禁書「イギリスに帰ることにしたんだよ」 上条「おー、元気でなー」【その4】
- 2014年06月15日 17:34
- SS、とある魔術の禁書目録
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禁書「イギリスに帰ることにしたんだよ」 上条「おー、元気でなー」【その4】
***
この辺りは元々温泉街として有名な場所だ。
そういった点では、こうやって硫黄の匂いに包まれながら山を登って、ボコボコとお湯が湧くのを見るのは真っ当な観光の仕方なのかもしれない。そう上条はぼんやりと考えた。
一応有名な観光地ではあるのだが、平日という事もあって人通りはそこまで多くない。もう日も傾いて辺りがオレンジ色に染まっている時間帯という事もあるのかもしれない。
左腕には相変わらず食蜂が引っ付いていて、柔らかい感触が伝わってくる。当然離れるようにと言っても聞き入れることはない。
最初こそは男子高校生らしくドキドキして落ち着かなかったのだが、今ではすっかり慣れてしまった。
女の子の胸を腕に押し付けられるという事に慣れるというのも、また様々な誤解を生んでクラスメイトなんかにバレればボコボコにされそうなものだが。
彼女は制服から現地調達した私服に着替えている。全体的に明るい色のロングカーディガンにミディスカート。首元には長いマフラーを巻いている。そしてやけに嬉しそうだ。
これは今まで人の心というものを信じてこなかった事からくる反動というふうにも考えられる。
相手は誰でもいい、とにかく甘える対象が欲しいのだろう。
そう考えていた上条だったが、
「ちがいますよーだ」
「へ?」
急に隣の食蜂が不機嫌そうにこちらを見つめてきた。
それもかなりの至近距離で、上条はすぐに上半身を仰け反らせて顔を遠ざける。
「な、なんの話だよ?」
「相手は誰でもいいっていうわけではありませんー。どこのビッチですかそれぇ」
「ビッチって……常盤台のお嬢様がそんなこと言っていいのかよ……」
「ふふ、お嬢様に幻想抱いてちゃダメだぞ☆ ていうか御坂さんなんて自販機に蹴り叩き込んでるじゃないですかぁ」
「……それもそうだな」
妙に説得力があるので納得してしまう。所詮「おほほ」と微笑む上品なお嬢様などというのは、そうそう居るものではない。
どれだけ優れているといっても、女子中学生ということには変わりないのだ。まだまだ遊び足りない時期だろう。
上条の知っている中では白井なんかはお嬢様口調だが、いきなりテレポートドロップキックを放ってきたりなど、やはりその行いはお嬢様とはかけ離れているように思える。
少しすると、何やら休憩所らしきものが見えてきた。
すのこの上に畳が敷いてある、どこかお団子屋さんのような印象も受ける。
しかし、そこで休んでいる人達が口にしているのはどうやら温泉まんじゅうやら温泉卵だった。
「ちょっと休んでくか?」
「さんせーい! あ、何か食べますぅ? 私買ってきますよ」
「え、いや、中学生に奢ってもらうってのは……」
「まぁまぁ、財力の差は歴然なんですから、無理に格好つけなくても大丈夫ですよぉ」
「うぐっ、そこまで言われて黙ってられっか! ここは意地でも俺が買ってやる!!」
「あ、それではお言葉に甘えさせてもらいますね♪」
「えっ!?」
ダチョウ倶楽部的なノリでまんまと奢る方向に進まされてしまった上条。
思わず呆然と食蜂を見るが、彼女の方はクスクスと楽しげに笑いながら、
「冗談ですって。でも上条さん、そんなだといつか悪い女の人に捕まっちゃいますよぉ?」
「…………」
「その目、『悪い女はお前だろ!!』とかって思ってますねぇ? ひっどぉーい!!」
「あー、心読んだのか」
「読んでませんよぉ、ていうか本当にそう思ってたんですね……割とショックですぅ」
そう言って肩を落としながら、食蜂は店の方に歩いて行く。
それを見た上条は慌てて、
「あ、おい。自分の分はちゃんと払うって」
「いいですってー。私って案外尽くす女なんですよぉ?」
そう微笑むと、彼女はさっさと温泉まんじゅうやら温泉卵を買ってしまう。
そしてやけに嬉しそうに上条の元へと戻ってきて、隣に座った。フワッと甘い香りが届く。
上条は少しドキッとしながらも、冷静を装って口を開く。
「悪いな」
「ふふ、私への好感度大幅上昇って感じですかぁ?」
「いくら上条さんでも、まんじゅうと卵で籠絡される事はないですよっと」
「ちぇー」
口を尖らせて、食蜂は買ってきたものを取り出す。
それを見て、上条は少し驚く。別に変なものがあったというわけではない。
観光地ではゲテモノを売ってたりなどは珍しくないのかもしれないが、食蜂が買ってきたのは至って普通のものだ。
ただ、その量が予想していたよりも遥かに多かった。
「……なぁ、いくら俺でもそんなに沢山食えねえぞ? お土産か何かか?」
「え、いえ、私がこれくらい食べたかっただけですよぉ」
「そんなに食うの!? インデックスかお前は!!」
「むっ、だからデート中は他の女の子の話は禁止です。
ていうか別にこのくらい普通だと思いますけどぉ。私だって中学生で育ち盛りなんですしぃ。他の子が気にしすぎなんですよぉ」
「……太るぞ」
「太りませんー。食べた分は全部胸にいくんですよ私ぃ」
「ぶっ!!」
やたら自慢げに両手を首の後に回して胸を強調する食蜂。
それによってこれでもかと言わんばかりに自己主張する双丘に、上条はバッと目を逸らした。
すると食蜂はニヤニヤと笑みを浮かべて、
「あらぁ、やっぱり上条さんは巨乳派なんですねぇ。いいですよぉ、ちょっとくらい触ってみても」
「んな事できるか!!!」
いくら人が少ないとは言え、居ることは居る。
そんな中で中学生の胸を触るなんて事をしたら、社会的地位がどん底に落下するだろう。
(いや別に誰も見てないならいいってわけじゃないけど!!)
誰にというわけでもなく、一人で勝手に心の中で弁解する上条。
食蜂は少し不満気に頬をふくらませ、
「つまんなーい。もしここで触ってたら、それを盾に色々追い込めたのにー」
「最近の中学生は恐ろしいなオイ」
「ふふ、私はインデックスさんや御坂さんよりは大人びていると自負していますよ? つまり上条さんの好み的には私が一番合致しているというわけです」
「んなリアルな大人っぽさ求めてねえよ。俺は年上のお姉さんの優しい包容力を求めてんだ」
「そんなの幻想に決まってるじゃないですかぁ。そういう人に限って、裏で何やっているか分からないですよぉ? 例えば夜になったらぁ……」
「やめて!! その幻想はぶち殺さないで!!!」
上条は耳をふさいで現実逃避を試みる。
理想である寮の管理人のお姉さんは、いつも箒を片手に笑顔で挨拶してくれる人で、包容力満点の癒し系純情お姉さんなのだ。
勤務時間が終わった瞬間に夜の街に繰り出して、いかついお兄さん相手に愚痴をこぼしまくっている姿など想像したくない。
例えそれは儚い幻想だったとしても、世の中には壊してはいけないものだってあるはずだ。
食蜂はそんな上条に苦笑すると、温泉卵を片手に空を見上げる。
つられるように上条も視線を上に向けてみると、そこにはオレンジ色から次第に茜色に変わっている空が遠くまで広がっており、薄い雲がいくつか浮かんでいる。
明日は雪が降るかもしれないという予報が出ていたはずだが、そんな気配を感じないほど綺麗な夕焼けだ。
そのまま上条が小さく白い息をつくと、それは真っ直ぐ空へ昇っていく。
二月の夕方ということもあって、着込んでいても寒いことは寒い。
思い返してみれば、最近は色々な事がありすぎて、こうしてゆっくり休息をとる事も少なかったような気がする。
インデックスが戻ってきてからは色々と慌ただしかったし、その前は逆に何もやる気が起きなかった。
こうして一度息を抜くと、様々な事が頭をよぎっていく。その大半はインデックスのことだ。
彼女は明々後日にはイギリスへ帰ってしまう。
その時、自分はきちんと別れられるのだろうか。笑顔で「またな」と言えるのだろうか。
上条は自信が持てない。
もう二度と会えないというわけではないはずだ。あくまで今の微妙な世界の状況を考慮して、一時的に科学と魔術を明確に区切る。
それぞれのサイドの有力者による話し合いで、きっとまた元の状態に戻れる、そう信じている。
今まで科学と魔術の間では色々あったが、今では互いが互いを理解しようと思っている。
だが、それでもこれからもインデックスと一緒に暮らす事はできないかもしれない。
彼女は自分の力を役立たせたいと言っていた。それは本心なのだろう。
それならば、科学と魔術云々という話ではなく、やはりイギリスの方に居たほうが良いということになる。
彼女の知識は科学方面ではなく魔術方面で存分に発揮されるからだ。
だから、もう会えないという事はなくても、生活は別々になるという可能性があるというわけだ。
こういった事は、何も珍しいことではないのだろう。
小萌先生も言っていたが、人生において別れというのはいくつもあるものだ。
確かに、思い返してみればインデックスとの生活は楽しかった。
上条が料理を作っている時に待ちきれないように度々キッチンに姿を現してつまみ食いをしたり、出された食事は本当に幸せそうに食べてくれたり。
朝は早起きして祈りを捧げてシスターっぽい事をしているかと思えば、昼にはゴロゴロとスナック菓子を食べながらアニメを観たり。
いつの間にか上条のクラスにも打ち解けていて、大覇星祭や一端覧祭のあとの打ち上げにもちゃっかり参加していたりして。
一つ一つは何でもない、些細な事なのかもしれないが。
それでも、上条にとってはその全てがもう二度と失いたくない、大切な思い出だ。
今までの思い出があれば例え離れていても平気だというのはフィクションの世界での綺麗事に過ぎないと思う。
離れていれば当然寂しい。それはインデックスが一度イギリスへ行ってしまった時に嫌というほど知った。
居場所が変われば、生活も変わる。上条は学園都市で、インデックスはイギリスでそれぞれの道を歩んでいく。
たまにはその道が交差することもあるかもしれない。今の問題が解決すれば、飛行機に乗れば学園都市とイギリスの間を行き来する事だってできる。
会いに行けば彼女は笑顔で迎えてくれるだろう。様々な所を案内してくれて、幸せな時間を過ごせるのだろう。
お互いに自分の近況を話しつつ、昔の思い出話なんかにも花を咲かせる。そして最後に「楽しかった」「また遊ぼう」と言って二人は満足気に別れる。
ただ、それだけなのだ。二人にとってそれは日常とは少し離れた事であり、それは二人の世界が明確に切り離されてしまったという事を実感させる。
彼女にとっての日常には上条は居なくなる。楽しいことも悲しいことも、その大半をイギリス清教の仲間達と分かち合う。
そして上条の知らない友情、あるいは愛情を育んでいくのだろう。
それを想像するだけで感じる胸の痛み。それも含めて別れというものなんだろう。
頭では理解できるが、納得はできない。
今までだって似たような事はあった。
例えば一人の少女が自分のクローンのために自らを犠牲にしようとしている場面を目撃した時。
例えば何の罪もない不死の存在が、周りの好き勝手な都合に振り回されてその命を手放そうとしていた時。
いつだって上条は納得できずに自分の思うように動いた。それに続いてくれる者達も居てくれた。
それは大人になれない子供だからこそできた行動なのだろう。
自分の考えが全て正しいとは思わない。それでも自分自身くらいはそれが最善だと信じたい。
今回はそんな風に動くことができなかった。
何よりもインデックスの幸福を願っているからこそ、彼女を止めることなどできない。
納得はできないが、動くことができない。
「……はぁ」
「まーたインデックスさんの事考えてるんですかぁ?」
「プライバシーも何もねえなその能力」
「能力は使ってませんって。顔見れば分かります」
「あー、そういや俺ってすぐ顔に出るとか言われたな」
上条は視線を空に固定したままで小さく笑う。
こうして話している間にも空はオレンジ色から茜色に変わりつつある。
二人は休憩所を後にして、更に上の方へ登っていく。左腕は相変わらず食蜂に抱きつかれる形になる。
食蜂の話だと、上の方に景色が綺麗な場所があるらしい。この時間ならば夕陽がいい具合にロマンチックなんだとか。
日も落ちてきているので、周りの人もだんだんと少なくなっていく。
「ふふ、こんな暗がりに二人きり。押し倒すなら今ですよぉ?」
「俺の理性がそんなもんだったらとっくにヤバイ事になってるっつの」
「それもそうですよねぇ。ていうか、女の子と半年も同棲してて何もなしって、普通にホモなんじゃないのかって疑われるレベルですよぉ?」
「えっ、マジで……?」
「結構マジです。でもそれだと色々と難しくなってきますねぇ。もういっそ手っ取り早く私の洗脳力で何とかした方が早いような……」
「何平然と恐ろしいことを言ってるんだお前」
食蜂の言葉に、上条はすぐに右手を頭に持っていく。
彼女はクスクスと笑って、
「冗談ですよ、冗談。もう、そんなに警戒力全開じゃなくてもいいじゃないですかぁ」
「お前が言うと全く冗談に聞こえないんだよ……。それにしても、割と本気でホモに思われるかもしんねえってのはマズイな」
「誰か身近に同志が居るって事ですかぁ?」
「いねえよ! つかそれだと俺がもうホモだって確定したみたいじゃねえか!! 俺の好みは寮の管理人のお姉さん!! 男に興味はねえ!!!」
「それなら!」
食蜂は上条の左腕から離れると、前方へと走って行き、こちらを振り返って両手をパンッと鳴らせて合わせる。
その笑顔はとても可愛らしいもので、多くの男達は簡単に籠絡されてしまうであろう程だ。
だが、彼女の事をある程度知っている上条には、その笑顔からは嫌な予感しかしなかった。
「まずは二人で写真を撮りましょう。思い切りラブラブしてるやつ」
「……それで?」
「その写真を私のブログにアップします。タイトルは『私達付き合いました』」
「おい待て」
「そしてその後は私の情報力を駆使して学園都市中に拡散。上条さんのホモ疑惑は無事晴れるというわけです!」
「聞けっつの! そんな事したら『中学生に手を出した』っていう不名誉な称号をゲットしちまう!!」
「『ホモ』っていう称号よりはまだマシだと思いますけどぉ」
「ぐっ……つか何でその二択なんだ。どうあがいても絶望だってんなら、そんな幻想ぶち殺してやる!」
「ちょっとぉ、何で私と付き合うのが絶望なんですかー!!」
「常盤台中学のお嬢様に手を出して、その後クラスでどんな目に遭うと思ってんだ! つかお前面白がってるだけだろ!?」
「ひっどぉーい! 私だって本気なのにぃー!!」
上条はまともに相手をせず、さっさと歩いて行ってしまう。
すると頬を膨らませた食蜂が後ろから駆け寄ってきて、再び上条の左腕に抱きつく体勢に戻る。
「ほらほら、心臓バクバクいってるでしょー?」
「単に山登ってるからじゃねえの。操祈って運動音痴だって御坂から聞いたけど」
「なっ、御坂さん覚えてなさいよぉ……!!」
「いや別にそこまで気にすることもねえと思うぞ。むしろそっちの方がお嬢様らしいと思うしさ。御坂なんか平気で夜通し走り回ったりするからな」
「むぅ、上条さんがそう言うなら……そういえば上条さんって御坂さんと夜通し追いかけっこなんてしたんでしたっけぇ」
「分かってると思うけどよ、カップルが砂浜でキャハハ、ウフフみてえなもんじゃねえぞ。お互い本気だ」
「上条さんはそうかもしれないですけど、御坂さんは何だかんだ楽しそうに見えましたよぉ」
「そりゃ自分の能力を思う存分ぶつけられるからだろうよ……。レベル5っていったら、普段から力は抑えてないといけねえだろうし」
「……うん、こういう鈍さはむしろ救いになってるかもぉ」
「へっ?」
「上条さんがバカで良かったって事ですぅ」
「突然なんたる言い草!!!」
そんな事を話している内に、二人は目的地まで辿り着く。
そこは山の斜面に、木で組んだ広場を水平に伸ばしているものだった。
いわゆる展望台というもので、先端まで歩いて行って柵に両肘をかけて景色を眺めてみる。
食蜂の言うとおり、そこには上条も素直に綺麗だと思う風景が広がっていた。
見渡す限りの山々に夕日の光が当たって、それぞれが淡く輝いている。弱く吹く風が木々を揺らし、優しい音を奏でる。
山の少し上にある空は茜色に染まり、薄い雲が帯状に広がっている。
時間を忘れていつまでも見ていたい。そんな景色だった。
「……綺麗だな」
「えっ、私がですかぁ!?」
「いや景色が」
「そこまで淡々と言われると結構ショックです……」
そう言って頬をふくらませながら、食蜂は隣の上条の肩に頭をコトンと乗せた。
上条は、それを特にどうにかするつもりもなく、ただ景色を眺めている。
学園都市の生活ではあまり目にすることもない大自然に、心が澄んでいくような感覚も抱く。
まるで、絡まった糸がほどけていくように。
今なら、インデックスの事についても考えられるかもしれない。そう思った。
ただ、再び思考の海に飛び込んでいく前に、少し躊躇う。
流石にここまで食蜂を放っておいてインデックスの事ばかりを考えているのも良くない。
彼女だって今旅行を楽しんでいるのだろうし、そんな中で放って置かれるのは寂しいものだろう。
そう思って、上条は食蜂の方を向く。
すると彼女はニッコリと笑って小首を傾げ、
「あれ、またインデックスさんの事を考え始めるのだと思ってましたけどぉ」
「いや、それは流石に操祈に悪いと思ってさ……」
「あっ、私の事考えてくれてるんだぁ。嬉しいです」
そう言いながら、眩しいくらいの笑顔を向ける食蜂。
分かりきったことではあるが、彼女も相当な美少女であり、こうしてデートしていることは男としてかなり恵まれているのかもしれない。
いっそ、青髪ピアスのように欲望全開で素直に喜べたらそれはそれで幸せなのだろう。
ぼんやりとそんな事を考えている上条に対して、食蜂はニコニコと話し始める。
「でもぉ、上条さんがインデックスさんの事をよく考えたいって言うなら構いませんよ。良かったら私も相談に乗りますしぃ」
「あれ、でもお前他の女の子の事を考えるの禁止とか言ってなかったっけ?」
「正直もう諦めましたぁ。旅行中ずっと上の空でいられるよりは、今ここでゆっくり考えてもらったほうが良いと思ったんですぅ」
「そ、そっか。なんか悪いな」
「本当ですよぉ。というわけでちゃっちゃと済ませましょう」
「えらく雑だなオイ。まさか前みたいにインデックスとの仲をギクシャクさせるつもりなんじゃねえだろうな」
「しませんって。今回は私は何も言いません。ただ少し夢でもみてもらおうかなって」
「夢?」
「はい。私の能力を使えば面白いことができるんですよ。きっとインデックスさんの事を考えるのにも役立ちます」
「……その面白い事ってのは、俺の記憶を弄って遊び回すって事じゃねえだろうな」
「違いますよぉ。どんだけ信用ないんですか私ぃ」
「それは目を瞑って自分の胸に手を当ててよく聞いてみなさい」
上条のそんな言葉に、プクーと頬を膨らませる食蜂。
だが今までの彼女の言動から考えても、警戒するに越した事はないはずだ。
例えば冗談なのかどうか分からないが、ずっと言っているホテルへ強制的に連れて行くというのも、上条からしてみれば深刻すぎる展開だったりもする。
「もうっ、それならいいですよ!」
「悪い悪い、冗談だっての。まぁこれに懲りたら年上をからかうような発言は控えることだな」
「私は真面目なのに」
「いやそれは余計にヤバイ」
「むぅ……まぁいいですよぉ。それじゃあ、頭出してください」
それから上条は大人しく頭を差し出す。
食蜂は右手をそのツンツン頭へと乗せると、目を閉じて集中し始める。
上条も目を閉じると、そこにあるのは暗闇だけになった。
瞼の裏からは僅かに夕焼けの光も漏れ込んではいるのだが、それでも圧倒的に暗闇のほうが強い。
そんな光景がしばらく続いた後。
急に、辺りが真っ白な光に包まれた。
***
真っ白な病室だった。
時刻はお昼頃で、窓からは暖かい、いや、暑いくらいの風が入り込んで白いカーテンを揺らす。
部屋にはカーテンの揺れる音だけが広がっている。
夏の昼下がり。
話によるともう夏休みに入っているらしいので、多くの学生は色々な場所で遊んでいる事だろう。
そんな中で、上条は一人ベッドの上に横たわっていた。
不思議な感覚だった。
まるで自分の体が自分のものではないような。
いや、それはある意味では正しいのだろう。なぜなら、この体は今日自分のものになったばかりなのだから。
記憶がなかった。
気付けばこうしてベッドの上に居た。
それ以前の事は何も覚えていない。突然この世に生まれた、そんな感覚。
友達も、先生も、両親の事でさえ何も覚えていない。ただ、ここに居るだけの存在。
自分がこうして入院している理由は医者から聞いた。
何でも一人の少女を守るために魔術師に立ち向かい、最終的に光の羽の一撃を頭に受けて記憶が飛んでしまったのだとか。
どう考えても作り話でこちらをからかっているのではないかとも思った。
医者の方も、その事情については上条を病院まで運んできた二人組から聞いたらしく、信じているわけでもないらしい。
上条からすればそれは単なる他人事でしか無かった。
たとえその話が本当だとしても、それは今の自分とは何の関係もない話だからだ。
どこかの誰かが一人の少女を助けた。まるでフィクションの世界の都合の良いヒーローのように。
ただ、それだけ。そのはずなのに。
(……なんだろうな)
ベッドの上から窓の外に広がる澄み切った青空を見上げて、上条はぼんやりと考える。
その話を聞いて、哀しいと思っている自分がいる。
それは別に変わったことではないのかもしれない。誰だって自分のこと以外でも哀しむことはある。
だが、この感覚はどこか違うと思った。
それは映画などで哀しいストーリーを観て、感情移入しているというようなものではない気がする。
実際に胸を掴まれているようなこの感覚は、何かが違う。
そして、そのすぐ後の事だった。
こんこん、と部屋の中にノックの音が響いてきた。
その音に、上条は大きな反応を見せなかった。
検診の時間にはまだ早い。という事は、おそらく扉の向こうには見舞い客でも居るのだろう。
こうして入院することになって、見舞いに来てくれる人が居るというのは喜ぶべきことなのかもしれない。
ただ、その相手は今の上条を心配して来たわけではない。
相手の思い出の中に居る上条当麻と、今ここにいる上条当麻は別人だ。
もう、相手のよく知る上条はこの世に居ない。これも一種の“死”というのだろうか。
そう考えると、気が滅入ってくる。
今ここにいる自分の存在は、即ち以前の上条当麻の死の証明である。
相手はどんな反応をするだろうか。今の自分を見て、上条当麻の“死”を確認して哀しむのだろうか。
今のこの上条当麻はいらない、早く以前までの上条当麻に戻ってくれと涙ながらに存在を否定されるのか。
ただ、無視することはできない。
だから、上条は小さく息を吸い込んだ後、短く「はい」と答えた。
ガラガラ、という音と共に一人の少女が病室に入ってきた。
白いシスターだった。
長く綺麗な銀髪に透き通ったエメラルドのような碧眼。
彼女は不安そうな表情を浮かべていたが、こちらを確認すると、微笑んで安心した表情を見せる。
短い沈黙が、二人の間を流れる。
そして。
「あなた、病室を間違えていませんか?」
上条は、まずそう言った。
目の前の外国人を見て、まずその疑問が頭に浮かんだからだ。
だが、すぐにそれは自分の思い違いだという事に気付く。
彼女は上条の言葉を聞いて、瞳いっぱいに悲しみの色を滲ませていた。
それでも、その悲しみを上条に悟られないように、彼女は精一杯笑顔を作っている。
それくらいは、今の自分にも分かった。
二言、三言、互いに言葉を交換しあう。
その度に、彼女の笑顔はどんどん崩れていった。
「俺達って知り合いなのか?」「俺って学生寮に住んでたのか?」「“とうま”って、誰の名前?」。
何もない自分は尋ねることしかできない。
それでも、彼女はまだこちらに尋ね続ける。
もう何も覚えていないことも、以前の上条当麻は死んでしまったことも。全て分かっているはずなのに。
「とうま、覚えてない?」と。
「インデックスは、とうまの事が大好きだったんだよ?」
彼女はすがるように、その言葉を紡いだ。
そして、祈るようにこちらを見つめ続ける。揺れる瞳を、必死に抑えながら。
上条は、答える。
「ごめん」と。
「インデックスって、何?」
その言葉に、ついに彼女の仮面が崩れたように思えた。
一瞬、懸命に持ち堪えていた笑顔は完全に崩れ、哀しみに満ちた表情が姿を現す。
ただ、彼女は強かった。
本当に崩れたのは一瞬だけ。
それからすぐに、彼女は再び笑顔を浮かべてこちらに向き合い続ける。
目は泳いで今にも涙が零れ落ちそうなのも分かる。それでも、彼女はクシャクシャな笑顔を向ける。
気付けば、口が開いていた。
何を言おうとか、どう慰めようかとか。
そういったものが頭に浮かぶ前に、既に口から言葉が出ていた。
「なんつってな、引ーっかかったぁ! あっはっはっは!!」
どういった理屈なのかは分からない。
確かに上条は脳細胞が吹っ飛んで全ての記憶を失ったはずだった。
あったはずの彼女との思い出も全て消えてしまったはずだった。
それでも、彼女の今にも泣き出しそうな表情を見た時。
自分の中に、何かを感じた。
それはハッキリとしたもので、気のせいでもなんでもない。
ただ、上条は彼女の哀しむ姿を見たくない。
確かにそう、思えたのだ。
その瞬間、上条の中には色が生まれたような気がした。
先程までは何の色にも染まらず、透明のような状態だった。
そんな中に、僅かに色が入った。
それは消えてしまった上条当麻の色なのか。新たに生まれた自分の色なのか。
ただ上条としては、前者でも後者でもない、いや、そのどちらとも言える答えだと思えた。
つまりは、この行動は今の自分の意思であって。
それでいて、以前の上条当麻も同じ境遇で同じ行動を取る。
今の自分には記憶が無い。それでも、全てが失われてしまったわけではない。
例え頭にある記憶は消えてしまったとしても。
上条当麻の心は、確かに残っている
そう、信じることができた。
全ては、彼女の、インデックスのお陰だった。
***
景色が変わった。
そこは上条が通う高校の一年七組の教室。今ではもう見慣れた場所だ。
ただ、自分の他には誰も居ない。小萌先生さえも。
ここまでガランとした教室に一人で居ることは中々ないので、新鮮さを覚える。
窓からは夕陽が差し込んできているのが分かる。
この辺は現実の時刻とリンクしているのだろうか。
上条はそんな茜色の空をぼーっと眺めながらぼんやりとする。
食蜂の言った通り、本当に夢をみているようだった。
その時考えていた事や感情も全て忠実に再現されていた。これも食蜂の能力によるものなのだろう。
「ふふ、面白いでしょぉ?」
その声に、上条は視線を空から黒板へ移す。
教壇の前に、食蜂が立っていた。服はなぜか上条の高校の女子用の冬服になっている。
それでもどことなくお嬢様っぽさが出ているのは、植え付けられた彼女のイメージによるものか。
彼女は穏やかに微笑んでいた。
つられるように、上条も口元を緩める。
「……こんな事もできるんだな。さすがレベル5だ」
「えぇ、人の記憶っていうのは時間と共に忘れていったり曖昧になったりする部分があるんですけど、私の能力で再び明確化させる事ができるんです。
人間、忘れている事でも深いところに残っていたりするんですよ。一度削除したデータを復元することができるように。流石に上条さんみたいに脳細胞ごと吹き飛ばされているのは無理ですけど」
「それでも十分すげえよ。本当にあの時に戻ったみたいだった」
「そうですね。感情、記憶全てが当時のもので再生されますから。上条さんがインデックスさんの事を考えるのにも役立つと思いまして」
「あぁ、色々考えさせられた」
インデックスがどれだけ大切な存在であるか、そしてその理由。
それは今の記憶を再び確認したことで、よく思い知ることができた。
「でもぉ、これって使い過ぎは禁物なんですよぉ。人によっては過去の記憶にだけすがって現実に戻って来ないような人も居たりしますからぁ」
「マジで?」
「えぇ、実際にそんな人が居ました。そういう人達でも無理矢理現実に引きずり出しましたけど、その後カウンセリングやらなんやら受けるはめになっちゃって」
「おいおいおい、お前はそんなもんを俺に試したのかよ」
「ふふ、上条さんならきっと大丈夫だと思いましたよ。だって過去に引きこもるなんてやりそうにないですし」
「……まぁ、それはそうだけどさ」
今の上条は現実逃避している場合ではない。インデックスのこともあるのだ。
ただ、そうやって過去に引きこもってしまう者達の気持ちも分からなくはない気がする。
楽しかった時の記憶ばかりを再体験すれば、現実を軽視してしまうのも無理もないのかもしれない。
それと、記憶が無い上条にはあまりピンとこないのだが、小学生頃の夏休みが凄く楽しかった、あの頃に戻りたい、などと言っている者達も結構居る。
だが、今はインデックスの事を考えるのに集中しなければいけない。
「操祈、他にも行きたい記憶があるんだ。いいか?」
「えぇ、好きなだけどうぞ」
そう言って、食蜂は右手を軽く振る。
すると、黒板の前にいくつかの扉が出現した。その上部にはそれぞれ日付が書かれている。
「今上条さんが行きたいと思っている記憶はざっとこんな感じでしょうか」
「何でもお見通しってか」
「だってここも上条さんの精神の中ですしぃ」
上条は小さく苦笑すると、席を立って前の扉に近づく。
そしてそのドアノブを掴むと、顔を食蜂の方に向ける。
「ありがとな。今度何か礼をする」
「何言ってるんですかぁ、元々私には上条さんに恩がありますし、これでも全然返しきれてないくらいですよ」
「恩ってな……別にそこまで気にしなくていいぞ? そういうのって大体いつも俺の好きなようにやった結果だし、言い出したらきりねえよ」
「それでも、です。私の気持ちだと思って受け取ってください」
「……あぁ、分かった」
上条が笑みを向けると、同じように彼女も返してくる。
やはり、人というものは少し向き合ったくらいでは何も分からない。
今まで色々あったが、上条はこうして食蜂と知り合えて良かったと、心の底から思う。
そしてできれば彼女も同じような事を思っていてくれたら、とも思う。
上条はドアノブを回して中へ入る。
途端に意識は混濁し、暗闇の中へと落ちていった。
それから、インデックスに関わる様々な場面を再体験した。
こうして振り返ってみると、本当に彼女と関わっている時間が長かったのだと実感する。
例えば絶対能力進化実験の時など、インデックスがあまり関わっていないものであっても、最後には彼女が側に居た。
インデックスは、上条の帰る場所だった。
例えどれほど悲惨な戦場に身を投じても。
例えどれほど遠く離れた場所にいても。
最後に笑顔で迎えてくれるのはインデックスだ。
いつもの部屋で、いつものようにドアを開けるとそこに居て。
上条が怪我なんかをしていると頬を膨らませて怒ったりもして。
それでも、結局はお互い笑顔になっている。
記憶が無い上条にとっては、彼女とは両親よりも長い時間を共に過ごした人だ。
一緒に居るだけで心が落ち着き、例え二人の間に会話がなくても居心地がいい。
お互い迷惑もかけるし、心配もかける。
そしていつだって互いが互いの味方。もし世界中が上条の敵に回ったとしても彼女だけは味方でいてくれるし、その逆だってそうだ。
それがきっと、家族というものなのだろう。
パズルのピースがはまっていく。
もちろん、刀夜や詩菜の事を親だと思っていないという事ではない。
二人と過ごした時間はまだまだ少ないが、それでもどれだけ自分のことを大切に思ってくれているのかはよく分かっている。そして上条もそれに応えたいと思っている。
ただ、今の上条にとっては家族と言われると真っ先に浮かんでくるのがインデックスなのだ。
記憶喪失のすぐ後などは特に、彼女の存在は絶対だった。
彼女が他の誰かの元に行ってしまう事を想像するだけで、心に絶望が広がって何も考えられなくなった。
彼女の笑顔は自分に向けられているのではなく、以前の上条当麻へのものである事に悩んだ。
まるで何かの劇のように、自分が自分以外の誰かの役を演じている感覚が続いた。
だが、それも次第に変わってきた。
以前の上条当麻がどれだけ彼女のことを大切に思っていたのか、それは分からない。
それでも、今の上条にとっても彼女は本当に大切な存在だ。
そこは今も昔も関係ない。いや、それこそが以前の上条当麻と自分を繋ぎ止めているものだった。
これはただの希望にすぎないのかもしれないが、例え記憶を失っていなかったとしても、今までの行動は変わっていなかったと思うようになっていた。
今まで体験してきたどの事件でも、以前の上条当麻は変わらずに手を差し伸べていたのだろう。
それが、全てを賭けてでもインデックスを守ろうとした上条当麻だと思うから。
記憶は失ったとしても、心は残っている。
少しも科学的ではないこの考えだが、きっと正しいはずだと上条は今だって信じている。
上条は目を開ける。
そこに広がっていたのは、茜色の空と見渡す限りの山々だった。
ここはもう上条の精神の中ではない。現実に戻ってきた。
右隣では食蜂が微笑みながらこちらを見ていた。
僅かな風にサラサラとした金髪をなびかせるその姿は、夕焼けに染まる空と相まって絵画的な美しさを感じさせる。
「何か掴めましたか?」
「……あぁ。やっぱ前に操祈が言っていたことは間違ってなかったんだと思う」
「え?」
「俺がインデックスの事を娘のように思っているってやつ」
「でもそれって私、上条さんとインデックスさんを離そうと思って言った事ですよ?」
「それでも、だ。ほら、俺って記憶がないからさ。一番長い間一緒に居るインデックスの事は本当に家族のように思ってるんだ。
最初の頃はアイツが側から離れて行ったらどうしようってすっげえ怖かった。たぶん、それが今でも心のどこかに残ってるんだ」
「…………」
「はは、情けねえよな。俺は俺だって威勢の良い事言っておきながら、心の奥ではまだそういう怯えがあるんだ。
インデックスはもう記憶喪失の事は知ってるし、今の俺も受け入れてくれてる。それでもまだ俺はアイツにすがりついてる。
アイツが側から居なくなったら、俺の存在自体の意味が薄くなるなんて思ってる。これじゃ娘というか、俺が親離れできない子供みたいなもんだ」
上条はそう自嘲すると、真っ直ぐ空を見上げる。
太陽は西の空へと沈んでいく間際で、最後の輝きを放っている。
光があればそこには影もあるように。
上条の心の中の暗い部分はどれだけの月日が流れても根強く残っている。
普段はその姿を見せていなくても、ふとした時に表に出てくるものだ。
食蜂はじっとこちらを見ていた。
そして何かを言おうとして中途半端に口を開き、躊躇する。
「ん、どうした? 何かあったら教えてくれ。俺もまだ掴みきれてないとこともあるかもしんねえ。自分のことなんだけどさ」
「……いえ、何でもないです」
「そうか?」
上条の視線から逃れるように、食蜂は景色の方に顔を向ける。
その様子に、上条は何かまずい事を言ったのかと心配になる。
夕陽に照らされたその横顔は、美しくも悲しげなものだった。
どうして彼女がそんな表情をするのか、上条には分からない。その表情は美しいものではあったが、いつまでも見ていたいものではなかった。
少しの沈黙が二人の間に流れる。
辺りには人もいないので、お互いが黙ると風が木々を静かに揺らす音しか聞こえなくなる。
すると。
「やっぱり私って、すっごく性格の悪い女なんですね」
ポツリと彼女の口から漏れだした言葉。
それは簡単に風にかき消されてしまうほど小さく弱々しいものだった。
彼女はとても悲しそうな表情で笑っていた。
彼女が何を思い、そのような事を言ったのかは分からない。
しかし、それがどのような理由だとしても、上条はそんなものを見せられて黙っている事などできない。
「そんな事ねえよ」
「上条さんは優しいです。でも、気をつけてください。あなたのその優しさを利用してくる人は絶対に居るんです」
「……それがお前だって?」
「はい、その通りです」
そう言う彼女は、触れればすぐに壊れてしまいそうだった。
だからこそ、上条は踏み込まなければいけない。
「利用するとかどうとか、いちいち気にすんなよ」
「え……?」
「例えお前にどんな考えがあったとしても、俺はこうして協力してくれた事に感謝してるんだ。だから、それでお前にも何か良い事があるんなら、俺としても嬉しい」
「違うんです。私は私のことしか考えてません。上条さんの気持ちなんか考えずに、ただ自分の目的を果たせるように動いてるだけなんです」
「それでいいさ」
「どうしてですか! この間私のせいであんな事になったのに、なんで!」
「もうあの時から操祈は随分変わってる。俺は精神系の能力者じゃないから頭の中は読めねえけど、それでも電車の中の涙や今日一日の笑顔はウソじゃねえってのは分かる。
遠慮してんじゃねえよ。ちょっとくらいのワガママなら笑って許してやるし、それで済まないんならもう一回ケンカして仲直りするだけだ。それが友達だろ」
「…………」
「つーか、そんだけ悩みまくってるのだって、俺のことを考えてくれているからこそだろ?
