Steins;Gate「二律背反のライデマイスター」【前半】

1: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:13:41.71 ID:jH77HIQD0

初めに



本編鈴羽ルートから始まる話です
メインはシュタゲですが、他の作品の設定や世界観が少しだけ紛れ込んでいますのでそういうのが苦手な方はご注意ください
その作品について知らなくても問題はありませんが、話の内容に関わる部分なので伏せておきます
また、シュタゲの世界観を壊さないためにも、その作品の固有名詞等はできるだけ控えていく予定です

長くなる上に更新は不定期になりそうですがよければお付き合いください



2: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:18:31.51 ID:jH77HIQD0

 捻じ曲げられた糸は、歪められる原因となった応力が消えた時その弾性に従い元の形へと戻る。ならば同様に世界を決定付ける糸たちも、俺というイレギュラーが消えた時、いつか元の姿へと収束するのだろうか。
 答えは見つからない。結局のところ、宇宙の中に住む我々に宇宙の広さが計り知れないように、神の視点を持てぬ我々に世界線の構造もまた解明しきれないのだろう。我々は結局、ただの人なのだから。
 けれどもこれだけは言える。

 この身が──例えば消えても──意思は残留し未来のあなたにいつかは辿り着くだろう。

 塗り替えられた記憶を宿し──
 震えて歪む定めを乗り越え──
 絡みあう糸たちの軌跡を辿り──
 孤独を抱き、避けられない痛みと共に燃える。

 神に抗いし騎士たちは進むだろう──ふりむかずただ前へ。
 時を見つめる者のまなざしさえすり抜けて。



Steins;Gate「二律背反のライデマイスター」




3: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:20:30.90 ID:jH77HIQD0

Chapter1



 俺たちはこれから、35年かけて世界をねじ曲げる。そのために、旅立つ。敢然と顔を上げ、運命に立ち向かっていく。行ったら戻ってこれない一方通行の旅。でもそれは、閉ざされた2日間よりもずっと刺激的で──
 そして何より、可能性に満ち溢れている──
 そう信じたい。それが、生きるということだから。
 俺たちは手を繋いだまま、屋上から下の階へと続く扉へ向かう。途中、鈴羽が不安げに呟いた。

「きっと、大丈夫だよね……岡部倫太郎……」

「ああ……」

 もしかしたら未来は変わらず、鈴羽は記憶を失うかもしれない。それどころか、俺たち2人とも記憶を失うかもしれない。でも2人なら──
 俺が止めていた時間の針を再び動かしてくれた鈴羽とならきっと──



4: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:24:46.73 ID:jH77HIQD0

 2010年 8月13日



 俺たちを新たな未来へと導く機械は、変わらずラジオ会館の8階の壁を割って鎮座していた。
 日はすっかり傾き、ひしゃげた大穴から燃えるような赤い光が差し込んできている。薄暗い室内が、その光の赤さをより際立たせた。
 歩を進めるに連れて一層強くなる真っ赤な陽差し。俺は飛び込んでくる西日に目を細めながらぼそりと呟く。

「行き先不明の片道切符……か」

「ねえ岡部倫太郎……」

 俺のすぐ後ろを付いてきていた鈴羽が、不安そうな口調で言う。

「どうした?」

 俺は振り返って鈴羽の顔を見た。鈴羽は伏し目がちに表情を曇らしている。

「もしも……もしもあたしの記憶が欠落していたら、殴ってでも取り戻させて欲しい。使命のことはもちろんだけど……父さんに会えたことやラボメンになって皆と過ごした日々を、あたし……忘れたくないよ……」

「……わかっている」

 殴ってでもというのは気が引ける──というより、おそらくは返り討ちにされるだろう──が出来るだけの努力はするつもりだ。俺としても、鈴羽の中から俺たちの存在が消えてしまうのは許したくない。
 鈴羽は拳を握り小さく震えている。
 不安なのだろう。それもそうだ。鈴羽にとっては高い確率で記憶を失うことが分かっていながらの時間跳躍なのだから。俺が一緒に行くことで世界線変動に大幅なイレギュラーが発生してくれればいいのだが。 
 などと考えていると、鈴羽が俺の胸に頭を預けてきた。鈴羽の温もりが胸に伝わってくる。



5: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:27:10.13 ID:jH77HIQD0

「な、おい……鈴羽?」

「それに、君のことだけは絶対に……絶対に忘れたくないから……」

 ”君のことだけは”──その言葉が俺の心臓が跳ね上げた。

「…………」

 鈴羽の想いが俺の心臓を震わせた。俺の心と微細な振動が共鳴するように鈴羽の身体が揺らめく。彼女が懸命に感情を抑えようとしているのが分かった。
 不意に俺の口から息が漏れた。
 阿万音鈴羽という1人の女の想いが、俺の心に入り込んでくることで俺の心臓は激しく脈打つ。だがどこか冷静に見ている俺がそこにいた。
 俺はどう応えてやればいい? どんな言葉をかけてやればいい?
 幾千ものループで心が壊れかけた俺にその答えは見つけられなかった。何度も言葉が喉から出かけては、消えていく。心が上手く反応しない。昨日、丸1日を費やして泥のように眠り快復に努めたが、まだ心と身体のリンクが万全ではない。
 どうしていいか分からずに戸惑っていると、突然鈴羽が顔を上げてニヤッと笑った。さらに、すかさず俺の元からパッと離れる。

「なーんてね、うっそー!」

 後ろ手を組みながらいたずらっぽく笑う鈴羽。

「あっはは、騙された? いいねー、今の反応。挙動不審って言うのかな? 岡部倫太郎ってば恋愛経験値少ない?」

「……お前な」

 俺がため息混じりに言うと、鈴羽は頭をかきながら呟いた。

「ごめんごめん。こうでもしないとビビっちゃいそうで、さ」

 鈴羽はすぐに口を結び、表情を引き締める。
 そこには自分の弱さをさらけ出しながらも、前を見据え使命を果さんとする意志を持った戦士の顔があった。



6: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:29:39.52 ID:jH77HIQD0

「さあ、行こう。岡部倫太郎……」

「そうだな……。今頃、手紙を読んだまゆり達が大騒ぎのはずだ」

「……うん」

 ラボに残してきた手紙を読んだら、あいつらは引き止めに来るかもしれない。
 だが俺は──

──なんとしても行かねばならない。

 過去へと。1975年へと。

──なんとしても防がねばならない。

 未来でSERNがディストピアを形成することを。
 まゆりがこの世界から否定されることを。
 鈴羽が使命を果たせず、絶望の果てに命を絶つのを。
 鈴羽の指紋認証によってタイムマシンのハッチが開いた。乗ってしまえばもう戻れない。
 でももう決めたんだ。わずかでも可能性が残っている道に。1975年への片道切符に、未来を託すことに。



7: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:33:09.67 ID:jH77HIQDo

「……ホントに、いいんだね」

「……無論だ」

 俺は足を踏み出す。未知なる世界へと──
 とその時、背後から叫びにも似た声に全身を貫かれた。

──待ちなさい!

 俺を貫いたその音は、静まり返った部屋に響き渡り、やがて大穴へと抜けていった。

「…………っ」

 振り向くとそこには息を激しく乱した紅莉栖。彼女は壁に手をつきこちらをきつく睨んでいた。睨むというよりは背中を丸めてあごを上げた体勢になっているため、見上げた目がそう感じさせていただけだったが、紅莉栖から発せられる空気はその場に居るものをたじろがせるには十分だった。

「牧瀬……紅莉栖……っ」

「はぁっ……はふっ……はっ……はぁっ……あんたたち……」

 過呼吸気味になりながらもなんとか息を沈めつつ続ける紅莉栖。

「……解法……解法はあるの?」

「かい……ほう?」

 もう一度大きく息を吸って肺に空気を溜め込んだ紅莉栖は言う。

「……飛ぶんでしょ? 1975年に。だったら何かしら考えがあるんでしょ?」

「……え、えーっと…………」

「…………」

 鈴羽は言い訳を探しながら言い淀んで紅莉栖から目をそらす。俺はなんと答えていいか分からず黙りこくった。



8: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:35:14.57 ID:jH77HIQDo

「はぁ……呆れた」

 再び大きく息を吐きだした紅莉栖が落胆の表情を浮かべた。
 それも束の間、すぐに表情を引き締めて──

「タイムリープを繰り返して脳みそパーになってんのか知らないけど、もうちょっと冷静になりなさい」

「なっ……?」

 どうして……そのことを……?
 俺が閉ざされた2日間を延々と繰り返したことを紅莉栖は知らないはずだ。

「えっ……?」

 同様の疑問を持ったのか、鈴羽からも疑問の声が漏れる。

「昨日のあんたの様子を見てればすぐに分かるわよ。暗い表情して、まるで生気が感じられなくて。オマケに委員長キャラとかなんとか! さすがの鳳凰院さんもあそこまで嫌味ったらしくはないわよね!」

 気のせいか、オマケの部分にやけに力が篭っているような。

「……根に持ってたのか?」

「持ってない! そこに食いつくなっ──じゃなくて!」

 おほん、と大きな咳払いをし、腕を組み仕切りなおす紅莉栖。



9: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:36:11.58 ID:jH77HIQDo

「あんたたち、1975年に跳んだとしてどうするつもり?」

「な、なんとかIBN5100を手にして……」

 鈴羽が自信なさげに言った。
 俺もそれに釣られるように告げる。

「もしくは35年かけてそれ以外の方法を……」

 俺たちは口ごもりながらも、2人で話した解法を述べる。だがそれは解法と呼ぶにはあまりにも心もとなかった。

「てんで話にならない」

 事実、紅莉栖はそれをあっさりと一蹴した。

「でもっ──」

 考えの浅さをバッサリと切り捨てられた鈴羽が感情を露わにし反論しようとする。
 ──が、それを遮って紅莉栖が続ける。

「そんな行き当たりばったりであんたたちを過去に飛ばせるわけにはいかない」



10: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:37:27.12 ID:jH77HIQDo

 ”過去に飛ばせるわけにはいかない”、紅莉栖の口から発せられたその言葉に、俺は頭がカーっと熱くなるのを感じる。気づけば声をあげて叫んでいた。

「だからと言って! このまま指を加えてまゆりが死ぬのを見ていろというのか!」

 だってそうじゃないか。
 このまま何もしなければまゆりは死に、鈴羽は記憶を失い絶望の果てに命を絶つ。
 そんな未来を受け入れろと言うのか、この女は。

「そうは言ってない。まともな策もないまま過去に飛んで、また失敗したらどうするのって言ってるの」

「結局同じじゃないか! もしや俺にまたタイムリープしろっていうのか!? せっかく閉ざされた環から抜け出せたのに!」

 いつの間にかむき出しの感情が体を突き破って辺りに飛びだしていた。
 湧き立つ血、力の入った拳、震える足。

「こいつが……鈴羽が……救いだしてくれたというのにっ……」

 最後には言葉にならないような呻きが口からこぼれた。



11: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:38:36.24 ID:jH77HIQDo

「岡部倫太郎……」

「…………」

 紅莉栖は目を見開き、驚きの表情を隠せないでいた。だがそれもすぐに伏し目がちに視線を落とし、後ろを向いて消え入るような声でつぶやいた。

「……ごめん」

 謝罪の言葉。
 負けん気が強く、少しのことでは反論をやめない紅莉栖にしてはやけに素直というか……正直肩透かしを食らったような気分だった。
 俺の隣で鈴羽が困ったような表情をしている。ラボメンである紅莉栖を慮ってのことか、もしくは俺が声を荒らげたことに対する困惑か。今の鈴羽は、”昔のような”敵愾心を紅莉栖に抱いていないはずだから、本気で困っているようだ。
 いや、はたしてどうだったか。
 幾度と無く繰り返した2日間以前のことは、もはやぼんやりと霧がかかっているような状態でよく思い出せない。俺にとってあの2日間が、全てだったのだから。
 視線を紅莉栖の方へと戻すと、わずかながら肩が震えてるような気がした。
 泣いているのだろうか?
 そんな紅莉栖の背中を見てバツが悪くなり、俺は「俺の方こそ……すまない」と謝罪した。
 紅莉栖なりに俺達の事を心配した結果なのだろう。それを表現する言葉が足りないだけなのだろう。

「紅莉栖、お前は自分の考えがあって引き止めているんだろう。分かってくれとまでは言わない。だが俺はこのまま何もしないでまゆりを見殺しにすることはできない。かと言って、鈴羽の思い出を消すこともできない。これは俺の──俺たちの出した選択なんだ」

 そう言ってもう一度鈴羽の方に顔を向ける。心配そうに眉間に皺を寄せていた鈴羽は俺の言葉によって表情を引き締めた。

「牧瀬紅莉栖、君はきっと、予想以上の世界線のズレを懸念してるんだろうけど……こればっかりは譲れないよ。……あたしだってみんなの願いを投げ出してここでのうのうと生き続けるわけにはいかない。例え失敗する可能性が高くても、あたしたちは行く。それが2人の出した結論なんだ」

「…………」

 俺は出来うる限り言葉を選びながら紅莉栖の背中へと言葉をかける。鈴羽も自分なりの精一杯の答えを彼女に告げる。だが彼女は黙ったまま微動だにしない。



12: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:39:59.13 ID:jH77HIQDo

「世界線の大きなズレ……俺たちにも予想はできない。しかしいかなる結果が待とうとも、少なくとも何もしないよりはずっとマシだ。……何もできず、都合のいい世界に逃げこむことだけは……もうしたくない」

 俺は何度もループした2日間を、頭の中で思い浮かべた。
 いつの間にか世界から色が失われていく感覚。自分の中でいくつもの声が聴こえる感覚。自分が自分じゃなくなる感覚。
 トラックに轢かれそうになるダルを見殺しにしてしまおうかと考えたのは何度目のループだったか。
 鈴羽に欲情し、内なる自分の声に唆されて親友の娘を傷つけそうになったのは何度目のループだったか。
 世界にとっては昨日のことなのに、随分前の事のように思える。
 そんな歪んだ楽園を思い出していると──

「そうよ……」

 ふいに背中を向けた紅莉栖がぼそりと言った。呟いて勢い良く振り向き、そのまま一気に続けた。

「私だってそうよ! 何もしないままあんたたちを行かせて! それこそ失敗しましたって報告を受けるのなんて、まっぴらごめんだから!」

 珍しく感情をむき出しにしている。いつも冷静な彼女にしては珍しい。

「悔しいのよ……まゆりを見殺しにして、あんたの……岡部のいない世界で私はSERNでタイムマシン研究に携わって……。ディストピアの構築に貢献したまま、結局何も出来ないまま──」

 少しだけ間が空いて、胸が締め付けられるような弱々しい声に変わった。

「何より……あんたたちの力になれずに2人を行かせてしまうこと、それが悔しいの……」

 最後は絞りだすような声だった。涙を浮かべてはいないが、今にも崩れ去ってしまいそうな危うさを感じさせた。

「紅莉栖……」

 俺が声をかけると紅莉栖は再び俯いてしまった。顔を下に向けたまま、俺に間を埋めさせまいと立て続けにまくし立てる。

「ハッ! 何が天才よ、何がタイムマシンの母よ、聞いて呆れるわ。大切な人のために頑張ってる仲間の力になれないどころか、敵対する組織に肩入れするなんて」

 嘲笑うような自虐的な態度。

「ほんっと……呆れる……」



13: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:41:02.27 ID:jH77HIQDo

 垂れた前髪が塞いで、紅莉栖の目元は見えない。しかし、その口から発せられた言葉は震えており、泣いているのが分かってしまった。
 そうだ……こいつも戦っていたのだ。思えば俺が延々とタイムリープを繰り返すことができたのも紅莉栖のおかげだ。残される側の気持ちを考えることすらも、忘れてしまっていた。そんなことすらも、忘れてしまっていた。一言、相談すべきだったかもしれない。
 だがもう、決めたんだ。俺はもう、逃げない──と。

「だったらさ……君も行く?」

 えっ?

 紅莉栖の前髪がわずかに揺れた。揺らしたのは鈴羽の意外な言葉。

「おい、鈴羽……お前、一体何を……」

 戸惑う俺を相手にせず鈴羽は言い続ける。

「このタイムマシンは本来1人用。しかも、乗ったら戻ってこれない。オマケに故障中。……それでもいいなら……それでも一緒に戦ってくれるっていうんなら……」

「一緒に行こうよ、君も、さ」

「おいおいちょっと待て、鈴羽、何を言っている、そんなの認められるわけ──」

 だがそんな俺の言葉を遮って紅莉栖は答えた。

「いいの? ついて行くわよ?」

「いやいやだから待て、紅莉栖、お前まで何を言い出す!」

「記憶を失ってもいいならね」

 ニヤリと口元に笑みを浮かべて言い捨てる鈴羽。内容に反して口ぶりはずいぶんと軽い。

「望むところよ」

 まっすぐと前を見据えて言う紅莉栖。その目には力強い光が宿っていた。
 いや、望むなよ!



14: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:42:45.21 ID:jH77HIQDo

「おい、2人とも……」

 俺が口を挟むと2人の視線がじろりとこちらを貫いた。

 「「何?」」

 同時に発せられた言葉は寸分違わず見事に重なりあった。
 うお、ハモった。
 その声色と視線はその場に居るものをたじろがせるには十分な迫力を持っていた。

「お、俺の意見を聞かずに勝手に決めるとは一体どういう……」

「「もう決定事項だから」」

 またハモった。しかもまったく同じリアクションとは。
 くっ、タイムリープマシン開発評議会の時には2人してラボの空気を凍らせるようなバトルを繰り広げてくれたというのに! なぜこの時だけ息ぴったりなのだ! しかもなんだこの構図は。まるで俺が蚊帳の外ではないか。

「そもそも! お前はタイムマシンついて否定的だったはずだ」

「タイムマシンやタイムトラベル理論自体を否定したつもりはない。ただ現実的な可能性がほぼ0なのにできるとか適当言う連中が嫌いだっただけよ」

 片目を閉じて得意気に語る紅莉栖。

「それに実際として、ここに存在しているわけだしね」

 紅莉栖はそう言って交互に俺と鈴羽に視線を送った。

「未来人とタイムマシン。おまけだけどタイムリーパーも」

 おまけにされた──というのは置いておいて。
 それもそうだ。口でどれだけ否定しようが、現実にタイムマシンは開発されている。それが分かった上で反論しようとするほど、紅莉栖はバカではない。



15: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:44:13.94 ID:jH77HIQDo

「だが、過去に変えることについても……難色を示していた……」

「……それは、過去を変える人間が、自分にとってだけ都合のいい未来にしようとするケースの話。今回はまゆりの命が掛かってる上、未来の世界が自由な議論もできないディストピアになるなんて聞かされたら、それを受け入れろ、なんて到底無理。どうにかして変えてやりたい、って思うもの」

「君も、必死に未来を変えようとしていたのかもね……。手段はともかくとして、SERNに頭脳を貸すという、言わば諸刃の剣を振りかざすという選択で、さ」

「結果として、私はSERNにタイムマシンの母として祭り上げられて、ディストピア構築に一役買ったみたいだけどね」

 その言葉を聞いて鈴羽は険しい目を紅莉栖に向けた。

「…………」

「どうせ良いように利用されるのなら、ここで1975年に行方をくらませて、SERNの計画をぶち壊しにしてやるんだから」

「随分と身を挺した方法だな……」

 しかしそうなれば、SERNがタイムマシンを完成させることができなくなり、ディストピア構築という未来は変わるかもしれない。それはつまり、鈴羽の使命という点においては果たしたようなものだ。
 尤も、紅莉栖の助力を必要としなくても完成させる恐れがないわけではないのだが……。

「ま、SERNの最高峰の研究設備や頭脳との共同研究は捨てがたいけど」

「この実験大好きっ子め……」

「あはは……」

 しかし、紅莉栖が付いてきてくれるのであればありがたい。IBN5100を入手できなかった場合、何か別の方法を探してまゆりを助ける手段を画策せねばならないからだ。その時、紅莉栖の頭脳は大いに助かるはずだ。



16: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:45:09.33 ID:jH77HIQDo

「で、どうする?」

 紅莉栖が切り出した。

「どうする、とは?」

「あと数時間もしないうちに、ラボが襲撃を受ける。それはすなわち、まゆりの……」

 死の時間が迫っている──そう言いかけて紅莉栖は口を噤んだ。

「色々と考えたいことはあるけど、早く出発しないと……」

「本当についてくるつもりなのだな」

「当たり前でしょ」

 さらに、今まさにまゆりやダルがこちらに向かっているかもしれない。今まゆりたちの顔を見てしまえば決心が揺らぐかもしれない。

「一度、タイムリープしてよく考え──」

「「それは絶対ダメ!」」

 ぐっ……。
 またすごい勢いでハモられた。

「じょ、冗談だ、タイムリープの怖さはもう痛いほど味わった。1回、たった1回でその魔力に魅入られるには十分だった」

「そうね、何度失敗してもまたタイムリープすれば時間は巻き戻る」

「そうして無限の時間を歩み続けた結果、君はあんな状態になったんだもんね」

「あ、ああ……。もう、逃げるようなことはしない」

 そう言って俺たちは、タイムマシンへと近づく。



17: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:46:28.42 ID:jH77HIQDo

「そうだ」

 思い出したように鈴羽が言った。

「どうした?」

「2010年から来た証拠になるような物……、例えば紙幣や身分証と言った類のものは、置いて行った方がいいかもね」

「それもそうだな……ヘタしたら通貨偽造や公文書偽造で即タイーホだ……」

「携帯電話も持って行ったらまずい……わよね」

「そうかもね……。それに、持っていったところで電話としての機能は使えないし、すぐに電池が切れちゃうと思うよ」

「思い出の品として持って行くなら、あり……か」

 そう言って紅莉栖は携帯の画面に視線を移す。少しだけ寂しそうな顔をした後、微かに微笑みを浮かべ携帯を操作しだした。

「どうした、両親に愛している、とでも伝えるのか?」

「まあ、そんなところ。携帯も置いて行くわ。少しでも2010年から来た証拠を残しておきたくないし、パラドックスになる可能性もなきにしもあらず、だしね」

 紅莉栖はそう言うと、携帯電話からSDカードを抜き出して自分のポケットに入れた。
 大切なメールデータでも入ってるのだろうか。意外にセンシティブなところもあるものだ。
 と言っても、そのデータを見ることができるのは結局のところ2000年以降の話だがな。



18: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:47:27.92 ID:jH77HIQDo

「あたしも、置いていく。この時代の大切な思い出の入った物だけど、万が一SERNの追手にでも見られたら言い訳のしようもないから」

 鈴羽は少しだけ淋しげに笑うとこちらを見て言った。

「それに、1人でいくわけじゃないしね」

 一方、俺はというと……。

「くっ、このケータイを手放せというのかっ……」

 正直、置いて行きたくはなかった。思い入れがあるだけではなく、まゆりを救う生命線でもあったからだ。
 俺は自分の手に握られた携帯電話を握りしめる。
 角ばったフォルムの為、手のひらに軽い痛みが走った。俺はこの携帯電話を使い、様々な行動を行ってきたことを思い出していた。
 初めてDメールを送った日。実験と称して送った数々のDメール。
 まゆりの死という現実を覆い隠してくれたタイムリープマシンと俺の記憶をつなぐ役目をしてくれたこの携帯電話をひたすら握りしめる。
 そして”儀式”を始めた。
 スっと耳に携帯電話をかざし、白衣を翻す。

「俺だ……。ああ、最後に一言、伝えておこうと思ってな。……ふっ、お前には随分と世話になった、礼を言う。だがそれも今日までだ、今回ばかりは連れて行くことは出来ない。……何、心配するな。いずれまた会える、運が良ければ、な」

「……エル・プサイ・コングルゥ」

 そう言って耳からケータイを離す。思いは、断ち切った。



19: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:49:08.85 ID:jH77HIQDo

「またやってる」

「なんか久々に見た気がするわね、岡部の厨二病」

 これをやった後は不思議と心が楽になっている。
 その後俺たちはタイムマシンから少し離れた場所に荷物を置いて、タイムマシンへと乗り込んだ。
 本来1人用のタイムマシンに3人──全員細身であるとはいえ──も乗っているとかなり窮屈に感じた。
 鈴羽が操縦者用のシートに腰をかけ、俺と紅莉栖がそれぞれ、そのシートの斜め前方にある左右のスペースに腰を下ろした。無機質な材質の壁に背中を当てると少しひんやりして気持ちが良かった。

「ヘタしたら人工衛星と一緒に消えた犯罪者扱いされるかもね、私たち」

「シャレにならん……が、もはや俺たちはこの時代にいないことになるだろうから、問題はない……か」

「あっはは、指名手配のテロリスト、岡部倫太郎にふさわしいじゃん」

 鈴羽が笑いながらタイムマシンのパネルを操作すると、ハッチが静かに降りてきた。
 いよいよ出発の時だ。

──その時。
 
 ラジ館のイベントホールであるこの室内──その扉のところに、かすかに人の気配を感じる──が、それも束の間。直後にハッチは閉じられ、それを確認することはできなくなる。

「…………っ」

 一瞬心臓が跳ね上がった。なんだかとても胸騒ぎがして息が荒くなる。嫌な予感が止まらない。

「そんじゃー、さくっと1975年に行きますかー」

「時間旅行にしては軽いわね……」



20: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/27(日) 16:50:12.08 ID:jH77HIQDo

 どうも2人には見えていなかった様子である。
 まゆりたちか? いや、それともSERNの追手? 紅莉栖を1975年へと飛ばせないためのSERNの追手なのか!? どうする? 相談するか? いやまて、それで出発が遅れたら……
 どうするか迷っていると──

──ビービービービー

 甲高い警告音がタイムマシン内に鳴り響き、わずかに宙に浮くような感覚が走った。

──タイムマシンが、動く!

「少しGが発生するから、気をつけて!」

 ぐぐぐぐうっ──

「ああぁあぁっ……」

「うおおぉっ!」

 強烈な重み。巨大な何かで押しつぶされているような──
 いや──
 まるで巨大掃除機か何かに背後から吸い込まれているような感覚。背中がタイムマシンの機体に押し付けられ、後ろでミシミシと気持ちの悪い音がする。
 重力だ。
 タイムマシンの外部から発生する重力が影響しているのだ、と悟った。
 これが少し……だと?
 かろうじて目を開けると鈴羽の顔が映った。彼女も俺と同じように、顔を歪めていた。声をかける余裕はない。今はただ、ひたすら自分に襲いかかる重力に耐えるほかなかった。
 そして俺たちは、時空の壁を越えた──



28: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 14:59:46.28 ID:VX5BVwsyo

──ドクン

 心臓が大きく脈打つと同時に、黒く覆われていた視界に徐々に色と形が作り上げられていく。

「う……くっ……」

 ここは?
 目の前に飛び込んできたのは無機質なシルバーメタリックの壁と天井。たまに虹色の燐光がちらちらと散光するのが目についた。獣が唸るように低くこもった音が鳴り続いている。
 ここはどこだ? 俺は一体何をしていた?
 どうも記憶が混濁している。吐き気もある。胃液が胃の中で暴れまわっているような感覚だ。そのまま天を仰いでいると近くで声がした。

「目、覚ましたんだね」

 声の主を探ろうと顎を下げると、背中に痛みが走り思わず顔を歪める。
 正面を見ると鈴羽が背中を丸くしながらシートに座っていた。俺と同様、表情は固く、気分はあまり良くなさそうだ。
 思い出した。そう、ここはタイムマシンの中だ。



29: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:02:04.63 ID:VX5BVwsyo

「岡部もやっとお目覚めか」

 横から皮肉めいた紅莉栖の声がする。紅莉栖の顔色も、お世辞にもいいとはいえない。
 俺たちはみな、タイムマシン起動時に強力なGに襲われたはずだ。

「……俺は──俺たちは気を失っていたのか? どれくらいだ?」

「あたしが覚醒したのがほんの30分くらい前、その20分後くらいに牧瀬紅莉栖が意識を取り戻した」

「で、今がそのまた10分後ってとこかしら」

「タイムトラベルからどれほどの時間が経った?」

「あたしもどれほど気を失っていたのかは分からない、だからそれは分からない」

 タイムトラベル開始からどれくらい時間が経っているか、は分からないか。しかし、鈴羽はまだいいとして、俺よりも紅莉栖のほうが早く目覚めるとは。男女の差によって関係があるのかは分からないが少し情けなく感じた。

「しかし、あのGが少しとは、少々表現が控えめ──」

 言いかけてやめる。これも修理が完全ではなかったせいかもしれないからだ。恐らく2人もそんなことは分かっているだろう。今、あえてそれを口にして再確認するのは得策ではない。
 重苦しい雰囲気がタイムマシン内に漂うのと裏腹に、蛍火のような光が幻想的に舞っては散っていく。このような状況で無ければ、見とれて感傷的になるような美しい光景。しかしそれが高度な科学の産物であることを認識させ、嫌でもタイムトラベルすることに対しての不安を増幅する。



30: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:03:33.99 ID:VX5BVwsyo

「ねえ、阿万音さん」

 紅莉栖が真剣な表情で鈴羽に尋ねる。だがそれに対する鈴羽の反応は素っ気ない。

「……何?」

「あなたは未来での私、見たことあるんだっけ?」

「……なんでそんなこと聞くの?」

 紅莉栖の顔は見ずに答える鈴羽。その表情は明らかに以前の彼女のものとは一線を画していた。
 例えるなら、そう。

──何かに怯えているような。

「いいから教えて」

「……見たことあるよ。有名だったし……それに……」

「それに……?」

「暗殺対象──だったから」

「…………っ」

 鈴羽から発せられたワードに、紅莉栖が息を呑んだ。驚きを隠せないといった様子だ。
 暗殺……。忘れていた。
 紅莉栖は未来においてSERNに従事するタイムマシン開発者。そして鈴羽はSERNに対抗するレジスタンスのメンバー。その鈴羽が紅莉栖の命を狙っていてもなんら不思議ではない。現に昔──いや、ついこの間までは鈴羽の紅莉栖に対する感情は敵対心に満ち溢れていた──いや、憎悪そのものだった。
 と言っても今はすでに、実際に接することで紅莉栖の人となりを知ることができたし、紅莉栖がSERNに従事した理由も知ったから、鈴羽の物腰も大分落ち着いたものになったが。



31: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:05:18.53 ID:VX5BVwsyo

「で? 実際、阿万音さんから見て私はどんな風だった?」

 ふむ?
 未来の自分について尋ねる紅莉栖。少なくとも好奇心に満ち溢れている、という様子ではないが。

「どんな風って言われても……」

「いつ私を見たの?」

「……2034年、かな」

「その時の私、どういう風に見えた? 例えば年齢以上に年を取っているようにとか……」

 なんだその質問は。まるでスイーツそのものではないか。

「そんなことを聞くとは意外だな。やはり未来での容姿が気になるというのか? 己がどれほど老けこんでいるのか心配で心配でたまらない──」

「そんなんじゃない」

 茶化す俺の話を遮ってぶっきらぼうに呟いた。

「現時点の君がそのまま20年ほど年を取って、格好は白衣で、髪型も特に大きな代わりはなく……としか、言いようがないかな……」

「ふむん……」



32: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:07:10.05 ID:VX5BVwsyo

「恥ずかしがらなくてもいいぞ。女にとって、若々しさは重要なステイタスだからな」

「だからそんなんじゃないってば。もし、私の1975年への跳躍も収束の結果だったら……って、そう思っただけ」

 神妙な面持ちでつぶやく紅莉栖の様子が気になって、茶々を入れたのを一瞬後悔した。
 収束の結果?

「どういうことだ?」

「考えても見て。今この場で私がタイムマシンに乗って1975年に跳躍したとする。その事実は、この世界線にとってイレギュラーなはず」

「そうだな。本来お前は過去に行くことなくSERNのタイムマシン開発に貢献するのだからな」

「そう、世界にとってこの時代から私がいなくなることは、非常に都合が悪いのよ」

「さらっとすごいこと言ってるな……」

「……自信家だねえ」

「別に自慢したいわけじゃない」

「だったら何が言いたい」

「あんただってそうでしょ、岡部」

 俺も? さっきから意図が見えてこない。



33: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:11:03.78 ID:VX5BVwsyo

「何がだ」

「あんたはこの先、レジスタンスを結成することが確定しているはず。でも1975年に飛ぶことでそれが大きな矛盾になる」

「それはそうだが……その場合、世界線が変わるのでは……」

 さっきからまどろっこしい、何が言いたいのだこいつは。

「そっか……」

 何かを悟ったようで、鈴羽も顎に指をつけて頷く。

「あたしは未来での岡部倫太郎を実際に見たことはない。だから、仮に1975年に跳んだ岡部倫太郎がそのまま、年を取ってレジスタンスを結成すればパラドックスが無くなる」

 それは……そうだが……。

「でも牧瀬紅莉栖は違う。2034年で牧瀬紅莉栖は数多くの人たちから崇敬されてるし、実際あたしも2034年の牧瀬紅莉栖を観測している。その姿は1975年から2034年までを生きてきた年老いた女性なんかじゃなかった」

「そうか……つまり、跳躍後の紅莉栖がアトラクターフィールドの収束によりSERNのタイムマシン開発に従事している──ということは少なくとも無いわけか」



34: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:13:41.01 ID:VX5BVwsyo

「岡部、あんたが1975年に跳躍したとしてまゆりの救出に失敗したらどうする?」

「…………」

 失敗……。今まで希望ばかりを見ていたが、その可能性は大いにあるのだ。

「考えたくない話だが、恐らくSERNに抵抗を続け、同じようにタイムマシン開発に心血を注ぐだろう」

「当然、そうなる。でも──私は違う」

「SERNに拉致されて開発させられるならともかく、私自ら科学者の風上にも置けない人たちのところで研究しようとは思わない。つまり、仮に1975年に跳んだ私がまゆりの救出に失敗したとしても、SERNでタイムマシン開発には携わる理由がない。恐らく岡部と同じレジスタンスに所属して独自に研究を進めるはずよ」

「100パーセントとは言い切れないけどね」

「もちろん世界最高峰の頭脳に囲まれて行う研究に魅力を感じないわけではない……科学的根拠はないけど……信じて。こう言うしか無い」

「だから何が言いたいのだ」

「……岡部と阿万音さんだけが跳躍するのであれば、世界線が変わらない可能性もある」

 俺と鈴羽が跳躍しても世界線が変わらないのであれば、結局鈴羽は2000年に死に、俺はまゆりを救えないままSERNに抵抗するしかないだろう。

「けれど……」

「SERNのタイムマシン開発の鍵である君も跳躍すれば、高い確率で未来は、変わる」

 鈴羽がそう補足した。

「恐らくアトラクターフィールド1%の壁を超えるほどの大分岐……」



35: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:15:00.43 ID:VX5BVwsyo

 タイムマシン跳躍による大分岐……。
 ごくり。
 思わず喉が鳴った。今更ながら未知の世界への恐怖心に体が震える。
 だがその震えも今は──不謹慎ではあるが──いい刺激だった。

「私に取って代わるような科学者が、SERNに助力しなければ、の話だけど」

「やけに自信満々な発言が多いな、まさに自分は世界の鍵だ、とも言わんばかりの物言い」

「…………」

 紅莉栖はため息を付いた。

「そうであって欲しいって、思ってるだけよ。だってそうじゃなければこうして私が跳躍したことも意味を成さなくなる。正直に言うと……怖いのよ。私の──私達のタイムトラベルが無意味になってしまうことが……」

 そう言って紅莉栖が膝を抱えて顔をうずめてしまった。その様子から紅莉栖は本気で怯えているように感じた。
 その小さくなった紅莉栖の姿を見ながらワンテンポ遅れて──

「あっははは」

 さっきまで青い顔をしていた鈴羽がケラケラと笑った。



36: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:16:29.62 ID:VX5BVwsyo

「なっ、何が可笑しいのよ」

 紅莉栖が顔を上げて照れ混じりに口をとがらせる。

「あはは、ごめんごめん、なーんだ。牧瀬紅莉栖も人間なんだなぁ、って思ってね」

「私をなんだと思ってるのよ……」

「あたしもさ、正直怖かったんだ。このままタイムトラベルしても、岡部倫太郎が言ったようにあたしは記憶を失って、しかも世界線も変わらないかもって考えが頭をよぎってた。でも、きっと大丈夫だよね……、なんて言ったって、君たち2人がついてるんだから」

 言って鈴羽は俺たち2人の顔を交互に見つめてこう補足した。

「タイムマシンの母である牧瀬紅莉栖と、SERNに抵抗を続けるレジスタンスのリーダー岡部倫太郎、2人がいるんだから……」

 そうか、鈴羽も怖かったのだ。いや、怖くないはずなかったんだ。これから記憶を失うかもしれない。そのせいで使命を果たせないかもしれない。2000年に命を失うかもしれない。
 そんな未来が待っているかもしれない、そう考えたら普通の人間じゃおかしくもなる。
 ましてやこのタイムマシンは完全な状態ではない。
 先ほどの強力なGの発生にしても、恐怖を上乗せするのには十分だった。それほどの力があったのだ。
 俺はこの阿万音鈴羽という女を完全無欠の戦士だと勘違いしていた。いくら過酷な経験をしていようが、こいつもまだ18歳の少女なのだ。俺は先ほどまで、未知の経験に対する恐怖がもたらす刺激を心地いいと感じていた自分を恥じた。



37: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:18:04.70 ID:VX5BVwsyo

「それにあたしにだって、岡部倫太郎の右腕である橋田至──父さんの血が流れているわけだしね!」

「え……? はっ!? ちょ、おま……kwsk!!」

 紅莉栖が身を乗り出して聞いてきた。
 そうか。こいつには未だ話していなかったのだ。
 まゆりの名推理によって導かれた、親子の絆のことを。
 俺がそのことについて説明をすると、最初は半信半疑だった紅莉栖も次々と出てくる証拠にやがて認めざるをえなかった。

「あのHENTAIの血が半分流れているとか恐怖以外の何物でもないわけだが……」

「あっはは、言ってくれるなこのー」

「うふふ、ジョークよ」

 普段強気な姿勢を崩さない2人がお互い弱い自分を見せ合い、そして笑ってる。そんな風に考えると少しだけ微笑ましくも感じてしまった。女子というのはきっかけ次第で憎みあったり、かくも絆を深めたりできるのだなあ、としみじみしていると──

「ちょっとー! なに全部悟ったような顔で笑ってんのー?」

「あ、いや、これはだな……」

「私達を見て、本音を語り合う女子2人、スイーツ(笑)とか思ってんでしょ!」

「思ってない。ぜんっぜん思ってないぞ?」

「いーや、あの顔は絶対思ってた! んで、ほくそ笑んでてたね!」

 早速息のあったコンビプレイで追い詰められた。いがみ合っていた過去が嘘のようである。



38: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:21:05.62 ID:VX5BVwsyo

「蹴っていいわよ」

 なんの許可だなんの!

