいつ、何の権利があって」

「でもさ、あたし自信ないって断ったの」

「え」

 麻季を忘れることができるかどうかはともかく、理恵の僕に対する好意については僕は
全く疑っていなかったのに。その自信がいきなり崩されたのだ。

「君に詳しく話を聞く前だったけど、今日君の話を聞いてもやっぱりあたしには自信がな
いな」

 僕に寄り添って手を重ねながら今さら理恵は何を言っているのだろう。

「せっかく今君といいムードなのに、ごめんね」

「麻季のこと気になるの?」

「ううん。麻季ちゃんがさっきみたいにいくら泣こうが喚こうが全然気にならないよ」

「じゃあ何で?」

 このとき僕は冷静だったと思う。麻季の過去の男関係を聞かされたにも関わらず。それ
は本当に僕がショックを受けた原因が、麻季の先輩との浮気や過去の男遍歴ではなかった
ことを理解できたからだろう。ここ最近の僕が麻季に関して悩んだのは彼女の育児放棄だ
ったことに、今さらながら僕は気がついた。そういう意味では理恵のショック療法も適切
だったのだ。

 でも理恵は予想外の言葉を口にした。

「麻季ちゃんなんてどうでもいいよ。あたしが本当に気にしているのは怜菜さんだよ」

 僕は凍りついた。

「あたし、今でも君のことが好き。多分、麻季ちゃんも今でもあなたのことが一番好きだ
と思う。でも麻季ちゃんがこんなことをしでかしたのも怜菜さんと博人君の関係に悩んだ
からだと思う」

「博人君」

 理恵が僕に聞いた。

「君は今でも亡くなった怜菜さんのことが好きなんじゃないの?」



245:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 21:03:33.32 ID:vk+Esfzmo

 少し酔ってはいたけれど僕は理恵の言葉を胸の中で反芻してみた。これまで僕は麻季が
突然僕に離婚を要求してきた理由がさっぱりわからなかった。太田弁護士の受任通知やそ
の後の弁護士同士の交渉を経ても、麻季の動機が理解できないという意味では何の進展も
ないのと同じだったった。それでも何となく心に浮かんでいたのは、何らかの理由で麻季
が再び心変わりして、僕ではなく鈴木先輩を選んだのではないかということだった。とい
うよりそれ以外には思い浮ぶ動機はなかったのだ。

 今、僕は理恵の言葉を受けて改めて自分の心を探ってみようと思った。いわゆる浮気や
不倫と言われる行為については僕は潔白だった。夫婦間のお互いへの貞操という観点から
すれば、明らかに有責なのは麻季の側だった。ただ、僕が怜菜にまるで中学や高校のとき
の初恋のような淡い想いを抱いたことがあったことも事実だった。そして怜菜のお通夜の
夜、僕はそのことや怜菜が僕のことを好きだったということも全て隠さずに麻季に伝えた。
あのとき麻季が受けたショックは、僕と怜菜のささやかな交情によるものではなく、鈴木
先輩と関係を持った麻季自身を怜菜が恨んでいなかったということに起因するものだった
ことは間違いないと思う。そしてそのことをひとしきり悩んだ麻季は、結局怜菜の遺児で
ある奈緒を引き取る決心をしたのだ。

 ただ、怜菜が自分の娘に奈緒という名前を命名したことに対して悩んでいた頃、麻季が
僕に向って感情を露わにしたことは確かにあった。



『博人君は本当は怜菜と結婚した方が絶対に幸せだったよね。あたしみたいに平気で旦那
を裏切って浮気するようなメンヘラのビッチとじゃなく』

『・・・・・・どういう意味だ』

『怜菜はあなたが好きだったんでしょ』

『・・・・・・多分ね』

『あなたも怜菜が気になったんだよね?』

『多分、あのときはそう思ったかもしれないね』

『ほら。あたしは先輩に抱かれて、その後もあなたに嘘をついて先輩とメールを交わして
あなたを裏切ったけど、あなたと怜菜だって浮気してるのと同じじゃない。違うのはあた
したちが一回だけセックスしちゃったってことだけでしょ』



 理恵の言うとおりだった。あのときの麻季は僕と怜菜が肉体的には何一つとしてやまし
いことがなかったことを承知のうえで、僕と怜菜のお互いへの気持に嫉妬していたのだ。
ただ、それは僕への麻季への謝罪によって彼女も納得して終った話だったはずだった。