本当に性格が悪いなら、そういう怪しまれるような仕草は見せないだろうに。お前ならそういうのを上手く隠すのは得意だろ? けど、それをやらなかった。
俺は絶対お前を見捨てたりしねえから安心しろって。俺の周りには一度殺し合いをした仲ってのも珍しくないんだぜ? 上条さんは懐が広いんですよっと」
そう言って笑顔を向ける上条に、食蜂は目を丸くして呆然としていた。
上条はそんな簡単に人を切り捨てたりはしない。一度間違ったことをしたとしても、その相手がいつまでも敵である必要などどこにもない。
人間、生きていれば数えきれないほどの間違いを犯す。その度に様々な事を学び、成長していく。
食蜂はその能力の影響で気付きにくいのかもしれないが、互いの本当の気持ちが分からないというのは当たり前な事だ。
誰だって心の底では何を思っているのかは分からない。友達だと思っていた者が、本当は自分のことを心底嫌っているかもしれない。
結局は、きっと相手も友達だと思っていてくれていると信じるしかない。
そして、いつかその信用が試される時がくるかもしれない。
その時に互いの友情を確認できればいいのだが、もしかしたらそうではないかもしれない。
友達だと思っていたのは自分だけだったという結果が返ってくるかもしれない。
それでも、上条はそこで相手との関係を断つことはないだろう。
例え相手との絆が繋がっていなかったとしても、こちらから伸ばし続ける事はできるはずだ。
いつかはそれが繋がってくれる時が来る。そう信じて。
それからまた少しの沈黙が流れる。
そのまま何も言わずに、再び食蜂は上条の肩に頭をコトンと乗せた。
上条は少し驚いて、そちらに顔を向ける。
彼女は気持ちよさそうに目を閉じていた。夕陽がその綺麗な金色の髪をより一層輝かせている。
「……上条さんみたいな人はとても珍しいと思います」
「そうか?」
「えぇ。だって大多数の人は一度裏切られた相手にここまで構ってなんかくれませんよ」
「あー、そういや前にバードウェイから『イカれてる』とか言われた事あったっけな……」
「ふふっ、確かにそうですね」
「そこは一応否定してくれよ」
「いいんですよ、ちょっとくらいイカれてくれていた方が。私にとってはね」
「そうなのか?」
「えぇ。だって、まともな神経の人が私と一緒に居られるはずがないんですから」
そんな事を平然と話しながら、食蜂はさらに頭を上条の肩に擦り付ける。
それはまるでじゃれつく猫のようで。
きっとここまで甘えられる相手が今まで居なかったんだろうと、上条はぼんやりと考え少し寂しい気持ちになる。
彼女はゆっくりと目を開けた。
キラキラと輝く瞳は、真っ直ぐこちらに向けられる。
ただ風の音だけが時折聞こえる、夕暮れの空の下。
二人の間に言葉はなく、その視線だけが交差している。
そして、次第にその距離は縮まっていき――――。
「 だ か ら 何 で そ う な る」
ガシッと、上条の左手が食蜂の頭を押さえた。
昼間と同じような光景。
だが、今回はそれだけで済まなかった。
「えいっ☆」
ピッという電子音を聞いた時は手遅れだった。
食蜂の頭を押さえていた左手はダランと力なく下ろされてしまう。
おそらく頭から送られる信号を弄られて、左手を動かせなくさせられたのだろう。
「ぐっ、残念だったな、俺にはこの幻想殺し(イマジンブレイカー)が……ッ!!」
「ふんっ!!」
ガシッと右腕を両手で力いっぱい押さえつけられた。
元々位置的に食蜂は右隣に居たので、上条からすれば不利だ。
「いっ!? お、おい、待てって!!!」
「んー……」
「よ、よし、じゃあ頬!! 頬にしろって!! おい聞いてんのか!?」
上条の言葉を無視して、食蜂の顔がどんどん近付いてくる。
このままいけば確実に唇コースだ。
その後もろもろの展開を考えるに、それだけは何としてでも避けなければいけない。
だが、この絶体絶命な状態を打破する手段が思いつかない。
彼女の柔らかそうな唇が迫ってくる。
そして上条が諦めかけたその時。
「何やってんのよアンタらァァああああああああああああ!!!!!」
「うおっ!?」
「きゃあ!!」
ズバチィィィ!!!!! と目も眩むような閃光が駆け抜けた。
それらは幸いこちらには当たらなかったのだが、周りの手すりに命中して心臓に悪い音が響き渡る。
誰だ、という疑問は出てこない。
先程の怒声から、今の電撃が誰からのものかなんていうのはすぐに分かる。
そもそも、いきなり派手な電撃をぶちかましてくる相手など一人しか思いつかない。
上条は振り返りざまに口を開く。
「お、おい、殺す気かよ御坂!」
「うっさい!!! 全部アンタ達が悪い!!!!」
案の定、そこには腕を組んでバチバチと帯電した御坂美琴が居た。
夕日のせいでそう見えるのかもしれないが、顔が真っ赤だ。
食蜂は心の底から悔しそうな表情で、
「くっ、なかなかの妨害力ね、御坂さん。でもハッキリ言って迷惑すぎるから今すぐ消えてくれないかしらぁ?」
「んな事できるわけないでしょうが……アンタ今何しようとしてた……?」
「キスだけどぉ?」
「そそそそそんなの許されるわけないでしょ!!!」
「どうして上条さんにキスするのにいちいち御坂さんの許可が必要なのかしらぁ?」
「そ、それは……」
食蜂の言葉に押され、美琴は口ごもる。
そしてなぜかこちらを恨めしげに睨みつけてくる。
そんな美琴の視線に押されるように、上条はとりあえず口を挟む。
「あー、けど助かった御坂。俺もあのままじゃまずかったしさ」
「ッ!! そ、そうよね!! 好きでもない奴にキスされたくないもんね!!」
「むぅ……上条さんは私とキスしたくないんですかぁ?」
「あ、あのなぁ、お前のために言っておくけど、キスってのはそう簡単にするもんじゃねえと思うぞ?」
「わ、私は――っ!」
ムキになって何かを言い返そうとしたところで、食蜂は何かを思ったようで止まってしまう。
それを見て上条と美琴は首を傾げるが、彼女はそれも気にせずにブツブツと何かを呟いている。
「……いや、これはまずいわねぇ」
「おーい、どうした?」
「あ、いえ、なんでもないですよぉ。まぁ無理矢理するっていうのもアレなので、ここは大人しく引き下がっておきますぅ」
「アンタ、絶対今何か企んだでしょ」
「ひっどーい御坂さん!」
「いやそう思われても仕方ねえだろ……」
「むぅ、というか、上条さんもこんな美少女とキスするのを嫌がるなんてどんな神経してるんですかぁ。やっぱりイカれてますよぉ」
「へーへー、けどイカれてる方がいいって言ったのはお前だかんなー」
「うぐっ……」
「一体何の話してんのよアンタら……。つか、そろそろ宿に戻るわよ。麦野はもう先行っちゃったし」
「分かったわよぉ」
そう言って、美琴の後を追う食蜂。
上条もそれに続こうとして、ふと立ち止まった。
後ろを振り返ると、そこには雄大な山々が夕日の光を浴びて変わらず美しい景色を作り出している。
別に、その景色が名残惜しかったというわけではない。
ただ、少し考え事をしたかっただけだった。
すると、そんな上条に気付いたのか、食蜂の言葉が後ろから飛んでくる。
「上条さぁん?」
「……なぁ、操祈」
「はい?」
「確かに俺はちょっとおかしい奴で、お前と友達でいるには丁度いいのかもしれないけどさ――」
上条は一旦そこで言葉を切り、彼女の方を振り返る。
「――操祈なら、いつかはまともな奴等とだって友達になれると思うぞ」
食蜂は驚いた表情を浮かべたが、すぐにそれは優しい笑顔に変わった。
二人の間に言葉はなかったが、何となく互いの気持ちは理解しあえていたように思えた。
例え、それが単なる気のせいだったとしても、そう思うことができた。
***
カポーンと、軽い音が響く。
ここは上条達の泊まる宿の女風呂。
温泉街というだけあって、なかなか立派な露天風呂が備え付けられており、そこに四人の少女が肩まで浸かっていた。
「はぁ……日本のお風呂は世界一なんだよ……」
「ちょっとアンタ、その調子でのぼせるんじゃないわよ」
「んー」
「けどそこのシスターがダウンしてくれてた方があんた達にとっては都合いいんじゃない? 気兼ねなく上条に夜這いでも何でも仕掛けられそうだしさ」
「ぶっ!!! だ、だだだ誰がそんな事するかっ!!!」
「え、御坂さんはしないのぉ?」
「しないわよ!! つーかアンタにもさせないし!!!」
「みこと、ちょっとうるさいかも」
「ぐっ……」
インデックスに注意され、美琴は口元まで湯に浸かってブクブクと腑に落ちない表情を浮かべる。
そうやって目線が下がった所で、
「……やっぱでかいわねちくしょう」
「んん? あー、胸のことぉ? でもこれはこれで大変なのよぉ、肩とか凝っちゃってぇ。御坂さんは楽でいいわねぇ」
「ケンカ売ってるようにしか聞こえないんだけど」
「まぁ上条には効果あるっぽいわね。浜面と同じで巨乳好きっていう単純な脳内構造してるみたいだし。
あんたのそのあってないような貧乳じゃアレはピクリとも反応しないだろうね」
「しずり、下品」
「はいはい」
麦野は気のない返事をするが、おそらく改める気はないだろう。
とりあえず美琴は目に毒な巨乳二人から視線を逸らして、インデックスの方を向く。
「インデックスはもうちょっと胸が欲しいとか思わないわけ?」
「んー、思わなくもないけど大きくならないものは仕方ないんだよ。努力をしても成果がでないのなら、せめて悩んでいる素振りを見せずに堂々としていた方が立派だって舞夏が言ってたかも」
「な、何よその達観したようなセリフは……サイズ的にはそこまで変わらないはずなのに、妙な敗北感を覚える……!」
インデックスの言葉を聞くと途端に自分が余裕のない人間に思えてきて、少し凹む美琴。
そんな彼女に、今度は食蜂がジト目で話しかける。
「ていうか御坂さんは全体的に必死すぎるのよねぇ。今日だって何よぉ、人のデート邪魔してぇ」
「それはアンタが悪いっての。いきなりキスとか何考えてんのよ」
「へぇ、そこまでやろうとしてたんだ。御坂も見習いなさいよ」
「いやよ。大体、キスってのはそんな簡単にするもんじゃないでしょ。
ほら、例えば初デートの時に夜景の綺麗な場所まで行って、二人がキスする瞬間に丁度花火がバーンって……」
「はいはい、ドラマの世界にでも行ってくればぁ?」
「な、なによ! ちょっとくらい夢見たっていいじゃない!」
「私もそれは流石にないと思う」
「インデックスにまでダメだしされた!?」
どうやら美琴の少女趣味はここでも理解されないようだ。
だがこれはあくまで、ここに居る少女達が特殊な環境で育ってきたから理解されないだけであって、自分は中学生女子としてそこまでおかしくないと思いたい美琴。
といっても、彼女の趣味は初春や佐天といったごく普通の女子中学生にまで否定されてしまっているので、実はもう言い訳不能だったりもする。
そんな落ち込む美琴をよそに、麦野が思い出したように、
「そういや、今夜のアレ。風呂から出たら動くけどいいわね?」
「今夜……ってもしかして牧場で言ってたやつ、本気でやる気!?」
美琴は慌てて麦野に聞くが、相手は本気のようだ。その表情もいかにも楽しそうである。
その辺りの話を知らないインデックスと食蜂がキョトンと首を傾げたので、麦野は二人にも説明する。
全てを聞いた食蜂は普段から輝いている目を更に輝かせて、
「面白そうっ! いいわぁ、望むところじゃなぁい!!」
「んー、相手がとうまじゃあんまり期待できないと思うけど……」
インデックスは疑問の表情を浮かべているが、別に反対というわけではなさそうだ。
麦野は二人の様子を見ると、ニヤニヤと美琴の方を向いて、
「こいつらは特に反対はしてないみたいだけど、あんたは?」
「あらぁ、もしかして御坂さん、自信ないのぉ?」
「ぐっ……分かったわよ! いいわ、ハッキリさせようじゃない!!!」
売り言葉に買い言葉でまんまと麦野の思う通りに事を運ばれてしまう美琴。
レベル5の序列では優っていても、こういった所では麦野のほうが何枚も上手のようだ。
と、その時。
『じゃごべっ!!?』
隣の男湯から聞こえてきたのは痛々しい叫び声だった。続いて、バッシャァァ!! と派手な水音も聞こえる。
露天風呂はゴツゴツとした岩の壁一枚で男湯と女湯が区切られているため、あまり大きな声を出すと双方に丸聞こえのようだ。
麦野は完全に呆れた様子で、
「……今のは浜面か。何バカやってんだか」
「へぇ、声聞いただけで一発で誰だか分かるんだぁ。もしかしてぇ……」
「食蜂、やめときなさい」
「えぇ、でもでもぉ…………分かった、分かったってばぁ」
ニヤニヤとからかう気満々の食蜂だったが、麦野の表情を見て大人しく引き下がる。
この場で能力を使われては食蜂には対処する手段がなく、簡単に真っ二つにされてしまうからだ。
それから麦野は小さく舌打ちをすると、話題を変えるためかすぐに口を開く。
「そういや、よく上条達を見つけられたわね御坂」
「そりゃ苦労したわよ。あちこち飛び回って聞き込みとかも沢山して……」
「必死すぎぃ。ストーカーの気質あるわよぉ」
「なっ……そんな事ないわよ! 」
ストーカーと言われると、すぐに白井黒子の事が頭に浮かぶ美琴。
流石にあんなのと同類にされるというのは勘弁してほしかった。
「まぁでも、とうまならストーカーくらいは笑って許してくれるかも」
「だ、だから私はそんなんじゃないってば!!」
「あー、確かに日頃の上条さんへの御坂さんの行いを見れば、今更どんな汚名が追加されてもそこまで影響ないかもねぇ。
ビリビリ中学生がビリビリストーカー中学生に変わるだけだしぃ」
「いや明らかに犯罪係数上がってるわよねそれ」
「いちいち気にすんじゃないわよ。私だって何度浜面のことを本気で殺そうとしたか」
「アンタの場合は洒落になってないっての。ていうかさ、食蜂。アンタに一つ聞きたいんだけど」
「んー?」
「あのバカ、どうしてアンタの事『操祈』とか名前で呼んでるわけ?」
地味に気になっていた事だった。
相手を名前で呼ぶということはそれなりに親しい関係になってからでないとやらない事だと思う。
美琴もたまに名前で呼ばれる事はあるのだが、基本的には苗字だ。
この短い間に上条と食蜂の関係に何か変化が起きたのか。
同じ男に恋する少女としてみれば、それはかなり重要な事だった。
しかし、当の本人は何でもないように、
「ただ私が『操祈って呼んでください』って頼んだだけだけどぉ?」
「……へ?」
何か肩透かしをくらった気分になる。
聞いてみれば別に美琴の心配していた事は起きていなく、何でもない簡単な理由だった。
そんな美琴を見て、食蜂は少し呆れたように息をつき、
「何よその顔はぁ。別に名前で呼ぶことくらい、そこまで大袈裟な事ではないでしょぉ」
「そ、それは……そうかもしれないけど……」
「どうせ、『私もアイツに名前で呼んでもらいたい!』とか思ってんでしょ」
「う、うっさい! 悪い!?」
「別に悪くはないと思うけど、それならとうまに直接言えばいい話かも」
「…………」
美琴は少し考えてみる。
確かに名前で呼んでもらうというのは正直羨ましい。
お互いの呼び方というのはその親密度を表すものでもあり、名前呼びというのはかなり仲が良いと考えてもいいだろう。
まぁ、それを言ってしまうと、美琴は上条のことを未だに「アンタ」やら「あのバカ」としか呼んでいないので、まずは美琴の方から変える必要があるようにも思えるが。
ただし、いざ具体的にどのように頼もうか考えた時。
『「美琴」って、呼んで?』
頭の中に小首を傾げて上目遣いで頼む自分の姿が浮かんできた。
「んな事できるかああああああああああああああ!!!!!」
ザバァァ!!! と思わず勢い良く立ち上がってしまう美琴。
その顔が真っ赤なのは、何ものぼせたとかいうわけではない。
それに鬱陶しそうに顔をしかめたのは麦野だ。
「ちょっといきなり騒いでんじゃないわよ。湯が飛ぶっての。
そもそも呼び方を変えさせることくらいできないで、何が絶対に負けない、よ。告白以前の問題だろそれ」
「い、いや、付き合ってから呼び方変えるカップルだって沢山居るわよ! 私はそれでいい!!」
「みこと、一つアドバイスするけど、とうまは押しまくらないとまず土俵にも上がれないと思うんだよ」
「あー、それわっかるー。考えてみればスーパー鈍感男にツンデレって相性最悪よねぇ。
感がいい男なら御坂さんの態度見てればバレバレだし、逆にそれが可愛く見えるかもしれないけど、分からなかったらただ自分にキツく当たってくる嫌な女でしかないわねぇ」
「えっ!?」
「あ、あはは、まぁでもとうまはみことの事はそんなに悪くは思ってないんだよ。まさか好かれてるとは思ってないと思うけど」
苦笑いを浮かべながらも、一応フォローするインデックス。
美琴は再び肩まで湯に浸かりながら、少し真剣に考え込む。
確かに、今までの行動を見返してみても、いい雰囲気の時なんていうのは存在しなかった気がする。
「で、でも、ほら、ケータイのペア契約とかもしたし……それなら流石にアイツだって何か思うことくらい……」
「何にもなかったわよぉ。ソースは私の心理掌握(メンタルアウト)」
「…………」
「ペア契約までやっといて何も思われてないって、一体どうしたらそんな事になるのよ」
麦野が呆れたように言う。
それはペア契約に至るまでの口実が罰ゲームやらゲコ太やらであった事によるせいなのだが、もはやそれを説明する気力もない。
いい機会だったので、その後も食蜂に上条の事を色々聞いてみる。
今までの接触の中にどこか上条が自分を意識してくれた時はなかったのか
だが、答えは美琴にとって全く喜ばしいものではなかった。挙げ句の果てには割と最近の恋人限定のレストランに入った事でさえ、上条にとっては不幸の一つとしてカウントされているらしい。
あらかた聞き終えた美琴は真っ白に燃え尽きていた。
もう全て食蜂のウソっぱちだと思いたかったが、悲しいことに、彼女の言葉が事実であるほうが今までの上条の反応に納得できる。
美琴のその惨状を見て、麦野までもが微妙に気の毒そうな表情を見せる。
インデックスも麦野も、とりあえず止めを刺してしまった食蜂が何か言うように目で合図する。
そして、食蜂が苦笑いを浮かべながらフォローの言葉を紡ごうとした時だった。
――――隣の男湯から、騒がしい声が聞こえてきた。
***
時は少し戻って男湯。
露天風呂には上条達四人が温泉地の湯を堪能していた。
上条はぼーっと空を眺めて、
「生き返る……」
「なんか本気で人生苦労してる感じがひしひしと伝わってくるな」
そう突っ込んだのは浜面だ。
プールの時も思ったが、やはり鍛えているだけあってその肉体はかなりの筋肉がついており、たくましい。
能力が使えないレベル0が暗い世界で生きていくには体を鍛えるしか無く、その時の名残といったところか。
一方で、レベル5の垣根もそれなりの体型ではある。
問題なのは学園都市第一位の能力者だ。
元々白い肌に加えて極めて細いその体からは、不健康という印象しか浮かんでこない。
浜面は気の毒そうに見て、
「……お前もちょっとは鍛えたらどうだ? 見てるこっちまで不健康になりそうだ」
「別に日常生活で苦労はしてねェ。つーか、俺だって少しは鍛えてる。以前と違って常に能力を使える訳じゃねェからな」
「鍛えてそれかよ……触ったら折れそうだぞそれ」
「だから触ったらオマエの手を折るぞ」
鬱陶しそうに浜面の言葉を流す一方通行。
すると今度は垣根がニヤニヤと口を挟む。
「能力なしのケンカだったら最弱だなお前」
「うるせェ。能力者に対して『能力なしだったら』なンていう条件付けてる時点で間違いなンだよ」
「……そういや垣根さぁ」
「ん?」
突然気の抜けた声で話す上条。
そして頭上の星空に向けられていた視線を垣根に移すと、
「なんかあったのか? なんつーか、妙にスッキリしたっつーか」
「……それは」
言いにくそうに言い淀む垣根。
そんな様子を見た浜面は苦々しい表情を浮かべて、
「まさかションベンでも垂れ流してんじゃねえだろうな」
「ホントにやるぞコラ」
「おいやめろバカ!!!」
浜面はそう言うと慌てて垣根の近くから離れる。
海やプールと違って、元々体を洗うための場所に小便を垂れ流す行為というのは相当極悪な所業だ。
一方通行はそんな二人をくだらなそうに眺めつつ、
「何でもそいつ、少しは良い子になるつもりらしい。似合わねェ事この上ねェけどな」
「え、垣根が?」
上条は意外に思って聞き返す。
こう言っては何だが、とても本人がそんな事を言うとは思えない。
そして案の定、
「んな事言ってねえ。ただ、その、なんだ――」
「ん?」
「俺がクソみてえな世界でしか生きられない奴だと思われるのが癪なだけだ。
そこの第一位のクソヤロウがやけに上から見下してきやがるから、俺だってその気になればいつでもまともに生きられる事を教えてやるのも悪くねえってな」
そんな垣根の言葉を、呆然と聞く上条と浜面。
言葉こそは乱暴なものだが、要はあの第二位が改心して普通に生きていくと言っているのだ。
それから少し考えた後、浜面が口を開く。
「つまり結局はお前もまともに生きたかったってわけか」
「ちっげえよ。勝手に一方通行のヤロウに勝ったと思われるのがムカつくっつってんだよ」
「素直じゃねえなぁ」
そう言って溜息をつく浜面は、それでもどこか嬉しそうだ。
闇から抜け出そうとする仲間が増えて喜んでいるのだろうか。それか暗部時代に自分と滝壺を見逃してくれた事から、彼の中に僅かな善性を見ていたのかもしれない。
上条もまた口元に笑みを浮かべて、
「まぁ、頑張れよ。お前なら何とかなるさ」
「んな簡単にはいかねえだろ。ったく、他人事だと思いやがって」
「そんなんじゃねえって。だってほら、一方通行がここまでまともになってきてるじゃねえか。それなら誰だって大丈夫だろ」
「……確かにそうだな」
「…………」
上条と垣根の会話を聞いて明らかに気分を害した表情になる一方通行だったが、特に反論する言葉も思い浮かばないのか何も口を挟まない。
垣根は両手を頭の後ろに置いて、ぼんやりと頭上の星空を見上げて、
「けどなぁ、まともになるっつってもまずどうすりゃいいんだ」
上条は少し考える。
「まとも」という言葉は抽象的であり、個人個人でその基準がまちまちである事も多いだろう。
例えば、今まで一度も学校に来なかった不良が一週間に一度だけ登校してくるようになったとして、それはまともになったと言えるのだろうか。
確かに一度も来ないよりかは幾分かマシになったとは言えるかもしれないが、それでも一般的にまともと呼ぶにはまだ程遠いだろう。
というか、そういった事で言えば出席日数が際どい所までいっている上条だってまともとは言えないはずだ。
「……んー、まぁとりあえず働くか学校行くかした方がいいんじゃねえのか。もちろん、働くっつっても普通の仕事だぞ」
「学校か仕事……ねぇ。そういや、一方通行は学校行ってんだっけか?」
「お前に教える義理はねェ」
いかにも面倒くさそうに舌打ちをしてそっぽを向く一方通行。
そんな態度にこめかみをピクピクさせる垣根だったが、横から浜面が、
「あれ、一方通行は長点上機じゃごべっ!!?」
言葉の途中で一方通行の拳が顔面にめり込み、全裸で宙を舞う浜面。
そのままバッシャァァ!! と水しぶきをあげて再び風呂に落ちた。
一方通行は忌々しそうに舌打ちをして、
「別に通ってるわけじゃねェ。籍を置いてるだけだ」
「……へぇ。なら俺が普通に学校に通ったらお前よりまともって事になるな?」
「あ?」
ニヤニヤと口元を歪める垣根に、一方通行は思い切り嫌そうな表情を向ける。
「よし、決めた。俺学校に行くわ。長点上機」
「おい」
「テメェはせいぜい不登校続けてるんだな。それがお似合いだ」
「待てよクソヤロウ。オマエが学校行くかどうかなンざ知ったこっちゃねェが、なンで長点上機なンだよ」
「別に。特に理由はねえよ。まぁどっちにしろ籍置いてるだけのテメェには関係ねえだろ」
「…………」
何も言い返せずにただ垣根を睨みつける事しかできない一方通行。
そんな彼を放っておいて、垣根は上条の方に顔を向けて、
「おい上条、長点上機は編入試験とかやってんのか?」
「どうだったかな、んなトップ校調べた事ねえし……つか、仮にやってたとしても急いだほうがいいぞ。今がちょうど入試の時期だし」
ぼんやりとそう答える上条。
といっても相手は学園都市の第二位だ。例え編入試験を逃したとしても、色々な手を使って入らせてくれる気もする。
そこで浜面が殴られた頬を擦りながら、
「けどお前普通に学校生活送れんのか? ちょっとムカついて相手をぶっ殺すなんてのはアウトなんだぞ?」
「分かってる。その気になれば俺だってすぐ溶け込めんだよ」
「どうだかなァ。その根っからのチンピラ根性でクソみてェな不良にしかならねェンじゃねェの」
「んだとコラ!! 不登校の引きこもりヤロウには言われたくねえな!!」
「あァ!? 誰が不登校の引きこもりだ!!」
「テメェだテメェ! どうせ一匹狼の俺カッコイイとか勘違いしてんだろ、このぼっち厨二病が!」
「オマエにだけは言われたくねェよ! 何が『ダークマター』だ、恥ずかしすぎてこっちまで鳥肌立つなァおい」
「言っとくがテメェの『アクセラレータ』だって似たようなもんだからな!? おまけにロリコンまでこじらせてるとか救いようがねえな」
「ブチ殺す!!!!!」
「おい落ち着けって……」
仕方なしに上条が溜息をつきながら仲裁に入る。
もしも垣根が能力を使えたのなら、今すぐ宿が吹き飛ぶ規模のケンカが始まるところだっただろう。
ただ、今は一方通行の一方的な虐殺にしかならない。
と、上条が一方通行を、浜面が垣根を抑えていた時。
『んな事できるかああああああああああああああ!!!!!』
隣の女湯から大声が聞こえてきた。
宿の方にも聞こえているのではないかとも思える程の大音量に、男四人は思わず固まってしまう。
上条は呆れながら、
「御坂か、今の。なんかテンション上がりまくってるみてえだけど、勢い余ってこっちに雷とか落ちてこねえだろうな」
「……そういやさ」
そう言って切り出したのは垣根だった。
何やらやたら考え込んでいる様子だ。今の大声のどこにそこまで考え込む要素があっただろうか。
しかし本人は真剣な表情で、
「こういうのって学校の修学旅行ってやつに似てねえか? 行ったことねえけど」
「ん? あー、まぁ確かに似たようなものかもしれねえな。上の人達から行けって言われて来てるわけだし」
そう言う上条も記憶喪失の関係で修学旅行の事は覚えていない。
ただ何となくどういったものかというのは、イメージとしては存在している。
すると今度は浜面が、
「けど、それがどうかしたのか?」
「いや、それなら本番の練習になると思ってよ。学校に通うようになってからのな」
「修学旅行の練習とか聞いたことねえぞ……」
「そこで、だ」
やけにテンション高めに垣根はある方向を指差す。
上条と浜面がそちらへ目を向けると、そこには男湯と女湯を区切る岩の壁があった。
二人の背中を冷たいものが伝っていく。
これから垣根が何を言うのか何となく予想できる。そしてそれが生死にかかわる恐ろしい事だというのも。
浜面は顔面蒼白にしてなんとか口を開く。
「おいバカやめろ」
「聞いたことあるぜ、修学旅行の風呂。隣には女湯。やることは一つしかねえ」
「――のぞきだ!!」
そう言った瞬間、垣根はバシャバシャと湯の中を岩の壁まで走っていくと、それをよじ登り始める。
壁といってもそれなりの凸凹はあるので、能力が使えない垣根でもロッククライミングの要領で十分登れるものだ。
ただ、全裸で壁をよじ登って行くイケメンというのは何とも残念な画だった。
そんなシュールな光景に本気で戦慄したのは無能力者二人だ。
「おい待てって!! マジでやべえっての!!! 麦野とか絶対洒落になんねえって!!!」
「御坂もだ!! 本気で死ぬぞお前!?」
「分かってねえな、修学旅行でのぞきってのは通過儀礼なもんだ。これは俺がまともな人生を送るために必要な事なんだよ」
「レベル5相手にのぞきとか明らかにまともじゃねえだろ!!」
二人の説得虚しく、垣根はどんどん登って行ってしまう。
「だいたいよぉ、お前らだって興味はあるだろ。シスターと第三位はともかく、第四位と第五位のカラダは見る価値はあると思うぜ?」
「「…………」」
垣根の言葉に、思わず黙りこんでしまう二人。
麦野と食蜂が凄まじいプロポーションを誇っているのは服の上からでも分かる。男なら見たいと思ってしまうのも分かる。
だが、その一瞬の幸福のために犠牲になるものは何か。
二人はすぐに頭をブンブンと振って甘い誘惑を断ち切る。
「とにかく降りろっての! 比喩でも何でもなく雷が落ちるぞ!! 御坂の貧相なカラダは興味ねえって言っても通じねえって!!」
「麦野も意外と足の太さとか気にしてんだよ!! 原子崩し(メルトダウナー)ぶっ放してくるぞ!!!」
「どうでもいいけどよォ」
ここに来て口を開いたのは一方通行だ。
上条も浜面も、バッとすぐにそちらを振り返る。
今この状況をなんとかできる可能性があるのは、一方通行だけだ。
二人共まさに希望の光のように彼を見て、岩に張り付いている垣根ですら鬱陶しそうにこちらを向いたのだが、
「向こうの声がこっちに聞こえてきたンなら、その逆もあるンじゃねェの」
時が止まった。
そして。
ドガァァアアアアアアアアアアアア!!!!! と。
次の瞬間、凄まじい閃光と轟音と共に、まるで紙くずのように岩の壁がまとめて吹き飛ばされた。
上条の視界の端には、全裸で壁ごと吹き飛ばされる垣根が映っていた。
***
それからゴタゴタが収まるまでしばらくかかり、夕食の時間が大分遅れてしまった。
宿への被害も甚大なものだが、そこは学園都市の対応で少しの間だけ能力を解放された垣根の未元物質(ダークマター)によって綺麗に修復された。
宿が貸し切り状態だったのは、こういったトラブルを見越したものだったのだろう。
問題はその後だ。
今はとある一室に全員集まっている。
インデックスは夕食が遅れた事に対して不満そうにしていたが、貧相な体やら足が太いなどと言われた美琴と麦野はそれどころではない。
まさに般若の表情で腕を組んで目の前のレベル0二人とレベル5一人を睨みつけていた。もちろん、その三人の顔面はボコボコになっている。
ただ食蜂は心配そうに上条を見て、
「もぉ、二人共やりすぎぃ。上条さんも私のハダカが見たいなら言ってくれればいつでも見せるのにぃ」
「うっさい、アンタは少し黙んなさい!」
「あらぁ、嫉妬ぉ? まぁ確かに御坂さんのその貧相な体じゃ魅力に欠けるわねぇ」
「黒焦げにされたいようねぇ……!!」
「もう、いいから早くご飯食べに行くんだよ」
一応インデックスも覗かれそうになったというのに、今ではもう空腹のほうが優っているようだ。
そんな様子が微笑ましく上条は思わず口元を緩めてしまいそうになるが、この状況でそんな事をすれば更に顔面が変形する事になりそうなのでなんとか押しとどめる。
すると麦野はしばらく目の前の男達を、熊も殺せるんじゃないかというくらい強烈な目で睨みつけた後、
「……ったく、分かったわよ。この辺で済ませてやる」
ようやく解放された男三人。
垣根は腫れた頬を痛そうに抑えながら何か文句の一つも言いたそうな表情をしていたが、それを言ったらどうなるか分かっているので口にしない。
一方通行は一人綺麗な顔で心の底から興味無さげにさっさと部屋から出て行き、上条と浜面は心の底からほっとしてそれに続く。
その前に、麦野が浜面の肩を掴んだ。
「あんたにはもう少し話がある」
「えっ!?」
まさに絶望といった表情を浮かべる浜面。
上条はそんな彼を気の毒そうに見るが、手を差し伸べることもできず、そのまま部屋を出て行く。それは戦場で動けなくなった仲間を見捨てるようなだった。
それから一人、二人と出て行って、最後には麦野と浜面だけが部屋に残された。
「ま、まだボコり足りないのでしょうか麦野さん……」
「あー、まぁ確かにそうだけど、ここに残らせたのはそういう事じゃないわよ」
「へ?」
これから更にボコボコにされると覚悟していた浜面だったが、意外な一言に目を丸くする。
麦野はそんな浜面の間抜けな表情を放っておいて、何やらニヤリと口元を歪めた。
それを見て、浜面は何か嫌な予感がする。
この表情は暗部の任務などでろくでもない事を思いついた時のものだ。
「ちょっと協力しろよ、はーまづらぁ」
***
なんやかんやで風呂からあがって浴衣姿に着替えた一行は、いよいよお楽しみの夕食にありつく。
それは豪勢なもので、刺し身や天ぷらなどが沢山出た。
当然上条、浜面といった貧乏なレベル0やインデックスが大喜びだったが、レベル5はそこまででもない。
やはり貧富の差からくるものであり、そのくらいの食事は彼らにとって特にありがたいものでもないのだろう。
だが、普段から良いものを食べていないというのは、何も悪いことばかりではないはずだ。
毎日毎日豪華なものばかり食べていれば、舌が肥える。舌が肥えれば「美味しいと思う基準」が上がる。
基準が上がれば該当するものも減る。つまり、美味しい食べ物に出会う機会が減る。
その点、普段から質素な食事を嗜んでいる者はどうだろう。
そういった者達の「美味しいと思う基準」は低い。例を言えば、いつもの豚肉から牛肉に変えるだけで大きな幸せを得ることができる。
貧乏は必ずしも不幸ではない。貧乏であるからこそ得られる幸福もある。
そんな事を熱弁した上条当麻だったが、賛同してくれたのは浜面仕上だけだった。
レベル5一同からは本気で哀れんだ目で見られ、軽く泣きたくなった。
その後も皆賑やかなもので、肘がぶつかったなどといった些細なことで喧嘩を始める一方通行と垣根や、上条の近くまで来て食べさせてもらおうと甘えてくる食蜂を美琴が追っ払ったり。
旅館の人達はまたいつ大きな被害が出ないかとハラハラした様子で見ていた。
食事を終えたところで、それぞれ部屋に戻る。改めて見るとやはり綺麗な和室だ。
上条は軽い疲労を感じ始めていたが、周りを見る限り他の者はそんなでもない様子である。
上条に関してはいろいろ考えたり、食蜂の能力を受けたりしていたので多少疲れても仕方ないと思ったが、それでも湖に落ちたという垣根までもが元気なのは少し感心した。
部屋では一方通行が窓際にある肘あて付きの椅子に深々と座り込み、浜面はそそくさと布団を敷き始めている。
そして突然垣根は高らかに宣言する。
「よし、枕投げやんぞ!!」
枕投げ。それは確かに旅行の定番といえるはずだ。
といっても、記憶のない上条は知識として持っていても、実際にやった事はない。
中学生時代、自分は修学旅行でやはりみんなと枕投げをしたのだろうか。そういった事を想像すると、まるで当日風邪を引いてせっかくの旅行を逃したかのような憂鬱な気分になる。
垣根の言葉に対し、冷たい言葉を返す者がいた。
やはりというべきか、一方通行だ。
「誰がやるか」
「あぁ? 相変わらずノリわりーなクソぼっち」
そう言って手にした枕を思い切り一方通行に投げる垣根。
しかし。
「むがっ!?」
それは真っ直ぐ跳ね返って、同じ威力で投げた本人の顔面に直撃し、なんとも間抜けに後ろへ倒れこんでしまった。
こういった所を見ていると学園都市第二位だという事を忘れてしまいそうになるが、それは垣根に限ったことではない。
例えば第三位の御坂美琴も、第五位の食蜂操祈も、普通にしていればどこにでもいる中学生と何も変わらない。
周りはレベル5という事で常人とは違った印象を持つことが多いが、それは間違いなのだ。
垣根は忌々しげに一方通行を睨みながら起き上がる。
「このヤロウ……俺を本気にさせちまったようだな。そのチョーカーのバッテリーが切れるまで投げ続けてやるから覚悟しろよコラ」
「オマエそれやったら窓から放り投げるからな」
「落ち着けっての。元気だなお前らも」
仕方なしに上条が止めに入る。
窓から放り投げるというのは普通だったらただの脅しなのだろうが、この少年に関しては本気でやりかねない。
ちなみに一方通行の目線は手元のケータイに落とされており、垣根のことは眼中にないようだ。
上条は向かいの椅子に座りながら、
「誰かに連絡してんのか?」
「あのクソガキ、ウザってェくらいメール送ってきやがる。部屋の写真送れとか何とかよ」
「はは、送ってやればいいじゃねえか。たぶん雰囲気だけでも見てみたいんだろ。旅行なんて行ったことねえんだし」
「……ったく」
一方通行は軽く舌打ちをしてから、ケータイのカメラを部屋の方に向ける。
何だかんだ言って、打ち止めの言うことは大体聞いてやるところが微笑ましいものだ。
まぁ、本人にそれを言えば大変なことになりそうだが。
一方通行がカメラを向けた先では、垣根が両手の親指で自分を指すポーズを取っていた。
「ウェーイ!! ……ごぶっ!!!」
案の定すぐに蹴り飛ばされ、一方通行は何事もなかったように部屋を撮影する。
旅行の雰囲気を伝えるという点では、ああいった垣根の写真も中々良さそうに思えるが、流石にそこまでサービス精神旺盛というわけではないらしい。
その間に、浜面は全員分の布団を敷き終わっていた。
ずっとアイテムの雑用係を担ってきた影響なのかどうか分からないが、見た目に寄らず気が利くようになっている。
布団の上に倒れた垣根も感心した様子で、
「おお、サンキューな浜面」
「……なぁ垣根、修学旅行の夜ってのは何も枕投げだけじゃねえんだぜ?」
「お、なんだなんだ?」
「へっ、そりゃ決まってんだろ……」
「恋バナだ!!!」
垣根と同じくハイテンションで答える浜面。
こうして早々に布団を敷き始めたのも、みんなで座って話すためだったらしい。
浜面の言う通り、恋バナというものも旅行の定番だろう。
消灯後、先生の見回りに警戒しながら一人一人好きな女の子について話す。隙あらば女子の部屋へと忍び込もうとする。
まさに思春期の少年らしい行動と言える。
しかし上条は若干呆れる。
浜面から恋バナを持ちかけてくるのはこれが初めてではない。
「お前それ好きだな……」
「あれ、なんだよ乗って来いって!」
「……なるほど、確かに修学旅行っぽいな!! おい一方通行、テメェも来いよ逃げてんじゃねえぞ!!」
「…………」
「無視するってんならテメェの布団をグチャグチャにしてやるだけだ」
「おいぶっ飛ばすぞ」
「まぁまぁ、一方通行もこっち来て座れって!」
「ちっ……」
そんなこんなで、四人で固まって座る。
上条は疲労で少しぐったりしており、一方通行は明らかに不機嫌になっているが、垣根と浜面は相変わらず楽しそうだ。
「よし、じゃあ恥ずかしい話するにはまずはこいつからだ!」
そう言って浜面が取り出したのは酒だ。ビール、チューハイ、日本酒、ウイスキーなんでもある。
それを見た上条は慌てて、
「待て待て待て、お前これどうしたんだよ?」
「ふっふっふ、タバコと違って酒は未成年でも簡単に手に入るんだよ。まぁタバコもそんな難しくねえけどな。俺吸わねえけど」
「よっしゃ飲むぞ飲むぞ!」
四人はそれぞれ好きな酒を手にとって飲み始める。
一方通行までも乗ってきて、特に何も言わずに日本酒を口にしているのは少し意外だ。
浜面はビール片手に、
「お、なんだ一方通行も結構飲めんのか?」
「こンなモン、俺にとってはジュースと変わりねェ。アルコールを操作すればいいだけだからな」
「相変わらず何でもありだな……」
「つーかそれは反則だぜ一方通行! 能力は禁止だコラ!」
「ちっ、オマエ元々ウザいテンションが更にウザくなってンぞ」
そう言いながらも、一方通行は能力モードを解除する。
まぁ、酔わないように酒を呑むというのも無粋なものだろう。
上条は早くもチューハイでクラクラしてきていた。
元々そこまで酒を呑む機会もなかったので、これも無理もないことだ。
アルコールが回って、頭がぼーっとして耳の奥で血液がドクドク流れているのを聞きながら口を開く。
「……で? まず誰が話すんだよ?」
「うっし、それじゃ言い出しっぺの俺からいくか!」
そうやって話す気満々の浜面に対して、垣根はニヤニヤと楽しげに、
「お、いいぞいいぞ!! 滝壺のやつ、どんなカラダしてんだ?」
「おいテメェ!! 人の彼女で何考えてやがる!!」
「あー、でも浜面はまだ滝壺とそういう事してねえんだろ?」
「えっ、マジで!? まだやってねえの!?」
「ぐっ……う、うるせえな!! こういうのには順序ってもんがあるんだよ!!」
「ただ単にヘタレなだけだろォが」
そうやって、男の恋バナ大会は浜面のヘタレっぷりを弄るとことから始まった。
***
一方で女部屋。
男部屋と同じ構造であるこの部屋でも、布団を敷いた上に女四人が固まっていた。
といっても、こっちは恋バナをしているわけではない。
四人の視線の先には部屋に備え付けられたテレビがあった。
しかし、ドラマなんかを仲良く観ているわけでもない。
画面には、なんと男部屋の様子が映し出されていた。
これが風呂の後に麦野が浜面に持ちかけた話の正体であり、要は恋バナの様子を女子に伝えろというわけだ。
「なんだ浜面のやつ、まだだったのかよ。やっぱりヘタレねあいつ」
「浜面と滝壺さんって付き合ってどのくらいだっけ?」
「四ヶ月ってとこじゃないの。ったく、普通は一ヶ月で最後までいくもんでしょ」
「そ、そう? 私は最低でも半年は欲しいんだけど……」
「御坂さんかったぁーい。今時そんなに待ってくれる男の子なんていないわよぉ?」
「うーん、でもとうまなら待ってくれるんじゃないかな」
「えぇ、そうよ! 大体ね、最近は性が乱れてきてるって――」
「マジメか。十代ってのはガツガツいってなんぼでしょ」
「…………」
「おい御坂、なんだその目は。テメェ今すっげえムカつく事考えたよなオイ」
「いや別に……」
「もう、二人共落ち着くんだよ」
こちらもこちらで、レベル5同士の一触即発な雰囲気をインデックスが収めている。
そもそもレベル5というのはそれぞれが強力な自分だけの現実(パーソナルリアリティ)を持っているわけで、対立しやすいというのは仕方ない気もする。
画面の方では相変わらず浜面の話が続いていた。
『つーかヘタレとかそれ以前に、お前らは彼女もいねえじゃねえか!! つまり俺が一番上ってわけだ!!』
『はっ、俺はただ作らなかっただけだっつの。大体、女ってのはちょっと口説けばころっと落ちるもんだろ。ほら、俺とかイケメンだしよ』
『うぜえ!! ホントにイケメンってのがマジでうぜえなちくしょう!!!』
『どーだかなァ、いくらイケメンつったって、性格最悪じゃどうしようもねェだろ。まァ顔しか見てないアホ女なら引っ掛けられるンじゃねェの』
『こ、の……年しか見てねえロリコンには言われたくねえなぁ……!』
『よォし、殺す。遺言くれえは聞いてやるから五秒以内にさっさと言え』
『上等だコラァァ!!』
『だぁー、喧嘩すんなつってんだろ!!』
画面の中では、ドタバタとレベル0の二人がレベル5の二人を取り押さえている姿が映し出されている。
普通では考えられない光景だが、今はレベル5の二人共かなり酒が回っている様子で、まともに能力も使えないのかもしれない。
まぁ垣根は元々封じられているのだが。
食蜂はクスクスと楽しそうに見ながら、
「でもぉ、垣根さんって本当にイケメンよねぇ。どこかでホストやってそうな感じぃ」
「え、何よもしかしてアイツに鞍替えする気? それなら一向に――」
「残念でしたぁ、私は上条さん一筋ですぅ」
「ぐっ、じゃあ紛らわしい事言ってんじゃないわよ!!」
「もぉ、別にカッコイイっていっても、それが好意に繋がるとは限らないでしょぉ。見た目だけで何もかも上手くいくのは小学生までよぉ」
「ホントに顔だけの男っているからなー、逆もしかりだけどさ。浜面なんかは外見はモテる要素ゼロなのに彼女持ちだしね。滝壺の方は結構上物なのに」
「とうまもまぁ……顔がすっごくカッコイイっていうわけでもないかも」
「別段悪いってわけじゃないんだけど、確かにパッとしないのよねー。でもちょっと良い感じに見える時もない……?」
「あ、分かる分かるぅー。これって惚れた弱みっていうのかしらねぇ」
「第一位のやつにも何かコメントしてやれば?」
「……私はアイツに関しては何も言えないわ」
「んんー、中性的でイケメンに入るかもしれないけど、ちょっと怖すぎるわねぇ。でも人によってはすっごくハマりそうって感じ」
「あの目つきは何とかしたほうがいいかも」
女子達はそれぞれ男子の評価を言っていく。
全員が美少女なのでかなりの辛口になるだろうと思わるかもしれないが、意外にもそんなでもない。外見よりも内面重視の傾向があるのかもしれない。
ただ、内面重視と言えば男は喜ぶのかもしれないが、それは浅はかなことなのかもしれない。
外見は目で見てすぐ分かるものだが、内面というのは見えないし扱いが難しい。更に外見以上に好みが多岐にわたる上に、変えるのが難しい場合が多い。
画面の中では浜面がニヤニヤと話している。
『で、一方通行はそういう話ねえのか?』
『あると思うか?』
『とぼけてんじゃねえよロリコン。打ち止めがいるだろうが』
『オマエはよっぽど死にてえェようだなクソメルヘン』
そんな二人を、もはや作業のように止める上条と浜面。
酒の影響もあるのか、少しでも目を離せば次の瞬間には大喧嘩が始まっていてもおかしくない。
上条は面倒くさそうに一方通行をなだめつつ、
『けど打ち止めって5、6歳離れてる程度だろ?