「正直に吐けこのこの~!」

 ゲシゲシと足蹴にしてくる鈴羽。
 イテ、イテテ。というかマジで痛い。

「わ! おい待て! 痛い! 痛いです!」

 素早い蹴りを手で防ぐも、そのガードをかいくぐり、やがてその蹴りは俺の脇腹へと直撃した。思わず悶絶し、うずくまる。
 その様子を見て鈴羽は──

「あれ、そんなに痛かった? ごっめーん」

 手を合わせながら舌を出して謝った。
 ぐぬぬ、この小娘!

「手加減というものを知らんのか貴様は!」



40: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:33:13.21 ID:VX5BVwsyo

 俺が目を覚ましてからすでに数時間──俺の体感によるものだが──ほど経過していた。
 鈴羽の話によるとこのタイムマシンのフルパワー駆動で10年間の跳躍を約1時間で行えるという。完全な状態でないことを考慮して今は半分の力を使って跳躍しているらしい。
 つまり、単純計算で7時間ほどで1975年に着くという。
 最初に俺たちが気を失っていた空白の時間もあるため、正確な時間は導き出せないが、恐らくもうそろそろ1975年に到着してもおかしくはないだろう。その時は最初のようなGが襲いかかるかもしれないとの話だった。
 そう考えると思わず身を固くしてしまうのか、それに抗おうと2人は相変わらずしゃべり続けている。よくもまあ、そんな何時間も話していられるものだ。最初はラボメンやダル、まゆりとの思い出話に始まり、2036年での生活、理論などを各々語り合っていた。俺も時々会話には乗っかったが、どうもこの数時間で友情を深め合ったのか、若干蚊帳の外のような感じがしなくもなく、少々さみしい物があった。

「しかしまぁ、あの橋田から阿万音さんみたいな娘が生まれるとはね……、よっぽど阿万音さんの母親が美人だったのかしら」

「それについては否定しない。でも父さんだってこれから痩せてかっこ良くなるんだよ」

「まず痩せる、ってのが信じられない件」

「母さんを射止めるために頑張って痩せた、とか?」

「いやいや、あのピザコーラ大好きのファットマンが恋愛のために頑張るとか……。SERNに追われるストレスで痩せた、ってのが可能性としては高いわね」

「きっびしいなぁ~」

「ジョークよ」

 冗談にしてはブラック過ぎるぞ。



41: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:34:17.88 ID:VX5BVwsyo

「あいつにされたセクハラ行為は35年経っても忘れられそうもないわ……」

「あはは……タイムマシンの中でも参ったよ」

 あいも変わらず他愛のない話で盛り上がる。
 そう言えばと話を切り出す形で紅莉栖が俺に声をかけてきた。

「ねえ岡部。橋田には伝えたの? 阿万音さんが娘だってこと」

「いいや、あいつには言ってない。タイムマシンの修理が完全ではないこともな」

「そっか」

「告げたのは別れだけだ。変に教えてしまったら、奴も自責の念に駆られるだろうからな」

「結局、父と娘としての対話はしなかったのね」

「それで十分だよ。元々、タイムマシンオフ会でも一目見て1975年に飛ぶつもりだったし……。ううん、むしろ父と娘としてじゃなくて、同じラボメンとして同じ時間を過ごせたこと、今ではすごく良かったって思ってる」

「そうか……」



42: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:35:11.30 ID:VX5BVwsyo

「ねえそういえば……1975年に跳んで、まずはどうするつもりなの?  結局のところタイムトラベルを成功させても、何点か問題が発生するはず。IBN5100を入手するにしても、それを保存して2010年まで過ごすにしても」

「…………」

 わずかながら気まずい雰囲気が間を作った。
 紅莉栖はまだ知らない。鈴羽が2000年に死ぬことを。
 だが紅莉栖の疑問は尤もだ。俺も同様に、タイムトラベルした後の計画について全く知らなかった。

「資金の問題。戸籍の問題。いろいろあるわよね」

「資金に関しては、タイムマシンに使われている素材……レアメタルの類だね。それらを売って資金源にしようかと思ってる」

「ふぅん、なるほど。当時の値段にして600万円ほどするけどそこは?」

「詳しい物価は分からないけれど、恐らくは複数台買ってもお釣りが来るほどの価値はあるよ」

 なんと……。金持ってたんだな、ダル……。

「へ、へぇ~、すごいわね……」

「2010年で調査済みなんだよね」



43: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:35:58.47 ID:VX5BVwsyo

「戸籍については? まさか無いまま35年過ごすわけじゃないわよね。バレたらそれこそSERNだけじゃなく、警察からも追われるわよ」

「予定としては上野のとある犯罪組織に交渉しようかと思ってる」

「犯罪……組織……ねえ」

 犯罪組織、と聞いて紅莉栖は顔を渋らせた。俺もそうだったに違いない。
 1975年において俺たちの戸籍が無いのは当然の話ではあるが、犯罪組織の手を借りるのは良心の呵責がある。

「調べによると他人の戸籍を売買してたり、偽造したりしてるらしいから、タイムマシンを解体して得たお金で戸籍を買おうかと」

「そううまく行くかしら」

 紅莉栖が不安げに言う。
 対して鈴羽が自慢気に返す。

「交渉は任しといて! あたしは1人前の戦士だから! 交渉の知識だってあるよ」

「私達が記憶を失わなければ、だけどね」

「あっちゃー、それがあったかぁ」

 冷静な突っ込みを入れる紅莉栖の言葉に、鈴羽が頭を抱えてうなだれた。
 実に思慮不足である。



44: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:37:52.36 ID:VX5BVwsyo

「記憶喪失によって身元が明らかにならない場合、厳重な審査のもと、家庭裁判所に戸籍作成を認められるケースもあるらしいけれど……」

「身元不明の記憶喪失者が同時に3人も出てくれば、重大なニュースになるかもしれんな」

 3人一緒に記憶を失うとは限らないが可能性はゼロではない。
 その俺の言葉に鈴羽がこう付け加えた。

「おまけにその近くには1975年という時代には不相応なハイテク機械。テレビにも出ちゃうかもね、あたしたち」

 2010年では人工衛星が激突したとなったが、1975年だとどういう扱いになるやら。

「そうなのよね……はぁ、今更ながら自分の考えの浅はかさが嫌になるわ……」

「やはり一度タイムリープすべきだったか……」

「だからそれはダメっつってんでしょ!」

「……はい」

「はぁ、全く。頭が痛くなるわ」

 紅莉栖は眉間を指で抑えてぐりぐりっとやった。
 怒られてしまった。おのれ、冗談のわからん奴め。



45: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:39:17.82 ID:VX5BVwsyo

「ねえねえ、牧瀬紅莉栖は脳科学者なんでしょ? だったらさ、記憶の取り戻し方とかも分かるんじゃない?」

 ふうむ……確かにこいつは天才少女だが、そんなに容易なものではあるまい。
 俺は声には出さず、心の中でそう呟いた。鈴羽の問に対する紅莉栖の答えは案の定、と言ったものだった。

「簡単に言わないで。私は医者じゃないんだから」

 そういうと思った。

「そもそも記憶を失う原因にもいくつか種類がある。仮に1975年に跳んだ直後に記憶が失われていた、と仮定するとなると、器質性と心因性、どちらの可能性も考えられる」

「はいはーい、それってどういうこと?」

 聞きなれない言葉を発する紅莉栖に鈴羽が手を上げて質問した。

「跳躍の衝撃で外傷を負って物理的に脳に機能的障害が起きたか、もしくは強いストレスによる解離性健忘、どちらも可能性としてはあるってことよ」

「あたし、ストレス耐性はあると思うけどなぁ……外傷に対しても強いと思うよ、鍛えてるし」

「そういう問題じゃないと思うんだが……低酸素環境下による重度の酸素欠乏症が原因なんてのも考えられるわけだし……」

 右腕を屈曲させ力こぶをアピールする鈴羽に、またも冷静な反論をいれる紅莉栖。



46: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:40:36.58 ID:VX5BVwsyo

「頭を打って、ここはどこ、私は誰、という状況になるのは容易に想像できるが、ストレスによる記憶障害とは……いまいち想像できんな」

「人の心はそれだけ複雑ってことよ。強いストレスを与えるきっかけになった物事のみを忘れるケースだってあるんだから。そして心因性の健忘の場合、失われるのはエピソード記憶で、一般生活に必要な知識を忘れることはほぼない」

「つまり、食事をしたり、文字を書いたりということは問題なく行えるということか」

「そう。でも器質性の場合は最悪、言語野、運動野にも影響が出て、失語症になったり、腕や足を動かすといった基本的な運動すら忘れてしまいかねない」

「うげー、想像したくもないよ……」

「24年後に記憶を取り戻した、という点についてはどう思う?」

「器質性においても心因性においても、ふとしたきっかけで自分に記憶を取り戻すというのはよくあることよ。ただ、それが24年後っていうのは相当重症かもね……」

「あるいは、アトラクターフィールドの収束によるもの……か」

 記憶を失うことにより、IBN5100を入手するという目的を果たせないこともまた、収束なのか?
 そうなるとこの跳躍もなにかしらの影響をうけるのではないか?
 思考を巡らせていると悪い未来がよぎり、不安に支配されそうになる。
 少し息まで荒くなってきたようだ。思いの外過度のストレスに晒されている状態なのかもしれない。

「有り得る話だけど、そんな運命みたいな考え方はしたくない」

 そんな不安を察したのか、紅莉栖がはっきりと言い放った。
 光に満ちた視線。力強い言葉。それが何より俺の心をいくらか楽にした。



47: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:41:18.08 ID:VX5BVwsyo

「ま、その運命をねじ曲げるために、君たちについてきてもらったんだしね。期待してるよ2人共!」

 紅莉栖の言葉に鈴羽が乗っかった。

「ああ、脳科学のプロフェッショナルが居るのは心強い」

「だから私は医者じゃないと言っとろうが」

 やれやれといった様子ながらも、かすかに笑みを浮かべて紅莉栖が小さく言った。
 その時だった。突如タイムマシン内部に甲高い警告音が鳴り響いた。

「な、なんだ?」

 俺が辺りを見回していると──

「大変!」

 鈴羽が険しい顔をして叫んだ。すぐに紅莉栖が状況を尋ねる。

「どうしたの?」

「……機内の酸素濃度が低下している」

 低い声で告げる鈴羽。
 ゴクリと喉が鳴った。ぶわっと体中から汗が吹き出すような感覚に陥り、直後、寒気がした。



48: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:42:21.37 ID:VX5BVwsyo

「……なぜだ? 3人も乗ったからか?」

「それはないと思う……このタイムマシンは1人用だけど、機内の酸素濃度はコンピュータによって21%前後に保たれるシステムが搭載されてるんだ。でも──」

 鈴羽はゆっくりと、戸惑いの目をこちらに向け──

「今……18%を切った……」

「もしや先ほどから息苦しいのはそのせい……」

 つい十数分前から、多少の頭痛と息苦しさを体感していた。
 タイムマシンに乗ったことによる影響だとはうすうす感じていたが、まさか酸素濃度が低くなっていたとは……!

「も、もしかして完全には修復できてないせい……?」

 紅莉栖がおそるおそる言った。
 そんな馬鹿な話ってあるか。このままでは俺たちは窒息死してしまう!



49: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:44:07.17 ID:VX5BVwsyo

「あ、後どれくらいで着く!」

「わ、分からない……ともかくマシンの出力を少しでも上げて──」

 鈴羽がパネルを操作するが、すぐに顔色が変わる。顔を歪ませながら誰に言うでもなく呟いた。

「出力が上がらない……」

 3人の間に重苦しい空気が漂った。それを断ち切ったのは紅莉栖。

「ともかく、落ち着きましょう。無駄に興奮して呼吸を荒らげるのは良くない」

 彼女は冷静さを失っていなかった。その言葉に少しだけ落ち着きを取り戻した俺も、同調する。

「そ、そうだな……」

 だが鈴羽はそれには答えず、項垂れて顔を曇らせた。

「……あのさ、機内には──」

 少しだけ間が空いて、鈴羽が話を切り出した。紅莉栖と俺は何も言わず顔を上げ、鈴羽の顔を見る。
 が、鈴羽はほんのわずか躊躇った後結局途中でやめてしまった。

「やっぱ、なんでもない……」

 鈴羽は泣きそうな顔をしている。こんな状況になって絶望しているのだろうか。それとも俺たち2人を巻き込んだ形になり、自責の念に駆られているのだろうか。
 大丈夫、なんとかなる。そう言って鈴羽を元気づけてやりたかったが言葉には出来ない。
 無駄に酸素を消費すべきでないという考えが頭をよぎり、口を閉ざさざるをえない。何より、これから死ぬかもしれないという恐怖が体を渦巻き、震えさせ、言葉を生み出すことを妨害していた。
 横を見ると紅莉栖が体を縮めて小さく三角座りをしていた。つい数十分前とくらべて顔色がよくない。こんな状況だ、無理もない。



50: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:45:04.05 ID:VX5BVwsyo

──ああ……息が苦しい。

 機内の警告音が鳴り響いてどれくらい経っただろうか。数分とも、数十分とも取れる。あるいは数時間とも。恐怖の中で、俺の体感時間は完全に麻痺していた。俺も紅莉栖と同じように体を小さく丸め、顔を伏せていた。正しいかどうかは分からないが、その方が酸素の消費量も少ないと思ったのだ。しかし、いずれ限界は来る。それは思いの外早かったのかもしれない。

──いきがくるしい。

──だめだ、いしきがぼやけてきた。

──このままではしんでしまう。

 とその時、先ほどの警告音とは別の音──意識が朦朧としていたため違う音に聞こえただけかもしれないが──が俺の耳へと飛び込んできた。
 もしかしたら1975年へと着いたことを知らせるための音なのかもしれない、そう思って顔をあげる。
 初めに目に飛び込んできたのは、ぐったりしている紅莉栖の顔に何かを付けている鈴羽の後ろ姿。紅莉栖はされるがままで、すでに意識を失っているようだった。



51: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:45:49.80 ID:VX5BVwsyo

 …………。
 なにを……。
 なにをしているんだ……?

 脳に酸素が回っていないのか全く考えが思い浮かばない。

 どうでもいいから。
 はやくここからだしてくれ。
 ついたんだろ?

 この苦しみから逃れたい一心ですがるような視線を送っていると、鈴羽がこちらを振り向いた。顔を見ると、透明なプラスチックのマスクと思われる物が口の周りを覆っていた。その中央の部分には透明なチューブが付いており、そのチューブの先を辿って行くとタイムマシンの壁に行き着いた。

──なんだそれ。

 透明なマスクの奥で、鈴羽の口元が微かに動いた気がした。何かを伝えたかったのだろうが、俺の耳には届かなかった。はたして俺の脳が正常ではなかったせいか。それともマスクが音を遮断してしまったのかは定かではない。でも口の動きで分かった。



52: ◆gzM5cp9IaQ:2015/09/30(水) 15:46:55.58 ID:VX5BVwsyo

 ご
 め
 ん

──なぜ、あやまる?

 とその時、体が激しく揺れた。俺の体が言うことを聞かず、倒れこんだのだと思ったが違った。鈴羽も同様に体勢を崩していた。彼女が激しくシートに押さえつけられて悶えているのを俺は黙って見ていた。まるで音のない白黒映画のようだった。しかし、そんな状況下で鈴羽が顔を歪ませながら体を起こして、こちらへ寄ってきた。鈴羽の手がゆっくりと伸びてくる。俺の口元に何かが括りつけられる感触がわずかにした。気を抜けば一瞬で閉じそうなまぶたを必死に開ける。
 今度は、透明なマスクをつけてない鈴羽の顔がすぐ近くにあった。

 何物にも覆われていないむき出しの唇が再び動いた。緩やかになったその動きを無意識に追う。

 ご
 め
 ん
 ね

 俺はもう、目を開け続けることができなかった。意識は徐々に遠のいていき、完全に失われた。
 遠く──はるか遠くで、かすれた警告音が周りをぐるぐると駆けまわる音がしていた。



55: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:09:08.97 ID:g0/EBSOFo

 激しい雨粒が体を叩いていた。

──べ!

 遠くで誰かの叫ぶ声が聞こえている気がする。

──かべ!

 しかし目がなまりのように重たくて開けることができない。

──おかべ!

「うぅ……!」

 かろうじて絞りだすように唸り声を上げると、俺を呼ぶ声は一層大きさを増した。というより、俺の脳が再び音を認識出来るようになったという方が正しいかもしれない。
 肩を激しく揺すられる。

──しっかりして! 岡部!

「はっ!」

 俺は体を勢い良く起こすと、辺りを見回した。そんな俺の様子を見て、隣にいた少女──紅莉栖がまた声をかけてきた。

「あ……岡部! よ、よかった!」



56: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:10:44.14 ID:g0/EBSOFo

 紅莉栖はざあざあと振り続ける雨に体を濡らしながら酷く慌てている。激しく叩きつける雨などお構いなしだ。その表情は不安に押しつぶされそうになっている。ふと1つ疑問が浮かんできた。

──俺は何をしている?

 いや──

──俺は何をしていた?

 その時、眼の奥でズキリと鋭い痛みが走った。

「うぐっ……」

 頭が割れるように痛い。
 ここは一体……?
 再び周りをみやると見覚えがある夜景。辺りは闇に支配されているためはっきりと街の様子を伺うことはできない。その上、俺の視界を遮るような大雨が降り注いでいたが俺は確信した。
 ここはラジオ会館屋上。
 悠長にその屋上からの風景にとらわれていると紅莉栖の叫ぶような声が耳に入った。



57: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:11:58.91 ID:g0/EBSOFo

「岡部大丈夫!?」

 何をそんなに慌てている。

「うっ……助手よ……あまり叫ぶな、頭が痛い……」

「あ……うん…………」

 安堵の表情を浮かべる紅莉栖。この俺を誰だと思っている。俺は狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真。倒れても不死鳥のように蘇るのだ。
 ふと紅莉栖の方を見ると、傍らに1人の女が倒れているのが目に入った。

──あ、あれは──

「ねえ岡部、手を貸して!」

 紅莉栖が助けを求める。その紅莉栖の様子から事態が深刻であることを察した。俺は立ち上がり鈴羽の元へと駆け寄る。

──顔面蒼白。

 この天気のせいか、鈴羽の顔色はより一層悪く感じられた。かろうじて呼吸も脈もあるようだったが俺たちの呼びかけにピクリとも反応しない。
 このまま放っておくと危ないのは確かだった。



58: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:13:33.83 ID:g0/EBSOFo

「くっ……」

 紅莉栖の様子から見ても状況はよくなさそうだが、最悪の事態をあえて考えないようにした。
 早く救急車を──
 そう思い、白衣のポケットから携帯電話を取り出そうとする。──が、いつもそこに入れてあるはずの携帯の感触はない。
 なぜだ?
 他の場所に入れたかと思って別の場所も探ってみる。
 最初に手を突っ込んだのとは逆のポケット──
 ズボンのポケット──
 すべて探してみた。しかし見当たらない。

「くっ! 紅莉栖! 携帯で早く救急車を!」

 俺は叫んでいた。しかし紅莉栖は動こうとはしない。
 逆に俺に向かって叫び返した。

「何言ってるの!? 携帯は2010年に置いてきたでしょ!」

 その時、心臓が一気に跳ね上がった。叩きつける雨粒の感触と音が、遠くに感じられた。まるで一瞬、自分が世界から切り離されたような感覚。
 何を言っているんだ?

──2010年に、置いてきた?

 言っている意味がわからなかった。だって、”今が2010年”だろ?



59: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:14:52.90 ID:g0/EBSOFo

「ともかく、あんたは阿万音さんを担いで! 早くここから出るわよ!」

「え?」

 紅莉栖の声が俺を現実に引き戻した。
 戸惑いつつも、言われるがまま紅莉栖と協力して鈴羽を背負い、階段への扉へゆっくりと歩き出した。鈴羽の体と、降りつける豪雨が衣服に染み入り、ずしりと体に重くのしかかった。それでも前に進むしかない、そう思った。
 ふと──
 このラジ館屋上で、少し離れた場所に巨大な機械が鎮座していることに気がついた。
 人工衛星のような樽型の球体が屋上の床にめり込み、仰々しいひび割れを描いている。
 その機械には見覚えがあった。つい2週間ほど前にラジ館にめり込むような形で激突した人工衛星だった。
 しかし、今は壁にまではめり込んでいないようだ。代わりに分厚そうな外殻はあちこちへこみ、ところどころパックリと割れて中の基盤や管を覗かせている。破れた銀色の板からは幾本ものちぎれたケーブルが突出しており、火花を散らしていた。損傷はかなり激しいようだ。

「おい紅莉栖、あれは一体──」

 奇妙な光景に俺は立ち止まり、紅莉栖に問いかけていた。だが紅莉栖はそんなことお構いなしに催促した。

「早く! 手遅れになる前に!」

 そうだ。今は一刻も早く鈴羽を病院に連れて行くべきだった。自分の判断力の甘さを痛感しつつも再び歩き出し、階段を一気に駆け下りた。



60: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:16:41.25 ID:g0/EBSOFo

「ぜい……ぜい……」

 屋上から一階への階段を下り終えると、どっと脚が重くなった。疲労物質が脚をはちきれんばかりに膨らませ、心臓も張り裂けそうである。それもそのはずだろう。自分1人でもハードなのに、今は人1人背負っている。
 だが弱音は吐いていられない。あたりを見回すと万世橋が目に映った。
 そういえば、近くに万世橋警察署があったはず──
 その場で90度方向転換し、警察に行こうとしたところを紅莉栖に止められた。腕を掴まれている。

「何をする!」

「もうすぐ救急車が来るわ」

 何? 救急車だと?
 俺より一足先に外に出ていた紅莉栖は、近くにある公衆電話を使って救急車を呼びつけていたようである。携帯電話を携帯しないという愚策を犯したが、中々にファインプレーだ。
 よし、じゃあこのままここで待機ということだな。
 そう言って鈴羽を近くのベンチに寝かせた。ここならば屋根もあるから雨もしのげる。俺は大きく息をついて心を落ち着かせようとしたが、再び紅莉栖に腕を掴まれた。一瞬心臓を掴まれたような感覚に陥った。



61: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:18:35.27 ID:g0/EBSOFo

「お、おいどうした……?」

「行くわよ」

 は?
 紅莉栖にそう告げられて俺は混乱した。
 行く? 行くってどこへ……。

「阿万音さんが搬送される時に、私達は居合わせることはできない。それはあんたもわかっているでしょ?」

 何を言っているんだこいつは。このまま鈴羽を放置しろ、と、そう言っているのか?
 そう疑問をぶつけると紅莉栖はすかさず反論してきた。

「このままだと私達3人共警察から聴取を受けることになる。そうなれば計画はすべて水の泡よ」

「何を言っているんだ! だからと言って仲間を見捨てろというのか!」

 それともなんだ。こんな命がかかった状況で過去の因縁の憂さ晴らしをしようとでもいうのか?
 怒りに身を任せてまくし立てると、遠くでサイレンの音が聞こえた。どうやら救急隊がこちらに向かっているらしい。
 だがこのまま鈴羽を置いて行くことなどできるか。
 頑として動こうとしない俺に対し、紅莉栖は俺の両腕を押しつぶすように握って──

「岡部! もう私達にできることはないの! 後は阿万音さんの体力と医者の腕にかかっている!」



62: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:20:58.86 ID:g0/EBSOFo

 迫真──そう表現するのがあっているだろう。彼女は中で激しく揺れる感情を必死に押さえ込みながらもこの判断を下したようだ。
 そう説得され、俺は仕方なく紅莉栖の言うことに従うことにした。情けない話、紅莉栖の勢いに圧倒されてしまったところもある。俺は静かに横たえられた鈴羽を一目見つめると、紅莉栖とともにラジオ会館内へと引き返した。
 数十秒も立たぬ間に、救急車のサイレンが近づいてきて止まった。赤い灯火が闇夜に際立って輝いている。救急隊員が矢の飛び出してきて、辺りを見回し始めた。そしてベンチに仰向けに倒れている鈴羽の姿を確認するとすぐに駆け寄っていった。
 彼らは鈴羽の意識がないことを把握すると大急ぎで担架に乗せた。救急隊員の1人が再び辺りを見回す。やがて誰も居ないことが分かると、車に乗り込みけたたましいサイレンを街にこだまさせた。
 遠目で一部始終を見ていた俺は小声でなぜこんなことをするのか紅莉栖に尋ねた。

「だから、さっきも言ったでしょ。今の私達に戸籍はない。そんな状態で警察の事情聴取でも受けたら……わかるでしょ?」

 紅莉栖の言葉に、俺は耳を疑った。
 は? 戸籍が……ない? さっきから何を言っているんだこいつは。頭がおかしくなったのではあるまいな?

「いやいや、戸籍がないって、冗談だろ?」

「あんたこそ何の冗談? この時代に私達の戸籍があるわけないでしょ」

 この、時代──だと?
 鎮まりかけてた心臓が大きく跳ね上がった。脈は激しくうねり、喉がゴクリと鳴った。



63: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:22:14.09 ID:g0/EBSOFo

「阿万音さん、大丈夫だといいけれど……」

 鈴羽を心配する紅莉栖をよそに俺は困惑していた。
 2010年とは状況が変わった人工衛星。
 見慣れているはずの風景のわずかな変化。
 紅莉栖の発言。
 この違和感──
 故に俺は聞かずにはいられない。

「おい紅莉栖……今は……」

「え?」

「西暦……何年だ……」

「…………? もしかして、まだ寝ぼけてる?」

 俺が聞くと、紅莉栖は怪訝な顔をした。少しでも早くその答えが知りたい俺は紅莉栖を急かす。

「いいから、教えてくれ……」

「今は西暦1975年。阿万音さんの話が妄想じゃなければね」

 バサバサと。どこからともなく新聞の一部が風によって飛ばされてきて俺の足に絡まった。俺はその新聞紙を手に取り、何気なく日付に目をやった。



──1975年(昭和50年)──



 雨の勢いが一層、強くなった気がした。



64: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:23:41.86 ID:g0/EBSOFo

 あれから紅莉栖は人工衛星の解体を始めていた。あの後、屋上へ行って急いで解体を行うと言ったのだ。紅莉栖は俺が再び頭を抱えるのを見ると、解体は1人で行うと言い、今まさに作業に徹していた。
 俺はラジ館屋上の手すりから街を見下ろしていた。降りしきる雨はすでに小振りと化しており、優しい雨が俺の手を叩いている。
 先ほど新聞の1975年という記載を見てからというもの、頭痛が再発していた。
 1975年? どういうことだ?
 俺は確か、タイムリープマシン開発に成功した名目で開発評議会を行っていたはず……。
 メンバーは俺、まゆり、ダル、紅莉栖、そして鈴羽。
 まさかタイムリープマシンの影響で1975年へと飛ばされた? まゆりとダルは一体どこへいった? あいつらも1975年へと飛ばされたというのか?
 いやいや、そんなまさか。そんなわけない。そもそもタイムリープマシンは自分の記憶を過去の自分へとコピーするものだ。1975年に俺たちは存在しているはずがないし、本当に1975年ならば携帯電話だってないはずだ。故にそれはありえない。
 ならば一体……。
 俺は人工衛星に付きっきりの紅莉栖を見つめた。
 紅莉栖は俺の視線に気づいたかと思うと近くによってきて──

「ちょっと岡部、あんた体の調子よくないんでしょ? だったら雨に当たると良くないわよ? 風邪でも引いたらどうする──ってまぁ、もう遅いか」

「…………」



65: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:25:07.12 ID:g0/EBSOFo

 俺には1つ予感めいた考えがあった。ここがもし本当に1975年ならば、俺たちは物理的タイムトラベルをしたことになる。それも、少なくとも3人以上の人間が同時に、だ。
 とするとなると──

「それとも解体手伝う気になった?」

「何の……だ」

「タイムマシンに決まってるじゃない」

 やはり……。
 目の前に鎮座している巨大な機械は決して人工衛星などではない。あれは正真正銘のタイムマシンなのだ。こいつがそんな冗談をいうとも思えない。不思議と違和感はなかった。
 まるで最初から知っていたかのように。

「夜が明ける前に、少しでも解体してまとまったお金を手に入れないと」

 紅莉栖の声が遠く感じる。まるで自分が自分ではなくなったような。

「換金したら、次は阿万音さんが言ってたとおり、戸籍を手にしないとね……」

 胸が押しつぶされるような不安を抱きながら、意を決して聞いてみる。

「なあ、まゆりとダルは……どこへ行ったんだ?」

 開発評議会に参加したメンバーがタイムトラベルしたのであれば、その2人もここにいなければおかしい。
 俺の質問に紅莉栖は一瞬戸惑ったようだった。

「岡部……あんた何言ってるの?」

 おそるおそる、と言った表情で聞いてくる。その顔つきをみて俺は嫌な予感がした。
 まさか──

「タイムトラベルしたのは、私達3人でしょ……?」

 ごくりと喉が大きく鳴った。寒気が止まらないのは雨に濡れているせいだけではない。



66: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:31:08.87 ID:g0/EBSOFo

「なんかおかしいと思ってたけど、まさかあんた……覚えてないの?」

 訝しげな表情をしながら紅莉栖は問いかけてくる。少なくともふざけている様子は見受けられない。
 そんな紅莉栖の様子に、俺は尋ねられずにはいられなかった。

「お、お前こそ一体何を知っている……俺はなぜこんなとこにいる、まゆりはどこだ!」

 俺は取り乱していた。何かを大切な物を失ってしまったような喪失感に苛まれる俺は頭を抱え込んでしゃがみこんだ。
 そう──俺は記憶を失っていたんだ。
 原因は分からない。心が防衛手段として弱い自分を覆い隠したのかもしれない。



67: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:32:47.95 ID:g0/EBSOFo

 夜が明けてからというもの、俺たちはせわしなく秋葉の街を動き回った。未だ混乱を隠せない俺は、考えを巡らせるのに必死だった。紅莉栖に関しても疲労がたまっていたのか、終始無言状態。
 日が昇ってから俺たちがしたことは、解体によって手にした廃材を売りさばくことだった。
 どうやら事前に、こういった希少金属が高く売れるということを鈴羽から聞いていたようだ。おかげで大した苦労もなく、ある程度まとまった金を手に入れることができた。
 金は2010年においてきたということだったから、ありがたい話だった。当然この時代で使うことはできないが。
 次に俺たちが成したことは非合法で活動する犯罪組織の連中と接触を図ることだった。

「今の私達には戸籍がない。本来存在してない人間だから仕方ないわね。でもそれじゃこの先、トラブルに巻き込まれた際思わぬ事態になりかねない。だから気は進まないけど、偽造してでも手に入れておく必要があるわ」

 足早に歩を進める紅莉栖は淡々と述べた。未だ現実を受け入れきれずにいた俺にとって、この行動力はありがたかった。

「阿万音さんの様子も気になるけど、今はそれが先決。私がしっかりしないと……」

 消え入りそうな声でつぶやく紅莉栖に、俺はただついていくことしかできなかった。



68: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:34:07.89 ID:g0/EBSOFo

 難なく犯罪組織と接触できたことは幸運だった。その反面、交渉は難航した。
 それも当然の話だ。犯罪を糧にして生きていく人間からすれば俺たちは幼すぎた。
 キドと名乗る眼鏡をかけた神経質そうな男が対応をしたのだが、最初は話すらまともに聞き入れてくれずにあしらわれた。
 ところが紅莉栖が交渉の材料に、と金を見せつけると途端に奴は一瞬表情変える。それでも奴は難色を示した。金は手に入れたかったはずだが俺たちと取引するのは奴のプライドが許さなかったのかもしれない。
 奴はふっかけてきた。ありえない額を突きつければ、諦めるだろう、と思ったのだろう。
 戸籍売買の相場などわからんが、3人分の戸籍を手に入れないといけない俺たちには手も足もでない額。
 やはり、向こうに俺達と取引する気はなかったようだ。「ガキどもの逃避行に手を貸すつもりはない」と冷たく言い放った。
 だが紅莉栖は毅然として立ち向かっていった。今ここで私達とコネクションを持つことは奴らに莫大な利をもたらすことになる、と。
 私達は逃げるためにここに来たのではない。戦うためにここに居るのだ、と。
 その華奢な背中を震わせながら──
 その確かな決意を胸に──
 その強い眼差しに込めて──



69: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:36:57.03 ID:g0/EBSOFo

 膠着状態がしばらく続き、ついには戸籍の売買人も折れたようだった。最初に提示させられた金額よりもはるかに良心的な価格で交渉してくれたのだった。おかげで俺たちは戸籍を手に入れることができた。
 このような場所で取引される戸籍を持っていた人間になりすますのはやはり気が引けたものだったが、紅莉栖がやっとの思いで手にしたと思うと、受け入れざるを得なかった。
 交渉の結果、とある日本の成人男性の戸籍を買った。一方紅莉栖は散々迷ったあげく、外国人女性の戸籍を選んだ。
 理由は、紅莉栖の年代に合致する女の戸籍の数の少なさ。
 それもそのはず、紅莉栖はまだ18歳。本来であれば高校生である。その年代の女がほいほいと戸籍を売りさばくほど日本もまだ荒みきってはいないということだろう。
 まあ、外国人の名前を使っていても、日系人だと説明すれば変な疑惑は持たれないだろう。それに紅莉栖ならば堀の深めな顔つきに明るめの茶髪、瞳の色だって日本人のそれとは違い少しだけ碧く見える。つまりハーフと名乗って不自然かと言われればそうでもない。
 ちなみに他人の戸籍を買うのではなく、新しく作るとなるとそれ相応の値段がかかるということで、現時点では諦めざるを得なかった。1人分ならどうにかなったかもしれないが、鈴羽の分も手にしないといけないため贅沢はいってられない。
 鈴羽の分に関しては保留、ということになった。すでに病院で目を覚まして名前を名乗っているかもしれない。そうなると少々ややこしいことになる。加えて、今この場にいない人間の分の戸籍も用意して欲しい、と伝えると偽造人は明らかに顔を渋らせた。
 「裏の売買であっても、これが取引であることには変わりない。いや、こういう取引だからこそ信用第一。欲しければ顔を見せた上で判断する」そう告げられた。
 結局、2人分の戸籍を買い、偽造身分証を手にしてその日の取引は終えた。これで俺たちは晴れて1975年に存在する人間となった。
 だが俺の気持ちは晴れないままだった。気になることが多すぎて未だに頭が混乱していたのだ。
 抜け落ちた記憶。
 まゆりとダルを置いてきてまでしたタイムトラベル。
 この先の生活。
 なにより、鈴羽の安否が気になっていた。



70: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:39:47.62 ID:g0/EBSOFo

 そんな俺をよそに紅莉栖は前に進み続ける。再びラジ館へと赴き、枯渇した資金を得るために再び廃材を解体するのだと言った。
 ラジ館へと向かっていると、黄色いテープで封鎖されているラジ館の入り口と周りを囲むようにして配置されるパトカーが目に飛び込んできた。

「こ、コレは一体……」

 目の前の現実を受け入れられない俺とは逆に、紅莉栖はすぐに状況を尋ねるため、警備にあたっていた警官にすぐに話を聞きに行った。
 話をすること数分。やがて話を終えた紅莉栖が浮かない顔をしてこちらに戻ってくる。

「まずいことになったわ」

「何があったと言うんだ……もしや──」

──タイムマシンの存在がバレた?

