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ビッチ(改)【その1】

1:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/26(水) 23:37:38.21 ID:incPBixuo

以前中断したSSを再開します。SSと言っても地の分&固有名詞設定ありなので、苦手
な方は回避してください。

あと、前作はプロットを広げすぎたので、二作に分けて投下しようと思います。具体的に
は犯罪性の強い「女帝」関係は、次のSSに譲り、今回はナオトとナオ、明日香の関係に
フォーカスする予定です。

かけもちなので後進速度は非常に遅くなると思うし、最初の方は前のSSとほとんど同じ
内容の再投下になるので、前作をご覧になった方にはまとめ読みをお勧めします。



2:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/26(水) 23:40:17.35 ID:incPBixuo

第一部



 僕はその日の朝、普段より早く起き過ぎってしまったのだった。

 母さんを起こしたくない。僕は反射的にそう思って、爪先立って僕と妹の部屋が並ん
でいる二階の部屋を通って階下に降りようとした。この時の僕は熱いコーヒーを飲みた
かった。冬の身が凍るような早朝のことだった。

 妹の部屋の前を通り過ぎようとした時、その部屋のドアが少し開いていることに 気づ
いた。

 何気なくドアの向こうを覗くと妹がだらしない姿勢でベッドの上にしどけなく横にな
っている姿が目に入った。妹は剥き出しの腕を伸ばしたまま仰向けに寝ていて、普段は
うざいくらいに口うるさくやかましいことが嘘のような子どもっぽい表情だった。

 妹の部屋から暖房の熱気が漏れ出していた。またエアコンを付けっぱなしで寝たのだ
ろう。こいつは何をするにもこういう具合にだらしない。

 暖房のせいで暑かったのか妹はTシャツとパンツしか身にまとっていなかった。子ど
もっぽいあどけない表情を裏切るように、成長中の妹の悩ましい肢体が目に入ったけど、
僕は慌てて目を逸らした。

 こいつの体を見つめているところなんかをこいつに見られたらどうなるのかは僕にはよ
くわかっていた。以前にも同じようなことがあったからだ。

 こいつはわざとらしい悲鳴をできる限りの声量でわめきたて、何事かと駆けつける父
さんと母さんに対して「お兄ちゃんがあたしの裸を覗いたの」と騒ぎ立てて訴えるの
だ。

 そんな騒ぎは二度とはごめんだった。僕は妹から目を逸らして妹の部屋を通り過ぎて
階下に降りた。

 思ったとおりこの時間の朝のキッチンにはいつもは家中で一番早く起きる母さんの姿
はなかった。

 僕はやかんに少しだけ水を入れてコンロに火をつけた。このくらいの量の水ならすぐ
に沸騰するだろう。

 早起きしてしまったせいで登校するまでにはまだ時間が十分あった。何でこの日だけ
早起きしてしまったのかはわからないけど、その恩恵には十分にあずかれそうだった。

 僕は父さんのことも母さんのことも嫌いではない。この二人から高校生活のことや部
活のこととかを質問されながら朝食の時間を過ごすのも悪くはない。

 ただし、それは妹が一緒に食卓についていなければだ。あいつがいると、僕のこの間
のテストの成績を誉めようとしてくれた母さんは口をつぐみ、部活のことを楽しそうに
聞いてくれている父さんまで黙ってしまう。

 要するに妹がいると父さんと母さんは僕とまともに会話できなくなってしまうのだ。

 あいつはこういう時いつも僕の話に水をさす。

「お兄ちゃん(と両親の前では昔のように妹は僕のことを呼んでいた。二人きりのとき
はあんたと呼ぶか人称さえないことが普通だったけど)のことばっか話すよね、母さん
たちは。どうせあたしはお兄ちゃんみたいないい子ちゃんじゃないし成績もよくないよ。
でもだからといってあたしのこと無視しなくてもいいじゃない」

 こうなると父さんと母さんは気まずそうに僕から目を逸らして黙ってしまうのだ。

 だからせっかくたまに早く目を覚ました朝なんだし、朝食抜きでお湯が沸いたらコー
ヒーだけ飲んでさっさと高校にでかけてしまおう。今日は友人の渋沢がコンプしたゲーム
ソフトを貸してくれることになっていたから、DSを忘れずに持って行こう。

 そう考えると僕は早い時間にも関らず少し焦ってきた。誰も起きる前にメモを残して
家を出なければならない。メモには用事があるから早めに登校しますと書いておけばい
いだろう。

 そこまで考えたときにやかんがピーッと鳴ってお湯が沸いたことを告げた。

 僕はインスタントコーヒーの粉を入れたマグカップにお湯を注ぎ、リビングのソファ
に座ってテレビを点けた。早朝の天気予報が画面に映し出される。

 今日は突然集中的に雨が降ることがあるらしい。窓の外の冬の朝の様子からは降雨の
予感は少しも感じられないけど、天気予報で気象庁がそう言っている以上傘を用意した
方がよさそうだ。



3:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/26(水) 23:42:02.06 ID:incPBixuo

 僕はコーヒーを飲み干すとカップを流しに片付けてから登校の準備にかかった。顔を洗
って歯を磨き制服に身を通してもまだ家族が起きてくる様子はなかった。着替えるのとカ
バンを取るために一度自分の部屋に戻る途中で妹の部屋をちらっと眺めたけど、妹は相変
わらずだらしなくでもしどけない格好で自分の体を晒しながら寝息をたてていた。

 僕はこの日、両親には用事があるので早く登校するというメモだけをテーブルに残して
家を出た。

 今朝は偶然に早起きしたせいで妹と顔をあわせずに済んでよかった。僕は駅への坂道を
下りながら思った。僕がいないだけなら両親と妹はそれなりにうまくやっていける。ちょ
っと早起きして早出するだけで両親も僕も、そして多分妹も朝から余計なストレスを感じ
ずにすむのだ。

 父さんだけではなく母さんも仕事を持っているのだし、朝から嫌な想いなんてしたくな
いだろう。それでも懲りずに妹の前で僕に話しかけてくれる父さんと、特に母さんには僕
は感謝していた。

 駅に向う坂道の途中で僕はほほに雨滴を感じた。雨が降るようには思えなかったけど天
気予報は正確なようだった。でもこの程度の小雨のうちに駅まで辿るつけるだろうと僕は
思った。傘は持っていたけど開かずに済むならその方がいい。僕は込んだ電車の中で濡れ
た傘を持つのは嫌いだった。濡れた傘が自分の足にべっとりとついてズボンが濡れること
も嫌だったけど、それ以上に他人の服に自分の濡れた傘が当たるのも気が引けて嫌だった。

 でも込み合った電車の車内ではそれを回避するのは難しかった。

 もう少しで駅が見えてくるところで、突然アスファルトとの路面に雨が叩きつけられる
音が響き出した。結構な雨量だった。

 傘を開こうとしたとき、目の前に電車の高架下のスペースが目に入った。とりあえずあ
そこなら雨には打たれない。そこまで行ってから傘を開こう。僕は高架下の濡れない場所
に向かって走り出した。

 そこには先客がいた。

 僕はその女の子を呆然として眺めた。

 華奢な肢体。背中の途中くらいまで伸ばした黒髪。セーラー服に包まれた細い体つきの
女の子。

 中学生くらいのその子は戸惑ったように高架下から雨の降りしきる景色を眺めていた。
これでは傘がなければここから動くこともできないだろう。

 それまで彼女だけしか存在しなかったその空間に迷い込んだ僕は自分の傘を眺めた。と
りあずこの傘を開けば駅まで辿り着ける。天気予報を見ていてよかったと僕は思った。

 その時、誰かが高架下に入ってきたことに気がついた女の子が振り返って僕の方を見た。
それで初めて僕はその子の顔を見ることができたのだった。

 それは僕がこれまで実際に会ったことのないほどの美少女だった。これまで僕は女の子
と付き合ったことはなかったし、年頃の女の子については妹のだらしない生活ぶりを目の
当たりにしていたおかげで全く幻想を抱いていなかったけど、その朝その子を見た時、僕
の中で何かの感情が揺り動かされた。

 普段から女の子と話すことが苦手な僕には考えられないことだったけど、僕はその子と
視線を合わせた時、自然に彼女に話しかけることができた。

「君、傘持ってないの?」

 僕の言葉に彼女は戸惑った様子だった。でも彼女は思ったよりしっかっりした声で僕に
返事をしてくれた。

「あ、はい。今日は雨が降るなんて思わなかったから」

 彼女の表情は僕に気を許したものではなかったけど決して警戒しているものでもなかっ
た。

「君も駅に行くの?」

 僕は彼女に聞いた。

「はい。でも駅まで行く途中で濡れちゃいそうで」

「じゃあ駅までしか送れないけどそれでもよかったら一緒にどうですか」

 その女の子の顔に一瞬だけ警戒しているような表情が浮かんだけど、彼女はすぐにその
表情を消した。



4:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/26(水) 23:43:51.45 ID:incPBixuo

「いいんですか?」

「うん」

 この時の僕は少女の整った可愛らしい顔を呆けたように眺めていたに違いない。

「多分降りる駅が違うから、そこの最寄り駅までしか送れないけど、それでもよかった
ら」


「ありがとう、じゃあお願いします」
 女の子が言った。「駅まで行けば売店で傘を買えると思いますから」

 僕は傘を開いて彼女の方に差しかけた。彼女は遠慮がちに僕の方に身を寄せてきた。

 その朝、僕は偶然登校中に出会った女の子を駅まで送っていったのだった。彼女と出合
った場所から駅までは十分もかからない。駅に着くまでの間、僕は何を話していいのわか
らなかったし、傘に入れたくらいで馴れ馴れしく振る舞う男だと思われるのも嫌だった。

 そして彼女の方も特に何を話すでもなかったので僕たちは傘に強く降りかかる雨の中を
無言のまま駅に歩いて行った。

 駅の構内に入ると傘を叩いていた雨音が突然途切れ、通勤通学客でにぎあう構内の騒音
が僕たちを包んだ。僕は傘を閉じた。そのままお互いにどうしていいのかわからない感じ
で僕たちはしばらく黙ったまま立ちすくんでいた。

 やがて彼女は僕の側から離れ恐縮したようにお礼を言ってから、僕とは反対側のホーム
に向うエスカレーターの方に去っていった。

 僕はその場に留まってしばらく彼女の方を眺めていた。その時ふいにエスカレーターに
立っていた彼女がこちらを振り向いた。少し離れた距離で僕たちの視線が絡み合った。

 僕が狼狽して彼女から視線を逸らそうとした時、初めて少し微笑んで僕の方に軽く頭を
下げている彼女の姿が僕の目に入った。

 学校の最寄り駅に着いて電車を降りる頃には突然の雨はもう止んでいた。その雨は天気
予報のとおり突然集中的に振り出し突然降り止んだようだ。

 これが夏ならこういうこともあるだろうけど、十二月もそろそろ終るこの季節にこうい
う天気は珍しい。でも夏と違って雨の後に晴れ間が広がったりはせず、天気は雨が降り出
す前の暗い曇り空に戻っただけだった。

 僕は閉じたままの傘を抱えて学校に向う緩やかな坂道を歩き出した。

 確かに嫌な天気だったけど、あそこで突然に強い雨が降り出さなければ僕があの子を傘
に入れて駅まで寄り添って歩くこともなかった。

 今思い出そうとしても今朝出会った少女の顔ははっきりと思い浮んではくれなかった。
無理もない。最初にこちらを驚いたように振り向いた時以外は僕は彼女の顔を直視できな
かったのだから。

 それでも僕は名前すら知らない少女に惹かれてしまったようだった。ただその甘い感傷
の底の方にはひどく苦い現実が隠されていたことにも気がついてはいた。

 いくら僕がさっき出合った少女に惹かれようがその想いには行き場がないのだ。僕は彼
女の名前も年齢も学校も知らないまま彼女と別れたのだから。

 時折思うことだけど、僕がこんなに内向的で自分に自信のない性格でなければ、例えば
同級生の渋沢のように相手の女の子にどんなにドン引きされても図々しくメアドを交換し
ようとか積極的に言えるような性格なら、ひょっとしたら今頃僕は今朝出合った少女のア
ドレスを手に入れていたかもしれない。

 そして僕がそういう社交的で積極的な性格に生まれていたら、ひょっとしたら妹との
関係だって今とは違っていたかもしれない。あの妹だって理由もなしに僕のことを毛嫌
いしているわけではないだろう。多分うじうじしていてはっきりしない僕の性格を妹は
心底嫌っているのだろう。



5:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/26(水) 23:46:12.90 ID:incPBixuo

 でもそれは考えても仕方のないことだった。

「何でそんなに暗い顔してんだよ」

 教室中に響くような声で渋沢が話しかけてきた。いつもより早目に教室に入ったせいで
登校したた時には教室内にはまだ誰もいなかった。

 それで僕は自分の席でさっきの少女との出会いを思い返していたのだけど、そんなこと
をしている間にいつのまにか登校してくる生徒たちで教室は一杯になっていた。

 僕は登校してきて隣の席に座ったばかりの渋沢の方を見た。

「何でもないよ。つうか僕、暗い顔なんてしてるか?」

「してるしてる。おまえってもともといつも暗い顔してんだけどよ。今日は特にひどい
よ」

「まあ、昨日もちょっと家で揉めたからね」

 僕は少し苦々しい声でそれを口に出してしまったようだった。渋沢の表情が真面目にな
り声も少し低くなった。

「それは悪かったな」

「いいよ、別に」

「おまえ、また義理の妹と喧嘩したの?」

「僕は別にそんな気はないけどさ。あいつがいつもみたいに突っかかって来たから」

「それでまた気まずくなちゃったってことか」

「まあね」

 そこで渋沢は少し真面目な顔になった。

「前にも聞いたけどさ。何でおまえの妹ってそこまでお前のこと毛嫌いするのかね。ここ
まで来るとおまえが言ってたみたいにおまえの性格が気に入らないだけとも思えねえよ
な」

「知らないよ。あいつに嫌われてるって事実だけで十分だろ。原因なんてあいつが言わな
きゃわかんないし」

「ひょっとしたらさ。そういうおまえの淡白な態度に問題があるじゃねえの」

「・・・・・・どういうことだよ」

「うまく言えねえけどさ、おまえの妹って何かおまえに気がついて欲しいこととかがあっ
てわざと突っかかって来てるんじゃねえかな」

 それが正しいかどうかはわからないけど、渋沢の言っていることは僕がこれまで考えた
ことがあった。あいつが何かを訴えている? そのために僕に辛く当たっている?

 そうだとしても僕にはあいつが僕に訴えたいことなんか見当もつかなかった。

「ひょっとしたらさ。おまえの妹っておふくろさんとおまえの親父の再婚のこと面白く思
ってないんじゃねえのかな」

 それは僕もこれまで何度も考えてきたことだったから、それについては僕は渋沢に即答
できた。

「それはない。あいつは僕の父さんとは普通に仲がいいんだ。だからあいつが僕を嫌って
いるのは父さんたちの再婚とは別の話だと思う。だいたい再婚って言ったってもう十年く
らい前の話しだし」

「じゃあ、やっぱりおまえに原因があるんだ」

 渋沢がさらに話を続けようとした時、担任が教室に入って来た。

 渋沢に義理の妹の話を持ち出されて僕は思わず真面目に答えてしまったけど、妹の態度
については昔からなので僕はそのことについては半ば諦めていた。

 妹とのことは別に今に始ったことではない。僕にはどこかで僕とは無縁に生活している
はずの実の母親の記憶はないし、物心ついた頃から今の家族と一緒に生活してきたのだ。
だから僕は母さんが自分の本当の母親ではないなんて考えたこともなかった。

 去年のある夜、僕と妹が両親に呼ばれて初めて事実を告げられた日、僕はその時に自分
の本当の母親が他にいることを知って動揺したのだけど、妹はその時もその後も別にたい
して悩んでいる様子はなかった。



6:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/26(水) 23:49:03.81 ID:incPBixuo

 きっと妹は前から知っていたのではないか。僕と妹が本当の兄妹ではないことを。

 普通に考えれば両親が再婚した時、妹は僕以上に幼かったのだから彼女が真実を覚えて
いることは考えづらういけど、きっと親戚か誰かに聞いていたに違いない。

 だから去年両親から僕たちが本当の兄妹ではないことを知らされたそれ以前から、妹は
僕のことを嫌っていたのだろう。再婚に反対してではなく、多分実の兄妹なら許せること
でも、赤の他人である僕の優柔不断な性格が妹の気に触っていたのかもしれない。

 でもそのことは去年から考えつくしていたことだったし、授業に集中できない僕がその
日一日中考えていたのは妹のことではなくて、今朝出会った少女のことだった。

 ほんの一瞬だけ僕の人生に現われた少女。でも僕と彼女の関わりはその一瞬だけだ。

 彼女のこの先の人生に登場する人物の中に僕の名前はないのだ。そしてもう二度と僕は
彼女と会うことはないだろうし、たとえ偶然に出会ったとしても無視されるかせいぜい黙
って会釈されるかだろう。

 そんな自虐的な考えを僕はその日一日中繰り返していたのだった。

 授業が終わり部活に行こうとしている兄友に別れを告げると僕は学校を出た。校門の外
に出た時、渋沢が今日持ってきてくれるはずのゲームソフトを受け取っていないことに気
がついたけど、それはもう後の祭りだった。



 僕が自宅に着いてドアを開けようとした時、逆側からそのドアが開き妹が出てきた。

 妹は相変わらず中学生とは思えな派手な姿だった。爪には変な原色の色彩が施され冬だ
というのにすごく短いスカートを履いている。アイシャドウも濃い目、手に持っている小
さなハンドバッグはラメが一面にごてごてと派手に刺繍されているものだ。

 僕は思わず今朝出会った彼女のことを思い出して妹と比較してしまった。多分彼女も妹
と同じで中学生くらいだと思う。はっきりとは見ていないので確かとは言えないけど、
彼女は目の前の妹と違って普通に清楚な美少女だった。それは短い僅かな言葉のやり
取りにも表れているように僕は思った。

 何で同じ中学生なのに妹と彼女はここまで違うのだろう。僕はそう思った。

 でも今はトラブルは避けたい。ただいまとだけ妹に向ってもごもご呟いた僕は、これか
らどこかに遊びに行く様子の妹を避けて家の中に入ろうとしたその時だった。

「あんたさ」

 妹が僕に話しかけてきた。

「え」

「今朝どっかの女と相合傘してたでしょ」

 行く手を遮るように僕の正面に立った妹が言った。

「何でおまえが知ってるの」

 いきなりの奇襲に面食らった僕は何とかそれだけ言い返すことができた。

「何でだっていいでしょ。あれあんたの彼女? つうかキモオタのあんたにも相合傘する
ような相手がいるんだ」

 最初僕は正直に偶然出会った女の子を駅まで傘に入れただけだよと言い訳するつもりだ
ったけど、悪意に満ちた妹の声を聞いているとそんな言い訳する気すら失われていった。

「それこそどうだっていいだろ。おまえには関係ないじゃん」

 僕の言葉を聞いた妹は目を光らせた。いつもなら戦闘開始の合図だった。僕は少し緊張
して立ちはだかる妹の方を見た。

「・・・・・・何じろじろ見てんのよ。そんなに女の体が珍しいの? 気持悪いからあたしの体
を見るの止めて欲しいんだけど」

 こんなやりとりは僕にとっては日常のことだ。僕は必死に自分の感情を抑えた。早く妹
にどっかに行ってしまって欲しい。そうすれば僕は一人で心の平穏を保てるのだ。

「あんた、彼女いたんだ。あの子どう見ても中学生くらいだったけど」



7:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/26(水) 23:50:04.08 ID:incPBixuo

 僕はもう何も言わないことにした。むしろ早く家の中に入ってしまいたいけど玄関前に
立ちはだかる妹をどかそうとすれば彼女の体に触れざるを得ない。

 僕に自分の体を触れられた妹がどういう行動を取るのかは、これまでの苦い経験でよく
学んでいた。だから僕にはひたすら沈黙し、妹が出かけていってしまうことを待つことし
かできなかった。

「その子もきっと無理してるんだろうな。会うたびに自分の体をあんたにじろじろ見られ
てるんでしょ? きっと」

「だんまりかよ。まあいいや。今日父さんも母さんも帰り遅いって。あたしは出かけてく
るから」

「ああ」

 僕はそれだけ返事した。

「ああ」
 妹は鸚鵡返しに僕の言葉を真似して言った。「あんたコミュ障? ゲームの中の女とし
か喋れないわけ? そんなことないか。可愛い中学生の彼女がいるんだもんね」

 ひたすら言葉の暴力に耐えているとようやく妹は僕を解放してくれた。

 そして妹はもう僕のことなんか振り返らずに大股で雨上がりの夕暮れの中を駅前の方に
ずんずんと歩いていってしまった。

 その夜、両親は帰って来なかった。あいつは父さんたちが今日遅くなると言っていたけ
ど、多分正確な伝言は今日は帰れないだったのだろう。僕への嫌がらせに間違った伝言を
僕に伝えたに違いない。

 両親が帰って来ると思っていた僕はその晩夕食を食べ損ねた。キッチンにあったポテト
チップスを少し食べて空腹を紛らわせた僕は、そのままベッドに入って寝てしまおうと思
った。



8:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/26(水) 23:50:44.34 ID:incPBixuo

 昨日に続いて今朝も早朝に目を覚ませてしまった。重苦しい気分で目を覚ました僕は傍
らで抱きついて寝入っている妹を見てぎょっとした。

 何だ、これは。

 妹は僕の脇に横たわってぐっすりと熟睡していた。さっき感じた重苦しさは昨日妹に嫌
がらせをされた精神的なものではないかと思っていたのだけど、実はベッドの中で妹の体
重支えていた身体的な重苦しさなのかもしれなかった。

 妹の寝顔は彼女のいつものこいつの酷い態度と異なって子どもっぽいものだった。昨日
こいつの部屋で覗いた妹の表情と同じだった。

 何で妹が僕のベッドにいて僕に抱きついているのかはわからない。でもこのままこいつ
が目を覚ませば自分の行為はさておいて、僕に無理矢理レイプされかかったくらいのこと
を両親に言いかねない。ひょっとしたらそのためにわざと僕のベッドに入ってきたのかも
しれない。

 僕は妹を起こさないよう極力そっと自分のベッドから抜け出した。そして、そのまま着
替えと学校に持っていくカバンだけ持ってリビングに向った。

 やはり両親は昨晩は帰宅していないようだった。僕は朝食もコーヒーも全て省略し、急
いで制服に着替えて家を出た。

 何とか妹の罠から脱出することができた。駅に向かっているとようやく僕は緊張から開
放されるのを感じた。

 妹の理不尽な態度に酷い目に会ったのこれが初めてではないけど、ここまで直接的な嫌
がらせをされたのは初めてだった。でも僕は幸いにもその罠にかからずに済んだのだった。

 僕が妹のことを考えながら駅前の高架下を通り過ぎようとした時、誰かに声をかけられ
た。

「あの・・・・・・おはようございます」

 僕はその声の方に振り向いた。昨日出会った所に真っ直ぐに立って僕に声をかけたのは、
二度と会うことがないだろうと思っていた昨日の少女だった。

 突然のことに声を失っていると彼女は僕の方に寄って来て言った。

「お会いできて良かったです。会えないんじゃないかと思って心配してました」

 彼女は僕の方を見て微笑んだ。

「ああ、偶然だね」

 その時僕は彼女に会えたことに驚いて呆然としていたのだけど何とか間抜な返事をよう
やく口にすることができた。

「偶然じゃないんです」

 相変わらず僕に微笑みかけながら彼女は僕の言葉を否定した。

「昨日はちょっと急いでいてちゃんとお礼を言えなくて」

「お礼って・・・・・・傘に入れただけだよ」

「どうしようかと思って困っていた時に、傘に入らないって自然に声をかけてくれて本当
に嬉しかったんです。でもあの時は何か照れちゃってずっと黙ったままだったし。だから
偶然じゃないんです。ひょっとして同じ時間にここにいればまたお会いできるんじゃない
かと思って」

「じゃあ、わざわざ僕を待っていてくれたの?」

 これは恋愛感情ではないかもしれない。でも一度だけそれも十分程度傘に入れた男に会
うためにここまでする必要なんてあるのだろうか。

「はい。無駄かもしれないと思ったんですけど、お会いできて良かったです」
 彼女は頭を下げた。「昨日は本当にありがとうございました」



9:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/26(水) 23:53:22.27 ID:incPBixuo

「どういたしまして」

 僕も頭を下げた。高校生の男と多分中学生の少女が向かい合って頭を下げあっている光
景は傍から見たらずいぶんと滑稽な様子に見えたに違いない。

 多分彼女も同じことを考えていたのだろう。頭を上げた彼女は再び恥かしそうに微笑ん
だ。

 だいぶ緊張がほぐれてきた僕には、普通に彼女に話しかける余裕が戻って来たようだっ
た。

「君さ。昨日はずいぶん急いでいたみたいだけど、今日はこんなところで話していて学校
は平気なの?」

 僕は昨日に引き続き普段よりもずいぶん早く家を出たから別に急ぐ必要はなかったけど、
彼女は昨日の同じ時間に慌しく僕とは反対側の方向に向うホームに向っていたはずだった。

「あ、はい。大丈夫です。昨日は課外活動で朝早く現地集合だったんです」

 そこまで詳しくは聞いたつもりはなかったんだけど、彼女は自分の事情を話し出した。

「だから昨日は雨のせいで遅刻しちゃいそうで急いでたんですけど、普段ならもっと遅い
時間に登校してるんです。あとあたしの学校って昨日の集合場所とは反対の電車の方向だ
し」

 では彼女の学校は僕と同じ方向にあるのだろう。

 ここまでの僅かな会話でも僕は彼女との距離が縮まっていくのを感じた。

 ・・・・・・誤解するなよ。僕は改めて自分の心の中に警鐘を鳴らした。高校の同級生の志村
由里さんの時も今と同じような状況だったじゃないか。親しげに僕に擦り寄ってきた志村
の態度を誤解した僕はあの放課後に彼女に告白したのだ。

 その時の彼女の返事やその時感じた喪失感はだいぶ時間が経った今でも胸の奥に小さな
痛みとして残っている。あの時志村さんは戸惑い、困ったような表情で僕に謝ったのだっ
た。

『何か誤解させちゃったとしたらごめん。あたし君のこと嫌いじゃないけど、本当に好き
なのは渋沢君なの』

 しばらくして二人が付き合い出して、今ではいつも一緒にいる姿を見ることにも大分慣
れてきた。慣れざるを得なかった。渋沢は友だちの少ない僕にとって唯一の親友だったか
ら。



10:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/26(水) 23:54:58.79 ID:incPBixuo

 今の状況は志村さんの時よりもっと頼りない。額面どおりに受け取れば礼儀正しい女の
子が傘に入れてもらったお礼を改めてしたくて僕を待っていただけのことじゃないか。

 そう考えようと必死になった僕だけど、一度胸の中に湧き上がった期待はなかなか理性
の指示するとおりに収まってはくれなかった。

「そう言えばお名前を聞いていなかったですね」
 少女が言った。「あたしは、鈴木ナオと言います。富士峰女学院の中学二年生です」

 それでは彼女は僕の高校より一つ先の駅前にある学校に通っていたのだ。確か富士峰は
中高一貫校の女子校だった。

「僕は結城ナオト。明徳高校の一年だよ」

 僕も名乗った。でもこれで彼女の名前を知ることができた。

「あの」

 再び彼女が言った。これまで僕とは違って冷静に話していた彼女は、少し紅潮した表情
で僕の方を見上げた。

「図々しいお願いですけど、よかったらメアドとか連絡先を教えてもらっていいですか」

 女の子に耐性のない僕にとってそれはとどめの一撃といってもよかった。自分への警鐘
とか女さんの時の教訓とかが僕の頭の中から吹っ飛んだ。

 僕と彼女はメアドと携帯の番号を交換した。その事務的な作業が終わると少しだけ僕た
ちの間に沈黙が訪れた。でもそれは決して気まずいものではなかった。

「そろそろ行きませんか?」

 ナオが僕に言った。相変わらず僕に向かって微笑みながら。

「そうだね。同じ方向だし途中まで一緒に」

 思わず言いかけてしまった言葉に僕は後悔したため、僕の言葉は語尾が曖昧なままで終
ってしまった。

 でもナオは僕の言葉をしっかりと拾ってくれた。

「うん、そうですね。同じ方向だし、ナオトさんとまだお話もしたいし一緒に行きましょ
う」

 僕たちは目を合わせて期せずしてお互いに微笑みあった。



15:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/27(木) 23:48:50.11 ID:McEK2sxMo

 その時、僕の腕が誰かに強く掴まれて引き寄せられた。

「こんなところで何してるの?」

 僕の腕にいきなり抱きつき甘ったるい声で上目遣いに僕に話しかけてきたのは私服姿の
妹だった。

 その派手でケバい姿は清楚なナオと同じ中学二年生とは思えない。突然僕に抱きついて
きた派手な女の子の登場に、ナオも驚いて微笑みを引っ込めて黙ってしまっていた。

 何でこいつが僕のことを名前で呼びかけて、しかも僕の腕に抱きつくのか。こんなこと
は今までなかったのに。

 そう思った時、僕はさっき僕のベッドの中で僕に抱きついたまま寝入っていた妹のこと
を思い出した。

 嫌がらせか。僕は珍しく本気でこいつに腹を立てていた。昨日僕とナオが一つの傘に入
って一緒に駅に向うところを目撃した妹は、今日も僕たちが一緒なのではないかと思いつ
いたに違いない。そしてこいつは僕とナオが恋人同士だと思い込んでいた。

 もう間違いない。こいつはわざわざ僕に嫌がらせをするために、こいつが勝手に思い込
んでいる僕とナオの関係を邪魔することにしたのだろう。

「どした? ナオト、この人誰?」

 妹が僕の腕に抱きついたまま僕の方を上目遣いに眺めながら言った。何か妹の柔らかな
ものが僕の腕に押し付けられている感触があった。

 人というのはこんなんに純粋な悪意によって行動できるのだろうか。父さんたちの再婚
以来こいつが僕のことを徹底的に嫌っていることは十分にわかっていた。

 自分の部屋のドアを開け放してあられのない姿を僕に見せ付けるのだって、そんな自分
の姿を覗こうとする僕のことを父さんたちに言いつけるための嫌がらせだった。

 でもそういう妹の行為に対して僕は一定の範囲で理解して許容していたのだ。父さんと
母さんは僕のことをいつも誉めてくれる。成績も素行もよく両親の言うことをしっかりと
守るいい子だと。そのことが妹にとって強いプレッシャーになっていたことは間違いない。
次第に彼女は両親に対して反抗し、僕に対しては攻撃的なまでの嫌がらせを繰り返すよう
になった。

 同時に僕と違う自分を演出しようとしたのか、妹は勉強とか部活とかには背を向けて遊
び歩いているグループに入って、両親の帰宅が遅いのをいいことに夜遊びを繰り返ように
なったのだった。

 僕はこいつの彼氏という男とこいつが一緒に歩いているところを見たことがある。派手
な格好で大きな声で傍若無人に振る舞う工業高校の高校生。その時の僕は、自分には関係
ないと思いつ自分の妹がこんなやつのことを好きだということに無意味に腹を立てたのだ
った。

「お邪魔してごめんなさい。あたしもう行かないと」

 ナオが戸惑ったような声を出した。さっきとは打って変って笑顔もなく僕に視線も向け
てくれなかった。

「いや、ちょっと」

 僕がナオにこいつは自分の妹だよと言おうとした時、妹が僕を遮るようにナオに話かけ
た。

「あ、そう? 何か邪魔したみたいでごめんね。あたしいつもナオトとは一緒に登校して
るからさ」

 僕は妹に反論してこの一連の出来事が嘘だよとナオに言いたかったけど、その機会を与
えてくれずナオは僕と僕の腕に抱き付いている妹にぺこりと頭を下げて、駅の方に去って
行ってしまった。ナオはもうこちらを振り向かなかった。



16:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/27(木) 23:49:45.67 ID:McEK2sxMo

「・・・・・・何でこんなことした」

 僕は怒りを抑えて妹を問い詰めた。きっと嘲笑気味に答が帰って来るだろう。僕はその
ことは承知していたけど、それでも今朝の妹の仕打ちは許せなかったのだ。

「何でこんなことをしたのか言えよ」

 案の定、妹はナオがいなくなるとすぐに僕の腕から手を離した。もともと僕に抱きつく
なんて嫌で仕方なかったのだろう。

「あんただって同じことしたじゃん」
 僕から離れた妹が目を光らせた。「前にあたしが彼氏と二人で歩いている時、あたした
ちのこと邪魔したじゃない」

「ちょっと待てよ。僕は別におまえとおまえの彼氏のことなんか邪魔した覚えはないぞ」

「したよ。町で偶然に出会った時、あんた彼氏のこと虫けらでも見るような目で見てたじ
ゃん」

 それは本当のことかもしれなかった。妹のことなんてどうでもいいとは思っていたけど、
それにしてもあんなクズと付き合っているとは思ってもいなかったから。だから、意識し
てしたことではないけど、妹の彼氏らしい男に無意識に見下すような視線を向けていたと
しても不思議なことではなかった。

「あんたは確かにあたしたちを見ただけで何もしなかったよ。でもね、ああいう目で見下
されただけでも心は痛むんだよ。あの後、彼氏が悩んじゃって大変だったんだから」

 妹が言うには自分を侮蔑的な目で見ている奴がいるからちょっと喧嘩を売ってきていい
かと妹の彼氏が言ったそうだ。妹があれはあたしの兄貴だよと話すと、そいつは今までの
威勢の良さを引っ込めて、俺って本当に駄目なやつに見えるのかなあと言って落ち込んだ
そうだ。

「その仕返しのためにわざわざ早起きして僕の後を付いて来たのか」

「それにあの子はあんたとは付き合えないよ」

「誰もそんなことは言ってないだろ」

 でも妹はもう何も話そうとしなかった。

 僕はその場に妹を置いて黙って駅に向って歩き出した。確かに妹の言うことにも一理あ
るのかもしれない。でも、妹とその彼氏を目撃する前から、妹は僕に対して数々の嫌がら
せを仕掛けていたわけで、こんなことは理由にならない。

 こいつには言葉が通じない。これ以上話しても無駄だ。そう考えたことは今回が初めて
ではないのだけど。



 ざわめく心を静めながら電車の中で吊り輪に掴まっていた時、携帯電話が振動した。僕
は携帯に着信したメールに目を通した。



from :××××@docomo.ne.jp
sub  :さっきはごめんなさい
本文『ナオです。教えていただいたばかりのアドレスにメールしちゃいました。彼女さん
と一緒で迷惑だったら読まなくてもいいですよ(汗)』

『さっきは待ち伏せしたりお名前を聞いたりとか図々しくてごめんなさい。あと、彼女さ
んと待ち合わせしてるなんて思わなかったんで、そもそもあんなところでふたりきりでお
話ししたこと自体がご迷惑でしたよね』

『本当に昨日のお礼を言いたかっただけなんですけど、万一彼女さんにが誤解したとした
らすいませんでした』

『もう彼女さんに誤解されるようなことはしませんので安心してくださいね』

『それではさっきはほんとにすいませんでした。彼女さんにもごめんなさいとお伝えくだ
さい』

『ナオ』



17:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/27(木) 23:51:03.31 ID:McEK2sxMo

 ナオからだ。このままナオの誤解が解けないのは嫌だ。そして誤解さえ解いてしまえば
この先もっとナオと親しくなれるかもしれない。僕はその時もうどんなに恥をかいてもい
いと思った。

 ナオが僕のことを好きでなくてもいい。もうこれ以上僕の心には嘘をつけない。

 普段臆病な僕だったけど、この時は妹との関係への誤解を解いてナオと親しくなりたい
ということしか考えていなかった。



from :○×○@vodafone.ne.jp
sub  :Re:さっきはごめんなさい
本文『さっきの女の子は僕の妹です。あまり仲が良くないのですぐにああいう悪ふざけを
するんで困ってるんですけど、あいつは僕の彼女ではないよ~』

『せっかく知り合えたのでナオちゃんともっとお話ししたかったです。一緒に登校できな
くて残念だよ。また会えたらその時はよろしくね。じゃあさっきは本当にごめんなさい』

 送信してたいして間も空けずにナオは返信してくれた。



from :ナオ
sub  :Re:Re:さっきはごめんなさい
本文『そうだったんですか。妹さんの冗談だったんですね。まじめに悩んじゃった自分が
恥かしいです(汗)』

『でも安心しました。これからも朝一緒に登校していただいたらご迷惑ですか』

『え~い。もう勇気を出して言っちゃえ! ナオトさんって彼女いますか? 正直に言う
と昨日雨の中で出会ってからナオトさんのことが気になって昨日夜も眠れませんでした』

『面と向って告白する勇気はなかったんですけど、妹さんのおかげでメールすることがで
きたので頑張って告白しますね』

『一目惚れとか軽い女だと思われるかもしれないけど、ナオトさんのこと気になってます、
と言うかはっきり言うとナオトさんのことが好きです』

『明日の朝も駅前の高架下のところで待ってます。よかったらその時に返事してください
ね』

『それではまた明日』

『ナオ』



「ふ~ん。そんなことがあったんだ」

 渋沢が学食のカツカレー大盛りを食べながら言った。

 昼休みになってすぐ、僕は渋沢に昨日と今朝の出来事を全部話して相談した。

「よかったじゃんか。初めて会って気になってた子が次の日におまえに告ってくるなんて、
何かのアニメみてえだな」

 それは渋沢に言われるまでもなく自分でも考えていたことだった。こんな僕にはもった
いないほどの幸運としか言いようがない。

「まあ素直におめでとうと言っておこう。由里もこのことを聞いたら喜ぶよ。どういうわ
けかあいつ、やたらおまえのこと気にしてるしさ」

 志村さんは約束どおり僕の恥かしい勘違いの告白のことを誰にも言わなかったようだ。
彼女は彼氏の渋沢にさえ、その告白を黙っていてくれたのだ。

「そんで明日も駅前で待ってるんだろ、その富士峰の中学生の子って」

「うん」

「きっちり決めろよ。おまえいざと言う時無駄に迷うからな。こういう時は余計なことを
考えずに素直にただ一言、俺もおまえが好きだ、でいいんだからよ」

「・・・・・・僕も君が好きです、じゃだめかな?」

「それでもいい。僕とか君とは普通は言わねえけど、おまえはそれが口癖になっちゃって
るしな。変に気取ってもすぐにばれるだろうしよ」



18:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/27(木) 23:51:53.68 ID:McEK2sxMo

 渋沢に相談していると僕はだいぶ気が楽になってきた。ナオのメールを見た時の興奮や
歓喜は時間が経つにつれ僕の中でプレッシャーに変化していた。

 こんなに都合よくあんな美少女が僕に告白するはずがない。だとしたら何で彼女は出会
った翌日にろくに会話したこともなくどういう男かわからない僕なんかに告白したのだろ
う。しかも今朝は妹の嫌がらせもあったわけで、彼女の僕に対する印象は最悪のはずだっ
た。

 でも渋沢はそんな僕の心配なんか今は考える必要なんかないと言った。

「おまえのことが気になって夜も眠れないとかメールにはっきり書いてあるじゃん。これ
以上彼女に何を求めてんの? おまえ」

「とりあえず彼女のことが気になるんだろ? それなら明日君が好きって言えよ。付き合
ってみてこんなじゃなかったって愛想つかされることなんか心配してたらいつまで経って
も彼女なんかできねえぞ」

 多分渋沢の言うとおりなのだろう。

 彼に励まされ背中を押された僕は明日の朝、彼女に僕も君のことが好きだと返事するこ
とにした。明日までの緊張に耐えられそうになかったので、できれば今日中にメールで返
事をしたかった。渋沢もメールでもいいんじゃね? って言っていたけど、彼女からは明
日の朝返事をするように言われていた僕は、とりあえず緊張に耐えながら彼女の言葉に従
うことにしたのだった。

 帰宅すると家には誰もいなかった。両親は今夜も遅いか職場で泊まりなのだろう。もと
もとうちは昔から両親が家にちゃんといる方が珍しいという家庭だった。

 僕にとって幸いなことに、最近では珍しく二日間も連続して僕に嫌がらせをしてきた妹
も今夜はまだ帰宅していなかった。多分彼氏と夜遊びでもしているのだろう。妹は両親が
いない夜は家にいる方が珍しいのだ。

 そしてそんな妹のことを、僕は余計なトラブルを起こすのが嫌だったから両親に告げ口
とかしたことはなかった。妹がよく言うようにあいつのことは僕とは関係ないのだ。

 とりあえず今日は簡単な食事を作って寝てしまおう。僕は明日の朝、ナオの告白に返事
をしなければならない。そんな重大な出来事を抱えて普段のように夜を過ごすことなんか
考えられなかった。実際、今だって胃がしくしく痛むほどのストレスを感じているのだか
ら。

 僕は妹がいないことを幸いに、義務的に味すら覚えていないカップ麺だけの食事を済ま
せるとさっさとベッドに入って目をつぶった。



 ようやく眠りにつきそうだった僕は、階下でどたんという大きな音が聞こえたせいで目
を覚ましてしまった。

 大きな物音に続いてけたたましい笑い声がリビングの方から響いてきた。僕は強く目を
つぶって階下の出来事を無視しようとした。明日は早起きしてナオに告白しなければいけ
ない。こんな夜に階下に下りていくのは心底から嫌だった。少しだけこの騒音を耐えてい
ればすぐに収まるに違いない。僕は無理にもそう思い込もうとした。

 父さんと母さんが深夜に帰宅したときは僕たちを起こさないようひっそりと帰宅して、
できるだけ音を立てないようにシャワーを浴びたりしてくれていることを僕は知っていた。
だから階下のこの騒音は夜中に帰ってきた妹に違いないのだ。

 階下の騒音を無視することして毛布を頭からかぶろうとしたとき、ポップミュージック
の音が強烈な音量で流れ始めた。ここにいてさえやかましいくらいのボリュームだ。

 しばらくして、僕はついにこのまま寝入ることを諦めた。これでは近所の人たちにも迷
惑なほどの音量だったし、このまま放ってはおけない。

 階下に下りてリビングに入った僕はまっすぐにオーディオ機器の方に向かい、アンプの
電源をオフにした。突然静まり返ったリビングのソファには、思っていたとおりだらしな
く横たわっている妹の姿があった。

 リビングの床には脱ぎ散らかした妹の派手な服が転々と乱れている。当の妹はお気に入
りの音楽を消されて、ソファから起き上がり何か聞き取れない声で怒鳴りながら僕に掴み
かかってきた。

 妹の顔が僕のそばに寄ってくると強く酒の匂いがした。やっぱり飲んでいたのだ。



19:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/27(木) 23:53:07.09 ID:McEK2sxMo

「何で勝手に音楽消すのよ。あんたには関係ないでしょ」

 妹が僕を睨んだ。でもその声は呂律が回っていなかった。

「近所迷惑だろ。何時だと思ってるんだよ」

「うっさいなあ。あたしのそばに来ないでよ」

 妹は明らかに泥酔しているようだった。

「とにかくシャワー浴びて寝ちゃえよ。ガキの癖に酒なんか飲むからこんなことするんだ
ろうが」

 僕は本当にイラついていた。明日は早起きしてナオに告白しなければいけないのに。何
でこういう日にこいつはこんなトラブルを持ち込むのだろう。

「ガキって何よ、ガキって」

 妹はふらつきながら再び僕を睨んだ。

「とにかくシャワー浴びて寝ろ。今ならまだ母さんたちにばれないから」

 こういうことは前からたまにだけどあったけど、ここまで酷いのは初めてだった。僕は
妹との間にトラブルを起こすのが嫌だったから、こいつが飲酒していることはこれまで両
親には黙っていた。

 それでも今夜のこれは酷すぎる。ここまで来ると黙っている僕さえも同罪かもしれない。
僕は一瞬両親にこのことを話そうかと思ったけど、すぐにその考えは脳裏から失われた。

 今の僕はそれどころではない。中学生の妹の飲酒癖は早めに直した方がいいに決まって
いるけど、結局は妹の自己責任というか自業自得じゃないか。

 僕は明日早起きして駅までナオに会い、彼女の告白に返事をしなければならない。こん
な深夜に妹の面倒をみている場合ではないのだ。

「どいてよ」

 突然妹がそう言って僕の横をすり抜けリビングを出て行った。しばらくすると浴室の方
からシャワーの音がした。僕はほっとした。これで少しは妹も正気に戻るだろう。

 僕は妹が脱ぎ散らかしたコートとかハンドバッグとかを拾い集めた。もうこんな時間だ
から両親は泊まりで仕事をしているのかもしれないけど、万一遅い時間に帰宅したときに
こんなリビングの様子を見られるわけにはいかない。

 それは姑息な誤魔化しだったけど今の僕には他にいい手段は思いつかなかったのだ。

 ソファを片付けているとその片すみにバーボンの小さいボトルが転がっているのが見え
た。粋がっている中高生の飲酒なんてせいぜいビールとか缶入りの梅酒とかだろうと思っ
ていたのだけど、それはアルコール度数40の強い酒だった。仮にこんなものをどこかで
飲んでいたとしたら妹が家に酔っ払って帰ってきたとしても不思議はない。