確かに15歳と10歳とかだとロリコンだし、20歳と15歳だとロリコンで犯罪だけど、25歳と20歳なら別におかしくもないんじゃね?』
『まず、今までの人生振り返って25まで生きられるかどうか分かンねェだろォな。まァそれは俺に限った事じゃねェが』
一方通行の言葉に、上条は青ざめる。
『い、嫌な事言うなよ……俺は生きるぞ! 童貞のまま死ねるか!!』
『どォだかなァ。一番ヤバイのはオマエだろ』
『そういや俺もどっかのクソヤロウのせいで脳みそだけになった事があったな』
『俺も三回麦野に殺されかけたしな……』
既に命のやりとりを何度も経験している四人。
若いうちは何事も経験だとは言うが、これは明らかに経験しなくていいものに含まれるだろう。
美琴は視線をテレビから外して呆れた様子で、
「麦野、アンタ三回も浜面殺そうとしたわけ?」
「うっせーな、いろいろあったんだよいろいろ」
「御坂さんだっていつも上条さんに電撃ぶっ放してるじゃなぁい」
「あ、あれは別にいいのよ! どうせアイツ効かないし!」
「効かなきゃいいってもんじゃないと思うけどぉ……まぁそうやっていつまでもツンツンしていた方が私にとっては好都合なのかもねぇ」
「みことも頭良いんだから、ちょっとは学習したほうがいいかも」
「ぐぬっ……!!」
少しは素直にならなければいけないということは美琴自身が一番良く分かってはいるのだが、それを実践できるかどうかというのは別問題だ。
やはり内面はなかなか変わらないものだ。
すると、インデックスは少し疲れたように溜息をつく。
といっても、それは美琴に対してというわけではないらしく、
「それにしても、とうまはあんな事言うくらいならもう少し無茶を減らしてほしいかも」
「ホントよね。何回死にかけてんのかしらアイツ」
「その内一回は御坂さんに鉄橋で思い切りビリビリやられたものだと思うけどぉ?」
「なっ、そうかアイツの頭の中覗いて……あの時は仕方ないでしょうが!!」
「しかもその後ちゃっかり気絶した上条さんに膝枕なんかしちゃってるしぃ。私、ちょっとムカっときちゃったゾ」
「自分で焼いといて膝枕って凄いわね」
「だからそれには色々と深い事情があるんだって!」
「でも膝枕までやったって、みことにしては頑張ったんじゃないかな?」
「いや、あの時は私も余裕なかったから特に何も考えてなくて……」
あの日の鉄橋の上での出来事はまだよく覚えている。おそらく一生忘れることはないのだろう。
あれだけの絶望を味わったことはなかった。本当にもうどうしようもなかった。
そんな時に現れたのが上条だ。
よくあるフィクションのヒーローのように、彼は都合よく現れ全てを救い出してしまった。
そして助けてくれたヒーローに恋をする。自分でも呆れるくらい単純だとは思う。
しかし、これは何となくでしかないのだが、あの事件がなくても遅かれ早かれ自分は上条に恋をしていたのではないかとも思う。
かつての自分は声を上げて否定するだろうが、上条に出会ってから日常が楽しくなった。
能力を思う存分ぶつけられる相手ができたという物騒な理由も確かにあったかもしれない。
だがそれ以上に、上条に対してはありのままの自分でいられた。レベル5でも、常盤台中学のエースでもなく、ただの中学生の女の子になれた。
「うおーい、戻ってこい恋愛脳」
「はぁ!?」
そんな麦野の言葉で現実に戻される美琴。
食蜂もどこか拗ねた表情でブツブツ何かを言っているが、よく聞き取れないし、おそらく聞かないほうがいい事だろう。
ただ、インデックスは微笑ましげにこちらを見つめていた。
その表情は美琴を不安にさせる。
本人は決してそんなつもりではないのだろうが、例えどんなライバルが出てきても大丈夫だと思っている余裕にも見えるからだ。
テレビの中ではまだ一方通行に話が振られているようだ。
話している者は見るからに酔いが回り始めている上条当麻だ。美琴は一度あの酔っぱらいを見たことがあるので、一目で分かる。
『親御さんさぁ……打ち止めの学校とかはどうするんでせう??』
『ちっ、完全に酔っ払いのくせに話してることは意外とまともってのがうざってェ!』
『いいから話せってよーもー、ミコっちゃんだって心配してんだぜい? ひっく!』
『相変わらず酒よえーな上条』
『はっ、何だこんなもんで潰れちまうのか? お前チューハイしか飲んでないだろ、これ飲めこれ』
そう言って垣根が渡すのは度数の高いウイスキーだ。
上条は明らかに焦点の合ってない目でそれを見つめると、おもむろに手を伸ばす。その姿は珍しいものに興味を示す猿か何かにも見える。
そして、何の躊躇いもなく瓶に口をつけてラッパ飲みを始めた。
酔いというものはこういうものだ。
判断力が極端に鈍り、その行動の結果どんな事が待っているかなど考えることができない。
チューハイで酔っ払う上条がウイスキーなんかをまともに飲むことなどできるはずがない。そもそも、味だってまだよく分からないはずだ。
その行動に大した意味は無い。
ただ、目の前に出されたからとりあえず飲む。言うなれば本能のままに動いているだけだ。
これには流石に渡した本人である垣根も目を丸くして、ヒューと口笛を吹く。
浜面も少し焦った様子で、
『お、おい大丈夫か上条!?』
『へーきへーきえぶべhしゃfwjp』
『なんか一方通行みてーな話し方になってんな。その内背中から黒い翼生えるぞ』
『俺は酔っぱらいと同列かオイ』
『んでんで? 打ち止めはどうだって聞いてんだよぉぉおおお』
『離せこのヤロウ!!!』
テンションが振り切れている上条は一方通行の肩に腕を回してしつこく尋ねる。
一応は一度ならず二度までも殺し合いをした間柄であるにもかかわらず、もはや完全に警戒心を持っていない。
それだけ上条は一方通行に心を許しているという事で、もはや友達か何かだと思っているのかもしれない。この距離感はそう考えても不思議ではない。
だとしたら、これは一方通行の中ではかなりの大事件ではあるのだが、相手が酔っ払いだという事が微妙なところだ。
普通ならもうベクトル操作でもなんでも使って上条は吹っ飛ばされてもおかしくないのだが、酔っぱらい相手にそこまで本気になるのも、彼のプライドが許さない。
一方通行は大きく舌打ちをして、
『あのガキはちゃんと学校に通わせる。戸籍は御坂美琴の妹って事で押し通す、向こうも了解済みだ』
『え、マジで!? 娘さんをくださいとかって言ったん!?』
『逆だろうが。娘にしてやってくれって頼ンだ』
一方通行はあまり思い出したくないのか、苦々しい表情で説明する。
確かに、この少年がそういった事をするのは珍しい、というか不気味にさえ思える。
すると垣根は、
『で、お前は何も言われなかったのか? 御坂の親がどんな奴かは知らねえけど、普通娘のクローンをぶっ殺しまくった相手に良い感情は持たねえだろ』
『母親の方とは元々面識もあったし、貸しもあった。上条と、そこのスキルアウトあがりなら分かンだろ』
『あ、あぁ……俺が上条にぶっ飛ばされた時の……。あの母親には許してもらえたけど、父親と御坂にぶん殴られたんだよな俺』
恐ろしい記憶の一つとして覚えているのだろう、浜面は顔を青くして答える。
しかし、彼のやった事を考えれば、それも仕方のないことだ。
どんなに優しい者だって、自分の妻や母親が殺されかけたと知れば怒るものだ。
その事件で美鈴を助け出した上条は曖昧に笑いつつ、
『まぁそれでチャラにしてくれるなら良かっただろ。普通は一生恨まれるもんだぞ』
『そりゃ……そうだよな。どうしようもねえクズだったからな俺……』
『で、一方通行はぶん殴られたのか? 俺は是非その現場を見てみたかったが』
『殴られちゃいねえェよ』
『は? なんだ、浜面はやられたのにお前は免除かよ。やったことで言えば遥かに極悪なくせによ』
浜面は首をかしげて、
『そもそも、一方通行がやったこと知ってんのか? その実験ってやつは一応極秘扱いなんだろ?』
『母親は知らねェようだったが、父親の方は知ってた。なんでもアレイスターと繋がりがあるらしい』
『もしかしてその悪人面にビビって手出せなかったんじゃねえの』
『黙れチンピラホスト。あの父親はそンなタマじゃねえェよ』
そこで、上条は大袈裟にポンッと手を叩く。
そしてやけに得意気に、ビシッと一方通行を指差すと、
『はいはい、上条さん分かったー!!! お前打ち止め連れていっただろ!!! そりゃ打ち止めの前でお前殴るわけにはいかねえよなー』
『…………』
まさにその通りのようだが、酔っぱらいにズバリ的中させられたのが不快なのか、一方通行は黙ったままだ。
打ち止めは一方通行によくなついている。いかなる理由があろうとも、彼が傷つくような事があればきっと悲しむはずだ。
浜面の時は娘と一緒に親子パンチを披露した御坂旅掛だったが、流石に打ち止めの前ではできなかったらしい。
幼女を悲しませる事は男として決してやってはいけないことだ。
上条はなおも上機嫌に話し続ける。
『そんでそんで、ミコっちゃんの親父に「その子を頼む」とか何とか言われちゃったんだろー? 上条さんは全てお見通しですのことよー』
『オマエなンでそンな事まで知ってンだよ!!』
流石に当たり過ぎだと思った一方通行は目を見開いて大声を上げる。
上条はドヤ顔で頭をツンツンと指差して、
『ふっふっふ、このくらい名探偵上条さんには朝飯前なのだよワトソンくん』
『クソッたれが……!!』
『諦めろ一方通行。上条って無駄に頭回る時あるじゃん』
『無駄にって何だ無駄にって浜面ぁぁあああ!!』
『いででででで!!! いってえよ!!!!』
相変わらずのテンションで浜面にアイアンクローをかける上条。
もう完全に出来上がっており、この扱いが面倒な状態は暫く続くことだろう。
ただし、飲ませたのは周りなので、これは諦める他ない。
垣根は日本酒を一口飲みながら、
『つーか、打ち止めのやつもお前みたいなのが保護者で大変だろうな。これからが遊び盛りだってのに、彼氏もなかなか作れねえだろ』
『はァ? 何言ってやがる』
『お前、打ち止めに彼氏できたらそいつ殺すだろ?』
『アホか。どっかの頑固親父じゃねェンだ、あのガキの決めたことにうだうだ口出す気はねェ。まァ、中途半端な軟弱ヤロウだったら殺すが』
『いや待て、それじゃ垣根の言う通りだろ……お前視点だと誰でも軟弱扱いされるじゃねえか』
そう言って呆れるのは浜面だ。
確かに、一方通行の基準というものは極端に高いような気がする。具体的に言えば、打ち止めのためなら迷わず命をかけられるとか、だ。
恋人になるのであればそういった者が理想かもしれない。ただし、現実的に考えてそんな人間は中々居ない。
今この場にいる上条と浜面も、誰かのために命をかけることができる人間ではあるのだが、これは極めて珍しい例だ。
普通の学生生活を送っていてそこまでの精神力をつけるのはかなり困難だと思われる。
上条は「あっはっは!!」と笑いながら一方通行の肩をバンバン叩き、
『それならお前が付き合ってやればいいじゃねえかよ!! 打ち止めだってぜってーお前のこと好きだぜ?』
『……アイツが誰も捕まえられなかったらな』
『おっ、もしかしてそういう事結構考えてた!? 意外だなオイ!!』
『だあああああ、さっきからちけェンだよオマエ!! ずっと一緒とか言われてンだから少しは考えるだろうが!!』
迫る上条を押しのけながらヤケクソ気味に言う一方通行。
それを聞いた浜面と垣根も意外そうな顔をしている。それはそうだ、一方通行がそんな事を考えていたのだ。
おそらく一方通行の事を知っているほとんどの者は彼と色恋沙汰とを繋げるような者は居ないだろう。
だが、問題は色々とある。
上条はうーんと腕を組みながら、
『しっかし、ミコっちゃんはどう説得したもんかね。アイツはまだお前に激おこぷんぷん丸だろ?』
『ふざけた言葉でも意味は何となく通じるってとこがムカつくなァ。つか今からそンな事考えてどうすンだ。言ったろ、俺があのガキをどうこうするのは最終手段だ』
『ひっでえ言い方。お前もう少し考えたほうがいいんじゃねえの。こんなのと一緒に居たいなんて思う打ち止めも相当変わり者だな』
『うるせェぞメルヘン。第一、御坂のやつも何も言ってこねェンだ。ようは黙認ってことだろ。俺はアイツと話したくねェし、向こうも同じだ。それなら無理に関わりを持つこともねェ』
吐き捨てるような一方通行の言葉に、上条は大げさに頭を振る。
酔いが回った状態でそんな事をすれば、何かの拍子で口から盛大にぶちまけそうで、浜面は内心ヒヤヒヤしているのだがお構いなしだ。
いつだって酔っ払いはフリーダムで、色々と頭を悩ませるのは周りだ。
そして女部屋では、麦野がニヤニヤと美琴の方を見る。
「と、いうことみたいだけど、どうなのよ?」
「ノーコメントで」
一言で切り捨てる美琴。
おそらく何か思うことはあるのだろうが、今この場では言う気になれないのだろう。
それとも、一方通行に対しては怨念が強すぎて、とても全部言うことはできないという事か。
男部屋では上条が大げさに頭を振っていた。
『いやいやいやいや、どんなに嫌でも関わりを持たなきゃいけねえだろーよー。
だってよ、ほら、お前と打ち止めが結婚したらお前にとってミコっちゃんは…………えっ、お姉さんになるじゃん!!!!!』
『自分で言っておいて何驚いてンだオマエ……』
トロンとした目で話していた上条だったが、途中で驚愕の真実に気付いたらしく、目を見開く。
そしてこれが相当面白かったのか、大声で笑い始めた。
『ぶっ、あはははははははははは!!!!! じゃあ、何か!? 一方通行がミコっちゃんの事を「お義姉さン」とかって呼ぶの!? ぶふっ、げほっごほっ!!!!!』
『誰が呼ぶか!!!!!』
『……確かにそれはおもれーな。録音したいくらいだ』
『あァ!?』
『さっすが垣根は話が分かるな!!! なぁ一方通行、いっちょここで練習してみよーぜ!! ほら言ってみ言ってみ?』
『言うわけねェだろうが!!! つか離れろ鬱陶しい!!!!!』
そうやってジタバタと暴れる上条と一方通行を眺めながら、浜面はふと思いついたように、
『そういやさ、もし一方通行があの子と一緒になったとする。そんで、上条が御坂と一緒になったら……』
『…………んん!?』
『義理の兄だろ。それがどうしたってンだ――』
『「お義兄さん」と呼びなさい弟よ!!!!!!!!』
『呼ぶか!!! おい頭撫でてンじゃねェ!!! ぶっ殺すぞクソがァァ!!!!!!!!』
『……はっ!!!!! おいそれじゃあ垣根と浜面も妹達(シスターズ)の誰かと結婚すれば……!!!!!』
『いや俺には滝壺が居るからな!?』
そんな感じに美しき家族愛に燃える男達。いや、正確には燃えているのは上条だけのような気もするが。
まぁ結婚だとかいう話はまだまだ高校生には現実味のない話であり、それだけに色々と想像力を掻き立てられるものがあるのかもしれない。
だが、一連の流れで大変なことになっているのは何も上条だけではない。
「わ、わわわわ私とアイツが……け、けけけ結婚したらって……っ!!!!!」
「落ち着け、バチバチいってるわよ」
男部屋を絶賛盗撮中の女部屋では、御坂美琴が顔を真っ赤にして震えていた。
無理もない、画面の向こうではなんと意中の相手が自分と結婚した事を仮定して色々話しているのだ。
本人は酔っ払っていてそのことに関して何も考えていなかったとしても、美琴を能力が暴走するほど動揺させるには十分だった。
一応麦野が一言声をかけているのだが、美琴の耳には入っていない。
彼女の頭の中では既にマイホームを購入して子供が二人居て、一人が男の子でもう一人が女の子で……などと突っ走っている。
そんな彼女の頭に、レグザのリモコンが振り落とされた。
「いったあああ!!!」
ゴンッ!! という良い音と美琴の悲鳴が重なる。
今部屋にいる人間でリモコンで誰かを叩くという事をやりそうな者は一人だ。
美琴は涙目にながら振り向きざまに文句を言う。
「何すんのよ食蜂!!!」
「なんだか御坂さんが意味不明でとっても腹立たしい妄想力を全開にしてるみたいだったからつい。反省はしてないわぁ」
「こんにゃろ……アイツが私と結婚したいとか言ったからって妬いてんじゃないわよ!!!」
「誰がいつそんな事言ったかしらぁ!? まったく、上条さんもあなたみたいな捏造メンヘラ女に狙われて大変ねぇ!!」
「アンタが言うな、アンタが!!! はっ、とにかくアイツが結婚相手として私を考えたっていう事実は変わんないのよ残念だったわね!!!」
「それは“たまたま”話にあなたの妹さんが出てきたからでしょぉ!? いいわよ、そこまで言うなら私が実力行使で既成事実を作ってきてあげるわぁ!!
今なら上条さんもベロンベロンだし、私がちょっと誘惑すればイチコロよ!! せいぜい御坂さんは妄想の世界で楽しくやることねぇ!!!」
「んな事させるかあああああ!!!!!」
「いたぁぁ!!! ちょ、ちょっと離しなさいよぉ!!!!!」
猛然と部屋を飛び出して上条を誘惑しに行こうとした食蜂だったが、あえなく美琴に取り押さえられる。
だが簡単には観念するはずもなく、二人は布団の上でバッタバッタと激しくもつれ合っている。
当然身につけた浴衣もとんでもないことになっており、下着が丸見えだ。美琴は相変わらずの短パン装備だが。
男が見ればそれなりに興奮する画なのかもしれないが、同性から見ればただただ醜いだけだ。
インデックスはどこか哀れんだように溜息をついて、
「二人共凄いことになってるから一旦落ち着くんだよ」
「ほら見なさいよインデックスさんのこの余裕!!! あなたも少しは見習ったらぁ!?」
「アンタにだけは言われたくないわよ!!! 何よ既成事実、既成事実って!!! こんの発情期のド変態が!!!」
「あなただって妄想の中で色々してるくせに!! それならこうやって実際に動く私のほうが数段マシだわぁ!!」
「んなわけあるか、実際に動く奴のほうがヤバイに決まってる!!! あっ、いや、別に私は妄想でもそういう事してないし!!!」
「もはやお嬢様っていうよりも女の子としてどうかと思うことを叫んでるんだよ……」
「…………」
インデックスの言葉に、麦野は黙って顔をそらす。
このことに関しては、彼女にも何も言うことができない。
しかしいつまでもドタバタと争っている二人を放っておくのも鬱陶しい。
いっそ二人共叩きだしてしまおうかとも考える麦野だったが、それではこれからの楽しみがなくなってしまう。
ならどうするか、そう考え始めた時、丁度男部屋の話が核心に迫っている事に気付く。
「おいちょっと、暴れてないでこれ見なさいよ。なんか男どもが私達の中で誰が良い感じだとか話してるわよ」
「「えっ!?」」
声を重ねて反応する二人。これでは仲が良いのか悪いのか分からない。
おそらく本人達は口をそろえて悪いと答えるのだろうが、周りからしてみればそうは見えない。
それはともかく、男子部屋では確かに重要な事を話していた。
『でさ、ズバリ今回の旅行に来ている女の子の中で誰が良いと思う?』
浜面のそんな言葉から始まったこの話題。
元々、浜面はこの話をするために色々と下準備を行なってきたわけで、これも麦野の指示だ。
上条当麻の今現在の気持ちを明らかにする。
当初美琴が渋ったのも無理は無い。もしかしなくても、今この瞬間に勝者と敗者が決まる可能性があるのだ。
それは半年近くに渡って抱いてきた恋心に決着がつくという意味でもあり、一歩踏み出すには勇気が必要だった。
だが、そこは美琴らしいというべきか、どうせいつかはハッキリするという考えで、結局了解した。
といっても、そこには食蜂の挑発にまんまと乗ったという背景もあるのだが。
まず答えたのは垣根だった。
『麦野だな。他は子供っぽすぎる』
どうやら昼間の組分けの時に言っていたことは本気だったようで、当たり前のように話す。
すると上条が、
『分かる分かる、いいよな、お姉さんって感じがしてよ!』
『えっ!?』
あまりにもあっさりと言い放ったので、浜面が目を丸くして驚く。
当然予想としてはインデックス、美琴、食蜂のどれかだと確信していたのだろう。
これも酔っ払い特有というべきか、斜め上を行く変化球でこられ、ペースを崩されているようだ。
これに対して女部屋は大騒ぎだ。
「はあああああああああああああ!? ちょ、えっ、ウソでしょ!?」
「何かの間違いよぉ!!! 昼間私があんなにアピールしたのにありえないわぁ!!!!!」
「安心しろよ、私は上条に興味なんかないから」
「「…………」」
麦野はなだめるつもりで言ったのかもしれないが、それはそれで微妙な気持ちになる二人。
一方でインデックスはどこか納得している様子で、
「んー、確かにとうまは年上好きって感じだし、しずりの事を気に入ってても仕方ないかも」
「なんでインデックスはそんなに冷静なわけ!? これって割と大きな事だと思うけど!!」
「たぶん、今とうまがしずりの事を良いって言ったのは、ただ単に憧れとしてってだけだと思うんだよ。
同じようにかおりとかオルソラとかについても聞いてみれば同じ反応が返ってくるだろうし」
「そ、そっかぁ! そうよねそうに違いないわぁ!!」
「私としてはそのかおりとかオルソラとかって奴についても首根っこ掴んで聞きたいところなんだけど」
そう言ってこめかみをピクピクさせる美琴だったが、男達はお構いなしに話を進めていく。
相変わらずのハイテンションで話すのは上条だ。
『つーかさ、浜面は麦野の事何とも思ってないわけ!?』
『いや俺には滝壺が居るだろ』
『その前だその前! ぶっちゃけ最初は麦野に惚れてたとかねえの!?』
『あー、えっと、それは……まぁ、初めて会った時から綺麗だとは思ってた。あの時の俺からすれば、手の届かない高嶺の花……って言えばいいのかな』
言いにくそうに浜面はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
完全に空気が読めなくなっている上条はワクワクとその話を聞いているが、別にそれに対して嫌がる素振りも見せていない。
もう浜面としては、ある程度割り切った事柄なのだろう。
女部屋の方では微妙な空気が流れていた。
上条に関する色恋沙汰とは違い、麦野の場合はもう決着がついている。
そこを突くような事をすれば原子崩し(メルトダウナー)の連射が待っていることくらいは、流石に食蜂でも分かっているようだ。
しかし、意外なことに麦野本人は口元に笑みを浮かべていた。
「はっ、浜面のヤロウ。あの言い方じゃ今の私は別に高嶺の花でもないように聞こえるわね。後でハッキリ分からせてやろうかしら」
「何をする気よ……」
「ちょっとした教育よ、きょーいく」
そう言って不気味に片手をプラプラさせるのを見て、往復ビンタでもするのかと美琴は考える。
それと同時に、もしも上条が自分のことを選ばなかった時、浜面と麦野のように何だかんだ上手くやっていけるのだろうかとも思ってしまう。
美琴は首を振る。
今から負けることを考えるのは自分の性分に合わない。
すると画面の向こうの男部屋では、浜面が話を自分から逸らそうとしていた。
『えーと、そうだ、上条は他の三人についてはどうとも思ってないのか?』
『お、そこ聞いちゃう!?』
待ってましたとばかりに言う上条。それだけ話したくてウズウズしていたのだろうか。
その言葉を聞いた瞬間、美琴と食蜂が身を乗り出して画面に注目する。
一方通行は興味ないのかぼーっとしているが、垣根はニヤニヤとして、
『よし話せ話せ! まず食蜂から!』
『よしきた、操祈だな! とにかくあの中学生離れしたボディがヤバイ!! それでいて中学生らしい可愛いところもあってすっげーいいと思いますっ!!』
その瞬間、食蜂が起立。
拳をぐっと握りしめ、真っ直ぐ天井へ掲げて一言。
「みーちゃん大勝利ぃぃぃぃぃぃ!!!!!」
そして何を思ったのか、次の瞬間には部屋を飛び出そうとする。
一連の動きはまるで嵐のようで、インデックスなんかはポカンと見守ることしかできない。
だが、美琴はすぐに彼女を捕まえた。
「おいコラどこ行く気よ!!」
「上条さんのところに決まってるじゃなぁい!! せっかく両想いってことが分かったんだしぃ」
「そんなわけあるか!! あれだけじゃまだ何も分からないわ、とにかく座ってろ!!」
「往生際が悪いわねぇ、上条さんはあなたみたいな貧相な体なんか興味ないのよぉ」
「まぁ確かに御坂のその体じゃ男は誘惑できそうにもないわね」
「ぐっ……この……!!」
「まぁまぁ、とりあえず他の子について何ていうか聞いてみるんだよ」
食蜂と麦野はそれはそれは楽しそうに全力で美琴を煽ってくる。
それでもやはりインデックスは冷静に、それでいてどこか呆れながらなだめる。
この部屋がカオスな状態にならないのはインデックスのお陰というのが強いだろう。
だが、ここで美琴は不審そうに眉をひそめてインデックスの事を見る。
「……ねぇ、さっきから思うんだけど、アンタちょっと冷静過ぎない?」
「えっ、そうかな?」
「そうよ。もしかして私達が知らない間にアイツと何かあった……とか?」
「何よそれぇ、抜け駆けは卑怯よぉ!」
「アンタが言うな! ちょっと黙ってなさい」
「えーと……」
インデックスは少し考える。
何を言うべきか、どうすれば事を大きくしなくて済むか。
美琴には彼女の表情から、そんな事を考えているように思えた。
「まぁ、何て言うのかな……もう大体心が決まったっていうか……」
「どういうことよ?」
「みこと」
インデックスは綺麗な碧眼を真っ直ぐ美琴に向ける。
その全く揺らがない真剣な瞳に、美琴は思わずわずかに後ろへ引く。
「私とみことは恋敵。そんな相手に色々と情報を渡す必要性はあるのかな?」
「……いやそれは」
「という事でこの話はこれでおしまい!」
にっこりと、話を打ち切ってしまうインデックス。
その表情とは裏腹に、言葉には有無を言わせないものがあり、美琴も渋々黙ってしまう。
確かに、彼女の言っていることはもっともであり、恋のライバルに自分の作戦をベラベラ話す必要などどこにもない。
常にそういったカードは懐に忍ばせておき、出すタイミングを伺うものだ。それは能力者同士の戦闘にも同じようなことが言える。
だが、美琴にはインデックスのその笑顔が気に入らなかった。
一発で上条を射止める何かを考えている、そういった心配からくるものではない。
もっと別の、それでいて美琴にとってはあまり良くない事を考えているように思えた。
そんな二人の様子を眺めながら、食蜂も食蜂で意味ありげな目で何かを考えている様子だった。
こちらに関しては直接的な意味で美琴は嫌な予感を覚える。
「で、アンタは何ろくでもない事考えてるわけ?」
「ひっどぉーい。そういう決め付けって良くないわよぉ? それにぃ、今私が考えていることは御坂さんにとっても良い事だから安心して大丈夫よぉ☆」
そう言われても到底信用出来ないというのが美琴の心情なのだが、いちいち口に出すのも面倒なので何も言わないことにする。
男部屋では更に話が進んでいる様子だ。垣根は何やらうんうんと頷きながら、
『確かに体だけ見れば食蜂もアリだな。あれはすげえ』
『待て待て、上条さんは何も体だけが良いって言ってるわけじゃないぞ?