「そう、そのまさか。ラジ館屋上で正体不明の大型機械が煙を上げているって」

「な、なぜバレたんだ!」

「しっ。声が大きい」

 思わず声を荒らげる俺を諌めて紅莉栖はそっと耳打ちしてくる。



71: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:40:42.25 ID:g0/EBSOFo

「昨日、阿万音さんを救急搬送するために呼んだでしょ、救急車」

「あ、ああ……」

「それで、どうも周囲の調査ってことでラジ館の屋上も調べられたらしいわ、で──」

「屋上へ行くと破損した馬鹿でかい機械があった、と……」

「そういうこと。タイムマシンだとはバレてないようだけど、正直詰めが甘かったわ……。2010年のように他国の人工衛星が落下したという報道がされて、調査や撤去の目処は立たないかもしれない。けれどそれもいつまで続くかわからないわね……」

「どうするんだ?」

「どうもこうもない。ともかく、タイムマシンに関しては静観するほかないわ。ヘタに動いて注目をあびるようなことだけはしたくないもの」

「しかし鈴羽とタイムマシンとの関係はそうも言ってられない。疑われる可能性は濃厚……」

「そ、早くなんとかしないと……」

 その後俺たちは相談を重ね、紅莉栖は残った資金で拠点の確保。俺は鈴羽の様子を見に行くことに決まった。

「くれぐれも注意して。私達と阿万音さんに関わりがあるってことだけでも今後、重大なトラブルを引き起こしかねない。くどいようだけど、阿万音さんは今、公には存在してない人間なんだからね」

 そう言い残して紅莉栖は去っていった。



72: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:42:50.41 ID:g0/EBSOFo

 俺は鈴羽を探すため、搬送されたであろう秋葉周辺の病院を訪れていた。病院の玄関をくぐったところで1人考える。
 一体どうやって探りを入れようか……。
 紅莉栖からは鈴羽との関わりがあることを悟られないように探せ、と釘を刺されていたし、もちろん”昨日ラジ館前で倒れていた女の知り合いだ”などといっておおっぴらに関係性をアピールすることがまずいということは分かっていた。故にどのような方法で接触するか、考えあぐねていた。
 必死に考えた結果、俺が取った行動は、ひとまず頭痛がするということで検査してもらうことだった。その後、迷ったふりをして病棟をうろついてみる。我ながら機転の利いたいい方法だ、そう思った。
 しかしそれは徒労に終わることになる。
 どこを探しても鈴羽の姿を見つけることはできなかったし、これといった手がかりを得ることもできなかった。
 捜索が骨折り損に終わり、ロビーの椅子にもたれて座っていると、テレビから発せられるニュースのレポーターの言葉が耳に入った。

『ご覧ください。これが本日未明、ラジオ会館屋上に墜落したとされる人工衛星です』

 続けてヘリから映されたと見られるラジオ会館の俯瞰映像に切り替わった。
 そこには屋上に横たわり黒い煙を上げる人工衛星──いや、タイムマシンが小さく映っていた。

『この事故による負傷者は現時点では不明とのことです』

 レポーターの言葉に違和感を覚える。
 紅莉栖は言っていた。鈴羽の搬送後、周辺の調査が行われた──と。
 その際にタイムマシンを発見したのであれば、少なくとも鈴羽はこの事故による負傷者と考えられてもおかしくはない。だが、負傷者はいないものとして報道されている。

「…………」

 妙な胸騒ぎがしつつも、俺はテレビから目を離さずニュースを見続けていた。
 
『なお、アメリカ、ソ連をはじめとして各国は保有を否定しており、人工衛星の国籍等は不明の模様で、撤去の目処は立っておりません』

 あれが撤去され、解体されればタイムマシンだということがバレるだろうか。
 いや、現時点の科学力では判明するとは思えない。所々故障しているし、満足に起動もしないだろうしな。
 しかしいずれは辿り着く可能性がある。そうなる前に対処しておきたいところだが、迂闊に動くこともできない。
 そもそもタイムマシンとバレたところで、俺たちに疑いがかかる可能性は低いのではないか?
 鈴羽を除けばの話ではあるが。
 戸籍が存在しない。そんなことが分かれば、あからさまに怪しい。早く探しだしてやらねば……。
 だが結局、手がかりを得られないまま捜索を終えることになった。



73: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:45:12.78 ID:g0/EBSOFo

「ふむん……。すでに事故の重要参考人として考えられてる可能性もなくはないわね」

「だがそうなると、接触も難しくなるな……」

「あの状態から察するに病院で治療を受け続けている可能性は高いんだろうけど……」

 あの後すでに不動産屋と話を付け終わっていたらしく、俺たちはボロアパートの一室で話し合っていた。
 資金確保、戸籍入手、住処発見。わずか1日の間に、流れるような仕事ぶりである。
 さすがは俺の助手。

「となると、やはりあの病院に通い続けて探りを入れ続けるほかないか……」

「いや、隠蔽されているのであれば正攻法で情報が入ってくるのは期待しないほうが良さそうね」

「医者を買収して病院内患者の情報を買うか?」

「そんなことしたら私達が阿万音さんと関わりを持っていると疑われる。というかそんなお金ないでしょ」

「ならばどうするのだ!」

「うーん……」

 何かいい考えがないか頭を働かせる。
 がこれと言っていい案が思いつかない。

「仕方ないわ、私が潜入してみる」

「お前が?」

「あんたに任せておけないしね」

「ぐぬぬ、こいつ言わせておけば……!」

 ふと窓の外を見てみると、すでに暗い空が広がっている。思えば今日は慌ただしい1日だった。何も食べてないことに気づき、腹が鳴った。



74: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:46:12.88 ID:g0/EBSOFo

「あ、お腹空いてると思って買っておいた」

 紅莉栖はそう言って、横にちょこんと置かれている紙袋から2つの箱を出し、その1つを俺に差し出してきた。

「なんだこれは」

「近所のお弁当屋さんで買ったの。安かったしね」

「ふぅむ」

 開けてみると真っ白なご飯を覆うようにして張り付く海苔が目に入った。その上にちくわの磯辺焼きが乗っており、さらに白身フライの香ばしそうなきつね色が食欲をそそった。

「安価な弁当にしては中々のクオリティではないか」

「文句があるなら食べなくてもいいわよ」

「いや、いる。いります」

 弁当を回収されそうになったので、俺は急いで弁当の中身を貪った。
 テレビもテーブルもない室内で咀嚼音だけが響いている。



75: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:47:13.96 ID:g0/EBSOFo

「…………」

 一足先に食べ終えた俺は、ふと抱いていた疑問を口に出した。
 今朝からずっと胸に秘めていた思いだ。

「なあ助手よ、1つ聞いてもいいか」

「……助手じゃないけど、質問があるならどうぞ」

 もぐもぐと口を動かすのを一旦やめて飲み込むと紅莉栖はぶっきらぼうに言った。

「…………」

 混乱していたのもあったし、慌ただしい紅莉栖の雰囲気に尋ねることもできずにいた疑問だ。

「俺は……俺たちは……なぜタイムトラベルをしたんだ?」

 おそるおそる、聞いてみる。
 紅莉栖が手にしていた弁当の容器を畳の上に置いた。



76: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:48:33.37 ID:g0/EBSOFo

「やっぱり、何も覚えてないのね」

「ああ……」

「オーケー。じゃあ質問に質問で返すようで悪いけど、こっちも1つだけ聞かせて」

 紅莉栖はまっすぐこっちを向いて、つらつらと1つ1つの言葉をはっきり口にしながら言う。

「あんた……どこまで……覚えてる?」

「どこまで……って、俺が覚えているのは2010年8月13日の夜……そう8時頃までだ。その時タイムリープマシンの完成祝いに開発評議会を行っていた……そこで俺の記憶は途切れている」

「8月13日の……8時? 開発評議会……?」

 紅莉栖は俺の言葉を聞いて考えこむと──

「記憶が混在しているのかしら……」

「どういうことだ?」

「私の記憶では8月13日の夜に開発評議会なんていうものは行われていないもの。それに私達がタイムマシンに乗ったのは8月13日の夕方、6時頃よ──」

「なっ!?」



77: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:49:25.06 ID:g0/EBSOFo

 6時、だと? 6時といえば俺はこいつと買い出しに……。
 そう、確かに俺はその後買い出しを終え──
 開発評議会の名の下にラボメンを招集──
 そして突然──
 とその時、頭に鋭い痛みが走り、思わず目を伏せる。

「うぐっ!?」

「ちょっと岡部、大丈夫!?」

 側頭部がじくじくと痛む。その痛みに耐えるように身体を固くすると冷や汗が吹き出し、息が荒くなる。記憶を引き出すことに対して、身体は明らかに拒否反応を示していた。

「い、いや、案ずるな……もう収まった……続けてくれ……」

 荒々しく呼吸する俺を紅莉栖は心配そうに俺を見つめる。わずかに眉をひそめ考え込んだようだったが、やがて口を開いて言った。

「……信じられないかもしれないけど、聞いてちょうだい」

「あ、ああ……」

「私の記憶によれば、8月11日の昼ごろ、あんたは私にこう告げたわ」

 紅莉栖はまっすぐと俺の目を見て大きく息を吸った。



78: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:50:40.42 ID:g0/EBSOFo

「”俺は未来からタイムリープしてきた”ってね」

「なっ!?」

 使ったというのか!? タイムリープマシンを!? 俺が!?

「やっぱりその記憶もないのか」

 紅莉栖はため息をつくと再び話を続けた。

「当然私も初めは信じられなかった。けれど、あんたの突然の変わり様と、私の……その、未来の情報について言及されたら信じざるを得なくなった」

「未来の情報……? な、何と言ったんだ? 俺は」

「そ、そこに興味を持つな!」

 紅莉栖は顔を真赤にし、わたわたと手を振った。

「とにかく! 私はあんたがタイムリープマシンを使ったことに関して疑わなかった、アンダスタン!?」

「お、おう……」

 紅莉栖の勢いに押されてついたじろぐ。



79: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:51:22.87 ID:g0/EBSOFo

「そしてあんたはこうも言った」

 ドクン──
 心臓が一回大きく跳ねて──
 紅莉栖の声が遠く感じる。嫌な予感がする。

「どう足掻こうと──」

 やめてくれ。

「まゆりが──」

 それ以上言うな。

「世界に──」

 頼むから。
 こみ上げてくる吐き気に嗚咽が漏れた。

「うっ……」

 俺は口を抑えて台所へと走り、胃の中のものを全て流しに吐き出した。そんな俺を見て紅莉栖が声をあげた。

「おっ、岡部っ!?」



80: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:52:16.92 ID:g0/EBSOFo

「はぁっ……はぁっ……」

 口内に残る酸っぱさと苦さ。焼けつくような胃の中。
 ぶちまけられた内容物を見てまた胸が焼けるように熱くなった。
 まるで毒物を体から吐き出すかのような強烈な反応。

「うぁぁ……っはぁっ……ぐっ……」

 堪えようとすればするほどに俺の記憶の残滓は暴れまわった。
 気づけば、そんな俺の背中を紅莉栖は優しく擦ってくれていた。

「ごめん……軽々しく、伝えるべきじゃなかった」

 低い声で紅莉栖が言う。

「違う、俺が望んだんだ。知りたいと」

 さっきの紅莉栖の言葉を脳内で反芻する。

『どう足掻こうと、まゆりが世界に──』

「うぐっ……」

 再び胃の中が荒れ狂った。あれだけ吐き出したというのに、まだ暴れたりないというのか。
 俺は涙を流し。涎を垂らし。嘔吐、嗚咽。
 上手く息を肺に取り込むことができなくて苦しい。



81: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:53:57.70 ID:g0/EBSOFo

「今はもう、やめましょ。とにかくあんたや私、阿万音さん。私達は未来を変えるためにタイムトラベルしたの」

 紅莉栖の優しい声が俺の体を包み込んでくれた。

「IBN5100を使って世界線を変える。今はそれだけ理解してればいいわ」

「IBN……5100……」

 かつてのDメール実験で手中から消えてなくなったレトロPCが世界線を変える鍵らしい。
 そういえばジョン・タイターも言っていた……。2036年ではSERNがディストピアを作り上げ支配している、と。
 そうか……1975年に跳んだのはIBN5100を手に入れるため……。そしてIBN5100を使ってその未来を回避しようとしている。
 だがなぜ俺たち3人も飛ぶ必要があった?
 その疑問を解消すべく尋ねるが、紅莉栖は答えない。

「岡部、今日はもう休みなさい」

「だが……」

「忘れていたほうがいい記憶ってのもある。それに私だって全てを知ってるわけじゃない。あんたから聞いた話と、それを組み合わせた想像の範疇でしかないの。そんな中途半端なことを今のあんたに話す訳にはいかない」

 真剣な眼差しで俺を諌めると、やがて辛辣な表情を浮かべて続けた。

「それに、あんたがそんな調子だと、私だって辛くなる」

「…………」

 悲しげにうつむく紅莉栖を見ていると、とてもじゃないが聞く気になれなかった。

「今はとにかく、体を休めて。記憶を取り戻すのはゆっくりでいいじゃない。阿万音さんだってきっと今不安でいっぱいなはず。あんたがそんなんだと、きっと彼女も悲しむわよ」

「ああ……」

 紅莉栖はそう言って、借りているもう1つの部屋へと退散していった。



82: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/01(木) 16:55:50.71 ID:g0/EBSOFo

 何もないこのがらんどうな部屋で俺は寝っ転がり、思いを巡らせる。
 8月13日の夜以降のことを思い出そうとするが、俺の脳は頑なに拒否したままだ。まるで記憶の引き出しの取っ手を全てひっぺがしてしまったかのようだ。だが13日以前の記憶はある。

 激突した人工衛星──タイムマシン
 @ちゃんねるに降臨した未来人──ジョン・タイター
 ジョン・タイターが語った未来──SERNによるディストピア
 過去へと送られたメール──Dメール

 Dメールを利用した数々の実験、それによって変えられた世界線。IBN5100が無くなったのも、その実験のせい……。そしてIBN5100を入手するために俺と紅莉栖と鈴羽が1975年へとタイムトラベル……。
 なぜなんだ……。まゆりを置いて、なぜ俺が……。
 とその時、かつて俺の携帯へと送られてきた送信者不明のメール──それに添付されていた映像が脳裏に浮かび上がった。
 真っ白な皿に乗せられた血のような赤色をしたゼリー。
 首だけが切り取られた血まみれの人形。

──お前を見ているぞ──
──お前は知りすぎた──

 ぞわり、と冷たい感触がした。まるで凍りつくように冷えた手で背中をなぞられたような。
 そしてまた俺は、吐いた。ぼとぼとと流れていくのは胃液などではなく、俺の記憶なのかもしれない。思い出すことを拒否した脳が、俺の記憶を垂れ流しているのかもしれなかった。

 俺は結局、思い出すことを諦めた。
 俺は逃げることを選んだ。
 人1人の意志には限界がある。
 俺の心はすでに壊れていたのかもしれない。

 そしてまた──
 俺は仮面を被る──

──弱い自分を隠すため。



Chapter1 END



94: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:20:30.08 ID:iuS/I4U4o

Chapter2



 薄汚れた窓の向こうに、見慣れない風景があった。これでもかという風に敷き詰められた建物の高さには統一性が無く──乱雑──という印象を受ける。その中でも飛び抜けて高く大きい建造物は、白い壁に煤を塗られたような汚れが目立ち、正直汚かった。
 視点を上げて、空に目を向ける。思わず顔をしかめた。
 太陽が眩しかったからか──
 それとも、期待していたような青い空じゃなかったからか──
 空気は淀んでおり、空は濁った青色をしていた。思い描いていたあの痛くなるほどの青空はどこに行ってしまったのだろうか。ここにはないのだろうか。あのそびえ立つビル達が成す壁の向こうにならあるんだろうか──
 そこでふと疑問が頭に浮かんできた。「ここ」とは一体どこなのだろうか、と──
 周りを見回す。白い壁に、白い布団が敷かれたベッドに、少し薄汚れた白いカーテン。瞬間的に病院だ、と感じる。
 顎に指を当てて考えていると、ドアが音を立てて開き、カーテンがふわりとたなびいた。ドアを開けた人物は「あっ」と小さく呻き、大きく目を見開いて言った。

「あ、ああ、良かった……目を覚まされたんですね! すぐ先生を呼んできます!」

 彼女が慌ててドアを閉めるとパタパタ、とスリッパを鳴らしながら小走りでかけて行く音がドア越しに響いた。
 看護師なのに廊下を走っちゃダメだよ、そう思った。



95: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:22:02.26 ID:iuS/I4U4o

 改めてここがどこなのか、考えなおす。
 今扉を開けた人の格好からして、ここが病院なのは間違いない。ならなぜ自分は病院にいる? ベッドに寝てたってことは体の具合が悪いんだろうが、これと言って痛みはない、違和感があるわけでもない。
 しばらく自分の手足を眺めたり、上体を捻ったりしていると、白衣を来た男と、先ほどの看護師が少し慌てた様子で部屋に入ってきた。

「やあ、おはよう。気分はどうですか?」

「悪くはない……かな」

 すると白衣を着た男──医者と思われる──が右手でピースを作った。

「これが何本に見えますか?」

「2本」

「よし、じゃあ、自分の名前を言ってみてください」

 続けて尋ねられたので答えようとする。

「阿万音……鈴羽……」

 意図せずして、他の音でかき消されてしまうような低く小さな声になった。思い出せないわけじゃないんだ。ただあたしは混乱していた。自分の名前が”阿万音”だったのか、はっきりと自信を持って答えることができなかった。もっと他にも名前があるような気がしていたから。



96: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:25:54.88 ID:iuS/I4U4o

「アマネ、スズハさん、ですね」

 医者は阿万音鈴羽という名前であたしを認識したようだったが、あたしは正直戸惑っていた。記憶では正しいと感じているのに、名乗ったことに対して妙に気懸かりを感じていた。

「誕生日は、いつですか?」

 立て続けに質問されたが、もはやあたしに答える気はなかった。少しでも早く、あたしを取り巻いてる違和感の正体を掴みたい──
 そう思って必死に考えを巡らせていた。

「アマネさん?」

 医者の声が遠く感じる。何か思い出そうとしてみるがダメだった。どうしても思い出すことができなかった。目をつむり、無理にでも記憶の糸をたぐり寄せようとする。しかし、そうすると側頭部にズキリと痛みが走った。

──思い出せない。

 自分がどうして病院にいるのかはおろか。過去に何をしてきたか──
 いや、そもそも自分がどういう存在であるのかすら、思い出せなくなっていた。
 あたしは記憶を失っていた。自分の名前以外、思い出せなくなっていたんだ。



97: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:28:35.53 ID:iuS/I4U4o

 意識が揺らめいていた。辺りは真っ暗だ。
 あたしは見慣れない狭い道を走っている。前方から暗い道を照らす一筋の光が差し、その向こうに大きな人影が見えた。あたしはその背中を向かって地面を蹴り続ける。
 
「父さ──」

 手が触れるやいなや、その影は跡形もなく消えた。
 行方を探ろうと辺りを見回す。
 すると次は細身の髪長な女性が1人佇んでいて──

「母さん──」

 彼女の方へと再び地面を蹴りだす。
 が、しかし、またもやあたしが近づくと影は消えてなくなった。
 今度は、白衣に身を包んだ髪の長い女性がこちらを向いて立っている。女の顔は逆光のためはっきりと見ることができなかったが、あたしには誰なのか分かった。

「牧瀬紅莉栖──」

 まただ。あたしが近づくとまたその影は消えてしまう。
 どうしようもなく悲しくなって、誰か助けてくれる人はいないのか探し続ける。
 また見つけた。また、白衣をその身に包んだ男性──
 走って近づくことでまた消えてしまうと思ったあたしはおそるおそるその背中に近づく。
 影がふとこちらを振り向いた。



98: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:29:28.42 ID:iuS/I4U4o

「あ……岡部倫太郎……あたし……あたし……」

 その影はわずかに口元をほころばせると──
 あたしの前からゆっくりと雲散していった。

「ああ……あああ……」

 どうしようもなく悲しくなって涙が出てくる。泣いてる暇なんてないはずなのに。あたしは結局、何もできずに消えていくんだろうか。何も成さずに死んでいくんだろうか。何も残すことができないんだろうか──

「ス──」

 え?

「スズ──」

 どこからともなく響き渡る声の主を求めて再度あたりを見回す。すると近いとも遠いとも言えないような距離に、また1つの影。今度は収まりの悪い髪の毛と、それを覆う帽子が目に入った。
 また、消してしまうのかと思ってしまったけれど、あたしにはもうその人しかすがるものがなくて。あたしはふらふらとその影に寄っていった。その影は他の4つとは違い、あたしを優しく抱きしめてくれた。

「大丈夫──」

「うぅ……」

 優しげな声と包まれるような温もりに大粒のナミダが溢れる。

「スズ──大丈夫──」

 あたしはもう、心が折れてしまいそうで。そんなあたしの頭を優しく撫でる手の感触だけがあった。



99: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:31:19.77 ID:iuS/I4U4o

 
 そこで目が覚めた。汗が体中を濡らしていて、冷たくにじむ入院着の感触が気持ち悪い。体中が寒くて震えが止まらない。あたしは今まで見ていた夢の内容を思い返すが、どうしてもはっきりとは思い出すことができない。
 なんかこう、居心地の悪さと居心地の良さが入り混じったような夢というのは記憶があるのに、あたしの頭は思い出すことを拒絶してるかのように頑として封印したままだ。
 もどかしい。
 頭の中を羽虫が素早く飛び回っていて、捕まえようとすればするほど見失うような感覚。
 気がつけばあたしの頬には涙の筋が刻まれていた。あたしは叫び出したい気持ちを抑えつつ、顔を覆って小さく嗚咽を漏らした。



100: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:33:39.32 ID:iuS/I4U4o

 連日、叩きつけるような雨がざああと降り注いでいる。まとわりつくような湿気と暑さ、雨の頻度。それはあたしに梅雨の季節を実感させた。
 あたしが目を覚ましてからすでに1週間が経過している。
 医者による検査は未だ続いてた。文字を書かされたり、単語の意味を聞かれたりする簡単なものから、仰々しい機械で頭の働きをチェックするような機械で行うようなものまで。けどそれらが直接あたしの記憶の回帰の助けになるか、と言ったら全くならなかった。
 むしろ脳に異常が見られない、という結果が分かってしまっただけだった。
 あたしには何かやるべきことがあるようなイメージがあって、焦燥感に苛まされていた。けれど、思い出そうとすればするほど頭の中はぐちゃぐちゃになるし、気持ちが落ち込んでしまう。心臓の鼓動はあたしに歩き出せ、と急かすけど、完全に道を失ってしまった状態。時には悔しさで周りにある物すべてを壊したくなる衝動に駆られそうになった。
 あたしはもはや真っ白だった。
 そんな時あたしは、決まって空腹を満たすことで気を紛らわせていた。気落ちするあたしを励ましてくれた1人の看護師さんが「気持ちが沈んじゃった時は美味しいご飯を食べるといいんだよ」って教えてくれたんだ。そんな簡単な話じゃない、ってそんときは思ったんだけど、食べてみると中々どうして元気が湧いてくる。最初は味気ない病院食だったけど、ようやく色んな種類のおかずやらなんやら取り入れてもらえるようになった。看護師さん曰く、あたしが美味しそうに食べるもんだから、栄養士さんも張り切っちゃうんだそうだ。身体的な異常が特に見られないっていうのもあったんだろうけど。
 前言撤回、食べることで気を紛らわせていたって言ったけどそれは間違いだった。もはや食べることはあたしの生きがいになろうとしていた。
 こんなこと高らかに宣言したら頭のおかしい人って思われるかもしれないけど、実際問題今のあたしにはそれしかないんだよね。ってのを看護師さんに話したら、笑われちゃった。でも、その後すぐに、退院したら美味しい料理をごちそうしてくれるとも言ってくれたんだ。記憶を失うという、人生の意味をも見失うような状況下で、あたしが気を狂わせずにいられたのも、この優しい看護師さんの存在と、美味しいご飯があったからかもしれない。ご飯と人を同列に扱うのもどうかしてるとは思うけど。



101: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:35:25.66 ID:iuS/I4U4o

 目の前に横たわったシャケの切り身を器用に箸で身をかき分け、つまみ、口に入れる。すると、すぐに適度に効いた塩味が口の中に広がった。意図せず、耳の下が持ち上がるような感覚。その快感に身を捩らせながら、続けて白いご飯を一気にかきこみ、幸せな味を頬張りながら胃の中を満たしてく。

「んー! やっぱり白いご飯はサイッコーだねー!」

「いつ見てもスズちゃんの食べ方は豪快ねー」

 バインダーを胸に病室に入ってくる看護師さん。口の中に食物が残っていたけれど、あたしはこう言う。

「ふぁっふぇほいふぃんだもん」

「はいはい、飲み込んでから話してね」

 笑いながら諭された。
 だって美味しいんだもん。
 言われるままあたしは咀嚼に集中する。

──もぐもぐ

 すると看護師さんのあたしを見る視線に気がついた。その目はすごく穏やかで、まるで自分の赤ん坊でも見るような温かみを感じる目だった。あたしはそんな視線を送られて思わず照れくさくなってしまう。ごくり、と大きく喉を鳴らして飲み込むと、目を逸らして小さく一言。

「そ、そんなまじまじと食べてるところを見られると少し照れるんだけどなぁ……」

「え? あぁ……ごめんごめん……ついうちの子の小さいころを思い出しちゃって」

 そう言ってえへへと言いながら舌を出して笑う看護師さん。年齢的には30くらいに見えるから、もう出産していてもおかしくはないんだろうけど、その言い方だと子供はもう随分大きくなってるようにも取れる。
一体いくつなんだろう。



102: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:36:47.58 ID:iuS/I4U4o

「いくつなの?」

「え? ええと、33くらいよ」

「ちがうちがーう、子供のほう!」

「あ、ああ……うちの子のほうね? うちの子はえーっと……」

 結構長い間が空く。

「10歳くらいかしら」

 くらいって。
 当の本人はニコニコとしているけど、母親に正確な年齢を把握されてない子供って……。
 もしかしてこの人、天然? いや、もしかしなくてもそうだ。この1週間付き合って分かった。看護師にしておくには少し危なっかしいなぁ、と思うことが多々あったりする。会話の中でおやって思わせられることもよくある。勘違いが多かったりね。
 でも周りのみんな、医者や他の看護師、患者からは意外に信頼されてたりするんだ。天然かと思えば時々鋭い指摘をしたりするから、油断できない。あたしが記憶を取り戻せないことに苛つきを感じてた時も、優しくフォロー入れてくれたっけ。そういうところが評価されてるのかな?



103: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:38:18.49 ID:iuS/I4U4o

「そうそう」

 唐突に話題が転換される。

「ん? どしたの?」

「スズちゃんね、状態もいいようだし……」

「え!? 退院できんの!?」

「残念、退院じゃないの。病棟を移ることになるの」

 なんだ、退院じゃないのか。病院の中も悪くはないけど、やっぱ退屈なんだよなー。

「病棟を移る?」

「ほら、こっちの病棟は重篤患者さんが多いし、中々自由に外には出られないでしょ? 今度行く病棟なら制限も緩いから開放的な気分になるし、治療にはそのほうがいいと思うの」

「ふーん……でも体は全然問題ないんだけどなぁ……」

 そういって拳を握って素早く前後させる。
 うん、このストレートをアゴに当てればどんな大男も一撃。
 なんてことを考えてると──

「今ね、刑事さんが一生懸命あなたの身元を調べてくれてるんだけど、上手く行ってないみたいなの。だから少しでもあなたの友人やご家族との記憶が蘇って、身元が分かるように、ね?」



104: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:39:54.35 ID:iuS/I4U4o

 目を覚ましてすぐの頃は目付きの鋭いおっちゃん達がこぞってあたしのこと訪ねてきたっけ。いずれあたしの記憶が失われていて、それが中々戻らないことがわかると訪問の頻度は大分下がったけど。
 しっかし、別の病棟かぁ。
 そうしたら今に比べて開放感溢れる生活になるのかもしれないけど、この人と中々会えなくなっちゃうんだろうか。それは気が進まなかった。けれど病院の判断である以上従わない訳にはいかない。ここで駄々をこねるほどあたしは聞き分けが悪くはなかった。
 
「そっかぁ……別の病棟かぁ」

 決して乗り気でない言葉を俯きながら呟くするあたしに対し、気遣うような言葉が投げかけられる。

「ここを離れるのは……いや?」

 顔を上げると彼女が複雑な表情をしているのが目に入った。そんな顔を見ていたら少し胸がチクリとするのを感じ、冗談めかした口調で今の心境を口にする。

「複雑な胸中ってやつ? なんといっても話し相手がいなくなっちゃうからね」

 あたしがそう告げると目を細めて微笑んでくれた。

「うふふ、心中お察しします」

 そう言ってお互い笑いあった。まるで優しい風が病室内をふわりと包んでいるように穏やかな日常だ。



105: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:41:45.54 ID:iuS/I4U4o

「それと、今度行く病室は相部屋みたい」

「相部屋? もう人がいるってこと?」

「えーっと名前は……うーん、外国の人かな? ……えらいな……?」

 偉いな? 何を言っているんだろうこの人は。

「ふーん?」

 外国人かぁ……。外人が日本の病院に入院……。
 別段珍しいことじゃないとは思ったけど、如何せん記憶がないため判断ができず少し困惑する。そんなあたしの心情を察してか優しい声で──

「わたしもたまには顔を出すから、安心して? ね?」

「大丈夫、作戦上何の問題もないよ!」

「そうね、スズちゃんなら大丈夫大丈夫」

「任しといてよ!」

 そう言って肘関節を折り曲げて、力こぶをアピールする。

「うふふ、相変わらずね。じゃあこのまま容態が変わらないようなら明日の午前中にはお引越しだね。それまで大人しくしていてね」

 体力アピールしすぎた結果、諌められた。
 ホント、心配性なんだから。ま、看護師って立場上仕方ないのかもしれないけれど。
 そんなことを考えながらあたしは、病室を出ようとした彼女に声をかける。

「絶対遊びに来てよ! 椎名さん!」



106: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:44:07.22 ID:iuS/I4U4o

 翌日、期待と不安を胸に抱きながら、あたしは今までいた病棟を後にした。新たな病棟の案内をしてくれたのは別の看護師。てっきり椎名さんがしてくれると思っていただけに少し残念な気持ちがあったが、やはり新しい風景というのは心を踊らせてくれる。どうにか記憶を取り戻すきっかけになってくれればいい、そう思いながら新しい病室へと足を踏み入れた。
 同じ病院内の施設ということで部屋の構造自体はそう変わりない。広さは16畳といったところ。窓は開けられていて、以前のような暗雲に満ちた空ではなく、少しだけ霞んだ青空が窓枠の中に広がっている。
 次に目に入ったのは、恐らくすでにこの部屋で過ごしているであろう相方のベッドを囲っているカーテン。真っ白な布が室内の左側大部分を占めている。そのため、人間2人という居住スペースにしては広さのあるこの部屋でも、多少手狭に感じさせる。
 看護師がカーテンの向こうに声をかけたが、睡眠中なのか返事は帰ってこない。
 少しの沈黙の後、看護師は苦笑いして「日本語は話せる方だからすぐ仲良くなりますよ」と耳打ちして部屋を出て行った。
 けれど、不気味に静止したカーテンとは裏腹に、あたしの心は揺れていた。
 無音の中、あたしはベッドに腰掛けてカーテンに目をやった。
 ただの真っ白な布切れなのに、このまま見ていたら吸い込まれそうだ。あたしはこの巨大な薄布の先を覗いてやりたい、そう思った。けれど知ってしまうのが怖い気持ちもあった。この向こう側に触れてしまったらあたしがあたしでなくなるような感覚。そんな予感めいたイメージがあたしの中にはあった。
 気づけばあたしは、吸い寄せられるようにしてカーテンの前に立ちはだかっていた。



107: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:45:36.71 ID:iuS/I4U4o

 見なきゃいけない。
 見ちゃいけない。
 会わなきゃいけない。
 会っちゃいけない。
 対抗する2つの感情が激しい火花を散らしてあたしの心を焦げ付かせる。
 そっと手を上げて、眼前の白い波を指で摘んでみる。
 一陣の風が吹き、この先の真実を覆って隠している壁をふわりと揺らした。ごくり、と喉が大きな音を立てた後、すぐに静寂が訪れる。あたしは深く息を吸って、大きく息を吐いた。
 再び、無音。
 意を決し──
 あたしは──
 運命の扉を開けた──

「あっ……!」



108: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:47:10.25 ID:iuS/I4U4o

 思わず口から驚嘆の言葉が漏れる。その扉の向こうにはベッドに腰を下ろし口元にまっすぐ人差し指を当てた女。
 ”声を出すな”ということだろう。いや、そんなことはどうでもよかった。
 その女を目にした瞬間、あたしの脳裏にいくつかの情景が浮かんだ。
 まるでテレビのチャンネルが切り替わるかのように──

「あっ……くっ……」

 身体を四散させ、臓物を地面に撒き散らして死んでいる女。
 喉元に刃物を突き立てられてその周りを血の海にしながら死んでいる男。
 死んだ魚のような目をして壊れたオモチャみたいにケラケラと笑い合う2人の女。
 何の疑問も持たずに銃殺処分される順番を待ち続ける男。
 そして──
 白衣に身を包み、憂いの表情を浮かべる髪の長い不惑の女性──

「牧瀬っ……紅莉栖っ……!!」

 あたしの脳内に流れた映像──
 恐らくは過去の記憶の一部がフラッシュバックされたのだろう。その記憶が一体どんな記憶だったのかはっきりと断言することはできない。けれども、ただ言えることが1つある。この身体を構成する骨肉が──奔流する血潮が告げている。
 今の映像はあたしが猛々しく暴れる猛火のごとく憎み、変えたいと思った過去だ、と。



109: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:49:37.97 ID:iuS/I4U4o

「阿万音さん、無事で良かった。心配した──」

 阿万音──
 その名を口にするということはあたしのことを知っている。そしてこいつはあたしに接触するためにこうしてここにいる。
 そう思うのとは別に、頭で考えるより先に体が動いていた。あたしは姿勢を低くし、脚部に力を込める。

──いつでも戦える体勢に入った。

「君は何者? 目的は何? なんであたしに接触してきた!?」

「ちょ、阿万音さん……それはなんの冗談──」

「答えて!」

 目の前の女が狼狽えて言葉を発するが、あたしはそれを遮って叫んだ。
 自分でも熱くなりすぎてると感じるが、さっき浮かんだイメージが消えない。恐怖なのか、怒りなのか分からないけれど、体が震えている。
 そんなあたしを見て彼女は何かに気づいたような表情を浮かべた。

「阿万音さん、もしかしてあなた……記憶を……」

 続きの言葉は要らなかった。
 そうとも、失ってる。
 だから目の前のこの女が持ってるあたしの記憶を、脅迫してでも引き出そうと思った。
 いや、違うな。怖いんだ。きっと。
 この女──牧瀬紅莉栖が想起させたあたしの記憶は凄惨な物ばかりだったから。
 事実、床を踏みしめた両足から伝ってくる揺れが、あたしの心までもをぐらつかせていた。きっとあたしは、自分よりも何倍も大きなヒトに恐怖しながらも、必死に唸りを上げる子犬のようだったんだと思う。
 そしてそんな臆病者と対峙した彼女は自分に敵意がないことを表明しようとしていた。



110: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:50:43.94 ID:iuS/I4U4o

「オーケイ。あなたの質問に答える前に一言」

 両の手のひらをこちらに見せながら、自身のベッドに腰を下ろしたまま彼女は続けた。

「大丈夫。安心して」

 精悍な顔つきとは逆に、温かみのある口調。たった2つの言葉だったが、それだけで不思議と優しさに包まれるような感覚に陥っていた。

「まだ、信用出来ない……。質問に……」

 答えろ、とは言い切れなかった。まだ足が震えている。

「あたしはあなたの味方。友人を助けたい。あなたに近づいたのは……」

 牧瀬紅莉栖は少しだけ考えるような素振りを見せると、やがて再び口を開いた。

「ある意味で、あなたのことも手助けしたい、って思ったからかな……」

 あたしの手助け?

