傭兵「この世で金が一番大事」僧侶「じゃありません」【その2】
関連記事:傭兵「この世で金が一番大事」僧侶「じゃありません」【その1】傭兵「この世で金が一番大事」僧侶「じゃありません」【その2】
※ ※ ※
大天狗の出現場所は東南東一キロの地点。順序だてられた陣形、そして行動によって、兵士達は皆そつなく移動を開始する。無論俺もそれに続いた。
俺が叩き込まれたのは自警団寄りのグループで、それを率いるのがかつて助けた若い方の兵士。彼は俺を見てすぐに敬礼しようとしたが、周囲の手前ぐっと堪え、ぺこりとお辞儀するだけに留めた。懸命な判断だ。
自警団であるがゆえ、当然直接大天狗と戦うことは想定されていない。俺達に任せられたのは後方支援で、前衛と後衛の緩衝役。それでも重要な仕事だ。お世辞等ではなく、そう思う。
けれどそんなもので燻っているわけにいかないのもまた事実である。兵士からも隊長からも許可は得ている。頃合いを見計らって離脱し、大天狗に牙を剥くつもりだった。
全てが俺の想定通りだった。驕るつもりはないが、俺の手の平の上でことが進む。そういうふうに動いたからというのもないわけではない。しかし、究極のところ、運がよいのだろう。
こんな俺でも神様は照覧してくれているというわけだ。
笑えない。
笑えないのに笑いが込み上げて来る。
こんな俺でも、俺なのに、神様に愛されるだなんて。
遥か前方で轟音が響いた。魔法によるものと、火薬によるもの、その両方。ついに交戦が始まったのだ。
と理解すると同時に俺は走り出していた。くすねてきた大業物をしっかり握りしめ、ちんたらした動きの自警団を追い抜いて、草原をひた走る。
人が吹き飛んできた。
それを反射的に受け止める。やはり人だ。内臓がひしゃげているのか口から大量の血を流し、目もあらぬ方向を見ている。すでに絶命していた。
生きていればどうにかする手もあったが、死んでいるのならば肉塊に過ぎない。放り投げ、一秒も惜しいとばかりに強く地面を踏み締めた。
目標はまっすぐに大天狗。
俺だけではない。何十何百という兵士たちも今、大天狗へと踊りかかる。
大天狗は腕を組み、高下駄を履いて、俺たちを睥睨している。その様子には少しの焦りも見られない。虚勢ではないのだ。生まれながらの強者である大天狗だからこその自然体。
鬨の声とともに雪崩れ込む。一番槍は最右翼。槍を持った一団が突っ込んだ。
穂先が軋む。大天狗の前には不可視の障壁が張られている。それに激突した数十の槍と拮抗し、吶喊の威力を大幅に殺いでいた。それどころか槍が勢いに耐え切れず、たわみ、折れようとまでしている。
すかさず詠唱が入った。儀仗兵たちの凛と通る声での詠唱。
儀仗兵「日の色。万物の癒し。激情の揺らめき。揺籃。胎動。生れ落ちる一瞬の輝き。即ち火の色」
儀仗兵「ベギラゴン!」
大天狗を囲むように地面に光線が走り、大きな魔方陣を形作る。そしてその陣内を埋め尽くすように、閃光と激しい爆炎が迸った。
儀仗兵数十人分の火炎。まともに食らえば炭化は免れない。
が、しかし。
風が吹いた。
風は魔法人の中心から巻き上がり、うねって、炎を絡めとっていく。炎の竜巻の中心は当然大天狗で、彼は息苦しそうにはしているものの、その山伏姿のどこにも乱れはない。
背後から歩兵部隊。得物はばらばらだが殺意は一様。兜の下から覗く眼光は、大天狗しか見ていない。
火炎竜巻が彼らをなぎ倒していく。その中から四人、仲間の背中を踏み台にして飛び出した兵士たちがいた。大上段から振りかぶって剣を叩きつける。
障壁を張りながらも、ここで初めて大天狗は攻撃を避けた。半月型の軌跡が俺の目にまぶしく映る。
追撃は止まない。
足払い。と同時に下段から上段への切り上げ。回り込んでの斬戟。大天狗の放つ真空波を剣の腹で防ぎ、その間に仲間が挟撃。だがそれも避けられる。
強く地を蹴りこんでの切迫。速度は十分。背後には三人が控えている。速度をずらして追撃の二人と、左から回り込む一人。当然儀仗兵たちも追加の詠唱に入っている。
剣戟。勢いの乗ったそれは障壁で防がれる。先頭の兵士はあっさり剣を捨て、さらに一歩を踏み込んだ。両手を伸ばして頭から障壁に突っ込んでいけば、感電の音と、肉の焦げる悪臭が撒き散らされる。
抜け切ったあたりで兵士がくずおれた。手もつかず、顔面から地面に倒れる。
命を賭してまで開けた障壁の隙間を後続の二人が突破。同時に空間中に魔方陣が展開され、空気の温度が急激に低下する。水分の凍結する音と喉を凍らせる吸気。世界に極めて二次元的な瑕疵が走った。
氷山が展開。澄んだ甲高い音とともに障害などを全て無視して、対象の命を閉じ込めようと暴れた。
大天狗も今度こそは扇で防ぐことは叶わなかったと見える。大きく地面に風を当てての緊急離脱。一本足の高下駄でもバランスを崩すことなく着地し、その長い鼻を撫でた。
背後に兵士。
白刃が煌いてまっすぐに大天狗の首を狙うが、軌跡は扇で停止する。人外の膂力に勝てるはずもない。吹き飛ばされるより先に兵士は自ら後ろへ飛んだ。
そこへ火炎弾。
扇が起こした風で進路を変えられ、歩兵の集団に直撃する。しかし大半はそれより先に散開を済ませており、被害は微々たるものだ。円状にとった兵士の数は全部で二十人近く。そして俺を含めた歩兵部隊も続々と集結しつつある。
圧倒的な数の暴力。これこそが、人間が魔族に勝利する唯一の方法。
踏みとどまっている時間も気合をこめる時間も惜しい。指揮はなくとも統率の取れた行動で、一糸乱れぬ踏み込みを見せる。槍、剣、棍棒――さまざまな武器を持ち、一気に距離をつめた。
大天狗「ぬるい!」
大天狗が拍手を打った。
突如として大天狗を中心とした力場が発生し、急激な膨張を見せる。力場自体は障壁と同様全くの不可視であったが、薙ぎ倒される草木や武器を見れば、その速度、巨大さ、威力は判断できた。
二十余名の兵士たちが軒並み吹き飛ばされ、あるものは木々に叩きつけられ、またあるものは地面を転がっていく。
九字を切られる。碁盤の目状に切られた印の、各交差点に火が灯り、大天狗の周囲を回転する。
儀仗兵「防壁展開!」
大天狗「ぬるいぞぉおおおおおおおっ!」
指向性を持った爆裂が相対する全ての存在を根こそぎ消し飛ばした。地面は抉れ、焦土と化し、倒れていた兵士の姿は焼け跡と同一して発見できない。
それでもこちらは負けていない。
心は折れず、ゆえに足が止まることはなく。
恐怖は確かにあった。こんな埒外な存在を相手にしてなお揺るがない心など俺は持っていない。しかし、だからこそ、というのもまたあった。埒外な存在「だからこそ」、俺たちはここでこいつを殺しきるのだ。
殺しきろうという高揚が齎されるのだ。
先にたどり着いた十名ほどが地を蹴った。捌かれ、打ち落とされ、障壁で防がれる。勢いに任せて裏へと回った数名が即座に反転、剣をしっかり握りなおし、吶喊。
大天狗の反応は即座。最小限の動きで障壁を展開、剣を絡めとる。
兵士たちの反応もまた即座だった。得物が使い物にならなくなったことを悟ると、瞬時に手を話して退却。同時に儀仗兵が剣目掛けて落雷を打ち込み、そこを中継点として大天狗を狙った。
しかし激しい音を立てて落雷が消失する――おそらく、障壁。
そこでようやく俺は大天狗へと躍りかかった!
傭兵「うぉおおおおおおっ!」
大天狗の障壁さえも真一文字に切り捨てて、俺の刃はようやく初めて衣服の一部を切り飛ばした。本体には届いていないが、大天狗は驚きの表情で俺を見て、にやりと笑う。
大天狗「ほっほぉ! 貴様はいつかの童! 奇遇じゃのぉ!」
くっちゃべってる暇など与えない。更なる踏み込みにあわせて儀仗兵の詠唱が入り、俺の背後に兵士たちが集った。
兵士「傭兵! 金にがめつい貴様がどうしている!」
見たこともないやつから罵られるのも最早慣れっこだ。
傭兵「いいから続け」
障壁の展開――切捨て、開けた道へと火炎弾が着弾。火柱をあたり一面に振りまきながら濛々と煙を巻き上げる。
果たして目隠しになるだろうか? いや、期待しないほうがいい。大天狗の神通力をもってすれば千里眼などお茶の子さいさいだろう。
それでもかまわない。俺たちにできることは前に進むことだけなのだから。
真空波が飛んでくる。肩が切り裂かれるが薄皮一枚。背後で数名の悲鳴が聞こえるが、無視だ。気にするやつもおるまい。
煙を抜ける。大天狗は泰然と立っている。
大天狗「ふっ!」
扇を一振りすれば岩石の霰が降ってきた。儀仗兵が瞬時に詠唱、水を放って押し流す。
一旦身を屈めて水流の下を潜り抜けた。上体を起こす反動とともにより強く地面を踏みしめ、跳ぶ。
重力からの開放。
筋肉をねじ切らん勢いで体をひねり、剣の柄をきつく握った。俺と大天狗の距離はきっちり二メートル。
今度こそはその肉を。
腕が掴まれる。
傭兵「な」
大天狗「ぬるいぬるいぬるいぞぉおおおおおおっ!」
大天狗「その程度かよっ、人間!」
ぎりり、と音がするほどに硬くきつく握り締められた大天狗の拳へ自然と視線が向いてしまう。
内臓と骨格全てを抉り出す、人外の拳が俺の意識を刈り取っていく。
傭兵「――っ!」
嘔吐――それより先に意識の明滅。落ち込んでいく意識を呼び戻すのは激痛と生への執着。しかし生命の脈動を感じた瞬間に最も死へ接近する。
こみ上げてくるのは血なのか、吐瀉物なのか、それとも悲鳴なのか判断がつかない。
後頭部と頚椎が同時に接地。激しい衝撃とともにバウンドし、掴まるものがない俺は、そのまま激しく転がっていく。口の中に入った砂が寧ろ心地いい。気付け薬にすらなって、まだ自分が戦えることを知る。
視界の端で、兵士たちが大天狗へ飛び掛っている光景が、僅かにひっかかる。
兵士「絶対に距離を置くな! 常に一太刀浴びせられる距離を保て!」
そうだ。そうしなければまずい。距離をとればまた九字を切られる。いくら大天狗といえども、無詠唱、無準備で使える神通力にも限界がある。
大天狗は兵士たちの波状攻撃を小刻みに障壁を展開させることで防ぎきっている。遊んでいるのだ、恐らく。魔王軍四天王がいくら無詠唱でもあの程度の障壁しか展開させられないわけでもあるまい。
儀仗兵「用意ッ! てぇー!」
号令とともに兵士たちが後退、入れ替わるように火炎弾が計五発、重なり合うように大天狗を襲う。四発目でついに障壁を砕き、五発目が大天狗へと直撃する。
その好機を見逃すはずはない。畳み掛けるように儀仗兵が氷結魔法を詠唱、兵士たちも切りかかる。
大天狗はバランスを崩しはしたがけれど無傷。礫弾を放射状に放って牽制するが、それらは最前線の兵士の四肢をこそ捥ぐけれど、戦意を捥ぐには至らない。死をも恐れぬ肉壁と、それを楯に突っ込んでくる後衛たちの勢いは、決して衰えない。
流石にまずいと判断したのか、大天狗はそれでも楽しそうに笑いながら後退。がそこを狙って氷結呪文が放たれる。背後に氷の壁、そして足元を固定しようとトラップも仕掛けられている。
大天狗「させんぞ」
大天狗が九字を切った。
傭兵「させねぇよっ!」
痺れる四肢を無理やり駆動させ、そこへと割り込む。
動くたびに内臓がかき回され、視界も時たま揺れる。
軽症だ。
展開される障壁ごと九字の印を切断した。印はその輝きを失って宙に霧散。
大天狗の背後には氷の壁と氷結の罠。こちらは俺と、同列上に大量の兵士が犇いている。刃が届かないとは思わなかった。
俺の一閃は捌かれる。返す刀を用意する間に、二の太刀、三の太刀が兵士たちから放たれた。
大天狗はまず二の太刀を拳で打ち砕き、三の太刀を左腕で掴むと、兵士の腕を掴んで己の下へと引き寄せた。そして次々向かってくる兵士たちの大群へ、その兵士をまるで弾丸のように射出、巻き添えにして根こそぎ吹き飛ばす。
兵士「怯むなぁっ! 押せ! 押せ! 押すんだっ!」
「ヤー!」
裂帛の気合と混じった応答が響く。
速度では当然大天狗が勝る。打ち砕き投げ捨てても次々と向かってくる兵士たち相手に大回転、紙一重で回避し腹を打ち、真空波を飛ばす。
落雷がそれを打ち消した。
大天狗の眼前に揃った十名の兵士。どれもこの瞬間を待っていた者たち。
砂埃の中を突っ切って、彼らは剣を振るった。
大天狗「侮られたものじゃ」
大天狗が高下駄を踏み鳴らす。
神通力によって顕現したのは大地そのもの。大地が隆起し、それは全てを防ぐ壁となり、同時に全てを打ち落とす腕となって、十人をまとめて叩き落した。
大地の前では人間など木の葉にも等しい。人間が作った刃などは言うまでもなく。
傭兵「うぉおおおおおおおおっ!」
だから俺はその上を超えてゆく。
大地は踏みしめるものだ。蹴り飛ばすものだ。だから、大地が俺の行く手を阻むなんてことは、到底許容できることではない。
隆起したそれに足をかけ、岩石の腕を駆け上り、すれ違いざま刃で切り裂いて、大上段に構えた。
大天狗「臨兵闘者皆陳列在前」
大天狗がにやりと笑った。
すでに九字は切られている!
視界が白ばむ。印が地面に転写され、それが発光しているのだった。
印を切るか!? それとも光を切るか!? ――だめだ、時間がない。もし間に合ったとて、大天狗は確実に俺へと突っ込んでくる!
それでも、
傭兵「切るしかねぇかっ!」
莫大な魔力の奔流が俺を、俺の命を飲み込もうとしてくる。力任せにその光を切り裂くも、切った傍から光は押し寄せ、とどまるところを知らない。
剣で魔力の直撃をこそ緩和しているが、落下する先に大天狗が拳を構えている。
ここが限界。
傭兵「いまだ!」
合図とともに背後から兵士たちが飛び出してくる。俺と同様に隆起を駆け上がった彼らは、俺の後ろに陣取ることで、印の直撃を避けたのだ。
兵士「てめぇはどうして切れるんだよ! 無茶苦茶なやつだ!」
印を結んだばかりの大天狗には背後の兵士たちを見抜く余裕はない。この奇策で殺せればよし、殺せずともせめて一太刀浴びせることができれば――
大天狗「ようやく出番じゃ」
めぎ、と空間が歪んだ。
俺たちが数メートルを落下するよりも早く、地面に二つの魔方陣が生まれ、そこから何かが現れる。
腕だった。筋骨隆々の、黒々とした腕が、魔方陣から現れている。人間の腕の太さとは段違いである。それを基準とするならば、恐らく背丈も何もかも、二倍から三倍近くはあるだろう。
何よりその腕が放つ圧力だけでも、肌を粟立たせる。
大天狗「前鬼、後鬼。たらふく食え」
腕は地面に手をついて、力を籠め、いまだ魔方陣の中に埋まっている体を引きずり出そうとしている。そのたびに体にかかる圧力は大きさを増し、それだけで体が千切れ飛んでしまいそうだった。
儀仗兵たちが援護として火炎弾を、落雷を、氷塊をぶつけてくるも、全て大天狗の障壁の前では無力だった。
兵士「全軍! 突っ込めぇえええええっ!」
「ヤー!」
号令がかかる。捨て身の号令が。
それは愚かな将の判断ではなかった。自殺覚悟の特攻でもなかった。唯一勝機を繋ぐとしたら、まだ辛うじて「地獄が始まっていない」今しかないのだ。
「く、くくく、うははははははっ!」
獰猛な笑い声があたり一面に響いた。
魔方陣が空中に展開する。莫大な数――おおよそ五十。だが俺たちに気にしている暇はない。自由落下に任せて、一秒にも満たない時間後にやってくる衝突の時に備え、意識を集中させる。
主の危機を察知したのか前鬼と後鬼の腕が慌しく動く。兵士たちが何人か吹き飛ばされ肉塊と化すが、一瞬の接触の際に剣を突き立てることだけは怠らない。そうして僅かに動きの鈍ったところを、俺はすかさず切り裂いた。
前鬼の手、親指の付け根から中指までをごっそりと切り落とす。瘴気が舞い散る中息を止めて大天狗へついに切りかかる。
同時に魔方陣から顕現するは鏃。黄色く煌く光の矢。
「戦争だ、戦争だ、戦争だ!」
「これは私の戦争だ! 逃がすもんか、渡すもんか、機会を手放してなるもんか!」
鏃が一斉射出され、前鬼後鬼の腕、魔方陣、大天狗、彼を囲んでいた全ての隆起、氷の壁、一切合財全てをまとめて破壊する。
巻き添えを食って兵士が二桁単位で引きちぎられる。血の噴霧。砂埃。魔力片が瘴気と混じって呼吸をするだけでも頭がくらくらしそうだ。
その中にあってようやく俺と、生き残った兵士の刃は大天狗へと届く。
反射的に生み出された障壁を俺が切り払えば、左右から飛び出した二人の兵士の刃が、それぞれ腕と腹部に切り傷を入れることに成功する。羽を羽ばたかせて飛翔しようとした大天狗だが、それを光の矢の掃射が抑え付けていた。
傭兵「てめぇちったぁ手加減しろよ!」
エルフ「手加減して勝てる相手だって!? うははっ! 随分余裕だねぇ!」
戦争気違いは随分と楽しそうに言ってのけるのだった。
体の至る所を欠損させてなお。
エルフの特徴である長い耳は両方失われ、頬を真っ赤に染めている。金髪も血で赤く染まり、毛先で金色が残っているところなどない。
四肢は健在だが切り刻まれ焼かれて見るも無残。辛うじて機能こそ残しているようだが、動かすたびに軋み、激痛が走っていることは想像に難くないだろう。自動回復も止まっている。簡単な止血魔法だけが貼り付けられていた。
韋駄天を齎していた靴は焼失し、裸足で飛び回っているため足の裏が切れてこちらも血まみれ。地を蹴り、樹上で飛び跳ねるたびに赤いスタンプが押されていく。
それでも展開される魔方陣。射出される光の矢。
同じくらいに輝く瞳。
兵士「あ、あれは、一体なんなんだっ!?」
動揺ももっともだった。そうしている間にも前鬼後鬼は復活しようとしているし、大天狗も以前のような余裕はない。それはつまり本気のやつを相手取らなければいけないということで。
傭兵「エルフだよ、見ればわかんだろうが! あいつは仲間だ! けど、見境がねぇ! 自分の命は自分で守れ!」
兵士はそれで納得したようだった。理解できなくとも状況を飲み込めるのは、それだけで才能である。喚かないだけ僧侶などより随分都合がいい。
兵士「全員構え! 光の矢に注意を払いながら、目標は変わらず大天狗! 撃墜用意!」
兵士「儀仗兵は戦力分散! 四分の三を召喚に向けて防ぎ続けろ! 残りは障壁の破壊と退路を塞ぐのに徹し、直接は狙わなくてもよい!」
「ヤー!」
大天狗「しつこいやつだの!」
エルフ「うひゃははははっ! よく言われるよぉー!」
傭兵「まさか、てめぇ、大天狗がここに来たのって!」
エルフ「かもしんない! 気にしたこたないもの!」
頭がおかしいとしか思えなかった。エルフは俺たちを逃がしてから約一週間、大天狗と戦い続けていたということになる。そして軍の動きと時系列から見て、こいつは森の中にいた大天狗をボスクゥの近くまで追い詰めてしまったのだ。
なんて面倒なことをしてくれたんだてめぇは!
大天狗「ふんっ!」
剣をへし折り正拳突きで顔面を吹き飛ばす大天狗。しかしそうしている間にも他の兵士が怯むことなく向かってくる。その兵士を倒しても、今度は背後から。その次は左。右。前。背後。
飛び上がる動作は全て事前に察知され、エルフによって打ち落とされる。障壁で防ぐもその隙を見逃さず儀仗兵たちが魔法を挟み、満足に距離を取らせてもらえない。
扇を一閃させ周囲に竜巻を展開、その勢いでもって兵士たちを吹き飛ばす大天狗。生まれた距離は数メートルだが、九字を切るには十分だろう。
だが、そうはさせない。
俺とエルフがすでに接敵を済ませている。エルフは魔法で竜巻を打ち消し、俺は剣で切り裂いて、それを潰しにかかる。
大天狗の速度は圧倒的だ。障壁こそ切り裂けるが、攻撃自体は足と目で殆ど回避される。反撃を食らわないのはエルフの援護があるからで、その点では一進一退の攻防とも言えた。
横一閃はバックステップで回避。扇を薙いでの真空波は光の矢が打ち落とし、そよ風の中を俺は突っ切って飛び掛る。突きを半身で避けられ腕をとられそうになるが、反射的に蹴りを入れて防いだ。
礫弾が放たれる。全てを回避することは叶わない。体をなるべき縮こませ、ぎりぎりまでひきつけて切り抜けた。
エルフへ大天狗が向かうのを確認し、最短距離を往く。一足飛びで駆け抜けると同時に、空中で切る前動作は済ませていた。伸ばされた左腕を切り落とすつもりで振るうが、右腕で弾かれる。
二歩分詰める。大地の隆起でバランスを崩したが、光の矢の援護で追撃はない。
開いた距離をそのままにしておくのは圧倒的に不利。光の矢で釘付けにする。そして俺は突っ込んだ。
障壁と礫弾で光の矢を相殺し続ける大天狗は俺をその赤ら顔でぎょろりとにらみつけ、扇で一際大きく扇ぎ、俺を突風で吹き飛ばした。
エルフが俺を受け止めてくれる。彼女は決して俺へと視線を向けず、犬歯をむき出しにしながら大天狗へと飛び掛っていった。無論俺も後を追う。
エルフ「懐かしいねぇ傭兵くん! 昔はよく三人で暴れ狂ったものだっけ!」
エルフ「戦争三昧――そう! 文字通りの戦争三昧で! うひっ! くくっ、うひひひゃはははっ!」
エルフ「楽しいよぉ! 涙が出てきちゃう! 嬉しくって濡れちゃうよぉっ!」
大天狗「なんじゃこいつ! 頭がおかしいんじゃあないか!」
それにはおおむね同意する。
放たれた光の矢を大天狗はまとめて握り潰し、純粋な魔力の塊をこちらに向けて投擲してくる。どういう理屈なのか全くわからないが、通った道が跡形もなく消失するだけの密度を誇る、埒外に相応しい振る舞いだった。
それを受け止める勇気はない。傍を通っただけで皮膚がめくれ上がる感覚を堪え、怯え竦む本能を組み敷いて、勇気と度胸の一歩。
障壁の展開にあわせて儀仗兵から援護が入る。しかし人数が減った攻撃程度では障壁は小揺るぎもしない。だが、兵士たちが復帰する時間を稼ぐ程度には役に立った。
兵士「突撃ィイイイイイイッ!」
全兵力をかけた最後の突撃。裂帛の気合とともに兵士が全員まっすぐに、剣を握って大天狗へと向かう。
大天狗「させるかぁあああああああっ!」
大天狗の全身から魔力の光が迸る。人によってはそれだけで気を失いそうになるほど強力な波動だ。しかし覚悟を決めた兵士たちにはまるで通用しない。
みしり、と空気が、大地が、震える。
儀仗兵「も、保ちません! 生まれる!」
儀仗兵たちの楔すら突き破り、魔方陣が強く、強く、輝き出す。急激に前鬼と後鬼の腕が激しさを増し、大きく空へと伸び、地面を叩いた。
大地に立つもの全てが大きく歪み、吹き飛ぶ。それは俺も、エルフも、兵士たちも例外ではない。
まさに鬼だった。太い四肢。黒い肌。瞳はなく、ただ目の位置に白い穴が開いているだけ。吐息は高濃度の瘴気。生半な物理や魔法は遮断できる力場が体表面に薄く張り巡らされている。
それが、二体。
単純な戦闘力では大天狗には及ばないだろう。だが、現状はまずい。俺たちが大天狗相手に全滅を免れているのはエルフの助力と数の利があるからで、ここに鬼が二体加わるとなれば、戦力の統一は図れない。
戦線の崩壊。それは即ち敗北を意味する。
前鬼「――――――ッ!」
後鬼「――――――ッ!」
形容しがたい咆哮が鬼の口から迸った。
誰しもが呆然として目の前の状況を眺めている。
心が折れた音が聞こえた。
「うひゃはははははははははっ!」
そして、折れた部分を補修するかのように、壊れた笑いが響く。
傭兵「エルフ……」
エルフ「やっぱり懐かしいねぇ傭兵くん! あの日を思い出す! あのときを思い出すよ!」
エルフ「四天王に挑んでボロ負けして、魔王に出会うことすらできず、命からがら逃げ出して、いやぁ惨めだった! 虫を生のまま食べて、木の根を齧って、泥水を啜って、やっと繋いだこの命!」
エルフ「あのころはまだ傭兵くんも傭兵じゃなかったっけ! どうして傭兵なんかに身を窶したんだい!? やっぱり、強大すぎる敵を前にして、思うところがあったのかな!」
ぱき、ぱき。エルフが指の骨を鳴らすと、半球のドーム上に、魔方陣が展開される。その中心には前鬼、後鬼、そして大天狗がいる。
エルフ「そこんとこ、生き残ったら教えてほしいんだ! ねぇ――」
エルフ「勇者くん!」
エルフは跳んだ。目から、耳から、鼻から血を流し、魔力が枯渇していることは明白。一週間も戦い続けて今の今までこうならなかったほうが寧ろ奇跡だったのだ。
懐かしい、とエルフは言った。懐かしいものか。魔王に挑もうと乗り込んで、四天王にぶちのめされ、小便を漏らしながら逃げ帰ったあの数日を、懐かしいなどとはどうしても思えなかった。
この状況はあの日の再現だ。四天王。強大すぎる敵。エルフ一人で勝てるはずはない。俺が一人で勝てるはずもない。俺たち二人で勝てるはずもない。
俺はあの日、あの時、わかったのだ。敵として戦える相手の限界を。
そして、限界以上の相手と戦うには、それなりの戦い方があるのだということを。
俺は泣いていた。無力感をもう二度と味わいたくはなかった。端的に言えば、エルフに死んでほしくなどなかった。無駄死にだけはごめんだった。
だから俺は勇者をやめたというのに。
個人の力で世界を救うなんてできっこないのだから。
傭兵「全軍、突撃だ」
傭兵「無駄死になんかさせない」
傭兵「大天狗は今、ここで、殺しきる」
返事を聞かずに俺は走り出した。
光の矢の掃射。秒間三十発の速射砲。撃てば撃つだけ前鬼を、後鬼を、大天狗を、確かに削っていく。エルフの命も。
しかし鬼たちはそれをものともせずにエルフを取り囲む。豪腕が四本。いくらエルフが高速で移動できるからといっても、傷ついたその体で避け続けることなどどだい不可能。
エルフを掴んだ後鬼の腕を切り落とす。衝撃でエルフが倒れこみ、そこへ前鬼が襲い掛かった。
助けにいこうとした俺を真空波が襲う。左腕に深い裂傷が入り、血が足元を濡らす。
動かないわけではないが……パフォーマンスの低下は著しい。
大天狗「……そうか、思い出したぞ。お前五年前の……」
傭兵「いまさらかよ」
大天狗「わしの真名を知っているのも当然か! 人間の執念、天晴れじゃ!」
大天狗「だがそれもここまで」
大天狗の指が、縦、横、縦、横と動いていく。一本一本、確かめるように、力を籠めるように、ゆっくりと。
九字。
交点に炎が灯り、地面に転写される。嘗て見た二回の印、どちらとも異なる。そしてどちらとも似ている。
交点の大地が隆起した。
大天狗「噴火しろ。煉獄火炎」
「ぜんぐぅうううううん! とぉつげぇえええええきっ!」
大天狗「――な」
地面が揺れた。
それは大地の隆起が齎した地震ではない。
整列した兵士たちが一斉に踏み出した一歩が、全てを抑え付け、大地を揺らしたのである。
九字の印にかぶさる様に魔方陣が展開、即座に地面が凍結する。
儀仗兵「持って五秒です!」
兵士「じゅうぶん!」
生き残っている兵士は五十名強。五体満足はそのうち三十名弱。全員が得物を持ち、大天狗へと突っ込んでくる。
大天狗は驚き信じられないという顔でその光景を見ていた。それもそうだ。やつにとって、この攻撃は捨て身どころか自殺以外の何ものにも映っていないだろう。いや、俺にだってそう見える。
だけど、俺はどこかで望んでいた。四天王に勝てる術があるのなら、それは、これしかない。
大天狗「前鬼! 後鬼!」
エルフ「これでこそ戦争! 私が望んだ、傭兵くんが望んだ! うひゃはははははひゃひゃ!」
光の矢を連打。兵士たちの群れへと向かった前鬼をエルフは決して逃がさない。自分と戦争をするのだ、と彼女は強制する。口から血をぶちまけながら。
撃つ、撃つ、撃つ。前鬼の豪腕を避けながら、防ぎながら、もろに喰らいながら、それでも決して攻撃の手を緩めることはない。
左足が捥げても矢を左足代わりにし、持ち前の機動力が半減しても木々を飛び回り、一撃必殺、前鬼の頭を狙い撃ち。
前鬼はそれを左腕で防御。突き刺さった矢を逆に投擲する。それでエルフの右腕が弾け飛んだが、彼女は一顧だにしない。呪文の詠唱を続けて魔方陣を追加で展開、射出する。
左腕に光の矢を大量に突き刺した前鬼の動きもついに鈍っていく。治癒能力より鏃の驟雨のほうが圧倒的に早かった。
反対に後鬼は俺が引き受ける。見るべきは両腕。少しでも掠れば即ち死。振りかぶりを回避し、切り裂きながら腕を駆け上がる。
撃墜をワンテンポ早く読んで離脱、地面の破壊を伴う振り下ろしの圏内から距離を置き、小さく傷をつけながら後鬼の周囲を旋回、意識をひきつける。
真空波を放つ大天狗。しかし兵士たちの先頭を走るのは攻撃を捨て、防御に特化させた兵士だ。死んだ仲間の鎧をこれでもかと身に着けた彼らは、例え息絶えてもその足を止めることはないと思われるほど気迫に満ちている。
二発目で先頭の兵士がくぐもった声を上げてぐらついた。そのまま前のめりに倒れこみ、予め仕込んであった爆弾とともに自爆、障壁を粉々に砕く。
「うぉおおおおおおおおおおっ!」
兵士たちは止まらない。仲間の死が彼らを後押しする。速度は落ちるどころか増すばかり。
大天狗「天晴れ! まこと、天晴れ!」
大天狗は引きつった赤ら顔で叫んだ。転写された九字の印が輝きを増し、押さえ込んでいた魔方陣を上回る。
大天狗「煉獄火炎!」
儀仗兵「フバーハ!」
儀仗兵「マヒャド!」
超高温度の炎が、空気の幕も、降りしきる氷塊も、全てを消失させてゆく。一気に解けた水分が膨れ上がり、濃密な水蒸気となる。
剣が、剣が、剣が、剣が、剣が、ついに大天狗の制空圏へ侵入する。
突き、薙ぎ、振り下ろし――大天狗は退くのではなく突っ込んだ。まるでそれが四天王、魔王の眷属、魔族の矜持であるかのように。
剣を折り、投げつけ、兵士の顔面を抉る。死体を引っつかんで投擲、それを避けた兵士の攻撃を扇で受け止めカウンター一発で命を奪う。
掴まれた腕を逆に掴み返して地面に叩きつけ、接敵を許せば風で吹き飛ばす。それでも兵士たちは次から次へと重なりあい、押し寄せてくる。
背後からの一撃が大天狗の羽を切り裂いた。深くはないが、生まれた一瞬の隙を見逃す素人はこの場にはいない。そちらへ向いた一瞬の意識の死角を衝いた兵士の攻撃が、更なる傷を大天狗につけていく。
礫弾が二人の兵士の命を奪う。次いで大地の隆起で尖った岩石を召喚、突っ込んできた兵士たちを根こそぎ串刺しにする。
勢いは止まない。死体を踏みつけ、足場にし、飛び掛ってくるのだ。
傭兵「死ねぇええええええ!」
後鬼の腕を蹴って反動をつけた俺は、神速で大天狗へと切りかかる。
しかし大天狗の反応もまた神速。片腕を犠牲にしても、と真空波を生み出しながら、交錯の中で俺の命を奪いに来る。
真空波が直撃した俺の姿が一瞬にして掻き消えた。
大天狗「げ、ん――!」
この人数を相手にして、流石に判別する余裕はなかっただろうさ!