ああいう発育の良い女の子が子供のように甘えてくるのがこう……なぁ!? 分かるだろ一方通行!!』
『知らねェよ俺に振るな』
上条は近くに居る一方通行の肩に腕を回して聞くが、同意は得られない。
浜面は若干困ったように頭をかきながら、
『そ、そんじゃあ御坂は?』
『ミコっちゃん? あー、いい子だよいい子。文句は色々言われるけど、何だかんだ助けてくれるしな。
ビリビリは勘弁してほしいけど、アイツもあんだけはしゃげる相手も少ないだろうし、少しは我慢してもいいし』
上条は腕を組んでうんうんと頷きながら答える。
しかし、周りの三人はその口調に違和感を覚える。
本人が意識してそうしているのかどうかは分からないが、その言い方はまるで自分の娘とか妹を自慢するみたいだ。
垣根は確認するようにゆっくりと尋ねる。
『なぁ、お前は御坂の事は女として意識したこと無いのか?』
『そりゃ最初の方はちょっとはな。アイツ何も気にしないですげえ近くまで接近してくるから、精神衛生上悪かったぞ。
ただ、だんだんそういう奴だってのが分かってきてよ。俺が言うのも何だけど、アイツは色恋沙汰とは無縁だ』
上条の言葉を受け、浜面は目を丸くして、
『えっ、な、何でそう思うんだ?』
『だってよー、アイツ平気で俺に恋人のふりをしろとか頼んでくるんだぜ? 普通の女子中学生ならそんなこっ恥ずかしい事頼めねえだろ。
それに、ゲコ太のためにケータイのペア契約までするしよ。まぁ、ただ単に俺が男として見られてないってのもあるんだろうけど。
なんつーか、出来の良い妹と頼りない兄貴って感じだな。たぶん向こうも内心同じようなこと思ってんじゃねえか』
そんな上条の言い分に衝撃を受けているのは女部屋も同じだった。
麦野とインデックスは気の毒そうに、食蜂は見るからに楽しそうに美琴の方を向く。
しかし。
「………………」
燃え尽きていた。真っ白に。
その目は焦点があってなく、ただぼんやりと自分の斜め前方の畳の上を眺めるだけ。
言葉も無い、おそらく頭の中でも何も考えられていないだろう。
それだけ完璧に、美琴は打ちのめされていた。
無理もない。
あの恋人ごっこも罰ゲームを理由にしたデートも、見事に上条には何も伝わっていない。
美琴にとってドキドキワクワクのイベントも、上条にとっては妹とじゃれている程度の認識でしかない。
というか、そもそもそのイベントのせいで自分のこの気持ちは更に届きにくくなっているというのだ。
「え、えーとぉ……」
流石にこんなものを見せられてから追い打ちをかける意欲も湧かない食蜂。
それなので、とりあえずインデックスがまるで割れ物を扱うかのように良く言葉を考えながら口を開く。
「だ、大丈夫大丈夫! 何もこれで終わったわけじゃないんだし、これからアピールしていけばとうまもきっとみことの事を女の子として見てくれるはずなんだよ!」
「……ちょっとアイツを一発ぶん殴ってくるわ」
「待て待て」
ゆらりと立ち上がる美琴を、麦野が座ったまま手を伸ばして捕まえる。
ここで上条がビリビリパンチを食らうのはどうでもいいが、まだ肝心な人物について何も話していない。
浴衣を掴まれた美琴はそのままコテンと布団に倒れこんで動かなくなった。
元々ほとんど気力も消え去っていたようで、抵抗はしない。というかまるで人形のようにピクリとも動かないのは不気味だ。
男部屋ではいよいよ確信に迫る話題へと移っていた。
浜面は気合の入った表情で尋ねる。
『じゃあ、インデックスはどう思ってる!? もちろん女の子として!!』
女部屋では緊張が走る。
美琴は相変わらず身動き一つ取れないままだが、食蜂はいつになく真剣な表情でテレビを凝視する。
あまり関係のない麦野も興味はあるのか、どこか期待した表情で見ている。
一方で、当事者であるインデックスは優しく微笑んでいた。
優しく、というのが正しいのかは本人にしか分からない。もしかしたら全く別の気持ちなのかもしれない。
ただ、彼女の笑顔は完璧だった。見る者全てを安心させ、思わず釣られてこちらも笑顔になってしまうような。
この年にして全てを悟ったかのような、聖母のように、彼女は微笑んでいた。
画面の向こうでは上条が口を開く。
酒の影響かどうかは分からないが、そこに迷いはなかった。
その声は大きく、酔っているのにも関わらずやたらハッキリとしていた。
『アイツは俺の大事な娘だ!!!!!』
ポカンとしたのは浜面と垣根だ。
しばらく二人共、上条の言ったことを理解するのに沈黙する必要があった。
その結果、男部屋には話す者が居なくなり、静けさが訪れる。一方通行は相変わらず興味無さそうに聞き流しているだけのようだ。
もしかしたら上条が質問の意味を何か取り違えたのかもしれない。
相手が酔っ払いということもあって、そういった可能性を考えた浜面は恐る恐るといった感じで口を開く。
『あー、俺は女の子としてインデックスのことをどう思ってるのか聞いた……と思うんだけど』
『じゃあ浜面は滝壺との間に子供ができたとして、その子を女の子としてどう思うって聞かれたらどうすんだよ』
『えっ……いや、それは……ていうか…………んんっ?』
もちろん、浜面は自分の娘に欲情するという、生物学的に危ない性癖を持っているわけではない。
例えその娘がどんなに可愛いとしても、恋愛感情なんて持つわけはない。それは実際に子供が居ないにしても、感覚的に分かる。
上条にとってインデックスとは、そんな存在だと言っているのだ。
今までも上条はそんな事を言った事はある。
だが、浜面含めて大体の者はそれを本気で信じたりはしなかっただろう。
しかし、今この状況。酔っ払っているだけに本心がそのまま飛び出しているという可能性を拭い切れない。
垣根もこの返答は予想できていなかったらしく、
『いやいやいや、嘘だろ? いくらずっと一緒に居たからって、本当の娘みたいにしか見えないってありえねえ……よな?』
『それが本当なんだって。垣根も一度誰か女の子と半年くらい一緒に居てみろよ。お前イケメンだし、やろうと思ったらすぐできるだろ?』
『………………』
上条のからかう言葉に何も言えなくなる垣根。
確かに家族以外の女の子と半年も一緒に暮らすという経験は中々できないものであり、本人にしか分からない事もあるかもしれない。
つまり単純にこちらが無知なだけなのではないかという可能性が見えてくる。
上条は周りの空気などはお構いなしに、ペラペラと話し続ける。
『いやでも他の奴等がみんなそうだとは思わねえよ? 半年同棲してそのまま結婚ってカップルだって多いだろうし。
けど、俺はそうじゃなかったんだ。今日操祈に能力で気持ちを整理する手伝いをしてもらったんだけどさ、それでスッキリした』
それを聞いた瞬間、浜面がビシッと指差す。
『それだ! 上条お前食蜂に頭弄られてるだろ!!』
『操祈の悪口言ってんじゃねえええええええええ!!!!!』
『ぼごぉぉおおおお!!!??』
上条の渾身の幻想殺し(イマジンブレイカー)が顔面に突き刺さり、浜面が吹っ飛ぶ。
いくら無能力者にとってはただの拳だといえども、武器であることに変わりはない。おまけに酔っ払っているせいで力の加減もなしだ。
女部屋は女部屋で、麦野が食蜂に疑惑の視線を送っていた。
「ねぇあんた、本当に上条の頭弄ったんじゃないでしょうね」
「そんな事してないってばぁ!」
「もし本当にそうしていたとしても、お風呂で頭洗うときに解除されちゃうんじゃないかな。
それに、みさきはそういう事しないと思うよ。何だかんだ言って、良い人だし」
「流石インデックスさぁん!! あなたなら分かってくれると思っていたわぁ!!」
食蜂はインデックスに抱きつくと、その豊満な胸を彼女の顔に押し付ける。
それが何かの当て付けのように思えたのか、インデックスは若干ムスッとしているがそのまま受け入れている。
麦野は腕を組んで少し考えると、
「……って事は、上条は本気でインデックスの事を娘のように思っているってわけね」
「今日私とデートしてた時も同じこと言ってたわねぇ」
「なによ、あんた知ってたなら先に言いなさいよ」
「そこはまぁ、ちょっとした戦略っていうやつよぉ。私としては上条さんの口から直接聞いたインデックスさんの反応が気になってたんだけどぉ」
そう言って片目を瞑る食蜂は、開いている方の目でインデックスの方を見る。
食蜂は本気で上条を狙っていて、その為にはあらゆる事を考え、何が自分にとってベストなのか判断する。相手に遠慮するなどという事は一切ない。
インデックスは、やはり微笑んでいた。
「んー、何となく予想はついていたからそこまで驚きはないかも」
それを聞いて食蜂は、わずかに目を細める。
その言葉と表情を読んでも、食蜂には彼女の心の中までは分からない。
それは食蜂が今まで能力に頼りきっていたことが災いしているのか。いや、そうではない。
食蜂は元々が精神系能力のスペシャリストだ。当然ながら心理学にも精通しており、能力なしでも他人の顔色から心を読むということはできる。
インデックスは特に何も隠していない。
彼女の表情から食蜂はそう考え、それが逆に不気味にさえ思える。
その時だった。
「ねぇアンタ」
美琴の口が開いた。
相変わらず布団の上に倒れ込んだまま、それでも目はしっかりと開いており、インデックスを見据えている。
その様子、そしてその声色は怒っているようにも思える。
ところが、インデックスは相変わらずの微笑みを浮かべたまま首を傾げる。
「どうしたの?」
「アンタまさか、またろくでもない事考えてんじゃないでしょうね。もうアイツの事を諦めて私達に譲ろうとしてるとか」
「…………」
「それの何が問題なのぉ?」
「うっさい、アンタは黙ってなさい」
美琴が面倒くさそうに体を起こす。
食蜂の時に対しては、美琴はまともに答えるつもりもないらしく、一言で切り捨てる。
おそらく説明した所で食蜂は納得しないと思ったからだ。
どんな手を使ってでも上条を手に入れようとする食蜂とは違って、美琴には美琴のルールがある。
例えばインデックスが、自分の気持ちを押し殺してまで美琴と食蜂を応援するなどという事は許せない。
それは自分自身のプライドの問題の他に、自身を犠牲にするような行為を美琴が極端に嫌っているという事からくる。
美琴の言葉を受けて、インデックスは口元の微笑みを崩した。
柔らかなその表情は、真剣な硬いものへと変わる。
「違うよ、みこと。私はとうまをあなた達に譲ろうと思ったわけじゃない。ただ、選んだんだよ」
「選んだ?」
「うん、自分の進むべき方向をね。考えて、ずっと考えて。自分自身に嘘をつかないで向き合って。そうやって出した私なりの道を選んだんだよ。
それが間違いかどうかなんて分からない。でも私が決めた私のことだから。みことに何を言われても変えるつもりはないよ」
インデックスはそこで一旦言葉を切る。
そのタイミングで口を挟む者は居ない。美琴も食蜂も麦野も、ただ彼女の方をじっと見つめて次の言葉を待つ。
そして。
「私は、とうまと恋人になろうとは思わない。今の関係のまま、イギリスへ行くんだよ」
彼女の声はハッキリとしていたが、決して大きなものではなかった。
今でもテレビから聞こえてくる酔っ払った上条の声の方が数段大きい。
それでも、テレビの音は完全にかき消されてしまっていた。
音量の問題ではなく、その言葉の持つ意味と重さによって、男部屋の音は四人の少女には聞こえてこない。
部屋を静寂が支配する。
インデックスの言葉を聞いた三人は、各々思いにふける。
すぐには誰も反応することができなかった。それにしては彼女の言葉はあまりにも重すぎた。
といっても、いつまでもその状態が続くわけではない。
まず沈黙を破ったのは麦野だった。
「あんたは上条のことが好きなのよね? それでも、今の関係のままでいることを選んだ」
「うん」
「……そう、それならいいわ」
麦野はただ確認した。
賛成するでもなく、反対するでもなく、ここにいる全員が当たり前に知っている事を彼女の口から聞いただけだ。
それでも、麦野にとってはそれだけで十分であるようだ。インデックスのしっかりとした返事を聞くと、もうそれ以上何も言わなかった。
これに口を挟んだのは美琴だ。
「なっ、何よそれ、やっぱりアンタ我慢してるんじゃない……本当はアイツと付き合いたいくせに!」
「うん、そうだね。みことの言う通りなんだよ。だって、私はとうまの事が好きなんだから」
「じゃあ今の関係のままで良いなんて言ってんじゃないわよ!! それじゃ一ヶ月前にアイツを置いてイギリスへ行った時と同じじゃない!!」
「違うよ」
インデックスの口調には一片の迷いもない。これはどんな言葉を受けても揺らぎそうにもないように思えた。
その様子を見るだけで、彼女の次の言葉を聞くまでもなく、美琴には彼女が上条と別れた一ヶ月前とは全く違うという事に気付いてしまう。
あの時、彼女は美琴の言葉を受けて逃げ出した。しかし今回はそんな気配が全くない。
インデックスは静かに、それでいてハッキリとよく通る声で話し始める。
「あの時と違って、私はこの選択が正しいものだと信じてる。誰がどんな事を言ってきても、絶対に後悔しないって自信を持って言ってみせる」
「でも……」
「いつでも自分が一番やりたい事ばかりをやれるわけじゃないんだよ。休みたいのを我慢して辛い仕事をしなければいけない時だってある。
子供でさえ、日が落ちれば例えもっと遊びたくても家に帰る。自分の本当の望みを押し殺してでも、広い目で見てその場で自分にとって最良だと思う選択をする」
「そんなの屁理屈よ。その選択が最良である保証なんてどこにも――」
「御坂さぁん?」
ここにきて、食蜂が口を挟む。
美琴は話を切られてイライラしながら彼女の方を見た。一言二言だけ聞いてすぐに黙らせるつもりで。
今は食蜂の悪ふざけに構っている場合ではない。
だが、視線を移したところで美琴は意外なものを目にする。
その口調から、食蜂はいつものニヤニヤとしたこちらを馬鹿にするような表情を浮かべているのだと思っていた。
しかし、彼女の表情は笑み一つない、真剣なものだった。
「確かにインデックスさんの選択が正しい保証なんてどこにもない。でも、だからってあなたの考えが正しいとは言えないと思うけどぉ?」
「それは」
「そもそも、この件で関係あるのはインデックスさんと上条さんよぉ。
私達はアドバイス程度に口を挟むまではいいにしても、意見を押し通す事なんでできないんじゃなぁい?」
「…………」
食蜂の言葉に、美琴は反論できずに黙りこむ。
「インデックスが上条に告白しない事に決めた」。その事に自分はどれだけ関係しているのだろうか。
完全に無関係というわけではない。美琴も上条を想う一人だ。
とはいっても、それが彼女の行動を制限するだけの理由になるのだろうか。
例えば逆に「インデックスが上条に告白する事に決めた」とする。
それを今のように美琴が反対してやめさせる権利があるか。
食蜂の言う通り、美琴は自分の意見が絶対に正しいとは思えない。今までだって何度も間違ってきた。
特に今回のようなどれが正解なのか難しい選択で、確実に正しい選択をできると考えるのは傲慢というものだ。
客観的に見て、当事者であるインデックスがよく考えて出した結論のほうが正しい可能性が高いと言えるはずだ。
食蜂は真剣な表情を崩し、小さく溜息をついて、
「そもそもぉ、御坂さんはそんなにインデックスさんに告白させたいのかしらぁ?」
「え、いや、そういうわけじゃ……」
「それならいいじゃなぁい。聖人君子気取って自分の不利益に関係なく正しい事をしようとするよりも、自分にとって得になることを優先するほうが中学生らしいわよぉ?
私達にとっても、インデックスさんがこのまま上条さんと何も進展せずにイギリスに行ってくれたほうが良いんだしぃ」
「……ねぇインデックス。どうしてそう決めたのか教えてくれない?」
美琴がそう尋ねると、インデックスは一度頷いてからつらつらと話し始める。
例え告白が成功したとしても、失敗したとしても、遠隔制御霊装に不具合が出る可能性があること。
そしてもしそんな事になってしまったら、自分の立場が危ういことになってしまい、それによって周りにも迷惑をかけてしまうこと。
その周りというものの範囲も巨大で、魔神レベルの力を繋いでおく鎖が無くなってしまうと、世界全体に影響を与えてしまう可能性もあること。
美琴はそれを一字一句逃さないようにしっかりと聞き取る。
「――ただでさえ、今は魔術と科学の関係が微妙なものになっているんだよ。だから、私はそこに巨大な波風を立たせたくない。
私一人のワガママに多くの人達を巻き込むわけにはいかない。それはきっと、私もとうまも不幸にする」
「だから……アイツを諦める、か」
美琴はその意味を吟味するように口の中で呟く。
彼女の言い分は分かる。おそらく、それが一番多くの者が幸せになるであろう方法であることも。
しかし、美琴にはどうしても納得することができない。ここで自分が納得しようがしまいが関係はないのだが。
……ところが、インデックスはキョトンとした表情で美琴を見る。
「別に私、とうまの事諦めてないよ?」
「……へ?」
彼女の言葉に、美琴は何とも間抜けな声を出してしまう。
先程からの彼女の話を聞き流している様子だった食蜂も、急に意識を覚醒させてそちらを見る。
「えっとね、“今は”告白しないっていう事なんだよ。魔術と科学の関係がもっと安定して、また一緒に暮らせるようになったらその時告白するっていうこと」
「な、なんだ……そうなんだ……」
美琴は少し気が抜けた声を出した。
ずっと張り詰めていた空気がどこか緩んだ気さえもする。
インデックスは上条を諦めたわけではない、彼女は彼女なりの作戦を持って上条を狙っている。
それならいい、と美琴は小さく息をつく。
相手に戦う意思があるというのであれば、こちらとしても思う存分挑めるわけだ。
食蜂は少しつまらなそうに、
「でもぉ、魔術と科学の安定なんていつになるか分からないじゃなぁい。その間、インデックスさんは上条さんと会うことができないんだし、圧倒的に私達が有利よぉ」
「まぁ、そこは仕方ないんだよ。それにそこまで不安じゃないかも」
「え?」
食蜂が意外そうな声を出すと、インデックスはにっこりと微笑んで、
「だって、とうまは私にメロメロだもん。みことでもみさきでも、勝負にならないんだよ。例え私がしばらくとうまと会えないとしても、そんなのハンデにもならないんじゃないかな」
「……へぇ。でも上条さんはあなたの事を家族としか思ってないみたいだけどぉ?」
「あんなのとうまの思い込みに決まってるんだよ。本当は私にベタ惚れなのに、それが恋だって気付いていないだけかも」
やけに自信ありげに腕を組んでドヤ顔で語るインデックス。
そんなあからさまな挑発に対し、食蜂は口の端をヒクヒクとさせ、
「それなら私が上条さんをラブホテルに連れ込んで既成事実を作っても文句はないわよねぇ……?」
「おい待て。それは私が止めるわよ」
冗談とも思えない食蜂の言葉に、美琴がすぐに釘を刺す。
だが、こちらもインデックスの挑発に対してこめかみをピクピクさせており、
「随分とナメてくれちゃってるようだけど、それでアンタが戻ってきた時に私とアイツが付き合っていても後悔すんじゃ無いわよ」
「えー、みことがぁ? どっちかっていうと、まだみさきの方がありそうかも」
「な、なんですって!」
「今の調子じゃ、みことが私みたいにとうまと半年同棲するまでに一体何年かかるか分かんないんだよ。たぶん、それまでには私も戻ってこれると思うし。
私の見込みだと、みことが素直になってとうまに告白するまでには最低でも三年はかかるんじゃないかな」
「そんなかかるわけ……ない!!!」
美琴自身、一瞬言葉の途中で考えてしまうのが何とも虚しい。
今まで散々素直になれずに今現在までズルズル行ってしまった事から、インデックスの言う告白まで三年という数字がやたらリアルに思えてしまう。
しかしとりあえず、これでもう余計なことを考えずに上条に集中できる。インデックスも予想以上に図太いようで、特に遠慮はいらなそうだ。
といっても、先は長い。
今回の男部屋の盗撮で、美琴は自分がどれだけ上条に女の子として見られていないか痛感した。
いや、薄々は気付いていたことではあるのだが、それでも本人がそう言っているのを聞くのはまたダメージが大きいものだ。
だが、いつまでも凹んでいる訳にはいかない。
インデックスが居ない間はチャンスだと思うべきだ。その間に距離を縮めて確実に告白まで持っていく。
敵はインデックスだけではない。食蜂なんかはどんな手を使ってくるか分からないし、他にも上条に想いを寄せる少女は居る。
その誰にも負けてなるものか、と美琴は右手をグッと握り締める。
一方で。
「………………」
「ん、どうしたのしずり?」
「いや、別に」
麦野はただじっとインデックスの事を見ていた。観察といったほうが正しいのかもしれない。
何を思ってそうしていたのかは分からない。インデックスの言葉にも一言素っ気なく返事をするだけで、すぐに目を逸らしてしまった。
そして男部屋ではテンションが最高潮に達したらしい上条が、右手にウイスキー、左手に日本酒を持って大声をあげていた。
『よっし、じゃあ今から女部屋に突撃すんぞ!!!!!』
もはや恐れるものは何もなしといった感じだ。
いや、今まで上条がやってきた事を考えれば、そこまで変わっていないのかもしれない。
学園都市最強のレベル5と二度も正面からぶつかった経験などを考えれば、確かに恐れるものなどはないように思える。
だが、それは外向きの印象であって、本人は全く違う。
誰かを助けようと突っ走っている時はアドレナリンが出まくって恐怖などは鈍っているのかもしれない。だから無謀なことも何度もしてきた。
しかし、当然全く怖くないというはずがなく、死の恐怖というものは何度経験しても慣れることなどできるはずがない。
後から当時のことを思い出してみても、恐ろしくて震え上がるほどだ。
御坂美琴の電撃を打ち消す日常の一コマであっても、心臓バクバクで恐ろしいことこの上ない。
要は上条はどんな攻撃も口元に笑みを浮かべてクールに受け流すナイスガイというわけではなく、いつだって必死で全力な一介の高校生にすぎないのだ。
そんな彼をレベル5の巣窟である女部屋へと突撃させようとする辺り、酒の恐ろしさというものがよく分かる。
当然ながら浜面は青ざめた顔で止めに入る。
『いや、待て待て!! 死ぬ気かよ!?』
『浜面、昔の人は素晴らしい言葉を残してくれた。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」って知ってるか?
こんな所で女の子の話をしているだけじゃ何も得られねえ、勇気を出して直接乗り込まなきゃいけねえって事だ!!!』
『よし、それじゃあ「墓穴を掘る」って言葉を知ってるか? お前が入ろうとしてんのは虎穴じゃなくてそれだ』
『知るか!! もうこんな部屋には居られるか、俺は出て行くぞ!!!』
『それ言っちゃいけないセリフ!!!』
意気揚々と部屋を出ようとする上条を止めようと浜面は慌てて立ち上がる。
しかし、その浴衣の袖を垣根が掴んだ。そして何やらやたら神妙な表情で、
『行かせてやれ、浜面』
『えっ、何その「俺は分かってる」オーラ! つかお前は楽しんでるだけだろ!?』
『当たり前だろ。よし浜面、上条が全治何ヶ月の怪我するか賭けるか?』
『ダメだこいつ、全く改心してねえ!!』
***
女部屋も男部屋と同じ二階にある。流石に距離はそれなりに離れてはいるが。
部屋を出た上条は相変わらず上機嫌で女部屋へと向かうが、酒が回っていて真っ直ぐ走ることもできない。
途中で横の壁に何度かぶつかりながら、まるでピンボールのように進んでいく。
いかに貸切といえども、普通は旅館でこんな状態の未成年が居れば色々と問題になりそうだが、幸い従業員には出くわさない。
というか、風呂の件もあってできるだけ関わらないようにしているのかもしれない。
まぁしかし、どちらにせよ上条本人はそういった事を一切考えずに、自由気ままに振る舞うだけだ。
程なくして、女部屋の前までやって来た上条。
普通ならこのドアを開ける瞬間が一番緊張するのであろうが、今の上条にそんなまともな感覚を期待するだけ無駄だ。
上条は何の躊躇いも見せず、ノック一つせずに一気に扉を開けてズカズカと中へと入っていった。
「たのもー!!!」
今の上条の状態は酷い。
散々暴れまくったせいで浴衣は大きくはだけ、下に着たTシャツやトランクスが丸見えだ。
もしもこれが全く関係ない別の部屋だったら、即警察に通報されかねない。まぁ、今回に限っては宿が貸し切られているのでその心配は無いのだが。
部屋には少女が一人だけ居た。
肩まであるサラサラとした茶髪。
活発そうな印象とは別に、学校での学習の賜物なのか、その仕草にどこかお嬢様らしい気品も感じられる。
気軽に触れれば火傷をする。それが比喩でも何でもない事を上条は身を持って知っている。
御坂美琴が、呆れた様子でこちらを見ていた。
***
時は少し遡る。
上条の女部屋突撃宣言を聞いた美琴達は、当然それの対策を話し始めた。
食蜂はいつも以上に目をキラキラさせ、
「はぁーい! じゃあ私がこの部屋に一人だけ残るわぁ!!」
「……アンタ何する気よ」
「えぇ……それ言わせるのぉ……? 御坂さんのエッチぃ」
「はい却下!! とりあえずアンタは出てけ!!」
ある程度は予想していたが、それを裏切らない食蜂。
といっても当然ながらそれを美琴が見過ごすわけがない。
麦野は少し考えこみながら、
「でも、部屋に誰もいないっていうのもつまらないわね。インデックスここに残る?」
「えっ!?」
反応したのはインデックスではなく美琴だ。
流石にインデックスも食蜂と同じように良からぬことをしようとしているとは思わないが、彼女にとっては上条にアピールするチャンスになる。
いくらこっちに滞在している間は告白しないと言っても、インデックスへの好感度が上がるような事は美琴にとってあまり良いことではない。
ところが、当の本人は困ったように苦笑すると、
「えーと、酔っ払いのとうまはすっごく面倒くさそうだから勘弁してもらいたいかも」
確かに一理ある。
旅行の夜に部屋で二人きり。それだけ聞けば良いシチュエーションかもしれない。
しかし、問題は相手が酔っ払いであるという事だ。
そんな状態で良い雰囲気を作ることができるのだろうか。
美琴は少し考えてかなり難しいだろうという事を理解する。
それこそ食蜂のように勢いだけで既成事実を作ってしまおうとするのであれば好都合なのかもしれないが、まともな会話は到底期待できない。
美鈴の影響で、酔っ払いの相手がどれだけ大変か美琴は思い知っている。
そして最悪、それだけ苦労して二人の時間を作ったところで、相手は次の日にはすっかり忘れてしまっている可能性まであるのだ。
そこまで考えると、今の状態の上条と二人きりになっても、ただ疲れるだけなのではないかという不安が大きくなっていく。
麦野は視線をインデックスから美琴へと移して、
「それじゃあ、御坂?」
ゴクリと、喉を鳴らす美琴。
あんな状態の相手とはまともな会話は期待できない。それでも、だ。
あの状態の上条だからこそ、何かの拍子で次のステップに進める可能性だってあるのではないか。
例えば……うっかりキス、とか。
そこまで考えた美琴は顔を真っ赤にして大きく首を振る。
バッサバッサと髪が乱れるが、そんな事は気にもとめていない。
(ありえないありえない!! つかこれじゃ食蜂と変わんないじゃない!!)
「あ、御坂さんが妄想力全開でエッチな事考えてるぅー」
「うっさい考えてない!!!」
美琴は大声で否定するが、それが逆に怪しさを増す。
しかし麦野はそこに関しては特に弄ったりもせずに、パンパンと手を叩きながら立ち上がった。
「よし、それじゃあ御坂がここに残るってことで、私達は出るわよ。そうだ、私達は逆に男部屋の方に突撃するか。私は浜面に一発かまさないといけないし」
「ちょ、ちょっと待ってよぉ! それじゃあ上条さんの貞操が御坂さんに奪われちゃう!!」
「奪わないわよ!!! アンタみたいな変態と一緒にすんな!!!」
「まぁまぁ、みさきは今日一日とうまとデートしたんだから、ここは我慢するんだよ。大丈夫、みことにそんな度胸はないから」
「うぅ……確かにそうかもしれないけどぉ……」
「それはそれでカチンとくるわね」
そうやって美琴以外の三人は部屋から出て、途中で上条と出くわさないように、近くにある階段で一階へと下りる。
そして一階をそのまま移動して、もう一つの階段から男部屋へと向かった。
部屋に取り残された美琴は、上条が来るまでずっと自分の浴衣や髪などを入念に整えていた。
***
時は戻って上条と美琴は部屋で二人きり。
といっても、いつまでも沈黙が続くわけはない。なにせ上条は酔っ払いだ。
「あれ、ミコっちゃん一人?」
「そ、そうよ、悪い?」
素直になろうという気持ちはどこへやら。美琴は思わず挑戦的な目を向けてしまう。
だが、上条は特に気にした様子もなく、にかっと笑って、
「よし、じゃあ恋バナしようぜミコっちゃん!!」
「なっ……え、ええっ!?」
上条の言葉に、心臓が跳ね上がる美琴。
何も恋バナというものをしたことがないというわけではない。特に佐天なんかは大好きな話題でよく振ってくる。からかい目的で。
だが、今のこの状況は女子四人で仲良く話すのとはわけが違う。
美琴は、まさに今現在想いを寄せている相手と恋バナなどというビッグイベントには出くわしたことがない。
そんな動揺しまくりの美琴に上条は首を傾げて、
「おろ? ガールズトークの定番じゃねーの?」
「お、男と二人で恋バナのどこが定番なのよ!!」
「ん、そういうもんか? まぁ、いいじゃねえか、俺とミコっちゃんの仲だろ?」
「……っ。ミ、ミコっちゃんって呼ぶな……」
「じゃあ美琴」
「……うぅ」
上条の一言一言が美琴の精神を大きく揺さぶる。
確かに「ミコっちゃん」と呼ぶなとは言ったが、だからといって真っ直ぐ目を見られて「美琴」と呼ばれるのもそれはそれで照れる。
美琴は顔を逸らして必死に赤くなっているのを隠しながら、ぼそぼそと話し始める。
「こ、恋バナっていっても、何話せばいいのよ」
「じゃあ美琴の好きな男とか」
「ぶっ!! 何そのド直球!! 言えるわけないでしょうが!!!」
「おっ、ってことは居ることは居るんだな?」
「いっ!?」
ニヤリと口元を歪める上条に、美琴はしまったと顔を引き攣らせる。
「ほら吐いちゃえ吐いちゃえ!! もしかして俺が知ってる奴か!? それなら協力してやるから――ごばぁ!!!」
言葉の途中でグーで殴られる上条。
美琴はビキビキと青筋を浮き立たせながら、上条を睨みつける。
「そうよねー、アンタはそういう奴よね!!!」
「いでで……分かった分かった、それなら特別に上条さんの好きな女の子のタイプを教えてやろう!!」
「それはもう聞いたっつの」
「へっ? 言ったっけ?」
「あ、いや……」
そういえば、上条は男部屋が盗撮されていた事を知らない。
別に白状してもいいような気もするが、なんだか自分が言うのは気に食わなかった。
こういうものは主犯である麦野か浜面の口から語られるべきことだ。
すると上条は少しの間キョトンと首を傾げていたが、
「まぁいいや。おやすみ」
「ちょっと待てええええええ!!!」
コテンと、その場に寝転んでしまう上条。しかもそれだけではない。
なぜか、その頭は美琴の太ももの上にある。つまりは、膝枕状態になっているわけだ。
「んー、なんだよー、ねみーんだから大きな声出すなよなー」
「い、いやツッコミどころは沢山あるけど、まず何でちゃっかり膝枕状態になってんのよ!?」
「そこの膝があったから」
「自由か!!!」
「うへへ、やわらけー」
「ひぃぃ!!!」
バシッ!! と美琴の平手打ちが上条の頬に直撃した。
それも無理はない。
なにせ上条はただ膝枕されているだけに満足せず、あろうことかその太ももを撫でるなどという変態行為に及んだのだ。
むしろここで黒焦げにされなかっただけ、美琴にしては良心的だとさえ思える。
まぁ上条からしてみれば痛いものは痛い。
若干涙目になりながら、その赤くなった頬をさすって、
「美琴さん、痛いです……」
「いきなり何すんのよ変態!!! 女子中学生の太もも撫でるとか何考えてるわけ!?」
「そこに太ももが」
「それ以上言ったら超電磁砲撃つわよ」
「おいおいハニー、流石にそれは熱烈すぎる…………分かった、分かったよもー!」
どこからかいつものコインを取り出す美琴に、上条は両手を上げて観念する意思を見せる。
だが、頭は相変わらず膝の上だ。
そして、それを無理にどかそうとはしない美琴。やろうと思えばいくらでも方法はあるにも関わらず。
なぜ、というのは愚問だろう。
好きな相手に膝枕をしている。それは恋する乙女にとっては恥ずかしくも嬉しいシチュエーションである。
上条は気持ち良さそうに目を閉じると、
「こうやって美琴に膝枕してもらうと、あの鉄橋の事思い出すよなー。いやー、あの時のビリビリは効いたぜ」
「そ、それはアンタが無茶苦茶な事言って立ちふさがったのがいけないんじゃない……」
「お前の方が無茶苦茶だったろーがーよー。死ぬつもりで一方通行に挑もうとしてるとか、上条さん焦っちゃいましたよ」
あの夜の事は鮮明に思い出せる。
八月の夜、生暖かい風の吹く鉄橋の上。
人生で一番の絶望。どんなに苦しくても明日は来るというが、それさえも見えなくなってしまった時。
上条は、やって来てくれた。
まるでそれが当然の事であるかのように、それこそピンチにはいつも都合よく駆けつけてくれるヒーローのように。
今なら言えるかもしれない、と美琴は思った。
「ありがとね」
「んあ?」
「あの子達と……私を助けてくれて。もしあの時アンタが来てくれなかったら、今私はここにいない」
半年越しのお礼。
上条は少し驚いたように閉じていた目を開けて、真上にある美琴の顔を見る。
彼女は穏やかに微笑んでいた。どこか、あのインデックスの包み込まれるようなものと似ている。
そして上条もまた同じように微笑む。
「おう、どーいたしまして」
その言葉の前に一瞬の間があったので、もしかしたら「自分の好きにやっただけだから礼はいらない」といったような事を言おうとしたのかもしれない。
といっても、例えそう言われたとしても美琴が納得するはずはない。
上条もそれに気付いたのかもしれない。だから素直に礼を受けとる事にしたのだろうか。
そんなことを考えていた美琴は少し真剣な表情になって、
「でも、アンタってあの時はもう記憶を失くしてたのよね?」
「そーだな。自販機に二千円飲み込まれた時のあれが俺にとってはお前との初対面だ。
あの時はビビったぜー。いきなり電撃ぶち込まれるわ、自販機に回し蹴り入れるわ。しかもそんなのが知り合いっぽいってんだからなー」
「悪かったわね! ……っていう事はさ、アンタは会ったばかりの私やうちの妹のために命賭けて一方通行と戦ったって事なのよね。
アンタらしいといえばそうなんだろうけど、そんなこと繰り返してたらいつか本当に死ぬわよ?」
美琴は溜息混じりに話す。
といっても、やめろと言っているわけではない。
これが上条当麻だという事は美琴自身良く分かっているし、言っても止まるわけがないという事も十分理解している。
だからこそ、美琴はせめて上条のために手伝えることは手伝おうと心に決めているわけで。
上条もその辺りは自分でも分かっているのか、
「あっはっは! いやー、まったく返す言葉もねえよ。いつも不幸不幸言ってっけど、ここまで生き延びてこれたのはむしろ幸運だよな。
まぁでも、放っておけねえんだから仕方ねえじゃんよ。あの時だって、御坂妹の為だとしてもお前が死ぬなんて嫌だったし」
「……私だって」
「んー?」
「私だって、アンタが死ぬのは嫌よ」
何とも情けない声が漏れてしまった、と美琴は思った。
酔っ払っているのは上条であるはずなのだが、これは彼女もあてられてしまったのだろうか。
その表情はいつもの彼女からは考えられないほど弱々しいものだった。
そんな彼女の頭に上条の手が伸びた。
「大丈夫だって、俺は死なねえ。いつも一人で戦ってる訳でもねえ。お前だって助けてくれるじゃねえか。
俺の方こそ、ありがとうな。毎度毎度俺のワガママに付き合ってくれてさ」
そう言って笑顔を浮かべる上条に、美琴は不満そうに口を尖らせる。
それでも、頭に置かれた手は払おうとしない。
「……本当よ、もっと感謝しなさい」
「ははぁ、神様仏様御坂様」
「アンタてきとーに言ってるわよね?」
美琴のジト目を受け、上条は少し考え込む。
そして、やがて何かを思いついたらしく、ピコーンと頭の上に豆電球が現れそうな表情で、
「分かった分かった、それじゃあご褒美にチューしてあげよう!」
「ふぇっ!?」
いきなりすぎる上条の提案に、美琴は体全身をビクッとさせる。
そんな彼女を置いて、上条はゆっくりと体を起こして真っ直ぐ美琴を見た。
当然、美琴は大パニックだ。
酔っ払いの言うことなどまともに取り合ってはいけないという事くらい分かっていたはずだったが、それでも好きな相手にこんな事を言われれば無理もない。
「は……え、チューって……キス!? ななななな何よそれいきなり過ぎるわよつか何で勝手にご褒美だって決めつけてんのかしら逆にアンタのご褒美じゃ」
などと思考がまとまらない内に言葉だけを次々と吐き出す美琴。
上条はぼーっとしていて明らかに聞いていない様子ではあるのだが、それにも気付いていない。
普通なら酔っぱらいにこんな事を言われれば拒絶するに決まっている。
例えば母親である美鈴なんかも酔うと誰彼かまわずキスしようとする悪癖があるが、その度に必死に逃げたものだ。
ところが、今回の相手は想いを寄せる相手だ。
率直に考えて、キス自体は嬉しいに決まっている。こう認めるのは悔しいが、確かにご褒美といえるだろう。
しかし、だ。
「そんじゃ、んちゅー」
上条の、この顔はどうなんだろうか。
唇をタコのように大げさに出っ張らせ、どう見てもギャグにしか思えない。それが近付いてきている。
そもそも、相手の照準はこちらの唇なのか頬なのかも判断できない。フラフラと揺れる頭を見る限り、狙いが外れて目に唇が飛び込んできてもおかしくない。
こんなものがファーストキスでいいのか。
美琴は周りにも隠し切れないほどの少女趣味の持ち主であり、ファーストキスのシチュエーションなんかは何度も夢見たことがある。
例えば夜景の綺麗な高級レストラン。例えば夕陽の綺麗な砂浜。
そんなロマンチックな場所で上条とキスする姿を妄想してはバタバタと恥ずかしさのあまり悶え、ルームメイトの白井黒子から疑惑の視線を受けたものだ。
だが、キスはキスだ。
どんなシチュエーションにしたって、上条とキスをしたという事実は変わらない。
未だ手を繋ぐだけでも心臓バクバクで頭が真っ白になってしまう美琴からすれば、それは夢の様なものだ。
その千載一遇のチャンスが巡ってきている。
美琴は悩む。悩みに悩みまくる。
その間にも、上条のタコ顔は近づいてくる。酒臭さを強く感じ始める。
「んちゅー」
「……っ」
「んちゅー」
「……っ!!」
心の準備ができていない。
顔を近づけてくる上条に対し、美琴は上半身を仰け反らせて距離を取ろうとする。
しかし、それにも限界があるので、どんどん追い詰められていく。
そして。
「いやああああああああああああああああああああ!!!!!」
ゴンッ!! と良い音が鳴った。
美琴らしからぬ悲鳴とともに放たれたのは、強烈なヘッドバットだった。
「おごぉぉぉぉ!!!」
相当痛いのか、額を抑えて倒れこんでしまう上条。
結論として、美琴の中でやはりファーストキスでこれはありえないという事になった。
それに冷静に考えてみれば、もしこのことが食蜂なんかに知られた時のリスクも看過できない。
加えて自分のファーストキスを、明日になったら目の前の男は忘れているかもしれないという可能性もあり、それはとても流せない事だった。
そういったもろもろの事情を知らない上条は、ただ痛みで布団の上を転がる。
そして涙目で、
「な、なにすんだよう」
「それはこっちのセリフよ!! こっちはファーストキスなんだからもっとこう、雰囲気とか色々……」
「……あ、そっか。そういえばお前好きな奴がいるんだっけか。そりゃ悪かったなー、ファーストキスはそいつのためにとっておかなきゃいけないよな、うんうん」
「………………」
腕を組んで訳知り顔で頷いている目の前の男を、思い切り殴り飛ばしたい衝動に駆られる美琴。
そんな彼女の危険な雰囲気に気付かずに、上条は悩ましげに首をひねる。
「うーむ、それならやっぱり長生きしねえとなぁ。美琴の晴れ姿をこの目で見るまでは」
「アンタは私のパパか!!」
「残念ながら俺の娘枠はインデックスで埋まってまする。だから美琴は妹な。お前も俺のことをお兄ちゃんって呼んでいいぞ。
あっ、けど俺にそういう性癖があるわけじゃねえからな!! どっちかっていうと、俺も年上のお姉さんに甘えたい系だ!!!」
「知るか!!! っておい、ちゃっかりまた膝枕体勢に戻ってんじゃないわよ!!!」
相変わらず自由気ままに行動する上条。
余程美琴の膝枕が気に入ったのか、再び頭を彼女の太ももに乗せて、気持ち良さげに目を閉じる。
そして美琴も美琴で、言葉とは裏腹にそんな上条を無理にどかそうともしない。
美琴は完全に無防備な状態の上条を見下ろしながら、それだけ自分は心を置ける相手だと思われているのかな、とぼんやりと思う。
それはそれで嬉しいことなのだが、ここで引っ掛かるのは上条が美琴の事を恋愛対象として見ていないらしいことだ。
つまりは上条の言うような妹みたいなものという結論に落ち着き、上条に想いを寄せる少女としては見過ごせない。
美琴はこの割と深刻な問題について考え、
「……ねぇ、さっき私の事妹だとか言ってたけどさ」
「おー」
「それはつまり、その、私のことを女として見てない……とか?」
男部屋での恋バナを聞いていたので、上条の言い分は知っている。
しかし、それはあくまであの場ではそう言っただけで、本心は違うのではないかという期待も少しだけ抱いていた。
上条も酔っているが、恥ずかしいものは恥ずかしいだろう。だから、とっさに誤魔化そうとしたわけで、こうして本人になら違った答えを返してくれるのではないかと。
しかし。
「あぁ、そうだな。俺達ってそういう関係じゃん。美琴も俺の事男だとか意識したことないだろ?」
一刀両断。
精神に多大なダメージを負った美琴は、まるで本当に斬られたかのように身を傾げる。
その答えは一度聞いてはいたが、こうして直接言われるとまたキツイものだ。
もうハッキリ言ったほうがいいのかもしれない。
このまま行くと、本当にインデックスの言っていたように告白まで三年とかいう事になりそうだ。
相手は想像を絶する超絶鈍感男。正面からぶつかってやらないと絶対に気付かない。
美琴は一度ギュッと口元を結ぶと、
「……何勝手に決めちゃってくれてんのよ。私は」
そこで一旦言葉を切る。
次の一言は勇気がいる。今までの関係を壊すものだからだ。
それでも、言わなければいけない。
確かに今のこの関係も悪くないとは思っている。しかし、決して満足はしていない。
だから、美琴は一歩踏み出す。
自然と手元に力が入り、浴衣にシワを作る。
暖房は適切で、決して暑いことはないのだが、額に汗もにじみ始める。
そして、美琴はすぅと息を吸って、
「わ、私は……アンタの事、男として見てる」
「…………」
「えっと、だから、そういう兄妹とかじゃなくて……ちゃんとした……うぅ…………」
「…………」
顔から火が出そうとはこういった事を言うのだろう。もっとも、美琴の場合は実際にバチバチと火花が散っているのだが。
もうここまで言ったら、大体の男は何が言いたいのか気付くはずだ。大体の男は。
上条にはまだ足りないだろう。美琴としては何とか自分を女として見てもらいたいわけで、そうなるともう告白しかないのではとも思えてくる。
だが、それはハードルが高すぎる。
今言ったセリフもほとんどそれに近いのだが、ハッキリ言うとなるとまた大きく違ってくる。
上条は何も言わない。
部屋には二人しか居ないので、美琴が言葉を切って上条が何も答えないと、そこにはただひたすら沈黙が続く。
いつまでもそれに耐えられない美琴は、顔を真っ赤にしたまま再び口を開く。
「ね、ねぇ、何黙ってんのよ。何か言ったら――」
「――――ぐぅ」
ビキィィ!! と美琴の額から精神衛生上大変よろしくない音が鳴った。
原因はもちろん自分の膝の上にいる男だ。
上条は見事に寝ていた。それはもうグースカと。
それも仕方ないだろうとは思う。
旅行には朝から出発して、着いた先でも食蜂に振り回され、しかも酒も入っているとなればこうなるのは不思議ではない。
しかし、なぜこうも絶妙なタイミングで寝れるのだろう。もはやわざとやっているようにしか思えない。
これではどこまで聞いていたかも不明だ。それでも、まぁ、美琴の「アンタを男として見ている」というのは聞いていないだろう。
美琴の勇気を振り絞った行動は、ものの見事にスルーされ徒労に終わった。
これは流石に一発入れるくらいの権利はあるんじゃないか。
そうやって美琴は右拳を握りしめ、更にそこにバチバチと電気をまとわせる。特性かみなりパンチだ。
「こんの――!!」
その腕を振りかぶって、止まった。
自分の膝枕でぐっすり寝ている上条は、無防備に眠りこけていて、なおかつ仰向けなのでその顔がよく見える。
端的に言って、美琴はその寝顔に見とれていた。
人の気も知らないで幸せそうに眠りこけるその表情は、彼女の胸をギュッと掴む。
美琴は声も失い、そのいつもと違う無垢な表情をじーっとしばらく眺めてしまう。
(……こ、こう見ると結構可愛いかも)
彼女の頬には赤みが差し、ぽーっとゲコ太を見る目に似てくる。いや、もしかしたらそれ以上に熱っぽいかもしれない。
その視線は次々と上条の顔のパーツへ向けられ、とある一点で固定される。
ずばり、唇だ。
「………………」
ゴクリ、と喉を鳴らす。
その後キョロキョロと辺りを見渡し、誰もいない事を確認する。
(い、いい……かな……?)