「あなたの質問に答えてあげたんだから、私からも1つ」

 当然の権利、と言った顔でこちらに問いかけてくる。

「……どこまで覚えている?」

 おおよそ、予測していた通りだった。あたしを知っていて、あたしが記憶を失っていることが分かれば、そこを聞くのは当然だと思った。



111: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:52:14.70 ID:iuS/I4U4o

「覚えているのは、自分の名前……。そして君の名前だけ……」

「ふむん……あまり事態は好ましくないわね」

 あたしが答えると、彼女は口元に指を押し当て視線を床に移し呟いた。
 まだ安心はできない。記憶が無いことをいいことにあたしにあることないこと吹き込んで利用しようっていう可能性も否定出来ないから。

「っていうかいい加減警戒するのやめてほしいわけだが……」

「言ったでしょ。まだ信用できないって」

「そうよね……そうなるわよね……となるとどうしたものか……」

 言って、頭を抱えてうなだれてしまった。あたしに信用されていないのがショックだった、とまではいかないけれど、どこかしら落ち込んでるような……。
 思わず同情しかけて、構えを解いてしまう。
 そんな自分にはっとして、再び警戒する。
 だめだだめだ、油断は死につながる。そう教えられたはず!

「…………」

 こんなことを教えられるなんて、あたしは戦いに身を置く職業──例えば軍人とかだったんだろうか。でもこの1週間、あたしはあたし自身という人間について何度も考えたからなんとなく分かる。あたしは何かのために必死にもがき続けるただの人だったんじゃないかって。迷いや後悔もあるけれど、ただひたすら前を向いて、ただひとつの目標に向かって──
 けれど、今のあたしはポキリと刃が折れてしまったカッターナイフだ。鍛え上げられた軍人のように研ぎ澄まされたナイフなんかじゃ決してなかった。刻んできた命の証は失われて、自分が何をしてきたのか全く分からない、ただの人だった。
 そう思うと、張り詰めていた心がふと緩むのを感じた。



112: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:53:45.83 ID:iuS/I4U4o

「あの、さ……」

 自分でも弱々しい声だな、って思った。
 声は届いていないらしく、彼女は依然として頭を抱えてぶつぶつと独り言を発している。あたしの信用を得られないことに対し本気で悩む彼女を目にし、あたしは少し罪悪感を覚えていた。
 冷静になって考えてみたら、彼女を見て記憶が思い起こされたのは確かだが、あの凄惨な状況を目の前に居るあたしと同じくらいの年の少女が作れるとは到底思えなかった。それに、映しだされた記憶の映像では40代くらいの女性だった。眼前の彼女はどう見ても10代後半か、20代前半といったところ。そうなれば今のあたしにある記憶と目の前の光景とでは矛盾が生じる。
 あれだけ警戒しておいて都合が良い話だな、とは思ったが、あたしは彼女に歩み寄ろうとしていた。
 再び、声をかけようと決心し、大きく息を吸う。



113: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:55:49.56 ID:iuS/I4U4o

「あのさ──」

 とその瞬間、扉が勢い良く開き──

「フゥーハハハ、差し入れを持ってきてやったぞ助手よっ! 感謝するのだな──」

 およそ病院にはそぐわない大声があたしの耳に飛び込んできた。振り返ってその声の主を認識した瞬間、再びあたしの頭のなかに映像が映し出される。
 手狭な室内にテーブルがあり、そこに乗せられたごちそうを前に笑い合う数人の男女。
 ニカっと笑う筋骨隆々の男と、その隣に彼とは不釣合いな可愛らしい童女。
 あたしの両の手を握って、満面の笑みで優しい眼差しを送ってくれる少女。
 窮屈で無機質な機内で工具を手に、機械を弄くりながら笑う大柄な青年。
 そして──
 白衣に身を包み、大げさな立ち振舞いで尊大に笑う男性──
 あたしの脳内に流れた映像──
 恐らくは再び、過去の記憶の一部がフラッシュバックされたのだろう。先ほどのように、今の記憶が一体どんな記憶だったのかはっきりと断言することはできない。けれども、同様にただ言えることが1つある。この身体を構成する細胞が──鼓動する心臓が告げている。
 今の映像はあたしがの一条の波すらない優しい水面のごとく慈しみ、大切にしたいと思った過去だ、と。
 気がつけばあたしは、その白衣の男──岡部倫太郎の胸に頭を寄せていた。

「ぬあっ!?」

「ちょっ! おまっ!?」

 素っ頓狂な声が重なりあって、長く続く廊下に消えていった。
 少しだけ間が空いて、あたしの脳裏に1つの名前が思い浮かんだ。

──岡部倫太郎。



114: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:57:25.50 ID:iuS/I4U4o

「貴様、よく見ればバイト戦士ではないか……すでに接触していたのか……」

「良かった……岡部倫太郎……また、君に会えて……」

 なぜかは分からない。しかし、頭に浮かんだその名を音にするとポロポロと涙がこぼれ彼の白衣にしみを作った。

「お、俺の名は岡部ではない!」

「えっ……?」

 もしかして記憶違いなんだろうか。さっきから胸が熱くなっていっぱいなのに。

「俺は鳳凰院凶真だ!」

「そこかよ……。っていうか鳳凰院でもないでしょうが!」

「うるさいクリスティーナ!」

「そ・の・名・で・呼・ぶ・な! あんた状況分かってんの!? はぁー……もう。ちょっと大人しくなったと思ったら本当に不死鳥のように蘇りやがって……」

 すん、すん、と鼻をならすあたしをよそに2人はお互いの名前の呼び方で揉めた。そんな2人の様子がとてもおかしくて──そしてとてもなつかしくて──
 あたしは思わず声を出して笑った。

「あっははは……」

「バイト戦士……?」

「阿万音さん……?」

 目尻に浮かんだ涙を拭いながら笑みを見せると2人は怪訝な顔をしてあたしを呼んだ。



115: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 13:59:14.90 ID:iuS/I4U4o

「なんでかは説明できないけれど、なんだかとっても胸が熱くなっていっぱいで……おかしいね、2人のことあんまり思い出せないはずなのに……」

「バイト戦士、貴様もしや……記憶がないのか……?」

「あはは、そうみたい……でも少しだけ覚えてる、エピソードとか具体的なものじゃないけどね……。不思議だね、君たち2人を見てると安心する」

「良かった、ひとまず私に対しての警戒も解いてくれたみたいね」

「まだ、完全に信用したわけじゃないけれど、君が悪いやつじゃないってのは、なんとなく察したよ」

「そ、良かった。岡部……じゃなかった、宮野についても名前だけは覚えてるようだし、不幸中の幸いね」

 牧瀬紅莉栖は岡部倫太郎のことを宮野と呼ぶ。なんでだろう。彼の名前は紛れも無く岡部倫太郎のはずなのに。やっぱりあたしの記憶違いなんだろうか。状況が状況なだけにはっきりと断言はできない。
 だからあたしは、その違和感の正体を探るためにその名前を聞き返すように尋ねた。

「宮野? でもこの人の名前は……」

「……とりあえず、ドアを閉めましょう。聞かれたくない話だし」

「うむ……」

 岡部倫太郎がそっとドアを閉めると牧瀬紅莉栖が一呼吸置いてあたしの目を見ながら言う。



116: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 14:01:03.37 ID:iuS/I4U4o

「今岡部は宮野って名前を使ってる」

「不本意だがな、仮の名だ」

「大きな声では言えないけれど、私も同様に偽名を使っているわ──いや、正しくは他人の戸籍を使わせてもらってる。岡部──じゃなくても宮野もね」

 改めて、2人が今使っている名前を教えられた。けれどやっぱりぱっとしない。それもそのはずだ、他人の戸籍を使っているってことは、他人の名前なんだから。

「今後はその名前で呼ぶこと。理由は改めて話すわ」

「でも呼び方変えるのあたしは気が進まないなあ。だって、あたしに残ってる数少ない記憶なんだもん」

 あたしにとって2人はやっぱり、岡部倫太郎と牧瀬紅莉栖だった。たとえどんな記憶であろうと、今の記憶は大事にしたい。

「お願い、分かってちょうだい。追手が来てるとまでは行かないけど、用心するに越したことはないの」

「うーん、まぁ、考えとく」

 ひとまず保留にしておく。2人に会って頭のなかがぐちゃぐちゃだ。考えがまとまる前に色んな考えが浮かんでいくる。どんな関係だったのか、とか。あたしの過去をどれくらい知っているのか、とか。
 聞きたくてうずうずしてるあたしをよそに、牧瀬紅莉栖がとんでもない命令をしてきた。



117: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 14:02:59.06 ID:iuS/I4U4o

「阿万音さん、あなたも名前を変えてもらうわ」

「ええー? なんでー!? やだよー!」

「駄々をこねるなバイト戦士ぃ、機関を欺くために必要なことなのだっ!」

「あんたは黙ってて」

「なっ、貴様助手の分際で!」

 岡部倫太郎の反抗を意に介さず牧瀬紅莉栖は続ける。

「大丈夫、あなたの場合、他人の戸籍を買うんじゃなくて、新しく作ってもらえる可能性があるから。ただまあ……阿万音鈴羽はもう使わないで、オーケイ?」

「えー……それは困るよー……」

 あたしは口をとがらせて精一杯抵抗の意を表する。牧瀬紅莉栖は眉間にしわを寄せて代替案を出した。

「あーもう……だったら橋田鈴羽、これでどう?」

 橋田鈴羽。違和感はあまりない。

「まぁ、それなら……」

 あたしはしぶしぶOKした。

「じゃあ、これからのことを話すわね」

「うん……」

 あたしはベッドに座った。少し離れたところで岡部倫太郎が腕を組んでこちらを見下ろしている。
 隣のベッドに座る牧瀬紅莉栖がこちらを見て語りかけた。



118: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 14:05:10.05 ID:iuS/I4U4o

「明日の回診が終わったタイミングで阿万音さんにはこの病院を抜けだしてもらう」

「え? なんで?」

「すでにタイムマシンの残骸は報道機関によって大々的に報じられてるわ。いずれあの場所の痕跡も調べられて、あなたに辿り着く。そしたら阿万音さんとの関係性も疑われるはず。そうなる前に行方を眩ませておいた方がいい……いや、すでになってるかもしれないわね。幸い、タイムマシンだと解析されてはいないようだけど」

 タイムマシン…………? 何を言ってるのかよくわからない。
 そんなものあるはずが……そんな考えを浮かべるとズキリと頭が痛んだ。

「機関が追手を寄越していた場合、尻尾を掴まれることになるだろうな。まあ、その時は非情にお前を切り捨てるつもりだがな、クックククク」

 ギロリ、と牧瀬紅莉栖が岡部倫太郎をにらみをきかせた。
 彼は一瞬怯えた表情を見せたかと思うとたまらない、といった様子で自らの右手首をつかんだ。

「ぐぅぅうぁああぁっ! ふ、封印がぁっ! 静まれ……俺の右手ぇっ! 俺は2人を傷つけたくは……ないんだ……!」

「はいはい、そんな役立たずの右腕は手術で切断してやろうか? 幸いここなら設備は整ってるわよ」

「…………」

 牧瀬紅莉栖がそう言うと途端に黙りこむ岡部倫太郎。
 そんな彼を見て1つため息をつき、牧瀬紅莉栖があたしを見て言った。



119: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 14:07:08.21 ID:iuS/I4U4o

「大丈夫、あなたを切り捨てるなんてしないから。でも万が一そうなってしまえば私達がタイムトラベルした意味も失われてしまう」

 タイムトラベルした……意味……? どうやらこの口ぶりだと、あたしたちはどこか別の時代からタイムトラベルしたように思える。でもやっぱり思い出せない。

「うぅ……頭が痛い……痛いよ……」

「だ、大丈夫か? バイト戦士!」

「恐らく無理に思い出そうとして脳に過度なストレスが掛かっているのよ……。大丈夫、いずれ戻る可能性は十分あるから、無理しなくていい」

「う、うん……」

「ともかく、明日病院を出て岡部……じゃなかった、宮野に付いて行って。私も数日後に落ち合うから」

「どこへ行くの……?」

「俺たちが直々に探し当てた根城があるのだ、そこに来てもらう」

「心配しないで、こいつとちゃんと部屋は分かれてるから」

「うん……」

「そこっ、変なコト言うなっ!」



120: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 14:09:20.84 ID:iuS/I4U4o

 その後、岡部倫太郎は翌日の作戦に向けて帰宅した。
「作戦も何も、外に出た阿万音さんを連れて行くだけだろ」と言って牧瀬紅莉栖は呆れていたけれども、あたしは内心ドキドキしていた。病院の皆──特にお世話をしてくれた椎名さんには申し訳なく思ったけど、記憶を失って以来、退屈な日々を過ごしていたあたしにとっては刺激的な計画だったんだ。
 事実その夜は中々寝付けなくて、何度もすぐ近くにいる牧瀬紅莉栖に話しかけようと思ったくらいだ。でも彼女は、現時点で関わりを持っていると思われるのはあまり良くない、と言って必要最低限のこと以外は喋りかけないように、とあたしに釘を差した。
 
 そして朝が来て、見慣れない看護師を後ろにつけた、いつもの医者が回診に来た。回診と言っても記憶の進展は見られない──ように装った──のですぐに終了し、医者たちは部屋を後にした。
 あたしは再び白いカーテンごしの牧瀬紅莉栖を一瞥すると、外出の許可をもらいにナースステーションへと向かう。
 許可は簡単に下りた。あたしが外の空気を吸いたい、と言うと快諾して外出届を書くようにと言われた。もっと映画みたいに差し脚抜き足忍び足、ってのを想像していたあたしにとっては拍子抜けだった。入院時の態度も大人しい方だったし、体調も全然問題なかったから当然なのかな。記憶を失った患者に対してはちょっとザルすぎるなぁ、とも思ったけど。記憶を無くしてるから、遠くに行く心配はない、とでも思ったんだろうか。
 玄関を出てすぐ、白衣に身を包んだ岡部倫太郎の姿を捕捉する。あたしは努めて平静を装い彼に近づいた。彼もあたしに気づいたようで、こちらを見ずに小さな声で言った。

「バイト戦士よ。首尾はどうだ」

 守備?

「攻撃のほうが得意だけど、全然問題ないよ!」

「その守備ではないわっ、っとそれはともかく、コレを着ろ。すぐにここを離れるぞ」



121: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 14:10:25.36 ID:iuS/I4U4o

 ビニール袋から1枚の上着が取り出され、手渡される。広げてみると袖が長いフード付きのパーカだった。さつまいもの皮のような鈍い紫色をしていて、腕と脇腹の辺りに黒く太いラインが走っている。触った感触はペラペラで、どう見ても安物。しかもお世辞にもセンスが感じられないひと品だった。
 けどまぁ、こんだけ地味だったら、目立たないか。
 そう思って袖を通してフードを深く被る。正直ぶかぶかだ。多分男性物だろう。着てみて首の付根辺りにチクリとした感触が走った。
 触ってみると、商品タグだった。
 こんくらい外しといてよ……。
 内心呆れつつもあたしのために買ってきてくれたんだなあ、って思うと少しうれしくなった。生地を痛めないよう片手で抑えつつもう一方の手で強引にタグピンごとタグを引き抜くと、足早に歩を進めた。少し前を歩く彼の元へ追い付くために。

「む……なんだその顔は」

「えへへ、なんでもない」



126: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:09:32.19 ID:iuS/I4U4o

 電車をいくつか乗り継いで目的の地へと向かう。少し前を歩く彼にどこへ向かっているのか尋ねると、「西だ」としか答えてくれなかった。詳しく話してしまうと機関ってののスパイに聞かれる恐れがあるんだって。
 辺りをきょろきょろしながら警戒して歩く彼とは逆に、あたしは少しだけ心が踊っていた。
 ふと、思いがけず頭の中に言葉が思い浮かんだ。

──なんかさ、駆け落ちするみたいだね。

 そんな思いもよらない言葉が、余計にあたしの胸を叩くように弾く。顔が熱くなるのが分かった。それがバレるのが怖くて少しうつむき加減に平然を装う。
 どうしちゃったんだろう。まるで自分が自分じゃないみたいだ。
 と思いつつも冷静に考えると今のあたしは記憶を失ってるんだからそれも当然か、って納得した。
 そうやって1人でもやもやしたりすっきりしたりを繰り返していると、やがて狭い路地で立ち止まった彼から告げられる。
 彼はかろうじて車が2台通れるくらいの幅の道路に立ったまま顔を上げて言った。

「この場所こそ、我々が潜入している拠点だ」

 自信満々の言葉に対してその建物はオンボロな2階建ての集合住宅だった。
 道路に面しているせいか、白い壁には至る部分にドス黒いシミのようなものがかすれたように広がっていたし、階段の手すりなんかは塗装が剥げかけて、そこからサビが顔を覗かせていた。いかにも、昭和の激安ボロアパート、って言葉が当てはまった。



127: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:11:52.33 ID:iuS/I4U4o

「無論、仮の……だがな」

 顔に出ていたのだろうか。彼はそう付け加えた。
 まあでも、無いよりマシだよね。そう自分に言い聞かせて彼の後ろをついていった。

「部屋は2つ用意してある。お前はクリスティーナと同室を使うがいい。鍵はヤツから預かってある」

 オンボロアパートとは言え二部屋も使ってるなんて豪華だなって思ったけど、あの牧瀬紅莉栖と岡部倫太郎が同室で暮らしてるのもいまいち想像できない。

「では俺は自分の部屋に行くぞ。困ったことがあればいつでも訪ねるがいい、合言葉は──」

「ねえ、岡部倫太郎。君はあたしの知らないあたしを知っているんでしょ?」

 部屋に入ろうとする彼の言葉を遮って病院から抜け出す以前から聞きたかったことを口にする。
 少しだけ間が空いて答えが返ってくる。

「まあ、そうなのだろうな」

 煮え切らない言葉。もしかしてよく知らないんだろうか。

「ねえ君の部屋に入っていい? 色々教えてよ」

「俺に答えられることならば答えてやろう」

 あたしの顔は見ずにぼそりと言って部屋の奥へと消えていった。先ほどまでの態度の違いに戸惑いつつも後をついていく。
 室内に入るとすぐに、畳が敷き詰められた和室と正面に据えられた小さな窓が飛び込んできた。構造上ベランダみたいなのはないみたいだ。
 冷蔵庫から2本の細長い缶が取り出され、そのうちの1本が差し出される。
 あたしに缶を手渡すと彼は窓の下の壁にどかっともたれかかり、プルタブをこじ開けた。プシュッとさわやかな炭酸の音と香りが部屋に広がり、喉の渇きが喚起される。目の前をだらしなく座る彼は缶を一気に煽ると、大きな息をついた。



128: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:13:37.85 ID:iuS/I4U4o

「この時代にもドクペがあって助かった。しかしドクペはやはりペットボトルに限る」

 文句を言いながらも再び缶に口を付け喉を鳴らす岡部倫太郎。その姿に感化されてあたしも勢い良く缶の中身を口に含んだ。すぐに爽やかなフレーバーが鼻の奥を刺激し、チリチリとした感触が喉を洗った。

「かー! 美味しいねー」

「うむ、中々話が分かるなバイト戦士よ」

 想像以上に喉の渇きに飢えていたんだろう。あたしも再び缶をぐっと煽ると中身はすぐに底をついた。

「いい飲みっぷりだ。貴様とも同じドクターペッパリアンとして語り明かせるだろう」

「喉乾いてるからね、今はなんでも美味しいや!」

「そ、そうか……」

 残念そうな顔をする岡部倫太郎。

「早速だけどさ、本題に入らせてもらう」

「…………」

「あたしや君は、タイムトラベラーなの?」

「貴様の質問に答える前に一言告げねばなるまい」

「え?」

「バイト戦士よ、お前のようにほぼ全ての記憶を失っているわけではないが……。お前同様、この俺も記憶を失っている。助手が言うにはほんの一部らしいがな」

「そ、そうなの!?」



129: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:14:58.40 ID:iuS/I4U4o

「ああ、実感としては乏しいがそれだけは確実に言える。俺には2010年8月13日までの記憶は存在するのだ……。タイムリープマシンが完成し、開発評議会を行っている、その時点までの記憶がな。その事実を前提にすれば、お前の質問にはこう答えることが出来る。お前や俺は2010年の秋葉に存在した。にも関わらず現在の西暦は──」

 ごくり、と喉が鳴った。呼吸が荒くなる。意識の外から岡部倫太郎の声が届いているが、薄い壁を隔てているように上手く聞き取ることができない。

「──1975年」

 まさか──

「つまり俺とお前──いや、紅莉栖もか」

 そんな──

「俺たちは2010年から跳んできたタイムトラベラーだ」

 本当に──?

 乱れた呼吸のせいで上手く肺に呼吸を取り込むことができない。そんなあたしの様子に気づいたのか、岡部倫太郎が心配の言葉をかけながら近くによってくる。

「だい……じょうぶ、少し頭痛がしただけ、だから……」

「少し横になるがいい。俺だってヤツから聞いた時は卒倒しそうになった」

「うん……そうする」



130: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:17:23.51 ID:iuS/I4U4o

 家具も家電もほとんどない、ガランとした部屋で布団に包まれ、天井を見つめる。
 あの後、岡部倫太郎は自分の知っている限りのあたしの情報を話してくれた。
 2010年の秋葉で、あたしは彼の設立した未来ガジェット研究所っていう組織に身を寄せていたこと。
 所属研究員──ラボメンは8人いて、あたしはその最後のナンバーをもらっていたこと。
 ラボの階下にはブラウン管工房っていう時代遅れのブラウン管テレビ専門店があって、あたしはそこでバイトしていたこと。
 ミスターブラウンっていう厳ついオヤジと、それに似つかわしくない可愛らしい少女と仲良くしてたこと。
 秋葉には、父さんを捜索しにやってきたこと。
 結局捜索は失敗して、秋葉を去ろうとしていたところを強引な手段を用いてあたしを捕獲してラボに連行したことなどなど。
 あたしは彼の話を黙って聞いて、遠い過去──いや、未来か──に思いを馳せていた。ぼんやりとした記憶の中に、それぞれの人物の輪郭が浮かぶ。けれども、靄がかかったようにあたしの視界を塞ぎ、実体の証明を許さない。取り戻したいのに、手が届かない。
 彼は自分自身についても話してくれた。
 タイムトラベルした記憶はないこと。
 タイムリープマシンっていう、記憶を過去の自分に飛ばす機械を作ってそれを祝うパーティをしたこと。
 そしたらいつの間にか1975年へ来ていたこと。
 何を言っているのかわからないとは思うけど催眠術だとか、超スピードだとか、そんなチャチなもんじゃ断じて無いってこと。
 記憶を取り戻せずに不安なのは一緒なのに、あたしの心情を察したのか、元気づけようと一生懸命大げさな振る舞いで語る彼。そんな姿があたしの胸をとても暖かくした。
 同時に、また顔が赤くなるのを感じて、思わず布団で頬を覆ってしまう。



131: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:19:31.65 ID:iuS/I4U4o

「む、なんだ。眠くなったのか?」

「ちょ、ちょっとね!」

「く、貴様っ……! この狂気のマッドサイエンティストの論説を聞いて眠気を催すとは──というか、赤くないか? 顔……」

「こっ、これはっ──その……ちょっと、また頭が痛くなって……さ」

「む……そうか……風邪だろうか……それとも、記憶障害による頭痛が原因か……」

「ね、このままここで寝ていい?」

「え?」

「だめ……かな?」

「い、いや、ダメではないが……そうだな。調子も良くないようだし、紅莉栖が戻るのもいつになるかわからんしな……ゆっくりと休むがいい」

「サンキュ……」

「い、言っとくが何も手出しはせんからな!」

「? あっははは……大丈夫、心配してないよ」

 自分ではわからなかったけど、思いの外緊張していて疲れていたのだろうか。
 途端に頭がぼんやりしてきて意外にもすぐ眠りについた。



132: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:22:13.80 ID:iuS/I4U4o

 一点の曇りもない空の真ん中で、あたしは湖に揺蕩う小舟のように浮かんでいた。見ていて惚れ惚れするような景色なはずなのにあたしはすぐに嫌な予感を胸中に抱いた。
 そしてあたりを見回すと案の定、大きい背中をこちらに向けた父さんと長い髪をなびかせて佇む母さん。
 また、あの夢だ。
 もう何度見たことだろう。目が覚めるとどんな夢だったか覚えていないのに、夢のなかでは何度も見たことを覚えている。失われている記憶に関係があるのだろうか。
 野良猫に忍び寄る時のようにそっと近づく。2人が消えてしまわないように。
 けれどもそれは叶わなかった。あたしが近づくと、いつものように2人は煙のようにふわりと身体を雲散させ、やがて空と同化してしまう。
 あたしは胸の中に鋭い痛みを感じて目を背ける。やがて目を開くと今度は白衣を来た2人。
 岡部倫太郎と牧瀬紅莉栖。
 その2人も一緒だ。
 雲一つない青空にゆったりと佇んでいて、確かにそこにいるはずなのに、あたしが近づくと一瞬で消え去ってしまう。
 あたしはもうどうにかなりそうだった。
 そんな時決まって彼女はやってくる。彼女の温かい手に撫でられて。温かい腕に抱きしめられて。
 そして涙を流しながら、そこで記憶は途切れる。



133: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:23:06.85 ID:iuS/I4U4o

 気づけば岡部倫太郎が慌てた様子であたしの肩を揺らしていた。

「鈴羽! 大丈夫か!」

「あ、あれ……? 岡部倫太郎? どしたの、そんな血相変えて……」

「ど、どうしたもこうしたもないだろ! お前が眠ってる最中うなされ出したから──」

 ふと目尻に大粒の涙がたまっているのに気づき、それを人差し指で拭った。
 窓の外を見やると散在した雲が赤く染められ、おびただしい数の烏が群れをなして鳴き続けていた。

「夢をね」

「は?」

「夢を見ていたんだ」

「なに? 夢?」

「ねえ岡部倫太郎」

 どんな夢だったか、またもや思い出すことはできなかった。
 できなかったけど、なんとなく分かる。こんな夢を何度も見るなんてきっと──

「あたしって、薄弱な人間だったのかな……」

 そんな想いを口にすると拭ったはずの目尻から大粒の涙がこぼれ、布団に染みていった。



134: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:26:55.56 ID:iuS/I4U4o

 3日後、検査を終え病院から牧瀬紅莉栖がこの部屋へと帰還した。
 といっても検査自体は仮病によるものだから問題なく終わったのだけど、同室の患者がいなくなったことによる事情聴取がしつこくて中々戻れなかった、と本人は言っていた。
 牧瀬紅莉栖からもあたしに関する記憶やラボとやらに関する記憶を聞いておこうと思って尋ねたけれど、これといって気になる発見はなかった。
 岡部倫太郎とは違い彼女からは、あたしは2036年から跳躍してきて、2010で年ジョン・タイターと名乗り、とある使命を果たそうとしていたらしいという話を聞けたのだけど、そのあたりを思い出そうとするとどうしても頭が割れそうに痛くなってとてもじゃないけど、彼女の話を聞き続けることはできなかった。彼女はそんなあたしに対して怒るでも飽きれるでもなく、今は無理して思い出さなくてもいいと言ってくれた。いずれ全部思い出すかもしれない、とも言ってくれた。
 改めて彼女の存在をありがたいと感じる。初めて──今のあたしの認識で──会った時の警戒を謝罪すると、その件に対しても許してくれた。本当に懐の広い女性だなあと思った。
 でも今後生活するに当たって1つ条件を出されてしまった。
 それはお金を稼ぐこと。
 今のあたし達ははっきり言って資金難らしい。あたしの戸籍を新しく作った時にほとんど使い切ってしまったみたいだ。
 タイムトラベルの直後、牧瀬紅莉栖はタイムマシンから脱出してあたしを病院に送り届けた。その後、タイムマシンを構成する希少価値の高い部品を解体して資金源にしようと目論んでいたんだけど、予想以上に損壊が激しかった上、人目に付く可能性もあったから、最低限の部品を換金した後はタイムマシンに近づけなかったらしい。その最小限の部品でもかなりの値段がついたらしくて、戸籍を購入した後も1年くらいは普通に暮らしていけるだけのお金は入手できたみたいだった。
 けれど、彼女にはある目的があってお金がもっと要るといっていた。それも多額のお金で、できるだけ早急に。
 牧瀬紅莉栖や岡部倫太郎も金策はするっていってたけど、事態は急を要するらしく、資金稼ぎは人数がいたほうがいい、という話だった。自分に何が出来るか分からない以上断ることもできないし、あたしも何もせずにはいられなかったからいいんだけどね。
 結局あたしは新しく手に入れた”橋田鈴羽”の戸籍を元にバイトを始めることにした。
 最初は岡部倫太郎が言っていた機関の追跡ってのが来るんじゃないかと心配していたけれど、杞憂だったみたい。
 ひとつきふたつきと時間はすぐに流れて。
 あたしはこの時代を謳歌していた。



135: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:28:50.87 ID:iuS/I4U4o

「はいはーい、唐揚げ弁当安いよ~。美味しいよ~。そこのおっちゃんおひとつどーお?」

 あたしは拠点の付近に立地していた小ぢんまりとした弁当屋でバイトをしていた。夕食時の夕暮れを往く人たちに自慢の弁当を勧める。「じゃあ1つもらおうか」というお客さん相手に笑顔で弁当を手渡した。

「あいよ、一個170円ね。はい、サンキュー! またお待ちしてまーす」

 軽快に金銭を受け取りお礼を言う。
 このバイトを初めてはや3ヶ月目。初めは料理なんて性に合ってないかな、とは思ったものの、自分にできることが分からないし、2人はなんだか忙しそうにしていたしで、結局近場ということもあり余り物の惣菜ももらえるこのお店で仕事をしてみることにした。
 お店の人たちもいい人だし、何より自分の料理の腕が上がっていくのが嬉しい、そう感じてあたしはやりがいってのも得ていた。もちろん、バイト代はそんなに大したものじゃなかったけど。

「じゃ、今日は上がりまーす、おつかれっしたー」

 そう言って大量の惣菜を手に帰路につく。
 帰宅すると牧瀬紅莉栖が電話を片手にペンを握っていた。分厚い本や、書類の数々に囲まれた彼女はあたしの姿に気がつくと、電話の相手に「ではよろしくお願いします」とだけ伝え電話を切った。

「うーっす牧瀬紅莉栖」

「ああ、おかえりなさい」

「また株? 多忙だね~」

「まあね……でも元手が少ないから思ったような成果が出ない」

 このところ牧瀬紅莉栖は株取引中心の生活をしていた。株式の動向を把握するために何度も証券会社に足を運んでいたし、担当者からの連絡がいつ入るかわかったもんじゃないから、それ以外ではほとんどと言っていいほど外出しなかった。

「パソコンもネットもないのって中々不便よね……はぁ……」



136: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:30:20.02 ID:iuS/I4U4o

 牧瀬紅莉栖が大きくため息をついた。中々フラストレーションがたまっているように思える。

「くっ、専門分野じゃないとはいえ、大きなアドバンテージを持っていながらこの状況……株、奥が深いわね……」

 ぶつぶつと独り言。最近多い。

「大丈夫大丈夫、まだあわてるような時間じゃない……」

 彼女はしきりに何かを自分に言い聞かせている。極度の過労状態による幻覚症状でも起こしているんだろうか。

「お疲れだね~。そんな時にははい! これ」

 言ってバイト先でもらったお弁当を高らかに掲げる。

「ありがと、そこ置いといて。後で食べるから」

 むー。つれないなあ。

「今日はなんと栗だよ~、栗ご飯だよ~。1日中部屋に引きこもっててお腹空いたでしょ。美味しいよきっと!」

 そう言って牧瀬紅莉栖の食指を動かそうとしてみる。もう秋だからきっと旬で美味しいはずだ。

「自宅警備なんかしとらんわ!」

「えっ?」

「えっ?」

 予想に反した返答で思わず困惑する。1日中家にいるのは実のところ追手から自宅を守るための警備っていう役割も兼ねてるのかな? いやでも、自分で自宅警備なんてしてないって言ってるし、よく理解できない。
 一方牧瀬紅莉栖はというと、彼女自身も自分の発言に驚きを隠せない様子。再び大きくため息を付いた牧瀬紅莉栖は独り言を言う。

「ああぁ……自分でも悲しくなる。禁断症状かしら」

 再び1人呟く。ぶつぶつと。
 うーん、何を言ってるのかよくわかんないや。
 彼女はいつも毅然とした態度で凛々しい顔つきをしている割にこういうところがある。隙を見せまいと気を張っているつもりなんだろうけど、結構容易く油断する。
 かと思うと、年齢の割に包容力のある温かみも有したりしていた。
 あれはいつの話だっただろうか。この部屋に一緒に暮らしだして数日経ってからの出来事だ。
 あたしは3ヶ月ほど前のことをついこの間の事のように思い出していた。



137: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:32:54.78 ID:iuS/I4U4o

 狭苦しい浴室で肌を打つシャワーを止めた。あたしは曇った鏡を手でこすり、中に映しだされたもう1人の自分に釘付けになる。肩にかかるくらいの髪の毛は緩やかな波を打ってたくさんの水粒を絡ませながら水を滴らせている。自分の顔をまじまじと見つめてみる。年齢は18歳だという。
 ふと、鏡から視線を移して自らの裸体に向ける。
 肌から滑り落ちるいくつもの雫は浴槽を打ち鳴らしている。そっと腹部に浮かんだ水滴を指でなぞり、滑らせる。行き着いた先は──

──傷跡。

 遠目からでは決して目立ちはしないものの、無数の古傷があたしの体に跋扈していた。胸部、上腹部、大腿部。
 幸い衣服や下着で隠れるような箇所が多かったが、その傷跡は確実にあたしの心にも刻まれていた。
 いつ付いたのかもわからない傷跡に触れ、思いを馳せる。
 18歳の女の肌ははたしてこんなに薄汚れているものなんだろうか。判断はつかない。牧瀬紅莉栖にそのことを聞く勇気もない。聞いてしまえばきっと彼女は悩むかもしれない。過去のあたしの生き様について伝えるべきなのか、と。
 鼻の奥がツンとして、思わず泣きじゃくりたい気持ちが浮かんでくる。顔を歪ませて手のひらを口元に当ててそっとしのび泣く。
 思いっきり泣き叫びたいけど、そうしてしまったらきっと彼女は心配するだろう。

 どれくらいそうしていただろう。気づけば半透明の薄いドアを隔ててかすかに人の気配がした。



138: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:35:28.25 ID:iuS/I4U4o

「鈴羽……? どうしたの?」

 牧瀬紅莉栖だった。あたしが長いことシャワーを浴びてるもんだから不思議に思って声をかけに来たのかもしれない。

「なっ、なんでも……ないよ……」

 無用な心配をかけまいと咄嗟に否定するものの、声が震えてしまっていた。そんな機微を感じ取ったのか、彼女は──

「なんでもない訳ないじゃない。……泣いてるの?」

「泣いてなんて、ない。ないから……」

 できることなら彼女に弱みは見せたくなかった。そうしてしまったら自分が脆弱な人間だということを認めてしまうような気がしたから。強くなければいけないのに、弱い自分を受け入れてしまうような気がしたから。