傭兵「後鬼の相手で精一杯だっつーの……」
殺意に反応し大天狗は振り向く。しかし間に合わない。障壁をいくら展開しても、最早おっつかないほどの数の兵士が、射程距離内に侵入していた。
大天狗「爆裂しろぉおおおおおおっ!」
大天狗の前方が爆裂する。
ほぼ同時に、数多の剣が大天狗を貫いた。
腕に一本。腹部に二本。胸に一本。
大天狗「まさ、か、な……」
ごふ、と大天狗が血を吐いた。口の周りは本来の赤みよりも黒ずんだ赤で汚れている。
至近距離で放たれた爆裂の被害は甚大。しかし、十数名がゆっくりと、剣を支えにして立ち上がった。
前鬼と後鬼が消滅する。最早召喚を維持できないほどに大天狗も消耗しているのだ。
この好機を見逃すわけには行かない。俺はなんとか剣を握って向き直ろうとしても、体が言うことを利かない。重力が強すぎる。太ももから下の感覚がなく、気づけば膝を突いていた。
大天狗「天晴れ……天晴れ……」
片方の羽だけを羽ばたかせ、扇を一振りすると、大天狗の姿は風に紛れて消えていった。逃がしたのではない。やつも逃げざるを得なかったのだ。
兵士「……やった、のか?」
勝ちではないが負けでもない。それを「やった」と表現できるかは、難しい。四天王を退けたという時点で十分偉業ではあったが、ここでやつを倒しきれなかったのは、正直悔しいものがあった。
兵士「傭兵、お前、生きてんのか……」
名も知らぬ兵士が倒れ付したまま聞いてきた。俺は返事する体力もなかったので、親指を立てるだけで返事としてみる。
エルフ「よう、へい、くん……? 元気……?」
これで元気だったら人間じゃねぇな。それか、お前の目が腐ってるか。
エルフ「そんなこと、言わない、でよ。もう、目が……さ」
見えない、か。
魔力の枯渇か、失血が原因か……両方のあわせ技だろうな、きっと。それでも満足そうに見えるのは不思議なことだ。
エルフ「不思議、か、な? じゃない、よ」
エルフ「やっぱ、り……きみと、組んで、よかった」
さいですか。
エルフ「ん。……ばいばい」
最後に俺へと手を伸ばし、それを俺がとるより先に、エルフの体から力が抜ける。
なんだか途轍もなく大事なものが喪失した感覚があった。別種の大事なものが去来した感覚も、また。
それでも涙は流れない。エルフの死は、間違っても無駄死にではないと思ったから。
それとも、それもまたおためごかしだろうか? 自分の気を楽にするだけの言い訳にすぎないだろうか?
苛む思考は自然とシャットダウンされる。意識が端からゆっくりと黒く塗りつぶされていく。大丈夫、これは死ではない。そう確信できるから、俺はその暗黒に身を委ねた。
* * *
ベッドの上で傭兵さんが眠っています。すやすやと、その穏やかな顔だけを知っていれば、随分と印象も違うのでしょうが……。
隊長「僧侶ちゃん」
僧侶「ちょっとだけ、あとちょっとだけ、待ってください」
傍らの隊長さんにお願いしました。忙しい時間を使ってまでここにきてくださっているのです。申し訳ないとは思うのですが、わたしにだって、どうしても譲れないものはあります。
隊長「……わかった。出発は明け方だから、今晩は待てる。けど、あんまり遅いと、紛れ込ませるのも大変になる。なるべく早く来て欲しいかな」
僧侶「わかりました」
そういうと隊長さんは静かに部屋を後にします。
現在、宿屋の二階、傭兵さんと勇者様の部屋です。……勇者様はもう、この世にはいませんが。
僧侶「傭兵さん、傭兵さん」
眠ったままの傭兵さんに声をかけます。
伝聞ですが、聞きました。大天狗との戦い。エルフさんの乱入。多数の死者。前鬼と後鬼。そして、勇者と呼ばれたということも
わからないことだらけです。あなたは結局、わたしにたいして、殆ど自分のことを喋ってくれませんでした。わたしはあなたの本名すら知らないのです。
自分のことを喋らないのは、それはもちろんわたしだってそうかもしれません。だからお互い様といえばお互い様です。けど、あなたの行動は、思考は、わたしには遠すぎるのです。わたしの数段上を行き過ぎていて、遥か彼方を見据えすぎていて。
理解できない。それは、怖い。
ねぇ、傭兵さん。
僧侶「なんで二人を殺したんですか?」
傭兵「……」
目が合いました。
僧侶「……」
傭兵「……」
僧侶「……おはようございます」
傭兵「……おはよう」
僧侶「聞こえちゃいました?」
傭兵「聞こえちゃったな」
そんな言い方をするものですから、なんだか面白くって、噴出しそうになりました。
に、似合わない!
僧侶「……」
傭兵「……」
僧侶「……で」
傭兵「……おう」
いろいろと、準備とか空気とか、覚悟してたものが崩れた――ずれた気がしますけど、それでも。
僧侶「なんで二人を殺したんですか?」
傭兵「お前、隊長から聞いたか?」
僧侶「え?」
傭兵「隊長から聞いたか、って聞いてるんだよ」
質問に質問で返されました。とはいえ意味はわかります。
はぐらかされた感じがとってもしますが、ここは一応従っておくことにします。
僧侶「……はい、聞きました」
僧侶「人員補充に紛れてラブレザッハに行く、と」
そうです。避難誘導を済ませたわたしに、隊長さんはそう言ったのです。傭兵さんからの言伝だと断って。
傭兵「出発はいつだ。俺にかまってる暇なんてねぇだろ」
僧侶「明朝といってました。まだ時間はあります。……いろいろ、話せるくらいには」
傭兵「いろいろ、か」
僧侶「はい。いろいろ、です」
傭兵「……この結末は、見えてた」
僧侶「結末?」
傭兵「あんだけやらかしてなんともないとは思ってなかった。こんな迅速に、しかも金をかけてくるのは予想外だったけどな」
僧侶「……」
傭兵「だから、まぁ、なんだ。その……ボスクゥに来た時点で、決まってた。というより、このために来たんだ。俺の仕事を終わらせるために」
僧侶「終わり、なんですか」
傭兵「あぁそうだ。全部終わりだ!」
傭兵さんは上体を起こして大きく伸びをし、そのままベッドに倒れこみなおしました。
傭兵「俺の仕事はお前をラブレザッハまで連れて行くことだ。そのお膳立てはした。これ以上俺にできることは、なーい!」
僧侶「……でも」
傭兵「でもじゃねぇよ。お前はラブレザッハまで行きたい。俺は連れて行く代わりに報酬をもらう。それだけだ。それこそが互恵関係だ」
傭兵「軍隊についていけば間違いない。こんな守銭奴の下種い傭兵家業よりゃよっぽど信用できるってもんだ。違うか?」
僧侶「ちが、います」
力なくとも首を振ることができました。
傭兵さんのことがわからなくとも、傭兵さんにわからせることができずとも、それだけはできます。だってわたしは彼に命を預けたのです。後にも先にも、命を預けたのは傭兵さん、あなたきりなのです。
僧侶「前にも言ったじゃないですか。傭兵さん。わたしは、あなたを信頼してるんです」
傭兵「……馬鹿だな」
はい。馬鹿なんです。
どうしようもないほどに、馬鹿で、取り返しがつかないほどに、愚かで。
傭兵「俺はお前の足手まといになる。俺と一緒にいるだけで、お前は州総督から狙われる。だから、お前は俺を切れ」
僧侶「……傭兵さんは、大丈夫なんですか?」
傭兵「はっ!」
傭兵さんは目に見えてわたしを嘲りました。
傭兵「お前が俺の心配か。いいご身分だな、いつからそんなに偉くなったよ」
傭兵「ラブレザッハに行きたいんだろうが!」
傭兵「いくら金を払っても、体売ったって、行きたい理由があるんだろうが!」
わたしの胸倉を掴んできます。鼻と鼻がぶつかるほどの距離に、傭兵さんの顔がありました。
存外綺麗な瞳が見つめてきたので、わたしも見つめ返します。
僧侶「あります」
曲がらないものがあるとすれば、それはわたしのあなたへの信頼と、唯一無二の目的くらい。
もちろん、前者を口に出すのは憚られますが。……結構口に出しちゃってる気も、しますけど。
傭兵「なら、いいだろ。お前は行け。ぐだぐだしてる時間も、実際、あんまりないんだろうさ」
僧侶「わたしの質問に答えてください」
傭兵「……」
僧侶「傭兵さん」
傭兵「わかった! わーかったから!」
お手上げだ、とジェスチャー交じりに傭兵さん。
傭兵「考えをまとめる。五秒だけ目ェ瞑ってろ」
僧侶「絶対答えてくださいね」
傭兵「絶対答えてやるから。ほら」
わたしは目を瞑りました。口に出して数えます。
いーち、にーい、さーん、よーん、
僧侶「ごーおっ!」
目を開けました。
傭兵さんの姿はベッドの上から消えています。
開いた窓からは夕方の涼しい風と陽光がやんわりと飛び込んできていて、穏やかに一日の終わりを告げていました。
僧侶「……」
……だ、騙された!?
逃げられた!?
あのくそやろう!
※ ※ ※
ミスった。
盛大に、ミスった。
勇者殺しに気づかれただけでなく、それを知った上で俺を信頼するだなんて、どんだけ人がいいんだあいつ!
本来ならばもっと素直に僧侶が別れてくれるか、勇者殺しに気づいて激昂し、喧嘩別れ――それを狙っていたのに!
まさかあんな実力行使で逃げる必要がでてくるとは思わなかった。
俺はパンを一齧りし、牛乳で流し込む。全方位が敵という状況下でエールを飲む気にもならない。
まだボスクゥに駐留していた。とはいっても、それは隊長と手筈の確認をするためであり、それが終わればすぐにでもここを発つつもりだった。いつ襲われるかわかったものではないのだ。おちおち長居もできない。
顔を隠して酒場に入り、軽く昼食だけをとっている。僧侶から逃げて一晩は裏路地での野宿で過ごした。戦い、目を覚まして以降何も胃に入れていなかったので、我慢できなかったのだ。
エルフの遺体は仲間のエルフ族が追って引き取りにくる手筈となっているし、僧侶はすでに出発した。この都市ですべきことはもうない。
俺はこれで晴れて自由の身。小うるさく言われることも、もうない。
とりあえずそのあたりの始末の如何だけを隊長から確認したかったのだが、まだ来ていない。あいつも事後処理に追われているのだろうが、あまりのんびりしている暇もないというのに。
今後傭兵家業を続けていけるかどうかは難しいところだった。あそこまで手配書が出回ってしまえば、俺に依頼をする人間よりも、俺を捕まえに来る人間のほうが多くなるだろう。それでは商売上がったりだ。
まぁ俺は傭兵で生きていくと誓いを立てたわけでなく、日々の糧はこの腕で掴み取る。その気になれば州総督に雇われにいったっていいくらいである。
わかっている。強がりだった。
すっかり調子が狂ってしまっている。あのちんちくりんの僧侶のせいだ。
俺は、昔はこう、もっとぎらぎらしていたという自覚があるのだが。
思わず頭を抱えてしまう。だめだ。こんなのは本当の俺じゃあない。
昼食の時間としては少しばかり遅いからか、酒場の中に人は疎らだ。エールを飲んでいる兵士もいれば上等な肉を食べている成金風情も見えるが、店内は静かである。
新聞を広げながら相場の動きについて話し合ったり、景気の動向だとか、昨日の避難についての感想を言い合ったり、商人たちの話題としてはその程度。大天狗に関してはきつく緘口令が敷かれているので、一行商人程度ではわからない。
酒場の隅では映像受信機がニュースを垂れ流していた。金と銀、銅の値動きが発表されている。昨日よりもわずかにあがったらしい。
金銭は、通貨は、何物にも代え難い。全てに兌換できるからこそ、代え難い。誰もがそれを重要視するから。
果たしてそれは矛盾だろうか?
とりあえず、当面は身を隠せる場所の選定を優先しよう。落ち着けるところが見つかり次第金を稼がなければいけない。まだ俺は、目標額の半分程度しか稼げていない。
隊長「よ、待たせたな」
椅子を引いて隊長が座る。やってきた店員に珈琲を注文すると、おしぼりで顔を拭いた。
傭兵「おせぇぞ」
隊長「事後処理がやばいんだよ。俺は紙の兵隊だからな」
紙の兵隊――後方支援で補給や輸送、物資管理などを行う事務方兵士の総称。
傭兵「で」
隊長「エルフと僧侶ちゃんのことだろ。安心しろ、万事抜かりはない」
隊長「エルフに関しては、そもそも人間とエルフ族の間で協定が結ばれてるからな。クランとも連絡がついたし、数日のうちには遺体を引き取りに来るだろう」
傭兵「……そっか」
よかった。心底そう思う。
嘗て共に視線を潜り抜けた仲間だ。生きているときは戦争に魅せられた人生だったのだから、こうなってしまったときくらい、安らかに眠ってもいいのじゃないか。勿論やつはそんなの認められないんだろうが。
隊長「僧侶ちゃんに関してはそろそろ到着するか、もう到着してると思う」
傭兵「随分早いな。出発は夜明けだろ? 丸一日はかかると踏んだが」
隊長「王国軍謹製の転移魔方陣があるんだよ。それを使えばあっという間……っつーわけにはいかないけど、だいぶ短縮できる」
傭兵「は。便利なもんだ」
隊長「お前はこれからどうするんだ?」
傭兵「どうもしねぇよ。生き方なんて変えられない。金を溜めるだけさ」
隊長「うちに来るつもりはないか?」
傭兵「冗談じゃねぇよ。安月給で働いてたら、時間がいくらあったって足りねぇ」
笑い飛ばしてやると隊長も自嘲気味に笑った。
隊長「ま、生き方は変えられないけど、心変わりはありうるぜ。そんなときは連絡をよこしてくれ」
珈琲を一気に飲み干して立ち上がった。どうやら忙しいというのは本当らしい。
隊長「じゃあな。『勇者様』」
……ちっ、嫌味かよ。
酒場へと新たに五人の壮年男性ががやってきた。趣味の悪い指輪を肉のたっぷりついた指にいくつもつけているあたり、大方相場師か、うまく儲けてあぶく銭ができた商人たちなのだろう。
本当の金持ちは身に着けているものもごてごてしていない。上品で、決めるとき、決めるところをきちんと決める。なにより悪趣味な装飾を見せびらかそうとするのは客商売ではご法度。酸いも甘いも噛み締めた大商人のスタイルではない。
人が増えてくるのは厄介だ。気づかれても困る。俺は牛乳を流し込むと席を立った。
「緊急速報です!」
と、映像受信機の中で、女性が急ぎ、紙を読み上げている。
「ラブレザッハで――州総督官邸を狙ったクーデターが発生! 占拠され、現在州総督が人質となっています!」
「クーデターを行った一派は『世界共産主義統一党』を名乗り、まだ名声の発表はしておりませんが、各州領主および国王へ要求があるようで――」
全員が映像受信機へ釘付けになっている。
ラブレザッハでクーデター。しかも、直接州総督を狙って、占拠。それはあまりにも突飛な、命知らずな行動だ。実際に成功させてしまっているのが猶更始末が悪い。
俺は思わずよろけて、牛乳の入っていたカップを盛大に割ってしまう。
傭兵「おいおい」
傭兵「そういうことかよ」
画面の中では、州総督に拳銃を突きつけている僧侶の姿が映っていた。
* * *
幸せだった記憶はあんまりありません。
お母さんもお父さんも神職についていました。人助けが趣味のようなものでしたから、休みも返上で教会に通い詰めて、孤児院に寄付したり、浮浪者に職を斡旋したり、そんなことばっかり。
もちろん両親は人徳がありましたし、それについて誇らしくもありました。アカデミーに入ったのも二人のようになりたい、二人の力になりたい、そんな気持ちがあったからです。
わたしがアカデミーに入ると同時に両親は北部へと移り住みました。今までの功績が認められ、今後はより重要なポストに就いて、慈善活動を行ってほしい。そんなことをお偉いさんから言われたと手紙には書いてありました。
誇らしいことです。実に、誇らしいことです。その話を聞いた特、少しの寂しさは覚えましたが、それ以上に喜びがありました。両親のやっていることは立派なことだと認められたのですから。
わたしもわたしでアカデミーは忙しく、落ちこぼれないようにするだけでも精一杯。幸いわたしには魔法の才能があったらしく、放出が極めてできないという無視できない問題はありましたが、それ以外は何とか修めることができたのでした。
あのころは楽しかった。周りには同年代の友達がたくさんいて、頼りになるお兄さんも、わたしを頼りにしてくれる妹分も、世界平和を掲げる赤毛ちゃんも、先生も、友達も、全てが満ち足りていたのです。
起床は七時。七時半からご飯を食べて、八時半までに教室に入っていなければ遅刻になります。殆どの生徒が寄宿舎で生活していたため、朝は仲のよい友達と揃って目覚ましをかけ、ご飯を食べ、教室へ向かいました。
魔法の理論と実践がアカデミーでは主でしたが、それ以外の座学も当然行います。「知無き力は空である」と当時の先生がおっしゃっていたのが、いまだに頭に残っています。
読み書きは当然として、科学、地理学、歴史学なども平行して学びました。神学はもちろんわたしの独壇場。テスト前には勉強会なんかも開いたりして。
逆に赤毛ちゃんなんかは科学全般に強くて、不思議と歴史にも詳しくて、そっち方面ではお世話になりました。
赤毛「だからさ、今の政治は二つに別れてるわけ」
僧侶「州総督と国王?」
赤毛「そう。国王派は権威とか正統性に拠って権力を手にしてるよね。州総督は逆に利権を集めてる」
僧侶「利権っていうと?」
赤毛「そりゃまずは土地でしょ。食べ物と水は人が生きるのに必要だから、それを確保して」
僧侶「あー、やだやだ。そういうのは好きじゃないです」
赤毛「あんた争いとかに耐性ないもんね」
僧侶「そりゃそうですよ。平和なのがいいです。みんなが何事も無く平和に暮らせるなら、それ以上はない。でしょ?」
赤毛「まぁねぇ」
僧侶「節制は美徳ですよ。人間は愚かですからね。お金にしろなんにしろ、あればあるだけ使っちゃうから」
赤毛「あはは、耳が痛いよ」
こんな風に少しまじめっぽい話をするときもあれば、
赤毛「ね、ね! 聞いた!?」
僧侶「何をさー」
赤毛「戦士さんと賢者さんが付き合ってたんだって!」
僧侶「あぁ、こないだ手を繋いで歩いてるとこ見ましたよ」
赤毛「え、マジ?」
僧侶「うん。マジ」
赤毛「いやぁ美男美女カップルっていいよね! 私にもいつか格好いい彼氏できないかなぁ」
僧侶「赤毛ちゃんならできるよ」
赤毛「そう言ってくれるのは僧侶ちゃん、あんただけだよぉ」
僧侶「気になる人はいないんですか?」
赤毛「いない! だってみんな私より弱いんだもん。女の子に生まれたからには、やっぱり守ってもらいたいよね」
僧侶「赤毛ちゃんより強いって、同レベルじゃいないと思いますけど」
赤毛「あ、僧侶ちゃんにはいないの、好きな人」
僧侶「いませんよ。大体、わたしは身も心も神様のものですから」
赤毛「ちぇ、つまんなーい」
僧侶「つまんなくないですー」
みたいな、所謂コイバナに花を咲かせるときなんかもあったりして。
楽しいことばかりでした。友達は多くて、ご飯はおいしくて、授業は大変でしたがためになって、充実したアカデミー生活だったと断言できます。
ただ、最初は週に一回だったはずの手紙のやりとりが、いつからか十日に一回となっていたことが気がかりでした。
毎週日曜日は礼拝日です。正式な僧侶となるのはアカデミーを卒業してからですが、アカデミー内にある礼拝堂でのお手伝いをわたしはしていました。
アカデミーにはさまざまな宗派の方がいらっしゃいます。流石に全ての宗教について礼拝堂を設立するわけにはいかないので、カトル、プロトニック、ダバラモの三大宗教についてのみ、礼拝堂はありました。
わたしがお手伝いしていたのは勿論カトル教です。司祭様は優しいかたで、人徳もありました。礼拝日に限らずさまざまな悩みを抱えた生徒の話を聞き、包み込んでくれる、まるで慈母です。
彼女はなんとわたしのお父さんの元で修行した過去があるらしく、だからわたしと彼女の仲は他の生徒よりも随分とよかったと思います。わたしは昔のお父さんの話を聞いたり、逆にお父さんの話をして、盛り上がったものです。
そのころ、手紙の頻度が二週間に一度へと変わっていきました。
手紙には大きな事業を任されて忙しい、手紙を書く時間が余り確保できない、申し訳ない、そんな旨が書かれていました。
少し……いえ、だいぶ残念でしたが、大きな事業を負かされたのならば仕方がありません。それは貧しく虐げられている人々を助けるという両親の願いの第一歩。わたしが間違っても口を出せるはずなどなくて。
しかし、今でも思うのです。あのときわたしが口を出していれば、両親は死なずに済んだのかもしれないと。
けれど、やはり思うのです。あのときわたしが口を出していても、両親はどの道殺されたのかもしれないと。
何事もなくアカデミーでの生活は続きます。アカデミーは六年制。わたしはそのとき五年目で、名実共に主席の座を確保していました。
依然として魔法の放出はできませんでしたが、そのころから進路やスタイルも細分化されてきて、わたしは謹製の拳銃を手に入れたこともあり、大したハンデではなくなっていました。
魔力の絶対量では赤毛ちゃんには逆立ちしても叶いませんでしたし、体力や運動神経では前衛の方々に叶いませんでしたが、曰くわたしは「バランスがいい」らしいのです。
五年目には研修旅行があり、わたしと赤毛ちゃんは十人ほどの集団で北の山へと向かう計画を立てていました。この計画に、先生たちが個別に目標を設定し、それを達成し次第帰還していいというものです。
わたしはそのことをうきうき気分で両親に報告しました。そのころすでに手紙は一ヶ月に一回くらいしか返事が来ませんでしたが、それでも一週間に一度は送っていましたし、何かあればその都度送っていました。
北の山へ出発するより先には手紙は届かず、悲しさは覚えましたが、気丈に笑ってしかたがないよねと思ったものです。
結局、返事が来ることは二度とありませんでしたが。
その辺りの出来事は記憶があんまりなくて、覚えていても単発で、前後関係とか時系列とか、誰が何を言ってわたしが何をどうしたとか、そういうことは一切合財全部まとめてあやふやな暗闇の中。
ただ、久しぶりに見た両親の顔は花に包まれていて、信じられないほど白くて。
そして、げっそりと痩せていて。
死因は栄養失調。
「ありえるか!」
何かが吹き飛びます。わたしの部屋の中にあったなにか。正体は意識の外。
もしくは、わたしの中にあったなにかが吹き飛んだのかも?
「この現代社会で! 死因が! 栄養失調だなんて!」
手が、足が、いろいろと薙ぎ倒していきます。
感覚がない。折れたのかな。
「ふざけんな! ふざけんな! ふざけんなああああああっ!」
わたしを止める存在はどこにもいません。
たった一人の我が家。わたしの家。わたしの部屋。
ひとりぽっち。
おとうさん。
おかあさん。
どうして?
信じられませんでした。栄養失調で死ぬなんてことがありえましょうか。いや、ありえるとしても、両親がそんな世界の住人だったとは到底信じられません。
お医者様の話を信じるならばそういうことになるのです。ただ、いくら権威あるお医者様の診断でも、納得できることとできないことがあります。
説明ではこうでした。両親は教会で働く傍ら恵まれない人々に支援を行っていた。それはいいです。わかります。そうでしょう。あの人たちは今までそうでしたから、これからもそうである。単純な話です。
そして、次第に支援の度が過ぎていった。
教会の運営費に割り当てられている「支援費」から出している分は問題なかった。しかし、口減らしで捨てられた孤児は依然多く、また領主に土地を買い上げられ自作農から小作農になり、没落した農民も数を増すばかり。
支援費は足りなくなる。けれど状況は一向によくならない。えぇ、それはわかります。そりゃそうでしょう。国王派の福祉政策を凌駕するほど州総督派の巻上げが酷いんですから。
だから、両親は支援に私財を投じた。
英雄だったそうですね、北の地方では。自らの財産を削り、寝食を惜しんでまで恵まれない人々のために尽くした傑物。とてつもない人望。限りない人徳。どんな勇者だってできることではないと絶賛されていたそうです。
葬列の参加者の数も納得です。徽章を身につけた教会のお偉いさん方も当然沢山、誇らしげな顔をして並んでいましたが、それよりも襤褸を身にまとった子供や老人の数といったら!
ずらずらずらりと五百人。
いや、一千人はいたかもしれません。
実際に助けた人はもっと、もっと多いでしょう。そしてそれだけの人数を助けるのは、私財を擲っても不可能。両親にはパトロンがついていたことになります。
州総督。
顔と名前は座学で習っていました。彼はノブリス・オブリージュとして、両親を通して間接的に、支援を行っていたことになります。
十割の善意ではなかったのでしょう。そんなものがあるはずはありません。大方、民衆からの支持を得たかった、そんなところのはずです。しかし両親にはそんなことどうだってよかったに違いなくて。
州総督から得たお金で両親は支援を続けました。やっぱり、寝食を惜しんで。身を削って。全てを擲って。
そうして、両親は死んだのです。
死んだ、そうです。
死んだそうですよ?
……は?
いや、おかしいでしょ。おかしいって。
論理の飛躍。
説明の乖離。
それじゃあまるで、両親が本能の欠けた人間みたいじゃないですか。
どこの世界に自分の食べるパンすら全部与えて餓死する人間がいるってんですか!?
ついに放り投げるものも叩き落とすものもなくなって、それでも籠められた力は解消せずにはいられず、ひたすら壁を叩き続けます。鈍い音がするたびに脳裏をよぎるは二人との思い出。
親としては決して褒められたものではないのでしょう。子供を放って慈善活動に勤しんでいたのですから。
それでもわたしは。
わたしは!