そろーっと、片手で自分の髪を抑えながら、本当にゆっくりと顔を上条の元へと落としていく美琴。
これでは食蜂の事を言えないのではないか、という疑問が頭をよぎるが、すぐに追い出す。
(別にキ、キスだし、欧米とかだと普通に挨拶程度に使われるし! だ、だから食蜂とは違う!)
そんな風に自分に言い訳しながら、美琴は更に顔を落としていく。
これは大チャンスだ。色々考えたファーストキスのシチュエーションもいつの間にか頭から消え、とにかく上条とキスできればいいという考えに変わっていく。
いや、もしかしたら先程のタコ顔よりかはマシだという感覚があるせいなのかもしれない。
とにかく、美琴はただ上条とキスしたい一心で顔を近づける。
目はトロンとして、ぼーっとした表情のまま、彼女は自分の本心に忠実に行動する。もはやいつもの理性というものが無くなっている。
そして、上条の唇まで後数センチ。相手の寝息が口元にかかるくらいになって――――。
「おい、上条を回収しに来たンだけどよォ」
ガチャ、とノックもなしに入ってきたのは一方通行だった。
空気が凍った。
美琴は上条にキスする寸前で固まったまま、一方通行はドアノブに手をかけたまま完全停止している。
お互い何を言えばいいのか分からない。物音一つたててもいけない気がする。
あの一方通行ですら、その表情から面食らっていることが分かる。
美琴の頭の中は完全に真っ白で、言い訳など何も思い浮かばない。
そもそも、この状況で言い訳のしようがあるのかという疑問もある。
何とも気まずい沈黙が流れる。
そして。
「数秒で済ませろ」
そう言い残し、バタンと彼は出て行ってしまった。
その後、彼女はどうするか。気を取り直して今度こそキスするか。
そんな事できるはずがない。
あんな状況を見られた美琴はもう色々とダメだった。少し落ち着いた所で、一気に色々なものが胸に押し寄せてくる。
頭はグチャグチャ、恥ずかしさの許容量は完全に超え、その溢れた分が眩い閃光へと変換され――――。
「ふにゃー」
「あばばばばばばばばばばばばばばばば!!!!!!」
上条は、美琴の膝枕が危険だという教訓を得た。
***
時は少し遡る。
上条が女部屋へ突撃していった少し後に一方通行も部屋を出た。
といっても、もちろん上条と一緒に突撃をかけるためじゃない。流石に彼はそこまで愉快な人間性は獲得していない。
この宿の二階ロビーの近くには、景色を眺めるためのバルコニーがある。
ここの立地条件は素晴らしく、そのバルコニーからは綺麗な山の景色を見ることができ、昼間は展望台として宿泊客以外にも開放していたりするらしい。
そんな良い場所ではあるのだが、流石に夜になると山も真っ暗で見えなくなってしまうので外に出てくる者もほとんどいない。
まぁ、今は学園都市からの受け入れで貸切状態なので、元々他に客は居ないのだが。
そのバルコニーの端っこ、手すりに両腕を置いた状態で一方通行は夜風を受けていた。
見上げれば綺麗な満天の星空。吐く息は白く、真っ直ぐ空へと昇っていく。
普段暮らしている学園都市では中々見られない、田舎ならではの夜空だ。
それなりにアルコールが回っているのだろう。冷たい夜風が心地よいと思えるほどには顔が上気しているようだ。
しかし、いつまでもここに居れば風邪を引いてしまう。浴衣の上に茶羽織という格好は、とても二月の夜を凌げる服装ではない。
能力を使えば問題無いだろうが、こんな事にいちいち使うのも馬鹿らしい。
それに能力を使えるのであれば酔いや顔の上気も全てベクトル変換で調整すればいいわけで、流石にそれは色々と台無しだと一方通行も思ったわけだ。
そんなわけで、ガラス戸からロビーに戻る。
すると、そこにあるソファーの一つに銀髪碧眼の少女が座っていた。インデックスだ。
こうして見ると純正外国人でも浴衣はよく似合っており、大したものだと思う。服の方が、だが。
彼女はこちらに気付くと、
「もしかして飲み過ぎちゃったとか?」
「馬鹿言え。あの部屋が暑苦しかったから涼みにきただけだ」
「ふーん、でもあなた、少し顔赤いよ」
「……ちっ」
元々白い肌なのでそういった変化は分かりやすいのだろう。
一方通行は忌々しげに舌打ちをすると、さっさと部屋に戻ることにする。
その背中にインデックスの声が飛ぶ。
「今戻るのはあんまりオススメしないかも」
「はァ?」
「まぁ、実際に見たほうが早いかもね」
意味が分からないので、それ以上は反応せずにさっさと歩いて行く一方通行。
そのまま数十秒で元居た部屋の前まで辿り着き、扉を開ける。
そこには。
「おらあああああああ、足舐めろや浜面ァァああああああああああああ!!!!!」
「わぶっ!!! おぼぼぼぼぼぼぼぼ!!!」
「あははははははははははぁ!!! たっのしぃー、ほらもっと速く速くぅ!!!」
「おいどけクソアマァァ!!!!! やめろおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
麦野沈利が素足で浜面仕上の顔面を踏みつけている。
垣根帝督が犬のように四つん這いになり、その上に食蜂操祈がまたがっている。犬が悲痛な表情をしている辺り、おそらく能力を使われて体を勝手に動かされているのだろう。
畳の上には先程よりも多くの酒瓶。今はっちゃけている女子二人が飲んだものだと考えて間違いない。
まさにカオス。
近寄れば飲み込まれて出てこれず破滅する。そんな空間がそこには広がっている。
一方通行はそのまま何も言わずに扉を閉めた。
とりあえずロビーに戻る。
そこには相変わらずインデックスがソファーに座っており、売店で買ったのかスナック菓子を食べている。
彼女は一方通行が向かいのソファーに腰を下ろすと話しかけてきた。
「おかえりなさい。どうだった? まだちょっとアレな感じ?」
「何であンなふざけた状況になってンだよ」
「んーと、どこから話せばいいのかな。実はさっきから男部屋の様子はこっちで盗撮しててね」
「さらっと犯罪行為白状しやがったなオイ」
そこからのインデックスの説明は単純なものだった。
上条が女部屋へ来ることを知った女子達は、面白そうという理由だけで美琴を部屋に残し、他の三人は逆に男部屋の方に行くという事になった。
そこで麦野と食蜂が飲み始めて、見事に出来上がり、あの大惨事というわけだ。
「オマエは飲まなかったのか?」
「私はシスターだからね。お酒は飲まないんだよ」
「暴食しまくってる時点でシスターとしてはアウトだと思うけどなァ。確か七つの大罪ってやつの一つだろ」
「あくまで私はまだ修行中の身だからね。時としてシスターらしく振る舞えないのも仕方のない事なんだよ。
それに、ローマ法王庁が発表した今現在の大罪は、遺伝子改造・人体実験・環境汚染・社会的不公正・貧困・過度な裕福さ・麻薬中毒だね」
「あァ、そうですか」
一方通行は一瞬、自分がどれだけ背いていか考えようとしてやめた。
別に宗教に興味はないし、いちいち考えなくても複数当てはまりそうなのは何となく想像できるからだ。
これ以上何も言うことがない彼はケータイを取り出してカチカチと弄る。
インデックスはそれを見るとにっこりと微笑んで、
「あの子にめーるでもしてるのかな?」
「なンだその目は」
「いつもはぶっきらぼうだけど、優しいところもあるんだなぁって。心なしかあの子と話している時のあなたはどこか柔らかい感じもするし」
いつだったか、バードウェイという少女にも、小さい者と話す時は声の調子が違うと指摘されたことがある。
別に意図してやっているわけではないが、今までの経験から自然と切り替えてしまう癖のようなものがついてしまったらしい。
これは彼のキャラを大きく崩してしまう可能性がある要因でもあるので、注意が必要だ。
一方通行はインデックスの言葉にはまともに取り合わずに、お返しとばかりに、
「それはオマエにも言えるだろうが。上条と一緒に居る時はやたら浮かれてるのが丸分かりだ」
「うん、だって私とうまの事好きだし」
「…………」
一言で封殺されてしまった。
何の恥じらいもなく当たり前のように言える辺り、自分が嫌に子供っぽく思えてしまう。
そういえば、と一方通行はとある事を思い出す。
「オマエ男部屋を盗撮したとか言ってたよな?」
「なんだかその言い方だと私が主犯みたいかも。主犯はしずり、共犯ははまづら。私はたまたまそこに居合わせた無関係の人なんだよ」
「そこはどうでもいい。つかこっちからすればオマエも十分共犯だっつの。
要は、上条がオマエの事をどう言ってたかも聞いたってことだよな? 内容はオマエがやけ酒するようなものだったはずだが」
「んー、まぁ」
インデックスは困ったように笑うと、視線を斜め上に持って行って少し考える。
次の言葉が出るまでしばらくかかるかとも思ったが、案外すぐに彼女は言葉を紡ぎ始める。
「とうまが私のことをどんな風に思っているかは何となく分かっていたからね」
「だから仕方ないってか」
「納得はしてないかも。とうまにはいつか私のことをきちんと女の子として見てもらえるようにしてみせるんだよ。
だから、現時点でそういう状態だったとしても、それで極端に落ち込むって事はないんだよ。正直少し残念っていうのはあるけどね」
「いつかって言うほど時間ねェだろォが。明々後日にはイギリスだろ、なら悠長に構えてる暇なンかねェンじゃねェの?」
「……私にも色々あってね。こっちにいる間にとうまに告白するのはやめたんだよ。何年後になるかは分からないけど、またとうまに会えた時に言おうってね」
彼女の言葉に、一方通行は目を細める。
しかし、それだけだ。彼はそれ以上追求してくることもない。告白する事をやめた理由も聞いたりはしない。
それは彼らしいもので、必要以上に他人に干渉するつもりがないスタンスをよく表している。
一方通行は手を首の後に回し、ソファーの背もたれに体を預けながら、
「オマエも余裕なモンだな。そンだけ時間が空けば人ってのはいくらでも変わる。
あの上条だってどっかの女とくっついてベタベタしててもおかしくねェだろ。それでも、オマエはアイツが変わらず待っていてくれるとでも思ってンのか?」
「…………」
インデックスは笑顔のまま、少し顔を俯ける。
その様子はとても儚く見え、一方通行でさえもどこか美しさというものを感じるものだった。
彼女にとって痛い所を突いた自覚はある。だが、これはハッキリさせておかなくてはいけないことだと一方通行は思っていた。
いざ上条と再会した時に、少しの覚悟もしていなければそれは大きな傷になる。
インデックスは顔を上げる。
その表情はやはりどこまでも暖かく、見ているこっちが癒されるものであった。
「何年経っても、とうまはきっと私のことを大切に想ってくれるんだよ。それは私も一緒」
「随分な自信だな。どンな女でも相手にならねェってか」
「……ううん、違うよ」
「はァ?」
「次にとうまと会った時、その隣に別の女の子が居るかもしれないっていう事は分かっているんだよ。その子がみことなのか、みさきなのか。それとも私の知らない他の誰かなのか。
そこまでは分からないけど、とうまが誰とも付き合わないなんていう確証は持てるはずがないんだよ。あ、これはみことには内緒ね」
その笑顔とは裏腹に、言葉は重く切ないものだった。
一方通行は念を押すように、静かでいながらハッキリとよく通る声で尋ねる。
「それでいいのか?」
「うん。例えとうまに恋人ができたとしても、とうまはきっと今と変わらず私のことを大切に想ってくれて、ピンチの時はヒーローみたいに駆けつけてくれる。
この前のみさきの件でとうまが教えてくれたんだよ。とうまがそう想ってくれるだけで、私はこれ以上ない程幸せなんだよ」
「それはちげェだろうが。本当のハッピーエンドってやつは、アイツがオマエと恋人になる事のはずだ」
「あはは、確かにそうだね。それじゃあ『十分幸せ』に訂正するかも」
一方通行はじっとインデックスを見る。
例え恋人になれなかったとしても、自分のことを大切に想ってくれているのであればそれで十分。
それは全て本当ではないだろうし、全てウソでもないはずだ。
自分以外の誰かが上条の隣を歩くことに、全く胸を痛めないなんて事はないだろう。一方で、今現在の上条からの想いで十分幸せだという事もウソではないはずだ。
いずれにしろ、これは誰かが口を出すようなものではない。重要なのは彼女自身が納得しているかどうかという事だ。
彼女の言葉だけを考えると、どこか言い訳がましいように感じるかもしれないが、その表情と声の調子からそんな半端な気持ちではないという事は分かった。
いつだって自分にとって最も良い結果を望めるわけではない。
それは一方通行自身がよく知っている。その中で人は選択していくのだ。
会話が途切れると、インデックスはチラリとロビーにある時計を見る。
「もう遅いし、そろそろ部屋で騒いでる人達を何とかした方がいいかも。あなたはとうま達の方に行ってくれる?」
「何で俺が……」
「じゃあしずり達の方に行く?」
「…………」
どちらか選べと言われれば、もちろん上条達の方だろう。
観念したように、一方通行は小さく舌打ちをして立ち上がった。
それから少し歩き、インデックスは男部屋に入っていき、一方通行は更に進んで女部屋の前までやって来た。
そして、何の躊躇いもなしにドアノブを掴む。
入る前に少しでも中の状況について予想しておくべきだったと彼が後悔するのはその数秒後。
***
それから少しして、美琴が色々と言い訳を早口でまくし立てるのを聞き流しながら、一方通行は黒焦げになった上条を受け取る。
「だから何度も言うけど、私は別にキ、キキキキキキスするつもりとかじゃなくて――!!」
「分かった」
「いや絶対分かってないわよね!? いいから聞きなさいよ、私はあくまでコイツの顔に何かついてたから――」
「分かったっつってンだろうが鬱陶しい!」
顔を真っ赤にしたまま必死に弁解している美琴に、一方通行はイライラしながら吠える。
美琴は一瞬ムッとするが、すぐにバツが悪そうに視線を泳がせながら、
「え、えっとさ、でもアンタみたいにまた誤解受けるかもしれないから、さっき見たことは他の人には秘密にしてくれない……?」
「あンなモン、俺がわざわざ他の奴等に言うわけねェだろうが」
「そ、そっか。それならいいわ」
明らかに安心した様子の美琴。
これではどう見ても先程からの言い訳がウソだと言っているようなものだが、わざわざそこを突いて更に面倒な事にはしない。
とにかく、これでやっと部屋に戻れそうだと、一方通行は上条を引きずるように運び始める。
その背中を、美琴の声が追った。
「……ねぇ、アンタは打ち止めとずっと一緒に居たいのよね?」
「あン?」
なぜ急にそんな話を振ってくるのか疑問に思い、一方通行は振り返りながら怪訝な声を出す。
そして、そういえば男部屋は盗撮されており、先程の会話も女子には筒抜けだという事を思い出して納得した。
それを考えれば、当然彼女には色々と言いたいことがあるだろう。
こうして比較的まともに話している二人だが、過去にあった出来事はとても水に流せるほど軽いものではない。
真剣な表情でこちらを見据える美琴に対し、一方通行は自嘲気味に小さく笑い、
「笑いたきゃ笑えよ。それとも俺にそンな資格があるわけねェって怒鳴りてェか?」
その言葉に、美琴は疲れたように溜息をつくと、
「どっちでもないわよ。まぁ、確かに私はアンタの事が許せない。例えあの子達がアンタを許したとしても、私は絶対に許さない。
実験のきっかけを作った私もそうだけど、アンタだって一生罪を背負わなきゃいけないのよ」
「言われなくても分かってる。それに、オマエはあのガキの側に俺が居ることも許せねェってわけか」
「違うわよ」
「あ?」
すると美琴は視線を横に泳がせながら、どこか言いたくなさそうな様子で、
「あの子がアンタと一緒にいて凄く幸せそうなのは知ってる。それなら私は特に口を挟んだりはしないって言いたかっただけ。
まぁ、元々私の言い分なんてアンタにとってはどうでもいいかもしれないけどさ」
「…………」
美琴の言葉に、一方通行は黙りこむ。
妹達(シスターズ)のことがあって様々な面で考え方を変えていった一方通行だが、それは彼女も同じだったようだ。
前へ進んでいるのは彼女もそうで、何よりも妹達の幸せについて考えている。だからこそ、打ち止めを一方通行に任せる事にしたのだろう。
一方通行は小さく舌打ちをすると、
「オマエの言い分がどうでもいいわけねェだろ。オマエが居なければあいつらは生まれてこなかった。それに」
ここで一瞬彼は言うべきかどうか迷い、一瞬間を置く。
だが、ここまで言ってしまったのなら同じことだと、最後まで言い切ることにした。
少し前の自分だったら絶対に言わないような事だとは自覚している。
「オマエはあいつらの姉だろうが」
「え……」
美琴は目を丸くする。
それだけ彼の言葉が意外なもので、今までの彼のイメージからはかけ離れたものだったからだろう。
そんな彼女に対し、一方通行は忌々しげな表情でクルリと背を向けて歩き出してしまう。
「俺は珍しく酔ってる。今の言葉は忘れろ」
「……分かったわよ」
彼女の言葉がどこか丸みを帯びていて笑っているような気がしたが、わざわざ振り返って確認しようとも思わなかった。
***
「死ぬ……本気で死ぬ……」
「クソったれ、何だこの状況は」
一方通行の肩を借りて情けなく歩く上条。
酔っ払って足元がふらついているというのもあるが、美琴の電撃をくらって痺れてまともに歩けないというのが大きな理由だ。
そんな状態のまましばらく歩くと、反対方向から美琴以外の女子三人が歩いてきた。
食蜂は上条を見つけた瞬間、目をいつも以上に輝かせると、
「上条さぁん、今から私と飲み直しましょぉ! きっと楽しいわぁ!!」
「はいはい、今日はもうお開きなんだよ」
「……なによ浜面のやつふざけんじゃないわよ私だって」
「しずりもさっきから怖いんだよ」
テンションが振り切れている様子の食蜂に対し、麦野は逆に俯いてブツブツと何かを呟いていた。
浜面という単語が時折聞こえるが、たぶん本人が聞いたら恐ろしくて震え上がったことだろう。なにせ呪っているようにしか聞こえないからだ。
インデックスはそんな二人をなだめつつ、情けない状態の上条を見ると呆れて溜息をつく。
「まったく、とうまも飲み過ぎなんだよ」
「んぐ」
彼女は両手で上条の頬を摘まむと、まるで仕様のない弟に諭すかのように注意する。
「でも、若い内はあまり次の日に残ったりしないとかって言うから大丈夫なのかな。とにかく、今日はすぐ寝るんだよ?」
「ふぁい」
上条の返事を聞くと、インデックスはにっこり笑って手を離す。
それから一方通行に上条の事を頼むと、そのまま二人を連れて部屋に戻っていく。
そんな彼女の後ろ姿に、上条が声をかけた。その声は意外とハッキリとしていた。
「インデックス」
「ん?」
「風邪引かないようにして寝ろよ」
「ふふ、分かった」
インデックスは笑顔でそれだけ言うと再び歩き始める。
そして上条もまたそれ以上は何も言わずに、一方通行の肩を借りたまま自分達の部屋へと向かう。
こうして旅行一日目の夜は更けていく。
それはいかにも学生旅行らしい慌ただしいもので、ただ沢山騒いだだけとも言えるだろう。
それでも、彼は、あるいは彼女は、一つの大きな決断をした。様々な思いが交差し、入り乱れる状況で、確かな一歩を踏み出した。
その先に何があるのかは分からない。
眩いばかりの光が待っているのか、それとも一寸先も見えない闇が待っているのか。それは進んでみなければ分からない。
しかし、彼も彼女も真っ直ぐと前を見て歩いている。その事が持つ意味は大きい。
外はパラパラと粉雪が降り始めた。
おそらく明日も、彼は、彼女はまた一歩ずつ進んでいくのだろう。
足踏みをすることはない。なぜなら彼や彼女はしっかり前が見えているから。
部屋に着いた上条と一方通行が、酷く悪化した男部屋の惨状を目撃するまで後数十秒。
***
ボカッと、額への謎の打撃によって目が覚めた。
目の前には、風呂場でもない病院でもない、知らない天井が浮かび上がる。
上条は一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。
そしてすぐに思い出す。そういえば学園都市の計らいで旅行に来ていたのだった。
ぼんやりとした頭のまま上半身を起こすと、すぐ近くに浜面がだらしなく寝ているのを見つける。
おそらく先程の打撃は、彼が寝返りを打った際に裏拳かなんかが入ったのだろう。
まぁ、元々御行儀よく寝ているようなイメージでもないため、特に不思議なことでもない。それなりに痛かったが。
部屋を少し見渡してみる。まだ朝早いのか、部屋は全体的に薄暗い。
一方通行は少し離れたところで音もなく眠っており、垣根はどちらかというと浜面寄りで、浴衣をはだけさせてだらしなく寝ている。
部屋にはただ浜面のいびきだけがうるさく響いていた。
昨日はいつ寝たんだっけ、とふと考える上条。
あまり良く覚えていない。
酒をかなり飲んだという事はうっすらと記憶にある。その後一方通行に支えられてこの部屋まで戻ってきた気もする。
戻ってきた、という事はどこかに行っていたという事になるが、その辺りはあまり良く覚えていない。
何となく、とかなり曖昧だが、美琴の声を聞いた気もする。
ともあれ、割とパッチリと目が覚めてしまった上条。
とりあえず顔でも洗おうかと立ち上がると、流石にもう酒は抜けたのか真っ直ぐ普通に歩くことはできるようだ。
途中、時計で時間を確認すると、まだ五時を回った直後という事が分かる。もっとも、昨日は何時に寝たのかは分からないが。
洗面所にて刺すような冷水で顔を洗うと、再び部屋まで戻ってくる。
まだ、誰も起きない。時間が時間なので当然と言えば当然だろう。
一方通行なんかは起こせばすぐに起きそうな雰囲気を放ってはいるのだが、実は朝に弱くて起き上がりざまにベクトルパンチなんかをもらったら洒落にならないのでやめておく。
さて、それではこの暇な時間をどうしようかと考えた上条。
時間があったら何かをやらなくてはいけないと考えるのは日本人の悪いところだというのを聞いたことがあったような気がする。
といっても、男子高校生にとって何もせずにぼーっとしているだけというのは、精神的にかなり辛いものがある。
それから少し考えて、上条はふと思いつく。そういえばここは温泉旅館だ。
***
そんなわけで朝から温泉に浸かることにした上条。
脱衣所と浴場を挟むドアを開けると、モワッとした熱気が押し寄せてくる。朝風呂を利用する客への配慮は万全のようだ。
そして、上条はシャワーで軽く体を流すと、浴場と露天風呂を隔てるドアを開けた。
即座に二月の朝の寒気が全身を駆け巡る。どうやら雪も降っているようだ。
全裸の上条は思わずブルブルッと震えると、足早に湯船に向かった。雪が降っていても入れるように、屋根はきちんとついている。
ザブン、とゆっくり肩まで湯に浸かる。
立ち込める湯気は真っ直ぐ昇っていき、屋根にぶつかり一旦留まったあと、横を抜けてそのまま上空へと吸い込まれていく。
こうして湯に浸かりながら、空から舞い降りる白い雪を眺めるのは上条にも風流というものを感じる事ができた。
朝の静かな空気だけが辺りを漂う。まるで時間がゆっくり進んでいるような、そんな感覚を覚えつつ、上条はゆっくりと目を閉じた。
その時だった。
「あれ、誰か居るのかな?」
そんな声が隣の女風呂から聞こえてきた。丸く柔らかい声だった。
上条は目を閉じたまま、
「おう、インデックスか」
「とうま? 昨日あれだけ飲んでたのに早起きだね。大丈夫? 二日酔いとかしてない?」
「大丈夫、大丈夫、スッキリしてる。たぶん、寝たのが早かったからか、目が覚めちまったんだ。まぁ、浜面の拳が飛んできたってのもあるんだけどよ」
「ふふ、なんだかそれって旅行らしくていいね」
聞いている分にはそう思うかもしれないが、実際にやられると痛みもそうだが、驚きの方でも勘弁してもらいたいものだ。
ちなみに、彼女が既に起きている事に疑問は持たない。
普段はあんなだが、一応はシスターだ。朝は早起きしてお祈りをする習慣を持っている。
「とうま、今何か失礼な事考えなかった?」
「いえ何も」
妙な勘の良さに内心ビクッとする上条。
魔力を封じられているので、彼女が魔術で心を読んだなどという事はないだろうが、なぜここまで的確に当てられるのだろうか。
「……まぁ、いいや。そっちはまだとうま以外は寝てるのかな?」
「あぁ、そうだな。そっちも同じ感じか?」
「うん。みことなんかおっきい熊のぬいぐるみ持ってきてて、それに抱きついて寝てるんだよ」
「……あぁ、あれか」
以前美琴の部屋に潜り込んだ時、確かそのようなぬいぐるみがあったはずだ。
しかし、彼女も中学二年生だ。そろそろぬいぐるみを抱きながら眠るのは卒業したほうがいいんじゃないかとも考える。
まぁ、これはお節介かもしれないが。
すると、壁の向こう側のインデックスの声の調子が若干変わる。
「なんでとうまが、みことが寝る時に抱きついてるぬいぐるみなんか知ってるのかな?」
「あ、いや、それは」
「……まっ、いっか。つまりとうまはとうまなんだって事だね」
「あのそこはかとなく不名誉な評価を頂いているような気がするのですが」
何度か聞いたフレーズではあるが、どう考えても褒められてはいないだろう。
その度に上条はどういった意味なのか尋ねてはいるのだが、答えてもらった試しがない。聞かないほうが良いような気もするが。
すると、インデックスがふと思いついたように、
「そういえば、しずりもぬいぐるみ抱いて寝てたんだよ。ちょっと意外だったかも」
「えっ、マジで!?」
割と本気で驚く上条。
上条のイメージでは、麦野はカッコイイ姉御系でありながらどこか気品もあるという感じだった。
そこにそんな意外と少女っぽいところを加えればどうなるか。
「最高じゃねえか……っ!!!」
「とうまが何を言っているのか分からないんだよ」
「あ、けどインデックス、それあんま他の奴には言わないほうがいいぞ」
「へっ? うん、分かったけど……」
この情報については大切に扱わなければいけないだろう。
もしも本人にその事を指摘した場合どうなるか、わざわざ考えなくても何となく想像できる。
麦野の照れ隠しというものも見たくはあるが、その代償が殺人ビームというのはいささか大きすぎる。
それから、今日はどうするか、朝食はなんだろうと取り留めもない話を続ける二人。
こうして何でもない会話をするだけでも、上条はのんびりとした幸せを感じていた。
やがて、話が途切れて沈黙が流れ始める。
といっても、それは嫌なものではなく、むしろ暖かく心地よいものだった。
上条はぼんやりと灰色に染まる空を見上げ、そこから次々と降り落ちてくる雪を眺める。
沈黙を破ったのはインデックスだった。
「今日と明日と明後日。それでとうまとはしばらくお別れだね」
インデックスが来てから五日目。
お互いそこにはあまり触れていなかったが、こうして声に出すともう時間はないのだと実感する。
焦りはない。彼女の霊装の問題は解決したらしく、今すぐにでも戻っても大丈夫な程らしい。
しかし、油断はできない。
いよいよ学園都市を離れるという時になって、再び精神状態が悪化する可能性だって無いとはいえない。
一方で、そこまで心配していない自分もいる。
具体的に何故、とは言えないが、彼女の声からはどこか吹っ切れたというか、真っ直ぐな意思のようなものを感じる。
上条は空に向かって小さく息を吐き、
「そうだな。何かやり残したこととかないか? そういうのも今のうちだぞ」
「んーとね、一度レストランの料理を全部食べるっていうのやってみたかったんだよ。ほら、てれびで観たことあるやつ。
あれ、やってる人達は最後のほうで苦しそうにしてたけど、私なら絶対最後までおいしく食べられるんだよ」
「インデックス、世の中にはやり残したままの方が良い事もあるんだ。その現実にガッカリしないためにもな」
「とうま、さっきと言ってることが違う気がするかも」
「そんな事はないぞ。俺はお前の為を思って言ってるんだ」
「ホントかなぁ……?」
もちろんウソだ。上条は自分の財布の為を思って言っている。
レストランの料理全部頼むなんて真似をされたら、上条家の財政は一気に破綻する。
今では彼女もイギリス清教で働いているわけで収入もあるのだが、彼女がここにいる間は自分が払ってやりたいという気持ちもある。
インデックスは少し黙った後、
「やりたい事といえばさ、とうまは将来何がしたいとか考えてるのかな?」
「な、なんだよいきなり学校の進路指導みたいな話始めて」
「何となく。とうまって『不幸だー!』とか言って走り回ってるイメージしか無いから、そういう事考えてるのかなって。
まぁでも、とうまはいつもいつも自分がやりたいように女の子を助けまくって突っ走ってるから、今でもう満足なのかな?」
「おい待て、この際だから言っておくけどな、俺は何も相手が女の子だから助けてるってわけじゃねえぞ? 男でも関係なく助けるって」
「とうまってバイセクシュアルだったんだ……いや、うん、でも私はそういうので差別したりしないから大丈夫なんだよ!」
「ちげえええええええええええええええええええ!!!!!」
イマイチこちらの言いたいことが伝わらず、バイ疑惑までかけられてしまう。
上条は女の子だからという理由だけで命をかけてフラグを立てに行く勇者でもなければ、男女どちらでも構わないという性癖を持っているわけでもない。
とにかく今の話題から離れようと思った上条は、先程彼女に尋ねられた事を真面目に考える。
「で、将来やりたい事ってやつだけどよ…………とりあえず学校の調査書には『しあわせになれるならなんでもいいです』って書いたな」
「そういう切実すぎて反応に困る答えはやめてほしいかも」
「ぐっ……じゃあそういうインデックスはどうなんだよ?」
「私はバッチリ決めてるよ。この辺りが社会人と学生の違いってやつだね」
その口調から、彼女のドヤ顔が目に浮かぶようだ。
だが仕方ない。彼女は立場的には公務員というものに位置している。
一方で上条は、今まで散々魔術師や超能力者と戦って世界も救ったことがあったとしても、立場的には一介の学生であることには変わりない。
上条は底知れぬ敗北感を味わいながら、次の言葉を待つ。
少しして、彼女の声が聞こえてきた。
それは相変わらず聞いているだけで包み込まれるような、柔らかくて暖かいものだった。
「私はね、みんなを守れるようになりたいんだよ」
「守る?」
「うん。私って今まではみんなに守られてばかりだったから。ステイルやかおり、もちろんとうまにも。
だから、今度は私が守ってあげたいって。お互いがお互いを守れるようになれば、背中合わせで助け合うことだってできる」
「インデックス……」
「実を言うとね、とうまとみことの関係っていうのがとっても羨ましかったんだよ。
どちらかがどちらかを守るんじゃなくて、お互い協力して助け合っていく。前と後ろ、縦に並ぶんじゃなくて、横に並ぶ。それが良いなって」
上条にとってインデックスが大切な存在であると同時に、インデックスにとっても上条は大切な存在だ。
だからこそ、守られるだけではなく守りたいというのは当然の感情なのだろう。そして、彼女の言う通り助け合っていくという関係が一番良いのかもしれない。
しかし、彼女は少し勘違いをしているようだ。
これではまるで、今まで自分はただ守られている事しかできなかったと言っているみたいだ。
「インデックス、俺だって今までお前に何度も助けられたよ」
「え、そうかな……?」
「あぁ。記憶を無くした俺に“心”ってやつを教えてくれたのはお前だ。最初に居場所をくれたのも、そしてそれからも俺が帰るべき場所としてお前は居てくれた。
どんなにキツイ戦いの後でも、お前の顔を見て声を聞けばそれだけで十分だった。俺はまた次も誰かのために動くことができた。
たぶん、インデックスが居てくれなかったら、今ここにいる上条当麻は居なかった。だから、本当に感謝してんだ」
「とうま……」
「だから、そこまで気にすることはねえよ。お前が思っているよりもずっと、俺にとってインデックスは大切な存在なんだ」
再び沈黙が流れる。
上条は言いたいことを言い終えた満足感で小さく息をつく。
あの食蜂の件からずっと、インデックスには言っておきたかった事だった。
空から舞い落ちる雪はいくらか増えてきたような気がする。
湯加減は変わらず良好。湯気は入ってきた時と同じくらい濃く立ち込めている。
若干、頭がぼーっとしてきた。
朝からのぼせてしまっては、今日一日を無駄に潰してしまう可能性もあるので、そろそろ出たほうがいいかもしれない。
そんな事を考えていると、壁の向こうから声が聞こえてくる。
「ありがとう、とうま。すっごく嬉しいよ。でもね、やっぱり私の考えは変わらないんだよ。
私にとってもとうまは大切な存在だから、危ない目には遭ってほしくない。だから、守りたい。私のことを守ってくれるとうまにはよく分かるでしょ?」
声の調子から、本当に喜んでくれているのが分かる。
ただし、彼女の言葉自体には上条は何も言うことができない。
大切だから、守りたい。それは当然の考えであり、よく分かっているからこそ抑えこむ事なんでできるはずがない。
上条は小さく笑うと、
「……分かった分かった。それじゃ、頼みますよインデックスさん。不幸な上条さんを守ってくださいな」
「ふふ、お安いご用なんだよ。どんな不幸がやってきても、この私の十万三千冊の魔道書で吹っ飛ばしてあげるかも!」
「なんだか地球ごと吹っ飛ぶような嫌な予感しかしないのですが」
「むっ、何でそうなるのかな。とうまは魔術に対して偏見を持ちすぎなんだよ」
「そりゃ何度も世界の危機を体験すればな。天使の術式とか、地球の自転止めたり北半球を丸ごと吹っ飛ばしたりメチャクチャだし――」
そこまで言って、上条は「しまった」と口を閉じる。
こういった話を土御門なんかにグチグチ言うのはいいかもしれない。しかし、今の相手はインデックスだ。
十万三千冊の魔道書を持ち、魔術の知識であれば他の追随を許さないほどの者にこういった事を言えばどうなるか。
嫌な予感がした時にはもう遅かった。
「とうま! まったく、この際だから根本的なところから魔術への誤解を解いてあげるんだよ!