「鈴羽、開けるわよ?」

 そんなあたしの気持ちに反して、扉がゆっくりと開かれる。今彼女と対峙してしまえば崩れてしまった泣き顔と、この醜い傷跡を見られてしまう。それはなんとしても避けたかった。

「だめ──」

 あたしは反抗の意を示すため、震える声を精一杯張り上げながら叫んだ。けれどすでに遅かった。
 扉は完全に開き、牧瀬紅莉栖の瞳があたしをとらえた瞬間、彼女の目は大きく開かれた。

「鈴羽……あんた……」

 視線があたしの顔を、身体を、傷跡をなぞるように滑っていく。
 隠そうと覆った腕や手の隙間から弱さがにじみ出ていた。あたしは声を出すことができなかった。ただ震えていることしかできなかった。今はどんな言葉を聞きたくなかった。どんな慰めを言われようと、この傷が消えることはないから。
 だけど、そんなあたしに対して牧瀬紅莉栖はただ──

「ほら、早く拭きなさい。風邪、引くわよ」



139: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:36:54.11 ID:iuS/I4U4o

 そう言ってバスタオルを渡してくる。数秒の間が空いてそのタオルを受け取るとあたしはたまらず尋ねていた。

「なにも……言わないの……?」

 そんな問に対して彼女は特に同情するでもなく、悪びれる様子でもなく。

「なにか言ってほしいの?」

「…………」

「慰めの言葉でも求めてるなら言っとくけど、期待はずれよ」

 タオルを渡すとすぐに後ろを向いて淡々と言い放つ。あたしはその背中に向かって少しだけもやっとした気持ちを抱いた。だから口をとがらせて否定する。

「べ、別に……求めてなんか……」 

「同情なんて以ての外。そんなことしたって、なんにも変わらないもの」

「…………」

 冷たくそう決めつける彼女に対して、あたしは少しだけ不信感を抱いてた。
 だけどそんな気持ちを少しでも抱いた自分をすぐに省みることになる。



140: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:39:12.53 ID:iuS/I4U4o

「でもね」

 後ろを向いた彼女は振り向いて横顔を見せると、短く。だけど柔らかい口調で言う。

「少なくとも、あたしの記憶に残っているあなたはそんな傷跡、気にもとめず前を向いてるように思えた」

「え……?」

「ほんの2週間くらいの付き合いだったけど、それは感じ取れた。別に親しくしていたわけじゃないから言い切ることはできないけど……というか、むしろ憎むような目で見られてたわけだが……ってあーもう、そうじゃなくて……」

 そう言い淀んでまた後ろを向いてしまった。

「と、ともかく! その傷がなんであれ、どんな経緯でついたのであれ、あなたはそんなこと一切気にしてなかった! そ、それに傷跡だって自己を形成する上で重要な要素になりえるからこそ……!」

 ふと耳が真っ赤になっているのが目に映った。
 ああ、そうか。
 これは彼女なりにあたしのことを元気づけようとしてくれるんだ。
 きっと不器用、なんだろう。でも今はそのぎこちない言葉がありがたい。それは単なる慰めや同情の言葉なんかより、何倍も勇気づけてくれた。

「……ほら、さっさと上がって。私もシャワー浴びたいんだから」

 そう言って足早に洗面所から出て行ってしまった。

「ふふ、サンキュ……」

 あたしは彼女に言うでもなく、そっと呟いた。



141: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:41:25.62 ID:iuS/I4U4o

 
 回想の世界から帰還し、畳の上で書類に囲まれながら頭を抱える牧瀬紅莉栖の姿を見て、あたしは心のなかで再びお礼を言った。

──サンキュ。

 その後、岡部倫太郎も帰宅し、あたしたち3人はもらってきた弁当で夕食を共にした。
 彼も金策に走っているようだが、牧瀬紅莉栖同様──いや、恐らくそれよりも──苦労しているみたいだった。どうやら最初のうちは、1975年から2010年までに流行するコンテンツ事業を先んじて行わせてもらおうって計画だったみたい。でも牧瀬紅莉栖から「あんたの発明によって歴史が大きく変わったらどうすんの」と責め立てられ岡部倫太郎も渋々諦めたようだ。いわゆるタイムパラドックスの問題を抜きにして考えることはできないらしい。
 証券取引にしてもそうだという話をしていた。以前宝くじを当てようとして失敗したという情報を元に考えると、あまりに大きな金額が動くとなると失敗する可能性がある、2人はそう結論づけていた。そういう意味では実際の株取引と似たようなリスクがあるみたいで、牧瀬紅莉栖も思うように資金を増やせないでいるみたい。かと言って他にお金を稼ぐ手段があるわけじゃないから彼らとしても相当頭を痛めているようだ。
 それでも、岡部倫太郎は牧瀬紅莉栖よりかは楽観的な印象を持っていた。
 目標は2万ドル。今のレートだと、600万円ってとこらしい。目的はIBN5100っていうパソコンを手に入れることらしい。何のために使用するのか聞いてみたけど、途中、またあたしの頭痛が発生して話は中断してしまった。世界を変えるためっていうのは分かったけど……。
 そんなパソコン1つで世界を変えられるのかなあっていう当然の疑問は岡部倫太郎も同様に持っているみたいだった。
 とにかく、この話はまた後々っていう形で終了してしまった。
 今はひとまず購入資金である600万を貯めること。そしてそのIBN5100を2010年まで大切に保管し続けること。
 それがタイムトラベルしてまでこの時代にきた理由らしい。



142: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/04(日) 18:43:12.86 ID:iuS/I4U4o

 布団の中で600万という数字を思い浮かべる。
 今のあたしの時給が400円だから……。
 えーっと…………。

「…………」

 単純計算で1万5000時間働かなきゃいけないのかな。ということは……。1日中、年中無休で働いて約2年。
 うげー、死んじゃう死んじゃう。
 でもまぁ、2人もそれぞれ頑張ってるし、そんなに難しくはないのかな? そんな急がなくても大丈夫だよね……。
 そう頭のなかで呟き、心を落ち着かせた。
 あたしは今のこの穏やかな生活が好きだ。岡部倫太郎がいて、牧瀬紅莉栖がいて。おいしい食事と、あたたかい布団があって。
 2人はよく口喧嘩するけれど、それも見ていて安心できる。
 あたしは今までにない高揚感と充足感に満ち溢れていた。それが本当に今まで味わったことのないようなものだったのか、記憶を失っているせいだったのかは判断できなかったけど。
 色々無くしてしまったみたいだけれど、この時代にタイムトラベルしてきて良かったんじゃないかと、思う。
 ふと、病院でお世話になった看護師さんの顔が頭のなかに現れた。
 何も言わずに病院を脱走するような真似して、彼女は今頃怒っているだろうか。それとも心配してくれてるだろうか。
 そんな考えに囚われていたらなんだか申し訳ない気持ちに襲われた。
 あたしは隣で寝息を立てる牧瀬紅莉栖の背中を一瞥すると、病院に見に行くことを決心して眠りについた。



151: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 12:55:49.15 ID:OOOkqekxo

 謝罪するとか、会って何かを伝えるとか、そんなことは決まっていなかった。ただ一目見て、椎名さんが元気にしているかどうか、確かめたい気持ちがあっただけだ。
 近辺はもしかしたらあたしを捜索している人が居るかもしれないという理由でマスクを買った。それに病院という施設上、マスクなら病人として紛れ込めるかな、とも思ったからだ。

 岡部倫太郎との逃走用ルートとは逆の道を往く。
 途中まではしっかり覚えていたんだけど、どうも記憶が曖昧だった。病院の名前はわかるから、最悪人に聞きながらでもたどり着けるとは思うけど。
 思い起こされるのは高鳴る心臓の鼓動だとか、頬に篭もる熱だとか、電車の座席の感触なんか。一体あたしはどうしてしまったんだろう。おかげで病院に辿り着くまで結構な時間を要した。
 秋の日はつるべ落としとはよく言ったもので、すでに日も傾き始めてもいる。

「さて、と」

 病院の玄関手前で予め用意しておいたマスクの取り出そうとポケットをまさぐる。これで変装はばっちりだ。意気込んで一歩を踏み出そうとした時にふと思った。
 今更ながら、目的の人物を捕捉できる可能性について考えていなかったことに気づく。よくよく考えれてみればその人は閉鎖病棟にいるんだから、正直言って見つけるのは難しいかも。勤務に入っているかどうかすら分からない。



152: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 12:56:39.93 ID:OOOkqekxo

「うーん、どうしたものかなぁ……」

 目を閉じて打開策の閃きに集中する。
 さすがに患者を装うだけで院内を長時間うろうろはできないよなー。岡部倫太郎の白衣でも借りてくればよかったかな。そうすれば変装して──
 ってなことを考え込んでいたら突如、誰かがあたしにぶつかってきて衝撃が走った。

「あいてっ!」

「きゃあ!」

 あたたたた、鼻が痛い……。
 思わず鼻をおさえて目をぎゅっとつむる。その誰かはあたしより少しだけ小さかったから、その誰かの頭がピンポイントにあたしの鼻に当たってしまったのだ。

「ご、ごめんなさい……」

「い、いや、こちらこそこんなとこで止まっててごめんなさ──」

 声から察するに、ぶつかった誰かは女性だった。向こうが謝ってきたのでこちらも謝罪をしようと目を開けると──

「す──」

「げっ──」

「──スズちゃん!」

 その相手はあたしが目を覚ましてからお世話になった椎名さんその人だった。



153: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 12:57:57.28 ID:OOOkqekxo

「あっちゃあ……」

 一目見て帰るつもりがまさかの鉢合わせ。どうやら勤務明けらしく、ナース服ではなく私服だった。
 いやぁ、タイミングが悪いもんだねえ……。
 どうしたもんかと愛想笑いを浮かべていたら怒涛の質問攻めにあった。

 どこに行ってたの!?
 体は平気!?
 記憶が戻ったの!?
 今どこに住んでるの!?
 ちゃんとご飯食べてるの!?

 まるで子を心配する親。

「も、もう子供扱いしないでよ、大丈夫だから!」

 これでもかというほど接近しつつ矢継ぎ早にまくし立てる彼女をなだめながら、あたしはこの状況をどう切り抜けようか考えていた。けれど、逃げようにも両手をがっしりと掴まれていて動けない。それを強引に振りほどいて逃走するほどの度胸は今のあたしは持ち合わせていなかった。
 これはもう逃げられない。そう観念してあたしは目の前の彼女に話そうと心に決めた。牧瀬紅莉栖や岡部倫太郎のことを裏切るような形になってしまうけど、許して欲しい。頭のなかでそう念じた。

「スズちゃん、本当に平気なの? 危ないことしてない?」

「え?」



154: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:00:28.59 ID:OOOkqekxo

 あたしを見つめる瞳には本当に憂慮の色が宿っている。椎名さんにとってあたしはたかだか数週間お世話をした患者なのに一体何がここまでさせるのだろう。
 ほんと、母さんみたいだ。
 あたしは今の状況をかいつまんで話した。あくまで岡部倫太郎、牧瀬紅莉栖のことは隠して、だ。
 都心を離れたゆったりとした郊外で暮らしていること。
 安アパートの2階を間借りしていること。
 弁当屋でバイトして生計を立てていること。
 そこで賄いと廃棄をもらってなんとか食べていけてること。
 病院を脱走した理由について、椎名さんは聞いてこなかった。ただただあたしの話を黙って聞いていた。あたしにしてみればこの数ヶ月結構楽しくやれてるもんだから、話していて楽しかったんだ。そんなあたしの様子を見て椎名さんもニコニコしながら聞いてくれた。もっとも、2人のことを秘密にしながら話すのは結構大変だったけど。

「良かった。スズちゃんが楽しくやれてるみたいで」

「あっはは、ま、なんとかねー」

「そうだ」

 手を合せる椎名さん。屈託のない笑顔が眩しい。

「ほら、前に退院したらお料理ごちそうしてあげるって言ってたでしょ? 良かったらこれからどう?」

「えっ、いいの!?」

「もちろん~」

「じゃ、じゃあ──」

 とは言ったものの、バイト以外で遅くなる時は必ず連絡するよう牧瀬紅莉栖に言いつけられているんだった。なんとか隙を見て電話できればいいんだけど、不審がられそうな気もする。
 そんな調子であたしまごついていると──

「せっかくだから、スズちゃんのお住まいとかアルバイト先、見てみたいな~」

 という提案。



155: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:05:33.93 ID:OOOkqekxo

「え? あ、あたしの? うーん……」

 いい人とはいえ、いきなり人を連れてきたら、牧瀬紅莉栖や岡部倫太郎がなんて言うだろうか。

「だめ、かな? 急すぎるよね」

 しゅんとする椎名さん。その小さくなった姿に罪悪感を抱く。これが作戦だとしたらとんでもない悪女かもしれない。けど彼女の場合素で残念がっているんだろう。それだけに余計申し訳ない気持ちが浮かんできて、ついあたしは言いよどむ。

「だめじゃないけど……」

 うーん……。1人暮らしって思い込んでるだろうし、ここで断るのも変だなあ。椎名さんだったら、2人に会わせても平気な気がするし。なんといっても人畜無害オーラが半端ない。むしろ美味しいご飯を食べてもらって牧瀬紅莉栖の眉間の皺でも伸ばしてもらおう、なんちゃってね。

「じゃ、お言葉に甘えてお願いしようかな」

「はい、決まりね~」

 アパートまでの道のりでも色々話をした。明日になれば忘れてしまうような世間話だったがそれも心地いい。結局、記憶のことや脱走について聞かれることはなかった。
 あたしは2人のことを話すかどうか迷っていた。が、アパートに招待する以上顔を合わせないわけにも行かないと思い、打ち明けた。3人がタイムトラベラーだということはさすがに伏せて、バイト先で出会った友達ということにした。すると椎名さんはあたしに友達ができたということを知って喜んでいた。
 部屋の前まで到着して扉を前にする。空を見上げると日は完全に暮れていて、外壁に備えられた蛍光灯が不規則に明滅しながらあたしたちを照らしていた。少しだけ椎名さんに待ってもらうよう頼む。すると彼女は快く承諾してくれた。カチャリ、と静かに扉を開けると電話の近くに腰を下ろす牧瀬紅莉栖が目に入った。



156: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:07:01.58 ID:OOOkqekxo

「……ういーっす、ただいまー」

「鈴羽! 遅かったじゃない、心配したのよ!」

 そういって駆け寄ってくる。すると死角から岡部倫太郎も顔を出し、ずかずかと近づいてきて声を張り上げた。

「ブァァイト戦士よ! 遅かったではないくぁ、どこに行っていた!」

 どうやら遅くまで外出していたあたしを心配して相談していたようだ。

「機関の連中の手にかかったのかと──」

 と彼が言いかけたところで、2人の目が大きく見開かれた。

──え?

 あたしの心臓が一瞬どくんと脈打ったかと思うと──

「…………り……?」

 と2人して小さな声で囁いた──というより、音が自然に漏れた感じだった。2人の視線はあたしではなく、あたしの後ろに注がれている。
 まさか、と思い振り返ると──
 そこには椎名さんの姿があった。



157: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:08:55.82 ID:OOOkqekxo

 2人の大声に反応して気になってしまったのか、扉の先に姿を見せて、戸惑ったように口ごもる椎名さん。
 あっちゃー、説明する前に鉢合わせちゃったかあ。こうなることは容易に予想できたのかもしれないけど、迂闊だった。

「ああっと、こちら、隣に住んでる岡部倫太郎と牧瀬紅莉栖、帰りが遅いあたしを心配して見に来たみたい!」

 あたしは早口で説明した。いつもならここで”それは仮の名だ”とかいうのに今回は静かなものだった。おかしいな、と思いつつも今度は2人の方を向いて──

「この人は病院であたしのお世話をしてくれた看護師の椎名さん」

 2人はあたしの言葉にはっとして息を飲み込んだ。耳を疑っている様子だ。病院の関係者を連れてきてしまったから困惑しているんだろうか。

「椎名……?」

 そこで岡部倫太郎が口を開く。まだ2人の目には信じられないという気持ちが浮かんでいたように思える。
 どうしよう怒ってるのかな。
 ここまで恐らく数秒間しかなかったはずだけど、なぜか空気が凍ったような感じで、数秒よりも随分長く感じられた。
 いや──
 正確には凍ったというより、時が止まったような感じ。



158: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:11:41.59 ID:OOOkqekxo

「突然お邪魔してすみません」

 椎名さんの穏やかな声で時間が再び流れだした。そして丁寧にお辞儀をして自己紹介した。彼女の名前を聞くと岡部倫太郎と牧瀬紅莉栖は2人して同時に顔を見合わせた。そして考えこむ。

「あのう、わたし……お邪魔でしたか?」

 椎名さんが申し訳なさそうに尋ねる。すると牧瀬紅莉栖が慌てて弁明した。

「い、いえいえいえ! 突然知り合いを連れてきたものだから少し驚いちゃって……。な、なにしろこの娘は家とアルバイト先を往復するだけのぼっち……じゃなくて、仕事人間ですから、あはははは」

 むむっ。
 牧瀬紅莉栖の物言いになぜか無性に腹が立った。

「うふふ、それなら良かったです」

「あ、あのう。椎名さん、失礼ですが年齢はおいくつで……」

 岡部倫太郎が恐る恐るという風に言った。

「おい、それはさすがに失礼だろ!」

 牧瀬紅莉栖が彼の耳元で小さく怒鳴る。

「あはは、構わないですよ。30半ばとだけ言っておきますね」

 本人はそう言っているけれど20台後半でも全然おかしくない。若々しい、というより外見だけみれば少し幼い印象を受けるかもしれない。けれども、にじみ出る包容力だとか、醸し出す雰囲気は歳相応──いや、実際の年齢よりも落ち着いたものを感じさせた。
 椎名さんの答えを聞いて岡部倫太郎は何か納得したようだった。続けて牧瀬紅莉栖に何か耳打ちをする。何を喋ったのか聞き取ることができなかったが、それを聞いて牧瀬紅莉栖も汲みとったようだ。
 むー。あたしに隠れて内緒話?
 少しだけ胸がもやもやした。

「それはそうと、夕食の材料を買ってきてあるんです。多めに買ってきてあるから皆さんの分もありますよ。どうぞ食べてくださいね」

「あ、台所はこっちね」

 そう言ってキッチンまで案内した。

「よーし。じゃあ腕によりをかけて作っちゃうね~」

 椎名さんはそう言ってウィンクをした。あたしは期待の意味も込めてサムズアップで返事する。



159: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:14:35.33 ID:OOOkqekxo

 
 トントン、と小気味のいい音が後ろで聞こえてくる中、あたしたち3人はちゃぶ台を囲みながらひそひそと会話していた。

「おいバイト戦士、彼女とはどうやって知り合った」

「だから言ったじゃん。病院でお世話になった人だって」

「すごい偶然もあるものね……。でもこれが原因で妙なパラドックスを発生しなればいいけれど……」

「2人ともさっきから何? もしかして知り合い?」

「まあ、な」

「私は直接的には、ないかな……」

「ふーん」

「けれどまぁ瓜二つとまではいかないけど、すっごく似てたわね」

「恐ろしいほどにな。20年ほど歳が違っていても一瞬見間違えたぞ」

 あたしに分からない話題。置いてけぼりだ。
 ぐぬぬぅ~。

「だが齢30にして醸しだすそのオーラは、すでに桑年を迎えてるかのような落ち着きぶり。まゆりには絶対に成せない所業だな」

「随分なものいいだなおい」



160: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:16:05.94 ID:OOOkqekxo

「ともかくバイト戦士よ!」

「ん?」

「彼女には真名で紹介すること。拠点に人を連れて来る時はこの鳳凰院凶真に許可をとること! 常に機関の監視を意識するのだぞ、分かったな! 以上だ」

「まあ機関うんぬんはともかく、彼女に紹介するときはちゃんと偽名を使って──」

「はいおまたせ~。牧瀬さんも岡部くんも遠慮なく食べてね~」

「…………」

 一同沈黙。先ほどのように時間が止まった。けれどそんな空気を何事もなかったかのように溶かしていく椎名さん。

「あれ、美味しそうじゃなかったかな? それともまだお腹空いてない?」

「いえ、そうではなくて……」

「おいこらバイト戦士! いつの間に俺の仮の名を──」

 牧瀬紅莉栖が弁解して岡部倫太郎があたしの耳の近くで囁いた。それを無視してあたしは手を合わせて箸を握ってご飯をかきこむ。

「いっただきまーっす」

「あらいい食べっぷり」

「くぉら! この鳳凰院凶真をスルーとはいい度胸──」

「わ、私の名前、本当は──」

 と牧瀬紅莉栖が言いかけて止める。あたしは吸物椀に口をつけて上目遣いでその様子を伺っていた。さっき焦って2人のことを本名で紹介してしまったからまずいことになっちゃっただろうか。あたしは大丈夫だと思うんだけど。むしろ今更別の名前でしたって紹介するのも不自然だよね。



161: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:17:38.52 ID:OOOkqekxo

「名前はっ……」

 再び訂正しようとするが口ごもって続かない。一瞬不思議に思ったが考えてみれば納得の行くことだった。彼女が検査入院で病院に潜入した際に、今の戸籍による名前は使用しているのだ。それを教えてしまえばさすがに不審がられると思ったのだろう。まあ、あたしにしてみれば、関係性がバレてしまったとしても何の問題も無いと思うんだけどね。
 すると、見かねた岡部倫太郎が牧瀬紅莉栖を指さし叫んだ。

「貴様は我が助手、クリスティィィィ~ナであろうが」

「うっさいばか! 違うわ!」

 口では否定しつつも、助け舟を出されたようでほっとする牧瀬紅莉栖。

「うふふ。さ、冷めないうちに食べてください」

 笑いながら椎名さんが言った。その日の晩餐はあたしにとってすごく温かいものだった。
 普段の持ち帰る弁当が美味しくないわけじゃないけれど、やはり心の篭った温かい料理ってのは身にしみる。椎名さんご自慢の手料理は絶品だった。あたしたちは十分にそれらを堪能した後、4人で他愛もない話をしていた。



162: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:19:02.77 ID:OOOkqekxo

「コツがいるんだよね~。こうやってカエルを優しく握るような感じ? そんでもってぶにゅって親指と人差し指から丸めて押し出すようにして……」

「か、鳥の唐揚げのあげ方よね……? なんだか普段鈴羽が持って帰ってきてるのがカエルの揚げ物に思えてくるんだけど……」

「例えだって、例え~。ってゆーか、カエルだって、結構美味しいよ」

「普通に食用にありますからね~」

「だからといって食べる気にはならないわけだが……」

「というか貴様はカエルを食したことがあるのか?」

 岡部倫太郎から怪訝な表情で質問された。自分がカエルを食べてる場面は想像できないけど、なんとなく知っているような気がしたから、素直に答えた。

「あると思うよ、脂分少なめって感じ? 鶏胸肉とか、ささみみたいな感じかな」

「それなら全然食べられそうね~」

「ぬぐぐ、中々メァッドな食歴ではないか……」

「今度店長に提案してみようかな!」

「やめて、採用されたら二度と持って帰らないで!」

 椎名さんはニコニコ笑っていて、岡部倫太郎は訝しげな表情。牧瀬紅莉栖は断固拒否って感じだった。

「あっはは、冗談だって」

 楽しい時間が過ぎていった。ふと時計を見ると、針は10時を指していた。



163: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:20:46.77 ID:OOOkqekxo

「椎名さん、もう10時ですけどお時間は大丈夫ですか?」

「あ、えっと……。そうね~。あ、でもまだ後片付けもあるし……」

「いえいえ、それはこちらでやっときますから。今日はごちそうさまです」

「そう……? それじゃあそろそろお暇しますね。今日は突然お邪魔してすみません」

 かしこまった姿勢で「いえいえ、全然構いません。良ければまた寄ってください。何のおもてなしも出来ないとは思いますが……」と牧瀬紅莉栖。それに岡部倫太郎が突っかかる。

「むしろ今日はもてなされただけだったからな、フハハ」

「ええい、あんたはいちいちうっさい!」

「ふふふ、じゃあまたね、みんな」

 笑って手を振る椎名さん。その顔は本当に楽しそうで、見ているこちらもまた楽しくなってくるような表情だった。
 とここで牧瀬紅莉栖が神妙な面持ちでしゃべりだした。

「あの、少しだけお時間いただけませんか? 2人でお話したいことがあるので」

 椎名さんは少しだけきょとんとすると、笑顔で頷き外に出ていった。それに釣られるように外の闇へと消える牧瀬紅莉栖。続いてガチャリ、とドアがしまった。
 一体なんの用だろう?
 岡部倫太郎は何も言わずにただじっと扉を見つめていた。やがてこちらに視線を戻すと何かに気づいたように──

「はっ! まずい……このままでは……」

 不安げな表情を浮かべてぶるぶると震えだした。
 どうしたんだろう。やっぱり部外者をここに連れてきたことがまずかったんだろうか。



164: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:23:08.65 ID:OOOkqekxo

「バイト戦士よ! これから旧約聖書にまつわる大洪水がこの部屋を襲うだろう」

「だ、大洪水ぃ?」

「故に! この俺はノアを使いその身を隠す。貴様も洪水に飲まれて死にたくなかったら、どこかに身を潜めておくのだな!」

 と早口でまくし立てて扉を開けて出て行った。あたしは呆然とした。いきなり逃げろなんて言われても、洪水なんて来るわけがない。そんな風に高をくくってたら、5分ほど時間が空いて牧瀬紅莉栖が部屋に戻ってくる。

「一体何の話をしてたの?」

「色々お願いしてた」

「お願い?」

「あなたが病院を抜けだしてこうして生活していること、秘密にしておいて、とか、その他もろもろ」

「あー、そっか……」

「物分かりのいい人で助かった」

「いい人だよね」

「そうね。まあちょっと細かいこと気にしなさすぎな気もするけど……。さ、片付け片付け……って、あいつは!?」

 岡部倫太郎のことを言ってるんだろう。牧瀬紅莉栖はテーブルに置かれた無数の食器を見て小さく叫んだ。

「なんか大洪水が来るからって言って部屋戻っていったけど」

「後片付けぶっち!? あんの中二病……!」

 怒りでわなわなと震えていた。なんだかそれすらも面白おかしくて思わず声を出して笑ってしまった。結局2人肩を並べて食器の後片付けをやったんだけど、幸せな時間が確かにそこに存在した。



165: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:25:07.07 ID:OOOkqekxo

 その後も椎名さんはちょくちょくうちに寄っては料理を作ってくれた。皆で料理をつつきながら談笑するその時間は何ものにも代えがたい時間だ。
 牧瀬紅莉栖の作ったアップルパイに仮死状態にされそうになった時にはさすがにムカっと来たけど。あたしと岡部倫太郎がそのことを責め立てると牧瀬紅莉栖はムキになって突っかかってきたり。
 お返しに、あたしが持って帰ってきた唐揚げを牧瀬紅莉栖が口に含んだ際に「カエルの味はどう?」って聞いてみたらあいつ、青ざめてたっけ。
 そんな状況でも椎名さんが絶えずニコニコ笑ってるのは印象的だった。言い過ぎかもしれないけれど、まるですべてを慈しむかのような──
 楽しい日々だった。

──けれどいつまでも同じような時間は続かなかったんだ。

 転機が訪れたのは証券取引による資金作りに悪戦苦闘する牧瀬紅莉栖に対して、椎名さんが資金提供を申し出た日だろうか。最初は牧瀬紅莉栖も断ってたんだけど、生活の水準が中々上がらないし、思うように利益を作り出せない彼女も焦ってたんだろう。ついには折れて、良心的な金利──ほぼ無利子と言ってもいいほど──での資金提供を受けることにしたらしい。
 その申し出はあたしたちの生活を大きく変えた。
 やっぱり元手があったほうが断然有利らしく、彼女はみるみるうちに利益を生み出していった。元々専門は経済ではないと言っていたが、2010年までの大まかな経済の流れを知っているのと知っていないのではまるで違うようだ。時には読み──というかあたしたちにとっては歴史か──が外れて失敗することはあったけども、潤沢な資産のおかげで致命的なダメージは負わずにいたみたい。
 気づけば1年後には、すでにIBN5100が何台も購入できるほどのお金を手にしていた。

──そこまでは良かった。



166: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:27:07.39 ID:OOOkqekxo

 そこまでは順調だった。食べるものも豪勢になっていったし、家具家電も充実していき、徐々に生活の水準も上がっていった。
 けれど、IBN5100を購入して数日経った頃だった。その頃にはすでに椎名さんから借り入れていたお金も精算しきっていたし、IBN5100を1台購入したからといって無一文になるような資金繰りは行ってなかったはずなんだけど──
 突然、牧瀬紅莉栖が塞ぎこんで自分の殻にこもるようになった。何か思いつめたような、そんな表情をして。これにはみんな、戸惑いを隠せなかった。
 そんな変化が訪れて、とある日の晩御飯時。ご飯がよそわれた茶碗を片手にうつむき加減でぼうっとする牧瀬紅莉栖。
 重苦しい雰囲気にあたしはたまらず声をかける。

「ねえ……ご飯、食べないの? 美味しいよ?」

「…………」

 無言。彼女にはまるであたしの声が耳に届いていないようだった。見かねた岡部倫太郎がぶっきらぼうに口を尖らせた。

「おいクリスティーナ、一体どうしたというのだ。このところまるで身が入っていないではないか」

 彼はわざとなのか、煽るような口調で言っている。それでも牧瀬紅莉栖は反応する素振りも見せない。



167: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:29:04.83 ID:OOOkqekxo

「助手がそんな調子では我が未来ガジェット研究所はどうなる。資金繰りもまだ油断はできんのだろう?」

 いつ未来ガジェット研究所なんて名前になったんだろう。
 ってな疑問は置いといて、やっぱりそれでも反応はない。そんな様子に業を煮やしたのか彼はとうとう──

「おい聞いているのかザ・ゾンビ! ちょーっとセレブになったからといっていい気に──」

「……っさい」

 それを遮るように、絞りだすような声で牧瀬紅莉栖がぼそっと呟いた。頭を垂れており表情をうかがい知ることはできない。

「ん? 聞こえんな。言いたいことがあるならはっきり言えば良かろう」

「……うっさい!」

 彼女の鋭い叫び声が部屋中にこだました。思わずその声の大きさに体がすくんだ。

「んななな……」

 岡部倫太郎も何がなんだか分からないといった様子で彼女の顔を見つめている。

「いい気になってるのはどっちだ! 何もしてないくせに──何も知らないくせに、わかったような口聞かないで!」

 激昂。まさにその一言に尽きた。今までもその負けん気の強さから、彼と衝突することはあった。けれどこんなに感情を高ぶらせた彼女を見るのははじめてだった。

「何も……覚えてないくせに……」

 正直、あたしはどうしていいか分からず、ただただ2人の顔を交互に見ることしかできない。そんなあたしの様子と、絶句した岡部倫太郎に気づいて、一言、彼女が謝った。

「ごめん、言い過ぎた……」



168: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:30:55.92 ID:OOOkqekxo

「ね、ねえ牧瀬紅莉栖、いったい何があったの……」

 おそるおそる聞いてみる。まるで腫れ物に触るみたいな言い方しちゃったな、と自分でも思った。我ながら情けなくなるほど。

「…………」

 牧瀬紅莉栖は少しだけ逡巡したかと思うと、こういった。

「あったんじゃなくて、これから起こるの……。ずっと、先だけどね」

「これから……?」

 あたしには、彼女が何を言っているか分からなかった。隣にいる岡部倫太郎も同様に疑問符を浮かべていた。

「ごめん、少し外の空気吸ってくる……」

「あ……」

 そう言って彼女は足早に玄関へと向かった。手を伸ばしたあたしの手は彼女に触れること無く、項垂れ落ちていく。あたしはそのまま彼女の背中を見送るしかできなかった。今にも消え入りそうな、彼女の背中を──
 とにかく、このまま放っておくわけにはいかなかった。追いかけようと立ち上がったあたしを岡部倫太郎は手のひらを見せて制止した。



169: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:32:38.86 ID:OOOkqekxo

「俺が行ってくる」

「え? でも……」

 普段些細なことで言い合っている彼が行っても火に油を注ぐだけじゃないかな、とは思った。けれどどう声をかけていいか皆目検討もつかないあたしは結局任せることにした。

「助手の監督不行き届きは俺の責任だ。俺がなんとかしてこよう」

 そう言って彼は口元を綻ばせながら出て行った。
 その夜、彼らは戻らなかった。あたしはゆっくりと冷めていく食事を眺めながら考えていた。
 自分の過去のこと──
 これから訪れる未来のこと──
 けれど、思い出そうとすればするほど得体のしれない不安に胸が押しつぶされそうになった。思い出すべきではない、と体が訴えているようだった。
 押しつぶすように両膝を抱えて座っていると、ふと1枚の紙が目に入った。牧瀬紅莉栖の所有する本に挟まり隅がはみ出した1枚のメモ。
 あたしは両手両膝を畳につけながらそのメモの近くまで寄った。メモには数字が書かれていた。


 ×.615074


 一番左はばってん。そして点その後に6桁の数字が並んでいた。
 なんの数字だろう。証券取引に使う金額か何かだろうか。こんなメモのことまで気になるなんて今のあたしはどうかしている。再びテーブルの前に座して思い悩む。
 結局あたしにはどうすることもできない。何もできずにいる自分がただただ悔しかった。今あたしにできることは信じて待つことだけだった。記憶が蘇らない自分が腹立たしかった。



170: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:35:18.84 ID:OOOkqekxo

 いつの間にか眠ってしまっていたようで、気づいた時にはカーテンから漏れる一筋の光が眩しく輝いていた。テーブルに伏せるようにして寝ていたせいか、体がところどころ痛む。あたしは体中の血液循環を促進するためぐっと背筋を伸ばし大きく息をつく。同時にあたしにかかっていたタオルケットがスルっと畳の上に落ちた。誰がかけてくれたんだろう、と心の中で疑問を浮かべた。
 ふと、台所の方から音がするのに気づく。気になって覗いてみるとエプロン姿の牧瀬紅莉栖がそこにいた。

「あ……」

 戻ってきてたんだ、よかった。
 思わず漏れた声に気づいたのか牧瀬紅莉栖がこちらを振り向く。

「ああ、起こしちゃった? もうすぐできるから、朝ごはん」

 そう言うと、すぐに調理に戻った。まるで何事もなかったかのような口ぶりだ。
 むー。結構心配したんだぞ。
 そんな想いをよそに淡々と朝食を作るからあたしはまた胸にもやっとしたものを抱えてしまった。
 顔半分だけ覗かせて彼女をじっと見つめるあたしが気になったのか、調理の手を止めて牧瀬紅莉栖が言葉を発した。

「私……日本を出ることにしたの」

 へ?
 えええええっ!?

「えええええっ!?」

「ちょっと、朝っぱらから大声出さないでよ。近所迷惑でしょ?」

 半分笑みを見せながら諭す。昨日までの彼女の態度が嘘のように晴れ晴れしていた。
 いやいや、ちょっとまってよ!

「そっ、そんな話聞いてないよっ!」

 突然の報告にわけがわからなくなる。
 なんで? なんでなの? あたしがなにかしてしまったのだろうか。
 そんな心情を察したのか牧瀬紅莉栖がゆっくりと言った。

「大丈夫、ここが嫌になったとかじゃないから」

「じゃあ、どうして……」



171: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:36:50.63 ID:OOOkqekxo

「IBN5100を手に入れるという目標を達成することで、私はこの人生に意味を見いだせなくなってしまってたのかもしれない」

 燃え尽き症候群だろうか。意外だった。彼女のような芯のある人がそんな状態になるなんて。

「……燃え尽きたの? ……真っ白に?」

 あたしはおそるおそる聞いてみた。

「ふふ、そんな感じ」

「でも、ならなんで海外に……」

「目標を達成したからといって私が今すぐに消えるわけじゃない。そう思ったらなんだか少し希望が見えてきてね」

 消える……? なんのことだかさっぱり分からない。

「それだったら、今の私にできること……ううん、やってみたいことをやるべきかなって、そう思ったの」

「それが、日本出るってことなの……?」

「そ。まぁ、日本を出ること自体は手段の1つだけどね」

「だ、だったら行かないでよ!」

 あたしの言葉に驚いたのか目を皿のように丸くしている。でもすぐに優しげな笑みを浮かべて「まさかあの鈴羽がそんな風に言うなんてね」と呟いた。



172: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:47:23.89 ID:OOOkqekxo

「と、友達と会えなくなるのは、誰だって悲しいじゃん……」

 そう、あたしは嫌だった。牧瀬紅莉栖はあたしの友達だ。少し気が強すぎるところがあるけど、まっすぐで、いつも自信があって、凛としている。ある種の憧れのようなものもあったのかもしれない。

「ごめんなさい、でももう決めてしまったの。私は私の可能性にかけてみる」

「ここじゃだめなの? みんながいるこの場所じゃできないの?」

「できないことはないけれど、それだときっと私は決断できなくなる」

 決断……?