「おやめなさい」
振り上げた手が掴まれました。はっとして振り向くと、そこにはアカデミーの司祭様がいらっしゃったのです。
僧侶「な、なんで……」
司祭「私もあなたのお父様にはお世話になったから。葬列に参加していたのよ? 気づいていなかったかしら」
ぜんぜん気づいてませんでした。
司祭「……残念、だったわね」
僧侶「もう、わたし、何がなんだかわかんなくって……!」
僧侶「だって、だって、死んじゃったら駄目じゃないですか! 死んじゃったらなんも、なんもかんもなくなって、出来なくなっちゃうじゃないですか!」
僧侶「お父さんもお母さんも誰かを助けたくって、でも死んじゃったらそれすらできなくなって、そんなことわかんないはずないのに、でも死んじゃって、なんで!?」
僧侶「司祭様! なんで!? 教えてください、なんで、なんで、なんでですか!?」
わたしは司祭様の胸の中で泣きました。
わんわんと。
恥も外聞もなく。
神様なんていません。この世界に神様なんていやしません。
もしプロトニックやダバラモが教示するように、この世界に全知全能の神様がいるのだとしたら、もっと世界はよくなっているはずなのです。
両親が救いの手を差し伸べるより先に、神様が恵まれない人たちに合いの手を差し出しているはずなのです。
仮に神様がいたとして、そうしないということは、神様はこの世で一番の性悪なのです。普く不幸を酒の肴にワインを飲んでいるに違いありません。
ならば神様なんていないほうがいい。
いないと信じるほうが、精神的にいい。
この世に存在するのは人。そして魂。八百万に心があって、それだけ。
全てが調和していないだけ。
司祭「……神父様たちはね、殺されたのよ」
言葉は衝撃となってわたしの体を貫きました。
神様がわたしの両親を殺したのでないなら、人が、人の魂がわたしの両親を殺したのです。そうです。当然の帰結です。
司祭「教会は腐敗しているわ。やつらにとっては、信仰なんて金の生る木みたいなもの。そして一番のパトロンと繋がって、片方には権威を、片方には金を、流している」
司祭「神父様たちはその犠牲。生贄よ。僧侶ちゃんには悪いけれど、使い捨ての駒のようなものだったの」
僧侶「……やめてください」
そんなことは到底信じられることではありません。許容できることではありません。
司祭「やめないわ」
僧侶「やめてください!」
司祭「ご両親はパトロンである州総督に使い潰され、権力機構の道具となって死んだの! あいつらは二人の奉仕の心を利用して、命の雫を搾り取り、それで私腹を肥やしたの!」
僧侶「聞きたくありません!」
司祭「聞きなさい! 本当にあなたが悔しいなら! 世界をよりよい方向に進めたいと思っているのなら!」
もういやなのです。なんでわたしがこんな目にあわなきゃならないのか。
あぁ、でも、わたしの深奥では怒りの炎が燻っています。両親が死んだ理由を、両親を殺した何かを、見極めてやろうと思っています。
両親の心残りをなんとかしてやらなければ、と思っています。
世界をよりよい方向に進めたいと思っています。
司祭「この世は革命されねばならない!」
司祭「資本家の富と権力の独占を許してはおけない!」
司祭「ブルジョワジーによって保たれているこの社会構造は換骨奪胎されなければならないのよ! 私たちプロレタリアートの手によって!」
司祭「そう! 今こそ革命のとき!」
司祭「労働者による全世界同時革命! 世界のステップを上げなければ、真の平和と幸福は訪れない!」
司祭「僧侶ちゃん! あなたは今、立ち上がるときなの! ご両親の遺志を継ぎ、この世の中に存在する全ての恵まれない存在を救い出せるのはあなたしかいない!」
司祭「あなたが導くの!」
司祭様のびいだまのような瞳がわたしを見つめています。
司祭「私の手をとって! 僧侶ちゃん!」
もう、何も考えられませんでした。
あんなに優しく、他人のことを想っていた両親が、どうして死ななければならなかったのか。何が二人を殺したのか。それ以外を考えることは、無駄なことです。
僧侶「……あぁ」
存外簡単に答えは見つかりました。
両親を殺したのはこの世界なのです。
もっと噛み砕いて言うならば、社会システムなのです。権力構造なのです。
お金なのです。権威なのです。
欲望なのです。
復讐しなければいけません。
僧侶「そっか」
だからだったのですね。
だから教会のお偉いさん方は誇らしげな顔をしていたのですね。協働を掲げるカトル教の面目躍如。いい看板になってくれた。そう思っているから。信者獲得に一役買ってくれた、とすら思っているのかもしれません。
やつらは豚です。人の面の皮を貼り付けた、肥えた豚です。信仰心を金に変え、金を腹の贅肉に変えた、人面獣心の何者か。
州総督も豚です。己の私利私欲を満たすためだけの道具として権力を利用する不届き者。自分さえよければ他人がどうなってもいいゴミ屑。あいつがいなければ、農民たちの土地が奪われることはなかったはず。
人の命さえ金勘定のひとくくりにしてしまう最低最悪の人種。いえ、豚なのですから人ではありません。汚らわしい、鳴き声の耳障りなクソ豚。
屠殺しなければ。
お金という潤滑油がなければ回らない現代社会も、社会構造も、また破壊されなければなりません。
現代社会はお金がなければ生きていけない。欲望を満たすためのお金の価値を、資本主義社会では論じるまでもないでしょう。
しかし、だめです。
人間はお金などに頼ってはいけないのです。
そんなものに頼らずとも生きていける社会を目指さなければいけません。そうしないのは、怠惰。思考停止。
資本家に飼い殺されているようなもの。
欲望は否定しません。欲望は社会を推し進める原動力。わたしのこの感情だって「よりよい世界を造る」という欲望なのですから。
問題はお金。そして権力。
資本主義社会におけるお金と権力は、必要悪。悪はいずれ滅されなければいけません。
わたしの手は自然と動いていました。
* * *
僧侶「……教えて。お父さんとお母さんが死んだときのことを」
州総督「……」
僧侶「だんまり、か」
僧侶「顔のでっぱりが一つ二つなくなれば、話す気にもなる?」
司祭「僧侶様」
僧侶「わかってるよ。あと、僧侶様って呼び方は、どうにも」
司祭「それは仕方ありません。あなたは私たちを導く存在なのですから」
わたしはなぜか敬称付けで呼ばれていました。なんでも、お父さんお母さんの娘であるから、とか。
なんとなく嫌でした。呼ばれなれていないというのも勿論ありますが、それ以上に、敬称付けからは権威のにおいがしたのです。
お金や権威を否定するわたしたちが自ら権威を傘に着る。それは最も避けなければならないことでした。
全てをフラットに。言行一致。そうして初めて信頼が得られるのです。
州総督「こんなことをしてどうなるかわかっているのか?」
まるで小物の発言でした。わたしは鼻で笑ってやります。
僧侶「わかっているからこそやったのですよ。こうすることの破壊力を、影響力を、わたしたちは見込んだからこそ実行したのです」
州総督は余裕のある笑みを崩しません。本当にどこかの出っ張りを削ぎ落としてやりたいくらいでしたが、こいつに危害を加えるわけにはいきません。大事な交渉カードなのです。
先ほどは小物と断じましたが、拳銃を突きつけても平然としている辺り、肝は据わっているようです。海千山千を越え、いくつもの権力闘争を勝ち残ってきたのでしょうから、それも当然なのかもしれませんが。
この様子は中継で全大陸に放映されているはずです。愉快。実に愉快です。まさに今、わたしたちの悲願の第一歩がなされようとしているのですから。
こんこんと部屋の扉がノックされました。司祭が応じると、「失礼します」の声と共に数人がやってきます。
一人は兵士。彼は農家の五男で、学も無く、半ば追い出される同然に兵士となりました。既に農地は奪い取られ、その家庭で実家は崩壊、両親が首を吊っています。
一人は研究者。彼女は水の浄化に関する技術の研究をしていましたが、学閥には属していなかったため、全ての功績は彼女のものではなく主任研究員のもとへ。
一人は少年。彼は生まれつき片目が見えず、右腕が満足に動きませんでした。物心つくころには両親は既におらず、読み書きはできませんし、ごみ漁り以外の生きる術を知りません。
兵士「同志僧侶! 館内及び敷地入り口、中庭、堀まで全て制圧完了しました!」
研究者「同志僧侶! 館内の電気設備、排水設備等、全て掌握完了しました! また下水からの侵入を防ぐため、現在鉄柵の設置を急がせてあります!」
少年「同志僧侶! 捕まえたやつはみんな食堂にいるよ! 言われたとおり手足を縛って、口に布をかませてある!」
僧侶「ご苦労様です。引き続き、警戒を怠らず、任務を続行してください」
「「「御意! 私の身も心も、全て新たなる世界のために!」」」
僧侶「えぇ。新たなる世界のために」
三人は各々の持ち場に向かって走り去っていきます。
わたしは兵士の背中に声をかけました。
僧侶「同志兵士。州総督の私設軍や私兵の動きはどうなっていますか?」
兵士「は! 同志僧侶! 州総督邸内の制圧は、ホットラインなどを全て遮断してから行いました! また邸内にいた私兵は全て粛清の対象であり、現在拷問にかけている最中であります!」
兵士「恐らく、既に動き出しているとは思いますが、指揮系統が混乱しているのは明白であります!」
僧侶「わかりました。ご苦労様です」
兵士「ありがたきお言葉! それでは同志僧侶よ、私は持ち場に戻ります!」
兵士らしくびしっと敬礼を決めて、兵士は部屋を後にしました。
僧侶「州総督閣下。この国の誰よりも裕福で、この国の誰よりも権威を持つあなたが、どうして今拘束され、拳銃を突きつけられているかわかりますか?」
州総督「……」
僧侶「わたしたちには沢山の同志がいます。あなたのような、金と権力で繋がった関係ではありません。魂で固く結ばれた同志が」
僧侶「誰もがこの国の未来を憂う憂国の戦士。どんなところにも彼らは存在し、水面下で長いこと連絡を取り合ってきました」
僧侶「ついに彼らを虐げ続けたツケが回ってきたのですよ」
あの日以来わたしは『世界共産主義統一党』の一員となり、この日のための計画を綿密に練り上げてきました。
組織には様々な人材がいました。それこそ、現代社会においてはエリートと呼ばれる層から、「えた・ひにん」と呼ばれる層まで、様々な階級の人が己にできる役割を全うしようと努力を続けていたのです。
この組織では貴賎がありません。兵士には兵士だからこその役割が与えられ、浮浪者には浮浪者だからこその役割が与えられました。
だからこんなにもクーデターが速やかに、かつ何の障害も無く行うことが可能だった。
州総督のスケジュールは彼の側近から明らかになりました。邸内の見取り図は召使の目測と歩幅によって丹念に精査され、建築家によって図面に起こされます。
それをもとに襲撃計画を立てるのは兵士や傭兵。仲間を募り、情報収集を行うのは浮浪者や教会のメンバーが主です。そして、可能な限り人を集め、全員による突入が行われたのでした。
構造上弱い部分や老朽化して修復されていない場所などは一目瞭然。衛兵の交代間隔も、配置場所も、人員も、全てが筒抜け。序列持ちが邸内にいないことも確認済み。失敗するはずがありません。
そう。わたしたちは成功するべくして成功したのです。
州総督「こんなことをしてどうにかなると思っているのか」
僧侶「またそれですか」
しつこい男は嫌われるのですよ。
既に蛇蝎のごとく嫌われているこの男としては、全く気にならないのかもしれませんが。
州総督「何が目的だ」
「それは僕から説明しましょう」
現れたのは四十前後の男性です。高い身長と整えられた身なりからはダンディズムを十分に感じることができます。
スーツにネクタイ。見れば単なるサラリーマンですが、わたしは知っています。この方の野望に燃えた瞳の色を。
司祭「党首様」
そう。この方が『世界共産主義統一党』の党首。わたしたちのブレイン。
党首「同志司祭。それに僧侶様。ついにここまでやってきたな」
司祭「いえ、ここからがスタートです」
党首「そうだ。ここから世界が新しくなる。僕たちの手でそれを成し遂げるのだ」
党首「きっとご両親もそれを望まれているはず。そうだろう、僧侶様」
僧侶「……そうですね」
あまり両親のことに触れてほしくはありませんが。
州総督「ここがスタートだと? 馬鹿め。ここが終わりだ。貴様らの墓場だ」
僧侶「撃ちますか?」
党首「まぁ、落ち着きたまえ、僧侶様。彼は大事な人質だ」
党首「……州総督、貴方がいる限り、むこうも荒っぽいことはできないでしょう。なに、危害を加えるつもりはありません。僕らと一緒に来てほしいだけなのです」
州総督「どこにだ。この世界のどこにも、貴様ら共産主義者、アカの手先の楽園などは存在しない」
党首「えぇ、えぇ、そうですとも。ですが」
党首様が司祭へ目配せしました。司祭はうなずき、一歩前に出ます。
司祭「存在しないのならば、作ればいいのです」
司祭が広げたのは羊皮紙の地図。傭兵さんが持っていたものと同じ、細かく街道や川、国境の書き込まれた詳細なもの。
司祭「北部に連なる山脈の麓には広大な小麦畑が広がっています。また、州には属していても、実質人が住んでいないようなところは多々ある。あなたは我々にその土地を譲っていただければよいのです」
そういいながら司祭は羊皮紙の地図に線を引いていきます。
司祭「ボスクゥの傍にあるマレチ湖を遡上し、北部山脈の西端ロロジーロ連峰の麓。州で言えばアッバ州になりますね。そこに数年前から耕作放棄地があるはずです。理由は、盗賊が現れるから」
州総督「そうか。あれも貴様らの差し金か」
司祭「さぁ? 私たちのあずかり知らぬことですわ」
司祭「まぁとにかく、州総督にはアッバ州の領主に口添えをし、世界共産主義統一党にその全権利を譲ることを認めさせればいいのです」
州総督「……お前ら、戦争狂か?」
思わず人差し指に力が入りました。一瞬先に党首様がわたしの前に入りますが、照準は依然、まっすぐ州総督に向いています。
僧侶「だめです。やっぱりこいつは殺します」
農地を奪って生きる場所を、大地を汚して尊厳を奪い、人を殺し続けてきた首魁に言われるのだけは断固として許せません。
司祭「僧侶様、落ち着いてください」
州総督「そんなことをしてみろ、すぐに他国からの介入が入る! 共産主義が広まったら困るのはどこの国だって同じだ!」
僧侶「臭い吐息をぶち撒かすな豚ァッ! 黙れっつってんのがわかんねぇんですか!」
党首「落ち着きなさい、僧侶様。大丈夫。僕の一言で終わるよ」
党首様はぐっと州総督に顔を近づけて、一言。
党首「僕たちは独立する」
独立――つまり、州ではなく国になる、ということです。
勿論そんなものは横紙破りにもほどがあります。州が独立し国家に、だなんてのは、本国は当然認めるはずがありませんし、パワーバランスが崩れるのを嫌がる他国も認めやしないでしょう。
本来なら。
わたしたちには力づくでもそれを成し遂げるための人手と覚悟があります。
既に他国の高官を数人抱きこんで、その重鎮のスキャンダルはあらかた入手済み。わたしたちは平穏に暮らしたいだけで、共産主義を伝播させるつもりなど毛頭ない。それさえわかっていただければ、首を横には振らないでしょう。
お金と権力が何より大事な豚だからこそのクリティカル。これもある種の復讐ではあります。
そして、一度国になってしまえばこちらのものです。
当然、わたしたちの国は我が国の領土に囲まれているということになります。すると、他国が攻め入る際には、必ず我が国を通らなければいけない。この防御力は何物にも比肩し得る外交の盾。
さらに、王族派と州総督派で別れている我が国は、迅速に意思決定を行えない。軍隊の指揮系統が違うからまとまって行動もとりにくい。
既成事実を作ってしまえばこちらのものなのです。
仮に国が独立を認めないとしても、他国が独立を承認――内戦だから内政干渉はしないと物見遊山を決め込んでしまえば、わたしたちは悠々自適に国家造りを行える。
その最大の鍵となる州総督を抑えられた以上、わたしたちに最早負けはありませんでした。
少年「同志僧侶! 演説の準備が整いました!」
数人の兵士を連れて少年が部屋へとやってきます。兵士たちは州総督を手荒く掴んで部屋の外へと追い出しました。危害は加えられないでしょうが、少々怖い思いはするでしょうね。
僧侶「……本当にいいんですか、わたしなんかが」
司祭「いいんですよ、僧侶様。あなただからこそなのです」
党首「そのとおりです、僧侶様。我々はみな、あなたのご両親に助けられた者ばかり。その遺志を受け継いだあなたになら、誰だって従いますとも」
少年「そ、そうです! 同志僧侶! あなたなら間違いありません!」
少年「ぼくは生まれてすぐに教会へと捨てられました! 二人がいなければ、きっと雨の中で息絶えていたはずです! この命、あの二人のために、そしてあの二人の無念を晴らすために使っていただいて問題はありません!」
少年「二人の遺志を継いでください、同志僧侶!」
僧侶「……」
わたしは目を瞑りました。今までの人生が蘇ってきます。
お父さんの笑顔。お母さんの声。アカデミーでの生活。そして、二人の死。絶望。慟哭。激情。何より、決意。
わたしは両親を殺した全てのものに復讐をしなければならないのです。
僧侶「……」
一瞬だけ、本当に一瞬だけ、傭兵さんの顔がよぎりました。それを意識的に握りつぶして、わたしは顔を上げます。
僧侶「いきましょう。皆さんが待っているのでしょう」
州総督の邸宅は広く、豪奢で、ありとあらゆる贅の限りを尽くしたという表現がまさにぴったりのつくりでした。
わたしはそのうちの一つ、正門に相対するきらびやかなバルコニーに出ます。
二つの景色が広がっていました。
一つは綺麗な景色。まっすぐ目を向ければ、そこにはラブレザッハの整理された町並みと、碁盤の目状に交差する道が、柔らかく弧を描きながら一つの消失点に向かって小さくなっていきます。
遠くには山々の稜線に雲がかかり、青空とのコントラストはまさに白砂青松と同じ趣。そこへ暖かい陽光や爽やかな風、耳に優しい小鳥の声が聞こえてくるのですからたまりません。
もう一つは凄まじい景色。視線を下にずらせば、敷地内にずらりと人があふれかえっています。富める者も貧しい者もみな一様にこちらを向き、手を突き上げていました。
数え上げるのが億劫なほど大量の人です。わたしたちの同志が大半でしょうが、それでもあそこまでいなかったはず。理念に共感してくれた方々が駆けつけてくれたに違いありません。
門扉には兵士さんたちが立ち並び、州総督の私兵とにらみ合っていました。僅かに後方に王国軍も少しだけいます。そしてそれらを取り囲む報道陣。市民も事の成り行きを見守っています。
跳ね回っている心臓を抑え付け、わたしは口を開きました。
僧侶「原初、人々はみな平等でした」
僧侶「全ては共有されていました。食料、水、住居……そのような物質的な話ではありません。感覚的な話です」
僧侶「食料が取れないときは誰もが同じでした。自分の空腹は誰かの空腹でもあったのです」
僧侶「悲しみも、喜びも、悔しさも、怒りも、幸せも、全てが共有されていたときが、この世界には確かにあったのです」
全てが静まり返ったかのように思えます。自分が何を言っているのかさえ、わたしの耳には届いていないのです。
ただ、口は動きました。勝手に言葉は出てきました。
僧侶「しかし今はどうでしょうか。共有などとは程遠いのが実情です。暖かい暖炉の前で、家族揃ってポトフを食べているその前の道路では、孤児が寒さに凍えながら生ゴミを漁っています。原初の平和な世界などは跡形も無く消え去ってしまいました」
僧侶「感覚も同様です。わたしたちは自らの幸福を得る手段として、誰かの不幸を見つけることを知ってしまいました。誰かが悲しんでいるのを見て、相対的に幸せだと感じる。誰かを蹴落として利益を得る。それがこの世界の姿です」
僧侶「そんな世界が果たして本当にいい世界だといえるでしょうか?」
僧侶「わたしはそうは思いません」
僧侶「両親は様々な人に救いの手を差し伸べてきました。集まってくださった皆様方の中にも、施しを受けたかたがいらっしゃるのではないかと思います」
僧侶「人によっては、なんと愚かな行為だと断ずるかもしれません。しかし、その生き様こそが至高であり、崇高であるものだとわたしは信じています。そうでなければこの世は血で血を洗う地獄じゃないでしょうか」
僧侶「それでも両親は死にました。殺されたのです。金と権力を食べてぶくぶく肥え太る豚どもの犠牲になって!」
僧侶「立ち上がるのなら今、ここにおいて他にはありません! 剣を、鍬を、拳を突き出して、立ち上がるのです!」
僧侶「誰かに期待し、誰かに託したところで、幸せなどが訪れるはずはないのです! 自らの幸せを願うなら、そして、隣人の幸せをも願うなら! それはあなたたちが掴み取るしかない!」
僧侶「そのためにわたしたちはこうしているのです! 共に戦う仲間を欲しているから! 苦汁を舐め、辛酸を舐めている人々と手を取り合い、世界を刷新したいから!」
僧侶「民衆よ! 決起するのです! そうすることでしか、真の平等はやってこない!」
僧侶「真の幸福はやってこない!」
僧侶「Ураааа!」
「Ураааа!」
僧侶「Ураааа!」
「Ураааа!」
「Ураааа!」
「Ураааа!」
「Ураааа!」
熱狂でした。熱狂の渦が官邸の周りを取り巻いているのでした。
ウラー、ウラーと叫び声は伝播し、終わる様相を見せず、その姿に貧富の差は無く。
跳びはね、拳を天高く突き上げ、服を脱ぎ。
今ようやく、人類はまた一つになれたのです。
私兵たちも、王国軍も、ただ呆然と見ていることしかできませんでした。
お父さん! お母さん! わたし、やったよ!
* * *
「どうです? 進捗状況は」
「A-1からB-3ブロックまでは整地、開墾が済んでます」
「特に問題はありませんでしたか?」
「現時点ではありません。……あー、いや」
「どうかしましたか」
「私の管轄外ではあるのですが、D-6ブロックで巨大な石が埋まっていたとのことです。それが開墾の妨げになっていると」
「それは初耳ですね。わかりました、伺います」
「ありがとうございます。いまは別ブロックをとりあえずやっているようです」
「はい。それでは引き続き開墾をお願いします、同志農夫」
「ご自愛ください、同志僧侶」
「そちらこそ自愛ください」
メモ帳に現状をかりかりと書き込んで、わたしは額の汗を拭いました。
いい天気です。晴れやかな青空。目に痛いほど燦燦と降り注ぐ陽光。まさに労働、という感じがします。生きているという感じがします。
D-6ブロックで巨石が埋まっているということでしたので、わたしは気持ち小走りで向かいました。まったく、何かあればすぐ連絡してくださいって言っているのに!
「みなさん、おはようございます!」
わたしが声をかけると開墾作業を続けていた農夫さんたちがみな顔を上げ、額の汗を拭いました。
「おぉ、同志僧侶」
「僧侶ちゃん、おはよう」
「見回りですか」
「なにか気になることでも?」
「お疲れ様」
「おいしいジャガイモがあるけどいるかい」
揃って声をかけてくるものですから耳がおっつきません。わたしは苦し紛れの微笑を顔に貼り付けて、ペンでこめかみをぐりぐりとやりました。
もともと耕作地として麦を主に作っていたアッバ州ですが、数年前から耕作放棄地となっていました。わたしたちがやってきたときには雑草は伸び放題、地盤は固くなっていて、まずまともに農業を営める状態ではなかったのです。
よって、まずは開墾からはじめなければなりません。どうなることかと最初は思っていましたが、党員の大半は農民というのもあり、人手に不足はありませんでした。
わたしたちの作る新しい形の国家には宗教の入り込む余地はありません。宗教は腐敗の温床です。神に祈ることは非生産的なのですから、それも当然でしょう。
ですから、わたしは神職を辞し、各地に赴き進捗状況をチェックする役職につくことにしました。いろいろな人と出会い、話し、笑いあうのは実に有意義です。
最早わたしは僧侶ではないのですが、それでもみなさんは「同志僧侶」「僧侶様」「僧侶ちゃん」と呼んでくださいます。それは多分、わたし自身を見てそう言っているのではなく、わたしが両親の娘であるからゆえの呼称なのでしょう。
それについて思うところはありますが、この国をうまくまとめるためであるのなら、その程度は些細な問題です。甘んじて受け入れましょう。
「なんか、巨石が見つかったとか聞いたんですけど」
「あぁ、掘ってたら出てきたんだぁ」
「んだ。俺たちじゃどうしようもなくって、ほっぽってある」
「そういうことはすぐに言ってくださいよぉ……人手回しますから」
「はっはっは、すまんなぁ、僧侶様」
「ほら、喉渇いたべ。水やるか?」
「気持ちだけ受け取っておきます。三日以内にはなんとかしますね」
D-6に「済」と赤く丸をつけます。今日中にこの辺りの農地は全て回って、役所に戻ってブリーフィングが待っています。
断っても断っても水とジャガイモを持たせようとしてくるので、ついに折れました。ビニル袋一杯のジャガイモはなかなか重量がありましたが、腕力強化で対応します。
竹筒の水筒に入った水ももらって、笑顔で農道を歩きます。
農夫のみなさんが手を振ってくれているので、わたしも手を振り返しました。
がさがさ。ビニル袋が音を立てます。
「やぁ、僧侶様! 今日もあっついですねー!」
商人の娘さんでした。空の荷車を引いています。
「あぁ、娘さん。お元気そうで何よりです」
「何言ってるんですか、あたしが元気じゃないときなんてありませんよ! うはは!」
楽しそうに笑います。太陽のような人だなと思いました。
商人という生き物は基本的に資本主義の走狗ですので、我が党においては彼女のような存在は貴重です。他国の商人との折衝や流通の管理などは勿論政府主導で行っていますが、実行するのは彼女の仕事なのでした。
「商い」自体が我が国では殆どあってないようなものなので、彼女は「商人」ではありません。名誉職として流通委員が割り当てられています。
「他国との関係はどのようになってます?」
報告は逐一あがってきていますが、実際に聞くのは、それはそれで有意義なものです。
「やっぱり睨まれますよ。脅されたりね。無理やり裏路地に連れ込まれそうになったことも、二度や三度じゃききません」
「……大丈夫だったんですか?」
「そりゃもちろん! 有能な護衛がついてますから!」
娘さんは当然護衛つきです。わかってはいるのですが、外界がまさかそんな物騒な世界だったとは思いませんでした。
やはり腐敗している証左なのでしょう。くわばらくわばら。
今度から護衛の数を増やしたほうがいいのでしょうか?
「大変な仕事をさせてしまって申し訳ないです」
「うはは! 気にしないでくださいよ。こりゃああたしがやりたくてやってることです。こんなことで挫けてたら、そもそも手を上げてないっつー話しで」
「各国の情勢は?」
「んー、慌しいってか、警戒してる感じはありますかねー。あたしらにって言うか、第二第三のあたしらに? みたいな?」
「利権を守るのに精一杯なんでしょうね。愚かしいことです。品物の値段などはどうですか?」
「鉄製品の値段が騰がってますね。あたしはその辺りは専門じゃないから、自信を持っては言えねぇんですけど、ほら、あたしらが州総督を拉致してるから」
「州総督の保有していた各地の鉱山、採石場がその機能を弱めていると?」
「その可能性は高いですねぇ。州総督が鉱石の採掘から流通、武器防具、兵器の製造までの一連を牛耳ってたのは、あたしらの間じゃ暗黙の了解っしたから。ただ、この隙に他のやつらが出張ってくる可能性は高いと思いますが」
「それは……まずいですね」
「ですよねぇ。今のうちに兵器とか仕入れようとは思ってますけど」
「いえ、それもありますが、こうしている間にも州総督の既得権益が他の誰かによって奪われているのだとすれば、やつの人質の価値は暴落します。交渉のカードが腐ってしまう」
わたしたちが他国を牽制できているのは州総督の身柄を確保できているという側面が大きいのです。勿論それに胡坐をかくつもりはなくて、経済的食料的自立とともに軍事力の増強も急ピッチで行ってはいますが……。
計画の前倒し、ペースを早めることを軍事省に打診したほうがいいでしょう。私設軍や私兵が乗り込んでくる可能性だって零ではありませんから。
「僧侶様はちっちゃいのに偉いですねぇ」
「ちっちゃいって言わないでください!」
ちんちくりんと呼ばれないだけマシなのかもしれませんが!
思わずあの男が脳裏をよぎりました。離別してから一ヶ月も経つのに、まだあの男はわたしの頭の片隅を占拠しているのです。まったく、腹立たしい。
既にあの男との契約は打ち切っています。気にする必要なんてないのに。
……あれ? そういえばわたし、報酬の銀貨、渡してなくないですか?
あっちゃあ……。
「どうしました?」
「あぁ、いえ、なんでもないです。気にしないでください」
「でも僧侶様はいっつも僧服ですね。歩きづらかったりしないんですか? 暑かったりとか」
僧服は黒い布を何重にも体に巻きつけたシルエットで、布には金糸で小麦と、あとは細やかな刺繍が入っています。
今日のような天気のいい日は確かに少し暑いですが、これで冒険を続けていたこともあって、不便とかそういうことを考えたことはあんまりありませんでした。
「あ! 今度可愛い服仕入れてきますよ! そういう伝手もあるんです、あたし!」
「え、えぇ? いや、いいですよ、悪いです。そういうのは違います」
「なにが違うってんですか! 年頃の女の子が肌も髪の毛も弄らず、その上服も僧服それだけって、干からびちゃいますって!」
「干からびるって何ですか! いいんですよ娘さん、わたしはこれで!」
「まぁまぁ、指導者がそれ一張羅ってのもあれですよ! 今度買って来ますから! うはは!」
楽しそうにわたしの頭をかき乱す娘さんでした。
「あ、でも、本当に嫌だった? ごめんなさい。調子乗っちゃって」
急に態度を変えられてもどぎまぎします。わたしは首を横に振りました。
そりゃわたしだってお洒落に興味がないわけじゃないですけど、そういうのにとんと縁のない生活を続けていたものですから、よくわからない上にこっ恥ずかしいのですよ。
そう言うと娘さんは自信満々に笑って、
「お姉さんに任せなさい。これでも女ばっかり四人姉妹の長女なんだから。安く、かつお洒落な服を見繕う力はあるよ!」
「あ、妹さんたちがいらっしゃるんですね。心配されてませんか?」
「心配してない、てか、できないよ。死んじゃってるからね」
「……すいません」
わたしたちの革命に賛同の意を示している人たちは、当然それなりの背景を持つ人ばかりです。その中でも特に、家族が死んだり売られたり、そういう人たちが多くを占めています。
笑顔が多かろうと少なかろうと、みんな精一杯に生きているのでした。
「うはは、なんもだ! なんもだよ、僧侶様。ま、妹みたく見てるのは本当だけどね」
「いえ。引き止めてしまってすいませんでした」
「気にするなってことさー! うはは」
荷車を娘さんが引いていきます。栗毛色の髪の毛が風にさらさらと揺れていました。
けれど途中で振り返って、
「あ、そうだ。僧侶様は本とか読む人?」
「読みますけど」
「だったらさ、今度うちに来てよ。妹たちの本があるんだけどさ、あたし、計算はできるけど読み書きはあんまり得意じゃないんだよねー。あげるよ」
「でも、そんな大切なもの」
「いいって。読んでもらったほうが、きっとみんな幸せになるよ」
「……わかりました。お言葉に甘えて、今度受け取りに参りますね」
「ん。頼んだよー」
そう言って、手を振り振り、今度こそ荷車は止まらずに道の向こうへと消えていきました。
真っ直ぐそのまま道を歩きます。整備されていないのは畑だけではなく、道路も。優先順位は低いでしょうが、いずれ舗装しなければなりませんね。
「同志僧侶! 道に迷われましたか!」
遠くから駆け足で二人の兵士がやってきました。小銃とナイフを持っているその様子から、二人が国境警備隊であることを察します。
「道に迷ったってなぜですか! 説明を求めます!」
「え、だってこの間役所の場所がわからないって……」
「そうですよ。送り届けたの俺たちじゃないですか」
なんと。覚えてるとは不覚でした。
いえ、あれはわたしのせいではないのです。司祭が描いてくれた地図に、あまりにも絵心が欠けていたのが原因なのであって、わたしは何も悪くないです。
「違います。民草の声を聞くのも指導部の仕事ですから、目と耳で確かめている最中なのです」
「そうでしたか。それは失礼しました」
「こちらに向かって歩かれていたということは、国境警備隊に、これから?」
どうしましょうか。特に差し迫った次の予定があったわけではないのですが、こう言われて断るのもなんだか悪い気がします。
まぁ予定がないのならば、足の向くまま気の向くまま。
「……そうですね。向かいましょうか」
「本当ですか? いやぁ、みんな喜ぶぞぉ」
「何を言っているんですか」
「本当ですって! 同志僧侶は、いわばアイドルなのですから!」
「ただでさえ女っ気がありませんしね、国境警備隊」
アイドル――偶像とはまた皮肉なものです。そのような一神教じみた存在はもう金輪際ごめんだと思っていたのですが。
しかし、確かにわたしは偶像なのでしょう。この革命を起こすにあたって、民衆を一つにまとめるための象徴。人望に篤い両親の忘れ形見としての役目を期待されているのです。
それでもいいのです。目的が同じであれば、見据える先が同じであれば、わたしは幸福の渦中にいられるのですから。
「……あ、でしたら、これをどうぞ」
水とジャガイモを兵士にあげました。いらないかなと一瞬思いましたが、二人は存外喜んだようで、俺のものだ、いや俺だ、と取り合っています。
「……分け合ってくださいね?」
「「はい! もちろんであります!」」
……本当でしょうか。
とか何とか言いながらも、内心ちょっとだけ嬉しかったりもします。ちやほやされるのが――というよりは、やっぱりわたしだって年頃の女の子なのですから、可愛いと言ってもらえたら好感度だってあがります。
えぇ、あがりますとも。
あの人はそういうことをお世辞でも言いませんでしたからね!
……自己嫌悪。
「どうかしましたか?」
「いえ、なんでもないのです。本当です」
本当ですよ?
アッバ州の北は海、東はロロジーロ山脈とそれに連なる森林が広がっています。こちらは攻め入られる心配をしなくていいものの、西は川を隔てて森林都市ザイツォと、南はポブ州と隣接していました。ここは放置するわけにもいきません。
それを警備するのが国境警備隊の役目です。実際のところは、国境をはさんで互いの警備隊が睨み合っているだけなのですが。
いえ、だけといっては失礼ですね。彼らはわたしたちにとって大事な壁であり盾であると同時に、第一の矢でもあるのですから。
「おーい、交代の時間だぞー」
「お前ら遅刻だぞ、遅刻」
「なにやってんだよ」
「悪い悪い。いろいろあってさ」
「いろいろって……あ! 僧侶ちゃん!」
「え? うわ、本当だ! どうしたんだよ!」
「お前ら敬称つけろよ! 不敬罪で殺されっぞ!」
急に慌しくなる国境警備隊の面々でした。実際の国境はもう少し遠くにあるとはいえ、こんな様子で大丈夫なのか、わたし、少し心配です。
わたしがおろおろしている間にも皆さんはわたしの呼称で悶着しているようでした。そんなのどうだっていいように思えるのですが、彼らにとっては一大事なようで、
「同志僧侶は黙っていてください!」
「いや、断然俺は『僧侶ちゃん』派だね!」
「だからそれはフランクすぎるだろ? 『僧侶様』だっつーの」
「『ちゃん』づけとかお前の妹じゃねぇんだからさぁ……」
「守ってあげたいオーラが」
「少女に『様』で呼ぶほうがリビドーに来る」
不穏な言葉が聞こえた辺りで拳銃を抜きました。弾丸が装填されていることを確認し、安全装置を解除し、銃把をしっかり握り締めます。
球に篭める魔法は凍結呪文。
「全員整列してください。それとも頭を冷やしますか?」
「「「……」」」
全員が首を横に振ります。一人、それでも嬉しそうな顔をした兵士がいるのが気になりますが……。
「全員持ち場に戻って任務続行」
「「「……」」」
「復唱!」
「「「同志僧侶! 我々はただ今より持ち場に戻り任務を続行するであります!」」」
「よろしいです。ものわかりがよくて助かりました」
「「「……」」」
「駆け足!」
「「「はい!」」」
兵士たちは敬礼をした後三々五々に散っていきます。
……ふぅ。
疲れなくていい部分で疲れてしまったような気もしますが。
わたしは来た道を引き返しました。まぁ、あの方々はあぁ見えて職務には忠実です。見ていないからといってサボったり怠けたりすることはないでしょう。
司祭「あら、僧侶様」
党首「ご苦労様。熱心だね」
二人が並んで歩いていました。恐らくこれから役所に戻って事務仕事を行うのでしょう。
わたしも自分にあてがわれた事務はありますが、今日は慰労の日。事務仕事は明日以降にしましょう。
僧侶「これくらいはへっちゃらですよ。そちらは?」
党首「交渉も順調に進んでいる。開墾の進捗状況も上々だ」
司祭「ただ、やはり州総督がらみが心配ですね。彼の私兵が動いているという情報を耳にしました」
僧侶「国境警備や付近の哨戒を増加させますか?」
党首「それもいいが、人数に限界があるからね。うまく割り当てることができればいいが、開墾や建設の部門で人手が足りなくなっても困る」
難しい問題ですね。
わたしたちの国はいまだよちよち歩きのひよこです。理念に賛同してくれた人々が奮ってやってくると当初は期待していましたが、他の国からこちらへ通行の規制がされたため、亡命者は思ったよりも多くはありませんでした。
特にこの段階に経っては、国力とは即ち人口と言い換えてもいいほどに重要です。人口が増えない限り、あまり大々的な采配は振るえません。
そして、州総督の私兵の存在もあります。軍ならば防衛戦を行える関係上こちらが決して不利にはなりませんが、掃除婦をはじめとする州総督の私兵は、個としての強さを持っています。侵入されると厄介です。
嘗てゴロンにおいて傭兵さんを苦しめた掃除婦でさえ序列十四位。あれよりも上位の存在が十三人もいることを考えれば、警戒しすぎるということはないでしょう。
僧侶「お二人は私兵の詳細を知っていますか?」
司祭「私は詳しくはわからないですね。私設軍とは別に十五人の精鋭がいて、州総督の指示に従って様々な工作や敵勢力の排除を行っているというくらいしか」
党首「コードネームだけならいくつか聞いたことがあるな。『足跡使い』『飼い犬』『ガトリング』とか、そんなところだったか」
僧侶「『足跡使い』なら会ったことありますよ。丁寧口調で掃除婦の格好をしてました」
司祭「警備の人員配置はともかくとして、検閲は強化しましょう。こっそり潜入されて内部から掻き乱されるのが厄介です」
党首「そうだな。出入りする人間ももう一度洗ったほうがいいかもしれないな」
お二人と今後の進行についていくらか話をし、わたしは別れました。そのまま足を研究所のほうに向けます。
研究所では新型の耕運機を作っているはずです。それができれば、一気に農作業の効率化は進みます。資源も人手も足りずとも、技術競争で勝てば、それはわたしたちの優秀さを明らかにすることに他なりません。
様々なところを見て歩き、それを逐一書き留め、報告するのがわたしの役目。まだまだ周るところは残っています。
がんばらなくっちゃ!