まず、天使っていうのは自我を持つものじゃなくて、本来は自分から人間をどうこうしようって思うはずがないんだよ。そこには確実に何かしらの人間の介入があって初めて――――」
それからインデックスの魔術談義は小一時間続いた。
案の定そのお陰で上条はのぼせることになり、彼女はピンピンしていた。
***
宿で朝食を済ませた一行は、ゲレンデにやって来ていた。
見渡す限りの真っ白な銀世界。ゆっくりと空から舞い落ちる雪が幻想的で美しい光景を作り出している。
絵画か何かのモチーフになってもおかしくない。例え滑らなくても、その景色だけで満足してしまうという者も居るかもしれない。
それでも、血気盛んな若者にとっては、滑らないなどという選択肢はありえない。
上条達は各々がスキー板やスノーボードを用意して滑る準備は万全だ。
といっても、全員が経験者というわけではない。
そもそも全員で固まって滑るというのもゴチャゴチャして面倒だろうというわけで、初心者と経験者で分かれてそれぞれ楽しむことになった。
初心者組は上条、インデックス、食蜂。
上条とインデックスに関しては記憶が無いので、まず経験があるのかどうかすら分からない。まぁ、その辺りは実際に滑ってみれば分かるかもしれない。
例え「エピソード記憶」になくても、もし経験があったのなら運動の慣れなどを司る「手続記憶」として、文字通り体で覚えている可能性がある。
とはいえ、上条はともかくインデックスにはそんな経験があるようには思えないが。
そして食蜂の方はイメージ通りというか、スキーなどした事がないようだった。
もっとも彼女の性格を考えれば自分から体を動かすような事をするはずがないというのはすぐに分かる。
と、そこまではいい。
しかし上条には一つ腑に落ちない点がある。
「……で、なんで御坂がこっちに居るんだ?」
そう言って視線を移すと、そこにはどことなくカエルを意識したような明るい緑色のウェアに身を包んだ美琴がいる。
彼女は経験者だ。それに運動神経抜群なので、大体のスポーツは上手くこなしてしまうというイメージもある。
そんな彼女がわざわざ傾斜の緩い初心者コースに付き合っている事を意外に思ったのだ。浜面達経験者はリフトで上の方まで行ってしまった。
美琴はなぜかこちらに目を合わせないようにしながら、
「べ、別にいいじゃない。それに、初心者だけじゃ上達も遅いでしょ。だからこの私が特別に教えてあげようかなって……」
「ふーん、へー。そうなんだぁ」
「何よ食蜂その目は!!」
食蜂のジト目を見て顔を赤くする美琴。
彼女達の間で何かしらの意思疎通が行われているというのは分かるが、具体的なところまでは分からない。
これは上条がレベル0だからなのか、それとも女子の間にしか伝わらない何かなのか。
「まぁ、とうまには分からないだろうね、うん」
インデックスの呆れた声を聞く限り、どうやら後者らしい。
そんなこんなで美琴がインストラクターとなって、上条達のスキー講習が始まった。
実際に滑ってみて分かったのだが、どうやら上条は初心者というわけではないらしい。
もちろん、七月二十八日以前の記憶が無い上条にスキーをやったという覚えはない。それでも、どうすればいいのかが何となく分かる。
これは上条にスキーの才能があると考えるよりも、ただ単に記憶喪失以前の経験で体が覚えていると考えたほうが自然だろう。
一方で、インデックスと食蜂は酷いものだった。
いくら美琴が教えてもまともに止まることができず、その度に転んでいる。
加えてまるで狙っているかのように、上条の元へと突っ込んでくるのだ。
「と、とうま、どいてどいてー!!!」
「何よこれ信じられないどう止まれっていうのよぉ!!!」
「ちょっと待て、何でこっちに来るんだよ!!!!!」
「だから板をハの字にしなさいって!!!」
「きゃあああああああああ!!!!!」
「ぐおあああああああああ!!!!!」
あえなくインデックスと食蜂に巻き込まれる形で激突される上条。
相手が一人ならまだしも、二人いっぺんに来られたせいで、雪の上を三人が組んずほぐれつの状態でもがくはめになる。
ところが、食蜂は転んだにも関わらずやけに嬉しそうな表情で、
「うーん、こんな板に乗って滑る楽しさっていうのは全く理解できないけど、悪いことばかりじゃないわねぇ」
「お、おい操祈、お前もうちょっとこの状態を何とかしようとしろって! 痛い、周りの目が痛い!!」
「別にいいじゃないですかぁ」
「良くないわよっ!」
意図的に更に体を密着させてくる食蜂に対し、美琴がすぐに寄ってくる。
その後抵抗むなしく無理矢理引き剥がされ、不満気な食蜂。もう目的が完全に変わっているような気がする。
インデックスもインデックスで、まだ頭をクラクラさせながら溜息をつく。
「どうすればいいのかは頭にあるのに、その通りに体が動いてくれないんだよ。完全記憶能力も結構不便かも」
「普通はその記憶力から持ってないものなんだから、贅沢言わないの。つかそこの乳牛ちょっと待て!! 何あからさまに、そいつに向かってもう一度転ぼうとしてんのよ!!」
「ひっどーい、私は真面目に練習しようとしてるのにぃ」
「アンタの口から真面目に練習なんて言葉が出てくる時点で胡散臭すぎるのよ」
それからしばらく練習を続ける。
上条はもう一人で十分滑れるくらいにはなったのだが、他の二人はそうはいかない。
インデックスは何度も転びながらも楽しそうにはしているので、まだいいのかもしれない。一方で食蜂は逆にどんどんむすっとしていく。
「もぉぉ!!! こんなの何が楽しいのよぉ、まだ雪だるま作ってたほうがマシだわぁ!!!」
ついに食蜂がそんな声をあげたのは、もう何度目か分からないくらいに転んだ後、上条に助け起こされた時だ。
上条も彼女が運動音痴だというのは聞いてはいたが、まさかここまでとは思わなかった。
すると美琴は溜息をついて、
「アンタ頭は悪くないんだからちょっとは学習しなさいよ。スキーっていうのは転んで上手くなるものよ」
「あっ、じゃあ雪合戦しましょ。そっちの方が楽しそうだしぃ」
「おいコラ自由か!! つかゲレンデまで来て雪合戦とか意味分かんな」
美琴が最後まで言葉を言い切ることはなかった。
なぜなら、その前に至近距離から食蜂の放った雪玉が彼女の顔面に直撃したからだ。
心なしかゆっくりと、雪玉はボロボロと彼女の顔から落ちていく。
上条とインデックスはほぼ同時にげっそりとした表情を浮かべた。
嫌な予感がする。それは美琴が無言でプルプル震えている事からくる、確信に近いものだ。
そして、案の定。
「やりやがったわねコラァァああああああああああああ!!!!!」
結局、その後しばらくは食蜂の希望通り雪合戦が続くことになった。
***
一方で経験者組は、上級者コースにて全員がスノーボードでゲレンデを颯爽と滑っていた。
浜面なんかは普段から体を鍛えていて運動神経も良いので、上手く滑れても違和感はないのかもしれない。
それに対して一方通行は、見た目だけで考えると運動不足の引きこもりだと思われても仕方がない。そんな彼が楽々と難しいテクニックを決めていくのは意外に思う者も居るかもしれない。
ただし、彼はレベル5の第一位だ。
その情報を持っていれば、学園都市の学生からすればむしろ上手に滑れない方がおかしいと思うのだろう。
それだけ、学園都市で一番の能力者であるという肩書きは大きな意味を持ち、あらゆることを常人以上にこなしてしまうだろうという考えを植え付ける。
その意味では、レベル5なのに運動面ではからっきしの食蜂の方が周りからは珍しいと思われるのかもしれない。
まぁ、彼女の場合は精神系統の能力者なので納得できる部分はあるのだが、一般的にはレベル5=天才というイメージがあるだけに、その辺りを考慮しない者も珍しくはないだろう。
この場はレベル5が三人も居るという状況ではあるのだが、そこまで周りから浮いているという事はない。
確かに一方通行に関しては赤眼に白髪という目立つ風貌ではあるのだが、他の三人は見た目だけで言えば普通の学生だといっても問題はない。
そもそも、帽子にゴーグルという格好なので顔自体が分かりづらくなっている。
そんな中、垣根帝督はとあるものを見つけると、止まってゴーグルを上げる。
「なんだ……?」
ここから少し離れた所。
若い女の子二人に対して、男三人がナンパをしているようだった。これだけ見ればそこまで奇妙な光景ではない。
もともとモテたいからという理由だけでスノボを始めたという者も珍しくはない。
しかし。
「いいじゃん、いいじゃん! 俺達結構うめえよ? スノボはもちろん、他のこともさ!」
「ぎゃはははははは!! 真昼間から何言ってんだよこの子達引いちゃってんじゃねえか!!」
「うるせー、そういう意味じゃねえよバーカ! ごめんねー、コイツ変態でさ。もちろん俺はそんな事ないよ?」
「まぁまぁ、こんな奴等放っておいて、俺と遊ぼうぜ。初心者なら優しく丁寧に教えるからさ」
「あ、おい抜け駆けしてんじゃねえよ、お前が一番女で遊びまくってんじゃねえか! 聞いたぜ、また最近でき」
「おい、やめろっての! あはは、ごめんごめん、コイツ冗談が好きでさ」
「とにかくさっさと滑ろうぜ! せっかくゲレンデに居るんだし!」
「あ、あの……」
相手の女の子達は明らかに嫌がっている様子だ。
無理もない。離れて聞いている垣根ですら、あまりの低俗すぎる会話に顔をしかめる程だ。
しつこい男は嫌われる。ナンパにおいて引き際というものは大切だ。
「……ったく」
垣根は面倒くさそうにそちらへ歩いて行く。
別に助ける義理はない。女の子達はどちらも初対面だ。
だが、まともな人生を志すことにした垣根にとっては、こういった所で“良い事”をした方が良いと思ったのだ。
垣根はしゃがみ込んで手で雪を掘る。
そして、それらをギュッギュッと押し固め、手頃な雪玉をいくつか作った。
用途はもちろん、
「だから早く行こーって。ほらほら」
「やっ、は、離してください……」
「そんな事言わずにさ! 絶対楽しいか――ぶほっ!?」
「ごぼっ!?」
「ぶっ!!!」
見事命中。
垣根が美しいフォームで投げた雪玉は、三人の男のそれぞれの顔面に直撃した。
そしてキラリと白い歯を見せて一言。
「よう、そんなに遊びてえなら、俺に付き合えよ」
決まった。
そう思った次の瞬間には、男達が怒りの形相でこちらへ突っ込んできていた。
「「テメェェえええええええええええええええええええええ!!!!!」」
それに対し垣根はあくまで余裕の表情を崩さず、ヒュウと小さく口笛を吹いてクルッとボードを回転させ滑り始める。
すぐにスピードがつき、冷たい風が耳元でビュンビュンと鳴り、頬を撫でる。周りの風景がどんどん置き去りにされていく。
チラッと後ろを見てみると、男三人はしっかり追いかけてきていた。
自分で結構上手いというだけあって、腕はそれなりにあるらしい。それでも、別段驚く程というわけではない。
とはいえ、追いつかれるという事はないだろうが、このまま下まで降りきってしまうと自然とスピードはなくなってしまう。
その前にケリをつけるのが得策だろう。
垣根はガッとボードを逸らしてコースを外れる。先には葉を全て落とした裸の木が並ぶ林。
普段人が利用しているコースではないので、柔らかそうな新雪が続いている。
(能力が使えればこんな面倒な真似しなくていいんだけどな。まっ、そこは愚痴っても仕方ねえか)
いずれにせよ問題ない、と垣根は口元に笑みを浮かべる。
例え能力が使えないとしても、今まで暗部組織のリーダーを務めていた男だ。その辺のチンピラ三人くらいに遅れを取ることなどありえない。
垣根とそれを追う男達は、かなりのスピードで木々の間を縫って進んでいく。
雪もそれなりに降っていて視界も悪いので、途中で勝手に木に激突でもしてくれればとも思ったのだが、そこまでギャグ精神旺盛なわけでもないらしい。
それならば、と垣根はウェアの中に手を入れる。
「よっと!」
振り返りざまに右手を素早く振る。
そこから放たれたのはやはり雪玉だ。予めいくつかストックは作っておいたのだ。
「なっ――ごばっ!!!」
見事顔面に命中。
普通に投げていたら避けられたり防がれたりしたかもしれないが、こうして投げる直前まで相手に悟らせないことで反応を遅らせる事ができる。
雪玉によって視界を奪われた男は、ズドン!! と木に激突。真っ白な新雪を巻き上げてその中に消えていく。
そしてそんな哀れな末路に、他の男達の視線が集中する。そこが新たな隙だ。
垣根は気付かれない内に素早くウェアから新たな雪玉を取り出すと、
「おらっ!!」
「ぶぼっ!?」
またまた命中。この少年、生きる道が違えば有名な野球投手になったのかもしれない。
その後雪玉をくらった男は、最初の者と同じようにあえなく木に激突することになる。
後一人だ。
最後に残った男は後ろから威勢よく声を飛ばしてくる。
「セコい真似しやがってクソヤロウ!!!」
「バーカ、お前らが間抜けなだけだ。倒れゆく味方を気にかけてるようじゃまだまだ半人前、場所が場所ならすぐ死んじまうぜお前ら。
あ、いや、お前らの場合は仲間を気にかけたっていうか、ただ目に付くものに気を取られただけか」
「はっ、ご忠告ありがとよ! だが、もう雪玉なんていうガキくせえものなんか効かねえぞ。あんなもん、ちゃんと見てればどうにでもなる!!」
「へぇ、お前らのレベルじゃ子供の雪合戦くらいが丁度いいと思ったんだけどな。わざわざこっちが合わせてやってんだから感謝してほしいくらいだ。なんせ石すら入ってないんだぜ」
「吠えてんのも今のうちだぞオラァァ!! 滑りきったら顔の形変わるくらいボコボコにしてやるから覚悟しとけ!!」
「脅しとしちゃ落第点だな」
垣根はあくまで余裕の表情を崩さない。まるで、小さい子供をあやしているかのような印象も受ける。
こうやって話している間にも二人は木々の間をどんどん進んでいる。
ここで、男は何か違和感でも覚えたのか、眉をひそめる。
「おいテメェ、何でそんな後ろばっか見てんのに木にぶつかんねえんだ」
「ん? 前も見てんじゃんたまに」
「それで何で木を避けられるんだって聞いてんだよ!!」
男の言葉には自然と焦りが混ざる。
今二人は、本来のコースとは外れた林の中を滑っている状況だ。
そんな所を滑るというのはかなりの神経を必要とするものであり、男も何とかついていっている状態なのだろう。
それに対して垣根は大して難しくなさそうに、あまつさえ後ろを向いたりするほどの余裕さえ持っている。
少年はニヤリと相手を小馬鹿にするような笑みを浮かべると、自分の頭をコツコツと叩く。
「ここの出来が違うんだよ。例えば、俺は今のところ通り過ぎた木の数まで言えるぜ。前方の景色なんてもん、ずっと見てなきゃいけねえもんでもねえだろ」
「なにを……バカな……」
「信じるかどうかはお前の勝手だ。ただ、自分が今どの辺りを滑っているかくらいは知っといた方が良いと思うけどな」
「な、何が言いてえ!!」
「自分で考えろ、俺はそこまで親切じゃねえよ」
男がゴクリと喉を動かしているのが分かる。
これは単なるハッタリで、動揺を誘っているに過ぎないと考える事もできるかもしれない。
しかし、実際に。
垣根はほとんど前も見ずに木々の間を滑り抜けていくという所業を目の前で楽々とこなしている。
そんな現実離れした光景が、彼の言葉に説得力を持たせている。
そして次の瞬間。
垣根は再びウェアの中に素早く両手を突っ込むと、中から雪玉を二つ取り出し、間髪入れずに後ろを滑る男へ投げつけた。
「ッ!!!」
男は一つ目の雪玉をボードを逸らすことで避けると、二つ目は手で弾いてしまった。
その口元にニタァと粘りつくような笑みが広がる。
「はっ、結局ただのハッタリだったってわけだ! そうやって俺を動揺させて隙を狙おうとしたんだろうが、残念だったなぁ!!」
「……まぁ、不正解ってわけじゃねえな」
「負け惜しみ言ってんじゃねえよ!! これでテメェももう終わ」
その言葉は最後まで続かなかった。
なぜなら、突然男の体が宙へ投げ出されたからだ。
「なっ、うわあああああああああああああああ!!!!!」
感覚的には林を抜けると同時に足元の雪が全て消え去り、急に空中に飛び出したような感じだ。
だがもちろん、そのような超能力やらオカルト的な現象が起きたわけではない。実際に起きた事はもっと単純だ。
二人は本来のコースを外れて林の中を滑っていた。今はそこから元のコースへ戻っただけなのだ。
ただ、コースを外れた時と違うところは、少し滑っている間に林の中が本来のコースから見て高台に当たる位置になっていた。
つまり、そこからコースへ戻るという事は、高台から飛び降りるような形になるというわけだ。
スノボにおいてジャンプのテクニックは当然存在する。
ところがそれは当然数メートルの高さから飛び降りるなんていうものではない。
加えて、何の準備もなしにいきなりジャンプをすればどうなるかなんていうのは、初心者にでも容易に想像できる。
案の定、男は着地に失敗し、ドシャ!! という音と真っ白な雪を巻き上げて派手に転んでいた。
一方で垣根は悠々と着地し、そのまま滑降。
周りの者達は突然上から飛んできた二人に目を丸くしている様子だ。
垣根は楽しげにグッと拳を握り、
「うっし! いっちょあがり、と」
あの男が言っていた「動揺させて隙を作ろうとしていた」という予想は間違いではない。
ただ、動揺させる目的は「確実に雪玉を当てるため」ではなく、「これから飛び降りる事を悟らせないため」だった。あの後投げた雪玉もブラフでしかない。
あの男達との追いかけっこは、垣根にとって単なるアトラクションか何かでしかなかった。
自分が失敗するなどとは微塵も思っていない。いかに効率よく確実に状況を突破するか、そんなゲームだった。
垣根はゲームクリア後の爽快感を味わいながら、ぐんぐん滑っていく。
風を切る感覚が心地よい。舞い落ちる雪の結晶がより綺麗に見える。
と、その時だった。
「なにしてやがる」
そんな声が聞こえてきたので、垣根は一気に顔をしかめてそちらを向く。一気に爽快感を削がれた気がする。
声だけで分かった。そこには全身真っ白な学園都市第一位の能力者が並走してた。
垣根はこれ見よがしに心底うんざりした表情を浮かべて、ザッとその場に停止する。
「ストーカーかお前は」
「好きでやってるわけじゃねェ。オマエが放っておくと何するか分かンねェクソヤロウだからこうして監視しなきゃいけねェンだ。元々そう言われてるしな」
「何だよ別にわりーことしてるわけじゃねえだろ。絡まれてた女を助けてやったんだぜ、むしろ褒められるような事じゃねえか」
「オマエ、追ってきてる奴と一緒に向こうから落ちてきたよな? もし着地地点に無関係の人間が居たらどうする」
「はっ、俺がそんなしょうもねえミスするわけが」
「オマエじゃねェよ。追ってきてる奴の方だ」
「…………それは」
あの場面、垣根はこれからの事に備えることができ、誰かの上に落ちるなんていう無様な事にはなるはずがなかった。
だが、垣根を追っていた男の方は違う。
垣根の意図通りに完全に予想外の展開を受けて、男は満足に着地をすることもできない状態だった。
そんな男が自分の落ちていく先を見て、人が居たら避けるなんて事をできるはずがない。
止まって話している垣根と一方通行の近くを、仲の良い親子連れが通り過ぎていく。
一歩間違えれば、あの幸せな一家を巻き込んでいた可能性だってあったのだ。
「……ちっ、わーった、認める。配慮が足りなかった。けどよ、俺にしちゃ随分とマシな事はやっただろ?
相手を殺さず、なおかつ女達を助けてやったんだ。どうよ、俺だってその気になればまともになれるって事じゃねえか」
「オマエ、イイ事をしようとしてイイ事をやっただろ」
「は?」
「オマエはあの女達を助けたいって気持ちよりも、イイ事をして自分の価値を高めてェっていう気持ちの方がでかかった。
そンなンじゃまだまだ二流だ。確かに前までのオマエに比べればマシかもしれねェ。前に進もうとしてンのは認めてやる。
だがな、根底にあるものが自分の利益である限り、どこかでボロが出る可能性は消えねェ。今だってそうだっただろ」
「ぐっ、いや、けどよ! あの女達は今知ったばかりの他人だぞ! そんな相手をいきなり本気で守ろうなんて思えねえだろ!」
「別にオマエにそこまで求めてねェよ。いきなりそンな真似ができれば今までクソみてェな人生送ってるわけがねェ。
ただ、世の中には本物ってやつが居る。ほとンど何も知らねェ初対面の相手を、命を賭けて守ろうとする奴がな」
「……上条か。それはそれでどっかネジ飛んでるだろうが。よく知らねえ奴の事にそこまでできるわけがねえ」
「まァ、そこは否定しねェよ。俺だって理解できるわけがねェ。だがな」
一方通行はここで一息つく。
雪の降るゲレンデでは呼吸の度に口から白い息が漏れて、灰色の空へと吸い込まれていく。
白い雪にまみれてしまいそうな白い少年は、真っ直ぐ垣根の目を見る。その表情は今まで見たことがないほど、毅然としていて、正面から垣根と向き合っていた。
一方通行の声が響く。
それは決して大きなものではなかったが、耳から入って脳を大きく揺さぶる。
「オマエには、本気で守りたいと思える人間が一人だっているのか?」
少しの間、沈黙が続いた。
辺りに広がる人の声はどこか遠くに聞こえ、雪を運ぶ風の音がやたら大きく聞こえる。
そんな事は、いちいち言われなくても分かっていた。しかし、こうしてハッキリ言われることで、その意味は重くのしかかってくる。
上条にも、一方通行にも、浜面にも。命をかけて心の底から守りたいと思える人間がいる。そして、垣根にはいない。
その差は大きい。垣根にとって守るべき誰かがいる者達は手が届かないほど遠く、後ろ姿を見ていることしかできない。
誰かを心の底から想えた事がない垣根にとって、今やったことは単なるヒーローの真似事でしかないのか。
どれだけ“イイ事”をやったところでそれは所詮偽物で、ただの自己満足にしかならないのではないか。本当の意味で誰かを助けることなんて、できないのではないか。
――ただ、例えそうだとしても。
「あぁ、そうだ、俺のやってる事なんてのは所詮良い人って奴の真似事だ。本物じゃねえ、そう簡単になれるはずがねえんだ」
「ならどうする? こンな事続けても虚しいだけなンじゃねェか?」
「やめねえよ」
垣根は小さく息を吐いて、一方通行を正面から見据えた。
その瞳には溢れんばかりの意思の強さを感じ取ることができる。
おそらく、今までの彼ではこんな目などできなかったはずだ。
「真似事までやめちまったら、俺はもう二度と本物になることなんてできねえ。
例え真似事に過ぎなかったとしても、これは俺にとって先へ進むための道だと思ってる。この先には何かがあると思ってる。
もちろん確証なんかねえ。このまま同じ事を続けても、結局元の場所へ戻っちまうのかもしれねえ。けど、だからって立ち止まってるわけにはいかねえだろうが」
「……はっ、本物じゃねェって知っておきながら無様に足掻くか」
「そうだよ、悪いかコラ」
一方通行はここで意外な表情をした。口元を薄く伸ばして笑ったのだ。
しかも、それはいつもの皮肉を込めたようなものではない。今まで垣根に向けられていたものとは明らかに違う、それは純粋な気持ちで笑っている表情だった。
「いいンじゃねェの。俺だって、オマエとは大して変わらねェ。守るべき人間はいても、この手を汚しすぎた。
こンな汚れた手でアイツに触れていいのかとも思った。だが、アイツは笑ってこの手を求めた。俺にとってはそれで十分だ。
例え一生かけても拭いきれねェ汚れだったとしても、アイツが必要としている限り俺はこの手でアイツとアイツの周りの世界を守る。アイツが望むならいくらだって“良い人”ってのを演じてやる」
真剣な目で遠くを見つめ言葉を紡ぐ一方通行。
それに対して垣根は、思わず目を丸くしてキョトンとしてしまう。
といっても、別に言葉の意味が分からなかったわけではない。
目の前の白い少年は眉をひそめると、
「なンだよ」
「いや、お前が俺にそんな事話すのかって思ってよ」
「…………オマエが急に恥ずかしい話してきたから引っ張られただけだ」
「んだと!?」
妙な空気だったのは一瞬だけ。
その後はいつものギスギスしたものに戻り、お互い険悪な顔で牽制しあう。
その事に垣根は心のどこかでほっとしていて、同時にそれがなぜか気に入らなかった。
別にこうして目の前の男といがみ合うのは珍しいことではない、むしろそれが普通であるにも関わらず、この時はどこか引っかかりを覚えた。
すると、今度は何者かが二人のそばに滑って来て、ザッと停止した。
垣根も一方通行も反射的にそちらの方を向くと、
「あ、あの、怪我とかしてないですか?」
そこに居たのは先程垣根が助けた女の子二人だった。
あの場所から垣根の事を追いかけることなんてできなかったはずなので、おそらく偶然見つけてやってきたのだろうと垣根は考える。
しかし、それは少し違っていた。
「えっと、その、お礼がしたくて探してたんです。本当に、ありがとうございました」
ペコリと、二人揃って頭を下げる。
垣根は、その動作に少しの間呆然としていた。目の前の二人が自分に感謝の気持ちを表しているという事を理解するのに少しかかった。
それだけ、垣根からすれば珍しいことだった。
人から感謝をされるなど、何年ぶりだろうか。いや、もしかしたら今まで一度だってなかったかもしれない。
暗部の仕事を完璧にこなして、上役から感謝されたことは何度もある。
しかし、それとは全く違うという事くらいは分かる。
垣根はとっさにどう答えるべきか思いつかなかった。
二人の女の子の言葉で少年の頭の中はかき乱され、様々な感情が混ざり合った複雑な様相を呈している。
といっても、いつまでも黙っているわけにはいかないので、無理矢理といった感じに言葉を捻り出す。
「あー、いや、別に気にしなくていい。俺が勝手にやっただけだ」
「え、でも本当に助かりました! 何かお礼をさせてもらえませんか?」
「だ、だから礼なんていいっての。じゃあな」
「あ、ちょっと!」
垣根はぶっきらぼうにそう言うと、さっさと滑って行ってしまった。
調子が狂う。慣れないことをしたからだろうか。
頭の中では助けた後の事も少しは考えていたはずだった。礼をされたらもっとスマートに対応するはずだった。
だが、実際に目の前で感謝の言葉を受けた時、垣根は様々な感情の波に支配され、冷静に頭で考えることができなくなってしまった。
少しして、目元にやたら雪が当たると思ったら、ゴーグルをかけずに滑っていた事に気付く。
どこまで動揺しているのかと自分自身に呆れながら、頭にかかっていたそれを下ろしてかける。
『本当に、ありがとうございました』
不意に、頭の中で先程の感謝の言葉が反芻される。
その瞬間、妙に胸がむず痒くなり、自然と表情が――――。
「なにニヤニヤしてやがる気色わりィ」
「ぶぼあっ!? テ、テメェついてきてんじゃねえよ!!」
「だから俺だって好きでこうしてるわけじゃねェって言ってンだろ。浮かれきって何するか分かンねェしなァ」
「浮かれてねえ!!」
人助けというものはどうも慣れない。
実際にやった事は大したことないのに、精神的に妙に疲れてしまう。
別に相手のことを本気で考えてない、自分の価値を高めるために過ぎない明らかな偽善行為であるにも関わらず。
それでも、感謝の言葉というものは良いものだと思うことはできた。
そんな考えが自分の中にあるという事が、垣根にとっては希望の光のように見えた。
今まで腐りきった世界に居たが、心の芯まで腐ってしまったわけではないと思うことができた。
そんな事を考え、垣根は安心した笑みを浮かべながら、一方通行を撒こうと滑る速度を上げた。
***
一方で同じく上級者コースの浜面と麦野。
最初こそは二人共素直に滑って楽しんではいたのだが、垣根がナンパ男達に絡んでいくのを見てから少し変わっていた。
具体的に言えば、あれを見た麦野が面白がって、浜面に対してスノボで雪合戦を仕掛けていた。
結果は火を見るより明らか。
浜面も浜面で奮闘はしたのだが、時折原子崩し(メルトダウナー)ブーストで加速する麦野に為す術なくやられてしまった。
何度か対決して、レベル5相手に勝利をもぎ取っていた浜面だったが、やはり全体的な勝率では麦野には敵わないようだ。
気付けば二人共コースを外れて、全く人気のない場所まで来てしまっていた。
浜面はほとんど埋もれるように全身雪まみれになって仰向けに倒れたまま、げっそりと口を開く。
「もうなんかホント今更だけど容赦ってもんがねえなお前は……」
「ん、容赦はしたじゃない。雪玉の中に石とか入れなかったし、原子崩し(メルトダウナー)を直接撃ち込んだりしなかったし」
「あーうん、そっか、お前は容赦ってレベルが随分と高いんだな」
「それも今更って感じね。それより浜面」
「ん?」
まだ何かあるのかと浜面はうんざりした様子で聞き返す。
そろそろこの雪の上に倒れている状態を何とかしたいと思ってきたところなのだが。
麦野は口元をニヤリと歪めて楽しそうに、
「私は強いだろう?」
「知ってるよ」
「いいや、あんたは全然分かってないね。そりゃ随分と情けない姿は見せたけどさ、それでも本質的に私はあんたより強い。
いつかロシアで私を守るとか言ってたけどさ、もう一度言ってやるよ。私はあんたに守ってもらうほど弱くない」
「分かった分かった、よく分かったから――ぶほっ!!」
適当に流しながら起き上がろうとした浜面だったが、その顔面に再び雪玉が直撃してまた倒れてしまう。
「な、なんだよっ!?」
「あんた、いつまで『アイテム』に居るつもりなわけ? そろそろ出てってもいいと思うんだけど」
「唐突に戦力外通告!?」
「そうよ。滝壺連れてさっさと出てけって話。もう前と今では状況も随分変わった」
麦野のその言葉を聞いて、浜面は目を丸くして固まる。
ここにきて、ようやく彼女が何を言いたいのかが分かった。
そしてそれはいつか来るものだという事も分かっていて、それでいて先送りにしてきた事だった。
浜面は目をわずかに動かして麦野から逸らす。
仰向けになって彼女を見上げているため、その背後には相変わらず灰色の雲が広がっており、上空から雪が浜面の顔に落ちてくる。
彼女の表情は少しの揺らぎもない、とても強いものだった。
「どうするか、決めてあるのか?」
「何となくはね。あんただってまともな仕事をしていこうって思ってんでしょ?」
「そりゃあな。昨日の電車でも言ったけど、滝壺との将来のことを考えたら、やっぱ真っ当な職に就かなきゃいけねえと思う」
「それならいつまでも『アイテム』に留まっている事もないだろ。道が分かっているなら、後はただ進むだけよ」
「……あぁ、分かってる」
どこか歯切れの悪い浜面。
もちろん、アイテムに対して思うことはいくらでもある。自分の人生はこの組織によって随分と変わったし、良い事も悪い事もたくさんあった。
いつかは別れがやってくる。アイテムは解散して、それぞれの道を歩み始める。それくらいは分かっていた。
だが、いざこうやって実際に突きつけられると、理屈ではない迷いが頭を支配する。
思い出そうとすればすぐに頭に浮かんでくる。
楽しかったことも、辛かったことも全て。まるで頭の中でDVDプレイヤーを動かしているかのように。
自分にとって、本当に大切だった居場所だから、当たり前だ。
麦野はそんな浜面に溜息をつくと、
「ったく、男のくせにハッキリしないな。私や絹旗だって、いつまでもアイテムに居るつもりはない。
アイテムは学園都市に用意され、その後一度壊れたのをあんたに作り直してもらったものだ。ずっとそこにすがっているわけにはいかない。
普通の学生だって、学校という決められた居場所から、自分の道を求めて社会に出て行く。同じようなものよ、解散っていうか卒業なのよ卒業」
「自分の道……か」
「えぇ。あと、この際だから言ってあげる。たぶんもう二度と言わないから耳の穴かっぽじってよく聞け」
「なんだ?」
浜面が倒れた状態から上半身だけ起こしてキョトンと尋ねると、麦野は雪の上に膝をついて、視線の高さを合わせる。
なんと、彼女は穏やかに微笑んでいた。
あまりにも珍しい表情に、浜面は思わず息を呑んで目を丸くする。
たぶん、これが本当の麦野なんだと、浜面は思った。
口は悪いしワガママも多い。それでも仲間を安心させる包容力がある。
頼りになって、その背中についていけばいつでも安心で、自分が立ち止まりそうな時は引っ張って行ってくれる。
常に行動のどこかに気品のようなものをまとっていて、よく出来たいい所のお嬢様のようにも見える。
それも、高慢で高飛車のようでいて、実際はきちんと他の人の事も良く見えているような。
それが今まで様々なもので隠され見えなくなっていた彼女の姿なんだ、と。
彼女は優しい声で話し始める。
「ありがとう、浜面。私はあんたに救われた。自分で居場所をぶち壊した私に、あんたは帰る場所を作ってくれた。
今まで後悔するような事ばっかりで、やり直せるならいくらでもやり直したいくらいだけど、それでもあんたと出会えた事は私の中では絶対的な幸運よ」
「……俺も」
「何も言うなっつの」
「ぶごっ!?」
再び雪玉が顔面に命中。強制的に口を閉ざされる。
彼女はまるで子供のように無邪気に笑い、
「珍しく私が礼を言ってんだから、大人しく受け取っておきなさい。あ、それとも何? もしかしてご褒美とか期待しちゃってるわけ? バニーとか普通にドン引きなんだけど」
「お、俺は何も言ってねえだろ! あ、いや、バニーは好きだし、いつでもウェルカムだけどさ!!」
「……うわぁ、こんなのに礼を言うはめになるとか私の人生最大の汚点だわ」
「お願いですから、その靴の裏にへばりついたガムを見るような目はやめてください」
何だかんだでいつも通りか、と浜面はどこか安心する。
例えアイテムという居場所が無くなっても、そのメンバーの関係は変わらない。いつまでも全員仲間同士だ。
ただそれが確認できただけで、寂しさは随分と抑えられた。
時刻はもうじき昼食時。
とりあえず元のコースに戻ってから、上条達とも合流してからスキー場のレストランで済ますのが一番いいだろうと浜面は考え、起き上がろうとする。
しかし、その動作は再び止められてしまう。
それも、今度は雪玉で、というわけではない。
顔面にあの冷たい感触は伝わってこない。それどころか、体全体が暖かいものに包まれていた。
「む、ぎの……?」
「ご褒美よご褒美」
気付けば彼女の腕は浜面の首に回され、ギュッと抱きしめられていた。
女性らしい柔らかい感触が体に押し付けられ、心臓の鼓動が二段階以上跳ね上がる。顔に熱がこもり、落ちてくる雪がやけに冷たく感じる。
しかし、流されるわけにはいかなかった。
浜面の頭の中では、既に一人の少女の事で一杯になっている。そして、それは麦野ではない。
そうやって冷静になった部分が、ある疑問を浮かび上がらせる。
「あれ、お前体の中の機材はどうした?」
「……はぁ、この状況で出てくる言葉がそれ?」
「あ、いや、悪い。けどよ」
「科学ってのは日々進歩するものよ。学園都市では特にね。これも第二位の能力を応用した冥土帰し(ヘヴンキャンセラー)の技術よ」
「そっか……良かったな」
「えぇそうね、ありがとう」
なんだか興味無さげにそう言う麦野。
彼女は幾度に渡る浜面との戦いで、体を大きく損傷していた。義眼や義肢、そして体の中に機材を埋め込むことでその命を繋げていたのだ。
今まで様々な戦いを経験した浜面は、その度に怪我をする事はしょっちゅうだったが、それでも後遺症が残るようなものはない。
それだけに彼女の状態にはやりきれない気持ちが溜まっていた。だから、こうして治ったというのは浜面にとって心の底から安堵する嬉しい出来事だ。
そんな浜面とは対照的に、麦野は不満そうな声を出す。
「で、この状況に何か感想とかないのかしら?」
「え、あー、その、なんつーか、母親とか姉ちゃんに抱きしめられてるみたいだな」
「ほう、それは私のことを女として見れないってわけか」
「そ、そういうわけじゃねえって! 麦野ってやっぱリーダー気質なんだって事でさ……」
「……私だってたまには誰かにすがりたい時くらいあるんだけど」
「お前なんか言ってること変わってねえか?」
「知らない」
ギュッと、首に回された腕の力が強くなる。
彼女の髪の、ふんわりとした柔らかい香りが鼻孔をくすぐる。
彼女のこういった一面を見て、浜面は何も言えなくなってしまう。
誰だって常に誰かを引っ張って行くことは難しい。その後ろについていく人間だけではなく、隣にいる人間も必要だ。
そういった意味では、まだ彼女の隣に立てる人間は多くないだろう。彼女にとって浜面のような存在がいかに大切なものなのか、それは彼女自身がよく分かっているはずだ。
彼女が苦しい時、浜面はきっと隣に立って彼女を助けるだろう。そこには何の疑いもない。
レベルなんかは関係ない。例え実際には戦力にならなくても、彼女にとって浜面は絶対的な救いとして存在している。
しかし、浜面は麦野の隣に立つことができる人間だとしても、常に彼の隣を歩いている者は他にいる。
「ねぇ、浜面。もし、今までの色んな歯車がどこかで違っていて、フレンダも生きてて、今もみんなで仲良くアイテムやってたとしたら、あんたはそれでも滝壺と付き合ったのかな?」
「え?」
「他の誰かと付き合ってた、とかはなかったのかな。フレンダとか、絹旗とか、…………私とか、さ」
「………………」
浜面は何も答えずに、雪の舞い落ちる灰色の空を見て少し考える。
辺りは本当に静かで、物音一つ聞こえない。
程なくして、答えは出てきた。
そんな事は分かるはずがない。
もし、どこかの歯車が違っていたら。
フレンダは死ななかったかもしれない。滝壺を必死で守って逃げまわる事にならなかったかもしれない。
滝壺が体晶で体を壊すこともなかったかもしれない。奪った飛行機の中で彼女とキスすることなんてなかったかもしれない。
絹旗がB級映画にのめり込む事も…………いや、それは元々そうだったか。
とにかく、あの時こうなっていたらという仮定はいくらでも立てることができ、そこから派生する展開などというものは数え切れない。
そんな事は彼女も分かっているはずであり、正確な答えなんかは期待していないはずだ。
だから、浜面はハッキリと告げる。
これが彼女の望む正しい答えなのかなんていうのは分からない。
ひょっとしたら自分はとんでもなく自意識過剰であり、的外れな事を考えているのかもしれない。
それでも。
「たぶん、変わらなかった。そうなるまでの過程は違ったとしても、俺はやっぱり滝壺のことを好きになったと思う」
「……そっか」
彼女から返ってきた言葉は短いものだった。
その言葉の中にどれだけの意味が含まれているのか、それは浜面には知ることができない。
抱きしめられているので、彼女がどんな顔をしているのかも分からない。
直後、唐突にドンッと突き飛ばされた。
元々先程倒れた体勢から上半身を起こしただけだったのだが、突き飛ばされた事で元の仰向けの状態へと戻ってしまう。
そして、そうなった事で彼女の表情を見ることができた。
彼女はニヤリと不敵に笑っていた。
いつもの、浜面がよく知っている表情だった。
「別にあんたがどう思うかは勝手だけどさ、なんかムカついたぞこのヤロウ」
「ま、待て麦野、落ちつ――――ほげぇっ!!!」
片手を前に出して静止を促す浜面だったが、その前に股間を踏み潰されてしまう。
そのまま彼女は、それはそれは楽しそうな笑みを浮かべて、
「ほらほらほら、こういうのがいいんだろ、はーまづらぁ!」
「いででででででででででえええええええ!!! やめて痛いまだ使ってないのに!!!!!」
「こんなしょうもねえ祖チン使ってどうすんだよ」
「酷い!! さっきまでの乙女麦野はどこ行ったんだ!?」
その言葉に、麦野の動きがピタリと止まった。
ゾクッと浜面は背筋に冷たいものを感じる。嫌な予感しかしない。
彼女は無表情だ。ただじっと、こちらを見下ろしている。
無表情というものが、怒り狂った表情よりも数段恐ろしいものだという事を、今ここで浜面は知った。
彼女はやがてワキワキと手を動かして、
「よし、やっぱあんたの記憶を消そう。うん、それがいい。
大体、何であんな事言ったんだろ私。いや、でもこれは浜面が悪いわね。言った私より聞いた浜面の方が絶対悪い、うん」
「いやその理屈はおかしい」
「あーあ、ここに食蜂が居れば割と簡単なんだけど、居ないもんは仕方ないわね。
まぁ、人間の頭って結構いい加減なところあるし、強烈な打撃何回かぶち込めば記憶くらい簡単に飛んじゃうよね」
「いやそれ絶対記憶飛ぶ前に死…………おい止まれ、ちょ、待て、待ってください!! ひいいいいいいやあああああああああああ!!!!!」
***
「なんか遠くで悲鳴が聞こえなかった? それも男の」
「知らないわよぉ……」
初級者コースの外れでは、食蜂が雪まみれになって倒れており、それを美琴が見下ろしていた。
美琴にケンカを売った食蜂は、あの後一目散に逃亡、それを美琴が追いかけて徹底的にやっつけた結果だ。
そのせいで上条とインデックスがどこに居るのかも分からなくなっている。
食蜂は呆れたように、
「まったく、せっかくの機会なのにこんなので上条さんと離れるなんて」
「元々はアンタが仕掛けてきた事でしょうが!」
「はいはい、私が悪かったわよぉ。でもあなただってちょっとムキになりすぎよぉ。まぁとにかく、ここまでやればあなたも満足でしょぉ?