「思い出を消してしまうこと、躊躇ってしまうかもしれない。それは嫌だから」

 思い出が消える? さっきから何を言ってるのか全くわからない。

「何言ってんのかわかんないよ!」

「今はまだ、分からなくていい。きっと分かる時が来るから」

 そう言って1人悲しそうな笑みを浮かべて──

「ううん、分からない方が、幸せかもしれない……」

 そう付け加えた。
 あたしには到底理解できない何かを抱えているのだけは分かった。けれどどうすることもできない。何を思い悩んでいるのか、想像もつかないあたしに、彼女の気持ちを理解するのは到底ムリだった。
 ただ拳を震わせるあたしをふわりと暖かさが包んだ。華奢だけど、とても大きくてほっとするような腕に抱かれて。

「ごめんなさい。でも、鈴羽には自分の幸せを手にする権利がある」

「…………」

「鈴羽、約束よ。あんたは、幸せになりなさい」

 なぜかその一言で、あたしの涙腺は崩れて散った。止めどなく流れる涙が彼女の白いシャツを濡らした。
 牧瀬紅莉栖の作った朝食は塩っぱくてまずかった。
 やっぱりあたしは弱い人間だった。どうしようもなく、弱かった。



173: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:50:14.63 ID:OOOkqekxo

 あれから1週間が経って。
 牧瀬紅莉栖は旅立っていった。海外へ移住するための手続きはほとんど必要なかった。彼女はすでに外国籍を持っていたから。
 飛行機に搭乗する前、彼女はあたしの頭を撫でた。あたしの方が年は上だと聞いていたけれど、不思議と不快感はなく、まるで母親のような包容力を感じた。そして一言ささやくように告げられた。
 あいつのこと、よろしく頼むわね、と。
 横で岡部倫太郎が淋しげに見つめていた。

 部屋に戻ったあたしは広くなったこの室内を見渡した。物は増えたけど特に代わり映えのない和室。この狭い一間に2人の人間が生活していたんだ。
 いつも畳に座って新聞や資料に目を通す彼女を思い浮かべた。忙しそうにしている彼女もとても魅力的に映ったものだ。
 そんな時は決まって牧瀬紅莉栖に話しかけてたっけ。そんな彼女はあたしに目は合わさず対応してた。
 あたしは何度も言った。人としゃべるときは目を見て話すべきだよーって。
 すると彼女は「物事に没頭するとダメね、人間らしい生活ができてない」そう言って2人で笑いあったのだった。
 今はその彼女もいない。思い浮かべていた風景から、牧瀬紅莉栖の姿だけがすうっと消えていった。心のなかで言葉に尽くせないような気持ちが湧いてくる。
 心にぽっかりと穴が空いてしまったような。
 その夜は寝苦しかった。いつも隣にいて話をした彼女はもういない。彼女は自分自身のための人生を歩き出した。

「あたしも、自分の道を見つけなきゃな」

 でもどうすれば見つけられるだろうか。
 布団の中でごろごろする。ちっとも眠れない。
 気がつけばあたしは隣で眠る岡部倫太郎の部屋を訪ねてた。



174: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:51:33.83 ID:OOOkqekxo

「どうしたバイト戦士よ、お前も眠れんのか?」

 ”も”──?
 彼も眠れてなかったようではっきりした口調で言った。
 外国へ行く本当の理由。それをあたしはまだ知らなかった。岡部倫太郎ならばそれを知っているだろうか、そう思って聞いてみた。しかし彼も聞いていないようで、答えてはくれなかった。

「まぁ、やつは日本に留まる器ではないからな」

「そうなの?」

「2010年では、すでにアメリカの大学を飛び級で卒業していて、有名な科学雑誌にも論文が載るほどの才女だった」

「へぇ~、それってすごいの?」

「ああ……。それはもう、な。」

 そう言って物思いに耽る彼。淋しげな横顔だ。彼も喪失感を胸に抱いているんだろう。
 あたしと岡部倫太郎はきっと一緒だ。自分の生きてきた時代を捨てて。記憶を失って。そして今、共に歩んできた友人と別れ、孤独な道を前にしている。それでも──
 あたしたちは1人じゃ無い。
 そっと彼の胸に頭を寄せた。



175: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/08(木) 13:57:07.59 ID:OOOkqekxo

「なっ……!?」

 驚いて身を固くする岡部倫太郎。あたしはそんな彼に向かってこう告げる。

「君はあたしの前からいなくならないよね?」

「…………」

 自分でもこっ恥ずかしいセリフだなって思った。けれど、素直な気持ちを言葉にしてみたんだ。
 自分がどうしたいかを考えた時、思い浮かぶのは彼の近くにいることだった。
 彼と一緒にいたい。
 もしかしたら、あたしがタイムトラベルしたのも、きっと彼に付いていくためだったのかもしれないね。そう思うと顔が熱くなるのを感じた。

「何を言っている、当たり前ではないか。来るラグナロックのために遥か過去であるこの時代にまでたどり着いたのだ。貴様と俺は一蓮托生! 嫌だと言っても付き合ってもらう!」

 大げさな身振りで岡部倫太郎は言った。
 タイムマシンに乗った時の状況を覚えているのは牧瀬紅莉栖だけだ。でも彼女は最後までそれをあたしたちに教えてくれることはなかった。あたしも岡部倫太郎も思い出そうとすれば頭を抱えるほどの頭痛に悩まされたし、きっと必要なことじゃないって思ったんだろうね。
 大事なのは、”これから”のこと。
 一度しか無い人生を歩むのに必ずしも過去は必要ではない。
 だから自信を持って未来に向かって歩き出そう。自分の気持に素直に。
 そう、心に抱いて。

『幸せになりなさい』

 ふと、誰かの声が聞こえたような気がした。
 うん……。
 あたしはきっと、幸せになるよ、牧瀬紅莉栖──



Chapter2 END



180: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:19:29.52 ID:EXR5HU4So

Chapter3



 1986年 6月14日



 月日が経つのは早いもので、俺たちがタイムトラベルしてから11年の年月が過ぎ去ろうとしていた。
 この俺──岡部倫太郎の近況はというと、1977年に懐かしの母校であった東京電機大学の学籍を手に入れ、そのまま大学院と続き研究者の道を進んだ。結果、今は助教授という立場で学生どもの指導してやっている。
 この年齢で今のポストにつくというのは異例のスピードだ。そこは声を大にして言っておかなくてはなるまい。社会がこの俺の灰色の脳を認めたということであろう。フハハハ。
 研究者の道を志したのはなんてことのない理由である。この頭脳を埋もれさせておくには惜しいと思ったからだ。決してすることが特に無かったわけではない。
 世の中はというと、バブル景気に差し掛かろうとしていた。高騰する土地や物価、それに伴って景気が信じられない程上昇する。空前の好景気に人々は浮かれ、騒ぎ、街は熱を帯びた。
 実にくだらん。
 先見の明を遺憾なく発揮し、すでにいくつかの土地を所有していた俺は、そんな世間を少し冷めた目で見つつも、特に金にも困ることのない生活を送っていた。ある意味、他に熱中する目的があったからかもしれない。
 その目的とは──



181: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:21:01.62 ID:EXR5HU4So

「さて、今日の円卓会議の議題だぁが──」

「おっしゃらなくとも分かっています。タイムマシンについて、なのでしょう?」

 膝の高さほどの円形のミニテーブルを間に挟み、2人用のソファに腰掛ける1人の青年が俺の言葉を遮った。
 間を溜めて、高々と宣言するつもりが先に言われてしまった。おまけに言動がいちいち演技かかっていている。複雑な胸中だ。
 ぬぐぐ……この俺の格好がつかんではないか!
 
「いいからさっさと始めましょう、宮野助教授」

 さらにその学生の隣に腰をかけている別の学生が俺を急かした。

「貴様ら揃いも揃って……」

 これでは俺の威厳が0である。
 小ぢんまりとした我が研究室。様々な書物が溢れかえるその中で、ぎりり、と歯ぎしりする俺に向かって笑いかける2人の男子学生。

──そう、俺は今、こいつらと共同でタイムトラベル研究を行っていた。



182: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:24:17.48 ID:EXR5HU4So

「それで? 俺が提唱するタイムマシンの基礎理論についてはしっかりと予習してきたのであろうな?」

 言って、大げさな物言いをする青年に視線を送った。そしてもう一言付け加える。

「”ドクター”よ」

 俺は彼を”ドクター”と呼んだ。それには訳があった。

「ドクターではなぁい! 私のことはプロフェッサーと呼んでください。いつもそう申しているでしょう!」

「おいおい、プロフェッサーだったら宮野助教授より立場が上になるだろ章一」

 いきり立つ相棒に対して淡々と突っ込みを入れるもう1人の青年。すらりとした体型で顔も悪くはなく、女学生から人気があるようだ。

「ええい、だから私を本名で呼ぶな幸高ッ!」

 幸高──秋葉幸高。
 そう、彼は後にフェイリスの父親となる男である。
 そしてもう1人は──

「いいか、私のことは中鉢と呼びたまえ。プロフェッサー中鉢と」

──ドクター中鉢。

 最初の世界線でタイムマシン開発成功の会見を開いたあの男である。もっとも、その理論はジョン・タイターのパクリだったのだが。

──本名は牧瀬章一。

 タイムマシン研究に熱を入れる科学者。いずれ学会から干されるであろう物理学者。そして牧瀬という苗字。直感的に紅莉栖の父親なのではないか、という疑念が俺の中にあった。
 もちろん確信は持てなかったが。
 このことを紅莉栖に伝えるか迷ったあげく、報告するのはやめておいた。今も海外で忙しくしているようだし、仮に奴の父親が牧瀬章一だったとしても、会うような真似はしないだろう。その出会いが特に意味を持たないこと、親子の関係を知られることの危険性をあいつは理解しているはずだ。タイムパラドックスの危険性を。



183: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:26:49.10 ID:EXR5HU4So

「ええい、名前の話はどうでもいい! 理論は頭に入っているのか! そう聞いておるのだ!」

 俺を無視してやいのやいの騒ぎ立てる2人に対して一喝する。そんな俺の言葉に姿勢を正す2人。

「いやぁ、それが……僕はまだ、いまいち理解ができなくて……」

「む、無論です助教授。私を誰だと思っているのです」

 頭をかいて照れる秋葉幸高。ばつが悪そうに口を尖らせる牧瀬章一。

「タイムマシンを完成させるには理論を完全に理解しなくてはならない、そのことは俺がよくわかっているからな」

 共同研究のきっかけは俺がタイムトラベル研究の粋を集めたノートをこいつらが盗み見たことだった。本格的なタイムトラベル研究など目にしたことはなかったのであろう。この俺の完璧な理論を知った2人は眼の色を変えて俺に質問してきた。その様子には熱意が感じられ、不思議と俺は2010年で電話レンジ(仮)の実験を繰り返す日々を思い出していた。
 2人の質問に俺が答えてやると、2人は俺を慕うようになり、俺の研究室へと入り浸るようになった。それもそのはずだろう。俺は2010年の科学の知識があるのだから。
 決してジョン・タイターのパクリなどではないことは声を大にして言っておかねばなるまい。
 しかしなんの因果か、フェイリスの父親と紅莉栖の父親(仮)とこうして共同研究を行うとは。世界は狭いものだ。



184: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:28:23.94 ID:EXR5HU4So

「いいか、まだ実験に移るような段階には来ていない。だが、貴様ら2人にはタイムマシンの理論について完璧に把握してもらおう。何がきっかけとなるかわからんからな」

 とその時、研究室のドアを叩く音がして扉が開いた。

「うーっす岡部倫太郎」

 鈴羽が研究室に入ってくる。紙袋を片手に気の抜けた挨拶。
 ううむ、しまらない。

「…………」

「おお橋田さん! 今日も差し入れ感謝します!」

「いいっていいってー」

 そう言って片手をあげてニカッと笑いかけた。 

「前々から気になっていたんですが、その岡部倫太郎というのは、一体なんなんです……?」

 幸高が手を上げて尋ねてきた。だが紅莉栖に釘を刺されているので本当のことは話せない。

「俺の仮の名だ。機関の連中をやり過ごすためには必要なのでな」

 IQ170の怜悧なる頭脳を駆使して上手くごまかす。決して嘘ではない。

「おお、さすがです宮野助教授!」

 俺のその姿勢に関心したのか、章一が身を乗り出して俺に賛辞の言葉を送ってきた。少し恥ずかしい。



185: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:29:37.17 ID:EXR5HU4So

「おっ、今日は肉野菜炒めですね?」

 弁当の蓋を開けた幸高が感嘆の声をあげて鈴羽を見る。
 幸高は「いやぁ、いつもいつもすみません」と付け加えると、満面の笑みを浮かべながら感謝の気持ちを言葉にした。

 しんなりと垂れるキャベツに秘伝のたれがよく絡んでいる。口に含むとすぐに甘酸っぱい旨味が舌全体に拡散し、脳に伝って頬を痺れさせる。

「んん……相変わらず美味だな」

 箸を鈴羽に向けながら口をもごもごさせて俺は言った。幸高も概ね同意のようで、うんうんと頷いた。

「あっはは、照れるねー」

「適度に歯ごたえのある人参ともやしもいい味してますね」

 咀嚼を終え、ごくりと喉を鳴らした幸高が言う。

「ちょっとちょっと、あくまで主体は肉だよー? きみたち肉も食べなよー」

 その言葉に誘われるように章一が肉を口の中に放り、その後白ご飯をがつがつとかっ込んだ。

「もっと落ち着いて食べろよ章一」

 仰々しく顎を動かす彼に幸高はさらっと言った。だが章一はその姿勢を崩さないままぶっきらぼうに答える。

「科学者たるもの、食事は早急に終わらせなくてはダメなのだよ」

 ほう。意見が合うな。

「ふぅむ、やはり見どころがあるなドクター中鉢よ」

「あなたもそう思われますか」

「フハハ、食事は急いで食うに限る」

 機関の連中が乗り込んできて食事中、などとあっては格好が付かんからな。スローフードなどクソ食らえである。

「まったく……」

 幸高がため息をつく横で鈴羽がやれやれといった様子で苦笑いを浮かべていた。



186: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:32:06.15 ID:EXR5HU4So

 鈴羽が持ち込んだ弁当を食べ終え、一息ついているとぴろろろろ、と安っぽい電子音が研究室に鳴り響いた。

「む? 何の音だ?」

「あっ、あたしあたし」

 そう言いながら鈴羽はポケットから名刺ほどの大きさの平べったい機械を取り出した。

「ポケベルですか……。今すごく流行っているみたいですね」

 幸高が感心したような声をあげて、興味津々といった様子で見つめている。
 ポケットベル──家庭用の電話や公衆電話からかけることにより、対象のポケベルに文字列を表示させることができる機械。それにより持ち主は文字列に表示された数列でメッセージを受け取ったり、連絡の要求を知ることができる。サービスは以前から始まっていたが、このところ一段と知名度が増し、話題となっている。もう数年立てば爆発的に流行し、女子高生を中心に急激に普及するはずだ。
 
「ふん! 一方的に連絡してきて、連絡をよこせ、などという趣旨の機械など気に入らんがな」

 章一は腕を組んで憤慨している。

「まぁまぁ待てよ章一。科学者たるもの科学の発展は喜ぶべきだろう?」

「だがなあ! こちらの都合も考えず──」

「残念だが中鉢よ、今後世界はそういう環境にシフトしていくだろう。ものの数年もすれば携帯電話なるものが普及し、誰しもが電話に縛られる時代になるだろう、フゥーハハハ」

「くっ、まるで見てきたようにいいますな……!」

「携帯……電話ですが、小型化と実用化にはまだほど遠いみたいですが……。料金もまだまだ一般電話に比べると誰もが持つなんて考えられませんね……」

「科学の進歩というものはそういうものだ。不可能だと思われたことを克服したからこそ今の技術があり、俺たちが存在する。便利なものはより便利なものに取って代わられる。衰退と発展は繰り返すのだよ」

「なるほど……勉強になります」



187: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:34:13.62 ID:EXR5HU4So

「っと、小難しい話しているとこ悪いけどあたしはもう行くね」

「誰からだったのだ?」

「椎名さん、近くまで来てるみたいだからお茶でもどーお、だって。君はどうする?」

「ふうむ、俺たちは円卓会議があるからな、今回は遠慮しておこう」

 相変わらず彼女とは付き合いがある。さすがはまゆりの祖母だけあって面倒見が良い。俺たちは彼女に人生の先輩として色々お世話になっていた。

「岡部倫太郎もポケベル買ったら?」

「それも彼女の意見だろう」

「まあね」

 どうも彼女は俺と鈴羽をくっつけようとしているような気がするが──

「じゃ、もう行くね」

 そう言って鈴羽は俺たちを一瞥した後ドアの奥へと消えていった。ばたん、と扉が閉まる音がして、再び研究室に静寂が訪れた。そんな静寂を破る声が2つ。

「宮野助教授、橋田さんとの結婚はまだなんです?」

「いい加減早くくっついたらどうです。見ていてこちらが歯がゆい」

「ええい! 貴様らもやめんかっ!」

 お節介な人間はここにもいた。しかも2人。

「まぁしかし、橋田さんは朗らかで器量もいい──」

「加えて料理上手で健康的ときた」

 2人が俺をじっと見つめた。すぐに2人は顔を見合わせ、宮野助教授にはもったいない女性だ、と声を揃えて言った。
 おのれ、どっちなのだ! 貴様らは!
 俺は顎に散らばった無精髭をなでてため息を大きく付いた。



188: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:36:43.75 ID:EXR5HU4So

 その後、会議を終えた俺は鈴羽と合流していた。鈴羽と隣同士で歩く俺は、教え子の言葉を思い出していた。
 無論、意識をしていない訳ではない。気付かれないように、そっと視線を横にずらしてその横顔を眺める。収まりの悪いくせっ毛と2本のおさげを揺らしながら歩いている。鈴羽は椎名さんとの会話を嬉しそうに話していた。

「どしたの?」

 俺の視線に気づいたのか、鈴羽が顔をあげてきょとんとした顔で聞いてくる。

「え? い、いやなんでもない。あまりに貴様が楽しそうに話すので、洗脳の疑いを持っていたのだー」

「あっはは、椎名さんはそんなことしないってば」

「い、いや、それこそ彼女の罠っ! ポケベルという古代の魔具をバイト戦士にもたせることによりこの俺の支配を打ち破るという作戦──」

 照れ隠しに仰々しい態度で対抗する。少しだけ周りの空気が温まった気がした。

「もー。いい加減そのバイト戦士ってのやめてよー、バイトじゃないだからー」

 そう、鈴羽は弁当屋に勤め続けているものの、すでに正社員としての地位を得ており、収入も安定していた。

「む、それならば企業に従順なソルジャーといったところか……」

「だからもう、戦わないってばー」

 ふと頬に雨粒が当たる感触がした。上を見ると灰色の雲が幾つもの層を作っており、光を遮っている。夕暮れ時にはまだ数時間猶予があるものの、すでに辺りは薄暗くなっている。空のずっと遠くでごうごうとかすかに雷の鼓動が響いた。



189: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:38:29.30 ID:EXR5HU4So

「一雨来そうだな」

「うん……」

 それも束の間、すぐに雨足は勢いを増し、俺たちを濡らしていく。

「わっ、わわっ」

 隣で鈴羽が慌てて上着を取り出して羽織り、フードをかぶった。その色と形には見覚えがあった。

「まだ、持っていたんだな。それ」

「ん? ああ……」

 遠い目をする鈴羽。

「君から始めてもらったプレゼントだからね、えへへ」

 鈴羽そう言ってフードの下で眩しいほどの笑顔を輝かせていた。
 そう。記憶を失って入院していたこいつを、俺が逃がすために贈った紫色のパーカー。11年経った今もなお現役で活躍しているようだ。よく見るといくつも修繕している跡が残っている。それもそのはずだろう。そこらにあるディスカウントショップで買った安物の衣類だ。むしろ11年もここまでよく持っているものだと感心した。大切に使っているようだ。

「ほつれたり、破けたりしたけど、ちゃんと直して使ってるんだよー」

「金はある。もっといいものを買ってやろう」

「これでいい。ううん、これがいい」

「けち臭いぞバイト戦士よ」

「物は言いようだよ、岡部倫太郎。物持ちが良いって言ってよ」

「……考えておこう」

 そんなやりとりを終え、俺たちは雨に濡れながら帰路を歩いた。



190: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:39:42.20 ID:EXR5HU4So

 家に着き、玄関の扉を開けた。暗がりの中を手探りで照明のスイッチを探す。
 やがてかちりという感触がした後、玄関がぱぁっと明るくなった。続けて鈴羽がため息を着きながら入ってくる。

「やー、参った参った。突然降ってくるとはねー。天気予報見とけばよかった、失敗したよ」

「そんなに勢いも強くなかったし、通り雨だろう。梅雨入りは……明後日16日前後という話だ」

「そっかー。もう梅雨なんだねー。11年前を思い出すなぁ……」

 その言葉につられてタイムトラベルした夜のことを思い出す。1975年ではすでに梅雨入りしていたようで、あの夜は酷い雨だったのを覚えている。鈴羽は昏睡状態だったから、思い出しているのは別の日だろうが。

「シャワー先に浴びてこい。風邪引くぞ」

「うん、そうする」

 そう言って洗面所に消える鈴羽、すぐに顔を出し──

「あ、君も一緒に入る?」

 なっ──!?

「なっ、何を言っている、こ、この変態戦士めっ──」

「あっはは、冗談だってば」

 けらけらと笑って再び洗面所の扉が閉められた。

「お、おのれ、唐突すぎるぞ……」



191: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:41:33.84 ID:EXR5HU4So

 まだ心臓が跳ねている。あの女……。
 すでに俺たちは、最初のアパートを引き払っていた。
 契約していたのは紅莉栖だったし、何より金は有り余っていたからさほど抵抗もなく、ワンランク──いや2つほどランクをあげて部屋を借りた。
 広いリビングに分離したキッチンとダイニング。そして洋室と和室がそれぞれ1つずつ。
 その個室をそれぞれ俺と鈴羽の部屋に充てた。もちろん、若い男女が一緒の部屋に住むことに抵抗が無かったわけではない。しかし、鈴羽は一緒に2010年からタイムトラベルした同志である。ある意味、恋人以上の存在だったのかもしれない。鈴羽の方も、俺と部屋をシェアすることにさほど抵抗はなかったようだ。部屋をそれぞれ借りるより、広くて個室の数がある物件を1件借りたほうがお手軽だという結論にいたり、結局この状況に落ち着いた。
 俺が心臓を落ちつかせていると、鈴羽が濡れた衣服を脱いでいる布の音が俺の耳に入った。すぐにバスルームの扉が開閉され、シャワーの滴る音が聞こえてくる。その音が再び俺の心臓の鼓動を早くする。
 俺は頭をブンブンと振って邪な想像を振り払った。大分慣れてきたとはいえ、やはり意識はしてしまう。

「い、いつまで女に現を抜かしている鳳凰院凶真っ! れ、冷静になれっ!」

 そう自分に言い聞かせて強引に心を落ち着かせた。
 その後俺は濡れた衣服から着替え、暗いリビングのソファに座りぼうっとしていた。
 カーテンを開ければかろうじて灰色の空が部屋を照らし、物の陰影をくっきりとさせていた。
 突如電話のベルが鳴り響く。
 大学からだろうか?
 立ち上がり、受話器を取り耳に当てる。



192: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:43:15.55 ID:EXR5HU4So

「もしもし、宮野ですが──」

「ハロー」

 聞こえてきたのは懐かしい声の響き。

「鳳凰院凶真だ」

「…………」

 電話の相手は受話器の先で沈黙した。はぁーと小さくため息が漏れるのがわかった。

「何を黙っている助手よ」

 電話の相手は我が助手、牧瀬紅莉栖だった。今はイギリスの大学で研究員をしているという話だ。何の研究かは詳しく聞いていないが、恐らく脳科学の類だろう。向こうに行ってからしばらくは2,3ヶ月に一度電話が来たものだが、10年経った今では、半年に1回あるかないかの頻度になってきている。時間は確実に流れていた。

「だから私は──って、いつまでやればいいのよコレ」

「コレとかいうなっ!」

「クリスティーナとか言わないだけまだマシだけど、いい加減普通に呼んでほしいわけだが」

「ふん、貴様はすでにクリスティーナの名は捨てた身であろう。ならば助手と呼ぶ他あるまい?」

「なんでだ!」

「今や俺は助教授の立場。懇願すれば本当に我が助手にしてやらんこともないぞ?」

「あーはいはい」



193: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:44:50.87 ID:EXR5HU4So

「貴様の頭脳は高く評価しているからな。戻ってこい、日本に」

「戻ってくれば助手にしてくれるっていうのかしら? あんたの権限で?」

「うむ、すでに確立した地位を捨て、泣いて戻ってくるというのであれば、な」

「だが断る」

「…………」

「…………」

「相変わらずの@ちゃんねらーぶりだな」

「い、いやっ、今のは別に、その……用語ってわけじゃないでしょ!?」

「寂しいのは分かるが後10年ほど耐えろ、そうすれば便所の落書きも復活するだろう、それとも何か? お前の研究というのはWorld Wide Wedの構築というわけではあるまいな」

「んなわけあるか、んなわけあるか! 大事なことなので2回言いました!」

「もっとも、WWWの根底にある考えはすでにSERNの科学者が考案済だろうがな」

「話を聞け……」

「その科学者を差し置いて貴様が発表してしまえば、普段口うるさく言っている通り、先駆者の名誉を横取りしたことになりパラドックスが起こる可能性があるがな、フゥーハハハ!!」

「だから話を聞けといっとろーが!」

 ボリュームが上がった。3段階ほど。
 耳をつんざくキンキン声に思わずたじろぎ受話器を耳から離す。



194: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:46:33.09 ID:EXR5HU4So

「で?」

 一転して、受話器の口から落ち着いた声が聞こえてきた。

「で? とはなんだ」

「近況報告、どうなの? 最近。何か変わったことはある?」

「別に、普段通りだ。貴様の言うとおり目立つような発明もしていないし、タイムトラベルのことも誰にも言っていない」

 俺は淡々と事実を告げる。このところ平穏そのものだ。少々退屈さを覚えるほどに。

「それに、鈴羽とのこともな」俺はそう付け加えた。

「そ、ならいい」

「…………」

 そう、俺は奴が海外行きを決めた夜、約束をさせられていた。
 記憶を取り戻さなくていい。その代わり、私の言いつけをいくつか守ってもらう、と。



195: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:48:19.70 ID:EXR5HU4So

──まず──

 IBN5100を2010年まで保管し続けること。
 世間で目立つような行動は差し控えること。
 これから歴史に刻まれる偉大で注目をあびるような発明は横取りしたりしないこと。
 私達3人がタイムトラベラーということは絶対に他人に話さないこと。

 まあ、これらは納得できる。
 IBN5100を用いてSERNの野望を打ち砕くためには、ヘタに注目を浴びてタイムトラベラーだとバレたらまずいからな。それこそ機関の奴らは血眼になって俺たちを妨害してくるに違いない。そうなれば一介の大学助教授と弁当屋など相手になるはずもない。

──だが──

 鈴羽には絶対手を出さないこと。

 聞いた時は一瞬耳を疑ってしまった。
 あの夜の思い出がありありと思い浮かぶ。食事中に感情を露わにしアパートを飛び出した紅莉栖を追いかけた夜のことを。



196: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:50:03.05 ID:EXR5HU4So

 


 街灯がちかちかと不規則に点滅している。恐らく蛍光灯の寿命が近づいているのであろう。
 視線を移すと、その街灯の背にもたれかかるようにしてうつむく紅莉栖の姿があった。

「おい助手よ、随分探したぞ。一体何があったというのだ」

「…………」

 返事は帰ってこない。俺はため息をついて返事を待った。
 数十秒の間が空いた後、紅莉栖はぼそっと呟く。

「別に、なんでもないって言ってるでしょ」

「だったらなぜあんな態度を取る。鈴羽も戸惑っている」

 俺の問いにやはり答えようとはしない。それどころか余計に俯いてしまい、最後には膝を抱えて顔を埋めてしまった。

「おい……」

「大丈夫だから。私は大丈夫だから……きっとそのうち受け入れる」

「大丈夫なわけ無いだろう……」

「こうなる可能性があることは覚悟してた。それが早いか遅いかだけの違いよ」

「だから、いったい何が起こるというのだ!」

「…………あんたは知らなくていい」



197: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:53:23.75 ID:EXR5HU4So

「だが──!」

「知ったら──!」

 紅莉栖が1人で抱え込んでいるものの正体を知りたくて聞き返すが、逆に鬼気迫る勢いで遮られる。

「知ったらきっとあんたはまた、苦しむ……!」

「俺が……?」

「思い出を消してしまうことに罪の意識を感じて、やっぱり行動できないかもしれない」

「ど、どういうことだ……」

「それ以上は、知らなくていい。私がやるから……」

 そう言って紅莉栖は立ち上がり背中を見せる。その背中は今にも崩れてしまいそうに震えていた。

「私ね、イギリスに行こうと思っている」

「イギリス……だと? なぜだ?」

 一瞬動揺が頭を駆け巡ったが、それを悟られぬよう努めて冷静に装い尋ねた。

「試したいの。自分の可能性を。自分勝手って思うかもしれないけど……私は自分に賭けたい」

「し、しかし、お前がいなくなれば鈴羽が悲しむ……」

「大丈夫よ、彼女にはあんたがいるもの」

「いやいや──」

「岡部、あの子をお願いね。彼女、記憶を失ってからすごく不安定になってる。傍目には元気を装ってはいるけど、夜な夜なうなされてるのよ……」

「…………」

 一度その現場には出くわしたことがある。よほど嫌な夢を見ているのだろう、と思った。

「あんたが支えてやって。そして2人で幸せになりなさい。可能な限り」



198: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:54:04.65 ID:EXR5HU4So

「…………お前はどうする」

「へ?」

「お前は自分の幸せを考えないのか? イギリスに行くことが幸せなのか? 俺たちから離れることが幸せなのか?」

 なぜかムキになる自分がいた。行かせたくない、そう思った。

「ふふ、向こうに行ったってさほど変わりはしないわよ……。私は私で自分の幸せを掴むわ。科学者としてのね」

「…………」

「それに、岡部が近くにいないとせいせいする!」

「…………」

 なぜかその言葉に無性に胸が痛んだ。顔に出ていたのだろう。そんな俺に対して紅莉栖はフォローを入れた。

「……ジョークよ」

 その顔は少し泣いていたようにも思えた。
 その後俺たちは約束を交わした。



199: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:56:26.13 ID:EXR5HU4So

「IBN5100は2010年まであんたたちが大切に保管して。絶対売るなよ? 後、世間で目立つような行動は差し控えること。それと、歴史に刻まれる偉大で注目をあびるような発明は絶対に横取りしたりしないこと。最後に私達3人がタイムトラベラー絶対に他人に話さないこと」

 紅莉栖はどや顔でまくし立てた。もう涙は浮かべていない。

「あ、後、もう1つ……」

「ま、まだ何かあるのか……?」

 すると紅莉栖は少しだけ顔を赤らめながら躊躇いがちに口を開いた。視線はあちこちをさまよい定まっていない。明らかに動揺を隠し切れないといった様子だ。

「こ、これだけは言っておく。鈴羽に手は出さないこと」

「は?」

 いきなり素っ頓狂なことを言うから思わず聞き返した。

「だ、だから鈴羽と……ごにょごにょ」

 照れくさそうに指を絡ませながら口ごもっている。
 何を言っているのだこの変態少女は。

「貴様真面目な話をしているかと思えば一体何を……!」

「ま、まじめな話だバカ! ふざけてこんな話、誰がするかっ!」

「そっ、そもそも俺は鈴羽をそんな目でみたことはな、ないっ!」

「だ、だとしても今後そうなる可能性はあるでしょ!? 岡部はHENTAIだから鈴羽の体にムラっとして──」

 傍から見れば完全な痴話げんかだったかもしれない。
 というかどっちがHENTAIだ、どっちが!

「と、ともかくあの子とは絶対”そういう関係”にならないで」

「当たり前だろう、俺は狂気のマッドサイエンティスト。女よりも世界の混沌にしか興味はぬあぁい!」

「や、約束だからな!」

 頬を赤らめて言う。威厳などまるで0である。



200: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:57:23.72 ID:EXR5HU4So

「どうしたの?」

 電話越しの紅莉栖の声に俺は我に返った。
 10年前のあの夜、顔を真赤にしてHENTAI発言をする紅莉栖を思い出し、俺は吹き出した。

「ちょ、何笑ってる!」

「いや、少々貴様の過去を思い出してな。懐かしく思っていたところだ助手よ」

「はぁ……なんだか無性に腹が立つんだが」

「ふ、この程度のことで腹を立てていると皺が増えるぞ。どうせ今もこめかみに手を当てて眉間にしわを作っているんだろう?」

「う、うっさい! ……ったく、変なとこだけ勘がいいんだから。まぁいいわ、ともかくそういうことなら引き続きお願いね。あの子のこともしっかり見ておいてちょうだい」

「……ああ。鈴羽のことなら心配するな、お前が思っているほどやわな女ではない。俺やお前がいなくとも強く生きていけるはずだ」

「……。じゃ、また連絡する」

 そういってプツっと切れる。
 やりとりは多少変われど、いつもどおりの会話だ。



201: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 16:58:16.84 ID:EXR5HU4So

「フッ、あいつめ」

 そう呟き、俺はわずかな笑みを浮かべた。

「電話……? ……誰?」

 突如、背後から声をかけられて肩を釣り上げてしまう。
 振り返るとそこには鈴羽が立っていた。
 真っ暗な部屋でいきなり声をかけるな。

「お、おお、鈴羽か……もうシャワーはいいのか?」

「うん。もう温まったから」

 とそこで違和感に気づいた。
 こいつ──バスタオルを巻いてるだけだ!

「お、おおおお、おい! お前! ふっ、服を着ろ!」

 わずか1枚の薄い布に覆われた体を想像してしまいどぎまぎしてしまう。

「何慌ててんのさ……」

「いっ、いいから……貴様は恥じらいというものがだな……」

「ねえ、電話、誰だったの?」

「へ? で、電話、今はそんなこと……」

「教えてよ。電話の相手……紅莉栖だったんでしょ?」

 言い当てられる。というかなんか怖いんですが。



202: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:00:30.44 ID:EXR5HU4So

 声のトーンがさっきから低い。家路についた時の鈴羽とはテンションが180度一転している。どうやら助手との会話を聞いていたようだ。
 も、もしかしてこいつ、助手と代わらなかったからすねているのか?

「お、おい鈴羽、助手と会話できなかったからって拗ねるでない。お前も定期的に電話しあっているんではなかったのか……」

「そうじゃ、ないよ……」

「というか、いい加減服を着ろー!」

 間にあわなくなってもしらんぞーーーっ!!!