* * *
わたしの世界に何かがあっても、世界は変わらず回り続けます。
わたしたちは国の名前を「プランクィ」と名づけました。共産国家プランクィ。命名者は党首様で、これは嘗て巨大な竜を倒すために一丸となって戦い、ついに打ち倒すことに勝利した神話上の集落からとっているそうです。
まさにわたしたちにぴったりじゃあありませんか! 打ち倒すのは資本主義という巨竜。手と手を繋ぎ、一丸となって剣を振り下ろすのです。
そして「共産」という響きもいいです。実にいい感じです。共に産むと書いて、共産。わたしたちは食料から機械から、全てを共に生産していくのです。
人類の歴史は発展の歴史。それは単純に技術だけではなく、思想や、社会構造にまで及びます。党首様はこの「共産主義」という新しい社会構造を生み出した偉人。司祭の手をとり、党首様の手をとったことは、運命そのものです。
この国の俯瞰的巨視的な立地は嘗て確認したとおりですが、国家内部の配置を見ていくと、他国と隣接する西と南には当然駐屯所を多めに置いてあります。
その関係もあって、現在人口が密集しているのは南西部。北は海からの潮風のためか耕作に適した地ではなく、東は少しばかり瘴気が濃いという理由で、開発は後回しです。
まずは南西部の開拓及び人員配置、防衛をきっちりした後に残りの部分に手をつけていこうというのが党首様の言い分でした。わたしはそれに同意します。何よりもまず、わたしたちは自らの立場を守らなければいけません。
国家は国民をその矢面に立って守らなければなりませんが、残念ながら今は逆。国民が国家を守り、大木に成長させてあげなければ。
けれど大木に成長させるのだって生半なことではありません。本当の植物ならば、育てるのに必要なのは水、光、土あたりでしょうか? それを国家に当てはめるとするならば、水は人口、光は経済力、土はそのまま国土、とか。
そして身を守るための農薬が武力と、そうなるでしょう。
わたしたちの国家は特色として経済に頼りません。重要となるのは生産力と平等の理念。光が無くてもやっていける、いまだ世界に類を見ない、新たな形の植物。それがわたしたちなのです。
僧侶「ま、なんやかんや言っても、問題は山積みなんですけどねぇ」
事務仕事をしながら前髪をくるくるとやりました。いまいるのは役所の二階、執務室。嘗ての役所をそのまま転用しているので、椅子やデスクのサイズは全て大人用で、わたしはかぶりつくように書類へ目を通しています。
せめてもう少し椅子が高ければ――いえ、そうすると今度は足が地面から浮きます。デスクの足をちょん切るのが一番スムーズな解決法でしょう。
……スマートとはいえませんが。
深く腰掛けて偉そうに読むのがそれっぽくはあるのですが、如何せんその「偉そう」というのが鬼門です。プランクィは完全なる平等の国。貴賎は存在してはいけません。
僧侶「よしっ!」
気持ちを引き締めてもう一度書類に向きなおします。
『食料生産計画について八訂版』……農作物の作付面積と種類に関するデータと、それを基にした食料生産計画が三ヵ年ごとのPDCAを交えて記載されています。
一通り目を通して、承認。気になるところといえば経済作物が多いように感じるところでしょうか? 藍や綿花はもう少し抑えてもいいような気がしますが、口頭諮問で対応しましょう。
『第二次防衛計画』……対外脅威と部隊運用についてまとめられています。
手元にある想定戦力比と見比べると、数点納得できない部分がありました。人頭配置と部隊運用自体にはさほど問題は見受けられませんが、魔法に対しての意識が低すぎます。特に汎用魔法以外への対策が書かれていないのは問題外。
こんなのは却下です。炎を出したり氷を出したりが魔法の全てではないのですから。
『基底配給提要』……内容は栄養学、でしょうか。子供と大人、男女それぞれの必要カロリー、栄養素がまとめられており、最低限摂取するべき食物、その組み合わせなどが記載されています。
この食物が各家庭にいきわたるようにするのが食料生産計画の目標になるのでしょうか? だとするなら、もう一度八訂版を見直さないと。
そこで扉がノックされました。あぁ、もうそんな時間ですか。
気分が重くなりますが、仕方がありません。ここは遣り通さなければいけない部分です。
ノックに応じると、扉を開けて五人、やってきました。
一人は護衛の兵士。軽鎧に剣を帯び、直立不動で警戒態勢を崩しません。
その前に司祭と党首様。
兵士を挟んで後ろに農協組合長と商人ギルド長。
部屋の隅にあったソファへとわたしたち三人は腰掛けます。ローテーブルを挟んだソファに組合長とギルド長。
どちらも年齢は四十後半の男性。組合長は角刈りで日に焼けた浅黒い肌。ギルド長は逆に白くでっぷりとしたシルエットに豊かな髭を蓄えています。
僧侶「今日はこちらの要請に従っていただいてありがとうございます。わたしは幹部を勤めてます僧侶です」
党首「同じく、幹部の党首です」
司祭「同じく司祭です」
組合長「わーってるよ、んなこたぁ。放送でなんぼも見た」
ギルド長「本当はもっとはやぁく会いたかったんだけどねぇ」
僧侶「それについては申し訳ありません。人の移動、対外活動、いろいろ詰まっていまして」
組合長「わかったわかった! 腹の探りあいは俺の趣味じゃねぇ」
ギルド「だからアンタんとこは儲け度外視って言われるのよぉ? 今は農業だって経済の概念を取り入れての……」
党首「集まっていただいたのは他でもありません。あなたたちのお力が、我々には必要なのです」
党首様が割って入ります。二人は大きく息を吐いて、こちらに向き直りました。
ぎらりと瞳が輝いています。こちらの素質を、考えを、何より度量を測ろうとしているのだということはすぐに知れました。
組合長「いきなり俺らの州に乗り込んできて、村々の実権を勝手に奪ったやつらに、力を貸せってか」
ギルド長「箱があなたがたのものになったからといって、中身まで手に入れた気になっちゃ困るのよぉ?」
この二人はもともとアッバ州に住んでいた実力者なのです。
わたしたちが譲り受けたアッバ州ですが、当然それ以前からの居住者もいます。実権がわたしたちに移り変わるということは、彼らにとっては寝耳に水の出来事。
そして単に「領主が変わった」だけではありません。何故ならわたしたちは社会機構を共産主義という全く新たな形のそれにしようとしているのですから。
更にそこへ大量の党員がやってくれば混乱は必至です。現状、一般市民には国境封鎖だけで対応し、生活自体に梃入れはしていません。ですが将来的なことを考えれば、市民側の中心人物をこちらに引き入れることは前提になるでしょう。
急いては事を仕損じる。わたしたちは何よりも確実に共産主義を達成しなければいけません。
市民は今までと変わらない生活を送っています。兵士たちの多くは不安を抱えていますが、幸いなことに小競り合いすらおこっていません。急で強引なやり口は彼らの反発を招くでしょう。
いずれやってくる大変動の足がかりには、まず影響力の強い人物を落とすことが必須。
そして選ばれたのが経済と農業という重要な要素の取りまとめ役。なんとかわたしたちの味方になっていただけるように説得しなければなりません。
ですが、不安はあります。というか不安しかありません。
農業はともかく、商人ギルドの長がわたしたちに靡いてくれるとは到底思えませんでした。わたしたちがやろうとしていることは、言うなれば彼らに唾を吐きかけるような行いだからです。
僧侶「わかっています。ですから、まずわたしたちのことを理解して頂こうと、この場を設けたわけです」
組合長「とりあえず、お前らの目的だな」
ギルド長「そうね。独立して共産国家プランクィを作った。その目的は政府に対する声明の発表で何度も聞いてるけど、もう一度説明がほしい」
僧侶「わたしたちが目指すのは資本主義の打倒です。その手段として、共産主義を用います」
組合長「共産主義ってのは?」
僧侶「この方……我が党党首が考案した、極力金銭に頼らず、貧富の差を解消するための社会システムのことです。詳細は彼にお願いします」
わたしがふると党首様は頷いて、
党首「僕たちが目指す社会はベーシック・カロリーの考えを基にしています」
党首「ベーシック・カロリーについて説明しますと、まず基底栄養素というものを算出します。これは各年齢と性別から求められる、最低限必要なカロリーと栄養素です」
党首「全国民がこの基底栄養素を必ず摂取できる状態を常態化すること。これがベーシック・カロリーの概念と考えてください」
党首「経済活動、及び農作物の作付に関しては、この概念の達成が第一となります。まず腹を満たすこと。でなければ国を維持することなんてできませんからね。そして、達成のために配給制にし、全国民が無償で受け取れるようにします」
党首「真なる平等が僕らの目的です。真なる平等のもとでは格差など存在しません。誰もが飢えず、誰もが仲良く手と手を繋げる社会のために、最低限食料の供給は必要だと考えます」
党首「また、格差が存在するのは富める者と貧しい者が存在するためです。しかし考えてみてください。市役所に勤め判子を握る人と、畑に出て鍬を握る人。どちらも同様に欠けてはなりませんよね」
党首「格差の原因はその殆どが金銭に行き着きます。よって、賃金に関しても一律同額とします」
そこで反応を示したのは、さもありなん、ギルド長でした。
ギルド長「賃金が一律同額? それはつまり、どれだけ安く仕入れてどれだけ高く売っても意味ないってことぉ?」
自らの実力がそのまま反映される商人としては見過ごせない部分だったのでしょう。
党首様はけれど焦らず、咳払いを一つ。
党首「はい、そういうことになります。従来、国民は自らのために働き、自らのために稼いできました。商人は買値と売値の差額を自らの懐に納める。農家も効率的な栽培を確立して、なるべく安い費用で価値の高い作物を作る。それが資本主義の経済です」
党首「しかし、繰り返しますが、それは格差を生みます。持つものと持たざるものを生んでしまう。芽生えるのは確執です。僕は――いえ、僕らは、それが許せません」
党首「僕らが目指す国では、国民は国のために働きます。正確に言えば、一人はみんなのために働くのです。国のために働くことによって、国に住まう全てのものが恩恵を受けることを、全員が等しく理解している国であってほしいのです」
そこで一旦党首様は言葉を切りました。
二人を見回します。
ギルド長は眉根を寄せていました。恐らく彼の人生の中にはいまだ嘗て存在しなかった概念なのでしょう。価値観なのでしょう。
彼を資本主義の手先だと断ずるつもりはありませんが、わたしたちの理想と相反する立場にいるのは明白です。彼をどうにかすることで芋蔓式に傘下の商人たちも寝返ってくれる――そんな都合のいい考えはありませんが。
組合長は特に表情を変えずに目を瞑っています。考えているのでしょうか。大きな動きがないのが逆に怖かったりもするわけですが。
組合長「……俺ァ構わん」
先に口を開いたのは組合長でした。
僧侶「本当ですかっ!?」
組合長「落ち着けよ嬢ちゃん。あんたらのことは信用ならねぇ。なんたって国家に反旗を翻した稀代の反逆者だ。警戒して当然だわな」
組合長「が、しかしだ。国家に反旗を翻したその意志。行動理念。だからこそ、信じられることもある。と、俺ァ思う」
組合長「とりあえず全部見せろ。党首っつったな。そこまで言うからには当然策があるんだろう? 具体的なやつが。 それを判断して可能かどうか見極める」
組合長「俺にゃあ政治だの社会システムだの小難しいことはわからねぇし、信念だの平等だの理解する頭もねぇ。俺にわかるのは土と太陽のことだけだ。いまさらこの土地を離れようとも思わねぇしな」
組合長「ま、住みやすいほうが誰だっていいわな。もうこの国の領主はいなくなっちまった。あんたらの下にあるってんなら、それに従ってやるよ」
心の中に暖かいものが生まれてきます。思わず涙が出てくるのを堪え、わたしは全身全霊のお辞儀をしました。
僧侶「ありがとうございます! ありがとうございます!」
ギルド長「ちょっと止めてよ、そんなの目の前で見せられた上で断ったら、アタシが人でなしみたいじゃない!」
司祭「……ご協力はいただけない、と?」
ギルド長「そうは言ってないけどねぇ。あなたたちの理念はわかった。達成するための方法も、まぁいいわ。それでもアタシたちは商人なの。自分たちの目で、感覚で、生きてるの。報酬は単なるお金じゃないわ。それが正しかったことの証拠なの」
ギルド長「原理的に自分のために生きてんのよ。右から左に流す仲介業だろうと、一から自分で手に入れて売る採取屋だろうと、知識と目利きが全ての骨董屋だろうとね。納得するやつはあんまりいないでしょ」
僧侶「それが国益のためであっても、ですか」
ギルド長「そもそも商売に国なんて関係ないわ」
僧侶「人を生かすことの誉れを知る人間が欲しいんです」
ギルド長「……」
司祭「僧侶様」
党首「……任せよう」
ありがとうございます。
僧侶「あなたがたの正しさで、人を生かして欲しいのです。その正しさを誉れとして、国は報酬を与えます」
僧侶「雲霞で人は生きていけません。わかっています、仙人ではないのですから。誉れでお腹は膨れません。懐も暖かくなりません」
僧侶「ただ、あなたたちが自らの正しさを信じているのなら、その正しさをこれまで虐げられていた人のために使って欲しいのです」
僧侶「自らを正しいと信ずればこそ! 正しきことに手を貸していただきたいのです!」
僧侶「……お願いします」
我慢。我慢です。我慢しなさい!
ここで泣いてはいけません!
涙を武器とするのは正義に悖ります!
自らを正しいと信ずればこそ!
どこまでも真っ直ぐな言葉の矢で! 槍で!
目の前の大商人を突き刺すしかないのですから!
僧侶「……」
ぐ、と手に力がこもります。
ギルド長はわたしを見据えていました。
全てを見透かすように、視線が突き刺さります。
僧侶「……」
それからどれだけ経ったでしょうか。わたしはそのとき初めて時間が引き延ばせるのだということを知りました。
ギルド長「……ま、話はするさ」
その言葉を聴いて、一気に全てが弛緩します。
空気も、筋肉も。
ついに堪えきれなくなって、視界が一気に歪みました。まだ何も始まっていないのに。スタート地点に立っただけだというのに。
ギルド長「ちょっとアンタ、やめてちょうだいよ。あたし、そういうの苦手なんだから」
そこでようやく、わたしはギルド長さんがオカマ言葉を話すのがどうにもツボに嵌ってしまって、お腹の奥底からかみ殺しきれない笑いがこみ上げてきました。
く、くく、くくく。歯を食いしばっても収まってくれそうにありません。
ギルド長「言っておくけどね!? あたしは口を利くだけで、乗るかどうかはギルド構成員次第――って、大丈夫かい?」
司祭「僧侶ちゃん、一回出ましょう」
党首「あぁ、そうだね。落ち着いたらまたきなさい」
恐らく勘違いされているのでしょうが、この場合は好都合でした。笑っている場合ではないのに、わたしだって笑いたくはないのに。もうこの体は制御できません。気が抜けてしまって、四肢にこそ力は入りますが、それだけなのです。
司祭がついてくるのを拒んで、わたしは部屋を出ました。公務員たちがこちらをちらちら見てくる中、小走りで駆けて屋上へと向かいます。
鉄扉をばんと勢いよく開け、陽光と爽やかな空気の中に飛び出しました。
途端に、ついに四肢からも力が抜けて、その場にへたり込みます。
汚いなんていっていられません。屋上に横たわって太陽に向かい直りました。
わたしはやったのです。
スタート地点に立てたのです。
この世界を変える一歩を踏み出せたのです!
僧侶「ぃやったぁああああああっ!」
ガッツポーズ。
雄たけびは家屋を舐めて遥か彼方まで飛んでいきました。立地的に山彦こそ聞こえませんでしたが、上体を起こせば、道を歩いていた女性の方がこちらを振り向くのが見えます。
恥ずかしい。
僧侶「……ん?」
遠くから馬車がやってくるのが見えます。うちのではありません。幌のデザインが半楕円のトンネル状になっています。うちの馬車は全て角形の幌のはずです。
ですが馬車の周囲にまとわりついているのはプランクィの兵士たち。まとわりついているといっても、ゆっくりとした馬車の速度にあわせ、囲いながらこちらへ向かってきているだけですが。
護衛といった感じではありません。もっとぴりぴりした……いうなれば、包囲。
その緊張感が周囲の町民にも伝わっているのでしょう。誰も彼もみな遠巻きに眺めるばかりで、それどころか動こうとさえしません。馬車の支配圏から逃れてようやくそそくさと立ち去るばかり。
不審者を捕まえた? それとも……。
わたしは飛び出しました。鉄扉をもう一度勢いよく開閉し、そのまま一段飛ばしで階段を駆け下りていきます。
途中の踊り場でバランスを崩しながらも一気に一階へ。
扉を開け放って馬車へと駆け寄りました。
僧侶「一体どうしたっていうんですか!」
兵士「近寄らないでください!」
先頭で人払いをしていた兵士が叫びます。
わたしに近寄ってきて、
兵士「……本国――いえ、今はもう別の国でしたね。東の国アルカネッサからの使者です。プランクィの指揮を執っているものに話しがある、と」
そう耳打ちされました。
指揮を取っている者とは、恐らくわたし、党首様、司祭のことでしょう。
これまで彼の国は大してこちらへコンタクトを取ってきませんでした。州総督を人質にしている関係上、各州領主連名での抗議文、国王の蜜蝋で封された書簡など、細々とこちらに「今すぐやめるように」といった文章はきていましたが。
理由はわかります。手荒なことをして州総督に危害を加えられては困る各州領主と、州総督なぞ毛ほども気にしていない王族一派で、この件への対処が分かれたからでしょう。
となれば、対処が決まった? 宣戦布告の文書を持ってきた?
……どうでしょうか。国際的にはプランクィはいまだ承認されてはいません。表面上は内戦状態であり、独立を申請している最中。他国に攻め入る際は宣戦布告が必要だと定められていますが、内戦の場合、奇襲で一気に大砲をぶっ放してきてもおかしくはありません。
アルカネッサがこちらに使者を送ってまでコンタクトがあるとするならば、何らかの申し出を送りつける必要に駆られたから。それも、内部で何かが決定したというよりは、外圧がかかった。
ふむ。
僧侶「通しなさい。アルカネッサの使者を出迎えるに値する部屋は残念ながらありませんが、役所の会議室へ」
そうして、馬車からは三人の使者が降りてきました。女性、女性、男性。一番偉そうに見えるのは真ん中に座っていた女性です。溢れるような金髪と高い上背、真っ赤な唇。身に着けているものは厭味がないようにコーディネイトされています。
男性は背が低く、金髪の女性と比べると頭一つ分くらいの差がありました。わたしはこの人を見たことがあります。確か、財務大臣補佐官だったはずです。
最後の一人だけ空気が違いました。凛とした張り詰めた雰囲気を身にまとっています。
相当の強者だ、と思いました。傭兵さんや勇者様と同じなのです。隙が見当たりません。
腰には刀を差しています。反対の腰には沢山のナイフ。恐らく二人の護衛なのでしょう。周囲を警戒しながら、いつでも二人を守れる位置に陣取っています。
補佐官「いやはや、突然な訪問すいませんな」
見てくれも話し方も全てが狸でした。信用なりません。しかも財務大臣だなんて、金勘定しか能のない役立たずじゃあありませんか。
補佐官「わしは財務大臣補佐官。で、こちらの方が、今回の件の担当をしております外務省特別担当大使です」
けったいな、そして大仰な肩書きです。放っておけば人間はどこまでも肩書きを増やしたがります。長くしたがります。まったく愚かなことです。
補佐官「それにしても、こんなお嬢さんが指揮を執っているとは……」
確実に舐められてますね。馬鹿にされていますね。
まぁ、いいです。思いたいだけ思っていればいい。
僧侶「残る二人、党首様と司祭は、現在取り込み中です。三十分ほどお待ちになると思いますが」
補佐官「えぇ、かまいません。アポも取らずに来た我々が悪いのは重々承知しておりますよ」
大使「……」
会議室に通しても、依然女性二人は喋りません。不穏な気配を感じながらも交渉のテーブルにつきました。
司祭「まぁ、謝罪には及びませんわ」
党首「今日は忙しい日ですね」
補佐官「おや。お早いお着きで」
僧侶「二人とも、会談は!?」
党首「あぁ、きりのいいところで終わらせてきた。資料だけは渡して、また別日に話し合おうということでね」
党首「こんなに部屋の外が騒がしくちゃ、おちおちゆっくり話もできない」
そういって、扉を閉めます。
向かい合うようにわたしたちは座りました。二対三。護衛は二人の背後に立ち、万全の体制で様子を窺っています。
入り口には兵士が数人。わたしたちの傍にも数人。
党首「それで、一体なんでしょうか。アポもとらずにとは珍しい」
補佐官「何度も封書を送っても一向に返事が来ないからな」
党首「全面降伏を促すような書状ばかり送られても困りますね。それほど暇なのですか?」
補佐官「ちっ。貴様は変わらんな。そのニヤケ面も、掴めん物腰も、全てが」
この補佐官は党首様のことを知っているのでしょうか?
補佐官「まぁいい。今回わしには大した権限はない。この特別担当顧問殿に全て任せてある」
言うと、特別担当顧問の女性は軽くお辞儀をし、自らの両指を組みました。
大使「単刀直入に言います。あなたがたは即刻州総督を解放し、武力を全て放棄した後に、領主より譲り受けた全権限を王国へ委譲してください」
僧侶「……」
党首「……」
司祭「……」
「またか」という気持ちと共に、「ついにきたか」という思いもありました。
大使「先日、我が国に対し他国二八国の連名で事態の対処に当たるよう布告が為されました」
大使「共産国家プランクィの独立承認はする。しかし、それは東の国アルカネッサが独立を承認したのちであるという旨の答弁はすでに頂いてあります」
大使「そして我が国は独立を承認するつもりなど毛頭ありません。あなたがたの政治思想なぞはどうでもよいのです。ただ、国家に反旗を翻す存在をそう易々と認めては、治安維持などあってないようなもの」
大使「第二、第三のあなたがたが現れても困ります。ですので、あなたがたのクーデターですが、ぶっ潰させていただきます」
金髪をかきあげました。高級そうな香水のにおいがこちらまで漂ってきます。
大使「つまるところこれは宣戦布告なのですわ。尻尾を巻いて逃げるなら、それもよし。既にあなたがた三名を筆頭として、加担したものたちの多くは指名手配の準備をしています。すぐに降伏すれば、減刑もしましょう」
僧侶「心根の優しいことですね」
たっぷりの厭味を加えてあげたのですが、大使は全く気にした様子もなく、
大使「どんな逆賊でも国民には変わりません。これは国王様の寛大な慈悲だとお思いください」
司祭「国王と今おっしゃいましたね。ということは、あなたは王族派の人間なわけですか。こちらには州総督もいますが?」
大使「州総督なぞ所詮役職に過ぎません。彼には汚職の疑惑も大量にありますし、ここでボロが出てくるようならそれもよし。どの道私たちに関係はありませんわ」
司祭「各領主が黙っていないのでは? 彼らは州総督の、いわば走狗ですから」
大使「犬なんて殺してしまえば同じでしょう?」
あぁ、この人、生粋のタカ派なのですね。
州総督派と王族派に分かれる中、穏便に穏健に物事を進めようとする立場とは異なり、王族に権力を集中させようとしている。そういう一派がいるのは聞いたことがありますが……。
酷薄な笑みを浮かべる彼女からうそのにおいは感じ取れません。本心で、州総督に連なる領主たちなぞ皆殺しにしてしまえばいいのだと思っています。
司祭「暴論ですね。むちゃくちゃですわ」
大使「は。むちゃくちゃやってクーデター起こしたあなたがたには言われたくはありませんが」
大使「――で、どう? ここでお返事ほしいものだわ。ごめんなさいと謝ってくれれば、こちらにも対処のしようだってあるのですから」
党首「……わかりました」
党首様は懐から一枚の封筒を取り出しました。
党首「いつかこんな日がくるとは思ってました。お渡しいたします。お読みください」
大使はその裏表を確認します。何の変哲もない茶封筒です。厚みからして、中に大したものが入っているようには見えないのですが……。
糊がされているのか、その茶封筒の上部を引き裂きます。
光,
が。
全ては一瞬でした。
大使が封筒の上部を破りとった瞬間その封筒の内部から光が満ち、指向性を伴って、大使の頭を。
衝撃で椅子が倒れます。
頭部を失い、バランスを崩した肉体もまた。
焦げた肉片が壁に張り付く中、真っ先に反応したのは護衛。即座に飛び上がり、刀を抜きます。テーブル越しにでもこちらの命を刈り取る――刈り取れる動き。速度。
彼女もまた光に包まれ吹き飛びました。
腰から太ももにかけてを大きく失い、恐らくは一瞬で絶命したのでしょう、床に打ち捨てられた彼女はぴくりとも動きません。
その事実を頭が理解してようやく、その場にいた全員――わたしたちの護衛のための兵士ですら、ようやく反応ができました。
僧侶「な――!」
補佐官「ひぃいいいいいいいっ!」
叫び声をあげて補佐官が椅子を走り出します。椅子が倒れ、がちゃんと音を立てました。
兵士たちが追い縋りますが党首様が「いいですよ」と制止します。
前につんのめり、自らの足に引っかかって転びそうになりながらも、補佐官は会議室の扉に手をかけて一気に開いてそして
爆風が全てを薙ぎ倒していきます。
熱風がわたしの肌と髪の毛を焦がしていきます。勢いよく椅子とテーブルが倒れ、近距離にいた兵士たちも巻き込まれて倒れこみました。
補佐官の腰から上は消失しています。高温で一気に焼かれたからか、血液すら出ていません。
僧侶「……」
何が起こったのか、全く理解できませんでした。
ただ、誰かが起こしたのかは……。
党首「犬を殺していいというのなら、あなたたちも同じですね」
党首様はにこやかに笑みを浮かべます。
そのスーツの襟に血が跳んでいるのを見て、初めてわたしは、この人に得体の知れない恐ろしさを感じたのでした。
◇ ◇ ◇
「交代の時間だ」
「あいよ」
「異常はないか?」
「まぁな。なんにも起こらねぇ。それがおかしいっちゃ、まぁそれ以上におかしいこともないんだけど」
「平和に勝る幸せもなし、か」
「そういうことさ」
「それにしても、いきなり警備計画を変えるだなんて、僧侶ちゃんたちもどうしたのかね」
「僧侶様、だろ」
「わかった、わかったよ」
「……おい、ありゃなんだ」
「ん?」
「あれだよ、あれ。ほら、あっちからこっちに」
「……あぁ、流れてきてるな。浮かんで……なんだ?」
「気球か? いや、違う。違うな。気球はもっと真っ直ぐ動いて……あんなふらふらとはしてないな」
「報告するぞ」
「おう。いやな予感がする」
瞬間、破壊の波動が上空から降り注ぎ、あたり一体の生物を軒並み薙ぎ倒した。
敵も、味方も、区別なく。
焦土と化した無人の国境線に、ややあってから何個もの集団が乗り込んでいく。
国王の直轄軍であった。
◇ ◇ ◇
「第一小隊から第十六小隊まで、各員散開しながら突撃!」
「ヤー!」
「敵は国家に反旗を翻した不届き者たちだ! 有象無象の区別なく、一切合財を叩き潰せ! 他の国民に見せ付けるのだ! 国に逆らうということが、どういうことかと言う事を!」
「ヤー!」
「反乱軍と原住民の区別をつける必要はなし! ゲリラ戦に回られると厄介だ! 命乞いなど聞くな! 見敵必殺を第一の信条とし、限りなく迅速に制圧せよ!」
「ヤー!」
「ただし事前に通達のあった幹部については、これを可及的速やかに拿捕することが求まれている! 手足の一本や二本は捥いで構わん! 命さえあればよい!」
「目標は以下の三名!」
「組織全体の情報統制・操作を行っていた、司祭!」
「組織全体の計画立案を行っていた、党首!」
「そして!」
「組織全体の精神的支柱であり、反乱軍の実質的リーダーである、僧侶!」
「彼我の戦力差は圧倒的であるが、くれぐれも油断しないように!」
「ヤー!」
「なお! 敵勢力は人質として州総督の身柄を拘束している! 州総督の解任決議は州総督派の抵抗によって難航しているのが実情である! 依然として州総督の身柄には効果があると判断される!」
「しかし! いいか、みなよ! よく聞け!」
「ここは戦場である! 不慮の事態こそが戦場の本質! 戦場ではいかなることも起こりうる! そしてそれは、戦場にいる限り、自己責任である!」
「意味がわかるか!」
「ヤー!」
「よぉし! 州総督の私兵や私設軍の介入、各州領主の介入も考えられる! 小隊規模の逐次投入を続けるが、最終的な判断は全て各部隊に一任する! 定期連絡だけは欠かすな! 以上、何かあるか!」
「ありませんであります!」
「てめぇらどっちだ!」
「ありません!」
「では進め! 正義は我々にあり!」
「いくぞぉおおおおおお――」
最初の一人が国境を踏み越えた瞬間に、第一小隊から、続いていた第五小隊までが爆炎に飲み込まれてその姿を失した。
熱波が大地を舐め草木を焼く。加熱された空気は息を吸うだけで気管を焦がし、酸素は奪われ数十人が酸欠で足元をふらつかせる。
最前線の一人の意識がふっつりと途切れて膝を着く。
その僅か十数センチ背後にいた男はなんとか存命していたが、目の前で起こったことの全容を把握しきれない。
被害甚大――兵士としての使命感が脳裏にその言葉を点滅させる。しかし、体は動かない。
「……なんだよ、これ」
* * *
司祭「先刻の時点ではこのように」
党首「ふむ、ありがとう。とりあえず痛みわけ、といったところかな」
僧侶「……痛みわけで済むような被害ではないと思いますが」
心がきりきりと締め付けられます。
王国がこちらに兵を差し向けるのは規定路線でした。本来はこんな争いなど望んでいないのですが……互いの進むべき道が交わるのならば、それしかありません。
先制攻撃を喰らうことがわかっていても、こちらから攻撃はできません。国力で遥かに勝る相手を前に、それは玉砕にしか過ぎないからです。わたしたちにできるのは抗い、受け流し、泥沼の戦争に引きずり込んでやるだけ。
そのために先日からずっと準備をしてきたのです。秘密裏に。
国境警備隊の皆様はある種生贄でした。肉壁にすらなってくれないだろうと党首様は考えていて、そしてそれは事実そのとおり。
党首様の考えどおりということは、つまりこちらの手のひらの上で敵は動いているということです。喜ばしいことのはずなのに、どうしてでしょう、悲しくってしょうがないのです。
人を自らのために利用するのは、わたしたちが蛇蝎のごとく嫌う資本主義の真髄のはずでした。
それとも彼らは、何も知らされずとも、国のために喜んで死んでいったのでしょうか?
党首「想定どおりの進行だ。司祭、準備はどうだい?」
司祭「主要箇所に仕掛けた『眼』は滞りなく機能しています。国境にて敵の半数は削れました。残り半数が現在散開していますね。村落の位置はアッバ州のときと変わっていませんから、辿り着くのは時間の問題でしょう」
党首「住民の撤退は」
司祭「現在七十八パーセントが避難を完了しています。食料の処分も既に済ませ、各村落が渡っても問題はありません」
党首「残りの住民にも避難を急ぐよう指示してくれ。既にゲリラ前線基地の構築は済んでいるんだろう」
司祭「はい。ただし、民衆から不安の声が上がっていることが、能率を下げていると考えられます」
僧侶「……」
当然です。彼らの前に立ちはだかるのは、嘗ては彼らを庇護していた存在なのですから。
わたしたちの思想に賛同してくれる者の割合は増加の一途を辿ってはいましたが、それでも十割ではありませんし、命を危険にさらすくらいならと考える人たちがいてもおかしくはありません。
わたしたちの思想が彼らを殺すのです。それに殉じることのできる人間こそが本当の仲間。とはいえ、簡単に自らの死を受け入れてしまう弱い人間もまた仲間としては必要ないのです。
明確な意志の基に行われた行為こそが一際輝く。わたしはその覚悟をしていますし、みなさんにも覚悟をして欲しいと願っているのですが、なかなかどうにもうまくいきません。
ただ、強制することが誤りであるとわかる程度には、わたしはいまだ冷静でした。
資本主義への憎悪がまず先にたちます。何よりも最初にわたしを形作っています。
それと喧嘩をしているのが、誰にも死んで欲しくないという願いなのです。
その願いは本当は出発点でした。わたしは誰にも死んで欲しくないからこそ、資本主義を打倒しようとしているのです。それだのに、その願いが結果として人死にを誘発している事実は、酷くわたしを苛んでしょうがなくて。
ぐ、と拳に力が篭ります。
党首「僧侶様」
党首様がわたしの肩に手を置きました。
党首「僕もわかりますよ、そのお気持ちは。しかし仕方がないのです。大事を成す前の小事。この戦いを乗り越えて、僕たちの結束は一段と強くなる。違いますか?」
違いません。違わないのです。この戦争でいくら人が死のうとも、最終的にトータルでの死者を減らせるのならば、迷わず選択すべきです。
そうです、畢竟この迷いは、惑いは、わたしの心が弱いから生まれてくるのです。わたし自身が自信を持てていないからなのです。
党首「それに、この戦いで僕たちの負けはありません」
司祭「そうですよ、僧侶様。私たちは決して負けないのです」
希望的観測のようには見えませんでした。ですが、彼我の予想戦力差は十倍近くにもなる中で、いくら策があるとはいっても、そこまでの大言壮語は理解できません。
僧侶「どういうことですか?」
司祭「たとえ僕ら三人が死に、民衆が全滅したとしても、それは決して僕らの負けではない、ということですよ」
党首「そもそも論点がずれているのですよ、資本主義の豚どもは。やつらにとっては、僕らは稀代の反逆者。そしてだからこそ、僕らを殺しさえすれば、確保さえすれば、全てが終わると思っている」
党首「その考えが愚かなのです。やつらがそう思っていたとて、僕らにとってのこの争いは、もっと大きな意味を持ちます」
ようやく党首様の言葉の先を理解することができました。
党首様はこう言っているのです。
僧侶「資本主義と共産主義の覇権争い」
党首「そのとおり」
よくできました、とでも言いたげな党首様。
党首「豚にとってのこの戦争が治安の維持だったとしても、僕らにとっては覇権争いだ。だからこそ僕らに負けはない」
党首「思想は決して潰えないから」
思想は決して潰えない。正論です。これ以上の正論がどこにありましょうか。
わたしたちの敗北はわたしたちの思想の敗北。仮にわたしたちが死のうとも、思想が生き残っている以上、負けていない。
と、そこまで考えて、ようやくわたしは全てを飲み込めました。党首様と司祭の楽観視を。二人が笑みすら浮かべているのは、単に敗北を考えていないからだけではありません。実際、二人は勝てると踏んでいるのです。
思想として。主義として。社会のありようとして。
共産主義は資本主義を駆逐できると。
この戦争すらもそのための一手なのです。
恐らく、この戦争の様子は、司祭様が召喚した「眼」を通して全世界に中継される――もしくは既にされているのかもしれませんが――のでしょう。
ここでわたしたちが奮戦奮闘することによって、全世界へ共産主義の連帯を示し、種を植え付けようというのです。
そして、資本主義に立つ側がわたしたちを攻めれば攻めるほど、残虐な行為に及べば及ぶほど、わたしたちの連帯は強くなる。それこそわたしたちに賛同しない人たちの思想が変わるくらいに。
泥沼のゲリラ戦法をとるのも、何もそれしか勝ち目がないからではありません。厄介な相手だと認識されること。それが何よりの抑止力となります。
そしてわたしたちには――わたしたちの思想には、それを完遂させるだけの膂力がある。
わたしはそう信じています。
拳銃を握り締めました。
司祭様の「眼」から通達。前方に敵戦力およそ百。対するこちらは二十名弱。
司祭「時間のようですね。武運長久を祈っています」
党首「生きてまた会おう」
二人の映像が掻き消えます。
わたしは振り返りました。
視界の中に、わたしに命を預けてくれた十六人が、それぞれの武器を構えて立っています。
死命は時間稼ぎ。
この町の住人五八七人の避難が完了するまで、一歩も立ち入らせやしません。
ここで五八七人が生き延びれば、彼らは五八七人のゲリラ兵として、五八七〇人の敵兵を殺してくれるでしょう。五八七〇〇人の敵兵を傷つけてくれるでしょう。
たとい命を擲つとしても、十分な価値があるではないですか!