それよりも、せっかくだしちょっとお話しなぁい? 上条さんとインデックスさんに聞かれるとあまり良くないようなやつ」
「はぁ?」
食蜂の言葉に、首を傾げる美琴。
上条とインデックスに聞かれて困る話というが、それだけでどんな話をするつもりなのか、具体的にはパッと思いつく事はできない。
それでも、漠然とであれば彼女がどのような事を話したいのかは何となく分かる気がする。
とりあえず、昨日までで分かったことは、上条もインデックスもお互いの関係を進めるつもりはないという事だ。
インデックスに関しては上条に対して好意を持っているが、身の周りの状況を考えて動かないと決めているようで、上条の方はそもそも異性的な好意すらないと言っている。
食蜂はニコリと笑みを浮かべると、すくっと立ち上がって体の雪を払い落としながら、
「お話っていうか、ちょっとした確認ねぇ。そろそろインデックスさんがイギリスに帰っちゃうけど、御坂さんはどうするのかなぁって」
どうするか、それはつまり上条との事を指しているという事くらいは分かる。
昨日、麦野にはインデックスが動く前に自分から動けと煽られたが、あの時とは状況が変わっている。
「……質問を質問で返して悪いんだけど、アンタはどうするつもりなわけ?」
「そんなの決まってるじゃなぁい。インデックスさんがイギリスに行くまで、私は動くつもりはないわぁ。
だって、二人共このまま何もなしに別れるっていうんだから、わざわざ私が波風立てる必要なんかないしぃ。本格的なアプローチかけるならその後でもいいでしょぉ」
「…………」
「ねぇ、御坂さんだって分かってるんでしょ。上条さんと付き合いたいのなら、どうした方がいいかって事くらい。本当はもう、全部気付いてるんでしょ」
美琴は何も答えない。
何も言いたくなかった。それを言ってしまっては、自分が酷く醜く見えるようだった。
自覚はしていた。それでも、真正面から受け止めることはできなかった。
それは一ヶ月前、インデックスが一度イギリスに戻って、上条が酷く取り乱していたのを目撃してから、ずっと。
「そういうのは……私の性分じゃないわ」
「ふぅん、まぁ確かに、御坂さんの性格を考えればそれも自然な答えねぇ。
でもぉ、世の中って何事も真正面から正攻法で解決できるとは限らないでしょぉ? それは御坂さんだってよく分かっているはずよぉ。
御坂さんはもっとワガママになっていいんじゃないかしらぁ。確かに誰かの事を考えて動けるっていうのは良い所なのかもしれないけど、自分の事だって大切にするべきよぉ」
「……いつもワガママばかりのアンタに言われてもね」
「もう、それはそれよぉ!」
話をくじかれて、口を尖らせる食蜂。
だが、彼女が言いたいことは分かった。
あまり他の人の事ばかりを考えずに、自分が一番得するように動くべきだという事らしい。
そして、もちろんそれは美琴の為だけに言ったわけではない。
その理屈に従って美琴が行動した場合、食蜂にもメリットがあるからわざわざ恋敵である美琴にアドバイスのようなものをしたのだ。
いや、正確には美琴が理屈に合わない行動をした場合、食蜂に大きなデメリットがあると判断したのか。
つまり、美琴が選ぶことができる様々な選択肢の中で、食蜂にとってマズイと思うものを摘みにきたのだ。
「それは私にとってもあなたにとっても得にならない。だからやめなさい」。結局はこういう事だ。
美琴はその事に対して別に嫌悪感を覚えることはない。
食蜂は積極的に誰かを蹴落とそうとしているわけではなく、あくまで自分の首を締めるような事はやめようと言っているだけだ。
それでも、美琴はすぐに首を縦に振る事はできない。
自分の頭の中に浮かんでいるその選択肢は、美琴も食蜂も不利にする可能性を孕んでいる事くらいは理解している。
だが、例えそうだとしても、美琴にはその選択肢が一番正しいものだと思えてしまう。
その自信はもちろん理屈なんかではなく、もっと自分の深いところからくるものだ。
彼女は上空を覆う灰色の雲を仰ぎ見る。
そこからゆっくりと落ちてくる雪を目に映しながら、ポツリポツリと言葉を紡ぎ始めた。
「悪いけど、自分の選ぶ道くらい自分で決める。アンタの言い分も考えるにあたって参考にしてあげてもいいけど、その通りに動くなんて期待すんじゃないわよ」
「むぅ……はいはい分かったわよぉ。元々本気で説得できるとは思わなかったしぃ。でもでもぉ、あなたもちょっとは迷っているのよねぇ?」
「まぁ、そうね。あの馬鹿と付き合いたいなら、アンタの言う通り、このまま何もしないでインデックスがイギリスに行くのを待つっていうのが一番いいのは分かってる。
ただ、それで納得出来ない自分も確かに居る。あの子が行っちゃう前に正面から決着をつけたいって思う自分がね」
「じゃあ、あなたが馬鹿正直に真正面から告白したとして、それでどうなると思う?」
「そんなのやってみなくちゃ分かんないわ。アイツは私の事を女として見てない。でも、告白をすることでその考え方を変えて、向き合ってくれるかもしれない。
まぁ、今までの関係を壊すってわけだから、最初はちょっと居心地悪くなっちゃうかもしれないけど、それもすぐに――」
「そうじゃないでしょ」
食蜂がイライラとした声を出した。先程までのものとは大きく違う。
美琴はそれに対し口を閉じて沈黙することしかできない。
その間にも、食蜂はじっと美琴のことを睨んでいる。
彼女のイライラは、本当に話したい事をのらりくらりと受け流されている事からくるものだという事を、美琴は気付いていた。
気付いていて、あえてそれ以上何も言わない。
すると、痺れが切れたように、食蜂の口が開かれる。
「問題はそんな事じゃないでしょう。そりゃあなたが告白すれば上条さんの考え方は変わるかもしれない。でも、それと同時に、きっと上条さんは」
「アイツが……なに?」
「…………もういいわよ。勝手にすればいいじゃない」
そう言うと、食蜂は地面に積もっている雪をザクザクと踏み荒らしながら、さっさと立ち去ってしまった。
その仕草は、冷静さを装うこともせずに明らかに肩を怒らせて歩くという、彼女にしては珍しいものだった。
美琴はその後ろ姿をしばらく見つめた後、視線を空に送る。
食蜂が言いたい事はよく分かっている。そして、彼女がそれを直接口にしたくない事も。
その気持ちは美琴も同じだった。ハッキリと言いたくない、考えたくない。これはきっと、ただの逃げなんだろう
それでも、今の美琴にはそうする事しかできなかった。受け止めることなんてできなかった。
本当に自分の事だけを考え、それにあった選択肢を選べたらどれだけ楽だっただろうとも思う。
少なくともこんなに苦しんだり、悩んだりという事はなかったはずだ。
だが、そこを否定することはできない。こういった所も全部含めて自分であるという事なのだ。美琴は今のこの自分を否定しない。
そして、食蜂の考え方も切り捨てたりはしない。彼女の考えは上条と一緒に居たい、上条と幸せな未来を作っていきたい。そんな純粋な想いからくるものだ。
もちろん、美琴だって幸せになりたい。
将来は学生の頃から付き合っていた上条と結婚し、子供を作り、家を建てて、幸せな家庭を作る。
そんな事を夢見る、どこにでもいる中学二年生の女の子だ。
何度も何度も想像した。
上条に恋心を抱いていると自覚してから、いや、その前からも無意識に。
頭に浮かぶその光景は、どこまでも暖かく幸せに満ち溢れていた。
しかし、それはあくまで、自分にとっての幸せだ。
美琴は、上条にも幸せになってほしいと願っている。
いつも他の誰かの為にボロボロになりながら動いて、様々な人を不幸な結末から救ってきた彼が幸せになれないというのは間違っている。
それでは、彼にとっての幸せとは何なのか。美琴がいつも想像している未来に、彼も同じように幸せを感じてくれるのだろうか。
相手にとって自分との未来は幸せなのだろうか。
そんな事を考えて悩んでいては、誰も告白できなくなってしまうかもしれない。
そして多くの者は、相手に幸せに思ってもらうように頑張ろうと決意するのだろう。
美琴の性格から考えて、そう思うのは自然だ。
ただ、彼女が上条にとっての幸せを考えた時、頭の中には一つの光景が浮かんでいた。
ずっと上条の事を見てきたから分かったのかもしれない。
それは知りたくもないような事であり、そんなものが浮かぶ度に彼女は頭を振って無理矢理消していた。
本当は気付いていても、必死に自分を騙して気付かないふりをしていた。
向き合うのが怖かった。
その事実を受け止めてしまったら、自分はもう前に進めなくなってしまいそうで。
美琴は思う。
きっと、上条は――――。
「…………どうしようかなぁ」
空へこぼした声は舞い落ちる雪に溶けこみ、自身に降り注いでいるようだった。
そのまましばらく美琴は、ただ空を見上げたままひたすら考え込んでいた。
***
お昼時になり、上条達は上級者コースへ行っていた四人と合流して、スキー場にあるレストランで昼食をとっていた。
平日ということもあって、この時間でもそこまで混んではいない。それなりの長さのテーブルに、片側は男四人、もう片側には女四人で座っている。
なんだか合コンのような座り方だが、気付いてもあえて指摘することはなかった。
「そんでよ、そこで俺が雪玉をヒュッとな!」
「分かった分かった、何回言うんだその話」
テンション高めに話す垣根に、うんざりしたように返す浜面。
先程から垣根は自分が女の子二人を助けたという話を、それはそれは得意気に聞かせていた。
浜面や一方通行はうんざりしたような表情を浮かべているのだが、上条はどこか嬉しい気持ちもあった。
上条は、こうして新たな一歩を踏み出そうとしている者を見ると、なんだか親近感に似たようなものを覚える。
自身も一度記憶喪失になってそこから再スタートした経験があるからか。
するとテーブルの反対側に座っている女子達の中で、食蜂が紅茶を一口飲んで何やらニヤニヤと口を開いた。
隣では麦野がさほど興味無さそうにコーヒーを飲んでいる。
「どうせその女の子達を引っ掛けようと思っただけなんじゃないのぉ?」
「あー、それはありえるわね。コイツ、下半身でしか動けなさそうだし」
「はぁ!? バーカ、俺はそんなんで動く程安っぽくねえんだよ。その後女の方から礼をしたいって言ってきたが、俺はクールに断ってやった」
「クール? 明らかにテンパってたじゃねェか」
「う、うるせえよテンパってねえ!!」
一方通行のツッコミに全力で対応する垣根。
この反応を見れば誰が正しいことを言っているのかは一目瞭然だ。
インデックスはニコニコと上機嫌にハンバーグにかぶりつきながら、
「もぐもぐ、でも気をつけてね。何でもかんでも自分で助けようって感じになると、とうまみたいになっちゃうから」
「お、俺みたいって何だよ……」
「いつもいつも大怪我して入院して、気付けば女の子に囲まれてるっていう感じ」
「そんな事ねえって!」
上条は助けを求めて周りを見渡す。
しかし、当然ながら上条の意見に同意してくれる者はいないらしく、全員インデックスと同じような事を考えているようだ。
もう何度も言うが、別に上条は女の子と仲良くなるために命をかけて動いているわけではない。
男とか女とかは関係なく、ただ助けたいと思ったから助ける。それはもはや、なぜ人は二本の足で歩くのかというような、本能に近いものだ。
まぁ、このレベルまでいってしまっているというのも、それはそれで十分おかしな事なのだが。
ところで、先程周りを見渡した時に気になるものが目に入った。
「おい御坂、どうした? 調子でも悪いのか?」
「…………えっ、あ、ごめん。なに?」
「大丈夫か? なんかすげえぼーっとしてっけど」
「べ、別に何でも無いわよ、ちょっと考え事よ考え事。あはは」
先程から彼女の目は焦点があってなく、どこを見ているのかも分からなかった。
こうして声をかければ反応はしてくれるようだが、それでもどこかおかしい。
すると麦野はニヤリと口元を歪めて、
「へぇ、もしかしてあんた達なんかあったわけ? 二人だけで楽しんでないで話してみろよ。
考えてみりゃ、その四人の組み合わせで何もなかったなんて事ないわよねぇ。結構ドロッドロだったんじゃないの」
「いや、何でだよ。特にこれといった事はねえって……」
「それよりぃ、麦野さん達の方こそ何もなかったわけぇ? 話聞く限り、垣根さんは女の子達を助けて、一方通行さんはその監視。
っていうことは、浜面さんと二人きりだったっていうわけよねぇ。それってこっちよりもっとドロドロしてて面白そうだけどぉ」
食蜂もニヤニヤとそう言って相手の出方を伺う。
すぐ隣には麦野。至近距離でお互いの視線がぶつかり合い、何やらバチバチという音が聞こえてきそうだ。
これに反応したのは浜面だ。明らかにビクッとしており、それだけで何かあったという可能性を匂わせる。
それを見た食蜂はここぞとばかりに、一気に畳み掛ける。それはそれは楽しそうに。
「どうやら浜面さんには何か思う所があるようねぇ。ふふ、それならぁ……」
そう言って、食蜂はスッと肩からかけたバックの中に手を伸ばす。
その中には大量のリモコンが入っており、彼女は能力によってそれらを使い分ける。
当然、ここで使おうと思っているのは頭の中を覗きこむ能力だ。
しかし。
「おっと手が滑ったぁ」
「ふみゅっ!!!!!」
ゴンッ!! という良い音と共に、食蜂のおでこがテーブルに叩きつけられた。
もちろん、彼女が自分からテーブルにヘッドバットしたわけではない。彼女の後頭部には隣から伸びてきた手が乗せられており、その手によって強制的に頭を叩きつけられていた。
このタイミングでそんな事をする人間は一人しか居ない。麦野沈利だ。
食蜂はおでこを抑えて若干涙目になりながらも、すぐ隣の麦野を睨みつける。
「な、何するのよぉ……!」
「だから手が滑ったんだって」
「どんな滑り方すればこんな事になるのよぉ! こうなったら意地でも――」
そう言いながら、まるで拳銃か何かのようにバックから素早くリモコンを抜き取ると、浜面に突きつけた。
「いっ!?」
当然、ビクッと全身を震わせる浜面。
一度は食蜂の能力も破った事はあるのだが、それでも基本的にレベル0の彼には第五位の精神系能力を防ぐ術などあるわけがない。
流石にそろそろ止めるべきだと判断した上条は椅子から腰を浮かす。
その直後だった。
ジュッ! という短い音と共に、食蜂の持っていたリモコンが消し飛んだ。
「……へっ?」
もう自分が掴んでいる所しか残っていない、憐れなリモコンの残骸をポカンと眺める食蜂。
しかしその後すぐに我に返って、
「ちょ、ちょっとぉ!!! いきなり何してんのよぉ!!!」
「悪い、能力が暴走した」
「思いっきり人差し指こっちに向けて照準合わせてたわよねぇ!?」
「そうだったか? あんたの思い過ごしでしょ」
「はぁーッ!?」
「落ち着けって操祈。つかそうやって好き勝手に人の頭の中読もうとするのも良くないぞ」
仕方なしにそろそろ止めておく上条。このままではエスカレートしてどんな大惨事になるか分かったものではない。
食蜂は少し不満そうに頬を膨らませて上条を見たが、
「……分かったわよぉ」
「おっ、なんだなんだ上条、お前女の扱い慣れてんのか」
「垣根……そういう誤解を招く言い方やめろっての。女子中学生に言うこと聞かせる男子高校生とか、もう言葉だけで犯罪臭ぷんぷんじゃねえか」
「意味的には間違ってねェけどな」
「ていうか実際どうなのよ。本当にずっと何もなくスキーの練習してたわけじゃないでしょ?」
麦野の言葉に、上条は少し考える。
しかし、思い返してみてもこれといって面白い話はない。
「いや本当に何もなかったな。ただインデックスも操祈もすげえ下手くそだったとしか……」
「と、とうま! 私だってもうちょっと練習すれば、とうまなんて追いつけないほどに上達するんだよ!」
「まず止まり方を覚えてから言おうな」
「ぐぬぬ……」
「……ねぇ上条さん。私とのあれはなかった事になったんですかぁ?」
「はい? あれ?」
何やら食蜂がジト目で尋ねてきた。それなりに不満そうだ。
といっても、何のことか上条には咄嗟に思い出す事はできない。何かあっただろうか。
するとここぞとばかりに外野が食いついてきた。
やけに興味津々に身を乗り出してきたのは垣根だ。
「お、なんだなんだ? やっぱ何かあんのか? さすがだな女たらし」
「だからそういうのやめろっての! ったく、俺が女たらしだったら浜面はどうなるんだよ。彼女いるくせにハーレム状態だぞ」
「お、俺だってそんなんじゃねえよ! たまたまアイテムが女ばっかってだけで、ちゃんと滝壺は特別扱いしてる! と思う」
「ハッキリしねェなァ。そういや、あの窒素使いの二人ともやけに仲良いらしいしな」
「絹旗も黒夜もそういうんじゃねえよ! つか何でいつの間にか俺が責められるような構図になってるの!?」
なぜか攻撃対象が変わっている疑問を投げかける浜面。それに対しては、もはやノリでとしか答えることはできないのだが。
麦野は浜面がどうのこうのという話題には興味ないのか、それについてはあまり聞いていない様子で、
「そんで? 上条と食蜂は何があったわけ?」
「だから本当に何もないって」
「ひっどーい! 上条さん、私とあんな事したのに!!」
「は!? いやなんだよそのとてつもなく不安になってくるセリフは!! 俺何かやったか!?」
「うぅ……やっぱり私とは遊びだったんですねぇ…………」
「その『男に遊ばれた挙句捨てられた女』みたいな演技やめない!?」
妙にノリノリで泣き真似をする食蜂。おそらく本人はただ楽しいだけだろう。
しかし、上条からしてみればとても笑って流せるようなものではない。この場面だけ見れば、上条は単なる人間のクズ的な印象を与えるからだ。
そして案の定、事情をよく知らない麦野や垣根や浜面、そして一方通行までが「うわぁ……」といった感じでこちらを見ていた。
上条は慌てて、
「ま、待ってください!! これは何かの間違いなんです!!」
「何が間違いなんですかぁ……あの白い雪の上で抱き合ったのは、上条さんにとっては忘れたい事なんですかぁ……?」
「はぁ!? いや、ちょ、いつ俺がそんな事…………あっ!!」
ここでやっと、上条は彼女が何を言っているのか理解することができた。
おそらく彼女は、滑る練習中に上条に突っ込んでもつれ合った時の事を言っているのだ。
そしてこれはほぼ確実に言い切れるが、彼女はわざと誤解を招く言い方をして楽しんでいる。根拠はあのニコニコ顔だ。
現状、彼女の期待通りの展開になっている。
とにかくこれは何とかしなければと思った上条は必死に言葉を考えながら釈明する。
「事故だ事故!! 操祈はスキー初心者だし止まり方もよく分かってなくて、それで俺に突っ込んできたりしてだな……」
「でもでもぉ、私と抱き合ったのは本当ですよねぇ?」
「それは本当だけども! そうなるまでの経緯とか色々言っとかねえと完全に誤解されるだろ!」
「いいじゃないですか別にぃ。私は気にしないですよぉ?」
「俺が気にするの!!」
ただでさえ周りには女たらしだと思われている上条。これ以上そういった疑いを強くするような事は避けたい。
その後の上条の状況説明により、何とか誤解は解けた。
というよりも、元々みんなどうせそんなオチなのではと思っていたらしく、ノリで乗っかってきただけだったようだ。
上条としてはそういうのは心臓に悪いのでやめてほしいものだが。
大体の事情を知った垣根は、興味ありげにインデックスや美琴に目を向けて、
「そんで、お前らは上条と食蜂がイチャイチャして何とも思わねえのか?」
「とうまのそういうのはいつものことだから、いちいち怒ってたらこっちが疲れてくるんだよ。流石にエスカレートしたら私も止めるけどね」
どことなく達観した事を口にするインデックス。
上条としては、以前のように噛み付かれなくなった事を喜ぶべきか、もはや諦められた事に落ち込むべきか微妙なところである。
それに対して美琴は、
「私はすぐ止めたわよ。つかホントこの馬鹿って目を離せば女の子といかがわしい事になってるし」
「いや御坂だって俺の不幸体質は知ってるだろ、事故なんだってば!」
「そう言う割にはまんざらでもなさそうだったけど?」
「そりゃ俺だって健全な男子高校生なわけで、そういう女の子との素敵イベントには色々と反応して……分かった分かりましたすみませんビリビリは勘弁してください!!」
見る見るうちに機嫌が悪くなっている様子の美琴に、慌てて謝る上条。
確立された上下関係に涙が出てきそうだ。
上条はそんな悲しい現実から目を背けるように、話題を変えることにする。
「あ、そうだ、実は俺結構滑れるようになってきたんだ。午後も最初は初心者コースの方で練習するつもりだけど、少ししたら上級者コースの方行ってみるよ」
「えっ、何でですかぁ!?」
「ん、そりゃいつまでも簡単なコースってのも面白くないしな。何となく感覚も掴めてきたことだし、そろそろ上級者コースでも大丈夫なんじゃねえかってさ」
「ダメですよ上条さん! そういう油断が死に繋がるんです!!」
「そんな危険なの上級者コース!?」
まさかそんな事はないだろうと思いながら、念のため一方通行達の方を見て確認をとる。
午前中上級者コースを滑った四人は顔を見合わせ、目で何かを話しているようだ。
そして垣根が、
「……あぁ。上級者コースってのは一歩間違えれば命を失うような場所だ。そんな軽い気持ちで来ればどうなるか分かんねえぞ」
「嘘だよね!? 死人が出るかもしれないって娯楽施設としてどうよ!?」
「中にはそういう死と隣り合わせの状況でしか楽しめねェってやつも居るンだよ」
「私もやめておいたほうがいいと思うわ。アンタではまず生き残る事なんてできない。暗部で生きてきた私達だからこそこうして無事でいられるのよ」
「一方通行と麦野まで乗っかってきてるし! つか何でそこまでして俺をそっちへ行かせたがらないんですか! イジメか!!」
「まぁまぁ、聞けよ上条」
納得するはずもない上条に、浜面は腕を肩にまわす。
そして、あまり聞かれてはマズイのか、ヒソヒソ声で話しかけてきた。
「もし初心者コースから上条が抜けたらどうなる? 残るはインデックス、御坂、食蜂だ」
「あぁ、それがどうしたんだよ?」
「この三人の組み合わせは絶対何かトラブルが起こる。賭けてもいい。特に御坂と食蜂は何事も無い方が不自然だ。
そんで、その二人が揉めた時、止められるのはインデックスしか居ない。上条はその役目を全部あの子に押し付けてもいいのか?」
「そ、それは……」
「もし御坂と食蜂のケンカにインデックスが巻き込まれるような事があれば、それこそ大きな問題になってくる。
科学サイドと魔術サイド、この二つがまた戦争なんか始めちまったら真面目に世界が傾く。お前の選択一つで世界がやばい」
「…………」
なんだかいきなりとてつもないスケールの話になったような気もするが、正面から否定できないところが恐ろしい。
それだけ科学サイドと魔術サイドの関係は微妙なものになっているのであり、だからこそインデックスがイギリスへ帰るなどといった話になっているのだ。
ただ、それにしたってたかが女子中学生二人のケンカが世界破滅に繋がるというのもかなり理不尽な話だ。
それを理解した上で、上条は溜息をつく。元々、いつもの不幸だって理不尽の塊だ。
「分かった、分かったよ。初心者コースにいればいいんだろ」
上条のその言葉に、対面に座るインデックス、美琴、食蜂の三人は、
「さっすが上条さぁん! きっと分かってくれると思ってましたよぉ!!」
「ま、まぁアンタがそうしたいってんなら私は止めないわよ。一応言っておくけど、私は別にアンタがどっち行こうが構わないし」
「とうまには私の上達っぷりをその目に焼き付けてもらわないといけないんだよ!」
三者見事に勝手な事言ってるなぁと思う上条だった。
***
お昼を回ったところで、空から降ってくる雪の勢いが増してきた。
吹雪まではいっていないが、それでも視界は全体的に白く染まり見通しが悪い。
そんな中でインデックスは美琴に教わりながら、一生懸命にスキーの練習に励んでいる。昼食の時の上条の言葉に反発しているのだろう。
見た感じではあまり上達の具合は良くないようにも思えるが、それでも少しずつ上手くなっているのは分かる。少なくとも、転ぶペースが三分に一度くらいにはなっていた。
一方で、食蜂はすっかりやる気を失ったようで、ひたすら上条の隣でベタベタしていた。
「おい操祈、俺も少しは滑りたいんだけど……」
「えぇー、あなたはこんな可愛い子よりもスキーを取るんですかぁ?」
「まぁ、せっかくゲレンデに居るんだしな」
「ほほぅ、それは女の子とイチャイチャするくらいなら別にどこでもできるっていう事ですかぁ」
「そ、そういう意味じゃねえよ!」
いちいち嫌な方向に解釈する食蜂に、慌てて弁解する上条。
確かにこの場でしかできない事を優先したいという意味では言ったが、それでも彼女の言う通りいつでも女の子をはべらす事ができるとは思っていない。
そもそも、自分にそんな技量があれば、とっくに彼女の一人や二人できているはずだ。
彼女は少し口を尖らせると、
「もしかして上条さんは運動できる子がタイプとかですかぁ?」
「いや別にそうでもねえけど……つーか知り合いの女の子の中でも運動できる子は結構いるしな」
「良かったぁ。私って自慢じゃないですけど運動力は高い方ではないんでぇ」
「うん、それは見れば分かる」
「ひっどぉーい!! もっとこう、オブラートに包んでくださいよぉ!!」
「はは、悪い悪い」
ぷくーと頬を膨らませる食蜂に、上条は苦笑いを浮かべてなだめる。
彼女のそういった仕草は人によってはあざといやら何やら言われそうな気もするが、こうして目の前で見るとただただ可愛らしい。
それと同時に、上条の中では妙なモヤモヤが渦巻く。
彼女はこういった笑顔を誰にでも振る舞うのだろうか。それとも、これは自分専用のものなのか。
前者であれば特に何もないのだが、もし後者だった場合は――――。
「というかさ操祈。なんかお前の言動聞いてると、まるで俺のことが好きなのかって勘違いしそうなんですが」
「ふふっ、それはどうでしょうねぇ? ちなみにその好きっていうのはどういった意味でしょう?」
「お前絶対分かって言ってんだろ。なんつーかこう、恋愛……的な意味でさ。
勝手に期待して見当外れっていうのはとてつもなくカッコ悪いんで、からかうのは程々にしてほしいのですが……」
「えー、なんでからかってるって決めつけてるんですかぁ。もしかしたら本気力満々かもしれないじゃないですか!」
「もしかしたらってな……。よし、この際だから言っておくけどな操祈。そういう男をその気にさせるような態度は後々面倒な事になるからやめとけ」
「面倒なことになっても私ならリモコン一つでどうにでもなるしぃ」
「ぐっ、これだからレベル5ってのは!!」
思い切り人生を舐めきっている中学生に対し、上条はただ敗北感に打ちひしがれてグッと拳を握り締めるしかない。
一応は人生の先輩として、彼女の今後の人生の為を思って言ったアドバイスだったのだが、彼女にとってはそんなものはすぐに解決できる些細な事のようだ。
そして少し考えてみると、上条は記憶的にはまだ一歳にもなっていないわけで、人生経験という面でも彼女には敵わないんじゃなかいと更に落ち込む。
まぁ一年足らずの記憶でも十分すぎるほど色々な事があったのは事実なのだが、その大半が日常生活とはかけ離れているものというのが泣けてくる。
むしろ自分にとっては事件の中で動き回っているのが日常なのではないかという考えも浮かんだが、それはあまりにも悲しいので頭を振ってかき消した。
食蜂はそんな上条に少し申し訳なさそうに話しかけてきた。
流石に目の前の男子高校生が哀れに見えたのだろうか。
「えっと、ごめんなさいね。確かにからかわれているようで居心地が悪いっていうのは分かりますよ。でも、私にも理由があるんです」
「理由?」
上条が聞き返すと、食蜂は少し顔を俯ける。
その表情は影が濃いように見えて、そして諦めに似たような何かを感じた。
雪が舞い落ちるゲレンデに、物憂げな表情の少女。
それは幻想的な美しさも、写実的な美しさも感じられるもので、上条は何も言えなくなってしまう。
自分の発する一言が、その美しい情景を壊してしまうかのような、そんな感覚があった。
彼女は顔を上げて、真っ直ぐ上条を見つめた。
口元は薄く緩んでおり、柔らかい表情をしている。
しかし、それとは対照的に、目には相変わらず影が落ちていた。
「……インデックスさんがイギリスへ行った後に話します」
「えっ、あー……分かったよ」
上条にはただそれだけしか言えなかった。
彼女が今どんな気持ちで何を思っているのか。そんなものは無能力者である自分には全く分からない。
どこまで踏み込んでいいのか、その判断がつかない場合は無理に行かない方がいい。
上条はよく敵に対してもズカズカと踏み込んで言葉をぶつけていく。
ただ、それは確固たる自分の言葉を持っているからであり、別にそれが絶対に正しいなどとは思っていない。
だから、こういった自分でも何が正しいのか判断できない場合は、言葉にして出す事もしない。
もしも彼女が以前の美琴のように、誰かの為に自分の命を捨てようとしているなどという事であれば、もちろん上条は全力で止める。
そこには、そんな事をさせてはいけないというハッキリとした意思があり、だからこそ上条は迷ったりしない。
しかし、今回はそういった事ではない。
「食蜂が上条に対して気があるように見せてからかうのには理由がある」「今はその理由について言えないが、インデックスがイギリスへ行った後に言うつもりだ」。
これに対して、上条は何が正しいとするか判断することはできない。当たり前のことだが、自分にはいつでも正解を導く力などはないのだ。
気を取り直して、といった感じで彼女は口を開く。
「じゃあ今はとにかく私とイチャイチャ――」
「どいてどいてどいてええええええええ!!!!!」
「へっ……きゃああああああああああああああああああ!!!!!」
ドシャァァァァ!!! という大きな音と共に、足元の雪が一気に舞い上がる。
ただでさえ悪い視界が真っ白になり、ほんの数センチ前の状況も目を細めなければぼんやりとも捉えることができない。
それでも、一体何が起きたのか全く理解できないというわけではない。先程の声、そして一瞬前の光景から容易に想像することはできた。
つまりは、熱心にスキーの練習をしていたインデックスが食蜂に突っ込んできたというわけだ。
「いたた……ちょっとぉ!! 今いい所だったのに何してくれんのよぉ!!」
「あはは、ごめんごめん。でも見て!」
そう言うとインデックスは立ち上がり、そのまま何メートルか滑っていく。
そして、そこからザッと小気味良い音をたてて素早くターンをすると、スキー板を斜面に対して平行にして見事止まってみせた。
これには上条も食蜂も目を丸くして驚く。
「おぉ! なんだインデックス、やればできるじゃん!」
「なっ……何よそれぇ! ていうか、止まる時は板をハの字にしろって言ってたじゃなぁい! 御坂さん、騙したわねぇ!!」
「ふふ、そんなのは初心者の止まり方なんだよ。私みたいに上達すれば、こうやってスマートに止まれるんだよ」
「まだまだ成功率五割超えないくせに何言ってんだか」
呆れた声を出しながら、美琴が近くまで滑ってきた。
その後の止まり方も、インデックスの言うところのスマートなものであり、なおかつそれをいとも簡単にやってのけてしまう。
まぁこれはある程度滑った事のある者であれば難しくはないのかもしれないが、それにしても彼女からはどことなく上級者の振る舞いを感じた。
むしろ、どのような運動にしても、彼女が苦戦するイメージはなかなか湧いてこない。
インデックスは美琴の言葉を受けて頬を膨らませて、
「ご、五割は言い過ぎかも! 少なくとも六割は成功してるんだよ!」
「はいはい。じゃあ早く十割になるように頑張りなさい。で、食蜂はまたコイツをたぶらかしてるわけ?」