 それから僕は改めて理恵の質問について考えた。僕は今でも亡くなった怜菜のことが気
になっているのだろうか。答えはイエスでもありノーでもある。僕が生前の怜菜に惹かれ
ていたことは間違いない。それは自分でもはっきりと意識していた。別にそれは最後に会
ったときやメールをもらったときの彼女の告白めいたセリフのせいばかりではなく、怜菜
の最後の告白の前から、多分怜菜と会って彼女の強さを知ったときから、もう僕は女性と
して怜菜のことを意識していたのだった。

 そして理恵の言うとおり多分僕の怜菜への想いは今でも変わっていない。



『君は今でも亡くなった怜菜さんのことが好きなんじゃないの?』



 理恵の問いに対する直接的な答えはイエスだった。そして同時にノーとも言える。怜菜
は不慮の死を遂げたのだ。怜菜が鈴木先輩と離婚して一人で出産し育児をする道を選んだ
とき、僕は麻季と離婚せずやり直すことを選んだ。そして僕のその選択を怜菜は最後の
メールで祝福し応援してくれた。だから、例え怜菜に死が訪れず今でも奈緒と二人でどこ
かで暮らしていたとしても、僕と怜菜が一緒になるという可能性はなかったはずだった。

「好きか嫌いか聞かれればそれは好きだと思うよ。あれだけか弱そうな外見であれほど芯
の強い女性を僕は今まで見たことがなかった。彼女のそういうところに僕は惹かれていた
んだし、その想いは彼女が亡くなっても変わるようなものじゃないよ」

 理恵は僕に寄り添ったまま少しだけ笑った。

「やっぱね。でも話してくれてありがとう。あたしはもう怜菜さんのことを気にするのは
やめるよ。というか博人君の話を聞いているとあたしまで怜菜さんのことが好きになっち
ゃいそうよ」



246:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/02(金) 21:04:13.67 ID:vk+Esfzmo

「何言ってるの」

「でもね」
 理恵が僕から少しだけ身体を離して言った。「麻季ちゃんが突然こんなことをしでかし
たのは博人君と怜菜さんの仲に嫉妬しちゃったからかもしれないね」

「あれから何年経っていると思ってるの。確かに怜菜さんが亡くなった直後は麻季からそ
ういう話も出たことはあったよ。奈緒の名前のことで揉めたこともあった。でもそのこと
はとうに克服したものだと思っていたんだけどな」

「そうか」

「うん。だから僕と怜菜さんのことが原因ではないと思う。やはり離れている間に麻季は
鈴木先輩の方が僕のことより好きだってことに気がついたんだろうね。結局、麻季は僕じ
ゃなくて先輩を選んだんだよ」

 実際にそうとしか考えられなかったから僕はそう理恵に言った。いっそ麻季の口から鈴
木先輩と暮らしたいのと正直に言われた方がよかった。彼女がはっきりとそう言ってくれ
たら僕は麻季の要求どおりに彼女を自由にしたと思う。それなのに麻季は正直に告白する
のではなく、僕のことを誹謗中傷することを選んだのだ。

「それは違うと思うけどな」

「何で?」

「だって・・・・・・。さっき麻季ちゃん、あたしとキスしている博人君を見て泣いてたじゃん。
あたしと博人君が一緒にいるのを見て、男に寄り添うみたいな様子をあなたに見せ付けて
たしさ」

 確かに僕より鈴木先輩を選んだとしたらあそこで麻季が泣く理由はない。

「それにさ。せっかく復縁した博人君のことなんかどうでもいいほど鈴木先輩が好きなら、
鈴木先輩以外の男と二人きりで飲みに来たりしないんじゃない?」

 それもそのとおりかもしれない。麻季の涙に混乱してあまり気にしていなかったけど、
麻季が寄り添っていた男は鈴木先輩ではなかった。

「理恵ちゃんさ」

「なあに」

 理恵も少し酔っている様だった。不覚にも僕はそういう理恵を可愛いと思った。

「麻季は僕より先輩を選んだんじゃなくて、僕と怜菜さんの仲に嫉妬したからこんなこと
をしでかしたって思っているの?」

「多分ね。それにしても受任通知の内容とか理解できない点はあるけどさ」

「そうだよな」

「まあ、いいや。怜菜さんって本当にいい子だったんだね。麻季ちゃんなんかの親友には
もったいないね」

 それには何て答えていいのかわからなかった。僕は黙ったままだった。そしてこんなに
シリアスな話をしているというのに、理恵は僕に寄り添っているし僕は理恵の肩を抱いて
いる。

「ごめんね。麻季ちゃんのこと忘れさせるどころかかえって思い出させちゃって」

「いや。僕は別に」

「じゃあ、これから忘れさせてあげるよ。この店お勘定しておいてくれる?」


ビッチ(改)【その3】



元スレ
ビッチ(改)
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1417012648/
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