無論誰だって死ぬつもりはないのですが。
なぜわたしが最前線に出張っているのか。それは単純なことです。単純すぎて、単純すぎることです。
答えは、わたしが単純だから。
思想に殉ずる覚悟を持っているから。
そして、それに付き合ってくれる「おばかなひとたち」十六人。
僧侶「皆さん。大事な人をひとり、頭に思い浮かべてください」
僧侶「恐らくその人は既にこの世にいないかと思います」
十六人全員の顔が歪みました。涙を堪えて歯を食いしばっているようにすら見えます。
僧侶「恐らく、みなさんの敵はあまりにも強大だったはずです。社会。国。システム。そんな眼に見えない敵が、みなさんの復讐心を少しずつ削り取っていったでしょう」
僧侶「ですが、それでは駄目なのです」
畑の向こうからやってくる集団が見えました。
わたしは銃を掲げます。
僧侶「皆さんが本当に! 真の意味で! 幸福で安寧な人生を、生活を求めているのであれば! それは決して、絶対に、のんべんだらりとした中で手に入るものではないのです!」
僧侶「奪われたものも、失われたものも、少しでも惜しいと思うなら、悔しいと思うなら、その拳を握り締め、高く振り上げて、相手の顔面に叩き付けてやるしかありません! それが誇りを取り戻すということです、そうするしかないのです!」
僧侶「でなければみなさん、大切な人になんと謝るつもりですか!」
答えすら聞かずにわたしは一番槍と化しました。全身に魔力を充填し、活力に満ちる両手足を精一杯に稼動させ、迫る百余名へと向かっていきます。
僧侶「うぉおあああああああっ!」
咆哮。傭兵さんの気持ちが、今はわかりました。
心の奥底から滾って込み上がってくるものをなんとかするためには、叫ぶしかないのです。
背後から同様の咆哮とともにみなさんが飛び出します。気分はさながら「民衆を導く勝利の女神」。
先頭の敵兵が振るう剣を跳んで回避。あまりの遅さに、振られている最中の剣の腹に飛び乗って、それを踏み台に跳躍すらできました。
空高く舞いながらの射撃。弾倉は一つで十二発。それを一瞬で撃ち尽くし、腰から新たな弾倉を取り出し、充填。
先ほどの銃撃で頭を吹き飛ばされた兵士たちが倒れていきます。
重力に身を任せて落下しました。敵に囲まれた形になりますが、そこはみなさんが突っ込んできて、道を切り開いてくれます。
剣戟、剣戟、剣戟!
鋭い音と甲高い音が交差し、交互に響き渡ります。
それでもぬるい。
傭兵さんの剣捌きは、体捌きは、そんなものじゃなかった!
あの鋭い太刀筋に比べたら!
僧侶「死ね、死ね、死ねぇええええええっ!」
わたしの体を後押しするのは怒り。お父さんを殺された、お母さんを殺された、どうしようもない、救われない、掬えない、どうしようもない、わかっているけど、だって、でも、そんなこと言われたって!
加速。
思考と肉体の両方とも。
恨めしい。
憎い。
お金が。
権力が。
資本家が。
この世の汚濁が。
既存の社会システムの全てが。
破壊したくて堪らない。
体が止まらない。
お金なんて大事じゃない!
全員死んでしまえばいいのだ。死んでしまえばいいのだ。死んでしまえばいいのだ!
この世の中には黄金色に光るそんな金属よりももっと、ずっと大事なものがいっぱいあって、いくらでも刷れる紙切れなんかじゃ手に入らないものだって山ほどあって!
あるはずなんだ!
あるんだ!
みんな知らないだけなんだ!
だからわたしが教えてあげるしかないんだ!
だからわたしが皆を導くしかないんだ!
だから!
だから!
だから!
僧侶「邪魔する衆愚は全員消えろぉおおおおおおおおおっ!」
銃撃。頭を吹き飛ばして殺害。斬戟を避けるとその背後から火炎弾。瞬間的に凍結魔法を弾丸に篭め、火炎弾へと打ち込みました。着弾と同時に半径一メートルほどの魔方陣が複数展開、氷塊を振りまいて火炎弾ごと兵士を飲み込みます。
槍の踏み込みよりもバックステップのほうが幾分か速い。空振ったところにあわせて前へ出て、左手で柄を掴んでこちらへと引きずり込みました。
そのまま銃把の底で顎を打ち抜くと兵士は昏倒します。勢いを利用して半回転しながらこちらに迫る兵士たちへ的確に銃弾を見舞いました。一発、二発、三発。弾切れの三発目が着弾して爆裂魔法が発動し、多くの兵士を巻き込んで吹き飛ばします。
弾倉を交換している隙を狙われるのは当然といえました。四方八方から向かってくるのは様々な武器。しかし、身体能力向上魔法を行使しているわたしにとって、それらはさほどの脅威でありません。
拳銃で刃を弾き、生まれた隙間に体を滑り込ませます。皮膚を食い破っていきますが、骨にすら到達しない攻撃に、一体どんな意味があるというのでしょうか。
全身を苛む激痛。ですが止まっていられません――否、止まれません。最早この体は全自動。沸騰した血液と脳みその支配下に置かれてしまっています。
血しぶきが視界をいくつもよぎっていきますが、果たしてこれはわたしのものなのか、それとも敵兵のものなのか。
視界の端でみなさんが倒れていくのがわかります。志願してきただけあって、みなさんかなりの強者でした。十倍の数の兵士を相手にこれだけ戦線を維持できたのですから、それだけで百人は救えたことになるでしょう。
しかし足りません。まだ時間は稼がなければいけません。半数救えてもあと二百人以上が残っている計算になります。このまま敵兵を町へと雪崩れ込ませるわけにはいかないのです!
また一人、倒れました。州総督の官邸で出会った、農家の五男の兵士。彼は左足を切り飛ばされ、倒れながらも持っていた剣で敵の喉笛を貫いていました。
涙で視界が滲みます。
みんな死んでしまう。
みんな殺されてしまう。
資本主義の豚どもに!
それは、それだけは。
僧侶「くそ、くそ、なんで! そんな!」
おかしいと思いました。だってわたしたちはみんなのために戦っているのです。恵まれない人々のために、貧しい人々のために、蔑まれている人々のために戦っているのです。
そんなわたしたちが負けるはずがない。
だってわたしたちの戦いは護るための戦いだから。
世界をもっとよくするための戦いだから。
自分たちの懐のために戦っているやつらなんて。
私利私欲のために戦っているやつらなんて。
わたしたちの目指す輝かしい栄光の未来社会の前にはひれ伏すしかない。
それが道理。
神様なんていやしないから、わたしたちの正しさを証明してくれるのは、わたしたち以外に存在しなくて。
だから。
僧侶「こんな豚どもに負けるわけがない!」
そうだ。そうでなければ理屈がおかしい。話が噛み合わない。
正義は必ず勝つ。
勝つんだ!
僧侶「みんなはわたしが守ってみせる!」
みんな。みんな、みんな、みんな。みんなだ!
誰も彼も問わず、貴賎の区別なく、上下も貧富も関係なしに、みんな!
この世に全ての人間に幸せを与えるために!
わたしはこの銃を取る!
僧侶「雁首揃えて大人しく、この美しき地上から去ね!」
みちみちと全身の肉が悲鳴を上げています。 魔力経路が膨らみ肉を裂き、内側から破裂してしまいそうでした。
しかし押さえ込みます。こんなところで死んでどうするというのでしょう。わたしにはまだやるべきことが残っています。まだまだやるべきことが残っています。
それは即ち死なないということです。
結果が確定している以上、過程に意を注ぐのは無意味。
銃把を握りました。
魔力を充填。肉体を引き裂くほどに練られた魔力は経路を通して銃弾に流れ込み、一つの魔法を構築。
そしてそれを地面に向かって撃ち出します。
魔方陣が展開。光が満ち、それまで人と血と肉塊と、そして僅かな硝煙しかなかった空間に、「何か」がゆっくりと顕現していきます。
それは召喚魔法でした。本来、召喚魔法はその名のとおり、魔力を自らの対外に放出することが大前提となっている魔法です。それゆえ、魔力を放出できないわたしとの相性は最悪のはずでした。
だからわたしは探したのです。裏路を。隠し技を。
全てはこの日、このときのために。
僧侶「わたしが!」
他でもない自分自身が!
この手で!
幸せな未来を!
僧侶「貴様らは豚だ! 優先順位を履き違えた、眼の腐った豚どもだ!」
僧侶「空気を汚す権利すら金で取引し! 命に値段をつける社会に! 最早存在価値などあるかぁあああああああっ!」
現れたのは黒く長い化け物。
Kord重機関銃。重量八十キロ。発射速度は毎分750発。わたしの殺意を吐き出す怪物。そして銃把はその手綱。
引き金を引きました。
まるでエンジンのような音を響かせ、響かせ、響かせ続け――排出された薬莢が辺りへ飛び散り、顔を掠め、舞い上がる砂埃が眼に入っても、わたしは全てを止めません。
指に力を篭めることも。
人が穴だらけになる瞬間を見続けることも。
僧侶「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
わたしは叫びました。叫んでいました。何も悲しくはないのに、悲しくはないはずなのに、どうしてか叫びを抑えられないのです。戦いを始めたときと同じような、それでいて少し違う、心をがりがりと削り取る何かが胸のうちで暴れまくっているのです。
涙も止まりません。
力を篭めすぎて奥歯が音を立てています。
死ね、死ね、死ね!
死んでしまえ!
この世をよりよくするために死ね!
僧侶「死ね! 死ね! 死ね!」
僧侶「死ねぇええええええええええええ――っ!」
お父さんもお母さんも犠牲者だ。腐って破綻したシステムの歯車に轢き殺されたのだ。そのシステムは途轍もなく厄介な代物で、人がそれを巧みに利用しているように見えて、その実システムに利用されている。
何よりこのシステムの狡猾なところは、その不完全さに気がついた人間を、気がついていない人間が排除する部分にある。利口な人間を、システムの奴隷が貶め、爪弾きにするから。
黄金の上に成り立つバベルの塔。そんなもの、わたしはいらない。
僧侶「……ぁ、あ?」
喉が枯れて声が出なくなり、痛いくらいの静寂が耳を劈いて、ようやくわたしの視界が機能しだす。
誰もいない。
違う。それは不正確だ。
正しくは「誰も立っていない」。
みんな死んだのだ。
わたしが殺したのだ。
眼前には砂埃が舞っていて、状況の詳細な把握ができない。それでも人の気配や息遣いが感じられないのはこの疲弊した体でも十分にわかって、であるならば砂埃のむこうには誰もいないはずで。
ただ肉片がばらまけれているだけで。
こみ上げてくる衝動。それは、どこまでも黄色い衝動だった。
僧侶「死ね! 死ね! 死ね!」
僧侶「死ねぇええええええええええええ――っ!」
お父さんもお母さんも犠牲者だ。腐って破綻したシステムの歯車に轢き殺されたのだ。そのシステムは途轍もなく厄介な代物で、人がそれを巧みに利用しているように見えて、その実システムに利用されている。
何よりこのシステムの狡猾なところは、その不完全さに気がついた人間を、気がついていない人間が排除する部分にある。利口な人間を、システムの奴隷が貶め、爪弾きにするから。
黄金の上に成り立つバベルの塔。そんなもの、わたしはいらない。
僧侶「……ぁ、あ?」
喉が枯れて声が出なくなり、痛いくらいの静寂が耳を劈いて、ようやくわたしの視界が機能しだす。
誰もいない。
違う。それは不正確だ。
正しくは「誰も立っていない」。
みんな死んだのだ。
わたしが殺したのだ。
眼前には砂埃が舞っていて、状況の詳細な把握ができない。それでも人の気配や息遣いが感じられないのはこの疲弊した体でも十分にわかって、であるならば砂埃のむこうには誰もいないはずで。
ただ肉片がばらまけれているだけで。
こみ上げてくる衝動。それは、どこまでも黄色い衝動だった。
轟音が背後から響いて、同時にやってきたあまりの衝撃に、わたしは大きく吹き飛ばされました。
地面を転がって、ぐしゃぐしゃに踏み潰された作物の上を転がって、肉片に口付けをしながら、強か体を打ちつけながら、ようやく土手にぶつかって止まります。
僧侶「……あ、は」
僧侶「あは、あはははは……」
なにこれ。
冗談でしょう。
僧侶「なんで?」
なんで、町の各所が爆散しているの?
町の人々はどうなったの?
僧侶「わたしが守りたかったものは、どこ?」
もしかしたら、そんなものははじめから、どこにもなかったのかもしれませんでした。
* * *
口からこぼれたのは弱音ではなくパンとスープ。
今日の昼食。胃の内容物。
昼に食べたものよりも随分酸味の付加されたそれは、引っかかりもなくするすると喉を通ってわたしの胸元を汚していきます。
町からは依然として黒煙が立ち上っていました。時折崩壊の音も聞こえます。
ここから逃げなくては。後続がやってきてしまう。頭ではわかっているのですが、体が一向に動きません。四肢に鉄球つきの鎖を巻きつけられ、それが地中深く埋められているかのような錯覚が、確かにあります。
町にはまだ人がいたはずです。避難中の人々が、きっと、恐らく、少なく見積もっても百人、多ければ二百人強はいたでしょう。彼ら全員の生存は、絶望的。
なぜ? 疑問よりもそれは絶望の色彩を帯びていました。疑惑は紫ですが、絶望は闇の色。
全てを黒く塗りつぶしていく色。
口を袖で拭い、唾を肉片の上に吐き捨てます。ぴりぴりした感触が口の中に残留していました。
どうすればいいのか、前後不覚になりながらも、決して倒れるつもりはありません。前方に進むべき道がないのなら、自らで開拓していくしかないのです。
それが生きるということなのだとわたしは学んだのです。
党首様にも司祭にも連絡はつきません。この異常事態、あちらにも何かが起こったと考えるのが普通でしょう。何者かの襲撃を受けている可能性は十分にあります。
助けに行くべきでしょうか? 僅かに考えて、首を横に振りました。誰かが見ているというわけでもありませんが。
恐らく逆の立場であれば、わたしはきっと助けて欲しいなどとは思わないはずです。それどころか逆に見捨ててくれとさえ思うでしょう。
仲間に望むことは、彼らが彼ら自身の仕事をきちんと成し遂げてくれること。それをおいて他にはありません。それに言っていたではありませんか。大事なのはこの戦いそのものではなく、わたしたちの思想の勝利なのだと。
ならばわたしも思想の勝利に向かって邁進しなければなりません。
しなければならないはずなのです。
思考を回します。
爆発は一体なぜ起こったのでしょう。王国軍が秘密裏にセットしたという仮定は真っ先に来ます。しかし彼らは剣を持っていました。腰には拳銃も身に着けていました。わざわざ町に爆弾を仕掛ける必要などないはずです。
更に言えば、仕掛けて回る時間すら、彼らにとっては惜しいはず。
つまり国王軍があの爆発の首謀者とは考えにくい。
僧侶「……第三勢力?」
十分にありえる話でした。他国か、それとも州総督派かはわかりませんが、首を突っ込んできてもおかしくはないはずです。
軋む膝に手を当てて、杖にしながら立ち上がります。巻き付いている僧服の布すら重く、腰に戻した拳銃のせいでしりもちをつきそうにもなって。
前言撤回をしたい。もう力を抜いてずっと座っていたい。思想の勝利へ邁進しなければいけないと自分で言っておきながら、本能が告げる原初の欲求に、どうしても体が逆らうことができないのです。
疲れたら休む。人として当然の営為。
みんなが死んだからといって、わたしたちの戦いが終わったわけではありません。守っていたはずのものは全て手をするりと抜けて溶けていきましたが、まだわたしが守りたい人は、助けたいことは、沢山あるのです。
あるはずなのに。
どうして体が動かないのか。
燦燦と降り注ぐ太陽の下で、喉はもうからからでした。四肢は痺れ、喉の奥から血の味がします。
慣れないことをしたせいでしょう。肉体強化も、召喚魔法も、それらを用いての殺し合いも。魔力は枯渇に近づき、体力も殆ど消え失せ、酷使の反動で肉体は骨や筋肉はぼろぼろ。情けない。
僧侶「……ほんと、情けない、です……っ」
まだまだやるべきことは残っているのに。
為さねばならない大義があるというのに。
僧侶「わたしに、何ができるのか、わかりませんけど」
それでも。
僧侶「やらな、くちゃ」
立ち上がらなくちゃ。
たとい守るべきものが最初からなかったのだとしても、わたしの行いが徒労だったのだとしても、それは全てが終わってからわかることであって、今決め付けていいことではない。
守りたいものは探しに行けばいいのです。
僧侶「そうだよね、お父さん、お母さん」
燦燦と降り注ぐ太陽の下で、喉はもうからからでした。四肢は痺れ、喉の奥から血の味がします。
慣れないことをしたせいでしょう。肉体強化も、召喚魔法も、それらを用いての殺し合いも。魔力は枯渇に近づき、体力も殆ど消え失せ、酷使の反動で肉体は骨や筋肉はぼろぼろ。情けない。
僧侶「……ほんと、情けない、です……っ」
まだまだやるべきことは残っているのに。
為さねばならない大義があるというのに。
僧侶「わたしに、何ができるのか、わかりませんけど」
それでも。
僧侶「やらな、くちゃ」
立ち上がらなくちゃ。
たとい守るべきものが最初からなかったのだとしても、わたしの行いが徒労だったのだとしても、それは全てが終わってからわかることであって、今決め付けていいことではない。
守りたいものは探しに行けばいいのです。
僧侶「そうだよね、お父さん、お母さん」
もし本当に第三勢力がひそかに介入しているのだとすれば、恐らく目的は州総督でしょう。でなければメリットがありません。
とすれば、考えられる勢力は三種類。
一つ。他国が州総督の身柄を確保し、有力者を保護した恩をこちらに売ろうとしているか、もしくはそれをネタに脅そうとしている可能性。
二つ。各領主が州総督を保護しにきた可能性。
三つ。州総督の私兵、ないし私設軍が保護しに来た可能性。
州総督の殺害は基本的に考えなくともよいでしょう。なぜなら、王国軍が攻めてきている以上、彼らが州総督をどさくさに紛れて確保しようとするのは誰の眼にも明らかだからです。
国の誰よりも巨大な既得権益を持ち、それゆえに磐石な支持基盤を得ている州総督を追い落とすのは、生半可なことではありません。州総督と敵対する勢力にとっては、今が千載一遇の好機であることは明らか。
ならば……。
僧侶「とりあえず、行き先は……決まりましたね」
やはり休んでなどいられないようです。
わたしはそのまま重たい体を引きずりつつ、州総督の囚われている牢屋を目指します。
そこは一見すると古ぼけた農具小屋が入り口になっていて、更には司祭による撹乱魔法もかかっているため、ちょっとやそっとでは見つかる心配はありません。しかしかけた魔法は解かれない道理はありません。敵もそれくらいは準備しているでしょうから。
僧侶「どうすればいい……? どうすれば……」
ぶつぶつ呟きます。でなければ意識が吹っ飛んでいってしまいそうだったので。
僧侶「ゲリラ作戦は依然続行でしょう……森に潜み、掃討中を狙って殺す……町には大量の罠や爆弾が仕掛けてあります、井戸にも毒を流してあるから、それで、なんとか……」
兵士たちから奪った携行食糧を齧り、水筒の水で流し込みながら、わたしは土手の傍を身隠しに使いつつ歩き続けます。
牢屋まではあと三十分程度。それまでに思考をまとめておかなければ。
州総督は切り札です。わたしたちにとっては彼の存在が楯であり、不在が矛。岩の隙間を突き崩す槍に他なりません。
僧侶「敵は、全員殺さないと……」
拳銃を握る力もどれだけ残っているかわかりませんが。
きっとお父さんもお母さんもそれを望んでいるに違いないから。
箍が外れてしまったのでしょう。爆発と共に、心の中にあった人として重要な要素が、どこかへ吹き飛んでいったのでしょう。
大事なものがあって、それをわたしは失い続けてきました。失って、失って、失いまくって、ここまで来てしまった。
いまさらそれらを取り戻そうなどとは思っていません。そこまで強欲にはなれませんでした。
だけど、だからこそ、守りたいのです。
そのためなら全ての障害を撃ち殺すことも躊躇わない。
一度守れなくても次がある。二度守れなくても次がある。
だって、そう思わなくては。
僧侶「最終的に、勝つんだ。わたしたちが。わたしたちの、思想が。社会が」
僧侶「勝つんだ」
金とか権力とか、そういった醜いものを打倒して。
ふらふらしながらも入り口である農具小屋へとたどり着けました。周囲をこそこそ窺いますが、どこにも敵影は確認できません。
ロックを解除し体を滑り込ませます。
農具小屋の中には、当然農具が転がっていました。鋤、鍬、千歯扱き、筵といったオーソドックスなものから、おおよそ何に使うのか判断のつかないものまで。
その中の一つ、農具を入れる箱をどかせば、地下の牢屋へと降りる階段が見つかるのです。
僧侶「……?」
箱がどけられていました。
反射的に隠し階段を開きます。饐えた空気が鼻腔を直撃。噎せ返る臭いに顔を顰めながらもわたしは一目散にその暗闇へと身を投じます。
石の階段を駆け下りていくと、饐えた空気を上書きする生臭さが充満していました。
僧侶「……」
嫌な予感、が。
電気に触れました。ぱぱぱ、と明滅し、僅かに間をおいてから一気に暗闇が照らし出されます。
僧侶「っ!」
二つある牢屋の右に州総督がいたはずですが、今やその姿はありません。開け放たれた牢屋の鉄格子は傷一つなく、鍵を使って開けられたのでしょう。
そしてその鍵を持っていたはずの見張りは、牢屋の中央で爆死していました。
両手の手首から先と、顔面が吹き飛んでいます。
酷い臭いでしたが胃の中身は既に出尽くしてしまっていて、これ以上吐瀉はしません。胃が引き攣ってえずくだけですが寧ろそちらのほうが肉体には効きました。
靴が血を踏み、ぐちゃりと音を立てました。
僧侶「どう、いう……?」
拳銃を抜いて安全装置を外します。
血が乾いていないということは、兵士が殺されてからそれほど時間は経っていないはず。争った形跡はなく、また上階の農具小屋も荒らされた形跡はなかった。複数人が入ってきた跡も。
この牢屋がそう簡単に見つかるとは思えない。この位置を知っているのは党でも上層部だけで、その中にスパイがいたとしても、外に部隊単位の痕跡が残るはず。
事実わたしが交戦した兵士は百人程度いて、あれが複数の小隊の連合だったとしても、やはり敵軍は小隊単位で動いていることは明白です。見張りの爆死、そして農具小屋の様子などから察して、小隊規模の存在は見えてきません。
僧侶「……」
歯の根がかちかちと鳴ります。視界が明滅を繰り返すのは、決して電灯の調子が悪いからではないはずです。
頭が痛い。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
考えたくない。
僧侶「だって、それはつまり――」
「……間に合わなかった、か」
声がして振り向きました。
電灯の明かりに照らされて、鼻と口を手で押さえながら、司祭が立っています。
僧侶「……どうして、ここに?」
司祭「党首様から要請を受けまして。何かあってからじゃあ遅いから、州総督を移送しようと思って……たんですけど」
僧侶「……そう」
司祭「それにしても、王国軍も酷いことをしますね。爆殺だなんて、惨たらしい」
僧侶「……」
司祭「やっぱり、あいつらの正体は人の皮を被った豚なのでしょうね。人を人とも思わぬ人でなし。本当、許せないです」
僧侶「……」
司祭「あんな国に騙されている民衆の目を私たちが早く覚まさせてあげないといけませんね」
僧侶「……」
司祭「……僧侶様?」
僧侶「わたしたちの敗北は、思想の敗北」
司祭「……? 確かに、そう言いましたが……」
僧侶「ならば、わたしたちの勝利は、思想の勝利なのでしょう」
司祭「僧侶様? なにを仰られているのです?」
僧侶「『わたしたちの敵』を『民衆の敵』に仕立て上げるほうがよっぽど早い」
わたしは真っ直ぐに司祭を見ました。彼女が逃げられないように。
僧侶「あなたたち、この国すらも犠牲にするつもりですね?」
司祭「……」
僧侶「……」
時間と空間が凍りつきます。呼吸すらもできないほど張り詰めた空気を、やっとこさといった様子で、司祭が破りました。
司祭「は、はは。何を仰っているのですか。私たちが同志を殺すはずが」
僧侶「あなたたちならやります。やれます。思想の勝利のためには、どれだけの犠牲を払ってもかまわないと、あなたたちは信じているから」
僧侶「……だから、何人でも殺せる」
司祭「僧侶様! 先ほどからおかしいですよ!? 目を覚ましてください!」
僧侶「いいえ、わたしはおかしくなぞなっていませんよ。理解しただけです。えぇ。きっとわたしは、考えが甘かったのでしょうね」
僧侶「あなたたち二人のほうが、恐らく、遠くを見ていたのです。そんなわたしに二人の考えを詳らかにできないのは、ある種必然だったのかもしれません」
司祭「……僧侶様」
僧侶「司祭。わたしを州総督のところへ案内しなさい。もう迷いません。何人を犠牲にしてでも、国民をいくら犠牲にしようとも、思想の勝利のために、わたしは力添えをする所存です」
そう。あの町を爆破したのも、この牢屋から州総督を連れ去ったのも、党首様と司祭がやったことなのです。
大事なのは思想の勝利。資本主義を打倒し、共産主義が可及的速やかに達成されるためには、わたしたちだけの力では及びません。民衆が蜂起し、革命によって現政権を打ち崩さない限り、真の革命はなりません。
わたしはそのことに気がついていなかった。
それでは、二人が手の内を明かすことを恐れるわけです。
二人の考えはこうです――この町で起きる虐殺、及び大量殺戮を全て王国軍の蛮行に擦り付け、国際社会から、そして王国の民衆自体が王国を忌避するように促す。そしてそのための足場作りは既に終えているに違いありません。
司祭「……そうですか。気づいてしまわれたのですか」
舌打ちが聞こえて、
銃口が、ぽっかりと、
僧侶「――え?」
司祭「なら殺すしかないか」
パンを切らしているから米を食べよう。そんな気軽さで、引き金が引かれました。
僧侶「――っ!?」
炸裂音が脳内で反響します。外耳が吹き飛び、激痛が全身を揺らす。回避できたのは奇跡といってもいいでしょう。身体能力強化の残滓がなければ、脳髄をぐちゃぐちゃにされて死んでいたはず。
僧侶「何を!」
返事は銃弾。二度、三度と引き金が引かれ、冷たく暗い地下牢をマズルフラッシュが一瞬だけ照らし出します。
理解が追いつきません。
ただわかるのは、司祭は冗談でなく、わたしを殺そうとしている。
司祭「驚いた。なかなかに反応速度が高い。アカデミー主席なだけはある」
僧侶「……なぜ、撃ちますか。仲間では、なかったと」
司祭「さっき自分で言ってたけどさぁ、そういうところが甘いっていうか、考えが弱いんだよなぁ。優等生。世間知らず。まぁ、そんな感じ?」
司祭「気づかれなかったら、捨石になるまで放っておくつもりだったけど、しゃーないやね」
司祭「党の象徴、僧侶の遺体が地下牢で見つかる。犯人は王国軍。州総督を連れ去ろうとしたところを見つかり、交戦になった。同志僧侶は果敢にも立ち向かうが、あえなく戦死、と……こんな筋書きでどう?」
僧侶「ここでわたしを殺す必要がないでしょう!」
司祭「命乞いかい?」
僧侶「違います! 本当に共産主義のために動くなら――」
司祭「あぁ」
と司祭は手を打ちました。
司祭「それ嘘」
銃弾がわたしの腹を貫いていきます。
弾丸の衝撃か、言葉の衝撃か、わたしは壁に強か打ち付けられ、息をすることができません。
司祭「共産主義なんて信じるやつぁいないわよ」
……え?
司祭「本当、おめでたい娘。騙されてるやつらもみんなそう。おめでたい。どうせ行き詰まることが見え見えなのに、目先の平等に飛びついて……」
司祭「愚かよね」
拳銃が向けられました。
それよりも、いましがた司祭の言った言葉が、ひたすらリフレインし続けていて。
僧侶「だ、……だま、した、のですね」
口から自然と漏れた唯一の言葉がそれでした。
司祭「そうよ? 騙してたの。カリスマ性っていうの? 民衆を纏め上げる傀儡っていうの? そういうのがね、ちょうど欲しかったのよ。数年前のあの日、あのときに!」
司祭「全ては州総督のため! あの方の敵を一掃し、あの方がこの国を牛耳るため! そのためには国王一派なんて邪魔なだけだもの!」
司祭「あなたはよく踊ってくれたわ」
司祭の人差し指に力がこめられて初めて、ようやく全てを理解しました。
全てが仕組まれていたということに。
最初から最後まで、党首と司祭の手のひらの上で踊らされていたことに。
こいつらは州総督の手先。民衆を操り、敵にぶつける扇動者。アジテイター。
そのための甘言が共産主義。
擁立するシンボルとして目をつけられたのが、わたしの両親と、悲劇のヒロインとしてのわたし自身。
僧侶「……」
あぁ、なんという愚かさでしょうか。
衆愚衆愚と資本主義の下で生きる人々を馬鹿にしていたわたし自身が、誰よりも愚かだったのです。資本主義の豚と罵っていたわたしこそが、浅慮な家畜だったのです。
やはり守るものなどはじめからどこにもありはしないのでした。わたしの背にあったものは、空虚な、どこまでも無色透明な、なにものでもないなにか。
がらがらと崩れ去っていきます。
夢とか。
希望とか。
お父さん。
お母さん。
ごめんなさい。
仇を討ちたかったのに、報われない二人になんとしてでも餞を贈ってあげたかったのに、それすらできず、寧ろ敵にいいように使われて。
この有様。
怒りはありませんでした。それを圧倒的に上回り、塗り潰すほどの諦観が、どっしりと心の奥を陣取っています。
もうどうにでもなってしまえばいいのです。
どいつもこいつも自分のことしか考えないのなら、生きていく価値はありません。その結果全人類が滅亡したとしても、それこそが運命。それこそが思し召し。
神なんていません。いたらこんな酷い世の中を作るはずがありません。
ならば、わたしの蛮行を見咎める存在だっていやしないということになります。
僧侶「――――」
死んでしまえ、とうまく呟けたかどうか。
弾丸よりも速くわたしは飛び跳ねました。
まるで跳弾。一気に加速し、もう一発飛んでくる弾丸を拳銃で逸らして、一気に司祭の懐へと飛び込みます。
司祭「な――っ!」
驚愕の表情。
一秒たりともその顔を見ていたくはありませんでした。顔面にこぶしを叩き込み、上半身が揺らいだところで足払い。そのまま後頭部を勢いよく石へ叩き付けます。
ごぐ、という鈍い音がしました。
馬乗りになって、どうやら既に絶命はしているようでしたが、許せないので顔面を中心に弾丸がなくなるまで拳銃を撃ち続けます。ばん、ばん、ばん、ばん、ばん、ばん、ばん、ばん、ばん。その次の十発目で弾切れになりました。
もう、どうにでもなぁれ。
僧侶「あぁ……州総督の居場所、聞くの、忘れてた、な」
殺す前に聞き出して置けばよかったです。
大切だったもの。守りたかったもの。それらは全部まやかしで、指の中から零れ落ちていって。
残されたのは輝かしい過去だけ。
現在も、未来も、わたしには存在しない。
奪われてしまった。
人だけでなく、現在や未来まで、あいつはわたしから奪っていく。
誰にも泣きつくこともできず。
叫んだってどうしようもないのなら。
がらんどうなわたしの心。
それを埋める何かを探して。
全ての元凶を血祭りに挙げて。
心を満たす以外に、満たされない。
トートロジーとして間違っているでしょうか?