「何よぉ、御坂さんはインデックスさんに滑り方教えてあげていればいいじゃなぁい。無駄に運動力はあるんだしぃ」
「言われなくてもそうするつもりだけど……そうなるとまともに滑れないのはアンタだけになるわね」
「…………はぁ!?」
「まぁ別に私には関係ないけどさ。インデックスとアンタ、どっちが上手いとかそこまで興味ないし」
「みこと、私とみさきを比べるのは失礼かも! 私はとうまより上手になるように頑張ってるんだから!」
「あー、ごめんごめん。流石に食蜂と比べるのはなかったわね」
「さっきから黙って聞いていればぁぁ!!!!!」
ついに食蜂がプッツンといってしまったようで、両手を振り回してぎゃーぎゃー騒ぎ始める。
こうやってすぐにムキになるところは扱いやすいというかなんというか、何にせよ微笑ましいものではある。
すると食蜂はキッと決意の表情を浮かべて、スキー板を履きストックを握り締めた。
「見てなさいよぉ! 私がちょーっと本気力出せば、こんなお遊び簡単にできるわぁ!!」
「おい操祈、ちょっと落ち着けって……」
「上条さんは黙っていてください!」
食蜂はそう言うと、かなりの勢いをつけて斜面を滑り降り始めた。
おそらく止めるべきだったんだろうが、上条が腕を伸ばした時には既に手の届かない所まで行ってしまっていた。
彼女はそのままインデックスがやったように、ザッとターンをして止まろうとする。
インデックスの言うところの初心者の止まり方であるハの字を使う気は毛頭ないらしい。
そして次の瞬間、大方の予想通り――。
「わっ、ぎゃああああああああああああああ!!!」
とてもお嬢様のものとは思えない声をあげて、派手に転倒した。
その転びっぷりはもはや芸術的とも言えるくらいで、周りのスキー客もぎょっとしているくらいだ。
上条もインデックスも、そして美琴でさえも彼女のその有様が悲惨すぎて笑う気にもなれなかった。
食蜂はボスッと雪の中から顔を引きぬいた。
その後、活動停止。ただ座り込んだまま呆然と宙を見つめている。
それから。
「ぅぅ……ぅぅぅぅううううううう……!!!」
地をはうような怨念のこもった声が口から漏れ出した。
流石に何かフォローしなければいけないだろうと上条が近くに行こうとするが、それをインデックスが片手で止める。
彼女はバツの悪そうな表情を浮かべて、
「えっと、私が行ってくるんだよ。挑発しちゃったっていうのもあるし」
「……任せた。けど、傷を深くしないように注意しろよ、何するか分かんねえ」
「うん、分かった」
インデックスは何かの重大任務に就くかのように重々しく頷くと、食蜂の元へと滑って行った。
その後ろ姿を、上条は真剣な目で見送った。そのまま敬礼でもしそうな勢いだ。
インデックスが行ってしまったので、この場には上条と美琴だけが残される。
美琴はなぜかジト目でこちらを見ると、
「で、アンタは食蜂と何の話をしてたわけ?」
「えっ、あー、いや別に大したことは話してねえよ」
「でも言いたくはないってことね」
「うぐっ」
大したことは話していない、それは別にウソではない。内容的にはそれほど重いものでもなかった。
ただし、女子中学生の思わせぶりな態度に振り回されているなどという事はすすんで言いたいようなものでもない。高校生のプライド的に。
美琴は呆れたように溜息をつくと、
「ったく、アンタいつも女の子に囲まれてるくせに、あんなあからさまなアピールには弱いのね。
大方『コイツ俺に気があるんじゃね? いや、そうに違いない!! いやでももし勘違いだったら……』みたいな感じに振り回されまくってんでしょ」
「お前読心能力者(サイコメトラー)だっけ!?」
「うわっ、本当にそうだったんだ……」
美琴は思い切り見下したような目でこちらを見てくる。
青髪ピアスなんかは歓喜して悶えるようなシチュエーションではあるのだが、あいにく上条にそんな性癖はない。
「わ、悪かったな! つーか仕方ねえだろ、俺こんなのに耐性ねえし! レッサーなんかは目的ハッキリしてたからまだ扱い易かったけどさ!」
「はいはい、とりあえずレッサーについても後でじっくり聞くとして……アイツは思わせぶりな態度について何か言ってた?」
「いや、インデックスがイギリスへ行くまで待ってほしいって言われた。理由は聞いてない」
「……そっか。そうよね」
どうやら美琴はこの事について何か知っているらしく、納得した様子で頷いている。
もしかしたら女の子にはすぐ分かるような事なのかもしれない。美琴と食蜂は腹を割ってお互い自分の事を話すような仲でもないはずだ。
といっても、ここで上条が尋ねたところで彼女が答えるとも思わなかったので、何も聞かない事にした。
斜面を少し下ったところでは、インデックスと食蜂が何かを話している。
会話の内容までは聞き取ることができない。それでも食蜂の方が何やらムキになっている事くらいは分かった。
そしてこうして見ている内にも、立ち上がって再びターンにチャレンジして派手に転んでいた。
隣では美琴も彼女達の様子を見ていた。
ただし、その目の焦点は今しがた転んだ食蜂ではなく、インデックスの方に合っているように思えた。
「インデックスの方は本当にもう大丈夫なわけ? あっちだけじゃなくて、アンタもって意味だけど。イギリスに行っちゃった後、また荒れまくったりするんじゃないでしょうねアンタ」
「あぁ、それは大丈夫だ。あの時は悪かったな、お前にも迷惑かけて」
「別にそれはいいんだけどさ、後々面倒な事になるからお別れはちゃんとしておきなさいよって話。
もう明日と明後日しか時間はないと思うけど、その日はどっか行ったりするの?」
「んー、明日は旅行帰りだしあんまり外出て遊ぶって事はしねえだろうな。まぁでも明後日の最終日はどっか連れて行ってやるつもりだ。
でもまだどこがいいかとかは決めてねえんだよなー。御坂は何かいい案とかねえか? つか一緒に行くか?」
「私はやめておくわ。というか、アンタも変わらないわね……」
美琴は心の底から呆れた様子でこちらを見るが、上条は首を傾げるしかない。
と、少し頭を使ったところである事を思い出す。
「なぁ御坂、明後日って何かあったっけ?」
「だからインデックスが学園都市に居る最終日じゃないの」
「いや、それ以外でさ。なんかあったような気がするんだけど、思い出せないんだよなー」
「……もしかしてバレンタインの事言ってるわけ? あんまりチョコ貰えなくて忘れちゃったんなら言っとくけど、バレンタインは14日よ」
「それくらい知ってるっつーの! インデックスと同じ事言うなよ!」
ここまで面と向かって言われるのもショックなので、若干涙目で反論する上条。
そもそも記憶喪失で去年のことなど覚えていないので、自分がどのくらいチョコを貰ったのかなど分かるはずもない。
まぁ、一つも貰えていない可能性が高いというのが上条の予想ではあるが。
美琴は興味無さそうな目でこちらを見たまま、
「とにかく思い出せないならそこまで大事なことでもないんじゃないの。それより、アンタは最終日インデックスとどこ行くか考えなさいよ」
「……それもそうだな。御坂はどこがいいと思う?」
「私に聞かれてもね……。まぁでも、私だったら景色が綺麗な所とかいいわね。ほら、夕陽が綺麗な所とか、夜のイルミネーションが綺麗な所とか!
それで、別れ際はそのイルミネーションでキラキラした中で、『まだ帰りたくない』とか何とか言っちゃたりして……!!」
「いや別れ際も何も帰る場所一緒だし。つかお前って意外と頭がスイーツだよな」
「な、なななな何よ文句あるわけ!? 女子中学生ならこれが普通よ!!」
おそらく白井などが聞けば全力で否定するセリフを、顔を真っ赤にしながら大声で吐く美琴。
とはいえ、ここであまり突っ込んでも面倒な事にしかならないと思ったので何も言わないでおく。
美琴はまだ顔を赤くしており、それを冷ますようにパタパタと手で扇ぎながら素っ気なく口を開く。
「ていうかやっぱり私の意見聞いても仕方ないでしょ。インデックスと趣味が合ってるとも思わないし」
「けどお前だって一応は女の子だろ? それ踏まえて何か気をつけるべき事とか言っておいてもらえると助かるしさ……」
「一応って何よ一応って!! まずそういう言葉遣いからアウトよ!! ほんっっっとにデリカシー無いわね知ってたけど!!!」
「なるほど、ちゃんと女の子扱いしないとダメ、と」
「言っとくけど子供扱いもダメだかんね。それと一緒に居る時に他の女とイチャつかない、人の話は真面目に聞いてスルーしない!
勝手にどっかいなくならない、何かあったらちゃんと説明する!! あーなんかムカついてきたわねアンタ!!!」
「勝手に怒りのボルテージが上がってきた!?」
上条は思わず一歩後ろへ下がって右手を準備する。もう手袋も外しておいたほうがいいかもしれない。
この雪景色の中で青白い光というのは遠くから見る分には幻想的でいいのかもしれないが、それを自分にぶつけられるのは勘弁してほしい。
綺麗なものは遠くから見るから綺麗である事も多々あり、近づいてみると落胆する事も少なくはないのだ。別に誰の事を言っているわけでもないが。
ただし、一方で近づいてみると他の良さを見つけられる事もある。
上条はまだムスッとしている美琴に愛想笑いを浮かべて、
「あー、でもありがとうな。何だかんだ御坂ってインデックスの事考えてくれるよな」
「…………」
「御坂?」
「…………あぁ、うん、そうね。美琴センセーは広い心を持ってるから」
美琴のその言葉に、上条は少し眉をひそめた。
別に言葉自体に違和感があったわけではない。妙だったのは彼女の表情と声の調子だった。
声も表情も先程までとは違う。
上条の言葉を受けて美琴は一瞬無表情になり、それから取り繕っていつもの調子に戻そうとしていた。
だがこうして気付かれている辺り、それも失敗しているという事になる。
美琴は口元に笑みを浮かべてこちらを見る。
その表情は穏やかなようにも見えて、舞い落ちる雪とも相まって、どこか切なさも感じる。
今日はこんな表情をよく見る日だ、と上条は漠然と思った。
「ねぇ、アンタには私はどう見える?」
「えっ?」
「ほら、相手の見え方っていうのは見る人によって色々違ってくるじゃない。
私って世間では『レベル5の中で一番まとも』とか言われてさ、広告塔みたいな扱いされてロシアにデモンストレーションをしに行った時だってある。
だから私が路地裏で不良どもを焼いたり自販機蹴っ飛ばしてるところとかを目撃されて、『何かの間違いではないか』って学校に連絡がきたりもするらしいわよ。
まぁ、要するにイメージが相当美化されてるってわけよ。アンタならむしろその美化されたイメージの方に違和感を覚えるんじゃない?」
「……あー、まぁ、そうだな」
「それにもちろん、他にも見方はある。路地裏の不良なんかからは私はさぞかし恨まれてるだろうし、一方通行からしてみれば共犯者。
黒子は私の事を慕ってくれて、よく想ってもくれる。佐天さんや初春さんも私のことを頼ってくれるし、頼ってほしいとも思ってくれてる」
美琴は目を閉じ、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
その声は静かでいてよく通り、暖かみも感じられる。
上条はそこに言葉を挟もうとはとても思えなかった。
ただじっと彼女の言葉だけに耳を傾け、その意味を頭の中で噛み締める。
彼女はゆっくりと目を開けた。
そこには暖かく優しい光と、冷たく寂しい光。その両方を感じた。
どうすればそんな目をする事ができるのか、今の上条にはとても真似できそうにもないものだった。
「アンタには、私はどう見える?」
先程と同じ言葉。
上条は少し黙って考え、そして。
「もちろん、世間一般的なイメージのお上品なお嬢様だとは思わねえよ。自販機は蹴るわ、すぐキレて電撃ぶち込んでくるわ。
まぁ俺にとっちゃ、例えレベル5だとしてもそこらの中学生とそこまで大きな違いはないと思ってる」
「……はは、この私をただの中学生扱いなんて、たぶんアンタくらいじゃないの」
「……ただ、お前は誰よりも優しくて、いつも人のことばかりを考えてる事も知ってる。しっかりとした芯があって、誰にでも頼りにされて。
だからこそ、抱え込んじまう時もあるって事も知ってる。まぁそこら辺はお前が言ってた白井や、佐天さんや初春さんだって知ってると思うけどな」
「…………」
「とにかく俺は、どれだけ路地裏の奴等がお前の悪口を言ったとしても、何度だってそんな事ないって言い返すことができる。
俺もお前には何度も助けられた。危険な場所にだってついてきてくれて、何度もこの手を掴んでくれた。俺はお前を信頼してるし、信頼してほしいとも思ってる」
上条がそう言い終えると、辺りには静かな時間だけが流れる。
心なしか、降ってくる雪の粒が大きなってきたような気がする。
彼女は、口元に小さな笑みを浮かべていた。
ただ、それがどのようなものなのかは分からない。穏やかで優しいものにも見えたし、自嘲しているようにも見えた。
それでも、その姿はどこか寂しそうで、このまま雪に溶けてしまうようにも思えた。
何か言わなければいけない。
漠然とそう考える上条だったが、何を言えばいいのかが分からない。
言葉一つで簡単に壊れてしまいそうな、そんな彼女には似つかないイメージが頭の中をよぎる。
そして、彼女の口が動く。
「……もしそうじゃなかったら?」
「え?」
「私はアンタが思っているような人間じゃなかったら? ……ってこれ、前に鉄橋で似たような事言ったわね」
そうやってクスッと小さく笑う美琴。
上条も覚えていた。
あの実験の日、鉄橋の上。彼女は自分は善人なんかじゃないと大声で否定した。
その時、上条は何と返したか。
考えるまでもなく、すぐに頭に浮かんできた。
「あの時と同じだ。お前が自分自身のことを良い人間だと思っていなくても、俺がどう思っているかは変わらない。
大体、御坂はちょっと基準が高すぎるんじゃねえか? どんな奴だって嫌な所の一つや二つ持ってるもんだぜ?」
「じゃあハッキリ言うわよ」
急に美琴が目に強い光を灯して、加えて強い口調で切り出す。
上条は思わずゴクリと生唾を飲み込むと、続く言葉に耳を傾ける。
彼女はまるで水の中に潜るかのように、大きく息を吸い込むと、
「私は、今ある選択をしようとしてるの。選択肢の一つは私にとって有益で、アンタにとっては不幸なもの。
もう一つは私が不幸になるかもしれないけど、アンタにとっては最も良いもの。正直私は前者の方に傾いてるわ。
私が本当にアンタの言うような人間だったら、迷わず後者を選ぶんでしょうけどね。でも、違うのよ」
美琴の様々な想いのこもった言葉を受け取る。
それはとても重く、胸にしまっているだけで、少女の体などは潰れてしまいそうにも思えた。
その上で、上条はしっかりと彼女を見据えて、
「…………いや、やっぱりお前は良い奴だよ」
「なんでよ……ちゃんと伝わってなかったわけ? 私は自分の為にアンタを不幸にするって言ってんのよ?
私はアンタが思っているような良くできた人間なんかじゃない。他の人間より自分を優先する、普通にどこにでもいるつまらない人間なのよ」
「確かに他人より自分のほうが可愛いってのは普通だ。特別良くできた人間とまでは言えないかもしれない。
だけどよ、普通はそれを本人に言うか? それってつまりは、例え自分のためだとしても本当の意味で相手のことを無視する事ができないからなんじゃないか?」
上条の言葉に、美琴は目を丸くして一瞬呆然とする。
完全に考えの外にあったような事を言われたような、そんな表情だ。
しかし、彼女はすぐにキッと顔を引き締めて、
「違う、そんな事ない! 私はただ免罪符が欲しいだけよ。自分の醜い部分を見たくないから、だから……」
「はぁ……やっぱりお前、ちょい理想が高過ぎるんじゃねえか? 完璧過ぎる人間なんてこの世にはいねえ、俺だって言いたくないようなやましい事くらいある。
だから俺からすればこうやってわざわざ言ってくれるあたり、親切で良い奴だと思うぞ。んで、ここでお前にとって重要なのは、俺がどう思うかなんじゃないか?」
「そ、それは……だって……」
「いいっていいって。お前の好きなようにしろよ。そっちの方が俺にとっても気が楽だ」
美琴は少し口を開けて、ポカンとして上条を見つめた。
まるで目の前の男が酷く的外れな事を言ったかのような反応に、思わず上条は自分が何を言ったのかを頭の中で反芻する。
そして特に変な事は言っていない、という結論に達した頃、美琴はクスリと口元に笑みを作った。
「……アンタって本当に変わらないわね」
「そうか? 変わらないって必ずしも良い事でもないと思うけどな」
「あはは、安心しなさいよ、良い所が変わってないって言いたいだけだから」
「……おお、御坂が俺のことを褒めるとは、雪でも降るんじゃねえか。あ、いや、降ってるか」
「なっ……やっぱそういう空気読めない所も変わってないわね!!! こういう時は素直に受け取りなさいよこのバカ!!!!!」
「お、お前に素直とか言われたくねえよ!!」
結局いつも通り、二人はとても穏やかとは言えない会話に戻ってしまった。
ただ、上条はそれを嫌だとは思わず、むしろこちらの方が居心地が良いようにも感じた。それは表情を見る限り、美琴も同じように思える。
こんなほとんど中身の無いバカなやりとりが、これからもずっと続いていけばいい。
いや、それはありえない事だ、と上条は小さく首を振る。
人は前に進んでいくものであり、同じ場所に留まり続けることは、むしろ人としては悲しいことなんだろう。
学校でクラスメイトとバカやって、先生に叱られて、帰り道はビリビリ中学生に絡まれて、家に帰ればシスターさんが笑顔で迎えてくれる。
そんな日常は当たり前に流れているように見えて、後になって本当に大切に思えるものなのだろう。
だからこそ、どんなに些細な日常でも大切に思っていきたいとも思う。
そんな時、今度はインデックスが困り顔でこちらにやって来た。
「みこと、ちょっと助けてほしいんだよ。みさきの惨状はとても私の手に負えないかも」
「……でしょうね」
二人の視線の先を上条も追ってみると、そこにはどうやったらそうなるのかと尋ねたくなるほどの転び方をした食蜂がいた。
もう完全にお手上げ状態のインデックスに、思いっきり呆れた溜息をつく美琴。
そして当の本人は、
「ち、ちがっ、違うのよぉ!! 今はちょっと調子が悪いだけで、こんなのいつもの私ならぁ……!!」
「はいはい。分かったから、とりあえず何とか起きなさい。アンタは根本的なところで間違ってそうだから、教えたげるわよ」
「ぐぬぬっ……だから違うって言ってるのにぃ……!!」
「あ、それと周りの人にも迷惑だからあっち行ってやるわよあっち」
そうやってグイグイと食蜂を連れて行ってしまう美琴。
こうして見ると仲の良い同級生のようにも見えるが、おそらくそれを言えば二人から否定の言葉が飛んでくるのだろう。
美琴と食蜂が離れていくと、必然的に上条とインデックスの二人が残される。
するとインデックスはニヤリと笑って、
「ふふふ……いよいよ私の力をとうまに見せつける時がきたようだね」
「何の力だよこえーよ」
「スキーだよスキー。さぁとうま、一番下まで競争なんだよ!!」
「えーと、お前大丈夫なのか? 俺としてはかなり不安なんですが」
「みさきよりは数段上手いかも!!」
「それ何も威張れることじゃねえからな」
ともあれ、おそらく何を言ったとしても納得しそうにもないインデックス。
その様子を見て、上条はどうしたものかと少し頭を使う。
(……まぁ、いい勝負に見せかけて常に近くを滑ってればもしもの時はすぐ何とかできるか)
そこまで考えた上条は一度頷いて、
「分かった、ただあんまり無理するんじゃねえぞ」
「ふふん、相手の心配なんて余裕だねとうま。そういう驕りが敗北に繋がるんだよ!」
「へーへー、ほら、やるならさっさとやろうぜ。それともやめるか? うん、それがいいな、もうやめよう」
「やめないんだよ!! はいヨーイドン!!」
「は!? おいっ!!!」
上条が声をあげた時には既に滑りだしてしまっているインデックス。
公平性の欠片もない理不尽なスタートにげっそりしながら、上条も慌てて滑りだした。
やはりというべきか、いくらインデックスが上達したとしても、まだ上条までは達していないようだ。
スタートこそは遅れたが、その後は難なく追いつくことができた。といっても、彼女が勝手にフラフラしているからというのもあるのだが。
上条もインデックスも記憶喪失であることは変わりないが、上条の方は手続き記憶として体が覚えている事が大きな差になっているようだ。
上条がインデックスの隣に並ぶと、彼女はむっと口を尖らせてこちらを見る。
本人は自分があしらわれているように思えて嫌そうな視線を送っているのだろうが、上条はクイクイと前を指さして余所見をするなという事を伝える。
ただでさえ雪が強くなって視界も悪くなっている。そんな中で余所見というのは心配でならない。
と、その時だった。
「あっ…………わわっ!!」
急にインデックスが止まろうとして、グラッとバランスを崩す。
いきなりどうしたのかと、上条は目を丸くするが、今それはどうでもいい。
とにかくすぐに近くに寄ると、スキー板を絡めないように注意しながら、彼女の体を受け止めた。
「ど、どうしたんだよ?」
「えっ、あー、うん、ちょっと。……というか、とうま。なんだか少し過保護な気がするんだよ。子供扱いしないで欲しいかも」
「分かった分かった。それならもうちょっと大人っぽい落ち着きを身につけるんだな」
「むぅぅ!!」
「そんで? 何か見つけたのか?」
「あ、そうだ。うん、あれ」
そう言って彼女が指差す先を見てみると、そこは一見ただのコース外にある林だった。
だが、視界の悪い中、少し目を凝らしてみると何かが見えてくる。
「……もしかして子供、か?」
「うん……たぶん。何であんな所に居るんだろう。それも一人で」
「さぁ……何にせよあぶねえな。行ってみっか」
上条とインデックスが行ってみると、やはりそこには子供が居た。女の子だ。
小学生くらいだろうか。コースを外れた林の中で何かを探している様子で、かなり必死になっているのが分かる。
上条とインデックスも林の中に入っていきながら、
「おーい、どうした? 何か落としたのか?」
「えっ、あ、あの……はい。ストックを……」
「ストック? こんな林の中に?」
「私、コース際で滑ってて……それで、その、ちょっと派手に転んじゃって……」
「そんでストックが吹っ飛んだ、か。そういう事がないように、ストックについてるストラップを手首に通して……って今言っても仕方ないか。どうすっかな」
「とにかく、一人でこんな所に居るのは危ないかも。ご両親は?」
「……それは」
女の子は言いにくそうに視線を彷徨わせる。
まさか一人で来ているわけでもないだろうと上条達が言葉を待っていると、
「えっと、私、親とケンカしちゃって……子供扱いして好きに滑らせてくれなくて……それで……」
「なるほど、インデックスと同じような感じか」
「とうま!?」
「けど、いつまでもこんな所で探し続けるのは危ねえ。まぁ、ストックは諦めて、素直に親に謝ろう。な?」
「うぅ……はい……」
「ちょっととうま、無視しないでほしいかも! なんだかそこはかとなくバカにされたような気がするんだよ!」
「だー!! 気のせいだ気のせい!!」
プリプリと怒っているインデックスをかわしながら、とりあえず女の子を連れて林から出ようとする。
おそらく今頃両親も心配して探し回っているところだろう。もしかしたらその内放送など流れるかもしれない。
上条としてはそっちの方が確実で助かるのだが、女の子としてはやはり恥ずかしいだろう。
そんな事を考えながら歩いていると、
「……ん?」
「だからとうまはいつもいつもいつも――!!! ってどうしたの?」
「いや、もしかしてあれじゃねえか? 落としたストックっていうの」
「えっ……ああ!! そうです、あれです!!」
女の子は途端に顔を輝かせる。まぁ、気持ちは分からなくもないが。
しかしそのままそちらへ行こうとしたので、慌てて上条が止める。
「待て待て、かなり奥の方にあるじゃねえか、すっげえ飛ばしたもんだな。俺が行ってくるよ」
「あ……ありがとうございます!」
「なんだかとうまでも心配なんだよ」
「うっせ、お前よりかはマシだっつーの。任せとけって」
そう言いながら、上条は林の奥へと進んでいく。
普段人が通らない場所なので、積もっている雪も柔らかいものになっている。
視界が悪くて近付くまで分からなかったが、どうやらストックの落ちている場所のすぐ向こうはかなりの急斜面になっているようだった。
やはり女の子を行かせなくて良かった。心底そう思いながら、上条は足元のストックを拾い上げる。
その瞬間、上条の足元が崩れた。
「……へ? どわあああああああああああああああああああああああ!!!!!」
ボゴォ!! と雪の塊が一気に斜面へと崩れ流れていき、もちろん上条も為す術なくゴロゴロと落ちていく。
視界はただ真っ白に染まっており、自分の目がおかしいのか、実際に目の前の光景がそうなのかも分からない。
とにかく自分の体がメチャクチャに叩きつけられている感覚だけが全身を包み、そして。
ふわっとした浮遊感とともに、上条の意識は遠のいていった。
***
目を開けると、そこには重苦しい灰色の空と、そこから落ちてくる大粒の雪が映り込む。
どれだけ気を失っていたのか、恐る恐るといった感じで上半身を起こしてみると、多少の傷みはあるが何とか動いてはくれるようだ。
これにはほっとして、思わず溜息が漏れる。もしも体を動かせない状態でこんな場所に放置されたら、そのまま冷凍保存されてしまう。
とにかく、少しでも情報を集めたい。その一心で辺りを見回してみると、
「……え?」
視界に一人の少女を捉えた。
上条は目を見開く。
信じたくない。そんな事は考えたくもない。
しかし、それは紛れもなく、
「インデックス!!!」
上条は大慌てで走りだした。
当然ながら履いていたスキー板などは外れて行方不明になっている。
どうして、と疑問が頭の中をぐるぐると回る。
彼女は女の子と一緒に待たせていたはずだ。転げ落ちたのは自分一人だったはずだ。
しかし、すぐに別の可能性が頭をよぎる。
転げ落ちた時、大きな音があったはずだ。自分の叫び声含めて。
それを聞いた彼女がすぐに助けに来て、同じような目にあったのではないか。
上条はギリッと奥歯を鳴らす。
今は自分の不甲斐なさを悔やんでいる場合ではない。一刻も早く彼女の無事を確かめなくてはならない。
「インデックス!! おいインデックス!!!」
「…………」
「嘘だろ……なぁ、インデックス……!! 起きろよ、起きてくれよ、頼むから……!!!」
「……むにゃ」
「ッ!! インデックス!! 大丈夫か!?」
言葉を発せる状態であることを見て、上条は必死に呼びかける。
全く反応なしという状態よりはずっとマシではあるが、それでも安全な状態であるとは言えない。
しかし。
「……えへへ、もう食べきれないんだよぉ…………むにゃむにゃ……」
「……へ?」
「あっ……それも、私の……それも……それも…………ふへへ」
「…………」
一瞬、上条の頭の中が真っ白になった。
それはもう、文字通り今までゴチャゴチャしていたものが一気に消え去ったかのように。
上条は一度大きな溜息をついた。
そしてその後、彼女の頬に手を伸ばして横にグイグイ引っ張る。
「うへへへへ…………いだっ、いだだだだだだだだだっ!!!」
「おーい起きろインデックスー」
「えっ、と、とうま……? って、いたいいたい!! ちょっと何ほっぺ引っ張ってんのさ!!!」
「いやお前が随分と幸せそうに寝てたからさこの状況で。それにほら、寒い時って眠るとヤバイって言うじゃん」
「いたたたたたたた!!! だから起きてるってば!!!!!」
彼女の言葉に、ようやく上条は手を離す。
その赤くなった両頬を擦りながら、彼女は恨めしげに涙目でこちらを睨んでくる。
まぁ死ぬほど心配させたというお返しにはこれくらい必要だろう。
だが、そこで上条はふと思い出す。
そもそも彼女まで転げ落ちたのは、おそらく自分のせいだ。
「……あー、その、お前まで一緒に落ちてるっていうのは」
「あっ、そうだよとうま! 何が『任せとけって』かも。案の定持ち前の不幸発揮しまくりで凄い事になっちゃってるし。
お陰で慌てて行った私まで転がり落ちちゃったじゃない。こんな事なら最初から私一人で行くべきだったんだよ」
「その……すみません……。けど、ヤバイと思ったならインデックスまで来なくても……」
「とうま」
インデックスは両手で上条の頬を挟み込んだ。
見るからに不満そうな表情を浮かべ、ジト目でこちらの目を覗き込んでくる。
「とうまが危ないことになって、私がそのまま動かないと思っているのかな?」
「……それは」
「はぁ……自分はいつも死にそうになりながら誰かのために動き回ってるのに、どうしてそれを他の人で考えられないのかなぁ」
やれやれといった感じに首を振るインデックス。
それに対して上条は何か言いたい気持ちは出てくるのだが、返す言葉も無い。彼女の言葉はどうしようもなく正論だからだ。
そうなればもう、苦々しく視線を逸らす事しかできない。
すると、彼女はギュッと上条を抱きしめた。
「怪我とかしてない? 痛いところとかは?」
「……あぁ、大丈夫だ。インデックスは?」
「ほっぺが痛いかも」
「うぐっ……その、悪かったって」
「ふふ、冗談だよ。大丈夫、私も怪我とかはしてないから」
「……あと、ごめんな。こんな事になっちまって」
「いいんだよ、ばか」
彼女の言葉はその中身はともかく、とても柔らかくて心地良いものだった。
こうして彼女に抱きしめられる事は何度かあった。
その度に上条は、いつも暖かい安心感を覚える。どんなに不安でもそれを一瞬で和らげてくれるような、絶対的な安心感を。
上条には母親の温もりという記憶が無いので分からないが、それはこんなものなのではないかとさえ思った。
しかし、いつまでも甘えているわけにはいかない。
とにかく今は元のコースに戻ることが先決だ。残しておいたあの女の子も気になる。
「よし、それじゃあ行く…………か……」
立ち上がって再び辺りを見回した上条が固まった。
本当に、文字通りピタリ、と。
信じられない……いや、信じたくない光景を、その目が捉えていた。
それは、やはり自分の不幸は底知らずだ、そう心底思えるほどのものだった。
この不幸なんてもはや当たり前のように感じていた。それでも納得出来ない事だってある。
「……はは、勘弁してくださいよ」
「とうま? 急にどう…………え?」
インデックスも気付いた。そして上条と同じように目を見開いて呆然としている。
すぐそこに崖があった。
それも、自分達はその崖の下にいてそれを見上げている形だ。
上条とインデックスは急斜面を転げ落ちていった。
つまりは戻る時はその斜面を何とか登っていけば良いと思っていた……が。
上条は崖から目を離して辺りを見渡す。
視界が悪くて良くは見えないが、それでも上り斜面らしきものがない事くらいなら分かる。
つまり。
「俺達……この崖から落ちてきたのかよ。怪我しなかったのが奇跡的だな、新雪がクッションになったのか」
「……でも、さ」
インデックスがポツリと漏らす。
正直上条はその先を聞きたくなかったが、そうしたとしてもこの状況は何も変化しない。
彼女は口に出す。至極当然な疑問を。
「これって、どうやって元の場所まで戻ればいいのかな?」
二人はただ呆然と立ち尽くし、それ以上何も言うことができない。
辺りで動いているものといえば、絶え間なく上空から舞い落ちる雪の粒だけだった。
禁書「イギリスに帰ることにしたんだよ」 上条「おー、元気でなー」【その5】
転載元
禁書「イギリスに帰ることにしたんだよ」 上条「おー、元気でなー」
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