 僕はため息をついてそのボトルに残っていた酒をキッチンのシンクに流して捨てた。

 リビングがだいたい片付いた頃、リビングのドアが開いて全裸の妹が戻ってきた。

 茶髪が濡れているところを見るとシャワーを浴びていたのは本当だったようだ。こいつ
はろくに髪も体も拭いていないのだろう、髪も体もびしょ濡れのままだ。

「お兄ちゃんの言うとおりにシャワー浴びたてきたよ」

 さっきまで激怒していた妹が嫣然と僕に微笑みかけた。

「どう?」

「どうって何が・・・・・・つうか服着ろよ」

 僕は妹の裸身から目を逸らした。何でこいつが突然僕にお兄ちゃんなんて話しかけるの
だろう。そもそも何でこいつは服を着ていないのだ。

「お兄ちゃん、ちゃんと見て。これでもあたしはガキなの?」

 先入観から僕は妹の肌とかは穢れていて汚いという印象を持っていた。彼氏がいたり夜
遊びするような妹が清純な少女のはずはない。



20:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/27(木) 23:54:21.75 ID:McEK2sxMo

 でも目を逸らさなきゃと思いながら思わず見入ってしまった妹の裸は綺麗だった。あれ
だけ遊んでいるビッチとは思えないほど。

 白い肌。思っていたより控え目な胸。細い手足。

「ねえ。これでもあたしってガキなの?」
 妹が僕の方に近づいてきた。「あたしを見てどう思った?」

 クスクスと笑う妹の声。

「あ、そうか。お兄ちゃんってキモオタだから見ただけじゃわかんないのか」

「おい、よせよ。僕たちは兄妹だろ」

「何言ってるのよ。本当の兄妹じゃないじゃん。それにそんなことは今関係ないじゃん」

 妹が裸の腕を僕の首に巻きつけようとした時だった。

「あれ、何か揺れてるよ。あれ」

 シャワーを浴びたことも効果がなかったようだった。妹は酔いが回って目を廻したのだ
ろう。

 妹が床に崩れ落ちる寸前に僕は妹の裸身に手を廻して辛うじて彼女を支えることができ
た。

 妹は僕に抱きかかえられたまま寝入ってしまった。酔いつぶれている人間を二階の部屋
のベッドに運び込むことがこんなに大変なことだと僕はその日初めて思い知らされた。

 手っ取り早くお姫様抱っこしようとしてもぐんにゃりとした妹の体はとても持ち上げる
ことはできなかった。結局僕は妹をの肩を抱きかかえて半ば無理に立たせた彼女を引き摺
るようにしながら、ようやく二階の彼女の部屋に運び込むことができた。

 もう下着とか服を着せるのは無理だった。僕は妹をベッドに投げ出してこいつの裸身に
毛布をかけてから自分の部屋に戻った。

 泣きたい気分だった。仲の悪い酔った妹から裸を見せつけられるような悪ふざけをされ
た。早寝するどころではないうえ、明日、というか今日の早朝には寝不足のまま、ナオに
会って告白の返事をしなければならないのだ。

 いや、そんなことを嘆いている場合ではない。とにかく寝過ごしてはいけない。僕は目
覚まし時計のアラームを確認すると携帯のアラームもセットした。明日だけは何としても
遅刻できない。

 僕は再びベッドに潜った。ようやく眠りについたとき、その短い眠りの中で夢を見た。
夢の中の少女はナオでもあり妹でもあった。そしどういうわけか夢の中の少女は清楚で恥
かしがりやで、でも積極的な女の子だった。

 夢の少女は全裸で僕に微笑んだ。

『一目惚れとか軽い女だと思われるかもしれないけど、お兄ちゃんのこと気になってるの、
と言うかはっきり言うとお兄ちゃんのことが好きです』

『ナオトさん、これでもあたしってガキなの?』

『ナオトさんあたしを見てどう思った?」

 クスクスと笑う妹の声。いやそれはナオの声だったのか。

「あ、そうか。ナオトさんってキモオタだから見ただけじゃわかんないんですね」

 俺に抱きつこうとするナオ、いやそれは妹なのだろうか。

 その時、時計と携帯のアラームが同時に鳴り出し僕は目を覚ました。嫌な汗が全身を濡
らしていた。



21:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/27(木) 23:55:41.59 ID:McEK2sxMo

 朝食を省略しシャワーだけ浴びて昨日の夢と汗を洗い流して、僕は早々に家を出た。

 妹の部屋を覗くと妹はぐっすりと寝入っているようだった。ただし、昨夜僕がかけた毛
布ははだけていて、ベッドの上の妹は一糸まとわぬ全裸のままだった。僕は妹から目を逸
らした。

 緊張したまま駅前の高架下に着くと、所在なげに立ちすくんでいるナオの小柄な姿が目
に入った。このまま黙って通り過ぎたいと思うほど、僕の胸は激しく動悸がし、胃は痛ん
だ。でもここでへたれるわけにはいかない。僕は渋沢の言葉を思い浮かべた。そうだ、既
にメールで僕は告白されているのだから、万に一つだってナオに断られることはないのだ。

「あ」

 ナオが僕に気がついて顔を赤くして頭を下げた。

「おはようナオちゃん」

「おはようございます。ナオトさん」

 彼女は恥かしそうに微笑んだ。でも体の前で震えている手が彼女の余裕を裏切っていた。

 こんなに美少女のナオちゃんだって告白の返事を聞くときは緊張するんだ。何だか僕は
新しい発見をしたよう気分になり、少し気が楽になった。同時に僕は妹との酷い夜のこと
を忘れていくのを感じた。

「遅くなってごめんね」

「いえ・・・・・・あたしが早く来すぎただけですから」

 しばらく僕たちの間に沈黙があった。でも今日だけはその沈黙を破るのは僕でなければ
いけない。

「メール見たよ。僕もナオちゃんのこと好きだよ。よかったら付き合ってもらえますか」

 僕の前に立っている華奢な少女の目に少しだけ涙が浮かんだようだった。僕は言うこと
を言ってじっと彼女の返事を待った。

「・・・・・・はい。嬉しいです」

 ナオは僕に抱きついてきたりしなかったけど、潤んだ目で僕を見つめてそっと自分の白
く華奢な手を伸ばして僕の手を握ってくれた。

 それから僕とナオは並んで駅の方に向かって歩き出した。歩き出してからもナオは僕の
手を離そうとしなかった。

 妹が昨日酔ってたせいで僕は辛い思いをしたのだけれど、結果的に考えるとそのおかげ
で大切な告白の時間を妹に邪魔されずに済んだのだ。あの酔い具合ではあいつは僕の後を
つけて僕の邪魔することなんかできないだろう。そう思いついたからか、無事にナオと付
き合えたせいか、僕は急にさっきまでのストレスから解放されて身も心も軽くなっていっ
た。

 こんな綺麗な子と手を繋いで歩いているのだ。普段の僕なら緊張のあまり震えていたと
しても不思議はなかったけど、さっきまであり得ないほどのストレスを感じていたせいか、
今の僕の心中は不思議と穏やかだった。

「僕の降りる駅までは一緒にいられるね」

 何でこんなに落ち着いて話せるのか、自分でも可笑しくなってしまうくらいだ。

「そうですね。三十分は一緒にいられますね」
 ナオが微笑んだ。もうその顔には涙の跡はなかった。「ナオトさんっていつもこの時間
に登校してるんですか」

「普段はもう少し遅いんだ。この間はちょっと事情があってさ」

「そうですか。じゃあ明日からは」

 彼女はそこで照れたように言葉を切った。考えるまでもなくこれは僕の方から言わなき
ゃいけないことだった。

「よかったら明日から一緒に通学しない? 時間はもっと遅くてもいいしナオちゃんに合
わせるけど」

 彼女は再びにっこり笑った。

「今あたしもそう言おうと思ってました。でもいきなり図々しいかなって考えちゃって」

「そんなことないよ。同じこと考えていてくれて嬉しい」



22:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/27(木) 23:56:21.04 ID:McEK2sxMo

 僕は僕らしくもなく口ごもったりもせず普通に彼女と会話ができていることに驚いてい
た。緊張から開放され身も心も軽くなったとはいえ、何度も聞き返されながらようやく告
白の意図が伝わった志村さんの時とはえらい違いだ。

 そこで僕は気がついたのだけど、きっとこれはナオの会話のリードが上手だからだ。赤
くなって照れているような彼女の言葉は、実はいつもタイミングよく区切りがついていて、
そのため、その後に続けて喋りやすいのだ。

 この時一瞬だけ僕はナオのことを不思議に思った。

 わずか数分だけそれもろくに口も聞かなかった僕のことを好きになってくれた綺麗な女
の子。まだ中学二年なのに上手に会話をリードしてくれるナオ。

 何で僕はこんな子と付き合えたのだろう。

 それでも手を繋いだままちょっと上目遣いに僕の方を見上げて微笑みかけてくれるナオ
を見ると、もうそんなことはどうでもよくなってしまった。渋沢も言っていたけど僕には
昔から考えすぎる癖がある。今はささいな疑問なんかどうだっていいじゃないか。付き合
い出した初日だし、今は甘い時間を楽しんだっていいはずだ。

 やがてホームに滑り込んできた電車に並んで乗り込んだ後も、ナオは僕の手を離そうと
しなかった。ナオは僕の手を握っていない方の手で吊り輪に掴まるのかと思ったけど、ナ
オはそうせずに空いている方の手を僕の腕に絡ませた。つまり揺れる電車の車内でナオを
支えるのが僕の役目になったのだ。

 そういう彼女の姿を見ると最初に彼女を見かけたときの儚げな美少女という印象は修正
せざるを得なかった。むしろ出会った翌日に僕に会いに来たりメールで告白したり、彼女
はどちらかというとむしろ積極的な女の子だったのだ。でもその発見は僕を困惑させたり
幻滅させたりはしなかった。

 むしろ逆だった。僕は積極的なナオの様子を好ましく感じていた。何となく大人しい印
象の女の子が自分の好みなのだと、今まで僕は考えていたけど、よく考えれば初めて告白
して振られた志村さんだって大人しいというよりはむしろ活発な女の子だった。

 まあそんなことは今はどうでもいい。僕の腕に初めてできた僕の彼女が抱きついていて
くれているのだから。

「ナオちゃんってさ」
 僕はもうあまり緊張もせず僕の腕に抱き付いている彼女に話しかけた。「そう言えば名
前って・・・・・・」

「あ、あたしもそれ今考えていました。ナオトさんとナオって一字違いですよね」

「ほんと偶然だよね」

「偶然ですか・・・・・・運命だったりして」

 そう言ってナオは照れたように笑った。

「運命って。あ、でもさ。ナオって漢字で書くとどうなるの?」

 そう言えば僕とナオはお互いの学校と学年を教えあっただけだった。これからはそうい
う疑問もお互いに答えあって少しづつ相手への理解を深めて行けるだろう。

「奈良の奈に糸偏に者って書いて奈緒です・・・・・・わかります?」

 え。偶然もここまで来ると出来すぎだった。

「わかる・・・・・・っていうか、僕の名前もその奈緒に最後に人って加えただけなんだけど。
奈緒人って書く」

 奈緒も驚いたようだった。

「奈緒人さん、運命って信じますか」

 彼女は真面目な顔になって僕の方を見た。



23:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/27(木) 23:57:15.24 ID:McEK2sxMo

 奈緒と一緒にいると三十分なんてあっという間に過ぎていってしまった。学校がある駅
に着いた時、僕は自分の腕に抱き付いている奈緒の手をどうしたらいいのかわからなくて
一瞬戸惑った。このまま乗り過ごしてしまってもいいか。そう思ったとき、そこで彼女は
僕の高校のことを思い出したようだった。

「あ、ごめんなさい。明徳ってこの駅でしたね」

 奈緒は慌てたように僕の腕と手から自分の両手を離した。彼女の手の感触が失われると
何だかすごく寂しい気がした。

「ここでお別れですね」

「うん・・・・・・明日は時間どうしようか」

「あたしは奈緒人さんに合わせますけど」

「じゃあ今日より三十分くらい遅い時間でいい?」

「はい。また明日あそこで待ってます」

 ここで降りるならもう乗り込んできている乗客をかき分けないと降車に間に合わないタ
イミングだった。

 僕は彼女に別れを告げて乗り込んできている人たちにすいませんと声をかけながら、何
とかのホームに降り立つことができた。



「何の話してるの?」

 昼休みの学食のテーブルで僕と渋沢が昼食を取っていると志村さんが渋沢の隣に腰掛け
た。

「おお、遅かったな。いやさ、奈緒人にもついに彼女ができたって話をさ」

「うそ!」
 志村さんは彼の話を遮って目を輝かせて叫んだ。「マジで? ねえマジ?」

「おう。マジだぞ。しかも富士峰の中学二年の子だってさ」

「え~。富士峰ってお嬢様学校じゃん。いったいどこで知り合ったの?」

 以前の僕なら一度は本気で惚れて告白しそして振られた女さんのその言葉に傷付いてい
たかもしれなかったけど、実際にこういう場面に出くわしてみると不思議なほど動揺を感
じなかった。

「通学途中で偶然出会って一目ぼれされた挙句、メアドを聞かれて次の日メールで告られ
たんだと」

 渋沢が少しからかうように彼女に説明した。

 確かに事実だけを並べるとそのとおりだけど、何だか薄っぺらい感じがする。でもそれ
が志村さんにどういう印象を与えたとしても、今の僕にはさほど気にならなかった。

「奈緒人君にもついに春が来たか。その子との付き合いに悩んだらお姉さんに相談しな
よ」

 志村さんが笑って言った。

「誰がお姉さんだよ」

 僕も気軽に返事をすることができた。

「奈緒人さあ。今度その子紹介しろよ。ダブルデートしようぜ」

 渋沢が言った。

「ああ、いいね。最近、明と二人で出かけるも飽きちゃったしね」

 志村さんも渋沢の提案に乗り気なようだった。

「おい。飽きたは言い過ぎじゃねえの」
 渋沢が言ったけどその口調は決して不快そうなものではなかった。「そうだよ。四人で
遊びに行こうぜ。昨日イケヤマと彼女が別れちゃってさ。それまでは結構四人で遊びに行
ったりしてたんだけどな」



24:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/27(木) 23:58:18.97 ID:McEK2sxMo

「イケヤマって君の中学時代の友だちだっけ?」

「おう。何か年下の中学生の子と付き合ってたんだけど、昨日いきなり振られたんだっ
て」

「イケヤマ君、あの子と別れちゃったの?」

 志村さんが驚いたように言った。

「昨日イケヤマからメールが来てさ。振られたって言ってた」

「ふ~ん。でもイケヤマ君の彼女って中学生の割には結構遊んでいるみたいなケバイ子だ
ったし、他に好きな子ができたのかもね」

「まあそうなんだけどさ。イケヤマって遊んでいるように見えて結構真面目だからさ。彼
女に突然振られて悩んでるみたいでな。ちょっと心配なんだ」

「イケヤマ君の彼女って明日香ちゃんって言ったっけ?」

「そうだよ。ていうか名前も覚えてねえのかよ。結城明日香だって・・・・・・ってあれ?」
 渋沢はそこで何か気づいたようで少し戸惑った表情を見せた。

「奈緒人の中二の妹ってアスカちゃんって名前だったよな?」

「え? 結城って奈緒人君の姓だよね? まさか・・・・・・」

「そのイケヤマってやつ、工業高校の生徒で髪が金髪だったりする?」

 僕は聞いてみたけどどうもこれは妹で間違いないようだった。でもどうしてあいつは突
然彼氏と別れたのだろう。

 兄友はイケヤマとかいう妹の彼氏のことを結構真面目な奴と言っていたけど、僕にはそ
うは見えなかった。むしろ先々を考えずに刹那的に遊び呆けているどうしようもない高校
生にしか見えなかった。きっと妹の飲酒だってそいつの影響に違いない。

「多分それ、うちの妹の明日香のことだ」

 僕は淡々と言った。

「何か・・・・・・悪かったな、奈緒人」

「奈緒人君ごめん。あたし妹さんのこと、結構遊んでいるみたいなケバイ子とか酷いこと
言っちゃった」

 志村さんは僕に謝ってくれたけど別に彼女は間違ったことは言っていない。

「いや。志村さんの言ってることは別に間違ってないよ」
 僕は彼女に微笑みかけた。「本当に妹の生活ってすごく乱れてるんだ。妹は僕の一番の
悩みの種だよ」

「でも・・・・・・」

 彼女さんは相変わらず申し分けそうな表情で俯いていた。

 放課後になって僕が部活に行く渋沢と別れて校門を出ようとした時、そこにたたずんで
いる志村さんに気がついた。

「誰かと待ち合わせ?」
 僕は彼女に話しかけた。「渋沢は部活だよね?」

「・・・・・・そうじゃないの。もう一度ちゃんと奈緒人君に謝っておこうと思って」

「あのさあ・・・・・・」

「うん」

「僕は全然気にしてないって。それにさっきだって言ったでしょ? 君の言ったことは本
当のことだよ」

 彼女は俯いていた顔を上げた。

「それでも。誰かに家族のことを変な風に言われたら嫌な気分になるでしょ? あたしだ
って自分の兄貴のことをあんなふうに馬鹿にした言い方されたら嫌だもん。だから・・・・・・
ごめんなさい。君の妹とは知らなかったけど、明日香ちゃんのこと酷い言い方しちゃって
てごめん」



25:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/27(木) 23:59:44.08 ID:McEK2sxMo

 明日香のことをビッチ呼ばわりされた僕だったけど正直に言うとあの時はそのことにつ
いてそんなに不快感を感じなかった。志村さんに言われるまでもなく、かなり控え目に言
っても、実際の妹はビッチというほかにないような女だと僕は思っていた。

 それでもあいつは僕の家族だった。志村さんが他人の家族のことを悪く言ったことを思
い悩む気持ちもよくわかった。渋沢たちはああいう風に言ったけど妹がビッチと呼ばれて
も仕方がないことは事実だった。僕だって妹のビッチな行動の直接的な被害者だったのだ。

 それでもやはり家族というのは特別なのかもしれない。それが全く血がつながっていな
い義理の妹であっても。

 今までだって誰かの口から妹の悪口を聞くと、僕はすごく落ち着かないいたたまれない
ような気分になったものだ。指摘されていることは普段から僕が思っていた感想と全く同
じものだったとしても。

「もういいって」
 それでも僕は志村さんに微笑んだ。「本当に気にしてないよ」

「ごめん」

「途中まで一緒に帰る?」

「いいの?」

「渋沢が嫉妬しないならね」

「それはないって」

 不器用な僕の冗談にようやく志村さんは笑ってくれた。

 「でも何で妹はそのイケヤマってやつと別れたのかなあ」
 ようやく僕はそっちの方が気になってきた。「遊び人同士うまく行ってそうなものだけ
ど」

 志村さんは少しためらった。でも結局僕にイケヤマと妹の印象を話してくれた。

「あたしも何度か四人でカラオケ行ったりゲーセンに行ったくらいなんだけど、さっき明
が言ってたのは嘘じゃないよ。イケヤマ君って見かけは酷いけど中身は結構常識的な男の
子だった」

 その真偽は僕にはわからないけど、一度外で妹と妹の彼氏を見かけたことがある僕とし
ては素直には信じられない話だった。

「それでね・・・・・・ああ、だめだ。また奈緒人君の妹さんの悪口になっちゃうかも」

 僕は笑った。

「だから気にしなくていいって」

「うん。明日香ちゃんって別にイケヤマ君じゃなくても誰でもいい感じだった。妹さんっ
て、別に本気で彼氏なんか欲しくないんじゃないかな」

「まあ、そういうこともあるかもね。背伸びしたい年頃っていうか、自分にだけ彼氏がい
ないのが嫌っていうことかもね」

「それとはちょっと違うかも。何て言うのかなあ、彼氏を作って遊びまくって何か嫌なこ
とから逃げてる感じ?」

「そうなの?」

 そうだとしたら妹はいったい何から逃げていたのだろう? 再婚家庭の中で唯一気に入
らない僕からか。

「まあ、あんまりマジに受け取らないで。実際に明日香さんと会ったのってそんなに多く
はないしそれほど親しくなったわけでもないから」

「うん」

「そんなことよりさ」
 ようやく元気を取り戻した彼女さんが突然からかうような笑みを浮べて言った。「富士
峰の彼女ってどんな子?」

「どんな子って」

「どういう感じの子かって聞いてるのよ? 大分年下だけどどういうところが好きになっ
たの?」

 僕が奈緒にマジぼれしていなければそれはトラウマ物のセリフじゃんか。僕は志村さん
に振られたことがあるのだし。でもこの時の僕は彼女さんのからかいには動じなかった。
多分それだけナオに惹かれていたからだったろう。



27:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/29(土) 00:27:52.79 ID:sji++a7Lo

 僕が志村さんと別れて帰宅し自分の部屋に戻る前にリビングのドアを開けると妹がソファ
に座ってテレビを見ていた。

 僕に気がついた妹は僕の方を見た。どうせ無視されるか嫌がらせの言葉をかけられるの
だろう。僕はそう思った。昨日のこいつの醜態に文句を言いたいけどそんなことをしたっ
て泥仕合になるだけだ。そのことを僕は長年のこいつとの付き合いで学んでいた。

「お兄ちゃん、お帰りなさい」

 妹が言った。

 え? 何だこの普通の兄妹の間のあいさつは。無視するか悪態をつくかが今までの妹の
デフォだったのに。

 その時僕は奇妙な違和感を感じた。そしてその違和感の原因はすぐにわかった。

 どうしたことか妹の濃い目の茶髪が黒髪に変わっているのだった。そして帰宅したばか
りなのか、まだいつものスウェットの上下に着替える前の妹の服装は、いつもの派手目な
ものではなかった。

 平日に制服ではなく私服を着ていること自体も問題だと思うけど、そのことを考えるよ
りも僕は今は妹が着ている服装から目が離せなかった。

 どういうことだ?

 薄いブルーのワンピースの上にピンクっぽいフェミニンなカーデガンを羽織っている。
僕は奈緒の制服姿しか見たことがなかったけどきっと清純な彼女ならこういう服装だろう
なって妄想していたそのままの姿で、妹がソファに座っていたのだ。

「どしたの? お兄ちゃん。あたしの格好そんなに変かな?」

 僕はやっと我に帰った。

「いや変って言うか、何でおまえがそんな格好してるんだよ?」

「そんな格好って何よ。失礼だなあお兄ちゃんは」

 妹は落ち着いてそう言ってソファから立ち上がるなりくるっと一回転して見せた。

「そんなに似合わない? お兄ちゃんにそんな目で見られちゃうとあたし傷ついちゃうな
あ」

「いや、似合ってる・・・・・・と思うけどさ。それよりその髪はどうした? 何で色が変わっ
てるんだよ」

「何でって、美容院で黒く染め直しただけだし」

 僕は妹をの姿を改めて真面目に見た。その姿は正直に言うと心を奪われそうなほど可愛
らしかった。外見が内面と一致しているようなら僕は自分の妹に恋をしていたかもしれな
い。でもそうじゃない。僕は昨日の妹の醜態を思い出した。こいつが珍しくワンピースを
着ていることなんかどうでもいいんだ。

 僕は昨日のこいつの酔った醜態のことで文句でも言おうと思ったのだけど、こいつだっ
て彼氏と別れたばかりだったことを思い出した。

 昨日や一昨日のこいつの嫌がらせのことは少し忘れよう。

「おまえさ、何かあったの?」

 妹は僕を見て笑った。そしてどういうわけかその笑いにはいつものような憎しみの混じ
った嘲笑は混じっていないようだった。何か両親に紹介されてお互いに初めて出会った頃
のような照れのような感情が浮かんできた。

「何にもないよ。お兄ちゃん、今日は何か変だよ」

 変なのはおまえだ。僕は心の中で妹に言った。それにしても妹の黒髪ワンピ、そしてお
兄ちゃん呼称の威力は凄まじかった。これまでが酷すぎたせいかもしれないけど。

 それからしばらく僕は呆然として清楚な美少女のような妹、明日香の姿を見つめ続けて
いた。

「お兄ちゃん?」

 明日香がそう言って僕の隣に寄り添った。



28:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/29(土) 00:29:13.76 ID:sji++a7Lo

「何だよ」

 僕は無愛想に言って、近寄ってくる妹から体を離そうとした。ただ僕の視線の方は突然
清楚な美少女に変身した妹の容姿に釘付けになっていた。

「お兄ちゃん・・・・・・何であたしから逃げるのよ」

「何でって・・・・・・。おまえこそ何でくっついて来るんだよ」

「ふふ」

 妹が笑みを浮べた。それは複雑な微笑みだった。僕にはその意味がまるで理解できなか
った。

「何でだと思う? お兄ちゃん」

 そう言って妹は僕の腕を引っ張った。いきなりだったために僕は抵抗できずに妹に引き
摺られるままソファに座り込んだ、妹が僕に密着するように隣に座った。

「いや、マジでわかんないから。僕は自分の部屋に行くからおまえももう僕から離れろ
よ」

「そんなに慌てなくてもいいでしょ。あたしが近くにいると意識してドキドキしちゃう
の?」

「そうじゃないって。つうかいつも僕に突っかかるくせに何で今日はそんなに僕にくっつくんだよ」

 その時妹の細い両腕が僕の首に巻きついた。

「何でだと思う? お兄ちゃん」

 再び妹がさっきと同じ言葉を口にした。

 僕は妹の体を自分から引き離そうとしたけど、妹は僕に抱きついたままだった。

「何でだと思う?」
 妹は繰り返した。「そう言えば、この間お兄ちゃんと一緒にいた子って中学生でしょ?
 何年生?」

 僕は明日香の突然の抱擁から逃れようともがいたけど彼女の腕は僕の首にしっかりと巻
きついていて簡単には解けそうになかった。

「二年だけど」

 仕方なく僕は妹に答えた。本当にいったい何なのだろう。

「お兄ちゃん・・・・・・本当にあの子と付き合ってるの? あの子何って名前?」

「・・・・・・おまえには関係ないだろ」

「いいから教えて。教えてくれるまでお兄ちゃんから離れないからね」

 ここまで来たら全て妹に明かすしかなさそうだ。妹を振り放すには今はそれしか手がな
かった。

「付き合ってるよ。つうか今日から付き合い出した」

「え? じゃあ相合傘してたのとか昨日待ち合わせしてたのは?」

「あの時はまだ付き合い出す前だよ」

「いったいいつ知り合ったのよ」

「だから傘に入れてあげた時からだけど」

「じゃあ知り合ったばっかじゃん。お兄ちゃんってヘタレだと思ってけどそんなに手が早
かったのか」

 それには答える必要はないと僕は思った。

「で、あの子の名前は?」

「鈴木奈緒」

「ふーん。で、そのナオって子のこと好きなの?」

「・・・・・・好きじゃなきゃ付き合うわけないだろ」



29:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/29(土) 00:30:43.20 ID:sji++a7Lo

 妹は僕に抱きついていた手を放して俯いた。僕はほっとして自分の部屋に戻ろうとした。
その時ふと覗き込んだ妹の目に涙が浮かんでいることに気がついた。

 僕は立ち上がりかけていたけど再びソファに腰を下ろした。

「泣いてるの? おまえ」

「・・・・・・泣いてない」

 僕は最初、明日香が僕に彼女ができて寂しくて泣いているんじゃないかと考えた。でも
そんなはずはなかった。長年、明日香は僕のことを嫌ってきた。しかも嫌って無視するだ
けでななく直接的な嫌がらせまでされてきたのだ。それほどに憎悪の対象である僕に彼女
ができたからといって寂しがったり嫉妬したりするはずはないのだ。

 その時、ようやく僕は思いついた。

 妹にとって彼氏と別れたのはかなりの衝撃だったのではないか。渋沢の話では妹の方か
らイケヤマとか言う彼氏を振ったということだったけど、妹にはそいつを振らざるを得な
いような事情があったのだろう。

 渋沢と志村さんはイケヤマのことを外見と違って真面目な奴だと考えているようだった
けど、一度見かけたそいつの様子からは真面目なんて言葉はそいつには似合わないとしか言いようがなかった。

 そうだ。妹はイケヤマの何らかの行為、それもおそらく粗野な態度に嫌気が差してそい
つのことを振ったのだろう。それでもそれは、心底そいつを嫌いになっての別れではなか
ったのかもしれない。

 だからこいつも今は辛いのだ。

「おまえ無理するなよ」

 今度は僕の方から妹の肩を抱き寄せた。こんな行為を妹にするのは生まれて初めてだっ
た。でも、どんなに仲の悪い兄妹だとしても妹が悩み傷付いているならそれを慰めるのが
兄貴の役割だろう。自分だけ部屋にこもって奈緒のことを思い浮かべて幸福感に浸ってい
るわけにもいかないのだ。

 突然僕に肩を抱き寄せられた妹は一瞬驚いたように凍りついた。それからどういうわけ
か妹の顔は真っ赤に染まった。僕は妹の肩を抱いたままで話を続けた。

「彼氏と昨日別れたんだろ? それで辛くて悩んでそして気分転換に髪を黒くしたり服を
変えたんだろ?」

 僕は話しながら妹の顔を覗き込んだ。その時は自分では親身になって妹の相談に乗って
いるいい兄貴のつもりになっていた。

「悩んでいるなら聞いてやるからふざけてないでちゃんと話せよ。おまえが僕のことを嫌
っているのは知ってるけど、こんな辛い時くらいは僕を頼ったっていいじゃないか」

 妹は僕の言葉を聞くと突然僕の手を振り払って自分の体を僕から引き剥がした。

 その時の妹はもはや照れたような紅潮した表情ではなかった。そしてその清楚な格好に
は似合わない怒ったような表情で言った。

「あんた、バカ?」

「え?」

「あんたが珍しくあたしを抱いてくれるから期待しちゃったのに、あんたが考えてたのは
そっちかよ」

 妹の話し方には今まで取り繕っていた仮面が剥がれて地が表れていた。僕はその時いつ
ものように罵詈雑言を浴びせられることを覚悟した。結局いつもと同じ夜になるのだろう
か。でも妹は気を取り直したようだった。喋り方もさっきまでの普通の妹のようなものに
戻っている。

「まあお兄ちゃんなんかに最初からあんまり期待していなかったからいいか」
 突然機嫌を直したように妹は笑顔になった。「まあそんな勘違いでも一応あたしのこと
を慰めようとしてくれたんだもんね。ありがとお兄ちゃん」

「いや。でも彼氏と別れたのが原因じゃないなら、いったい何で髪の色とかファッション
とか今までがらりと変えたんだよ」

「ナオって子を見てこの方がお兄ちゃんの好みだとわかったから」
 妹は、明日香は僕の方を見つめて真面目な顔で答えた。「明日からはもうギャルぽい格
好するのやめたの。お兄ちゃんのためにこれからはずっとこの路線で行くから」

 妹は照れもせずに平然とそう言い放った。

 僕のため? 僕は僕のことを大嫌いなはずの妹の顔を呆然として眺めた。



30:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/29(土) 00:32:12.52 ID:sji++a7Lo

 自分の部屋でベッドに入ってからも僕は妹の言葉が気になって眠ることができなかった。
付き合い出した初日だし奈緒のこと以外は頭に浮かばないのが普通だろうけれども。

 でもこの瞬間にベッドの中で僕の脳裏に思い浮ぶのは妹だった。

 明日香は僕と奈緒が一緒にいるところを目撃し、奈緒が僕の好きな人だということを知
った。そして彼氏と別れた。その後美容院に行って髪を黒く染め服装も大人し目で清楚っ
ぽい服に着替えた。思い出してみれば妹の爪もいつもの原色とかラメとかの派手なマニュ
キアではなく、普通に何も手を加えられていないほんのりとした桜色のままだった。

 その全ては僕の好みに合わせたのだと妹は言った。いったいそれは何を意味しているの
か。本当は妹は昔から僕のことを好きだったのだろうか。妹の言動からはさすがにそれ以
外の回答は導き出すことはできなかった。少なくとも妹の変化に対して唯一僕が思いつい
た理由、つまり妹が彼氏と別れたから妹はイメチェンをしたのだということは、妹に一瞬
で否定されてしまった。

 あと今さらながら気になるのは何で妹が彼氏を振ったのかということだった。もちろん
彼氏のどこかが許せなくて別れたということなのだろうけど。

 それにしても妹が僕のことを好きなのかもしれないという前提でそれを考えると、僕が
奈緒に出会ったことを知ってすぐに彼氏を振った妹の行動には、僕のことが気になるから
ということ以外の理由は考えづらかった。

 僕と奈緒のことを気にして自分もフリーになったということか。

 そうなるともうこいつが僕のことを好きななのではないかということ以外に僕には思い
つくことはなかった。

 もう今日は考えるのをやめて寝よう。そう思って携帯のアラームをセットするために携
帯を手に取った僕はメールの着信があることに気づいた。僕はメールを開いた。それは奈
緒からのメールだった。


from :ナオ
sub  :無題
本文『こんばんは。用事なんて何もないんですけど奈緒人さんのことを思い出していると
全然眠れないからメールしちゃいました。まだ夜の七時だからいいですよね』

『今日初めて奈緒人さんと一緒に登校できて嬉しかったです。』

『何かあっという間にお別れの時間が来ちゃった感じでしたよね。本当はもっともっと奈
緒人さんに抱きついて一緒にいたかったです(汗)』

『あたし男の人と付き合うのはこれが初めてだからよくわからないんですけど、こういう
いつまでも一緒にいたいっていう気持ちは付き合ってれば普通に感じるものなんでしょう
か』

『それともあたしにとって奈緒人さんが特別な人なのかなあ。名前が似ているのもそうだ
し、出会い方だってロマンティックでしたよね?』

『明日また奈緒人さんに会うのを楽しみにしています。じゃあそろそろ寝ないと万一遅刻
したら嫌だし』

『おやすみなさい奈緒人さん。大好きです』

『奈緒』



 このメールは大分前に来ていたものだった。多分僕と妹がリビングで話をしていた頃に。
今からでは返信するには時間が遅すぎる。返事がなかったことに奈緒を失望させてしまっ
たかもしれないと思うといてもたってもいられなかったけど、もう後の祭りだった。

 明日の朝、奈緒に会ったら忘れずにフォローしよう。僕はそう考えた。そしてナオの
メールのおかげで妹のことを忘れることができた僕はそのまま携帯を握り締めながら眠り
についたのだった。



31:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/29(土) 00:35:17.99 ID:sji++a7Lo

 翌朝、登校の支度を済ませて僕が階下に下りていくと、珍しく父さんと母さん、それに
妹まで既にキッチンのテーブルについて朝食を取っていた。

 昨日僕が眠ってしまった後の遅い時間に両親は帰宅したのだろう。この様子だとあまり
眠れなかったではないかと僕は両親を見て思った。

「おはよう奈緒人」
「おはよう奈緒人君、何か久しぶりね」

 両親が同時に僕に微笑んで挨拶してくれた。久しぶりに両親に会って笑って声をかけて
くれるのは嬉しいのだけど、こういう時いつも僕は妹の反応が気になった。

 父さんはともかく母さんは常に僕に優しかった。母さんが自分の本当の母親ではないと
知らされたとき、僕は母さんが途中で自分の息子になった僕に気を遣って優しく振る舞っ
ているのだろうとひねくれたことを考えたこともあった。

 でもそういう偽りならどこかでぼろが出ていただろう。それに気に入らない義理の息子
に気を遣っているにしては母さんの笑顔はあまりに自然だった。

 それでいつの間にか僕はそういうひねくれた感情を捨てて、素直に母さんと笑顔で話が
できるようになったのだった。今の僕は父さんと同じくらい母さんのことを信頼している。

 ただ唯一の問題は妹の明日香だった。無理もないけど、明日香は昔から自分の母親を僕
に取られたように感じていたらしい。僕が母さんが義理の母親だと知ってからも母さんを
信頼し、むしろ前よりも母さんと仲良くなってから、明日香は僕のことをひどく嫌って、
反抗的になった。

 挙句に服装が派手になり髪を染めるようになり遊び歩くようになったのだった。僕とは
違う自分を演出するつもりだったのだろうけど、もちろん母さんと明日香の関係において
もそれは良い影響なんて何も及ぼさなかった。

 やがて母さんは明日香の生活態度をきつく注意するようになった。母さんに「何でお兄
ちゃんはちゃんと出来てるのにあんたはできないの」と言われた後の妹の切れっぷりは凄
まじかった。その時明日香はやり場のない怒りを全て僕に向けたのだった。

 こういう両親と過ごす朝のひと時は、妹さえいなければ僕の大切な時間だったのだけど、
両親の僕に向けた柔らかな態度に明日香はまた一悶着起こすのだろうと僕は覚悟してテ
ーブルについた。

「おはよう」

 僕は誰にともなく言った。妹がそう思うなら自分に向けられた挨拶だと思ってくれても
よかった。

「おはよお兄ちゃん」
 明日香が柔らかい声で言った。「今日は早く出かけなくていいの?」

 え? 一瞬僕は自分の耳を疑った。朝こいつから普通に挨拶されたのは初めてかもしれ
ない。僕は一瞬言葉に詰まった。それでも僕はようやく平静に妹に返事をすることができ
た。

「う、うん。別に早く出かける用事はないし」

「ないって・・・・・・待ち合わせはいいの?」

 そういえば妹は僕と奈緒が待ち合わせの時間を変更したことを知らないのだった。きっ
といつもと同じ時間に待ち合わせするものだと思っているのだろう。でも何で明日香が僕
とポ奈緒の待ち合わせの時間を心配するのか。

 一瞬、僕の脳裏に昨日の妹の言葉が思い浮んだ。

「明日からはもうギャルっぽい格好するのやめたの。お兄ちゃんのためにこれからはずっ
とこの路線で行くから」

 その言葉を思い浮かべながら改めて妹を眺めると、昨日の今日だから髪がまだ黒いのは
当然として、中学校の制服まで心なしか大人しく着こなしているように見えた。とりあえ
ずスカート丈はいつもより大分長い。

「別に・・・・・・それよりおまえ、その格好」

「昨日言ったでしょ? お兄ちゃんがこっちの方がいいみたいだからこれからは大人しい
格好するって」

 明日香は両親の前で堂々と言い放った。

 僕が妹に返事をするより先に母さんが妹に嬉しそうに話しかけた。

「あら。明日香、今朝はずいぶんお兄ちゃんと仲良しなのね」



32:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/29(土) 00:36:55.79 ID:sji++a7Lo

「そうかな」

「そうよ。いつもは喧嘩ばかりしてるのに。それに明日香、今日のあなたすごく可愛いよ。
いつもより全然いい」

「そう?」
 妹は少し顔を赤くした。「お兄ちゃんはどう思う?」

 突然僕は妹に話を振られた。とりあえず僕は口に入っていたトーストをコーヒーで流し
込みながら思った。妹が僕のことを好きなのかどうかはともかく、妹のこの変化は良いこ
とだ。

「うん、似合ってる。と言うか前の格好はおまえに全然似合ってなかった」

 言ってしまってから気がついたけどこれは明らかに失言だった。似合っているで止めて
おけばよかったのだ。何も前のこいつのファッションまで貶すことはなかった。僕は今度
こそ妹の怒りを覚悟した。

 妹は赤くなって俯いて「ありがとう、お兄ちゃん」と言っただけだった。

「本当に仲良しになったのね。あなたたち」

 母さんが僕たちを見て再び微笑んだ。



「おはようございます。奈緒人さん」

 奈緒はいつもの場所で僕を待っていてくれた。今日は彼女より早く来たつもりだったの
だけど結局奈緒に先を越されてしまった。

「おはよう、奈緒ちゃん。待った?」

「いえ。あたしが早く来すぎちゃっただけですよ。まだ約束の時間の前ですし」

 奈緒が笑った。やっぱり綺麗だな。僕は彼女の顔に見入ってしまった。

「どうしました?」

 不思議そうに僕の方を見上げる奈緒の表情を見ると胸が締め付けられるような感覚に捕
らわれた。いったいどんな奇跡が起こって彼女は僕のことなんかを好きになったのだろう。

「何でもないよ。じゃあ行こうか」

「はい」
 奈緒は自然に僕の手を取った。「行きましょう。昨日と違ってゆっくりできる時間じゃ
ないですよね」

「そうだね」

 僕たちは電車の中で初めて付き合い出した恋人同士がするであろうことを忠実に行った。
つまり付き合い出した今でもお互いのことはほとんどわかっていなかったのでまずそのギ
ャップを埋めることにしたのだ。奈緒の腕は今日も僕の腕に絡み付いていた。

 とりあえず奈緒についてわかったことは、彼女が富士峰女学院の中学二年生であること、
一人っ子で両親と三人で暮らしていること、同じクラスに親友がいて下校は彼女と一緒な
こと、ピアノを習っていて将来は音大に進みたいと思っていること。

 何より僕が驚いたのは彼女の家の場所だった。これまでいつも自宅最寄り駅の前で待ち
合わせをしていたし、最初の出会いもそこだったから僕は今まで奈緒は僕と同じ駅を利用
しているのだと思い込んでいたのだ。でも奈緒の自宅は僕の最寄り駅から三駅ほど学校と
反対の方にある駅だった。

「え? じゃあなんでいつもあそこで待ち合わせしてたの?」

「何となく・・・・・・最初にあったのもあそこでしたし」

「じゃあさ。昨日とか相当早く家を出たでしょ?」

「はい。ママに不審がられて問い詰められました」

 奈緒はいたずらっぽく笑った。

「最初に出会った日にもあそこにいたじゃん?」

「あれは課外活動の日で親友とあそこで待ち合わせしたんです。彼女は奈緒人さんと同じ
駅だから」

 ちゃんと確認すればよかった。僕は彼女にわざわざ自分の最寄り駅で途中下車させてい
たのだ。



33:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/29(土) 00:37:56.13 ID:sji++a7Lo

「ごめん。無理させちゃって」

「無理じゃないです。あたしがそうしたかったからそうしただけですし」

「あのさ」
 僕はいい考えを思いついた。「明日からは電車の中で待ち合わせしない?」

「え?」

「ここを出る時間の電車を決めておいてさ。その一番後ろの車両の・・・・・・そうだな。真ん
中のドアのところにいてくれれば僕もそこに乗るから」

「はい。奈緒人さんがそれでよければ」

 彼女の家の場所を聞いてみてよかった。これで余計な負担を彼女にかけずに済む。

 僕自身のこともあらかた彼女に説明し終っても、学校の最寄り駅まではまだ少し時間が
あった。僕はさっきから聞きたくて仕方がないけど聞けなかったことが気になってしよう
がなかった。でもそんなことを聞くと自分に自信のない女々しい男だと奈緒に思われてし
まうかもしれない。

 奈緒は楽しそうに自分の通っているピアノのレッスン教室の出来事を話していたけど、
気になって悶々としていた僕はあまり身を入れて聞いてあげることができなかった。そし
てその様子は奈緒にもばれてしまったようだ。

「あの・・・・・・。奈緒人さん、どうかしましたか?」

 奈緒は話を中断して僕の方を見た。

「いや」

 駄目だ。やっぱり気になる。僕は思い切って彼女に聞いた。

「奈緒ちゃんってさ」

「はい」

 話を途中で中断された彼女は不思議そうな顔で僕の方を見た。

「あの、つまりすごい可愛いと思うんだけど、やっぱり今まで彼氏とかいたんだよね?」

 奈緒は戸惑ったように僕を見たけど、すぐに笑い出した。

「あたし可愛くなんてないし。それにずっと女子校だから男の人とお付き合いするのって
これが初めてです」

「そうなんだ・・・・・・」

「ひょっとして奈緒人さん、あたしが男の人と付き合ったことあるか気にしてたんです
か?」

「違うよ・・・・・・・いやそれはちょっとは気になってたかもしれないけど」

 僕は混乱して自分でも何を言ってるのかわからなかった。でも奈緒のその言葉だけはき
ちんと胸の奥に届き、僕はその言葉を何度も繰り返して頭の中で再生した。

「男の人とお付き合いするのってこれが初めてです」

「奈緒人さん。顔がにやにやしてますよ」

 奈緒が笑って言った。

「そうかな」

「そんなにあたしに彼氏がいなかったことが嬉しかったんですか」

「僕は別に・・・・・・」

 不意に奈緒がこれまでよりもう少し僕に密着するように腕に抱き付いている自分の手に
力を入れた。

「でも気にしてくれてるなら嬉しい。奈緒人さんは今まで彼女とかいたんですか? 中学
も高校も共学ですよね?」

「いないよ。僕も奈緒ちゃんが初めての彼女だよ」

 それが奈緒にどんな印象を与えたのかはわからなかった。自分が初めての彼女で嬉しい
と思ってくれるのか、もてない男だと思って失望されるのか。でも何となくこの子には正
直でいたいと思っている僕がそこにいた。そしてそれは決して嫌な感覚ではなかった。



34:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/29(土) 00:39:58.57 ID:sji++a7Lo