「大間違いだな」
……幻聴が聞こえました。
あは。あははははは。もうだめだ。だめになっちゃってるや。
あたまおかしくなってる。
わけわかんなくなってる。
でもいいや。いいんだ。いいんです。
つかれたもん。
どうせこんなところにあのひとがいるはずないし。
あの人はお金のもーじゃだから。
わたしを助けにきてくれたりなんかしない。
もう、わたしは傭兵さんのやといぬしでもなんでもないんだから。
ぼうっとわたしがあの人を見上げていると、あの人の大きな足が、わたしのお腹をいきおいよくけりあげたのでした。
すっごい痛みがおなかから全身へとかけめぐって、わたしはかたい地面のうえを、ごろごろごろごろころがっていきます。
……わたしのしっている傭兵さんは、わたしを蹴ったりはしません。
だから、これは、敵なのです。
あいつの仲間なのです。
州総督の仲間は、殺さなくちゃいけません。
殺そう。
* * *
あぁ……。
目的と行動を決めたら、拡散していた意識が収束していきます。
しゅわしゅわと頭が発泡して世界が泡だらけ。ぱちぱちんと弾けて飛び出る虹色の噴霧。
それまで冷たく暗かった地下牢が一気にメルヒェンになっていきます。
傭兵さんが色とりどりなんて本当に面白い。
州総督の手先だなんて残念です。
殺さなきゃいけないなんて残念です。
冷たい右手の銃。左手には換えのマガジンを用意して、私はこつこつと二回、石の地面をタップしました。
縫製――枯渇している魔力を、それでも体の隅々から掻き集め、一本一本丁寧に魔法を編んでいきます。詩歌を諳んじるのにそれは似ていて。
維持――期間は永続。傭兵さんの命が尽きるのが早いか、わたしの魔力が尽きるのが早いかの勝負。わたしの命が尽きる? ありえませんね。
充填――体中に巡らせます。全身の魔力経路を通って、仄かに暖かい光が満ち足りていく心地よさがありました。それだけが唯一、人心地つける瞬間でもあります。
放出――はできません。必要ありません。
僧侶「全身治癒」
弾丸の通り抜けた部分や、これまでの戦闘によって負った数々の傷跡が、治癒の煙を噴出しながら休息に直っていきます。力んでも破れない程度まで血小板を凝固させ、疲労も消しました。
両手を開いて、閉じて、感触を確かめます。
よし。問題はないです。
更に残りの魔力を四肢に送り込みました。眼には決して見えませんが、確かにわたしには、体が魔法の輝きを放っているのがわかります。
僧侶「脚力倍加」
軽く跳ねるだけでわたしの見る景色は吹き飛んでいきます。一般人には目で追うのも精一杯な速度でしょうが、相手はまるで一般人ではないので、あわせて剣を振るわれました。
勇者様から奪った、障壁すらもたやすく両断できる剣。素早く弾を装填してカウンター気味に撃ち込みます。
根元を素早く動かして、二発、どちらも防がれました。刃の勢いは止まらずに狙いは脚。こちらの機動力を殺いできます。
絶妙なタイミングと間合い。回避は叶いません。わたしはそう一瞬で判断し、銃の上辺で受けました。同時に弾丸を発射しながら。
鉄の塊であるはずの拳銃が、まるで果物のように小気味いい音を響かせました。綺麗に真っ直ぐ、銃身の先端から中ほどまでが落とされます。
はためいた僧服の足元が大きく切り裂かれ、のぞくのは下着。
恥らっている暇はありません。銃を犠牲にしましたが、それで脚の一本が買えたと思えば安いもの。
それに、銃はここにもあるし。
落ちてくる拳銃をキャッチしました。
多用はできませんが、一度や二度なら、拳銃の召喚くらいは。
僧侶「守備力倍加」
傭兵さんの蹴りを左腕で受けます。鉄のように硬くなったはずの体なのに、それすら超越する彼の攻撃の重さといったら、わたしの体の芯をしっかりとぶらしてくるのです。
そのせいで銃口が逸れました。偶然に弾丸が傭兵さんに当たるだなんてありえません。射線が一致していたとて、彼は指の動くタイミングを読み、回避できるでしょうから。
……あれ? わたしの目の前にいる傭兵さんは、本物じゃないのではなかったでしたっけ?
だれがそういっていたのだったか……。
あぁ、もう、どうでもいいや?
僧侶「?」
なんで疑問系なんですか?
傭兵「知らねぇよ!」
頭の中を読まないでください。
あなたの頭の中も読んじゃいますよ?
む。
むむむ……!
僧侶「むーりー」
なら脳みそを調べればいいんじゃないでしょうか。
ないすあいでーあ。
僧侶「流石わたしです?」
だからなんで疑問系なんだっていうね?
そういうお年頃ってやつなのかもしれませんけど。
思考がてんでばらばらなところへとお出かけしていってしまいます。一つの束にしなければいけないのに、そうして初めてわかることが、思い出せることが、しゃんと胸を張れることがあるかもしれないのに。
あったはずなのに。
統一された信念と意志によって初めて大義を成すことは可能になります。
わかっているのです。わたしはいままでその二つをぶらさずにずっと生きてきました。そのつもりでした。
それを、もう疲れたと擲とうとするわたしがいて。
涙を湛えて必死に離すまいとするわたしもいて。
鬩ぎあいの中で、傭兵さんと鬩ぎあっています。
倍化された脚力はわたしの移動を旋風にします。ひゅおんと風を切り、通り過ぎてからごおぅと風を巻く、超高速移動。
ですが傭兵さんの眼の前には意味を成しません。そもそも彼は、わたしが地を蹴るよりも早く、そのつま先の向きと重心のかけ方とこちらの思考パタンを読んで、予め待ち構えた位置を陣取ることができるのです。
だから、もし現状を客観的に見ることができるのだとすれば、まるでわたしが傭兵さんに向かって突進しているようにも見えるでしょう。傭兵さん大好きですと胸に飛び込んでいるようにすら見えるかも。
甚だしい。
僧侶「腕力倍加ァッ!」
拳は空を切って鉄格子ごと壁を大破させました。腕が壁に埋まりますが、礫を傭兵さんに向けて見舞います。
避けきれない弾幕すらも最小限の動きで無傷。こちらに真っ直ぐ突っ込んできます。
銃弾は全て回避され、反対に避けようとしたわたしの背中に壁の冷たい感触。意図的に追い込まれたに違いありません。
倍化された守備力はわたしの全身を鋼鉄にします。硬く、重く、決して曲がらない、わたしの信念そのもののわたし。
ですが傭兵さんの剣の前には意味を成しません。彼の剣の詳細は知りませんが、かなりの業物であることは明白です。障壁を切れることから何らかの魔術的処置も施されているのでしょう。それに傭兵さんの腕が加わった結果が先ほどの拳銃。
翻る僧服がざくざくと刻まれていきます。脚力倍加とあわせてなんとか紙一重で剣戟の回避を続けますが、回り続ける傭兵さんの刃を避け続けることも、ましてや受け続けることもできるはずがなく、わたしの身体は次第にその体積を減らしていきます。
甚だしい。
苦し紛れに、闇雲に手を振るったとて、あたりの鉄格子や牢屋の壁を粉砕していくだけ。傭兵さんには掠りもしません。そうしてがら空きになった胴体へ、拳や爪先があっさりと叩き込まれていくのです。
敵ながらも惚れ惚れするほどに美しい動作でした。
倍化された腕力はわたしの両腕を戦鎚とします。触れたものを全て粉砕する赤い鉄槌。それは迅雷の如く資本主義に鉄槌を下すというダブルミーニングでもあります。
ですが傭兵さんの足の前には意味を成しません。リーチの問題よりも、もっと根源的なもの。わたしの腕を振る速度より、傭兵さんがステップを踏む速度のほうが圧倒的に早いのです。傭兵さんの懐に何とか潜り込んでも、瞬きした次の瞬間には、彼はわたしの背後にいます。
圧倒的でした。攻撃は遠距離近距離を問わずに悠々と回避され、防御をすり抜けて打撃が体を強かに打ち据えます。治癒魔法でも治癒しきれない鈍痛が全身を駆け巡り、体を僅かに捻るだけでも涙が滲む始末。
それでも手加減はされているのだとわかります。最早傭兵さんは剣すら抜いていません。抜くとしても銃弾を弾くときくらいで、後は全て徒手空拳。
傭兵さんの拳は十分に熱くって、血の通った人間のそれでした。
意識はすでにどこかへ吹っ飛んでしまっています。ぐらぐらぐらつくわたしの精神。信念は鋼鉄ですが、それを結わえ付ける土台が腐っていれば、そりゃぐらつきもします。
精神の鬩ぎあいは終わりを迎えそうにありません。
僧侶「って、誰が腐ってるんですか!」
人をゾンビみたいに言ってからに!
傭兵「……お前はちったぁ人を疑うことを覚えろ。だからそんなふうになっちまうんだ」
「そんなふう」? そんなふうとは、一体全体どんなふうですか?
この煮立ってばかになってしまった頭?
それとも、騙されたこと?
人を疑う、ですか。確かにそれができれば、いまのわたしはなかったかもしれません。
いや、そもそも両親が騙されていなければ、もっと幸せないまがあったのかも。
言っていることはわかります。わからいでか。でも、それはつまり、現実を見据えるということです。
州総督のように偉い人間は上澄みのおいしいところだけを啜って。
両親のように心優しい人間は淀んだ悔しい気分だけを味わって。
その現実を見据えて、認めて、それを乗り越えて生きていくということです。生きていかなければいけないということです。
えぇ、確かにそれは理想的な生き方です。人間としてすばらしい生き方。前向きで、ポジティブで、明るく、爽やかな、上等で模範的な選択。聖人と揶揄してもいいくらいに。
そんな現実、絶対に直視してやるもんか。
そんな選択、絶対に選んだりするもんか。
僧侶「わたしは! 現実から逃げる! 逃げ続ける!」
その先にあったのが共産主義。
ならば新しい現実を作るしかないじゃないですか。
州総督を殺し、名実共にわたしが全てを引き継ぐ――乗っ取って。
銃弾を撃ちます。傭兵さんはそれを剣で難なく弾き、一瞬でわたしとの距離を詰めました。
相変わらず腐った眼をしていますが、僅かに光が宿っているのが見えます。どぶ川に落ちた宝石のような、赤いルビーの輝き。
傭兵「逃げ続けてどうする」
容赦なく顔面を殴られました。鼻っ柱ではなく、頬。舌の端を噛んで痺れが口腔内に広がります。
僧侶「ただわたしは! みんなを守りたいだけなんです!」
理想的じゃなくたっていい。素晴らしい生き方じゃなくたっていい。前向きでもポジティブでも明るく爽やかでなくともいい。上等で模範的な選択をできなくとも、聖人として生きられなくとも、別にいい!
現実が貧しい人々を作り、虐げられる人々を殺すというのなら!
そんな現実の門に下るわけには、猶更行かないのです!
僧侶「傭兵さん、あなたは言いました。この世でお金が一番大事と」
傭兵「あぁ? 覚えちゃいねぇよそんなこと。……まぁ、言ったかもしれねぇが」
僧侶「やはりあなたは間違っています。間違っているのです!」
傭兵「なにがだ」
僧侶「この世で一番お金が大事じゃありません」
傭兵「『金よりも大事なものがある』か?」
僧侶「違います」
僧侶「『この世で一番』『お金が大事じゃありません』」
「この世で一番お金が大事」「じゃない」のではなく。
言葉遊びと笑うなら笑えばいいのです。しかし、ですが、だけれども、わたしはその言葉遊びの中にこそ物事の本質があるのだと思っています。
僧侶「だから全部ぶっ壊すのです。恵まれない人を守るのです!」
思考が纏まっていきます。束になっていきます。
殴られすぎて蹴られすぎて疲れすぎて魔力も枯れていて頭がぼやけて朧なのに、不思議と思考は回りました。
それまでばらばらになっていた全てが、窮地を悟って手を繋いだかのようでした。
わたしは傭兵さんの顔を見上げます。
懐かしい顔でした。皮肉屋で性根が捻じ曲がっているこの男の顔なんて、もう二度と見たくないと当初は思っていたはずなのに、わたしは今、彼がこの場にいることを、ひどく嬉しく思っているのです。
わたしの振り下ろした拳は傭兵さんには届きません。カウンターで鳩尾へ膝が入ります。
猛烈な嘔吐感。胃の中身は空っぽですから、収縮する痛みとつらさだけがありました。
拳銃を向けますが人差し指を動かす前に足が払われました。銃弾は天井に突き刺さり、石の破片を降らせます。
その右腕を足で踏みつけて、傭兵さんはわたしを見下ろしています。
僧侶「恵まれない人を、守りたかった、のに……!」
騙されて。
輝かしい未来は、指先が触れる瞬間に、脆く儚く掻き消えて。
跳ね起きようとした全身を蹴り飛ばされ、鉄格子の残骸へと背中を強打。肺の空気が押し出され、呼吸が数瞬止まっている間に、傭兵さんはわたしと目と鼻の先まで迫ってきていました。
……あぁ、やはり傭兵さんは強いです。
いくら身体能力を強化しても、もともとの強さの差が絶望的なのですから、この結果は当然といえました。
体が動きません。体力の消耗、魔力の枯渇……そして何より、こんなことは口が裂けてもいえることではないのですが、どうやらわたしは、彼の姿を見て安堵してしまったようなのです。
張り詰めていたものが弛緩し、ついには立てなくなってしまったようなのです。
涙が溢れました。それが、わたしの夢が終わってしまったからなのか、彼ならばなんとかしてくれると思ったからなのか、自分でもわかりません。
僧侶「傭兵さん……」
傭兵「なんだ」
僧侶「助けてください」
傭兵「……何をだ」
何を――わたしを、社会を、王国を、共産主義を。
そのどれかであり、どれでもであり、そしてどれでもないような気もしました。
ただ、わたしにはきっと、これ以上手の打ちようがなくなってしまったのです。それだけはわかります。愚かすぎるわたしでも、いや、愚かすぎると自覚ができたからこそ、そんなわたしに事態の収拾がつけられるはずがないと絶望しているのです。
あなたに縋りたいのです。
野に放たれた共産主義者は止まりません。既にゲリラの方向性は与えられました。この戦争における虐殺や無体を、州総督や党首は王国の蛮行だと大々的に報じるでしょう。
大義は我にありと騙された人々が王国へ牙を剥くのにそう時間はかからないはずです。
資本主義は屑です。その認識はいまさら変えられやしません。ですが、結果として対立を煽ることになったわたしもまた屑なのです。
こんな未来は目指していたものとは違います。
僧侶「責任を、とらないと」
傭兵「そうだな」
傭兵さんが強くわたしの足を踏みつけました。骨の軋む激痛にわたしは思わず拳銃を取り落とします。
それを拾って、マガジンを交換すると、迷いもなくこちらへ向けました。
僧侶「……」
傭兵「悪いが、お前の頼みは聞いてやれない」
傭兵「俺はお前から金をもらっちゃいねぇからな」
思わず噴出しました。どこにいたって傭兵さんは傭兵さんなのです。どこでも変わらない、強く折れない芯を、彼は持っています。
彼はお金でしか動きません。ただ働きをさせることは、きっと神様にだって不可能でしょう。
傭兵「じゃあな」
そして傭兵さんは、躊躇いなく引き金を引いたのでした。
※ ※ ※
傭兵「……」
傭兵「……く、くく」
傭兵「くひゃ、ひゃはは、あっははははははっはっはっはっは!」
目の前で呆然としている僧侶の顔に俺は笑いが止まらなかった。
俺が撃ったのは空砲である。わざわざ用意してきたものだ。
でなければ拳銃のマガジンなど持っているはずがない。
笑ってはいけないと思えば思うほどに殺しきれない笑いがこみ上げてくる。僧侶はそんな俺を目の前にしてなお、ぽかんと口を半開きにし、現状を飲み込めない顔をしていた。
面白すぎる。
傭兵「ひっははははは! お前、僧侶、お前なんだよその顔、うっははははは!」
横隔膜が痛い。引き攣っている。い、息が、息ができねぇ!
そのまま暫し笑い続けていると、頬に衝撃が走った。
立ち上がった僧侶が俺の横っ面にびんたを食らわしたのだ。
僧侶「よ、う、へ、い、さ、ん?」
傭兵「お目覚めのようだな、クソお姫様」
怒りは特になかった。悪気があってやったのだ。悪がぶったたかれるのは当然と言える。
それでも、悪気こそあったが俺は決して悪びれない。共産主義者の首魁、悪の枢軸、資本主義を堕落に導く女悪魔と世間で言われたい放題の目の前の少女に比べれば、所詮一介の守銭奴に過ぎない俺なんて、とてもとても。
頭一つぶん以上差があるのに、僧侶は真っ直ぐ俺を見てくる。首が痛くならないのだろうかと心配になるくらいに。
なかなか堂に入った眼光と迫力であるが、数多の視線を潜り抜けてきた俺には何の意味もない。それに、そもそもこの反応まで全て手のひらの上だ。マガジンを持ってきたのは単なる遊びではないのだ。
さて、そろそろお遊びを続けているのも限界のようだ。首を捻り、調子を確認してから、息を吐いた。
僧侶「なんなんですか。なんなんですかあなたは……!」
静かな怒りが見える。殺して恨まれることなど珍しくもないが、殺さないことで恨まれるのはかなり珍しい状況といえた。
僧侶の考えは痛いほどにわかる。だが、だめだ。こいつをこんなところで失うわけにはいかないのだ。
傭兵「要領を得ねぇ質問だな」
僧侶「あなたはわたしをどうしたいのですか!」
どうしたい?
……どうしたい、か。
僧侶「わたしは、わたしはっ、責任を取らなければいけないのです!」
傭兵「なら取ればいい」
僧侶「気安く言わないでください!」
激昂だった。努めて取っているこの軽佻浮薄な態度もそれの後押しをしているのだろう。
だがそれでいいのだ。それでいいのだと俺は思っている。
体の奥底にたまった毒素は一度出し切ってしまうのが、将来のことも鑑みれば、最もよい選択なのだ。
大天狗と戦ってぼろ負けして。
血反吐を撒き散らしながら、糞尿を垂れ流しながら、それでも必死に、みすぼらしく、生へしがみついていた俺たちのように。
僧侶「やれるものならさっさとやってます! だけど、でも、じゃあどうしろっていうんですか! 仲間もいない、力もない、体力も魔力も枯渇寸前、そんな小娘にとれる責任だなんんてたかが知れてるじゃないですか!」
僧侶「それだったら! それだったらもう、遺書の一枚でもしたためて、自決したほうが万倍マシってもんでしょう!」
小娘と自称したとおり、確かに僧侶は小娘だ。自他共に認める、ただの小娘に過ぎない。
彼女の華奢で細っこい体躯には、恐らく、彼女の理想は重すぎた。それでも、なまじ体躯に見合わない精神性だけがぶっとく一本立っていたのが――立ってしまっていたのが、不幸の原因なのだろう。
そしていま、自らの柱に潰されようとしている。
傭兵「逃げだとしても?」
僧侶「そうですよ!」
やはりわかっていないはずがないのだった。
僧侶は聡明だ。頭もよく回る。融通の利かないきらいがあるが、その欠点を補って余りあるほど様々なことをわかっている。
この世の仕組み。自分を取り巻く環境。出来事の原因と経過。そして自分自身の感情も。
ただ、この世の仕組みや自分を取り巻く環境やその他諸々が、決して理解していたとてうまく折り合いとケリをつけられないように、こいつ自身の感情も、同じものなのだ。
逃げだとわかっていても。
聡明な彼女には、自分が既に「詰み」の状況に置かれていることがわかってしまう。
人を疑わないからこうなるんだ。それは俺が先の戦闘中に言ったことではあるが、しかし、まぁ、それは人間の美徳である。疑わない人間と、疑わざるを得ない社会、どちらが素晴らしいかといえば……考えるまでもないだろう。
僧侶が僧侶であるまま生きていける世界は、きっと高潔で、理想的な世界に違いない。しかし残念なるかな、人間はいまだそのステップへと移行できない。そこまでの精神性は持ち合わせていない。
かといって僧侶がこちらがわにあわせるのも業腹だ。それは、なんというか、俺が負けた気がするのだ。
なにに、と言われても説明はし辛いのだが。
あぁ、わかっている。実に「らしくない」。
俺は俺のことを金の亡者だと思っているし資本主義の奴隷だと思っている。だからこそ大声で「らしくない」と言ってしまえる。
僧侶を見ていて胸に影が落ちるのは一体どうしたことだ。
今俺がやっていることは、突き詰めてしまえば僧侶の愚痴に付き合っているだけだ。一銭にもなるまいに、どうしてか。
僧侶「もう疲れたんです! 頑張って、頑張って、頑張ってきて――それでこの結果ですよ! それとも、傭兵さん、あなたはまだわたしに頑張れと言いますか!? わたしの頑張りが足らなかったのだといいますか!?」
頑張ったよと言うのは簡単だ。だが、そう声をかけるのは親の役目であって、単なる傭兵に過ぎない俺にはその言葉をかける権利などない。
僧侶「頑張らなきゃいけないのに! わかってるのに! ――もう、体が……!」
動かない。
単に体力が、ということではないのだろう。体の芯を立たせるものは体力ではない。
ぼたぼたと涙を零しながら、僧侶は自らの顔を両手で覆った。
気丈にも膝はつかないままで。
傭兵「楽になれると思ったか?」
思っただろう。思ったはずだ。
僧侶「……」
傭兵「俺から銃口向けられて、やっとこれで楽になれると、そう思ったろ」
僧侶「……えぇ、そうですよ。思いました。思いましたとも」
僧侶「全てが終わるんだと思いました。悔しくて悔しくて、情けなくて、無念で……心残りはいっぱいあるのに、まだなにも終わってない、なにもできてないって痛感してるのに」
僧侶「所詮わたしは屑です。楽なほうへ楽なほうへ流される」
自嘲して、僧侶は瞳を袖で一度力任せに拭うと、真っ赤になった瞳を足元へ向けた。
僧侶「でも、そうですね。わたしがばかなだけだったんです。わたしは傭兵さんにお金を払えません。助けてもらえないのですから、そりゃ当然、楽にしてもくれないでしょう」
それだけ言うと、僧侶は拳銃を俺の手からひったくり、脇を抜けていく。
どこに行くのだと声はかけなかった。行き先などわかっているから。
傭兵「州総督のところか」
僧侶「はい。座して死を待つくらいなら、戦って死んだほうがマシってもんです。傭兵さんはそれを教えにきてくれたんじゃありませんか?」
一度死んだと思えばなんだってできる。そのつもりで言ったわけでは、当然ない、はずだ。
傭兵「買いかぶりすぎだ」
僧侶「じゃあ、そういうことにしておきます」
なんとも腹の立つ顔をするやつである。
傭兵「行く前に俺に報酬を渡せ。ラブレザッハまでの護衛代だ。銀貨、持ってるんだろ」
鼻で笑って僧侶が銀貨を投げてくる。王家の紋章が刻印された銀貨。渡されずじまいだった俺の報酬。
それを受け取って、流れる動作で僧侶の肩を掴んだ。
僧侶「……なんですか」
傭兵「そのままじゃお前死ぬぞ」
眉を動かしたのがわかった。俺の言っていることがわからないでいるのだ。イラついているのは明白だった。
そしてそのイラつきは大いなる誤解に基づくものだ。どう説明したものか……いや、実際に見せたほうが早いかもしれない。
傭兵「おい、もう出てきていいぞ」
俺は靴を投げ捨てた。
「了解しました」
すぐに応答が返ってきて、その靴から即座に人影が浮かび上がる。
地下牢に見合わない給仕服。薄暗い中でも輝く金髪。柔らかな物腰。そして野犬を髣髴とさせる眼力。
僧侶「なんで、あなたがここに」
掃除婦「説明している時間も惜しいのですが、仕方がありません」
掃除婦は憤懣やるかたなさを全く隠さず髪を掻き揚げた。
手馴れた動作で司祭の靴を脱がせると、瞬く間に靴が立ち上がり、生前の司祭の姿を顕現させる。眼に光が宿っていない、焦点も定まっていない、採石の町で見た掃除婦の傀儡である。
それは僧侶を押しのけて階段を上っていく。そして、隠し扉をあけた瞬間に、爆裂した扉に巻き込まれて呆気なく消失する。
ぱらぱらと砂埃や地面、木材の一部が俺たちに降り注いでいく。
僧侶は引き攣った笑みを浮かべていた。
僧侶「爆弾、が、仕掛けられていた……?」
傭兵「だから言ったんだ」
どうしてこうも猪突猛進なのか。
目の前で起こったことを嚥下しようと僧侶は努めている。だが掃除婦は僧侶の自然な理解に任せておく時間ももったいないと、石の階段をこつこつと鳴らしながら上っていく。
掃除婦「繰り返しますが、時間もありません。その話は道中、おいおいしていきたいと思うのですが、どうでしょうか?」
僧侶「……わかりました」
僧侶がいいなら俺に否やはない。大人しくついていく。
掃除婦「序列第六位、『機会仕掛け』」
最早用を成さない、焦げ臭い隠し扉を抜けながら、掃除婦は唐突に言った。
掃除婦「あなたが党首と呼ぶ人物の正体です」
僧侶「機械仕掛け?」
掃除婦「『機会』です」
掃除婦「爆破魔法を専門している工作魔術師。オリジナルの呪文系統として『物体機雷化』を開発、習得しています」
掃除婦「機雷の爆破条件は『開く』『放つ』『破る』など、何かを開放する動作と連動しています。ゆえに、『機会仕掛け』の二つ名がつきました」
火薬も導管も必要なく、投擲も操作も必要ない。
万物を完全なる全自動で爆殺する機雷と化す。それが序列六位、『機会仕掛け』の能力。
例えば、国境線を機雷化し、「破った」兵士たちを軒並み爆殺したり。
恐ろしいのは扉などの物体だけではなく、国境線と言う概念までも機雷化できるということだ。眼に見えるものが機雷化していれば対処法はまだあるが、無色透明な、そもそも実体のないものが機雷化しているとなれば、警戒の仕様がない。
掃除婦と手を組む際に尋ねた限り、「約束」を機雷化した上で誰かがその約束を「破った」場合、爆殺される可能性が高いという。
「物体機雷化」とは名ばかりで、実際は物体以外も機雷化できるという、何よりゲリラと親和性の高い厄介な相手だった。
僧侶「……もともと司祭も使い捨てるつもりだった、と」
掃除婦「そういうことになります」
やはり僧侶は聡明だった。既に彼女の中では、党首――「機会仕掛け」によって描かれた絵図の全容が把握できているのだろう。
地下牢の隠し扉の爆発が単なる爆弾ではないと仮定するならば、それは党首の能力である「機雷化」によるものだ。
そして、なぜ党首は隠し扉を機雷化したのか。司祭を地下牢に送り僧侶を殺そうとしたのは党首の命令である。司祭の勝利を信じているのなら機雷化するはずはなく、僧侶の敗北を懸念していたのならば、そもそも司祭を送り込まなければいい。
よって一つの結論が導き出される。どの道党首は司祭をも始末するつもりだったのだと。
やつにとっては全てが手駒だったのだろう。僧侶も、司祭も、当然自らを慕ってくれる人々も。
実に親近感が沸く。
同属嫌悪だ。
掃除婦「ここからは想像でしかないのですが、恐らく党首の目的は、州総督が持っていた全ての奪取。金銭も権力も利権も、全てひっくるめて自分のものとするために」
僧侶「話の流れが正直読めないのですが。そもそも、なぜ掃除婦さん、あなたが傭兵さんと組んでいるんですか? 一体何をしに?」
掃除婦「単純な話でございます。最初は州総督様、そして司祭と『機会仕掛け』の三名で描いた絵図なのです。州総督様が国王一派を黙らせ、この国の権力を手中に収めるために、一芝居二芝居打とうと、そう話し合われたのです」
掃除婦「しかし土壇場で『機会仕掛け』は裏切りました。州総督様を誘拐し、恐らく、権利書や内密の情報を絞れるだけ絞ってから殺すつもりなのでしょう」
掃除婦「それは――許せません」
凄絶な笑みを掃除婦が浮かべる。思わず空恐ろしくなってしまうほどの。
僧侶「じゃ、じゃあ、他の序列のかたは?」
掃除婦「勿論おりますとも。総勢十名、現在各地で王国軍と依然戦闘続行中でございます」
傭兵「道理で進軍速度が遅いわけだ」
掃除婦「えぇ。州総督様は拉致られてしまっておりますが、依然としてお出しになられた指令は継続中。全戦力を傾け、王国をボロボロにしてしまわなければ、背くことになります」
掃除婦「だからこそ傭兵様が呼ばれたのですわ、僧侶様。お恥ずかしい話ですが、私は『足跡遣い』。一人で百人を相手にすることはできますけれど、百人力の一人を相手にすることは、不慣れですの」
確かに、こいつの「靴を媒介に持ち主を召喚する」魔法は、このような戦場でこそ輝く。死んだ相手の靴を脱がして召喚すれば、それこそ倍々ゲームの成立だ。
掃除婦「ですから、彼に」
傭兵「あぁ、俺に」
「「依頼内容は、『州総督の救出』及び『党首の抹殺』」」
僧侶「あぁ、だからこの人が」
わざわざこんな戦地まで出向いてくるわけですね、と僧侶は呆れ顔で言った。
当然だろう。こんな危険極まりない場所に、俺が何の目的も報酬もなくやってきて、偶然お前と出会うかよ。
掃除婦から俺に提示された報酬は総額千万。手付金で一千万、成功報酬で四千万。断る理由などどこにもなかったのだ。
掃除婦「それでは、お願いしましたよ」
ざく、ざくと靴が地面を踏みしめる音と共に、周囲から兵士たちの亡霊が集まってくる。掃除婦の指示に忠実な不死の兵団。掃除婦がいれば、少なくとも数時間は戦列を保ってくれるだろう。
視線の先にはこちらへ向かってくる王国軍の一団がある。掃除婦はここを橋頭堡とするつもりなのだ。無論、俺たちが速攻で党首へ追いつき、これを撃破できれば、それも必要ないことになるが。
傭兵「は」
俺たち、か。
傭兵「僧侶」
僧侶「なんですか」
王国の軍勢を見据えながら、語気も鋭く僧侶は答えた。
傭兵「助けてやろうか?」
僧侶「お金ないです」
即答だった。瞬殺でもあった。
思わず苦笑がこぼれてしまう。僧侶に言わせればこれこそまさに自業自得というやつなのだろうが、金を貪欲に求めることが業だというのなら、この社会そのものが業の坩堝ということになってしまう。
いや、こいつはそう公言して憚らないのだったか。
傭兵「なぁに、気にするな。体で払ってもらうさ」
党首を殺せば四千万だ。サポート役に十分の一払ったとしても四百万。十分すぎるくらいの額だろう。
僧侶「体ッ!」
素っ頓狂な声を上げる僧侶だった。相変わらず変な女である。
あわあわ言っている変な女をとりあえず無視し、挨拶代わりに手を挙げた。
傭兵「じゃあ、任せてくれ」
掃除婦「お願いいたします」
敵軍儀仗兵の放った火球が掃除婦の傀儡を薙ぎ倒していく。それが会戦の合図だった。
俺は僧侶の腕を引いて、傀儡の壁の後ろを駆け抜ける。背後からは次々着弾と剣戟の音が届き、州総督の敵を撃滅する喜びに打ち震えている掃除婦の歓声までも届くが、走り続けていればそれも自然と掠れていく。
僧侶「ば、場所は、場所はわかっているのですか!?」
傭兵「大体のあたりはついてる。そこから先は、手探りだな」
党首はすぐに州総督を殺さないだろう。掃除婦も言っていたが、州総督には利用価値がある。情報を絞れるだけ絞るまでは州総督の命は保障されている。
尋問、ないしは拷問をどこで行うのか。地下牢でそのまま行った可能性もあったが、踏み込んだ状況を見る限り、その可能性はなさそうだ。司祭と党首が連れ出し、現在も同行していると見るのが妥当だろう。
ならばある程度時間をかけて、かつ安全に尋問を行える場所を虱潰しに探せばいい。南と西には国境線があり王国軍の警戒もきつく、そちらに向かったとは考えられない。よって向かった方向は北か東に絞られる。
海に面した北部か、山林が横たわる東部。海から先はなく、あるとしても国外へ脱出してしまえば、折角苦労して手に入れた州総督の権利や財産の全てが有耶無耶になってしまう。それをよしとはしないだろう。
東しかない。森を抜け、山を越え、もしくは山の裾野を大きく回りながら州の境を抜けるのだ。国内で国王派を転覆させようともするだろう。
「もしもし、傭兵か。生きてるか」
傭兵「おう、僧侶も回収した。掃除婦は交戦中。俺たちは州総督を追っている」
隊長だった。州総督と党首の居場所が判明次第、俺に伝えるよう予め連絡をしていたのだ。
掃除婦を始めとする州総督直属の揉め事処理屋たちが首を突っ込んだ以上、そう簡単に均衡は崩れないだろう。そして国王軍としては、なんとしても党首と州総督が逃げるのだけは阻止したいはず。