「間に合わなかったら、どうするの?」

「へっ?」

 鈴羽は生まれたままの姿を1枚の布で覆いながら自分の両腕を抱いた。そして視線を落として伏し目がちに言う。

「ねえ……」

「な、なななっ!?」

 こ、これはもしや──?
 鈴羽の一挙手一投足が俺の心臓を跳ね上げる。
 くっ──機関の奴らはついにこの戦士までも籠絡し洗脳を──

はらり

 鈴羽は自らの手で撒いていたタオルを床に落とした。露わになる裸体。膨らんだ2つの乳房。引き締まった太もも。10年前と変わらぬスレンダーな体型。当然ながら上も下も何も身につけていない状態である。
 部屋の中が薄暗くてはっきりとは見えないことが唯一の救いと呼べるくらいか。

「お、おい鈴羽ぁっ!?」



203: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:02:06.94 ID:EXR5HU4So

「…………」

 鈴羽が俯いたおかげで、普段はおさげにまとめられてる長くてくせのある髪の毛が双丘を覆い隠した。それにほっとしたのも束の間。鈴羽がこちらに歩み寄ってくる。
 ばっ、ばか! それ以上近づいたらっ──
 どぎまぎして視線をずらす。

「ねえ、あたしを見て──」

 そんな心情を見透かされてしまう。俺は仕方なく視線を鈴羽に戻す。ただし、できるだけ顔に集中する。さっきより距離が近いからか、鈴羽の肌の色。体の輪郭。肉感がより鮮明に映し出された。

「岡部倫太郎──目をそらさないで」

「あ、ああ……」

 視線と視線がぶつかった。暗闇の奥できらりと静かな光を佇ませる鈴羽。その表情は固く、眉尻は下がり気味だ。
 ”あたしを見て”か──
 なぜかなつかしいような感覚に陥る。今までそんな風に言われたことなんてないはずなのに。デジャブ、というやつなのだろうか。それとも失われた記憶が関係しているのだろうか。
 薄暗かったこの部屋に一筋の光が差し込んできた。気づけばどんよりとした暗雲は霧散し、その隙間からオレンジの光が割って輝いていた。
 黄昏時。
 その明るい日差しが鈴羽の身体を優しく照らした。
 俺は息を呑んだ。
 鈴羽の身体にはいくつもの古い傷跡が刻まれていたのだ。
 胸部から腹部にかけて走る歪な切痕。
 太ももに浮かび上がる銃創。
 1つ1つは小さくとも、痛々しいほどに刻みつけられた負の印。
 俺はその数々の痕に釘付けになっていた。



204: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:02:45.42 ID:EXR5HU4So

「酷いもんだよね……。どんだけ時間が流れても消えないんだ」

「鈴羽……お前……一体、どんな……」

 どんな過去を過ごしてきたんだ。そう聞こうとして自分の愚かさを反省した。

「あたしに記憶はないのに、傷跡だけが残されている。こんなのでも、あたしという人間を知るヒントなんだよね……。きっとあたしはまともな人生を送ってなかったんだ。誰かに追われ、憎まれ、傷つけられ、蔑まされ──」

 一瞬の逡巡の後、吐き捨てるように言った。

「そして逃げるようにしてこの時代にやってきたのかもしれないね」

「そんな……」

「知りたい……。でも、知るのが怖いよ……岡部倫太郎……」

 涙を浮かべて想いを打ち明ける鈴羽。先ほど紅莉栖との電話で、鈴羽のことをやわな女ではない、と表現したことを後悔した。

「知ってしまったらきっと、あたしはもうあたしで居られなくなる……。1人の女として、君とそばにいたいって願い続けるあたしじゃいられなくなる……」

「え──?」



205: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:03:35.70 ID:EXR5HU4So

 一瞬、鈴羽が何を言ったのか理解できなかった。鈴羽の言葉を反芻する。
 女として、そばにいたい、と。
 直接的ではないけれど。
 想いを伝える言葉だった。それがわからないほど俺は鈍感ではない。

「俺は──」

 俺は何も身につけていない鈴羽を抱き寄せた。

「おかっ──」

「俺は…………」

 この想いにどう応えてやればいい? 俺にだって鈴羽への想いはずっとあった。
 この10年間、共に過ごしてきた。傍から見れば夫婦といえる程に。だが俺たちは記憶を失った時間の漂流者。そんな俺たちが幸せな家庭を築いてもいいのか。俺は問い続けてきた。
 紅莉栖の言葉を思い出す。きっと、奴の言うことは正しいのだろう。



206: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:04:40.52 ID:EXR5HU4So

──だが。

 鈴羽の身体は冷えきっており、かすかに震えが俺の身体に伝ってくる。

「言わんこっちゃない、服を着ないから、震えているではないか……」

「あっはは……寒いね……。震えが止まんないや」

 身体同様、その声は震えていた。

「思い出さなくてもいい……」

「え……?」

 俺が……ずっとそばにいる。

「ずっと、俺の側に居ればいい。いや──俺の側に、いてくれ……鈴羽」

 名前を口にした瞬間、俺の腕の中で震える彼女は少しだけ見を固くした。そしてゆっくりと両腕を俺の首へと回して絡ませる。

「岡部倫太郎……」

 そう呟いて、彼女は唇を重ねてきた。俺たちは互いの存在を確かめるようきつくきつく抱きしめ合った。
 それぞれの存在が溶けだし、お互いの境界線なくなってしまうかのように。



210: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:33:56.48 ID:EXR5HU4So

 1987年 6月14日



 研究室の戸を叩く音が狭い室内にこだました。ノックの仕方で、誰が訪ねてきたのかが分かる。

「入るがよい」

「やー」

 その人物とは鈴羽。ご機嫌な表情に相変わらず、片手に袋。2人の学生が彼女に向かって挨拶をする。

「やあ橋田さん、ご機嫌麗しゅう」

「どうも、今日もありがとうございます」

「今日も張り切って作ってきたからね! 美味しく食べたまえー、なんちゃって」

「うむ、ご苦労。ラボへの食料提供、感謝しよう」

 腕を組み、目を閉じて自慢気に言う。俺と鈴羽はもはや一心同体、ならば彼女の手柄は俺の手柄のようなものである。

「それとさ、ちょっと話があるんだけど」

 そういって裾を引っ張られ、研究室の外へと連れ出された。
 外からお熱いですな、とか、交際1周年だから、とかいう声が聞こえたが聞かなかったことにする。

「どうしたのだ、一体……」

「あの、えっとさ……」

 俺たちが正式に恋人として付き合いをはじめてからすでに1年が経とうとしている。特に大きく変わった部分があるわけではないが、確かな幸せを噛み締めていた。



211: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:34:39.34 ID:EXR5HU4So

「んーと……言いづらいんだけどさ……」

「おい、言いたいことがあるならばはっきりと言ったらどうだ」

 ため息混じりにそう告げると、うん、と照れたような返事を返す鈴羽。
 後ろで手を組み、もじもじとしている。
 なんだ? 一体。まさか──

「き、貴様もしや──」

 俺が大げさな態度で後退りすると鈴羽は驚いた。

「え、ええっ!? わ、わかったの!?」

「IBN5100を売っぱらった……とかではあるまいな……?」

 すでに1975年発売のPC、IBN5100にはプレミアがついており、相当な価格で取引されるようになっていた。

「遊ぶ金欲しさに2010年の戦いにおいて必要となるアレを売ってしまった、そ、そういうのだなっ!?」

「ち、違うって!」

 そうか。良かった。



212: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:35:14.17 ID:EXR5HU4So

「ではなんなのだ、改まって」

「だから、その……」

 相変わらず切り出しづらそうにしている。
 まあ、想像はつく。今日は付き合い始めてちょうど1年だからな。

「案ずるな鈴羽よ、計画はすでに進行中だ」

「ええっ!? そうなの!?」

 またもや驚きの声をあげる鈴羽。1周年記念にどこか食事にでも出かけようか、と今しがた計画を立てたところだ。そんな俺の思惑にはまり、驚嘆している。
 うーん。やはりこいつは純粋すぎるところがあるな。まゆりと違って怒らせると迫力が半端ないが。

「うむ、今日はめでたい日だからな。少し贅沢して祝いの場でも儲けようか」

「あ……」

 俺の言葉に鈴羽の顔がぱっと輝いた。



213: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:36:25.52 ID:EXR5HU4So

「すっ、すっごいね君って! あたしの言いたいこと当てちゃうなんて!」

 この俺を誰だと思っている。俺はIQ170を誇る怜悧なる脳細胞を持つ狂気のマッド──

「どっちかな~、男の子かなあ。女の子かなあ!」

 へ?

「へ?」

 思わず声が出た。今こいつなんと言った?

「男の子だったら活発な感じになるのかな~? 男の子は女親に似るっていうもんね!」

 何やらとんでもない思い違いをしているような。俺は聞き返さずにはいられない。

「待て待て、なんの話だ?」

「女の子だったら、君似だよね! 頭がいい子になるのかな? 細身で長身かあ、悪くないね!」

「鈴羽さん? さっきからなんの話をしてらっしゃるんで?」

「え?」

「え?」

 声が廊下で重なりあう。ぱちぱちと瞬きを繰り返す鈴羽と俺。
 さも当然といった口ぶりで鈴羽が切り出す。



214: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:37:10.90 ID:EXR5HU4So

「決まってんじゃん、生まれてくる子の性別だよ!」

「生まれてくる? 何が? 知り合いが誰か身篭ったのか?」

「違うって! あたしの話!」

「ああ、鈴羽の話か──」

 って。

「えええええええええ!?」

 気づけば俺は、大学の研究室棟が揺れるほどの大声で叫んでいた。



215: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:38:04.81 ID:EXR5HU4So

「ははは、こりゃめでたいですな!」

「いやあ、びっくりしましたよ、まさか橋田さんが妊娠していたなんて! いや、もう宮野さんになるのかな?」

 学生2人は鈴羽と歓談している。
 先ほど俺が叫んだせいで、研究室から飛び出てきて事情を聞いた次第だ。
 こ、この俺が父親っ……だと!?
 正直実感が湧かない。狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真が人の親になるなど、到底信じられん……!

「あはは、声大きすぎだよねもうー」

 だが満面の笑みを輝かせる鈴羽がそこにいた。その眩しい笑顔を見ているだけで俺の心は満たされていった。俺と鈴羽が共に歩いていて、その間にはまだ見ぬ小さな命。俺はそんな場面を想像してみる。
 お互いの顔を見て微笑んで、そしてその優しい視線を子どもに送る。まったく予想していなかった未来だ。
 だがそんな未来も、悪くないのかもしれない。

「顔がだらしないですぞ」

 章一が俺の顔を見て言った。心なしか、茶化すような笑いを浮かべている。

「う、うるさい!」

 戸惑いがあるのは事実だ。しかし後に気持ちの整理もつくだろう。男としての責任も取らねばなるまい。鈴羽の横顔を眺めながら、俺はふっと小さく鼻を鳴らした。



216: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:39:24.47 ID:EXR5HU4So

 時は流れ、やがて年を重ねていくけれど2人は変わることもなくこの先も続いていく。そう思っていた。
 春夏秋冬、あらゆる季節を幾度と無く繰り返し歩いた道。1本の傘の中を2人、進んでいく。
 俺たちのそばには今、優しい雨が舞い降りてきていた。
 わずか数十センチ頭上の傘に降っては弾け降っては弾け、そっと音を生み出していく。その音色はまるで俺たちを祝福するハーモニーのようで。
 気持ちが満たされていく。穏やかな時間が流れていた。
 ふと、誰に言うでもないような小さな声が俺の鼓膜を震わした。

「こういう日常も悪くないよね」

 それは独り言のようでもあり。同意を求めるようでもあり。
 俺はこの10年を省みていた。一見すると隠居した老夫婦のような共同生活。
 今思えば、近くにはいても、微妙な距離感が2人の間に壁を作っていたように思える。
 紅莉栖の言葉のせいだけじゃない。俺の中でかすかに、鈴羽の体温を感じることに躊躇いがあった。
 それでもいいと思った。体は結ばれなくても、共に時間を超越した一心同体の存在だ。そう自分に言い聞かせていた。いつの間にか変化を恐れる気持ちがあったのかもしれない。
 やがて俺は研究に明け暮れ、鈴羽の想いを見て見ないふりをした。彼女にとってそれがどれだけ酷であったのか。この1年の彼女の変化を見て、俺は自分がどれだけ酷い仕打ちをしていたのか悟った。
 そしてそれは、俺自身の変化ももたらしたようだ。
 今はこの横顔が何より愛おしく。この穏やかに流れる日常を守りたく。新しく生まれてくる命の感動に満ち溢れていた。俺は鈴羽の耳に入るかどうかわからないほど小さな声で呟いた。

「ああ、これもシュタインズゲートの選択だな……」



217: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:41:38.77 ID:EXR5HU4So

 家に帰り着くと、暗い室内で電話機のランプが赤く点滅しているのが目についた。留守番電話が入っていたようである。メッセージを再生してみると紅莉栖からだった。鈴羽と付き合いだして以来の連絡だった。言いつけを破った後ろめたさから、気が進まないが飽くまで動揺は悟られぬよう伝える。

「紅莉栖からのようだな」

「あー、紅莉栖にも伝えなきゃねー」

 鈴羽は言いながらお腹を擦り、にこやかに受話器を渡すよう手を差し出した。すぐにぴぽぱ、とテンポのいいプッシュ音が聞こえてくる。
 まぁ、鈴羽からの報告ならば紅莉栖も快く祝福してくれるであろう。そう思い、俺はソファに腰掛けてテレビのリモコンを操作した。
 鈴羽の明るい声が背中越しに響く。どうやら電話がつながったようだ。軽くお互いの健勝を確かめあっている。しばらく他愛もない世間話を続けた後、鈴羽が切り出した。
 今、彼女のお腹の中には俺の子供がいる、ということを。

「どしたの? うん、ありがと! え? 代われって?」

 その報告の後、紅莉栖から電話を代わるよう言われたみたいで、鈴羽が受話器の口を抑えたまま俺を呼んだ。
 鈴羽から受話器を受け取り、相手が代わった旨を伝える。



218: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:42:46.70 ID:EXR5HU4So

「ハロー……」

 心なしか声が一段と低い。寝起きなのだろうか?
 時計を見ると5時を指している。イギリスとの時差は8時間ほど。今は17時だから、向こうは9時くらいか。
 目覚めるには少し遅いくらいの時間だ。

「久しぶりだな……」

 紅莉栖の心境を探るように、俺も低い声で答えた。

「ねえ、本当なの? 鈴羽とのこと」

 このタイミングで聞いてくるということは、妊娠のことを言っているということで間違いないだろう。
 俺は少しだけ躊躇いがちに返答した。できるだけ短く。

「あ、ああ……事実だ」

「…………」

 一瞬の沈黙があった。気まずい空気が流れる。どうも紅莉栖は俺たちに子供ができたことを祝福してはいないようである。俺はある可能性について考えていた。自意識過剰とも取れる可能性を。
 だがそれを今更口にすることは愚かしいにもほどがあった。ゆえに俺は紅莉栖の反応を待った。

「そう……あんた、約束破ったのね……」

「…………」



219: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:45:50.33 ID:EXR5HU4So

 どう答えるべきか、迷った。しばらく迷ったまま電話機を見つめていると、相手のため息が漏れる音が受話器を通じて聞こえてくる。

「分かった。はっきり言わなかった私も悪いんだから、あんただけを責めるのはお門違いよね……」

「……なに?」

 何を言っているんだ、こいつは。
 予想に反した回答が帰ってきたことでわずかに戸惑った。

「近々日本に行くから」

「なんだと? いきなりか?」

「もちろんある程度片付けなきゃいけないタスクが残ってるからそれを処理してからだけど、できるだけ早くいけるようにする」

「いやいや、わざわざ来るというのか?」

「会って話したいことがあるから」

「お、おい──」

 そう言うと、じゃあ、と言って紅莉栖は電話を切った。ツーツー、とビジートーンがひたすら俺の耳に鳴り響く。受話器を置き、動揺した心を悟られぬよう鈴羽の方を見ると鈴羽はテレビを興味津々に見つめていた。やがて俺の視線に気づくとを訝しげな表情をして「あー、電話切ってるー! 後でまた変わってっつったじゃーん!」と不満を垂れた。

「あ、ああ、すまない……」

「ってか、随分短かったね、相変わらずの口調で怒らせちゃった?」

「いや、なに、仕事が忙しいようでな。あまり時間も無いと言っていた」

「ふーん、そっかー。じゃあ悪いことしちゃったかな」

「それと……近々日本に来るらしい……いつになるかはわからんがな……」

「えー? そうなのー!? そっかー。久しぶりに会えるんだね!」

 久方ぶりに再会できると知って、鈴羽は屈託のない笑顔を浮かべた。そんな鈴羽の様子とは逆に、俺の心は揺らめいていた。電話越しの紅莉栖の棘を感じさせる声色が、妙に気がかりだった。



220: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:48:39.81 ID:EXR5HU4So

 数年ぶりに見る彼女の姿を前に、俺は声をかけるのを少しだけ躊躇した。
 相変わらず堂々としていて、張り詰めた表情で壁に背中を預けている。辺りのねっとりとした湿気に煩わしさを覚えながらも、眺めているとそこだけひんやりとした空間が切り取られているようである。
 大きく息を吸って自らの心を鼓舞する。
 正直、今紅莉栖と会うのは気が進まなかった。
 大切なものはずっとそばにあった。それに気づくまで10年も日々を費やしてしまった。だが、その平穏な日常が音を立てて崩れるような予感がしたのだ。
 逡巡していると、彼女は俺の姿に気づいたようで、視線をこちらに向けてきた。
 もう逃げられないな。そう覚悟を決めて俺は口を開いた。

「……久しぶりだな、助手よ」

「変わらないわね、そのボサボサの髪も、無精髭も、その呼び方も」

「ふっ、貴様こそ。その人を寄せ付けないオーラ。あの時と一緒だな」

 あの時、というのは忘れもしない、俺と紅莉栖がATFのセミナー会場で”再会”した時の話だ。
 その数時間前、ラジ館の薄暗い倉庫で何者かに刺されて倒れているのを発見していた俺は、傷もなく平然と立っている紅莉栖に猛烈な違和感を覚え、気づけば彼女の肩を強く掴んでいた。その後の紅莉栖の殺気と言ったら。ああ、思い出すのはよそう。頭痛が酷い。



221: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:49:56.13 ID:EXR5HU4So

「ああもう、会ってそうそう……。ま、別にいいけど。ともかく大学内、案内してよ」

「あ、ああ……」

 言われるがまま、大学構内を軽く歩きまわった。
 今日は日曜のため学生の数はいつもより少なく、大学も閑散としていた。一周りして、俺の研究室へと招く。
 紅莉栖が「小さいながらも自分の研究室を持つだなんて、出世したな」と賛辞の声を送ってくる。
 上から目線なのは気に入らないが、そう素直に言われると少しだけむず痒い。
 ミニテーブルを挟んでお互い向き合う形でソファに座る。俺は大きく息を吸い込んで言った。

「で? なぜいきなり日本に戻ってきた」

「その前に一言。あんた父親になるんだってね」

「…………」

「一応、言っとく。おめでとう」

「ああ……」

 形だけの祝福を受け取ると、紅莉栖は早速と言わんばかりに本題を突きつけてきた。

「日本に来たのは、あんたに見てもらいたいものがあって……」



222: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:51:49.64 ID:EXR5HU4So

 そう言うと紅莉栖はある機械を目の前に差し出してきた。
 その機械は片手で持てるほどの台座の上にいくつかのニキシー管が並べられているというレトロなものだった。
 それぞれのニキシー管にはぼんやりとオレンジ色のいくつかの数字──それと左から2番目の管にはピリオド──が光り輝いていた。

「なん……だこれは……数字……?」

 そこに表示された数値は──

 0.615074

 一番左の管だけ微妙に形状が違ったのが気になった。まるで壊れた部品を取り替えたかのような。
 だがそれ以上にこの数字の不気味さに俺は心を奪われていた。それくらい異質な物体だった。



223: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:52:37.12 ID:EXR5HU4So

「おい、これは一体何の機械だ……?」

「見覚え、ないか。やっぱり……」

 落胆する声がニキシー管に釘付け状態の俺に突き刺さる。大きく息を吸って意を決したかと思うと紅莉栖は──

「この数値が1%を越えた時、β世界線へとたどり着いたことになる」

 なにを──

「その世界線ではディストピアが形成されず──」

 いっているんだ──

「まゆりが死なない可能性がある世界線──」

 おまえは──

「あんたが望んだはずの世界線よ」

 息が荒い。もうすぐ夏だというのに冷や汗がにじみ出てくる。じわじわと脳にノイズが鳴り響いてきて──

「やっ、やめろっ──!!」

 気がつけば勢い良く立ち上がり、話を遮っていた。
 そんな俺の様子にたじろぐ素振りも見せず紅莉栖は俺をじっと見つめている。



224: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:53:56.49 ID:EXR5HU4So

「こうなった以上は、あんたに記憶を取り戻してもらう必要がある。私1人の判断じゃ、きっと世界は変えられない。いや、変えてはいけない……。あんたの記憶を頼りにして解を導く。その上であんたが選ばなくちゃいけないのよ」

 紅莉栖が何を言っているのか分からない。分からないけれど、その声を聞いているとザーとテレビの砂嵐のノイズみたいな耳障りな音が頭に鳴り響く。

「それ以上言うな! 言わないでくれ!」

「世界線の変動を感知できて、まゆりの命と、鈴羽の想いを守るという願いを両立できるのはあんたしかいないんだから」

 1枚の膜を隔てたように、紅莉栖の声が遠くに感じる。ノイズにかき消されそうな小さな音なのに、不思議と頭に入り込んでくる。そしてそれは楔を打ち込んだように脳裏から離れなかった。

「やめろと言っているだろう!」

 声を荒らげる俺に1つも身じろぎもせずじいっと見つめてくる紅莉栖に俺は寒気を覚えていた。
 なんでお前はこんなにも冷静なんだ。



225: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/09(金) 17:56:38.21 ID:EXR5HU4So

「岡部、逃げないで。目をそらしちゃダメ」

「お、俺は逃げてなどおらん……」

「鈴羽と、あんたたちの子供のことを思うのなら、あんたはここで逃げちゃいけない。あんたの目を覆い隠して見えなくしている仮面を外さなきゃいけない」

「なぜだっ! お前は一体、何を知っていると言うんだ……!」

「それはあんたが記憶を取り戻せば分かることよ。私の言うとおりにして……。私と一緒に、イギリスに来なさい。精神療法に精通している私の知り合いを紹介するから」

「そんな……すぐに決められるわけ無いだろう……」

「すぐじゃなくていい。でもいずれは選ばなきゃいけない。それだけはわかって」

「…………」

 その時安っぽい電子音が響いた。ポケットをまさぐり、手のひらでその感触を確かめてからそっと取り出す。ポケベルに届いた鈴羽からのメッセージだった。
 すぐに安堵感が胸の中に温かみを抱かせたが、そのことが逆に、大きくなりつつある焦燥感の存在を嫌でも感じさせた。しこりとなって不快感を催すその何かを今すぐに取り去ってやりたかった。
 先ほどの紅莉栖の言葉を頭の中で反芻する。

──”ここで逃げちゃいけない”

 俺は紅莉栖の顔は見ずに、迷いながらもぼそりと呟く。

「分かった……。いくよ……」



233: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:05:41.61 ID:0whGTSNro

 数日後、鈴羽や大学の事務に、研究のためイギリスへ発つと伝え、諸手続きを済ませて俺は新東京国際空港から日本を後にした。およそ半日のフライトを終え、俺はロンドンの地へと降り立っていた。
 ヒースロー空港を出るとすぐに強風の横風が浴びせられる。

「風が強いな……」

 みな、吹き荒れる風に身を縮めて歩いていた。頭を帽子に包むものはそれを抑えながら耐えている。

「海洋性気候だからね、通常運転よ、こんなの」

「そういうものか?」

 と、紅莉栖が手を横に広げ、黒いタクシーを止めた。すぐに助手席の窓が開き、紅莉栖は運転手に行き先を告げる。

「行くわよ」

 伝え終わったようで紅莉栖がこちらを振り向き、後ろの座席に乗るように促した。それに従うまま俺はドアに身をくぐらせ、腰をおろした。すぐに隣に紅莉栖が乗り込んでくる。俺は尻をあげ、座席をズレて彼女のスペースを作った。

「街を案内してあげたいところだけど、すぐに病院へ向かうわ。前にも言ったけど、精神療法に精通している私の知り合いが来てくれてるから。今回は恐らく催眠療法による治療が行われるはずよ」

 催眠療法……。その言葉に少しだけ不安を覚える。

「最近は会社経営とか多岐にわたる方面で仕事していてすごく忙しいらしいから感謝するのね」紅莉栖はそう付け加えた。



234: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:09:30.76 ID:0whGTSNro

 タクシーを降りてしばらく紅莉栖の後ろを歩いていると、すぐに茶色を基調とした歴史を感じさせる建物が俺の目に映った。白い格子窓がいくつもつけられており、屋根の中央には青銅の時計台がそびえ立っていた。海外の小学校を思わせるような形貌である。
 中に入ろうとすると白衣を着用した大柄な白人男性が看護婦と話している様子が目に入った。

「あ、ちょうどよかった。あの彼が今回あんたを見てくれる先生よ」

「ふむ……」

 年は俺たちと同程度……かもしくは少し上、といったところか。
 もっとも、白人だから少しだけ俺たちより老けて見えるだけかもしれないが。まあ、そんなに年は違わないようだ。やがて紅莉栖はやや声を張って──

「Hi,Miggy!」

 その声に気づいたのか彼はすぐに笑顔で俺達の方へと向かってきた。
 紅莉栖がこちらを向いた。

「あ、ミギーっていうのは彼の愛称で──」

「Oh! I missed you,Elaina,darling!」

 俺に対して補足していた紅莉栖を無視して大げさに両手を高く掲げて紅莉栖に抱擁とキスを求めてくる大男。そんな彼に対し紅莉栖はやれやれと言った様子で両手で彼を押しのける。

「Yeah,Yeah,Whatever!」

 と呆れた様子でその男を突き放す紅莉栖。その手慣れた様子から普段から似たようなやりとりをしているのだな、と悟った。紅莉栖は彼に何か伝えている。流暢な英語で俺には聞き取れないが、恐らく俺のことを説明しているのだろう。
 話が終わると、彼は同様に俺に対しても抱擁を要求してきた。キスや頬すりこそなかったけれど。いや、あっても困るのだが。
 互いに簡単な自己紹介を終え、文化の違いに多少戸惑いつつも、俺は紅莉栖にそっと耳打ちする。
 
「な、なにやら、英国紳士らしからぬお方だな……。俺はもっとこう、硬派に握手とかかと思ったぞ」



235: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:13:19.42 ID:0whGTSNro

「ああ、イギリスに駐在してはいるけれど、生まれはイタリアらしいから。生粋のHENTAIよ。今も口説かれてたんじゃない? 彼女」

 そう言って紅莉栖は玄関の少し奥に佇む看護婦を見る。彼女はこちらを恨めしそうに見つめていた。

「な、なるほど……。イタリアンの変態紳士か……」

 そこまで言わせるのだから、よっぽどなのだろう。恐らくはダルに匹敵するほどに。考えたくもないが。

「HENTAI? No,No. A Philogyny」

 は? フィ、フィロ……?
 俺がぽかんと口を開けていると「いちいち相手しなくていいわ。自分で自分を女好きって言っただけだから」そう言って紅莉栖はさっさと中に入っていってしまった。
 
 と、というかHENTAIって……すでに外国人にも通じるのか? それとも紅莉栖が広めたのだろうか。
 まあ、それはどうでもよくて。
 颯爽と歩いて行く紅莉栖の後を追いかけるべく歩き出す。するとイタリア人の変態──失礼──女好きの彼も俺の横に並んで歩いてくる。その瞳には興味津々といった光が宿っているようだ。
 途中何度か英語で話しかけられるが、聞き取れず上手く答えることができない。やがて英語が通じないと分かり諦めたのか、少し前を歩く紅莉栖の元へと小走りで向かっていった。



236: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:15:24.64 ID:0whGTSNro

 どっと疲れが出てきたのは恐らく長時間のフライトだけではあるまい。まったく厄介な人物と引き会わせてくれたものだ。
 しばらく廊下を歩いているとふいに2人が室内へと入った。それにつられて俺も部屋へとくぐる。

「ここよ」

「ほおー……」

 外観は芸術的であり学校のような姿形だが、やはり病院だけあって白を中心とした壁、家具の構成であり落ち着きを感じさせる。

「じゃ、そこの椅子に腰掛けて」

 紅莉栖が指さした先にはふんわりとした表皮が余裕を感じさせる白いリクライニングチェアー。背もたれを倒せば大柄な男でも横になれるようながっしりとした安定感がある。脚部にはオットマンも用意してあり、それに足を乗せれば簡易のベッドになりそうだ。
 俺は紅莉栖に言われるまま、椅子に腰を下ろす。ミギーと看護婦、紅莉栖に見つめられ俺は少し居心地の悪さを感じた。
 これから始まるんだよな……。俺の記憶を取り戻すための治療が……。
 色々な不安が交錯していた。そんな俺の心情を察したのか、紅莉栖が近づいてきて再び耳打ちする。

「今回、特別に私も立ち会いできるようにしてもらったから。基本的に治療の進行はミギーの指示に従って、私が日本語通訳という形であんたに指示する。無いとは思うけれど、飛行機の中で伝えたとおり、万が一あんたが変なこと口走ってもちゃんとフォローするから」

「あ、ああ……」



237: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:17:42.82 ID:0whGTSNro

 変なこと──それはタイムトラベルについて。だ
 いくら記憶を失っているからといって、患者からタイムトラベルした、などというワードが出てきたら不思議に思わざるを得ないだろう。
 それがもし、万が一SERNにでも伝われば──
 俺たちの計画は台無しになる。それを懸念してのことだ。
 催眠状態に陥ったとしても意識が無くなるわけではないから話すべき内容は自分の意思で選択できる、と紅莉栖は言っていたが、それでも不安は隠し切れないでいた。
 そして治療が始まった。
 ミギーと呼ばれる精神科医が英語で紅莉栖に対して喋りかける。それを受けて紅莉栖が俺に対して指示を与える。まずはカウンセリングが行われた。
 ヘタなことは言えないため、考えこむ部分が多かったが、記憶を失っているということでさほど不思議には思われなかったようだ。
 やがて、カウンセリングが終わった後、いよいよ催眠療法に移る、と紅莉栖から伝えられる。
 いきなりか、とも思ったが、事前に紅莉栖がある程度症状について彼に話しておいたようだ。俺の場合、恐らく強いトラウマが辛い記憶を封じ込めている。そう判断したのだろう。催眠状態にかかった俺から潜在意識に沈んだ記憶の残滓を引っ張りだすつもりらしい。
 紅莉栖は真摯な眼差しでこちらを見据え、そして言った。

「きっとあんたにとってこの数時間はとてもつらい時間になると思う。でも、あんたならきっと、乗り越えてくれると信じてるから」

「任せておけ、この俺を誰だと思っている」

 いつもの口調で強がって見せたが、内心は暗澹たる思いが心の中を占めていた。
 ミギーが英語で話すまでもなく、紅莉栖が日本語で催眠誘導を行う。紅莉栖はてっきり翻訳に徹すると思っていただけに意外だった。

「おい、まさかお前の10年の研究というのは俺の記憶を呼び起こすための催眠術ではあるまいな……?」

「んなわけあるか。以前セミナーを受けたのよ」

 説明書を読んだのよ、的な感じか。いやちょっと違う気がする。



238: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:20:28.51 ID:0whGTSNro

「はい、集中して。無駄口叩いてると催眠状態に移行できないわよ」

 紅莉栖に窘められ、俺は仕方なく指示に従う。
 ゆったりとした、人を落ち着かせるような口調の声が病室内に静かに響いている。
 はじめは外の雑音──車の音や人の会話、鳥の鳴き声も耳に入ってきて気になっていたが、やがてそれらは綺麗さっぱり消え、ついには紅莉栖の声だけが俺の脳内に鳴り響くようになった。
 わずかだが徐々に体が重くなってきた。まぶたがぴくぴくと痙攣していて違和感がある。紅莉栖の声に耳を傾け続けていると次第に体の重さは増していき、腕を動かすのも億劫になる。正直この状態が続くと辛い。叫びだしそうになる。
 そのことを伝えると、紅莉栖は一言、すぐ体は軽くなる。と小さく言った。
 それから数秒後、のしかかっていた重みは体から抜けていき、次第にふわりと浮き上がるような感覚に陥る。その様子が紅莉栖にも見て取れたのか、彼女は体が楽になったかどうか尋ねてきた。俺はそれに頷く。
 直後、小さく”入ったかな”という声がした。英語が流れる。まるで英語の教材のCDを再生しているようだ。
 すぐに紅莉栖の声がする。

──はい。目をつぶって頭のなかで思い浮かべてみて。今、あんたはラボ内に居る。日時は8月13日。まゆりと橋田と鈴羽と私がそばにいる。

 その場面を想像してみた。紅莉栖が言った4人がわいわいと料理をつついているシーンが脳裏に浮かび上がった。ラボ──2010年の未来ガジェット研究所──でタイムリープマシンの開発評議会を行っている様子だ。

──イメージ出来た?

「……ああ」

──その後、4人はそれぞれどうなった?

「鈴羽が突然帰った」

──彼女が帰った理由に心当たりは?

「分からない。爆破テロ予告の警報がテレビに映った途端、血相を変えてラボを飛び出していった」

──じゃあ橋田や私は、どうなった?

「そのままラボに居続けた」

──まゆりは?

「…………分からない」



239: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:22:31.83 ID:0whGTSNro

──覚えていないの?

「…………ああ」

──じゃあ、鈴羽が帰った後のこと思い出して。

「鈴羽が帰った後……俺は、爆破テロの予告に胸騒ぎがして……」

 まゆりが俺の手を握ってきて。

「窓の外では消防車のサイレンが鳴り響いていて……」

 それに呼応するように俺もまゆりの手をぎゅっと握りしめて。

「あ……ああ……」

 突然、浮かび上がるあの場面。
 それは──ラウンダーの襲撃だった。静まり返るラボの室内に鳴り響いたドアが蹴り開けられる音。数人の男たちが素早く玄関に闖入し、銃を構える。

「あああ…………」

──どうしたの?

「奴らがラボを襲ってきて……!」

 無意識に声が荒くなる。息が苦しい。胸が押し潰される。急激に体感温度が下がったような感覚に陥った。

「あいつが! 桐生萌郁が!」



240: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:23:52.67 ID:0whGTSNro

──落ち着いて!