「嬉しい」
 奈緒は言った。「お互いに初めて好きになった相手でしかも名前も似てるんですよ」

「うん」

「本当に運命の人っているのかも」

 僕と奈緒は改めて見つめ合った。

「お、奈緒人じゃん」

 僕たちはその時大きな声で僕に話しかけてきた渋沢に邪魔された。

「あ、奈緒人君だ。って富士峰の制服の子だ」
 これは志村さんだった。「奈緒人君の彼女って人でしょ? もう一緒に登校してるん
だ」

「おはよう」

 僕はしぶしぶ二人にあいさつした。

 僕は二人に奈緒を紹介した。二人のところを邪魔されたわけだけど、奈緒は僕の友人た
ちに僕の彼女として紹介されることが嬉しかったのか、高校の最寄り駅で別れるまでずっ
と機嫌が良かった。正直に言うと僕の方はもっと奈緒と二人きりで話をしていたかったの
だけど。

「じゃあ、奈緒人さん。また明日ね」
 奈緒が控え目な声で言った。「明日は電車の中で待ち合わせだから忘れないでください
ね」

「うん、大丈夫だよ」

「渋沢さん、志村さん。これで失礼します」

「またね~」

「気をつけてね」

 僕は渋沢と志村さんのせいで何か消化不良のような気分になりながら奈緒に別れを告げ、
邪魔をしてきた二人と連れ立って電車から降りた。

「奈緒ちゃんってさ」
 志村さんが校門に向って連れ立って歩いている時に言った。「どっかで見たような気が
するんだよね」

「前からいつもあの電車みたいだから登校中に見かけたんじゃない?」

 僕は言った。

「いや、そういうのじゃなくて。何だっけなあ。ここまで出かかってるんだけど」

 彼女は首をかしげて考え込んだ。こうなると僕も志村さんがどこで奈緒を見かけたのか
気になってきた。

「おまえの記憶力は怪しいからな」
 渋沢がそこで茶々を入れた。「奈緒人もあまりマジになって受け止めない方がいいぞ」

「本当だって・・・・・・でも、ああだめだ。思い出せない」

「しかし綺麗な子だったなあ。しかも富士峰の生徒だし、深窓の美少女って言うのは奈緒
ちゃんみたいな子のことを言うのかな」

 渋沢が感心したように言った。

「本当にそうね」

 志村さんも同意した。

「本当にそうだよなあ」

 思わず僕もそれに同意してしまった。自分の彼女なのだからひょっとしたらもっと謙遜
しなきゃいけなかったかもしれないのだけど。

「おまえが言うな」
 案の上渋沢に突っ込まれた。「彼女の自慢かよ」

「そうじゃないよ。でも自分でも何で彼女みないな子と付き合えることになったのか自分
でもいまいち理解できてなくて」



36:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/29(土) 00:41:48.35 ID:sji++a7Lo

「そういうことか」
 渋沢が笑った。「まあ、あんまり考えすぎなくてもいいんじゃね? さっきの奈緒ちゃ
んを見ていてもおまえのことを好きなのは間違いないみたいだし」

「そうかな」

「そうだよ。奈緒人君はもっと自分に自信を持った方がいい」

 志村さんも言った。

 渋沢と志村さんの言葉は嬉しかった。やはり奈緒は本当に僕のことが好きになってくれ
たのだ。何でああいう子が僕なんかをという疑問は残るけど、今は奈緒が僕のことを本気
で好きになったということだけで十分だと思うべきなのだろう。

「よかったね、奈緒人君。君ならきっとああいう、感じのいい女の子に好かれるんじゃな
いかと思ってた」

 志村さんが言った。

「何だよ。奈緒人にだけそういうこと言っちゃうわけ? 俺は?」

「・・・・・・あんたにはあたしがいるでしょ? 何か不満でも?」

「ないけどさ」

 かつて志村さんに告白して振られた僕としては複雑な気持ちだった。彼女が今の言葉を
真面目に言っているのだとしたら、あの時僕が振られた理由は何なのだろう。そのことが
ちょっとだけ気になったけど、もうそれは今では過去の話だった。それに志村さんは彼氏
である渋沢には、僕から告られたことを黙っていてくれている。その彼女の気持ちを蒸し
返す余地はなかった。

 僕には今では奈緒がいる。そう考えただけでも僕は心が軽くなった。明日は奈緒と会っ
てから車両の位置を変えようか。そうすれば通学中に渋沢たちと出くわさないで済む。

 決して渋沢たちと四人で過ごすが嫌だったわけではない。でも僕たちはまだ出合って恋
人同士になったばかりだった。四人で楽しく過ごすより今は二人きりで話をしたい。

 奈緒は気を遣ったのか本心からかわからないけど、渋沢たちと一緒にいることを楽しん
でくれたようだった。でも彼女だって最初は二人きりがいいに違いない。僕たちはまだお
互いのことを知り始めたばかりだったのだ。



 授業が終り部活に行く渋沢と別れて下校しようとした時、志村さんが僕に話しかけてき
た。

「奈緒人君もう帰るの?」

「ああ。帰宅部だしね。君は渋沢が部活終るの待つの?」

「まさか。何であたしがそこまでしなきゃいけないのよ」

「・・・・・・何でって言われても」

「奈緒人君、帰りも彼女と一緒なの?」

「帰りは別々だよ。前から親友と一緒に帰ってるんだって。あとピアノのレッスンとかあ
るみたいだし」

「ああ、やっぱりそうか」

「え?」

「一緒に帰らない? あ、言っとくけど明はあんたとあたしが一緒に帰ったって嫉妬なん
かしないからね」

「まあいいけど」

 それで僕たちは並んで校門を出て駅の方に向かって坂を下って行った。



37:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/29(土) 00:42:59.88 ID:sji++a7Lo

「あたしさ。思い出したのよ」

 電車に乗るといきなり志村さんが言った。

「思い出したって何を?」

「ほら、今朝話したじゃん。奈緒ちゃんってどっかで見たことあるってさ」

 それは僕にも気になっていた話題だった。思ったより早く志村さんは記憶を取り戻して
くれたようだった。

「はい、これ」

 彼女から渡されたのはどっかのWEBのページをプリントした数枚のA4の紙だった。

「何これ」

「さっきIT教室のパソコンからプリントしたんだよ。奈緒ちゃんってさ名前、鈴木奈緒
でいいんでしょ?」

 奈緒の苗字や名前の漢字まで志村さんは知らないはずだったのに。

「・・・・・・そうだけど」

「じゃあ、もう間違いないや」

 彼女は僕の手からプリントを取り返してそのページを上にして僕に渡した。

「ここ見て」



『東京都ジュニアクラッシク音楽コンクールピアノ部門中学生の部 受賞者発表』

『第一位 富士峰女学院中等部2年 鈴木奈緒』

『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』

『表彰状、トロフィー、記念品、賞金30,000円の贈呈』



 プリントに印刷されているのはそれだけだったけど奈緒の名前の横に小さく顔写真が掲
載されていた。荒い画像だったけどその制服と何よりもその顔は奈緒のものだった。

「これさ、あたし生で見てたんだよね」
 志村さんが言った。「従姉妹のお姉ちゃんがこの大学生部門に出場したんで応援しに行
ったの」

「その時にさ、あたしピアノの演奏の善し悪しとかわからないんだけど、何か中学生の部
に出てた子がやたら可愛かった記憶があってさ。それで奈緒ちゃんのこと覚えてたみた
い」

 思い出せてすっきりした。そう言って志村さんは笑った。



 僕は駅から自宅に歩きながら再び気持ちが落ち込んでいくのを感じた。

 奈緒が僕のことを好きなことは今となっては疑いようがない。だからなんで奈緒のよう
な子が僕のことなんか好きになったのだろうとうじうじと考えることは止めにしようと思
っていた。でもピアノコンクールで一位とかっていう話を聞くとまた別な不安が沸いてき
たのだ。

 今現在奈緒は付き合い出したばかりの僕のことが好きかもしれない。でもあれだけ容姿
に恵まれていて、それだけではなくピアノの方もコンクールで受賞するレベルとなると、
この先も彼女が僕のことを好きでいてくれる保証は何もない。ここまでくると世界が違う
というほかはない。奈緒からピアノのレッスンの話とか音大志望のことは聞いてはいたけ
ど、ここまで本格的に取り組んでいるとは考えもしていなかった。

 単なるお嬢様学校に通う生徒の嗜みくらいならともかく、入賞レベルだとすると中高は
彼氏どころじゃないのが普通じゃないのか。僕はこの世界のことはよく知らないけど、こ
こまで来るには相当厳しいレッスンに耐えてきたはずだった。

 それにその世界にだっていい男なんていっぱいいるかもしれない。僕ではピアノの話に
は付き合えないけど、彼女と同じくこの世界を目指している男にだって奈緒の容姿は好ま
しく映るだろう。そういう奴らと比較された時に奈緒は僕を選んでくれるのだろうか。

 どう考えても将来は不安だらけだった。



40:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:44:22.11 ID:jzMh8z1oo

 帰宅して自分の部屋に上がる前にリビングを覗くと、僕に気がついた妹がソファから立
ち上がった。

「おかえりなさい」

 妹は相変わらずいい妹路線を続けているようだった。髪が黒いままなのは当然として化
粧もしていないし異様に長かったまつげも普通になり爪も自然な桜色のままだ。

 こいつが昔からこうだったらあるいは僕は明日香に惚れていたかもしれない。一瞬そん
などうしようもないことを考え出すほど、前と違ってこいつの顔は少し幼い感じでその印
象は可愛らしい少女のそれだった。

「ただいま」

「今日もお父さんたち帰り遅いって」

「そう」

「お風呂沸いてるよ」

 僕は少し驚いた。風呂の水を入れ替えてスイッチを入れるのはいつも僕だった。妹は僕
の沸かした風呂に入るか、シャワーだけかいつもはそんな感じだったのだ。

「先に入っていいよ。ご飯用意できてるから」

 え? こいつが夕食を用意するなんて初めてのことじゃないのか。妹は僕の好みに合わ
せて服装を変えるとは言ったけど生活習慣全般を見直すとは思わなかった。

「先に入っていいのか」

「何で聞き返すのよ。変なお兄ちゃん」

 妹は笑って言った。

 僕が風呂から上がってリビングに戻ると妹は相変わらずソファに座って何かを読みふけ
っていた。

「おい・・・・・・勝手に読むなよ」

 それは風呂に入る前にうっかりカバンと一緒にリビングに放置してしまった奈緒のコン
クールのプリントだった。

「ああ、ごめんお兄ちゃん。片付けようとしたらお兄ちゃんの彼女が載ってたからつい」

 僕は一瞬苛々したけどこれは放置しておいた僕の方が悪い。それに奈緒と付き合ってい
ることは妹にはばれているのだし、今さらコンクールのことなんか知られても別に不都合
はないだろう。

「コンクールで優勝とかお兄ちゃんの彼女ってすごいんだね」
 妹が無邪気に言った。「そんな子をいきなり彼女にできちゃうなんてお兄ちゃんのこと
をなめすぎてたか」

 妹は笑った。嫉妬とか嫌がらせとかの感情抜きで妹が奈緒のことを話してくれるように
なったことはありがたい。でも奈緒のことをすごいんだねと無邪気に言われると、改めて
自分の奈緒の恋人としての位置の危うさを指摘されているようで、少し気分が落ち込んだ。

「ほら、これ返すよ。ご飯食べる?」

 驚いた僕の様子に、帰宅して初めて妹は少し気を悪くしたようだった。

「さっきから何なの? 妹がお兄ちゃんにお風呂沸かしたり食事を用意するのがそんなに
不思議なの?」

「うん。不思議だ。だっておまえこれまでそんなこと全然しなかったじゃん。むしろ僕の
方が家事の手伝いはしてただろ」

 僕は思わず本音を言ってしまった。

「ふふ。これからは違うから」

 でも妹は怒り出しもせず微笑んだだけだった。

 テーブルについて妹が用意してくれた簡単な夕食を二人きりで食べた。何か不思議な感
覚だったけど別にそれは不快な感じではなかった。

「そういえばさ」

 機嫌は悪くなさそうだったけど妹がずっと沈黙していることに気まずくなった僕は気に
なっていたことを尋ねた。



41:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:45:03.87 ID:jzMh8z1oo

「何」

「おまえさ、僕の友だちと知り合いだったんだってな」

「え? お兄ちゃんの友だちって?」

「渋沢と志村さんっていうカップル。おまえの彼氏だったイケヤマとかというやつとおま
えと四人で遊んだことがあるっていってた」

「渋沢さんが? お兄ちゃんの知り合いとかって言ってなかったけど」

「知らなかったみたい。この前偶然おまえの名前で気づいたみたいだな」

「ふ~ん」

 妹は関心がなさそうだった。

「お兄ちゃんが二人から何を聞いたのか知らないけど、それ全部過去のあたしだから」

「はい?」

「あたしはもう彼氏とも別れたし遊ぶのも止めたの・・・・・・それは今さらピアノを習うわけ
には行かないけど」

「おまえ、何言ってるの」

 妹は立ち上がって僕の隣に腰掛けた。

「いい加減に気づけよ。あたしはあんたのことが、お兄ちゃんのことが好きだってアピー
ルしてるんじゃん」

 僕が避けるより早く妹は僕に抱きついてキスした。



 次の日は週末で学校は休みだった。このまま両親不在の自宅で妹と過ごすのは気まずい
と思った僕は、まだ妹が起きる前に朝早くから外出することにした。

 別に目的はなかったのでどこかで時間を潰せればよかった。そう思って駅前まで行って
はみたものの十時前ではろくに店も開いていなかった。

 とりあえず電車に乗ろうと僕は思った。休日の電車なら空いているし確実に座れるだろ
う。図書館とか店とかが開くまで車内で座って居眠りでもしていよう。よく考えれば最近
はあまり睡眠が取れていなくて寝不足気味だった。僕はとりあえず学校と反対方向に向う
電車に乗り込んだ。どうせならいつもと違う景色の方がいい。

 昨日の妹のキスは今までの悪ふざけとは少し違った感じだった。僕はすぐに妹を押し放
して「もう寝るから」と言い放って自分の部屋に退散したのだけれど、僕に突き放された
ときの妹の傷付いたような目が気になっていた。

 でもやはりそれは正しい行動だった。今では僕には彼女がいるのだから。

 それに、たとえナオと付き合っていなくたって妹と付き合うなんて考えられなかった。
いくら血が繋がっていないとはいえ家族なのだ。妹と恋人同士になったなんて両親や渋沢
たちに言えるわけがない。そう考えると昨日の明日香のキスはとてもまずい。というか明
日香は違うかもしれないけど僕にとってはそれは初めてのキスだった。

 もう考えることに疲れた僕は席について目をつぶった。すぐに眠気がおそって来てきた。
電車の心地よい振動と車内の暖房に誘われて僕は眠りについた。



「・・・・・・さん」

 心地よい声が耳をくすぐった。

「奈緒人さん」

 え? 僕は目を覚ました。さっきまで誰もいなかった隣に座っている女の子がいる。そ
れは私服姿の奈緒だった。その時ようやく意識が覚醒した僕は密着して話しかけている奈
緒の顔の近さに狼狽した。

「奈緒人さん休みの日にどこに行くんですか」

 奈緒はそんな僕を見てくすくすと笑った。

「確かに偶然だけどそんなに驚かなくてもいいじゃないですか」



42:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:45:42.15 ID:jzMh8z1oo

 突然現われた奈緒の姿に驚いて固まっている僕に彼女は親しげな口調で言った。

「・・・・・・いつからいたの?」

「一つ前の駅から乗ったら奈緒人さんが目の前で寝てるんですもん。びっくりしちゃっ
た」

 奈緒は笑った。

「奈緒ちゃんはどこかに行くところ?」

 ようやく頭がはっきりした僕は相変わらず密着している奈緒に聞いた。

「ピアノのレッスンなんです」

 奈緒は言った。

「こんなに早くから?」

 僕は驚いた。僕にとっては土曜日の朝なんて十時ごろまで寝坊するのが普通だっただけ
に。

「毎週土曜日の午前中はお昼までレッスンなんです」

「大変なんだね」

 僕はそう言ったけど同時にコンクールの入賞のことを思い出して、それなら無理はない
なと思った。

「好きでやっていることですから」

 奈緒はあっさりと答えた。

「それよりも偶然ですよね。奈緒人さんはどこにお出かけなんですか。学校とは逆方向で
すよね」

 僕にぴったりと寄り添うように座っている奈緒と会話を始めると、さっきまで悩んでい
た明日香とのことも忘れられるようだった。

 でも、妹と一緒に家にいたくないから目的もなく外出しているとは言えない。

「いや、特に何でって訳じゃないよ。本とか探したくてぶらぶらと」

「本屋なら奈緒人さんの最寄り駅に大きなお店があるのに」

「たまにはあまり降りたことのない駅に降りてみたくてさ」

 苦しい言い訳だったけどどういうわけかその言葉は奈緒の共感を呼んだようだった。

「ああ、何となくわかります。あたしもたまにそういう気分になるときがありますよ」

「そうなの」

「奈緒人さんと初めて会った時ね、あの駅で初めて降りたんですよ。駅前の景色とかも新
鮮で何かいいことが起こりそうでドキドキしてました・・・・・・そしたら本当にいいことが起
こったんですけどね」

 奈緒は少しだけ顔を赤くして笑った。

「でも週末は奈緒人さんと会えないと思ってたから今日は得しちゃったな」

 それは僕も同じだった。妹のことで胃が痛くなって自宅から逃げ出した僕だったけど期
せずして奈緒に会えたことが嬉しかった。

「奈緒ちゃんのピアノのレッスンってどこでしているの」

「ここから、えーとここから四つ目くらいの駅を降りたとこです」

 僕は車内に掲示してある路線図を眺めた。

「降りたことない駅だなあ。あのさ」

「はい」

「奈緒ちゃんさえ迷惑じゃなかったらピアノの教室まで一緒に行ってもいい?」

「本当ですか」
 奈緒は目を輝かせた。「夢みたい。偶然電車で会えただけでも嬉しかったのに」

「そんな大袈裟な」



43:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:46:23.68 ID:jzMh8z1oo

 その時もっといい考えが思い浮んだ。もっとも奈緒に午後予定がなければだけど。一瞬
だけためらったけど勇気を出して奈緒に言った。

「それとよかったらだけど。奈緒ちゃんのレッスンの終った後、一緒にどこかで食事とか
しない?」

「え?」

 調子に乗りすぎたか。びっくりしているような奈緒の表情を見て僕は後悔した。奈緒の
好意的な言動に調子に乗ってまた志村さんの時のようにやらかしてしまったか。

 でもそれは杞憂だったようだ。

「でも・・・・・・いいんですか? レッスンが終るまで三時間くらいかかりますよ」

「うん。本屋とかカフェとかで時間つぶしてるから大丈夫」

「じゃあ、はい。奈緒人さんがいいんだったら」

「じゃあ決まりね」

 僕はその時財布の中身のことを思い出した。一瞬どきっとしたけどよく考えれば大丈夫
だった。今月はお小遣いを貰ったばかりで全然使っていないし、先月の残りも一緒に財布
に入っている。食事どころか一緒に遊園地に行ったって平気なくらいだった。

「じゃあ、あたし後で家に電話してお昼は要らないって言っておきます」

「家は大丈夫?」

「大丈夫・・・・・・と思います。大丈夫じゃなくても大丈夫にします」

「何それ」

 僕は笑った。

「本当に今日はラッキーだったなあ。一本電車がずれてたら、あと車両が一つずれてたら
会えなかったんですものね」

 奈緒は嬉しそうに言った。



 僕と奈緒は並んでその駅から外に出た。奈緒にとっては毎週通っている町並みだったの
だろうけど、僕はこの駅に降りたのは初めてだった。

 駅から出ると冬の重苦しい曇り空が広がっていた。そのせいで初めて来た町並みはやや
陰鬱に映ったけれど、よく眺めると静かで清潔な駅前だ。駅前には開店準備中の本屋と既
に開店しているチェーンのカフェがあった。これで奈緒を待っている間時間を潰すことが
できる。

 僕は奈緒に言われるとおりに駅から閑静な住宅地への続く道を歩いて行った。いつのま
にか奈緒が僕の手を握っていた。

 曇り空の下を奈緒と手を繋ぎ合って知らない街を歩く。何か奇妙なほど感傷的な想いが
僕の胸を締め付けた。初めて訪れた街だけど奈緒と二人なせいかどこか静かな住宅地が身
近な場所のように感じられる。

 前に奈緒は僕に運命を信じるかと聞いたことがあった。正直運命なんて信じたことはな
かった。それでも今この住宅地をと二人で並んで歩いていると、その様子に既視感を覚え
た。しかもその感覚はだんだんと強くなっていく。

「奈緒人さん?」

 奈緒が奇妙な表情で僕に言った。

「うん」

「笑わないでもらえますか」

「もちろん」

「あたしね。この道は幼い頃から何百回って往復した道なんです」

「うん」

「幼い頃からずっとここの先生に教えてもらってたから」

「そうなんだ」



44:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:47:21.08 ID:jzMh8z1oo

「でも今日は初めてちょっと変な感じがして」

「変って?」

「あたし、前にも奈緒人さんと一緒にこの道を歩いたことがあるんじゃないかなあ」

 それは僕の感じた既視感と同じようなことなのだろうか。僕自身のその感覚は強くなり
すぎていて、今では夕焼けに照らされたこの道を奈緒と並んで歩いてるイメージが鮮明に
頭に浮かんでいた。

「あたし、奈緒人さんと手を繋いでここを歩いたことあると思う」

 奈緒が戸惑ったように、でも真面目な表情で言った。

「奈緒人さん、運命って信じますか」

 そう奈緒に聞かれたのは二度目だった。最初のときは曖昧な笑いで誤魔化したのだけど。

 僕は超常現象とかそういうことは一切受け付けない体質だ。世の中に生じることには全
て何らかの合理的な説明がつくはずだと信じている。でも前にもこの場所で奈緒と一緒に
いたことがあるというこの圧倒的な感覚には、合理的な説明がつくのものなのだろうか。

「よくわかんないや」

 僕は再びあやふやに答えた。

「そうですか。あたしひょっとしたらあたしと奈緒人さんって前世でも恋人同士か夫婦同
士だったんじゃないかって思いました」
 奈緒は真面目な顔で言った。「奈緒人さんと一緒にここを歩いていた記憶って前世のも
のなんじゃないかなあ」

「どうだろうね」

 僕にはよくわからなかった。でも奈緒が感じたというその記憶は、その時僕も確かに感
じていたのだ。

「運命とか前世とかはよくわからないけど・・・・・・昔、奈緒ちゃんと一緒にこの道を歩いた
ことがあるんじゃないかとは僕も思ったよ。その時は夏だった感じだけど」

「それも夕方だった思います」

 奈緒が言った。

「うん。僕も同じだ。まあ前世とかはわからないけど、僕と奈緒ちゃんって結ばれる運命
なのかな」

 僕は真顔で相当恥かしいことを言った。

「それです、あたしが言いたかったのも。きっと運命的な出会いをしたんですね。あたし
たち」

 奈緒が考え込んでいた表情を一変させて嬉しそうに言った。

 こんな話を聞いたら渋沢や志村さん、それに妹だって腹の底から笑うだろうな。僕はそ
の時そう思った。まるでバカップルそのものの会話じゃないか。でも僕にはそのことはま
るで気にならなかった。僕は奈緒の小さな手を握っている自分の手に少しだけ力を込めた。

 奈緒の手もすぐにそれに応えてくれた。



 閑静な住宅地の中にそのピアノ教室はあった。外見は普通のお洒落な家のようだった。

「本当にいいんですか? 待っていただいて」

 奈緒が言った。

「うん。駅前に戻って時間を潰して十二時半くらいにここへ戻って待ってるから」

「じゃあお言葉に甘えちゃいますね。あたし男の人に迎えに来てもらうのって初めてで
す」

 僕は笑った。

「僕だって女の子を迎えに来るなんて初めてだよ。待っている間に食事できるお店を探し
とくね」

「あ、はい。何だか楽しみです。今日は練習にならないかも」

 奈緒が赤くなって微笑んだ。



45:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:48:01.63 ID:jzMh8z1oo

「それはまずいでしょ。都大会の中学生の部で優勝した奈緒ちゃんとしては」

「・・・・・・何で知ってるんですか?」

 奈緒は驚いたように言った。

「まあちょっとね」

「何か・・・・・・ずるい」

 奈緒が言った。

「ずるいって・・・・・・」

「あたしは奈緒人さんのこと何も知らないのに。何であたしのことだけ奈緒人さんが知っ
てるの?」

 僕は思わず笑ってしまった。知っているのはこれだけでしかもそれは志村さんの情報だ
った。あとでそれを奈緒に説明しよう。

「話は後でいいでしょ。ほら早く入らないと遅刻しちゃうよ」

「・・・・・・奈緒人さんの意地悪」

 奈緒はそう言って恨めしそうな顔をしたけど結局笑い出してしまったので、彼女の恨み
は全然切実には伝わらなかった。

「後で全部話してもらいますからね」

 奈緒はその家のドアを開けて中に姿を消した。ドアを閉める前に奈緒は僕の方に向って
ひらひらと手を振った。



 奈緒が入っていった家のドアを僕はしばらく放心しながら眺めていた。

 奈緒が言っていたような前世とかを信じていたわけではなかったけど、運命の恋人とか
言われることは気分が良かったので僕は特にそのことに反論しなかった。でも、確かなこ
とは一つだけだ。僕が好きなのは、僕にとって一番大切な子はわずか数日前に付き合い出
した奈緒だけだ。そろそろ妹のアプローチに鈍感な振りをしているのも限界かもしれなか
った。もし本当に妹が僕のことを好きなのだとしたら。

 結局妹を傷つけるなら少しでも早いうちに自分の本心を妹に告げたほうがまだしもあい
つの傷は浅いかもしれない。

 そんなことを考えながら僕は時間を潰すために駅前の方に向った。無事に駅前に着いた
とき再び僕は違和感を感じた。僕は昔から方向音痴だった。方位的な感覚がなく地図を見
るのも苦手なので、初めて来た土地でこんなにスムースに駅前に戻れるなんてあり得ない。
まして行きはナオの指示のままに何も考えずに着いて行ったのだし。

 やはりここには来たことがあるのだ。そして体がそれを覚えていたのだろう。奈緒の言
うような前世とかではなく、この世に生まれてから僕はこの駅とあのピアノ教室の間を歩
いたことがあるのではないだろうか。でもそれがいつのことでいったい何のためにピアノ
教室になんか行ったことがあるのかまるでわからない。僕はピアノなんて習ったことはな
いのだ。

 駅前に戻ったときにはもう本屋が開店していた。本屋で適当に時間つぶしのための雑誌
を買った僕はカフェに行こうとしてふと気づいた。そういえば一緒に食事をする約束がで
きたのはいいけどいったいどこに行けばいいのだろう。奈緒には偉そうにお店を探してお
くよと言ったけど本当は当てなんか何もない。女の子がどんな店を好むのかさえよくわか
らなかった。そう言えば渋沢と志村さんに誘われて放課後三人でファミレスに入ったこと
があった。ドリンクバーだけで二時間くらい粘ったっけ。ああいう店なら無難なのかもし
れない。僕はカフェに行くのを止めて駅前を探索することにした。お店の当てすらないけ
ど幸い時間だけは十分にあった。確か駅の自由通路を抜けた反対側が少し繁華街のように
なっていたはずだった。

 僕はそちらの方に向けて駅の中を抜けて繁華街の方に行ってみた。幸いなことに西口の
方はお店だらけだった。駅前広場に沿ってファミレスが数軒。その他にもちょっとお洒落
そうなパスタ屋とかカフェとかも結構ある。そのほとんどが営業中だった。これなら大丈
夫だ。この中のどこかのファミレスに入ればいいのだ。ようやく重荷を下ろした僕はほっ
として東口のカフェに入った。

 カフェで窓際の席に落ち着いた僕はさっき買った雑誌をめくる気がおきないまま、ぼん
やりとレストランを探していたときのことを思い出していた。ピアノ教室までの道もそう
だけど、初めて降りたこの駅の西口が繁華街だなんて僕はどうしてあの時何の疑問も持た
ずに思いついたのだろう。早く店を決めたくて焦っていた僕は、あの時は何も考えずに心
の声に従って行動した。その結果、思ったとおり西口は繁華街で僕は探していた店を見つ
けることができた。覚えていないだけでやはりこの街に来たことがあるのか。それが一番
妥当な回答だった。



46:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:49:18.26 ID:jzMh8z1oo

 まあいいや。今はそんなことを考えるよりもっと考えなきゃいけないことがある。雑誌
なんて買う必要はなかったのだ。今日は期せずして奈緒とデートできることになったのだ
から、食事の後どうするのかも決めておかなければならない。よく考えれば時間をつぶす
とか言っている場合じゃなかった。

 とりあえずファミレスで食事をする。ドリンクバーも頼んで少し長居したいものだ。そ
れで奈緒とずっとお喋りするのだ。いつもなら僕の学校の最寄り駅まで三十分くらしか一
緒にいられない。感覚的にはあっという間に別れの時が来ているような感じだった。だか
ら今日は奈緒さえよければずっと一緒に話をしていよう。その後は。

 奈緒は何時までに家に帰らなければならないのだろうか。とりあえず遊園地とか動物園
とか水族館とかそういうのは時間的に無理だから、ファミレスを出た後はもう帰るしかな
いかもしれない。でもナオさえよければ彼女を家の途中まで送っていくことはできるだろ
う。さすがに家まで送るのは僕には敷居が高かったけど、駅までとかなら。

 そんなことを考えているうちにすぐに時間が経ってしまい、そろそろ奈緒をピアノ教室
まで迎えに行く時間になっていた。

 思ったとおり奈緒が案内してくれなくても心の中の指示に従って歩くだけで、住宅街の
複雑な道筋に迷うこともなくさっき彼女と別れたピアノ教室の前まで来ることができた。
その建物のドアの真ん前で待つほど度胸がない僕は、少し離れたところで教室のドアを見
守った。もう少しで十二時半になる。

 やがて教室のドアが開いて中から女の子たちが連れ立って外に出てきた。華やかという
とちょっと違う。でも決して地味ではない。その子たちは何か育ちのいいお嬢様という感
じの女の子たちだった。彼女たちは笑いさざめきながら教室を出て駅の方に向かって行っ
た。そういう女の子たちに混ざって女の子ほどじゃないけど男もそれなりに混じっている
ようだった。こちらはやはり少し真面目そうで、でも女の子に比べると地味な連中ばかり
だった。少なくとも渋沢みたいなタイプは一人もいない。でもよく考えれば僕だって外見
はこの男たちの仲間なのだ。しかもこいつらは外見はともかく音楽の才能には恵まれてい
るんだろうけど、僕はそうじゃない。それなりに成績が良かったせいでこれまであまり人
に劣等感を抱いたことがなかった僕だけど、それを考えると少し落ち込んでいくのを感じ
た。奈緒にふさわしいのはこの教室に通っているような男なんじゃないのか。ついにはそ
んな卑屈な考えまで僕の心に浮かんできた。

 そのとき唐突に妹の姿が目に浮かんだ。明日香はビッチな格好を卒業したみたいだけど、
中身はいったいどうなんだろう。少なくともこの教室に通っている女の子たちとは全く共
通点がない。どういうわけか僕はこの時明日香のことが気の毒になった。あいつだって
色々悩んだ結果、大人しい外見に戻ることを選んだのだろうに、やっぱり僕の目の前を楽
しそうに通り過ぎて行く華やかで上品な女の子たちには追いつけないのだろうか。

 やがて奈緒が姿を現した。彼女はドアから外に出て周りを見回している。僕を探してく
れているのだ。少し離れたところで半ば身を隠すようにしているせいで奈緒はすぐには僕
が見つからなかったようだ。僕が奈緒の方に寄って行こうとした時、誰かが彼女に話しか
けるのが見えた。

 それは黒ぶちの眼鏡をかけた高校生くらいの男だった。彼は馴れ馴れしく奈緒の肩に片
手をかけて彼女を呼び止めた。奈緒もその男に気づいたのか振り向いて笑顔を見せた。そ
の男が奈緒に何か差し出している。どうもピアノの譜面のようだ。譜面を受け取りながら
奈緒は彼に何か話しかけた。彼にお礼を言っているみたいだった。奈緒の方に行こうとし
た僕はとっさに足をとめ、隣の家の車の陰に半ば身を隠すようにした。

 何でこんな卑屈なことをしているのだろう。僕は自分のしたつまらない行動を後悔した。
奈緒はさっき僕のことを運命の人とまで言ってくれたんじゃないか。奈緒は笑顔で譜面を
渡した彼に話しかけていたけど、目の方は相変わらずきょろきょろと周囲を見回している
ようだった。僕を探してくれているのか。その時奈緒と目が会った。

 奈緒はその彼に一言何かを告げると嬉しそうに真っ直ぐに僕の方に向かって来た。その
場に取り残された男は未練がましく何かを奈緒に話しかけたけど、彼女はもう彼の方を振
り向かなかった。

「お待たせしちゃってごめんなさい」
 奈緒はそう言っていきなり僕の手を取った。「奈緒人さん、待っている間退屈だったで
しょ」

 僕が心底から自分の卑屈な心の動きを後悔したのはその時だった。こんなに素直に僕を
慕ってくれている奈緒に対して、僕は卑屈で醜い劣等感を抱いていたのだから。

「いや、お店とか探してたら時間なんかあっという間に過ぎちゃった」

「そう? それなら良かったけど」

 僕たちの話を聞き取れる範囲には、その男のほかにも同じピアノ教室に通っているらし
い女の子たちがまだいっぱいいたけれど、奈緒はその子たちの方を見ようとはしなかった。
上目遣いに僕の顔を見ているだけで。さっきまでの卑屈な考えを後悔した僕だったけど、
新たな試練も僕を待ち受けていた。周囲の女の子たちの視線が突き刺さるのを僕は感じた。
ここまで周りを気にせずに僕に駆け寄っていきなり男の手を握る奈緒の姿は、周囲の女の
子たちの注目を集めてしまったようだった。



47:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:50:08.30 ID:jzMh8z1oo

 案の定そのうちの一人が奈緒に話しかけてきた。

「奈緒ちゃんバイバイ」
 奈緒も僕から目を離して笑顔でそれに答えた。「ユキちゃん、さよなら」

「・・・・・・奈緒ちゃん、その人って彼氏?」

 ユキという子は別れの挨拶だけでこの会話を終らせるつもりはないようだった。彼女の
周りの女の子たち、それにさっきから僕の手を握る奈緒をじっと見つめている、奈緒に話
しかけた男も聞き耳を立てているようだ。

 奈緒はちらっと僕の顔を見た。それから彼女は少し紅潮した表情でユキという子に答え
た。

「そうだよ」

 周囲の女の子たちがそれを聞いて小さくざわめいたけど、もう奈緒はそちらを見なかっ
た。

「じゃあねユキちゃん。行きましょ、奈緒人さん」

 僕は奈緒に手を引かれるようにして駅前の方に向った。

「ごめんね」

 奈緒が言った。

「ごめんって何で」

「みんな噂好きだからすぐにああいうこと聞いてくるんですよ」

「別に気にならないよ。君の方こそ僕なんかが待っていて迷惑だったんじゃないの」

 僕は思わずそう言ってしまってすぐにそのことに後悔した。奈緒が珍しく僕の方を睨ん
だからだ。

「何でそんなこと言うんですか? あたしは嬉しかったのに。奈緒人さんが待っていてく
れるって思うとレッスンに集中できないくらいに嬉しくて、集中しなさいって先生に怒ら
れたけどそれでも嬉しかったのに」

「ごめん」

 僕は繰り返した。またやらかしてしまったようだ。でも奈緒はすぐに機嫌を直した。

「ううん。あたしこそ恥かしいこと言っちゃった」

 奈緒は照れたように笑った。

 この頃になると周りにはピアノ教室の生徒たちの姿はなくなっていた。

「一緒に食事して行ける?」

 僕は奈緒に聞いた。

「はい。さっきママに電話しましたし今日は大丈夫です」

「じゃあファミレスでもいいかな」

 ファミレスでもいいかなも何もファミレス以外には思いつかなかったのだけど、とりあ
えず僕は奈緒に聞いた。

「はい」

 奈緒は嬉しそうに返事した。

 相変わらず空模様はどんよりとした曇り空だったけど、その頃になると駅の西口もかな
り人出で賑わいを増していた。そう言えばもうすぐクリスマスだ。目当てのファミレスで
席に着くまで十五分くらい待たされたけど、その頃になると再び僕は気軽な気分になって
いたせいで、奈緒と話をしているだけで席に案内されるまでの時間が長いとは少しも思わ
ずにすんだ。

「ご馳走するから好きなもの頼んで」

 僕は余計な念を押した。渋沢とかならこんな余計な念押しはしないだろう。一瞬僕は余
計なことを言ったかなと後悔したけど、奈緒は素直にお礼を言っただけだった。

 とりあえず料理が来るまで僕は自分が待っている間にこの駅前を探索したこと、不思議
なことに初めて来たはずのこの街で少しも迷わなかったことを話した。



48:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:50:49.82 ID:jzMh8z1oo

「う~ん。あたしと一緒に教室までの道を歩いた記憶があるというだけなら、前世の記憶
だって主張したいところですけど」
 奈緒が少し残念そうに言った。「奈緒人さん一人でもこの辺の地理に明るかったとした
ら、奈緒人さんは昔この街に来たことがあるんでしょうね。忘れているだけで」

「何で残念そうなの」

 僕は思わず笑ってしまった。

「だって、前世でも恋人同士だったあたしたちの記憶が残っていると思った方がロマンテ
ィックじゃないですか」

「それはそうだ」

「まあ、でも。よく思い出したら昔何かの用でここに来たことがあるんじゃないですか」

 奈緒は言った。

「さあ。記憶力はよくない方だからなあ。全然思い出せない。逆に言うとここに来たのが
初めてだと言い切るほどの自信もない」

「それじゃわからないですね」

 奈緒は笑った。その時注文した料理が運ばれてきた。

 食事をしながら奈緒と他愛ない話を続けていたのだけど、だんだん僕はあの男が気にな
って仕方なくなってきた。変な劣等感とか嫉妬とかはもうやめようと思ったのだけど、こ
れだけはどうしても聞いておきたかった。

「あの・・・・・・気を悪くしないでくれるかな」

 奈緒がパスタの皿から顔を上げた。

「何ですか」

「さっきの―――さっき君の肩に手を置いた男がいたでしょ? 随分馴れ馴れしいという
か、結構親しそうだったんだけど彼は奈緒ちゃんの友だちなの?」

 奈緒はまた不機嫌になるかなと僕は覚悟した。でも彼女はにっこりと笑った。

「嫉妬してくれてるんですか?」

 その言葉と奈緒の笑顔を見ただけで既に半ば僕は安心することができたのだ。



 その日僕たちはそのファミレスで二時間以上も粘っていた。さっき奈緒の肩に手をかけ
て呼び止めた男がただのピアノ教室での知り合いで、奈緒にはその男に対する特別な感情
は何もないと知って胸を撫で下ろした僕は、いつもよりリッラックスして奈緒と会話する
ことができた。

「何で奈緒人さんがコンクールのこと知ってるんですか?」

 いろいろとお互いのことを質問しあう時間が一段落したときに奈緒が思い出したように
尋ねた。そこで僕は種明かしをした。志村さんの情報だということを知った奈緒は自分が
載っているWEBページのプリントを見せられて驚いていた。

「写真まで載ってたんですね。初めて見ました」

 そう言って奈緒は自分の記事をしげしげと眺めていた。

 偶然に出会って始まった土曜日の午後のデートだったけど、この出会いで僕は奈緒のこ
とが大分わかってきたし、奈緒にも自分のことを教えることができた。奈緒も僕も離婚家
庭で育った。幸いなことに奈緒は再婚した両親のもとで幸せに普通の暮らしをしているみ
たいだし、妹のことを除けば僕だってそうだった。でもここまで境遇が似ていると、奈緒
が言う運命の人っていうのもあながちばかにできないのかもしれなかった。

 話はいつまでたっても尽きないしここでもっと奈緒とこうしていたいという気持ちもあ
ったけど、そろそろ帰宅する時間が近づいてきていた。曇った冬の夕暮れは暗くなるのが
早い。窓の外はもう完全に暗くなっている。

「そろそろ帰ろうか。結構暗くなって来ちゃったし」

 僕の言葉に奈緒は顔を伏せた。

「そうですね。もっと時間が遅く過ぎればいいのに」

「また月曜日に会えるじゃん。あと、よかったら今日家の近くまで送っていくよ」

 奈緒が顔を上げた。少しだけ表情が明るくなったようだった。



49:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:51:28.24 ID:jzMh8z1oo

「本当ですか?」

「うん。君さえよかったら」

「はい・・・・・・うれしいです」

「じゃあ、そろそろ出ようか」

 僕は伝票を取って立ち上がった。

 僕たちは寄り添って帰路に着いた。さっきファミレスではあれほど話が盛り上がって、
僕のくだらない冗談に涙を流すほど笑ってくれた奈緒だったけど、駅に向う途中でも、そ
して電車が動き出した後も彼女はもう自らは何も話そうとしなかった。

 奈緒はただひたすら僕の腕に抱きついて身を寄せているだけだったのだ。週末の車内は
空いていたので僕たちは寄り添ったまま座席に着くことができた。奈緒は黙って僕の腕に
抱きついているだけだったけど、その沈黙は決して居心地の悪いものではなかった。

「・・・・・・この駅です」

 途中の駅に着いた時奈緒が言った。

「じゃあ、途中まで送って行くね」

 奈緒はこくりと頷いた。

 さっきのピアノ教室があった駅と同じで、駅前は完全に住宅地の入り口だった。何系統
もあるバスがひっきりなしに忙しく駅前広場を出入りしている。

「こっちです。歩くと十分くらいですけど」

「うん」

「もっと家が遠かったら一緒にいられる時間も増えるのに」

 奈緒がぽつんと言った。

 僕の腕に抱きついて顔を伏せているこの子のことがいとおしくて仕方がなかった。僕に
できることなら何でもしてあげたい。僕は奈緒に笑顔でいて欲しかったのだ。

 閑静な住宅街であることはさっきのピアノ教室と同じで、奈緒の家がある街は綺麗な街
並みだった。道の両側に立ち並ぶ瀟洒な家々からは暖かそうな灯りが洩れて通りに反射し
ている。

「あの角を曲がったところです」

 奈緒が言った。

「じゃあ、僕はこの辺で帰るよ」

 奈緒は僕の腕から手を離した。そして再び黙ってしまった。

 僕は奈緒の両肩に手をかけた。彼女は目を閉じて顔を上げた。僕は奈緒にキスした。



 それから二週間くらい経った土曜日の午後、僕は奈緒のピアノ教室の前で彼女を待って
いた。それはクリスマス明けの二十六日のことだった。クリスマスには陰鬱な曇り空だっ
た天気は、どういう気まぐれかちらほらと降る雪に変わっていた。

 結局、臆病な僕は付き合いだしたばかりの奈緒に対して、イブを一緒に過ごそうと持ち
かけることはできなかった。でも誘わなくて正解だったようだ。富士峰はイブの日とその
翌朝は校内の礼拝堂で礼拝と集会があるのと彼女は僕に言った。イブの日のデートに勇気
を出して奈緒を誘っていたら、結局僕は彼女に断られることになっていたはずだ。

 でもその話を聞いた渋沢と志村さんは笑い出した。

「何だよ。そんなのおまえに誘ってもらいたかったに決まってるだろ」

「だって学校の行事があるからって」

「そこで、じゃあ何時になったら会える? って聞けよアホ」

「そう聞いたらどうなってたんだよ。勝手なこと言うな」

 僕は二人の嘲笑するような視線に耐え切れなくなって言った。

「まあまあ、落ち着きないさいよ」

 志村さんがそう言った。



50:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:52:22.74 ID:jzMh8z1oo

「落ち着いているって」

「でもあたしも明の言うとおりだと思うな」

「どういうこと?」

「奈緒人君が彼女を誘っていれば、学校行事はサボるとかさ。そこまでしなくても、夕方
には時間がありますとか絶対言ってたよ、奈緒ちゃんは。むしろ期待してたんじゃない?
 可愛そうに」

 志村さんにまでそう言われてしまうとこの手の話題には疎い僕にはもう反論できなかっ
た。

「じゃあ二十六日とかに一緒に遊びに行くか」

「それでも何もしないよりましかもね」

 渋沢と志村さんが目を合わせて笑った。

 そういうわけで僕は、クリスマスの日の夜、勇気を振り絞って奈緒に電話した。ピアノ
教室が終った後に渋沢と志村さんと四人で遊びに行かないかと。あいつらが言うように奈
緒が僕にクリスマスに誘われなくてがっかりしたのかどうかはわからないけど、その時の
僕の誘いに奈緒は目を輝かせるようにして答えてくれた。