そう読んで、俺は隊長に持ちかけたのである。このWin-Winを。
傭兵「東にいるか」
隊長「あぁ、想定どおりだ。探知魔法によれば、生体反応がふたつ、東へ向かっている。幸いに移動中。いま地図を送る」
俺の脳裏に魔法によって念写された地図が送りつけられる。僅かな不快感とむず痒さを伴ったそれに、眼を細める。
二つの光点は確かに東へと向かっていた。速度はそれほど早くない。徒歩ではないが、魔術的な移動手段を用いているわけでもなさそうだ。馬車の類だろうか。
傭兵「僧侶、この方角に、部屋数の大きな建物はあるか」
僧侶「部屋数の大きな? なんでですか」
傭兵「あほか。こいつの能力が機雷化で、その起動が『何かの開放』という動作にあるなら、部屋数が多ければ多いほど敵の戦力を削げるだろうが」
追跡されるのは党首も覚悟の上だろう。それに対していくつもの罠を張ってくるはずだ。
僧侶「ん……このあたりにあるなら学校ですね。三階建ての、中規模なものが一つあります」
傭兵「よし、そこだ」
隊長「……本当にやるのか」
傭兵「当然だろうが。四千万をふいにするのは、流石に惜しい」
隊長「はぁ……わかったよ。じゃあ、ま、頑張れよ」
傭兵「おう」
それだけを告げて通信は途切れる。
僧侶「なら、早速向かいましょうか、傭兵さん」
傭兵「……」
僧侶「……傭兵、さん?」
俺は自分の口角が上がるのを堪えられなかった。
※ ※ ※
僧侶「傭兵さん、どうか……しましたか?」
傭兵「……」
僧侶「なんか、怖い顔してます、けど?」
あぁ、多分それは、
傭兵「気のせい」
じゃない。
傭兵「だろ」
僧侶「……そうですか」
傭兵「お前は、どうするつもりだ」
俺の曖昧な問いに、けれど僧侶は困ったように笑って返してくる。
僧侶「正直、わたしも困ってます。どうしたものか……どうしたら、いいのか」
傭兵「殺すんじゃないのか?」
僧侶「そのつもりでした。し、そのつもりです。ただ……わたしがそうしたら、傭兵さんは止めるでしょう?」
傭兵「当然だ」
考えるまでもない。
僧侶「ならきっと、わたしには州総督は、殺せないんだと思います」
傭兵「それでいいのか」
僧侶「そう言うなら護衛しないでくださいよ」
僧侶は笑った。年齢相応の笑いに見えた。
だから、少しだけ心が痛んだのは、内緒だ。
罪悪感からじゃあない。俺は金が好きだ。少なくともこんなちんちくりんよりはずっと。
そうじゃなくて、こいつのこれまでを思うと、どうしたって不憫には思うさ。
言い訳染みたことを言い聞かせ、隠すかのように俺は鼻で笑ってやった。
傭兵「そうは行くかよ。党首は殺す。だが州総督は殺させてやらん」
僧侶「わかってますよ。わたし一人じゃ、どうせ党首を殺すことだってできやしないんですから」
実力と言うよりは、戦い方の相性という面が大きいのだろう。
僧侶が武器に拳銃を使っている限り、どうしても動作に「銃弾を放つ」という部分が含まれる。党首相手には拳銃は役に立ちやしない。引き金を引いた瞬間、自分の右手を吹き飛ばすだけだ。
ただ、それでも……。
僧侶「それでも、その場にいたらどうなるか、わかったもんじゃありませんが」
実質的な親の仇を目の前にして、平静を保っていられるほど、こいつは冷めた女ではない。土壇場で引き金に力を篭める可能性は、決して低くないだろう。
それを俺の目の前で言ってしまうあたり、馬鹿というか素直と言うか、こいつの性格がよくわかる。
傭兵「安心しろ。そんときゃ俺が、お前を殺してでも止める」
僧侶「ま、そうなるでしょうね」
言う僧侶の口ぶりには悲観は篭っていない。吹っ切れたとは違うだろうが、腹は括ったようだ。
僧侶「わたしはもう傭兵さんの雇い主でもありませんし。寧ろ、わたしが傭兵さんを一方的に頼っているだけですし。文句を言うのは筋違いですね」
傭兵「……お前、そんな殊勝だったか?」
僧侶「な! 失礼な! いままでわたしのどこを見ていたんですか!」
このちんちくりんに特筆すべき見る箇所などないような気もするが。
僧侶「まったく。数ヶ月経っても、全然変わってないんですね」
傭兵「数ヶ月で人間が変わるかよ。俺がお前みたいな金嫌いになってたら、それはそれで嫌だろうが」
そんな俺、想像したくもないが。恐ろしい。
僧侶「完璧じゃないですか」
傭兵「完璧?」
やはり変な女だ。
僧侶はひとつわざとらしい咳をして、「口が滑りました」と視線を逸らす。
僧侶「ま、まぁとにかく、わたしは傭兵さんのサポートに回りますよ。独断専行はしません。誓います」
傭兵「体力も魔力もないその状態でか」
僧侶「うっ……」
図星を疲れた顔を露骨にした。そもそも、俺と戦っていたときからふらふらしていただろうが。それを俺が見逃すと思っていたのか。
体力の回復は安静にしていればある程度までの回復はすぐだが、魔力はそうはいかない。そんなのはわかりきったことのはずなのに。
僧侶「……まぁ、でも、なんとかしますよ」
なんとかなるものでもあるまい。魔法に詳しくない俺だって、それくらいはわかっている。
俺は懐から小瓶を取り出し、放り投げようとして思いとどまる。流石に万一があっては洒落にもならない。
傭兵「手ェ出せ」
僧侶の差し出された右手首を掴んで固定。確かにきっちりと小瓶を渡す。
中でちゃぽんと液体が揺れた。
僧侶「なんですか、これ」
傭兵「エルフの飲み薬だ。大事に飲めよ」
僧侶「えるっ!?」
驚きのあまり取り落としそうになったものだから、俺も一気に肝を冷やす。
すんでのところで小瓶は僧侶がキャッチしたものの、こいつ、まさかわざとやってるんじゃねぇだろうなぁ。
僧侶「超貴重品じゃないですか! わたし初めて見ましたよ!」
だろうな。魔法を殆ど使わないことを抜きにしたって、俺だって初めて見たのだ。
魔力を完全に回復してくれる、脅威の秘薬がこのエルフの飲み薬である。これ一つ売れば五人家族が一年暮らしていけるとか、井戸で薄めれば儀仗兵一個師団を補えるとか、手に入れるために十年交渉を続けた商人がいるとか、逸話は様々ある。
僧侶は今度こそそれを取り落とさないように、けれど興味津々と言った顔つきで、ためつすがめつ見回している。
僧侶「こんな貴重なもの、どうしたんですか……?」
不安げにこちらを見てくる。
傭兵「安心しろ、違法な手段で手に入れたもんじゃねぇ」
僧侶「じゃあ、どうやって」
傭兵「エルフの遺品だ」
言うべきか言うまいか迷っていたが、話をさらりと流せなかった以上、最早言うしかあるまい。
僧侶「あ……」
傭兵「あいつも曲がりなりにもエルフだったからな。秘薬の一つや二つは持ってたってわけだ」
これをもらったのはあいつの弔いの際だ。クランの長で、あいつの育ての親から託された。「今度こそ魔王を倒してくれ」と言われて。
今度こそ。俺にとっては耳に痛い言葉だ。トラウマと言い換えてもいい。
しかし、魔王軍との最前線に立って戦っているエルフ族の言葉は必死で、無視できるものではなさそうだった。
まぁ、そんな話は今はいいのだが。
僧侶にこちらの事情を慮られても、それはそれで厄介なことになる。こいつは誰にだって同情的だから。
僧侶「わたしなんかが飲んでもいいのでしょうか……」
傭兵「どうせ俺は飲まないしな。それに、これ以上飲むべきタイミングが、早々巡ってこられても困る」
僧侶「それは、そうですけど」
数秒小瓶を見つめていたが、意を決して僧侶は蓋を開け、中身の液体を一気に煽った。量としてはたいしたものではない。小柄な僧侶でも一息だ。
幼い顔が渋く歪んだ。口には出さないが、どうやらそれなりに不味いらしい。
僧侶はぎゅっと目を瞑っていたが、やがて「あ」と短く声を上げた。
傭兵「どうだ」
僧侶「うわ、凄いですよ、これ。眉唾なんかじゃない……」
外から見ているぶんにはまったく変化が見られないのだが、当人がそういうのだから、恐らく内部的にはとても複雑な効果が駆け巡っているのだろう。
傭兵「なんとかなりそうか」
僧侶「なんとかしてみせます」
根性論が好きな僧侶サマだった。
僧侶「さ! 早く行きましょう! 党首に逃げられてしまいます!」
元気も溌剌と言う風に僧侶が東を指差した。俺は伸びをしながら「おう」と応じるが、その実まだ出発するつもりはなかった。
あと二分……いや、一分あれば、どうだ。
僧侶「傭兵さん? どうしましたか」
傭兵「……お前には一つ、謝っておかなくちゃいけないことがある」
僧侶「え」
謝る義理なんて本来はないのだけれど。
それでも、俺はこいつに負い目を感じるのは嫌だったから。
傭兵「俺が勇者としての任を帯びていたってのは、お前は知っているんだったな」
僧侶「あ、え? いや、大天狗と戦ったって、そのときの人伝、ですけど」
傭兵「それは事実でな。道中で会った勇者が三代目なら、俺は言うなりゃゼロ代目……お試し版さ」
傭兵「極秘の任務だ。たった一人で魔王倒して来いって、馬鹿みてぇなこと押し付けられて……当時の俺は今と違って正義感に燃えててな。酒もやらない、金にがめつくもない、好青年だったんだが」
傭兵「なまじ他のやつより強かったから、義憤に駆られたわけだ。俺が魔王を倒さないといけない。そんな責任感も、あったしな」
僧侶「……それが、謝罪と、どう関係が?」
傭兵「俺はよぉ、結局勝てやしなかった。っつーか、恥ずかしい話なんだが、魔王の姿すら見てねぇ。大天狗に半殺しにされて、そこで無様に逃げ帰ってきた」
傭兵「魔王城の周囲は強敵ばっかりでな、満身創痍の状態じゃあ立ち向かえるはずもない。逃げに逃げたよ。生きてたのが今でも不思議に思えるくらいだ」
傭兵「結局人間は魔物にゃ勝てないんだよ。違うな。魔物には勝てても魔族には勝てない。もし人間が魔族に勝つ方法があるのだとしたら、それは勇者の存在によってではなく、大したことのない一般人が力を合わせて成し遂げるしかない」
そういう意味では、結局俺もお前と同じなのかもしれないな、と思った。
傭兵「俺の任務は終わってない」
傭兵「王国が忘れても。送り出した人たちが忘れても」
傭兵「エルフも神父も死んじまったが――いや、死んじまったからこそ、残された俺がその責務を全うしなきゃならん」
僧侶「しん、ぷ……?」
あぁ、そういえばこいつには、そのことを伝えていなかったのだったっけか――こいつの親父との旅の思い出でも、いつか語ってやるべきなのかもしれない。
全てが終わったら。
どれだけ僧侶の親父が子煩悩だったか、聞かせてやりたい。どんな顔をするだろうか。
しかし、今はその時間はない。俺の見立てではあと十数秒。
傭兵「そのためには、俺は何だってする。してきた。合法非合法問わず金を掻き集め、時には人を殺し、奪ってきた」
傭兵「ここでも変わらん」
傭兵「だから俺はお前に謝らなくちゃならん」
十三秒が経過。
俺たちの遥か後方で、連鎖に次ぐ連鎖、大爆発が、地平線沿いに起こる。
僧侶「――」
僧侶は絶句している。無理もない。あの爆発の方向にあるのは俺たちが今から向かおうとしていた校舎で、俺たちの最終決戦の場所となるはずだった地点で。
いや、最終決戦の場所にこれからしにいくのだけれど。
傭兵「露払いは済んだ。行くぞ」
僧侶「ど、ういう、なにが――!」
傭兵「さっきの隊長との通信な、あれ盗聴されてたんだわ」
僧侶「……ぅえ?」
素っ頓狂な声を僧侶はあげた。
隊長は職務に忠実だ。義理堅く、まじめで、融通が利かない。俺が探知で得た情報を流すように要求したとき、やつは恐らく、かなり迷っていたことだろう。本来は敵方である俺に汲みしてよいものかと。
やつには兵士の性根が染み付いている。兵士は個の利益ではなく全体の利益を考えるものだ。だから、断るとしても自らの中で握り潰したりはしない。
絶対に上層部へ通す。そう踏んだ。
上層部は、ならどうするか。当然俺や僧侶を利用すると考えるはずだ。王国視点、俺は有用な戦力であり、そして僧侶と党首は第一級の犯罪者。囚われの身の州総督は眼の上の瘤。始末できる限りを始末できるなら。
そう思うはず。
思わずにはいられない。
王国軍は州総督の能力を知らない。うまく誘導してやれば、必ず引っかかる。
恐らく忘我から蘇った僧侶はこう俺に尋ねるだろう。そんなことをする必要があったのですか、と。
あったのだ。
こうしなければ州総督を守れない。
僧侶だって、出されている指示としては殺害ではなく確保だろうが、それもどうなるかわからない以上、決して王国軍と鉢合わせるわけには行かなかった。
だからこその誘導。
だからこその爆殺。
州総督も僧侶も、俺にとってはここで失うわけには行かない存在だから。
遠隔地での爆発は依然と、断続的に、続いている。
傭兵「行くぞ。これだけ爆発が起きていれば、前方の安全は確保されたも同然だ」
僧侶「……はは。あなたって本当、人でなしですね」
傭兵「……なんで泣く」
僧侶「……泣いてる? 泣いてます? 泣いてますかわたし」
眼から溢れ出た涙が、たったいま零れ落ち、頬を伝って顎まで流れた。
僧侶は自らの頬に、眼に触れ、そこでようやく泣いていることを理解したらしい。「おかしいな。おかしいや」と言いながら袖で眼を擦っている。
それでも涙は止まらない。次から次へと溢れてくる。
僧侶「……なんで?」
僧侶自身にわからないことが俺にわかるはずもなかった。
※ ※ ※
血のあとは見えない。何人も、何十人も機雷化した扉にぶっ飛ばされ打ち付けられ四肢があらぬ方向へ曲がり捥げ息絶えたはずなのに、それ以上に全てが爆散していてそれどころではないのだった。
三階建ての校舎は平屋と化していた。二階以上は爆破の余波で吹き飛び消えた。
随分と陽が射すようになった校舎で、なんとか生き残った――生き残ってしまった八人の兵士と、党首が向かい合っている。
党首「おやおや、しぶといですね」
兵士「……許さん」
真っ直ぐな殺意を八人は放っていた。党首はそれを理解しているだろうに、まるでそよ風の前の柳のように受け流している。
自らのうちから湧き上がってくる怒りに耐え切れなくなったのだろう。戦闘の兵士が剣を抜き、剣戟を「放った」。
爆裂。
剣を握った右手と、近接していた腹部が根こそぎ抉られ、刃は党首へは届かない。
党首「機会仕掛けの威力はどうです?」
反射的に残りの七人も飛び掛った。前列三名の手元が爆破されるが、さすがに三人もそれを予測はしていたようで、機敏な反応で爆発に巻き込まれるよりも早く剣を党首に向けて投擲する。
党首は感心したように笑みを浮かべた。後退しながら飛来する剣を指差すと、光が迸って爆発呪文が行使される。
砕けた破片や黒煙を突っ切って、徒手空拳で前衛三名は党首に躍りかかった。屈みこんだその一瞬の隙間を狙って、三人の頭上を越え後衛の剣戟が援護する。
僅かに切っ先は届かない。しかし、その僅かなぶんを埋めるかのように、前衛三人は更に一歩踏み込んだ。
党首が指を差し向け爆発が数度。そのどれもが致命傷には至らず、爆炎の中を掻い潜って、ついに三人の拳が党首を捉えた。
一人は胸倉を掴み。
一人は顔面に拳を叩き込み。
一人は腹へ膝をぶち込んで。
大きく党首の体が跳ね上げられる。だが胸倉を掴まれているため距離は開かない。そこへ残った六人が群がった。
党首「あぁ、気をつけたほうがいいですよ」
勢いによってスーツのボタンが弾け跳んだ。
党首「縫い付けが甘いので」
スーツの前が大きく「開かれる」。
胸襟から噴出した爆炎が前方の二人を巻き込んで吹き飛ばす。反動で党首も勢いよく吹き飛び地面を転がっていくが、寧ろ今は距離をとれたアドバンテージのほうが多いだろう。
残りは四人。怒気を十分に孕ませた顔と、力を存分に篭めた拳を携えて、けれど決して急くことはなく、党首を追撃する体勢に入る。
対する党首は大きく咳き込んで血を吐いた。殴打されたためか、自らの爆裂を受けたためかは判断がつかない。それに伴って大きく足がふらつく。
無論そこを見逃すような兵士たちではなかった。即座に瓦礫を蹴り上げて加速。
党首「流石歴戦の兵士たち、怠けてばかりいる魔法使いじゃ、格闘戦では勝ち目はないですね」
言いつつも余裕綽々の笑みを見せ、党首は手当たり次第のものを指差した。そのたびに爆発が起きて煙幕が張られていく。
爆発そのものは小規模だったが、それによって吹き飛ばされた瓦礫や鉄筋などが高速で弾き飛ばされ、兵士たちの皮膚を切り裂く。致命傷とならないそれらに怯む兵士たちではないが、視界の悪さを懸念して更なる加速。
黒煙から飛び出した彼らの視界に目一杯映る党首の姿。
反射的に彼らは剣を抜こうとして、つい先ほどの三人の惨状が咄嗟に脳裏を過ぎり、すんでのところで剣戟を「放つ」ことを推しとどめた。しかしそれは同時に躊躇でもある。生まれたコンマ数秒の遅延は、この交錯においては見逃せるものではない。
必然拳での応酬となるものの爆発で大きく体の芯をずらされる。当たらない。当たっていても掠った程度だ。難なく党首は兵士たちの隙間を抜けていく。
あまりにもリスキーな動きだった。兵士たちも不穏な何かを感じ取り、一瞬でアイコンタクトを済ませる。
だが遅い。
既に二者の距離は「開いて」いる。
党首の軌跡をなぞるかのように、一筋の煌きが空間を流れた。
爆裂が四人を巻き込んだのはその数瞬後。
当然のように巻き込まれて党首もまた吹き飛んだが、傷は大きく頬に擦過傷が見える程度。
……ふむ。
と、物陰から隠れてその光景を見ていた俺は、ようやく重たい腰を上げた。
話にしか聞いていなかった「機会仕掛け」……その能力の深淵が、ある程度ながら掴めた気がする。
僧侶「……」
傍らで全く不機嫌になっている少女がひとり。理由はわかっている。あの八人の兵士を結果的に見殺しに、捨石に、生贄にしてしまったことに納得がいっていないのだ。甘ちゃんめ。
だが、まぁ、あいつはそれでいいのだと思う俺も確かにいる。
傭兵とはそもそも誰にもできない仕事か、誰もがやりたくない仕事を引き受ける職業であって、つまり汚れ役というわけで。
子供が住みやすい世の中を作るのも大人の役目であるし。
傭兵「……」
誰に言い訳しているのだかわからなくなって、俺は苛立ち紛れに舌を打った。右手には勇者から奪い取った破邪の剣を持ち、左手は不測の事態に対応できるよう手甲のみの自由な状態を保つ。
破邪の剣は鞘から既に抜いてある。「機会仕掛け」になるべく機会を与えぬよう、何かを「開放する」に繋がる懸念のある動作は、全て事前に済ませておいた。
無論抜刀から斬戟という一連が「剣戟を放つ」と解釈され機雷化されるのはわかっている。僧侶の拳銃など機雷化してくださいと言っているようなものだ。自然と攻撃は徒手格闘が主体とならざるを得ないだろう。
確認した限りでは投手の身体能力は一般人のそれと大差ない。まさか兵士八人を相手にして気を抜いていられるほどの達人とも思えない。
本当に手練と相対したときは空気で伝わってくるものだ。筋肉が衣服を押し上げ、武や戦いに明け暮れた年月がまさしく重みとなってこちらにのしかかってくるのである。
幻影を二つ展開。僧侶に目配せをすると、あちらも身体能力向上魔法の術式展開を既に終えたようだ。悲痛な表情はまだ残っているが、たやすく折れそうにない顔をしている。
俺たちは駆け出した。
途端に視界が赤く染まった。
衝撃で足が地面から浮く。灼熱感が全身を襲い、そのままの勢いで地面へと叩き付けられる。なんとか受身を取って衝撃を逃がすが、それにも限界があった。
骨が軋み、肺腑が攪拌。
全身を襲う言いようのない不快感。
僧侶も傍らに倒れていた。守備力倍加で被害はもしかしたら俺よりも少ないかもしれない。それでも衝撃から即座に立ち上がるといったことはできなさそうだ。
二人とも損傷は軽微。僧侶は守備力倍加があるし、俺は反射神経のできがそもそも違う。機雷の爆裂を知覚してからの緊急回避が間に合うのだ。それ自体は先ほどの兵士たちもやっていたことではあるが。
……これでまた一つ確信を得たな。
爆発したのは地面。恐らく学校の境界線を「破って」侵入してきたと解釈されたのだろう。その事実自体は予想外ではある。何故なら、境界線は本来「破る」ものではないからだ。
敵勢力が自らの領土に侵攻してきて始めて境界線は「破」られる。この場合、学校の所有者が党首でなければいけないはずなのだが……まぁ、相手はこの国を動かしていた人間だ。都合をつけることは容易いだろう。
党首「おや、まだ誰かいらっしゃいましたか」
知っていてわざと言っているのか、はたまた違うのか。柔和な微笑を絶やさずに党首がこちらへと振り向く。
視線が合った。
反射的に構える。僧侶もまた。
最大の怨敵に違いないのだ。やつを倒せば全てが終わる。その「全て」とはとりあえずの全てであり、俺にとっても僧侶にとっても徹頭徹尾の全てでこそなかったが、少なくとも全身全霊を懸けるに値する敵。
命を懸けることはできないまでも。
党首の能力は基本的に受動だ。こちらが行動を起こし、その行動が機雷の爆発条件に合致していた場合に初めて攻撃が起こる。党首自身が積極的にしてくる攻撃は位置指定爆破であるが、この距離なら回避もたやすい。
俺たちの姿を捉えた党首の顔が固まる。
党首「……ほう」
固まっているということは微笑が崩れていないと言うことだ。俺はそれが酷く奇妙に感じたし、手繰り寄せて党首の苛立ちを想像した。
党首「僧侶さんに、……傭兵さん、ですか」
傭兵「俺なんかをご存知たぁ光栄だね」
党首「勿論存じておりますよ。あなたは有名ですから」
悪評渦巻くその中心で息をしているもんでな。
それとも州総督が発した指名手配のことを指しているのだろうか。
党首「会いたくない人間と、会ってみたかった人間が一緒に来るだなんて、運命とは数奇なものですね」
僧侶「わたしはあなたに会いたかったですけどね。あなたを止めなければ、枕を高くして眠れそうにありませんから」
穏やかに言う僧侶の背後で殺意が積乱雲のように膨らんでいくのがわかった。ぼこぼこと音を立てながら重力に逆らい積載を重ねていく。
党首「僕は会いたくありませんでしたよ。あなたのような甘ちゃんにはね」
愚か者め。そこがいいんだろうが。
党首「前々からムカついていたんですよ。僕が内心を押し殺して笑顔を保つのにどれだけ腐心していたと思っているんですか?」
党首「口を開けば、やれ協働だ、やれ皆で力を合わせようだ、やれ金なんて不必要だ、そういった言葉にはほとほと反吐が出る。どこまでこの世界をぬるく見てるのか、頭の中は脳みその変わりにお花畑が詰まってるんじゃないですか?」
僧侶「……よぉく、わかりました。あなたはわたしをそう言う風に見ていたのですね」
党首「だからそう言っているではないですか。僕は、僧侶さん、傭兵さんの隣にいるのがどうして僕ではなくあなたなのか、はっきり言って理解できないんですよ」
傭兵「……てめぇ、ゲイか?」
党首「ははは、まさか。衆道になど興味はありませんよ。ただ、傭兵さん、あなたの生き様と強さにはとても、とても、興味があります」
党首「資本主義の権化。守銭奴。金の亡者。いい響きだ。僕もそんな風になりたいと羨み、憧れていたのですよ。かねてからね」
党首「やはりこの世に生まれた以上、金を稼ぎ、掻き集め、だれよりも高みに! 裕福に! なろうと思うじゃあないですか! ならなければならないじゃあないですか!」
傭兵「お前は僧侶を恐れてたんだな」
考えがするりと口から出てしまっていた。
俺の言葉を聴いて、党首は今度こそ表情から全てが抜け落ちる。図星を疲れた人間にありがちな、能面。
党首「……何を根拠に」
傭兵「疑問には思っていたんだ。どうしてお前は僧侶を殺そうとしてたのか。仮にも幹部だ。そして共産主義のアイドルだ。簡単に殺すのは、惜しい。しかも完全にこいつはお前のことを信じきっていた。裏切る可能性は万に一つもなかったはずなのに」
傭兵「お前は、きっと、恐れていた。こいつに予想外すぎるほどの人徳があったことに、まさかここまでうまく共産主義が立ち上げられることに、そして僧侶を中心に民衆がまとまりつつあることに」
傭兵「そりゃ殺すしかないだろうな。僧侶を殺さないと全てがご破算だ。共産革命が成立したら、これまで築いてきたもの、これから手に入るものが意味なくなっちまうもんなぁ!」
党首は苦し紛れに微笑を作り直したが、その顔は僅かに引き攣っている。
党首「僕はね、お金が好きなんですよ。愛していると言ってもいい。金、金、金! 所詮この世は金じゃあありませんか!」
党首「金があれば何も困ることはない! 将来への不安は吹き飛び、豊かな現在を謳歌できる! 夜毎寝場所を探す必要も、ゴミを漁って腐った食べ物を無理やり口に突っ込む必要も、病気が即ち死である恐怖に怯えなくてもいい!」
党首「――僕はもうあの生活に戻るなんてごめんなんです」
党首「そして、更なる豪奢な生活をしたい」
党首「欲望には果てがありませんから」
党首「おいしい食事、肌触りのいい衣服、広く天井の高い家。汗水たらしてあくせく働くなんてのも真っ平ごめんですし、他人からの尊敬も集めたい。誰だってそうでしょう? あなただってそうでしょう?」
党首「傭兵さん、僕と一緒に来ませんか? 州総督の財産を奪い、僕たちがこの国の頂点に君臨するのです。そして贅の限りを尽くそうじゃありませんか。僕の機雷化とあなたの戦闘技術があれば決して不可能じゃありません」
そう言って党首は遠くから両手を差し出してきた。
党首「さぁ! 僧侶さんを切り殺して、僕のもとへ!」
剣呑なことを口走られているのに、僧侶はびくりともしなかった。ただ冷たい視線で――いや、中途半端な視線で、つまらなさそうに党首を見ている。
……。
はぁ。
俺はため息をついた。
なんだこいつは。あまりにもステレオタイプな金銭感覚。まるで群集。その他大勢。背景の書割。
威厳のかけらもありゃしない。
あぁ、だがしかし、俺はこいつを批判できないのだ。こいつはありきたりであるが故に、広く大衆に蔓延した意識の代表格でもある。こいつを批判することはそのまま大衆批判に繋がってしまう。それはまずい。俺はそこまで人間ができちゃいない。
そりゃそうだ。党首の言っていることに間違いはない。威厳のかけらもない代わりに、矛盾のかけらもない。そこを突き崩すことは用意ではなく、寧ろ不可能と言っていいだろう。
誰だって金が好きだ。
誰だって将来の不安から解放されたい。
誰だって現在の苦難から解放されたい。
誰だってうまい飯は食べたいし誰だって広い家のほうがいいし誰だって暖かい服のほうがいいし誰だって働かずに生きていきたいし誰だって尊敬されたい。
誰だってそうだ。
俺だってそうだ。
資本主義を否定している僧侶だってそうだろう。
金は大事だ。
金はとても大事だ。
党首はそんな当たり前の行動理念に従っているに過ぎない。
だから俺の敵は党首であって党首ではないのだ。
党首は敵であるが、その思想ではない。
この社会において「金なんて大嫌いだ!」と叫ぶほうが圧倒的にマイノリティだから。
「金が大好きだ!」と叫ぶ人間もマイノリティではあると思うが。
俺は普通に叫べるけれど。
しかしそれでも俺は自然と剣を握る右手に力が篭ってしまうのだった。党首の思想は平凡で普遍的だ。敵ではない。敵ではないのだが――ぬるい。ぬるすぎて腹が立つ。
そんなに金が大好きだと叫べるのに、それ以外の部分があまりにも凡庸すぎて。
僧侶「……」
僧侶がこちらを見ていた。一言いいですか? と瞳で語りかけてきている。俺は首肯し先を促した。
僧侶「この人に使われるお金が、可哀想です」
嘗て、あまりにも愚かな、愚か過ぎる町民たちへ向けた侮蔑の言葉を、僧侶はまたも口にした。
自然と口角が上がってしまう。
傭兵「――あぁ、そうだな」
俺は剣を突き出した。真っ直ぐ、地面と水平に。その切っ先の向こうには馬鹿みたいに立ち尽くした党首の姿がある。
背中合わせになるように僧侶も構えた。半身になって、サウスポー。右拳が今にも党首の眉間を捉えようとうずうずしているのがわかる。
触れ合った背中がこそばゆく、暖かい。衣服を通していても薄皮一枚の隔たりもないように思えた。
金が大好き?
自分のためにしか金を使えないと言うのに?
笑わせる。
守銭奴としては下の下。そんなやつと話すことなど何もないし、語らうなぞ寧ろ害悪ですらある。
傭兵「その程度の金銭感覚で俺に同意を求めるんじゃねぇ」
俺たちは跳んだ。
※ ※ ※
全く気に食わない。あぁ、気に食わないとも。
俺と党首を同列に語られるのが、これほど気に食わないとは、俺自身びっくりだ!
一塊の砲弾となって突進する俺と僧侶に対して党首が指をさした。それを合図に分裂、地面が弾け跳んだのを見届けてから前へと視線を戻す。
俺が党首の左、僧侶が右から向かっていく。対する党首は後退しながら両手で俺たちを指差し、爆破攻撃を続けてきた。
地面や木、瓦礫が爆破され、熱風や破片が頻りに襲ってくる。致命傷に至るだけの破壊力はない。それが「まだ」ないのか、党首の深奥を見切れていない俺としては、慢心してはいれなかった。
とりあえずこの程度の爆破ならば俺は対応できるし、僧侶だって守備力倍加で無理やり防ぎきれているようだ。
党首「……ちっ」
舌打ちが聞こえた。彼我の距離はそれほどまで縮まっている。
爆破の勢いに負けて僧侶が僅かにたたらを踏んだ。交差し防御体勢をとった両腕の隙間から、憎憎しげに党首を睨んでいる。
足を止めては爆破の餌食。その認識はこの場にいる誰もが持っていた。党首は右手の二指を僧侶に向け、僧侶は党首の腕が動いた時点で既に横っ飛びの姿勢をとっている。そして俺は意識の死角をついて一気にそこへと飛び込んだ。
党首の左脇腹の影へと潜り込む。じり、とブーツの底が砂利を踏みしめる音と共に、捻りを加えた剣戟を「放――
光が俺の右手に生まれた。
本能から漏れた警報が俺に剣から手を離させる。同時に地面を強く、強く蹴り上げ、俺は可及的速やかに爆裂圏内からの逃走を試み、
距離が、
傭兵「っ、く!」
「開く」!
追撃の爆裂が俺の体を打った。即死の距離からは離れたが、脹脛を大きくやられた。ひん曲がった鉄板入りの脛当てが服から大きく露出し、赤熱している。
転がった勢いのままに立ち上がり、片足でそれを蹴り飛ばす。
激痛。それを無理やり捻じ伏せた。痛みを感じているうちは大丈夫。そのうち痛みさえも掻き消えていくことを俺は知っているのだから、寧ろ安心の材料にすらなる。
熱を帯びているのは決して脛当てだけではない。赤熱こそしないまでも脳髄の奥から四肢の末端までが熱い。
中心から湧き出してくる活力と、外から突き刺すように侵食してくる灼熱。今は背筋に走る悪寒すら熱い。頬を伝う冷や汗すら滾っている。吐息で陽炎が生まれ、水分の蒸発する音が耳へと届く。
爆破自体は回避できるが、それはぎりぎりなんとかという紙一重、まともに喰らえば五体満足の保証はない、か。
視界の端では二指爆破を潜り抜けた僧侶が党首と近接格闘を繰り広げていた。腕力倍化された僧侶の拳は鉄筋を捻じ曲げ瓦礫を砕く。しかし戦闘の素養がまるでない。
軌道のばればれな大振りなど俺でなくとも回避は容易である。回転力こそ確かにあるが、党首は冷静に一発を見極め、要所要所で爆破を挟んできっちり対処している。僧侶は爆破を守備力増加と気合で踏ん張って耐えていた。
結果的に距離こそ開かないでいるため機雷は起動していないようだが、隙あらば党首は「距離」を機雷化してくる。改めて「概念の機雷化」という概念が埒外なものだと、俺は賞賛の笑みすら零す。
傭兵「だが死ね」
傭兵「だから死ね」
人権など知るか。お前は俺にとっての四千万。
傭兵「そっ首貰うぞ、金の亡者め」
一指爆破で僧侶を牽制し、突っ込む俺に対して三指が向く。指の本数と破壊力は比例する。一本二本ならまだ回避も防御もおっつくだろうが、三本となると、どうだ?