 銃を構え──

「やめっ……」

 そこでは俺はなにもできない。
 いや──
 そこでも俺はなにもできなかった。
 乾いた銃声と共に飛びかかる温かい感触。
 小さく呻くまゆり。
 やがて全身の力が失われ、目から光が消えていった。
 俺の腕の中で、無残にも頭を撃ち抜かれてまゆりが死んだ。
 
 何度も──
 
 何度も何度も。
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も──



241: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:25:56.23 ID:0whGTSNro

 気がつけば紅莉栖が俺の体を揺さぶり、催眠状態から抜け出すための処置をしてくれていた。
 俺は呼吸を異常に乱し、汗と唾液にまみれ、涙を垂れ流している。だがそれ以上に俺の心はかき乱されていた。
 
──思い出してしまったから。

──まゆりの死と、それを回避しようと必死に走り続けてもどうしようもできなかったあの時間の輪を。

 ミギーが何か紅莉栖に言い聞かせている。どうやら今日のところはこれで終わりらしい。別室で休むよう言われた俺は力なく頷いた。

 その後も日を跨いで治療は引き続き行われた。
 あの日の夜に再びカウンセリングをしたが、紅莉栖はまだ完全には記憶が戻りきっていないと判断したらしい。
 翌日以降、ミギーの指示による進行でゆっくりと、ゆっくりと頭をほぐすように記憶を取り戻していった。

 ラウンダーの襲撃。
 時間を巻き戻し、防ごうとしたまゆりの死。追い詰められどうしようも無くなった俺を救ってくれた紅莉栖。
 IBN5100を俺に託すためにタイムマシンへと乗り込み、記憶を失い自殺した鈴羽。
 思い出を消すことができず、かといってまゆりを見殺しにすることもできなくて逃げ込んだ2日間。
 
 閉ざされた時間の輪を繰り返すことで、次第に俺は心を失っていった。俺の心も閉ざされていった。ただ平穏に、あの2日間が無事に終わればそれでよかった。すべてが予定調和。あの2日間においては俺が神だった。SERNもラウンダーの襲撃も、訪れるまゆりの死も、鈴羽の悲痛な最期からも逃れられた。
 変わることのない分かりきった未来に支配された俺の心も、やがて闇に支配されかかっていった。
 そんな俺の手をとって救いだしてくれたのが──鈴羽だった。



242: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:27:38.65 ID:0whGTSNro

 
 そして治療が行われてから1週間。俺は自分が思い出せるであろう全ての記憶を取り戻した。初めに思い出したまゆりの死の記憶に比べれば、後々の治療は幾分穏やかに進んだものだった。
 しかし、俺が思い出した記憶の中に、鈴羽に関わるある事実。それが俺を苛ました。
 鈴羽はダルの娘であり、IBN5100を俺に託すために2036年から跳躍してきたタイムトラベラー。
 どう足掻いてもIBN5100を手に入れる手立てを見いだせなかった俺たちが取った手段──
 それは本来鈴羽1人で行うはずだったタイムトラベルに、俺も同行するというものだった。その結果、今の俺がここにいる。
 俺は彼女の姿を思い浮かべた。
 痛切な顔を浮かべる鈴羽。屈託なく笑う鈴羽。頬を膨らませて口を尖らせる鈴羽。
 この10年、様々な表情を俺に見せてくれた。そのどれもが記憶の中で宝物のように輝いている。
 そう──暗がりの中で、はじめて体を重ねあわせたあの日の、顔を赤らめ目をそらした仕草も。苦痛に耐え、声を漏らさまいと必死に口をつぐんだあの顔も。新しい生命に口元をほころばせ幸福に包まれていた鈴羽も。

──全部が愛おしかった。

 だがそれも、幻であった方が良かったのかもしれない。
 なぜなら俺が1975年へとタイムトラベルしたのはIBN5100を手に入れるため。
 そのIBN5100を用いてSERNにハッキングし、”最初のDメール”をSERNサーバー内から消す事こそが、まゆりを助ける手立てであり、何より──
 鈴羽の想いを──意志を守ることになるはずだった。
 だが、そうすれば──β世界線へと分岐してしまえば──

──なかったことになるんだ。この10年間が。すべて。塵のように。



243: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:29:53.53 ID:0whGTSNro

 俺や鈴羽、紅莉栖は恐らく再構築され、存在はなかったことになる。もちろん、新しく生まれてくる俺たちの子供も。
 あの時──IBN5100を購入するための資金がたまり、満を持して購入に踏み切ってすぐのこと──紅莉栖の様子がおかしくなったのは、恐らくその事実に気づいたからであろう。
 最初のDメールを消してα世界線からβ世界線に跳躍するということは、つまり紅莉栖が刺殺された世界線に戻るということだ。35年後とは言え、自分の存在を消すために生き続けるというのはどういう気持ちだったのだろう。
 そんな罪を背負わせないためにも、紅莉栖は俺たちの記憶を戻すことを拒んだのだ。たとえ変わった先の世界で、存在を消されたとしても。
 記憶は戻った。戻ってしまった。
 浮かない顔を浮かべつつもミギーに治療のことに関して礼を述べると、多少釈然としない様子だったが、俺の両肩に手をポンと置き励ましの言葉を送ってくれた。

「I'll give this word to you.──”I am the master of my fate.I am the captain of my soul”」

 英語で言われたから一瞬戸惑ったが、どうやら俺にも分かるように簡単な言葉を選んでくれたようだ。
 日本語に訳すると──己の運命の指導者は自分。己の魂の指揮官は自分だというメッセージだった。
 帰りのフライトの中で俺はその言葉を何度も反芻していた。他のことは一切考えたくはなかった。

──己の運命──

 運命に抗って繰り返した円環の環を抜けだして──さらに辿り着いた先には過酷な運命が待っていた。その運命を招いたのは紛れなく自分……か。
 励ますつもりで言ったであろう言葉は皮肉にも俺が辿ってきた過去を表しているようで、そのことが沈んだ気持ちに拍車をかける。



244: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:32:12.76 ID:0whGTSNro

 俺はすでに日本に帰国していた。家にはまだ帰っていない。鈴羽にも一度も顔を見せていなかった。
 どんな顔を見せればいいというのだ。
 今は大学の研究室で1人、講義を放棄してソファに身を埋めていた。テーブルにはアルコール度数の高い酒。
 卒業して研究職として大学に身をおくようになってから、より一層酒の味を覚えた。教授連中との付き合いで飲まされることもしばしばだったから。
 それでも、今ほど溺れるまで飲んだことなどない。大学に見つかればなんと言われるかわからないが今はそんなこと関係無かった。
 ブラウンに染まった細長い円筒のボトルを直接煽り、一気に喉に流し込む。すぐに焼けるような熱が食道を流れていき、胃を焦がした。その不快感と快感が交じり合うような感覚を味わった後、俺は大きくため息をついた。

「ふぅぅぅ……」

 世界線を変えなれければまゆりが死に、ディストピアが形成される。
 世界線を変えればタイムトラベルした3人は消える。生まれてくる子供もだ。
 帰国以来ずっと頭を悩ませてきたこの問題。どれだけ考えても、打開策を思いつくことができず、俺は酒に逃げた。辛い現実に向き合うよりも、このほうがずっと楽だ。
 
「クッククク……」

 俺は嘲笑うように喉を鳴らした。タイムリープで延々と2日間を繰り返したように、今俺がやっていることは逃げだ。それは誰の目から見ての明らかだった。
 どうやら俺は逃げる癖がついてるみたいだな。そう分析し自嘲する。
 ふいに研究室のドアが開いた。俺は顔をあげずにぼうっと考える。
 ノックはされていただろうか。だがそんなことはどうでもよかった。
 俺には入ってきた客人の対応をする気などさらさら無かったから。
 今更誰が入ってこようが関係無かった。今はただ、この気分に浸っていたい。空に浮かんでるようなこの感覚に。



245: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:34:01.79 ID:0whGTSNro

「…………」

 来訪者は少しためらうような息遣いをして、やがて意を決したように口を開いた。

「久しぶり、だね」

 鈴羽だった。その鈴羽の迷うような声が俺の心を揺らした。罪悪感が全身に広がり胸を痛める。別の意味で、顔を上げることができなかった。

「飲んでるの? 家にも帰らずに何してんのかと思ったら……」

「これが飲まずにいられるかよ……」

 ひび割れたような声で投げやりな言葉を吐き捨てる。まさかこんなセリフを言う日が来るとは。そう心の声を浮かべてまた俺は自嘲した。

「ねえ、何があったの? イギリスで何があったの?」

 俺は答えない。答える気力がない。そもそも、紅莉栖から記憶に関することは口止めされていた。今話してしまえば彼女は絶望してしまうかもしれないから。

「紅莉栖に、会ったよ……」

 どうやら紅莉栖も少し遅れて日本にやってきたらしい。
 記憶を取り戻した俺は憔悴しきっていたから、すぐに日本に戻れという紅莉栖の配慮だったが彼女も既に戻ってきていたようだ。
 後にまた今後のことで話そう、という約束をしていたが、もう来ていたとはな。ご苦労なことだ。



246: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:35:05.58 ID:0whGTSNro

「何かあったの? 紅莉栖と……」

「別に、なにも……」

 とっさに否定する。

「嘘。何もないわけないじゃん……。彼女も君のこと、心配してた……」

 まあ、そうだろうな。

「話してよ……それともあたしには話せないことなの?」

 言えるはずがないだろう。
 この先、世界線を変えれば俺たちは──少なくともお前と紅莉栖は確実に再構成され、世界から存在を否定される。
 未来で生まれるお前は別の存在と言っていいだろう。いや、生まれるかどうかも、分からない。挙句の果てに今お前のお腹に宿っている生命も、消える──
 そんなこと、言えるはずがないだろう……!
 鈴羽の問には答えず、俺は俯いたまま押し黙る。そんな俺の姿勢にとうとう愛想を尽かしたのか、鈴羽は何度か大きく息を吸うような息遣いをしてみせたが、やがて何も言わずに研究室から飛び出していった。
 やり場のない気持ちが俺の拳をわなわなと震わせる。俺はその拳を振り上げて目の前のテーブルに叩きつけた。ガシャン、とテーブルの上に乗るボトルや細々とした小物が音を立てて跳ねた。
 しばらく時間経って、またドアが叩かれる音がした。
 やはり諦めきれずに鈴羽が研究室に戻ってきたのだろうか。だとしても俺はもう、今は何も話す気にはなれなかった。返事を待つドアの向こうを無視し、再び酒を喉に流し込む。
 今はただ、この胸を下る熱い液体が俺の臓腑を焼く感触に身を委ねておきたかった。



247: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:36:26.45 ID:0whGTSNro

「……はろー」

 ドアが開けられると同時に、おそるおそる、と言った様子で挨拶を口にする紅莉栖が姿を見せた。
 鈴羽ではなかったのか。だが、誰が来ても相手をしたくはなかった。今はただ1人になりたかった。

「気持ちの整理は……ついた?」

 整理だと? そんなことしてどうするというんだ。何が変わるというんだ。
 気持ちを切り替えたところで俺の大事な人達が消える未来は変わらない。それとも後の余生を有意義に過ごせ、とでも言いに来たつもりか?

「……研究室から飛び出していく鈴羽を見たけど……話したの? 彼女に……」

 頑なに押し黙る俺に続けて紅莉栖が気を使うような口調で話す。

「……言えるわけ、ないだろ……。まだ生まれてもない子供の余命を言うようなこと……」

 俺が本来の目的通りIBN5100を使って世界線を変えれば、2010年には消える。タイムリミットは22年か。
 そんなの、あんまりだろう。



248: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:37:34.42 ID:0whGTSNro

「確かに、あんたと鈴羽が作り上げる未来は、本来の目的を達成するのであれば絶対に選んではいけない未来だった。でもね、いくら使命のために生きてるからといって、人間が享受すべき幸せを放棄してまで使命に縛られるべきなのかな」

「何が言いたい……」

「人としての幸せを手に入れたいがために、こうなったこと責めなくていいと思うってことよ」

「だがその幸せもいずれ壊れるではないか……」

「物であれ想いであれなんであれ、永遠に壊れないものなんて無いんじゃないかしら?」

「ふっ……お前にしてはやけに直覚的な意見だな。昔であれば物理法則や科学的常識は絶対などといいそうだがな」

「屁理屈は相変わらずね。それこそ物理法則や科学だって、人類の発展によって破壊と創造が繰り返されてきたじゃない。正しいと思われていた事実が覆される。不可能だと思われた技術が実現可能になる。破壊、というよりは変化かしらね」

 何が屁理屈だ。それこそ屁理屈ではないのか?

「歴史だって、変えられる。すでに科学的に証明されてるじゃない。あんたにはそれが解ってるでしょ?」

 1つため息を入れ、俺を指さす紅莉栖。



249: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:38:29.47 ID:0whGTSNro

「人だって、変わるわ。私もこの10年、色々考えることはあったから……」

「話が見えてこんな。こんな話をするためにわざわざ日本に来たのか? ご苦労なことだな」

 こんな事態になったにもかかわらず平然としている目の前の女にいらつきを隠せず、おもいっきり皮肉を口にする。だが紅莉栖は動じない。俺の文句には反応せず切り出してきた。

「ねえ岡部。未来を……未来を変えてみたいとは思わない?」

 未来を変える、だと? 今更何を言っているんだ。その未来を変えるために──
 鈴羽の想いを引き継ぐために──
 ここまでっ……きたのにっ……!!

「選択肢は3つ」

 3本の指を立てて、紅莉栖は慎重に、ゆっくりと続けた。

「3つ……だと?」

 顔を上げた俺を紅莉栖は手のひらで制した。これから説明する、ということらしい。



250: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:40:37.94 ID:0whGTSNro

「1つは、従来の目的通り、IBN5100を使って2010年7月23日にエシュロンに捕らえられた最初のDメールを消す。その場合、タイムトラベルした私達はきっと再構成される。β世界線に戻れば、私は7月28日に何者かに刺されて死ぬ。鈴羽は再構成されて、数年後に生まれてくる。生まれるかどうかも確定してないけれど。あんたについては、世界がどういう判断を下すかわからないわね。矛盾がないように再構成されて、今のあんたの意識は身体とともに存在しなくなるかもしれない。2010年において存在してるもう1人のあんたに上書きされるかもしれない」

 どの道、多くを失うのは確定している。紅莉栖の死も世界線の収束によって不可避だろう。タイムリープマシンは存在せず、Dメールを使えば再びα世界線に戻ってしまう可能性が高い。
 どうしようもない絶望の世界線だ。

「もちろん、タイムトラベルしたあんたも鈴羽もいなくなるってことは──あとはわかるな?」

 俺たちの子供も、なかったことにされる。紅莉栖同様跡形もなく消えるだろう。

「そして、2つ目の選択肢。これは正直賭けになるんだけども……」

 どういう未来を思い描いているのか知らないが、絶望的だ。まゆりを救いディストピアを回避し、俺たちも再構成されない未来へ辿り着くなんて。賭けにしてもそんなことが可能なのか? 0ではないとはいえ、あまりにも希望的観測すぎる。

「大分岐の可能性に賭けてみる」

 大分岐……だと?

「鈴羽の話を覚えてる? まれに別のアトラクターフィールドをまたぐほどの大分岐ができる年がある、そう言ってたこと」

 そういえば、そんなことを言っていたような……。

「近年だと、ソ連崩壊が起きた1991年と2000年問題があったはずの2000年て言ってたかしら」

 今は1987年、91年までは4年。2000年までは13年。考える時間はあるようには思える。

「だがどうすれば大分岐など起こせる? タイムマシンはおろか、タイムリープマシンも電話レンジも存在しないんだぞ」

「ソ連崩壊を阻止するってなれば、ちょっと非現実的かもしれないわね。でも……」



251: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:42:25.96 ID:0whGTSNro

 紅莉栖はそう言って、口をごもった。その先を言うのを躊躇っているようだ。
 代わりに俺がその言葉を補う。

「2000年問題を意図的に起こすというのか? だがそれも現実的とは言いがたいぞ」

「でも、4年後の1991年より、13年後の2000年のほうが、はるかに可能性はある」

「だが、現実に2000年問題が起きれば、多くの人が害を被ることになる。そうまでして未来を変えるというのか!」

 俺の追及に紅莉栖は答えない。

「変わったな……お前」

 俺は責め立てるように吐き捨てた。紅莉栖は相変わらず動じない。それどころか反撃とばかりに言葉を返してくる。

「そうかもね。でも本当に変わったのはあんたの方じゃない?」

「なに? 俺が……?」

「以前のあんたなら、世界を混沌に陥れてやるーとか、我が目的の前には愚民の命など路傍の石同然だーとか、言ってたんじゃない? 狂気のマッドサイエンティストさん?」

「……昔の話だ。もうそんなこと独善的なこと言ってられるか……。俺は神でもなんでもない。ただの人だ……」

 紅莉栖が大きくため息をつく。「らしくないな」とつぶやき、やがて腕を組んで淡々と話し始めた。



252: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:43:41.39 ID:0whGTSNro

「そもそも、あくまで可能性の話。こういう選択肢もある、っていう話をしてる。私だって、罪のない人たちの生活を脅かすようなことはしたくないしαでもβでもない世界線だからといって、まゆりの命や未来の平和が保証されてる訳でもない。だから──」

 紅莉栖が息を呑む。俺もつられて息を呑んだ。

「だからずっと考えていたの。第3の選択肢について、ね」

 第3……。そう言えば紅莉栖は3つ選択肢があると言っていた。
 1つ目はIBN5100を使って最初のDメールを消し、β世界線に戻ること。
 2つ目は大分岐によってα、β以外のアトラクターフィールドへの分岐の可能性に賭けること。

 では3つ目は一体何だ?

「3つ目は──」

 ごくりと喉が鳴った。まだ何か打つ手があるというのか。

「3つ目は……正直な話、まだ机上の理論の域を出ない」

 紅莉栖はさらりと言う。期待を持たせるようなことを言っておいて、結局その可能性に頼るには心もとないということだ。

「当然だろ……。そんなに簡単に解決手段が見つかれば苦労はしない」

 突き放すように冷たく言い放つ俺に紅莉栖は呆れるでもなく、怒りを露わにするでもなく──

「10年間、私が研究してきたテーマ、なんだか分かる?」

 突然話を切り替えてくる。



253: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:45:29.74 ID:0whGTSNro

「さあな。大方、脳科学の分野か、あるいは少ない可能性にかけるためのタイムトラベル実験だろ」

「あながち間違いじゃないかな。脳科学の分野にも及ぶし、タイムトラベルについては思考実験として常々考えていたし」

「回りくどい、さっさと言ったらどうだ」

「そうね。私が今いる研究チームでは……いわゆる魂の所存。それにともなって、死の定義、これらについて研究している」

 魂? 死だと?

「なんだそれは……もはや宗教学や哲学の分野ではないか……」

「あくまで科学的見地から分析した、よ」

「それが一体なんの関係がある……」

「ねえ。世界が決定づけている死の定義って、なんなのかな」

「なに? ……人の死の定義など宗教、文化、法律や医療によって様々だろう」

「そう、人によって──学問によっても死の定義はそれぞれ異なってくる。脳死、心臓の死、精神の死、存在の死など──そして世界が与える死……。もし仮に、その死が脳や肉体の破壊を伴わないならば……。そこに抜け道があると、思わない?」

「だったらどうだというんだ。人々の頭のなかからまゆりの存在していた証をすべて消し去ったり、まゆりの精神を完全に壊しでもすればまゆりの命だけは助かるとでも言うのか?」



254: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:47:45.58 ID:0whGTSNro

 紅莉栖は何も答えない。俺の言葉を待っているようだ。ならば言ってやる。

「そんなの机上の空論どころか、ただの妄想だ。世界は……そんなに生易しいものじゃない。俺は何度もまゆりの死を見てきた、抗うことなどできやしない……、もたらされるのは完全なる死。椎名まゆりの存在が否定されるのは決定事項なんだよ……」

 そう。それが世界の意思であり、運命なんだ。ただの人である俺たちがそれに抗うことなどできやしない。

「仮にお前の言うように、植物状態になったり、まゆりの自我が壊れた状態になって、生きられたとしても、それじゃ意味が無い……。俺はあいつの笑顔を守りたかったんだ……」

 でもそれも叶わない。

「手段は……2つなんだよ……まゆりを見捨てるか……。今のこの世界を見捨てるか……2つに1つだ……そして俺にはもう、選べない……」

 俺は俯いて紅莉栖に告げる。

「まゆりを救えず、鈴羽の想いにも応えられないディストピアが待っているんだよ……」

 俺は複雑な思いでそう呟いた。どれだけ足掻いてもまゆりを救えずに絶望した日々を頭に浮かべると、暗澹たる気持ちが思い起こされるのが禁じ得なかった。
 しかし、この10年間紅莉栖が他の選択肢に考えを巡らせていたことにある意味、感動を覚えていた。
 もし記憶が正常だったとしても、俺はIBN5100を用いたハッキングによる方法以外の選択肢を吟味しただろうか。
 自分や紅莉栖、鈴羽が再構築されるとしても、その方法以外の手段を見つけようと世界に抗っただろうか。
 答えは出ない。
 結局のところこの数日考えても、他の方法は考えつかなかった。そして今、俺は再び逃げるという選択肢を取った。問題を先送りしているだけ。無意味な日々。
 それに比べてこいつは腐らず、すぐに頭を切り替えて解を見つけようとした。その姿勢に素直に賛辞を送ってやりたかった。
 が、それでも──

──未来は変わらない。



255: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:48:42.96 ID:0whGTSNro

「断片なのよ。鈴羽が観測したものは」

 え?

「確かに私やあんたの未来は観測された。でもそれが私の人生のすべてじゃない。鈴羽は私が死ぬまで絶え間なく観察し続けた訳じゃない。そうだろ?」

 得意げな表情と口調でさらりと言ってのける目の前の彼女は──

「私たちがいるこの”今”と、彼女が観測した未来の地点。その間にあるものは、空白」

 2010年で俺を救い出してくれた頼もしい顔つきのままだった。

「そこに付け入る隙がある」

 結果は、変わらない。
 過程は、変えられる。

「それに、いずれSERNでタイムマシンの母となる私は、2010年にはもういなくなるわけだから、SERNにとっては未来ぶち壊しも同然よね!」

 紅莉栖はふんぞりかえり、無性に乱暴な口調でそう言ってのける。



256: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:50:37.32 ID:0whGTSNro

「お前な……」

「ともかく、もう一度よく考えてみて」

「何を今更、考えるというのだ……。答えはもう……」 

「ただひたすら何もせず訪れる悲劇に怯えながら毎日を過ごすのか」

「…………」

「絶望の中、暗闇の中でも一筋の光を求めて、抗い続けるのか」

 一筋の……光……。

「考えて考えて、考えぬいて、真っ白になるまで燃え尽きた上で出した結論なら、もう私は何も言わない。私はあんたの協力がなくても、最後まで諦めないから」

「紅莉栖……」

「じゃ、そういうことなんで失礼するわ」

 そう言い捨て紅莉栖はドアをガチャリと閉めた。乱暴にでもなく、慎重にでもなく、当たり前かのように、ごく自然に。
 コツコツコツと、彼女のヒールの音が遠くなりやがて聞こえなくなった。
 無音の研究室。
 その静謐な空間とは裏腹に、俺の心の中はぐちゃぐちゃに暴れまわっていた。



257: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 19:54:21.81 ID:0whGTSNro

 息苦しい研究室を出て、大学構内のベンチにて一息つく。
 あのままあそこにいては、いつまた誰かが訪ねてくるのではないか、と不安になり外に出ざるを得なかった。
 今はただ、1人になりたかった。
 考えれば考えるほど出口が無い迷宮に迷い込んだような、そんな感覚に陥る。
 それが嫌で嫌で。
 もはや俺は考えるのをやめていた。
 それを誰かに追及されるのも嫌だった。
 だから逃げた。
 学生の姿はちらほら見かけるが誰もこんな俺には話しかけようともしないし、そもそも話すような仲の学生は限られている。
 俯く顔をあげ、空を見上げながら深く息を吐くと、そこには厚い曇り空が広がっていた。
 一雨……きそうだな。
 そう心の中でぼんやり思っていると本当に細かい雫が鼻の頭を叩いた。
 続けざまにぽつぽつと大粒の雨が降り注ぐ。
 上を見上げ小走りで走り始める学生たちとは逆に、俺はここから動くつもりはなかった。
 すぐに辺りからは人気がなくなる。たまに鞄で頭を雨から守るようにして走る学生が目の前を通るくらいだ。
 まばらだった雨もほんぶりになり、瞬く間に俺の白衣は水を含んでいった。
 体中を貫く水の感じが心地いい。
 ばちばちと周囲を叩きつける雨音に混じってポケベルのブザーがなっている。
 鈴羽だろうか?
 この雨だから、俺が自宅に帰れなくなるんじゃないかって、心配でもしてるだろうか。
 2週間も帰ってないのにな。
 口からくくっと笑いが漏れた。
 俺は一体、何をしているんだろうな。形は違えど、結局逃げているだけだ。これでは2日間を繰り返したあの時と一緒だ。ただただ問題を先送りにしているだけ。
 雨が降り出して、どれほど時間が経っただろう。
 やがて雨の勢いもなくなり、次第に雨も止んできた。叩きつける大粒の雨がなくなったせいで皮膚は空気に敏感になり、少し寒気を感じる。
 このままだと風邪を引いてしまうがどうでもいい。
 いっそ風邪になって苦しんだほうが、悩まなくていいかもしれない。
 その時、わずかに光が差し込み、俺のまぶたをひくつかせた。
 天をあおぐと厚い雲が割れ、そこから幾数もの光の線が降り注いでいた。
 レンブラント光線。エンジェルラダーとも言われる、雲の切れ間から差す光が形成する梯子のような光線。
 俺は手のひらでその光を掴むように手を掲げる。スターダストシェイクハンドと名づけた幼なじみの癖を真似してみた。



259: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 20:08:11.46 ID:0whGTSNro

『お星様に届かないかなー』

 浮かんだのは脳天気な、幼なじみの言葉。笑顔。それらを守りたくて、今この場所にいるのに──
 その気持ちも今、ぐらぐらと揺れている。
 捨てきれない想いがいくつも重なって、秤がぎしぎしと悲鳴をあげている。耐えられなくなって、もう背負いきれない。
 腕をそっと下ろし、再び顔を下に向ける。
 結局俺は何もできない──

「こんなところで、なにしてるのかな?」

「……え?」

 やわらかな声と同時に地面に覆いかぶさる影。

「傘もささないで。びしょびしょだよー?」

 すっと傘が差し出され、俺の頭上を覆う。

「ふっ……もう、雨は止みましたよ」

 椎名さん。
 そう心のなかでつけたした。

「あれー? ホントだ。えへへ、気付かなかったねえ」

 笑いながら傘を折りたたむと、濡れっぱなしのベンチにちょこんと腰を下ろす。

「濡れますよ……」

「岡部くんこそ」

「俺はいいんです。今は濡れたい気分なので」

「悩みでも、あるの? さっきスズちゃんとお話したんだけど……」

 鈴羽と話したのか。
 ということはさっきのポケベルはこの人からだろうか。

「悩みが無い人間なんていないんではないですか?」

「……スズちゃんと紅莉栖ちゃん2人のこと……かな?」

 俺の意思に反して、ぴくり、と俺の指が微動した。
 俺は問には答えなかったが、彼女は自分の中で出したであろう疑問に口にする。



260: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 20:09:39.14 ID:0whGTSNro

「どっちを選ぶか、で迷ってるのかな?」

 あながち間違いではないが、少し勘違いをしているようだ。
 鋭いような、鋭くないような。
 こういう観察眼は、後の子孫にも引き継がれているのだろうか。まゆりも、変なところで勘がいい所があったからな。

「なんでもいいから、話してごらん?」

 今は懐かしい幼なじみの温もりを含んだ抱擁感で、それでいて慈愛に満ちた口調だった。
 思わずすべてを打ち明けたい衝動に駆られた。 
 俺はたまらず顔を歪めた。零れ落ちそうになる涙を必死にこらえて声をしぼりだした。

「守りたいものが多すぎて、何をどうしたらいいのか、もう……わからないんです」

 すべてを話す訳にはいかない。
 俺たちがタイムトラベラーだということを話すわけにもいかない。
 数年後に生まれるこの人の孫娘が無残に世界に殺されるなんてことは口が裂けてもいうことができない。
 そんな俺にできる、精一杯の言葉だった。
 守りたいもの。俺が望む世界。
 それは──

 まゆりが元気で笑っていて──
 紅莉栖と憎まれ口を叩き合ったり──
 鈴羽と俺たちの子どもが健やかに育つような──
 未来の平和が保証された世界──

 だがもう、すべてを望むことなんてできない。
 何かを得たいと思うのであれば、何かを捨てなければいけない。



261: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 20:10:46.74 ID:0whGTSNro

「そっかぁ」

 消えるような声で呻く俺に同情するでもなく、叱咤するわけでもなく、ただ頭にポン、と手をおいて。

「みんなみんな、岡部くんに愛されているんだねえ」

「え……?」

「こんなになるまで悩んでもらえるなんて、みんな幸せ者だよー」

 にこにこと笑って、やわらかい口調でのんきに言う。

「…………」

 思ってもいなかったことを言われ一瞬戸惑う。
 何が幸せなものか。命を失うのに。
 存在を否定されるのに。
 想いを達成できない未来が、決定づけられているのに!

「そんな中で1人、幸せじゃない人がいます!」

 腕を組み、ふんぞり返った様子でむすっとして言う。

「岡部くん、君だよ」

 横を見ると頬を膨らませて眉を釣り上げる椎名さんの顔。
 一瞬、言っている意味がわからなかった。

「なに……を」

「岡部くん、君はもっと幸せになるべきだと思うんだよね~」

 今度は真っ向から俺を見据えて優しい笑顔を見せて言った。
 その顔は冗談を言っているような様子には見えない。

「俺が幸せ……そんなの、許されない……」

「許される許されないじゃないの」

 びしっと強い口調。思わずたじろぐ。



262: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 20:12:07.88 ID:0whGTSNro

「君がみんなの幸せを願っているように、君の幸せを願う人だっているんだから。そんな人達のためにも、君は自分の幸せを、実現させなくちゃ~」

「…………」

 俺が沈黙していると、やがて椎名さんは真っ直ぐ空を見上げて言った。

「何をしたらいいのか、わからない。それなら何もしなくていいんだよ」

「それでは……何も変わらない……」

「時間の流れで変わるものだって、きっとあるよ。誰かのために何かをする気持ちもとっても大事だけど。それとおんなじくらい、自分のために何かをするってのも、大事なんだよ~。だから──」

 優しく、子どもを諭すような口調。でもそれは意外にも心地よくて、穏やかに話す彼女の横顔を眺めていた。やがてこちらを振り向いて言った。

「たまには、自分のために一生懸命になっても、いいと思うな……」

 それはまるで聖母のようで。すべてを慈しむかのような声色だった。

「そしたら、いずれきっと……自分がどうしたいのか、見えてくるんじゃないかな」

 にこにこと。上辺だけの言葉で俺を励まそうとしているわけじゃなく、本当にそうだと信じきったような顔つきで。
 でもそれは見ている者にもそう思わせるような表情だった。
 
「君は途中で諦める人じゃない。たとえ失敗したって、絶対に最後まで諦めたりしない。だから大丈夫だよ」

 大丈夫。なんの根拠もない言葉。けれども不思議と信じられて──
 俺は椎名さんに一言お礼を言い。
 気づけば自宅へと走っていた。 



263: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 20:13:38.02 ID:0whGTSNro

 約2週間ぶりに自宅の玄関をくぐる。ドアを閉めると薄暗さと静寂に包まれた。
 まるで数年人が住んでない家屋のように感じた。
 鈴羽は、外出しているのだろうか?
 俺はリビングに顔を出し、辺りを見回してみる。
 無音──と思いきやソファ越しにかすかな寝息が発せられているのに気づいた。回りこんで見てみると、鈴羽が体を丸めて眠っていた。俺は寝室から薄めの掛け布団を持ってきて、そっと鈴羽にかける。

「鈴羽……」

 目の前で静かな寝息を立てる鈴羽の頭をそっと撫でる。

「うう……ん……」

 それに反応してわずかに声を上げる鈴羽。
 その数秒後、おもむろに目が開き、虚ろな眼が俺の顔をとらえた。

「あ、あれ……帰ってたん……だ。おかえり……」

 まだ眠そうな目をごしごしとこすりながら上体をゆっくりと起こそうとする鈴羽。

「ああ……。それにしても、こんなところで寝ていると風邪をひくぞ? 今は大事な時期なのだからな」

 ソファから完全に起き上がると、掛けられていた布団が鈴羽の体から滑り落ちる。

「あ、ごめんごめん、掛けてくれたんだ……。ありがと」

 気のせいか。

「ちょっと、体調思わしくなくて休んでたらつい、ね。あはは……」

 あまり顔色が良くない。



264: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 20:14:12.22 ID:0whGTSNro

「まだきついのか? 体……」

「あーううん、もう大分平気。多分もう少ししたらこんなこともなくなると思うよ、心配いらないよ」

 つわり……だろうか?
 こんな時、どうすればいいのかさっぱり分からず、ただただ黙ることしかできない。

「にしても、2週間も家を空けて放置なんて、罪は重いぞこのー」

「お、おい……」

 肘でぐりぐりとつついてくる。

「罰として今日の晩御飯、君が用意してよねっ」

「そ、それは構わんが……」

 あえて、何をしていたかは聞かず。

「うっし、じゃあ美味しいもの、頼んだよ!」

 明るい笑顔を俺に向けてくれる彼女が愛おしくて。
 俺は溢れる想いを抑えきれず鈴羽を抱きしめる。

「うわっ、ちょっ……」

「…………」

「もう……甘えたいの?」

 この声を聞いているだけで。

「よしよし、いい子だねー」

 この温もりに撫でられているだけで。

「……なんか言ってよ、恥ずかしいじゃん」

 俺の心は満たされる。今はただ、この温かさが雲のように取り巻く空間でじっと幸せを噛み締めていたかった。



265: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 20:15:56.13 ID:0whGTSNro

 この半年間、俺はできる限り鈴羽のそばにいた。そうしたいと思ったから。未来のことは考えずにただひたすら愛しい人のそばに居続けた。
 そして今、俺は茶色の長椅子の真ん中に腰掛けながら、膝の上に肘を乗せ、組んだ手を顔に当てていた。
 時計の針の音がやけに大きく感じられ、廊下一面に響き渡っている。
 この体勢のまま何時間が経過しただろうか。すでに尻と椅子のカバーの間はじっとりと湿り、組んだ指と指の間からも汗がまとわりついていた。
 が、不思議と不快感はない。あるのは期待と焦りが入り混じったような感情だった。その状態での数時間は、俺にとって何日もの時間に感じられた。
 時間は絶対的ではない。そのことは相対性理論からも証明されている。

ポトリ

 顎から汗が滴り落ちた。手のひらで自分の顔を拭うとベタリとした感触とともに、続けて汗がぽたぽたと落ちた。
 ふと──
 もう汗は拭ったはずなのに、床に落ちる雫が続いていて。
 自分が涙を流していることに気づいた。

ポタポタ

 なぜだろう。とても胸が熱くて止まらない。
 にじみ出る嗚咽を堪えていると、少し離れた分娩室から、一定のリズムで発せられる音色が響き渡ってくる。その音色は徐々に力強いものになっていき、俺の心臓を震わせる。



266: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 20:17:38.39 ID:0whGTSNro

「…………っ」

 俺はたまらず立ち上がり、かけ出した。
 するとたちまち看護師から静止された。
 「落ち着いて」だの「もう少しお待ちください」だの、俺の耳に入ってくるのはそんなお決まりのセリフばかり。
 こういう時、すぐに立ち会わせてくれるものではなかったのか?
 その時俺はどんな顔をしていたのだろうか。
 そんなことはどうでもよかった。今はただ、その先にある光景を目にしたかったのだ。
 約20分後、通された部屋に足を踏み入れるとそこには──

「あ……。ほらほら、見て」

 純白のベッドに横になっている母と、その腕に抱かれる赤ん坊がいた。
 血の気が無くなった頬に汗に濡れた髪を張り付かせながら、優しげに微笑む鈴羽。
 目を細めながら慈愛に満ちた眼差しを我が子に向けている。
 なにか声をかけようとするものの、喉からは空気が漏れるばかりで一向に言葉が出てこなかった。
 そんな俺を見かねてか、苦笑いを浮かべつつも鈴羽が言う。

「ほら、抱っこしてみる?」

「お、おう……」

 鈴羽の手から離れ、看護師にそっと差し出された赤ん坊を、言われるがままおそるおそる腕の中に収める。
 こんなに小さな存在なのに、ずっしりとした重みが腕にかかった。



267: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 20:18:52.63 ID:0whGTSNro

「ちゃんと頭も支えなきゃだめだよ?」

「お、重いな……意外に……」

「あはは……ビビり過ぎ」

 力なく笑いつつ戸惑いを隠せない俺にくすくすと笑う。
 くっ、腕が震える……。
 すると俺の不安を感じ取ったかのように赤ん坊が顔を歪ませ──

オギャアオギャア

 火が付いたように泣き始めた。

「あ、お、おい! な、泣くな! ほら、いい子だから」

 懸命に揺らしてあやしてみるも効果なし。狭い室内で俺の慌てふためく声と、赤ん坊の泣き声が交錯していた。そんな騒がしい空間に、優しい声で「あらら、もう……ほら、貸して」と鈴羽が言う。

「あ、ああ……」

 どうしようもなくなり、俺は鈴羽へと託す。
 腕を這わせるように慎重にゆっくりと我が子を鈴羽の腕の中に返した。

「ほーら、よしよし。母さんだよー」

 そう言って優しく声をかけてやると、不思議なもので火に水をかけたように赤ん坊が泣き止んだ。
 やはり母親の存在というものは大きいのだろう。



268: ◆gzM5cp9IaQ:2015/10/11(日) 20:20:41.08 ID:0whGTSNro

──母と子。

 ついさっきまで、1つの存在だった者たち。それが一旦、切り離され、別の存在として再び触れ合っている。
 まるでその腕の中が母親のお腹の中かと思うくらいに、穏やかな顔つきで目をつむっている我が子。
 綺麗だった。
 そこだけが別の空間として切り離されてるかのように明るく。
 そこだけが別の世界として成り立っているかのように美しく。

──輝いていた。

 この輝きを失わせてはいけない。
 この世界をなかったことにしてはいけない。
 そして俺は決意を──胸に。

「ちょ、ちょっと、なに泣いてるのさ」

「いやなに、少し物思いに耽っていたのだ。問題ない、作戦は継続中だ」

「またそれー? 最近全然見ないかと思ったら」

「ああ、ヤツには伝えてくれ。待たせたな、と」

 戦うために──前を向く。
 守りたいものを、守るため──



Chapter3 END


Steins;Gate「二律背反のライデマイスター」【後半】



元スレ
Steins;Gate「二律背反のライデマイスター」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1443338021/
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