「はい。大丈夫です。絶対に行きます」

「じゃあ明日の土曜日、君の教室が終わる頃にまたあそこで待ってるね」

「お迎えに来るのが面倒だったらどこかで待ち合わせてもいいですけど」
 奈緒が僕に気を遣ったのかそう言った。「わざわざ来ていただくもの申し訳ないです
し」

 渋沢や志村さんに言われなくてもさすがにこのくらいの問題には僕だって回答すること
はできる。

「奈緒ちゃんさえよかったら迎えに行くよ。その方が渋沢たちに会うまで君と二人で一緒
にいられるし」

「・・・・・・うん」
 奈緒は微笑んだ。やはりあいつらの言っていることにも一理あるのだろうか。「すごく
嬉しいです。奈緒人さん」

 ここまで直接的に愛情表現をしてくれる奈緒に対して僕は臆病すぎるのかもしれない。

 奈緒は少し赤くなった顔で僕に言った。

「じゃあ待ってます」

「うん」

「・・・・・・あの」

「どうしたの」

「明日は教室の前で待っていてくださいね。前みたいに離れたところで待っていたらだめ
ですよ」

 僕は面食らった。

「どうして? というか堂々と教室の前で待つのは何か恥かしい」

「恥かしがらないでください」
 奈緒が真面目な表情になって言った。「あたしたち、お付き合いしているんですよ
ね?」

「う、うん」

「じゃあ教室の目の前で堂々と待っていてください。あたしも教室のお友だちにあたしの
彼氏だよって紹介できますから」

「うん・・・・・・」

「それに・・・・・・いつも一緒に帰ろうって誘われる先輩がいるんですけど、奈緒人さんが教
室の前で待っていてくれればその人にもちゃんと断れますし」

「わかった」
 僕は戸惑ったけど奈緒がここまできっぱりと言葉にしてくれているのだ。恥かしいとか
言っている場合ではなかった。「そうするよ」



51:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:53:41.01 ID:jzMh8z1oo

 僕はちょうどピアノ教室が終る時間に教室の前に着いた。その建物の正面で待っている
のは目立ちすぎだと思ったけど、これは奈緒との約束だった。

 落ち着かない気持ちが次第につのって行く。結構胃が痛い感じだった。そうやって待っ
ていると他にもそこで誰かを待っているやつがいることに気がついた。

 金髪とピアス。強面そうな顔。

 そいつは明らかにこの閑静な住宅街の中では不自然な存在だった。僕以上に。でもそい
つのことを僕は以前に見かけたことがあった。

 間違いない。こいつは僕の妹の前の彼氏のイケヤマとかいうやつにに違いない。でもど
うして彼がここにいるのだ。もしかして僕と一緒でここに通っている女の子を迎えに来た
のだろうか。

 いくら女に対して手が早そうな外見だからといって、妹と別れたばかりでこんなに早く
次の彼女ができているということも信じがたいし、偏見かもしれないけどここに通ってい
るような真面目な女の子とこいつが付き合うというのも考えづらい。

 その時イケヤマが不意に振り向いたので僕たちの視線が合った。イケヤマに強い目で睨
まれて僕は一瞬ひるんだ。イケヤマとは前に一度出くわしたことがあるし、僕が明日香の
兄であることを知っているのかもしれなかった。妹も前に僕の視線にそいつが傷付いたみ
たいなことを言っていたし。でもイケヤマの睨みつけるような視線が絡んだのは一瞬だけ
だった。すぐに彼は視線を逸らし早足でピアノ教室から遠ざかって行った。僕はイケヤマ
の背中を眺めたがらいったいこいつはここで何をしたかったのだろうかと考えていた。

 角を曲がって姿が消えたイケヤマの背中から目を離すと、ちょうど教室のドアが開いて
奈緒が少しだけ急いでいる様子で外に出てきた。一番先に出てくるとは思わなかったけど、
さっき恥かしいからと言った僕を気にして他の子より早くで出てきてくれたのかもしれな
い。約束どおり今日は隅の方に隠れていないでドアの正面に立っている僕の方に向かって
奈緒は小さく手を振って小走りに近寄ってきた。そのまま奈緒は僕の腕に抱きついた。こ
んなどうしようもない劣等感の塊の僕の上に天使が降ってきたようだ。今までも何度とな
く考えていた感想が再び僕の胸を締め付けた。

 僕は柄にもなく抱きついてくる奈緒に向って微笑んだ。僕が奈緒に声をかけようとした
とき、それまで奈緒の背後に隠れていた小柄な女の子が目に入った。僕と目が合ったその
女の子はにっこりと笑った。

「こんにちは」

「有希ちゃん、何でいるの?」

 奈緒も少し戸惑ったようにユキという子に言った。

「何でって、帰り道だもん。それよか紹介して」

「まあ・・・・・・いいけど。前にも話したと思うけどあたしの彼氏の奈緒人さん。奈緒人さん、
この子は富士峰の同級生で有希ちゃんっていうの」

「はじめまして奈緒人さん」

 有希ちゃんは好奇心で溢れているという様子で、それでも礼儀正しく僕にあいさつして
くれた。

「あ、どうも」

 もともと女の子と話すことが苦手な僕にはこれでも上出来な方だった。とにかく今まで
奈緒とここまで普通に会話できていることの方が奇跡に近いのだ。僕と奈緒の出会いが彼
女の言うように運命的な出来事だったせいなのかもしれないけど。

「奈緒人さん。有希ちゃんは親友なんです。学校もピアノのレッスンも一緒なんですよ」

「そうそう。それなのに最近土曜日のレッスン後は奈緒ちゃんは一緒に帰ってくれないし。
何でだろうと思ってたら彼氏が出来てたとは」

「ごめん。でも前にも話したでしょ」

「奈緒人さん、奈緒ちゃんは奥手だけどいい子なんでよろしくお願いしますね」

 有希が笑って僕に言った。

「何言ってるの」

「そうだ、奈緒人さん。親友の彼氏なんだしメアドとか交換してもらってもいいですか」

 え? 僕は一瞬ためらった。奈緒の親友には冷たくするわけにはいかないし、かといっ
て会ったばかりの有希とメアドを交換することに対して、奈緒がどう考えるのか僕にはよ
くわからなかった。



52:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:54:51.50 ID:jzMh8z1oo

 僕は一瞬有希に返事ができず奈緒の顔色を覗った。奈緒は心なしか少しだけ不機嫌そう
な気がする。そんなにあからさまな様子ではなかったし僕の思い過ごしかもしれないど。
それでも彼女の親友にメアドを教えてって言われたくらいで気を廻してそれを断る勇気は
僕にはなかった。奈緒が有希に何か言ってくれればいいのだけど、奈緒は相変わらず微妙
に不機嫌そうな雰囲気を漂わせたままのすまし顔だ。

「うん、いいよ」

 僕はそれ以上考えるのを諦めて有希に返事をした。

「やった」

 有希が可愛らしく言った。別に彼女に興味を持ったわけではないけど、やはりこの子も
奈緒と同じくらい可愛らしい子だった。

 有希にさよならを言って駅の方に歩き出した僕たちだったけど、いつのまにか奈緒の手
は抱き付いていた僕の腕から離れ、僕たちは手を握り合うこともなく微妙な距離を保った
まま歩いていた。少し遅れ気味に僕の後からついてくる奈緒を思いやって僕は後ろを振り
向いて声をかけた。

「ごめん。歩くの速かったかな」

 奈緒はそれには答えずに僕から目を逸らした。

 何だと言うのだろう。仕方なく僕はまた歩き出して少しして奈緒の方を振り返った。

 奈緒は俯いたままでその場に立ちすくんでいた。

 ・・・・・・いったい何なんだろう。もちろん僕にだって思いつく理由として有希とのメアド
交換が思い浮んだけど、あれは僕のせいでも何でもないだろう。

 有希を紹介したのは奈緒だったし、有希がメアド交換を言い出した時だって別に奈緒は
それを制止したわけでもない。正直に言えば奈緒しか目に入っていない僕が有希とメアド
を交換したのだって奈緒の友だちだということで気をつかったからだ。それなのに多分奈
緒はそのことに拗ねている。僕は少し理不尽な彼女の態度に対する怒りが沸いてくるのを
感じた。

 僕は生まれて初めてこんなに女の子を好きになったといってもいいほどに奈緒に惹かれ
ている。彼女のためなら多少の理不尽はなかったことにしてもいいくらいに。でも罪悪感
を感じていないことに対して謝罪してはいけない。奈緒がついてくるかどうかわからない
けど僕は再び駅の方に歩き始めた。

 僕は今まで妹に謝ったことがない。両親の再婚と母さんの愛情が半分だけ僕に向けられ
たことによって妹が傷付いたことは間違いない。そのせいで僕は妹に散々嫌がらせをされ
た。多分その張本人の妹だって期待していないくらいに傷付きストレスを感じた。でも僕
はそのことで本気で妹を責めたことはなかった。それは妹の痛みを、幼かった妹にはどう
しようもなかった出来事で彼女が傷付いた痛みを理解できたからだった。

 同時に辛い思いをさせたかもしれない妹に対して謝ろうと思ったこともなかった。確か
に明日香は、父さんと母さんの再婚の結果、母さんの愛情と関心を僕に奪われたと感じ、
そのせいで傷付いているかもしれない。でも、去年両親に真相を知らされてから考えてい
たことだったけど、そのことに関して僕は明日香に対して罪悪感を感じる理由はない。

 そのこととこれとを一緒にする気はないけど、いくら奈緒がさっきのできごとで怒ろう
と拗ねようと、そしそのせいで僕のことを嫌いになろうと自分の今までの考え方を曲げる
気はなかった。

 僕は足を早めた。これで終るなら終わるだけのことだ。僕は確かに奈緒に惹かれていた
し彼女と付き合えて嬉しかったけど、自分のポリシーを曲げてまで彼女の機嫌を取る気は
なかった。もう後ろを振り向かずに寒々とした曇り空の下を歩いていく。やはり見慣れな
い街のはずだけど迷う気は全くしなかった。もう駅がその姿を見せていた。

 考えてみれば奈緒には今日、渋沢と志村さんと一緒に遊ぼうと誘っただけで待ち合わせ
場所も待ち合わせ時間も話していない。このまま奈緒がついてこないままで、改札を通っ
てしまえば今日はもう奈緒とは会えないのだ。渋沢と志村さんが僕を責める言葉が聞こえ
てくるようだった。渋沢なら僕のポリシーなんてどうでもいい、一言奈緒に謝るだけじゃ
ないかと僕を責めるだろう。そして志村さんは、取り残された奈緒ちゃんが可哀そうとか
言うに違いない。

 僕は息を呑んだ。これが初めてできた僕の彼女との別れになるかもしれない。

 今からでも遅くない。振り返って奈緒のところまで行ってごめんといえば、僕には二度
とできないかもしれない可愛い彼女と仲直りできるかもしれない。でも僕はそうしなかっ
た。僕はパスモを取り出して改札口から駅の中に入ろうとした。

 その時背後に軽い駆け足の音が響いてそれが何かを確かめるよリ前に僕は後ろから思い
切り抱きつかれた。



53:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:55:40.64 ID:jzMh8z1oo

「ごめんなさい」

 泣き声交じりの奈緒の声が僕の顔の間近で響いた。

「奈緒人さん本当にごめんなさい」

 僕は抱きつかれた瞬間に力を込めてしまった全身を弛緩させた。

「・・・・・・どうしたの」

 僕の背中に抱きついた奈緒が泣きじゃくっている。

「ごめんなさい。怒らないで・・・・・・お願いだからあたしのこと嫌いにならないで」

「どうしたの」

 さすがに僕も驚いて奈緒に聞いた。

「嫌な態度しちゃってごめんなさい。あたしが悪いのに」

 僕はこの時ほっとした。それまで僕を縛っていた頑な思いが解きほぐされていくようだ
った。僕はどうして自分のほうから奈緒に手を差し伸べてあげられなかったのだろう。僕
の方こそこんなにも奈緒に執着しているのに。

 僕は振り向いて奈緒を正面から見た。

「・・・・・・怒ってないよ。僕の方こそ辛く当たってごめん」

 妹に対する僕の態度と比べるとダブルスタンダードもいいところだった。でも気がつい
てみると僕もピアノ教室から駅までの短い距離を歩く間に相当緊張し悩んでいたのだ。僕
は改めてそのことに気がつかされた。

 奈緒は正面に向き直った僕にしっかりと抱きついた。

「有希ちゃんは親友だしあたしの方から奈緒人さんに紹介したのに」

 やっぱり地雷はそこだったようだ。

「有希ちゃんとメアド交換している奈緒人さんを見てたら嫉妬しちゃって。そしたら何か
素直に振る舞えなくなって。こんなこと初めだったからどうしていいかわからなくて」

「もういいよ。わかったから」

 奈緒は涙目で僕の方を見上げた。

「僕こそごめん。有希さんとメアド交換していいのかわからなかったけど、奈緒ちゃんの
友だちだし断ったら悪いと思ってさ」」

「・・・・・・本当にごめんなさい」

「いや。僕こそ無神経でごめん。あとさっきは先に行っちゃてごめんね」

「そんな・・・・・・奈緒人さんは悪くない。あたしが悪いの」

 週末のせいかその時間には駅前には人がたくさんいた。そんな中で抱きあっていた僕と
奈緒の姿は相当目立っていたに違いない。

 僕は奈緒の肩に両手を置いた。周囲の人混みが視界からフェードアウトし気にならなく
なる。奈緒がまだ涙がうっすらと残っていた目を閉じた。



 渋沢と志村さんとの待ち合わせ場所は隣駅の駅前のカラオケだった。いろいろと揉めた
せいで余裕があったはずの待ち合わせ時間にぎりぎりなタイミングになってしまった。

 仲直りしてからの奈緒は電車の中でいつもより僕に密着しているようだった。

「本当にあたしのこと嫌いになってない?」

 僕に抱きついたまま席に座った奈緒が小さな声で言った。

「なってない」

 僕はそう言って奈緒の肩を抱く手に力を込めた。いつもの僕と違って周囲の人たちの好
奇心に溢れた視線は気にならなかった。その時唯一気にしていたのはどうしたら僕がもう
気にしていないということを奈緒に信じてもらえるかだけだった。

「・・・・・うん」



54:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:56:43.42 ID:jzMh8z1oo

 奈緒が僕の胸に顔をうずめるようにしながら小さくうなずいた。彼女にも周りの視線を
気にする余裕はないようだった。でもこれで奈緒と仲直りできたのだ。

「もう泣かないで」

「うん」

 やっと奈緒は顔を上げて泣き笑いのような表情を見せた。

 数駅先の繁華街にあるカラオケに着く頃には奈緒は元気を取り戻していた。

「ここで遊ぼうって言われてるんだけどカラオケとか平気?」

 何せ富士峰のしかもまだ中学生なのだから僕は念のために聞いた。

「大丈夫です。お友だちと何度か入ったこともありますし」

「よかった。じゃあ行こう」

「はい」



 渋沢と志村さんはもうカラオケのフロントで僕たちを待っていた。

「よう奈緒人」

「奈緒人君こっちだよ」

「やあ」

「こんにちは」

「奈緒ちゃんも今日は~」

「じゃあ行こうぜ。俺が受け付けしてくるよ。とりあえず二時間でいいな」

 渋沢がチェックインするために受付のカウンターの方に向かって言った。

 クリスマスの後の昼間のせいかすぐに待たずに個室に案内された僕たち十人以上は座れ
そうなボックスを見て戸惑った。

「どう座ろうか」
 やたら広い室内を見ながら志村さんが言った。「これは広すぎるよね」

「まあ狭いよりいいじゃん。適当に座ろうぜ」

「奈緒ちゃん一緒に座ろう」

 志村さんが奈緒の手を引いてモニターの正面のソファの方に彼女を連れて行った。奈緒
は手を引かれながら何か言いたげにちらりと僕の方を見た。

「じゃあ俺たちはこっちに座ろうぜ」

 渋沢が言った。僕の方を見ていた奈緒の視線が脳裏に浮かんだ。僕はもう迷わず奈緒の
隣に腰掛けた。奈緒は微笑んで僕の手を握ってくれたけどもちろんそれは渋沢や志村さん
にも気がつかれていただろう。

「何だよ。こっち側に座るの俺だけかよ」
 渋沢がぶつぶつ言った。「何でお前ら三人だけ並んで座ってるんだよ」

「じゃあ、あんたもこっち座れば」
 志村さんが自分の隣の席を叩いて見せた。「ここおいでよ」

「何でこんなに広いのに片側にくっついて座らなきゃいけないんだよ」

 渋沢は文句を言いながらも志村さんの隣に納まった。確かに広い部屋の片隅で身を寄せ
合っている姿は傍から見て滑稽だったろう。でも僕は多分奈緒の期待に応えたのだ。僕は
隣に座っている奈緒を見た。奈緒もすぐに僕の視線に気が付いたのかこちらを見上げて笑
ってくれた。

 これなら今日は奈緒と色々話せそうだった。ところがしばらくするとそれは甘い考えだ
ったことがわかった。曲が入っているときは話などまともにできなかったし、曲の合間は
渋沢と志村さんが好奇心に溢れた様子でひっきりなしに奈緒に話しかけていたからだ。



55:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:57:36.15 ID:jzMh8z1oo

 最初は戸惑っていた奈緒も志村さんや渋沢に親しげに話しかけられているうちに次第に
二人に心を許していったようだった。

 学校のこと、ピアノのこと、趣味のこと。そして僕との馴れ初めやいったい僕のどこが
気に入ったかという質問が二人から奈緒に向けられ、最初はたどたどしく答えていた奈緒
も最後の方では笑顔で志村さんと渋沢に返事をするまでになっていた。

 彼女が僕の友だちと仲良くなるのは嬉しかったけど、僕抜きで盛り上がっている三人を
見ていると少しだけ気分が重くなってきた。

「そういや昼飯食ってなかったじゃん。ここで何か食おうぜ」

 渋沢が言った。

「そうだね。ここなら安いしね」

「ピザとチキンバスケット頼んでくれよ」

「あんた一人で食べるんじゃないっつうの」
 志村さんはそう言ってメニューを広げた。「奈緒ちゃん、二人で選んじゃおう」

「はい」

 奈緒は楽しそうに女さんに答えた。二人はしばらくメニューを見てからにぎやかに注文
している。

「おい奈緒人。おまえさっきから何も歌ってねえじゃん。奈緒ちゃんだって歌ってるのに
よ」

「僕はいいよ、歌苦手だし」

「何だよ、うまいとか下手とかどうでもいいじゃんかよ」

 僕が言い返そうとしたとき、客が少ないせいか早くも注文した食べ物や飲み物を持った
店員が部屋に入ってきた。



「何か話してばっかで全然歌えなかったね」

 結局二回時間を延長したために外に出たときはもう薄暗くなっていた。あちこちのビ
ルの店舗から洩れる灯りが路面をぼんやりとにじませている。

「おまえが奈緒ちゃんにペラペラ話かけていたせいだろうが」

 渋沢が笑って言った。

「何よ。あんただって奈緒ちゃんに興味深々にいろいろ質問してたくせに」

「そりゃまそうだけどさ。奈緒ちゃん」

「はい?」

「奈緒ちゃん歌上手だね。あと君は本当にいい子だな」

「え」

「奈緒人をよろしく。こいつ口下手だし根暗だし真面目なくらいしか取り得がないけど
さ」

 ちょっとだけ改まった口調で渋沢が言った。

「あんたそれ言いすぎ」

 志村さんが真面目な口調になって渋沢に注意したけど渋沢は気にせず言葉を続けた。

「でもいいやつなんでよろしくね」

 奈緒は少し驚いたようだったけど、顔を赤くして渋沢に答えた。

「ええ。よくわかってます。心配しないでくださいね」

「うん。じゃあまたな。奈緒人、おまえ奈緒ちゃんを送って行くんだろ」

「あ、あたしは大丈夫です」

「送っていくよ」

 僕は奈緒の顔から目を逸らして言った。



56:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 00:59:01.75 ID:jzMh8z1oo

 電車を降りて奈緒の家の方に向かっている間中、僕は黙って奈緒の先に立って歩いてい
た。これではさっき奈緒をピアノ教室に迎えに行った時と同じだ。そしてさっきは奈緒の
理不尽な怒りに頭がいっぱいだったのだけど、今の僕のこの感情に対して奈緒に責任がな
いことはわかっていた。ただ形容しがたい寂しさが僕の中にあるだけだった。

 これは理不尽な怒りだ。奈緒には何も責任はない。奈緒は僕に誘われて渋沢たちと会い
社交的に彼らと話しただけだ。これでは怒りと言うよりも相手にされなかった子どもが拗
ねているのと同じだ。

 僕の脳裏に今まで思い出すこともなかった記憶が蘇った。

 母親がいない夜。

 自分も半泣きになりながら、僕は誰もいない家で怯え抱きついて泣いていた妹を抱き締
めた。

 でも僕には両親が離婚前の記憶はないはずだった。何でこんなにリアルにこんな情景が
浮かぶのだろう。それに僕には義理の妹の明日香がいるだけだ。実の妹がいるなんて聞い
たこともない。

 突然脳裏に押しかけてきた圧倒的にリアルな悪夢を頭を振って追い払った時、奈緒が僕
の背後から不安そうな声で僕に声をかけた。

「あの。奈緒人さん、何か怒ってますか」

 おどおどとした奈緒の震え声を聞いた途端、突然僕の心が氷解した。僕は振り返って奈
緒に手を差し伸べた。この子がいとおしくてしかたがない。一瞬の幻想の中で怯えて僕に
抱きついていた幻の妹の姿が奈緒と重なった。奈緒は差し伸べられた僕の手をそっと握っ
た。

「ごめん。奈緒ちゃんがあいつらとずっと楽しそうに話していたし、僕は君とあまり話せ
なかったんで少しだけ嫉妬しちゃったかも。僕が悪いんだよ」

 その時奈緒は少しだけ怒ったような、それでいて少しだけ嬉しそうな複雑な表情を見せ
た。

「あたし、奈緒人さんのお友だちと仲良くしてもらって嬉しくて」

「うん、わかってる。僕が勝手に君に嫉妬したんだ。本当にごめん」

「でも、さっきあたしも有希ちゃんと奈緒人さんに嫉妬しちゃったし、おあいこなのかも
しれないですね」

「いや。今のは僕が悪いんだよ」

 奈緒は僕を見つめた。

「あたし、渋沢さんと志村さんとお話できて嬉しかったですけど、やっぱり奈緒人さんと
二人きりでいたいです」

「そうだね。今後は二人でカラオケ行こうか」

「はい。今度は奈緒人さんの歌も聞かせてくださいね」

 奈緒はようやく安心したように僕の腕に抱きついて笑った。



59:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:24:35.20 ID:jzMh8z1oo

 その晩僕が帰宅すると珍しく玲子叔母さんがリビングのソファに座って妹とお喋りして
いた。

「叔母さんお久しぶりです」

 僕はとりえず叔母さんにあいさつした。叔母さんは今の母さんの妹だ。

「よ、奈緒人君。元気だった?」

 叔母さんはいつものように陽気に声をかけてくれた。僕はこの叔母さんが大好きだった。
本当の叔母と甥の関係ではなかったことを知ってからもその好意は変わらなかった。

 この人は僕は自分の本当の甥ではないと昔から知ってたにも関らずいつも僕の味方をし
てくれていた。

「元気ですよ。叔母さん、久しぶりですね」

「元気そうでよかった」

 叔母さんはそう言って笑った。でも叔母さんは少し疲れてもいるようだった。

「相変わらず忙しいんですか? 何か疲れてるみたい」

「まあね。ちょうど年末進行の時期でさ。今日なんかよく定時に帰れたと思うよ」

 仕事が仕事だから叔母さんはいつもせわしない。

「今日は突然この近くの予定が無くなっちゃったんだって」

 叔母さんの隣に座っていた妹が口を挟んだ。

 僕はさりげなく妹を観察した。やはり自分で宣言したとおり真面目で清楚な女の子路線
を守っているらしい。僕がここまで本気で奈緒に惚れていなければ、結構真面目に妹に恋
してしまっていたかもしれない。それくらいに僕好みの女の子がその場に座って僕に笑い
かけていた。

「何・・・・・・?」

 僕の呆けたような視線に照れたように妹が顔を赤くして言った。なぜか叔母さんが笑い
出した。

「笑わないでよ」

 妹は僕の方を見ずに顔を赤くしたまま叔母さんに文句を言った。

「ごめんごめん。あたしもまだまだ若い子の気持ちがわかるんだと思ってさ」

「叔母さん!」
 なぜか狼狽したように妹が大声をあげた。

「悪い」

 叔母さんが笑いを引っ込めて言った。

「父さんと母さんは今日は帰ってくるの」

 僕は何だかまだ少し慌てている様子の妹に聞いた。

「今夜は帰れないって」

「そうか。せっかく叔母さんが来てくれたのにね」

「いいって。あたしは久しぶりに奈緒人君の顔を見に来ただけだからさ」

 叔母さんはそう言って笑った。

「でもどうしようか。あたしもさっき帰ったばかりで夕食の支度とか何にもしてないん
だ」

 妹が少しだけ困ったように言った。

 こいつが突然いい妹になる路線を宣言してから数日たっていたけど、やはり妹のこの手
の発言には違和感を感じた。そもそも両親不在の夜に明日香が食事の支度をすることなん
てもう何年もなかったのだし。



60:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:25:22.89 ID:jzMh8z1oo

「叔母さんも夕食はまだなの?」

 明日香が聞いた。

「うん。ここに来れば何か食わせてもらえるかと思ってさ。まさか姉さんがいないとは思
わなかったから当てがはずれちゃったよ」

「そんなこと言ったって電話とかで確認しない叔母さんが悪いよ。だいたい叔母さんほど
じゃないかもしれないけど、毎年年末はほとんど家にいないよ。ママもパパも」

 明日香の言ったことは本当のことだった。父さんと母さんはお互いに違う会社に勤めて
いるけど業種は一緒だった。そしてあるとき業界のパーティーで出会ったことが二人の馴
れ初めだったということも、昨年のあの告白の際に聞かされていた。

「何で年末にそんな忙しいんだろうな。音楽雑誌の編集部なんて暇そうだけどな」
 叔母さんがのんびりとした声で言った。「こう言っちゃ悪いけど、あたしのいる編集部
みたいなメジャーな雑誌を製作しているわけじゃないしさ」

「まあ、業界なりの事情があるんじゃないの」
 明日香が訳知り顔で言った。「それより叔母さん、夕食まだならどっかに連れて行って
よ。あたしおなか空いちゃった」

 明日香は昔から玲子叔母さんと仲が良く、お互いに遠慮せずに何でも言えるのだ。僕の
方もあの夜の両親の告白までは、明日香同様、あまり叔母さんに遠慮しなかった気がする。
叔母さんにはそういった遠慮を感じずに接することができるような大らかな雰囲気が備わ
っていたからだ。

 でも実の叔母と甥の仲じゃないことを知った日以降、僕は叔母さんには心から感謝して
はいたけど、前のように無遠慮に何でも話すことはできなくなってしまっていた。

「未成年のあんたたちを勝手に夜の街中に連れ出したら、あたしが姉さんに叱られるわ」
叔母さんがにべもなく言った。

「え~。黙ってればわからないじゃん」

 明日香が不平を言った。

「そうもいかないの。じゃあ、出前で寿司でも取るか。ご馳走してやるから」

「じゃあお寿司よりピザ取ろうよ。あとフライドチキンも」

 寿司と聞いて嫌な顔をした明日香が提案した。こいつの味覚はお子様なのだ。

「ピザねえ・・・・・・奈緒人君は寿司とピザ、どっちがいい?」

 どっちかと言えばもちろん寿司だった。さっきカラオケでピザとフライドチキンを食べ
たばかりだし。最初渋沢のリクエストをあさっりと却下した志村さんだったけど、実際に
注文した食べ物が運ばれてくると、ピザとチキンバスケットもその中にちゃんとオーダー
されていた。

 渋沢に厳しい様子の志村さんも結構気を遣ってあげてるんだと、僕はその様子をうかが
って妙に納得したのだった。

 それはともかく決してピザもチキンも嫌いではないけど昼夜連続となると正直あまり食
欲が沸かない。まあでもそれは僕だけの事情だから、ここでわがままをいう訳にもいかな
い。

「どっちでもいいですよ」

 僕がそう言うと叔母さんは少しだけ僕の顔を眺めてから微笑んだ。

「相変わらずだね、君は。もう少しわがままに自己主張した方が結城さんも姉さんも喜ぶ
んじゃないの」

 時々この人はこっちがドキッとするようなことを真顔で言い出す。僕はどう反応してい
いのか戸惑った。こんなことはたいしたことではない。わがままな明日香に譲歩するなん
ていつものことだったし、両親不在の夕食は今まではカップ麺とかで凌ぐのがデフォルト
になっていたのだ。

「明日香さあ、あんたのお兄ちゃんはお寿司の方が食べたいって。どうする? あんたが
決めていいよ」

 何を訳のわからないことを。僕はその時そう思った。当然、ピザがいいと騒ぎ出すだろ
うと思った僕は、妹が少し考え込んでいる様子を見て戸惑った。

「お兄ちゃんってお寿司が好きなんだっけ」

 明日香の意外な反応に僕は固まってしまいすぐには返事ができなかった。



61:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:26:04.65 ID:jzMh8z1oo

「いや。別にピザでも」

「じゃあお寿司でいいや。特上にしてくれるよね、叔母さん」

「あいよ。あんたが電話しな。好きなもの頼んでいいから」

 叔母さんは明日香に言いながらも僕に向かってウィンクした。

 三十分くらいたってチャイムの音がした。

「やっと来た。叔母さんお金」

「ほれ。これで払っておいて」

「うん」

 明日香が玄関の方に向って行った。

「さて」

 叔母さんが僕に言った。

「・・・・・・どうしたんですか」

 僕の言葉を聞いて叔母さんの表情が少し曇った。

「あのさあ。奈緒人君、何で去年くらいから突然あたしに敬語使うようになった?」

「ああ。そのことですか」

「ですかじゃない。君も昔は明日香と同じで遠慮なんかしないであたしに言いたい放題言
いってくれれたじゃんか」

「・・・・・・ごめんなさい」

「あんた。あたしに喧嘩売ってる?」

「違いますよ」

「じゃあ何でよ。あんたがあたしに敬語を使うようになったのって、結城さんと姉さんか
らあの話を聞いたからでしょ」

「まあ、そうですね」

「水臭いじゃん。それにあんた姉さんには敬語で話してる訳じゃないんでしょ」

 僕は黙ってしまった。

「明日香にだって、普通におまえとかって呼べてるじゃん。何であたしにだけ敬語使うよ
うになったの?」

 叔母さんは別に僕を責めている口調ではなかった。むしろ少し寂しそうな表情だった。
余計なことを言わずに謝ってしまえばいい。最初僕はそう思ったけど、そうして流してし
まうには叔母さんの口調や表情はいつもと違って真面目なものだった。だから僕は思い切
って言った。

「叔母さんって僕が去年真相を知らされる前から僕のことは、奈緒人君って呼んでたでし
ょ。妹には明日香って呼び捨てなのに。何で妹と僕とで呼び方を分けるんだろうって昔は
不思議に思ってたんです。でも、あの日両親から聞いてその理由がようやくわかりまし
た」

 叔母さんは少し驚いた様子だった。多分無意識のうちに僕と明日香を呼び分けてしまっ
ていたのだろう。多分この人は僕の父さんと僕が他人だった時から僕たちのことを知って
いたのだろう。そして両親の再婚前から僕のことは君付けだったのだろう。

「そういやそうだったね」
 叔母さんが珍しく俯いていた。「あたしとしたことが、無意識にやらかしてたか」

「よしわかった。あたしが悪かった。これからは奈緒人って呼び捨てにするからあんたも
敬語よせ」

 ・・・・・・何でだろう。僕はその時目に涙を浮べていた。



62:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:27:17.99 ID:jzMh8z1oo

 きっと幸せなのだろう。去年の両親の告白以来初めて感じたこの感覚はそう名付ける以
外思いつかない。相変わらず家には不在気味だけど、以前と変わらない様子で僕を愛して
くれている両親。その好きという言葉がどれだけ重いものなのかはまだわからないけど、
これからは僕のいい妹になると宣言しそれを実行している明日香。僕に向かって敬語をよ
せと真面目に叱ってくれる玲子叔母さん。

 そして、何よりこんな僕に初めてできた理想的な恋人である奈緒。

「叔母さんありがとう」

 僕は涙を気がつかれないようにさりげなく払いながら叔母さんに言った。

「ようやく敬語止めたか」
 叔母さんは笑ったけど、どういうわけか叔母さんの手もさりげなく目のあたりを拭いて
いるようだった。「明日香遅いな。たかが寿司受け取るくらいで何やってるんだろ」

「さあ」

「よし、奈緒人。おまえ玄関まで偵察して来な」

 さっそく叔母さんに呼び捨てされたけど僕にはそれが嬉しかった。

「じゃあ、見てくるよ」

 そう言って僕がソファから立ち上がろうとしたとき、明日香が手ぶらで戻って来た。

「お寿司屋さんじゃなかったよ」

 ぶつぶつ言いながら戻って来た明日香に続いて父さんがリビングに入って来た。

「あら結城さん。お帰りなさい」

「何だ、玲子ちゃん来てたのか」

 父さんはそう言ってブリーフケースを椅子に置いた。

「久しぶりだね。でもよくこの時期に会社を離れられたね」
 父さんは叔母さんに笑いかけた。「うちみたいな専門誌だってこの時期は年末進行なの
に」

「たまたまだよ。たまたま。それよか結城さんご飯食べた?」

 何だか叔母さんがうきうきとした様子で言った。

「まだだけど」

「じゃあ、特上の寿司の出前も頼んだことだし今夜は宴会だ。鬼の・・・・・・じゃなかった、
姉さんのいない間に息抜きしましょ」

「やった。宴会だ」

 明日香が楽しそうに言った。僕はそんな妹の無邪気で嬉しそうな顔をしばらくぶりに見
た気がした。

「ほら、結城さん。とっととシャワー浴びたらお酒用意してよ。さすがに勝手に酒をあさ
るのは悪いと思って今まで我慢してたんだから」

 父さんが苦笑した。でも僕にはすぐわかった。仕事帰りで疲れた顔はしているけど、父
さんの表情は機嫌がいい時のものだ。

「じゃあ久しぶりに子どもたちにも会えたし宴会するか」

「あたしに会うのだって久しぶりじゃない」

 叔母さんが笑って父さんに言った。

 父さんがシャワーを浴びている間に寿司屋が出前を届けに来た。明日香が珍しくつまみ
を用意すると言い張ってキッチンに閉じこもってしまっていたので、僕が寿司桶を受け取
りに行った。

「奈緒人、あんたが受け取っておいで」

 もうすっかり呼び捨てに慣れたらしい叔母さんからお金を受け取った僕は玄関でいつも
のお寿司屋さんから寿司桶を受け取ってびっくりした。

 これっていったい何人前なんだ。

 明日香は叔母さんに対しては好きなだけ甘えられるのだろう。叔母さんから預かった二
万円を出して小銭のお釣りを受け取った僕はそう思ったけど、今では僕もその仲間なのだ。



63:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:28:50.67 ID:jzMh8z1oo

 僕はリビングのテーブルの上に寿司を置いた。

「お~。相変わらず人の奢りだと明日香は遠慮しないな」

「父さんが帰ってこなければ絶対余ってたよね、これ」

「うん。ちょうどよかったじゃん。たまには明日香もいいことをするな」

 明日香がサラミとかチーズとかクラッカーとかを乗せた大きな皿をキッチンから運んで
きた。こういう甲斐甲斐しい妹を見るのは初めてだったけど、それよりも明日香が運んで
きたオードブルらしきものは母さんがよく用意していたものと同じだった。

 母さんの真似をしているだけといえばそれだけのことだけど、中学生のくせにどうしよ
うもないビッチだと思っていた妹を僕は少し見直していた。意外とこいつって家庭的だっ
たんだ。

「お兄ちゃん、何見てるのよ」

 明日香が不思議そうに聞いた。

「あんたのこと見直してるんでしょ。意外と僕の妹って家庭的だったんだなあって」

「叔母さん・・・・・・」

「よしてよ。気持悪いから」

 明日香は赤くなって、でも僕の方は見ずに叔母さんに向かって文句を言った。それは決
して機嫌の悪そうな口調ではなかった。

「さっぱりしたよ。お、豪華な寿司だな。つまみまでちゃんとあるし」

 父さんがシャワーから出て着替えてリビングに入ってきた。

「そのオードブル、明日香が作ったんだって」

 叔母さんがからかうように言った。

「パパ、どう? ママが作ったみたいでしょ」

 そう言えば明日香は昔から実の親である母さんより父さんの方が好きみたいだったな。

 僕はぼんやりと考えた。

 そしてさっき感じた幸福感はまだ僕の中に留まっていた。母さんがいないのは残念だけ
どこれは久しぶりの家族団らんだった。今度会った時に奈緒にもこの話をしよう。

「それ結城さんに作ってあげたの? それとも奈緒人に?」

 叔母さんがからかった。

「うるさいなあ。酔っ払いの叔母さん用に作ったんだよ」

「よくできてるよ。ありがとう明日香」

「どういたしましてパパ・・・・・・お兄ちゃん?」

「奈緒人」

 父さんが僕の方を見て笑った。

「うん。うまそう」

 とりあえず僕は当たり障りなく誉めた。

 明日香はまた赤くなった。そんな明日香を見て父さんと叔母さんが笑った。



64:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:29:42.80 ID:jzMh8z1oo

 リビングの片方のソファには父さんと叔母さんが並んで座っていて、叔母さんは楽しそ
うに僕をからかっている。僕と並んで座っている明日香は、さっきから何か考えごとをし
ているようだった。

「しかし明日香が料理をねえ。あたしも人のことは言えないけど、明日香の料理じゃおま
まごとしているみたいなもだよなあ。正直に言ってごらん奈緒人。美味しくないでし
ょ?」

 結構きついことをおばさんが言ったけど、こればかりは明日香と叔母さんの関係を知ら
ないと理解できないかもしれない。二人の仲のよさはこの程度の悪口で破綻するような関
係じゃない。両親が再婚して僕と明日香には血縁がないのだと聞かされたとき、母さんか
ら聞いたことがある。前の夫を交通事故で亡くした後、そのショックで抜け殻のようにな
ってしまった母さんに代わって明日香の面倒を一手に引き受けたのは、当時まだ音大生だ
った玲子叔母さんだったと。明日香にとっては叔母さんは母さん以上に母親なのだ。

「明日香のご飯って僕は好きだよ。残さず食べてるし。な、明日香」

「ごめん。お兄ちゃん今何って言ったの」

 明日香が物思いから冷めたように聞いた。

「いや。叔母さんがさ。最近よく作ってくれるおまえの料理なんて美味しくないでしょっ
て言うからさ。僕は全部食べてるよなっておまえに聞いただけ」

「無理してるんだろ奈緒人。いいから正直に明日香の料理の感想を言ってごらん・・・・・・あ、
結城さんありがと」

 玲子叔母さんが言った。後半は自分のグラスにお酒を注いだ父さんへのお礼だった。

「いや玲子ちゃん。明日香はやればできる子だからね。このつまみだってママと同じくら
い上手にできてるよ」

 父さんが明日香に微笑んだ。

「上手にできてるって、それ出来合いのチーズとかサラミとか盛り合わせただけじゃん」

 叔母さんが言った。どうも酔ってきているらしい。でも叔母さんの皮肉っぽい言葉には
明日香への悪意なんてないことを僕はよく知っていた。

「いや盛り付けだって才能だしな。な、奈緒人」

「うん。最近明日香が作ってくれる夕食は美味しいよ。少なくともカップ麺とかコンビニ
弁当よりは全然いいよ」

「またまた、奈緒人は昔から如才ないよな。あんたいい社会人になれるよ。あはは」

 叔母さんは豪快に笑って空いたグラスを父さんに突き出した。

「パパ?」

 明日香が父さんにに話しかけた。

「うん? どうした明日香」

「パパとママって今度はいつ帰ってくるの」

 父さんの表情が少し曇った。そして申し訳なさそうに言った。

「大晦日の夜まではパパもママも帰れないと思う。今日だってよく帰れたなって感じだし
ね」

「うん。じゃあ夕食の支度頑張らないと」

「・・・・・・本当にどうしちゃったの? 明日香。最近気まぐれで奈緒人に飯を作ってたのは
知ってたけどさ。これからずっと姉さんの代役をするつもり?」

 叔母さんが嫌がらせのように言った。

「気まぐれじゃないもん。もうちょっとで学校休みだし、それくらいはね」

「明日香は偉いな」

 父さんが微笑んだ。



65:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:30:28.05 ID:jzMh8z1oo

「じゃあ明日は食材とか買い込んでおかないとね」

 明日香が父さんの言葉に顔を赤くしながら言った。

「ママからお金貰ってるか」

「うん。お金は大丈夫だけど、いっぱい買い込むからあたし一人で持てるかなあ」

「どんだけ買うつもりだよ」

 叔母さんが明日香をからかった。

「そうだ。叔母さん一緒に買物に行ってよ。明日日曜日じゃん」

「アホ。あたしは明日から会社に泊まりこみで校正地獄だわ」

「どうしようかなあ」

 明日香は呟いた。

「明日は予定ないし荷物持ちくらいなら僕でもできるかも」

 そう口に出したとき、僕は明日香にキモイとか罵倒されることを覚悟していた。

「じゃあ手伝ってよ。兄貴だって食べるんだから」

 でも、明日香はあっさりとそう言っただけだった。

 明日香と僕の会話を聞いていた父さんとと玲子叔母さんは、どういうわけか目を合わせ
て微笑みあった。

 その夜の騒ぎは日付を越えるまで続いた。母さんがいたら間違いなく十時過ぎには子ど
もたちは退場を言い渡されていたと思うけど、この夜は父さんも叔母さんも心底楽しそう
にしていて、僕と明日香を早く寝かせようとは考えつかなかったみたいだった。

 そのことをいいことに僕も明日香もこの場に居座って父さんと玲子叔母さんの会話を聞
いたり、時折話に混じったりしていた。僕にとっては本当に久しぶりに貴重な時間だった。
そして僕の隣に座っていた明日香も以前のようにひねれることなく父さんや叔母さんに素
直に笑いかけていた。多分この場に母さんがいなかったせいだろう。明日香は父さんや叔
母さんに対しては、いつもといわけではないけどだいたいは素直に振る舞っていたのだか
ら。

 それより僕を驚かせそして本当にくつろがせてくれたのは、明日香が僕の話に噛み付い
たりせず普通に反応してくれたことだった。最近の明日香は本人が宣言したとおりいい妹
になろうとしてくれていたみたいだけど、僕はその態度を心底から信用したわけではなか
った。いい妹になるとか僕が好きだという明日香の宣言は二重三重の罠かもしれない。僕
は戸惑いながらも密かに警戒していたのだった。

 でもこの夜の団欒の席の明日香の楽しそうな態度はすごく自然でリラックスしていたも
のだった。父さんや叔母さんに対してだけではなく、僕に対しても普通に楽しそうに笑っ
て受け答えしてくれている。僕はいつのまにか妹に対する警戒を忘れ、僕たちは仲のいい
兄妹の会話ができていたみたいだった。そして僕と明日香が穏やかな会話を交わすたびに、
父さんと叔母さんは嬉しそうに目を合わせて微笑みあっていた。

 心穏やかな時間はまだ続いていたのだけど、僕にとっては今日はいろいろ忙しく疲れた
一日だった。奈緒を迎えに行きはじめて彼女と心がすれ違ったり、仲直りしたり。叔母さ
んともまた昔のように仲良くなったり。楽しかったけどいろいろ疲れてもいたのだろう。
僕は父さんたちの会話を聞きながらうっかりうとうとしてしまったようだった。

 一瞬、転寝した自分の体が揺れて倒れかかったことに気がついて僕は目を覚まして体を
起こそうとした。

「いいよ。そのままで」
 明日香の湿ったようなでも優しい声が僕の耳元で響いた。「お兄ちゃん疲れたんでしょ。
そのままあたしに寄りかかっていいから」

 僕は妹の肩に体重を預けながら寝てしまっていたみたいだった。体を起こそうとした僕
の肩を手で押さえながら明日香が続けた。

「このまま少し休んでなよ」

 僕はその時何とか起きようとはしたけれど、結局疲労と眠気には勝てずにそのまま目を
閉じた。



66:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:31:35.30 ID:jzMh8z1oo

 しばらくして僕は目を覚ました。寝ている間中、夢の中で柔らかな会話が音楽のように
意識の底に響いていたようだった。僕は体を動かさないようにして、何とか視線だけを明
日香の方に向けた。明日香は軽い寝息をたてて目をつぶっている。僕と明日香はお互いに
寄りかかりながらソファに腰かけたままで眠ってしまっていたのだった。

 そろそろ明日香を起こして自分も起きた方がいい。そして静かに会話を続けている父さ
んと叔母さんにお休みを言おう。そう思ったけど明日香の柔らかい肩の感触が心地よく居
心地がよかったため、僕は再び目を閉じてしばらくの間半分寝ているような状態のままじ
っとしていた。