時間的猶予のない中で弾き出した結論は直進だった。距離の機雷化を懸念していたと言うのもある。党首と積極的に距離を開くのは悪手だ。
僧侶「やぁああああっ!」
獣の咆哮を挙げ、獣の瞳で僧侶が党首を打った。スウェーで間一髪で回避しながら、けれど三指は俺からぶれていない。
僧侶「脚力倍加ッ!」
一気に加速。三指の斜線上へと僧侶が移動し、俺も党首も舌打ちをした。胸元へ手が伸ばされるのに対応して党首は狙いをずらし、僧侶の足元を爆破する。瞬間的に空気が膨張し、高くまで爆炎の上がる、巨大な爆発だ。
僧侶「きゃああっ!」
悲鳴とともに僧侶の華奢な体が舞い上がる。
傭兵「防御姿勢とれ!」
追撃が、と口に出そうとした時点で既に党首は移動を始めていた。こちらに二指を向けつつ素早く後退。爆破が二回、足元と校舎の残骸を大きく吹き飛ばし、一瞬俺の速度を鈍らせる。
そして機雷は爆裂する。僧侶と党首の間の空間が連鎖的に爆発を起こした。
鼓膜を震わせる爆音が響く。視界を奪う白い閃光と、息もできない熱を伴う火炎が僧侶を飲み込み、彼女が吹き飛ぶ速度より早く新たな連鎖が。
三回の爆裂を受けて僧侶はようやく地面との接触を果たす。ただし肩口から高速で、その勢いのままに地面を跳ねるという形であったが。
ぴくりとも動かない彼女だったが、俺は無理やりそれから視線を剥がし、二指爆破をさらに数度回避して一気に党首との距離を詰める。
十数回に及ぶ敵の攻撃を通して、爆破、および機雷化のおおよそは掴めて来た。その理解は勿論全てが俺にとって都合のいい現実ではなかったし、寧ろ序列六位の強大さを目の当たりにしている最中ですらあった。
それでも勝つのは俺なのだ。
爆破が俺の足元を焦がし、吹き飛んだ礫が肌をいくら傷つけていっても、突進が止まることはない。
既に党首は射程圏内。バックステップで距離を「開こう」としてくるが、やつの後退よりもこちらの前進のほうが圧倒的に早い。
三指がこちらに向けられる。けれど俺の心は微動だにしない。腕が最短距離で党首の胸元へと往く。
党首「はは! 爆死が怖くないってのかい!」
党首はそう嘯く。が、僅かに眉の端が下がっている。動揺している人間にありがちな表情だった。
傭兵「ありもしない可能性を恐れる必要はねぇな」
伸ばした手は弾かれる。それでも依然俺の有利は変わらない。党首の体捌きは魔法使いとしては卓越しているが、戦場における戦士のそれでは決してなかった。オーソドックスで凡庸。フェイントでさえも教科書どおり。
二指で足元が爆破された。瞬間的に爆ぜた熱量が俺の腹部に直撃する。それすら俺は踏み越えて、黒い煙のカーテンの中、ついに党首の胸倉を捕らえることに成功する。
上等なスーツの襟が「開かれた」。
傭兵「読み筋だ」
閃光が迸るよりも早く横っ飛び。たった今俺が立っていた地点を爆風が根こそぎもぎ取っていく。
距離は「開いた」――つまり、だが、しかし、それすらも。
傭兵「読み筋ィッ!」
爆風に後押しされる感すらあって、通常の倍のストライドで、大きく駆けた。
勢いのあまりブーツの底が摩擦熱で溶ける。ゴム特有の鼻を衝くにおい。顔を顰める労力すら惜しくて、ただただ拳に力を篭め、遠心力を伴った一撃を「放つ」。
大きく弾かれる右腕。皮膚が焼け爛れ、血すら蒸発し、肉が炙られ、骨が軋む。爆発を読みきってもこの威力。力加減を調節し間違えたが、構わない。
既に攻撃は終わっている。
党首「……あぁ、いやぁ、これはこれは……」
黒煙が晴れていく。
党首「何年ぶりだろうね。本当に、何年ぶりだろう」
棒立ちの党首は、首筋から滴る一筋の血を親指で掬い取り、舐めた。
党首「最後に血を流したのはいつだったかな」
傭兵「外したか」
黒煙の中、手探りで首を狙ってナイフを投げたのだが、流石にそううまくはいかないようだった。
だが収穫はあった。「確かに」。俺は今、強くそう思っている。いくつかの確信を得ている。
まず一つ。党首は罠を張る。それがやつの戦い方だ。自らが手を下すのではなく、自らが作った落とし穴に敵が落ちることを待つ。やつがやるのは落とし穴を作ることと、敵をそこまで――底まで追い詰めること。
逆説的にそれはやつは自らの手によっては人を殺せないことを意味している。無論やつとてそんな回りくどいことをせずとも、手当たり次第に瞬きのみで爆殺の限りを尽くせればいいと思っているに違いないが、世の中そううまくはいかない。
指で位置を指し示しての爆破は直接攻撃できないのだ。
質量の問題なのか、材質の問題なのか、もっと根源的なものなのかはわからない。だが、党首の爆破は万能ではない。威力こそ爆殺に十分ではあるけれど、狙えるのは専ら足元や瓦礫。
恐らくバランスなのだろう。割り振り、と言い換えてもいい。概念すら機雷化できるもう一つの能力とあわせて考えれば、自ずと納得もできる。位置指定爆破は所詮副砲にすぎないのだ。
そして、俺がわかったことを党首もわかった。
別段難しいことではない。嘗て党首と戦った腕利きの中にも、その答えにたどり着いたものは何人もいるだろう。そもそも能力の完全秘匿自体が絵空事だ。実力者は、能力の正体が割れても役に立つからこその実力者である。
余裕然としているのは余裕があるから。このような状況から敵を爆殺したことなど数え切れないほどあるのだろう。
序列六位は伊達じゃあない。
党首「……」
傭兵「……」
睨み合う。先に動いたほうが負け――そんなものは御伽噺だ。急がば回れには同意するときもあるけれど、先手必勝は大概どんな場面にも当てはまる有効手段。
それでも動けないのは互いの手の内と胸の内を無言のままでも探り合っているからに他ならない。
党首としては自ら攻めるよりも俺の攻撃をカウンターで爆殺するほうが有効で、位置指定爆破も使い所を考えなければ単なる煙幕にしかならない。
俺としても、さきほどから機雷化への有効な対抗策を思考してはいるのだが、どれもうまくない。並みの対抗策など党首に看破され利用されるだけだ。それだけのリスクを払うのだから、一撃必殺できる策を弾き出さなければ大損をこく。
だがあまり時間をかけていられない理由もまたあるのだった。俺たちの目的は党首の殺害であるが、党首は俺たちを殺す必要はない。僧侶を殺害して後顧の憂いを消したいという考えはあるかもしれないが、それよりもまずは州総督と脱出することを選ぶだろう。
時間をかければかけるほど戦況は均衡へと近づいていく。並み居る兵士たちに追いつかれては、さしもの党首といえど、逃げ切れはしない。
俺もまた四千万を失う。
互いにそれはなんとしても避けたいシナリオだった。
党首「……」
傭兵「……」
そして、僧侶。
位置指定爆破、からの機雷化による追撃を直撃したあいつは、どうなっている。どうして物音がしない。生きてるなら動け。応えろ。頼むから。
僧侶。
傭兵「――っ」
意識が引っ張られた。
まずい、と思った次の瞬間には、俺は目の端で地面に横たわる姿を確認していた。
確認してしまっていた。
時間にしてコンマ以下。僅かな雑念。誰しもが研鑽し、研ぎ澄まされた一振りの刃と化しているこの場において、それは圧倒的な不純物である。
傭兵「ミ、ス……ッ!」
視線を投手に戻したときには、俺の眼前に高速で何かが飛来していた。
回避行動をとりながらそれが単なる瓦礫であることを確認する。何の変哲もない瓦礫。しかし、拳大ほどのそれが、命を奪うに足る死神であることを俺は知っていた。
党首がこちらに指を向けている――瓦礫へと。四本の指を。
体の筋肉がぶちぶちと千切れている。急激な加速と回避行動は体に鞭を打つ動きで、だがそうしなければいけないという警鐘に素直に従っている。必ず殺すと書いて必殺であり、必ず死ぬと書いて必死。
俺の眼前にある瓦礫には、そう文字が書かれている。
ぴりりとした魔力の波長を感じた。ほぼ同時に瓦礫が一瞬発光し、その質量がまるまる爆薬となったかのような、猛烈な存在の膨張が起こる。
光と熱、そしてエネルギー。この世に普く全てから開放されたそれらは歓喜し、踊り狂いながら強か俺にぶつかってくる。
意識がぶつりぶつりと断続的に途切れ、激痛と言う糊が無理やり精神のコードを修復する。地獄だ。拷問だ。熱風で肌は焼かれ、呼吸してしまったために気管も燃えた。地面を数度跳ねたせいで肩は脱臼。陽炎が揺らめいているのか視界も不明瞭。
回避行動はぎりぎり間に合ったのだと言ってもいい。生きているのがその証左。弾かれた体は止まる気配を見せず、勢いに任せて俺は地面を滑っていく。ついでで肩も無理やりはめた。
幻影を二つ展開。本体がわかっていてもこの際文句は言えない。
三指がこちらを狙っている。反応して回避に移るがダメージは甚大で思うように体が動いちゃくれない。肌が癒着しているのか、火傷による水ぶくれのせいか、足の皮膚が引き攣っていた。
それでも脳は足に指令を送ることをやめようとはしない。全霊を篭めて蹴り上げろと叫んでいて、そして、そんなスパルタにも耐える健気な俺の四肢。申し訳なさでいっぱいだ。
足元の爆発で大きくよろめいた。背筋の力でなんとか足だけは止めず、バランスを崩しながらも前進、前進、前進。
党首「……やはり、あなたと戦いたかった」
傭兵「戦ってるじゃねぇか! いま! こうしてよぉ!」
わかっている。単なる言葉遊びだ。
党首は俺と戦いたくなかった。そして俺と戦いたかった。何も矛盾はない。
党首「どうしてあなたは僕に向かってくるのですか! 四千万!? その程度のはした金、僕に協力してくれれば、それが四億だって出せるって言うのに!」
傭兵「豪気だなぁ! 実に豪気だ!」
党首「真面目に答えてください!」
爆破に依然煽られ続けながら、懐へと手を突っ込んだ。同じ動作を二体の幻影も行う。
引き抜いた手にはナイフが二本ずつ。計十二本。
それを投手に向けて「放った」。
当然のような機雷の爆裂。当然読み筋であり、回避行動もとったが、その威力はとても減衰しきれるものではない。余波で幻影が掻き消える。
俺も左の上腕が大きく抉れた。焼け焦げたため血液すら出てこない。代わりに激痛は通常の倍以上で、大地を踏みしめなければ思わず叫び声を挙げているところだった。
十二本のナイフはその半分が吹き飛んで、残った六本も位置指定爆破によって容易く弾かれる。届かないのは百も承知。ただ、煙幕は張ることができた。
位置指定はこれでできない。俺の姿が見えない限り、指を向けることはできない。
傭兵「聴いたことくらいあるだろうよ」
これは決して強がりではなかった。
傭兵「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」
お前には一生わからんだろうさ。語り聞かせたところで、絶対に理解し得ない。
俺とお前じゃあ、守銭奴の程度が違うのだ。
党首「……わかりました。もういいです」
党首「口を『開く』な」
果たして怒りを買っただろうか。
黒煙を突っ切って攻撃。数回左拳で距離を測り、フェイント気味の正拳から左回し蹴り。腕で受けられ位置指定爆破が飛んでくる。それを直前に読んで、後退、距離が「開いて」の追撃も読めている。なんとか回避。
瓦礫。
傭兵「っ!」
瓦礫瓦礫瓦礫。
瓦礫が瓦礫が瓦礫が礫が礫が礫が礫礫礫が礫がが礫ががががが
空から降ってくる。
あの時!
黒煙で位置指定爆破を防いでいた時か!
「させませんよ」
凛とした強い声が横から割り込んでくる。
安堵と驚愕が同時にやってくるのはまったく不思議な感覚だった。生きていてよかったという思いと、お前何をやっているんだという思い。
脚力倍加によって一気に僧侶は俺へと切迫し、手首を掴む。そうして一度その場でぐるんと回転した。多大な遠心力が俺にかかって――そのまま投げ飛ばされる。目標は党首。
党首が逡巡したのがわかった。位置指定爆破で、俺と僧侶、どちらを狙うのかを迷ったのだろう。
そのコンマ以下が命取りなのだ。
最終的に党首は自らの命を守ることを優先した。突っ込んでくる俺を避けながら、二の矢の僧侶に対し、一拍遅れた位置指定爆破を行う。
その瞬間俺は完全に党首から自由となった。
接地。
傍に破邪の剣が落ちているのを、俺は知っている。
戦闘の序盤に放り投げたそれを再度握り締める。
確信を得た二つ目は、党首の機雷化についてだった。
党首を序列六位足らしめている絶対的な罠であるそれは、間違いなく第一級、いやそれすら超えて特級の魔法である。物質だけでなく概念まで機雷化し、破壊力は十二分にあって、爆裂の条件も緩い。
強い。
強すぎるほどだ。
だから、俺が何よりもすべきなのは、強すぎる能力の果てを知ることだった。
なにができるのか。どこまでできるのか。俺が兵士たちを見捨てたのは、カウンターを喰らうとわかっていながら機雷を起爆し続けていたのは、それが全てといってもいい。
報告を受けた限りでは国境線を爆破し町を爆破した。その場に党首自身はいなかったとの話も聞いている。即ち、機雷化について、有効射程という概念は存在しないか、あったとしてもこちらが戦術に組み込めるほどではないということだ。
どこにいても機雷化できるというのなら、では何を機雷化できるのだろうか。物質。概念。定義として括るにはあまりにも大雑把。距離が関係ないということは、つまり見えていなくてもいい、ということである。油断ができない理由はここにあった。
距離は無制限。見えていなくてもいい。能力に死角はないのか――そんなはずはないのだ。絶対的な無敵の能力。そんなものは人間のキャパシティを超えている。
常識的な判断。恐らく、党首自身が知覚していないものに関しては、機雷化できないという想定。
位置指定爆破と同じだ。機雷化についても、魔法を行使するにあたって、機雷化する対象を設定しなければいけないのは当然だろう。その対象として認識の外にある物体、概念は機雷化できない。
だから、この斬戟もまた。
一瞬でも党首の意識が、認識が、こちらへ向くより早く、俺は刃を振りぬいた。
傭兵「……っ!」
僧侶「……!」
党首「く、ぐ、ぅ……っ!」
右肩から左脇腹にかけての袈裟切り。手ごたえは十分。皮も、肉も、骨も、切断したのは確実。
だのに。
党首は笑っていた。
党首「は、はは、僕の、負け、ですか?」
党首「僕を『破って』しまったんですね?」
それは殺意ではなかった。殺意はもっとどす黒く、でなければ濃い紫色をしているものだ。夕日に照らされた川面のように輝いているはずは、決してない。
生への執着を、恐らく俺は叫んでいた。何を言っているかはわからない。五感など最早無用の長物だった。そんなものを感じている余裕すらも惜しい。とにかく危機感が全てを押しのけて、押し寄せて。
踏み込みの力強さに最後の一線を越え、膝が砕ける。そんなことは知るか。気にしていたら死ぬ。死ぬ、死ぬ、死ぬのだ。
僧侶「傭兵さ――!」
敗北と言う概念の閃光から俺が逃れる術はなかった。
* * *
爆破の種である瓦礫が降り注いでなお、わたしは視線を上空へと向けることなく、閃光、爆裂、そしてぐらりと傾く傭兵さんの姿を見据えています。
爆音に紛れて肉が引き千切れる音は聞こえません。傭兵さんはその驚異的な反射神経で、左腕を犠牲にして被害の軽減を試みました。しかし結果は推して知るべし、機雷の爆裂の前では肉の壁なんて紙切れみたいなもの。
傭兵さん、とわたしは叫んでいました。
彼は最早たたらすら踏めない。踏みとどまれない。全身の脱力が遠目からでもわかって、
一度大きく体が傾いだかと思うと、そのまますとんと膝から崩れ落ちます。
助けなければ。
党首「させませんよ」
五指がこちらへと向けられていました。反応するよりも早く、わたしの周囲で瓦礫が次々爆破されていき、熱、爆風、破片が容赦なく肉体を削り取っていきます。
守備力倍加すら容易く打ち抜く破壊力。衝撃で大きく体がぐらつき、一際大きな爆破がわたしを横から殴りつけました。勢いに負けて顔面から地面に倒れこみ、地面を引っかいて止まった瞬間、足元が爆破を起こして打ち上げられます。
ぶちまける胃の中身はありませんが代わりに口から血反吐がどばどば漏れていきます。頭が痛い。顔が痛い。四肢も胴体も全てが痛い。
脚力倍加と守備力倍加の連続使用でなんとか党首の爆破に先んずるか、でなければおっつこうと思いはするのですが、傭兵さんがそれを成せていたのは人間離れした反射神経があったから。必然的にわたしはいい的でしかありません。
素早さと硬さで無理やり爆破をしのぎながら、地面を一歩一歩踏みしめて、それでもなんとか党首との距離を縮めようとします。相手だって傭兵さんの攻撃を受けて瀕死のはずなのですから。
呼吸が続かなくなりました。爆風と黒煙の中ではまともに吸い込める酸素など高が知れています。そして空気の温度自体が人体に有害です。口腔内と気管を焼き焦がす温度。
たまらず爆破を振り切ると日中の日差しすら涼しく感じます。落ち着いて息を吸いました。体中に熱がまとわりついているような錯覚にさえ陥っていて。
党首「厄介な傭兵さんは、もう使い物になりません。僧侶さん、あなた一人くらいなら、どうとでもなる」
懐から瓶を取り出し、中に入っていたミントグリーン色の液体を一気に飲み干すと、党首の傷が見る見るうちに癒えていきます。特効薬……しかも、超強力な。エルフの飲み薬とためをはる世界樹の雫?
いえ、そんなことは今はどうでもよいのでした。党首は復活し、対するこちらは傭兵さんが瀕死の重症。その事実だけが何よりも重くのしかかってきます。
党首「これでもう負けはない」
傭兵「……僧侶、逃げろ」
僧侶「いやです」
傭兵さんの言うことでも、聞けることと聞けないことがあります。
傭兵「……なに、言ってん、だ」
どうやら意識はあるようでしたが目の焦点が合っていません。左目はそもそも白目をむいています。
僧侶「助けますから」
傭兵「いらねぇ」
喋るのも精一杯でしょうに、傭兵さんはそこだけきっぱりと言いました。
そして、子供に言い含めるように――事実彼にとってはわたしなど子供に違いないのですが――続けます。
傭兵「すぐ、戻れ。そして、掃除婦と、他の序列、つれて来い……このままじゃ、だめだ」
傭兵「俺、は、やれる。まだ、やれる」
まるで自分に言い聞かせるかのようでした。事実そうなのでしょう。この人は頭がいいくせに、頑固で、強情で、意地っ張りで、金にがめつく、自分なら何とかなると思っているのです。
自分が犠牲になればいいと思っているのです。
気にいりません。
党首「まだ、立ちますか」
驚きと呆れの入り混じった顔で党首は呟きました。
正確には「立とうとしている」です。傭兵さんは自らの腕と剣を支えにして立ち上がろうとしていましたが、バランスを崩して倒れこんでいました。
状況は絶望的。わたし一人で党首に勝つことは、恐らく不可能でしょう。ずぶの素人に負けるような人間が序列上位にいるはずがありませんから。
それを、この場にいる全員がわかっています。だから傭兵さんは逃げろと言ったのですし、党首は戦闘態勢を放棄しました。わたしだって、まともに勝とうとは思っちゃいません。
党首「左腕が捥げ、顔面の左半分がその機能を喪失している。足だって折れてるでしょう、それも一箇所や二箇所じゃあない。僧侶さんに掴まっていなければ立ってもいられないあなたが、僕にどうやって対処すると」
傭兵「やって、みなけりゃ」
僧侶「わかるに決まってんじゃないですか」
物理的に不可能です、そんなこと。精神論でなんとかなる相手じゃないってことくらい、わたしより、傭兵さん、あなたがずっと、ずっとわかってるはずじゃないですか。
どうしてそんなに全てを背負おうとするんですか。約束ですか。義理ですか。任務だからですか。そのために傭兵さん、あなたが死んでしまったら何にもならないってこと、わかってないはずがないのに。
僧侶「それでも」
それでも、誰かが党首を止めなければいけないと言うのなら、残されたのはわたししかいないじゃないですか。
勝てないからと言って諦めるのは性に合わないのです。
精神論で何とかなる相手じゃない? 舌の根も乾かぬうちに? なんのことですかそれ。
なんて嘯いてみたりもしなければ恐怖を克服することなんてできそうにありませんでした。勇気と使命感が勝手に体の歯車を回してくれますが、恐怖が歯止めとなって噛み合わせを狂わせます。
無理やりに出力を上げて噛み砕くしかないのでした。
拳を握りました。傭兵さんに比べたらちっちゃいかもしれませんが、それは確かに、立派な拳。
党首の横っ面を捉えるには十分。
僧侶「絶対に逃がしません」
党首「やめて欲しいな。他の序列のやつらが来たら、僕としては困るんだ」
僧侶「だからです」
党首にはわたしと戦う必要はありません。彼にとっての脅威は傭兵さんのみであり、わたしは眼中にないのです。それどころか、殺すことは損にすらなるかもしれません。
遅かれ早かれ王国軍はここまでやってくるでしょう。掃除婦さんたちにも限界があります、取りこぼしは必ず出てくるはず。党首は絶対にそれより先に逃げなければならないし、ここでわたしたちにかかずらわる余裕はないのです。
そして足止め役としてわたしを利用しようと、そう考えているはずでもあります。
なんたって、わたしは稀代の反逆者なのですから。
躍起になっている王国軍が見逃してくれるはずなんてない。
だから。だからこそ、わたしがここで党首の前に立ちふさがることには意味があります。
たとい共倒れになったとて、党首を釘付けにすることは、単純に勝敗がつくよりももっと、ずっと、多大な影響を齎すのです。
党首「……面倒くさいな」
三指がこちらに向きます。わたしは傭兵さんを抱きかかえて一気に逃げました。脹脛の後ろを爆破が炙って激痛が走りますが、足を動かすこと自体に問題はありません。
傭兵「だ、から、逃げろ、と」
僧侶「わたしを心配してくれてるんですか」
傭兵「お、前には、」
勝てない。恐らくそういうつもりだったのでしょうが、言葉を紡ぐよりも先に、傭兵さんは意識を失しました。浅く短い呼吸。血液はいまだに失った左腕を中心として流れ出ていて、わたしの腕すらも染めていきます。
まだ体は温かいですが、この体温があとどれくらい保ってくれるのか、医者でないわたしには見当もつきません。五分? 十分? 三十分も保つでしょうか?
僧侶「拳銃をぶち込めれば、それが一番、いいんですけど」
だめだ。党首が生存し「機会仕掛け」である限り拳銃は封じ込められている。治癒魔法はわたし自身には効果を及ぼすけれど、傭兵さんにかける手段は……。
力が篭って歯噛みしました。本当にわたしは無力です。こんな時に何もできないだなんて。
陳腐な言葉ですが、これは贖罪なのです。誰に対してだとか、何に対してだとか、あまりに広範囲すぎて対象を絞りきれないほどの。
謝って許してもらえるわけはありません。自己満足だと謗りを受けることはわかっています。ただ、これだけはわかって欲しいのですが、決してポーズではないのです。騙されたことは数あれど、わたしは一度たりとも誰かを騙そうとしたことはなかった。
誰かの不幸で自らを満たそうとしたことはなかった。
それだけは胸を張って言えるから。
これから先、一生ごめんなさいといい続ける人生はきっと過酷で、辛くて、報われなくて、地獄に落ちたほうがいっそ楽になれるのかもしれませんが、それすらわたしは勝ち取る必要があるに違いないのです。
これまで負け続け、何一つ勝ち取れてこなかったわたしが。
今ここで勝ち取ることができたのならば、それはきっと、こんなわたしも誰かの幸せに寄与できたのだと思えるから。
傭兵さんをそっと降ろして党首へと向き直りました。同時にわたしの周囲で爆破が起きます。わたしを打倒することが目的ではないその攻撃は、威力など高が知れているものでしたが、肌を焼き喉を焦がすことには変わりません。
足元で爆破が次いで起きますが、わたしはそれを気合と根性で踏み潰します。
拳を握り締め、力強く一歩、遅々とした歩みでも、確かに党首に近づいて。
僧侶「他人なんてどうでもいいって、どうして思えるのか、わたしにはわかんないんです」
自分の荘園を増やすために、農民たちに多額の税金を課し、土地を奪っている領主たちの気持ちなどわかりたくもない。
喰うために稼ぐのならばそれは真っ当でしょう。しかし、おいしいご飯を喰うためのお金を他人の財布に求めるのは、果たして真っ当といえるでしょうか。
僧侶「幸せに生きるってどういうことですか。人を不幸せにしておいて、どの口がそんな台詞を吐けるんですか」
金をせっせと集め、隠していたあの二人は、仮に無事にあの村を捨てられたとしても、幸せになれたとは到底思えません。罪悪感、もしくは捨ててきた村人の影に怯え、不幸せに生きていくしかないのだと思います。
僧侶「お金が大事だってのはわかります。わたしはそれを否定したいんじゃないんです。わたしがぶっ壊したいのはそんな上辺じゃなくて、もっと、もっと、醜い部分なんです!」
僧侶「手の中の黄金に目が眩んで、自分の足元を疎かにしたやつらをこそ、わたしはぶっ壊したかったんです!」
そうしなければ生きていけないのなら、いっそのこと死ぬべきなのです。
土地を汚染しなければ採石が成り立たないのなら、そんな町は滅んでしまえばいい。子供が瘴気で蝕まれているのに正気を保てているというなら、それは最早正気でないのです。
僧侶「わたしはっ!」
僧侶「みんなを幸せにしたかった!」
伸ばした手は空しく党首の傍を通り過ぎていきます。
足が縺れる。意識が拡散していく。これが実力差なのだとはっきりわかりました。わたしは傭兵さんのように咄嗟の判断力もなければ反射神経もない。愚直に、ただただ愚直に爆破を踏み越えながら党首へと向かっていくことしかできません。
当然そんなのはいい的なのです。いくら党首がわたしを直接爆破できないとはいっても、幾度と爆破をこの身に浴びせかけられ続けては、守備力倍加も脚力倍加も粉々になっていきます。
心は粉々にならないから、それでもまだ、真っ直ぐ前を向いていられる。
いっそ一思いに殺してくれ、なんて昔のわたしだったら思っていたのでしょう。けれど逃げるのはもうやめました。死にたがりのわたしは、あのとき地下牢で死んだのです。
傭兵さんに殺してもらったのです。
死ぬまで死ぬつもりはありませんでした。
だから体も動く。
動かしてやる。
既にわたしの四肢は焼け爛れていて、感覚もありません。僧服は大半が消し飛んでいるし、髪の毛だってぼさぼさで、使い古した雑巾のほうがまだ見てくれはいいでしょう。
吸う空気は何より熱く喉と肺をひたすらに苛め抜きます。人間の吸う温度ではないと本能が噎せることを強要しますが、それすら踏み潰して。
動き続ける体が酸素を貪欲に欲しているから。
爆破でわたしの腹部に衝撃が走り、胃の内容物をぶちまけながら、わたしは大きく空中へ投げ出されました。
既に足は動きません。太ももから下の感覚がない。普通なら、痛いとか、熱いとか、そうでなくともびりびりしたりじんわりしたり、そういうのがあるはずなのに。
いや、そもそも感覚というものがまるっとどこかにすっぽ抜けていってしまったみたいです。
ぐぱぁ、と犬歯を剥き出しにして息を吐きました。そこだけが、熱い。
党首「――――」
党首が何かを言っています。引き攣った顔。余裕があるはずのほうが追い込まれた顔をしているのは不思議でなりません。
きっと、結果的に、わたしのこの鈍重さが功を奏しているのでしょう。鈍亀のような振る舞いでは「放つ」だなんてほどの速度の乗った概念行動はできないのですから。
だから、党首の必殺である機雷化も、わたしには通用しない。
爆破を左手で押しのけると骨が軋んで小指が千切れました。腕は二本とも存命ですが、肘から先の感覚がないので、激痛は感じなくて済んでいます。治癒魔法は継続してかけていますが、それを上回る被害というのが実情です。
黒煙のむこうから党首が見えてきました。思わず口角があがってしまいます。標的を捕捉したならば、あとは突っ込むだけ。
じり、と土を踏みしめる音だけが、妙に耳に残るのでした。
引き攣った顔のまま党首が五指を向けてきます。閃光が迸り、わたしの周囲の地面が軒並み爆炎を噴出しました。前傾姿勢でバランスを崩さないように保ちながら、体のどこかがまた欠損したんだろうとやけに他人事らしい気持ちで前を見据えます。
瞬きも忘れてひたすらに前へ。度重なる防御に使いすぎて、両腕の皮膚が火傷を通り越し炭化していることにいまさら気がつきました。質感が生体のものとはかけ離れてしまっています。
僧侶「……」
僧侶「……あは、あはは」
黒煙が晴れてわたしが見たのは、踵を返して走り去っていく党首の姿でした。
逃げるな。逃げるな。逃げるな!
逃げるんじゃない!
そう叫びたかったのですが喉が引き攣って声が出ません。いや、もしかしたら出ている上でわたしの鼓膜が破れているだけなのかも。
追おうとしたところでバランスを崩して倒れてしまいます。痛みはないのに。どうして。そう思って足を見れば、右足首がざっくりと抉れていて、殆ど切断されている状態でした。皮一枚で繋がった足が、ぷらんとぶら下がっています。
あぁ、もうだめだ。
なんてことは思いません。
わたしにはまだ希望が残っています。そうです、諦めないと誓ったのです。死ぬのは死ぬそのときまでお預けなのです。
僧侶「よ、う、へい、さん」
炭化した両腕で這いずりながらも、わたしは依然意識を失っている傭兵さんへと近づいていきます。
わたしの懐には拳銃がまだ入っています。これに治癒呪文を最大の力でこめ、傭兵さんにむけて撃てば、きっと彼は全快――とまではいかないかもしれませんが、かなりのところまで回復するでしょう。
その代償としてわたしが爆死したとて、構いません。
これは決して自殺ではないのです。どうせこのまま死ぬのであれば、わたしは、傭兵さんに希望を託して逝くのです。まだ見ぬ春を太陽に馳せながら、息絶えるのです。人はそれを自然の摂理と呼びます。
なんとか傭兵さんの傍まで這いずって、彼の顔を覗き込むと、真っ青な顔をしていました。周囲は既に血だまり。一刻の猶予もありません。
彼の顔を見ていると自然と涙がこぼれてきました。太陽、とわたしは彼のことをたった今評しました。図らずとも浮かんできた言葉。そしてとても正鵠を射た言葉。
彼はわたしの太陽なのです。希望なのです。
そこでようやく、わたしはここへ向かう前の彼の告白、嘗て勇者として生きた彼の半生を聞いたときに、なぜ涙がこぼれたのかを理解しました。
わたしは彼のことがかわいそうだと思ったのです。
同情ではありません。上から目線のつもりもありません。ただ、かわいそうだと思ったのです。
彼の人生に対してではありませんでした。いえ、広義では彼の人生というカテゴリに収まるでしょうが、それは生物というカテゴリで人間と植物を同列に語るようなものです。わたしの涙の理由はもっと具体的なもの。
彼はきっと、誰も犠牲にしたくなかったはずなのです。
狩人さんや魔法使いさんなど、彼に刃を向けてきた人々についてはわかりません。が、例えばこの学校へと乗り込んでいった兵士さんたちを、きっと傭兵さんは見殺しにしたくなかったに違いありません。
人の痛みをわかる人間です。それだのに、悪ぶります。進んで汚辱を被りにいこうとします。それしか他に方法がないから。理由はどうであれ、それを選ぶことが最も効率がいいと、目的を成すためには最短経路だとわかっているから。
自分のためなら他人などどうなってもよいと思っている人間は死ねばいい。ですが、これはわたしの欲目なのでしょうか、傭兵さんがそういう人間であるとはどうしても思えないのです。
他人を生贄に捧げられる人間が、ゴロンの町で、あんなことを叫べるとは思えないのです。
傭兵さんは屑です。どう見たって捩じくれています。人間的な長所を全て金儲けのために使っているような人種です。それでも決して、ひととしての道を違えることのない人です。
歩んできた道のどんなに険しかったことか。
僧侶「傭兵さん」
できればこれからも、あなたと同じ道を、歩んでいきたかった。
ぽた、ぽたとわたしの涙が傭兵さんの顔に落ちていきます。
傭兵「……あったけぇ」
目を覚ます様子はありませんでしたが、無意識のうちに呟いているようでした。それほどまでに彼の体温は低下しているのです。
早く、助けなければ。
わたしは懐から拳銃を取り出し、なけなしの魔力を弾丸に充填しようとして、
僧侶「……」
天啓が。
……いえ、これは、果たして、その、天啓と、いえるのかどうか。
考えたこともないことが、いきなり降ってくるからこその天啓なのです。自らの正気を疑い、同時に成功確率を試算して、納得しました。
心臓が一回、大きくどくんと脈打ちます。
こうしている間にも傭兵さんの命は失われていきます。悩んでいる暇なんか、ない。
傭兵さんを助けることがわたしの至上命題なのですから。
僧侶「……」
覚悟を決めて。
わたしは傭兵さんに口づけしました。
傭兵「この世で金が一番大事」僧侶「じゃありません」【その3】
転載元
傭兵「この世で金が一番大事」僧侶「じゃありません」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1399985537/
傭兵「この世で金が一番大事」僧侶「じゃありません」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1399985537/