 そうしているとさっきまで心地よい音楽のようだった会話が意味を持って意識の中に割
り込んできた。僕は半分寝ながらもその会話に耳を傾けた。

「二人とも寝ちゃったか」

「起こして部屋に行かせた方がいいかな」

「よく寝てるしもう少しこのままにしてあげたら? 明日香と奈緒人のこんな仲のいい姿
を見るなんて何年ぶりだろ」

「そうだな。最近二人の仲が昔のように戻ったみたいなんだ。玲子ちゃんのおかげかな」

「あたしは関係ないですよ。でもこうして見ると本当に仲のいい兄妹だよね」

「うん。最近、明日香は妙に素直なんだよな」

「明日香は昔から結城さんには素直だったじゃない。本当の父親のように結城さんに懐い
ているし」

「そんなこともないよ。それに最近母親にも素直だからあいつも喜んでる」

「姉さんはちょっと気にし過ぎなんだよね」

「それだけ気を遣ってるんだよ、子どもたちに」

「・・・・・・全く結城さんは姉さんに甘過ぎだよ。それは一度はお互いに諦めた幼馴染同士で、
奇跡的に結ばれたんだから結城さんの気持ちはわかるけどさ」

「おい・・・・・・玲子ちゃん」

「大丈夫。二人ともよく寝てるみたいだから。よほど楽しかったんだろうね」

「子どもたちには悪いと思っているよ」

「最近どうなの? ナオちゃんとは面会できてるの?」

「うん。僕に娘と面会させるっていう約束は守ってくれているよ」

「大きくなったでしょ。マキさんと似ているならきっと可愛い子になってるんでしょう
ね」

「だから、子どもたちが」

「寝てるって。でもさ。真面目な話だけどさ、結城さん編集長なんだからもう少し部下に
仕事任せて家に帰るようにしなよ。うちのキャップなんてあたしの半分も社にいないよ」

「うちもあいつの社も零細な出版社だからね。玲子ちゃんとこみたいな大手みたいにはい
かないよ」

「勝手なこと言ってごめん。でも奈緒人と明日香を見ていると二人とも無理してるなあっ
て、たまに思うの」

「君がフォローしてくれて助かっているよ。玲子ちゃんだって忙しいのにね」

「あたしはこの子たちが大好きだから。好きでやってるだけだよ」



 僕は今では完全に目が覚めていたけど、父さんと玲子叔母さんの会話を聞きたくて寝た
振りをしていた。罪悪感はあったけど父さんが僕たちのことをどう考えているかなんて直
接聞いたことがなかったので、僕の中で好奇心が罪悪感に打ち勝ったのだった。それにナ
オって誰だ。もちろん奈緒のはずはないけど、このタイミングでその名前を聞かされると
びっくりする。マキっていう人も知らない人だし。



67:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:32:34.17 ID:jzMh8z1oo

「だいたい結城さんとこの雑誌ってクラッシクの専門誌でしょ? 本当にこの時期そんな
に忙しいの?」

「また馬鹿にしたな。零細誌は零細誌なりにいろいろあるんだよ」

「あ・・・・・・」

「どうした?」

「そういや結城さんの『クラシック音楽之友』の先月号読んだんだけどさ」

「どうかした?」

「ジュニクラの都大会の記事書いたのって結城さん?」

「そうだよ。ピアノ部門だけだけど」

「中学生の部の優勝者の批評って・・・・・・」

「おい。ちょっと、それは今はまずいよ」

「・・・・・・大丈夫。二人ともよく寝てるから。あの記事ちょっと恣意的って言うか酷評し過
ぎてない?」

「・・・・・・」

「カバンに入ってたな、確か・・・・・・ああこれだ」



『鈴木奈緒の演奏は正確でミスタッチのない演奏だった。きわめて正確に作曲者の意図に
忠実に演奏するテクニックは、中学生とはとても思えないほど完成度が高い。ただ、同じ
曲を演奏して第二位に入賞した太田有希は、技術的には鈴木奈緒に劣っていたし改善すべ
き点も多いが、演奏表現の幅の広さや感情の揺らぎの表現は素晴らしかった。これがコン
クールでなければ、そして審査員ではなく観客の投票だったら太田の方が鈴木より票を集
めただろう。コンクールの順位としては鈴木の一位は妥当な結果であることは間違いない
が、演奏家としての将来に関しては太田の方が期待を持てるかもしれない。奇しくも二人
とも富士峰女学院の同級生だそうだ』



「・・・・・・これって酷すぎない?」

「感じたままを書いたんだけどな」

「別に無理にナオちゃんを酷評する必要なんかないのに」

「別に無理にとかじゃないよ。こういう仕事をしている以上、身びいきじゃなく正確に感
じたことを書かないとね。あの時の一位と二位の受賞の結果は正しい。でも将来性に関し
ては太田の感情表現の方が将来楽しみだというのがあの記事の趣旨だよ」

「何かさあ。昔姉さんから聞いたんだけどさ」

「何?」

「大学時代に先代の佐々木の婆さんがさ」

「・・・・・・ああ」

「結城さんの前の奥さんの演奏に対してよく注意してたんでしょ。演奏のふり幅が少なく
て感情が表現できていないって。メトロノームが演奏してるんじゃないのよ、ってさ」

「・・・・・・」

「あれと同じじゃん。結城さんの批評ってさ」

 もうすっかり目が覚めていた僕は、寝た振りをしながら志村さんからもらったWEBの
コピーを思い出した。



『東京都ジュニアクラッシク音楽コンクールピアノ部門中学生の部 受賞者発表』

『第一位 富士峰女学院中等部2年 鈴木奈緒』

『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』

『表彰状、トロフィー、記念品、賞金30,000円の贈呈』



68:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:33:55.81 ID:jzMh8z1oo

 父さんの雑誌の批評はこの時の奈緒の演奏に関するものらしかった。やはりこの会話は
僕の彼女に関する話題だったのだ。二人ともこのとき優賞したナオが今では僕の彼女だと
いうことを知らない。それでも仕事柄父さんは奈緒のことを批評記事の対象としてよく知
っているようだった。でもそれだけではないかもしれない。奈緒と面会とはいったい何の
ことなのか。

 父さんの仕事がクラッシク音楽の雑誌の編集である以上、こういうことがあっても不思
議はないのだけど、それにしても父さんのような職業で音楽を聞いている人に注目される
ほど奈緒は有名だったのだ。

 僕は、二人の会話の中で面会のこと以外にも気になることがあることに気がついた。

『別に無理に奈緒ちゃんを酷評する必要なんかないのに』

 叔母さんのこの言葉はどういう意味なのだろう。どうして父さんが無理に奈緒のことを
酷評する必要があるのだろうか。父さんは職業の必要上から都大会のピアノ部門中学生の
部の優勝者の批評記事を書いただけではないのか。

 それから僕は初めて自分の実の母親の情報も耳にしたことになる。

『結城さんの前の奥さんの演奏に対してよく注意してたんでしょ。演奏のふり幅が少なく
て感情が表現できていないって。メトロノームが演奏してるんじゃないのよ、ってさ』

 父さんと僕の本当の母さん、それに話からすると玲子叔母さんも同じ大学に通っていた
のだろうか。そして実の母さんも奈緒と同じでピアノの演奏をしていたのだろうか。僕は
このとき、閑静な住宅街にあるピアノ教室の玄関を思い出した。今までは気にしたことも
なかったけど、あの教室には一枚の看板が控え目に掲示されていた。



『佐々木ピアノ教室』



「それはだな」

 父さんが何かを話し出そうとしたとき、明日香が身じろぎして目を覚まして起き上がっ
た。



 結局楽しかったひと時の集まりが解散したのは夜中の一時前だった。起き上がった明日
香に対して父さんはもう寝た方がいいよと声をかけた。

「うん。もう寝る。叔母さん一緒に寝よ」

 明日香は叔母さんに言った。叔母さんは笑い出した。

「明日香が珍しくあたしに甘えてるからそうするか。結城さん、いい?」

「うん。そうしてやって。さて、じゃあもう寝るか。おい奈緒人も起きるなさい」

 もともと起きていた僕だけど、父さんに声をかけられて目を覚ました振りをした。

「奈緒人もちゃんと起きたか? 歯磨いてさっさと寝た方がいいよ」

 叔母さんが笑って言った。

 こうしてこの夜の小宴会は解散になった。叔母さんは洗い物をすると言ったけど明日も
仕事があるんだからと父さんは叔母さんを止めて明日香の方を見た。

「明日あたしがやっておくよ。叔母さん行こ」

「明日香も大人になったなあ。じゃあ明日香に甘えるか。結城さん、奈緒人。お休み」

「お休み玲子ちゃん」「お休み叔母さん」

 父さんと僕が同時に言った。二人が出て行くと父さんが伸びをして眠そうにあくびをし
た。歯磨きを済ませて自分の部屋に戻った僕は、誰かからメールが来ていることに気がつ
いた。



69:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:35:16.19 ID:jzMh8z1oo

from :有希
sub  :こんばんは~
本文『メアドを教えてもらった直後に図々しくメールしちゃいました(汗)』

『親友の奈緒の彼氏ならあたしの親友ですから! 奈緒人さんそこで引かないでください
ね。奈緒に彼氏ができたって聞いてびっくりです。昔からピアノ一筋だと思っていたのに
裏切られた~(笑)でもよかったと思います。奈緒って昔からもてたけどその割には男の
子に興味がないみたいだったから少し心配だったんです。本当は今まで奈緒が気に入る男
の子があらわれなかっただけなんでしょうね。奈緒人さんは初めて奈緒が付き合いたいと
思った男の子だったのね。奈緒のことよろしくお願いします。あと奈緒に対する十分の一
くらいでいいからあたしのことも相手してね』

『それでは図々しいメールでごめんなさい。これからもよろしくお願いします(はあ
と)』



 翌日僕は妹に起こされた。時計を見るともう十時近い。

「お兄ちゃん起きてよ。買物に一緒に行ってくれるって約束したじゃん」

 僕は眠気を振り払ってベッドに起き上がった。

 え?

「あのさ」

「どしたの?」

「どしたのって・・・・・・」

「ああ」

 明日香は同じベッドの中で僕の隣に横たわっていた。半ば半身を起こして僕の方に抱き
つくようにしながら僕に声をかけて起こそうとしたらしい。

「ああじゃなくてさ。何でここにいるの?」

「叔母さんと一緒にあたしの部屋で寝てたんだけどさ。叔母さんすごくお酒臭いし寝相も
悪いのよ」

「・・・・・・おまえが叔母さんに一緒に寝ようって誘ったんだろうが」

「よく覚えてるね。お兄ちゃん寝てたんじゃなかったの」

 僕は一瞬どきっとした。

「何となく記憶があるだけだよ」

 僕は曖昧に言った。

「ふ~ん。それでさ八時になったら叔母さん、突然起き上がって会社に行っちゃった。パ
パと一緒に仲良く出かけたみたいだよ」

「そうか・・・・・・。っておまえなあ」

「何よ」

「それとおまえが僕のベッドに潜り込むのとどういう関係があるんだよ」

「何となく寂しくなってさ。祭りの後って言うの?」

 珍しく感傷的な妹の感想は僕にも素直に共感できるものだった。昨日の夜が楽しかった
分だけ父さんと叔母さんがいなくなったこの家はいつにもまして寂しい感じがする。

 血の繋がっていない兄のベッドに潜り込むとは、深夜アニメに登場する妹じゃあるまい
しどうかとは思うけど、明日香が人恋しいと思った気持ちには僕は素直に共感できた。今
までは両親不在で兄妹別々に過ごしていて寂しいなんて感じたことはなかったのに、たっ
た一晩の幸せに僕と明日香は打ちのめされてしまったのだった。

「もう少しこのまま寝るか? それとももう起きて買物に行くか?」

 僕は傍らで毛布に潜り込もうとしていいる妹に聞いた。

「・・・・・・もうちょっとこうしていようかな」

 妹は顔を毛布の中に隠して呟くように言った。



70:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:36:52.21 ID:jzMh8z1oo

「何だよ、人のこと起こしといて」

 僕は妹にそう言ったけど妹が今感じている気持ちはよく理解できた。

「寝よう!」

 妹が元気よくそう言って再び体を横たえた僕の上に自分が被っていた毛布をかけてくれ
た。

 次に目を覚ましたそれから一時間後くらいだった。妹は僕から少し離れた場所で横向き
になって寝入っていた。明日香のことだからまたいつかのように抱きついてくるんじゃな
いかと思ったけど、そんなことはなかったようだ。

 少しお腹が空いていた。昨日は叔母さんに特上寿司をいっぱいご馳走になったとはいえ、
もうお昼過ぎなのだ。よく寝ているので少しかわいそうだとは思ったけど僕は妹に声をか
けた。このまま寝ていたら一日が無駄になってしまう。それに今日は食材の買出しをする
って明日香も言っていたのだし。体に触れるのは気が引けたので普通に声をかけると、さ
すがによく寝たせいか明日香はすぐに目を覚ました。

「今何時?」

 明日香が目をこすりながら言った。

「十一時くらい」

「そっか。よく寝た―――ってまずい」
 妹が跳ね上がるように飛び起きて言った。「何で起こしてくれなかったのよ。十時には
家を出たかったのに」

「何言ってるんだ。さっき十時ごろ自分で起きてたじゃん。それでまた寝るって言ったの
おまえだろ」

 理不尽な言いがかりだったけど以前のようなとげは感じられない。同じベッドで一緒に
寝るとか仲が悪かった兄妹の関係が、普通の関係を通り越して極端に逆側に振れてしまっ
ている様な気もしたけど、それでもまだ昨夜感じた家族の安心感のような感覚は今でも続
いていた。どうやら昨夜のことは夢ではなかったみたいだ。

「早く起きて仕度して。買物に出かけるよ」

 妹は慌しく起き上がって僕を急かした。

「そんなに慌てなくてもまだ時間はあるのに・・・・・・」

「いいから。あ~あ、失敗しちゃったなあ」

「失敗って?」

「何でもないよ。ほら早く起きて着替えてよ」

「わかったよ」

 明日香が何で慌てているのかはわからない。それでも明日香と二人で買物に出かけるこ
とを楽しみに感じている自分に気がついて僕は驚いた。奈緒に会えないのは寂しいけど、
今日だけは奈緒と約束をしていなくてよかったのかもしれないと僕は思った。

 明日香と二人きりで外出するのは、多分初めてのことだったと思う。今までのことを考
えると、明日香と並んで冬の曇り空の下を喧嘩もせず刺々しい雰囲気もなく歩いているこ
と自体が奇跡のようなものだ。

 僕たちは別に手を繋ぐでもなく寄り添うでもなく、でもお互いに疎遠というほどの距離
感を感じることもなく並んで歩いた。今でも昨夜の魔法は解けていない。去年のあの夜以
来僕にすっぽりと覆いかぶさっていた暗く思いベールがはがれて、急に周囲が明るくなっ
たような感覚はまだ続いている。これは明日香のおかけでもあるし玲子叔母さんの助けも
あったことは間違いない。僕は明日香の隣を黙って歩きながら改めて考えた。それでも僕
の生活が急に明るい方向に転回したのは奈緒と知り合ったためだった。まるで合理的な関
係などないのかもしれないけど、僕は不思議にそう確信していた。

 明日香は駅ビルの中のスーパーマーケットで買物をしたいと言ったので僕たちは近所の
スーパーを素通りして駅前に向っていた。近所の店と何が違うのかはよくわからないけど、
わからない以上は言うとおりにした方がいいのだろう。

 駅ビルについたとき僕はすぐに買物をするのかと思ったのだけれど、明日香は僕の先に
立ってビルの中のファミレスの中に入って行った。朝食も昼食もまだなのだから先に食事
をする気なのだろうか。別にそれでもいいけど一言言ってくれればいいのに。明日香は店
の中に入ると寄ってきた店員には構わずにきょろきょろと店内を見回していた。

「あ、いた。あっちに行こう」

 僕はいきなり明日香に手を取られて窓際の席の方に連れて行かれた。



71:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:39:42.96 ID:jzMh8z1oo

「有希ちゃん遅れてごめん」

 窓際のテーブルには可愛らしい少女が一人で座っていた。一瞬僕には何が起こっている
のかわからなかったけど、よく見るとそれは奈緒の友人の有希だった。

「いえいえ。あたしも来たばっかだし」

 有希は妹の方を見て笑った。

「本当にごめん。兄貴ったら男の癖に支度するのが遅くてさ」

「明日香ちゃん、ちゃんとメールくれたからわかってたよ。あ、奈緒人さん今日は」

「こんにちは・・・・・・って、君たち知り合いだったの?」

 ぼくは驚いて明日香と有希の顔を交互に眺めながら言った。

「お兄ちゃんこそ有希ちゃんと知り合いだってあたしに黙ってたくせに」

「いや、おまえと有希さんが知り合いだなんて知らなかったし。それに有希さんとは一度
会っただけで」

「昨日はいきなり変なメールをしてごめんなさい」

 有希が話をややこしくした。明日香が疑わしげに僕を見たけど、妹の表情は柔らかかっ
た。昨夜の久し振りの家族団らんからずっとそうなのだ。

 それにしても僕が明日香と有希と一緒にファミレスのテーブルを囲む意味がわからない。
有希とメアドを交換しただけで奈緒とは気まずくなったというのに、これを奈緒に見られ
たら今度こそ本当に僕は破滅だ。そう思うなら席を外せばいいのだけど、昨夜の父さんと
玲子叔母さんの会話を思い起こすと、ここはもう少し有希と仲良くなった方がいい気もす
る。別に記憶にない自分の過去にそれほど執着があるわけではないけど、その過去の話に
奈緒と有希の名前が出ているのなら話は別だ。

「お兄ちゃんはそっちに座って」

 明日香が有希の正面に腰をおろしながら有希の隣を指差した。

「え? 何で」

「何よ、お兄ちゃんあたしの隣がいいの? あたしは別にそれでもいいけど有希ちゃんに
シスコンだと思われちゃうよ」

 本当に何なんだ。

「奈緒人さんさえよかったら隣にどうぞ」

 有希が飽きれたように笑いながら言った。僕は恐る恐る有希の隣に腰掛けた。今、僕の
隣にいる小柄な女の子が奈緒の親友だと思うとなぜか少し混乱する。正面には明日香がい
る。自分の家族と僕の付き合い始めたばかりの彼女の友だちと一緒にいることは悪い気持
はしないけれど、なぜ僕の知らないところでこの二人が親しくなったのかはどうしても気
になる。

「有希ちゃん何頼んだの?」

「うん。モンブランと紅茶。先に注文しちゃってごめんなさい」

「全然OK。でもあたしもお兄ちゃんも朝から何も食べてないから食事してもいい?」

 有希は明日香の顔を不思議そうに見た。そして笑い出した。

「何よ」

「明日香ちゃんってさ。あたしと二人きりの時は奈緒人さんのこと『兄貴』って呼ぶのに、
奈緒人さんと一緒にいる時は『お兄ちゃん』て呼ぶのね」

 何かよくわからないけどこれは恥かしいかもしれない。妹は赤くなって口ごもってしま
った。

「ごめんなさい。変なこと言っちゃって」
 赤くなって狼狽している妹を見て少し後悔したように有希が言った。「別に変な意味じ
ゃなの。何か羨ましいなあって思って」

「うらやましいって・・・・・・何で?」

「よくわかんないけど、あたしって一人っ子だからかなあ。お兄さんがいるのってうらや
ましい」

「そんなにいいもんじゃないけどね、実際にお兄ちゃ・・・・・・兄貴がいても」



72:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:42:10.07 ID:jzMh8z1oo

「それよかさ、何で二人は知り合いなの?」

 僕はさっきから気になっていることを質問してみた。有希は奈緒の親友のはずだ。その
有希と明日香が知り合いということはまさか明日香は奈緒とも知り合いなのだろうか。

「何でって言われても。最近ちょっといろいろあって知り合ったんだよ」

 明日香が素っ気なく答えた。全く答えになっていない。

「そうなんです。でも知り合ったばかりの明日香ちゃんのお兄さんが奈緒の彼氏だなんて
びっくりです」

 そう言った有希は少しも驚いていないように見えた。

「それよか何食べる? お腹空いたよ」

 明日香が話を変えた。

「・・・・・・ピザとフライドチキン?」

「何でよ」

「食べたかったんだろ? 昨日は寿司に付き合ってもらったからな」

「・・・・・・よく覚えてたね」

「まあね」

「変なところだけ無駄に優しいんだから」

 明日香はまた少し赤くなって小さい声で言った。

「いいなあ。あたしもお兄さんが欲しい」

 有希が再び明日香をからかうような目で見ながら言った。さっきもそうだたけど明日香
が同学年の女の子にこういう風に扱われていることが僕には少し新鮮に感じられた。

「こんなのでよかったらあげようか」

 まだ赤い顔をしたまま明日香が有希に言い返した。

 結局この二人の関係やなぜここで待ち合わせをしていたかということは、いつの間にか
曖昧にされてしまった。二人は身を乗り出すようにしてテーブルに開いたメニューを眺め
ている。こんなことなら明日香が有希の隣に座ったらよかったのに。有希がケーキだけで
はなく自分も食事しようかなって言ったのがきっかけだった。

「じゃあ二人で一緒にピザ食べない? ここのピザ大きいから一人では食べきれないし」

 結局ピザを頼むのか。明日香と有希がどのピザを注文するのか楽しそうに話しているの
を聞きながら僕は考えた。その時、僕はふと昨晩の父さんと叔母さんの会話を思い出した。
父さんの書いた記事の話だ。確か一位に入賞した奈緒より二位入賞のオオタユキという子
の演奏の方が感情表現が豊かだったとかいう内容の記事だったはずだ。そういえば以前志
村さんから貰った奈緒の入賞記事には二位以下の記載はなかっただろうか。奈緒のことし
か気にしていなかったのでよく覚えていないけど。僕はポケットからその記事を取り出し
て眺めた。恥かしいけど僕はこのプリントをいつも持ち歩いては時々奈緒の小さな顔写真
を眺めていたのだ。僕は改めてその記事を眺めてみた。



『東京都ジュニアクラッシク音楽コンクールピアノ部門中学生の部 受賞者発表』
『第一位 富士峰女学院中等部2年 鈴木奈緒』
『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』
『表彰状、トロフィー、記念品、賞金30,000円の贈呈』



 ここまでは暗記するほど眺めている。問題はその次の部分だ。やはり載っていた。一位
の奈緒の記事との違いは写真がないというだけだ。



『第二位 富士峰女学院中等部2年 太田有希』
『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』
『表彰状、トロフィー、記念品、賞金20,000円の贈呈』



 演目も一緒だ。まあでもこれは意外でも何でもないだろう。同級生で同じ先生について
ピアノのレッスンを受けている二人は、ただの親友というだけでなくピアノでも競い合う
ライバル同士でもあるということだ。これで僕にはまた奈緒に関する知識が増えたのだ。



73:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:44:27.24 ID:jzMh8z1oo

 注文したいピザが決まったのだろう。二人はメニューを閉じて何やら携帯の画面をお互
いに見せあっている。

「有希さんって、太田有希っていう名前だっけ?」

 有希が僕の方を見た。並んで座っている有希との距離が近かったせいで彼女の顔は一瞬
どきっとしたほど僕のすぐそばに近寄っていた。

 僕は以前どこかで読んだことを思い出した。対人距離という概念があって、人によって
その距離感は異なるそうだ。相手との距離がだいたい50センチ以下になる距離は密接距
離と呼ばれている。それは格闘をしている場合などを除き、愛撫、慰め、保護の意識を持
つ距離感であるそうだ。逆にそういう親密な関係にない他者を近づけたくない距離と捉え
た場合、同じ距離であってもそれは排他域とも呼ばれる。

 多分僕はこの排他域が人より大きいのだと思う。ついこの間まで僕の持っている排他域
に踏み込んでくる人は誰もいなかったし、僕はそのことに満足していた。でも最近は僕の
排他域に入り込んでくる人が増えていた。いつの間にか抱きついたりベッドに潜り込んで
くるようになった妹の明日香。僕の腕にしがみついて身を寄せてくれる奈緒。

 奈緒は僕の恋人だからそれは密接距離だ。奈緒に対して愛撫・・・・・・、はともかく慰めや
保護欲は感じているし、彼女と密着していることは素直に嬉しい。妹について言えば今ま
では妹の接近は居心地がいいとは言えなかった。僕はいつも明日香のことを警戒していた
のだ。でも今朝明日香が僕の隣に寝ていることを知っても僕は別に居心地の悪い思いをし
なかった。むしろ昨晩の楽しいひと時が終って寂しそうな妹を慰めたいとまで思ったくら
いに。もちろん思っただけで口に出したりはしなかったけど。

 妹との距離も確実に縮まっているのだろう。別にそれは悪いことではない。まあ明日香
が僕を好きだと言った言葉があまり重いものだとそれは問題ではあるけれど。その距離の
中に突然踏み込んできた有希は別に居心地が悪るそうな様子はなかった。

「そうですよ。奈緒人さん、それ奈緒ちゃんから聞いたの?」

 僕は有希に受賞者の一覧が掲載されたプリントを渡した。

「ああこれで見たのね。あたしいつも奈緒ちゃんより下なの。でも奈緒ちゃんは特別に上
手だから」

 そのことをあまり気にしている様子もなく有希は笑った。

「本当に奈緒ちゃんと仲がいいんだね」

「うん。でも明日香ちゃんと奈緒人さんだって仲がいいじゃない。何度も言うけどうらや
ましいなあ」

 有希はいつの間にか敬語を使わなくなっていた。どうも人見知りしない子らしい。そし
て明るい笑顔と一緒にそういう言葉が出ているせいか、僕は年下の女の子にタメ口で話さ
れても少しも不快感を感じなかった。

 明日香も同じことを考えているようだった。

「ちゃんはやめて。明日香でいいよ」

「そう? じゃあ明日香も有希って呼んでね」

 明日香は何かを期待しているかのように僕の方を見たけど、そういうわけにはいかない。
少なくとも今はまだ。そのうち僕が奈緒を呼び捨てできるようになり、奈緒もそうしてく
れるようになるといいのだけど、そうなる前に奈緒の親友とお互いを呼び捨てしあうよう
な仲になるのはまずい。有希の件では地雷を踏んだばかりだし、こうして会っていること
すら本当は心配なくらいなのだ。

「ピアノといえばさ」
 僕は明日香の視線から目を逸らした。「『クラシック音楽之友』っていう音楽の専門誌
を知ってる?」

「もちろん知ってますよ」

「先月号は読んだ?」

「あれって千五百円もするんだもん。高いから滅多に買わないの」

「そう」

 僕は自分のバッグからクラッシク音楽之友を取り出した。今朝、不用意にもソファの上
にぽつんと置き去りにされていたのだ。父さんの書いたという記事をゆっくりと見たいと
思った僕は家を出がけに自分のバッグに入れてきていた。目次からコンテストの批評記事
を探しあててそのページを開いた僕は、ざっとその内容に目を通してから開いたままの
ページを有希に見せた。



74:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:48:01.81 ID:jzMh8z1oo

『『鈴木奈緒は正確でミスタッチのない演奏をしてのけた。きわめて正確に作曲家の意図に
忠実に演奏するテクニックは、中学生とはとても思えないほど完成度が高い。ただ、同じ
曲を演奏して第二位に入賞した太田有希は、技術的には鈴木奈緒に劣っていたし改善すべ
き点も多いが、演奏表現の幅の広さや感情の揺らぎの表現は素晴らしかった。これがコン
クールでなければ、そして審査員ではなく観客の投票だったら太田の方が鈴木より票を集
めただろう。コンクールの順位としては鈴木の一位は妥当な結果であることは間違いない
が、演奏家としての将来に関しては太田の方が期待を持てるかもしれない。奇しくも二人
とも富士峰女学院中学校の同級生だそうだ』



「専門の雑誌で誉めてもらえるなんて嬉しいけど」
 有希が記事に目を通してから言った。「でもちょっと誉めすぎだよ。先生とかに将来を
有望視されているのは奈緒ちゃんの方だもん」

「何の話してるのよ」

 話について来れない明日香が不思議そうに聞いた。

「父さんの記事が有希さんを誉めてるんだよ」

「パパの記事?」「え? お父さんの記事?」

 二人が同時に驚いたように声を出した。

「うちの父親ってその雑誌の編集長してるんだ。その記事を書いたのも父親だよ」

「え~。それ早く言ってよ。あたし記事に文句つけちゃったじゃない」
 有希が恨めしそうに僕を見た。「奈緒人さんの意地悪」

「何々、パパってその雑誌を作ってるの?」

「・・・・・・父親の職業くらい覚えておけよ」

 ピアノなんかに興味がないのか明日香の感想は的外れなものだった。

「気になくていいよ。これ有希さんにあげるよ」

 後で考えたらその雑誌は玲子叔母さんの忘れ物だったのだけど。

「いいの?」

「うん。一応有希さんが良く書かれている記事だから記念にして。あ、でも奈緒ちゃんに
は・・・・・・」

「わかってる。見せないから安心して」
 有希は雑誌を抱きかかえるようにしてにっこりとした。「奈緒人さん、ありがとう。大
事にするね」

 有希とは一緒に食事をして一時間ほどしてから別れた。明日香と有希は仲良くピザを半
分こした挙句、有希が最初に注文していたケーキまで二人でシェアしていた。その様子は
僕から見ても微笑ましかった。それに何より明日香が派手で中学生離れした女の子とでは
なく、有希のような子と仲良くしていることが僕には嬉しかった。それでも知り合ってか
ら間がないらしい明日香と有希のおしゃべりに、僕が付き合わされた理由は最後までわか
らなかった。

「お兄ちゃん買物に行くよ」

 ぺこっと一礼して帰って行く有希の後姿をじっと眺めていた僕に明日香が声をかけた。

「何ぼけっと有希のこと見つめてるの? もしかして有希に惚れちゃった?」

「いや・・・・・・そんなことないけど」

「なに真面目に返事してんのよ。冗談だって」

 明日香が笑った。

「じゃあスーパーに行こう。今夜は何食べたい?」

 もちろんそんなことを妹から聞かれたことは初めてだった。



75:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:50:03.91 ID:jzMh8z1oo

from :奈緒
sub  :無題
本文『さっきは本当にごめんなさい。そしてあたしのわがままを許してくれてありがとう。
奈緒人さんに冬休みは一緒デートしようって言われたときは嬉しかった。それだけは本当
です。でもあたしには自由な時間はないの。学校のないこの時期にすることは随分前から
先生に決められていました。そもそも練習曲の進度が他のライバルの子とくらべてあまり
進んでいないし、来年からは佐々木先生とは別な先生についてソルフェージュと聴音も勉
強しなければいけないので、この休み中にある程度練習曲を進めておかなければならない
のです』

『奈緒人さんはあたしにとって初めての彼氏だし、あたしもせっかくの休みは奈緒人さん
と一緒に過ごしたかった。でもピアニストになる夢を捨てるのでなければやるべきことは
やらなければいけません。これは誰に言われたわけでもなく自分から希望してしているこ
とですから。さっき奈緒人さんは気にしなくていいよと言ってくれたけど、多分本心では
ないと思います。あたしがナオトさんの立場だったらピアノとあたしとどっちを選ぶの?
 くらいの ことは言っていたと思うから』

『奈緒人さん大好きです。心から愛してます。でもやっぱり冬休みはあなたと会えないと
思います。本当にごめんなさい。あと、今までの土曜日のように毎日あたしを教室まで迎
えに来てくれると言ってくれてありがとう。嫌われても仕方ないのに奈緒人さんはこんな
ことまで考えてくれたのですね。でもこれも無理です。ごめんなさい。休み中は夜の十時
まで個人レッスンがあって、終る時間が遅いのでいつもママが車で迎えに来てくれるので
す。一応、一人で帰るからお迎えはいらないとママに言ってみたらすごく怒られました。
中学生が夜中に一人で電車に乗るなんて許さないそうです』

『だからナオトさんがあたしに提案してくれたことは全てお断りすることになってしまい
ました。嫌われても仕方ないですよね。それでも図々しいけどナオトさんに嫌われたくな
い。でもよかったらせめて毎日寝る前にメールとか電話でお話したいです。勝手なことば
っか言ってごめんね。今日はまたこれから二時間くらい練習です。本当にごめんなさい』



 もう何度読んだかわからないくらい読み返した奈緒のメールを、僕は再び読み返してい
た。本文中にいったい何回ごめんなさいと書いてあるのか思わず数えたくなるくらい、ひ
たすら僕に対して謝罪している内容のメール。確かにがっかりしたのは事実だけど、そん
なことくらいで僕が奈緒のことを嫌いになるなんてありえないのに。いったい何で彼女は
こんなに狼狽し不安をさらけ出しているようなメールをよこしたのだろう。

 お互いに年内最後の登校日だった朝、冬休の予定を聞いた僕に対して奈緒は俯きながら
休み中は会えないのだと言った。その時は時間がなかった。もうすぐ僕の学校の最寄り駅
に電車が到着するタイミングだったから。確かに奈緒に会えないと言われたとき、一瞬僕
は奈緒に振られたのかと思ったけれど、駅に着く前の短い時間でピアノのレッスンの過密
な予定を説明された。それで僕は、奈緒と別れる直前に、気にしなくていいよと言うこと
ができたのだ。あとピアノ教室に迎えに行ってもいいかとも。

 それでも奈緒は僕の誘いを断ったことを気にしていたのだろう。今日は午前中で授業が
終ったので、最後まで部活がある渋沢を残して、志村さんと二人で学校を出ようとした時、
奈緒のメールが届いた。

 朝の会話でもだいたい事情はわかっていたので奈緒に対して含むところなんか何もなか
ったのだけど、僕の誘いを断ったことに対して奈緒は随分気にしていたようだった。志村
さんの好奇の視線を無視して、帰りの電車内で僕はそのメールを読んだ。そして再びそん
なに気にしなくていいこと、もちろんこんなことで僕が奈緒のことを嫌いになるなんてあ
り得ないという返事をした。でも彼女からは返事はなかった。多分、もうあの教室でピア
ノのレッスンに集中していたのかもしれない。奈緒のメールは僕をますます彼女のことを
好きにさせるだけの効果しかなかった。普段の土曜日の午後のようにピアノ教室に迎えに
行くことさえ断られたのは、正直少しショックだったけど。

 こうして冬休の間僕は奈緒に会えないことを知った。奈緒のピアノに対する情熱と、そ
のために費やさなければならない時間を思い知った僕は奈緒を恨むどころか、それだけの
過密な日程をこなさなければならない彼女が、それでも僕に対して気を遣ってくれている
ことに心温まるような気持ちを抱いた。

 僕とピアノとどっちを選ぶのかなんていう感想を僕が抱くわけがない。むしろこれほど
まで情熱を傾けているピアノの練習を邪魔しようとした僕に対してここまで奈緒が気にし
てくれていることが嬉しかった。事実としては長い休み期間中、僕は奈緒と会えないとい
うことだった。自分の勝手な妄想の中では、二人でクリスマスにデートをしたり初詣に行
ったりする予定だったのだけど、それは全て実現しないことになったのだ。

 孤独な休暇期間なんて今に始まったことではない。一人でも僕にはすることはある。新
学期に備えて勉強をしておくと後が楽だし、コンプしていないストラテジーゲームもパソ
コンの中に放置してある。要するにいつもと同じ冬休を過ごせばいいのだ。寂しいけど奈
緒には寝る前にメールをするようにしよう。

 でも、意外なことに僕の冬休は忙しいものとなった。明日香と有希が常に僕のそばにい
るようになったのだ。



76:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:51:38.99 ID:jzMh8z1oo

「起きて・・・・・・。もう十二時になるよ。奈緒人さん早く起きて」

 耳元で女の子の柔らかい声が響いていた。今まではアニメの中でしか起こるわけがない
と考えていたシチュエーションがリアルでも毎日起こることに、この頃になると僕はだい
ぶ慣れてきていた。何しろ明日香がいい妹宣言をした日以降、ほぼ毎日妹は僕の部屋に勝
手に侵入して僕を起こそうとするのだ。それも冬休に入ってからはその行為はだんだんエ
スカレートして、とりあえず僕に声をかけた後、勝手に僕の隣に潜り込んで二度寝するよ
うにすらなっていた。

 こんなことは奈緒には言えない。でもそんな明日香を拒もうとは思わなかった。仲が悪
かった兄妹が、僕を毛嫌いしていた明日香が僕に心を許し始めていたのだから。それでも
その朝、僕を起こそうとするその声には少し違和感を感じた。最近の明日香ならとりあえ
ず僕に声をかけるだけで何が何でも起こそうとはしない。それなのに今日に限って穏やか
なその声は執拗に僕を起こそうとしていた。

 僕は諦めて瞼を開いた。僕の部屋のベッドの前に立っていたのは有希だった。僕はその
時本気で慌てていた。何で僕の部屋に有希がいるのだ。夢でも見ているのだろうか。

「あ、やっと起きた」

 有希が顔を赤くして言った。

「え? 何々、有希さん?」

「あ、はい」

 赤くなった有希はそう言ったけどそれは何の答えにもなっていない。

「有希さん、何で僕の部屋にいるの?」

 有希は顔を赤くしたままで何かを必死で訴えようとしていたみたいだけど、結局何も言
わずに僕にルーズリーフに何かを書きなぐったメモを渡しただけだった。

『お兄ちゃんへ。明日は大晦日だからおせち料理を用意しなければいけません。でも今日
はあたしは用事があるので買ってきて欲しい物をメモにしておくので、今日中に揃えてお
いてね。万一お兄ちゃんが夕方まで寝過ごすといけないので、有希に鍵を預けてお兄ちゃ
んを起こしてくれるよう頼んでおいたから。あと、買物にも付き合ってくれるみたいだか
ら、有希と一緒にメモに書いた物を買って来ておいてください。あたしは夕方には家に戻
るからね。お兄ちゃんはあたしがいなくて寂しいかもしれないけど、いい子にしていて
ね』

『買っておいて欲しい物 おせち料理』

「明日香から奈緒人さんに渡してって頼まれたの。あとお昼ごろ奈緒人さんの部屋に行っ
て起こしてって」

「うん、ありがと。目を覚ましたよ」

 僕は言った。ようやく意識がはっきりとしだすと、僕の部屋に明日香以外の女の子がい
るという違和感が半端でなくすごい。

「明日香め。有希さんに無理言ったみたいだね。本当にごめん」

「ううん。奈緒人さんは気にしないで。おかげで奈緒人さんの部屋にも入れたしあなたの
寝ているとこも見られたし」

 有希が笑って言った。

 冬休に入ってから明日香と有希が毎日のように会っている場所にどういうわけか僕も同
席していたのだけど、それは明日香に荷物持ちを強要されていたせいだった。有希も僕に
対してはあくまでも親友の彼氏で、友だちの明日香の兄貴というスタンスで僕に接してく
れていた。なので有希は過度に馴れ馴れしい態度を僕に向けることはなかった。でも今、
僕の部屋に入って僕を起こしてくれた有希の態度は今までとは何か違う。僕の寝ていると
ことを見られたしって、そんなものを有希は見たかったのか。

「ちゃんと起きた?」

 有希が言った。

「うん。本当にごめん。妹が無理なことお願いしちゃって」

「別にいいの。全然無理じゃないし」

 もともと誰とでも親しくなれる子だとは思っていたけど、今日の有希は何だかいつも以
上に親し気だ。妹の友だちで奈緒の親友。僕にとっては有希はそれだけの存在なのに。僕
が気にし過ぎているだけで有希にとってはそれだけのことなのかもしれない。でも今僕の
部屋に僕と有希は二人きりだ。そのことを正直に奈緒に話せるかといったら、もちろんそ
んな勇気は僕になかった。



77:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:52:28.27 ID:jzMh8z1oo

「あのさ」

「はい」

「着替えようかなって思うんだけどさ」

「あ、ごめんなさい」
 有希はにっこりとした。「あたしはリビングに行ってるね。奈緒人さんと一緒に買物し
ろって明日香に言われてるから外出する格好に着替えてね」

 それだけ言って有希は部屋を出て行った。

 その日は結局明日香抜きで有希と二人で過ごすことになってしまった。明日香の指示は
明確だった。あいつはもともとおせち料理なんて作る気はなかったのだ。要するに出来合
いのおせち料理を買っておけということだった。有希と僕は明日香の指示にしたがってデ
パ地下とか名店街みたいなところを回ったのだけど、どの店に行っても予約なしではお売
りできませんと断られた。

「まあ最初からわかっていたけど」
 有希が苦笑した。「明日香って世間知らずだよね。おせち料理なんて予約なしで買える
わけないのに」

「そうなんだ」

 世間知らずという点では僕も明日香と同類らしい。

「僕もこの時期なら普通に買えるもんだと思ってたよ」

「そんなわけないでしょ。高価な商品なんだから売れ残りのクリスマスケーキみたいに売
ってるわけないじゃん」

「有希さんさあ・・・・・・・知ってたなら最初からそう言ってくれればよかったのに」

 ここまで明日香の指示どおり出来合いのおせち料理を入手しようとして、僕たちは相当
無駄な努力を強いられていたのだ。

「うん。最初から絶対無理だと思っていたんだけど、一応明日香に頼まれたんでさ」

「無理なら無理って、明日香に言ってくれればよかったのに」

「でもあたしにとっては無駄でもなかったから」

「どういうこと?」

「・・・・・・奈緒人さんといっぱいお店を回ったりできたでしょ? まるで二人でデートして
るみたいだったし嬉しかった」

 有希は何を言っているのだろう。妹を通じて有希とも親しくなれた僕だったけど有希に
対して恋愛感情を抱いたことは一度もない。奈緒の親友である有希だって僕が奈緒と相思
相愛だということはよくわかっていたはずだ。何か今日の有希は様子がおかしい。どうお
かしいかと言えば僕のことが好きだと宣言した時の何か吹っ切れたようだった明日香とそ
っくりだ。

 僕は少し疲れたという有希をいつもの駅前のファミレスに連れて行った。そこは明日香
と有希がよく待ち合わせしている場所だったので、買物帰りに一休みする場所としては違
和感はなかったのだけど、有希と二人でこの店に入るのは初めてだった。

「お昼食べてないからお腹空いちゃった」

 有希はそんな僕の感じている違和感なんか全く気が付いていないように言った。有希は
平気なのだろうか。彼氏でもない男と二人きりで買物をしてファミレスに入ることなど気
にならないのだろうか。

「そういや起きてから何も食べてないね」

「中途半端な時間だけど食事しようか」

「うん」

「ピザ食べたいな。でもここのピザ大きくて食べきれないんだよね。いつもは明日香と二
人で食べてるんだけど」

「うん」

「半分食べてもらってもいい?」

 ここまで有希をうちの大晦日の準備に付き合わせておいてここで断る理由はなかった。
やがて注文したピザとかサラダが運ばれてきた。



78:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/11/30(日) 21:53:58.01 ID:jzMh8z1oo

「すいません。取り皿をください」

 有希は遠慮せずそう言った。彼女は自分が注文したサラダやピザを取り分けて僕の前の
皿に入れてくれた。

「・・・・・・それ多すぎだよ。有希さんの分がほとんど無くなっちゃうじゃん」

「奈緒人さんは男の人なんだからいっぱい食べてね」

 やっぱり今日の有希は何だか様子がおかしかった。有希にとって僕の彼女の奈緒や僕の
妹の明日香とはどんな存在なのだろう。僕の勘違いでなければ、有希は僕に好意を抱いて
いるとしか思えない。僕は決心した。明日香のことはともかく奈緒のことを考えずに無自
覚に有希と仲良くなるわけにはいかない。奈緒とは親友の有希にだってそのことは十分に
わかっているはずだった。

「あのさあ」
「あの・・・・・・」

 僕と有希は同時に話し始めた。

「先にどうぞ」

 僕は有希に話を譲った。

「明日香の指示通りにおせち料理買えなかったわけだけどどうするつもりなの?」

「どうするって・・・・・・予約なしでは買えないんだから仕方ないでしょ」

「いいの? 明日香に怒られますよ」

「両親が何か考えてくれるでしょ。それに叔母さんだって新年はうちに来てくれると思う
し。大晦日は出前の蕎麦とかで過ごすよ」

「出前の蕎麦とかって・・・・・・それこそ予約した?」

「してないけど」

「じゃあ無理ね。奈緒人さんと明日香って本当に世間知らずなのね」

「そうかな」

「うん、そうだよ。わかった、あたしがおせちも年越し蕎麦も面倒みてあげる」

「いいよ、そんなの。カップ麺の天蕎麦だって全然大丈夫だし」

「あたしが嫌なの。そんなものを明日香と奈緒人さんに食べさせるのは」

 ここまでくるといくら奈緒が明日香の友だちなのだとしてもいくらなんでも行き過ぎだ。

「そこまで君に迷惑かけられないし気にするなよ」

 そう言うと有希は目を伏せた。

「奈緒人さん、もしかして迷惑?」

「そんなことないよ。でも有希さんだって忙しいのに」

「あたしは休み中は暇だから」

 僕は有希の返事にひどく違和感を感じた。有希はコンテストでは奈緒の後塵を拝したか
もしれないけど、それでも二位に入賞するくらいの実力がある。そして一位の奈緒があそ
こまで過酷な練習スケジュールを組んでいいる以上、有希だって状況はほとんど同じでは
ないのか。

「有希さんだってピアノの練習とかで忙しいでしょ。音楽科のある高校とか音大を目指す
なら休みなんかないらしいじゃん。君だってピアノで忙しいんじゃないの?」

 それを聞いた有希は驚いた様子だった。

「随分詳しいのね。奈緒に聞いたの?」

 有希が僕を見つめて言った。

「うん」

「そう」

 有希はもうおせち料理のことなどすっかり忘れたようだった。そして真面目な表情で言
った。「奈緒人さんには納得できないかもしれないけど、彼女と付き合うってそういうこ
となんだよ」



81:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/03(水) 00:01:35.78 ID:uW2Zr2Wlo

「いや、それは理解しているつもり。納得できないなんてことはないよ。むしろ奈緒ちゃ
んって大変なんだなあって思っただけでさ」

「そう・・・・・・。大変だなあって思ったんだ」

「うん」

「それだけ?」

「それだけって・・・・・・どういう意味?」

 僕と奈緒は確かに付き合ってはいるけど、普通の恋人同士のように休暇の間に会うこと
すらできない。むしろ平日の方が登校時や土曜日に奈緒と会えるだけまだましだった。奈
緒は学校のない休暇期間中はその全ての時間をピアノに専念すると自分で決めていたから。
そして僕は奈緒のその決定を邪魔しようとは思わなかった。むしろ邪魔をしてはいけない
とさえ決心したくらいだ。僕と付き合うことにより奈緒の夢の実現を阻害することになる
のなら、僕は喜んで寂しい思いに耐えるつもりだった。それに奈緒は休み中僕に会えない
ことを、そこまで考えなくてもと思うほど悩んでくれていたのだ。僕にとってはそれだけ
でも十分だった。

「奈緒人さんって本当に奈緒ちゃんのこと好きなの?」

 有希が顔を上げ僕を見た。

「好きだけど、でもそれそこどういう意味で聞いてるの?」

 僕は同じ言葉を繰り返した。有希が何を言いたいのかよくわからなかったのだ。明日香
や僕のためにおせち料理や年越し蕎麦を何とかしてあげましょうかと言ってくれたさっき
までの柔らかな態度の有希とはまるで別人のようだ。

「好きな子のことならさ、普通はもっと気になるんじゃないの?」

「え」

「休み中はピアノの練習が忙しいからって奈緒ちゃんに言われて、理解のある優しい彼氏
として気にするなよって彼女に言ってあげてさ。そして優しい自分に自己満足してるって
わけ?」

「そんなことはないよ」

「それで休みの日は妹の明日香とかあたしとかで適当に時間を潰してるのね」

 ・・・・・・いくらなんでもこれはひどい。僕だって奈緒に会いたい気持ちはあるのにそれを
我慢しているのだ。でも有希の話はまだ終らなかった。

「何で奈緒ちゃんがそこまでピアノにこだわるか、奈緒ちゃんにとって奈緒人さんと一緒
にいるのと、志望している音大を目指して彼氏とのデートを犠牲にして頑張るのとどっち
が幸せかとか考えないの?」

「だって奈緒ちゃんが自分で決めたことだろ? 僕はそれを応援したいと・・・・・・」

「・・・・・・奈緒人さんって本当に奈緒ちゃんのこと好きなの?」

 彼女は繰り返した。

「何でそんなこと君に言われなきゃいけないの」

 僕は我慢できずについにそう言ってしまった。でも有希は精一杯の僕の抗議をあっさり
スルーした。

「じゃあさ。奈緒人さんは奈緒ちゃんのどういうところが好きになったの?」

 いつのまにか僕の奈緒に対する愛情を疑われているような話の流れになってしまってい
る。奈緒のピアニスト志望への僕の理解が何でこんな話に繋がるのか、それが何でそんな
に有希を興奮させたのかよくわからない。一見冷静に話しているようだけどこの時の有希
は感情に任せて話しているようにしか見えなかった。

「どういうところって・・・・・・」

 今まで何度も考えたことではあったけど改めて僕は考えた。正直に言えば大人しそうな
美少女の奈緒の外見のせいも大きい。でもそれだけじゃない。彼女といるとすごく話がし
やすい。何よりもこんなどうしようもない僕なんかを好きになってくれて告白してくれて、
こんな僕なんかに嫉妬したり気を遣ってくれたりする。そういう奈緒が好きなのだ。僕は
それをたどたどしい口調で有希にわかってもらおうとした。こんな恥かしいことを口にし
たのはあの朝奈緒の告白に返事をして以来だった。

「・・・・・・奈緒人さんって自分に都合のいい行動をしてくれるアニメとかゲームの中の女の
子に夢中になっている男の子みたいね」



82:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/03(水) 00:02:15.85 ID:uW2Zr2Wlo

 これだけ恥かしい思いでようやく有希の質問に答えた僕を待っていたのは、嘲笑にも似
た言葉だった。

「本当に生身の奈緒ちゃんに恋してるの? じゃあさ。奈緒ちゃんが奈緒人さんのどうい
うところが好きになったか考えたことある?」

 それは厳しい質問だった。奈緒に告白されてから僕はそのことをいつも考えていたよう
な気がする。そしてその答えに回答を見出すことはできなかった。これで何度目になるの
か覚えていないほど悩んで考えた疑問に対する答えは結局見つからなかったのだ。

「それは自分ではよくわからないよ」

 きっと僕は情けない声を出していたと思う。奈緒のような子がなぜ一度だけ雨の日に傘
に入れてあげたくらいで僕なんかを好きになってくれたのか。それは多分このまま奈緒と
付き合えたとしても謎のままなのかもしれない。考えてみれば奈緒の僕に対する愛情は、
彼女の態度からは疑う余地がなかった。それは自分に自信がない僕でさえ奈緒の日頃の態
度から納得できていたことだった。でも僕は奈緒が僕のどんなところを好きになってくれ
たのかなんて彼女に改まって聞いたことがないこともまた事実だった。僕の混乱した情け
ない表情を見た有希は我に帰ったようだった。

「あ、ごめん。何かあたし奈緒人さんにひどいこと言ってる」

「ひどいとまでは思わないけど、正直結構きつかった」

「本当にごめん。あたし、これまでも奈緒ちゃんのこと好きになった男の子のこと今まで
よく見てきたから」

「うん」

「だいたいは奈緒ちゃんの方がその気にならないんだけどね」

 だいたいはと言うことは奈緒の方も気になった男がいたことがあるのだろうか。でもそ
のことを口に出す前に有希が話を続けた。

「心配しなくていいよ。すごく不思議だけど、奈緒ちゃんがここまで入れ込んだ男の子っ
て奈緒人さんが初めてだと思うよ」

「別に心配とかしてないけど」

 有希の言葉は僕を傷つけもし、また安堵させもした。僕は年下の有希の言葉に一喜一憂
するようになってしまったようだ

「奈緒ちゃんはあのとおり可愛いし性格もいいし、彼女に惚れる男の子はいっぱいいたん
だけど、奈緒ちゃんがちゃんと付き合った相手は奈緒人さんが最初だしね」

「うん。男と付き合うのは初めてだって奈緒ちゃんも言ってたよ」

「あたしさ。奈緒ちゃんとは小学校の頃からの友だちでね。あたしにとっては唯一の親友
なの。だからさっきは奈緒人さんには言い過ぎたかもしれないけど」

「別にいいけど」

「だから奈緒人さんには、簡単に奈緒ちゃんの話しに納得してほしくないの。もう少し深
くあの子のこと考えてあげて」

 正直、有希が何を言っているのか理解できたわけではなかったけど、僕は有希が奈緒を
大切にしている気持ちは理解できた。それで有希に対して憤る気持ちはおさまってはいけ
れど、それでもこれ以上僕と奈緒との付き合いの意味を有希と話し合う気はなかった。そ
れは僕と奈緒が二人で話し合うべきことだったから。

「話は変わるけどさ。有希さんだって奈緒と同じくらいピアノ関係で忙しいんじゃない
の? 明日香と僕を気にしてくれるのは嬉しいけど、こんな無駄な買物に付き合ってくれ
る暇なんか本当はないんでしょ」

 僕は無理に話を逸らした。

「・・・・・・あたしは奈緒ちゃんとは違うよ」

 有希が言った。



83:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/03(水) 00:03:53.68 ID:uW2Zr2Wlo

「別に父さんが書いた記事だからってこだわる気はないけどさ。有希さんだって単なる趣
味でピアノやってるわけじゃないんでしょ。都大会で二位入賞とか感情表現では奈緒ちゃ
んより将来期待できるとまで言われてるんだし」

「あたしは別に・・・・・・ピアニストになろうなんて思っていないもの」

「じゃあ君は天才なんだ。奈緒ちゃんなんか問題にならないくらい」

 この時の僕は大人気なかったかもしれない。さっきから明るく清純で人懐こい女の子と
思い込んでいた有希から厳しいことを言われていた僕は、こんなつまらないことで憂さ晴
らしをする気になっていたのだった。

「君は天才なんでしょ。奈緒ちゃんみたいに必死に練習しなくても、僕と明日香なんかの
相手をしていても本番では成績がいいみたいだしね」

「あたしのこと馬鹿にしてるの」

「馬鹿にしてるのは君の方だろ」

 僕も思わずとげとげしい口調で言い返した。こんなことは初めてだった。ひどい嫌がら
せを明日香にされていた頃も、両親から出生の秘密を明かされた時でさえ、少なくとも誰
かの前では冷静さを失ったことはなかったのに。何で僕は有希の言葉にだけこんなに素直
に反応してしまったのだろう。今まで溜め込んでいたいろいろなことが、有希の言葉に触
発されて一気に迸り出てしまったみたいだった。

「奈緒人さんのこと、馬鹿になんてしてなんていないよ」

 さっきまでの勢いはもうなかった。有希は途切れ途切れにようやく言葉を口からひねり
出しているみたいだ。

「じゃあ何で」

「あたしね」
 有希は少し寂しそうに笑った。「明日香にばれちゃった」

「・・・・・・うん」

「だけど何で明日香にはわかっちゃったのかなあ」

「何がばれたの?」

「好きだから」

「え」

「あたし奈緒人さんのこと好きだから」

 有希は僕を見てはっきりとした口調でそう言った。



「お兄ちゃん、おせち買えた?」

 夜になってどこからか帰宅した明日香は僕に会うとまずそれを聞いてきた。

「買えてない」

「え~、ちゃんとメモ書いたのに。お兄ちゃんは信用できないから明日香にも一緒に行っ
てもらったのに」

「・・・・・・予約もなしにこの時期におせち料理なんて買えるわけないだろ。おまえには常識
がないなのか」」

「そうなの? じゃあお正月とかどうするよ」

「どうって・・・・・・コンビとかファミレスなら正月でも営業してるでしょ」

「本気で言ってるの? パパとママも帰ってくるのに。玲子叔母さんだって多分家に来る
よ。そん時におせちもなかったら叔母さんに何言われるかわからないじゃん」

「それは確かに」

 叔母さんのことだから正月はうちを期待しているに違いない。どうも彼氏もいないみた
いだし。

「はあ。でも考えていても仕方ないか。あとでママ・・・・・・は無理か。おせちのことはパパ
か叔母さんに相談するよ」

「うん。そうして」



84:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/03(水) 00:04:46.33 ID:uW2Zr2Wlo

 突然有希から告白された直後だというのに僕は明日香と普通に会話できている。何だか
僕が言うのも生意気なようだけど、これまでの人生で全く縁がなかった女の子の告白にい
つのまにか耐性ができたみたいだ。奈緒の告白。明日香の告白。そして今日有希にまで告
白された。明日香はともかく、奈緒と有希の場合は出会ってからたいして間がない時期の
告白だった。でも奈緒の告白は有希の場合とは違う。一見するとろくに知りもしない可愛
い女の子に夢中になって奈緒の告白に応えたように思えるかもしれないけど、あの時はわ
ずかな時間だけしか話したことのない奈緒に、僕は心から惹かれていたのだった。奈緒が
告白してくれるより前から。

「何であたしを無視して考えごとしてるのよ」

 妹が不満そうに言った。



『あたしは奈緒ちゃんの友だちだから。だから奈緒人さんに振り向いて貰おうなんて考え
てないし。というか生意気なようだけど、万一奈緒人さんがあたしのこと好きになってく
れたとしてもあたしは奈緒人さんとは付き合えないもん』

『どういうこと? 君の言っていることさっきからよくわからないんだけど』



「ねえ。ねえってば。お兄ちゃんあたしの話聞いてるの?」



『だって奈緒ちゃんに悪いじゃん。あたしはたとえ親友の彼氏だったとしても本当にその
人が好きになったのなら遠慮しない。そう思ったときも以前はあったのだけど』

『どういう意味?』

『奈緒ちゃんってさ。多分奈緒人さんが考えているよりメンタルが弱い子なんだよ。さっ
き奈緒人さん、奈緒ちゃんのこと大変なんだなって言ったでしょ。あなたが奈緒ちゃんの
行動に関して感じた感想はそれだけなんでしょ。でもね。あれだけ気持ちが弱い子が必死
になってピアノに縋りついていることとか、奈緒人んに依存している意味とか、奈緒人さ
ん何にも気がついていないでしょ』

『あたしはピアノなんかに人生をかけるつもりはないけど。もし仮にあたしがどんな手段
でも使ってピアノのコンテストで奈緒ちゃんに勝とうと決心したとしたら、必死にピアノ
の練習をするとかそういうことはしない』

『あたしなら奈緒人さんを誘惑して奈緒ちゃんを振らせるように仕向けると思う。多分そ
れだけで奈緒ちゃんぼろぼろになってろくな演奏もできなくなるから』

『・・・・・・変なこと言ってごめん。奈緒ちゃんは親友だから。あたしは奈緒人さんのことが
好き。でもそれだけなの。奈緒人さんと付き合う気はないの。奈緒ちゃんのためにもごめ
んね、変な話しちゃって』



「明日も別に予定ないんでしょ? おせちは無理でもせめてお正月っぽい食べ物を買いだ
しに行くからね。荷物持ちよろしく。あと有希も誘って今日の埋め合わせにケーキとかご
馳走しないとね」

 妹の言葉がようやく耳に入って意識の中で形になった。それでは僕は明日も奈緒ではなく
有希と会わなければいけないのだ。



85:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/03(水) 00:05:24.88 ID:uW2Zr2Wlo

 大晦日の深夜、僕は明日香と二人で初詣でに出かけた。いわゆる二年参りというやつだ。
明日香が言うには大晦日の十時ごろ出かけて新年の早朝には家に戻る予定らしい。

 大晦日には家に戻って来る予定だった両親からは何の連絡もないし、まともな年越し蕎
麦すら用意できず微妙に苛立っていた様子だった明日香は、大晦日の深夜に半ば無理矢理
僕を家から連れ出したのだった。

 とりあえず明日香がデパートの地下の食品売り場で何とか揃えてきたそれらしい料理と
か、コンビニで買えたぱさぱさの蕎麦でも十分に満足だった僕としては、もう今日は自分
の部屋でゲームをしていてもよかったのだけど、明日香にとっては大晦日は何かのイベン
トが起こらないと納得できない特別な日のようだった。

 行き先はこの日は早朝まで終電に関係なく運行している電車に乗って三十分はかかる場
所だった。僕たちは最寄の駅から深夜の電車に乗り込んだ。普段なら絶対に電車なんかに
乗っていない時間に外出しようとしているだけでも、何か特別なことをしているような気
になる。こんな時間なのに大晦日の深夜の電車は、まるで朝のラッシュ時のように混み合
っていたけど、晴れ着を着た女の子の華やかな姿が見られたせいで、さっきまで結構悩ん
でいた僕まで少し華やかな気分になっていった。

 この時間だけは奈緒と会えないことや有希の不可解な告白を忘れて、明日香のことを考
えてやらなければいけないのかもしれない。僕はそのとき考えた。奈緒に会えないのは何
より寂しいけど、有希に偉そうに話したとおり、僕は奈緒のその選択に納得していたはず
だ。それに長い休暇もいつかは終る。学校が始まればまた毎朝奈緒と会うことができるの
だ。

 それに明日香は今年も例年のように自分の友だちと外出するのだろうと僕は思っていた。
でも明日香は自分で宣言したとおり以前の派手な友人だちとは全く会っていないようだっ
た。考えてみれば一人で過ごすことがあまり苦にならない僕と違って、明日香は誰かと一
緒にいることが好きなようだった。僕のためにいい妹になる宣言をしたせいで友だちを無
くした明日香は、大晦日に寂しい思いをすることになってしまったのだ。

 紅白が終る頃になってもう両親から連絡はないだろうと思ったのか、明日香は突然ソフ
ァに座って眠りそうになりながらテレビを見ている僕を外に連れ出した。明日香に気を遣
った僕は半ば無理矢理家の外に連れ出されながらも、こういうのも気晴らしとしては悪く
ないなと考え直したのだ。

 深夜の電車の中で楽しそうに笑いさざめく晴れ着姿の女の子たち。車窓を流れる高層ビ
ル街のきらめく夜景。そして僕の隣には何となく不満そうな顔をした明日香がいる。明日
香は以前のようなケバい格好はしなくなっていた。そのせいもあって周囲の華やかな着物
姿の少女たちに比べるとだいぶ地味な容姿に見える。

 でもそれは明日香のせいではない。着物なんて母さんが不在の家で明日香が一人で引っ
張り出せるものではないし、着付けだって助けなく自分でできるものではないのだ。両親
が不在では、周囲で笑いさざめいている少女たちが普通にできることも明日香にとっては
望むべくもない。そう考えると僕は自分の妹が少しだけ不憫に思えてきた。奈緒や有希の
ような幸せな家庭に育った少女たちなら与えられて当然なことさえ、両親が共働きで多忙
な我が家では明日香には期待することさえ許されていないのだから。

 明日香は周囲の女の子たちを気にしている様子もなく、普通にチャコール色のコートを
着て僕の腕に掴まっていた。そして今日のこのときだけは、僕は妹の手を振り払う気はし
なかった。今ごろはきっと奈緒だって今日ばかりはハードなピアノのレッスンから開放さ
れ家族で団らんしているのだろう。多分有希も。

 有希に奈緒に対する愛情を疑われたり、有希の告白めいた言葉を聞かされた僕は混乱し
ていたけど、それでも明日香と二人だけで大晦日をリビングで過ごしていると、奈緒や有
希のことではなく僕なんかと二人きりで過ごすしかない明日香に対する憐憫のような気持
ちが、まるで拭いきれない染料で白紙を染めていくように僕の心に広がっていった。

 去年の大晦日はどうだったっけ。

 確か去年も両親はいなかった。そして去年の大晦日は僕たちが本当の家族でないという
ことを両親から聞いた直後だったせいもあって、僕は自分の部屋で一人で過ごしたしその
ことにほっとしていたことを思いだした。その頃は明日香もまだイケヤマとかいう男と付
き合う前だったし派手な格好で遊びだす前だったので、多分妹も一人で自分の部屋で過ご
していたはずだ。お祭りごとの好きな明日香が両親不在の夜に一人で自室に閉じこもって
何を考えていたのかはわからない。でもあの話の直後のことだ。明日香もきっと辛かった
だろう。その時の僕には明日香を思いやるような余裕はなかったのだけど。

 そう思うと奈緒に会えない自分の悩みは消えていって、明日香の悩みに無関心だった自
分に腹が立った。そのせいか僕は思わず混み合った電車の中で僕にしがみついている妹の
を心持ち自分の方に抱き寄せるようにした。

「お兄ちゃん?」
 僕突然肩を抱き寄せられた明日香が困惑したように言った。「どうかした?」

「いや。どうもしていないけど」

「そうか」



86:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/03(水) 00:06:10.51 ID:uW2Zr2Wlo

 明日香は僕の腕に改めてしがみつくような仕草を見せた。

「結構混んでるよな」

 僕は照れ隠しにそう言った。

「毎年この時期の電車はこうなんだろうね。あたしたちが知らなかっただけで」

 明日香が車窓を眺めながら呟いた。

 目的の駅に降りた瞬間から行列が始まっていた。学生のバイトのような警備員のアナウ
ンスの声ががあちこちで響いているし、周囲には着飾った集団が楽しそうに笑いさざめく
声であふれている。家を出るときまではハイテンションで僕を引っ張っていた明日香は周
りの熱気に当てられたように大人しく僕の腕に掴まったままで、いつもよりだいぶ言葉数
が少なかった。

 それだけ周囲は賑やかだったのだけど一時間ほどで神社の鳥居をくぐると、周囲には何
か賑わいの中でも尊厳な雰囲気が漂っていた。神社の中は果てしなく続く提灯の列にぼん
やりと照らされていて、それははしゃいでいる人々の声を飲み込んで何か騒音の中の不思
議な静謐を感じさせた。

「初めて来たけど結構いい雰囲気だね」

 妹が幻想的な提灯の列に目を奪われながら呟いた。

「まあ、大晦日の夜にお参りする習慣なんてうちにはなかったしな」

「それはお兄ちゃんだけでしょ。あたしはパパやママと近所の神社に行ったことあるよ。
朝早く美容院で着付けもしてもらって」

「僕はおまえの着物姿なんか見たことないぞ」

「あたしなんか見ようとしていなかったからでしょ」

「そうじゃなくて本当に見たことないんだって」

「そ。あたしの着物姿に興味なんかないくせに」
 明日香が笑った。「それにしてもこれって何時間くらい並んでれば参拝できるのかな」

「さあ。見当もつかないや」

 結局お賽銭を投げて参拝しおみくじを引くまでにそれから三時間くらいかかった。もう
夜中の二時過ぎだ。

「帰る?」

 一応予定の行動を消化したので僕は明日香に聞いてみた。

「やだ」

 思ったとおりの答えが明日香から帰ってきた。明日香にとってはまだ物足りないらしい。

「今日はお店だって二十四時間営業してるよ、きっと。ファミレスとかに寄って行こう」

 僕もまだここの雰囲気に当てられていたし、こんな日に両親が不在で僕なんかと二人で
一緒に過ごすしかなかった明日香のことを考えるとそれを無下に退けるわけにもいかなか
った。

「じゃあ、ファミレスに行くだけ行ってみるか?」

「うん」

 嬉しそうに明日香が言った。

「でも、また並ぶと思うけどな」

「いいよ。それでも」

 明日香は嬉しそうに僕の腕にしがみついた。



87:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/03(水) 00:06:57.35 ID:uW2Zr2Wlo

 結局、行列ができていたファミレスで席に案内された頃にはもう夜中の三時を過ぎてい
た。並んでいる間、立ったまま僕の肩に寄りかかってうとうとしていた明日香は、席に案
内されると急に元気を取り戻したようだった。

「ねえ。何食べる? ケーキを食べようかと思っていたけど考えたら今日は大した食事し
てないしさ。一緒にピザとか食べちゃう?」

 明日香はずいぶん楽しそうだ。

「おまえが決めていいよ。何が来ても文句は言わないからさ」

 明日香はそれを聞いて再び真剣な表情でメニューに目を落した。注文は明日香に任せよ
う。僕はメニューをテーブルに置いて何となく周囲を見回した。その時僕は近所の神社の
参拝帰りの客とは思えないスーツ姿のビジネスマンみたいな人が隣の席に案内されている
のをぼんやりと見ていた。その人には女性の連れがいた。

「叔母さん?」

「え、何々?」

 僕の大声に驚いた妹が目をメニューから上げた。

「何だ。明日香と奈緒人か。偶然じゃんか」

 そこには玲子叔母さんが立っていて、どういうわけか飽きれたように僕たちを眺めてい
た。

「あんたたち、こんなとこで何してるのよ。兄妹でデートでもしてたの?」

「叔母さんこそデート?」

 明日香が嬉しそうに叔母さんに聞いた。

 そう言えば叔母が男の人と一緒のところを見るのは初めてだ。

「・・・・・・こんな時間に外出とか結城さんや姉さんは知っているんでしょうね」

「だってパパもママも全然連絡してこないんだもん」

 明日香が口を尖らせた。

「何? 大晦日も二人きりだったの? あんたたち」

「そうだよ」

 叔母さんは驚いたようだった。そして叔母さんと僕たちの会話を聞いている人に言った。

「酒井さん悪い。打ち合わせはまた今度にならない?」

「え? 何で」

「家族の関係で用事ができちゃった。悪いけど」

「はあ。社内じゃちょっとって言うから、あんだけ並んでようやく店には入れたのに。ま
あいいですけど。でも打ち合わせしないなら大晦日に呼び出さないでよ。僕にだって家庭
があるんですよ」

「ほんとにごめん。そのうち埋め合わせするから」

「まあ独身の人にはわからないでしょうけど、家族持ちには特別な日なのに」

 そうぶつぶつ言いながらその男の人は去って行った。



88:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/03(水) 00:07:37.95 ID:uW2Zr2Wlo

 叔母さんは僕の隣に座って初めて見た細身の赤いフレームの眼鏡を外した。眼鏡を外す
ことで仕事のオンとオフを別けているのかもしれない。

「叔母さん仕事いいの?」

 明日香が目の前に座った叔母さんに声をかけた。

「よくないけど・・・・・・。それよか姉さんたちは二人とも本当にこの間からずっと帰って来
ないの?」

 この間とは叔母さんと父さんが偶然に家で鉢合わせした夜のことを言っているらしい。

「うん。年末には帰るって言ってたけど連絡もないよ」
 明日香が言った。「それよかさ。まだ注文してないんだけど。叔母さんも何か食べるで
しょ」

「明日香さあ。親が二人揃って大晦日に連絡もないっていうのに寂しがり屋のあんたが何
でそんなに平気なんだよ」

「だって今年は一人じゃなくてお兄ちゃんもいるし」

「・・・・・・なるほどね。そういうことか」

 叔母さんが再び眼鏡をかけた。思っていたより悩んでいる様子のない明日香に安心して、
また仕事に戻る気なのだろうか。僕は一瞬そう思ったけど、叔母さんは明日香からメニ
ューを取り上げただけだった。

「じゃあ何か食べるか。そういえばあたしも昼から何にも食べてないや」

「叔母さんご馳走してくれるの」

 どうせ親から預かったお金で支払う気だったくせに、明日香はここぞとばかりに目を輝
かせて言った。

「相変わらず人の奢りだとあんたは容赦ないな」
 注文を終えた明日香に対して再び眼鏡を外した叔母さんが飽きれたように笑った。「そ
ういや年越し蕎麦とか食べたの?」

「うん。お兄ちゃんがコンビニのざる蕎麦も結構美味しいって言うから」

「どうだった?」

「お兄ちゃんに騙された」

「いや、あれはあれで美味いだろうが。それに別に手打ち蕎麦なみに美味しいなんて言っ
てないし」

 僕は反論した。

「だったら最初からそういう風に言ってよ。期待して損しちゃった」

「おまえに嘘は言ってないだろ」

「あんたたち、最近仲いいじゃん。まるで昔からの恋人同士みたいよ」

 叔母さんが笑って言った。

 僕と明日香のほかに叔母さんが一人加わるだけで、不思議なことにどういうわけか家族
団らんという雰囲気が漂う。僕なんかでもいないよりは妹にとっては元気が出るだろうと
思ってここまで付き合っていたのだけど、やはり叔母さんがいると妹のテンションは高く
なるようだった。

 偶然に叔母さんに会えてよかったと僕は思った。よく考えてみればここは叔母さんの勤
務先の出版社の所在地からすごく近い場所だった。

「ちょっとトイレ。お兄ちゃんデザート持ってくるように頼んでおいて」

「うん」

 妹が席を立つと叔母さんがにやにやしながら僕の方を見た。

「何でニヤニヤ笑ってるんの」

「奈緒人。あんたさあ、あの短い時間の間に急速に明日香と仲良しになったみたいんじゃ
ん」



89:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/03(水) 00:08:23.32 ID:uW2Zr2Wlo

「ああ、まあ昔よりは仲良くなったかもね」

「何を冷静に言ってるんだか」
 叔母さんが笑ったまま言った。「しかしわからんものだよねえ。仕事の打ち合わせでた
またま入ったファミレスにさ、妙にいい雰囲気の若いカップルがいるなってあって思った
ら、あんたたちだったとは」

 叔母さんの話は別に僕たちへの嫌がらせのようではなかった。

「まあでもよかったよ。あんたたちが仲が悪いとあたしも居心地が良くないし」

「ごめん」

 叔母さんは僕たち二人を可愛がってくれていただけに、明日香と僕の不和には心を痛め
てくれていたのだろう。

「まあ、別にいいさ。しかしさあ、仲直りするのを通り越してまるで恋人同士みたいにイ
チャイチャしだしてるのはちょっと急ぎ過ぎじゃない? 血が繋がっていないとはいえ一
応兄妹なんだしさ」

「そんなんじゃないって」

「おう。奈緒人が珍しく照れてる」
 叔母さんが幸せそうな表情で笑った。「心配するな。あんたたちの両親はあたしが責任
を持って説得してやる。だから明日香を泣かせるんじゃないぞ」

 ここまで来ると叔母さんの話はもはや本気なのか冗談なのかわからなかった。一応、本
気で僕と明日香の仲を誤解しているといけない。僕は叔母さんに奈緒のことを話すことに
決めた。両親にさえ話していないけど叔母さんなら信用できた。

「確かに僕と明日香は仲直りしたといってもいいけど、叔母さんが想像しているような変
な関係じゃないよ」

「変な関係なんて言ってないじゃん。でもほんと?」

 叔母さんは本気で驚いている様子だった。僕はそっとため息をついた。誤解を解いてお
くことにして本当によかった。

「本当だよ。それに、僕も最近は彼女ができたし」

「彼女って・・・・・・明日香じゃないの?」

「だから違うって。 鈴木奈緒って子で」

 そこで僕は深夜の叔母さんと父さんの会話を思い出した。会ったことはなくても叔母さ
んは奈緒のことを知ってはいるのだ。父さんの書いたあの短い記事を読んでいたのだから。

「え。もっかい名前言って」

 どういうわけか叔母さんが青くなった。

「鈴木奈緒。東京都の中学生のピアノコンクールで優賞した子。父さんが記事を書いたの
叔母さんも知っていたんでしょ」

「その子と付き合っているってどういうこと? あんたはさっきから自分が何を言ってい
るのかわかってるの」

 叔母さんの様子がおかしい。何でだろう。叔母さんは本気で僕と明日香を付き合せたか
ったのだろうか。

「どうって。偶然出会って付き合うことになったんだけど・・・・・・というか僕に彼女がいる
ことは明日香だって知っているよ」

「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」

「だから明日香とはそういう関係じゃないって」

「何言ってるのよ! 奈緒ちゃんは・・・・・・・鈴木奈緒はあんたの本当の」

「言っちゃだめ! 今はまだだめ!」

 その時トイレから戻ったらしい明日香の悲鳴に似た声が響いた。周囲の席を埋め尽くし
た客の喧騒が一瞬静まり返った。



90:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/03(水) 00:09:18.21 ID:uW2Zr2Wlo

「明日香?」

 僕は振りかえった。真っ青な顔の明日香の姿が目に入った。

「妹なのに・・・・・・って、明日香?」

 少しして周囲の喧騒が戻って来たけど、叔母さんの言葉は僕の耳にはっきりと届いてい
た。



「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」

「鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに」



91:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/03(水) 00:09:59.18 ID:uW2Zr2Wlo

 冬休が終った最初の登校日の朝、僕はいつもよりだいぶ早い時間に起きて普段より一時
間以上早い電車に乗った。休み明けが僕より二日間遅い明日香は僕を学校まで送っていく
と言い張った。きっと僕の決心が揺らいでいつもの時間に奈緒と待ち合わせてしまうこと
を恐れたのだと思うけど、それは無駄な心配だ。今の僕は奈緒と顔を会わせるどころか、
彼女の可愛らしい表情や気持ちのいい声を思い出すことさえ自分に禁じていた。必死に努
力し他のことを考えて気を紛らわせ、奈緒のことを記憶から追い出す。

 そうすることによってのみ、僕の世界はとりあえず崩れ去っていくことなくその姿を保
ち続けることができたのだ。

 あの時。

 最初は明日香の悲鳴のような声に気を取られていたせいもあって、叔母が言った言葉の
意味の重さにすぐには気がつかなかった。その瞬間はむしろ混み合った店内の客の視線を
ひき付けてしまっていることの方に意識を奪われていたかっら、僕は反射的に呆然と立ち
尽くしている明日香の手を引いて向かいの席に座らせた。

「・・・・・・前にあたしの家であんたは奈緒ちゃんと奈緒人が一緒に歩いてたって言ってた
ね?」

 叔母さんが恐い表情で明日香に聞いた。たった今妹が見せた狼狽のことはわざと無視し
ているようだった。

「あんた奈緒人が奈緒ちゃんとそういう関係だって知ってたの? そもそも奈緒人と奈緒
ちゃんはお互いのことを実の兄妹だってわかっているの?」

 そのあたりで僕はようやく叔母の言葉が持っていた意味に気がついた。胃の奥が痛み始
めたと思った途端、何かが急速に喉からせり出してきそうな感覚があった。

「あたしは知ってたよ。奈緒が知っていたかどうかはわからない」

 明日香が低い声で言った。

「奈緒人は・・・・・・って知ってたって感じじゃないね。でも。何でそのまま放っておいたの
よ」

「お兄ちゃんが好きになった子が実は自分の妹だなんてわかったら、どんだけショックを
受けるかを考えてみて」

「明日香・・・・・・」

「だからお兄ちゃんをあたしに振り向かせて奈緒への好意を無くさせようとしていたの。
好意がなくなった相手が後から実の妹だってわかった方がまだショックは少ないでしょ。
自分が一番好きな子が実の妹だったことがわかったのと比べたら」

「・・・・・・あたしが邪魔しちゃったわけか。明日香ごめん」

「あたしに言われても」

 このあたりが限界だった。僕は立ち上がってトイレに駆け込んで胃の中のもの一気に吐
き出した。

 今までだって幸せに新年を迎えたことなんかなかった僕だけど、それでも今年の正月は
ろくなことがなかった僕の人生の中でも最悪の日だった。フラッシュバックが始まると吐
き気や眩暈を伴い普通に立っていることすらできなくなる。だからそうなってしまったら
頭を抱えて床にしゃがみこむか横になってその辛い状態が終るのをひたすら耐えながら待
つしかない。

 その引き金になるのはやはり奈緒のことを考え出したときだった。だから僕は奈緒のこ
とはなるべく考えないようにしていたのだけど、それでも彼女のことを全く考えないとい
うのは不可能だった。

 これは悲劇的な偶然だった。本当にありえないほどの確率で起こった神様の残酷な悪戯
だ。そもそも僕には実の妹がいたことさえ聞かされていなかったのだ。

 僕が比較的落ち着いている状態のときを見はからって、明日香は自分の知っていること
を少しづつ話してくれた。明日香はまだ僕に対する奈緒の悪意を疑っていたようだけど、
奈緒とのあの偶然の出会いや僕に抱きついて僕を恥かしそうに見上げたナオを思うと、僕
は明日香が間違っていると確信できた。彼女もまた実の兄妹であることを知らずに僕を好
きになったのだ。

 でもそう考えたとき、またフラッシュバックの予感がして僕はあわてて奈緒の表情を頭
の中から拭い去った。とにかく明日香の言うとおり僕は奈緒とはもう二度と会うべきでは
ない。奈緒が僕のことを本当の兄だと知ったらどんなに衝撃を受けるだろう。それに比べ
ればいきなり彼氏からの連絡がなくなった方がまだましだろう。



92:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/03(水) 00:10:53.02 ID:uW2Zr2Wlo

 僕は明日香の勧めに従って携帯を買い変え、その際にメアドと電話番号を変更した。こ
ういう地味な作業的なことをしているときが一番気が楽だった。

 こうして辛い休暇を過ごしている間に、ただ一つだけ心が暖まったのは明日香の行動の
謎が解けたことだった。僕と奈緒が付き合い出してから明日香が取っていた不思議な行動
の意味を初めて理解した僕は、フラッシュバックとは別の意味で涙を流した。

 明日香はずっとこんな僕を守ろうとしてくれていたのだ。多分そのために彼氏と別れた
り自分の友だちを付き合いを切ったりしてまで。

 冬休みが終って登校日が来るまで僕は明日香に依存することによって心の平穏を辛うじ
て保っていたようだった。うっかりと幸せなナオとの記憶を思い出してしまいフラッシュ
バックに襲われて吐きながらのた打ち回っているときでさえ、明日香は僕を必死で抱きか
かえていてくれた。長いときには三十分くらいの間ずっと。

「大丈夫だよお兄ちゃん。あたしがいるから。もうずっとお兄ちゃんと一緒にいるから」

 休み明け初日の授業は午前中で終った。今日は渋沢や志村さんには奈緒のことを聞かれ
ることはなかったけど、いつかは他意のない会話の中でそのことに触れられることがある
だろう。その時どう答えればいいのか今は見当もつかないけど、それも考えておかなけれ
ばいけないことだった。

 正直に言えば学校の友だちなんかにどう思われようがそんなことを気にする段階は過ぎ
ていたのだけど、どんなに混乱し油断するといつフラッシュバックが起こるかもしれない
という状況にあっても、社会生活を送る以上はそんなことはどうでもいいと切り捨てるわ
けにもいかない。それに今度のことに関しては奈緒が自分の妹であるということ以外には
僕にだって何も理解できていないわけで、渋沢たちに説明する前にいったいどんな理由で
こんなことになってしまったのか自分自身が知ることが先決だった。

 前向きに考えればそういうことなのだけど、奈緒のことや今回の出来事を考えただけで
も僕は気分が悪くなった。明日香がいてくれる間は僕は思考を停止していられる。僕が何
をすべきかを明日香が考えて僕に伝えてくれる。わずか数日の間に僕はすっかり明日香に
依存するようになってしまっていた。まるで明日香がモルヒネのような強い痛み止めであ
るかのように。

 明日香は百パーセント僕の味方だった。このひどい出来事を通じて唯一新たに信じるこ
とができたのは明日香の気持ちだけだった。そう考え出すと今この瞬間に一人で校内にい
ることがすごく不安に感じられた。

 早く家に帰ろう。帰って明日香のそばにいよう。いつかは向き合わなければいけないこ
となのはわかっていたけど、今はまだ無理だ。ホームルームと校内清掃だけの時間を何と
かやりすごした僕は急いで校門を出ようとした。

「あ、来た」

 明日香が校門の前でたたずんでいた。前みたいに派手な格好をしなくなっていた明日香
だけど、どういうわけか派手だった頃よりうちの学校の男子の視線を集めてしまっている
みたいだ。でも、当の本人は自分のほうをちらちら見ている男子のことなど気にする様子
もなく僕の腕に片手をかけた。

「来てくれたのか」

 僕はもう明日香に会えた安堵心を隠さなくなっていた。

「お兄ちゃんが不安だろうと思ったし、それに行くところもあるから」
 明日香はあっさりと言って僕の手を握った。「じゃあ、行こうか」

「行くって? 家に帰るんじゃないのか」

「うん」

 明日香が柔らかい声で何かを説明しようとしたとき、背後から渋沢の呑気な声が聞こえ
た。



95:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/10(水) 23:18:50.23 ID:cxEkQJKlo

「奈緒人。今帰りか? って明日香ちゃんも来ていたんだ」

 渋沢と志村さんが僕たちの背後に並んで立っていた。

「珍しいじゃん。おまえが明日香ちゃんと一緒なんてよ」

 二人の視線が申し合わせたように握りあっている僕と明日香の手に向けられた。

「今日はずいぶん仲いいのな」

 渋沢が戸惑ったように言った。

「ま、まあ、兄妹だもんね。それよか明日香ちゃんって奈緒人君の妹だったのね。あたし
たちこの間まで全然知らなかったよ」

 志村さんが取り繕うように笑ったけどその笑いは不自然なものだった。

「・・・・・・どうも」

 明日香が言ったけどその声にはついさっきの柔らかな様子は全く消え去っていた。むし
ろ明日香の声には志村さんに対する敵意のような感情が感じ取れた。

「君たちも帰るところ?」

「ああ。カラオケでも行こうかって話してたんだけど。よかったら一緒に行かね?」

「悪い。僕たちこれから行くところがあるから」

「そうか。まあ急に誘ったって無理だよな。じゃあまた明日な」

「うん、また明日」

 相変わらず志村さんを敵意を持って睨んでいるような表情の明日香を促して僕たちは歩
き出した。

「どうしたんだよ」

「お兄ちゃん。そっちじゃないよ」

 明日香は僕の質問には答えずに先に立って僕の手を引いて、自宅方面への下りホームで
はなく反対側の上りホームへのエスカレーターの方に向かって行った。

「・・・・・・どこに行くんだ」

 僕は思わず震え声が出そうになるのを必死に抑えて言った。自宅と反対方向に向かうと
知っただけでも動揺を感じる。それにこの方向だと一駅先には富士峰女学院がある。明日
香が僕を振り返った。

「叔母さんのところに行こう。お兄ちゃんももうそろそろ知らないといけないと思う」

 このときの明日香は僕の妹というより頼りになる姉のようだった。

「知るって何を」

「いろいいろと。このまま目をつぶって耳を塞いでいてもお兄ちゃんの不安はなくならな
いと思うの。ちょっと辛いかもしれないけど、そろそろ昔のことを思い出した方がいい」

「・・・・・・どういう意味? 昔のことなんか聞いたって今回のことは何も変わらないだろ」

「昔の奈緒のこと、お兄ちゃんの本当の妹のこと思い出せる?」

 思い出せるどころか僕には妹がいたことさえ記憶になかったのだ。

「叔母さんももう知っておいた方が、そして思い出せるようなら思い出したほうがいいっ
て言ってた」

 僕は再び得体の知れない不安におびえた。明日香が僕の手を握っている手に力を込めた。

「大丈夫。何があってもこの先ずっとあたしはお兄ちゃんと一緒にいるから」

 僕は明日香を見た。少なくともこれは罠じゃない。明日香を信じよう。

「わかった」

 上りの急行電車がホームに滑り込んできた。



96:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/10(水) 23:21:01.04 ID:cxEkQJKlo

 車内にはうちの学校の生徒もいたけど知り合いの姿はなかった。そして幸いなことに富
士峰の学生の姿も見当たらない。昼下がりの車内は空いていたため僕たちは並んで座るこ
とができた。こうしていると土曜日の午後の電車の中で奈緒と並んで座ったときの記憶が
自然に蘇ってきた。一度有希の件で仲違いしかけて、そして仲直りしたあの日もそうだっ
た。あの時、奈緒は僕の胸に顔を押し付けるようにしながら「本当にあたしのこと嫌いに
なってない」って小さな声で言ったのだった。

 それは本当に短かった僕と奈緒の一番幸せだったときの記憶だった。僕は妹一緒にいた
せいで油断していたのかもしれない。今まで避けていた奈緒との記憶を反芻することをう
っかりと自分に許してしまったのだ。そしてその記憶は一瞬の間だけはひどく甘美なもの
だった。でも次の瞬間、甘美な記憶は強制的に場面転換された。



「何言ってるのよ! 奈緒ちゃんは・・・・・・・鈴木奈緒はあんたの本当の」

「言っちゃだめ! 今はまだだめ!」

「明日香?」



 記憶の中で僕は振りかえる。賑わっているファミレスで真っ青な顔で立ちすくんでいた
明日香。明日香の背後からいつもなら大好きな叔母の陽気な声がこのときは陰鬱なエコー
がかかってひどく低い声で反響しながらあのセリフを繰り返す。

「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」
「鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに」

 急に眩暈が激しくなった。記憶から呼び戻された僕の視界にはぐるぐると回転する電車
の床と座席に座っている見知らぬ人の靴が映り込む。吐き気をもよおした僕は姿勢を保っ
ていられずに、空いているロングシートにうつ伏せるように横になった。

「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」
「鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに」

「奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?」
「鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに」

 目をつぶってもどういうわけか視界には電車の床がぐるぐる回っているままだった。そ
して耳には叔母さんの低い声が同じフレーズをループして延々と繰り返されている。何度
も聞いているうちにそのフレーズは意味を失い、ただ不快なだけの雑音に変わっていった。
とりあえず吐けば楽になるかもしれない。僕がそう思ったとき、突然視界が閉じ耳がふさ
がれたように感じた。フラッシュバックがおさまっていったのだ。

 不快な視覚と聴覚が消失した替わりに唇を覆っている湿った感触が頭を占めた。吐き気
もおさまっていく。僕は妹にキスされたままで妹の小柄な体に必死に抱きついた。明日香
が僕の口から自分の口を離した。

「大丈夫?」

「・・・・・・うん」

 僕は覆いかぶさっている妹の体ごと自分の体を起こした。

「悪い」

「気にしなくていいよ。お兄ちゃんのことはあたしが守るから」

 さっきまでの不快感と痛みが嘘のようにおさまっていた。明日香は僕の額を濡らしてい
る気味悪い汗をハンカチで拭いてくれた。明日香に拭かれている顔が気持ちよかった。よ
うやく周囲の視線を気にすることができた僕は赤くなって妹から体を離そうとしたけど、
明日香はそれを許さなかった。

「もう少しあたしのそばにいた方がいいよ」

 明日香は僕を自分の方に抱き寄せるような仕草をした。

「お二人とも大丈夫?」

 そのとき、向かいに座っていた老婦人が僕たちを心配そうに眺めて声をかけてくれた。

「はい。もう大丈夫です。ありがとうございます」

 明日香が老婦人にお礼を言った。

「発作とかなの? 車掌さんを呼びましょうか」

「いえ、次の駅で降りますし本当に平気ですから」



97:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/10(水) 23:22:02.39 ID:cxEkQJKlo

 電車が駅に着いた。この駅に来たのは初詣のとき以来だ。

「お兄ちゃん立てる?」

「大丈夫だと思う」

 僕は明日香に抱かれながら立ち上がって、開いたドアからホームに降り立った。

「気をつけてね」

 老婦人が声をかけてくれた。

「今日はやめておく?」
 ホームの固いベンチに僕を座らせた明日香が迷ったように言った。「お兄ちゃん、ごめ
ん。あたしちょっと急ぎすぎてたかも」

 冬の冷気が熱く火照っていた僕の顔を冷やしてくれる感じが心地いい。僕は急速にさっ
きまでのパニックから回復していくように感じた。

「おまえのせいじゃないよ。助けてくれてありがとう、明日香」

「でも、まだちょっと早かったのかも」

「いや。明日香がいてくれれば平気だよ。今だっておまえが」

 明日香がどうやって僕を正気に戻したかを改めて思い出した僕は、そこで言いよどんだ。

「・・・・・・ごめん。でも何となくああした方がいいと思ったから」

「いや。今だって明日香がああしてくれたから僕は正気に戻れたんだし。叔母さんの話を
聞くよ。それでパニックになったらまた僕のこと助けてくれるか」

 明日香はそれを聞いて赤くなったけど、その口調は真面目そのものだった。

「うん、安心していいよ。お兄ちゃんが楽になるならキスだって何だってするから」

「ありがとう」

「もう大丈夫?」

「ああ」

「じゃあ、お兄ちゃんがいいなら行こう」

 明日香はベンチで座っている僕に手を伸ばした。僕は迷わずに明日香の手を握って立ち
上がった。



 叔母さんとはあの日のファミレスで待ち合わせなのかと思ったけど、明日香が言うには
叔母さんは会社まで来てくれと言ったらしい。僕にしてもあの夜の現場のファミレスに行
くのは気が進まなかったからそれは好都合だった。

「叔母さんも了解してくれてるのかな・・・・・・その・・・・・・、僕の過去を話してくれること
を」

 叔母さんだって父さんや母さんに黙って僕に全てを話してくれるのは気が重いのではな
いだろうか。奈緒のことは僕が実の妹と付き合っているなんてことを嬉々として報告した
から、慌てて釘を刺そうとしただけなのだろうし。

 僕は叔母さんを恨んではいなかった。むしろ叔母さんに迷惑をかけてしまうことの方を
恐れていた。

「うん。叔母さんと相談して決めたの。だからお兄ちゃんは余計な心配しなくていいよ」

 明日香はあっさりとそう言った。

 駅から十分ほど坂を降りたところに叔母さんの勤めている会社のビルがあった。

 想像していたより随分こじんまりとした建物だ。叔母さんの勤務先は誰でも聞いたこと
がある出版社なので、僕は何となく高層ビルのようなイメージを持っていた。実際には十
階建てくらいの茶色のビルで、その入り口に社名の表示板が掲げられていた。

「株式会社 集談社」

 それでも中は外見から想像できるより綺麗な建物だった。受付前にプレートが掛かって
いてその中に叔母さんが作っている雑誌の名前も表示されている。



98:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/10(水) 23:23:08.36 ID:cxEkQJKlo

「5階 ヘブンティーン編集部」

 でも明日香はその表示を無視して受付の女性のところに真っ直ぐに歩いて行った。

「いらっしゃいませ」

 受付の綺麗な女性が頭を下げた。

「すいません。ヘブンティーン編集部の神山の家の者で結城と言います。神山と約束をし
ているんですけど」

 神山は母さんの前の前の姓だ。前の姓は高木だけど、母さんが離婚して父さんと再婚し
てから母さんと明日香は結城姓になった。叔母さんはずっと独身だったから未だに神山と
いう名前だ。それにしてもたかが中学生のくせに明日香は随分と堂々と振る舞っている。

「そちらで少々お待ちください」

 受付の女性はロビーのソファを僕たちに勧めながら内線電話を取り上げた。

「神山さん、そちらの方です」

 エレベーターから現われてきょろきょろしている叔母さんに受付の女性が声をかけた。

「ああいた。陽子ちゃんありがと」
 受付の女性に微笑んでお礼を言った叔母さんが僕たちに話しかけた。「おう。二人とも
よく来たね」

「ちょっと遅くなっちゃった」

「叔母さん今日は。今日は忙しいのにすみません」

「こら奈緒人。こないだ敬語はやめるって約束したじゃんか」

 叔母さんが笑った。

 僕たちは叔母さんに連れられて社内の喫茶店に座った。ここはよく打ち合わせに使われ
るほか軽食も取れるので便利なのだそうだ。

「あんたたち昼ごはんは?」

「食べてないよ」

 明日香が答えた。

「あたしもまだだから何か食べようか。つってもここは大したもんができないけどね」

 正直僕は食事ができるような状況ではなかったけど、ここで自分の体調の悪さをアピー
ルするのも嫌だった。それは叔母さんを無駄に心配させることになる。さいわい明日香は
僕の発作のことを考慮してくれたのか、あたしたちはあんまりおなかが空いていないから
と言って食事を断ってくれた。明日香本人は空腹だったかもしれないのに。

「そう? じゃああたしだけ食っちゃおう」

 叔母さんはナポリタンとコーヒーを三つ注文してから改めて僕たちを眺めた。

「最初に言っておくよ。奈緒人にも明日香にもこの間は悪いことしちゃったね。ごめんな
さい」

 叔母さんが僕に頭を下げるのは初めてだったのではないか。僕は驚いて叔母さんに言っ
た。

「叔母さんが謝ることなんか何にもないよ。僕のことを考えて言ってくれたんでしょ」

「うん。それはそうだけど、明日香が一生懸命奈緒人を守ろうとしていたことを考えなし
に邪魔しちゃったから」

「もういいよ。振り返っていたって仕方ないし。それより大切なことはこの先のことでし
ょ」

 明日香も言った。

「うん。明日香の言うとおりだ。じゃあ、もうあたしはあんたたちに謝らないよ」

 僕と明日香は二人してうなずいた。

「じゃあ、本題に入るけど。あたしは全部を知っているわけじゃないけど、姉さんの妹だ
し結城さんとも古い知り合いだから奈緒人に教えられることはあるんだ。でも、本当はあ
たしが勝手に教えちゃいけないんだと思う。結城さんや姉さんが奈緒人に話すべきだと
思っているから」



99:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/10(水) 23:24:10.17 ID:cxEkQJKlo

「はい」

 僕は緊張しながら言った。

「でもこんなことになった以上、奈緒人が全部知るべきだという明日香の意見は正しいと
思う」

 ここで少し叔母さんはためらった。

「でもね、そうは言っても、姉さんや結城さんに奈緒人と奈緒ちゃんが付き合ってたなん
て言えないしね」

 それは叔母さんの言うとおりだった。これだけはとても両親に知られるわけにはいかな
いのだ。

「だから、姉さんや結城さんには怒られちゃうかもしれないけど、あたしが知っているこ
とは全部あんたたちに話すよ」

「ちょっと待って」
 明日香が不審そうに言った。「あんたたちってどういう意味? あたしはママの離婚前
の出来事とかは、お兄ちゃんと違って記憶に残ってるし、それにあたしは叔母さんに昔の
話を聞いてるよ」

「明日香にだって全部話したわけじゃないのよ」
 叔母さんは僕を見つめた。「今だって奈緒人は傷付いてると思うけど、昔の話を聞いて
も平気なの?」

「うん。明日香とも話したけど、僕は聞いておくべきだと思う。それに辛くても僕には明
日香がそばにいてくれるし」

「そうか。いい兄妹になったね、あんたたち」

 こんなときなのに叔母さんは嬉しそうに言った。

「それから明日香」

「何よ」

「あんたにも話していないこともあるからさ。奈緒人だけじゃなくてあんたにだってショ
ックな話もあるかもよ」

 一瞬、明日香は黙った。それから僕を見ながら叔母さんに答えた。

「うん。それでも聞かせて。お兄ちゃんにあたしがいるように、あたしにだってお兄ちゃ
んがついていてくれると思うから」

 僕は明日香の手を握った。

「わかった」

 僕たちが手を取り合ったのを見て叔母さんが決心したように言った。

「さてどこから話すかな。最初は明日香は知っている話になるな」

 明日香はうなずいた。

「最初から話して。お兄ちゃんは何も覚えてないと思うから」

「そうだね。じゃあ奈緒人の話からしようか。奈緒人、あんた自分の実のお母さんとか実
の妹、まあ奈緒ちゃんなんだけど、この二人のこと今まで全く思い出したことないって本
当?」

 奈緒の名前が叔母さんの口から出たとき、明日香は僕の手を握る自分の手に力を入れた。
気をつかってくれているのだ。でも奈緒の名前を聞いても不思議と動揺はなかった。この
先の話に気を取られていたせいかも知れない。

「うん。変なのかもしれないけど、父さんと今の母さんと明日香とみんなで一緒に公園で
遊んでいたときの記憶が多分僕の一番昔の記憶なんだ。僕が小学校に上がるより前だと思
うけど」

 明日香が妙な表情をした。

「結城さんと姉さんから一応話は聞いたんでしょ?」

「うん。父さんと母さんは再婚同士で、僕は母さんの本当の子どもではなくて明日香も父
さんとは血が繋がっていないって」

「再婚が何年前か聞かなかった?」



100:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/10(水) 23:25:01.60 ID:cxEkQJKlo

「再婚が何年前か聞かなかった?」

「うん。それは聞いていないな」

「明日香?」

 叔母さんが明日香を見た。

「あたしは知ってるよ。去年聞いたわけじゃなくて自分ではっきりと覚えてる」
 明日香は僕から視線を逸らした。「ママが再婚して今のパパとお兄ちゃんがあたしのう
ちに来たのはあたしが小学生になったばかりの頃だよ」

「うん。明日香の記憶は正しいな。奈緒人、あんたに新しい家族ができたのはあんたが小
学校ニ年の頃だったよ、確か」

「そうなんだ。ごめん、やっぱり全然思い出せない。もっと前から今の家族と一緒に暮ら
していたような気がするだけで」

 今の僕にはそうとしか言えなかった。僕に残っている一番古い記憶は公園で明日香を遊
ばせているひどく曖昧な思い出だけだった。あのとき、逃げ惑う鳩をよちよちと追い駆け
ていた明日香が転ばないように、僕ははらはらしながら明日香を追い駆けてたんじゃなか
ったか。

 そしてそのときの自分が目の前をよちよちと危なげに歩いている女の子をどんなに大切
に思っていたか、僕はその感情さえ思い浮かべることができた。それはまだ仲が悪くなる
前の明日香と僕の貴重な記憶だった。

「だからさ。あんたも少なくとも奈緒ちゃんの記憶はあるってことだよ」

「どういうこと?」

 僕は混乱した。自分の中では奈緒の記憶なんて欠片も残っていないのに。

「お兄ちゃんが公園であたしと遊んだ記憶ってさ、それあたしじゃないと思うよ」

 明日香が目を伏せて言った。

「あんたが明日香と暮らし始めたのは、あんたが小ニで明日香が幼稚園の頃だからさ。あ
んたの記憶の中の幼い兄妹っていうのは、あんたと奈緒ちゃんだろうね」

 叔母さんがそう言った。

 では僕の思い出は勝手に脳内で補正され、かつての家族の記憶を今の家族の記憶に上書
きしてたのだろうか。僕は少し混乱していた。

「まあ、それは今は深く考えなくていいよ。とりあえずあたしが知っている事実関係だけ
をこれから話すからね」

「わかった」

 僕は叔母さんに答えた。今はとにかく真実を知ろう。僕の脳内の記憶は辛い部分を勝手
に補正して美化しているようだったから、とりあえず事実を認識するところから初めよう
と僕は思った。

「明日香には前に話したことだけど、奈緒人と奈緒ちゃんのご両親の離婚の原因は直接的
には奥さんの育児放棄が原因なの」

「・・・・・・うん」

 今度は僕は驚かなかった。多分そうだろうと考えていたとおりだったから。

「その頃、結城さんはすごく忙しかったみたい。今でも忙しいんだろうけど、その頃は
れどころじゃないくらい、本当に体を壊しかけたくらいに仕事に没頭していたのね」

「うん」

「奈緒人のお母さんはその頃は専業主婦だったから、あんたと奈緒ちゃんが寂しい想いを
することはなかったはずだった。たとえ父親がいなくても母親は家にいるはずだったか
ら」

 いるはずだったとはどういう意味なのだろう。僕は叔母さんを見た。

 叔母さんも僕の疑問を予期していたのか、少しだけ迷ってから話を再開してくれた。

「あとで児童相談所の担当の人から聞いたんだけど、その頃の奈緒人と奈緒ちゃんってひ
どい状況で放置されていたんっだって」」

「ひどいって?」



101:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/10(水) 23:25:57.78 ID:cxEkQJKlo

「ひどいって?」

 僕にはそんな記憶は全く残っていない。

「正確な原因はわからないんだけど、多忙な結城さんと会えなかったあんたのお母さんは、
心の平穏を失っていったみたいなの」

「どういう意味?」

「あんたのお母さんは本当に結城さんのことが好きだったんだろうね。その結城さんがい
なくなって一人で幼いあんたと奈緒ちゃんを育てることがプレッシャーになったのかもし
れない」

「・・・・・・要するにどういうことなの?」

 僕は我慢しきれずに叔母さんに言った。問い詰めるような口調になってしまっていたか
もしれない。再び不安そうな表情の明日香が僕の手を握り締めた。

「あんたと奈緒ちゃんのお母さんはあんたたちを家に二人きりで放置して、外出して男の
人と遊んでいたの」

「遊ぶって」

「・・・・・・あたしはあんたのお母さんに会ったことがあるよ。離婚調停が始まったころだけ
ど、すごく綺麗な人だった。とても既婚で二人の子どもがいるようには見えなかったな」

 そのとき、以前一度思い出しかけた記憶が再び蘇った。それはあの時とは違って圧倒的
なくらい鮮明なイメージを伴っていた。



 その日も朝から母親が家にいなくなっていた。

 普通なら幼稚園に行っていなければいけなかったはずの僕と妹が目を覚ましたときには、
家には母親がいなかったし、幼稚園に行く支度もお弁当の用意もされていない。

 妹は大嫌いだった幼稚園をサボれることに満悦の笑みを浮べて僕にまとわりついてきた。
僕はキッチンや冷蔵庫の中から冷たいハムやトーストされていないカビが生えかけたパン
を取り出して妹と一緒にむさぼるように食べた。そんな貧弱な食事でも僕と一緒に家にい
られることを妹は喜んでいた。でもさすがに夜になると、妹も母親を恋しがってめそめそ
しだした。

 そんな夜が何晩も続くと、次第に自分にとって何が一番大切なのかを僕は思い知らされ
た。父のことは嫌いではない。でも、食べ物すら乏しい中、妹が泣きながら衰弱している
のを眺めて、誰もいない家に怯え抱きついて泣いていた妹を抱き締めていた僕にとって、
そのとき一番大切なのは妹だけだった。母親なんか論外だけど、これほどの危機に助けに
来てくれない父親すら、そのときの僕の眼中にはなかったのだと思う。僕が自分の生命を
賭けても助けなければいけないのは、あのとき僕の目の前で、次第に衰弱していった妹だ
けなのだ。



「お兄ちゃん、大丈夫?」

 気がつくと明日香が僕を心配そうに見ていた。

「思い出したみたいだね。大丈夫か? 奈緒人」

「うん。大丈夫だと思う・・・・・・でもこんなこと今までよく忘れていたって思うよ、自分
でも」

「きっと辛かったから自分で記憶を封印していたのかもね。人の心って自分で思っている
より自己防衛機能が発達しているって、前に取材で脳生理学者の人に聞いたことあるよ」

「うん」

「大丈夫? 続けてもいい?」

「続けて。こうなったら全部聞いて思い出せることは思い出したい」

 僕は叔母さんに言った。情けないことに僕は明日香の手にしがみついていたけれども。

「さすがに不審に思った幼稚園の関係者と近所の人たちが児童相談所に通報したらしいの。
児童相談所の人たちは、散らかった家で食事もせずお風呂にも入らないで何日間も過ごし
ていた様子のあんたと奈緒ちゃんを一時保護して児童相談所に連れて行った」

「相談所から結城さんの会社を経由して当時海外に出張していた結城さんに連絡が行って、
結城さんは出張を切り上げて帰国して、結城さんの両親に元に引き取られていたあんたと
奈緒ちゃんに再会したんだって」



102:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/10(水) 23:26:46.44 ID:cxEkQJKlo

「それから長い離婚調停が始まったのさ。結城さんも家庭を顧みなかったことに罪悪感を
感じていた。でも、専業主婦だった自分の奥さんが男と浮気して子どもたちを放棄してい
たことは許せなかった。浮気そのものより大切な子どもたちを放置したことが許せなかっ
たみたいね」

「ここまでは理解できた? って奈緒人、続けても大丈夫?」

「大丈夫・・・・・・だと思う。正直、初めて聞く話だし戸惑いはあるけど」

「そう。やっぱり明日香がそばにいるとあんたも安心するんだね。もっと取り乱すかと思
ったよ」

「取り乱す以前にただ混乱している段階だよ」

「本当に平気?」

 僕は心配そうに言った明日香に無理に笑いかけた。「わかんない。でもおまえがいてく
れなかったらパニックになってたな」

「言ったでしょ。もう前とは違う。あたしは、あたしだけは絶対にお兄ちゃんを一人にし
ないから」

「うん。ありがと」

「礼なんて言わないでよ。こんな状況なのに」

「じゃあ続けよう。きつかったらいつでも言いなよ」

「わかった」

「この先はさ、明日香には話したことがあるんだけどね。いろいろ揉めはしたけど結局あ
んたの母親は結城さんとの離婚の条件に同意したの。あんたと奈緒を放置した彼女が何を
考えていたのかはわからない。でも、どういうわけか奈緒人の母親は、自分が見捨てた子
どもたちの親権にこだわっていたのね」

「最初は子どもたちをネグレクトして面倒を見なかったあんたの母親に不利な展開だった。
でも奈緒人の母親側の弁護士は優秀なやり手で、結局浮気もネグレクト自体も根本的な原
因は家庭を省みずに仕事に熱中していた結城さんが原因だと主張したの」

「それに忙しい仕事を抱えた結城さんが子どもたちをちゃんと育てられる訳がないとも。
結城さんの実家の両親、つまり奈緒人の祖父母も高齢で本人たち自身にも介護が必要で子
育てなんてできる状況じゃなかったことも不利な要素だったのさ」

「離婚の話し合いは家庭裁判所では決着がつかず裁判にまでもつれ込みそうなことになっ
ていた、その時」

 叔母さんが話を区切った。ウエイトレスが叔母さんのナポリタンを運んできたからだ。

「食べながらでもいい?」

 叔母さんが聞いた。

「どうぞ。お昼食べてないんでしょ」

「悪いね。それで」

 叔母さんがナポリタンを口に入れながらも話し続けた。

「そんな結城さんに不利な状況が一変したのよ。良くも悪くもだけどさ」

「明日香のお母さん、つまりあたしの姉と結城さんは幼稚園の頃からの幼馴染でね」

「・・・・・・うそ? 初耳だよ。二人は大学時代の知り合いじゃないの?」

 明日香が驚いたように言った。

「正確に言うと姉さんと結城さんは大学で再会したんだよね。幼馴染だった二人は、小学
校に入る前に結城さんが引っ越して離れ離れになったけど、大学で偶然に再び出会ったっ
てとこかな」

「聞いてないよそんなこと」

 明日香がぶつぶつ言った。

「結城さんと大学で再会した姉さんからよく恋の相談を受けたものだったよ、あの頃はあ
たしも」

 叔母さんがフォークに巻きつけたスパゲッティを口に押し込んだ。



103:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/10(水) 23:28:01.30 ID:cxEkQJKlo

 叔母さんがフォークに巻きつけたスパゲッティを口に押し込んだ。

「でもさ。その時結城さんには彼女がいたんだよね。同じ大学のサークルの子がね。だか
ら姉さんは結城さんの恋を応援したみたい。自分の結城さんへの恋心は押し隠して
さ・・・・・・もうわかるよね。結城さんの当時の彼女が誰だか」

「・・・・・・僕の実の母さんですか」

「そのとおり。そして時が流れて結城さんとあんたの母親の離婚調停が長びいている最中
に、結城さんと姉さんは大学卒業以来久しぶりに再会した。音楽関係の書籍の出版記念
パーティーでのことだってさ」

「それでパパとママは恋に落ちたわけね」

「うん。結城さんは自分の陥っている状況を姉さんに相談した。そんで明日香は知ってい
ると思うけど、当時の姉さんは旦那に死別して明日香を自分一人で仕事しながら育ててい
た。まあ、ぶっちゃけあたしもあの頃は明日香の面倒を見させられていたんだけどさ」

「でも結城さんにはそんな幼馴染の姉さんが眩しく見えたんだろうね。自分の専業主婦の
奥さんが子どもたちをネグレクトしているのに、女親一人で仕事しながら明日香を立派に
育てている姉さんのことが」

「離婚調停中だったけど結城さんと姉さんは結ばれた。そのことを結城さんの弁護士は有
利な材料に使ったの。結城さんにも奥さん候補がいて子育ては十分にできるって」

「たださあ」

 叔母さんがケチャップに汚れた口を紙ナプキンで拭いた。

「あの結末だけは今だに理解できないんだけどさ。突然、結城さんの元奥さんは、その」

「何?」

 叔母さんは躊躇するように僕の方を見た。

「今さら、何を言われても多分大丈夫だと思います。僕には明日香がそばにいてくれる
し」

 叔母さんは少しだけ微笑んだようだった。

「だったら話すけど。調停の途中で、あんたのお母さんは申し立て内容を変更したんだよ。
あんたはいらないって。奈緒ちゃんの親権と監護権だけ確保できればいいって」

「そうですか」

 そのときは別に何の痛みも感じなかった。母親と言われても記憶すらないのだ。

「結局、家庭裁判所の調停員の出した調停内容は、お互いに一人づつ子どもを引き取ると
いうことだった。付帯条件としてお互いに引き取れなかった子どもには、無制限に面会で
きることっていうことにはなっていたけど」

 ここで叔母さんは今まで以上にためらいを見せた。

「ここから先は話していいのか正直迷ってる。明日香にも話したことないし」

「全部話して。ここまで来た以上」

 明日香がそう言い僕もうなずいた。

「わかった。でもこの先はつらい話だよ」

 叔母さんは僕と明日香を交互に眺めた。そしてフォークを置いてため息をそっと押し殺
して話を続けた。

「結城さんと奥さんはその内容に同意した。調停が成立したということね。そして奈緒人
を結城さんが、奈緒ちゃんを奥さんが引き取ることになった。結城さんにとっては不本意
だったと思うけど、親権に関しては裁判を起こしても母親が有利になる傾向があるって弁
護士に言われて最後には納得したみたい。姉さんと早く結婚したいっていう気持ちも手伝
ったんじゃないかと思う」

「その結論を結城さんから聞かされた次の日、その日にはあんたの母親が奈緒ちゃんを引
き取りに来る予定だったんだけど」

「あんたと奈緒ちゃんはその日の朝、預けられていた結城さんの実家から逃げ出したんだ
って。お互いに別れるのは嫌だって」



104:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/10(水) 23:29:44.36 ID:cxEkQJKlo

 今まで叔母さんの説明してくれた情報量に圧倒され何の感慨も抱く暇がなかった僕の脳
裏に、このとき初めて封印されていたらしい記憶が蘇った。

『パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。それでいいよ
な? 奈緒』

『うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ』

 泣きながらそう言って僕にしがみつく奈緒。僕は奈緒の手を引いて祖父母の家から脱走
したのだった。

 その結末はよく覚えていない。でも今にして思えばどこかで大人たちに掴まって、僕は
奈緒と引き剥がされたのだ。この間偶然に再会するまで。

「明日香、あんた奈緒人とのことで姉さんからいろいろけしかけられるようなこといわれ
ただろ。あれも姉さんの切ない気持ちだったんだと思うよ。姉さんはせっかく築いたこの
家庭を壊したくなかったのよ」

「・・・・・・どういう意味?」

「姉さんにとってはやっと手に入れた幸せな家庭だからね。血の繋がっていない奈緒人を
含めて大切にしていたんだよ。それは結城さんの希望どおり奈緒ちゃんも引き取れたら、
姉さんは奈緒ちゃんのことも可愛がったとおもうけど、そうはならなかった。そしてそう
ならなかった以上、姉さんだって奈緒ちゃんのことは警戒したんだろうさ」

「警戒って・・・・・・実の妹なのに」

「別に恋人的な意味じゃなくても、奈緒人君を奈緒ちゃんに取られるくらいなら、あんた
とくっついてほしいと思ったんだろうね。明日香、あんた、奈緒人君とのこと、姉さんに
けしかけられただろ?」

「・・・・・・うん。言われた。『明日香はお兄ちゃんのこと好き? 大きくなったら奈緒人の
お嫁さんになりたい? そうよ。お兄ちゃんがパパで明日香がママになったら楽しいでし
ょ』って」

「姉さんを悪く思わないでやって、奈緒人。姉さんは今の家庭を守りたいだけなの」

「うん。悪くは思わない」

「あたしだってさ」

 叔母さんがいつの間にか浮べていた涙をさりげなく拭いた。

「あたしだって、こないだのファミレスで奈緒人と明日香がイチャイチャ知っているとこ
ろを見かけて本当に嬉しかったのよ」

 このときの僕は思考が麻痺していた。流れ込んできた情報量が多すぎて消化不良を起こ
していたのだ。逆に言うと言葉の持つ意味に麻痺して感情を直接刺激しない分、パニック
やフラッシュバックが起きそうな感じもしなかった。

 多分今日聞いた情報を整理するようになったとき、僕は辛い思いをすることになるのだう。

 かわいそうな奈緒。僕のただ一人の妹。僕の初恋の相手。

 僕は奈緒のことを思い出したけど、この時僕が思い出せた奈緒の姿は、僕の恋人になっ
た富士峰の中学生の奈緒の姿ではなくて、僕が忘れてしまっていたはずの幼い姿で僕にし
がみついていた奈緒の姿だった。



『うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ』



 叔母さんの長い話が終ったとき、長らく忘れていたはずの幼い奈緒の表情や声音が驚く
ほどリアルに目の前に浮かんだ。僕はそのとき僕を心配してくれている明日香ではない女
の子を思い浮かべたことに罪悪感を感じたのだった。

「あんたと奈緒ちゃんが結城さんと元奥さんにそれぞれ引き取られてからも、結城さんは
それなりに奈緒ちゃんと会っていたみたいなの」

 明日香が叔母さんの言葉を遮った。

「何よ明日香。うるさいなあ」

「いや・・・・・・大丈夫だから続けて」

 僕は明日香を遮った。



105:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/10(水) 23:31:42.16 ID:cxEkQJKlo

 その話がどういう風に展開するかはだいたい予想がついていたけど、ここまで来たら教
えてくれることなら何でも知りたい。目をつぶって耳を塞いでいても奈緒を失った痛みは
消えないのだ。それなら今まで闇の中にかすんでいた記憶に灯りを当てたとしても、辛さ
にはたいして変りはないだろうと僕はその時考えたのだ。

 僕は明日香の心配そうな顔を見て笑いかけた。

「叔母さんの話を聞きたいんだ。いいかな」

「だって・・・・・・。お兄ちゃん大丈夫なの?」

「おまえがいてくれるなら。多分」

「わかったよ」
 明日香は諦めたように叔母さんを見た。「続けてあげて」

「じゃあ話を続けるか」

 叔母さんはちらりと僕と明日香の握り合って手を眺めた。その顔には再びほんの少しの
間だけ微笑みがよぎったようだった。

「何を言いたかったって言うとね、そろそろ奈緒ちゃんがどこまで知っていてどういうつ
もりであんたと付き合出だしたのということを考えてもいいんじゃないかな」

「絶対悪意があったに決まってるよ、あの子には」

 明日香が好戦的な口調で言い放った。

「まあ最初から決め付けないで少しづつ考えていこうよ」

「うん。今はまだ何にも決め付けたくない」

 僕は二人に言った。明日香がこれみよがしにため息をついてみせた。

「あんたと奈緒ちゃんのことは、あの後明日香から詳しく聞いたよ..。
幼い頃に生き別れた実の兄妹が悲劇的な偶然でお互いに血が繋がっているとは知らずに
出合い恋に落ちた。奈緒人、あんたそれを本気で信じられる?」

「・・・・・・よくわからないよ」

「あんたには家族に関する知識も昔の記憶もなかったけど、奈緒ちゃんは一年間に何度も、
結城さんと会っている。結城さんに聞いたことはないけど、結城さんと奈緒ちゃんがいつ
もいつもお互いの近況や世間話ばかしてたわけじゃないでしょ」

「奈緒ちゃんが自分の生き別れたお兄さんのことを知りたがったって何にも不思議はない
よね。ましてやあんなに慕っていたあんたから無理矢理引き裂かれるように別れさせられ
たのだし」

「まあ、奈緒は真っ先にお兄ちゃんのことを聞いたでしょうね」

 明日香が呟いた。

「うん。多分明日香の言うとおりだよ。奈緒人、たとえあんたと奈緒ちゃんの出会いが偶
然の出来事だったとしても、その・・・・・・奈緒ちゃんと仲良くなったらお互いのことを質問
しあったりしたんでしょ?」

「うん。それはそうしたよ」

「お互いに名前も名乗ったんでしょ。そして鈴木奈緒という名前にはあんたは聞き覚えは
なかっただろう。でもあんたの名前を聞いた奈緒ちゃんはその時どう思ったのかな」

 彼女はその時いったい何を考えたのだろうか。僕と違って奈緒は僕の名前を忘れずにい
た可能性もあるし、あるいはそれを忘れてしまっていたとしても叔母さんの言うとおり父
さんから僕のことを聞きだして僕の名前を知った可能性もある。どちらにしてもお互いに
名乗りあったその時には、奈緒は僕が実の兄である可能性に思い当たったはずだったのだ。

 僕はフラッシュバックを気にしながら恐る恐るそのときの奈緒の反応を思い出してみた。
明日香がぴったりと僕に密着していてくれるせいかパニックを起こすことはないようだ。

『ナオって漢字で書くとどうなるの?』

『奈良の奈に糸偏に者って書いて奈緒です・・・・・・わかります?』

『わかる・・・・・・っていうか、僕の名前もその奈緒に最後に人って加えただけなんだけど。
奈緒人って書く』

『奈緒人さん、運命って信じますか』



106:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/10(水) 23:32:40.83 ID:cxEkQJKlo

 こうしてあの時のことを思い出すと、やはり奈緒は僕の本名に特別に反応していた様子
はなかった。彼女が僕の本当の妹であることがわかった今では、奈緒の悪意の有無なんて
考えたってどうしようもないのだけど、それでも僕は少しだけほっとしていた。

「あの時の奈緒は別に驚いている様子はなかったよ。多分僕のことや本名とかも知らなか
ったんじゃないのかな」

 叔母さんが何か言おうとしてためらった。その間に明日香が喋りだした。

「あるいは最初から自分が誘惑した相手がお兄ちゃんだと知っていたのかもね。それなら
お兄ちゃんの本名なんて知っていたのだろうから驚いたりもしないでしょ」

 僕は不意打ちを食らい黙ってしまった。確かに奈緒に悪意がある前提で考えれば、奈緒
の反応は全て合理的に解釈できるのかもしれないのだ。

 このあたりまでくると僕もそろそろ自分を納得させなければいけない状況になってきて
いた。

「客観的に言うとさ。明日香の言うことの方に理があるかな」

 叔母さんが言った。

「でも、奈緒にとってどんな得があるんだよ。実の兄と知って僕を誘惑したって、叔母さ
んも明日香も言いたいみたいだけど、言ってみれば僕と奈緒は二人とも被害者でしょ。奈
緒には僕に対してそんなことを仕掛ける理由がないよ。それとも僕が知らない何らかの理
由で僕のことを恨んでいるとでも言うの?」

「さあね。それはあたしにはわからない。十年近い間あんたと引き剥がされた奈緒ちゃん
がいったいどんな生活を送っていて何を考えていたかもわからないんだからね」

「じゃあ奈緒の意図については、結局はわからないということになるよね」

「今はまだね。あともう一つ気になるのは何であんたの本当の母親があんたと一度も面会
しようとしなかったってことだね」

 叔母が突然奈緒の意図から話を変えたので僕は少し戸惑った。

「ただ会いたくなかったからじゃないの」

 平静を装ってそうは言ったけどその時僕の胸は少し痛んだ。

「親権をめぐってあれだけ争っていたのよ? あの人は奈緒ちゃんだけじゃなくて、少な
くても最初のうちはあんたにも執着していいたはぜでしょう」

「でも現に僕はその人と会うことはなかったし、去年両親から聞かされるまでは母さんと
明日香が自分の本当の家族だって思っていたくらいだし」

「まあ、そもそもそれが不思議なんだけどね」

「それって?」

「奈緒人。あんたは明日香が思っているほど記憶力に乏しいとか忘れっぽいとかそんなこ
とは絶対ないよ。あたしはあんたと付き合ってきているからよくわかるけど、むしろ記憶
力がないのは明日香の方だね」

「叔母さんひどいよ」

 明日香がその場を茶化すように言った。その気持ちは嬉しかったけど、叔母さんも僕も
少しも笑えなかった。

「それなのに明日香さえ覚えているようなことを忘れてしまっているでしょ。幼い子ども
にとっては両親の離婚とか仲のよい妹との別離とか忘れるどころかトラウマになったって
不思議じゃないのに」

「さっき叔母さんが言っていた自衛本能みたいなやつなのかな」

「さあ。それならまだいいんだけどね」

「僕って本当に何一つだって考えてなかったんだね」

「どういう意味?」

「こないだの夜、僕は父さんと叔母さんの会話を聞いてたんだよね。寝たふりをしてたけ
ど」

「そうか」

「あの会話だけでも、奈緒が僕の別れた妹だって十分にわかったはずなのに」



107:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/10(水) 23:33:26.83 ID:cxEkQJKlo

「・・・・・・それはしかたないよ。そもそもあんたは自分に実の妹がいることさえ覚えてなか
ったんだから」

 叔母さんは大分食べ残したナポリタンの皿を押しやって左手の時計をちらりと眺めた。

「そろそろ行かないとね。あたしが話せることはこれくらいで全部だし」

「うん。忙しいのにありがとう叔母さん」

 叔母さんの話を聞いたことによって少しも楽になったりはしなかったし、むしろもやも
やした感じが増幅していのだけど、それでも僕は叔母さに感謝していた。

「・・・・・・元気出せ、奈緒人。こんなことに負けるんじゃないよ。あたしも明日香もあんた
の味方だからね」

 叔母さんはそう言った後に、最後に一言言って話を締めくくった。

「そろそろ結城さんと真面目に話し合った方がいいかもね。奈緒とのことを博人さんに言
いづらいなら、彼女のことは伏せたっていいんだし」



 今日は学校は半日しかなかったのに結果的には僕にとっては長い一日になってしまった。
さっき渋沢と志村さんに、明日香と手をつないでいるところ不思議そうに見られて戸惑い
を感じたことが随分昔のことのように思えてくる。

 今こうして帰りの電車の中で並んで座っている僕と明日香を渋沢たちに見られたとした
ら、さっきのように見過ごしてくれることすらないかもしれない。明日香は叔母さんと別
れて集談社のビルから出た途端、どういうわけか僕の手を離した。

 その時僕はすごく心細く感じたのだけどそれは一瞬だけだった。僕の手を離した明日香
は再び手を握りなおした。今度は恋人つなぎだった。僕は奈緒とだってこんな風に手をつ
ないだことはない。

「おい」

「いいから」

 明日香が思わず引っ込めようとした僕の手を捕まえた。

「お兄ちゃん、無理しないでいいよ。いろいろこないだから展開も急だったし不安なんで
しょ?」

「確かにきついことはきついけどさ」

「じゃあ遠慮しないであたしに頼りなよ」

 電車を降りて夕暮れの住宅街を自宅に向かって歩いているときも、明日香は僕にぴった
りと寄り添ったままだった。僕は安堵感と同時に罪悪感が膨れ上がっていくのを感じた。

 やがて僕たちは真っ暗な自宅の前に帰ってきた。

「あのさあ」

 僕は今まで以上に僕のそばに寄り添ってきた明日香に言った。今、明日香を失ったら僕
はどういう状態になるのかわからない。その恐れは僕の中に確かにあったのだけど、いつ
までも妹を僕の犠牲にするわけにはいかないのだ。

「おまえもあんまり無理するなよ」

 明日香が僕の言葉に凍りついたようだった。僕の手を握る明日香の手に込められた力が
弱々しくなっていく。

「確かに今の僕は情けない兄貴だし、明日香に頼って何とか心の平穏を保っている状態な
のはわかっているんだけどさ」

「だ、だったらもっとあたしに頼っていいよ。言ったじゃん? あたしはもう二度とお兄
ちゃんを一人にはしないって」

「おまえには無理をして欲しくないんだよ。父さんのためにも母さんのためにも」

「お兄ちゃん・・・・・・何言ってるの」

「おまえはずっと僕を守ろうとしてくれてたんだろ? 僕が奈緒と付き合い出したのを知
ったときから」

「そのためにおまえ、彼氏とも別れて友だちとも縁を切ったりしたんだろ」

「お兄ちゃん」



108:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/10(水) 23:34:07.72 ID:cxEkQJKlo

「・・・・・・おかしいとは思っていたんだ。あれだけ僕を嫌っていたおまえが、僕のことを好
きだって言ったりいきなりその・・・・・・キ、キスしたりとかさ」

「それは」

「・・・・・・僕の気持ちを奈緒からおまえに向けさせようとしてくれていたんだね。真実を知
ったときに僕があまり傷つかないように」

 明日香が驚いたように目を見開いた。

「おまえの気持ちはよくわかったよ。ありがとな」

「お兄ちゃん・・・・・・」

「もう大丈夫だから。もう僕のことなんか好きな振りをしてくれなくても平気だからさ」

「何言ってるの?」

「何って。おまえは僕が奈緒のことを忘れられるように、僕のことが好きな振りをしたり
そのために彼氏と別れたりとかしてくれたんだろ?」

 明日香が僕の手を離した。そして泣き笑いのような複雑な表情を見せた。

「・・・・・・・鈍いお兄ちゃんにしてはよく見抜いていたんだね」

「まあね」

「あたしさ、お兄ちゃんにまだ謝っていないの」

「謝るって?」

「今までお兄ちゃんのことを一方的に嫌ったり辛く当たったりしてごめんなさい」

「・・・・・・うん」

「あたしさ。何かママとパパがお兄ちゃんのことばっかり大切にしているように思って面
白くなくて」

「うん。わかってる」

「でもね。でも・・・・・・そうじゃないんだ」

 明日香はやがて泣き出した。

「・・・・・・どういうこと?」

「あたし気がついたんだ・・・・・・奈緒がお兄ちゃんのことを誘惑してるってわかったとき
に」

「気がついたって?」

「あたし以外の女にお兄ちゃんが傷つくのがすごく嫌だって。本当にお兄ちゃんのこと嫌
いだったら、誰がお兄ちゃんを傷つかせたって関係ないはずなのにね」

「・・・・・・うん」

「お兄ちゃんの言うとおり、あたしは最初は自分だけがお兄ちゃんの味方をしなきゃと思
った。これまで辛く当たったってこともあるけど、お兄ちゃんにはあたししか味方がいな
い。少なくとも奈緒とのことを知っていてお兄ちゃんを守れるのはあたしだけだって思っ
たから」

「それはわかったよ。でも、もういいんだ。僕のことでおまえが彼氏と別れたり、無理し
てずっと僕の隣にいてくれなくてもいいんだ。そんなことをされると僕のほうが辛く感じ
るよ」

「そうじゃないの!」

 明日香が泣き出した。



109:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/10(水) 23:34:45.44 ID:cxEkQJKlo

「確かに最初はお兄ちゃんが言うように義務感からだった。お兄ちゃんを守れるのはあた
しだけだと思っていたし、あたしはお兄ちゃんを奈緒から守るためならお兄ちゃん好みの
女にもなるしイケヤマとだって別れてもいいと考えた」

「でも今は違うの」

 明日香は必死な声で言った。

「違うって何が?」

「あたしお兄ちゃんを好きな振りをして、お兄ちゃんをあたしの方に振り向かせようとし
ているうちに気がついちゃったの。奈緒のこととか関係なくてもあたしはお兄ちゃんが好
きなんだって。あたしにとってお兄ちゃんは運命の人なんだって」

 裸で抱きついてきたりいきなりキスしてきたり僕のベッドに潜り込んできた明日香だけ
ど、ここまで真剣な顔で彼女に見つめられたのは初めてだった。

 僕が間違っていたのだろうか。ひょっとしたら以前の嫌がらせも含めて、最初から明日
香は僕のことを異性として愛していたのだろうか。

「それは明日香に都合がよすぎる話だよね」

 その時、自宅の玄関前の暗がりに立っていたらしい有希の声がした。有希が暗がりから
道の方に出てきたせいで、街灯に照らされた彼女の白い顔がぼんやりと浮かび上がった。

「明日香、それに奈緒人さんも今晩は」

 有希が笑って僕たちにあいさつした。



115:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/18(木) 23:52:54.27 ID:bpgbqjnzo

「どうしたの? 明日香、大丈夫」

 有希が言った。

「有希、いつからいたの」

 明日香は震えた声を隠せない様子だった。

「三十分くらい前からいたよ。ちょっと用があって待ってたんだけど」

 意外と穏かな様子で有希が答えた。さっきの意味は不明だけど辛らつな様子はない。

「あの・・・・・・あのさ。あたしたちが喋ってた話、聞こえてた?」

 明日香が震える声で有希に聞いた

「ううん。誰かが来たなあって思ってぼうっとしてたら明日香とナオトさんだった。帰ろ
うかと思っていたところだから都合がよかったって言ったんだけどさ。ちょっと時間あ
る?」

 有希がいつもどおりの穏かな声で言った。

「えと、ごめん。ちょっと家族の悩みの話とかあってさ。またメールで話すんでもいいか
な」

「すぐに済むと思うよ。奈緒人さんに聞きたいことがあるだけだから」

 有希が僕の方を見た。僕はどういうわけか緊張して有希の顔を見た。

「奈緒人さん」

「うん」

「お二人は家族の問題とやらで忙しいみたいだから時間を取らせちゃ悪いよね。だからは
っきりと言うけど、奈緒人さんは奈緒ちゃんの彼氏だっていう自覚はあるの?」

 有希が言った。

「有希には関係ないでしょう。そんなのはお兄ちゃんと奈緒の間の話じゃない。何で有希
がそんなことを聞くのよ」

「奈緒ちゃんに頼まれたの。今の彼女、ぼろぼろで正直に言って見ていられなかったし。
奈緒人さんに突然会えなくなって連絡もなくなってさ。奈緒ちゃんが今どういう状態なの
か、奈緒人さんはわかってる?」

「・・・・・・有希にはわからないことだってあるんだよ。お兄ちゃんにだって事情があって」

「ちょっと黙っていてくれるかな。あたしは今は奈緒人さんに聞いているんだけど」

 有希は奈緒のことを本気で心配しているのかもしれない。それなら、ここは適当に誤魔
化すわけにはいかないだろう。僕はそう思った。

「君には詳しくは言えないけど、もう僕は奈緒と付き合わない方がいいんだ。その方が奈
緒のためでもあると思う」

「確認するけど、奈緒人さんはもう奈緒ちゃんと付き合い続ける気はないのね」

「うん。そうだよ」

「それでその理由を奈緒ちゃんに話す気すらないと」

「その方が彼女のためだから」

「何言っているのかわからないけど。そっちがそういう態度ならあたしにも言いたいこと
があるんだけど」

 有希が友好的な態度で振舞うことを放棄して、僕を真っ直ぐに睨んだ。

「奈緒ちゃんを振った理由ってまさか明日香と付き合うからじゃないでしょうね」

「やっぱりね。あたしは兄妹の禁断の告白タイムを邪魔しちゃったのか」

 有希は僕と明日香をあざ笑うように言った。その様子は僕が知っている有希の姿とは全
く違う。



116:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/18(木) 23:53:35.28 ID:bpgbqjnzo

「ちょっと有希、いい加減にしなよ」

 明日香が言った。

「ねえ明日香ちゃん」
 有希猫なで声を出した。ちゃんづけまでして。「明日香ちゃんはあたしに言ってく
れたこと覚えてる? 多分奈緒人さんには秘密だったんだろうけど」

「あたしの方が奈緒ちゃんより奈緒人さんの彼女にふさわしいってしつこいくらいあたし
に言ってくれたよね? あと奈緒人さんにメールしろとかおせち料理の買出しにかこつけ
て奈緒人さんとデートしろとかさ」」

 もう有希は僕の方を見なかった。

「あたしを利用してまで、奈緒人さんと奈緒ちゃんを別れさせた理由って何? あたしは
別に怒ってはいないよ。あたしには話せない事情があるみたいだし、明日香ちゃんが奈緒
人トさんと奈緒ちゃんのためならあたしが傷付いてもしかたないと判断したんだったら、
あたしは辛いけど明日香ちゃんを恨んだりはしない」

 もちろんこれは有希の嫌がらせだったのだろう。恨んだりしないわけがない。その憎し
みが冷静を装った有希の声色に溢れていると僕は思った。明日香はうつむいたまま一言も
反論しなかった。

「でも、これだけは聞かせて。まさかとは思うけど、奈緒ちゃんを奈緒人さんから別れさ
せようとした理由って、明日香ちゃんが奈緒人さんのことを好きだったからじゃないよ
ね?」

 明日香は追い詰められた小動物のように僕の方を見た。その時、明日香は突然身を
翻して駆け去って行った。驚く様子もなく、有希は僕にあいさつした。

「じゃあ、あたしは帰るね。さよならナオトさん」

 その晩、結局明日香は帰って来なかった。明日香の帰宅が深夜になること自体は今まで
だって珍しいことではない。特に両親が泊まりで帰宅できないとわかっていたときには頻
繁にあったことだった。でも明日香が深夜に帰宅しないのは、いい妹になると僕に宣言し
てから初めてのことだった。得体の知れない不安を感じた僕は以前と違ってさっさと一人
で就寝することもせず、リビングでひたすら妹の帰りを待った。

 さっき有希が曝露した話、明日香が有希に対して僕と仲良くなるようけしかけていたと
いうのは初耳だった。有希はどうも僕が奈緒に連絡しない原因が明日香にあると思い込ん
でいるようだ。でも実は僕は少しも動揺しなかった。有希に対しては悪いことをしたとは思う。
でも明日香のその動機は僕の気持ちを奈緒から離すことにあったはずで、そのため
には、僕が好きになる女の子が自分でも有希でもどちらでもいいと彼女は考えたのだろう。

 だから有希には申し訳ないとは思ったけど、それを仕掛けた明日香に対しては感謝の思
いしか感じなかった。

 それでも明日香はユキの言葉にショックを受けたようで、明日香に利用された有希の腹
いせというか復讐は、少なくとも明日香に対しては功を奏したようだった。

 明日香のことが心配だ。携帯に電話しても出てくれない。リビングでうろうろしながら
ずっと彼女を待っていた僕は、日が変わる頃になってついに明日香の帰宅を待つことを諦
め、夜中に一人眠りについた。

 翌朝になって、開け放されたドア越しに明日香の部屋を見ても階下に降りても明日香の
姿は見当たらなかった。さすがに不安になった僕は立ちすくんで考えた。

 明日香の僕に対する告白については昨日の彼女の様子を見ると、もはやあいつのいつも
の気まぐれだと片付けるわけにはいかない。明日香の僕への想いはいよいよ本気で考えな
ければいけないようだ。でもそんなときに、僕と奈緒のトラブルや有希の感情の暴発みた
いなことが同時に生じた。整理が追いつかないほど色々な出来事があり、その上奈緒に関
しては心情的には致命的と言っていいほどの傷を負ったのだ。今は考えないようにしてい
るだけで、これは爆弾を抱えて生きているのと同じ状態だった。



117:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/18(木) 23:56:52.10 ID:bpgbqjnzo

 明日香に対しては責任ある態度を示してあげなければいけないのだろうけど、そもそも
今だに自分の彼女である奈緒に対してさえ、僕は無視する態度以外には何もできなかった
のだ。とにかく学校に行こうと僕は思った。ここで明日香を待っていても妹が帰ってくる
保証はない。

 それにしても、いったいあいつは今どこで何をしているのだろう。



 駅に向かう途中の高架下に奈緒が待っていた。僕が彼女の姿を認めた瞬間に奈緒も近づ
いてくる僕を見つけたようだった。僕たちの視線が交錯した。

 奈緒を見るのは久しぶりだった。冬休みが始まる前の最後の登校以来だ。このときの僕
の胸からは明日香のことを心配する気持ちが消え去り、頭の中にはそこに立っている奈緒
にへの想いだけが溢れていった。

 やっぱり奈緒は可愛い。外見だけで判断するなら明日香よりも有希よりもはるかに可憐
な容姿だ。登校前なのだろう、彼女は富士峰の清楚な制服に身を包んでいた。

 逃げるわけにもいかず、僕は麻痺したような機械的な足取りで奈緒の方に近づいていっ
た。

「おはようございます」

 奈緒が僕を真っ直ぐに見つめて言った。緊張している様子だったけど、それでも彼女は
僕から目を逸らそうとはしなかった。

「・・・・・・おはよう」

 僕は何とか彼女に返事をすることができた。感情は乱れているけれど今のところフラッ
シュバックが襲ってくる様子はなかった。

「・・・・・・途中まで一緒に登校してもいいですか」

 奈緒の言葉に僕は黙ってその場にたちすくんだ。

「それとも、それすら今では奈緒人さんには迷惑ですか」

 奈緒が言った。震えそう声、付き合い出したばかりの頃のような敬語。

 それは僕の中に奈緒のことが可愛そうでどうしようもないようなじれったい感情を呼び
起こした。でもここで気を緩めるとかえって奈緒を不幸にするのだ。

 ・・・・・・こういう心理的な傷を心に負うのは僕だけでいいのだ。

「何か用かな」

 僕は感情を極力抑えて奈緒に答えた。

「昨日の夜、有希ちゃんから電話がありました。奈緒人さんはもうあたしとは付き合う気
がないって有希ちゃんは言ってました」

「そう」

「本当なんですか」

 奈緒の真っ直ぐな視線が僕を捉えた。

「うん。本当だよ」

 どんなに辛くてもここで誤魔化してしまったら意味がない。明日香や叔母さんは僕はも
う奈緒とは会わない方がいいと言った。

 僕は二人の言葉に従ったけど、僕が大晦日の夜以来これまで奈緒に連絡しなかったのは、
二人が心配してくれたように僕自身がこれ以上傷付くことを恐れたからではない。このま
ま奈緒と付き合っていたら、いつか傷付くことになるのは奈緒だった。好きになって初め
て付き合った相手が実の兄だということを知ったら、奈緒は僕と同じく精神を病むほどの
ショックを受けるだろう。

「あたしピアノをやめます。そしたら毎日奈緒人さんと会えるようになりますけど、そう
したらあたしのこと嫌いにならないでいてくれますか」

 奈緒が装っていた平静さは既に崩れてしまっていた。その両目に涙が浮かんでいる。

「そんなことできるわけないでしょ。将来を期待されている君が突然ピアノを止めるなん
て」

「できますよ。それで奈緒人さんがあたしと別れないでくれるなら、今日からもう二度と
ピアノは弾きません」



118:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/18(木) 23:58:15.69 ID:bpgbqjnzo

「・・・・・・もうこういう話はやめよう」

 奈緒だけではない。僕ももう泣きそうな気持ちだった。

「あたしのこと、どうして嫌いになったんですか? ピアノばかり練習していて奈緒人さ
んと冬休みに会わなかったからなんでしょ」

 奈緒が縋りつくような目で僕を見上げた。

「そんなんじゃないよ」

「じゃあせめて何であたしのことを嫌いになったのか教えてください。このままではあた
し、どうしていいのかわからない。もう何も考えられない」

 ついに奈緒は泣き出した。

 結局こうなるのだ。

 でも自分が僕の妹だとわかるよりも、理由もわからず不誠実な初恋の相手にひどく振ら
れた方がまだましだろう。失恋の痛みはいつかは癒える。それに僕とは違って彼女には次
の恋の相手にはこと欠かないだろうし。

 僕はそう考えようとしたけど、目の前で泣いている奈緒の姿を見ているとだんだん息苦
しい気分になった。目の前がぼやけてくる。今目の前で泣いている奈緒の姿が、最近思い
出した過去のイメージに重なっていった。



『パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。それでいいよ
な? 奈緒』

『うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ』



 泣きながらそう言って僕にしがみつく奈緒。目の前で泣いているのは、母親に放置され
て辛い思いをした挙句、大人たちの都合で僕と二度と会えないかもしれないことを知った
あの悲しそうな表情の奈緒だった。そして僕はそのとき奈緒を救えなかった。

 その僕が再び奈緒を傷つけることになったのだ。

 再びフラッシュバックが訪れたことに僕は気がついて狼狽した。目の前が真っ白に光っ
て何も見えなくなる。続いて僕の方を見て泣き叫びながら母親に抱かれ、3ナンバーのB
MWに乗せられ、遠ざかっていく奈緒の幼い姿が目に映る。

 次に僕は明日香の姿を見た。裸で僕に抱き付こうとしている僕の妹の明日香。

『ねえ。これでもあたしってガキなの?』

『あたしを見てどう思った? 何言ってるのよ。本当の兄妹じゃないじゃん。それにそん
なことは今関係ないでしょ』



 叔母さんの狼狽したような声。

『奈緒人・・・・・・あんた、まさか本気で自分の妹と付き合う気?』

『鈴木奈緒はあんたの本当の妹なのに』



 そして最後に有希の冷たい表情が目に浮かぶ。

『確認するけど、奈緒人さんはもう奈緒ちゃんと付き合い続ける気はないのね。それでそ
の理由を奈緒ちゃんに話す気すらないと』



119:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/18(木) 23:59:55.48 ID:bpgbqjnzo

 その場に屈んで頭を抱えながら必死で辛い連想に耐えていた僕もこの辺が限界だったよ
うだ。僕は意識が遠ざかっていくのを感じた。それはそのときの僕にとってはむしろ福音
であり救いでもあった。

 気がつくと僕は高架下のコンクリートの路面に横になっていた。体はコンクリートの冷
たさで冷え切っているようだけど、僕の顔は路面ではなく奈緒の柔らかい膝の上に乗って
いた。

 奈緒の両手が僕の体に回されていた。冷たい路面に座り込んで膝枕しながら、上半身を
屈めるようにしっかりと僕を抱きかかえている奈緒の顔は驚くほど僕から近い距離にあっ
た。

「大丈夫?」

 奈緒が僕を抱く手。明日香が同じことをしてくれた時よりも心が安らいだ。

「気持悪くない?」

「僕はどのくらい気を失ってたの?」

「ニ、三分かな」

 では僕が気を失っていたのはほんのわずかの間だけだったらしい。

 僕は体を起こそうとしたけど、奈緒が僕を抱く手に力を込めたので僕は再び体から力を
抜いて横たわった。

「さっき自分が何て言ったか覚えてる?」

 どういうわけか先ほど見せた涙の欠片もなく穏やかな表情で奈緒が話し出した。僕は奈
緒に抱かれたまま考えた。

「全然思い出せない。いろんなことが頭には浮かんだんだけど」

「そうか」

 奈緒の様子がおかしかった。それは別に不安になるような変化ではない。でもさっき僕
に振られたと思って泣いていた奈緒とは全く違う表情だった。

「あたし、びっくりした。さっきお兄ちゃんはこう言ったんだよ。『パパもママもいらな
いよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ』って」

「そんなこと言ったのか・・・・・・」

「うん。あたし今まで気がつかなかったの。でもそれを聞いてすぐにわかった。あたしは
ようやくお兄ちゃんに会えたんだね」

「奈緒」

「お兄ちゃん会いたかった」

 奈緒が僕を抱く手に再び力を込めて幸せそうに微笑んだ。

 僕はまるで夢を見ているようだ。それは覚めることのない夢だ。

「ずっとつらかったの。お兄ちゃんと二人で逃げ出して、でもママに見つかってお兄ちゃ
んと引き離されたあの日からずっと」

「・・・・・・うん」

「もう忘れなきゃといつもいつも思っていた。お兄ちゃんの話をするとママはいつも泣き
出すし、今のパパもつらそうな顔をするし」

「前のパパも嫌いじゃない。あまり会えないけど会うたびにあたしの言うことは何でも聞
いてくれたし」

「でも。お兄ちゃんのことだけは何度聞いても何も教えてくれなかった」

「あたしね。これまで男の子には告白されたことは何度もあったけど、自分から誰かを好
きになったことはなかったの」

「そういうときにね、いつもお兄ちゃんの顔が思い浮んでそれで悲しくなって、告白して
くれた男の子のことを断っちゃうの」

「それでいいと思った。二度と会えないかもしれないけど、昔あたしのことを守ってくれ
たお兄ちゃんがどこかにいるんだから。あたしは誰とも付き合わないで、ピアノだけに夢
中になろうと思った」



120:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/19(金) 00:01:14.41 ID:8+9tr+1go

「でも。去年、奈緒人さんと出合って一目見て好きになって・・・・・・。すごく悩んだんだよ。
あたしはもうお兄ちゃんのことを忘れちゃったのかなって。お兄ちゃん以外の男の子にこ
んなに惹かれるなんて」

「奈緒人さんのこと、好きで好きで仕方なくて告白して付き合ってもらえてすごく舞い上
がったけど、夜になるとつらくてね。あたしにはお兄ちゃんしかいなかったはずなのに奈
緒人さんにこんなに夢中になっていいのかなって」

「それでも奈緒人さんのこと大好きだった。お兄ちゃんを裏切ることになっても仕方ない
と思ったの。これだけ好きな男の子はもう二度と現れないだろうから」

 ここまで一気に自分の胸のうちを吐露し続けた奈緒がようやく一息ついた。

「でも奈緒人さんはお兄ちゃんだったのね。あたしがこれだけ好きになった男の人はやっ
ぱりお兄ちゃんだったんだ」

 男女間の愛情とかを超越するほど、ネグレクトされていた僕と奈緒の関係は強いものだ
ったのだろうか。僕はその時混乱していた。フラッシュバックだって治まったばかっりだ
った。

 でも僕がようやく思い出したシーンにはいつも、幼い大切な妹の奈緒がいたのだ。

「・・・・・・奈緒」

「お兄ちゃん」

 奈緒が僕の顔すぐ近くで微笑んだ。

「やっと会えたね、奈緒」

「うん、お兄ちゃんにようやく会えたよ」

「・・・・・・奈緒」

「もう離さないよ、お兄ちゃん。何でお兄ちゃんがあたしを振ったのかわからないけど、
もうそんなことはどうでもいいの。あたしはお兄ちゃんの妹だし、もう二度と昔みたいな
あんなつらい別れ方はしないの」

「奈緒」

 僕は両手を奈緒の華奢な体に回した。

「お兄ちゃん」

 奈緒は僕に逆らわずに引き寄せられた。 僕と奈緒はそうして周囲を通り過ぎて行く
人々を気にせず抱き合ったままでいた。

 それはもうとうに授業が始まっている時間だった。

 遅刻した奈緒がその日学校でどういう言い訳をしたのか考えると、自然と頬が緩んでき
た。中学に入ってから一度も遅刻や学校を休んだことがないと前にあいつから聞いていた
ことを思い出したからだ。きっと奈緒は先生に言い訳するのに苦労したに違いない。

 あの日以来初めて僕は心底くつろいだ気分になれた。今は放課後で僕はぼんやりと奈緒
のことを思い出しながらゆっくりと帰り支度をしているところだった。渋沢は志村さんの
買物に付き合うとかで早々に二人揃って教室を出て行ってしまい、教室の中はもう数人の

徒が帰り支度をしているだけだった。

 僕が奈緒に関して心配していたことは全て杞憂だった。あれだけ悩んだ挙句、奈緒に本
当に深刻な傷をつけないために、奈緒には失恋というより小さな傷を与えることにした僕
だったけど、奈緒は僕が兄であると知って傷付くどころかすごく喜んだのだ。

 同じ事実を知ったときの僕が受けた衝撃なんか、彼女は少しも受けないようだった。そ
してその理由を考えてみると思い浮ぶことがあった。

 僕が自分の記憶を封印して妹や母親のことを全く覚えていなかったのと対照的に、奈緒
は過去の記憶を失ってはいなかったようだ。僕が思い出した過去の断片的な記憶ですらあ
れだけ切なく悲しかった。両親によって奈緒と引き剥がされた喪失感が、今再び恋人であ
る奈緒を失おうとしている感情とあいまって、精神に深刻な打撃を受けたくらいに。

 奈緒は過去の記憶を失っていなかった。そして兄である僕から無理矢理引き剥がされた
奈緒は、僕のことを無理に忘れようと努力しながらこれまで生きてきたのだ。それでも奈
緒は僕のことが忘れられなかった。彼氏すら作る気がしないほどに。

 それに奈緒は兄と知らずに僕と付き合い出してからも、幼い頃引き離された兄に対して
罪悪感を感じていたのだという。そんな奈緒のことだから自分の彼氏が兄だと知ったとき、
悲しむより喜んだことについては僕にも納得できる話だった。



121:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/19(金) 00:02:01.96 ID:8+9tr+1go

 依然として僕が初めての彼女を失った事実には変りはない。でも僕はその代わりに妹を
失った記憶取り戻し、そして今その妹を取り戻した。何よりも恐れていたように奈緒も傷
付かずにもすんだ。この先僕たちは恋人同士としてはやり直しはできないけど、兄妹とし
てはずっと一緒にいることはできる。それだけでも僕は心の安寧を手にした気分だった。

 久しぶりにゆったりとした気持ちで僕は教室を出た。これから奈緒を富士峰の校門まで
迎えに行かなければならない。奈緒は僕が兄だと知ったときから、かつて僕が彼氏だった
ときのような遠慮をしないことにしたらしい。

 さっき別れ際に遠慮のない口調で、放課後富士峰の校門まで奈緒に迎えに来るように言
われた僕は二つ返事でそれを受け入れたのだ。

 富士峰の校門の前でこうして奈緒を待っているのは初めてだった。以前の僕ならさっき
から校門の中からひっきりなしに吐き出されるように出てくる女子中学生や高校生の視線
を意識して萎縮してしまっていただろう。いかにも彼女を迎えに来ている彼氏のように見
えているだろうし、何よりも格好よければともかく僕なんかでは・・・・・・。

 でも待っている相手が自分の家族だというだけでこれだけ心に余裕ができるとは思わな
かった。つい最近は別にして、今まで明日香とはこういう待ち合わせをしたことがなかっ
たので妹を迎えに行くという経験自体も新鮮だった。

 僕は富士峰の歴史がありそうな石造りの門に寄りかかってマフラーを巻きなおした。今
日は大分冷え込んでいる。さっきから僕の横を通り過ぎて行く富士峰の女の子たちもみな
同じような紺色のコートを着て同じ色のマフラーを巻いている。学校指定なんだろうけど
これでは僕なんかには誰が誰だかぱっと見には識別できない。

 奈緒のことを見逃してはいないと思うし、迎えに来いといった以上奈緒だって僕のこと
を探すだろうからすれ違ってはいないと思うけど、これでは僕のほうから奈緒に気がつく
のは難しいかもしれない。

 そろそろここに来てから三十分は経つ。奈緒に伝えられた時間を間違えたのだろうかと
考え出したときだった。

「お待たせ」

 奈緒が突然現われて僕の腕に抱きついた。突然とは言ったけどさっきから途切れること
なく僕のそばを通り過ぎていた女の子たちの中に彼女も紛れていたのだ。

「お疲れ」

 僕は腕に抱き付いている妹に声をかけた。

「うん。今日は疲れた」
 奈緒は笑顔で僕に言った。「お兄ちゃん慰めて~」

「どうしたの」

「遅刻したの初めてだったから。先生に問い詰められて大変だった」

「登校中に気分が悪くなって駅で休んでたって言い訳するつもりだったんだろ」

「そうなんだけど担任に嘘言うのってきついね。あたし挙動不審に見えてたと思う」

 僕は抱き付いている妹に微笑んだ。

「お疲れ奈緒。じゃあ帰るか」

「うん」



122:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/19(金) 00:03:53.53 ID:8+9tr+1go

 僕は奈緒に抱きつかれたままで歩き出した。何か恋人同士として付き合っていたときと
緒の態度はあなり変わらない。というか会話だけ取り上げて見れば奈緒が敬語で話すのや
めた分、以前より距離が縮まっている気がする。

「お兄ちゃん、歩くの早いって」

 奈緒が半ば僕に引き摺られるようになりながら笑って文句を言った。周囲に溢れている
富士峰の女の子たちの好奇心に溢れた視線が集まっているのがわかったけど、奈緒はそれ
を全く気にしていないようだった。

「そう言えば普段は有希さんと一緒に帰ってるんじゃなかったっけ」

 僕は最後に見かけたときの有希の冷静で冷酷な印象すら受けた横顔を思い出した。

「今日は用事があるから一緒に帰れないって言ってきたんだけど・・・・・・」

 奈緒は少し戸惑っているようだった。

「うん? どうした」

「うん。何か今日はあの子様子が変だった。妙にそわそわしてて、落ち着きがなくて。あ
たしが先に帰るねって言ってもちゃんと聞いてないみたいだったし」

「何かあったのかな」

「う~ん。昨夜電話をくれたときはすごく怒っていたけど」

「・・・・・・そうだろうな」

「そうだよ。親友がひどい浮気性の彼氏に冷たく振られそうになっていたんだしね」

「おい」

 奈緒は笑った。それはやっぱりすごく可愛らしい表情だった。

「冗談だよ。あたしさっきはお兄ちゃんに再会して浮かれちゃったけど、あれから考えて
みたの。何でお兄ちゃんがあたしを振ろうとしていたのか」

「うん」

「自分の彼氏が本当のお兄ちゃんだと知って、あたしが傷付かないように自分が悪者にな
ろうとしてくれたんでしょ?」

「奈緒」

「ありがとうお兄ちゃん」

 奈緒が微笑んだ。

「うん」

 何か顔が熱い。まぶたの奥もむずむずする感じだ。

「お兄ちゃん?」

「うん」

 僕は同じ言葉を繰り返した。

「パパもママもいらないよ。僕は奈緒と二人でずっと一緒に生きるんだ。それでいいよ
な? 奈緒」
 奈緒があのときの僕の言葉を繰り返した。「覚えてる? あたしがそのときに何て答え
たか」

「ああ。覚えているよ」

 正確に言うと思い出したというのが正しいのだけれど。

「うん。ママなんか大嫌い。お兄ちゃんがいいよ。お兄ちゃんだけでいいよ」

 奈緒が記憶の中にあるのと正確に同じ言葉を繰り返した。あのときの絶望感とその後の
喪失感とつらかった日々。もう我慢も限界だった。僕は泣き始めた。

「あたしの気持ちはあれから十年間経っても全然変わっていないの。今でもお兄ちゃんだ
けでいいって、自信を持って言えるもの」

 泣いている僕を抱きかかえるようにしながら奈緒は柔らかい声で言ったけど、奈緒の声
の方も雲行きが怪しくなっているようだった。



123:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/19(金) 00:04:34.13 ID:8+9tr+1go

「・・・・・・今は泣いてもいいのかも。あたしたち、十年もたってあれから初めて会えたんだ
もんね」

 奈緒と僕は富士峰の女生徒たちの好奇の視線に晒されながらお互いに手を回しあって、
まるであの頃の小さな兄妹に戻ってしまったかのように泣いたのだった。

「有希さんの話だけどさ、僕たちが本当は兄妹だったこと彼女に話したの?」

 お互いに抱きしめあいながら大泣きした後、妙に恥かしくなった僕たちはとりあえず駅
前のスタバに避難した。僕にとってはここは敷居が高い店なのだけど、そんなことを言っ
ている場合ではないし奈緒は気後れする様子もなく店に入って行った。

 奈緒ちゃん大丈夫? とか奈緒ちゃんこの人に変なことされてない? とか周囲の生徒
たちは失礼なことを聞いてきた。でも奈緒はまだ涙の残る顔で笑顔を僕に見せた。

「お兄ちゃん走ろう」

 奈緒はそう言って僕の手を引いて走り出したのだ。こうして僕たちはスタバの奥まった
席で向かい合って座っていた。

 だいぶ落ち着いたところで僕は有希のことを思い出して聞いてみた。

「ううん、まだ話してない。説明すると長くなりそうだし」

 それはそうだろうなと僕は思った。まず自分の家の事情を話してそれから僕との偶然の
出会いを話してと考えると、学校の休み時間に気軽に話せることではない。

 それに僕と奈緒自身だって兄妹としては再会したばかりで、お互いのことを話し合うの
だって、まだこれからなのだ。

 最後に別れたときの有希の冷たい表情が脳裏に浮かんだ。有希の誤解がこれで解けるの
ではないかと期待しないではなかったけど、これは奈緒に任せておくしかないようだ。

「それにしても有希ちゃん、やっぱり今日は様子がおかしかったなあ。何か心配事でもあ
るのかな」

「やっぱり彼女は僕のこと怒ってたか?」

「うん。でも感情的にはならずにあたしを慰めてくれた感じ。『あんないい加減な男なん
て奈緒ちゃんの方から振っちゃいなよ。周りにいくらでも奈緒ちゃんのことを好きな人が
いるんだし』って言ってたよ」

「おまえそんなにもてるの?」

 奈緒がいたずらっぽく笑った。

「なあに? 気になるのお兄ちゃん。妹のことなのに」

「そういうわけじゃないけど」

「冗談だよ。気にしてくれて嬉しいよお兄ちゃん。でもあたしを好きな人がいるなんて話
は聞いたことないよ」

「そうなんだ」

「安心してお兄ちゃん。鈴木奈緒の目には今のところお兄ちゃん以外の男の子は全く映っ
ていないから」

「それはそれでまずい気がする」

「何よ。嬉しいくせに」

「あのなあ・・・・・」

「シスコン」

「今日は冗談ばっかだな。この間までおまえは真面目な女の子だと思ってたよ」

「彼氏に見せる顔とお兄ちゃんに見せる顔は違うんだよ。女の子ならみんなそうだと思う
よ」

 実はこのとき相当勇気を出して奈緒のことをおまえと呼んでみたのだけど、奈緒は普通
に聞き流した。やはりこいつは血の繋がった妹なんだ。僕が奈緒の彼氏の状態で奈緒のこ
とをおまえなんて呼んだら、喜ぶにせよ嫌がるにせよこいつは絶対にそのことに気がつい
たはずだ。



124:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/19(金) 00:05:29.87 ID:8+9tr+1go

 清潔で白い廊下を歩いていくとやけに足音が大きく響いた。廊下の窓からは冬の午後の
陰鬱な曇り空が四角く切り取られて見える。

 救急病棟の待合室で僕は叔母さんの姿を見つけて思わず駆け寄った。

「ああ奈緒人。来たのか」

 叔母さんはいつもどおりに僕を呼んでくれたけど、その表情は暗かった。

「明日香は、明日香の具合はどうなの」

「外傷とそれに伴う精神的なショックだって」

 叔母はそこで少しためらった。

「命に別状はないよ。今は寝てるから会えないけど」

「・・・・・・いったい明日香に何があったの?」

「奈緒人には教えないわけにはいかないか。明日香はね」

 叔母が俯いた。叔母の目に涙が浮かんだ。

「昨日の夜、知り合いの男の部屋に連れ込まれて乱暴されそうになったんだって」

 目の前が暗くなった。

 本当の妹との再会に浮かれて明日香のことを僕は忘れていたのだ。つらかった時期にあ
んなに明日香に頼りきっていた僕なのに。僕に黙って自分の友人関係を壊してまで僕のこ
とを救おうとしてくれた明日香が、夜の街に飛び出して行ったのに僕は今日今まで明日香
のことを思い出しすらしなかったのだ。

「明日香が抵抗したんで犯人の男は明日香に言うことを聞かそうと手をあげたらしい。偶
然、別の明日香の知り合いの男がそのアパートを訪ねてきて、明日香を襲った相手を止
めたんだって」

「・・・・・・明日香の容態はどうなの?」

「外傷はたいしたことはないみたい。抵抗したのと知り合いの男が間に入ってくれたんで、
その・・・・・・性的な暴行は受けなくて済んだんだけど、精神的なショックの方が大きいみた
いだ。明日香が目を覚ませばもっと詳しくわかると思う」

「明日香に乱暴しようとした奴はどうなったの」

 そいつを殺してやる。精神的に不安定になっていたのかもしれないけど、僕はそのとき
は本気でそう思った。きっとあの金髪ピアスの男だ。確かイケヤマとかっていう名前の。

「助けてくれた子が警察と救急車を呼んでくれてね。警察が来るまで犯人の男が逃げない
よう取り押さえてくれてたの。犯人は現行犯逮捕。助けた子も参考人として警察に呼ばれ
てるよ」

 何で夜中に飛び出して行った明日香をすぐに追い駆けなかったのだろう。あの時の僕は
確かに混乱していた。明日香からは泣き顔で告白のようなことをされ、その直後に冷たい
表情の有希に責められもした。そのこともあって、有希が帰ったあとは奈緒のことで頭が
一杯で明日香のことまで気が回らなかったのだ。

 それに明日香が夜出歩いていることに慣れてしまっていたこともある。僕は明日香が夜
遊びをしていることを当然ながら知っていた。そして明日香が夜遅くなるのは両親が不在
か帰宅が遅くなるとわかっている夜に限られていた。だから僕たちの両親は明日香の外見
や成績を憂うことはあっても、中学生の明日香の夜遊びには気がついてはいなかったのだ。

 そのこと自体だって僕の責任なのだ。僕は明日香とトラブルを起こすのが嫌だったから、
明日香の夜遊びを注意することも、それを両親に言いつけることもしなかった。両親が明
日香の夜遊びを知ったらいくら子どもたちには寛容な父さんも母さんも明日香に注意して
いただろう。

「父さんたちは?」

「こちらに向かってる。もう来るでしょ」

 そのとき救急治療室の引き戸が開いて中から白衣の一団が姿を現した。



125:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/19(金) 00:06:10.94 ID:8+9tr+1go

 両親が真っ青な顔で救急病棟に飛び込んで来た。子どもたちの前ではいつも呑気そうな
父さんと母さんのこんな必死な様子を僕は初めて見た。それでも父さんは動転している様
子の母さんの手をしっかりと握って、その身体を支えるようにしている。

 叔母さんは父さんと母さんをちょうど救急治療室から出て来た医師のところに連れて行
った。医師が手早く父さんたちに明日香の容態を説明した。その話はさっき僕が叔母さん
から聞かされたことと同じ内容だったけど、医師はこう言った。

「お嬢さんは少し精神的にショックを受けておられますけど、幸いなことに外傷は軽微な
ものでした。もちろん命に別状もないし外傷も後には残らないでしょう。もう処置も終っ
ていますので、念のために一晩入院して容態に変化がないようでしたら明日には退院して
もらって大丈夫ですよ」

 叔母さんの説明と順序を逆にしただけだけど、その医師の説明を受けて両親は少し安心
したようだった。外傷は大したことはないけど精神的にはショックを受けているというの
と、精神的なショックはあるものの外傷は大したことはないという説明では受ける印象が
まるで異なる。救急病棟に努めていると悲嘆にくれ動転している家族の扱いも上手になる
のだろうか。医師は少しだけ両親を安心させると、明日香が目を覚ましたら面会していい
と言い残して去って行った。

 医師が去って行くと今度は地味なスーツを着た体格のいい男が二人、両親に近づいて来
た。僕はその人たちがこの場にいることにこれまで気がついていなかった。

「結城明日香さんのご両親ですね」
 片方の男が言った。「所轄の警察署の者です。この事件のことをお話しさせてもらいま
すので、その後で何か事情をご存知でしたらお話ししていただけますか」

 その人は何かやたらていねいな言葉遣いだったけど、それはその人の外見には全く似合
っていなかった。話しかけてきた男の人ももう一人の黙って立っている方の人も体格がい
いだけではなく目つきや表情も鋭い。

 高校生の不良のトラブルなんかを相手にしているよりは暴力団とかを相手にしている方
が似合っている感じの男たちだった。僕たちは救急病棟の待合室の隅でソファーに座った。
自己紹介した男は警察署の生活安全課の平井と名乗った。

「先にいらっしゃったご親戚の、ええと・・・・・・そう、神山さんにはお話ししたんですが、
娘さんは昨日の夕方から夜にかけて繁華街をあっちこっちある行きまわっていたみたいで
すね。その途中で知り合いの高校生の男に出合って、自分のアパートに来ないかと誘われ
てついて行ったみたいです」

 両親は身じろぎもせず警察の平井さんの話に聞き入っていた。医者の話で一瞬安心した
ようだった二人の表情はまた緊張してきたようだ。

「そいつはそこで一人暮らしをしいるんですがその部屋でお嬢さんは、その・・・・・・」
 平井さんは気を遣ったのか少し言いよどんだ。「つまりそいつに乱暴されそうになって
大声を出して抵抗したところ、黙らせようとした犯人から殴られたらしいです」

「・・・・・・大丈夫ですか」

 一応の礼儀としてか平井さんは青い顔の両親を気遣うように言った。もしかしたら警察
のマニュアルにこういうときはそうしろと書いてあるのかもしれないけど、いずれにせよ
平井さんには心から両親を気遣っているような感じはしなかった。

「大丈夫です。続けてください」

 父さんがそう言って母さんの手を握りしめた。

「犯人は飯田聡。都立工業高校の二年生ですが、お心当たりはありますか」

 父さんと母さんは顔を見合わせた。

「いえ。聞いたことがありません」
 そこで父さんは思い出したように叔母さんと僕の顔を見た。「君たちは聞いたことある
かな?」

「ないよ」

 僕と叔母さんが同時に言った。それでは犯人は明日香の前の彼氏のイケヤマではなかっ
たのだ。



126:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/19(金) 00:06:52.47 ID:8+9tr+1go

「幸いなことに飯田がお嬢さんにさらに暴力を振るおうとしたときに、お嬢さんと飯田の
知り合いが偶然に尋ねてきたらしいのです。大方そいつも飯田の同類だと睨んでいるんで
すけどね。でも、どういうわけかそいつは飯田を力ずくで止めて警察に通報してきたんで
すよ。だからそいつがお嬢さんを救ったということになるんでしょうね」

「そうですか。その方にお礼を言わないといけませんね」

 父さんが言った。

「いや。とりあえずそれは待ってください。結果的にお嬢さんを救った男は、そいつの名
前は池山博之というんですけど、警察では池山と飯田に対しては前から目をつけてたんで
すよ」
 平井さんはあっさりと明日香の恩人である池山のことを切り捨てた。「まあ不良高校生
というと聞こえはいいけど、こいつらはもっと悪質なこともしていたらしいんでね」

 では池山は不良どころか本当の犯罪者だったのだ。明日香がどうして池山なんかと付き
合い出したのかはわからないけど、明日香をそういう方向に追いやった責任の一端は僕に
もある。

「今、飯田は現行犯逮捕されていますし、池山の方は参考人と言うことで署で任意で事情
聴取しているところです。ですから飯田と池山の聴取が済むまでは池山に接触したりお礼
とかしない方がいいですよ」

「でもその方は娘を助けてくれたんでしょう」

 父さんが不思議そうに聞いた。

「結果的にはそうなります。でも、池山の動機だって善意かどうかなんてわからんのです。
もしかしたら池山と飯田はお嬢さんを取り合っているライバルだったかもしれないし、や
つらはボーイズギャング団の中で対立していたという情報もありますから」

 父さんと母さんはもう話についていけなくなっていたようだ。

 無理もない。確かに明日香は服装を派手にしていたし、僕に対しては反抗的な態度だっ
たけど両親とはそれなりに真面目に向き合っていたのだ。仕事が多忙な両親は結果的に明
日香を放置している状態だったので明日香の行動はここまでエスカレートしてしまったの
だけど。だから明日香が警察からギャングとして目を付けられているような連中と知り合
いだということは、両親にとっては青天の霹靂のようなものなのだろう。

「飯田や池山は不良というよりはギャングに近い。それだけのことはしてきていると我々
は思っています。だから今回のことはお嬢さんには気の毒でしたけど、飯田たちの犯罪を
洗い出すいいチャンスなんですよ」

「そして叩けば決して池山だって真っ白というはずはありませんしね」

「あとお嬢さんが何であんな不良たちと知り合いだったんですかね。普通の家庭の真面目
な中学生の女の子が知り合いになるような連中じゃないんですけどね」

 平山さんは少し探るように両親を見たけど、途方にくれているように両親も叔母さんも
も黙りこくっていた。

「結城さんですか?」

 そのとき若い看護師さんが僕たちの方に向かって声をかけた。

「はい」

 刑事の話にショックを受けたのか返事すらできなかった両親に代わって叔母さんが返事
した。

「明日香さんが目を覚ましました。先生の許可が下りたので面会できますよ」

「はい。奈緒人行こう」

 叔母さんが言った。父さんたちも目を覚ましたかのように立ち上がった。

「ああ、結城さん。いずれお嬢さんにも事情を詳しくお聞きすることになりますから」

 言葉はていねいだけど、そのときは平山という刑事の言葉はまるで嫌がらせのように聞
こえた

 明日香は病室のベッドに横たわっていた。外傷は大した怪我ではないと聞いていたのだ
けど、目の当たりにする明日香の顔には包帯やガーゼが痛々しいくらいに巻かれていた。

 明日香は僕たちに気づいた。

「ママ。ごめんなさい」

 明日香が最初に言った言葉がそれだった。



127:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/19(金) 00:08:37.77 ID:8+9tr+1go

 母さんは黙ってそっと明日香の体を抱きしめるようにした。母さんの目には涙が浮かん
でいた。それからこれまで医師や刑事の話には一切反応しなかった母さんは初めて声を出
した。

「明日香、そばにいてあげられなくてごめんね。あたなを守ってあげられなくてごめん
ね」

「ママ」

 明日香も包帯が巻かれた片腕を母さんに回した。もう片方の腕は点滴を受けていたので
動かせなかったのだろう。

「ママ。今までいろいろごめんなさい。でもママのこと大好きだよ」

 母さんも泣きながら明日香を抱きしめて声にならない言葉を発しているようだった。

 これから明日香の危うい交友関係が明らかになるのだろうけど、でも明日香と母さんは
もう大丈夫だと僕はそのとき思った。

「パパにも心配させてごめん」

 明日香は父さんの方を見た。

「うん。明日香が無事ならそれでいいんだ」

 父さんも明日香の自由になるほうの手に自分の手を重ねて言った。

 僕はそっと部屋を抜け出そうとした。多分明日香は僕にも言いたいことがあるに違いな
い。でも今の僕にはそれを聞く資格はない。それに僕には平井さんが帰ってしまわないう
ちに聞いておきたいこともあったのだ。

 過去の過ちはともかく今は明日香を守らなければならない。明日香は昔の悪い仲間と縁
を切った。でもそれによって明日香は池山たちから完全に自由になれたわけではなかった
ようだ。池山が別れた昔の女に執着して明日香を襲おうとしたのならわかる。でも明日香
を襲おうとしたのは飯田という別な高校生だった。

 単純に知り合いだった明日香を出来心で何とかしようという話ならまだしも気は楽だっ
た。でもそうじゃない可能性もあった。平井さんの話を聞いてから、僕の胸には二つの光
景が浮かんでいたのだ。



 奈緒と有希が通っているピアノ教室で誰かを待っているように入り口を見張っていた池
山。

 あのときは僕は奈緒と二人で誰にも邪魔されずにピアノ教室を後にした。仮に池山が無
駄足を踏んだのでなければ、あいつは有希の方を追いかけたのかもしれない。

 そして昨日。冷たい表情で明日香を言葉で追い詰めた有希。

 あれは清純で無邪気な中学生の女の子の表情じゃなかった。そして明日香が有希の言葉
に耐えられずに駅の方に走り去った後に明日香は飯田に襲われたのだ。

 これは単純な偶然なのだろうか。



 父さんと母さんが明日香を抱きしめるようにしていたので、僕の動きは悟られないで済
むだろう。そう思って病室から抜け出そうとしたとき、玲子叔母さんが僕を見ていること
に気がついた。

 僕は叔母さんに拝むように手を合わせた。叔母さんはためらっていたようだけど結局小
さくうなずいてくれた。

 両親と明日香に気がつかれずにそっと病室を抜けた僕は救急病棟の待合室を見渡した。
体格のいい二人組はもうそこには姿が見えなかった。病院の救急用の出入り口まで駆けて
いったところで、僕は平井さんともう一人の私服の刑事がパトカーではなく一見普通の乗用
車のように見える黒塗りのセダンの車に乗り込も
うとしているところを見つけた。

「すいません」

 僕は少し離れた場所から思い切って平井さんに声をかけた。

 平井さんはこちらを見て柄の悪い鋭い目を細めた。

「おまえ、明日香ちゃんの兄ちゃんか」

 平井さんは病院から出たときに咥えたらしいまだ火のついていない煙草を口から離して
言った。



273:以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします:2015/01/06(火) 23:31:46.56 ID:XygYhmbvo

「妹の病室にいなくてもいいのか」

「両親と叔母さんが明日香の病室にいますし」

「ふーん。それで兄ちゃんは俺たちに何の用なんだ?」

 平井さんは煙草を咥えなおして火をつけた。

「自白でもしたいことがあるのか」

 平井さんは皮肉っぽい表情を浮かべた。

「・・・・・・ここは病院の敷地内だから禁煙だと思いますよ」

 僕の言葉に平井さんが再び目を細めた。そしてあらためて初めて僕の存在いに気が付い
たように僕を見た。彼は煙草を駐車場の路面に投げ捨て足で踏みにじった。

「何の用だ。俺は忙しいんだが」

 僕は一瞬怯んだけど、警察の人たちの協力は不可欠だ。

「太田有希って子知ってますか」

 平井さんの目が急に鋭くなった。

「おまえは何か知っているのか」

「彼女は明日香の最近できた友だちです。あと池山という奴はこの間まで明日香の彼氏で
した」

「ほう」
 平井さんは少し驚いたようだった。「被害者の関係者から太田の名前を聞くとは思わな
かったな」

「両親は何も知らないんです。僕が知っていることは全部話すので、池山や飯田のことを
教えて欲しいんですけど」

「おい、おまえ。調子に乗るなよ。ご両親にも断らずに未成年のおまえにそんな話ができ
るわけないだろう。第一、おまえが聞きたがっているのは捜査上の機密事項だぞ」

 車の運転席に座っていたもう一人の刑事が刺々しい口調で口を出した。

「まあ待て。加山」

 平井さんにたしなめられて加山という男は露骨に不服そうな態度を見せた。



128:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします:2014/12/19(金) 00:09:18.72 ID:8+9tr+1go

「それはいいことじゃないんですか」

「まあ、そう思うよな。普通は」

「それはどういう意味です?」

「その前におまえが言った太田有希って子の素性を話してもらおう」

 僕は一瞬ためらった。有希は奈緒の親友で明日香の友だちでもあった。そして明日香と
ともに有希と一緒に過ごした冬休みのことが思い起こされた。奈緒に会えない僕はその寂
しさを有希にはずいぶん癒してもらったものだ。

 それでも僕は直感的に有希の言動に疑惑を抱いていた。全部、状況証拠に過ぎないけど
彼女が全く無関係な訳はない。それに間違っているのならそれがわかればいいのだ。警察
に話せばそのことがはっきりするかもしれない。

「太田有希は富士峰女学院中等部の二年生の女の子です。明日香の知り合いでもありま
すけど」

 奈緒はこの話には関係ない。だから僕はそのときはあえて奈緒の名前は出さなかった。

「富士峰だあ?」

 運転席に収まったままの加山さんが怒ったように口を挟んだ。

「・・・・・・そうですけど」

「おまえさ。何を言い出すかと思えばあのお嬢様学校の中学生が女帝だって言うのかよ。
適当なこと言ってるんじゃねえぞこのガキ」

「おい加山」
 飽きれたように平井さんが言った。「おまえの方こそ捜査情報をこいつに漏らしてるじ
ゃねえか」

「あ」

 加山さんは口をつぐんだ。

「まあいいか。おい兄ちゃん、おまえは俺がさっき頭が働いて仲間を統制できるような玉
なんて普通は不良高校生の中になんていねえって言ったことを覚えてるか」

「はい」

「その玉が現われたらしい。それが仲間内で女帝と呼ばれている女だ。いや、女の子らし
いけどな。そいつの名前は太田という女らしいというところまでわかったんだが」

 女帝、組織立って不良高校生たちを統制できる玉。まさかさすがにそれは有希ではない
だろう。清楚なお嬢様でピアノコンクールの常連の入賞者である有希が不良たちの女親分
だなんて想像すらできない。

「加山じゃねえけど富士峰の中学生っていうのはさすがに無理があるかな」

 平井さんは少し考え込んでから言った。

「いや、僕は別に有希がその女帝とやらだなんて一言も言ってないですよ。ただ、明日香
が襲われる直前に、有希は明日香とその・・・・・・喧嘩みたいになって明日香は飛び出して行
ったんです。その夜に明日香はあんな目に遭ったんです」

「材料が少なすぎるな。それに女帝はフリーターかせいぜい高校生だと思われていたんだ
が」

 平井さんは考え込んだ。

「その太田有希って中学生だが、ひょっとしてピアノが上手だったりするか」

 平井さんが僕にそう聞いた。僕は一瞬凍りついた。


ビッチ(改)【その2】



元スレ
ビッチ(改)
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1417012648/
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